エドガルド・モルターラ誘拐事件  David I. Kertzer  2019.4.15.


2019.4.15.  エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一
The Kidnapping of Edgardo Mortara         1997

著者 David I. Kertzer 1948年生まれ。ユダヤ人。ブラウン大卒。同大教授。イタリア政治、社会人類学、人口統計学等が専門。97年に発表した本書は、全米図書賞最終候補作となり、パブリッシャーズ・ウィークリー誌の年間ベスト・ブックスに選出。スティーヴン・スピルバーグ監督による映画化が決定している。15年に『The Pope and Mussolini』でピュリッツァー賞(伝記部門)受賞。他の著作に『儀式・政治・権力』等がある

訳者 漆原敦子 慶應大文学部社会学科卒。英米文学翻訳家

発行日           2018.8.20. 初版印刷          8.25. 初版発行
発行所           早川書房

ピュリッツァー賞受賞の歴史学者が知られざるドラマを描く全米図書賞最終候補作
1858年ボローニャ。異端審問官の命令により、ユダヤ商人モモロ・モルターラの自宅を警察隊が突然訪れた。彼らの目的は、モモロの6歳の息子エドガルドを家族から引き離し、時の教皇ピウス9世の元へ護送することだった
エドガルドはなぜ連れ去られたのか?
ユダヤ人一家の悲劇は国際世論の同情を集め、遂には列強が乗り出すことになる
傑作歴史ノンフィクション

プロローグ
イタリア半島では、1つの時代が終わりを迎え、何世紀も続いた体制がいまにも崩壊
教皇の権力と伝統的権威が、仏革命、近代的産業や科学や商業の支持者等、異質な啓蒙主義の申し子に不安を抱えながら対峙
新しい神々、過度な崇拝の新しい対象が生まれようとしている
いくつもの領地やオーストリアの前哨地、教皇領といったパッチワークのようなつぎはぎの土地から、その境界はいまだ不明でその本質はまだ想像できないが、新しい国民国家のようなものが実現しようとしていた
教皇が君主として支配する土地ほど、古い世界と新しい世界の間の溝が大きく、神から与えられた権利による支配が、しっかり定着しイデオロギーによって明確に正当化され、儀式に従って華々しく行われてきた
1858年における教皇領は、ローマからトスカーナ大公国を迂回し北にある第2の都市ボローニャへと北東に向かって三日月を描きながら延びる。3世紀半に亘って不変
179697年フランス革命がイタリア半島を南下してくると、教皇領は貪り食われ、その後の数年で2人の教皇がローマから追放されるという屈辱を味わい、教会財産は競売にかけられた。ナポレオン失脚後は1814年ピウス7世が教皇に返り咲いて聖都に戻り、教皇領は返還されたが基盤は脆弱、反対の暴動が発生、防御を外国の軍隊に頼る
領内には、もともと住んでいたユダヤ人15千人未満が特別な許可のもとに住み続け、カトリック神学の中心的な位置を占め、聖職者から認知されていた。ユダヤ人はキリストの殺害者であり、その惨めな存在はそのことをキリスト教徒に思い出させるために価値があるが、彼らもいつかは改宗して真の信仰の一翼を担い、贖い主の再臨が早まるよう協力するに違いないと考えられたが、16世紀以降教皇たちは接触を制限するためにユダヤ人をゲットーに閉じ込めた。キリスト教徒がユダヤ人の家に入ることは許されず、ユダヤ人の社会は孤立したが、ゲットー内ではユダヤ人がそれなりに豊かな共同生活をし、シナゴーグでラビの指導を受けていた
フランス革命軍が半島を通過すると、ユダヤ人も新しい世界の出現を知り、外に一歩を踏み出す
本書で記録にとどめた出来事は、旧体制を終わりに導く戦いの中で、奇妙に忘れられた一時期に、ボローニャという前廊(ポルチコ)の町、中世の中枢の中心で1858年に始まった
ボローニャで最も権力のあるのは3人 ⇒ 2人は枢機卿で、町の精神的リーダーである大司教と、教皇庁を代表する教皇特使という市民の統治者。残る1人はオーストリアの軍人司令官で、その軍隊はローマの仏軍と共に足元の不安定な教皇統治が倒れないように守っていた
司令本部の向かいにあるサン・ドミニコ教会には、異端と戦って協議を守るため、ローマの検邪聖省によって任命された審問官がいてユダヤ人に課せられた制約を確実に守らせることを唯一の任務としていた
1593年教皇が900人のユダヤ人全員を町とその周辺から追放したため、審問官は仕事がなかったが、仏軍の進駐で一部の大胆なユダヤ人が戻ってきた
教皇領が返還されると、ユダヤ人の身分は再び曖昧となり、町で暮らす権利も明確ではなかったが、それでもボローニャには200人近いユダヤ人が住み、大半は商人
目立たぬようひっそりと住んでいた中に近くのモデナ公国から移り住んだモルターラ夫妻とキリスト教徒の召使がいた

    ドアを叩く音
1858.6.23.モルターラ家に警官が来て、審問官の命令により、8人の子どものうち、6番目のエドガルドが洗礼を受けているとして連行された

    教皇領のユダヤ人
16世紀初頭にはボローニャに活発なことで知られる商取引に熱中するユダヤ人の活気溢れるコミュニティー存在。総勢800人。ヘブライ語の書物の印刷業者と高名なユダヤ人学者たちが学問の中心としてのボローニャの評判をさらに押し上げていた
ところが、当時イタリアはユダヤ人に対して寛大ではなかった ⇒ ルター派やカルヴァン派など異端の宗教改革者から攻撃されたローマ教会が反撃に出て、正統派的信仰を強いる運動が、キリスト教のヨーロッパではずっと異質とされてきたユダヤ人を餌食とした
1553年にはヘブライ語の書物が教皇の命令によって公然と焚書され、56年にはユダヤ人がゲットーに幽閉、更に69年には町から追放、墓も掘り返され修道院のものとなる
86年一旦帰還を許されたが、93年には再び教皇領からの撤退が命じられた
ユダヤ人はエステ公爵家の領地モデナ公国に逃げ、数世紀の間繁栄したユダヤ人コミュニティを作り上げた
フランス革命の影響を受け、イタリア各地で自由主義者による蜂起が頻発、最も影響を被ったのが教皇領
一方で、ユダヤ人排斥運動も浮沈を繰り返しながらも、徐々に激しくなり、受洗行為をもって厳格な線引きがなされ、家族の間でも血縁が解消されるという判決が出て、フランス占領時代廃止されていた異端審問がドミニコ会の修道院で復活
184849年のイタリアでの暴動は、同年ヨーロッパ各地で勃発した反乱に続くもの。2月にパリで新しい共和国誕生、3月ベルリンでは憲法制定とプロイセンでの自由主義政府の設置が約束され、さらにイタリアにとって最も重要だったのが同月ウィーンでの反乱によってメッテルニヒ宰相が失脚、自由主義政府が置かれたこと
最初がシチリア人の反乱で首都ナポリまで広がると、無能な支配者だったブルボン家は憲法制定を約束。その動きが一般民衆の反乱を予想して狼狽したほかの統治者たち、サルディーニャ王国、トスカーナ大公国から教皇ピウス9世迄伝染
イタリア北部のオーストリア領ロンバルディア=ヴェネト王国の中心地ミラノでも反乱がおきたが、4月教皇ピウス9世がオーストリアとの戦争に教皇領が介入することに反対したため、民衆は教皇に反乱をおこし、一気に教皇の権威が衰えナポリに逃避すると、492月シチリアの英雄ジュゼッペ・ガリバルディがローマに到着、ローマ共和国の誕生を宣言。ボローニャでもローマ憲法制定会議の最初の法令が公開され、教皇統治の終焉を宣言
ところが5月にはオーストリア軍の反撃が始まり、ボローニャは奪還され、教皇の紋章を元に戻し、再び教皇領の一部となり、モデナ公国も復活、フランス軍もローマに侵攻してガリバルディとジュゼッペ・マッツィーニを追放、共和国は終わり、オーストリア軍の恒久的駐留と弾圧による支配が復活
1850年に治安が回復すると、モルターラ家もボローニャに戻ってきた

    信仰を守る
51年モルターラ家のボローニャでの最初の子エドガルド誕生
53年ボローニャの枢機卿が交代。オーストリアとの新しい協定を締結するという功績から大司教に抜擢された枢機卿で、権利主義的。キリスト教の戒律を厳格に守り、市民を監視しようとした
大司教の洗礼の計画は、神学理論に基づき、若者のモラルの退廃を懸念し子どもたちを伝道活動に参加させる方法を模索 ⇒ 58年にボローニャに来たサーカス団の売り物だった人食い人種の少年を買い取ってキリスト教の教育を授け洗礼をうけさせた
モルターラ事件への膨大な数の抗議とヨーロッパ中に拡散していることに対し、それらを空想やホラ話として切り捨て、記事を載せた新聞に不信心・異端・ユダヤ的の烙印を押す
反動的のみならず、人々の市民としての道徳的な進歩に逆行するかのような大司教の宗教的再生運動が始まり、教皇は妥協しないことで破滅の道を突き進んでいた

    絶望の日々
審問官に召喚されたエドガルドの行く先は秘密。一旦洗礼を受けた子供はユダヤ人の両親と暮らすことはできない
カトリック神学では、洗礼はイエス本人によって制定された儀式であり、洗礼と共にキリストの聖なる体の一部となり、真の教会の一員となるもので、受洗者を原罪とそれまで犯したすべての罪から解き放ち、永遠の命を与えられる。司祭でなくとも、キリスト教徒でなくとも、洗礼を施す人間に正しい意図がある限り、誰でも儀式を執り行うことが出来る
19世紀のイタリアでは、ユダヤ人の子どもの連れ去りはありふれたこと。異教徒を改宗させる目的で頻発した
ユダヤ人家庭がキリスト教徒の女を召使として雇うのは、キリスト教とユダヤ教の安息日が異なるためもある ⇒ 金曜の日没から土曜日に非ユダヤ教徒がいない家庭では快適な生活が出来ないため、ほとんどすべてのユダヤ人家庭がカトリック教徒を雇っていた
教会はそれを面白く思わず、ユダヤ教と信者を引き離すことに注力。ユダヤ人を扱った教皇勅書と審問官声明の歴史は、この禁止令の繰り返しと度重なる拡大の歴史だった
代表的なものが1733年ボローニャで発布された「ユダヤ人に関する勅令」で、何十もの制約の中に、男女を問わずユダヤ人がキリスト教徒を雇うことの禁止が謳われている
召使の中から洗礼を施した犯人が見つかり、直前にやめて結婚していたが、問い質すと、その時の状況を話し出す。まだ14歳のころ、生まれて間もないエドガルドが病気で死ぬかもしれないとなったとき、他人に相談したら洗礼をすることを勧められ、教えられるままに意味も知らずに施したが、その後元気になってすべて忘れていた。エドガルドの弟が生後間もなく死んだときに、他人から洗礼を施しておけばよかったと言われ、ついエドガルドの時はそれをやっても何の効果もなかったといったのが回りまわって、ある日審問官から呼び出され全てを告白せざるを得なくなる
この告白を交渉人の前でさせようとしたが、もうその時には召使は姿を消していた

    メズーザと十字架――エドガルド、ローマへ行く
ユダヤ人は、国家当局を相手にするときにはユダヤ的外交活動ともいえる特別な手段を育んできた ⇒ 地元に結集したコミュニティの事務所が代表して統治者に対して申し立てをするのが習わし
エドガルドのケースもゲットーを経由して瞬く間にイタリア全土のユダヤ人世界に拡散したが、教皇のお膝元のローマのユダヤ人コミュニティのリーダーは教会との交渉は慎重に行うべきとして牽制
キリスト教のすべての教義の中で最も基本的な教義である「キリスト教の優越」と「受洗者が享受する神の加護」が争点となる場合、歴史上ユダヤ人には勝ち目がないことは明白で、連れ去りの物語も、愛する両親の元から子供を誘拐するといった昔話風のものではなく、それまで誤りの生活と永遠の断罪という将来に委ねられた少年が、神の定めによって救済される感動的な物語となる
当然エドガルドをローマまで連れて行った警察官は、エドガルドが素直に言われたことに従い喜々としてキリスト教徒として振る舞ったことをほうこくした

    求道者の家
キリスト教徒にとっても、イタリアのユダヤ教徒にとっても「求道者の家」は極めて重要な意味を持つ場所であり、2つの世界の境界にまたがり、その移行段階には凄まじい力がある ⇒ 改宗者が新しいアイデンティティと新しい名前を手に入れて生まれ変わる
キリスト教徒にとって「求道者の家」で行われていることは神の働きであり、最も崇高なる聖なる贈り物を与えることであり、罪を宣告された人々に神の祝福を授けること
最古の「求道者の家」は3世紀にまで遡る
反宗教改革時代に制定された法令の中に、ユダヤ人は改宗を目的とする説教に出席しなければならないというのがあり、ゲットーの中でも最も嫌われた慣習。毎週土曜日の午後、聖都のユダヤ人グループがゲットーの外に出て、周囲の住民の嘲りを浴びながら近くの教会か公会堂迄歩いて行くことが求められた

    もとの父と新しい父
エドガルドの実父は、救出を確信してローマに向かう
枢機卿は、この事件が教会に過去には想像できなかったような衝撃を与えうると認識し、父親がローマ滞在中は定期的に面会することを許した ⇒ ユダヤ人家族が求道者の家の新改宗者を定期的に訪問することが許されたのは前代未聞
カトリック系の新聞では、エドガルドが父親に面会すると、父親が改宗すれば一緒に住めるというので、父親を説得しようとしたが、かたくなに拒んだということになっている
一方で、ヨーロッパ中の自由主義者から見ると、僅か6歳半の子どもが、今は教皇を本当の父と思い、すべてのユダヤ人に洗礼を授けられるよう宣教師になりたがっているとしている教会側の話は、全く道理に合わない
失意のうちにモモロはローマを去る

    教皇ピウス9
ピウス9世の在任期間は184678年、近代史における最も重要な教皇 ⇒ 自らの努力にもかかわらず世俗の君主から離れ、宗教的な指導者に専念する変換点
フランス革命後の仏軍侵攻の混乱後、教皇統治が生き延びるためには、軍隊が安定を保証してくれるオーストリアとの緊密な同盟しかないと考え、絶対主義的な手法で教皇独裁体制を構築
ユダヤ教徒に対しては寛容を自認していたが、教皇がキリスト教の優越と、キリスト殺害いおける歴史的役割によってユダヤ教徒に与えられた神の罰と、ユダヤ教の信仰と儀式の邪悪さを強く信じていたことから、その寛容だがどういう性質のものは自ずとわかる
あくまでカトリック国家として、ほかの宗教は禁止されないまでも厳しい制約を受けるという原則を貫く ⇒ 特にプロテスタントに対しては教会すら認めなかった

    批判された教皇
モルターラ事件までは、教皇領のユダヤ人に課せられた制約について時折苦情が来た程度で、ほとんどピウス9世のユダヤ人に対する扱いが争いを招いたことはなかった
事件を機にサルディーニャ王国のすべてのユダヤ人コミュイティの代表による緊急会合で、教皇領の同胞が強いられている現状に憤慨、エドガルドの拘束を世界中のユダヤ人に対する侮辱であり、もはや許容できない不名誉の象徴とみなし、自ら他国の政府にも協力を求めるという国際的抗議運動の引き金となる出来事が出来。サルディーニャ王国のユダヤ人は、イタリアで自由にものが言える唯一のユダヤ人だっただけに、ヨーロッパ各国の同胞にまともに受け止められた
教皇庁の時代錯誤的な体質に強い嫌悪感を抱いていたナポレオン3世は事件に激怒、思い切って教皇領に反旗を翻し、オーストリアをイタリアから追い出し、教皇領の大半をサルディーニャ王国に併合しようとした
モルターラ家が外国の協力を求める動きは、政府の行動を促すことの他にもっと伝統的な働きかけも含まれた ⇒ イタリアのユダヤ人は教皇との仲介を必要とするとき、ロスチャイルド家に頼る習慣があった

    召使の性生活
ドイツでもっとも著名な40人のラビが教皇に共同抗議書を送った
未婚の召使の妊娠は決して珍しいことではなく、一般的な職業上の危険であり、未婚の妊婦の絶望的な状況に対する救済策として「捨て子養育院/私生児養育院」まで揃っていて、子どもの受け渡しには厳重な箝口令が敷かれ、未婚の女性の状況を隠すために養育院に預けることが義務付けられていた
エドガルド受洗の唯一の証人である召使の証言内容がいかに信用できないものであるかを証明するため、召使の身持ちの悪さを証明する証人を用意するとともに、教会法がカトリック教徒が両親の同意がなくてもその子に洗礼を施すことが出来るのは子供がいまにも死にそうだと信じられるもっともな理由がある場合に限るとしているところから、洗礼の時のエドガルドの病状について深刻ではなかったという証言を集めて公証人の前で宣誓させ教皇の元に届ける

    アラトリの一幕
子を引き裂かれて錯乱した母親の話は、ヨーロッパの人々の心を揺さぶり、子どもの解放を求めて教皇庁に圧力をかける強力な武器として使われたし、エドガルドに影響を与えるためにも利用された
母親がローマに来ることが決まると、求道者の家の院長はエドガルドを連れて50マイル離れたアラトリに避難、両親が追いかけて行って会おうとしたが、結局院長たちによって阻止されエドガルドはローマに戻る

    母親との面会
遂にローマの求道者の家で面会を許され、以後40日間両親はローマに滞在しエドガルドと会っている ⇒ 訪問中の出来事についても、全く異なる2通りの物語がある

    国際的抗議の広がり
サルディーニャ王国政府の首相で、領土をエマヌエーレ2世の王国に併合してイタリアを統一しようという計画の立案者であるカミッロ・カヴ―ル伯爵は、モルターラ事件を教皇領の時代錯誤の体質を説明するのにぴったりな道具と見て、教皇の世俗の権力に対する支持を弱体化し、ヨーロッパ中で燻っているプロテスタントの反教皇感情を焚き付けるのに役立つと考えた ⇒ ローマ駐在の仏大使が抗議するのに合わせ、大陸全土のローマ教皇大使から反教皇の新たなうねりという厄介な兆候を知らせる最新情報が次々と入る
全米にも飛び火して、抗議の声が大統領にまで届くが、他国の内政不干渉を貫く
ブキャナン大統領は、国内での奴隷制度を巡る内戦の寸前で、奴隷制度の反対運動に説得力を与えるためにヨーロッパの啓蒙された勢力を頼っていたので、ユダヤ人の件で後で自分に不利に利用されるかもしれない前例を作りたくなかった。さらに、自国の奴隷所有を許す地域で始終同じような誘拐事件が頻発しており、教皇のしたことを批判できる立場にもない

    教会の反撃
宗教改革以来、神の言葉と地上の神の道具に対する敬意は失われかけている
世俗的支配者も、自国内の出来事が教皇やその代理人という他国の権力によって決められるような慣習に反抗し始め、教皇の代理人であるイエズス会士が1759年にはポルトガルから、1764年にフランスから、1767年にスペインから、翌年ナポリから追放された
1773年教皇クレメンス14世は抗議を受けてイエズス会を廃止、ウィーンでは1762年ハプスブルクの統治者による事前の承認が教皇の回勅公布の条件とされた。教会が臣民を裁判にかけることを禁じ、国家が臣民の逮捕と審理の権限を独占することを主張
ナポレオンによるヨーロッパ征服とフランス統治時代が、中央集権化した教会の威信と権力の衰退に拍車をかけたものの、ナポレオンの失脚と共に世俗的統治者は、啓蒙思想の拡散に脅威を感じ、教会の権威の強化に戻り、教会を世俗的支配の砦として利用した信仰復活に帰す

    原理の問題
エミリアとロマーニャを20年近く占領していたフランス人の影響は大きく、啓蒙思想の普及に大きく寄与
神の権威は親の権威より優位に決まっているという教会に対し、モロロは親の意思に反した受洗を禁じた教会法を盾に教会の過ちを証明しようとしたが、いずれも退けられた
7度目の誕生日は教会法によって、子どもが受洗するかどうかの判断能力を身につける時期と定められているため、誘拐の2か月後に7歳の誕生日を祝ったエドガルドは、復活の秘跡によって神の慈悲がどれくらい自分に影響を与えたかを告白できるようになり、「このままずっとキリスト教徒でいたい」と宣言したことは有効だとした
エドガルドの解放に反対するピウス9世の信念に基づいた立場が、教皇の周りで勢力を伸ばす追従的な集団を養い、その集団は徐々に成長を続け、10年後に書かれた聖人伝では、教皇による教義への献身が利己主義に勝利した実例としてモルターラ事件が引用された
事件をめぐる論争が続くなか、教皇は定期的にエドガルドを訪問することに慰めを見出し、少年の明らかな教会への愛着を、教皇の働きとその目的の正しさに対する神の祝福の証と見做し、少年に向かって、「私はお前のために大きな犠牲を払った、お前のためにとても苦しんだ」と言った

    サー・モーゼス、ローマへ行く
ヨーロッパ中のユダヤ人の中で最も有名で、ナイトの称号を与えられた、誉高いサー・モーゼス・モンテフィオーレがエドガルドの解放を教皇に訴えるためにローマに行く
迫害に苦しむ世界中のユダヤ人にとっての最後の砦であり、不遇な同胞のために世界の隅々まで進んで出かける人
妻の姉がネイサン・メイヤー・ロスチャイルド夫人、その長男がロスチャイルド家の当主、英国ユダヤ人代議員会議の議長を40年務め、ヴィクトリア女王即位後初の儀式でナイトに叙せられた ⇒ ユダヤ人擁護者として名声を確立したのは1840年にシリアで起こった修道士とイスラム教徒の失踪事件で、殺害を疑われたユダヤ人へのいわれなき迫害に対し、抗議に立ち上がり、囚われたユダヤ人の解放に成功したこと
1859年モーゼスがローマ行きを決断した時、ローマの状況は緊迫 ⇒ ピエモンテの軍隊が教皇領に侵攻してイタリア統一の熱心な支持者に蜂起を促す

    ボローニャの暴動
無学な召使の女と、ボローニャの幼いユダヤ人の子どもの物語が、イタリアと教会の歴史の流れを変えるのに、各地の町の広場に像が立つリソルジメントの英雄たちより大きな貢献をした ⇒ イタリア人はその国民感情から、統一は知的なジュゼッペ・マッツィーニのようなイタリア国民主義者の思想と、蛮勇を振るうジュゼッペ・ガリバルディのようなイタリア軍人の勇気と、カヴ―ル伯爵によって体現されたイタリアの外交的抜け目のなさと、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世というイタリア王族の熱心さの産物だと考えたがるが、59年に始まったイタリア統一を最も効果的に推進したのは、北部イタリアからオーストリア軍を追い出そうとするサルディーニャ王国に援軍を派遣し、オーストリアが支配する土地に加えてオーストリア軍に守られていた教皇領の大半を含む土地を、同王国に併合することを認めたフランス政府=ナポレオン3世の決断だった
イタリアにおける教会と国家の関係についての第1人者である歴史家によれば、モルターラ事件での教皇ピウス9世の行動を、教会の歴史上最も重要な意味深いものの1つとして取り上げ、教会による近代化の否定として有名な1864年の『誤謬表』の発表や、教皇の不可謬を教会の教義とした186970年の第1ヴァチカン公会議の召集と並んで、より広い世界に教皇の価値観を示す重要な行動として挙げる。この価値観が、カトリックを信じる立憲政府の教皇庁を援助しようとする気持ちを、決定的に弱めることになった
ボローニャの有名な大学は教皇の統治下にあるが、学生たちは相変わらず潜在的な反政府扇動家の群れで、ボローニャからオーストリアの駐留軍が撤退したのを機に、民衆とともに蜂起し、急遽暫定政府が組織され、ボローニャのサルディーニャ王国への併合の希望を宣言。キリスト教秘跡の中でも洗礼や晩餐と並ぶ重要な堅信礼の日に決起したことがよけいに教会を刺激
サルディーニャ王国の使節がボローニャのコムナーレ宮に入り民衆の歓迎を受ける一方、教皇特使は町から脱出
新しいロマーニャの統治者は、人々の忠誠を教会とローマから国王とイタリアに移すべく、5991日新しく組織した議会を開催、正式にサルディーニャ王国への併合を宣言

    審問官の逮捕
異端審問は、新たな文明社会では耐えがたい野蛮な中世の遺物として糾弾された
モモロ一家はその前に辛い思い出の残るボローニャからトリノに引っ越し
新しいロマーニャ総督の下で、全土での異端審問が禁止され、審問官は逮捕、エドガルドの捜索が始まる

    審問官の告発
逮捕された審問官は、聖なる守秘義務を盾に証言を拒み、裁判にかけることになるが、新しい国家の法理を遡及的に適用できるのかが論争に ⇒ 罪状は誘拐
審問官が主張する教会法による特権は、最近の政府の声明によって廃止され、今ではすべての市民が法の前で平等だと告げ、洗礼の有効性について疑義を抱く

    審問官の裁判
司法官は、召使やその証言に出てくる他の関係者を召喚、事実関係の究明に乗り出す

21   審問官の弁護
サン・ドメニコ教会への強制捜査と元審問官の逮捕は、ボローニャの大司教以下聖職者に衝撃を与え、直ちに総督に宛てた抗議書が発布された
元審問官も上からの命令を実行しただけと反論したが、上からの命令を示す証拠はなく、司法官の追及に、応える義務はないと繰り返すばかり
裁判を担当する判事が、弁護人を指名 ⇒ ボローニャの法曹界と社交界で有名な人物だったが、元審問官は弁護士とも話すことを拒否したばかりか、公判への出廷すら新しい国家に神父を裁く権利があるのを認めることになるとして拒否
裁判では司法官に代わって検察官が告発したが、元審問官は自らの裁量で命令した連れ去り容疑により、当時の有効な刑法の下で有罪とし、3年の社会奉仕と両親への慰謝料の支払いを要求

22   統治者たちの儀式
トスカーナ大公国もサルディーニャ王国への併合に向かい、イタリア統一国家というリソルジメントの目標が実現しようとしていた
エマヌエーレ2世はピウス9世に対し教皇領の譲り渡しを要求、教皇は逆にロマーニャの占領を非難して即時返還を求める回勅を発表
新しい統治者たちは、イタリア王国へと変わりつつあるサルディーニャ王国への周辺地域の併合を着々と進め、ボローニャでも市民の意思を問うため儀式的な国民投票が準備され、42万対700余りの圧倒的な併合賛成の結果が出たところから、その日のうちにエマヌエーレ国王はエミリア州のサルディーニャ王国への併合を宣言
教皇は破門で対抗
ボローニャの新体制のエリートは、旧体制のエリートとほとんど違いはなく、暴動で排除されたのは前体制の社会的、経済的特権ではなく、ヨーロッパのエリートにとってますます時代錯誤的になってきた政治体制だった。それは社会的、経済的に新しい体制を支持する人々に導かれた暴動ではなく、ましてや農民や最下層の無産階級による蜂起の結果でもない。新しい政治的指導者は貴族や著名人の取り巻きだった
裁判官もまた同じで、判決は連れ去りを政府により承認された行為とし、元審問官の無罪を決定
イタリア統一に向かって物事があまりにも急激に進んでいたため、エドガルドや元審問官の運命を案じている暇などなかった
判決の直前、シチリア島での暴動が両シチリア王国の軍隊によって鎮圧された後、シチリアの革命家たちの訴えに応じたガリバルディが義勇軍を組織して救援に向かおうとしたところ、エマヌエーレが危機感を覚え、統一が市民革命に劣化するのを危惧して、ガリバルディの動き阻止に手を尽くすと同時に、新しく拡大した王国とヨーロッパ宮廷の両方で支持を固めようとした。国王も首相も教会との協調を切望して善良なるカトリック教徒を演じようとした
ところが、教会はエマヌエーレに反発、ボローニャに初めて来るときも教会の鐘を鳴らすのを拒否したが、国王を讃える祭典は教会で行われ、その直後に大司教が死去
ボローニャのエリート層は無節操に新しい統治者を受け入れ、聖職者たちのトップは投獄
1866年新政府は長年の宿敵教会との和解を断念、ナポレオンの戦術を踏襲して、宗教の修道会を廃止、財産を没収、居残っていた修道士は創設者の遺骨を残してサン・ドメニコ教会を明け渡し、修道院は軍隊の兵舎に転用され、教会の聖ドミニコ像のみが残った

23   エドガルド解放への新たな希望
1859年末、モモロは元審問官の裁判とは別に、エドガルド奪回への支持を集めようとパリからロンドンに行き、モルターラ事件への関心が実を結んでパリでは世界ユダヤ人同盟が創設され、英国プロテスタント福音同盟の支援も取り付ける
一方で、ガリバルディのシチリア征服に続く半島の北上で、シチリア王国を支配するブルボン王室の中心であるナポリが制圧され、ローマ周辺を除く教皇領はピエモンテの軍隊に屈し、エマヌエーレの軍隊の素早い侵攻に伴って教皇領が崩壊
ローマが崩壊すれば、エドガルド解放を阻むものはない

24   エドガルドの逃亡
1861年初頭、教皇がエドガルドを伴ってローマのユダヤ人コミュニティの代表に会う
その頃、イタリアの大部分は、北東のヴェネトを除きサヴォイア王の統治のもとに合併
イタリア議会の最初の選挙が実施され、エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国の成立を宣言。ローマ周辺の教皇領のみが残る
イタリア統一運動を誘発し、それを擁護する主要な役割を果たしてきたフランスは、ここに至ってヴァチカンの声に押されて教皇至上主義勢力に取り込まれてしまい、新イタリア政府の正当性を認めず、オーストリアとスペインがローマ支配の継続を守るための共同戦線を迫ってきたときも、ナポレオンン3世は聖都に軍隊を駐留し続けるしかないと判断
1864年ピウス9世はなお世俗的権力に拘泥して近世で最も有名なそして物議を醸した回勅『注意すべきこと(クワンタ・クラ)』と付属の『誤謬表』を発表し、近代に関する誤謬の目録を作成したが、明らかに教皇が進歩や近代文明を非難しているやに見え、忠実なカトリック教徒でさえ衝撃を受けた
新たなユダヤ人少年の教皇庁による誘拐事件が、仏軍の駐留するローマで起こったことにナポレオンも匙を投げ、軍隊の撤退を開始
エドガルドは、13歳になって教会に生涯を捧げる決意を固め、修道士の道を歩み始め、新しい父ピウス9世に敬意を表し、ピオと名乗る
67年ガリバルディによるローマ攻略が失敗に終わり、仏軍が聖都に戻ってきたとき、エドガルドは両親に手紙を書き、カトリック信仰の真実を分かってもらおうとしたが、両親からはなしのつぶて
1870年フランスはプロイセンに宣戦布告し、僅か数週間で敗北、ローマに残った仏軍も撤退、新しいフランス共和国が宣言
エマヌエーレ国王はイタリア軍にローマ侵攻を指示、ほとんど抵抗なくローマ入城、ローマの教皇支配に終止符を打つと同時に、教皇はヴァチカンに籠る
イタリアの首都がトリノからフィレンツェに移った65年に、モルターラ夫妻もフィレンツェに引っ越していたが、最初にローマ入城の軍隊にいたエドガルドの兄がエドガルドのいた聖所に入ろうとした際、エドガルドが受け入れを拒絶、直後に鉄道でオーストリアの修道院に避難

25   フィレンツェの死
フィレンツェのモルターラ家の階上から女の召使が落ちて死んだ事件 ⇒ 当初は自殺とみられていたが、頭に不自然な傷があるところから、当時部屋にいたモモロに容疑がかかり逮捕。普段から周囲に暴力的な振る舞いをしていたというのがその理由

26   モモロの裁判
裁判にかけられたが、決定的な証拠はなく、単にモモロがユダヤ人というだけで、誤った発想による前提に宗教的狂信という心の添加物が加わった結果
1人では歩けないほど膝に腫瘍を持ったモロロだったが、誰かの手助けを借りて召使に致命的な打撃を加えた後窓から放り出したと断定され、最高裁の重罪院への出廷を命じられたが、そこでは転落による死とされ無罪に
通算で1年以上も勾留され体調が悪化したモロロは、釈放された1か月後息を引き取る

エピローグ
エドガルドはその後フランスのポワティエの修道院で別の名前を使って幸せに暮していたが、教皇の特別の意向により1873年司祭職の最低年齢を下回った歳で聖職位を授けられたうえ、生活保証のための終身信託が開設された
学識ある人間として知られるモルターラ神父は、説教者として引っ張りだことなりヨーロッパ中を旅したが、幼い頃の驚異的な物語を説教に織り込んで霊感を与えるやり方に負うところが大きかった ⇒ 神が身分の低い無学な召使の少女を使い、神の恵みによる不思議な力を幼い子供に注がせてその子を、善人ではあるがユダヤ教徒として神に見捨てられた道を辿るユダヤ人の家族から守らせたという物語
1878年、最後に別れてから20年ぶりで母親が説教を聞きに行くと、胸を打つ再会となったが、エドガルドがどれ程母親を永遠の恵みと幸福の道に導こうとしても、母親が修道院に入ることはなかった
その時からエドガルドは家族との連絡を保とうとしたが、母親とは和解する一方、すべての兄弟がそこまで軟化したわけではなかった
2年後、ピウス9世とエマヌエーレ国王が相次いで死去した際、教皇の最後の命令の1つは、自分がかつて破門した君主の葬儀を許可することで、帝国とキリスト教の行事が結びついて王家の教会となっているパンテオンで葬儀が営まれた
教皇死去の際は、遺体が1週間サン・ピエトロ大聖堂に安置され、教皇の衛兵からなる行列に無法な反教皇主義の暴徒が襲い掛かろうとしたときには、警察が窮地を救った
194088歳の修道士が長年暮らしたベルギーの大修道院で息を引き取る。その2か月後ドイツ兵がベルギーになだれ込み、間もなくユダヤ人の血が混じった人々をことごとく検挙し始めた

あとがき
この事件は、イタリア統一の過程における重要なエピソードの1つだったが、歴史学者には顧みられなかった
多くの戯曲家が事件について書いたのは、あらゆるメロドラマの要素があったから
教皇庁の世俗統治への関与の裏にある世界観や、19世紀のヨーロッパに広がる自由で非宗教的な新しいイデオロギーと衝突することになる教皇庁の姿勢を、これほどよく表しているものは滅多にない
教養あるイタリア人の間でも、この話を知る人はほとんどいなかったが、その他の先進国のユダヤ学の専門家は、必ず知っていた
何より意義深いのは、ヨーロッパとアメリカの両方で、モルターラ事件が全国的で国際的なユダヤ人の自衛組織の設立を促進する転換点になったこと
リソルジメント(イタリア統一運動)勢力と教皇権力との闘いに関する歴史的文献には2つの大きな潮流
    リソルジメント史の研究者の流れ
    教会史の研究者の流れ
どちらにも限界がある ⇒ 教会史がイタリア史を中心に考える傾向にあり、教会とほとんど同じ立場と見做される学者たちの領域だと思われていることで、主としてユダヤ人によって研究されそのために視野の狭い所のあるユダヤ民族の歴史にも同様の問題がある
モルターラ事件は教会史の研究者にとっても一定の意義があるが、彼らの関心はもっぱら事件が教会に及ぼした負の影響にある
一方、リソルジメント史の研究者は、事件のことをほとんどが無視
イタリアの教会とイタリアのユダヤ人、モルターラ事件と最も密接に関わっている2つのコミュニティにおいて事件の記憶が痛みを伴うだけでなく、気まずいものがあったことも事実で、いずれもが公表したいと思わなかった
教会にとって事件は多くの理由で厄介 ⇒ 今日では言語道断と見做される信仰箇条である、ユダヤ人を堕落したキリスト殺しと呼び、物理的な力を用いてユダヤ人の子どもを両親の元から連れ去ることを容認した教義に基づいて起こった事件であり、教会が最近まで宗教的寛容という理想を拒絶するばかりか、異端審問を広め続けてきたという事実に光を当てることで、教会が今世紀になるまで中世の基本理念から近代化への舵を取らなかったことに人々の目を向けさせてしまった
ユダヤ人に対する教会の処遇は、教会史の研究者にとって好みの問題ではなく、特にホロコーストの後ではなおさら ⇒ 識別のために色の付いたバッジをつけさせるというヨーロッパの伝統を生み出したのはだれか? 何世紀もの間ユダヤ人とキリスト教との接触はキリスト教徒を汚染するもので、力によって罰せられるべきと教えてきたのは誰か? 1938年のイタリア人種法は、教会ばかりかイタリアとも無関係であり、ある種の輸入品として外国人に責任があると考えた方がずっといい
イタリアのユダヤ人にとって議論を厄介にしているのは気まずさ。エドガルドが先例によって超自然的な変化を遂げたためにユダヤ教徒の両親のもとに留まることはできないという教会の主張は、ユダヤ人にとって二重の屈辱 ⇒ 教会の政治権力に対するユダヤ人の脆弱さを示すのみならず、カトリックこそ全能の神と特別に許された関係を持つ真の宗教で、ユダヤ教は誤謬であるという主張を肯定するもの
一旦はユダヤ人の同情の対象となった少年が、その人格が信用できないとして蔑まれる人物となった。彼が幸福で正気だとすればユダヤ教に悪いイメージを与えるので、エドガルドのことは話さないに越したことはない
著者がこの話に興味を持ったのは、歴史的な問題に興味を持った社会人類学者として、無学な大多数の住民が過去にどんな生活をしていたのか、それが19世紀にどう変わっていったのかを明らかにしようとしたことから。史料編集と文学の技能を融合させて特定の歴史上の出来事に息吹を吹き込むことのできる歴史学者への憧れからこの物語を書いた
「ふつうの」人々の生活に焦点を当て、過去の生活に新たな光を投じる魅力的な物語を書いた代表作はナタリー・デーヴィスの『帰ってきたマルタン・ゲール』で、16世紀の名もないフランス農民の話
モルターラ事件は、重要な歴史上の人物を扱って遥かに広範な影響を及ぼしたが、マルタン・ゲール同様物語の中心には名もない家族がいて、彼らの生活を垣間見ることが出来る
人々の日常生活の細やかな描写を通じ、その豊かさには驚く
著者自身の父親は、連合軍と共にイタリアに上陸しユダヤ人を解放、ローマに入って解放されたヨーロッパの主なシナゴーグで最初に行われた安息日の礼拝の司式でラビを手伝い、ユダヤ系アメリカ人兵士と母親の劇的な再会を演出した
それから半年足らず、老齢のラビがローマカトリックへの改宗を宣言して、世界中のユダヤ人を愕然とさせた


(書評)『エドガルド・モルターラ誘拐事件』 デヴィッド・I・カーツァー〈著〉
2018.10.6. 朝日
 時代を変えた教皇VS.実父の裁判
 はるかなる母星へ新発見の報告を送ります。
 かねてより我々を悩ませていたシュウキョウという、この惑星特有の事象解明の端緒が得られました。
 ひとりの少年をめぐって、シュウキョウ上の争いが起きます。少年の名はエドガルド・モルターラ、6歳、ユダヤ人。時はキリスト暦1858年、場所はイタリアの古都ボローニャ。ある通報がカトリック側に入ります。少年はモルターラ家に仕えた「召使い」の女によって、すでに洗礼を授けられている、と。
 キリスト教徒となった少年をユダヤ教徒のなかに置くのは、神の御心に反します。教皇はただちに警官を派遣して家族のもとから少年を引き離し、ローマの施設に収容します。泣き叫ぶ母親から幼児を奪う。聖母マリアも顔を背けそうですが、カトリックの教理に照らせば、これが当然の措置であったのです。
 ところが、時あたかもイタリア国家の成立期で、世俗の攻勢を受け教皇の影響力は凋落(ちょうらく)中でした。少年の父は我が子を取り戻す戦いを挑み、新聞など国際世論も味方します。かくて、ひとりの少年の帰趨(きすう)が教皇の権威失墜の最後の一押しとなってゆくのです。
 さらに注目すべきは、大量の手紙や裁判記録に残されたナマの証言によって、当事者たちの心境が詳細にたどれることです。実の父も教皇も、少年を「息子」として抱こうと、先例を調べ、証人を探し、全力を傾けます。丁々発止の論戦からは、キリスト教の引き立て役を強いられたユダヤの悲運や、崩れゆく足元を踏みしめて一歩も退(ひ)かない教皇など、シュウキョウが、この惑星の人びとの心中に深々と食い入っている、驚嘆すべき様相が露呈します。詳しくは、同送の大部の書物をごらんください。
 けっきょく少年はキリスト教の修道士として、異国ベルギーで祈りの生涯を全うします。はるかなる母星、いえ母国への思い、いかばかりだったでしょうか。
 評・山室恭子(東京工業大学教授・歴史学)
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 『エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一』 デヴィッド・I・カーツァー〈著〉 漆原敦子訳 早川書房 3240
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 David I.Kertzer 48年生まれ。ブラウン大教授。歴史学、社会人類学。本作はスピルバーグ監督で映画化決定。

Wikipedia
エドガルド・モルターラ(Edgardo Mortara1851827-1940311)は、イタリアボローニャ出身のカトリック教会司祭。両親はユダヤ人であったが、病気でいのちがあぶなかったためカトリックであった召使の少女が、緊急洗礼を授けた。そのため18586236歳のとき両親のもとから連れ去られて、カトリック教徒として育てられ、司祭となった。
誘拐事件[編集]
1858、イタリアのボローニャのユダヤ人商人モモロ・モルターラ宅で、6歳の少年エドガルド・モルターラが異端審問所警察によって連れ去られ、カトリック教徒として育てらて、司祭となった[1]。カトリック教徒の家政婦が極秘に洗礼を受けさせていたためであった[1]。両親のもとからエドガルドを連れ去った警察はローマの命により行動しており、教皇ピウス9の承認を受けていた。
召使の少女はエドガルドが洗礼を受けずに死んで地獄に落ちないために、洗礼を授けたと教会に報告した。カトリック教会の教義では、この洗礼は有効である。教会法で非キリスト教徒は、キリスト教徒を育てる権限は無い。ローマ・カトリック教会の教義では、誰によって授けられても洗礼は有効であり、洗礼を受けた者はクリスチャンとみなされる。
ヨーロッパ全土のユダヤ人がこのモルターラ事件に抗議して、ローマのゲットー代表と教皇が交渉した。教皇は、私はユダヤ人にもっと大きな苦しみを与えることもできるが、ユダヤ人を憐れむためにこうした抗議を赦すと述べ、ユダヤ人代表は感動して、1848年革命の時にはローマのユダヤ人は教皇に忠実であったことを確認し、モルターラ事件で騒ぐのは政治的情念を充足させる下心しかないと述べて、和解した。
1912にエドガルド自身、カトリックがユダヤ人の家で働くことを認めていないことを指摘した。ユダヤ人の安息日の日が土曜日であるのに対して、キリスト教徒の主日が日曜日であり、ユダヤ人が働くことの出来ない日でもキリスト教徒は働けるため、ユダヤ人はこの法を無視してキリスト教徒の召使をやとっていた。
関連事件[編集]
1864年にはモルターラ事件に似たフォルトゥナート・コーヘン少年の洗礼事件も起きた。

参考文献[編集]

·        レオン・ポリアコフ 『反ユダヤ主義の歴史 2 ムハンマドからマラーノへ』 合田正人訳、筑摩書房、2005810日。ISBN 978-4480861221[原著1961]
·        デヴィッド・I・カーツァー、 漆原敦子訳『エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一』早川書房 (2018/8/21)



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