指揮者飯守泰次郎ワーグナーと人生を語る  飯守泰次郎  2026.5.26.

 2026.5.26.  指揮者飯守泰次郎ワーグナーと人生を語る

 

著者 

飯守泰次郎[イイモリタイジロウ]
1940
2023。桐朋学園大学音楽科卒。藤原歌劇団公演《修道女アンジェリカ》でデビュー。読売日響指揮者、ブレーメン、マンハイム、ハンブルク、レーゲンスブルクの各歌劇場の指揮者、エンスヘデ市立歌劇団第一指揮者、東京シティ・フィル、名古屋フィル、関西フィル、仙台フィルの常任指揮者を歴任。ヨーロッパの歌劇場で積み上げてきたオペラに対する深い造詣、特にワーグナー作品を積極的に日本楽壇へ紹介した功績は特筆される。東京シティ・フィルおよび関四フィル桂冠名誉指揮者、ならびに日本芸術院会員の在任中の20238月急逝。CDはフォンテックレーベルから約20タイトルをリリース。芸術選奨文部大臣新人賞、バルセロナのシーズン最高指指揮者賞、芸術選奨文部科学大臣賞、サントリー音楽賞、紫綬褒章、日本芸術院賞、毎日芸術賞、文化功労者、音楽クリティック・クラブ賞、他受賞多数

 

編者 とねりこ企画

 

発行日           2026.4.5. 初版第1刷発行

発行所           音楽之友社

 

 

²  ワーグナーを語る 1三つの手がかり

l  ワーグナーへの手がかり I 人物と生涯

ワーグナーの音楽には特別な力がある。人間の心を操作するほどの麻薬的効果が顕著。音楽のみが持つ、人の心を動かす力を駆使し、いつの時代にも通じる驚くべき有機性と普遍性を持つ内容を表現する魔力ともいうべき力。これこそが、ワーグナー作品の大きな魅力

ワーグナーの音楽を知る上での手掛かりの1つは、西洋音楽における「調性」と「示導動機light motif

ワーグナーは、ベートーヴェンやウェーバーに衝撃を受け音楽を志すものの、パリ進出も再三敗退し、借金と夜逃げの名人。宮廷指揮者でありながらドレスデン革命に参加して指名手配される。支援者も多かったが、ニーチェが去ったように敵を作ることも多い

評価は二分するが、遺した作品にはいつの時代にも通じる驚くべき有機性と普遍性がある

主要作品は10

前期    《さまよえるオランダ人》

          《タンホイザー》

          《ローエングリン》

中期    《トリスタンとイゾルデ》

          《ニュルンベルクのマイスタージンガー》

後期    《ニーベルングの指環 4部作》

          《パルジファル》

前期以前に「初期」として3作品《妖精》《恋愛禁制》《リエンツィ》

前期の3作品は、「ロマン的な歌劇」という副題がつけられ、「歌劇Opera」として作曲

その後、ギリシャ悲劇に対する深い理解に立脚して「総合芸術論」を唱え、楽劇を作曲

ワーグナーのインスピレーションの源泉は、「Wahn(幻想、妄想、夢、狂気)

50になって定住したバイロイトの館は「Wahn(妄想)fried(安住)

人間は昔から変わらないということを良く見抜いていたからこそ、人の心に残り、語り継がれてきた北欧神話や伝説に題材を求めた

l  ワーグナーへの手がかり II 調性に好奇心を

西洋音楽は12の音でできていて、それぞれに調性がある

ハ長調が基本で勝利や誕生などの現実性。#が1つ増えるごとに精神的な方向へ向かう

ト長調は、自然で明るく、しなやかになる

ニ長調へ行くと、精神性が加わって、はつらつとした調整。現実性もありよいバランス

イ長調では、内面的な喜びとなり、光が輝く

ホ長調は、愛や至福の調整、天国的な幸福感

ロ長調は、精神的な深みが増す

嬰へ長調は、一番深く精神的で、非現実的

嬰ハ長調は同名異調で変ニ長調、現実から遠く、精神的に深い

変イ長調は、意識がさらに現実化

変ホ長調は、現実への意志が一番力強く現れる

変ロ長調になると、単純化されて、何かが生まれる喜びに向かう

最後がヘ長調で、自然そのもの

 

同じ主音に基づく長調と短調は、対極の意味を持つ

調号(#や♭)の数が同じ調どうしを「平行調」と呼ぶ。ハ長調の平行調はイ短調。長調・短調・平行調は、意味の上で必ず三角関係を成す

l  ワーグナーへの手がかり III 「示導動機」

「示導動機」とは、同じ作品の中で繰り返し用いられる音楽的テーマ。音楽の案内役

 

²  人生を語る 1生い立ち~カペルマイスター修業時代(19401970

l  1940年、新京の生まれ

5歳まで過ごす。オペラを志して米国経由でドイツに行き、オランダに移り、日本に戻る

父の長兄が後の最高裁長官田中耕太郎。満洲国司法部参事官の父は無類の音楽好き、独学でピアノを弾き歌曲を歌う。母も16歳から数年米国で看護婦の勉強をした。終戦間近、父はシベリアに抑留。家族は終戦の翌年帰国。目白小学校・高田中学に通う

l  桐朋学園に進学

父の無事が確認でき文通が始まる。兄弟みな音楽をやり、桐朋の運営する音楽教室へ入り、小澤征爾、中村紘子、堤剛らに出会う。姉に続いて桐朋のピアノ科に入学

l  運命をつくり変える師・斎藤秀雄

2の時斎藤秀雄に、「絶対音感があって所見の才能を生かせば指揮者になれる」と言われ、不本意にも指揮のレッスンを受ける。斎藤からは、技術の習得と、具体的な指示を出すことを教えられる。吉田秀和の授業も忘れられない

l  オペラの現場へ

藤原歌劇団でコレペティトアになって、藤原義江に認められ、合唱指揮者に抜擢

1961年、三石精一と分担してプッチーニの《修道女アンジェリカ》で指揮デビュー

労音の全盛期、二期会制作の労音オペラ《椿姫》の足掛け251回公演の指揮に招かれ、桐朋音楽教室の斎藤の手伝いを休むと言ったら、斎藤に破門にされる

l  「オペラ」の志を胸にニューヨークに留学

'64年、フルブライトの奨学金が指揮者にも広がったのを知り応募、田中信昭(のちの合唱指揮の大御所)とともに翌年渡米。オペラに力を入れていたマンハッタン音楽院に入学。ワグネリアン指揮者のイオネル・ペルレアに師事

'66年、賞金目当てにミトロプーロス国際指揮者コンクールを受けたら4位に入賞、カーネギーホールでブラームスの1番をアメリカ交響楽団で指揮。その場にいたワーグナーの孫娘のフリーデリントから、バイロイトのマスタークラスに奨学金付きで誘われる

l  バイロイトに入り浸る

10人ほどのクラスで、イタリア系オペラとの違いを徹底的に叩き込まれる

戦後最高の演出家の1人である天才のヴィーラントの死の直前数週間の創作活動の最後の現場を直に見る。バレエのアシスタントが急病となり、初見がきくといって代役に抜擢

l  コレペティトア修業へ

バイロイトの閉幕後は、初めてバイロイトで指揮をしたハンス・ヴァラットの誘いでブレーメン市立劇場のアシスタントに。3年目の契約の時、ヴィーラントの弟のヴォルフガングから声がかかり、以後’90年代前半まで長い付き合いとなる

l  ブレーメン市立劇場カペルマイスターの任とカラヤン・コンクール入賞

'69年、ブレーメンのカペルマイスターの称号を得、同年の第1回カラヤン国際指揮者コンクールで348名から6人の本選出場者となり4位に入賞。カラヤンからは、強固な意志力を教えられ、その後の私に大きな影響を与えた

l  マンハイム国立劇場への移籍と5年ぶりの帰国

'70年、マンハイム国立劇場にヴァラットとともに指揮者兼第1コーチとして移籍

マンハイムは、ドイツでも最古の劇場の1つで、ワーグナー存命時からワーグナー作品にとって特別な場所。「マンハイムなくしてバイロイトなし」とワーグナーが言ったように、全作品がレパートリーに入っていて、全作品の常時上演は他に類がない

 

²  ワーグナーを語る 2創作前期から中期まで

作品解説 歌劇《さまよえるオランダ人》(1841/1860/1864、初演1843ドレスデン)

ワーグナーの世界が確立された画期的な作品

舞台は北欧で、「さまよえるオランダ人」が嵐と運命と闘う物語。幽霊船伝説をもとにしたハイネの小説から、ワーグナーが台本を書く

生涯を通じて追及した「救済」の問題が始めて登場

 

作品解説 歌劇《タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦》(1845/64/75、初演1845ドレスデン)

中世の伝説を素材にワーグナーが創作した物語。宗教性と官能性、精神的な愛と肉体的な性愛、キリスト教的な罪と罰に対する個人の自由などが対比され、ワーグナー自身の心の葛藤と合致して見事に表現される。宗教的な題材に取り組む

 

作品解説 歌劇《ローエングリン》(1848、初演1850ヴァイマル)

ドイツ・ロマン派の粋ともいうべき幻想的な内容が古典的な均整の取れた様式で表現されている。実在のハインリヒI世がモデルで、非現実的な内容にリアリティが与えられる

 

作品解説 楽劇《トリスタンとイゾルデ》(1859、初演1865)

中世の詩人シュトラスブルクの作品をもとに、ワーグナーが台本を書く

ドレスデン革命に加担して指名手配され亡命生活を送っている時に支援を受けた富裕な商人ヴェーゼンドンク夫妻との成就しない愛を経て生まれたのがこの作品

示導動機が徹底的に使われ、登場人物の心情や物語の展開を見事に表現すると同時に、調性が人間の心に与える計り知れない作用も駆使

 

作品解説 楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》(1867、初演1868)

主要作品中唯一の喜劇。実在のハンス・ザックスというマイスタージンガーにまつわる民間伝承が題材

 

²  人生を語る 2花ひらく~ドイツの歌劇場在籍時代(19711978

l  '71年、バイロイト音楽祭の音楽助手に正式に就任

練習期間が長く、新演出の年は4月末ごろから始まり、指揮者が来る7月初めまでにはアシスタントがほとんど作り上げるような形になる

ドイツの習慣では、劇場運営側が歌唱指導を提供し、演出家の最良の判断に応じて指導者に歌手を割り当てる。歌手は音楽助手を頼りに歌う

劇場の構造上、指揮者には観客席にどのように聴こえているか指揮台にいては分からないため、信頼できる助手を客席にいて貰ってどういうふうに聴こえているのか確認するか、自らが客席に行って助手が指揮する音を確認しなければならない

l  カール・ベームの教え ワーグナーとモーツァルト

ベームやヨッフムの下で音楽助手をしたが、最初の仕事がベームの《さまよえるオランダ人》。重々しい伝統的な演奏スタイルから脱却、キリっと引き締まった演奏スタイル

l  ホルスト・シュタインに鍛えられる

‘70年代前半、シュタインの《指環》のアシスタントをして徹底的に鍛えられた

l  ゲッツ・フリードリヒとの不思議な縁

ヨーロッパで主流だった音楽と演出が乖離した演出(レジーテアター)の潮流を巻き起こした演出家の1人。以後何度か、彼の演出した作品を上演

l  国内外でワーグナーを指揮する

「ワーグナー指揮者・飯守泰次郎」として初めて満天下に示したのは、’72年バルセロナでの《さまよえるオランダ人》。同年のシーズン最高指揮者賞を受賞。オーケストラとコーラスは現地のリセウ大劇場のメンバーで、ソリストをマンハイムから連れていく

'72年秋には帰国して二期会《ワルキューレ》日本人初演を指揮。芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。東京フィルと共演

l  カルロス・クライバー(19302004)という存在

真の天才。作曲家が追求した音楽の理想に到達し、その場にいる全ての人を釘付けにする

妥協を一切しない唯一の存在

l  大ブーイングの《指環》 ブーレーズの創造的破壊

'76年、バイロイトの100周年で《指環》が革命的新演出で上演される。ブーレーズの指揮、パトリス・シェローの演出の助手を務め、時代が変わる瞬間を体験。総監督のヴォルフガングがフランス人のコンビを起用すること自体大事件

ブーレーズは楽譜に忠実に振ろうとして、バイロイトが楽譜の行間を読んで積み上げてきたものを一切否定。初演はブーイングの嵐だったが、その後’80年まで上演されて磨かれ、今ではワーグナー演奏の潮流を変えた伝説的な名プロダクションと言われている

l  ヨーロッパの根底にある批判精神

ヨーロッパの歴史の根底には、改革精神、新しい価値観を提示するという精神に支えられているものがある。ワーグナー自身が常に改革者であり、バイロイトの根底には創造的破壊という改革精神が息づいている

 

²  ワーグナーを語る 3創作後期 舞台祝祭劇《ニーベルングの指環》四部作

作品解説 序夜《ラインの黄金》(18744部作通し初演1876バイロイト)

ライン川の奥底から盗まれた伝説の黄金から作られた、世界支配の魔力を持つ指環を巡って、権力争い、愛、自然破壊など、現代の私たちが生きている現実の世界にそのまま通じる普遍的な内容が描かれる

《ジークフリート》第2幕の途中で10年もの中断があり、作品完成には25年を要しただけでなく、その間専用の劇場まで自ら設計し建設している

北欧神話とゲルマン神話を素材とするが、元々ワーグナーはヨーロッパ芸術の源であるギリシャの文化・芸術への憧れがあり、特にギリシャ悲劇を深く理解していたこともあり、神話や伝説に人類共通の普遍性を感じていた

黄金から作られた指環の奪い合い、権力抗争の物語が4部作に発展

《ラインの黄金》では、自然破壊が始まり、愛が断念され、権力が獲得され、権力の奪い合いを経て神々族が世界を支配したように見えるが、神々族の滅亡と世界の終末はすでに予言されている

 

作品解説 第一日 楽劇《ワルキューレ》(単独初演1870ミュンヘン)

人間の内面、特に愛を中心とする物語

作曲の仕方が大きく変わり、表現の柔軟性を獲得。登場人物の心の中に深く分け入る音楽の表現力の豊かさに驚かされる

 

作品解説 第二日 楽劇《ジークフリート》

ワーグナーの分身としてのジークフリートが登場、彼の行動によって物語が前進

《指環》4部作の創作の発端となった『ジークフリートの死』という台本が書かれたのは1848年で、《ローエングリン》が作曲された直後。主役よりもエルザが自分の中で重みをもつようになり、彼女への共感を通じ、ドイツ民族を体現する人物をゲルマン神話からどうしても必要とするようになって、ワーグナーの目指す総合芸術の中心となる登場人物ジークフリートが誕生。ワーグナーの分身でもある

 

作品解説 第三日 楽劇《神々の黄昏》

長い間ワーグナーが抱いてきた世界の終末思想が明確になり、全世界の破壊とその後の救済が暗示される。ワーグナーが一生抱き続けた救済というテーマを、この作品において終末思想と合体させた。《ワルキューレ》では父親想いのブリュンヒルデが、《ジークフリート》では男性との愛に目覚め、《神々の黄昏》では最愛の夫の殺害に加担し、最終的には世界を終末に導くという、凄まじいエネルギーを持った女性へと変貌

 

²  人生を語る 3在オランダ時代~再び花ひらく(1970年代後半~2018年夏)

l  空白の5

'76年、バイロイト100周年(ブ-レーズ)で働き過ぎたのが原因でメニエル氏病となり、日本行きがキャンセルされた後、日本から仕事が来なくなり、日本再登場は’83

その間、バイロイトをやりながら、ドイツ各地でもオペラを指揮していたが、’78年にはオランダのエンスヘデ市立歌劇団の第1指揮者となり居を移す。国内を上演して回る旅オペラが中心。厳寒期の公演では、予想外に観客が多勢入っているのにオーケストラだけが不在。飯守が代わりにピアノ伴奏で指揮して序曲以外の《ドン・パスクワーレ》を上演、喝采を浴びる

バイロイトは厳しい世界で、「今年は参加しない」というと代わりの人材が来てそれきりになってしまうので、皆必死で毎夏参加するが、飯守だけはヴォルフガングが「家族のために少し休め、また声をかけるから」と言ってくれたので、10年ぐらい経った後は毎年参加しなくてもよくなった

l  外国語は「語学」ではなく「ことば」

ヨーロッパでは言葉は学問ではない。23か月も滞在すれば覚えてしまう

いろんな国の言葉が喋れるということは、いろいろな表現ができれば人生が楽しくなるというごく自然なことに過ぎない

エンスヘデの音楽院の仕事は'95年まで続き、そのまま顧問に就任

日本ではあまり飯守の経歴が重みをもって語られることはないが、マンハイム歌劇場コレペティトーア兼指揮者(197073)やハンブルク歌劇場指揮者兼コーチ(197375)といった地位は、日本では想像できないほどの重みをもつ。日本人指揮者がこれと同等の地位に就くのは至難の業。’72年バルセロナのシーズン最高指揮者賞でも、バルセロナが19世紀末からワーグナー受容の一大拠点となっていたことを知れば賞の重みも分かる

l  カラヤンの《パルジファル》

'80年ザルツブルク復活祭音楽祭の《パルジファル》で、ティーレマンなどと一緒にカラヤンのアシスタントをした。カラヤンが指揮者と演出家の両方を務めることが音楽祭の大きな目的だったが、当時すでにカラヤンの健康状態はあまりよくない中、劇場の裏側の活動まで、オーケストラを指揮するように、人を動かす魔術師としての彼の力の非凡さを垣間見た。また公開ゲネプロでは第1幕の前奏曲でオーケストラの響きがずれ始め、結局オーケストラを止めざるを得なくなり、カラヤンはやり直す個所を短く指示。ホール全体が凍りつくようだったが、その後の演奏が凄かった。神秘性と陶酔感があれほどまでに表現された《パルジファル》を私は知らない

l  ショルティの言葉

‘83年のバイロイトではショルティのアシスタント。「疾走する馬になおも鞭打つ」と評されるほど練習も全力投球。私が指揮を教えていることを知ったショルティは、「自分には指揮は教えられない。指揮は教えられるものでも、教わるものでもない。生まれつき能力が歩かないかだと思う」と言う

l  天才・山田一雄

‘83年以降は日本にも復帰、先輩の山田一雄(191291)との交流もある

ヤマカズ先生のあのエッセンスは受け継ぐことのできない、彼個人が持って生まれたもの

l  ハリー・クプファーとバレンボイム

'88年はクプファーとバレンボイムのコンビによる《指環》のアシスタント

クプファーの演出は、歌手の個性と作曲家の意図が一致していればあとは自由というタイプ、バレンボイムの指揮も練習しているうちに自分の感覚もどんどん育って変わっていくという、勝手な演奏をする勇気を持っている

l  ベルント・ヴァイクルとの共演

‘70年代前半にハンブルクの歌劇場で出会って以来の親友。ワーグナーにはなくてはならないバリトン。《指環》ではヴォータン。’95年と’06年日本での共演が実現

l  日本人歌手のみでの、初の《トリスタン》

‘90年、日本ワーグナー協会創立10周年記念事業として実現。指揮はペーター・シュナイダーとローベルト・リヒター。日本人キャストの指揮を飯守にといわれたが都合がつかず

l  名古屋フィルの常任指揮者に

‘98年退任。’96年には文化庁レコード部門芸術作品賞受賞

l  ‘97年度東京シティ・フィルの常任指揮者に

l  '00年度サントリー音楽賞受賞

東京シティ・フィル創立25周年で、ベートーヴェンの全交響曲を、ベーレンライター校訂新版を使用して演奏する日本初のツィクルスを行う

‘00年、「オーケストラル・オペラ」と称し、《ラインの黄金》全曲上演に挑戦。東京シティ・フィルとの共演で、大評判をとり、以後ワーグナーの主要7作品上演に繋げる

l  ‘01年、関西フィル常任指揮者就任

関西フィルとは、’90年ザビーネ・マイヤーとともに共演。’00年から2年がかりでベートーヴェン全交響曲、協奏曲、序曲ツィクルス、荘厳ミサ(9)を完結

‘21年度、音楽クリティック・クラブ賞受賞

l  ワーグナーとブルックナー

ブルックナーはワーグナーを深く尊敬していたのが、オーケストラの響きや楽器の使い方など非常に共通する部分があるので、ブルックナーのツィクルスを積み上げることは、ワーグナーの表現を追求する上でも役に立つ。東京シティ・フィルも関西フィルもブルックナー・ツィクルス演奏を通じて、立派なワーグナー・オーケストラに成長

l  ‘12年参与、’14'18年、新国立劇場オペラ芸術監督就任

オペラハウスとしてはまだ若く、レパートリーをもっと増やす必要があるが、予算が厳しく制限されつつあることを憂慮。自主制作が年々厳しくなっていることを危惧。より世界を意識し自主制作を強化して創造的に発信していくことを願う

 

²  ワーグナーを語る 4創作後期《パルジファル》

作品解説 舞台神聖祝祭劇《パルジファル》

生涯をかけて「救済」というテーマを追求し続けたワーグナー芸術の到達点

「宗教的な救済」を扱った超大作。音楽の持つ宗教的な表現力を重視したワーグナーは、「芸術の最終的な到達点は宗教的な世界にある」といい、一生かけた追求がここに実現した

ここで表現した「救済」とは、純粋無垢な愚か者によってもたらされる救済で、聡明な英雄ではなく、純粋無垢な愚か者が共苦によって悟りを開いて救済をもたらす、という思想がこの作品を特徴づけている

 

²  人生を語る 4終章(2018年秋~2023

新国立劇場での6年間、ピットで指揮した44公演は、すべての歌手に公演中のキャンセルがなく予定通り公演されたのは、キャストの交代が日常茶飯事であるオペラハウスの現場から考えれば奇跡

l  ‘18’23年、仙台フィルの常任指揮者に就任

ロマン派や民族楽派の交響曲を中心に歩む

l  コロナ禍の試練を乗り越えて

ネットでライヴ配信を行う

l  最後の《指環》

'21年、飯守の傘寿を記念して、東京フィルが《指環》のハイライト特別演奏会を開催

バイロイトからも3人が出演、世界中でワーグナーの響きが止まる中、ワーグナー・オリジナル指定通りの大編成を指揮した公演が飯守の最後となる

公演の「名誉監督」を務めたワーグナーの曾孫カタリーナ・ワーグナーからも、「飯守のキャリアは一貫して曽祖父の作品と特別に結びついている。今回のプログラムは、飯守の心の中に、曽祖父の作品のすべてがいかに深く根を下ろし息づいているかを物語る」と賛辞

l  一番大切なのは音楽

大切なのは自分のプライドより音楽。良い音楽を作るという意味では、指揮者は支配者でなくてもよい。純粋に音楽的に相手を理解しながら、様々な演奏者をまとめて一緒により良い1つの音楽を作り上げていくという道を選んだ

R・シュトラウスと組んで《ばらの騎士》を始めとする名作オペラの台本を生んだドイツの詩人ホフマンスタール(18741929)の言葉に、「生きることは変容することであり、とどまって忘れず誠実であることは人間的尊厳と結びついているが、変容しないことは死であり、この深い矛盾の上に存在が構築されている」とある。今まで私を導いてくれた人々、出会いに感謝し、伝統に誠実であり続けるとともに、生きている限り変わり続けていきたいと思っている

 

 

飯守泰次郎 主な国内ワーグナー演奏記録

 

編者あとがき

本書は、2022年、当時音楽之友社書籍課に在籍していた井面摩耶の発案で着手

飯守からの依頼を受け、書籍化のための編集をとねりこ企画が担当

飯守の突然の帰天から約2年余りたったのは、遺された楽譜・資料の中に、飯守の言葉を裏付け補完する貴重な書簡、批評記事、公演記録、写真等が多数発見されたことによる

指揮者の自著でありながら、「指揮をしていない」表紙のカバー写真に、飯守の音楽の母胎たる沈黙の豊かさと深みが写し取られている。ブルックナーの交響曲第9番の第2楽章を終えて第3楽章を振り始める直前の瞬間('043月東京シティ・フィル定期)

 

 

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内容紹介

稀代のワーグナー指揮者、飯守泰次郎、初の著作、そして遺作。
ワーグナー作品の真髄が、ここに語り継がれる。
日本が世界に誇る指揮者飯守泰次郎(19402023)が、その心血を注いで献身したワーグナーの音楽について、折にふれ書き、語り尽くした言葉の数々を一大集成。ワーグナーの創作の時系列に沿った作品ごとのオリジナル解説に加え、「調性」の把握や、ワーグナーならではの「示導動機(ライトモティーフ)」の考え方についてなど、人間と社会、愛と救済を人類史上類を見ないスケールで描いたワーグナー作品について語り明かす。また、自身の生い立ちから、齋藤秀雄に導かれて指揮者を志した学生時代、ブレーメンに始まる修業の日々、1976年ブーレーズ&シェローによる伝説の《指環》の音楽助手チーフ(!)を含む海外での仕事、晩年の日本での指揮活動など、人生を振り返る回顧録も収録(貴重な記録写真も)。オペラ/楽劇の解説と、飯守泰次郎の人生が交錯し、重なり合い、ワーグナー作品の如きうねりを描き出す。《指環》初演150周年記念出版。

 

 

 

指揮者の飯守泰次郎さん死去 ワーグナー名演で世界的に知られる

2023816 1626分 朝日新聞

 ワーグナーの名演で世界に知られた指揮者の飯守泰次郎(いいもり・たいじろう)さんが15日、急性心不全で死去した。82歳だった。葬儀は近親者で営む。喪主はおいの飯守慎太郎さん。

 旧満州生まれ。桐朋学園大で小澤征爾さん、秋山和慶さん、井上道義さんとともに故斎藤秀雄に師事し、ミトロプーロス国際、カラヤン国際指揮者コンクールに相次いで入賞した。

 古典派からロマン派までのレパートリーに定評があり、とりわけブルックナーを得意とした。長くドイツを拠点とし、ワーグナー芸術の総本山、バイロイト音楽祭の音楽助手を長く務めた。名古屋フィル、東京シティ・フィル、関西フィル、仙台フィルの常任指揮者を歴任。20149月から新国立劇場オペラ芸術監督を務めた。東京シティ・フィルとのワーグナー・シリーズで、名実ともに日本のワーグナー演奏史に大きな足跡を残した。

 サントリー音楽賞、日本芸術院賞などを受賞。紫綬褒章、文化功労者。

 

 

苦しい時代にこそ偉大な作品が生まれる 飯守泰次郎さんの「遺言」

2023816 2332分 朝日新聞

編集委員・吉田純子

 ワーグナーの指揮で世界的に知られた飯守泰次郎さんが亡くなりました。生前、取材を重ねてきたクラシック担当の編集委員が、その功績と飯守さんの「遺言」というべき言葉をつづります。

     

 80歳を超えてなお、プロからもアマチュアからもここまで頼られ、共演を熱望された指揮者はそういないと思う。この人の中にみなぎる、何か得体(えたい)の知れない芸術の権化のようなものに、少しでも触れたい。そして、できるならば少しでもその魂を、自分たちのものとして受け継ぎたい。15日に82歳で亡くなった飯守泰次郎さんを迎える現場はいつも、そして最後まで、そんな気迫に満ちていた。

 名実ともに、ワーグナーの権化のような人生だった。約20年もの間、ワーグナーの総本山たるドイツのバイロイト音楽祭で助手を務め、その全作品を血肉化した。ワーグナーを振る前は「いつも緊張して、水をがぶがぶ飲んでいる」と語った。「彼の音楽はいつも、何かを壊して前へ進むことを要求してきますから」

 2014年、新国立劇場の芸術監督に就任。「日常の暮らしのなかで、自然とオペラに足が向く。そんな文化を日本にもつくりたい」と夢を語っていた。ワーグナーのひ孫、カタリーナ・ワーグナー演出の「フィデリオ」上演も実現。時流に迎合せず、自ら評価を下す成熟した観客が日本にも育つように。そんなメッセージとともに、4年の任期を終えた。

 その指揮は、決してわかりやすいものではなかった。そのタクトが示すのは多くの場合、明快な句読点ではなく、ひとつの生命体としての楽曲のエネルギーの流れだった。わなわなと指を震わせるさまは、噴火直前のマグマを思わせた。作曲家のオーラを、「媒介」たる己の中に充満させ、感興に打ち震えながら放ち、音による巨大な山脈を築く。そうして具現化される響きの純度の高さは、世界的にみても比類のない水準にあった。

 そうした探究の歩みにおいて、晩年の最良のパートナーとなったのが東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団だった。2000年以降の一連のワーグナー作品の連続上演は、日本におけるワーグナー演奏史の金字塔となった。

 215月、自身の傘寿記念でもある「ニーベルングの指環」ハイライト公演は、名実ともに奇跡の1日となった。コロナ禍のただ中にもかかわらず、ステファン・グールドとトマス・コニエチュニー、世界最高峰のワーグナー歌いがそろって来日を果たしたのだ。飯守泰次郎という指揮者が、いかに国際的に高くリスペクトされていたかということの証しに他ならない。

 グールドがこう語っていたのが忘れられない。「マエストロ・イイモリに呼ばれたら、どこへでも行く。ワーグナーを歌う人間なら誰でもそうだ」。この時の演奏を、音楽評論家の片山杜秀さんは「三昧(さんまい)の境地でワーグナーに没頭して時を熟成させ、大蓮華(れんげ)の開花するような音楽の法悦境を導いた」「かくもワーグナーらしいワーグナーを、今や飯守以外の世界の誰が振れるというのか」と惜しまず称賛した。

 最後に奏でたのは今年の4月、やはり東京シティ・フィルとの共演によるブルックナーの交響曲第4番だった。ワーグナーに夢中になるあまり、ブルックナーを本格的に振るようになったのは、実は60歳近くになってからだったという。ワーグナーを究めるうちにブルックナーも視野に入り、ひとつに連なる大きな山脈のように見えてきた、と語っていた。

 飯守さん自身の人生において、ブルックナーはどういう意味を持つ作曲家なのか。公演に先立ち、そうした問いを投げたところ、文章でお返事をいただいた。一部、そのまま引用する。

 《私はドイツに10年、それからやはりゲルマン民族の国であるオランダに15年いたので、ブルックナーを聴く機会も、いわゆるブルックナー指揮者との出会いも多くありました。もちろんチェリビダッケ、ベルリン・フィル、といった最高の演奏も聴きましたが、当時私が住んでいたブレーメンやマンハイムのような、どちらかというと小さな、技術的にも必ずしも最高ではないオーケストラで演奏されたブルックナーが、より深く印象に残っています。当時はドイツにも、ブルックナーを演奏するには人を増やさなければならないくらい小さな、田舎のオーケストラがたくさんありました。面白いことに、私には、そういう小さな田舎のオーケストラのブルックナーの素朴な響きが、とても魅力的に感じられたのです。

 (中略)バイロイトに来る指揮者がブルックナーを演奏したLPCDも数多く聴きました。ホルスト・シュタイン、ハンス・ヴァラート、バレンボイム、そして特にヨッフム。練習の合間に、彼らとブルックナーについて話す機会も少なからずありました。(中略)バイロイトで数々のブルックナー指揮者と出会い、ワーグナーと共通するブルックナーのサウンドの類似性を体得できたことは、今思えば大変貴重なことだったと思います。》

 晩年は足腰の衰えを感じさせることもあったが、付き添いの手を離し、指揮台の楽譜に向かって姿勢を正した瞬間、何かが憑依(ひょうい)するかのように、音楽がその体の中に入るのが誰の目にもわかった。

 「普段はぼーっとしているのに、指揮台に立つと何かが入っちゃうのよね。で、あとでまた疲れちゃうの」。困ったように笑いながら、自身の挑戦を支え続けてくれた妻の比佐子さんも、21年の年末に先に旅立った。その後は日本中のオーケストラや合唱関係者、音楽ファンたちが、飯守さんと芸術の二人三脚の日々を熱く見守り、その背中を追い、時に並走した。

 コロナ禍のさなかのインタビューの折、第2次大戦後のバイロイト音楽祭が、戦時中のヒトラーとの関係の深さゆえ、厳しい批判と経済上の制約を受けた話になった。ワーグナーの孫ヴィーラントがそれを逆手にとり、独自の様式を打ち出し、音楽祭を未来へとつないだ逸話を挙げつつ、力強い口調でこう語った。人間性への信頼を礎とした「遺言」として、最後に、あらためてここに記したい。

 《ある種の制約が逆に、よりよい文化芸術の礎となることがある。いま私たちは、大きな時代の転換期を生きている。苦しい時期ではあるけれど、こういうときにこそ、真に偉大な作品が生まれてくる。芸術がある限り、私たちから希望が奪われることは決してないのです。》

この記事を書いた人

吉田純子 文化部|本社コラムニスト、編集委員

 

 

 

テクニック拒み、心で迫る音楽 飯守泰次郎さんを悼む 指揮者・井上道義さん

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 ワーグナー演奏で知られた指揮者の飯守泰次郎さんが15日、82歳で亡くなった。学生時代に桐朋学園大で直接指導を受けた井上道義さん(76)が、その個性の源を振り返る。

 飯守さんは僕にとって、初めは「先生」だったんです。僕は14歳の時に指揮者になろうと決め、16歳で尾高忠明くん(75)と同時期に斎藤秀雄先生に弟子入りし、そのまま先生のいる桐朋に進みました。その時の先生の一番弟子が、すでに才能を花開かせていた小澤征爾さん(87)で、その五つ下にいたのが秋山和慶さん(82)と飯守さん。僕らが入学した頃、2人は先生の助手をしていて、いろんなことを教えてくれた。

 斎藤先生はベルリン留学を経て、自身の専門であるチェロの奏者ばかりでなく、世界の舞台に立つ指揮者を育てるという夢を抱き、征爾さんに続く存在を探していた。そんな先生が「指揮者にならないか」って自ら声をかけたのが飯守さんでした。とにかくピアノがうまく、初見演奏の能力もすごかった。本人はピアニストになりたかったようだけど、斎藤先生が放っておかなかった。指揮の授業では、秋山さんと飯守さんがピアノ2台でいろんな作曲家の交響曲を弾いてくれるんですけど、これがまた、うまくてうまくて。

 秋山さんと飯守さんは双子のように仲が良かったけど、指揮者としての個性は対照的だった。秋山さんのタクトは、斎藤指揮法の基本を誰よりも忠実に受け継いでいる。でも飯守さんは、「でも、先生」と、あからさまに先生に反抗していた。「君の棒が悪いからオケが合わない」と叱られると、「音楽の作り方は楽員たちが楽譜を見て自ら考えるもので、棒で示すものじゃない」と言い返す。

 どちらが正しいとも違うとも、僕は言うつもりはない。ただ飯守さんは、斎藤先生の職人としての生き方に「音楽」を感じなかったんじゃないかな。音楽は理屈じゃない、心で伝えるものだと信じたかったのかもしれない。いずれにせよ先生への反発が、音楽に対する、飯守さんの信仰のような帰依の礎になったのは確かだと思う。

 飯守さんの手の動きは決してわかりやすくなかったから、若い頃はあまり仕事がこなかったみたいだけど、代わりにワーグナーの殿堂、独バイロイト音楽祭の音楽助手として20年ものキャリアを積んだ。ピアノを弾きながら歌手たちにドイツ語を教えたり、発声の指導をしたり。信じられないことです。

 とにかく、なんでそこまで愛せるのって思っちゃうくらい、ワーグナーが好きでたまらないんですね。ワーグナーへの尊敬に打ち震えながら、一音一音にこめられた思いを妥協なく言葉で伝えようとする。結果としてリハーサルにすごく時間がかかるから、飯守さんの本領は、プロよりもアマチュアのオーケストラで発揮されることの方が多かったんじゃないかな。

 飯守さんは覚悟の上で、共通言語として与えられたテクニックを拒み、心ひとつで音楽に迫り続けようとしたのだと思う。2016年に大阪国際フェスティバルで久しぶりに再会したけれど、大学時代と何も変わっていなかった。人なつこく誰からも慕われる人柄も、ぞっとするほど濃いワーグナーに対する情念も。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

 

 

指揮者泰次郎 ワーグナーと人生を語る 飯守泰次郎著、とりねこ企画編

自伝と解説の有機的共鳴

2026425日 日本経済新聞

2023年に死去したクラシック音楽界の重鎮指揮者が、自らの人生を振り返りながら、生涯をかけて取り組みつづけたワーグナーオペラの魅力を書きつづった。

ワーグナーを語るパートと、自伝部分が交互に登場する。別々の文章を単純に交錯させたわけではなく、有機的に共鳴するのが興味深い。

例えば1976年のバイロイト音楽祭100周年で、ピエール・ブーレーズ指揮、パトリス・シェロー演出による伝説的な「ニーベルングの指環(ゆびわ)」上演を、当時音楽助手だった飯守の目線で描いた直後、この巨大な作品の解説が続く。

自伝部分では過去の手記や新聞批評、友人たちの回想録もちりばめられる。この1冊全体が一種のポリフォニーを奏でているかのようだ。死期の近づいた著者の筆遣いは、至って誠実。知られざる裏話のほか数々の失敗談も描かれるが、決して露悪的にならない。文章全体を貫くのは、尽きることのない音楽愛、そして人間愛だ。

大指揮者カラヤンを「圧倒的な意志力」と評し、テノール歌手のジェームス・キングは「いつも他人に聴いてもらって、注意深く声を吟味していた」と観察。出会った人や作品に対し真摯に言葉を重ねる姿に、著者が世を去った寂しさを改めて感じた。(音楽之友社・3960円)

 

 

BLOG

「飯守泰次郎 ワーグナーと人生を語る」を読んだ

 音楽之友社から刊行された「飯守泰次郎 ワーグナーと人生を語る」を読んだ。私は、そこそこの読書家なのだが、いろいろ事情があって、原則としてブログには本の感想は書かないことにしている。が、本書は例外!

 私のワーグナー体験の最初が、1972年の東京文化会館での飯守指揮の二期会公演だった。レコードですでに主要な歌劇・楽劇のすべてを聴いてワーグナーかぶれではあったが、大分市で暮らしていた私は、1970年に東京に出てきたばかりで、まだワーグナーの歌劇・楽劇の実演をみたことがなかった。部分的には演奏会やテレビ放送で日本人の歌うワーグナーを聞いたことがあったと思うが、海外の演奏との大きな差に愕然とするほどだった。

 そんな時に、飯守泰次郎という若い指揮者が登場し、ヴォータンを木村俊光が歌って、まさに本格的なワーグナーを聴かせてくれた。世界の水準がきっとこうだろうと思わせるだけの素晴らしい上演だった。本書の中にその時の様子が語られているが、私はその公演で涙を流して大喝采した一人だった(当時、私は21歳だった!)。

 数年後の「タンホイザー」にも同じように感動した。その後、しばらく消息を聞かなかったのでどうしたのかと思っていたが、1990年ころから再び日本で活躍を始めた。90年代以降の東京シティフィルによるワーグナー、ブルックナーの演奏、二期会、新国立劇場の上演のほとんどを追いかけた。名古屋や京都でも聴いた。その多くの演奏に私は深く感動した。

 何度かお会いしてお話したことがある。私がブログに感想を書くと、読んでくださったようで、その後お会いしたとき、マエストロの方から「おや。樋口さん」と言って私を呼び止めて話をしてくださったこともあった。

 マエストロが亡くなって2年が過ぎた今、この本が刊行されたことは本当にうれしい。

 マエストロの少年時代、音楽修行、しばらく日本で活躍していなかった時の状況、その後の活躍の状況などがくわしく書かれている。「うーん、おれなんかとはまったく違うすごい家系だなあ」「やっぱりすごい才能があったんだなあ」などという月並みな感想を抱きながら、私がこれまで聴いてきた数多くの名演奏家たちとの間でのマエストロの音楽体験を読んでいった。ベームやカラヤンが活躍した時代のヨーロッパの音楽状況がとてもよくわかる。知った名前が次々出てきて、生身の行動をとるので、私のようなオールドファンはわくわくする。バイロイトの内側についても追体験できる気がする。

 ワーグナー作品についての演奏する側からの解説も出色。また、調性についての解説がおもしろい。音楽家にとっては常識的なことなのかもしれないが、素人にもとてもよくわかる。そんな楽曲解説、音楽解説にも、誠実で正統派で、しかし人間臭く、ワーグナーを心から愛し、ワーグナーの世界を私たちに聴かせてくれたマエストロの姿が見えてくる。ワーグナー理解が進み、マエストロのワーグナー解釈の一端が見えてくる。

 そうだった、私のワーグナー体験の基本を作ってくれたのは間違いなく飯守泰次郎だった!と、改めて思った。

 それにしても、飯守泰次郎の指揮をバイロイトで聴きたかった! 「飯守さんがバイロイトで振るときには、何が何でもみんなでバイロイトに行こうね!」と仲間内で何度も話していた。飯守さんも亡くなり、一緒に語っていた仲間たちの多くも亡くなって、もちろんそれはかなわぬ夢になってしまった。かえすがえすも残念!

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久恒啓一 作家・多摩大学名誉教授・白藍塾塾長・東進ハイスクール講師(小論文)

1951年大分県日田市生まれ。
大分県立上野丘高等学校卒業後、早稲田大学第一文学部で演劇を専攻、立教大学大学院でフランス文学を研究(学習参考書の中には、業界の慣例にしたがって、「博士後期課程修了」としているものもあるが、正確には「博士後期課程満期退学」)。
その後、東進ハイスクールで小論文の指導にあたり、通信添削塾「白藍塾(はくらんじゅく)」を設立。2008年から2017年3月まで多摩大学経営情報学部教授を務める

 

 

 

WIKIPEDIA

飯守 泰次郎(いいもり たいじろう、1940昭和15年〉930 - 2023令和5年〉815)は、日本指揮者

人物

満洲国新京生まれ。父は裁判官飯守重任、兄はロゴデザイナーの飯守恪太郎文部大臣最高裁判所長官を歴任した田中耕太郎は伯父。母方の祖父母に日向輝武林きむ子

経歴

桐朋学園大学指揮科卒業。斎藤秀雄に師事。アメリカ留学中にミトロプーロス国際指揮者コンクールに入賞。のちにカラヤン国際指揮者コンクールに入賞。

ドイツでの活動が長くバイロイト音楽祭の音楽助手をつとめる[1]。またマンハイムレーゲンスブルクなど各地の歌劇場で活動をする。ドイツでの活動を継続出来るよう朝比奈隆が一度助けてくれたという逸話がある。オランダ・エンスヘデ市立音楽院オーケストラ顧問を務めた。

日本国内では1972から1976まで読売日本交響楽団指揮者、1993から1998まで、名古屋フィルハーモニー交響楽団常任指揮者。1997より東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団常任指揮者(20124月から桂冠名誉指揮者)[2]2001より関西フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者、2011より桂冠名誉指揮者。2018より2023まで[3]仙台フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者[4][5]

20129月から新国立劇場芸術参与、20149月から同芸術監督(いずれもオペラ部門)に就任[6][7]

ベーレンライター版によるベートーヴェン・チクルスを東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団・関西フィルハーモニー管弦楽団の双方で成し遂げる。前者はCD化された。

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団では、2000から4年にわたって『ニーベルングの指環』全四部作、2004ローエングリン』、2005パルジファル』、2008トリスタンとイゾルデ』と、ワーグナーの楽劇を「オーケストラル・オペラ」というコンセプトで演奏、日本のワーグナー演奏史に大きな軌跡を残し、数々の賞を受けることになる。さらにマルケヴィチ版によるベートーヴェン・チクルスを完成させる(CDで発売)。2021年には自身の傘寿を記念して開催された『ニーベルングの指環』のハイライト演奏会を指揮した[8][9]

関西フィルハーモニー管弦楽団ではオーギュスタン・デュメイ藤岡幸夫と共に楽団の顔であり、時に同じ演奏会で共演することもある(前半が藤岡指揮・後半が飯守指揮、あるいはデュメイがヴァイオリン独奏・飯守が指揮)2005年にはピアニストの迫昭嘉とともに大澤壽人ピアノ協奏曲第3を関西で67年ぶりに演奏した。その後も大澤の作品を精力的にとりあげており、ピアノ協奏曲は3曲とも指揮(迫昭嘉、関西フィルハーモニー管弦楽団との共演)、うち第1番は20135月に世界初演。さらに以前より同楽団がとりあげていた貴志康一の作品も指揮している。2011から2022までブルックナー交響曲チクルス(演奏会は10回、うち1回は000を演奏)を行った。

1973芸術選奨新人賞2000年度第32サントリー音楽賞[10][11]2003年度第54芸術選奨文部科学大臣賞、2004年秋に紫綬褒章[12]201011月に旭日小綬章[12]2013年に日本芸術院賞を受けた[13][14]2008年に大阪市市民表彰。2012文化功労者[15][16][17]2015、第56毎日芸術賞受賞[18]

2023815日、急性心不全のため、死去した[19]82歳没。死没日付をもって従四位に叙され、旭日中綬章を追贈された[20]

 

 

 

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