数学の贈り物  森田真生  2019.6.14.


2019.6.14. 数学の贈り物

著者 森田真生 1985年東京都生まれ。小4までアメリカで育つ。独立研究者。東大理学部数学科卒後、独立。現在は京都に拠点を構え、在野で研究活動を続ける傍ら、全国各地で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」など、ライブ活動を行う。『数学する身体』で第15回小林秀雄賞。編著に岡潔著『数学する人生』
公式ウェブサイト http://choreographlife.jp

発行日           2019.3.22. 初版第1刷発行
発行所           ミシマ社

初出 『数が生まれる』(『母の友』2018n9月号――『数える』)
『隔たりの彼方から』(『すばる』1811月号――『母語』)
『数学の贈り物』(『みんなのミシマガジン』141月~191月――上記2篇を除く17)をもとに全面的に加筆・修正を加え、1冊の本として再編成したもの

19-04 数学する身体』参照

偶然の贈り物
偶然とは何か。あることもないこともできるものであり、何かと何かが遇()うこと、さらに稀にしかないこと。目の前の何気ない事物を、あることもないこともできた偶然として発見するとき、人は驚きとともに「ありがたい」と感じる。「いまpresent」があるがままで「贈り物present」だと実感するのは、このような瞬間である
手許にない何かを得ようとするのではなく、はじめから手許にあるものを掴む。そのために自分の存在すべてを、思考で満たそうとしてきた
いろいろあったことの全ては、そうでなかったこともできたはず。無に直面しながら、無に転落することなく、偶々そうであったことの全ての果てに、本書が生まれた。その偶然に驚くとともに、この偶然が読者にとっても喜びであって欲しい

I
Ø  捨身 2014.1.1.
あらゆる執着を手放したとき、人は周囲に充ち満ちているものの気配に目覚める。無防備に深闇にすべてを投げ出すとき、人はそれを「どこかで優しくうけ止めてくれる不思議な愛の腕」に包まれる。手放せば手放すほど現れる。あきらめればあきらめるほど頼もしくなる。この逆説にこそ、心の働きの神秘がある
生物学・認知科学の泰斗で、晩年は自らチベット仏教ととなり、54で早世したフランシスコ・ヴァレラが死の直前、”Life is so fragile, and the present is so rich.”と呟いた
生の儚さと現在の豊かさは、同じ現実の両面であり、科学にはこの ”richness of the present(いまのいまの豊かさ)” が欠落していると厳しく指摘
科学は、「心とは何か」「身体とは何か」を問い、理論的に反省し、分析する。こうしてさまざまな主張が生まれ、実験が遂行され、いくつもの「結果」が生み出されるが、その過程でしばしば「そもそも問いを問うているのは誰か」という根本前提が忘却される。そうして問そのものが、生きられた「現在」とは無縁の、「誰のものでもない」ものとして宙吊りになる
西洋の科学と哲学は、存在の確かな「根拠」と「基礎」を探し求めて努力を積み重ねてきたが、根拠に執着する心の傾向自体が、問題とされることはなかった。一方、仏教においては、根拠への執着を手放すことが、あらゆる探求の出発点で、自我と根拠への執着を離れた「三昧」の境地において、初めて皓々たる「現在」が現れるのであって、そこで漸く「現実の経験における身体と心の関係」の探求が始まる
岡潔もまた、自我と根拠への執着を戒め、実感に始まり実感に終わる、新しい科学を始めようとした
数学の本質は、まだ見えない研究対象に関心を集め続けてやめないこと。そのとき、自分も、対象になり切っていなければならない。対象から切り離された「自我」ではなく、対象と通い合う「真我」を生きる。「真我を自分と思っていると、この一生が長い向上の旅の一日のように思われる」のだと岡は語る
科学が21世紀においてもなお、人類にとっての切実な生きた営みであり続けるためには、それは “the present so rich”(ママ) を内包したものでなければならない
岡とヴァレラの生きた道程は、私たちに託されたメッセージであり、「豊かな贈り物(rich present)」なのである

Ø  風鈴 2014.7.1.
道元禅師34歳の著で道元説法の第一声ともいわれる『正法眼蔵』「魔訶般若波羅蜜」の巻に師・如浄禅師の詩『風鈴の頌(じゅ)』を紹介
生きるということは、虚空に風鈴が鳴ることに似ている。肉体が生滅を繰り返す、その間も風は休みなく吹いている
2300年前のギリシャの数学者ユークリッドが著した『原論』は、数学史上最も長く読み継がれてきた古典であり、現代に連綿と伝わる古代の風だ
人は言葉を使うとつい、意味に固執してしまう。ユークリッドは自ら数学の設計において、思考に余計な意味が介入するのを厳しく戒めた。だからこそ、彼の形式に従うものは、ただ空っぽの渾身で、数学三昧に徹するほかない
数学をしている限り、思考に自我が介入する隙はない。それでいて、思考を放棄するというのでもない。ただただ渾身で、数学の風を浴びる

Ø  身軽 2015.4.1.
「近代哲学の父」デカルトには定職がなく、報酬を求めなかった ⇒ 富より自由を、地位よりも思索に打ち込む静謐を求めたのだろう
若くして亡くなった母から相続した資産を売却して得た資金で、慎ましやかな研究者としての暮らしを続け、29歳の時、「自らの全生涯を、自らの理性の開発に用い、自ら課した方法に従って、真理の認識においてできる限り前進する」ことを自分の本当の「仕事」とした
芭蕉が処女作『貝おほい』を提げて、郷里の伊賀を離れ江戸に向かったのも29歳の春。処女作が売れ、宗匠として活躍、当代人気の「芸能人」として派手な暮らしもしたが、突如として俳諧宗匠の仕事を捨てて引退。一切を放擲した芭蕉の心を慰めたのは、中国の古典と禅、特に仏頂和尚の許で参禅した経験が、後の作風に大きな影響を与える
俳諧はもはや食うための手段ではなく、俳諧のために生活があり、道のために毎日がある。身を軽くすることが即ち理想を重くしていくことであるような、「風狂」の日々が始まる
生きるために道を追うのではなく、道のために生きること。生き死にする身体と、その表面に纏ったすべてを「軽く」して、ただひたすら「理想」に向けて生きるのだ
デカルトや芭蕉は、自ら心に決めた、その道のために生きた。だからこそ、その生涯はいまだに響きを失わない

Ø  白紙 2015.7.1.
数学をしていると、それまで分からなかったはずのことがある瞬間にふとわかる経験をすることがある。それは、数学を学ぶ最大の喜びの瞬間でもある
岡潔が、「自力で解く前に解法を知ると、それはもう解けない問題になってしまう」というのを読んで、初めて回答を閉じて問題と向き合うことを知った ⇒ 心細さをこらえて、ただ自分の身1つで白紙と辛抱強く対峙する
「わかった」瞬間、「零」から何かが生まれる鮮烈な体験をする
知や技術に「便利」はあっても、そこから根源的な喜びを汲み出すことはできない。喜びは、原初的な不思議のほうからこそ、湧き出してくるものではないか

Ø  不一不二 2015.10.1.
キャンバスの上にはキャンバスの秩序があって、言葉の上には言葉の要求がある。それがキャンバスや言葉の外の「現実」と符合するとは限らない。現実に従って何かを表現することもあれば、生まれてしまった表現に、現実の方が鍛えられていくこともある
数学などはこの典型。もとはものを数えたり、距離を測ったり、現実に役立つように作られた言葉だが、数学には数学固有の秩序があるから、いまや物理世界の現実など構わず自由に展開している
実感を表現に写し取ったり、逆に表現に従って実感を更新したり。その往復こそが、創造行為の醍醐味だろう
表現が実感を牽引するのはいいが、実感が表現を手許に引き寄せ続けることも重要。でないと表現はすぐに空疎になる
特に言葉は簡単に嘘になる。そもそもひとときにひとつづつしか言えないのが言葉だから、どうしても極端になる。「嬉しい」と書けばその裏の悲しみは隠れ、「虚しい」と書けば、その言葉の底の生の意欲はかき消されてしまう。本当は、この世の重要なものごとはほとんど、あるともないとも言い切れないようなものばかりなのにだ
Aというのは言い過ぎだが、Aでないというのも間違い」という事態を仏教では不一不二(ふいつふに)という、と岡潔は学生に語りかける。「生きる意味」もそうだろう
自分の人生のことぐらいであまり深刻になるのは愚かだろうが、かといって自分の人生にすら真剣になれないとしたら軽薄。真剣に生きられた些事。その連続が人生だ
1人の一生が地球より重いというのは言い過ぎだろうが、1人の人生など取るに足りないというのも間違い。深刻になるにはあまりにも些細。かといって真剣にならないにはあまりにも貴い。そういう時間を僕らは日々生きている

II
Ø  君が動くたび 2016.4.1.
たった1つの細胞が、どうしてこんなにも表情豊かな赤ちゃんに変わるのか、不思議でたまらない
生後間もなく腸の異常で緊急手術を受けて、新生児集中治療室に戻ってきた体には全身にチューブを通され、点滴の管が張り巡らされていた。生まれたての赤ん坊は、母と宇宙と文字通り一体だというが、目の前の我が子には母と一体であることを許されていない
無事退院

Ø  意味 2016.7.1.
数学は、ひとたび記号運用の規則を身につけたなら、意味が分からなくても行為(計算)できる。意味は行為の後からついてくる ⇒ 分数の割り算や負の数の掛け算の意味は分からなくてもいい
数は当初は日常の「意味」を表現するために導入された道具だったが、ひとたび記号として自立してしまえば、記号世界の秩序に従って、自律的に展開していく
行為に先立つ意味が無いというのは、日常においては常識
なのに、なぜ数学を学ぶ時だけ、人は行為に先立つ意味を求めようとするのか ⇒ 数学が「記述や説明のための言語」でしかないと誤解しているからで、それは数学の狭い一面に過ぎず、数学は説明するだけでなく、それまでなかった新たな概念、新たな操作、新たな方法を生み出しながら、意味のフロンティアを切り拓いていく営み
数学は、安定した平穏な世界の退屈さを突き破る。新たな記号と記号運用の規則を導入すれば、人はそれまでに経験したことのない意味不明は行為に耽ることができる。その行為の反復が、新たな意味を立ち上げる。数学の力を借りて人は、いつまでも幼子のようであることができる

Ø  まっすぐ 2016.10.1.
紀元前300年頃ユークリッドによって編まれた『原論』の最初の「要請」は以下の通り
          すべての点からすべての点へと直線を引くこと
その前に「直線」とは「その上の諸点に対して等しく置かれた線」であること、「線」とは「幅のない長さ」であり、「点」とは「部分のないもの」であることが定義として明記されている
蛇行や屈曲は生き物と環境との対話の証であり、自然の中で「まっすぐ」が実現されることはない
まっすぐは効率がいい。まっすぐは見た目が端正。便利で潔癖は都市には、まっすぐな線が溢れている。その線が人間の行動を支配する
まっすぐ行きたいと願う。脱線を恐れる。屈折が嫌われるようになる。本当はあり得ない直線に囲まれていると、生きることが窮屈になる。人間そう簡単にまっすぐ生きられるものではないからだ

Ø  切断 2016.12.31.
ネットによって、世界の繋がり方はすっかり変わった
何かと何かがつながることは、どこかとどこかが切り離されること。ネットや物流の進化によって、世界は思わぬ仕方で繋がり、意図せぬ仕方で切り離されていく
欲望にとって距離はコストなので、世界の距離は凄まじい勢いで再編されていく ⇒ ネットとともに始まった現象ではなく、150年以上も前、電信と鉄道によって、世界は大規模な接続と切断の時代に突入していた。空間の支配は富を生むが、空間支配の「方法」そのものが、電信と鉄道によってドラスティックに書き換えられたのだ
1899年金鉱目当ての大英帝国とボーア人の間で、南アの植民地化を巡って争われた第2次ボーア戦争では、1870年代にアメリカで主に家畜の動きを制御するために発明された有刺鉄線が、英軍によって線路と電信のネットワークに寄り添うように張り巡らされ、ボーア人の動きを小領域に追い詰め駆逐した。思わぬ有刺鉄線の効果が英軍に勝利をもたらすとともに、「接続は、それと直交する方向に切断を生む」というのが教訓
有刺鉄線が戦術として本格的に用いられるようになるのは第1次大戦のこと。皮肉なことに、それは鉄道と電信の発明がもたらした緊密な「繫がり」による、過剰な恐怖の伝播によって引き起こされた戦争でもあった。物資と情報が高速で飛び交う方向と直交するように、塹壕と有刺鉄線によって人の移動がせき止められた。有刺鉄線は、大規模で安価な壁の建設によって、富と力を産み出す近代を象徴する発明だった
「生きる」という創造の現場で、人間を他の生物から、あるいは生物を他の物質たちから切り離すことはナンセンス。人間を物質のように扱うのではなく、本当は、物質を人間のように扱う思想を育まないといけない

Ø  reason 2017.5.1.
現在と過去を繋ぐ「理由」。「いま」から未来を導く「推論」。「理由」も「推論」もreasonという。「いま」だけにはいられない人の心は、reasonの力で過去や未来を想い、そして「理性(reason)」の力で他者の心を推し量る
reasonという言葉の起源は、ラテン語のratioで、ratioという言葉には「比」という意味がある。単位と比較した時の相対的な大きさを測ること。それが「比」という考え方の基本。「未知」を「既知」に対する比として把握しようとするのがratioなのだ

Ø  情緒 2017.7.1.
言葉はコミュニケーションの道具だが、それ以前に自己を編む糸である。言葉を発することは何かを伝えるだけでなく、世界を生み出すこと。どんな言葉を使って、どんな自己を編み、どんな世界の風景を生み出していくか。ここに大きな可能性の海が広がる
岡潔の『春宵十話』を英訳しているが、63年の出版以来誰も翻訳に手をつけなかったのは、著者の思想の中心にある「情緒」という言葉の訳にぶつかるから
「情緒」には、個人の感情や情動(emotion)と周囲の環境の雰囲気(atmosphere)とが相互に浸透し合っているというニュアンスがあり、さらに岡潔は自ら「作った」言葉としているため、英語での表現は困難

III
Ø  変身 2017.10.1.
私たちが直面する重大な問題は、その問題が生み出された時と同じ水準の思考によっては解決できない (アインシュタイン)
コンピュータリテラシーを身につけることは、読み書き能力を身につけるのと同じように人間を根本的に変容させる可能性がある。コンピュータを単に道具として使うのではなく、コンピュータによって人間が生まれ変わる未来をこそ計算機科学者で教育者のアラン・ケイは夢見ていたが、世界中で20億もの人がスマホを片手にただ便利なサービスを受容している現状を見て、「コンピュータが洗練されたテレビになった」と嘆いた
先人の努力が生み出した技術をただ便利に消費するばかりでは、自ら生まれ変わろうとする主体的な意欲を失ってる

Ø  いまいる場所で 2018.2.1.
遠く、難しい場所だけに価値があるのではない。すべての人が、いまいる場所で、大切なものを既に与えられている。もちろん、そのことに気付くことは簡単ではない

Ø  胡蝶 2018.4.1.
数学は贈り物というのが僕の実感
「いまいるこの場所」には、いつも小さな贈り物が隠されている
『荘子』斉物論篇に、荘周が夢で胡蝶になる有名な一節がある ⇒ 夢の中で荘周と蝶が渾然一体となるが、自分が自分であるままに、その自分がいつの間にか、別の物へと化していた。荘子はこの驚くべき生成変化の妙を「物化」と呼んだ

Ø  かぞえる 2018.5.23.
「かぞへる」という言葉はもともと「か+そへる」で、1日ずつ、二日(ふつか)、三日(みっか)と、過ぎ去った日に「か」の音を「そえ」ていくことに由来
茫漠とした時間の流れに、形を与えようとしたのだろうか
数には、人の心の向きをそろえる働きがある。数は世界を切り分け、その切り分け方に応じて、人の心の向きを揃えていく
人は他者と共鳴し、共感しながら、社会を生きる存在 ⇒ 人の振る舞いを予測し、予測されながらやり取りするうちに、自然とそこにルールが生まれる。ルール自体場所や時代によって移り変わるが、そのルールに気付き、それに従い、時には敢えて逸脱しながら生きる

IV
Ø  パリ 2018.7.1.
旅に出ると、世界は狭くて広いと感じる
フランスの哲学者との対談で、共通の言葉で安易に隔たりを埋めようとするのではなく、あくまで乗り越え難い隔絶に直面した上で、互いの言葉を「翻訳」していく、その緊張の中で、自己の言葉を編み直していくこと、その手間と時間の係るプロセスこそが、「普遍的なもの」に至る道だと哲学者は説く ⇒ 隔たりを乗り越えていくためには、「十分な時間をかけること」が肝心

Ø  母語 2018.9.1.
子どもの最初の思考と認識は、母の語りかけてくる言葉=母語の中で形成される
偉大な哲学者であり数学者でもあったライプニッツは、文化的に貧弱な言語と見做されていたドイツ語の改革の必要性を訴え、語彙の拡充に始まり、良質な単語を収集、必要とあれば新しい単語を1から構成することを提案。特に具体的な物や手工業に関わる事物に関しては十分豊富な語彙があるものの、五官で触れることのできない抽象的な事物、例えば論理学や形而上学で話題とされるような事柄に関してはドイツ語の欠陥が目に付くことから、術語を多く導入し、母語の改良と育成に努めた
更に人工言語の創造にも取り組み、後のコンピュータとそれによって可能になる人工知能の研究の礎石となった

Ø  探求 2018.10.1.
「規範」に従って人間は社会を営む。同じ規範に、尊ぶべき「英知wisdom」を見るか、乗り越えていくべき「偏見bias」を見るかで、現実はかなり違って見えるにも拘らず、見極めることは簡単ではない

Ø  現在(プレゼント) 2018.12.31.
頼りなく移ろい続ける世界に、単位という基準を打ち立て、それと比較して物事をはかる。こうして把握される「比ratio」を通して世界を認識できるという考えは、数学という営みの源流にある。はかられた量は、対応する表彰を操作することで「計算」出来るようになる。何千年もかけて数学は、この「計算」という営みに秘められた可能性を掘り起こしてきた
はかばかしくあること、捗ること、そしてすべてが思い通りに進捗していくことが、現代においては、絶対の価値であるかのように信奉されている。そこでは、世界に「はか」という尺度を押し当て、物事を単位と比べて相対的にはかるという姿勢自体の特殊性が改めて顧みられることはない
はかり、はかどることばかりに躍起になって、はかない瞬間の光をつかむことが出来なくなっては本末転倒
はかないこの世界を、思いやり、思い入り、そこにはからずも到来してくる現在という贈り物を、僕は自分自身の言葉でつかみたい


あとがき
「おくり」と「おくれ」は同根。「贈り物」を贈る時には、いつも「遅ればせながら」の実感がある。心に抱きながら、伝えられずにいた思いを、おくれの自覚とともにおくるのだ
人は誰もが、この世に遅れてきた存在故に、生きることは学び続けることになる。自分の先立つ人たちが考え、気づき、感じてきたことを、改めて自分の言葉と思考で、掴み直していくことになる。こうして学び、発見していく喜びもまた、いつも「遅ればせながら」の実感を伴う
学ぶことは、前に進むだけでなく、自分の遅れに目覚めていくこと。自分の果てしない遅れに戦慄するとき、現在(いま)は、ただいまのままで贈り物になる
本書は、ミシマ社との長年にわたる共同作業の果実。言葉は、書く人から生み出される以上に、読む人から引き出されるもの
言葉とは本来、「こと」の「端()」だという。言葉は事実に比べていつも不完全。肉声によろうが、文字によろうが、言葉は事実に遅れる宿命にあるが、「こと」を引き起こす力がある。言葉はこのとき未来への「端(きざし)」となる。人は初めからあった世界の端くれとして生まれ、いまだかつてない世界の端(きざし)を示して、滅びていくとができる。おくれ。おくられる人間のことばは、この矛盾をそのまま内包している


「数学の贈り物」 森田真生氏 先人の気付きをつかみ直す
2019.4.6. 日本経済新聞
「人はみな、とうの昔に始まったこの世に遅れてやってくる。先人の気付きを自分の言葉で考え、つかみ直すことを繰り返しながら、果てしのない遅れを自覚するとき、present(今)がpresent(贈りもの)だと実感する」
https://www.nikkei.com/content/pic/20190406/96959999889DE6E1E1EAE0E0EAE2E2E7E2E6E0E2E3EB9F8BE5E2E2E2-DSKKZO4338230005042019MY7000-PN1-1.jpg
数学を糸口に学びの世界が広がる随筆集だ。ウェブ雑誌に2014年から季節ごとに書いた17編を基にした。連載開始とほぼ同時に、数学に関する本を扱いながら生きるとは何かを語るトークライブも始めた。「ライブで直接言葉を届けるように、親密な、心の通う相手に向けて言葉をつないだ。来場者に直接本を手渡すつもりで本を贈りたい」
16年に息子が生まれた。子供は大人のように空気を読んだり、効率を追求したり、損得だけで動いたりはしない。子供はその一瞬一瞬を懸命に、こん身の力で生きる。「自分が滅びても命がつながることに希望を感じられるようになったことが一番大きい」と話す。
表題には「数学」が入るが、数式はほとんど登場しない。「英語のマセマティクスの語源はギリシャ語のマテマータ。『初めから知っていることを再びつかむ』という意味がある。ソクラテスは『学び知ることは思い出していくこと』だと言った。本来の意味を首尾一貫して使い広めたい」
岡潔、オスカー・ワイルド、松尾芭蕉、アラン・チューリング……。生きた時代も活動分野も異なる人物が登場する。彼らがどう共演しているのか。それを楽しむのも面白い。
難解な数式とにらめっこするわけでなく、息子との散歩や友人との会話など日常から生まれる一瞬の気付きから研究は始まる。身体的な実感が伴った生きた言葉が持ち味だ。
「言葉は本来『こと』の『端(は)』だという。言葉もまた事実に遅れるが、『こと』を引き起こす力があり未来の『端(いとぐち)』となる」。この本が今を生きる人に、そして遅れてやってくる未来の子供たちに届くことを願っている。(ミシマ社・1600円)
(もりた・まさお)1985年東京生まれ。大学や研究機関に属さず在野で活動する独立研究者。デビュー作『数学する身体』(新潮社)で小林秀雄賞を最年少受賞。


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