シュテットル  Eva Hoffman  2019.6.1.


2019.6.1.  シュテットル ポーランド・ユダヤ人の世界
SHTETL 
~ The Life and Death of a Small Town and the World of Polish Jews  1997

著者 Eva Hoffman 1945年ユダヤ人の両親の元ポーランド・クラクフ生まれ。作家。13歳でカナダ移住、米国ライス大で英文学を学び、ハーバード大大学院で博士号取得。7990年『ニューヨーク・タイムズ』編集者として活躍。89年にノンフィクションとして高い評価を得た自伝で作家生活に入る。現在英国在住。著書に東北大震災後に訪日しメッセージを託した『希望の鎮魂歌――ホロコースト第2世代が訪れた広島、長崎、福島』(2017)など

訳者 小原(こはら)雅俊 1940年福島県生まれ。ポーランド文学者。東外大名誉教授

発行日           2019.3.8. 第1刷発行
発行所           みすず書房

本書は、マリアン・マジンスキ監督のドキュメンタリー・フィルム《SHTETL》とボストンのテレビ局WGBHが放映したテレビ番組《フロントライン》がもとになって生まれた

ユダヤ人が住んでいた東欧のシュテットル(イディッシュ語で「小さな町」)は、ホロコーストによって人も文化も消え失せた。かつて人口の半分以上がユダヤ人だったポーランド北部国境近くの町ブランスクからは、一人のユダヤ人もいなくなった
半世紀がたち、消えたユダヤ人の痕跡に魅せられた地元の若い歴史家が墓碑や文書を解読、墓地を復元した。この小さな町からポーランド・ユダヤ人の壮烈な歴史が見えてくる
聖書時代から離散(ディアスポラ)を経てユダヤ人共同体はどのように維持されてきたか。生きるための商売と知恵、近代以後多くの研究者や芸術家を輩出した独自の教育制度、結婚式や祭日を彩る懐かしい音楽、シナゴーグにお祈りと詠唱が響く、社会と人の規範を定めた宗教
農民でカトリックのポーランド人と職人や商人のユダヤ人は中世から共存してきた。戦争中、人間の悪も善も、臆病も寛容も、限界を超えて現れた。ナチスにユダヤ人を密告したポーランド人がいたが、ポーランド人の助けなしに生き延びたユダヤ人はいなかった
ブランスクの町で起きたことは、世界中で繰り返される民族問題の雛形のようだ。社会がバラバラの小集団の集合ではなく、豊かでユニークな多文化社会であるために必要なことは。記憶と和解、そして共生の未来を考える


序文
ポーランドのユダヤ人のあとに何が残ったか? ポーランドには今日数千のユダヤ人が暮らしているが、彼らが住んでいた町はその固有の文化及び社会関係ともども第2次大戦中に完全に破壊され、損害が極めて甚大かつ全体的であったために、消え失せた世界を思い起こす行為は痛々しく、今なお激烈な情動に満ちている
ホロコースト後の記憶の中で、ポーランドは特別の地位を占める。他ならぬここに、戦前、世界で暮らすユダヤ人の大多数が住んでいたのであり、その場所でユダヤ人の絶滅が起こった。戦争勃発時300万のユダヤ人が住んでいたが、戦後残ったのは2430万の間。ナチスの強制収容所の大部分はポーランドに建設。しばしばナチスはポーランド人の根絶計画への共謀を期待していたと言われ、こうした言明は幾度となく現れては納得いく仕方で論駁されてきた。それより遥かに信じるに足るのは輸送上の観点からポーランドに置かれたという説であり、絶滅の標的の大多数がそこに暮らしていたから
大惨事から50年が経ち、おそらくポーランド・ユダヤ人の過去ほど激しい論争を読んでいる過去はないだろう。ポーランドにおけるホロコーストとポーランド人とユダヤ人の関係の歴史全体がなおも戦場であり、そこでは3つの異なる、時に激しく対立しあう集団的記憶――ユダヤ人の記憶、ポーランド人の記憶、西欧の記憶――がぶつかり合う
戦後のユダヤ人の記憶の中では、多くのホロコーストを生き延びた人々とその子孫の中では、ポーランドは暗黒の中心として、地獄の主たるシンボルとして姿を現す
ホロコーストに対する戦争直後の時期のポーランド人の反応は、生き延びたユダヤ人の怒りと苦痛を強めただけだったが、記憶の抑圧を現場で幇助したのが共産主義者による歴史の偽造。89年以降再び公の場で取り上げられるようになったが、不完全な論争のまま
西欧の人々の立場はさらに多くの不満と誤解を生む。冷戦によってポーランドの暗いイメージが固定化され、西ドイツが「仲間の1人」として認知された後も馴染みのないものとして残る。ドイツ民族とナチズムの現象を混同することは流行遅れになっていく一方、ポーランド人の反ユダヤ主義についてはあたかもその姿勢がポーランド人の性格の本質的で変わることのない特徴であるかのように語ることができた
戦争中にポーランドで起こったことを理解しようとするならば、個々人の記憶の内側からそれぞれの人の事情と行動の恐るべき複雑さを認めることから始めなければならない
ポーランドは戦争の混乱が及んだ地域の中で、恐らく最大の苦難に見舞われ、ほとんど耐え難い緊張状態が支配した地域。最初に独ソ2大強国の侵略を受け、以後6年間両方の侵略国に対する強力な地下抵抗運動に携わる。ソ連の征服はポーランド人とユダヤ人の間に新たな敵意を生み出す。ユダヤ人がしばしばソ連を、彼ら自身が十分理解できる理由から、ポーランドの伝統的な敵国の軍隊を歓迎したから。この時期ポーランド住民の一部が遥かに無防備な同郷人に対してなされた恐ろしい行為を見て見ぬふりをする傾向があったことは否めないが、他方、占領下のポーランドで生き延びたユダヤ人はみな、巨大な危険を冒して差し伸べられた個々のポーランド人のお陰で生き延びたのも間違いない
ユダヤ人は、11世紀に初めてポーランドの地に入植し始め、14世紀には大量にやってくるようになる。17世紀末には世界のユダヤ人のほぼ3/4がポーランド・リトアニア民族共同体に住んでいた。18世紀のポーランド分割前ユダヤ人はポーランド人口の約10%を占め、国内最大のマイノリティとなり、最大13%まで増加。ポーランド・ユダヤ人は驚嘆すべき宗教機関、政治運動、世俗文化と独特の生活様式を作り出し、現代ではヨーロッパとアメリカのディアスポラの文化に決定的な影響を及ぼしたイディッシュ語文化とヘブライ語文化を誕生させた
ポーランド人とユダヤ人の共存の物語は、多文化主義という用語が現れる以前の長い実験と見做すことができるかもしれない ⇒ 歴史の多くの時期を通じて、真の多文化社会であり、16世紀のポーランド・リトアニアの絶頂期には多くのマイノリティが存在し、民俗学的に見たポーランド人は国内の人口の半分以下だった
そんな中、ポーランド人は宗教的少数派に対して驚くほど寛大な態度をとり、ユダヤ人の共同体は宗教的、民衆的偏見にも晒されたが、同時に法律と特権によって大きく守られていた
2つの民族間の正しい関係という問題は、ポーランドの歴史全体を通して続いている議論のテーマであり、民族的境界線の両側で提案された回答は様々で、単純ではないが、両者の間で起こった紛争のいくつかは、もっぱら反ユダヤ主義の範疇で理解するよりも、多数派・少数派の関係の観点から理解することができるかもしれない
ポーランドのシュテットルは通常、貧しい伝統主義者と肌合いの違う下位文化、即ち正統派ユダヤ人と前近代的な農民という2つから成り立っていた。道徳的・精神的な面では2つの社会は双方の許で互いに完全に分離していたにもかかわらず、両社会は物理的に極めて近接して、望むと望まざるとにかかわらず親密さを保って暮らしていた
2次大戦中シュテットルは、そこに住んでいたユダヤ人が自らの隣人からもっとも直接的な残虐行為と、そしてまた最も直接的な寛大な行為を体験した場所
なぜこのことを記憶にとどめておく必要があるのか。何のために、どのようにしてか。過去のみならず、現在でもポーランド人の集合意識の中にある。特にこの数年ユダヤ人の歴史と文化への関心の復活とともに、反ユダヤ主義のレトリックが復活していることが問題をこじらせている

第1章        ポーランド・ユダヤ人の世界――歴史的背景
信仰の時代には、宗教的な反ユダヤ主義は、ヨーロッパ中で支配的だった世界観だったにもかかわらず、ポーランドのカトリック教会がこのイデオロギーにさらに厳格に従い始めていた時期でさえ、ユダヤ人共同体のために相対的に安全な雰囲気を作り出し、発展と繁栄を可能にしたこの国では、相反する力が働いていた。ルネサンス時代が始まった時、ポーランドはユダヤ人が他の国々を追放されたときに移住してくる場所であり続けており、中世末期とルネサンスを通じて、ポーランド諸王はユダヤ人の入植と国の商業の発展への参加を奨励し続けた
上層階級によるユダヤ人重用の裏返しとして、社会序列の最下層ではユダヤ人に対する偏見は理性的なものというより神話的なもの、世故に長けた「他者」というよりは神秘的な異質さという点で認知され、彼らに関する感情には迷信的な畏敬と畏怖が加味されていた
ユダヤ人の側は、他のマイノリティ集団と異なり、同化したり周囲の文化の色合いを帯びたり、他の人たちのようになろうとはせず、何世紀もの流浪と迫害の時期を通じた頑固な人々の頑なな意志を持ち続けた
西ヨーロッパが宗教を背景とする暴力に苦しんでいた宗教改革期に、ポーランドはあらゆる種類の教義上の反対派にとっての避難所になった ⇒ 1573年には宗教的寛容の原則が「一般寛容令」として正式に謳われ、ルネサンスの影響力の最盛期にはポーランドは「焚刑のない国家」であることを誇っていた
1794年エカテリーナ2世との戦いに敗れ、露普墺3国に呑み込まれ、それぞれの法律に支配されるようになったポーランド人とユダヤ人の関係は一層複雑で不幸な局面に入る

第2章        初期
ベラルーシとの国境に近いシュテットルのブランスクのユダヤ人の歴史は、スウェーデンやロシアとの略奪戦が終わった後、町が再び発展し始めた18世紀後半に始まる
労働に対する需要の増大に魅せられて多様な商売と職業のかなり大量のユダヤ人がき始める。まだ町の領域内に住むことを許されなかったために周辺からの通いだったが、数がまとまると彼らが向かったあらゆる場所でその明らかな印を再建してきた伝統に従ってシナゴーグを建て、最も小さな村にさえカハル(自治機構)を設立
東プロイセンからロシア、ナポレオンと支配者が代わるたびに町は荒廃したが、1810年代後半のロシア政権下になって漸く安定期に入り、町のユダヤ人がその地位を強固なものとし、永続的な共同体の基礎を築き始める
町の2つの部分は親しい間柄であると同時に互いを全く知らなかった。農民はユダヤ人について魔術的な信念を持っており、一方ユダヤ人はポーランド人に対して懐疑的で、互いに真の精神的生活の領域に入ることを許さなかった――世界を共にしてはいなかった

第3章        諸外国のあいだで
18世紀末から第1次大戦終戦までのポーランド史の最も重要な事実は分割で、ポーランドはもはや存在しなかったが、ポーランド人のナショナリズムは無慈悲に抑圧されたために一層熱烈なものになっていった
最も抑圧的で危険な占領者はロシア人で、19世紀を通じてロシア皇帝の支配に対する反乱、暴動に終始したが全て敗北に終わり、ポーランドのエリートの大部分が亡命地で暮らした
運命の類似が時にポーランド人とユダヤ人を同一視させ、緊密に結びつけたが、自らの苦境の方が上だとするそれぞれの集団の信念が両者間の鋭い対立を生じさせることの方が多かった。またその一方で、19世紀を通して労働の役割と種類の分裂が鮮明となるにつれ、2つの集団間の経済競争がますます激化
帝政ロシアの統治に対するユダヤ人の態度は複雑で、徴兵令などには反発したが、基本的にロシア統治の正当性を受け入れ、復活するかもしれないポーランドよりは、大きな多民族国家のロシア帝国の一部としてのほうが、何度も苦渋を飲まされ裏切られながらもより大きな全面的解放の可能性があると考えていた
ロシアによる2つの集団の分割統治が、両者の間に既に存在していた亀裂を深めた
ナポレオンの侵略により、その納入業者となったユダヤ人の富と人口が増大、実業家の何人かは強大な金融王朝を打ち立てたために、ポーランド人は自分たちの不幸の上に築かれたものとして妬みと憤りを呼び覚ました
1830年の11月蜂起として知られるロシア人に対する最初の暴動の際は、ロシア人に失望したユダヤ人がポーランド国民軍に志願しともに戦ったが、鎮圧により短期間の連帯は終焉を迎える
1863年の1月蜂起は、ポーランド人の19世紀中で最も重要なロシア人に対する行動で、ユダヤ人ともそれぞれの運命が繋がり合っているという共通認識から力を合わせたが、敗北の後は元の木阿弥に
ブランスクのユダヤ人人口は、1857年には1845人の39%を占めるまで急激に増加、織物工場や皮革ベルト製造工場などを設立、貧富の差も増したが、63年以後の数十年間、ロシアの支配を転覆する新たな試みはなくなり、民族間の関係も安定を取り戻した
1881年進歩的なロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺の後、反ユダヤ主義的な迫害の波が続き、リトアニアのユダヤ人(リトファク)が避難所を求めて旧ポーランド領内に難民として流入したため、ポーランド人はユダヤ人難民がロシア化のプロセスの道具になるのではないかと不安視。一方で、ブランスクなどからはユダヤ人がアメリカに新天地を求める動きも出始める
19世紀最後の数十年間にさらに独断的で排外主義的な民族主義が出現した結果、ユダヤ性に関する否定的なステレオタイプが一層強まる ⇒ ポーランド人の側では、復活したポーランドの幻像はますます抽象的で純粋主義的なものになる一方で、ユダヤ人の間ではどのようにしてポーランド人になりたいかを巡る論争が再開
190514年のシュテットルの歴史は、外の世界による浸透がますます強まった時代で、外の世界から守ってきた宗教的、文化的、社会的絶縁体の層は穴を穿たれ、変化は穏やかではあれ、微妙に決定的なものだった
新たに開けた世界にシュテットルから雄飛して活躍したユダヤ人にレイブ・ヤクブ・フラインドがいる。第1次大戦勃発とともに上海に向かい、最初のユダヤ人合唱団を設立、上海の日本領事の助けを借りてロシア領コヴノ(現リトアニアのカウナス)の日本領事だった杉原千畝を説得し、ロシアのユダヤ人に通過ビザを発行させた。戦時中捕虜となり日本の強制収容所に抑留され、戦後はアメリカに移住
1次大戦はブランスクではロシア当局からの動員通知によって布告され、すぐにロシア軍が到着、司令官は本物のポグロミスト(ユダヤ人集団虐殺の指導者)。ユダヤ人共同体はロシア人支持とドイツ勝利に賭ける人たちに分裂
ポーランド人にとっては、最大の独立回復の機会でもあったが、右翼民族主義者と社会主義者は相反する、敵対する目的を追求していた
15年後半にドイツ人が優勢になったところで支配者が入れ替わり、ドイツの占領が38か月続くことになったが、強制労働と略奪により残虐を極めた
1811月突然ドイツ軍が去り、独立ポーランドの復活が布告によって宣言
2つの大戦の合間の20年は、ポーランドのユダヤ人にとっては有り余る激動を運命づけられた時期 ⇒ 巨大な拡大と発展の時期、大胆な政治活動と文化的開花の時期、ほとんど説明がつかない変化の加速の時期。新時代の始まり

第4章        両大戦間期
シュテットルでは、ポーランド人とユダヤ人の結婚は完全に恥ずべきことと見做されていた。カトリック教徒とユダヤ教徒は決して互いの礼拝所に入らなかったし、互いによく知っているとしても単に近接して住み、身近であったが故で、率直な意見交換や親密さからではなった
18年の臨時政府任命直後、臨時国民委員会と民兵が設立され、ユダヤ人もメンバーに入っていた。ブランスクでも新たな秩序の一部にユダヤ人を含めようとしたが、ドイツ軍撤退後の混乱の中で、再び小競り合いと殺人と放火の現場となる
パリ講和会議の前の数か月、雑多な民族が混住する領土の全域で、潜在的に影響を受ける集団間の緊張が高まる
ユダヤ人の中でも東西で見解の相違が生じ、東ヨーロッパの代表団は主にシオニストで構成され、ユダヤ人国家を獲得するという目的とは別に、新しい国々の中での大きな政治的、文化的自治権を要求し、西ヨーロッパのユダヤ人は直接自らの運命に関わる問題ではないところから、少数民族の権利よりは、彼らが暮らしている国々への自身の応化に基づく公民権など、より限定された協議事項を受け入れるよう促す
新生ポーランドの平和は長く続かず、20年春には国境に集結してきたボリシェヴィキ軍に対抗してポーランド・ソビエト戦争を起こすが敗北、ブランスクは再びソビエト軍に蹂躙されたが、赤軍はワルシャワで奇跡的に撃退され、敗走中にブランスクのユダヤ人の多くは赤軍と共にソ連に逃亡、大半はそのままソ連邦に留まった
ポーランド軍がブランスクに再突入した時には、さらに大きな混乱が起き、ユダヤ人の虐殺が行われるが、それが反ユダヤ主義に基づく暴力行為か、政治的報復だったのか、純然たる犯罪行為だったのかは明らかではない
正常な状態に復したのは21年のボリシェヴィキとのリガ条約調印後。新憲法発布により、宗教、言語並びに文化的特質を保持する権利が認められ、平等の市民権も保証されたが、両大戦間のポーランド政治は、国家としての独立と民族集団の問題を軸に動く。崩壊する諸帝国から誕生したほとんどの新興国同様、新生ポーランドもまた民族集団の寄せ集め
民族上のポーランド人は69.2%、ウクライナ人が14.3%、ユダヤ人が8%
1世紀以上にわたる分割の後では、ポーランド政治の最重要問題の1つはアイデンティティで紛争の種になったが、「ユダヤ人問題」に憑りつかれていったことも疑いない
ユダヤ問題の本質が変化し、より政治的、イデオロギー的な問題となり、新生ポーランド国家の中で、ユダヤ人の性質がポーランド人のアイデンティティとは根本的に異なる別の民族と見做され始め、公然と反ユダヤ主義を掲げる右翼集団も誕生し勢力を拡大
一時平穏で相対的安定の幕間が可能となったが長続きはせず、大恐慌が多大な打撃を与え、住民の大部分が極度の貧困に陥る。多くの主要産業がユダヤ人に支配されたままで、ポーランドの労働力の40%以上を雇用していたことが、反ユダヤ主義を過激なものにする
ブランスクでも、ナショナリストの暴力によるボイコットが始まり、醜い対立をもたらす

第5章        ショア
3991日ドイツ空軍がブランスク上空を飛びドイツ軍のポーランド突入を告げ、1週間後にはユダヤ人地区を中心に爆撃、更に1週間後には戦車が侵入、直ちに反ユダヤ的な政策が実施された。その10日後にはリッペントロップ=モロトフ条約に基づきドイツ軍はブランスクから撤退。代わってソビエト軍が入ってきたが、ポーランド人にとってはドイツ軍と同じように嫌われた宿敵だったが、ユダヤ人にとっては解放軍と見做され、イデオロギー的親近感を感じた人すらいた ⇒ ユダヤ人共同体の花と歓呼の声に迎えられたソビエト軍は、ユダヤ人住民に好意的な新秩序を導入し、新たな機関の高い地位に共産党と協力関係にあったユダヤ人が就いた
間もなく、すべての国有化が始まり、ブルジョアの財産を没収したので、新体制の不利益はポーランド人にもユダヤ人にも同じように感じられた
11月にはポーランド全土でインテリと貴族を中心にシベリアへの強制移住開始
406月ヒトラーの裏切りにより、ドイツ軍によるソ連への攻撃開始。ブランスクは退却するソ連軍と侵入してきたドイツ軍の双方から残虐行為を見舞われ、11月からは人間狩りが始まる ⇒ ブランスクでは3日間で2000人のユダヤ人がトレブリンカに運ばれ、到着の数時間後に全員ガス室で殺害、ゲットーは撤収。カトリック司祭が説教を行い、人々に殺人行為に手を染めないよう呼び掛け、困っている人たちを助けなさいと命じた
匿ってもらったユダヤ人もいたが、密告により殺害された人もいたが、ナチスに鼓舞されて残虐さが常態化
パルチザン活動を始めたユダヤ人集団もあった。ソ連軍の脱獄囚集団と共闘、移送列車から逃げ出した人々も加わって拡大し続け、武器を入手することで交戦能力を保持
問題はポーランドの主たるレジスタンス勢力だったアカ(AK)という国内軍の脅威だったが、一方でアカはユダヤ人支援協議会を設けるなどユダヤ人救済に動いた面もある
448月ワルシャワ蜂起 ⇒ アカがナチスに対する最後の抵抗を呼び掛け、63日間に24万の一般市民が命を落としたが、赤軍は対岸に留まり、すべてが終わった後川を渡っただけで町を占領
ブランスクにとって戦争は、45年になっても終わらず、ソ連軍は1月まで町に留まる
448月以降ポーランド全土で新たな逮捕とシベリアへの強制移送が始まり、3年間内戦状態が広がり、共産主義者と国内軍の間で、様々な武装パルチザン部隊と自警団の間で、ポーランド人とベラルーシ人の間で、ポーランド人とウクライナ人との間で残虐な武力衝突が勃発、互いに大量殺戮を行う
ブランスクの生き残ったユダヤ人は隠れ家を出たが、集まったのは76人で、自分たちの共同体と生活様式が完全に破壊されたことを痛感 ⇒ ほとんどが48年までに合衆国とイスラエルに移住。町からユダヤ人が消えた

エピローグ
ブランスクのユダヤ人の物語、ホロコーストの期間のポーランド人とユダヤ人の物語、戦争中のポーランドの物語は、畏怖の念を、そして恐怖を呼び起こすすさまじい物語で、それを前に黙り込まないことを選ぶとしたら、熟考し分析することを選ぶとしたら、そのことをどう判断したらいいのか、どう解釈したらいいのか?
助けた者がいた、傷つけた者がいた。これが私たちの知るすべて。動機や心の状態を理解しようと試みるのであれば、この道徳的な歪みの心理的効果を私たちの判断基準の中で考慮しなければならない
ナチスによる占領は、とりわけユダヤ人に関しては途轍もなく転倒した倫理観の世界を作り出した
50年以上も経った今、なすべきことは当時とは違う。今日記憶が果たすべき任務は、罪を犯した人たちを許すことではなく、その図像の全く異なる部分、部分を1つにまとめること、あの恐ろしい状況の構造を全体として理解すること
今日もなお2つの共同体を分け隔てている溝は、両者の共通の歴史の中で最も持続する事実であり、この溝にこそポーランド人の行動の連続性を探るべき
ポーランドのユダヤ人世界であるシュテットルはもはやなく、2つの民族、2つの国民は、2組の記憶を突き付け合っている
1970年代、ポーランドの政治的自由化とともにユダヤ人観光客がブランスクにやって来て、より具体的な記憶を呼び覚まし始めたが、社会全体の意識や「ユダヤ人問題」についての議論を甦らせることはなかった
それが突然変わったのが1989年 ⇒ 東欧全域で共産党による規制が解除されるとともに、抑圧された過去の中身がしばしば完全に保存された形で再び姿を現した。ポーランドの中のユダヤ人、というよりユダヤ性という抽象的観念についていえば、反ユダヤ主義的な観念と、強い、時にはノスタルジックなユダヤ人の歴史と文化への興味の両方の復活を意味した
ポーランドのユダヤ人の歴史を研究するユダヤ人学者の数も増えているが、反ユダヤ主義的な動きも顕在化し、昔ながらの偏見が最も非現実的で頑迷な形で根深く続いていることを示すものの、ポーランド人の生活の中では周辺的なものであり続けている
ホロコーストは反ユダヤ主義の最も極端な結果だったが、その大惨事から引き出されるべき結論は単純明快で、人種差別主義的偏見は容認し難い感情形態であり、そこに陥らないように私たちは絶えず用心し、自己鍛錬しなければならないということ
ブランスクには墓石と殺害された人々に敬意を表して、自分のものではないものの世話をしようとした人によって修復された記念墓地がある。これこそ統合と和解の行為であり、戦争中の憐みの欠如があまりにも暗い結果をもたらしたために忘れられ、その後あまりにも長い間2つの記憶は絶縁状態となり、その結果古くからの裂け目と傷を深めた。ポーランド人とユダヤ人が今こそ、寛大さの記憶と記憶の寛大さを取り戻し、共苦を共有すべき



(書評)『シュテットル ポーランド・ユダヤ人の世界』 エヴァ・ホフマン〈著〉
2019540500分 朝日
 町から消えた「民族共存」の記憶
 第2次大戦前、ポーランドには300万のユダヤ人が住んでいた。大戦後に残ったのは24万から30万。ナチスの強制収容所の多くは占領下ポーランドに作られた。この地ではホロコーストの話題はタブーである。
 事実、1996年に米国のテレビ局が、東部の町ブランスクにおける第2次大戦中のポーランド人とユダヤ人との関係を描いた番組を放映すると、強い反発がおこった。ユダヤ人の殺害や強制移送にポーランド人が関与したとするのは誤りだ。ホロコーストの全責任はナチスにある。大戦で300万の犠牲を出したポーランド人は被害者なのだ。
 同じ町を舞台とする本書は、歴史を遡(さかのぼ)ることでより多層的な物語を紡ぎ出す。中世にユダヤ人の大量移住が始まって以来、ポーランドでは不安定ながら民族共存がみられた。反ユダヤ主義も存在したが、寛容が勝(まさ)ったからこそ移住が続いたのである。ユダヤが「シュテットル」と呼ぶ小さな町々では、宗教や伝統が継承され文化が花開いた。
 他方、ブランスクは両民族にとって過酷な地でもあった。18世紀末のポーランド分割ではロシア支配下に入り、第1次大戦中はドイツに占領された。第2次大戦の勃発とともにソ連の占領を受け、独ソ戦が始まるとドイツが侵攻する。この間、多くのポーランド人がシベリア流刑となり、ユダヤ人は絶滅収容所に送られた。支配者が入れ替わる中、民族間の信頼は崩壊する。人口4600人の半数を超えるダヤ人のうち、生存者は76人だった。
 シュテットルの消滅と並行して、町々の記憶からもユダヤ人の姿が消えていった。さらに、ポーランドでは昨年、自国のホロコースト加担を批判することを禁じる法律が制定された。原著出版の1997年に、著者が歴史的対話の可能性を楽観したのとは逆の展開である。ポーランド人とユダヤ人が苦しみながらも共に紡いできた歴史。その重さと儚(はかな)さを思い知らされる。
 評・西崎文子(東京大学教授・アメリカ政治外交史)
     *
 『シュテットル ポーランド・ユダヤ人の世界』 エヴァ・ホフマン〈著〉 小原雅俊訳 みすず書房 5832円
     *
 Eva Hoffman 45年ポーランド生まれ。作家。カナダ、米国を経て英国在住。著書に『希望の鎮魂歌』など。


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