旅行者の朝食 米原万里 2021.3.9.
2021.3.9. 旅行者の朝食
著者 米原万里 ロシア語会議通訳、エッセイスト。1950年生まれ。59~64年在プラハ・ソビエト学校に学ぶ。東外大ロシア語科卒、東大大学院露語露文学修士課程修了。80年設立のロシア語通訳協会の初代事務局長、95~97年会長。92年報道の速報性に貢献したとして日本女性放送者懇談会SJ賞受賞
発行所 2002.4.25. 第1刷
発行日 文藝春秋
Prelude
l 卵が先か、鶏が先か
通訳に沈黙は許されない
ヨーロッパ文明圏の言語と日本語を取り持つ通訳者たちが最も恐れていることの1つに、いつギリシャ語やラテン語の慣用句や有名な詩の一節を原文のまま口にするか予測不可能ということがある。古典語の素養は伝統的にステータス・シンボル
食べることも生きることもなんと残酷で罪深い事なのだろう。殺生の罪悪感と美味しいものを食べたい強烈な欲望、その矛盾を丸ごと引き受けていくということが大人になることなのだろうか
第1楽章
Russian
Rhapsody
「飲んでも死ぬ。飲まなくても死ぬ。どうせいつかは死ぬ運命ならば、飲まないのはもったいない」(ロシアの諺)
l ウォトカを巡る2つの謎 (初出 『文藝春秋』02年5月号)
ウォトカを最も美味しく飲める理想的なアルコール比は40度。発見したのは化学元素の周期律を発見した化学者メンデレーエフ
1977年、西側の企業がウォトカの製造特許と名称使用に関する排他的優先権を主張して、ソビエト産ウォトカを閉め出そうとしたため、改めて『ウォトカの歴史』なる本が編纂され、革命後樹立した新政府が国家によるウォトカの製造と販売に関する排他的独占的権利を継承したことが証明され事なきを得た
同年、今度はポーランドが16世紀半ばから製造していたとハーグの国際法廷に提訴
ヨーロッパ産の蒸留酒はいずれも史料的な裏付けによって、コニャックは1334年、イングランドの人とウィスキーは1485年、スコッチは1490~94年、ドイツのブラントヴァインは1520~22年と、それぞれ誕生日が確定している
1982年、国際法廷は1446年を生年とし、ロシア固有のアルコール飲料と認定
l 旅行者の朝食 (初出 『TUG News』(東芝コンピュータユーザ会)98年10~12月)
ソ連帝国が崩壊して15の共和国が分離独立する前後にできた非常事態省が廃止になった
小咄が必須のロシア人が誰でもいつでも笑い転げるのが、森の中で熊に出会った男が熊から「何者か」と聞かれて、「旅行者だ」と答えたら、熊が「旅行者は俺だ。お前は旅行者の朝食だ」というもの
「旅行者の朝食」という名の、まずくて有名な缶詰がある
鱈肝のような掘り出し物の缶詰もあった。フォアグラの味に似ていて値段は1/100
l キャビアを巡る虚実 (初出 『TUG News』(東芝コンピュータユーザ会)98年10~12月)
トルストイの『戦争と平和』であれ、ツルゲーネフの『貴族の巣』であれ、19世紀ロシアの貴族社会を描いた小説では、地の文はロシア語なのに作中人物たちの会話はしばしばフランス語の原文のまま載っている。初版当時は訳文なしで刊行された模様。小説を読むような人はフランス語ができて当たり前だったのだろうし、フランス人並みにフランス語を操ることが当時のロシア貴族の嗜みだった
市場化が進みアメリカ文化が怒涛の勢いで流入する最近のロシアはinferiority complexの直訳語がちょっとした流行り
フランス料理で料理が順番に運ばれてくるようになったのは19世紀初めにロシア式サービスが導入されたため。元々フランス料理では一度に料理がテーブルに盛られていた。だが、ロシア式サービスも、元々はフランスの名料理人がロシアで発掘したもの
ロシアの前菜に茹でチョウザメの切り身があり、パサパサで評判が悪い
チュウザメは古代魚で、100年以上も生きて産卵を続けるが、卵を産んだ後撲殺したものが切り身になって食卓に上がる。撲殺せずに気絶させて何度も卵を取り出すことを考えたのは日本人。1965年頃江ノ島水族館長が開腹してもすぐ復元することを発見してイランに教え、更にソビエトに伝播したという
キャビア消費国の日本ではチョウザメの養殖が始まったが、産卵までには10年かかるので、商業販売を開始したところはまだない
フジキン(1930年設立、本社大阪市)
流体制御の技術の結晶、それがフジキンの「超・チョウザメ」。
トリュフやフォアグラと並ぶ世界三大珍味の一つキャビアは、チョウザメの卵を塩漬けにしたもの。このことからチョウザメは、キャビア・フィッシュという愛称で呼ばれます。キャビアはカスピ海産が有名ですが、カスピ海に生息するチョウザメの数は乱獲や水質の悪化によって1990年代の10年間で約4分の1にまで減少しました。
実はこのチョウザメ、サメではなくシーラカンスと同じ古代魚の残存種で、およそ3億年前から地球上に存在するといわれています。珍味としてだけでなく、学術的にも貴重な魚が絶滅の危機にさらされるなか、フジキンが展開するチョウザメの完全養殖は種の保存という点でも大きな意味を持っています。
フジキンが、超精密ながれ(流体)制御技術を用いた新事業としてチョウザメの養殖に向けて動き始めたのは1987年(昭和62年)。チョウザメとキャビアの本場・旧ソ連へプロジェクトメンバーを派遣したときから始まります。
このときの調査で、フジキンの技術を活かした養殖施設の構築についてはいくつかのヒントを得られたものの、チョウザメのふ化技術や与える餌などについては、まだ何一つわからない状況でした。
人工ふ化の確率が5%の時期もありました
1989年(平成元年)、万博記念つくば先端事業所に設けた養殖プラントで旧ソ連から譲り受けた生後3、4年のチョウザメ(ベステル種)約100匹の飼育を開始。超精密ながれ(流体)制御技術で故郷の川に近い環境をつくり出すとともに、個体識別管理などによって生態データの蓄積を進め、1992年には民間企業として初めて人工ふ化に成功します。しかし、初年度のチョウザメ生残率はわずか5%に過ぎませんでした。
その後も、ふ化して2カ月まで育てる技術や、オス、メスの判別を早める技術などを開発し、1998年、ようやく世界で初めて水槽での完全養殖に成功し、生残率も約60%までアップ。このとき、フジキン産のチョウザメを「キャビア・フィッシュ(超ちょうざめ)」と命名しました。
万博公園/つくば先端事業部
フジキンの超精密ながれ(流体)制御技術はチョウザメに負担の掛からない「ながれ」をつくっているだけではありません。飼育水槽の水を生物ろ過槽で浄化して飼育水槽に戻す「完全閉鎖循環ろ過方式」の採用で、環境負荷も限りなく低減しました。
これによって薬品を一切使用しない「オーガニック魚」の生産を実現するとともに、一般的な掛け流し方式の施設では1日当たり約1万8,000トンの注水が必要なところを、わずか1トンに抑えることができました。また、ろ過槽に凝縮された汚泥は堆肥として使える状態まで分解されているため、敷地内で緑地や樹木の有機肥料として活用しています。
ろ過槽で浄化した水
良質な環境で完全養殖されたチョウザメは、全国の養殖業者様へ稚魚として販売しているほか、レストランなどへキャビア用の抱卵活魚や魚肉用の活〆魚を販売しています。
日本ではあまり知られていませんが、チョウザメの魚肉は「エンペラーフィッシュ」「ロイヤルフィッシュ」と呼ばれ、皇帝や王様に献上されたほどの高級食材。フグを思わせるしっかりとした食感や淡泊で上品な味わいを持ち、グルタミン酸やアスパラギン酸などの栄養素を豊富に含むことから人気を呼び、メニューに取り入れるお店が増えてきました。
こうした需要の高まりから、近年では全国各地でチョウザメの養殖による町おこしが行われるようになり、また、学術面でもさまざまな研究にフジキン産まれのチョウザメが貢献しています
l コロンブスのお土産 (初出 『読売新聞-真昼の星空』99年7月)
旧大陸の人々がトマト、ジャガイモ、トウモロコシなどの食材を知るようになるのはコロンブスが米大陸を発見した1492年以降のこと。さらに食材として確固たる地位を築くのは18世紀以降のこと
トウモロコシは1579年に、ジャガイモは1601年頃に、トマトは1670年頃に日本にもたらされているが、食卓に不可欠のものとなるのは戦後のこと
一旦食生活に入ると普及する速度は目覚ましい
l ジャガイモが根付くまで (初出 『TUG News』(東芝コンピュータユーザ会)98年10~12月)
ロシアは世界最大のジャガイモ生産国
南米アンデス山脈地帯の原住民がほぼ主食にしていたジャガイモの種芋が西ヨーロッパに持ち帰られたのは1570~80年頃。最初はトリュフの一種との触れ込みで風味が売り
仏蘭西で市民権を得たのは18世紀末
ロシアに入ってきたのは日本よりも遅く、17世紀末で、ピョートル1世がヨーロッパ先進国の技術を学びに出た時に持ち帰り、勅令で配布
19世紀前半にシベリアの厳しい気候条件の中で栽培が広がり、急速に根付いていった
l トルコ蜜飴の版図 (初出 『小説 CLUB』99年5月)
旧ソ連のイスラム圏の人たちが作る菓子
子供の頃チェコで友達にもらって美味しかったのを覚えていて、その後同じ名前の菓子を探すが、なかなか記憶していた味に巡り合わない
ヌガーと求肥と落雁などが血縁関係にあることを確信
l 夕食は敵にやれ!
一家でプラハに移り住んだのは59年
ソビエト学校のロシア人の子供たちは1日6食
「朝食は自分のために食べ、昼食は友と分け合い、夕食は敵にやれ!」が共感を呼ぶが、ロシア人の夕食は遅く、それでも就寝前にプロストクワーシャを飲めば朝までに消化してくれると言って平然としている
休憩 Intermission
l 3つの教訓と1つの予想 (初出 『ダンゴの丸かじり』解説)
東海林さだおの『タクアンの丸かじり』を捧腹絶倒で読んだ後、モスクワ駐在の後輩の家に置き土産として残したら、本だけ残したのは残酷だと非難囂囂
教訓の第1、”丸かじりシリーズ”は、長期外地在留邦人に手渡してはいけない
教訓の第2、”丸かじりシリーズ”を外国語に翻訳するのは無理
教訓の第3、”丸かじりシリーズ”が楽しめる程理解できて無性に食べたくなるのは立派な愛国者だし、間違いなく正真正銘の日本人、本物の親日家
1つの予想、”丸かじりシリーズ”は、歴史資料的な価値を帯びつつある
第2楽章
Andante
Mangiabile
食欲は食事のさなかに湧いてくる
l ドラキュラの好物 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
チェコで5年生活して、ドラキュラの恐ろしさにリアリティが備わった
肉屋の店先に捕獲したばかりの鹿の屍が横たえられ、店にはバケツを持った人の大行列。店から出てきた人のバケツの中に濃い赤い液体が波打つのを見て、足が動かなくなり金輪際肉は食べないと悲鳴を上げたが、血の塊のようなサラミ・ソーセージは今でも大好物
l ハイジが愛飲した山羊の乳 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
日本では児童文学の聖書ともみなされている『アルプスの少女ハイジ』もチェコでは誰も知らなかった
山羊の乳の美味しさが記憶に残っていたので、アルバニアの宿で初めて飲んだ山羊の乳の強烈な腋臭(わきが)みたいな臭いには鼻面を一撃された
この臭いを知らない頃にこの物語に出会えたことは本当に幸運だった
l 葡萄酒はイエス・キリストの血 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
母の友人の熱心なクリスチャンの家でキリスト教関連の本を読み尽くしたが、得心するどころか、瓶の水を葡萄酒に変えてしまったという話や、葡萄酒を自分の血と思えと弟子に述べた件(くだり)にはグロテスクさえ感じ、カルチャーショックだった
オウム騒動で同様のことが実際起こっているのを見て、グロテスクなものの一線を超えるのは意外に簡単なのかもしれない、正邪善悪紙一重、聖なるものといかがわしいものもすぐ隣同士にあるのではないかな
l 物語の中の林檎 (初出 『読売新聞-真昼の星空』00年4月)
果物の代表格は、ヨーロッパ文化圏では林檎をおいて他にはない
聖書のアダムとイブの話、「不和の林檎」でトロイ戦争の原因とされたパリス審判の下になった黄金の果物、シラーの『ウィリアム・テル』、『白雪姫』の毒を仕込んだ食べ物もみな林檎だし、ジャガイモやトマトが新大陸からもたらされた時も「地中の林檎」「黄金の林檎」と名付けられた
日本の代表的な果物は、柿ではないか
l サンボは虎のバター入りホットケーキをほんとに食べられたのか? (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
人種差別表現が槍玉に挙がって本屋から姿を消した『ちびくろサンボ』では、サンボがよじ登って逃げたヤシの木の下を虎が走り回っているうちに速さで溶けてバターになり、お母さんがホットケーキを作って虎のバターをたっぷり塗ってくれる
ホットケーキ/パンケーキを常食するのはアメリカだが、虎はアジア大陸にのみ棲息する動物で、アフリカ系のサンボと虎が共生することはあり得ない
l ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
ヨーロッパには、森に捨てられた子どもたちが、魔女や猛獣から危機一髪逃れて無事戻ってくるおとぎ話が山ほどあるのに、『ヘンゼルとグレーテル』だけが日本でもてはやされるのか不思議。お菓子の家というところが魅力だったのだろう
l 狐から逃れた丸パンの口上 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
小さな丸パンの冒険物語は、ヨーロッパのほとんどの国に伝わる
焼きたての美味しそうな丸パンが、いろいろな動物に食べられそうになりながらもあの手この手で逃れたのに、狐にだけは騙されて最後に食べられてしまうという粗筋だが、1986年ソビエトに行った時には新バージョンで、チェルノブイリの小麦粉で作ったと言ったとたんに狐が口を閉じたのでパンは食べられなかったというもの
l 「大きな蕪(かぶ)」の食べ方 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
親しまれているロシアの民話に『大きな蕪』がある。丹精込めた蕪が大きくなりすぎて地中から抜けなくなったため、いろいろな動物が助けに来てもダメ、最後にネズミが来て合力するとやっと抜けたという話
ロシアで蕪を食べたことはなかったが、最古から人類が知っていた農作物で、古代エジプトでは動員された奴隷の食べ物であり、古代ギリシャでは砂糖大根と共に神殿への貢物とされ、のち品種改良に成功し常食となる。どんな気候条件の下でも育ち、長期保存が可能、ロシアでも長期にわたり、ジャガイモに取って代わられるまでは食卓の主役だった
l パンを踏んで地獄に堕ちた娘 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
生涯156編の童話を書き残したアンデルセンの恐い話の代表格が『パンを踏んだ娘』
水溜まりで靴を汚すのが嫌なばかりにパンを踏み台にしようとした娘が、パンを踏んだとたんにぬかるみに足がのめり込んでそのまま地獄に堕ちるという筋書き
パンが食べられなくなると暴動や革命が起きるのは今も昔も変わらない
マリー・アントワネットが、「パンを食べられないのなら菓子パンを食べればいい」と言って地獄に堕ちたし、ロシア革命に民衆が馳せ参じたのも第1次大戦の動員で農村が疲弊してパンが食べられなくなったからであり、革命政権は都市市民の飢餓克服のため武装した穀物没収部隊を農村に派遣、パン生産者に対する不信感がその後の暴力的な農業集団化政策の推進要因になった
ソ連は革命思想である「誰でもパンが好きなだけ食べられる社会」を目指し、農業に補助金を出し続け、外国から小麦を輸入し続けた結果、人々はタダ同然のパンを粗末に扱うようになり、国家財政を破綻に導きソ連邦は崩壊、地獄に堕ちた
l キャベツの中から赤ちゃんが (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
キャベツ畑から赤ちゃんが生まれるという話は、コウノトリの話と並ぶ、ヨーロッパ起源の2大子宝伝説の1つ。起源は中世のスコットランドで、ハロウィン祭の前夜に未婚の男女が目隠ししてキャベツ畑で根っこを引き抜いて配偶者を占う伝統行事に由来
古代ギリシャとローマのキャベツびいきは熱狂的、薬学的効用を絶賛、牛や鶏よりも豚が合うのは古代から、消化促進能力も抜群
l 桃太郎の黍団子 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
命を懸けたお供のご褒美としての黍団子だが、初めて岡山で食べた時には無個性で掴みどころのない味に落胆。後にカリフォルニアの養豚場で肥えた豚が掻き込んでいたのが黍の餌で、猿や犬や雉にとっては魅力的だったのかもしれないと思った
l 『かちかち山』の狸汁 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
狸汁はよほどポピュラーな食べ物かと思ったら、巷間知られる山家料理の正体はアナグマ、別名ムジナで、狸がイヌ科なのに対してイタチ科、基本的には草食
l 『おむすびコロリン』の災難 (初出 『東海総研MANAGEMENT―物語の中の食べ物』00年10月~01年9月)
『舌切り雀』や『花咲か爺さん』など、日本には二番煎じを戒める話が多いが、2匹目のドジョウを狙うのは日本人の得意とするところ
『おむすびコロリン』も同じ構造の物語。友達に紹介したら無性に食べたくなった
間奏曲 Interlude
イギリスには300の宗教と3種類のソースがある
フランスには3つの宗教と、300種類のソースがある
18~19世紀のタレーランが言ったジョーク
l 神戸、胃袋の赴くままに (初出 『旅』(JTB)00年5月)
第3楽章
Largo
l 人類二分法 (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
「食べるために生きるのではなく、生きるために食べる」というのはモリエールの『守銭奴』のセリフだが、元はソクラテスの言葉といわれる
私は逆で「食べるために生きる」人間には、「生きるために食べる」タイプと、「食べるために生きる」タイプに二分される。前者は空想壁のあるペシミスティックな傾向の哲学者に多く、後者は楽天的人生謳歌型の現実家に多い。前者は芥川龍之介、後者は開高健
l 未知の食べ物 (初出 『読売新聞-真昼の星空』00年4月)
食べ方と生き方や性格の間に一定の法則がある
ロシアの要人の和食への対応では、未知の食べ物に対する許容度と政治的革新度が正比例
リガチョフ政治局員は和食を一切受け付けず、ゴルバチョフはナマ魚には拒絶反応を示したが、火を通せば大歓迎、エリツィンは何でも興味をもって口にした
l シベリアの鮨 (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
NHKの海外向け番組の中の《玉村豊男の食歳時記》のコーナーを海外で聴くのは残酷だが、極寒のシベリアで食べたつもりでお鮨屋さんごっこをした時の味が忘れられない
l 黒川の弁当 (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
シベリアでのテレビ取材に同行して1か月閉じ込められた時は来る日も来る日も肉料理
日本に戻ったら慰労でおいしい料理が出ると思ったら黒川の弁当だったので席を蹴って帰ろうとしたら、仲間の1人の小さな娘が「こんな美味しいお弁当初めて!」といって食べたのを見て、浮かせた腰を急いで元に戻した
l 冷凍白身魚の鉋屑 (初出 『望星』(東海教育研究所)02年4月)
ヤクーツクの真冬に氷に穴をあけて釣りをする。連れた途端に天然瞬間冷凍された魚を持ち帰って、鰹節を削るように魚の身を削り、塩胡椒で食べる。ルイベとは絶対に違う
l キッチンの法則 (初出 『日本経済新聞』02年3月)
台所器具の価格とその使用頻度は反比例する
キッチンが立派になるほど料理は粗末になるし、料理にかけた時間と平らげるのにかかる時間は反比例、一所懸命に作った料理ほど客には評価されない
l 家庭の平和と地球の平和 (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
ロシアの諺に、「愛は胃袋経由」というのがある、粗食に耐えて育った者の強さ
日本軍の強さは、兵卒たちの粗食に支えられていた
アングロサクソンほど攻撃的で覇権を求めてやまない人種はいないが、その力の謎は、あの料理のまずさにあるのではないか。本国の食い物に魅力がなければ、派遣先に居つく
イギリスやアメリカの料理が美味しくなったら、世界はもう少し平和になるかもしれない
l 日の丸よりも日の丸弁当なのだ (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
86年当時、RK手術(レーシックより古い角膜切開により視力矯正する手術)のための訪ソツアーに同行した際のこと、術後も回復しない女性が不安から両目とも見えなくなったが、現地駐在員宅で梅干しのお握りを食べさせたら急に見えるようになったという
どの国の人々にも、その人を故国に結び付ける基本的な食べ物がある。日本人にとってはご飯だが、コンビニ育ちの最近の子供が増えたことは心配
l 鋭い観察眼 (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
4歳で《白鳥の湖》を見てバレリーナになる夢を描き、養子も才能の一部と分かってからも、クラシック以外のダンサーを目指して舞踏学校に通い、民族舞踏研究会を旗揚げしたころ、公演を終わって移動中に列車の中で駅弁をわき目もふらずに食べていたのを見た紳士が、あっという間に平らげたのを見てよほどお腹を空かしていたのだと呆れると同時に、途中のスピードが落ちなかったといって感心していたが、鋭い観察眼に感嘆
運動量に比例して肥大していった食べる量は、その後夢破れて踊らなくなってからも変わらず、その結果今の体重は当時より25㎏ほど多い
l 食い気と色気は共存するか (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
知床の男友達の家に泊めてもらって知床見物をする予定で友達の了解もとって事前に連絡したら、友達は留守で両親がきちんとした服装で駅に出迎えてくれた
下へも置かぬもてなしを受け、料理の美味しさに3杯はお替り。結婚してからも仕事を続けるのかとか思わせぶりな質問に不審を感じつつ、翌朝になったらその話はぴたりと止まった。帰郷後友達にあったら、案の定事前の連絡を忘れ、両親が早とちりをしたらしいといい、万里さんの食いっぷりにはたまげたみたいだと言っていた
l 氏か育ちか (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
父の旧制高校時代の親友が京都で薄皮饅頭屋の主人になっていて、訪ねていった際食べっぷりが見事だと言われ、さすが彼のお嬢さんだということになったが、父は饅頭が嫌いといいながら75個食べたようで、私は23個でリタイア
私の大食いは氏か育ちか? 父の頑丈な胃袋を受け継いでいるが、それだけではないようだ
l 無芸大食も芸のうち (初出 『幼児と保育』(小学館)02年2月)
2歳8か月下の妹の食いしん坊ぶりは際立っていて、3歳の頃には量も速さも私を追い抜いていた
大学で生物を学び、高校の教師をしていたが、大阪の有名な調理学校に入り、イタリアに修行、帰国後は料理教室を主宰。生涯に1冊だけ本を書いてみたいという。題名は決まっていて、『無芸大食も芸の内』
l 量と速度の関係 (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
常々母から、「歩く時と食べるときは、相手と合わせて、時間の共有を心掛けるように」と口うるさく啓蒙されてきたが、デートの時は必ず自分の方が早く、その後二度と誘ってこなくなる
人間の満腹中枢に満腹情報が到達するには20分かかるので、ゆっくり食べる方が経済的
l 叔父の遺言 (初出 『Flower Design』(マミアートメディア)99年2~7月、9~12月)
子宝のなかった叔父がいつも美味しいものを食べさせてくれた
糖尿病に苦しんだ叔父を大阪に見舞った帰りに新幹線で帰るといった時の最後の言葉が、「駅弁は八角弁当にしなさい」
日経プラス なんでもランキング
日経 2021.2.23.
向田邦子・開高健… 食のエッセー、名文を味わう
食の深みや味わい、可能性を発見できる「食のエッセー」。コロナ禍の今、食べる営み、食材、料理を見つめ直したい。読書と食事がいつもより楽しくなる作品を専門家が選んだ。
■1位 海苔と卵と朝めし 670ポイント
向田邦子 昭和の食卓、料理香り立つ
食や料理に造詣が深い向田邦子の珠玉のエッセーを集めた。食を通じて紡がれる家族や友人との懐かしい記憶や、脚本家として活躍した著者の食にまつわる日常がつづられている。「こころと胃袋に染み渡る名作が満載」(中沢佑さん)、「古き良き昭和が宝箱に入ったような一冊」(浜本茂さん)などと評価された。
表題作は幼いころの朝食の情景を描く。かまどで炊くご飯や長火鉢であぶる海苔(のり)、生卵など昭和期の空気もひしひしと伝わる。「まるで向田家のアルバムを読み返しているような気持ちになる」(梅田さくらさん)
最初に登場する作品は小学校時代を回想した「薩摩揚」。保険会社で働き全国を転々とした父に連れられ、転校を繰り返した著者が鹿児島で過ごした思い出をつづる。つけあげともいわれるさつま揚げが厳格な父や小学校の先生、友人らとの記憶を呼び起こす。鹿児島での生活は作家・脚本家として活動する原点になったともいわれる。
「『ままや』繁昌記」は食へのこだわりを象徴する作品だ。板前になりたかった著者が妹・和子さんを誘って東京・赤坂に小料理店を開いた経緯を語る。女性の社会進出が今ほど盛んでなかった時代に、「おひとりさま」が気軽に入れる店があればとの思いもあった。開店日は客の熱気であふれ返る様子が描かれ、「正直な文章に一気に向田ファンになる」(沢峰子さん)。
今年は著者の没後40年。小料理店は閉店されたが、妹の和子さんは姉の料理を紹介する本などを出版した。
■2位 旅行者の朝食 450ポイント
米原万里 うんちくたっぷり
ロシア語の通訳者としても名高い著者の傑作エッセー集。ウオッカなどロシア名物や児童文学、昔話に登場する食べ物などを深い教養や考察とともに論じる。表題はソ連時代に製造されたまずくて有名な缶詰の名前という。
ロシアなどにジャガイモが定着するまで時間がかかった理由をつづる「ジャガイモが根付くまで」。日本の行動原理をおとぎ話に見いだす「『おむすびコロリン』の災難」など誰かに話したくなるうんちくや興味深い切り口が詰まった作品が満載。「食文化について知見が深く引き込まれる」(平田剛三さん)
エッセーの展開も工夫されていて、オチや最後の一文が含蓄に富む作品が多い。「ドキッとさせられたり、しんみりさせられたりする」(沢さん)
■3位 辺境メシ 高野秀行 奇抜な食べ物、独特に表現
■4位 味なメニュー 平松洋子 読めば食欲がわく
■5位 たべるたのしみ 甲斐みのり 本・漫画の紹介も
■5位 面食い(ジャケグイ) 久住昌之 秀逸なグルメガイド
■7位 あんこの本 姜尚美 カラー写真、ふんだんに
■8位 ごはんぐるり 西加奈子 親しみやすい文章
■9位 魚の水(ニョクマム)はおいしい 開高健 世界の料理、精緻に描写
■10位 ウマし 伊藤比呂美 巧みな比喩交え軽快に
作家による名著は多くある。内田百閒の「御馳走帖」や獅子文六の「食味歳時記」などは長く読み継がれ古典に近い。
近年は書き手や切り口の幅が広がっている。タレントやテレビディレクターらによる作品が刊行され人気を集める。世界の台所を旅して食文化などを紹介する岡根谷実里の「世界の台所探検」(青幻舎)などユニークな本も出ている。
新型コロナウイルスの感染拡大により外出しづらい日々が続く。食のエッセーは外国の美食や国内の絶品グルメなどを名文で堪能できる価値を備える。生活史研究家の阿古真理さんは「好みが一緒だと共感できたり知らない価値観に出合えたりするところ」と醍醐味(だいごみ)を語る。巣ごもり生活や人生を豊かにしてくれる調味料になるだろう。
Wikipedia
米原 万里(1950年4月29日 - 2006年5月25日)は、日本のロシア語同時通訳・エッセイスト・ノンフィクション作家・小説家である。
l 人物[編集]
東京都出身。明星学園高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。東京大学大学院露語露文学修士課程修了。
l 生い立ち[編集]
日本共産党常任幹部会委員だった衆議院議員・米原昶の娘として東京都中央区の聖路加病院で生まれる。父方の親類に立憲民主党参議院議員の有田芳生がいる[1]。
大田区立馬込第三小学校3年生だった1959年(昭和34年)、父が日本共産党代表として各国共産党の理論情報誌 『平和と社会主義の諸問題』編集委員に選任され、編集局のあるチェコスロバキアの首都プラハに赴任することとなり、一家揃って渡欧した。
9歳から14歳まで少女時代の5年間、現地にあるソビエト連邦外務省が直接運営する外国共産党幹部子弟専用の8年制ソビエト大使館付属学校に通い、ロシア語で授業を受けた。
チェコ語による教育ではなくソビエト学校を選択したのは、ロシア語ならば帰国後も続けられるという理由だった。ソビエト学校は、ほぼ50カ国の子供達が通い、教師はソ連本国から派遣され、教科書も本国から送られたものを用いる本格的なカリキュラムを組んでいたという。
クラスの人数は20人を越えると二つに分けるなど、きめ細かい教育だったが、最初の約半年間は、教師や生徒が笑っていても言葉がわからず、「先生の話すことが100パーセント分からない授業に出席し続けるのは地獄」だったと述懐している。
1964年(昭和39年)11月、ソビエト大使館付属学校を第7学年で中退し日本に帰国。1965年1月、大田区立貝塚中学校第2学年編入。日本の試験が○×式あるいは選択式であることにカルチャーショックを受けた。ソビエト学校はすべて論述試験だったからである。プラハの春(1968年)が起こったのは日本へ戻った後の、18歳のときだった。
l ロシア語を学ぶ[編集]
1966年4月、明星学園高等学校入学、1969年3月に卒業。同年4月、榊原舞踊学園民族舞踊科入学。1971年3月に同校を中退し、同年4月、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科に入学、この頃に日本共産党入党。1975年3月に同大を卒業し、同年4月、汐文社に入社。1976年3月、同社を退社し、同年4月、東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専攻修士課程に進学。1978年3月、同修士課程修了。
大学院在学中の1985年(昭和60年)、「東大大学院支部伊里一智事件」に連座して党から除籍処分を受けた[要検証 – ノート]が、死亡時『しんぶん赤旗』訃報欄には、党歴無記載ではあるが掲載された。後年(2002年5月13日)、逮捕直前の佐藤優に米原は「私は共産党に査問されたことがある。あのときは殺されるんじゃないかとほんとうに怖かったわ。共産党も外務省も組織は一緒よ」[2]と語っている。また、日本共産党から離れた後「今の社会の仕組みや矛盾を説明するのに、カール・マルクスほどぴったりな人はいないわよ。絶対的とは言わないけれど、今読むことのできる思想家の中では、あれほど普遍的に世の中の仕組みや矛盾をきちんと説明できる思想家は他にいない」とたびたび語っていた[3]。
日ソ学院(現在の東京ロシア語学院)ロシア語講師、また1990年まで文化学院大学部教員としてロシア語を教える。かたわら1978年頃より通訳・翻訳に従事、1980年ロシア語通訳協会の設立に参画し、初代事務局長となる。
TBSのテレビ番組『シベリア大紀行』という番組で、厳寒期の平均気温がマイナス60度になるヤクーツクを取材し、厳冬期のシベリアを一万キロにわたり横断。この経緯をテレビ番組のみならず、児童向けの『マイナス50℃の世界 寒極の生活』(1986年)[1]として著した。
l 通訳として[編集]
1983年(昭和58年)頃から第一級の通訳として、ロシア語圏要人の同時通訳などで活躍。特にペレストロイカ以降は、ニュースを中心に旧ソ連・ロシア関係の報道や会議の同時通訳に従事する。
1989年から1990年まで、TBS「宇宙プロジェクト」で通訳グループの中心となり、ソ連側との交渉にあたる。TBSの特別番組「日本人初!宇宙へ」ではロシア語の同時通訳を担当。こうした活躍が同時通訳、ひいては米原の存在を一般に広く知らしめることになった。
1990年1月、エリツィン・ソ連最高会議議員(当時)来日にあたって、随行通訳を務める。エリツィンからは「マリ」と呼ばれ、大変可愛がられていた[4]。
1992年(平成4年)には同時通訳による報道の速報性への貢献を評価され、日本女性放送者懇談会賞(SJ賞)受賞。1995年から1997年まで、さらに2003年から2006年の死去まで、ロシア語通訳協会会長を務める。また同時通訳の待遇改善にも尽力した[5]。
1997年(平成9年)4月から翌年3月まで、NHK教育テレビ『ロシア語会話』で講師を務める。
l 作家として[編集]
1995年(平成7年)に『不実な美女か貞淑な醜女か』(1994年)で読売文学賞を、1997年(平成9年)に『魔女の1ダース』(1996年)で講談社エッセイ賞をそれぞれ受賞。
1980年代後半以降、東欧の共産主義政権の没落やベルリンの壁崩壊さらにはソ連の崩壊を、通訳業の現場にいて肌で感じ、プラハのソビエト学校時代の友人たちの消息が気になっていた。親しかったギリシア人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ボスニアのボシュニャク人のヤースナの級友3人を探し歩き、消息を確かめた記録『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。選考委員の西木正明は、「恐ろしい作品。書き飛ばしているのに、それが弊害になっていない。人間デッサンを一瞬に通り過ぎながら、人物が行間からくっきり立ち上がってくる。嫉妬に駆られるような見事な描写力だ」、と評価している。
2003年(平成15年)には、長編小説『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年)で、Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。選考委員を務めた池澤夏樹は、若い夢とイノセンスの喪失を語りながら、暗い社会の中、老女オリガ・モリソヴナの躍動感で「子供たちはその光を受けて輝」いていると述べ、「ある天才的な踊り子の数奇な運命を辿ると同時に、ソ連という実に奇妙な国の実態を描く小説であって、この二重性が実におもしろい」、と評価した[6]。
l 晩年[編集]
晩年は、肉体的にも精神的にも負担の多い同時通訳からは身を引いて作家業に専念した。またTBSのテレビ番組『ブロードキャスター』にコメンテーターとして出演していた。
2003年10月、卵巣嚢腫の診断を受け内視鏡で摘出手術すると、嚢腫と思われたものが卵巣癌であり、転移の疑いがあると診断される。近藤誠の影響を受けていた米原は開腹手術による摘出、抗癌剤投与、放射線治療を拒否し、いわゆる民間療法にて免疫賦活などを行う。1年4ヶ月後には左鼠径部リンパ節への転移が判明し、手術を提案されるが拒否。温熱療法などを試みる。
闘病の経緯は米原の著書『打ちのめされるようなすごい本[7]』に掲載されている。
2006年(平成18年)5月25日に神奈川県鎌倉市の自宅で死去したことが同29日に報道された。享年56、戒名「浄慈院露香妙薫大姉」。死亡時には週刊誌、『サンデー毎日』で『発明マニア』を、『週刊文春』で『私の読書日記』を、それぞれ連載中であった。また、生前最後の著作は『必笑小咄のテクニック』(2005年)となった。
死亡後の7月7日には、日本記者クラブにて「米原万里さんを送る会(送る集い)」が行われた[8]。
l エピソード[編集]
下ネタをこよなく愛することで有名。徹子の部屋に出演した際、黒柳徹子が米原の著書『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』に出てくる瞳孔に関する有名な下ネタを紹介したため、視聴者に衝撃を与えた。
(2002年放映)人体解剖学の時間に、「人体の器官の中である状態に置かれると6倍に膨張するものがあります。これはなんでしょう?」モスコースカヤっていうちょっと気取った女の子に尋ねたのですね。彼女は恥ずかしそうに身をよじっているものだから先生に指されちゃうのね。「いやです。私そんな恥ずかしい質問に答えられません。」て、言うのね。お爺様からもお母様からも、そんなはしたない事を考えてはいけないと言われているから絶対答えられませんっていうのね。
その他の趣味は駄洒落、そして犬や猫と暮らすこと。親しい友人のイタリア語同時通訳者の田丸公美子も駄洒落と下ネタが得意で、米原は田丸に自分の渾名「シモネッタ・ドッジ」なる称号を献上、田丸は米原を「え勝手リーナ」(エカテリーナ)と呼んでいた。
佐藤優は「文藝春秋」2008年9月特別号において、米原に橋本龍太郎から関係を迫られたと聞いたとする記事を掲載した。米原は橋本が総理在任中のモスクワ外遊時に通訳を務めていた。この記事はのちに『インテリジェンス人間論』にも掲載された[9]。掲載時に両者とも故人だったためコメントは得られていない。
l 家族[編集]
父親は衆議院議員の米原昶、祖父は鳥取県議会議長、貴族院議員、鳥取商工会議所会頭などを務めた米原章三。
実妹のユリは作家・戯曲家の井上ひさしの妻である。万里は死亡時まで、井上が会長を務める日本ペンクラブの常務理事であった。
l 受賞歴[編集]
1992年 1991年度日本女性放送者懇談会賞(SJ賞)[10]
1995年 『不実な美女か貞淑な醜女か』で1994年度第46回読売文学賞随筆・紀行賞
1997年 『魔女の1ダース』で1997年度第13回講談社エッセイ賞
2002年 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』で2002年度第33回大宅壮一ノンフィクション賞
2003年 『オリガ・モリソヴナの反語法』で2003年度第13回Bunkamuraドゥマゴ文学賞(池澤夏樹選考委員)
著書・関連書籍[編集]
l 単独での著書[編集]
不実な美女か貞淑な醜女か(-ブスか)
魔女の1ダース - 正義と常識に冷や水を浴びせる13章
ロシアは今日も荒れ模様
ガセネッタ&シモネッタ(ガセネッタとシモネッタ)
嘘つきアーニャの真っ赤な真実
真夜中の太陽
ヒトのオスは飼わないの?
旅行者の朝食
オリガ・モリソヴナの反語法
真昼の星空
パンツの面目ふんどしの沽券(-こけん)
必笑小咄のテクニック(ひっしょうこばなし-)
他諺の空似
- ことわざ人類学(たげんのそらに-)
打ちのめされるようなすごい本
発明マニア
終生ヒトのオスは飼わず(しゅうせい-)
米原万里の「愛の法則」
心臓に毛が生えている理由(-わけ)
米原万里ベストエッセイ
1・2
偉くない「私」が一番自由
人と物6『米原万里』
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