心の夜想曲  遠藤周作  2021.3.6.

 

2021.3.6. 心の夜想曲(ノクターン)

 

著者 遠藤周作 1953年東京生まれ。満州大連、神戸で幼少期を送り、11歳の時カトリックの洗礼を受ける。慶應大文在学中より文学活動を始め、フランス留学後の1955年『白い人』で第33回芥川賞受賞。以後、日本人の「罪の意識」を問う、カトリック作家としての著作を数多く世に出すほか、多方面でユニークな活動を続けている

 

発行日           1986.2.15. 第1            1986.4.20. 第3

発行所          文藝春秋

 

初出

「自分づくり」 『東京新聞』(1985.2.5.9.10.毎週火曜日連載)

「あの人、あの頃」 『遠藤周作文学全集』(1975年新潮社刊)付録月報に連載

「感想」 『文學界』(19705月号~19853月号)

 

 

「自分づくり」

l  無駄なものはなかった ⇒ 「自分づくり」の題は、「私の教育論」に代わる題名

モウリヤックの晩年の自伝的な作品の中に自らの人生を回顧して、「無駄にしてはいけないものは、僕の経験した苦しみ、僕が他人与えた苦しみだ」と書いているが、自分の人生を振り返って僕にとって何一つとして無駄なものはなかったような気がする

小説家は作中人物を生むために、たえず自分の過去の体験や心理を牛のように反芻しているものだ、というのは、私が小説家として学んだことの一つ

l  「二分法」を捨てたい

キリスト教の洗礼を受けたせいもあって、正と不正、善と悪を明確に区別してきたが、仏教でいう「善悪不二」こそ言い得て妙

罪の中にもその人の再生の欲望が潜んでいることに気付いた

l  「否定」ではなく「転化」

プラスの中にはマイナスがあり、マイナスの中にもプラスがある

一方的に「否定」するのではなく、プラスを見つけて「転化」すればいい

l  小説から学んだこと

私は若いころから仏蘭西の現代基督教文学を愛読してきたが、彼等の人間観察の特徴は作中人物の犯した罪を真っ向から否定せず、その心理に理解を示し、挫折や罪の中にむしろ当人の気付いていない再生の密かな願いを見つけようとした

教会や神父が教えてくれなかったことを基督教作家の作品によって学んだのは私の文学の大きな収穫

l  視点を変えれば・・・・

子供の頃私は後熟児だったが、母は「妙な才能がある」と言って慰めてくれた

l  狐狸庵という名から・・・・

長い入院生活のあと郊外に引っ越して家に長寿庵と名付けたが、蕎麦屋と間違えると言われ狐狸庵に変更。三島由紀夫からは年寄りじみていると怒られたが、生き方は「楽に」

その名のお陰で多くのバラエティに富んだ付き合いができたし、自分の中のチャンネルが1つだけでないことに気付いた

l  「外づら」と「内づら」

小西行長伝を書きながら、資料はすべて他人が見た彼の姿で、本当の行長の素顔がわからないまま、当人の全てを伝えることは出来ないと感じた

どんな人間にも外づら(社会に見せている顔)とは別に他人の知らぬ別の面があるはず

当人すら把握できないが、誰もが心の奥には他人の知らぬ顔を隠していることだけは確か

心の中には無意識の層があって、そこには幼年期やその後の社会生活で抑圧された欲望が集積しているとフロイト派は言う。その無意識には人類が長い世紀にわたって遺伝的に持ち続けた共通した元型(アルケティブ)が隠れているとユング派は言う。唯識論の大乗仏教はこの無意識をアラヤ識と呼びそこには我々の意識を支配する潜在力が凄まじく活動していると教える

この無意識領域を私は内づらと呼び、「内づら」の私を戯れに狐狸庵と呼ぶようになった

l  ある思い出の光景

小説の取材でハンセン氏病の病院を訪ね、そこに長年働く修道女に案内された際、患者を紹介してくれたが、いかにも患部を晒す屈辱の表情を無視して自らの奉仕をひけらかすかのような光景に、思わず修道女の無意識の虚栄心を見た気がした

生涯を病人に捧げた修道女の心の中に多少の自己満足や虚栄心が働く瞬間を責めるのではなく、そういう修道女の内面にさえ無意識の虚栄心が働くということに改めて気づく。我々の心の奥底にある無意識がどんな遠隔操作を意識にするかがよく分かったし、どんなに外づらを装おうと、内づらが顔を出すことを知った。それでいて内づらの出現に一向に気付いてすらいない。自分は正しいことをしているといつも思いこんでいる。その正しい事のために他人が傷ついていても分からない

l  深夜に無言の電話が・・・・

日本の医療者たちは病む者が肉体だけでなく心にも傷を負っていることを理屈ではわかっているが実際にはそれに対して無頓着な場合が多い。無意味な屈辱や不必要な痛みを治療や保険制度や今までの習慣で患者に与えているのが実状なので、そうした点の改善を謳ったキャンペーンを行い賛同者も得たが、それは「メシア・コンプレックス」によるもの

メシア・コンプレックスとは、かつて劣等者にあった者が、その立場を克服した時、逆に自分の優越感を劣等者に見せる心理

l  Xの構造

人間というものは自分を知っているつもりで、実は知っていないものだ

狐狸庵という戯れの雅号を自分の精神衛生に利用した。その名を自分に与えることで、ずいぶん楽になった

自分の中に潜む、不気味に黙っているもう1人の私Xにはある不気味さや暗さがあるが、回避するわけにはいかない存在。自分でわかっているつもりの自分と、自分でも掴めない自分。自分で意識している自分と、自分でもわけのわからぬ自分

自分の中の2つの自分のことを考える時、山本健吉が『正宗白鳥』の中で、白鳥が息を引き取る寸前「アーメン」と呟いたことについて、60年も前にキリスト教を「棄教」した白鳥がそれでもなおキリスト教徒だったかどうかということ以前に「心の中のより深層の問題」だと論じたり、吉行淳之介が、「うっかりして言った言葉だから本音なのだ」と言ったことを思い出す。2つの自分は何れも自分であって、区別をつけることはできない

サマセット・モームが『雨』の中で、雨に閉じ込められた宿で娼婦を導こうとして屈した牧師の心を描いているが、別々の違った心を持った牧師のいずれもが本物だと思う

キリスト教の作家たちもこの「自分でも掴めぬ」心の奥底に注目をして、無意識とは我々が日常、抑圧して表面には出さない心理から出来上がっていると考えた

抑圧したものが罪を生み出し、罪を作るという手法は、彼らの作品に多く見られる

同時に、罪を救うものはまたこの無意識の領域に働くのではないかとも考えた。罪を犯しながらも再生への欲望が垣間見える

l  小林秀雄氏と無意識

小林秀雄も亡くなる直前『文學界』に『正宗白鳥の死について』と題する連載を書いている。白鳥についてはほとんど触れずに、岡倉天心や内村鑑三を語りトルストイの死を述べ、フロイトやユングに話が及んでそのまま入院しているが、それを読むと山本健吉の考えと同じように小林もまた、人間の奥底にあるもの、単なる抑圧心理ではなく、もっとその奥にあるもの、基督教が魂と呼ぶものに辿り着いたのだと思う

l  ある小説から

私の文学に大きな影響を与えた1人にフランソワ・モウリヤックという基督教作家がいるが、その『テレーズ・デスケルウ』は、それまで人間の心を明晰に説明できると信じていた作者が、明晰に説明できない混沌とした無意識を扱った小説。敬虔な夫と理想的と思われる結婚をした女が、心臓病のための劇薬を飲み続ける夫に対し、衝動的に一度だけ毒を飲ませて回復したら一生忠実な妻になろうと決心、実行したが発覚、カトリックゆえに離婚も出来ず別居となり、彼女の孤独な生活が始まるという筋書き

興味を持ったのは、毒を飲ませるという罪を、基督教ではどう考えるのかという点で、罪と救いとは実は表裏一体であることを教えられた

愛欲と信仰も心理的には同一。愛欲における相手の全てを所有したいという欲望や執着は、神と完全に合致したいという信仰者の熱望と似ている

こうした作者の意図は篤信の信者の顰蹙を買い、彼の故郷のボルドーでは彼の芝居は上演されなかったという

l  「置きかえ」の手法について

グレアム・グリーンの『情事の終わり』も、罪と救いが背中合わせになっていることを明示している。大戦中に凡庸な官吏の夫を軽蔑しながら小説家と情事を重ねている最中、ロケット弾に見舞われ生死が不明になった際、女は相手の命さえ救ってくれれば彼と別れると神に祈る。気絶していただけの男は蘇生するが、女の変心を知って嫉妬。女は孤独のまま死んでいく。女の罪はまさに救いと背中合わせなのだ

罪でさえも救いに置きかえられる、というのは現代基督教小説家の常套手段

l  心の琴線

黒澤の《乱》は失敗作。脚本のまずさにあり、心の奥の琴線に触れるものが感じられない

基督教文学者たちは、無意識とは抑圧した欲望や感情が溜まった心の場所で、いつか歪んだ形で噴出し、罪に変わるという考え方をするが、ユングは無意識をいくつもの層に分け、抑圧の溜り場所であると同時に、人間の活力のエネルギー、共通思考の場所、芸術や美やイメージを創造する領域があるともいう

ユングは、肉体に遺伝子があるように、心にも祖先からもらった遺伝子があると語り、その遺伝子は民族や人種を超越した人類共通のものだという

人間の無意識の中には遠い祖先から受け継いだ遺伝子ともいうべき元型(アルケティブ)があり、その元型から触発されて互いに相似たイメージが生まれると考える

個人的な無意識のほかに人間全体が共有する全体無意識があり、その中には何万年にわたる人間の心の歴史、同じような心的体験が働いている

心の元型とは、先祖たちの無数の類型的な経験が集まって要約されたもので、人間の心に深く刻みつけられた川床のようなもの。それが外見に多種多様な表現をとって現れる

わたしは亡母に対する愛着が強いが、多くの日本人の男性に共通した心理でもあるようだが、ユングによれば、「母なるもの」の元型はどんな民族にも人種の心にも存在している

1つの優れた作品が洋の東西を問わず、時代の差に関わらず、それを読む者に個人的な感動とともに、共通した感動を与えるのは、すべての読者の心に隠れている元型を作品が刺激するからではないか。「心の琴線」とは心にある元型だといってよい

l  心の遺伝子

古代より、生活や人生の底には神と交流する「元型」があり、人々は長い間この元型を尊重し、日常生活の中で「再生」させて生きてきた

小説家は素材となる事実を変容させて物語を描くが、勝手気ままに思い付きで面白おかしく変容してはならない。人々が長く賞賛する物語は、その本質において「神話のカテゴリー」を持っていなければならない。言い換えれば元型をその底に核として含んでいなければならない。たとえ事実でなくても、人間の心の底にある無意識元型、あるいは生活の軸となる元型を刺激するからこそ、長い間人々に読み継がれていく

l  ズボラ男の話

無意識の中には人間の遺伝子ともいうべき元型が先天的に潜んでいて、その元型を感じていれば自分がどのような道を進もうとしているのがわかる

イエスにも13人目のズボラな弟子がいてもいい

l  大きな生命

宇宙はそれ自身大きな生命であり、地球もそれ自体、生命体であり生物なので、地球は決してそこに生命が生息する惑星ではない

若い時代は肉体の季節であり、若者たちはその肉体で世界を感じ、世界を掴もうとする

中年、壮年の時代は心の季節で、心によって世界を感じ、世界を掴もうとする

老年は霊の季節で、この世界から離れて大いなる生命に戻っていくための前段階なので、自分を包み、自分を超えた大いなる生命に敏感になる

無意識に潜む元型を噛み締めていると、何か大いなるものを求めているような気がしてならない

l  基督教と私の食い違い

基督教でいうすべてを2つに分ける「二分法」には馴染めないし、人間観察には役立たない

l  三分法の眼

現代基督教文学によって三分法を教えられ救われた。罪の中にも善きものへの欲求を見つけ、善の中にも罪の可能性が含まれていることを発見

l  子宮での体験

赤ん坊にとって出生とは、水の中の呼吸から空気の呼吸という異次元の世界へ放り出されることであり、フロイトはこの追放体験によって我々の中に死の本能(タナトス)が潜むという

子供の頃トンボの羽をむしって遊んだのも、無意識から噴出した衝動からくる快感があったからで、「いじめっ子」の根本にも同じ快感衝動が潜んでいる

l  人間の探求

人間の心の内奥には何があるのか。全ての人間を包み込む大きな生命の存在を予感させる

 

「あの人、あの頃」

l  吉満先生のこと

学生時代に影響や刺激を受けたのが哲学者の吉満義彦先生

基督教学生寮にいた時の舎監で、私が哲学より文学に向いていると言って堀辰雄氏や亀井勝一郎氏に紹介状を書いてくれた

l  神父たち

洗礼を受けたのは夙川のカトリック教会

l  佐藤朔先生

終戦翌年、佐藤先生の講義が聞きたくて三田の仏文科に進む。著書『フランス文学の潮流』に惹かれたためだったが、病気療養で休講だったため自宅に伺い、現代基督教文学を紹介され、個人教授を受ける

l  丸岡明氏のこと

『三田文学』の編集者で作家。大学3年で佐藤先生から『三田文学』に原稿をもっていってやろうと言われ短いエッセイを書き、掲載が決まった合評会で初めて出会う

能楽書林の所有者で、『三田文学』の編集を手伝っていた原民喜共々、丸岡氏に誘われて酒を覚えるようになった

l  神西清先生のこと

角川書店で『四季』の編集を堀辰雄と一緒にやっていたが、新人募集に応じて初めて書いたエッセイが掲載となり、さらに大きなものを書けと言ってくれた

l  梅崎春生氏のこと

世代や年齢の隔たりを超えて最も「うまの合う」気質を見出していた

戦後派作家に属し、気質的にも虚無主義者

彼にとって私は自分より何もできない男として自尊心を満足させる対象だった

l  亀井先生のこと

初めて会ったのは学生寮時代に友人に連れられて亀井家を訪問した時

仏蘭西留学から帰って書いた『カトリック作家の問題』を読んで、面白かったので会いたいとの連絡をもらう。以後度々顔を合わせるようになる

学生時代マルキストから転向して文学を選んだが、文学と求道、美と求道との何れをも選択できず、内村鑑三のように求道のために文学を捨てるという強い性格も持てなかった「弱さ」に苦しんだに違いない

l  病院で会った人たち

l  久世先生のこと、クロのこと

大連の小学校で出会った3年の担任の先生が久世宗一先生、飼っていた満州犬がクロ

 

「感想」

l  弱虫と強者とについて(初出 『文學界』705月号)

聖書の遺跡についての本は多いが、キリストの足跡に関して確実にここがこれだというものは1つもない

遺跡のみならず聖書そのものに描かれた基督の言葉や行為の全てが必ずしも事実通りではなく、伝承と基督語録という原本を参考にして書かれたものであることは万人が認める

聖書が私を惹きつける原因は、そこに私が考えている、あるいは考えたい問題が必ず見つけられるからで、『沈黙』を書いて以来、弱者と強者との問題について考えこむようになった時も、この問題について刺激を与えてくれるのは聖書だった

聖書を、キリストを主人公としてではなく、12人の弟子を主役として読むと、基督が死ぬまではまるでダメな人間が、やがて死と迫害にも屈せず原始基督教団を結成する強者となる。弱者はどうして強者に変化し得たか、新約聖書のなかにはその謎が含まれている

l  世界史の中の日本史(初出 『文學界』781月号)

16世紀終わり~17世紀初め、日本人青年たちの冒険的生涯を調べていると、彼等がこの時代の世界のリズムと無縁だったとは思えない。ヨーロッパの冒険家たちが新しい世界を求めて太平洋を西へと向かったあの精神が、同じ時代の日本人の青年にも澎湃として起きたことは、日本が世界の波動の中で決して孤立していなかったことを示している

l  直木賞受賞前の錬さん(初出 『文學界』789月号)

柴田錬三郎は読売新聞のジャーナリストとして抜群の才能があった

中国文学専攻なのに、孤高で反俗的反近代主義的なフランスの文学者リラダンに共鳴

食べるために何でも仕事を引き受けて書いていて、私が仏蘭西留学中に直木賞作家になっていてもなお鬱々としているように見えたが、やがて『週刊新潮』の依頼で時代劇を連載することが決まった時の生き生きとして表情が忘れられない。その時初めて自分の才能を存分に生かす仕事にぶつかったようだ

l  外国人を書く(初出 『文學界』821月号)

外国で生活しても外国人を知ることがどんなに難しいかを身をもって教えてくれた

我々はこの頃、あまりに外国や外国人が「わかり過ぎる」ようだ。あまり早計に「わかり過ぎる」ことに突然何ともいえぬ不安を感じる

l  意識の奥の部屋(追悼 小林秀雄)  (初出 『文學界』835月号)

大した面識もなく、勉強もしていないのに『新潮』と『文學界』に追悼文を書いた

数年前(83年基準)追分に近い山小屋に山本健吉が立ち寄った際、「小林秀雄に死支度をそろそろしろと言われそのことを考えている」と言ったが、文学をやる者はある年齢に達したら死支度の作品を書かねばならぬということのようで苦しそうな表情で語った顔が忘れられない

小林秀雄が『正宗白鳥の作について』を『文學界』に連載し始めたのは81年で、6回続いたが、それが絶筆になろうとはつゆ考えなかったが、死支度の作品の方向を空想することは出来た。改めて読み返し疑問に思ったのは、なぜ小林が死支度のために正宗白鳥に拘ったのかということ。白鳥に言及したのは2回だけ、フロイトや内村、ユングの思想を踏み台にして白鳥の何を語りたかったのかを考えると、連載のテーマは、白鳥が信仰を放棄したまま息を引き取ったのか、それとも再び何かを信じて死んだかという論争にあることがわかる。フロイトやユングに言及したのは、「意識の奥に隠された部屋」を語るためであり、白鳥の心の奥の部屋から出た死の言葉に集中するためだった。人間を超えたもの、人間を含み、人間を止揚させる「誰にも測りがたい、誰も逃げられない力」に氏が深い気持ちを持ち、その力と天が言わしむるかすかな声を聞こうとしていたことが遺稿から感じ取れる

l  元型(アルケティブ)について(初出 『文學界』837月号)

大江健三郎は、文学が読者の共感を引き起こすためには、それが人間の心にある共通した元型に触れねばならぬと指摘(『波』836月号)したが同感

元型とは、人間の内面の底に隠れていて人間の心の方向を決め、思念や欲求を作る地盤ともなるものであり、無意識の中に潜む

神が人間にアプリオリに与えられたこれら元型がイメージや物語を絶えず生みながら、それらを通して何か大事なことを語ろうとしているような気がする

l  鮭の産卵(初出 『文學界』8311月号)

20数年前、吉行、庄野、安岡など「第三の新人」と言われていた小説家や批評家たちは、芥川賞などをもらっても気勢が上がらなかった

1つの長編を書くのに精魂込めて書き終わると、あとは脳が空っぽになった感じでもう何も書けるものがないような心理に陥るが、まるで産卵後の鮭のよう

l  卑怯な場所、陋劣の場所(初出 『文學界』853月号)

九州を平定し終えた秀吉が、政治に加担しないという条件で認めた基督教の布教を、宣教師たちが条件に違背して領地や武装した船まで所有していたため切支丹禁教を公布し、宣教師たちの国外追放を要求、家臣の切支丹武将にも棄教を要求。高山右近を除く武将はすぐに要求に屈し、小西行長に至っては最も卑怯に信念を翻し、宣教師逮捕の命にさえ従う

この時の自己嫌悪がその後の行長の人生を決める。心が疼き続け、自分の卑怯さと陋劣さを噛み締め続けた

1人の男の陋劣(卑しく軽蔑すべきであること)の場所を訪ね、聖地巡礼ではユダがイエスを裏切り師を見捨てて逃亡したオリーブ林に座っていると、なぜか憩いに似た、安らぎを覚える。その共感に似たものが自分の創作のエネルギーになっている

 

 

 

 

 

 

 

 

Wikipedia

遠藤 周作(1923大正12年)327 - 1996平成8年)929)は、日本小説家随筆文芸評論戯曲も手がけた。

l  来歴・人物[編集]

父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会洗礼を受けた。1941上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。

その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。

無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。

『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。

狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としていた。

生涯[編集]

l  出自[編集]

1923327日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三銀行に勤めていた銀行員遠藤常久東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の、その2年後に次男の周作が誕生した。

かつて鳥取県東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)にあった遠藤家は、江戸時代鳥取池田家に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。明治後期から終戦後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、花見村長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた[2] 父・常久は後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。

母・郁は現在の岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。

l  幼少時代[編集]

1926年、常久の転勤(第三銀行から安田銀行)で、一家は満洲関東州大連に移る。1929年に遠藤は大連市大広場小学校に入学。この頃、郁が指先を血まみれにしながらヴァイオリンを練習する姿や満人のお手伝いさんに優しくする姿を見て敬意を抱く一方、常久からは勉強がよく出来る正介と比較して説教されることが多く、強烈な劣等生意識を抱いた。小学校4年のときに、作文「どじょう」が大連新聞に載る。1932年前後に常久に愛人が出来てから両親の仲が微妙になりはじめ、遠藤は暗い少年時代を送った。翌1933年、遠藤が10歳のときに両親は離婚した。ただし、正式な協議離婚届を提出したのは1937年で、その直後に常久は郁を常久の父・遠藤河津三の養女として迎え入れている。その数ヵ月後に常久は16歳下の女性と再婚した。

遠藤は郁に連れられて帰国し、伯母(郁の姉)の家で同居生活を始めた。同年8月に兵庫県神戸市六甲小学校に転入。この頃から伯母の影響で西宮市にあるカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂に一家で通い始めるようになった。カトリックの公教要理を学び始めるようになると、一家は教会に近い池の畔に転居した。

1935年、遠藤は私立灘中学校に入学。宝塚市にある小林聖心女子学院で音楽教師として勤め始めた郁がそこの大聖堂で529日に洗礼を受け、623日には兄弟そろってカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受けた。郁の洗礼名はマリア、周作の洗礼名はパウロ。

正介の勉強指導の成果もあり、灘中入学当初は優秀生徒のクラスに入ったが、映画狂・読書狂・ジョーク好きなど様々な要因により、徐々に成績が低下、卒業前には成績最下位のクラスに在籍していた。江戸時代の滑稽本を好み、特に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた。

1939年に一家は西宮市仁川に転居した。この時すでに、正介は四修で第一高等学校に合格し、寮生活を始めている。この頃、郁は宗教的・精神的支柱になったドイツ人宣教師ペトロ・ヘルツォークと出会い、新居に併設した音楽レッスン場を聖書講話やミサの場として開放するようになる。

l  学生時代(1939 - 1949年)[編集]

遠藤は1939年に正介の影響もあり、四修で三高[3][要ページ番号]を受験するが敢えなく失敗している。1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。この為、阿川弘之等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい[要出典]。遠藤は同年に183名中141番の成績で灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。なお、同年、正介が一高を卒業し東京帝国大学法学部に入学。正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。

1941年に再び広島高などを受験して失敗。同年4月に上智大学予科甲類(独語)に入学するが、翌194229日に退学している[ 1]。同年、浪速高姫路高甲南高を受け、全て失敗している。この頃に肺を病み、喀血している。

遠藤は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝大を卒業し逓信省へ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。常久が出した同居の条件は「旧制高校医学部予科のどちらか」に入学することだった。しかし、遠藤は東京外国語学校日本医科大学予科、東京慈恵会医科大学予科、日本大医学部予科に不合格となり、慶應義塾大学医学部予科には自信がなかったため、常久に告げず同大の文学部予科を受験、補欠合格。翌19434月に慶應義塾大学文学部予科に入学する。医学部予科を受験したものと思っていた常久は真相を知らされ激怒、遠藤を勘当した。

生活基盤を失った遠藤は、友人の利光松男宅に居候し、家庭教師などのアルバイトで生活費を稼ぐことになった。まもなく、吉満義彦が舎監を務めるカトリックの学生寮白鳩寮に入寮した。学生寮での生活は、遠藤にとって初めての開けた世界だった。吉満の影響でジャック・マリタン英語版)、寮内で出来た友人松井慶訓の影響でリルケなどを読み耽った。また、吉満の紹介で、亀井勝一郎堀辰雄などと知り合うことになった。堀辰雄との出会いは、ひとつの転機となり、自他ともに認める劣等生だった遠藤は猛烈な勢いで読書を始め、一夜にして勉強家と化した。

第二次世界大の日本の戦局の悪化に伴い、徐々に予科での授業は少なくなり、その期間、川崎勤労動員の工場などで働くことを余儀なくされた。寮内での影響を多大に受けたフランス志向にさらに拍車を掛けたのが、下北沢で偶然購入した佐藤朔の『フランス文学素描』で、19454月に、慶應義塾大学文学部仏文科(佐藤朔が講師を務めていた)に進学した。この頃、戦局の悪化は日本国内にも大きな被害を与えるようになっていた。後の大作家・遠藤周作を生み出す土台となった白鳩寮は東京大空襲で焼失した。なお、遠藤は徴兵検査では第一乙種だったが、肋膜炎などで入隊期間が大幅にずれ、入隊直前に終戦を迎えた。

終戦後は大学に戻り、ジョルジュ・ベルナノスフランソワ・モーリアックなどのフランスのカトリック文学に傾倒した。大学の一年先輩の安岡章太郎との知遇も得た。1946年になり、遠藤が慶應義塾大学文学部仏文科に入学したのを知った常久は、態度を軟化させ勘当を撤回した。学生寮から焼け出されて再び生活基盤を失っていた遠藤は、この誘いを受けて常久の家に戻った。

194712月、初めて書いた評論「神々と神と」が神西清に認められて、角川書店の『四季』第5号に掲載され、批評家としてデビューした。その後、佐藤朔の推挙で評論「カトリック作家の問題」を『三田文学』上で発表したのをきっかけに、佐藤朔の推挙で『三田文学』、神西清の推挙で『高原』などで評論を多数発表している。1948年末もしくは1949年初頭には正式に『三田文学』同人となり、柴田錬三郎原民喜丸岡明山本健吉堀田善衛との知遇を得ている。

1948年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。卒業論文は「ネオ・トミズムにおける詩論」。松竹大船撮影所の助監督試験を受けたが、敢えなく不採用に終わっている[ 2]。その後、佐藤朔の紹介で鎌倉文庫の嘱託として働き始め、また、ペトロ・ヘルツォーク神父が主催する雑誌『カトリック・ダイジェスト』の編集作業に、正介・郁(小林聖心女子学院を依願退職して上京した)とともに携わっている。同年、評論活動とこれらの仕事の合間に、小林聖心女子学院のシスターから依頼を受けて、初の戯曲「サウロ」を書き上げている。

l  留学時代(1950 - 1953年)[編集]

195064日、遠藤はフランスのカトリック文学をさらに学ぶため、戦後初のフランスへの留学生として渡欧した。フランス船マルセイエーズ号英語版)で横浜港を出航し、75日にマルセイユに着く。新学期までルーアンの建築家ロビンヌ家に滞在し、9月にリヨン大学に入学した。

留学時代には勉強の合間に通常の評論活動に加え、フランスでの見聞などをエッセイや小説風のルポルタージュにまとめた。それらは大久保房男の厚意で『群像』、そして『カトリック・ダイジェスト』誌などで発表された。

1951年夏にはフランソワ・モーリアックの『テレーズ・デスケルゥフランス語版)』の舞台になったフランス南西部ランド地方を徒歩旅行するなどし、フランスでの生活を満喫したが、翌1952年初夏に肺結核を起こし、吐血。6月から8月までコンブルー英語版))の国際学生療養所に入所する。退所後にパリに移ったものの12月に再び肺結核が悪化し、ジュルダン病院に入院した。病状の悪化でフランスでの生活に見きりをつけ、リヨン大学の博士論文の作成を断念する。翌19531月に、日本船赤城丸で帰国の途に着いた。翌月に日本着。

帰国後、遠藤は企業家岡田幸三郎の長女、慶應義塾大学文学部仏文科に在籍していた岡田順子と交際を始めた。体調は相変わらず優れなかったが、7月に留学時代のエッセイをまとめた『フランスの大学生』を早川書房から処女出版し、批評家の道をゆっくりながら踏み出した。12月に敬愛する母が脳溢血で急死する悲劇に見舞われた。

駆け出し作家時代(1954 - 1962年)[編集]

19544月から文化学院の講師を務めた。安岡章太郎の紹介で、谷田昌平とともに構想の会に参加し、小島信夫近藤啓太郎庄野潤三進藤純孝三浦朱門吉行淳之介らとの知遇を得た。

遠藤はこの年から、本格的に作家として活動を始める。奥野健男の依頼で現代評論に創刊号から参加するなど駆け出しとしては上々と思われた。

1954年末に執筆した、初の小説「アデンまで」は仲間内で高い評価を受けた。続いて執筆した小説「白い人」は、翌19557月に、一足飛びに第33芥川賞を受賞した。同年9月、岡田順子と2年半の交際を実らせ、結婚した。交際当初、岡田の父岡田幸三郎は「文士風情」「肺に病気を抱えている」などの理由でこれを認めなかったが、遠藤周作の文章を早い時期から評価し、なおかつ、岡田家とも繋がりがあったフランス文学者小林正が説得に当たったという。結婚後は、一時期父の家に順子夫人が家入りする形で同居したが、まもなく世田谷松原に転居した。19566月、長男の龍之介が誕生しささやかにも家庭を築き始めると、遠藤の父に対する敵意は本格的な物になっていった。芥川賞を受賞し、作家としては順風満帆な駆け出しかと思えたが、当時の生活は決して楽なものではなかったという。1956年から上智大文学部の講師を務めた。

1957年、九州大学生体解剖事件(相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」(文学界、6810月)を発表し、小説家としての地位を確立した[ 3]。『海と毒薬』は、翌19584月に文藝春秋新社から出版され、12月に第5新潮社文学賞、第12毎日出版文化賞を受賞した。

9月末にアジア・アフリカ作家会議に出席するため、伊藤整加藤周一野間宏らとともに渡ソ。10月にソ連タシケントでの会議に参加した後、モスクワを廻り、12月に帰国した。同1958年、第六次三田文学に編集委員として参加。他の委員は堀田善衛梅田晴夫安岡章太郎白井浩司柴田錬三郎庄司総一[4]

195911月には、マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。遠藤はこの時に、マルキ・ド・サドの研究家、ジルベール・レリーフランス語版))、ピエール・クロソウスキーとの知遇を得た。その後、イギリススペインイタリアギリシャからエルサレムを廻り、翌19601月に帰国した。

帰国後に体調を崩し、4月に肺結核が再発した。東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(17日、121日前後、12月末)。危険度が高い3度目の手術の前日、とある見舞い客が持ってきた紙で出来た踏絵を見たという。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。翌19625月にようやく退院することになった。

l  1963年以降[編集]

1966年には代表作『沈黙』を発表している。同作で第二回谷崎潤一郎賞を受賞する。同年に第七次三田文学で編集長となる[4]

1973年『死海のほとり』発表。

1973年、評伝『イエスの生涯』発表。

1978年、評伝『キリストの誕生』を発表する。第三十回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞する。

1979年、『マリー・アントワネットの生涯』発表。

1980年、『侍』で第三十三回野間文芸賞を受賞する。

1980年代から「武功夜話」をベースにした小説『反逆』を読売新聞に連載(1988126 - 198927日)、同じく小説『決戦の時』を山陽新聞などに連載(1989730 - 1990531日)、同じく小説『男の一生』を日本経済新聞に連載した(199091 - 1991913日)。この3作品は遠藤周作の戦国三部作と呼ばれる。(ベースになった「武功夜話」は、19599月愛知県江南市の吉田家の土蔵から偶然発見されたと言われている21巻その他付録からなる文書群だが、古文書ではなく近世になって創作されたものだ、との疑いもあり論争中である)。

1993年『深い河』発表。この小説は冒頭から「シンクロニシティ」を扱っている。なお「シンクロニシティ」については、19928月「朝日新聞」に連載していた随筆「万華鏡」の「人生の偶然」において、FD・ピート英語版)の『シンクロニシティ』を絶賛し、それにより同書がベストセラーに躍り出るという事が起きている(「シンクロニシティ」を良い意味で取り上げることはカトリック作家としては異例の事態であったが、遠藤によるオカルトへの好意的言及はエッセイやホラー小説の分野では古くから行われている)。

19935月に腹膜透析の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分とヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。

1995年『深い河』を原作として、インドの母なる大河ガンジス(ガンガー)を舞台に、愛と悪と魂の救済がテーマとする映画が公開される。撮影にあたりインド政府の協力により、日本映画初のインドでの長期ロケーションが実現している。

19964月、腎臓病治療のため慶應義塾大学病院に入院[5]、同年9月に脳出血[1]。同月28日には昼食を喉に詰まらせ、肺に誤嚥し呼吸停止に陥った。それはすぐに取り除かれたが、そこから病原菌が広がり、肺炎を併発した。それは肺を片方しか持たない人間には致命的な事態だった。翌929日午後636分、肺炎による呼吸不全で同病院で死去した。73歳だった[1]

絶筆は三田文学1996年夏季号に掲載された佐藤朔の追悼文(口述)だった。ヨブ記の評論を書く希望は遂に叶えられなかった。

l  死後(1996 - [編集]

スポーツ新聞は、遠藤の死を「狐狸庵先生逝く」という見出しで報じた。葬儀は麹町聖イグナチオ教会で行われた。教会は人で溢れ、行列は麹町通りにまで達した。生前の本人の遺志で『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。カトリック府中墓地に埋葬された。201512月に聖イグナチオ教会の地下納骨堂に移された。

その後遺族や親交のあった関係者により文学館の建設構想が進められ、20005月に『沈黙』の舞台となった長崎県西彼杵郡外海町(現・長崎市)に「外海町立遠藤周作文学館」が開館した。

l  作風[編集]

テーマとしてのキリスト教[編集]

キリスト教は遠藤文学の最大のテーマであり、神学者ではなく、神学教育は受けていないにも関わらず、また、必ずしも正統とは言い難い思想もあるにも関わらず、日本のキリスト教分野を代表する人物とされている。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しており、キリスト教関係者の間でもしばしば賛否両論含めた論評の対象になる。

日本人とキリスト教の矛盾

遠藤は家がカトリックであり、旧制中学時代にカトリックの洗礼を受けている。さらに1950年からフランス留学をしている。この留学の時に感じ、そして遠藤の人生最大のテーマとなった葛藤が「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」であった。遠藤は後年、自分の信仰に関する思索を、「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と表現している。このテーマは最期まで貫かれており、晩年の「深い河」へもつながっていく。

キリスト教の持つ救済の力

キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴダを登るキリストであるとしている。罪人として拷問の末汚れにまみれ、自分を磔る十字架を背負い、しかも衆人から激しい罵声を浴びつけられる姿が歴史上もっともみじめな、しかし美しい人間であるとしている。誰にも認められず、汚く惨めな自分をどこまでも無限に傍らにいて見守る人、それがキリストであるとしている。この特徴的なキリスト教解釈は高い評価と共に、異端であるとも見做されることもある。

キリシタン時代

遠藤は戦国時代から江戸時代にかけてのいわゆるキリシタン時代に強い関心を持ち、小説・評伝などの数多くの作品を残している。ジョセフ・キャラ小西行長など、実在の人物を下敷きにした作品も多い。

「沈黙」「侍」などは日本にやってきた宣教師をモチーフに描かれている。宣教師たちが長年の努力でいくらかの信者を集めたにもかかわらず、彼らは社会が変わればあるいは空気が変わるだけで全く簡単に棄教してしまう。このことが何故なのか、キリスト教社会にとっては決定的に理解しがたい日本人像であった。キリスト教の原理を理解し守っていた日本人信者は実は現世や来世で単に幸せになりたいだけであり、キリスト教にとっての神の教えの真の尊さは関係がなかったのである。教義を理解していても真の信仰は無かったのである。

日本人は結局、個人もしくは(これが重要だが)集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人に取りあらゆる哲学や宗教原理よりも強いことが生々しく描かれる。そして信者(実は信仰していないにもかかわらず)や宣教師は日本社会そのものに棄教(『沈黙』)に追い詰められたり、死(『侍』)に追いやられたり、堕落(『黄色い人』)に追いやられてしまう。

遠藤は、キリシタン時代に関心を持つ理由として自らが戦争時代に敵性宗教を信じる者として差別を受けた経験があったからとしている。

海と毒薬』において

現世利益的な日本人像は『海と毒薬』で人体実験をする医師・看護師達として描かれている。これらに関わっている人間は、良心の呵責を感じながらも、誰でもあるような人生の移り変わりのたまたまのタイミングで人体実験への参加を呼びかけられ、強い反発もせずに漫然と関わってしまう。このことも結局キリスト教の様な倫理的性質をもつ行動原理が日本人には存在せず、集団心理で平凡な人格の持ち主たちがなんとなくに非道に転んでしまうことを主張している。

深い河』において

日本人とキリスト教の矛盾に苦しんでいた遠藤は、晩年の作品『深い河』において「日本人のもつべきキリスト教像」「汎世界的なキリスト教像」を提示している。

遠藤は元来から、キリスト教のみを至上の宗教とする、排他的な思想の持ち主ではなかった。西洋のキリスト教が唱えてきた、キリスト教を唯一の正しい宗教であるとする考えとの乖離は、キリスト教信徒である遠藤にとって大きな矛盾となっていたのである。

そんな遠藤にとって衝撃を与えたのは、イギリスの宗教哲学者ジョン・ヒック宗教多元論であった。あらゆる諸宗教を等しく価値あるものとみなすこの思想は、遠藤が苦しんでいた矛盾を解決する光となった。

遠藤が興味を惹かれていたインドを舞台にして、新たなキリスト教像を提示したこの作品は、大きな反響を巻き起こした。熊井啓監督によって映画化され、また、歌手の宇多田ヒカルは、この作品に影響を受け、「Deep River」という楽曲を発表している。

エディプス・コンプレックスと「母なるもの」[編集]

幼少時に抱いたエディプス・コンプレックスは後年まで後を引き、様々な作品に影響を与えた。

母は東京音楽学校ヴァイオリン科にいたこともあり、芸術に対しても自分に対しても厳しい人だった。父とは異なるタイプの厳格さを持ち、子供たち(周作・正介)を叱ることこそしなかったが、ただひとつ「それはリィ英語版)ではない」[6][要ページ番号]という言葉を子供たちにかけた。それは子供心に非常にこたえる言葉だったが、不思議と素直にそれを受け入れる事ができた。子供たちは母を慕った。

父が母を棄てた事をどうしても許せず、死に目に会えなかった母に対する贖罪の意識と、順子夫人と結婚し一児をもうけ家庭を築き、その大事さを実感した事があいまって、別居後は父を激しく敵視・憎悪した。

父との和解をすすめた順子夫人を「両親の揃った家にぬくぬくと育ったお前に、俺の苦しみなんて分かってたまるか」[6][要ページ番号]と斬り捨て[要出典]、兄が急死した時には「俺は孤児になった、孤児になった」[6][要ページ番号]と嘆き、悲しんだ。

1977年、兄が急死した後「母と同じ墓に入りたい」という兄の生前の希望を叶えるため、母の墓を掘り起こし[ 4]、火葬場で遺体を焼いて、お骨にし骨壺に入れた。兄の墓が出来るまでの猶予期間、遠藤周作はその骨壺を預かる事になり、その骨壺を音楽会に持ち込み、「母」と音楽会を楽しんだ。子供の頃に母に連れられていったヤッシャ・ハイフェッツの来日公演の記憶は鮮明に残っていた。実際には喧嘩をする事も多かったが、長い年月をかけて、母の記憶は美化・純化されていた。

父の晩年には、「親父も孤独な奴だということがわかったよ。自分の女房と、息子たちの子供時代の話ができないのは辛いだろうな」[6][要ページ番号]と、その意識を軟化させ、入院中の父を見舞うようになった。しかし、義母(父の再婚相手)に対しては、「親父をおじいちゃんと呼んでもいいけれど、二度目の母のことをおばあちゃんと呼ぶな」[6][要ページ番号]と、順子夫人と息子・龍之介に強制し、義母を「おやじのかみさん」と呼び続けた。

「心あたたかな医療」[編集]

1980年代半ばから始めた「心あたたかな医療」運動は、自らの大病歴から生まれたものでもあったが、それを提唱する直接のきっかけとなったのは「お手伝いさんの死」だった。20代半ばのお手伝いさんが骨髄ガンで亡くなった。医者から1ヶ月の命と宣告され、お手伝いさんが入院した時、遠藤自身も、蓄膿の手術の後で、上顎ガンの疑いがあるということで、検査のため同じ病院に入院していた。不確定な死の陰に怯える男が、確実に死ぬと分かっている彼女のために出来ることは、彼女に嘘をついて励ますこととせめて、安楽に死なせてやってほしいと交渉することだけだった。自らも、彼女の苦しみを少しでも和らげるためならと禁煙を決意、実行した。

彼女の死後/自らの上顎ガンの疑いが晴れた後、延命治療の方法論や医者の無神経から発する行為に疑問を抱き、それらは是正すべきものであるという「心あたたかな医療」運動を展開した。現在、その活動は確かに引き継がれ、根を張り始めている。

l  「狐狸庵」先生としての遠藤周作[編集]

1963年に駒場から町田市玉川学園に転居したころから、雅号を「雲谷斎狐狸庵山人」とする。「狐狸庵」とは「狐狸庵閑話」が関西弁で「こりゃあかんわ(=これはダメだな)」の意味のシャレである(狐狸庵とは、一般には、遠藤周作が40代を過ごすことになった自称柿生の山里(正確には玉川学園)の庵(住まい)をさすものと認識されているが、随筆の中で、柿生に移る前の東京都渋谷区の住いをはじめて狐狸庵と称したとしており、柿生の狐狸庵は新しい狐狸庵であるとしている)。また滋賀県の懇意にしていた料亭を狐狸庵を琵琶湖にかけてもじって「湖里庵」と命名している。

純文学作家・遠藤は、カトリックと日本人との関わりを歴史的経緯の中で追求していくよう学生時代の恩師や先輩から勧められたことを小説家としての出発点とし、かつライフワークとして取り組んだ。一方、謹厳な宗教分野のテーマを追求する純文学作家としての姿を自ら離れ、いわゆるぐーたら物を中心とした身辺雑記等を書き連ねる随筆作家としての自身が創造した別のキャラクター(花鳥風月を愛し、ぐうたらでなまけものの権化、しかし言いたいことは言う)が狐狸庵山人ということになった。

ただしいずれの分野の作品もすべて公式には遠藤周作著で統一されているので、作品中で自称しているだけのユーモアである。

親友の北杜夫らとともにユーモア文学ないしユーモア作品と呼ばれる数々の随筆群を発表し、この分野の旗手と目されブームを築いたこと、またTVCMに「狐狸庵先生遠藤周作」としてたびたび登場した経緯から、世間一般に周知されることとなった。

したがって遠藤の純文学作品が取り上げられるときに限っては「狐狸庵山人」や「狐狸庵先生」という呼称は用いられることはない。文学以外の分野では、素人劇団「樹座(きざ)」や音痴しか入団できない合唱団「コール・パパス」、素人囲碁集団「宇宙棋院」を組織したりと活動は多岐に亙った。

さくらももこは遠藤周作と対談した際、どんな真面目な内容か緊張していたが、年齢を10歳偽るなど最初から最後まで掴みどころのないジョークで翻弄されてしまい、最後に渡された「ぼくの電話番号」に翌日電話するように言われて約束通り電話したところ、それは東京ガスの営業所の番号であったというエピソードをエッセイで語っている[7]

なお、遠藤は中間小説の分野ではユーモア、ナンセンスもの以外にホラー、サスペンスも得意とした。専門のエンタテインメント作家のものに比べると(スキルの面での難点も見られるが)いずれも異色であり、うち2作が映画化されるなど人気も高い。これは純文学作家遠藤周作とも狐狸庵先生とも異なる第3の顔と見なすこともできる。

l  カトリックの評価[編集]

遠藤は、ヨーロッパで触れたキリスト教が父性原理を強調するあまり日本人の霊性に合わないと不満を持ち、キリスト教を日本の精神的風土に根付かせようと試みた[8]。遠藤自身はそれを「日本人としてキリスト教信徒であることが,ダブダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく,それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と語っている[9]

晩年にはジョン・ヒックの提唱する宗教多元主義と出会って影響を受け、『深い河』の登場人物である大津を通して「神(イエス)は愛、命のぬくもり、もしくはトマトでもタマネギと呼んでもいい」といっている[10]

このため、遠藤に対するカトリック教会での評価は賛否が大きく分かれることとなった。

遠藤と共にフランスで学んだ井上洋治神父は、「遠藤周作氏の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』は、そのイエス像に賛成すると否とにかかわらず、初めて深く日本の精神的風土にキリスト教がっちりとかみ合った作品だと言えるでしょう」[11]と高く評価している。また、カトリック新聞にも遠藤が「キリスト教を広めた」という評価する記事が掲載された[12]

サレジオ会アロイジオ・デルコル神父は、19781224日のクリスマスのテレビ番組で「キリストは奇跡をしたといわれるが、じっさいは無力で何の奇跡もしなかったのである」という自説を『イエスの生涯』、『キリストの誕生』、『沈黙』等で書いたと遠藤が語ったことに対し、「遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、とくに非キリスト者にとっては、ゆがめられたキリスト教紹介したにすぎない」と評している[13]

遠藤が踏絵のキリストの顔が「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と言っている気がしたとカトリック新聞1972123日付の記事に書いたことに対し、フェデリコ・バルバロ神父は反論を書いている。

遠藤氏の場合、自分や肉親のいのちを救わんがために、踏絵に足をのせた人々に向かって、キリストだったら何を言うであろうかと、氏自身キリストに代わって答えたつもりであろう。遠藤氏は、自分の肩には重すぎる荷を、せおったのではあるまいか。その荷は、氏のみならず、誰にとっても重すぎるにちがいない。

キリストは、人間世界の現実と、人間の考え方や生き方について、大抵の場合、思いもよらない、時には人をぎょっとさせ、不安に陥し入れるような冷酷とも思われる解答を提出している。本当のことを言えば、われわれには、決してキリストを理解し切ることはできないはずである。それは、キリストの叫びの次元が、われわれのとはちがうからである。

キリストは、人間の目と同時に神の目を、人間の心と同時に神の心をもっていた。したがって遠藤氏の言うキリストは、かれ自身の次元にとどまるキリストにすぎないという強い印象を私はうけている。

[14]

しかしながら、遠藤は初期の留学経験などから西欧との深い溝、そして日本人と(東洋的)汎神論の避け難い結合を意識し、キリスト教という宗教を文化背景に持たない日本において、救い主キリストが日本人にどのように提示され得るかという問題意識を持つに至った[10]。この認識、そして第2公会議における「すべての民族の独自性は伝統文化に照らし合わせ適応され受け入れられる」(教会の宣教活動に関する教令)という宣言を考慮することなしに、『沈黙』から『侍』に至る彼の母性的な「同伴者イエス」のビジョンを理解することが難しい、ということを、上に引用された批判は計らずも明らかにしているのである[独自研究?]

l  略年譜[編集]

1923年(大正12年)

327 - 東京巣鴨に生まれる。

1926年(大正15年・昭和元年)

父の転勤により、満洲関東州、大連に移る。

1929年(昭和4年)

大連市の大広場小学校に入学。

1933年(昭和8年)

父母の離婚により母に連れられて兄とともに日本に帰国し神戸市の六甲小学校に転校する。

1935年(昭和10年)

私立中学校に入学。

4 - 母は宝塚市の小林聖心女子学院の音楽教師になり529受洗

6 - 周作も兄とともに西宮市夙川カトリック教会で受洗。洗礼名ポール。

1940年(昭和15年)

灘中学校卒業。

1941年(昭和16年)

4上智大学予科甲類に入学し籍を置くが、なお旧制高校をめざして受験勉強を続ける。

1942年(昭和17年)

2 - 上智大学予科を退学。旧制高校受験の失敗が続くが、母の経済的負担を考え、経堂の父の家に移る。

1943年(昭和18年)

慶應義塾大学文学部予科に入学。しかし父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、父の家を出てアルバイト生活を続ける。友人宅にころがりこんだ後、学生寮に入る。

1945年(昭和20年)

慶應義塾大学文学部仏文科に進学。

1946年(昭和21年)

父の家に戻る。

1947年(昭和22年)

12 - 処女評論『神々と神と』が神西清に認められ、『四季』第5号(角川書店)に掲載。

1948年(昭和23年)

3 - 慶應義塾大学仏文科卒業。松竹大船撮影所の助監督採用試験に失敗。

1949年(昭和24年)

6鎌倉文庫嘱託になり、外国文学辞典編纂に従事したが、同社はまもなく倒産。カトリック・ダイジェスト社で働く。三田文学同人になる。

1950年(昭和25年)

6 - 戦後初のフランスへの留学生として渡欧。

10リヨン大学に入学。

1951年(昭和26年)

モーリヤックの『テレーズ・デスケイルウ』の舞台であるランド地方を徒歩旅行。

1953年(昭和28年)

パリに移る。体調を崩し入院。

2 - 帰国。

7 - 『フランスの大学生』を早川書房より刊行。

12 - 母郁死去。

1954年(昭和29年)

4文化学の講師を務める。安岡章太郎の紹介で構想の会に参加し、知己を広げる。奥野健男の紹介で現代評論に参加し、612月号に『マルキ・ド・サド評伝』を発表。

11月、三田文学に処女小説『アデンまで』を発表。

1955年(昭和30年)

7 - 白い人』で第33芥川賞を受賞。

9岡田幸三郎の長女、順子と結婚。父の家で短期間同居の後、世田谷区松原に転居。

1956年(昭和31年)

6 - 長男龍之介誕生。上智大学文学部の講師を務める。

1958年(昭和33年)

10 - アジア・アフリカ作家会議に参加。

12 - と毒薬』で第5新潮社文学賞、第12日出版文化賞を受賞。

1959年(昭和34年)

11マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために夫人を同伴してフランスに旅行、翌年1月に帰国。

1960年(昭和35年)

4 - 帰国後に体調を崩し、東京大学伝染病研究所病院に入院。年末に慶應義塾大学病院に転院。

1961年(昭和36年)

1 - 3回にわたり肺の手術を行なう。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。

1962年(昭和37年)

- 5月、退院。

1963年(昭和38年)

3町田市玉川学園に転居。新居を「狐狸庵」と名付け、以降「狐狸庵山人」という雅号を使い始める。

1965年(昭和40年)

- 新潮社の書き下ろし小説『沈黙』制作のための下調べ/取材で、三浦朱門とともに長崎・平戸を数回旅行。

1966年(昭和41年)

3 - 沈黙』を刊行。

成城大学の講師を務める( - 1969年)

5劇団雲で戯曲『黄金の国』(演出:芥川比呂志)初演。

10月、『沈黙』で第2谷崎潤一郎賞を受賞。

1967年(昭和42年)

8月、ポルトガル大使アルマンド・マルチンスの招待を受け、アウブフェーラで行われた聖ヴィンセント300年祭で記念講演。その後、リスボン、パリ、ローマを廻り、9月に帰国。

1968年(昭和43年)

- 三田文学の編集長に就任( - 1969年)。

4 - 劇団「樹座」を立ち上げ、紀伊國屋ホールウィリアム・シェークスピアの『ロミオとジュリエット』を上演。

1969年(昭和44年)

1 - 新潮社の書き下ろし小説『薔薇の館・黄金の国』制作のための下調べ/取材で、イスラエルに旅行し、2月に帰国。

4 - アメリカ国務省の招待を受け、アメリカに旅行し、5月に帰国。

1970年(昭和45年)

4矢代静一阪田寛夫井上洋治とともにイスラエルに旅行し、5月に帰国。

1971年(昭和46年)

11 - 戯曲『メナム川の日本人』制作のための下調べ/取材で、タイのアユタヤに旅行。その後、ベナレスイスタンブール、ストックホルム、パリを廻り、同月帰国。ローマ法皇庁からシルベストリー勲章を受ける。

1972年(昭和47年)

3ローマ法王謁見のため、三浦朱門曽野綾子とともにローマを旅行。その後、書きかけの小説『死海のほとり』を仕上げるため、イスラエルに立ち寄り、4月に帰国。

5中央教育審議会の委員を引き受ける[15]

10 - 日本文芸家協会常任理事に就任。遠藤周作作品が欧米で翻訳され始める。この年には『海と毒薬』がイギリスで、『沈黙』がオランダ、スウェーデン、スペイン、ノルウェー、フランス、ポーランドで翻訳出版された。

1973年(昭和48年)

3 - 「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」で、ロンドン、パリ、ミラノ、スペイン(アンダルシア州)を廻り、4月に帰国。

1974年(昭和49年)

5 - 仕事場を代々木富ヶ谷に移す。

10 - 新潮社の書き下ろし小説『彼の生き方』制作のための下調べ/取材で、メキシコに旅行し、同月に帰国。

1975年(昭和50年)

- 2月、北杜夫、阿川弘之とともにロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人のための講演旅行、同月に帰国。

1976年(昭和51年)

1面白半分の編集長に就任( - 6月)。

6 - 『鉄の首枷-小西行長伝』の取材で大韓民国へ旅行し、豊浦釜山熊川慶州蔚山を廻り、同月帰国。9月にはジャパン・ソサエティの招待を受け、アメリカに旅行。ニューヨーク]講演した後、ロサンゼルス、サンフランシスコを廻り、同月帰国。

12ピエトゥシャック賞を受賞。授賞式参加のため、ポーランドワルシャワに旅行、その後アウシュヴィッツを見学し、同月に帰国。

1977年(昭和52年)

1 - 芥川賞選考委員に就任( - 1987年)。

5 - 兄死去。

1978年(昭和53年)

6 - 『イエスの生涯』で国際ダグ・ハマーショルド賞を受賞。

1979年(昭和54年)

2 - 『キリストの誕生』で第30読売文学賞評論・伝記賞を受賞。『王国への道-山田長政』の取材でタイのアユタヤに旅行し、同月帰国。

3華人民共和国に旅行。46年ぶりに幼少時代の想い出の地大連を訪れる。同月帰国。

4 - 翻訳出版のトラブル解消のため、イギリスロンドンに旅行。その後、パリ、ローマを廻り、同月帰国。日本芸術院賞を受賞[16]

1980年(昭和55年)

5 - 劇団「樹座」のニューヨーク公演。ジャパン・ソサエティで『カルメン』を上演。『侍』で第33野間文芸賞を受賞。

1981年(昭和56年)日本芸術院会員になる。

1985年(昭和60年)

4 - イギリス、スウェーデン、フィンランドを旅行し、同月に帰国。ロンドンのホテルでグレアム・グリーンと鉢合わせし、文学論を交わした。

6日本ペンクラブ10代会長に就任( - 1989年)。サンタクララ大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、カリフォルニア大学ジャック=マリタン・アンド・トーマス=モア研究所で講演を行ない、同月に帰国。

1986年(昭和61年)

2 - 代々木富ヶ谷の仕事場を仮住まいにする。劇団「樹座」のロンドン公演。ジャネッタ・コクラン劇場で『蝶々夫人』を上演。

11 - 台湾の輔仁大学の招待を受け、台湾に旅行。「宗教と文学の会」で講演を行い、同月に帰国。

1987年(昭和62年)

5ジョージタウン大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行し、同月帰国。

10韓国文化院の招待を受け、大韓民国に旅行し、同月帰国。尹興吉との知遇を得る。

1988年(昭和63年)

4 - 夫人を同伴してロンドンに旅行し、同月帰国。

8国際ペンクラブのソウル大会出席のため、大韓民国に旅行し、翌月帰国。文化功労者に選出される。

1989年(昭和64年・平成元年)

12 - 常久死去。

1990年(平成2年)

2 - 『深い河』の制作のための下調べ/取材で、インドに旅行し、同月帰国。

7 - 仕事場を上大崎に移す。

10 - アメリカのキャンピオン賞を受賞。

1991年(平成3年)

1月、三田文学会理事長に就任( - 1995年)。

5 ジョン・キャロル大学英語版)の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、マーティン・スコセッシと『沈黙』の映画化について話し合い、同月帰国。

12輔仁大学の名誉博士号を受けるため、台湾に旅行、同月帰国。

1993年(平成5年)

5腹膜透析の手術を行う。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。以後、入退院を繰り返すことになる。

1995年(平成7年)

9 - 脳内出血で順天堂大学病院に入院。

11文化勲章受章。

12 - 退院。

1996年(平成8年)

4 - 腎臓病治療のため、慶應義塾大学病院に入院。

929 - 午後636分、肺炎による呼吸不全で死去。

l  家族・親族[編集]

遠藤家[編集]

鳥取県東京都

家系

初代・元衛(元哲)

遠藤家は代々東分知家の御医師で、初代を元衛(元哲)といい、鳥取の町医師であった[ 5]宝暦14年(1764年)3月四代池田澄延に召抱えられ、名も元哲と改めた[18]。明和3年(1766年)侍医となり四人扶持を受けた[18]。続いて五代池田延俊の侍医となり、明和9年(1772年)に詰江戸を命ぜられ、二十俵支配と詰高五俵の二十五俵の加増を受けた[18]

二代目・玄益

元哲に医師とする男子なく、藩医真嶋三随である玄益を養子とした[18]安永4年(1775年)6月病没した[18]。玄益は養子のため、三人扶持を受けて家督相続し、天明8年(1788年)より藩邸や城中勤務をした[18]。勤務良好とあって翌寛政元年(1789年)には四人扶持となっている[18]。そして御近習医師に昇格し、詰江戸を命ぜられ寛政6年まで江戸三田邸に勤務した[18]。その後も度々江戸詰を命ぜられ五人扶持二十五俵の加増となり、寛政123月から七代池田仲雅の御匕代役をした。享和2年に諸役から退き7年(1810年)正月に病没した[18]

三代目・玄里

三代玄里は玄益の実子で四人扶持を継いだ。文政2年(1819年)より藩邸、城中勤務をし、江戸詰も度々命ぜられている[18]安政2年同じ東分知家医師であった石原玄碩長男の隼見を養子とした[18]。玄里は翌安政3年(1856年)9月病没した[18]

四代目・玄益

四代玄益は父玄碩や本藩の藩医大島秀洞(本道、二〇〇石)に学んでおり、医術もよくできた[18]。養子のため四人扶持十九俵を受けたが、翌年より城中勤務となり、安政6年には九代池田仲立の御匕役[ 6]を勤めた[18]

玄益に子供がなく慶応2年(1866年)6月中村鼎斎の門人で、邑美郡田島村の岡田新左衛門の子である岡田謙三を養子に入れた[18]明治元年(1868年)よりその謙三に代番勤めをさせている[18]。しかし明治2年(1869年)より再び藩に勤務している[18]維新後の経歴は明らかでないが、河村郡下浅津村で開業していた[18]。そして医業のかたわら創立して間もない浅津学校の訓導校長を勤めた[20]。明治13年(1880年)に没した[20]

謙三の子たち

謙三の子に又蔵、河津三、隼見の三子がいた[20]。又蔵は医師とならず東大理学部を卒業して早稲田の数学の教師となり、三男隼見は、東大経済学部を卒業して三菱商事に勤務した[20]

謙三の二男河津三

二男河津三は、岡山の三高医学部を卒業して東京に出て済生学舎で修行し明治33年(1900年)開業試験に合格した[20]。一時横浜十全病院に勤めたのち明治35年(1902年)下浅津村に帰り、父の跡をついで医業をした[20]。医業は多忙を極め、その上、需められ東郷池の向う花見村長和田に出張診療所を設けて日夜診療に明け暮れたという[20]。河津三は郡医師会理事もつとめ、戦時中は満州開拓団の医師として2年ばかり夫婦で渡満し、帰国後再び浅津、長和田地区の診療をした[20]昭和24年(1949年)2月病没した[20]

家庭

 常久(銀行員)

養子常久は医師とならず東大法学部を卒業して安田銀行に勤務した[20]

 

義母 秀子 - 父親の再婚相手。

 正介

東京大学法学部卒、電電公社総務理事。

 順子(実業家岡田幸三郎の娘。俳優岡田英次の従妹)

東洋英和女学院、慶應義塾大学仏文科卒業。遠藤周作の死後、思い出を語った作品を数作残している。

長男 龍之介

芥川賞受賞にちなんで龍之介と命名。父周作は「大学受験は、なんの役にも立たない[21]。そんなものに貴重な青春時代を浪費するのは愚の骨頂だ[21]」といって、龍之介には大学受験を勧めなかったという[21]フジテレビジョンに入社し、現在社長[21][22][23]。父周作との子どものころの約束は3つあり「うそをつかない。ともだちを裏切らない。弱い人間を馬鹿にしない」だった。また会話は、敬語を用い、周作からは含みを残す言い回しや比喩を用いた表現を常としたとの回想がある。

l  作品一覧[編集]

日本[編集]

単著[編集]

『フランスの大学生』(1953年、早川書房)のち角川文庫、ぶんか社文庫

『カトリック作家の問題』(1954年、早川書房)

堀辰雄』(1955年、一古堂)「堀辰雄覚書」講談社文芸文庫

『白い人・黄色い人』(1955年、講談社)のち文庫、新潮文庫講談社文芸文庫

『神と悪魔』(1956年、現代文芸社)

『青い小さな葡萄』(1956年、新潮社)のち講談社文庫、文芸文庫

『タカシのフランス一周』(1957年、白水社

『恋することと愛すること』(1957年、実業之日本社

『月光のドミナ』(1958年、東京創元社)のち新潮文庫

海と毒薬』(1958年、文藝春秋新社)のち角川文庫、講談社文庫、新潮文庫

『恋愛論ノート』(1958年、東都書房)

『恋の絵本』(1959年、平凡出版)のち大和書房・女性論文庫

『おバカさん』(1959年、中央公論社)のち角川文庫、中公文庫、ぶんか社文庫

『蜘蛛 周作恐怖譚』(1959年、新潮社)

『若い日の恋愛ノート』(1960年、青春出版社)「恋愛とは何か」角川文庫

『新鋭文学叢書6 遠藤周作集』(1960年、筑摩書房

『火山』(1960年、文藝春秋新社)のち角川文庫

『あまりに碧い空』(1960年、新潮社)

『聖書のなかの女性たち』(1960年、角川書店)のち講談社文庫

『ヘチマくん』(1961年、新潮社)のち角川文庫

『結婚』(1962年、講談社)のち文庫

『宗教と文学』(1963年、南北社)

わたしが・棄てた・女』(1964年、文藝春秋新社)のち講談社文庫 新装版 2012

『浮世風呂』(1964年、講談社)

『一・二・三!』(1964年、中央公論社)のち文庫

『偽作』(1964年、東方社

『留学』(1965年、文藝春秋新社)のち新潮文庫

『狐狸庵閑話』(1965年、桃源社)のち新潮文庫『狐狸庵閑話』(「古今百馬鹿」「現代の快人物」も併録)

『哀話』(1965年、講談社)のち文庫、文芸文庫

沈黙』(1966年、新潮社)のち文庫

『金と銀』(1966年、佼成出版社)のち文春文庫

『楽天主義のすすめ』(1966年、青春出版社)

『協奏曲』(1966年、講談社)のち文庫

『さらば、夏の光よ』(1966年、桃源社)のち講談社文庫

『闇のよぶ声』(1966年、光文社)のち角川文庫、ぶんか社文庫

『遠藤周作のまごころ問答』(1967年、コダマプレス)

『ぐうたら生活入門』(1967年、未央書房)のち角川文庫

『キリシタン時代の知識人-背教と殉教』(1967年、日本経済新聞社

『現代の快人物-狐狸庵閑話巻之弐』(1967年、桃源社)のち角川文庫

どっこいショ』(1967年、講談社)のち文庫

『私の影法師』(1967年、桂書房)

『古今百馬鹿-狐狸庵閑話巻之参』(1967年、桃源社)のち角川文庫

『影法師』(1968年、新潮社)のち文庫

『周作口談』(1968年、朝日新聞社)「ぐうたら交遊録」(1973年、講談社

『それ行け狐狸庵』(1969年、文藝春秋)のち文庫

『遠藤周作ユーモア小説集』(1969年、講談社)のち文庫

大変だァ』(1969年、新潮社)のち文庫

『薔薇の館・黄金の国』(1969年、新潮社)

『楽天大将』(1969年、講談社)のち文庫

『遠藤周作怪奇小説集』(1970年、講談社)のち文庫

『愛情論-幸福の手帖』(1970年、虎見書房)

『遠藤周作の本』(1970年、KKベストセラーズ

『石の声』(1970年、冬樹社

『切支丹の里』(1971年、人文書院)のち中公文庫

『母なるもの』(1971年、新潮社)のち文庫

『黒ん坊』(1971年、毎日新聞社)のち角川文庫

『埋もれた古城』(1971年、新潮社)のち集英社文庫

『遠藤周作シナリオ集』(1971年、講談社)

『ただいま浪人』(1972年、講談社)のち文庫

『狐狸庵雑記帳』(1972年、毎日新聞社)

『ぐうたら人間学』(1972年、講談社)のち文庫(狐狸庵閑話)

『牧歌』(1972年、番町書房)のち新潮文庫

『狐狸庵型』(1973年、番町書房)のち角川文庫

『灯のうるむ頃』(1973年、講談社)のち角川文庫

『ぐうたら愛情学』(1973年、講談社)のち文庫(狐狸庵閑話)

『死海のほとり』(1973年、新潮社)のち文庫

『メナム河の日本人』(1973年、新潮社)

『ぐうたら会話集』(1973年、角川書店)のち文庫

『イエスの生涯』(1973年、新潮社)のち文庫

『遠藤周作第二ユーモア小説集』(1973年、講談社)のち文庫

『ぐうたら怠談』(1973年、毎日新聞社)

『ぐうたら好奇学』(1974年、講談社)

『ピエロの歌』(1974年、新潮社)のち文庫

『周作快談』(1974年、毎日新聞社)

『遠藤周作文庫』〈全51冊〉(1974-78、講談社)

『口笛をふく時』(1974年、講談社)のち文庫

『うちの女房、うちの息子』(1974年、講談社)

『喜劇 新四谷怪談』(1974年、新潮社)

『最後の殉教者』(1974年、講談社)のち文庫

『恋愛作法』(1974年、いんなあとりっぷ社)

『日本人を語る』(1974年、小学館

『遠藤周作文学全集』〈全11巻〉(1975年、新潮社)

『君たちの悩みにまじめにお答えします』(1975年、集英社

『彼の生き方』(1975年、新潮社)のち文庫

『この人たちの考え方』(1975年、読売新聞社

『怠談』(1975年、番町書房)

『身上相談』(1975年、毎日新聞社)「小説身上相談」文春文庫

『ぼくたちの洋行』(1975年、講談社)のち文庫

『吾が顔を見る能はじ』(1975年、北洋社)

『観客席から』(1975年、番町書房)のち角川文庫「観客席から 私の大好きな映画と芝居」

『続・日本人を語る』(1975年、小学館)

『遠藤周作ミステリー小説集』(1975年、講談社)

『ボクは好奇心のかたまり』(1976年、新潮社)のち文庫

『勇気ある言葉』(1976年、毎日新聞社)のち集英社文庫

『私のイエス-日本人のための聖書入門』(1976年、祥伝社

『砂の城』(1976年、主婦の友社)のち新潮文庫

悲しみの歌』(1977、新潮社)のち文庫

『鉄の首枷-小西行長伝』(1977年、中央公論社)のち文庫、ぶんか社文庫

『走馬燈-その人たちの人生』(1977年、毎日新聞社)のち新潮文庫

『旅は道づれ世は情け』(1977年、番町書房)

『自選作家の旅』(1977年、山と渓谷社

『日本人はキリスト教を信じられるか』(1977年、講談社)

『愛情セミナー』(1977年、集英社文庫)

『ウスバかげろう日記』(1978年、文藝春秋)のち文庫、河出文庫

『人間のなかのX』(1978年、中央公論社)のち文庫

『キリストの誕生』(1978年、新潮社)のち文庫

『ぐうたら会話集』第2-3集(197880年、角川書店)のち文庫

『王妃マリー・アントワネット』全3巻(1979-80年、朝日新聞社)のち新潮文庫

マリー・アントワネット (ミュージカル) - 2006年にミュージカル化され、ブレーメンにてドイツ語でも上演された。

『銃と十字架』(1979年、中央公論社)のち文庫(ペトロ岐部)

『十一の色硝子』(1979年、新潮社)のち文庫

『異邦人の立場から』(1979年、日本書籍)のち講談社文芸文庫

『周作怠談・12の招待状』(1979年、主婦の友社)

『お茶を飲みながら』(1979年、小学館)のち集英社文庫

『ぐうたら社会学』(1979年、集英社文庫

『結婚論』(1980年、主婦の友社)

『天使』(1980年、角川書店)のち文庫

』(1980年、新潮社)のち文庫

『狐狸庵二十面相』(1980年、文藝春秋)

『父親』〈上・下〉(1980年、講談社)のち集英社文庫、講談社文庫、集英社文庫

『かくれ切支丹』(1980年、角川書店)

『作家の日記』(1980年、作品社)のち講談社文庫、福武文庫、講談社文芸文庫

『遠藤周作による遠藤周作』(1980年、青銅社)

真昼の悪魔』(1980年、新潮社)のち文庫

『狐狸庵うちあけ話』(1981年、集英社文庫)

『愛と人生をめぐる断想』(1981年、文化出版局)のち光文社文庫

『王国への道-山田長政』(1981年、平凡社)のち新潮文庫

『名画・イエス巡礼』(1981年、文藝春秋)「イエス巡礼」文庫

『僕のコーヒーブレイク』(1981年、主婦の友社)

『女の一生』(1982年、朝日新聞社)のち新潮文庫

『足のむくまま 気のむくまま』(1982年、文藝春秋)のち文庫

『自分をどう愛するか〈生活編〉』(1982年、青春出版社)のち文庫

『冬の優しさ』(1982年、文化出版局)のち新潮文庫

『あべこべ人間』(1982年、集英社)のち文庫

『遠藤周作と考える-幸福、人生、宗教について』(1982年、PHP研究所

『悪霊の午後』(1983年、講談社)のち文庫

『私にとって神とは』(1983年、光文社)のち文庫

『よく学び、よく遊び』(1983年、小学館)のち集英社文庫

『イエス・キリスト』(1983年、新潮社) - 『イエスの生涯』『キリストの誕生』の合本

『イエスに邂った女たち』(1983年、講談社)のち文庫

『自分づくり-自分をどう愛するか〈生き方編〉』(1984年、青春出版社)のち文庫

『生きる学校』(1984年、文藝春秋)

『快人探検』(1984年、青人社)

『私の愛した小説』(1985年、新潮社)のち文庫

『何でもない話』(1985年、講談社)のち文庫

『ほんとうの私を求めて』(1985年、海竜社)のち集英社文庫

『宿敵』〈上・下〉(1985年、角川書店)のち文庫(小西行長,加藤清正)

『狐狸庵が教える「対話術」』(1985年、光文社)のち文庫

『心の夜想曲(1986年、文藝春秋)のち文庫

『ひとりを愛し続ける本』(1986年、青春出版社)のち講談社文庫

『スキャンダル』(1986年、新潮社)のち文庫

『風の肉声』(1986年、大和出版)

『狐狸庵が教える「対談学」 その方法と実地指導』(1986年、光文社)

『私が見つけた名治療家32人』(1986年、祥伝社)

『遠藤周作のあたたかな医療を考える』(1986年、読売出版社)

『あなたの中の秘密のあなた』(1986年、ハーレクイン・エンタープライズ支社)のちPHP文庫

『男感覚女感覚の知り方』(1986年、青春出版社)のち文庫

『わが恋う人は』(1987年、講談社)のち文庫

『死について考える-この世界から次の世界へ』(1987年、光文社)のち文庫

『新 ぐうたら怠談』(1987年、光文社)

『ピアノ協奏曲二十一番』(1987年、文藝春秋)のち文庫

『眠れぬ夜に読む本』(1987年、光文社)のち文庫

『あまのじゃく人間へ』(1987年、青春出版社)のち文庫

『妖女のごとく』(1987年、講談社)のち文庫 (長崎俊一監督で「妖女の時代」として映画化)

『遠藤周作と語る-日本人とキリスト教』(1988年、女子パウロ会

『こころの不思議、神の領域』(1988年、PHP研究所)のち文庫

『ファーストレディ』〈上・下〉(1988年、新潮社)のち文庫

『その夜のコニャック』(1988年、文藝春秋)のち文庫

逆さま流人間学』(1989年、青春出版社)「らくらく人間学 逆さまに見れば何んでも面白くなる」文庫

『春は馬車に乗って』(1989年、文藝春秋)のち文庫

『こんな治療法もある』(1989年、講談社)

『反逆』〈上・下〉(1989年、講談社)のち文庫 織田信長

『落第坊主の履歴書』(1989年、日本経済新聞社)のち文春文庫、日経文芸文庫

『変るものと変らぬもの』(1990年、文藝春秋)のち文庫

『心の海を探る』(1990年、プレジデント社)のち角川文庫

『考えすぎ人間』(1990年、青春出版社)のち文庫

『生き上手 死に上手』(1991年、海竜社)のち文春文庫

『決戦の時』〈上・下〉(1991年、講談社)のち文庫(織田信長、生駒吉乃

『男の一生』〈上・下〉(1991年、日本経済新聞社)のち文春文庫、日経文芸文庫 (前野長康)

『ヘンな自分を愛しなさい』青春出版社、1991 「ちょっと幸福論 あなたの中の未知のあなたへ」文庫

『狐狸庵対談 快女・快男・怪話』(1991年、文藝春秋)のち文庫

『心の砂時計』(1992年、文藝春秋)のち文庫

『王の挽歌』〈上・下〉(1992年、新潮社)のち文庫 大友宗麟

『対論 たかが信長 されど信長』(1992年、文藝春秋)のち文庫

『異国の友人たちに』(1992年、読売新聞社)

『狐狸庵歴史の夜話』(1992年、牧羊社)のちPHP文庫

『万華鏡』(1993年、朝日新聞社)のち朝日文芸文庫

深い河』(1993年、講談社)のち文庫

『遠藤周作編 キリスト教ハンドブック(1993年、三省堂

『心の航海図』(1994年、文藝春秋)のち文庫

『「遠藤周作」とShusaku Endo』(1994年、春秋社

『「深い河」をさぐる』(1994年、文藝春秋)のち文庫

『女』(1995年、講談社)のち文春文庫

『戦国夜話』(1996年、小学館)

『風の十字路』(19967月、小学館)

『遠藤周作歴史小説集』〈全7巻〉(1996年、講談社)

『なつかしき人々』121996年、小学館)

『生きる勇気が湧いてくる本』(1996年、騎虎書房)のち祥伝社黄金文庫、青志社

『最後の花時計』(1997年、文藝春秋)のち文庫

『無鹿』(1997年、文藝春秋)のち文庫

『好奇心は永遠なり』(1997年、講談社)

『「深い河」創作日記』(1997年、講談社)のち文庫、講談社文芸文庫

『夫婦の一日』(1997年、新潮社)のち文庫

『心のふるさと』(1997年、文藝春秋)のち文庫

『ルーアンの丘』(1998年、PHP研究所)のち増補版

『信じる勇気が湧いてくる本』(1998年、祥伝社)のち黄金文庫

『愛する勇気が湧いてくる本』三笠書房 1998 のち祥伝社黄金文庫

『遠藤周作文学全集』〈全15巻〉(1999-2000年、新潮社)

『十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。』(2006年、海竜社)のち新潮文庫

『遠藤周作短篇名作選』講談社文芸文庫 2012

『人生の踏絵』新潮社 2017

『沈黙の声』青志社 2017

『遠藤周作全日記』(2018年、河出書房新社)、2巻組

『影に対して母をめぐる物語』(2020年、新潮社)

講演録[編集]

CD 遠藤周作講演選集〈全6巻〉アートデイズ20023

共著[編集]

『狐狸庵 vs マンボウ』(1974年、講談社) - 共著:北杜夫 のち文庫

『狐狸庵 vs マンボウ PART II』(1975年、講談社) - 共著:北杜夫 のち文庫

『まず微笑』曽野綾子三浦朱門共著、PHP文庫、1988

『人生の同伴者』佐藤泰正共著(1991年、春秋社)のち新潮文庫

海外[編集]

便宜上、タイトルは英語に統一。当然ながら国ごとにタイトルは違うはず。

海と毒薬 The Sea and Poison1972年、イギリス)

沈黙 Silence1972年、オランダ・スウェーデン・スペイン・ノルウェー・フランス・ポーランド)

おバカさん Wonderful Fool1974年、イギリス、Peter Owen Publishers

イエスの生涯 A Life of Jesus1978年、イタリア、クエリニアナ出版社)

火山 Volcano1978年、イギリス、Peter Owen Publishers

わたしが・棄てた・女 The Girl I Left Behind1978年、ポーランド、パックス出版社)

口笛をふく時 When I Whistle1979年、イギリス、Peter Owen Publishers

イエスの生涯 A Life of Jesus1979年、アメリカ、ポーリスト出版社)

 The Samurai1982年、イギリス、Peter Owen Publishers

十一の色硝子 Stained Glass Elegies1984年、イギリス、Peter Owen Publishers

スキャンダル Scandal1988年、イギリス、Peter Owen Publishers

留学 Foreign Studies1989年、イギリス、Peter Owen Publishers

深い河 Deep River

l  その他の活動[編集]

主な出演[編集]

テレビ番組

ほんものは誰だ?!日本テレビ、解答者)

わくわく動物ランドTBS、解答者・初期)

すばらしき仲間中部日本放送制作・TBS系列、北杜夫佐藤愛子と共演)

アップダウンクイズ毎日放送制作・TBS系列、15周年記念大会決勝・シルエットクイズのゲスト)

木曜ドラマストリート「孤独な週末」(フジテレビ ほか

大変だァ1970年、NETテレビ系) - 医者役(カメオ出演

CM

ネスレ ネスカフェゴールドブレンドCM1972年。2008年のCMは合成映像で唐沢寿明と共演。)

キヤノン 電子漢字字典(1982年)

NEC 文豪MINI5SH CM1992年)

映画

私が棄てた女1969年、日活) - 医者役(カメオ出演

千夜一夜物語1969年、日本ヘラルド) - 女奴隷市の野次馬役(友情出演

未発表作品[編集]

2010425、未完成の中編小説が書かれたノートが長崎市の遠藤周作文学館で発見されたことが報じられた[24]

20202月、長崎市遠藤周作文学館で未発表の完成した小説「影に対して」が発見された[25]19633月より後、40歳以降に執筆されたと推測される[26]、自伝的作品。

短編作品数篇を併録し、同年10月に新潮社から単行本化された[27]

l  関連人物[編集]

ジョルジュ・ネラン - ガストン・ボナパルト(『おバカさん』、『悲しみの歌』、『深い河』に登場する人物)のモデルとなった神父

廣石廉二 - 遠藤周作研究者

阿川弘之 - 旧知の仲で、よくエッセイの中で、登場し「瞬間湯沸かし器」と遠藤は評している。

北杜夫 - 旧知の仲で、共著を2冊出している。

三浦朱門  『わが友遠藤周作 ある日本的キリスト教徒の生涯』(PHP研究所、1997年)がある。

安岡章太郎 - 学生時代以来の親友で、遠藤の影響でカトリックへ入信。

吉行淳之

加賀乙彦

篠田正浩

さくらももこ - 生前、遠藤周作と会食をした際、散々からかわれたと著書で述べている。

瀬戸内寂聴

堀辰雄

原民喜

佐藤愛子

柴田錬三郎 - 先輩作家で、遠縁に当たる。遠藤は彼の家に居候していたこともあるほか「君(遠藤)が黒ミサで生まれた子にしろと言ったから狂四郎の設定が決まった」(柴田が雑誌で遠藤と対談した際の発言)という。

梅崎春生 - 戦後間もない、学生時代に「ランボォ」という店で初めて会ったらしい。互いにいたずらの腕を競い合った。梅崎春生の死後、色んな思い出話をエッセーで遠藤は語っている。

山口トキコ - テレビ、ラジオでも活躍中の女医。彼女の学生時代、遠藤の「トキちゃん肛門科医になったらどうだい?」の言葉に大きな感銘を受ける。

橋本武 - 灘中学校時代の国語教師。「週刊読売197446日号にて遠藤と対談(対談は『伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力』(日本実業出版社 2012年)p.201-214に再録されている)。

松村禎三 - 『沈黙』を自身の台本でオペラ化した(沈黙 (オペラ) を参照)。

青島広志 - 『黄金の国』を自身の台本でオペラ化した[28]

竹中直人 - コメディアンとして売れ始めた頃、ものまねのレパートリーとしていた。

l  注釈[編集]

1.    ^ 遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は加藤宗哉が詳しい。

2.    ^ この試験の際に採用されたのが鈴木清順である。

3.    ^ 「海と毒薬」に対する一部からの反発は強く、発表後、遠藤家に「死ね」と書かれた血書や、「日本の恥部を抉ってどうするつもりだ」という脅迫状、果てには日本刀が送り付けられた。

4.    ^ 1953年死去、当時はまだ土葬だった。

5.    ^ 医師森納によれば「医師の諸身分について、江戸時代には封建制上の身分によって大別すれば、藩医・町医師・在医師の区別があった。藩医は、によって召し抱えられた医師である。それに準ずる身分として鳥取藩の場合、東西両分知家と着座家に召し抱えられた医師、即ち陪臣医があった。藩医・陪臣医は俗に御典医と呼ばれ、武士身分の処遇をうけた。町医師は、鳥取城下・米子倉吉等の町で町奉行支配を受けた町民医師である。藩医には御医師、無足医師の区別があった。御医師は詰を命ぜられた医師である。藩臣の礼席上の地位では、御近習の次席に置かれたので、御近習医師とも呼ばれた。次に、格医師の初級の者が無足医師である。町医師から抜擢されて藩に召し抱えられ士分取り立てとなった際、まず無足医師とされ、五人扶持を与えられるのが普通であった[17]

6.    ^ 医師森納によれば「御近習医師の筆頭が御匕役で、内科の医師のうち特に業務の勝れた者が選ばれた。御匕役は大体2人か3人で、藩主の日常の健康管理、投薬、膳部の毒味などに当たった[19]

 

 

 

 

 

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