日本史の論点  中公新書編集部  2021.3.19.

 

2021.3.19. 日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで

 

編者 中公新書編集部

執筆者

倉本一宏 1958年生まれ。国際日本文化研究センター教授

今谷明 1942年生まれ。帝京大特任教授。国際日本文化研究センター名誉教授

大石学 1953年生まれ。東京学芸大教授

清水唯一朗 1974年生まれ。慶應大教授

宮城大蔵 1968年生まれ。上智大教授

 

発行日           2018.8.25. 初版                2018.8.30. 再版

発行所          中央公論新社 (中公新書)

 

鎌倉時代は「いい国つくろう」の1192年に始まる、という時代区分はもはや主流ではない。日本史の研究は日々蓄積され、塗り替えられている。今注目されている日本史の論点は何か、どこまで解明されたのか。「邪馬台国はどこにあったか」「応仁の乱は画期なのか」「江戸時代は「鎖国」だったのか」「明治維新は革命なのか」「田中角栄は名宰相か」など、古代、中世、近世、近代、現代の29の謎に豪華執筆陣が迫る

 

第1章        古代            倉本一宏

論点1     邪馬台国はどこにあったのか

2世紀末から3世紀初頭の倭国は、外交的混乱の時代で、混乱の過程から、北部九州、出雲、吉備、畿内、東海といった列島各地に、より広域の国をまとめた連合体が成立、邪馬台国(やまとこく)もその1

邪馬台国が描かれているのは、『三国志』魏書の『魏志倭人伝』で、「倭国大乱」の後に「共に女子を立てて王と為す。名を卑弥呼(ひめみこ)と曰う」とある

邪馬台国は、現在の奈良県、福岡県、熊本県をはじめ全国に「やまと」という地名がある通り、普通名詞として「やまと」と読むのが適切。「卑弥呼」も「ひめみこ(女王・姫命)」という尊称の表記と考えられ、尊称の前に固有名詞があったはずだがそれは伝わっていない

邪馬台国の所在地については、最初の王宮である纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の発掘調査の進展や、最初の倭王権盟主墳である箸墓(はしはか)古墳の年代を卑弥呼の次の世代くらいに遡らせるようになったことによって、畿内説が優勢

邪馬台国の根拠は、3国に分かれた中国の魏王朝と外交関係を持ったことが『魏志倭人伝』にあるだけで、当時日本列島と最も関係が深いのは3国のうち呉が支配していた江南地方であり、稲作も江南地方から朝鮮半島経由伝来したし、呉の年号を刻された銘文を持つ鏡も出土している。『三国志』に記述が定着しなかったのは、編者が呉と敵対した立場にあったという説もある

『魏志倭人伝』が記述する邪馬台国とは、「女王の都する所」とあるだけで、倭国連合の中ですら最有力だったとは読み取れず、むしろ宗教的なシャーマンを想起させる

俗権力の代表としては、伊都(いと)(福岡県糸島市)が「倭国大乱」以前は倭国連合の盟主だったと思われる

畿内説の有力な候補地は纏向遺跡で、無人の地に3世紀初頭突如出現、約100年経営され消えていく。直径1.52㎞と大規模で、最古の前方後円墳である箸墓古墳も含み、西は初瀬川から大和川を下ると大阪湾に出て、瀬戸内海経由大陸にも繋がり、東には交通の要として、また纏向大溝という幅68mの大運河が造営。纏向では全国各地の大量の土器が出土し、物流の中心であったことを示す

一方、邪馬台国は、吉野ケ里遺跡(佐賀県)に象徴的に可視化されるような環濠集落と考えられ、纏向遺跡とは全く性格が異なる

考古学的成果では、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は邪馬台国の後継の「ヤマト政権」が各地の豪族に下賜されたものとされてきたが、大量に出土するところから大量生産品であり二級品に過ぎず、方格規矩鏡などの一級品の所在をこそ考えるべき

『魏志倭人伝』に書かれた距離をどう読むかによって邪馬台国の所在がわかるはずだが、魏の帯方郡(ソウル付近か)からの里程を推測すると、伊都国の南数十㎞、せいぜい筑紫平野南部の辺りと思われる

日本列島には各地に多様な政治勢力が存在し、大和盆地には纏向を王宮とした倭王権、北部九州には邪馬台国を盟主とする地方政権の倭国連合が併存したと見るのが妥当

 

論点2     大王はどこまでたどれるか

「初期倭王権の王墓はどこに造られたのか」という問いと同じ意

3世紀後半の箸墓古墳に先立って、纏向では3世紀初頭から「纏向型前方後円墳」が出現

もとは墳丘長90100mだったのが、箸墓で突然巨大化。西日本各地の葬制を組み合わせて巨大化したのが見て取れるところから、大和勢力を盟主とする畿内及び周辺諸部族、それ以西の諸部族の政治的、祭司的結集の形成を想定すべきで、それこそが倭王権の成立

特に前方後円墳には吉備の特徴が強く出ていることから、初期倭王権は大和と吉備を主体とする連合と考えられる

時代とともに倭王権の盟主墳と思われる巨大古墳群が西に移り、百舌鳥古墳群が当時の海岸線に沿って造営されたり、古市古墳群が大阪平野から大和盆地への陸上交通ルートに沿って造営されたのは、多分に外国使節の目を意識したもの

これらの考古学的成果を、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜と結びつけることは可能か

『日本書紀』にある万世一系の「皇統譜」の成立は6世紀と言われ、大王という地位を血縁的に継承する「大王家」という血縁集団の形成も6世紀の欽明の世代であることを考えると、初期倭王権の盟主墳と記紀の伝える「天皇」とを安易に結びつけるのは学問的でない

5世紀の倭の5王とは、中国南朝への朝貢を行い、南朝の皇帝によって柵封(さくほう)を受けた5人、讃、珍、済、興、武で、うち武は雄略天皇と推定される

武を最後に、以後1世紀余り、6世紀を通じて倭国は中国王朝から冊封はおろか朝貢も途絶しており、雄略死去後の大王継承については不明確な部分が多く、記紀の記述も史実性については不明

雄略のあと在位が明確なのは継体で、6世紀前半に築かれた今城塚古墳(高槻市)が真陵と考えられているが、その後の2代も謎、欽明に至っていわゆる「大王家」が成立し、その後は血縁で大王位を継承していくことになった

 

論点3     大化改新はあったのか、なかったのか

常に分裂状態の中国が589年隋によって統一

618年には高句麗遠征に失敗した隋に代わって唐が成立

世界帝国の強圧に対処するため、朝鮮3国や倭国では権力集中を迫られ、推古朝の蘇我馬子や厩戸皇子の改革が起こり、大化改新へとつながったと見るべき

郡評(ぐんぴょう)論争 ⇒ 改新詔4条の第2条で地方組織として、「国・郡(こおり)・里」を定めたが、諸史料には「郡」ではなく「評」と記載されたものが多く見られ、藤原宮跡から出土した木簡によって、大宝律令を境に「郡」から「評」に変わったことが明らかとなった。何れも同じく「コオリ」と読む。この論争と混同されるのが大化改新否定説

大化改新後に史上初の譲位が行われ、非蘇我系王統庶流の軽(かる)(孝徳)が大王に擁立されたが、孝徳朝に出された詔文の多くが当時出されたという確実な根拠がないところから改革自体の否定に繋がったが、それらの基となる原詔が出されたとの説が現在では主流

大化という年号も、大宝以前の木簡などの年紀は干支で書かれていることから、大宝が最初の年号だったと考える

改新詔の信憑性は措いても、その直前の蘇我本宗家滅亡のクーデター(乙巳(いっし)の変)による一連の諸改革が行われたことは確実で、多くの木簡が示唆している

大化改新で目指した中央集権国家の建設は、白村江の戦や壬申の乱など幾多の政変・戦乱を経て初めて完成されていったと見るべき

改新の中心人物、中大兄や中臣鎌足の実体にも不明瞭な個所が多く、のちに政権を支配した藤原氏が創始者として祀り上げたとする見方もあって、大王孝徳の役割を重視すべきとの説もあるが、軽王の出自を見る限り、それほどの力があったとは思えない

 

論点4     女帝と道鏡は何を目指していたのか

宇佐八幡神託事件=道鏡事件 ⇒ 769年、称徳天皇によって太政大臣禅師・法王だった道鏡を皇位につけよとの神託があったとされたが失敗、1年後には称徳が死去し、皇太子白壁王(光仁天皇)によって都を追われた事件。道鏡主導で悪僧の代表とされる

近年の研究では、サンスクリットの経典研究を行った学問僧であると同時に、葛城山中で修行して山岳仏教にも通じ、如意輪法や宿曜秘法を修めたとされる。女帝との不適切な関係もない

事件は、称徳主導というのが学界の一致した意見。他にも天皇主導の事変でも明示しないことが多く、「薬子の変」も反対派の嵯峨天皇が主導したとの説が主流

奈良時代の皇統は天武系といわれるが、持統皇統と見た方がいい。天武と持統との間の草壁皇子の系統が文武・聖武で、その決定に大きく関わって王権の輔政を継承したのが藤原不比等とその子孫。文武と不比等の一女との間に生まれたのが聖武。744年聖武の子・安積親王が急死した後、不比等の三女・光明子との間にもうけた内親王が即位して未婚の女帝孝謙天皇が誕生により持統皇統の断絶が確実となり、奈良朝の皇位継承が混乱していく

聖武は退位後太上天皇となっても天皇大権は手放さず、聖武死後は光明皇太后と藤原仲麻呂が握り、天武の孫で仲麻呂の婿となっていた大炊王を即位させ淳仁天皇として即位

天皇家の長にして藤原氏の長でもあった光明皇太后の末期に仲麻呂(淳仁天皇から恵美押勝の姓名を賜る)の権力を脅かしたのが、退位していた孝謙太上天皇で、孝謙の看病に侍していた道鏡が孝謙に「寵幸」されたという噂が広まった

764年、恵美押勝は叛乱を起こすが鎮圧され、孝謙は称徳として重祚するが、皇嗣がないために神の宣託があればと考え道鏡に神託が下ったとしたが、貴族層に反対され、藤原百川らの陰謀を経て桓武天皇が誕生

道鏡は、下野国薬師寺別当として左遷されたが、その後も布教に努め、下野国からは第3代天台座主となる円仁はじめ多くの名僧を出した

 

論点5     墾田永年私財法で律令制は崩れていったのか

大化改新の目標だった中央集権国家は、律令制の確立で完成するが、その後は貴族が荘園という私有地を増やして私腹を肥やし、国家としては衰退。腐敗・堕落した貴族の収奪に対抗して武士が台頭し、中世社会が生み出されていく

律令制においては、班田収授法による公地公民が謳われていたが、743年の墾田永年私財法は、開墾した田地の私有を永年にわたって保障するものであり、律令制を崩壊させた原因の最たるものとされたが、そうした見方は改められている

律令で定めた班田制は、熟田(既耕田)だけを把握して班給する硬直した制度で、農民による小規模な開墾田をそのまま口分田に組み込む仕組みにはなっていなかったので、墾田永年私財法によりそれまで把握されなかった未墾地と新墾田を土地支配体制の中に組み込んで、土地支配体制を確立し律令国家の基盤を拡げることになる

平安時代の王朝国家を支えたのが、国司から転換した受領(ずりょう)で、徴税と国内の行政を一任され、任期4年。検田(田地調査)を行い責任者を把握して賦課を行う

受領は、一定額の租税を中央政府に納入すればよく、余剰は私物化できた

中央政府は確実に租税を徴収することができ、財政基盤が確立され、摂関期の豊かな王朝文化の基礎ともなった

4年の任期の後はまた本務の中央官に任じられており、昇進途上での実務官人の精励への褒賞という側面もあった

 

論点6     武士はなぜ、どのように台頭したのか

武士の起源は、「在地領主制論」として、地方の有力農民が自分の領地を守るために武器をもって立ち上がったとされているが、1980年代に見直される

1011世紀にかけての平将門の乱、藤原純友の乱、平忠常の乱、前9年後3年の合戦などでは、初期の「武家の棟梁」は藤原氏、清和源氏、桓武平氏などの出身で貴族の血筋を引き、地方に勢力を持ちながらも完全には土着せず、官職や邸宅など都にも基盤を置いていた(留住:りゅうじゅう)し、武士の暴力団的性格やケガレとしての存在、貴族志向の強さ、芸能的側面などが明らかになってきた。また、「棟梁」とはいっても従属する兵力は僅かで、源平合戦においても双方の兵力は殆ど国衙(国衙:地方の役所)の指揮下にあるもので、「棟梁」というよりは「軍事貴族」と考えられる

平安時代の軍事貴族は、代々軍事に携わり、京都宮廷社会の中で検非違使などの官職を持ち、受領に任じられることもある一方、摂関家など有力権門の家人(けにん)になって身辺警護や受領としての奉仕に務めるなど密着度を強める

中央官庁から「追捕官符(ついぶかんぷ)」を得て国家の名の下に戦わなければ、私闘と見做され断罪。将門、純友の乱は「承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱」と呼ばれるが、両者とも承平年間は追捕する側にあった

3年の役は欧州の豪族清原氏一族内の争いだったが、追捕官符発出ないまま、陸奥守源義家が介入、私財で恩賞を与え源氏は東国の武士たちとの関係性を強めていくことになるが、あくまで私闘であり、当時の武士団が未発達であったことの証左

武士団の形成は12世紀半ばの保元の乱以降だが、紛争の解決に在地の武力を使った将門の乱は大きな転換点であり、中世の端緒と見ることができる

1046年、平忠常の乱を平定した源頼信が石清水八幡宮に奉献した願文(がんもん)には、「文武の二道は朝家(ちょうか:国家=天皇)の支え」と謳っていて、武士が支える天皇という国家観を自己認識していた

寺社の勢力伸長で、武士なくしては紛争の解決ができない時代となり、11世紀の前9年後3年合戦から、12世紀の保元・平治の乱を解決する過程で、自力救済(=暴力主義)を旨とする武士の世の中を迎え、全く異なる価値観の国になってしまった

武士が文字通り中央の権門に伺候する「侍ひ」だった時代はまだよかったが、武家が中央の政治に影響力を持つようになったり、政治の中心に座ったりすると、日本の歴史は途端に暴力的になり、儒教倫理を表看板にしていた古代的な価値観は京都の没落貴族の中に埋没

 

第2章        中世            今谷明

論点1     中世はいつ始まったか

「中世」は西欧史学から発生した用語で、日本では慈円(摂関家出身の僧侶)著『愚管抄』以来、「武者(むさ)の世」と呼び慣わした

明治中期以前、日本人の学者は日本が遅れた社会と考え、鎌倉・室町時代が封建制であったことには懐疑的だったが、日清・日露で日本の国力が自覚されると、日本中世は西欧と同じく封建社会だったという認識が広まり、日本の封建時代前半を中世、後半(江戸時代)を近世と称する慣行が定着。大正期以降日本史学への規制が厳しくなり、時代区分論争も困難となって、中世の起点の議論は萎縮・消衰

戦後、敗戦を大きな教訓として、封建制の議論が急激に起こり、中世と封建制を分離して、「武家政権論」や「権門体制論(公家・武家・寺社の3権門が鼎の足のように国政に関与し相互補完的に国家を構成する)」が登場

寺社の嗷訴(ごうそ:僧徒による集団訴訟)を契機に、天皇に代わって武家の棟梁に頼んで鎮圧を図る「汚れ役」の引き受け手として院政が期待され、同時に摂関家の力が弱まり天皇親政へと変わっていく時代が中世の開始と見れば、白河院政の始まった1090年頃が中世の始まりといえる

 

論点2     鎌倉幕府はどのように成立したか

源平合戦は、学術用語としては「治承・寿永(じしょう・じゅえい)の内乱」

平氏政権こそが最初の武家政権とする見方もあるが、院政の枠内に捉えるべきとの見方もある

平氏に政権らしい形が見えるのは、保元(1156)・平治(1159)の乱後のことだが、貴族的性格が強く、全国の武士を糾合したものではない点で、武家政権の誕生とは言い難い

鎌倉幕府成立時期として最有力は、1185年文治勅許の獲得により全国の守護・地頭任命権獲得とするもの、次いで、1183年東国支配権の公的な承認を得た時点とするもの

頼朝は、主人と従者(家人:けにん)の関係を幕府の根本に据え、御家人を地頭に任じることで所領の支配を保障し(本領安堵)、勲功によって新たな所領を与えた(新恩給与)

鎌倉後期には御家人の経済基盤が動揺し、幕府は所領売買や質入れを制限したが、御家人制は崩壊へと向かう

 

論点3     元寇勝利の理由は神風なのか

フビライの蒙古襲来は2度。文永の役(1274)と弘安の役(1281)

文永の役では、27千の蒙古軍が博多湾から上陸、蒙古の集団戦法に鎌倉武士が面食らって太宰府まで退却。1日で戦闘が終了とされているが、大勢の上陸には数日かかり、結局は数千程度が上陸し、時期的に初冬で台風シーズンではなかったので、神風的なものが吹いたとすれば寒冷前線に伴う玄界灘の冬の嵐だろうが、簡単に攻略できないとわかって早く引き揚げようとしたのではないかという説が有力。数少ない史料の1つが石清水八幡宮の霊験譚なので、霊験を誇大宣伝している可能性が大

弘安の役では兵力が10万に増強されたが、日本側も防備に注力したこともあって、蒙古は博多から上陸できず、志賀島に上陸、1か月空費しその後撃退。6月なので台風に襲われた可能性はあるが、神風とは言えない

文永の役後、幕府は朝廷と交渉して、幕府の支配が及ばない土地からの徴兵や、西国の富豪からの財産徴発の権限を得るなど戦闘態勢を整えていた

蒙古襲来を撃退したものの、外国相手の戦勝では御家人に与える恩賞地はなく、不満分子が倒幕を早めたのは間違いない

 

論点4     南朝はなぜすぐに滅びなかったか

南北朝分裂の発端となった両統迭立(ていりつ)とは、鎌倉時代後期、天皇家が後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)に分かれて皇位継承を争った時期に、妥協策として両統から交互に皇位に就くとされた慣行のこと

承久の乱(1221)以後、皇位の継承と院政を行う上皇の認定には幕府が深く関与

後嵯峨天皇が執権北条泰時の後押しで即位した後、子の後深草天皇に譲位して院政を敷き、次いで後深草の同母弟の亀山を皇位につけた。後嵯峨が院政の後継者を指名せずに死去したため、幕府は大宮院(後深草の後室)の裁定により亀山を後継としたが、悲嘆した後深草は出家の意を漏らし、同情した北条時宗が後宇多天皇(亀山の子)の皇太子を後深草の嫡子に決定し、両統の迭立が決まる。両統が皇位継承の度に幕府に対して運動するようになる

亀山の孫の後醍醐天皇になると院政を廃して天皇親政を始め、自らの皇位継承にからみ倒幕を計画、失敗はするが幕府から離反した勢力によって幕府滅亡へと進む

関東の有力御家人の1人新田義貞によって北条氏は滅亡したが、後醍醐天皇による親政(建武の親政)に失望した武士たちの期待は足利尊氏に集中、尊氏は武家政治の再興を掲げて京都に入り、光明天皇を擁立して光厳天皇の院政を仰ぎ幕府を開き、後醍醐天皇は吉野に逃れて自らの正統性を主張したため、南北朝の幕開けとなる

公武対立の時代であることに違いはないが、天皇親政絶対の南朝と、院政を肯定する北朝の対立が戦乱の長期化を招いた原因

南北朝という言い方が出てこなくなっているが、足利幕府の内部の混乱に応じて南軍が4度も京都侵攻に成功しているのは事実で、南朝が天然の要害を本拠にしていたことや、三種の神器を保持して正統性を主張したことに加え、幕府が内部分裂の危機を内包していたことも南朝存続の背景にある

 

論点5     応仁の乱は画期だったか

1441年、嘉吉の乱により、6代将軍足利義教は暗殺され、細川・山名の2大勢力が将軍の後継争いや、斯波・畠山といった管領家の家督相続でも対立、1467年の応仁の乱に突入したとされるが、最大の原因は畠山氏の家督争いで、義就(よしなり)が最後まで抵抗したので77年まで終わらなかった

日本史を二分する画期となる戦乱とされ、中世を特徴付ける権門体制がすべて滅んだというのは間違いではないが、幕府はまだ続いているし、平安以来の顕密の旧仏教は後退したが、日蓮宗や一向宗(浄土真宗)など鎌倉の新仏教の勃興はこの後であり、画期のあり方は多角的、多面的というべき

応仁の乱の終焉をもって戦国時代の始まりとする見方があるが、1493年の管領家の細川政元が日野富子と組んで将軍を追放するクーデター(明応の政変)までは、幕府が諸大名を動かして敵対者を討伐しており、厳密にいえば戦国時代は明応の政変をもって開始とすべき

戦国時代の終わりについては室町幕府滅亡(1568)から関ヶ原(1600)まで諸説あって、いまだ統一はされていない

 

論点6     戦国時代の戦争はどのようだったか

1953年、日本は豊臣以後やっと封建社会に入るという衝撃的な論文が出て、戦国大名の研究が盛んとなったが、その後呼称が「戦国期守護」となり、現在では「地域権力」という一般用語に置き換わる

戦国期の戦争の実態は、鉄砲の導入と兵農分離の進行で大変化を被った ⇒ 包囲攻城戦の在り方に端的に表れている。敵城攻略に大変なエネルギーを要する時代に

鉄砲の実戦使用は1549年前後の足利義晴と三好長慶との戦争が最初で、鉄砲による戦術・城郭の変化は長篠合戦(1575)の遥か以前から始まっていた

兵農分離の進行は、包囲攻城戦の長期化に表れている。常備軍の組織化が進み、農事に無関係な兵力が増強された

 

第3章        近世            大石学

江戸(16031867)に織豊期の30年を加えて「近世300年」という

「近世」とは、「初めて日本列島規模の国家システムが出来上がった時代」

30百万人が初めて幕府の下に保護・管理されるようになった

天皇・公家・寺社・武士がすべて、幕府(将軍)のもと、1つの秩序・機構として編成され、列島全体にわたって統治が確立、近代性を獲得した時代

江戸時代に築かれた様々なシステムは、現代にまでつながっているところから、江戸時代を初期近代と考え、「江戸時代=封建社会」という見方から脱却すべき

 

論点1     大名や旗本は封建領主か、それとも官僚か

江戸時代を封建的と捉える考え方では、大名や旗本は強権的・強圧的な封建領主ということになり、大名は将軍と主従関係を結んだ1万石以上の武士で、約260300家あり、大名を頂点とする役所機構や役人組織、そしてその領地を藩と呼ぶ。将軍と主従関係を結んだ1万石未満の武士は旗本・御家人と呼び、将軍に謁見を許された者が旗本で、許されない者が御家人。1722年時点ではたもと5205人、御家人17399

武士たちは、近世を通じて知行所支配から給米取りへと変化

近世になると大名は独自の判断での築城や出兵が禁止され、1615年には「一国一城令」により居城以外の城は壊された。近世においては大名と領地の関係は希薄であり、大名は幕府に任命された行政官的・官僚的役割を果たした

大名の領地の変更である転封は、特に江戸前期、頻繁に行われ、前任の大名の支配を踏襲したり、周囲の藩との横並びも意識しながら、農民の反発を押さえようとした

参勤交代は、大名に莫大な費用を使わせ、藩を疲弊させて幕府に反抗させないことを目的としたと説明されてきたが、大名たちはむしろ江戸在住をこのんだと思われ、維新に藩主が土地と人民を新政府に返上したのも、江戸260年を通じて在地性のない大名が増えていたからこそ可能で、大名を「封建領主」といえるか見直しが必要

藩主が国元にいなくても、国家老以下の家臣たち実務官僚が行政を仕切っていた

戦後歴史学は、マルクス主義唯物史観の下、江戸の農民を中世封建制下の「農奴」と位置付けてきたが、江戸を始めとする都市研究が盛んになるにつれ、江戸時代庶民の地域や身分流動的側面が明らかにされ、身分としての「家」は固定されていても、「家」の中の個人は比較的自由に身分間移動や地域間移動が行われる流動的な社会だったことが判明。農家の次男坊が町人になったり、町人はお金で侍株を買って侍になり、異身分間での養子縁組も盛ん、侍が嫌で俳諧師や学者になったりしていた

 

論点2     江戸時代の首都は京都か、江戸か

首都はいつ京から東京に移ったのか

東京を首都とする法的根拠は今に至るまでない。社会学や政治学、地理学の定義では、首都を「その国の内政外交の中心」とするのが一般的であれば、江戸時代の京を首都とするのは無理がある

文化、経済面でも、元禄年間(16881704)頃から江戸が文化の発信地となり、田沼時代(176786)前後には文化の中心が江戸に移った。吉宗(16841751)は江戸を「国都」と宣言しており、明治政府の最大派閥は旧幕府官僚派で、江戸の首都機能のみならず、江戸の国家構造・社会構造をそっくり引き継いでいる

 

論点3     日本は鎖国によって閉ざされていた、は本当か

1616年、明の船を除き、外国船の入港は平戸と長崎に限定、1631年には奉書船制度により、幕府発行の朱印状に加えて老中発行の奉書(許可証)の携行を義務付ける制度が始まあり、33年には奉書船以外の渡航を禁じる第1次鎖国令発布、海外在住5年以上の日本人の帰国も禁止。外国船の入港は長崎のみとされ、島原一揆でポルトガル船の入港を禁止、73年にはリターン号事件でイギリスとの交易も断ち、通商はオランダと中国に限定。例外として、対馬藩を媒介に朝鮮と国交を結ぶ

こうした近世の外交体制を「4つの口」という ⇒ 外国に対して4つの窓口(長崎、対馬、薩摩、松前)の外交ルートがあったという意味

18世紀末にロシアの来航で動揺が始まる

1858年、5か国との修好条約締結により、幕府直轄領の箱館、横浜、新潟、神戸の4港が追加され、外交ルートが8つに拡大。開国といっても窓口が4から8に拡大しただけで、鎖国には変わりない。鎖国とは出入国管理の一番厳しい形態であり、国家が国民を管理する外交体制を近代というのならば、近世国家は十分に近代性を備えていたといえる

江戸時代でも、秀吉が朝鮮から強制的に連れてきた学者や技術者などの朝鮮人はいたし、アイヌや琉球の人たちも居住、西洋の文物もある程度は入ってきた。イソップ物語(伊曽保物語)も読まれ、キリスト教の知識もあったし、蘭方医もいて、外国文化も取り入れていた

 

論点4     江戸は「大きな政府」か、「小さな政府」か

江戸時代の基本にあるのは「仁政」で、民衆を労り、慈悲の心をもって接することで、弱者救済を心掛ける「大きな政府」が基本。年貢が重い=苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)ではなく、国家機能・公共機能を維持・拡大するために必要な財源だった

元禄時代は小さな政府で、柳沢は劣悪な貨幣を大量に市場に流して経済を活性化させたが、新井白石の「正徳の治」で修正、財政緊縮策を展開。享保の改革では大きな政府を、田沼意次は小さな政府によって経済を再活性化。さらに松平定信の寛政改革では大きな政府へ

吉宗の大きな政府と、尾張藩主徳川宗春の小さな政府が真っ向から対立、尾張は経済活性化の実績で対抗し庶民の支持も得たが、吉宗によって謹慎処分となる

名君の多くは、大きな政府の下、秩序を回復し財政再建したが、大きな政府と小さな政府の揺り戻しを経験しながら、官僚たちを中心に国家の足腰が鍛えられていった

 

論点5     江戸の社会は家柄重視か、実力主義か

近世社会の基礎単位は「家」であり、家格維持のために養子縁組が盛んにおこなわれた

1723年、吉宗が「足高(あしだか)の制」を導入、有能な人に石高を足して要職につけるとともに、公文書システムを整備してマニュアル化を徹底し、官僚制を機能させた

 

論点6     「平和」の土台は武力か、教育か

3代家光までの武力を背景とした強引な「武断政治」に代わって4代家綱からは儒教の普及・教育によって「平和」を目指す「文治政治」に転換、文書を管理する官僚が必要となり、法の理解が民衆に求められ、その基礎となったのが読み書きのリテラシーであり教育

教育こそが、初期近代たる江戸時代を作り上げた

識字率の向上は、戦国末期に萌芽を認めることができる ⇒ 織豊時代の兵農分離政策と深く関わる。都市の武士と農村の農民との意思疎通のため文書が必要となる

藩官僚を育成したのが藩校であり、トップレベルの教育が江戸に集中

幕府も、町民や農民の識字率の向上を奨励、特に吉宗は国民教育の普及に熱心

元禄時代、井原西鶴や松尾芭蕉を愛読したのは庶民だし、自作の和算の問題を神社や寺に「算額」として奉納し、それを筆写して解くような文化もあった

1817年儒学者の広瀬淡窓が日田に設立した咸宜(かんぎ)園には全国から生徒が集まり、97年の閉鎖まで5000人が学んだという。長州の大村益次郎もその1

1872年の学制で「国民皆学」が謳われたが、その基礎はすでに江戸時代に築かれていた

 

論点7     明治維新は江戸の否定か、江戸の達成か

維新の原因には2つの要素 ⇒ ①国内の矛盾・対立の激化、②諸外国の圧力

幕末期には、幕府側でも近代的な議会制度のプランはあった

旧幕軍の洋式化も進み、同じ近代的兵器を使った近代戦争にも拘らず、同時期のクリミア戦争や南北戦争に比べて戦死者数が圧倒的に少ないのは、強引な掃討戦や殲滅戦をしなかったから

維新後も幕府官僚が多数新政府で働いているのも、江戸時代を通じて列島社会が均質化することと並行してナショナリズムが育ち、同朋意識が育っていたからであり、明治維新という政権交代は、「江戸の達成」として位置付けられるべきもの

明治維新の革新性が強調されるようになったのは、明治初期と戦後民主化の時期で、何れも欧米文明を基準に、江戸の在り方を批判したものだが、最近の江戸を見直す動きでは、100年続く戦国を克服し、250年という世界でも稀有な「平和」を実現、その「平和」は合理的・文明的な官僚システムと教育によって支えられ、江戸を中心とする列島社会の均質化をもたらしたとされている

明治維新は江戸の否定・リストラではなく、「江戸の達成」と見るべき

 

第4章        近代            清水唯一朗

論点1     明治維新は革命だったのか ⇒ 復古か、革命か、革新か

復古ではないし、王朝も変わっていないので「革命」ともいえず、「革新」が妥当ではないか

明治維新前後において、何が連続し、何が変化したのか

現在、幕末の政治構造を巡る議論は大きく修正 ⇒ 攘夷自体は全国的に共通した意志であり、その方法が時と場所によって変化していったという考えで、「大攘夷」「小攘夷」という概念を打ち立て、開国前後までは実力行使による「小攘夷」で、次第に富国強兵によって列強に互す実力をつけることを目指す「大攘夷」へと転換していったと見る。討幕派と佐幕派の単純な争いではなく、西洋列強に対し如何に独立を守るかという広義の「攘夷論」の展開の中で、公武合体や倒幕維新論が現れ、政治闘争と絡み合って展開していったと考える

維新の担い手も、西郷・大久保・木戸・坂本らの英雄史観は否定されつつあり、島津斉彬・久光、松平春嶽等の開明派の指導の下、小松帯刀、橋本佐内、横井小楠などが再評価されている

幕府内部でも、井伊直弼が強権的に開国を導いたイメージが強いが、近年の研究では、通商条約には慎重な姿勢を取りつつ、現場に裁量を与えていたことが知られており、開国へと交渉を導いた昌平黌のエリートだった岩瀬忠震(ただなり)や戸田氏栄(うじよし)らの国際秩序を重視した若手幕臣との間には距離があった

近代化の中で、人々は自由よりも安定を求めた。自分たちの利益を主張する際には集団で行動し、この動きは、市民社会の構築につながる動きとして位置付けられる

地域秩序の面からは明治維新の前後で非連続性が見られるが、社会全般で捉えた場合、両者には高い連続性があると考えられている。近年注目されているのは、知的ネットワークの存在 ⇒ 西洋の衝撃を巡る情報と認識が急速に国内に広まる。昌平黌で共に学んだ俊才たちの知的ネットワークが全国に拡大し、全国規模の言論空間(=公論空間)が育まれ、能力主義の人材登用が生まれていく。幕府における少数による意思決定をやめ、政治参加の枠を広げていくことは、新政府が江戸幕府に代わることを正当化するために必要な変革だった

連続性を語るうえでもう1つ重要なのが人材。多くの有能な幕臣が新政府でも活躍

王政復古の大号令では人材登用を第一の急務とし、家柄・身分によらず実力で登用することを宣言

王政復古の大号令を始めとして、天皇を中心とした政権組み立ての際に復古的な言辞が用いられたのは間違いないが、導入された制度は復古的なものではなく、幕藩体制を否定し、公議輿論に基づく近代的な政体を目指す革命的なものだった。他方、担い手の面では、当初こそ雄藩藩主や公家の下に幕末の志士たちが維新官僚として実質的な権限を獲得したが、実務面では幕臣が多く活用され、将軍家が支配的な地位を降りたこと以外は担い手の連続性は高く、東洋的な意味でも革命とは言い難い。加えて、知的ネットワークに代表されるように、江戸時代の機構や教育の成果、とりわけ人材登用における能力主義の萌芽が維新に果たした役割は大きく、江戸の蓄積を巧みに活かした革新と捉えるのが妥当

 

論点2     なぜ官僚主導の近代国家が生まれたのか

早くからヨーロッパ型の近代国家に移行することができた背景には、有能な人材を政府・行政に集め、その体制を刷新することができたことが上げられる。一方で、政治構造はトップダウン型となり、グラスルーツの民意形成が遅々として進まない状況が生じるが、それは官僚国家への道でもあった

日本がモデルとしたのは、議院内閣制のイギリスか、官僚主導で行政中心のドイツかという二者択一ではなく、憲法にしても欧州やアメリカなど多くの国家の事例を丹念に比較検討のうえで編まれたことが判明しているし、土木や陸軍はフランスやドイツに、教育はフランスやアメリカに倣い、海軍はイギリスやアメリカの指導を受けた

中心にいたのは岩倉遣外使節団で、条約改正交渉では失敗したが、世界の最先端の文物や制度を学び取って来て近代化を進めていく

大学南校では、官軍子弟優先から、1870年には門戸開放のための「貢進生」制度採択によって各藩から広く集められた、卒業後は留学、帰国すると官僚として国家建設の現場指導に当たった

憲法上も第19条で、一定の法定資格に応じて文武官につくことができるとしている(唯一の平等条項)

伊藤博文主導で行政が先行する国家建設を進める。1885年内閣制度が発足、86年には3つの勅令発布 ⇒ ①公文書の書式統一、②各省通則により省庁組織をモデル化、③帝国大学令により官僚となる人材育成方法を定める

憲法改正による政治的不安定惹起を回避するため、憲法は極力簡素化して、可変のものは法令に委ね、法律もまた同様の構造で詳細を政令や省令に委ねた

 

論点3     大正デモクラシーとは何だったのか

大正デモクラシーとは、明治期の自由民権運動に続いて、大正期に行われた第二の民主主義運動であり、その果実として政党政治の実現と男子普通選挙の導入が上げられる

日清・日露の膨大な戦費を賄うための重い税負担に苦しんだ国民の不満が政治参加を求める動きとなり、ポーツマス条約の内容に反対した日比谷焼き討ち事件をもって大正デモクラシーの端緒とする説が多い

政治運動として顕在化したのは1913年の憲政擁護運動(1次護憲運動) ⇒ 桂園時代を通して蜜月を保っていた政友会と桂系の関係が、大陸政策を巡って綻びが見え始めたところへ、尾崎行雄や犬養毅などの政党政治家が「藩閥打倒、憲政擁護」を掲げたことで民衆の支持を得て、桂政権崩壊に追い込み、政友会内閣が発足

1924年の第二次護憲運動は、第1次とは性質が異なり、政友会の原敬内閣が、原の暗殺後総裁に就任した高橋是清が政権を引き継いだのは、政党が継続的に政権を担うべきとのコンセンサスが成立していたからだったが、野党の憲政会と革新倶楽部が引き金を引いて政友会内閣を倒したのが第2次の特徴

大正デモクラシーの最大の眼目は、選挙権の拡大 ⇒ 明治末期から知識層に社会主義思想が拡散し始め、ロシア革命により共産主義思想も浸透を始め、取締りが強化される中で、男子普通選挙の実施は時代の必然だったが、選挙参加後の大きな目標と理想を描くまでにはいたらず失速

 

論点4     戦争は日本に何をもたらしたか

西南戦争 ⇒ 廃藩置県が不徹底だった鹿児島が新政府に屈したことは、旧体制からの転換が全国に及んだことを意味する象徴的な出来事であり、徴兵され新式の訓練を受けた国民兵が旧士族に勝利することで近代国民軍の成功を強く印象付け、近代への転換の画期となる一方で、財政難に拍車がかかり松方デフレにより国内経済社会に大規模な転換を迫るとともに、大隈の失脚、立憲政治への移行をもたらす

日清戦争と「日台戦争」 ⇒ 中華思想から完全離脱する好機と捉え、国家を意識した初の戦いで、民衆も国民としての自覚を持つ転機になったのは戦争最大の所産。領土割譲を不満とする台湾の征討(日台戦争)を通じて初の植民地がもたらされ、国民意識と戦争への肯定的な理解を生み、名実ともに植民地帝国への歩みが始まった

日露戦争 ⇒ 国民全体を巻き込んだ総力戦となったこと、近代兵器の初期形態がみられたこと、世界秩序に大きな変化をもたらしたことなどから、第ゼロ次世界大戦と捉える見方が示されている。戦傷者の多さは瞠目に値、メディアの役割が拡大、象徴的な戦没者が称賛されたことも注目

1次世界大戦 ⇒ 参戦は日英同盟に基づくとされていたが、そう単純ではなく、日本の権益拡大の企図を見抜いたイギリスは当初日英同盟を発動しないとしていた。日本の野心は、外交の基軸であったイギリスとの関係を悪化させ、他国からも中国に対する野心を疑われ、国際社会における日本の位置にとって大きな「失敗」だった

太平洋戦争 ⇒ 戦後日本を規定する様々なものを残した。その最たるものは、戦後の高度成長をもたらす経済システムとされる1940年体制(野口悠紀雄説)で、昭和戦前期に新官僚によって進められた行政権の強化が、総動員体制の下で雇用や金融、税財政や再配分など多くの分野における行政の介入構造へと拡大、所得税の源泉徴収や厚生省の設立・国民健康保険などの福祉体制のように今日まで残る制度も多い。戦時の統制経済の構造が、戦後の高度経済成長を支える制度的背景となったことは興味深い。とりわけ、60年代までは特権的官僚、もしくは古典的官僚、国士型官僚が強い影響力を持ったことが知られている。近衛、東条といった内閣機構の失敗は天皇主権の下での権力分立体制という明治維新以来の日本の政治構造の限界を示すものであり、その反省から戦後は内閣が国会の信任によって成立し、国会に対して責任を負うとする議院内閣制と、内閣総理大臣による国務大臣の任免権が憲法に明記されることになる

 

論点5     大日本帝国とは何だったのか

近代日本は帝国主義とどう向き合ったのか ⇒ 「日本」と「日本人」の領域を考える取り組みが進んでいる

西洋列強におけるキリスト教に対応する国家の基軸に、家父長的な世界観の頂点に天皇を置き、憲法や教育勅語、選挙権といった具体的な権利が天皇から与えられるというフィクションが生み出された

昭和天皇は、皇太子時代の洋行で立憲君主の在り様を学び、積極的な青年君主として歩み始めるが、満州某重大事件の処理で、天皇が田中内閣の生ぬるい対応に業を煮やして叱責して退陣に追い込み、直後に急逝したことが天皇に立憲君主としての行き過ぎを自覚させ、その行動を縛るようになる。その後天皇が強く自らの意思を表明したのは、二・二六や太平洋線末期の判断など極僅かに限られる

大日本帝国の拡大原理は安全保障にあり、それが権益の拡大という経済目的と結びついたことで、無限の膨張を引き起こしていく。統合の象徴となった天皇は、次第に明治憲法体制の権力分立構造に抱合されていった。天皇親政という建前と、天皇不親政という実態が、立憲君主制の定着と拡大の中で機能不全に陥り、主権者でない国民はもとより、フィクションの上で主権者とされた天皇も統御できない国家が生まれていったというのが実態

 

第5章        現代            宮城大蔵

論点1     いつまでが「戦後」なのか

日本では、変化の大きさから第2次大戦後を「現代」とするが、世界の潮流とは別で、欧州では第1次大戦の方が遥かに多くの犠牲者を出しているし、アジア・アフリカ諸国にとっては、第2次大戦後に進行した独立=脱植民地化の動きの方が大きな出来事

日本にとっての戦後は、戦前との比較でいえば、主権者が国民に移ったことと、帝国が解体したことの意味が大きく、安全保障では日米安保条約が圧倒的な存在感を持つ

高度成長と経済大国のアイデンティティによって、一般庶民は一体感を獲得

1956年の『経済白書』では「もはや戦後ではない」の一文があるが、それは今後の成長へ向けた危機感の発露であり、「経済成長との闘い」が新たな国家目標となり、その追求と実現が国民に一体感をもたらした

1965年には、戦後の首相として初めて米軍統治下の沖縄を訪問した佐藤栄作が、「沖縄復帰が実現しない限り戦後は終わらない」と発言したが、復帰後も基地問題は未解決のままだし、その他の領土の回復も未完

1970年代に近代からポスト産業社会へという大きな移行があったとする説もある

「戦後」に終止符を打ち、1つの時代として完結させるには、戦後に続く時代を規定し、特徴付け、そして名前を与える作業が不可欠。それが説得力を持って成し遂げられた時、「戦後はいつまでか」という議論は自ずと終息する

 

論点2     吉田路線は日本に何を残したか

戦後日本には、本格的な国家戦略がなかったと言われることがあるが、その大きな理由は、国家戦略の中で最重要な軍事・安全保障の主舞台から退いたことにある

戦後日本の国家戦略の筆頭に挙げられるのが吉田路線 ⇒ 「吉田路線」とは1980年頃に定着した用語で、「アメリカとの同盟関係を安全保障の基本とし、防衛費を抑え、経済成長に充てて通商国家としての発展を目指す」というもの。「軽武装・経済重視」路線を吉田の政治的リアリズムとして高く評価している

サンフランシスコ講和からアジアが欠落 ⇒ 米英の確執や思惑からアジア諸国が欠落したことが大きな影響を残した。対日無賠償も講和会議に参加した最大の被害国の1つフィリピンの強い主張により、日本軍に占領された国は、日本の経済再建の負担にならない範囲での賠償を請求できるとされた。日本国内では戦争相手は欧米の宗主国であってアジア諸国に賠償すること自体がおかしいという議論が根強く、それを抑えるために政府は、賠償は日本企業再進出のための投資だと強調したことも、戦争に対する償いであるという意識をさらに薄めた。金額や支配方法によって賠償が軽減されたことが戦後日本の早期復興を可能にしたが、アジア被害国の「赦し」によるものではなく、冷戦下で日本再建を重視した米英主導のものだった。この「ねじれ」が冷戦後に歴史認識問題が浮上する素地を作った面もある

安保と経済成長のリンクが切れた時が吉田路線の終わりだったのかもしれない

現在の重要な論点は、「吉田路線の次に日本はどのような路線を選ぶべきか」であり、「経済大国」に代わる日本のアイデンティティが求められる

 

論点3     田中角栄は名宰相なのか

本書では、戦後を「庶民の時代」と特徴付けたが、庶民が角栄を自分たちの時代の象徴だと見たのは自然。一般庶民としての成功物語に加えて、「対米自主」の潜在的な願望を社会意識の底流に植え付ける

田中の事績を考察すると、外交面では日中国交正常化と対米関係に絡むロッキード事件が重要であり、内政面では列島改造計画が上げられる ⇒ 日中国交正常化は、親台派に対抗して政権奪取を狙った角栄が妥協した産物であり、ロッキード事件も本質は国産開発が進められていたP3C対潜哨戒機の米国からの大量購入切り替えの目くらましだとの見立てがある。内政面でも、狂乱物価を招き、金権腐敗の温床を作り、「頼るべきセーフティネットがないままに失業や貧困に陥る人が増大する」状況を現出している

角栄は戦後日本の象徴であり、それと同時に、21世紀を歩む現代日本の姿と歪みを「戦後」という観点から照射する存在

 

論点4     戦後日本はなぜ高度成長できたのか

1946年外務省調査局の調査報告で描かれた戦後復興の姿では、「総合的具体的な再建年次計画の樹立」が叫ばれ、計画経済、統制経済志向が見て取れる

占領期の改革で注目されるのは、独占禁止法の制定、農地改革、労働組合法がある

占領改革と総力戦体制は、政治面での対照的な色彩とは異なり、経済面では連続性が色濃い

さらに高度成長の要因としては、国際環境も重要で、日本は自由貿易体制の最大の受益者だったし、主要エネルギー源が豊富に提供されたことも追い風

人口ボーナスも急速な経済成長の基盤となる

欧米を念頭に置いた後進性と特殊性の呪縛から、肯定的な「日本モデル」へ。そしてその衰退と、経済を中心とした日本モデルの国際的評価の変遷は、そのまか日本の自画像の投影

 

論点5     象徴天皇制はなぜ続いているのか

「象徴天皇制」の内実を満たし、安定したものとする試みと模索が、そのまま戦後の天皇・皇室の歩みであった

美智子妃との結婚が、この時代の主役となった庶民と象徴天皇制との絆を結び直す意味を持った

平成になっても、天皇・皇后の宮中祭司に対する熱意は瞠目すべきものがあり、新憲法下の象徴として国民の幸福を祈る行為に、皇居で密やかに営まれる祭祀が深みをもたらす。その微妙なバランスが、天皇制の現在だということだろうか

今日、象徴天皇制の将来を左右する最大の要素は皇位継承の不安定化

どのような形の皇位継承と皇室の範囲が現代日本の「象徴」として相応しいのか、「国民の総意」を形成する作業こそが必要

 

 

 

 

 

 

教科書とは異なる日本史 磯田道史

最先端の知見をアップデート

半歩遅れの読書術 202126日 日本経済新聞

親族の医師に言われたことがある。「歴史などはあまり学説が変わらないでしょう」。そんなことはない。医学ほどではないものの、歴史学は文系の学問のなかでは学説が激しく変化する学問である。最新の歴史像は昔の教科書とは全く違う。ここで紹介したいのは、日本史研究の最先端を知る概説書『日本史の論点』(中公新書)である。

例えば古代史。邪馬台国の所在地論争はもう古い。いまや研究者は邪馬台国を北部九州から近畿にひろがるクニの広域連合とみている。その重要拠点は二つ。奈良県の纏向(まきむく)遺跡と福岡県糸島市の「伊都国」の遺跡である。つまり九州も近畿も邪馬台国なのだ。当時の日本には製鉄技術がない。鉄の延べ棒を朝鮮半島から北部九州経由で輸入。加熱変形させ鉄器を作って生産のもととした。だから、この国のかたちは北部九州を含む広域連合である必要があった。

大化の改新も一昔前は「なかった」とされた。今は「改新の詔」の基はあったとする説が主流。王より大臣が権力をふるう高句麗モデルを否定。女王(象徴)を立て有力王族(世襲血縁)が出自の低い謀臣(実務担当)を使う新羅モデルが選択されたとの説もある。日本の組織原理の流れを考える上で興味深い。

元寇のイメージも変わっている。神風で日本が救われたとの説は既に否定されている。鎌倉武士が善戦。防備は固かった。台風なしでも元軍は撤退に追い込まれただろう。最近の歴史学はそうみている。江戸の「鎖国」の内実も次第に明らかになってきた。

江戸人は我々の想像以上に国際知識があり、イソップ物語の読者もいた。キリスト教の内容も知識人はかなり知っていた。キリスト教を邪教として批判する破邪書があり、私が読んだ史料ではノアの箱舟の話も載っていた。江戸人は教育熱心。勘定方など技術職なら農民でも人材を能力主義で登用していた。だから、維新以後、子どもを熱心に学校に通わせた。成績さえ良ければ身分によらず官僚にも軍人にもなれ大臣にも大将にも出世できる。学校で人材を選抜し、富国強兵を成し遂げる。そうした明治国家の下準備は、実は江戸時代が行っていた。江戸と明治の断絶面でなく連続面に着目する研究が増えている。

歴史像は常にアップ・デートされている。昔の歴史教科書の常識は今の非常識。そうなった項目もある。以前の思い込みで日本史を見ないようにしたい。

(歴史家)

 

 

 

 

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