アメリカ素描  司馬遼太郎  2021.3.8.

 

2021.3.8. アメリカ素描

 

著者  司馬遼太郎 後記

 

発行日           1986.4.11. 第1            1986.5.20. 第14

発行所           読売新聞社

 

 

 

第1部     (初出 『読売新聞』198541日~同年519)

l  私にとっての白地図

自分にとってわかる気がするのは、古い時期に中国文明の影響を受けた国々だけなので、アメリカに行くのはそれなりに決意が要った

アジアはその文明が古すぎる。かつ歴史的に停滞時間が長く、その上内発するものがあって自ら近代を開いたわけではない。アジア人は自らを自覚する時、自分の中の欧米的な知識を照明にしなければならないのは、動かし難い世界史的事情であり、アジア人のたれの中にも照明具としての「欧米」はある。ただしそれは手作りで観念的なもの

ヨーロッパには1972年と83年の2度行ったが、アメリカは初めて

文明はたれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なものを指すのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼし難い、普遍的でない

アメリカは文明だけで出来上がっている社会

 

l  韓国移民の急成長~多様な文化群と文明の活性

あまりに広すぎるので、最初はカリフォルニア16日間に絞り、ロサンゼルスに向かう

アメリカ人ばかりかと思っていたら、市の中心部に近づくとハングルが氾濫。ベトナム戦争の同盟国となった韓国人の移入が激増

アメリカというるつぼは、苛烈なほど活性的。古代中国が何千年かけてるつぼをたぎらせたのに対し、わずか2世紀で人類史上久しぶりで大文明をつくりあげた

多民族国家であることの強みは、諸民族の多様な感覚群がアメリカ国内において幾層もの濾過装置を経てゆくこと。そこで認められた価値がそのまま多民族の地球上に普及することができる

韓国系の文化も不断に動くアメリカ文明の中で溶けていくだろうが、そのうちのどういう成分がアメリカ文明に活性を与えるのか

 

l  労働力という商品~時間の作用、太陽のキス

『怒りの葡萄』の著者スタインベックの故郷サリナスに行ってみたかった

アメリカ文学が、肉塊をむしり取るような握力を持っているのは、建国以来、荒仕事をやり続けてきたこの略奪と建設の文明と無縁ではない

1934年からの数年間、ロッキー山脈の西側で発生した大砂嵐で発生した25万の大流民がカリフォルニアの果樹園を目指す物語だが、人類の歴史である時期までのアメリカほど労働力が露骨に市場の商品になった国は少ない

排日法の拠点だったようなサリナスが、7,80年を経て一変

カリフォルニアのレモンの商品名Sunkistは、太陽のキスから来ている

 

l  文明の中の職人

アメリカに来て、アメリカというものの原型らしい像が感じ取れればいいと思った

ハリウッドのスシ屋の賑わいを見ながら、スシが普遍性に達した食べ物であることを実感

文明が創られる活力とはそういうもの。スシ職人も威風堂々として見えた

 

l  ベトナム難民の街~リトル・サイゴンで考えたこと

ロス滞在中、急にベトナム人に会いたくなって1971年にできたリトル・サイゴンに行く

 

l  オークランドの広場で

イーストベイのオークランドは、作家ジャック・ロンドン(18761916)が青少年時代を過ごした街。当時は無法と暴力と密漁と浮浪児の街だったが、今は廃市のように静かで当時の面影はない

アメリカの原型はしたたかなもの。この作家の少年時代の行動や周辺を見てもまことに荒々しく、対象を引きむしって叩きつけるようなロンドンの文学は、スタインベック同様こういう土壌から出ている

 

l  WASP」について~サムライとロビイスト、サンタバーバラで、梅とプラムの差

英国ではアングロ・サクソンと区別されるスコッツもアイリッシュもアメリカではWASPであり、アイリッシュのカトリックだったケネディもミスター・アメリカ

カリフォルニアではなかなかWASPを見かけないが、白人だけのリゾートは多く見られる

その典型の1つがサンタバーバラ。WASPの居住区では、木造に白ペンキを塗って清潔感を造形化したようなニューイングランド風建物が多いが、ここでは地震で倒壊して以降申し合わせてスペイン風に変えられたという

ここに住む日本人女性が庭に植えた梅の木が年と共に地元のプラムに似てきたという

文化とはか細いもの

 

l  排日問題の原形~ペリー・ショック

アメリカにおける対日問題史は、ほとんどが排日の歴史といってよい

日本人と同様に恨みが長く残らないという点で、地球上でもっとも類似しているのはアメリカ人ではないか。あれほど忌避した日本人のことを今は覚えていないのかもしれない

シスコ郊外の日本人墓地にいる死者のうちで一番古いのは幕府の遣米使節を乗せた咸臨丸の水夫たち。建立したのはシスコ在住の米人貿易商ブルックスで、自ら日本国の領事を名乗り、実際1867年慶喜によって領事に任命され75年辞職しているが、日本人の良き庇護者で、旧幕時代渡米して知らぬ間に奴隷に売られていた仙台藩士の高橋是清も救った

日本にペリーが来たのは、その頃灯火のほとんどが鯨油に頼っており、捕鯨業者の後押しで日本に開国を迫ったもの

1906年のシスコの地震では、日系人排斥運動真っ盛りの中にも拘らず日本で募金運動が行われ、24万ドルの義捐金が集まり、全世界からの救済金の総額を上回るものだったが、排日運動は和らぐことはなかった。逆に23年の関東大震災ではアメリから12百万ドルの義捐金が送られてきたが、その翌年排日移民法が制定された

米国人の思想や感情は日本人の考えではわからない

 

l  アジア特捜隊~犯罪の日常性

アメリカにおける犯罪の多さは、自由の副作用ともいえる

アメリカにおける自由は、この国の活力源

 

l  英雄待望の国~摩擦ゲーム

シスコのケーブルカーは1984年観光用に復活

アメリカは常に英雄を待望している社会。大観衆を集めるスポーツはそのためにのみあるといいたいほどだし、スポーツよりも実生活の中で本物の英雄が出ることこそ望ましい

日本人は、それを出さない文化に属していて、それはそれで日本の幸福の1

アメリカ人の場合、自己を表現するということを、母親や学校から徹底的に教えられる。まず第1に、自己を表現しなさい。第2に、自己が正しいと思っていることをやりなさい。自己表現はアーティキュレート(明瞭)に、クリア(明晰)にやりなさい。また、相手に訴えるときはパーフェクト(完璧)にやりなさい、ということを教え続ける。そのため相手の心を察する感覚が弱くなる

東方にあっては聖者の書の『論語』も、アメリカ人が読むと、「インディアンの酋長のハナシみたいだ」と言うことになる。老人の人生訓であり、片言隻語の集まりなだけに不明瞭な部分や論理の飛躍や空白がたっぷりあって、最後は独り合点で終わる

日本人は察することに長じているために沈黙し、アメリカ人はこの世に察するなどは存在せぬはずだというはずがあるために、主題に関する全空間を自分の言語と論理で埋め尽くそうとする。そういう両国が、1853年以来摩擦を続けてきた

 

l  少数民族「ゲイ」

アメリカでのゲイの語感は、少なくともこの人々にとって、在来、彼等が遇されてきた陰険なイメージを持たないようだ

多くの国にあっては古代以来の文化が累積し、近代に入ってその上に法が載るようになった。元々そこに人間の組織があって、近代の法によって再秩序付けされたが、アメリカだけは逆で、広大な空間を法という網で覆い、次々に入ってくる移民に宣誓させ、その法に従わせるということで国家ができた

アメリカという社会は、その時々の正義が異様に光芒を放つ社会で、正義を核に集団ヒステリーが起こる。1950年代の「赤狩り」や今の禁煙・嫌煙の運動はその典型

69年ニューヨークで警官隊が同性愛パーティーを襲撃したがゲイの逆襲にあって退却、それ以来、ゲイは女装ではなく男性的特徴を誇示するようになる

1716年成立の武士道の倫理書『葉隠』には、衆動(男色)の心得が書かれ、恋の極致は忍ぶ恋だとしたが、多分に不条理で美学的な内容故に、日本独特の文化であり普遍性はない

アメリカにあっては、ゲイという存在についてさえ、ゲイたちは法的公認という普遍性を持たせようとする。文明とはそういう合理性を持ったものなのだ

 

l  親切文明~文化の対極

アメリカ社会は、能力の底辺を認識した上に成り立っている。道路標識なども、どんな人間でもわかるように、親切を機械的に普遍化したものと思える

かつての日本の文化は、いわば名人の文化で、誰彼となく名人であることを平然と要求している社会で、出来ない奴は斬り捨ててきた。戦後アメリカ式の思想の導入で変わる

文化とは、谷崎の『陰翳礼讃』にあるように、仄かな暗さを持ったもので、危うく陰気になってしまい兼ねない、そこが文化というものの良さだが、アメリカ文明はその対極にあり、飛び切りの明るさを好み、オッチョコチョイと言われ兼ねないほどの陽気さで自己表現する

 

第2部     (初出 『読売新聞』1985928日~同年124)

l  人間という厄介な動物

2部は東部

アメリカ社会は、多分に法律用語としての「平等」の上に立っている。日本語の平等は、元々法律用語ではなく仏教語だった

 

l  死んだ鍋のユーモア~聖パトリック教会、エスニック

Dead-pan(死んだ鍋)とは、俳優の無表情で持つ喜劇とか、まじめくさったユーモアのことで、アイリッシュは風刺や皮肉、ユーモアが得意だが、その時の顔は笑っていない

民族や文化それに宗教を共有するグル-プをエスニックグループというが、エスニックはアメリカ国内の問題であって、他国が過大に見るに値しないことのようだ

 

l  フィラデルフィア・資本の論理~河畔の盛衰、技術移民、レンガの街、帆船バー、文明主義としての品質管理

フィラデルフィア市を見て、機能を失った都市を、平然と廃品同然にしていることに驚く

同市の鉄鋼製構築物の巨大な廃墟群を見て、かつての花形産業が残骸を晒しているのは、資本の持つ性格のきつさの現れ

明治初年までは重工業の中心として、あるいは大きな商業の中心として栄えたフィラデルフィア市。日露戦争では同市の造船所で建造された軍艦が日露双方に分かれて日本海海戦を戦ったほど

デラウェア川に沿って造船所が立ち並んでいたが今は廃墟のまま

小村が米国公使として赴任する際、故郷宮崎出身の東大造船科卒の若者を同行、彼をフィラデルフィア最大のクラムプ造船所に研修に行かせたが、アメリカが軍艦建造を一大産業に仕立て上げたのはヨーロッパ先進国から移入した技術者のお陰

当時ワシントンの駐米武官府に留学していたのが秋山真之。この工学士を通じて建造中のロシア軍艦についての知識を得ていたのは想像に難くない

「品質」は、長い間アメリカ文明を象徴するものだった。思想や方法論として確立したのは第2次大戦下のこと、軍の指導によった

文化としての品質思想は、ドイツにおけるレンズやスイスの時計、近代以前の江戸の指物師の世界などに濃密に存在したが、それらはあくまで個々の情熱と自負心と技倆に依存した文化であって、普遍性のある文明ではない

それを第2次大戦下でアメリカは品質管理に高めたものの、戦後は法や監督による規制を捨て企業ごとの自由に任せたが、日本では自分自身の文化にしてしまった

 

l  危険な都市~多民族国家

五番街の聖パトリック大寺院は、元来少数民族であるアイリッシュ・カトリックのための聖堂だったのに、たちまちニューヨークに呑み込まれ、市民生活の一象徴になった

 

l  アフロ・アメリカン~ハーレム、家庭料理

少数者の心の中にこそ「人間」が濃厚に含有されていると思う

人間は、金銭の損にはいくらでも耐えられるが、他から受けるその所属への侮蔑語には激しく傷ついてしまう。特に民族的な少数者というのは無数の傷を受けて生きている

なるべく少数者を通してこの社会を見ようとしたが、黒人だけは例外

アメリカにおけるほとんどの民族が祖国とその文化を持っているが、アフロ・アメリカン(文化人類学上の正式な呼び名)についてはアメリカ南部の農村から彼等の伝承が出発している

リベリア共和国は1874年独立、アフリカではエチオピアに次ぐ古い独立国。アメリカの奴隷解放後数千の人がアフリカに戻り建国、合衆国憲法を持ち込み、公用語も英語

アメリカで奴隷だった者(アメリコ・ライベリアン)は全人口のうちわずか8%だが、在来の16部族の上に立ち、現地人に差別的態度をとったため、1980年のクーデターで一掃

アメリコ・ライベリアンの故郷も文化もアメリカであり、アメリカの黒人こそ、アメリカを故郷とする生粋のアメリカ人

 

l  二十世紀は難民の時代

 

l  清教徒感覚~巡礼始祖の地の警句、法が主人

最初の英国からの移民は過度に宗教的。英国がカトリックを新教化して国教会を作ったが、曖昧さが残ったために、その夾雑物をきれいにしろといって清教徒革命を起こした仲間がアメリカに移住、アメリカに近代国家を作るとともに不寛容な精神をこの地に根付かせた

巡礼(ピルグリム)とは、カトリック時代の言葉で、聖人の遺跡や殉教の地を巡拝することによって、霊験と恩寵、それに贖罪を期待する。新大陸への入植も、個々人が神と契約したことで、契約を守って日々働くことによって個々に救いが保障される

プリマスの土産物店で見た三角旗には、「If you are so smart, how come you ain’t richi?」との警句(格言)が書いてあった。こういう警句の土壌としてのこの社会にあって、巡礼始祖の聖地と警句の間の谷を埋めれば、1つのアメリカ論になるに違いない

アメリカの歴史は浅いが、近代国家としてアメリカを考えるなら、イギリスに次いで古い

メイフラワー号の誓約書は、フランスの啓蒙期の天才的な思想家ルソー(171278)の社会契約説を思わせるが、それより100年も先んじていた

法が主人となり、人はそれに対し服従を誓う

 

l  黒人英語~アンドラー家の子供たち、美人の基準

黒人の英語が特殊な文法を持ちつつあるという言語学的な考察がされ、彼等はことさら文法を変え、自らのアイデンティティのために1つの共通語を作り始めているという

美人の基準は移ろうものだが、何が美人かという本来不確定なものに、確定性を与え、人々に信じ込ませ、宣伝して浮き立たせる職業グループがハリウッドに存在し続けてきた

 

l  ポーツマスにて~明治の心、日本基金

日本近代史の潮目となったポーツマス条約の街もやはり地形はマウス(湾口)をなしている

ロシアからの戦利品の少なさに激昂して「群衆」が暴動を起こしたが、「群衆」も近代の産物

中世では個々の人間が激情に支配されたが、近代にあっては個々の中ではそういう感情は閉塞し、集団になった時に爆発する。中世の激情が集団の中で蘇る。この時の群衆も、日本始まって以来の異質さと言っていい

ポーツマスのニューハンプシャー州には日本慈善基金がある。小村寿太郎が会議後に、会場を提供した州に1万ドルを寄付したが、それを知ってロシアのウィッテも後から同額を寄付、露日基金としてスタート。両国の国債に投資して得た利息が病院などに贈られたが、ロシア革命でロシア国債が債務不履行となり、第2次大戦で日本国債の利払いも止まる

1951年、日本からの利払いが再開されたが、基金の名前は露日基金

1961年、ロシア国債の復活をソ連に打診したが返事がなかったために、63年の州議会で「日本慈善基金Japanese Charitable Fund」と改称。現在は米国債に投資して4万ドルに達している。小村の誠実さはこういう形でニューハンプシャー州に生き続けている

 

l  弁護士社会~ヤッピー

法律の文章には閉口させられる

言語は、人類の大脳の歴史と共に続いてきた。それに感情の要素も入るために、単語にせよ文章にせよ、数学の数式のような正確さはもっていない。むしろ持っていないところに言語が呼び起こすイメージの面白さがある。ところが法律は、本来、不完全な言語で構成される。言語に人工性を加え、意味解釈が動きにくく配慮されている

専門職を持った都会の青年たちのことをヤッピーYuppieというが、その代表格が弁護士

 

l  日本研究

ボストンでライシャワー博士を訪問

(18791971)は、1905年来日、明治学院で哲学を教え、1918年には東京女子大の設立代表者となる。外国人による本格的な日本仏教史の研究を始める

兄のロバート(190737)は明治学院構内で生まれ日本古代史を研究、上海で客死

 

l  私的復讐

個人の自由や人権が、警察という国家権力から守られ、善良な市民が殺されたという平明で常識的な事実を超えてまで、法は法が規定した市民擁護の法論理通りに苛烈に運用されるために、残された遺族が原始的な復讐に立ち上がるというのは、映画や小説の主題であって、事実は多くない

 

l  人間関係を求めて

ボストンはプロテスタンティズムが建設した生真面目な街

 

l  独立について~アメリカの小野田少尉

独立記念日にワシントンDCを訪問

 

l  貿易センターからの夕陽~西洋実学

自由主義経済というのは、ショバ代や露天商組合なしの市(イチ)のようなもので、たれもがそこに商品を並べる

日本でビジネスをカタカナで表記した最初の人は福沢諭吉で、訳例として「商売=ビジニス」とした。1873年日本で初めて西洋式簿記を紹介する本を出す。簿記を「帳合(ちょうあい)」と呼び、本の題は『帳合之法』。その中に出てくる

「古来日本国中において、学者は必ず貧乏なり、金持ちは必ず無学なり。故に学者の議論は高くして、口にはよく天下を治ると云えども、一身の借金をば払うことを知らず

金持ちの金は沢山にして、或はこれを瓶に入れて地に埋めることあれども、天下の経済を学びて商売の法を遠大にすることを知らず」

福沢のいう「商売の法を遠大にする」が、今日の用語でのビジネスと言っていい

「今、此学者と此金持とをして、この帳合の法を学ばしめなば、始て西洋実学の実たる所以を知り、学者も自ら自身の愚なるを驚き、金持も自ら自身の賤しからざるを悟り・・・・」

「帳合も一種の学問たると、此訳書を見て既に明白なり。されば商売も学問なり、工業も学問なり・・・・」 福沢のこの思想が慶應義塾の基礎に違いない

 

l  ウォール街

野村の寺沢によれば、ウォール街には投資家は10%、投機家が90

 

l  ブロードウェイ雑感~自由と鳥籠

碁盤の目のマンハッタンに、天才的ともいえる程の変化を与えているのは、19世紀には既に存在していたというブロードウェイ

 

l  アメリカ的善意

アメリカの農務省は、世界中のタネを取ってある。メリーランドやコロラドなど各地に大規模な採種圃()場があり、その野菜・穀物の栽培をその国が止めても、採種用に栽培され続け、研究のために必要と言えばどの国へもタダで与えられる

刺激が違うことを、「田舎の3年、京の3日」と言うが、まさにその感を強くした

 

あとがき

小説を書く余暇に、文明や文化について考えたり、現地にそれを見たりすることがまずまずの楽しみ。日本文化の中で育ったもののごくなだらかな関心として、中国がいつもそこにある。これがいわば娯楽のようなもので、どれほど私の日常の気分に風通しを与えてくれたか、計り知れない

文明と文化についてのことを4つ書いている ⇒ 中国についての『長安から北京へ』、ベトナムについての『人間の集団について』、それから『街道をゆくー南蛮のみち』、と本書

この4冊をそろえ得たことで、足弱の旅人が、旅の途次、茶店の長いすに腰を降ろして、目の前に、前世に見た暗い谷間が広がっていた、という感じの充足に似たものを感じる

人類というものは、国々にあって離合しつつ長い旅をしてゆくものだという実感が、今旅を終えて感じている。ゲラを読み了えて、意味もなく滅入りたくなるような気分と、一方、人間というものはしたたかなものだという、自らを励まして朗らかになろうという元気が、表裏同時に湧いてくるという感想が、今の気分の説明に一番いいかもしれない

前後あわせて40日に満たない旅だったが、何やら何十年も行っていたような感覚がかすかに自分の中にある

 

 

新潮社HP

大統領選に燃え、大リーグに熱狂する巨大な人工国家の正体とは!? 40日間、渾身の取材記録。

普遍性があって便利で快適なものを生み出すのが文明であるとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそういうモノやコト、もしくは思想を生みつづける地域はないのではないか。――初めてこの地を旅した著者が、普遍的で合理的な「文明」と、むしろ不合理な、特定の集団(たとえば民族)でのみ通用する「文化」を見分ける独自の透徹した視点から、巨大な人工国家の全体像に迫る。

 

著者プロフィール

1923-1996)大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を一新する話題作を続々と発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞を受賞したのを始め、数々の賞を受賞。1993(平成5)年には文化勲章を受章。司馬史観とよばれる自在で明晰な歴史の見方が絶大な信頼をあつめるなか、1971年開始の『街道をゆく』などの連載半ばにして急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

 

 

紀伊国屋HP

内容説明

普遍性があって便利で快適なものを生み出すのが文明であるとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそういうモノやコト、もしくは思想を生みつづける地域はないのではないか。初めてこの地を旅した著者が、普遍的で合理的な「文明」と、むしろ不合理な、特定の集団(たとえば民族)でのみ通用する「文化」を見分ける独自の透徹した視点から、巨大な人工国家の全体像に迫る。

 

 

 

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