昭和天皇のお食事  渡辺誠  2019.4.13.


2019.4.13. 昭和天皇のお食事

著者 渡辺誠 1948年生まれ。高輪プリンスホテルで3年半修行後70年より宮内庁管理部大膳課厨司として勤務、東宮御所の主厨を経て、96年退官。くらしき作陽大学食文化学部講師を務める一方で、フランス料理とマナーのサロン「Le Fin du Fin」を主宰。031月肝不全にて急逝。享年55。著書に『渡辺誠のフランス料理のおいしい常識』『ロイヤル・ディナー』『もしも宮中晩餐会に招かれたら』『殿下の料理番』など多数

発行日           2009.1.10. 第1
発行所           文藝春秋(文春文庫)

初出 200410月号に文藝春秋から刊行された『昭和天皇 日々の食』を改題し、文庫化したもの

26年間の宮内庁勤務の中で一番印象深い、昭和天皇の下での18年間の記録の一部をお伝えしたかったのです。両陛下のお人柄が社会に正しく伝わりにくいこともありました。そこで大膳の1職員としてお仕えしてきた私の視点から、その生活の一端を出来るだけ正確に伝えるべく、時の一部分を取り出しました

みひらき
「お皿に盛り付けるものは、すべて食べられるもの」という天皇家の掟を思い出しました。陛下は、桜餅と同じように、柏餅もあの硬い葉っぱごと召し上がってしまったのです

第1章        大膳の流儀
大膳とは、皇室における食事全般を担当する部署。「厨司」という料理人と、配膳などを担当する「主膳」の2グループ、約50名が所属
「厨司」の第1系は和食、第2系は洋食、第3系は和菓子、第4系はパンと洋菓子、第5系は東宮御所担当
ほとんど毎日皇族の方々の命日があるので、お供え物の準備が大変で、第3系の担当
著者は第2系から第5系へ異動
厨房は1968年建築の新宮殿の2階、豊明殿(大広間)と連翠(小規模用)の中間にある
厨房は常に乾燥させて清潔を保つ。「塵一つあってはならない」がモットー
風呂に入って身を清めてから厨房に入る
食材は、栃木県高根沢の御料牧場(69年成田新空港建設により三里塚から移転)のものが主流。野菜は自然農法で栽培、魚は築地

第2章        日常のお召し上がりもの
19842
ご朝食:オートミール、茄子酪焼きカレー風、サラド
ご昼食:御汁仙台味噌仕立て、麦入りご飯、桜煮白魚梅干し入り、小町和え春菊、おでん
ご夕食:清羹(コンソメ)、若鶏煮込み、サラド、青豆クリーム煮、麺麭(めんぼう)
朝食は毎日洋食、オートミールとコーンフレークスを交互に。ピーナツか銀杏を必ず3
ご昼食とご夕食は、和食と洋食をほぼ毎日、交互に組み合わせ。麦飯は終戦以降の伝統
日常の食事は大膳の厨房で作り、御所に車で運び、御所1階の厨房で再度加熱
サツマイモ事件 ⇒ 中を見てはいけないと言われて持って参上しようとしたが、つい見てしまい、皮がついているのをみな剥いてお出ししたら、ほとんど手つかずでまずいといわれて戻ってきたため、主膳から大目玉を食らう。陛下は皮付きのまま召し上がる
柏餅事件 ⇒ お皿に盛りつけるものはすべて食べられるという掟があったのに、柏餅を葉にくるんだままお出ししたら、葉脈以外は召し上がり、まずいと言われた
天皇家の方々に対しての直答(じきとう:ご下問がないのに直接申し上げること)はご法度、陛下からお尋ねがない限り、お分かりになったうえでなさっているのが大前提なので、仕える側からこうするものだとの指図は禁句
盛り付けたものはすべて食べられるのが大前提なので、骨付きの鶏肉はありえず、魚も骨をすべて外して元の形に整えてお出しする ⇒ 小魚は例外
天皇陛下のお食事は、1日約1,600kcal2/3召し上がればいい方なので、残された場合はすぐにその目方を計測し、実効摂取量のデータをとる
野菜が多いのは栄養のコントロールの観点から当然
レタスがお好きで、湯がいたものにニンジンやシイタケを芯に巻いてベーコンと鶏のスープでトロリと柔らかく煮込んだものがお好き
刺身が少ないのが特徴84年は全部で11回くらい。特にお出かけ前は「生物」は禁物
ウナギも大好物、多い時は年22回も。野田岩からお重をとることもある
お嫌いなのは酸っぱいもので、洋食にレモンを添えても使わない
塩味も薄く、辛いものもお好みではない。刺身のワサビも召し上がらない
お酒は全く飲まない
山掛けがお好きで、麦とろにしたり、食が進まない時はふりかけをかけて混ぜて召し上がることもある
78人前作り、お毒見の他は「おすべり」として厨房でいただく
「盛り付けの美しさ」を重視
メニューの幅を広げるため、中国料理の料理人が1人入ったことがあり、餃子やシューマイ、春巻き、チャーハンなどが食卓に乗ったが、火力が弱く本格的なものは出来なかった
お嫌いなものには手を付けられない ⇒ フォアグラがお嫌いだが、フォアグラもどきは料理長の得意料理
猫舌というのは、宮内庁での通説だが、実際は適温でお出ししているので、真偽は不明
サンドイッチもお好きで、お出かけの時のご昼食に多く、イチゴジャムが特にお気に入り
初めて天皇陛下の外出にサンドイッチを持ってお伴した時のこと、イチゴジャムをご所望なさった後、「あとは皆に」と仰る。皆で食べたら残らないのにと不審に思ったが、ご自分のものを1口づつでも分け与えて同じものを食べようという、まるで家族のようなお気持ちの温かさを身近に感じ、敬愛の度を深めた
陛下が御用邸にご滞在中は、宮内庁本庁から車で牛乳や新聞のほか、あらかじめ頼んでおいた食材が届く。71年葉山御用邸消失以前は、葉山へも両陛下がお出ましになったが、時化で何日も魚が獲れなかったときは、日影茶屋が全部の食材を届けてくれたこともある
御用邸でも、食事時間は同じで、朝8時、昼12時、夜6時と決まっていた
和食洋食各1名がお供する
果物もお好みもはっきり ⇒ 特にリンゴがお好き、ふかふかしたインドリンゴの系統の旭が好物で、1個を薄く切って召し上がる。スイカもお好きでタネをとってお出しする
82年ミッテラン大統領夫妻の晩餐会の時、答礼宴がフランス大使館で開かれ、陛下が最初で最後のお出まし。ギターを演奏していたフランス人が陛下のお側に来て《サクランボの実る頃》を一緒に歌おうと声を掛け、陛下が口ずさまれたため、周囲も唱和した
宮内庁は現在献上品は受け付けないが、当時は規制が緩く、ほぼ毎日のように届けられ、中には食材として使うこともあった
84年のメニューでもっとも多かったのは、和食の主催では薄焼鰻、公魚空揚(わかさぎの空揚げ)、二見焼鶉(鶉の叩き肉の付け焼き)16回、副菜では普茶煮(野菜の油炒めの精進煮)44回、洋食の主菜では牛繊肉焙焼(牛フィレ肉のロースト)12回、副菜では湯煮ブロッコリーで22回、その他ではうどん15回。朝食を含めても断然和食党

第3章        天皇家の三が日
こと細かな決め事があるので、飲み込むまでが大変 ⇒ 茹でた伊勢海老の横に添える塩の盛る高さが決まっている
お箸は、公家の使う柳箸。お客様には利休箸

第4章        天皇の料理番への道
大膳に入って3年目、初めて陛下に自分の作ったものを食べていただく ⇒ 暖かい野菜の料理をお出ししたが、空のお皿が戻ってきて、女官から「陛下のお召し上がりは大変良かった」と聞かされた時は、料理人冥利に尽きた
生家は洋服の仕立て屋、大勢の弟子をとって大規模に事業をしていた。子連れで再婚した母の姉妹も含め新し物好き
料理が好きで、勘当寸前の状況で高輪プリンスホテルに就職、苦労して料理を覚え始めたころ、スイスの提携ホテルに料理研修に行く話と並行して宮内庁の大膳からも声がかかる親戚筋に宮内庁の関係者がいた。当時の宮内庁に入るのはほとんど世襲で、父の叔父が昭和天皇の大膳として定年を迎え、その後釜に推薦してもらい、料理人の神様といわれた秋山徳蔵のいる宮内庁に入ることに決める

第5章        大膳の人々
秋山主厨長の就任は1917年、初めて宮中にフランス料理を呼び込む ⇒ 日本の国際化に向けて「食卓外交」が重要視され、パリで修行中の秋山が抜擢された
副主厨長は中島伝次郎で、村上開新堂京都店で洋菓子を担当、神戸オリエンタルホテルに移って菓子部門の責任者をしていた時に秋山にスカウトされた

第6章        皇太子殿下の思い出
皇太子殿下が東宮御所に移られる際に、著者も洋食の責任者(主厨)として東宮職を拝命
和洋のスタッフが1つのチームを作り、その日の担当がメニューを決める ⇒ 主厨長がすべてのメニューを決めてそれを下の人間が作るというスタイルは今上天皇ではない
今上天皇の時代から、専門職ではなく、オールマイティのスタッフが食を支えるという考え方に変わってきている ⇒ フランス料理を出す以上は、フランス風料理ではなくフランス料理でなくてはいけないが、今はそういう時代ではないということを知り、大膳を辞した

解説にかえて 
渡辺誠さんとぼくらの、おかしな たのしい 交流記。 08年秋 親友 大林宣彦
この世を去って早6
表現者として付きの一流の人、その口から語られる天皇家の人々の物語は、まことに愛すべきチャーミングな人間の物語として我々の胸に届き、身近な人間は皆天皇家の大ファンになっていった
未亡人たちと「レスパス」で会食 ⇒ 日仏会館にある弟子の佐々木昭人がオーナーシェフ
奥さん同士が同じ英会話教室に通った間柄
ミッテランの晩餐会のメニューを、渡辺家で試食させてもらった
渡辺家にお呼ばれする時は、定刻に門前に赴き、「5分遅れる」と電話してから5分後にドアをノックする ⇒ その5分の余裕が料理人をほっとさせるプレゼントだという
本当に皇室の方々が大好きで、それを僕らに教え、伝え、ぼくらもまた皇室ファンになることを本当に嬉しがっていた
誠ちゃんのお陰で僕ら仲間は本当に豊かな食文化のある暮らしを送ることが出来たんだなあ! と今、沁み沁み思う
良き友を持つことは、まことに人生の快事である




春秋
2019/4/1付 日本経済新聞
26年間、宮中での調理を担当して、2003年に死去した渡辺誠さんの若き日の体験である。昭和天皇がご存命の時分。先輩から「陛下が召し上がるから、中を開けるな」と布をかけた器を渡された。御所へ運び、こっそり見ると、皮付きのふかしたサツマイモだった。
先輩が皮をむき忘れたのだ、と驚いた渡辺さん。竹ぐしで皮をきれいに除き、お出しした。ところが、ほとんど手つかずで戻ってくる。昭和天皇は皮付きのまま食べるのがお好きだったのだ。大目玉を食らい、始末書を出した。「先入観で勝手なことをした」「痛恨の大失敗」と著書「昭和天皇のお食事」で回想している。
きょうから新年度。入社や異動、転勤にともない、慣れぬ職場での仕事が始まる人も多いだろう。勝手が違って戸惑ったり、試行錯誤したりするかもしれないが、そんな日々も決して無駄ではない。多くの先人たちが「失敗は飛躍のチャンス」とか「転んでも必ず新たな発見がある」など励ましの言葉を残してくれている。
渡辺さんも上司に怒鳴られ、先輩に嫌みを言われつつ、それを糧にするように腕前を上げ、最後は皇太子ご一家の料理番になった。著書では職員へのこまやかなお声がけや心遣いなど、ご夫妻の優しい人柄に触れている。裏方を長く務めた苦労人らしい感嘆ぶりが、こちらの胸も打つ。新元号への思いを聞いてみたかった。


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