彦九郎山河  吉村昭  2026.4.8.

 2026.4.8.  彦九郎山河

 

著者 吉村昭 (19272006) 東京生まれ、学習院大学中退。1966年「星への旅」で太宰治賞、73年「戦艦武蔵」「関東大震災」などで菊池寛賞を受賞。丹念な取材と史料調査で緻密に構成した記録文学、歴史文学を多数発表した。

 

発行日            1995.9.30. 第1

発行所            文藝春秋 (1998年 文春文庫)

 

初出   『東京新聞』1994.3.23.12.31

 

高山彦九郎は、若い頃から故郷の上野国新田郡細谷村(現太田市)から江戸に出てきてい以来、しばしば江戸に長く滞在して多くの学友、知人を得、それらを繰り返していたので、足を踏み入れぬ町はほとんどない

特に町人の住む家々の密集する道は、人々の生活が感じられて好き。なかでも神楽坂は好きで、いつもくつろいだ気分になる

5年前の天明4(1784)に江戸に来た時、酒の席でよく聞いた話。前年に珍しい仇討があって、百姓によるものであることに身が引き締まるのを感じ、未だに鮮明に覚えている

仇討の場所は神楽坂。22年前の明和4(1767)、下総の百姓が村の組頭と口論になり、暴行を受けた傷がもとで死亡。12歳の息子がいたが、村から逃亡していた組頭がもう済んだと村に戻ったのを聞いて息子が激怒。家督を弟に譲って江戸に出て剣術を身に着ける。神楽坂で組頭に似た男を見つけ、一旦は躊躇うが、再度見つけてたちはだかり、本人であることを確かめて仇討に及ぶ。組頭は行願寺の境内に逃げ込むが、息子は切り倒す。役人が奉行所に引き立てるが、仇討ちが認められて無罪放免となる。百姓の仇討ちは初めてで、評判となる

彦九郎の先祖は、戦国時代まで家格の高い武家だったが、その後帰農して郷士となり、彼は農民の出身。百姓の仇討ちに衝撃を受けたのは、彦九郎も亡父の敵を討とうとしたことがあったから

彦九郎の先祖高山遠江守は、情報御図家國重新田郡から出た新田義貞に仕えていた有力な武将、義貞は後醍醐天皇の信任を得て足利尊氏と戦い、敗北を重ねて越前国藤島で戦死

高山家では、代々先祖を誇りとして、朝廷を尊崇する気持ちを受け継ぎ、神道を信仰、神社への参拝を欠かさない。彦九郎の故郷は旗本筒井家の知行地で、筒井家にとっては忌まわしい存在。地頭は米の4割を年貢米として徴収。旗本と領民は家老や用人を間にして親密な関係が保たれてきていたが、高山家とその一族は旗本に近づくことすら避けていたが、その根底には、先祖から受け継がれてきた反幕、朝廷崇拝の念があった。高山一族の屋敷は、叛旗を翻す砦に近いもので、筒井家では極めて危険な一族として監視を強めていた

領主の圧力に身の危険を感じた彦九郎の祖父は、晩年細谷村を離れ、息子の養子先に身を潜め、父彦八は明和6(1769)阿夫利神社参拝の旅の途中で殺害。享年53

殺害現場の目撃者の情報から、下手人は筒井家から放たれた男と特定

江戸の細井平洲の私塾である嚶鳴(おうめい)館で儒学を学んでいた彦九郎は当時23歳、叔父からの知らせで激しい憤りを感じ、仇討ちをすべく平洲に最後の挨拶をする

平洲から親不孝といわれ、神道では親孝行こそ最も尊いと教えられており、仇討ちを思いとどまる

それから20年、平洲の高弟として師事しながら、全国をくまなく旅して多くの学者と親交を結び、知識が豊かに膨れ上がり、社会観も強固なものになっていた

江戸幕府の政治に矛盾がはっきりとした形で現れるようになり、平洲は儒学という学問の観点から社会の立て直しに努めるべきとの信念を抱き、各藩の藩主の中には世の乱れを憂い、平洲の考え方に共感を覚えて、その教えを請う者もいた。西条藩の世子(のちの紀伊藩主徳川治貞)、上杉治憲(鷹山)などに招かれる。故郷尾張藩徳川宗親の侍講となって藩政改革に貢献、藩校明倫堂の総裁に推される

彦九郎も、平洲が儒学を現実の社会改革に活用する姿勢に大きな影響を受け、実践家として自説を説くが、朝廷を中心とした文治政治を理想としたため、危険思想と見做される

彦九郎の兄で高山家を継いだ専蔵は大地主で、家を守るために筒井家との反目を回避しようとしたため、筒井家は専蔵を好遇し、専蔵と彦九郎は激しく反目

専蔵は、祖父の残した高山家の財産を管理する叔父の長蔵にも憎悪の念を抱く

彦九郎は内妻との間に21男をもうけるが、専蔵の苛めに遭い、祖母が庇護

天明6(1786)、彦九郎の理解者だった祖母死去。彦九郎は叔父とともに神道の古いしきたりに従って3年間の喪に服し無言の行を行う。服喪の行は江戸にまで知れ渡り、孝子として幕府に招かれたが、兄の密告によって思想関係を追及される。無罪放免にはなったが、兄の密告を知って恐ろしくなる。故郷へは戻れないと悟り、残してきた妻子を想う

 

安永9(1780)、彦九郎は父の信仰の山富士山登山を果たし、帰路神奈川宿で中津藩士簗半兵衛の養子次正と知り合う。その後また次正の家を訪問すると、友人の前野達を紹介され、中津藩医前野良澤の息子であることを知る。良澤は青木昆陽の門下でオランダ語を習得、長崎にも遊学。学者として、『解体新書』が評判となった後も表に出ず研究に専念

次正は彦九郎を良澤に引き合わせる。体制に阿る者に対して嫌悪感を持つ彦九郎は、実力がありながら表に出ることを拒み続ける良澤の清廉な姿勢に共感と深い畏敬の念を抱く

良澤は彦九郎を温かく向かえ入れ、彦九郎は前野宅にたびたび逗留。藩主の助力により入手した洋書の翻訳をしていた良澤は、鎖国政策に反する洋書の和約を禁じており、和訳を一切出版しない良澤が何を翻訳しているのか訝った幕府から目をつけられていた

良澤は、オランダの地理書「柬砂葛(カムサスカ)記」を翻訳中。近年、ロシアが樺太・千島を狙っているが、その北方にあるカムチャッカは日本では未だ未知の国

彦九郎は水戸藩の長久保赤水という著名な地理学者に会って、「柬砂葛記」のことを話す

彦九郎は、旧友の広島藩の儒官頼春水(山陽の父)にも会う。春水は彦九郎の危険思想と行動を心配し、故郷に帰ることを忠告するが、故郷には帰れぬ身であった

 

彦九郎は故郷からの手紙で、専蔵が筒井家から地主役に任じられて年貢米の徴収もするようになり、高山家一族にも横暴に振舞うようになったことを知る

次正の妻女が死去

 

専蔵の横暴が激化、身の危険が迫った妻子の対応を決めるべく達が代わりに細谷村に赴く

 

江戸の経済的な繁栄に伴って、営利のみを追う浮薄な風潮も一般化し、殊に仏教界の金銭的な堕落が顕著。幕府にとって仏教は、重要な文教政策の1つであったが、僧の堕落によっていつの間にかいまわしいものとされるようになり、僧の数の制限と新しい寺の建立を禁止する令を発した。水戸藩は光圀が徹底した宗教改革を行った

そのうちに儒学の合理主義の思想によって、僧侶の利欲追求が激しい非難の的になる。儒学は神道を重んじ、仏教は正しい民族精神を乱し衰えさせるものとされ、激しく排斥

儒学者の彦九郎も例外ではなく、高山家先祖代々の神道崇拝の精神と一致。江戸の町々を歩きながらも、神社には社殿の前にぬかずいて礼拝するのと常としていた

専蔵の暴虐は小康状態のようで、ひとまずは安心

良澤の洋書翻訳に対する幕府のお咎めが来て、藩主の前で尋問されたが、『解体新書』の訳者を降りたことを知って、ようやく良澤の清廉さに幕吏も得心

彦九郎は良澤の家にいることが多くなり、大槻玄澤や桂川甫周らの蘭学者と交流し、西洋事情の知識を得ることに努める

寛政2(1790)、毎年続く大飢饉と天災で米価が急騰、大規模な打毀しが勃発。その平定と乱れた治安の回復に功あった先手組頭(弓頭の指揮者)の長谷川平蔵が火附盗賊改に昇進。平蔵は盗賊の逮捕に天性の勘を備え、盗賊の相次ぐ捕縛で「神の如し」と讃えられた

江戸に大量流入する不良流民や窮民救済対策として、平蔵の進言により人足寄場を創設

 

彦九郎は、旅こそ自分の生きる道とし、旅先で多くの人に会って自分の考えを伝え、また、人の意見も聞く、それが学問だと信じていた

良澤から蝦夷の話を聞いて蝦夷行きを思い立つが、旅立ちに先立った自分の動きについて考える。いままでは、幕府の武断政治を排し、朝廷を中心とした文治政治にすべきだと周囲にも説いてきた。武家が政治を左右するのは変則であり、本来の姿に戻さなければならないと確信しているが、それゆえに幕府の弾圧は覚悟の上だが、累が家族に及ぶのを恐れ、家族を離縁して実家に戻らせようと長蔵に相談

羽田沖から木更津に行き、房総半島を南回りで一の宮神社に礼拝、犬吠﨑から利根川を遡上、鹿島神宮に参拝、海岸線を北上して水戸に入り、水戸藩随一の儒学者立原翆軒と会う。立原は細井平洲門下の兄弟弟子、光圀の『大日本史』の校訂にも従事

翆軒は、浅間噴火以降の大飢饉を見事に乗り切った白河藩主松平定信の手腕を高く評価、水戸藩主を動かし、藩主は御三家を語らって田沼意次の腐敗政治を一掃すべく定信を老中筆頭に押し上げる。彦九郎は一儒者である翆軒の建言が幕府の政治に大きな改革をもたらしたことを頼もしく思い、自らも日本の政治を変革させることに尽力することを誓う

翆軒は定信に、「天下の三大患」の上申書を提出。その1つが蝦夷で、彦九郎の決断を称揚

翆軒門下随一の秀才藤田与助(幽谷)にも会う。強い尊王思想を抱き、子の東湖や門弟の会沢正志斎によって尊王攘夷思想へと発展。与助は蝦夷の重要性についても熱く語る

郡山、福島を経て米沢で多くの平洲門下生にも面談

 

米沢ではまず儒学者で医者の飯田忠林に会う。飯田も平洲門下生。米沢藩を代表する儒学者で藩校興譲館の提学(学長)の神保容助と片山紀兵衛とも面談

平洲は、深刻な財政危機に見舞われていた米沢藩に、藩主の侍医の推薦で迎えられ、天下の範となる善政と興譲館設営を指導。平洲の学問は、儒学の学派に拘らず秀れた部分を取り入れた所謂折衷学派、学問は字句の解釈より、現実の社会に実践するためのものと説く

湯殿山に登り大権現に参拝した後月山山頂に至り石室に泊まる。羽黒山山頂の大権現にも参拝。酒田に入って、鳥海山にも上る。象潟の風光を楽しみ、本庄に逗留。秋田から津軽藩に入り弘前に来ると、直前にアイヌが蜂起。騒ぎは収まったが緊張が続く

津軽の最北端三厩(みんまや)から海路10里で松前へ向かおうとするが、蜂起以来松前藩は人の流入を厳しく制限しており、津軽側の船頭も船を出そうとしない

蝦夷地は、はかり知れない豊富な資源に恵まれ、しかも大半が未開発という魅力。資力の豊かな商人が殺到し、資源を江戸その他に運び込んで巨利を得ている

不凍港を求めて南下するロシアの脅威が増しつつあり、有識者がこぞって警告を発する

三厩に到着したのは11月、すでに蝦夷は厳しい寒さが訪れ、船があっても松前藩の取り調べが厳しいうえに寒さで動けないと言われ蝦夷行きを断念。代わりに京を目指す

 

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津軽、南部など奥羽各藩は天明3年の大飢饉で疲弊、多くの人々が餓死したか逃げ出して人口が激減。飢饉の状況を聞きながら、彦九郎は益々武断政治への激しい怒りを覚える

盛岡から花巻経由黒沢尻へ

 

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中尊寺村から仙台へ向かう。仙台では林子平の家に投宿。子平は姉が仙台藩主の側室になった関係で仙台にいたが、学問で身を立て、仙台藩主に藩政改革の上申書を提出

彦九郎は、仙台藩医で『赤蝦夷(ロシア)風説考』工藤平助を介して子平と交流があった

寛政の3奇士は、彦九郎(44)、子平(53)、蒲生君平(23)。蒲生は先祖が氏郷の落胤、宇都宮の商人の家に生まれ、黒羽藩家老の儒者鈴木武助に学び、朝廷中心の文治政治へ戻すべきとの信念を抱き、子平や彦九郎とも面識があり、彦九郎が蝦夷を目指したと聞いて後を追うが、わずか3日の差で仙台ですれ違う

 

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彦九郎は奥州街道を南下、二本松、郡山、白河を経て越堀宿に行き親しくしていた鈴木武助に会おうとしたが、江戸に行っていて留守。大田原から日光街道を経て中山道へ。京都までの道中は知人も少なく路銀が乏しくなったので、何人かの知人に借金しながら、11月末漸く京都に入り、材木商から出て江戸で白木屋という呉服屋をやって繁盛している大村彦太郎を訪ね、翌朝京都御所を拝覧。御所は天明8(1788)の大火で全焼したが、松平定信の上呈により平安朝の古制に則った新御所が造営されたばかり。天皇の住む禁裏の南門の前では地面に座って拝礼

過去2回の京都滞在で、彦九郎は革新派の公卿たちと親交を結んでいて、今回も旧交を温める。伏原宣条(のぶえだ)、芝山持豊は、後に王政復古に尽力した気鋭の公卿。岩倉具選(ともかず)とは最も気心が通じた

家康が平定して以来、朝廷はその威光におびえ、うずくまるようにして過ごしてきたが、国学者や儒者によって朝廷の存在を重んじなければならないという説が強く唱えられるようになり、幕府と朝廷の関係に新たな変化が見られるようになってきた

 

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寛政3年(1791)の元旦には、鷹司佐輔平に従って初めて御所の門内にも入る

彦九郎は、革新派の公卿を中心に、復古尊王の思想に基づく王政復古実現を説き、彼らに強い刺激を与える。幕府も勤王思想の高まりを無視できなくなっていた

知人を介して、たまたま松前藩からアイヌとの友好の絵をもって上京していた家老蠣崎弥次郎にも会って、蝦夷への渡海への許しを願い出るが拒絶される

宝暦6(1756)、越後の町医の子として生まれた竹内(竹の内)式部が京に入って儒学を学び、塾を開いて若い公卿たちに尊王思想を説く。上層部の公卿たちは幕府の弾圧を恐れ若い公卿たちの言動を危険だとして、竹内を京都所司代に告発するが、罪に相当するものは見られず釈放。翌々年には若い公卿たちによる天皇神書講義も中止され、20人の公卿が処分され、竹内も再度告発され、翌9年には重追放となり京都から追放(宝暦事件)

宝暦事件は、竹内以上に過激な勤王思想を説く甲斐出身の山県大弐による江戸での幕府批判事件に飛び火し、幕府から死罪にされ、竹内も直接関係はなかったが勤王思想を唱えたとして再度遠島となり、八丈島に送られる途中の三宅島で死去(明和事件)。朝廷に大きな衝撃を与え、幕府を少しでも刺激するようなことは極力回避との機運が醸成されていた

そういう体制が徐々に変化の兆しを見せ始め、勤王思想をさらに広めて朝廷の力を強めることが新しい時代の到来に結びつくと彦九郎は考え、薩摩藩の後ろ盾を働きかけることにする。彦九郎は予てから親しくしていた薩摩の藩校造士館の助教授赤崎楨幹の助力を期待

 

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彦九郎は自ら薩摩に乗り込んで藩主島津斉宣の説得に動こうとし、白木屋の大村に路銀を無心。大村から京都所司代が彦九郎の動きに不審を抱き尾行していることを教えられる

寛政37月京を発って鹿児島に向かう

 

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大坂から山陽道を通り、赤間関(下関)から小倉は船。知己の多い久留米を訪ね、尾行に鹿児島行きを悟られないように、長崎を目指す。武雄、嬉野を経て長崎へ。通詞を訪ねて西国事情に耳を傾ける。薩摩街道を南下。熊本では知己となった多くの学者に会う。普賢岳の噴火にも出逢う。何とか尾行をまき薩摩入りしようと野間ノ関に至るが、薩摩藩は全国の藩の中でも最も厳しく国境を封鎖、半月以上も経って漸く入国の許可が下りる

 

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鹿児島城下へは16

赤崎は、造士館で後進の指導に当たる傍ら、11歳の世子斉宣の侍講となって江戸に下り、平洲に侍講の心得を学んで藩主を教導、その信認を得る。そのお陰もあって斉宣は彦九郎の使命を十分理解し、それに応えようとしている

普賢岳が再度大爆発を起こし、島原と対岸の熊本では津波で甚大な被害に

京都では、天皇の父である閑院宮紀仁に上皇の尊号を贈ることを認可してくれるよう幕府に働きかける声が一段と高まる。幕府側の松平定信は尊王思想を一層勢いづかせると警戒して拒否の姿勢を崩さないが、参議以上の公卿40名に尊号問題の賛否を問うた結果は35名が賛成と出る

 

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薩摩藩内では、藩主の斉宣は彦九郎の使命を知って共感したが、先代の重豪(しげひで)は幕府の意向に逆らうことを警戒。藩の大勢は重豪派に傾き、斉宣が江戸に下ったところで彦九郎の使命は挫折

 

18

帰路熊本で、林子平が捕らえられ、蟄居させられたことを知る。ロシアの南進策に警告を発した『海国兵談』の全巻が完成し出版するばかりになっていたところだったという

それを聞いて益々彦九郎は、幕府の自分への監視の目が厳しくなることを感じて警戒

 

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日田は、幕府の直轄地で西国筋郡代がいて九州諸藩の監察をしている。彦九郎は、同地の儒生の紹介で、大名貸しの最大手広瀬家の当主にあって尊号問題の動静を探る

彦九郎は、学問の道に深く入れば、武家による幕府政治が一時期のみの仮の政治であり、朝廷の文官による政治こそ本来のものであるという認識に当然到達するはずであり、御用学者が保身のために幕府政治を正当のものとして容認・賛美するのを、学問に対する冒涜と考えた。一時親しく交わっていた高名な儒学者柴野栗山が幕府に迎え入れられて優雅な生活を楽しんでいると聞くと、現状を容認する栗山に激しい嫌悪感を抱き交わりを断つ

彦九郎は、薩摩への行きがけに立ち寄った竹田の岡藩で初めて会った寺の住職の厚意を思い出し、尊王の気風が強い岡藩なら安住の地と考えた。岡藩の3代藩主中川久清が1658年に熊沢蕃山を招き、その思想に共鳴して政治改革を行っていたことを知悉。彦九郎が尊敬する蕃山も幕府の怒りを受けて拘禁され死去したが、自分の運命を蕃山に重ねている

彦九郎と同じ尊王思想を説く岡藩藩校の督学(総裁)伊藤鏡河にあった後、中津に向かう。中津藩主昌高は島津斉宣の実弟

 

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臼杵で初めて役人に咎められ立ち去れと言われ、佐賀の関へ迂回して中津藩に入るが、中津藩にも幕府からの指示が来ていることを知る。中津でも尊号問題への動静は聞くことが出来ず、日田に戻る。広瀬家でも尊号問題の動きを聞くことはできず、息子が12歳で唐歌(からうた)を詠じるのを見てその才能に驚く。その子こそ後の広瀬淡窓

出立しようとしたときに郡代によって捕縛され白洲で詮議を受けるが、郡代は心の病に侵されていてただ立ち去れというだけで、拘束は免れた。無断で彦九郎を泊めた旅宿の主人は手鎖(てぐさり)の刑に処せられ、郡代は間もなく死去

 

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彦九郎が向かったのは尊王論者の多い久留米だが、尊号問題の動きを知るためには結局京に戻るのが一番の早道と考え、小倉から船に乗ろうとするも、道中風邪を引いて体力が極端に落ちたこともあって、小倉入りの危険を冒す気力も萎え、久留米に戻ろうとして途中の松崎宿で、参勤交代から鹿児島に戻る島津斉宣一行が通ることを聞き、赤崎に会う

赤崎から、幕府が急先鋒の公卿2名を江戸に召喚して処分し、朝廷も尊号問題を取り下げて、一件落着(尊号一件、寛政4)したことを聞かされ、愕然とする

茫然自失で迷い歩いた末に久留米の知己の医者を訪ね、狂気から書いた日記などを破り捨て始める。突然脇差を腹に突き立て、「わが忠と思い、義と思ったことは、すべて不忠、不義となった。私は愚かであった」と言い、治療は辞退し、そのまま息を引き取る

遺留品の中に辞世の句: 朽ちはてて身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを

そのまま久留米に仮埋葬され、細谷村を知行地とする旗本筒井家に連絡がいき、高山家当主の専蔵が呼び出されたが、専蔵は「取登せ(とりのぼせ:逆上する)候而()自害」したと思うとして適当に処置してほしいとつれない返事。後日長蔵が久留米藩に赴いて法要を営む

朝廷が王政復古を宣言したのは、彦九郎自刃後74年経った慶応3

 

 

あとがき

20年ほど前、『冬の鷹』という初の歴史小説を書いた。前野良澤が主人公で、その資料の中に高山彦九郎という人物が現れた

彦九郎の研究家である前橋市立図書館長萩原進氏から学芸大名誉教授千々和實氏を紹介され、共に彦九郎の残した資料の編纂に取り組んでいるのを見る。編纂には36年の歳月を要し、'78年出版に漕ぎつける

私がこの小説の基礎資料としたのは、この『高山彦九郎日記』全5巻。世の彦九郎像を修正するのが本書執筆の動機。彦九郎と言えば、京都三条大橋の袂で御所に向かって土下座している銅像にすべてが象徴されていて、奇行の多い狂信的な尊王論者であることが定説化している。狂信的な尊王論者とされたのは、戦前の行き過ぎた軍国主義によって持ち上げられすぎたため、終戦と同時に忌まわしい人物として侮蔑の対象にすらなり、時代の風潮に激しく利用され、貶められた。反体制の孤独な社会思想家であった。幕末の尊王攘夷論は、彦九郎の社会思想を源とし、その先達であっただけに幕府の追及も甚だしく、悲痛な死を招く

 

 

 

吉村昭「彦九郎山河」 京都市

私が忠と思い、義と思ったことは、すべて不忠、不義になった

文学周遊

2026321  日本経済新聞

御所に向かい手をついて礼をする高山彦九郎の像。観光客や車が行き交う中をじっとたたずむ(京都市東山区)=松浦弘昌撮影

観光客でにぎわう京都市の三条大橋。東のたもとにひざまずく男性の銅像がある。京都御所を望拝する高山彦九郎像だ。待ち合わせ場所として市民になじみ深いが、どんな人物かを知る人は少ない。「この銅像は高山彦九郎の全てを象徴したもの」。作者は彦九郎の故郷、群馬県太田市で1993年に行った没後200年記念の講演でこう話した。

彦九郎は反幕府と王政復古を唱えた江戸中期の思想家だ。朝廷を尊崇し、入洛(じゅらく)時に三条大橋から御所を伏し拝んだとも、「朝敵」足利尊氏の墓をむち打ったとも伝わる。その姿は幕末の志士たちに影響を与え、特に戦時中には称賛されたが、戦後になると評価が一転し「奇行の多い狂信的な勤皇家」と批判された。

これに対し作者はエッセーなどで「終戦前の彦九郎像が意識的に作られた虚像であり、終戦後のそれも誤解に満ちたもの」と強調し、再評価を訴えた。作者が理解する彦九郎は「今風に言えば、孤独な反体制の運動家」。単なる思想家ではない。題名に「山河」と付けたのは「大旅行家であったから」と説明する。

彦九郎は全国を遊歴し、人との出会いを膨大な日記に書き残した。登場するのは上杉鷹山や林子平といった大名や学者、文化人、公家から農民や町人など5千人を超す。行く先々で彼に会おうと人が集う様子は、当時いかに学者として高名だったかを物語る。

この作品は日記を基に最期の4年を克明に描く。北方の現状を確かめるため江戸から蝦夷地へ向かう道中、東北で飢饉(ききん)の惨状を目の当たりにする。とって返して上洛し、革新派の公家たちと議論。時の光格天皇の父、典仁親王の尊号問題を巡り薩摩藩から幕府に働きかけてもらおうと九州を訪れ、幕府の追及を受け力尽きて自刃する。

武士の強権的な政治とは対照的な文官による政治を理想に掲げ、社会変革に情熱を燃やした故の悲哀を、淡々とした筆遣いがより際立たせる。

太田市民が組織する高山彦九郎研究会の会長、菅間健司さんは「彦九郎は何千もの人と人とを結びつけるネットワーカーだった」と指摘する。太田市立新田荘歴史資料館の前澤哲也学芸員は「作者も取材を重ね、現場に幾度も足を運んだ。彦九郎にシンパシーを感じたのだろう」と話す。

大政奉還が成り彦九郎の悲願がかなったのは、その死の74年後。だが彼の思いに反して近代日本は軍国の道をひた走り、内外の多くの民を戦渦に巻き込んだ。王政復古から77年後、玉音放送を耳にして皇居の前でぬかずく人々の姿は、泉下の客となった彦九郎の目にどう映っただろう。

(編集委員 竹内義治)

 

よしむら・あきら19272006) 東京生まれ、学習院大学中退。1966年「星への旅」で太宰治賞、73年「戦艦武蔵」「関東大震災」などで菊池寛賞を受賞。丹念な取材と史料調査で緻密に構成した記録文学、歴史文学を多数発表した。

「彦九郎山河」は94年、東京新聞などに連載した。作者が彦九郎の実像を知ったのは、西洋の解剖書を「解体新書」として翻訳した蘭学者、前野良沢を主人公とする「冬の鷹」(74年)を執筆した時だという。良沢は社交嫌いだったが長男、達の親友であった彦九郎には優しく接した。彦九郎の日記を読んだ作者は「(良沢は)彦九郎の生き方そのものに、孤然とした姿をみたのではないか」と書いている。(作品の引用は文春文庫)

 

 

Wikipedia

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4581747615[1] - 寛政5628179384))は、江戸時代後期の武士尊皇思想家。林子平蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。正之、字は仲縄、号は金山・赤城山人[2]、戒名は松陰以白居士。

父は高山彦八正教、母はしげ。兄は専蔵正晴。妻はしも、後にさき。子に義介ほか娘など。

多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。また、二宮尊徳楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。三島由紀夫が強い関心を持っていたことでも知られる(他には、葉隠神風連三輪神社大乗仏教密教陽明学[3]

生涯

上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山彦八正教の二男として生まれる。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田義貞に仕えた新田十六騎の一人である高山重栄。彦九郎は『京都日記』中で天正年間に因幡守繁政が新田に居住したとしている[4]

13歳の時に『太平記』を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち[5]明和元年(1764年)、18歳の時に置文(高山神社蔵)を残して京都へ出奔した[6]。『京都日記』中に「予は師弟の義もあらねば」とあるように正式な入門ではなかったものの、この時期岡白駒に教えを受けた[7]。明和3年(1766年)、母の病死をきっかけに帰郷する。

その後江戸へ出て細井平洲に学ぶ。樺島石梁『平洲先生行状』、上田子成『山窓閑話』に彦九郎24歳の時細井平洲に初めて会い、父の仇討ちを相談したが教戒された話が記録されている[8]

日記

彦九郎は北は津軽半島、南は鹿児島まで日本全国を旅行しており、その旅行記を精細に記録している。以下に日記の一部が現存するものを挙げる[9]

日記名

期間

内容

備考

赤城行

安永2年(1773年)1114-19

郷里-三夜沢赤城神社-伊香保温泉-前橋-伊勢崎-郷里

甲午春旅

安永3年(1774年)14-37

郷里-江戸-東海道-京都滞在

鶴岡八幡宮熱田神宮伊勢神宮参詣

乙未の春旅

安永4年(1775年)218-49

京都-北陸道-郷里

利根路の秋旅

安永4年(1775年)78-22

出来島河岸(現埼玉県熊谷市)-日本橋小網町

太田市所有、太田市指定重要文化財[10]

忍山湯旅の記

安永4年(1775年)729-813

郷里-忍山温泉(上野国山田郡-郷里

忍山(おしやま)温泉は現在の桐生市梅田にあった鉱泉。

江戸旅行日記

安永5年(1776年)315-411

郷里-江戸滞在

古河のわたり

安永5年(1777年)3月か

常陸国古河熊沢蕃山墓参

斎中記

安永5年(1777年)75-11

郷里の川で沐浴斎戒

小田原行

安永5年(1777年)916-22

江戸-小田原-江戸

丁酉春旅

安永6年(1778年)327-54

甲州身延山-東海道-江戸-郷里

武江旅行

安永6年(1778年)927-1024

出郷-江戸-郷里

赤城従行

安永6年(1778年)1030-113

叔父剣持長蔵と三夜沢赤城神社参詣

二宮赤城神社の御神幸(現前橋市指定重要無形民俗文化財)の記録がある。

戊戌季春記事

安永7年(1779年)318-624

在郷在宅で近郊を小旅行

小股行

安永8年(1780年)77

下野国小股鶏足寺、石尊山登山

冨士山紀行

安永9年(1781年)610-722

郷里-八王子-富士山-江戸-郷里

神奈川宿で同宿した中津藩士簗又七次正と知り合う[11]

江戸旅中日記

安永9年(1781年)1112-25

江戸滞在-郷里

江戸日記

天明2年(1782年)46-9

出郷-江戸

沢入道能記

天明2年(1782年)46-9

太田-上野国勢多郡沢入-太田-郷里

塔ノ沢の石造釈迦涅槃像(現群馬県指定史跡)を記録[12]

子安神社道能記

天明2年(1782年)615-16

上野国勢多郡産泰神社参詣

武州旛羅廻

天明2年(1782年)722

武蔵国台村及び旛羅地方巡歴

上京旅中日記

天明2年(1782年)1016-1116

出郷-中山道-京都

京都日記

天明2年(1782年)1118-343

京都滞在

京日記

天明3年(1783年)44-7

京都滞在

下向日記

天明3年(1783年)47-53

京都-中山道-郷里

高山正之道中記

天明3年(1783年)93-15

郷里-東海道-京都

伊勢以遠を欠く

再京日記

天明3年(1783年)1022-1121

京都、途中大坂

祖父の神号を得る

小股新社日記

天明5年(1785年)72-3

足利の小股神社参詣

北上旅中日記

天明5年(1785年)713-18

郷里-上野国利根郡東入地方

利根郡大原村の金子十右衛門照泰を尋ねた。老神温泉吹割の滝も訪れている。

墓前日記

天明6年(1786年)61-晦日

祖母の三年喪に服した時の日記

江戸日記

寛政元年(1789年)11月末-1222

江戸滞在

江戸日記

寛政2年(1790年)51-67

江戸滞在-奥羽旅行出発

北行日記

寛政2年(1790年)67-1130

房総-常陸-福島-米沢-南部-仙台-日光-中山道-京都

水戸米沢で多くの人物と交流。津軽半島の先端、宇鉄まで行き蝦夷地渡航を求めたが実現しなかった。天明の飢饉の影響も記録している。

京都日記

寛政2年(1790年)121-3718

京都滞在

筑紫日記(1

寛政4年(1792年)11-826

九州各地

京都-熊本を欠く

筑紫日記(2

寛政5年(1793年)53-626

久留米

久留米で自刃

交友

伊勢崎

『高山芳躅誌』に伊勢崎藩士浦野知周との交際が記述されているほか、伊勢崎藩家老関睡峒とも交流があり、関は彦九郎の肖像画を残している(後述)。伊勢崎藩藩校学習堂教授に招かれた小松原醇斎とは江戸で交流している。

江戸

彦九郎は寛政元年の『江戸日記』で前野良沢の家にたびたび宿泊し、和歌を詠むなど親しい交流をしている。良沢の息子良庵(達)とは中津藩士簗又七次正を介して知り合い、良庵は彦九郎の実家を訪ねている。彦九郎の日記には前野良沢の知人も多数現れ、その中には杉田玄白桂川甫周大槻玄沢工藤平助最上徳内などがいる。

江戸で直接交流があった人物としては柴野栗山岡田寒泉、服部栗斎がいる。

京都

京都で早くから親しく交流し、多くの知人を紹介された人物に高芙蓉がいる。前述『赤城行』では高の依頼により伊香保で大島氏の系譜を調べている。

京都では白木屋に滞在し大村彦太郎と交流している。

前述の岡白駒は1度目の上京の後死去したため、より長く関係を保ったのはその子、岡恕斎であり、その紹介で彦九郎は藪孤山頼春水木村蒹葭堂葛子琴らと知り合っている。

彦九郎と交流のあった公卿のうち最も重要な人物は正二位伏原宣條である。伏原は彦九郎に自筆の書画を多数与え、彦九郎はそれをさらに他の人に与えて皇室への関心を高めている。

公卿で親しく交流した中には従二位岩倉具選がおり、彦九郎は岩倉邸に長く滞在した。

正二位権大納言芝山持豊からは和歌の添削を受け、芝山邸の歌会などで多くの公卿と知り合っている。

伊勢

天明39月に村井古巌とともに伊勢へ行き、蓬萊尚賢荒木田久老と会っている。

水戸

寛政元年に江戸で立原翠軒とともに彰考館教授、長久保赤水宅を訪ね、藤田幽谷と会っている。

寛政2630日に水戸を訪れた際は、立原翠軒宅に宿泊し、藤田幽谷とも面会した。水戸を発った後天下野村では木村謙宅に泊まった[13]

米沢

寛政2715日から23日にかけて米沢に滞在した。米沢藩士とは細井平洲を介して江戸で交流があった。

神保容助、片山紀兵衛一積が宿を訪れ、莅戸太華とも面会。藩校興譲館で講話を行い、上杉鷹山から片山紀兵衛を使者として那須国造碑訓点を尋ねられている。

米沢藩の厚遇は滞在中の歓待に留まらず、出発の際各村の庄屋宛に、人夫一人を彦九郎につける手形を発給している[14]

仙台

寛政21021日に仙台に入り、林子平のもとに滞在。元々江戸で交友があったものとみられる[15]1028日には鹽竈神社の祠官藤塚知明のもとに泊まり、村井古巌の墓参りをしている。

熊本

寛政3年末から熊本の薮孤山宅に滞在した。この間斎藤高寿、富田大鳳、草野雲平、高本紫溟、辛島才蔵らと交流。年明けに高本紫溟の家に移り、藩校時習館の学生とも交流している[16]224日に知己256人に見送られ出立。

鹿児島

寛政435日に野間の関に到着したが、入国許可が下りず、城下の赤崎禎幹に飛脚を出してもらい、20日に薩摩入国。山本正誼、白尾国柱といった要人と接触を図っている。25日に鹿児島出立後、日田広瀬淡窓を尋ねたことが広瀬の手記から分かるが、彦九郎のこの期間の日記を欠く。

自刃

寛政553日に久留米に入り、医師森嘉膳宅に寄食した。太宰府博多などを回り松崎で赤崎禎幹に会った後、619日に久留米に戻った。627日夜、森嘉膳宅の一室で切腹。翌28日午前4時(「記高山彦九郎自殺事」による。『安西敬基筆記』では午前8時ごろ、「高山彦九郎死亡届」では午前8時過ぎ、森兵次口上書では午前8時)絶命[17]。享年46

辞世の句は以下の二つ。

松崎の駅の長に問ふて知れ心つくしの旅のあらまし

朽はてゝ身は土となり墓なくも心は国を守らんものを

自殺の原因としては森嘉膳による「記高山彦九郎自殺事」に、626日、27日に彦九郎が日記等を水に浸し揉み破っており、森嘉膳に理由を問われた彦九郎が「予狂気なり」と答えており、切腹後にも彦九郎は理由として「狂気」と答えたと記録されている。他方、彦九郎が京都の公卿方の反幕府の密命を受けて薩摩藩を説伏に行ったがうまくいかなかったことを理由とする説がある。日記には鹿児島出立後尾行者のあることが見えるので、幕府の密偵による監視により京都に戻れなかったとも考えられる[18]

没後

高山彦九郎記念館

久留米の遍照院に葬られ、戒名は松陰以白居士。翌年4月に息子義介、叔父剣持正業が久留米を訪れ法要が催された[19]

明治2年(1869年)12月、王政復古に尽力した功労者として、子孫に三人扶持が下された[20]

明治11年(1878年)38日、贈正四位[20]

昭和6年(1931年)1126日、旧宅跡と遺髪塚(現太田市細谷町)が国史跡の指定を受けた[21]

平成8年(1996年)53日、高山彦九郎記念館が開館[2]

人物

肖像画

  • 上掲『高山芳躅誌』(新井雀里)口絵の肖像画は、彦九郎本人と交友のあった伊勢崎藩家老、関睡峒によるとされる。
  • 『高山操志』(金井金洞)の肖像画[22]は、我古山人によるもので、彦九郎の曾孫石九郎をモデルとし、彦九郎の妹きんに見てもらい似ていると言われたという。
  • 池大雅筆の肖像画が現存するが、真筆ではないとみられる。『丁酉春旅』安永6年(1777年)46日に、彦九郎本人が池大雅を知人だと語る場面がある[23]
  • 金井毛山、金井烏州による肖像画もある。

容貌[24]

  • 柴野栗山『送高山生序』「身長八尺高髻挿梁、面如紅玉」
  • 『北行日記』1021日「出口茶店伊藤屋万助所に休ふ、克ク林氏(林子平)の事を知りて子平子に似たりと予が事を評せり」
  • 広瀬淡窓「年ころ四十余なり。顔面雄壮にして眼大に鬚多し」
  • 杉山忠亮『高山正之伝』文政元年(1818年)「正之長八尺余、鬚髯如神」
  • 頼山陽『高山彦九郎伝』天保12年(1841年)「為人白晳精悍、眼光射人、声如鐘、有奇節。」
  • 菅茶山『筆の須佐飛』安政3年(1856年)「其人鼻高ク目深ク口ヒロク丈タカシ、総髪ナリ。」

高山彦九郎歌碑、京都川端三条

和歌

彦九郎は日記に自身が詠んだ多数の和歌を記録しており、『高山彦九郎歌集高山朽葉集[25]』には961首が収められている。他に長歌俳句狂歌も残されている。

伊藤左千夫は、以下の歌に対し「此人に此歌ありとは、聊かならず驚かされぬ、君を思ひ国を思ふ心篤かりしは、天が下に知らぬ者なき程なれど、文学の上にもここまで至れる人とは露おもはざりしを」と驚き褒めている[26]

丈夫乃円居世流夜波勇魚取海山越天風毛来勿鴨(ますらおのまどゐせるよはいさなとりうみやまこえてかぜもこぬかも)

芝山持豊が光格天皇の側近であったことから天皇とも彦九郎は間接的に関わることとなった。『京都日記』寛政3年(1791年)315日では、芝山持豊が「先月唐鑑御会の御時に天上の御沙汰ありける・・・・・・天子能ク知食して有ける也」と語り、翌日には山科泰安から「上様も知食し、ある時高山彦九郎といへるものを知れるとやと御尋ネ有ける」と聞き、「恐れ入りたる事とて拝す」とともにその感激を『愛国百人一首』にも採られた以下の歌に詠んでいる[27]

日本語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

愛國百人一首

我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ『愛國百人一首』

大学寮再興

彦九郎は『京都日記』中で天明2年(1782年)12月に高芙蓉、玉田黙翁大学寮再興について話し合ったことを記録している。翌年3月には懐徳堂で中井竹山と議論を行っている。寛政3年には伏原宣條、西山拙斎、芝山持豊、橘南谿、太田碩安らに学校建設の話をしている[28]

奇瑞の亀

寛政3年(1791年)3月、志水喜間多(南涯)琵琶湖で捕獲された緑毛亀を得たとの手紙を彦九郎に寄越したことから、『淵鑑類函』に「亀有毛者文治之兆、緑毛黄甲皆祥瑞」とあるのを見いだし、330日、この亀を御所に持参し光格天皇に御覧頂いた。この亀は76日に仙洞御所の池に放されるが、彦九郎は亀を描いた摺物の配布を行い文治政治実現の近いことを宣伝した[29]

墓地

福岡県久留米市寺町の光明山遍照院にある高山彦九郎墓v

自刃の地から約400メートル離れた、久留米市寺町の光明山遍照院に墓がある[30]

1893(明治26年)5月に北白川宮能久親王[31]1902(明治35年)に小松宮彰仁親王が墓参した[31]

墓前には、1911(明治44年)11月の陸軍特別大演習の折、山縣有朋大山巌伊東祐亨奥保鞏井上良馨寺内正毅が参拝し、松を記念植樹した[32]。また1917(大正6年)519日に朝香宮鳩彦王がコウヤマキを、1921(大正10年)1013日に久邇宮邦彦王がゲッケイジュをそれぞれ手植えした[32]

三条大橋の銅像

高山彦九郎皇居望拝之像(三条大橋東詰)

京都府京都市三条大橋東詰(三条京阪)に、皇居(現・京都御所)遥拝姿の彦九郎の銅像がある。ポーズからしばしば土下座していると誤認されて「土下座像」「ドゲザ」と通称され、京都の待ち合わせスポットの一つとしても認知されている[33]。若いころの彦九郎が三条大橋の東で皇居に向かい拝跪した逸話は頼山陽の『高山彦九郎伝』にある[34]

初代は昭和天皇御大典を祝して有志からの寄付により1928に作られ、法華経伊勢神宮で入魂した柱が納められ東郷平八郎が台座の揮毫をした[33][35][36]。しかし、194411月に金属類回収令で供出され、代わりに徳富蘇峰の揮毫による「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」の石碑が置かれた[35][37]。現在の銅像は1961に場所を移動したうえで伊藤五百亀によって再建されたものである[33][38]

2012120日午後6時ごろ、白いペンキがかけられるという事件が起こった[39]コロナ禍20204月末には、銅像の口元にマスクを着けるいたずらが起きた[40]

神社

群馬県太田市に、高山彦九郎を祀る高山神社が建てられている。

家族[41][42]

  • 祖父 伝左衛門貞正(元禄7年(1694 - 明和3年(1766))下田島の蓮沼新五右衛門政房の長男。母は高山宗三繁久の娘、ゑん。
  • 祖母 りん(元禄12年(1698年) - 天明6年(1786年)) - 新田郡内ヶ島村大槻権兵衛正曜の娘。
    • 父 彦八正教(享保2年(1717年) - 明和6年(1769年))大山阿夫利神社への参詣の途中、何者かに殺害される。
    • 母 しげ(享保11年(1726年) - 明和2年(1765年)) - 武蔵国旛羅郡台村剣持重左衛門則康の娘。
      • 兄 専蔵正晴(寛保2年(1742 -
        • 甥 伝四郎
      • 先妻 しも - 新田郡大島村天野嘉右衛門の娘。
        • 長女 せい(安永7年(1778年) -
      • 後妻 さき - 新田郡藤阿久村加村太兵衛の娘。
        • 次女 さと(安永9年(1780年) -
        • 長男 義介(天明2年(1782年) - - 彦九郎の死後桐生新宿の常見家に入るが、息子恒太郎に常見家を継がせると高山家を再興した。
          • 孫 常見恒太郎
            • 曾孫 高山石九郎正敬
              • 玄孫 守四郎
                • 来孫 正行
        • 三女 りよ(天明5年(1785年) -
      • 妹 いし(寛延3年(1750年) - - 武蔵国奈良新田村高橋仁左衛門に嫁ぐ。
      • 妹 きん(明和2年(1765年) - - 佐位郡伊与久村伊与久嘉吉(伊勢崎藩士)に嫁ぐ。
    • 叔父 蓮沼要右衛門正穏(政穏) - 伝右衛門の生まれた蓮沼家を継ぐ。
    • 叔母 みち(ふの)
    • 叔父 剣持長蔵正業(元文2年(1737年) - 文化14年(1817年)) - しげの実家剣持家に婿養子に入る。
    • 叔母 ため

伝記

  • 三上卓『高山彦九郎』(平凡社19408月)
  • 野間光辰『高山彦九郎 京都日記』(日本の旅人:淡交社1974年、新版2020年)ISBN 4473044106
  • 『高山彦九郎の実像 維新を呼んだ旅の思想家』(あさを社、1993年)

高山彦九郎を題材とした作品

小説

文藝春秋1995年、ISBN 4-16-315820-0

文春文庫1998年、ISBN 4-16-716933-9

岩波書店「吉村昭歴史小説集成三」、2009年、ISBN 4-00-028313-8

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4581747615[1] - 寛政5628179384))は、江戸時代後期の武士尊皇思想家。林子平蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。正之、字は仲縄、号は金山・赤城山人[2]、戒名は松陰以白居士。

父は高山彦八正教、母はしげ。兄は専蔵正晴。妻はしも、後にさき。子に義介ほか娘など。

多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。また、二宮尊徳楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。三島由紀夫が強い関心を持っていたことでも知られる(他には、葉隠神風連三輪神社大乗仏教密教陽明学[3]

生涯

上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山彦八正教の二男として生まれる。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田義貞に仕えた新田十六騎の一人である高山重栄。彦九郎は『京都日記』中で天正年間に因幡守繁政が新田に居住したとしている[4]

13歳の時に『太平記』を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち[5]明和元年(1764年)、18歳の時に置文(高山神社蔵)を残して京都へ出奔した[6]。『京都日記』中に「予は師弟の義もあらねば」とあるように正式な入門ではなかったものの、この時期岡白駒に教えを受けた[7]。明和3年(1766年)、母の病死をきっかけに帰郷する。

その後江戸へ出て細井平洲に学ぶ。樺島石梁『平洲先生行状』、上田子成『山窓閑話』に彦九郎24歳の時細井平洲に初めて会い、父の仇討ちを相談したが教戒された話が記録されている[8]

日記

彦九郎は北は津軽半島、南は鹿児島まで日本全国を旅行しており、その旅行記を精細に記録している。以下に日記の一部が現存するものを挙げる[9]

日記名

期間

内容

備考

赤城行

安永2年(1773年)1114-19

郷里-三夜沢赤城神社-伊香保温泉-前橋-伊勢崎-郷里

甲午春旅

安永3年(1774年)14-37

郷里-江戸-東海道-京都滞在

鶴岡八幡宮熱田神宮伊勢神宮参詣

乙未の春旅

安永4年(1775年)218-49

京都-北陸道-郷里

利根路の秋旅

安永4年(1775年)78-22

出来島河岸(現埼玉県熊谷市)-日本橋小網町

太田市所有、太田市指定重要文化財[10]

忍山湯旅の記

安永4年(1775年)729-813

郷里-忍山温泉(上野国山田郡-郷里

忍山(おしやま)温泉は現在の桐生市梅田にあった鉱泉。

江戸旅行日記

安永5年(1776年)315-411

郷里-江戸滞在

古河のわたり

安永5年(1777年)3月か

常陸国古河熊沢蕃山墓参

斎中記

安永5年(1777年)75-11

郷里の川で沐浴斎戒

小田原行

安永5年(1777年)916-22

江戸-小田原-江戸

丁酉春旅

安永6年(1778年)327-54

甲州身延山-東海道-江戸-郷里

武江旅行

安永6年(1778年)927-1024

出郷-江戸-郷里

赤城従行

安永6年(1778年)1030-113

叔父剣持長蔵と三夜沢赤城神社参詣

二宮赤城神社の御神幸(現前橋市指定重要無形民俗文化財)の記録がある。

戊戌季春記事

安永7年(1779年)318-624

在郷在宅で近郊を小旅行

小股行

安永8年(1780年)77

下野国小股鶏足寺、石尊山登山

冨士山紀行

安永9年(1781年)610-722

郷里-八王子-富士山-江戸-郷里

神奈川宿で同宿した中津藩士簗又七次正と知り合う[11]

江戸旅中日記

安永9年(1781年)1112-25

江戸滞在-郷里

江戸日記

天明2年(1782年)46-9

出郷-江戸

沢入道能記

天明2年(1782年)46-9

太田-上野国勢多郡沢入-太田-郷里

塔ノ沢の石造釈迦涅槃像(現群馬県指定史跡)を記録[12]

子安神社道能記

天明2年(1782年)615-16

上野国勢多郡産泰神社参詣

武州旛羅廻

天明2年(1782年)722

武蔵国台村及び旛羅地方巡歴

上京旅中日記

天明2年(1782年)1016-1116

出郷-中山道-京都

京都日記

天明2年(1782年)1118-343

京都滞在

京日記

天明3年(1783年)44-7

京都滞在

下向日記

天明3年(1783年)47-53

京都-中山道-郷里

高山正之道中記

天明3年(1783年)93-15

郷里-東海道-京都

伊勢以遠を欠く

再京日記

天明3年(1783年)1022-1121

京都、途中大坂

祖父の神号を得る

小股新社日記

天明5年(1785年)72-3

足利の小股神社参詣

北上旅中日記

天明5年(1785年)713-18

郷里-上野国利根郡東入地方

利根郡大原村の金子十右衛門照泰を尋ねた。老神温泉吹割の滝も訪れている。

墓前日記

天明6年(1786年)61-晦日

祖母の三年喪に服した時の日記

江戸日記

寛政元年(1789年)11月末-1222

江戸滞在

江戸日記

寛政2年(1790年)51-67

江戸滞在-奥羽旅行出発

北行日記

寛政2年(1790年)67-1130

房総-常陸-福島-米沢-南部-仙台-日光-中山道-京都

水戸米沢で多くの人物と交流。津軽半島の先端、宇鉄まで行き蝦夷地渡航を求めたが実現しなかった。天明の飢饉の影響も記録している。

京都日記

寛政2年(1790年)121-3718

京都滞在

筑紫日記(1

寛政4年(1792年)11-826

九州各地

京都-熊本を欠く

筑紫日記(2

寛政5年(1793年)53-626

久留米

久留米で自刃

交友

伊勢崎

『高山芳躅誌』に伊勢崎藩士浦野知周との交際が記述されているほか、伊勢崎藩家老関睡峒とも交流があり、関は彦九郎の肖像画を残している(後述)。伊勢崎藩藩校学習堂教授に招かれた小松原醇斎とは江戸で交流している。

江戸

彦九郎は寛政元年の『江戸日記』で前野良沢の家にたびたび宿泊し、和歌を詠むなど親しい交流をしている。良沢の息子良庵(達)とは中津藩士簗又七次正を介して知り合い、良庵は彦九郎の実家を訪ねている。彦九郎の日記には前野良沢の知人も多数現れ、その中には杉田玄白桂川甫周大槻玄沢工藤平助最上徳内などがいる。

江戸で直接交流があった人物としては柴野栗山岡田寒泉、服部栗斎がいる。

京都

京都で早くから親しく交流し、多くの知人を紹介された人物に高芙蓉がいる。前述『赤城行』では高の依頼により伊香保で大島氏の系譜を調べている。

京都では白木屋に滞在し大村彦太郎と交流している。

前述の岡白駒は1度目の上京の後死去したため、より長く関係を保ったのはその子、岡恕斎であり、その紹介で彦九郎は藪孤山頼春水木村蒹葭堂葛子琴らと知り合っている。

彦九郎と交流のあった公卿のうち最も重要な人物は正二位伏原宣條である。伏原は彦九郎に自筆の書画を多数与え、彦九郎はそれをさらに他の人に与えて皇室への関心を高めている。

公卿で親しく交流した中には従二位岩倉具選がおり、彦九郎は岩倉邸に長く滞在した。

正二位権大納言芝山持豊からは和歌の添削を受け、芝山邸の歌会などで多くの公卿と知り合っている。

伊勢

天明39月に村井古巌とともに伊勢へ行き、蓬萊尚賢荒木田久老と会っている。

水戸

寛政元年に江戸で立原翠軒とともに彰考館教授、長久保赤水宅を訪ね、藤田幽谷と会っている。

寛政2630日に水戸を訪れた際は、立原翠軒宅に宿泊し、藤田幽谷とも面会した。水戸を発った後天下野村では木村謙宅に泊まった[13]

米沢

寛政2715日から23日にかけて米沢に滞在した。米沢藩士とは細井平洲を介して江戸で交流があった。

神保容助、片山紀兵衛一積が宿を訪れ、莅戸太華とも面会。藩校興譲館で講話を行い、上杉鷹山から片山紀兵衛を使者として那須国造碑訓点を尋ねられている。

米沢藩の厚遇は滞在中の歓待に留まらず、出発の際各村の庄屋宛に、人夫一人を彦九郎につける手形を発給している[14]

仙台

寛政21021日に仙台に入り、林子平のもとに滞在。元々江戸で交友があったものとみられる[15]1028日には鹽竈神社の祠官藤塚知明のもとに泊まり、村井古巌の墓参りをしている。

熊本

寛政3年末から熊本の薮孤山宅に滞在した。この間斎藤高寿、富田大鳳、草野雲平、高本紫溟、辛島才蔵らと交流。年明けに高本紫溟の家に移り、藩校時習館の学生とも交流している[16]224日に知己256人に見送られ出立。

鹿児島

寛政435日に野間の関に到着したが、入国許可が下りず、城下の赤崎禎幹に飛脚を出してもらい、20日に薩摩入国。山本正誼、白尾国柱といった要人と接触を図っている。25日に鹿児島出立後、日田広瀬淡窓を尋ねたことが広瀬の手記から分かるが、彦九郎のこの期間の日記を欠く。

自刃

寛政553日に久留米に入り、医師森嘉膳宅に寄食した。太宰府博多などを回り松崎で赤崎禎幹に会った後、619日に久留米に戻った。627日夜、森嘉膳宅の一室で切腹。翌28日午前4時(「記高山彦九郎自殺事」による。『安西敬基筆記』では午前8時ごろ、「高山彦九郎死亡届」では午前8時過ぎ、森兵次口上書では午前8時)絶命[17]。享年46

辞世の句は以下の二つ。

松崎の駅の長に問ふて知れ心つくしの旅のあらまし

朽はてゝ身は土となり墓なくも心は国を守らんものを

自殺の原因としては森嘉膳による「記高山彦九郎自殺事」に、626日、27日に彦九郎が日記等を水に浸し揉み破っており、森嘉膳に理由を問われた彦九郎が「予狂気なり」と答えており、切腹後にも彦九郎は理由として「狂気」と答えたと記録されている。他方、彦九郎が京都の公卿方の反幕府の密命を受けて薩摩藩を説伏に行ったがうまくいかなかったことを理由とする説がある。日記には鹿児島出立後尾行者のあることが見えるので、幕府の密偵による監視により京都に戻れなかったとも考えられる[18]

没後

高山彦九郎記念館

久留米の遍照院に葬られ、戒名は松陰以白居士。翌年4月に息子義介、叔父剣持正業が久留米を訪れ法要が催された[19]

明治2年(1869年)12月、王政復古に尽力した功労者として、子孫に三人扶持が下された[20]

明治11年(1878年)38日、贈正四位[20]

昭和6年(1931年)1126日、旧宅跡と遺髪塚(現太田市細谷町)が国史跡の指定を受けた[21]

平成8年(1996年)53日、高山彦九郎記念館が開館[2]

人物

肖像画

  • 上掲『高山芳躅誌』(新井雀里)口絵の肖像画は、彦九郎本人と交友のあった伊勢崎藩家老、関睡峒によるとされる。
  • 『高山操志』(金井金洞)の肖像画[22]は、我古山人によるもので、彦九郎の曾孫石九郎をモデルとし、彦九郎の妹きんに見てもらい似ていると言われたという。
  • 池大雅筆の肖像画が現存するが、真筆ではないとみられる。『丁酉春旅』安永6年(1777年)46日に、彦九郎本人が池大雅を知人だと語る場面がある[23]
  • 金井毛山、金井烏州による肖像画もある。

容貌[24]

  • 柴野栗山『送高山生序』「身長八尺高髻挿梁、面如紅玉」
  • 『北行日記』1021日「出口茶店伊藤屋万助所に休ふ、克ク林氏(林子平)の事を知りて子平子に似たりと予が事を評せり」
  • 広瀬淡窓「年ころ四十余なり。顔面雄壮にして眼大に鬚多し」
  • 杉山忠亮『高山正之伝』文政元年(1818年)「正之長八尺余、鬚髯如神」
  • 頼山陽『高山彦九郎伝』天保12年(1841年)「為人白晳精悍、眼光射人、声如鐘、有奇節。」
  • 菅茶山『筆の須佐飛』安政3年(1856年)「其人鼻高ク目深ク口ヒロク丈タカシ、総髪ナリ。」

高山彦九郎歌碑、京都川端三条

和歌

彦九郎は日記に自身が詠んだ多数の和歌を記録しており、『高山彦九郎歌集高山朽葉集[25]』には961首が収められている。他に長歌俳句狂歌も残されている。

伊藤左千夫は、以下の歌に対し「此人に此歌ありとは、聊かならず驚かされぬ、君を思ひ国を思ふ心篤かりしは、天が下に知らぬ者なき程なれど、文学の上にもここまで至れる人とは露おもはざりしを」と驚き褒めている[26]

丈夫乃円居世流夜波勇魚取海山越天風毛来勿鴨(ますらおのまどゐせるよはいさなとりうみやまこえてかぜもこぬかも)

芝山持豊が光格天皇の側近であったことから天皇とも彦九郎は間接的に関わることとなった。『京都日記』寛政3年(1791年)315日では、芝山持豊が「先月唐鑑御会の御時に天上の御沙汰ありける・・・・・・天子能ク知食して有ける也」と語り、翌日には山科泰安から「上様も知食し、ある時高山彦九郎といへるものを知れるとやと御尋ネ有ける」と聞き、「恐れ入りたる事とて拝す」とともにその感激を『愛国百人一首』にも採られた以下の歌に詠んでいる[27]

日本語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

愛國百人一首

我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ『愛國百人一首』

大学寮再興

彦九郎は『京都日記』中で天明2年(1782年)12月に高芙蓉、玉田黙翁大学寮再興について話し合ったことを記録している。翌年3月には懐徳堂で中井竹山と議論を行っている。寛政3年には伏原宣條、西山拙斎、芝山持豊、橘南谿、太田碩安らに学校建設の話をしている[28]

奇瑞の亀

寛政3年(1791年)3月、志水喜間多(南涯)琵琶湖で捕獲された緑毛亀を得たとの手紙を彦九郎に寄越したことから、『淵鑑類函』に「亀有毛者文治之兆、緑毛黄甲皆祥瑞」とあるのを見いだし、330日、この亀を御所に持参し光格天皇に御覧頂いた。この亀は76日に仙洞御所の池に放されるが、彦九郎は亀を描いた摺物の配布を行い文治政治実現の近いことを宣伝した[29]

墓地

福岡県久留米市寺町の光明山遍照院にある高山彦九郎墓

自刃の地から約400メートル離れた、久留米市寺町の光明山遍照院に墓がある[30]

1893(明治26年)5月に北白川宮能久親王[31]1902(明治35年)に小松宮彰仁親王が墓参した[31]

墓前には、1911(明治44年)11月の陸軍特別大演習の折、山縣有朋大山巌伊東祐亨奥保鞏井上良馨寺内正毅が参拝し、松を記念植樹した[32]。また1917(大正6年)519日に朝香宮鳩彦王がコウヤマキを、1921(大正10年)1013日に久邇宮邦彦王がゲッケイジュをそれぞれ手植えした[32]

三条大橋の銅像

高山彦九郎皇居望拝之像(三条大橋東詰)

京都府京都市三条大橋東詰(三条京阪)に、皇居(現・京都御所)遥拝姿の彦九郎の銅像がある。ポーズからしばしば土下座していると誤認されて「土下座像」「ドゲザ」と通称され、京都の待ち合わせスポットの一つとしても認知されている[33]。若いころの彦九郎が三条大橋の東で皇居に向かい拝跪した逸話は頼山陽の『高山彦九郎伝』にある[34]

初代は昭和天皇御大典を祝して有志からの寄付により1928に作られ、法華経伊勢神宮で入魂した柱が納められ東郷平八郎が台座の揮毫をした[33][35][36]。しかし、194411月に金属類回収令で供出され、代わりに徳富蘇峰の揮毫による「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」の石碑が置かれた[35][37]。現在の銅像は1961に場所を移動したうえで伊藤五百亀によって再建されたものである[33][38]

2012120日午後6時ごろ、白いペンキがかけられるという事件が起こった[39]コロナ禍20204月末には、銅像の口元にマスクを着けるいたずらが起きた[40]

神社

群馬県太田市に、高山彦九郎を祀る高山神社が建てられている。

家族[41][42]

  • 祖父 伝左衛門貞正(元禄7年(1694 - 明和3年(1766))下田島の蓮沼新五右衛門政房の長男。母は高山宗三繁久の娘、ゑん。
  • 祖母 りん(元禄12年(1698年) - 天明6年(1786年)) - 新田郡内ヶ島村大槻権兵衛正曜の娘。
    • 父 彦八正教(享保2年(1717年) - 明和6年(1769年))大山阿夫利神社への参詣の途中、何者かに殺害される。
    • 母 しげ(享保11年(1726年) - 明和2年(1765年)) - 武蔵国旛羅郡台村剣持重左衛門則康の娘。
      • 兄 専蔵正晴(寛保2年(1742 -
        • 甥 伝四郎
      • 先妻 しも - 新田郡大島村天野嘉右衛門の娘。
        • 長女 せい(安永7年(1778年) -
      • 後妻 さき - 新田郡藤阿久村加村太兵衛の娘。
        • 次女 さと(安永9年(1780年) -
        • 長男 義介(天明2年(1782年) - - 彦九郎の死後桐生新宿の常見家に入るが、息子恒太郎に常見家を継がせると高山家を再興した。
          • 孫 常見恒太郎
            • 曾孫 高山石九郎正敬
              • 玄孫 守四郎
                • 来孫 正行
        • 三女 りよ(天明5年(1785年) -
      • 妹 いし(寛延3年(1750年) - - 武蔵国奈良新田村高橋仁左衛門に嫁ぐ。
      • 妹 きん(明和2年(1765年) - - 佐位郡伊与久村伊与久嘉吉(伊勢崎藩士)に嫁ぐ。
    • 叔父 蓮沼要右衛門正穏(政穏) - 伝右衛門の生まれた蓮沼家を継ぐ。
    • 叔母 みち(ふの)
    • 叔父 剣持長蔵正業(元文2年(1737年) - 文化14年(1817年)) - しげの実家剣持家に婿養子に入る。
    • 叔母 ため

伝記

  • 三上卓『高山彦九郎』(平凡社19408月)
  • 野間光辰『高山彦九郎 京都日記』(日本の旅人:淡交社1974年、新版2020年)ISBN 4473044106
  • 『高山彦九郎の実像 維新を呼んだ旅の思想家』(あさを社、1993年)

高山彦九郎を題材とした作品

小説

文藝春秋1995年、ISBN 4-16-315820-0

文春文庫1998年、ISBN 4-16-716933-9

岩波書店「吉村昭歴史小説集成三」、2009年、ISBN 4-00-028313-8

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4581747615[1] - 寛政5628179384))は、江戸時代後期の武士尊皇思想家。林子平蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。正之、字は仲縄、号は金山・赤城山人[2]、戒名は松陰以白居士。

父は高山彦八正教、母はしげ。兄は専蔵正晴。妻はしも、後にさき。子に義介ほか娘など。

多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。また、二宮尊徳楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。三島由紀夫が強い関心を持っていたことでも知られる(他には、葉隠神風連三輪神社大乗仏教密教陽明学[3]

生涯

上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山彦八正教の二男として生まれる。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田義貞に仕えた新田十六騎の一人である高山重栄。彦九郎は『京都日記』中で天正年間に因幡守繁政が新田に居住したとしている[4]

13歳の時に『太平記』を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち[5]明和元年(1764年)、18歳の時に置文(高山神社蔵)を残して京都へ出奔した[6]。『京都日記』中に「予は師弟の義もあらねば」とあるように正式な入門ではなかったものの、この時期岡白駒に教えを受けた[7]。明和3年(1766年)、母の病死をきっかけに帰郷する。

その後江戸へ出て細井平洲に学ぶ。樺島石梁『平洲先生行状』、上田子成『山窓閑話』に彦九郎24歳の時細井平洲に初めて会い、父の仇討ちを相談したが教戒された話が記録されている[8]

日記

彦九郎は北は津軽半島、南は鹿児島まで日本全国を旅行しており、その旅行記を精細に記録している。以下に日記の一部が現存するものを挙げる[9]

日記名

期間

内容

備考

赤城行

安永2年(1773年)1114-19

郷里-三夜沢赤城神社-伊香保温泉-前橋-伊勢崎-郷里

甲午春旅

安永3年(1774年)14-37

郷里-江戸-東海道-京都滞在

鶴岡八幡宮熱田神宮伊勢神宮参詣

乙未の春旅

安永4年(1775年)218-49

京都-北陸道-郷里

利根路の秋旅

安永4年(1775年)78-22

出来島河岸(現埼玉県熊谷市)-日本橋小網町

太田市所有、太田市指定重要文化財[10]

忍山湯旅の記

安永4年(1775年)729-813

郷里-忍山温泉(上野国山田郡-郷里

忍山(おしやま)温泉は現在の桐生市梅田にあった鉱泉。

江戸旅行日記

安永5年(1776年)315-411

郷里-江戸滞在

古河のわたり

安永5年(1777年)3月か

常陸国古河熊沢蕃山墓参

斎中記

安永5年(1777年)75-11

郷里の川で沐浴斎戒

小田原行

安永5年(1777年)916-22

江戸-小田原-江戸

丁酉春旅

安永6年(1778年)327-54

甲州身延山-東海道-江戸-郷里

武江旅行

安永6年(1778年)927-1024

出郷-江戸-郷里

赤城従行

安永6年(1778年)1030-113

叔父剣持長蔵と三夜沢赤城神社参詣

二宮赤城神社の御神幸(現前橋市指定重要無形民俗文化財)の記録がある。

戊戌季春記事

安永7年(1779年)318-624

在郷在宅で近郊を小旅行

小股行

安永8年(1780年)77

下野国小股鶏足寺、石尊山登山

冨士山紀行

安永9年(1781年)610-722

郷里-八王子-富士山-江戸-郷里

神奈川宿で同宿した中津藩士簗又七次正と知り合う[11]

江戸旅中日記

安永9年(1781年)1112-25

江戸滞在-郷里

江戸日記

天明2年(1782年)46-9

出郷-江戸

沢入道能記

天明2年(1782年)46-9

太田-上野国勢多郡沢入-太田-郷里

塔ノ沢の石造釈迦涅槃像(現群馬県指定史跡)を記録[12]

子安神社道能記

天明2年(1782年)615-16

上野国勢多郡産泰神社参詣

武州旛羅廻

天明2年(1782年)722

武蔵国台村及び旛羅地方巡歴

上京旅中日記

天明2年(1782年)1016-1116

出郷-中山道-京都

京都日記

天明2年(1782年)1118-343

京都滞在

京日記

天明3年(1783年)44-7

京都滞在

下向日記

天明3年(1783年)47-53

京都-中山道-郷里

高山正之道中記

天明3年(1783年)93-15

郷里-東海道-京都

伊勢以遠を欠く

再京日記

天明3年(1783年)1022-1121

京都、途中大坂

祖父の神号を得る

小股新社日記

天明5年(1785年)72-3

足利の小股神社参詣

北上旅中日記

天明5年(1785年)713-18

郷里-上野国利根郡東入地方

利根郡大原村の金子十右衛門照泰を尋ねた。老神温泉吹割の滝も訪れている。

墓前日記

天明6年(1786年)61-晦日

祖母の三年喪に服した時の日記

江戸日記

寛政元年(1789年)11月末-1222

江戸滞在

江戸日記

寛政2年(1790年)51-67

江戸滞在-奥羽旅行出発

北行日記

寛政2年(1790年)67-1130

房総-常陸-福島-米沢-南部-仙台-日光-中山道-京都

水戸米沢で多くの人物と交流。津軽半島の先端、宇鉄まで行き蝦夷地渡航を求めたが実現しなかった。天明の飢饉の影響も記録している。

京都日記

寛政2年(1790年)121-3718

京都滞在

筑紫日記(1

寛政4年(1792年)11-826

九州各地

京都-熊本を欠く

筑紫日記(2

寛政5年(1793年)53-626

久留米

久留米で自刃

交友

伊勢崎

『高山芳躅誌』に伊勢崎藩士浦野知周との交際が記述されているほか、伊勢崎藩家老関睡峒とも交流があり、関は彦九郎の肖像画を残している(後述)。伊勢崎藩藩校学習堂教授に招かれた小松原醇斎とは江戸で交流している。

江戸

彦九郎は寛政元年の『江戸日記』で前野良沢の家にたびたび宿泊し、和歌を詠むなど親しい交流をしている。良沢の息子良庵(達)とは中津藩士簗又七次正を介して知り合い、良庵は彦九郎の実家を訪ねている。彦九郎の日記には前野良沢の知人も多数現れ、その中には杉田玄白桂川甫周大槻玄沢工藤平助最上徳内などがいる。

江戸で直接交流があった人物としては柴野栗山岡田寒泉、服部栗斎がいる。

京都

京都で早くから親しく交流し、多くの知人を紹介された人物に高芙蓉がいる。前述『赤城行』では高の依頼により伊香保で大島氏の系譜を調べている。

京都では白木屋に滞在し大村彦太郎と交流している。

前述の岡白駒は1度目の上京の後死去したため、より長く関係を保ったのはその子、岡恕斎であり、その紹介で彦九郎は藪孤山頼春水木村蒹葭堂葛子琴らと知り合っている。

彦九郎と交流のあった公卿のうち最も重要な人物は正二位伏原宣條である。伏原は彦九郎に自筆の書画を多数与え、彦九郎はそれをさらに他の人に与えて皇室への関心を高めている。

公卿で親しく交流した中には従二位岩倉具選がおり、彦九郎は岩倉邸に長く滞在した。

正二位権大納言芝山持豊からは和歌の添削を受け、芝山邸の歌会などで多くの公卿と知り合っている。

伊勢

天明39月に村井古巌とともに伊勢へ行き、蓬萊尚賢荒木田久老と会っている。

水戸

寛政元年に江戸で立原翠軒とともに彰考館教授、長久保赤水宅を訪ね、藤田幽谷と会っている。

寛政2630日に水戸を訪れた際は、立原翠軒宅に宿泊し、藤田幽谷とも面会した。水戸を発った後天下野村では木村謙宅に泊まった[13]

米沢

寛政2715日から23日にかけて米沢に滞在した。米沢藩士とは細井平洲を介して江戸で交流があった。

神保容助、片山紀兵衛一積が宿を訪れ、莅戸太華とも面会。藩校興譲館で講話を行い、上杉鷹山から片山紀兵衛を使者として那須国造碑訓点を尋ねられている。

米沢藩の厚遇は滞在中の歓待に留まらず、出発の際各村の庄屋宛に、人夫一人を彦九郎につける手形を発給している[14]

仙台

寛政21021日に仙台に入り、林子平のもとに滞在。元々江戸で交友があったものとみられる[15]1028日には鹽竈神社の祠官藤塚知明のもとに泊まり、村井古巌の墓参りをしている。

熊本

寛政3年末から熊本の薮孤山宅に滞在した。この間斎藤高寿、富田大鳳、草野雲平、高本紫溟、辛島才蔵らと交流。年明けに高本紫溟の家に移り、藩校時習館の学生とも交流している[16]224日に知己256人に見送られ出立。

鹿児島

寛政435日に野間の関に到着したが、入国許可が下りず、城下の赤崎禎幹に飛脚を出してもらい、20日に薩摩入国。山本正誼、白尾国柱といった要人と接触を図っている。25日に鹿児島出立後、日田広瀬淡窓を尋ねたことが広瀬の手記から分かるが、彦九郎のこの期間の日記を欠く。

自刃

寛政553日に久留米に入り、医師森嘉膳宅に寄食した。太宰府博多などを回り松崎で赤崎禎幹に会った後、619日に久留米に戻った。627日夜、森嘉膳宅の一室で切腹。翌28日午前4時(「記高山彦九郎自殺事」による。『安西敬基筆記』では午前8時ごろ、「高山彦九郎死亡届」では午前8時過ぎ、森兵次口上書では午前8時)絶命[17]。享年46

辞世の句は以下の二つ。

松崎の駅の長に問ふて知れ心つくしの旅のあらまし

朽はてゝ身は土となり墓なくも心は国を守らんものを

自殺の原因としては森嘉膳による「記高山彦九郎自殺事」に、626日、27日に彦九郎が日記等を水に浸し揉み破っており、森嘉膳に理由を問われた彦九郎が「予狂気なり」と答えており、切腹後にも彦九郎は理由として「狂気」と答えたと記録されている。他方、彦九郎が京都の公卿方の反幕府の密命を受けて薩摩藩を説伏に行ったがうまくいかなかったことを理由とする説がある。日記には鹿児島出立後尾行者のあることが見えるので、幕府の密偵による監視により京都に戻れなかったとも考えられる[18]

没後

高山彦九郎記念館

久留米の遍照院に葬られ、戒名は松陰以白居士。翌年4月に息子義介、叔父剣持正業が久留米を訪れ法要が催された[19]

明治2年(1869年)12月、王政復古に尽力した功労者として、子孫に三人扶持が下された[20]

明治11年(1878年)38日、贈正四位[20]

昭和6年(1931年)1126日、旧宅跡と遺髪塚(現太田市細谷町)が国史跡の指定を受けた[21]

平成8年(1996年)53日、高山彦九郎記念館が開館[2]

人物

肖像画

  • 上掲『高山芳躅誌』(新井雀里)口絵の肖像画は、彦九郎本人と交友のあった伊勢崎藩家老、関睡峒によるとされる。
  • 『高山操志』(金井金洞)の肖像画[22]は、我古山人によるもので、彦九郎の曾孫石九郎をモデルとし、彦九郎の妹きんに見てもらい似ていると言われたという。
  • 池大雅筆の肖像画が現存するが、真筆ではないとみられる。『丁酉春旅』安永6年(1777年)46日に、彦九郎本人が池大雅を知人だと語る場面がある[23]
  • 金井毛山、金井烏州による肖像画もある。

容貌[24]

  • 柴野栗山『送高山生序』「身長八尺高髻挿梁、面如紅玉」
  • 『北行日記』1021日「出口茶店伊藤屋万助所に休ふ、克ク林氏(林子平)の事を知りて子平子に似たりと予が事を評せり」
  • 広瀬淡窓「年ころ四十余なり。顔面雄壮にして眼大に鬚多し」
  • 杉山忠亮『高山正之伝』文政元年(1818年)「正之長八尺余、鬚髯如神」
  • 頼山陽『高山彦九郎伝』天保12年(1841年)「為人白晳精悍、眼光射人、声如鐘、有奇節。」
  • 菅茶山『筆の須佐飛』安政3年(1856年)「其人鼻高ク目深ク口ヒロク丈タカシ、総髪ナリ。」

高山彦九郎歌碑、京都川端三条

和歌

彦九郎は日記に自身が詠んだ多数の和歌を記録しており、『高山彦九郎歌集高山朽葉集[25]』には961首が収められている。他に長歌俳句狂歌も残されている。

伊藤左千夫は、以下の歌に対し「此人に此歌ありとは、聊かならず驚かされぬ、君を思ひ国を思ふ心篤かりしは、天が下に知らぬ者なき程なれど、文学の上にもここまで至れる人とは露おもはざりしを」と驚き褒めている[26]

丈夫乃円居世流夜波勇魚取海山越天風毛来勿鴨(ますらおのまどゐせるよはいさなとりうみやまこえてかぜもこぬかも)

芝山持豊が光格天皇の側近であったことから天皇とも彦九郎は間接的に関わることとなった。『京都日記』寛政3年(1791年)315日では、芝山持豊が「先月唐鑑御会の御時に天上の御沙汰ありける・・・・・・天子能ク知食して有ける也」と語り、翌日には山科泰安から「上様も知食し、ある時高山彦九郎といへるものを知れるとやと御尋ネ有ける」と聞き、「恐れ入りたる事とて拝す」とともにその感激を『愛国百人一首』にも採られた以下の歌に詠んでいる[27]

日本語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

愛國百人一首

我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ『愛國百人一首』

大学寮再興

彦九郎は『京都日記』中で天明2年(1782年)12月に高芙蓉、玉田黙翁大学寮再興について話し合ったことを記録している。翌年3月には懐徳堂で中井竹山と議論を行っている。寛政3年には伏原宣條、西山拙斎、芝山持豊、橘南谿、太田碩安らに学校建設の話をしている[28]

奇瑞の亀

寛政3年(1791年)3月、志水喜間多(南涯)琵琶湖で捕獲された緑毛亀を得たとの手紙を彦九郎に寄越したことから、『淵鑑類函』に「亀有毛者文治之兆、緑毛黄甲皆祥瑞」とあるのを見いだし、330日、この亀を御所に持参し光格天皇に御覧頂いた。この亀は76日に仙洞御所の池に放されるが、彦九郎は亀を描いた摺物の配布を行い文治政治実現の近いことを宣伝した[29]

墓地

福岡県久留米市寺町の光明山遍照院にある高山彦九郎墓

自刃の地から約400メートル離れた、久留米市寺町の光明山遍照院に墓がある[30]

1893(明治26年)5月に北白川宮能久親王[31]1902(明治35年)に小松宮彰仁親王が墓参した[31]

墓前には、1911(明治44年)11月の陸軍特別大演習の折、山縣有朋大山巌伊東祐亨奥保鞏井上良馨寺内正毅が参拝し、松を記念植樹した[32]。また1917(大正6年)519日に朝香宮鳩彦王がコウヤマキを、1921(大正10年)1013日に久邇宮邦彦王がゲッケイジュをそれぞれ手植えした[32]

三条大橋の銅像

高山彦九郎皇居望拝之像(三条大橋東詰)

京都府京都市三条大橋東詰(三条京阪)に、皇居(現・京都御所)遥拝姿の彦九郎の銅像がある。ポーズからしばしば土下座していると誤認されて「土下座像」「ドゲザ」と通称され、京都の待ち合わせスポットの一つとしても認知されている[33]。若いころの彦九郎が三条大橋の東で皇居に向かい拝跪した逸話は頼山陽の『高山彦九郎伝』にある[34]

初代は昭和天皇御大典を祝して有志からの寄付により1928に作られ、法華経伊勢神宮で入魂した柱が納められ東郷平八郎が台座の揮毫をした[33][35][36]。しかし、194411月に金属類回収令で供出され、代わりに徳富蘇峰の揮毫による「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」の石碑が置かれた[35][37]。現在の銅像は1961に場所を移動したうえで伊藤五百亀によって再建されたものである[33][38]

2012120日午後6時ごろ、白いペンキがかけられるという事件が起こった[39]コロナ禍20204月末には、銅像の口元にマスクを着けるいたずらが起きた[40]

神社

群馬県太田市に、高山彦九郎を祀る高山神社が建てられている。

家族[41][42]

·       祖父 伝左衛門貞正(元禄7年(1694 - 明和3年(1766))下田島の蓮沼新五右衛門政房の長男。母は高山宗三繁久の娘、ゑん。

·       祖母 りん(元禄12年(1698年) - 天明6年(1786年)) - 新田郡内ヶ島村大槻権兵衛正曜の娘。

·       父 彦八正教(享保2年(1717年) - 明和6年(1769年))大山阿夫利神社への参詣の途中、何者かに殺害される。

·       母 しげ(享保11年(1726年) - 明和2年(1765年)) - 武蔵国旛羅郡台村剣持重左衛門則康の娘。

·       兄 専蔵正晴(寛保2年(1742 -

·       甥 伝四郎

·       先妻 しも - 新田郡大島村天野嘉右衛門の娘。

·       長女 せい(安永7年(1778年) -

·       後妻 さき - 新田郡藤阿久村加村太兵衛の娘。

·       次女 さと(安永9年(1780年) -

·       長男 義介(天明2年(1782年) - - 彦九郎の死後桐生新宿の常見家に入るが、息子恒太郎に常見家を継がせると高山家を再興した。

·       孫 常見恒太郎

·       曾孫 高山石九郎正敬

·       玄孫 守四郎

·       来孫 正行

·       三女 りよ(天明5年(1785年) -

·       妹 いし(寛延3年(1750年) - - 武蔵国奈良新田村高橋仁左衛門に嫁ぐ。

·       妹 きん(明和2年(1765年) - - 佐位郡伊与久村伊与久嘉吉(伊勢崎藩士)に嫁ぐ。

·       叔父 蓮沼要右衛門正穏(政穏) - 伝右衛門の生まれた蓮沼家を継ぐ。

·       叔母 みち(ふの)

·       叔父 剣持長蔵正業(元文2年(1737年) - 文化14年(1817年)) - しげの実家剣持家に婿養子に入る。

·       叔母 ため

伝記

  • 三上卓『高山彦九郎』(平凡社19408月)
  • 野間光辰『高山彦九郎 京都日記』(日本の旅人:淡交社1974年、新版2020年)ISBN 4473044106
  • 『高山彦九郎の実像 維新を呼んだ旅の思想家』(あさを社、1993年)

高山彦九郎を題材とした作品

小説

文藝春秋1995年、ISBN 4-16-315820-0

文春文庫1998年、ISBN 4-16-716933-9

岩波書店「吉村昭歴史小説集成三」、2009年、ISBN 4-00-028313-8

 

 

東京府北豊島郡日暮里に生まれ、学習院大学を中退[2]1966〈昭和41年〉に『星への旅』で太宰治賞を受賞した[2]。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓き、同作品や『関東大震災』などにより、1973菊池寛賞を受賞した[2]。現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表した[2]日本芸術院会員。小説家津村節子の夫[3]

経歴

生い立ち

日暮里町大字谷中本(現在の東京都荒川区東日暮里)に生まれる。父吉村隆策、母きよじの八男[4]。父は、百貨店寝具店への卸売や、鉱山などに納入するふとん綿を製造する工場と綿糸紡績の工場の経営をしていた[5]。昭が生まれたとき、吉村家の事業は順調に推移していた[6]。家は平屋建てで物干台がついていた[6]。住み込みの工員もいて、母は大家族の料理をあつらえた[7]

吉村家には文学的な雰囲気はなかったが、兄たちの中では三番目の兄英雄が、昭が中学校に入る頃から小説に興味を抱いたらしく芥川賞直木賞受賞作の単行本などを買って読むようになった[8]

学生時代

日暮里町の東京市編入後の1934(昭和9年)4月、東京市立第四日暮里尋常小学校へ入学[9]1940(昭和15年)4月、私立東京開成中学校に入学した[10]。在学中に、家庭教師(東京帝国大学法学部3年生)の指導で岩波文庫などの古典日本文学などを読むようになり、読書の楽しみを知る[11]。また、中学2年生のとき『ボートレース』と題する作文が校内雑誌に掲載された[12]寄席通いを好んだが、太平洋戦争下であり、補導員の目をかいくぐりながら、鈴本演芸場人形町末広神楽坂演芸場へ通った[13]肋膜炎肺浸潤で欠席が多かったが、1945(昭和20年)3月、戦時特例による繰上措置のため卒業できた。しかし教練の成績が悪かったため上級校に進学できず、予備校生活を送る。

1944(昭和19年)に母が子宮癌で死去し、敗戦直後の1945年(昭和20年)12月に父が癌で死去する。1946(昭和21年)、旧制学習院高等科文科甲類に合格するも、両親が亡くなったため将来の就職のことを考えて理科志望に転じ、学習院の入学式には出席せず、岡山市第六高等学校理科を受験したが失敗、再び予備校に通学する。1947(昭和22年)、旧制学習院高等科文科甲類に入学する。岩田九郎教授に師事して俳句を作る。

1948(昭和23年)15日に喀血し、同年917日、東京大学医学部附属病院分院にて胸郭成形手術を受け、左胸部の肋骨5本を切除した。この大病がもとで旧制学習院高等科を中途退学する。療養生活を経て、1950(昭和25年)4月、新制学習院大学文政学部文学科に入学する。文芸部に所属し、放送劇を書く。この頃から作家を志望するようになる。一方で部費捻出のために大学寄席を催し、古今亭志ん生を呼んで好評を博した。

1952(昭和27年)、文芸部委員長になり、短篇を『學習院文藝』改称『赤繪』に発表する。川端康成梶井基次郎に傾倒する。同年711日、岩田の紹介で他の文藝部員4人と先輩にあたる三島由紀夫に会い、河出書房版『仮面の告白』の署名入り単行本を贈られた。

創作に熱中して講義を受けなくなった上、必修科目である体育の単位を取るだけの体力がなく、さらに学費を長期滞納していたため、1953(昭和28年)3月に大学を除籍となった。三兄の経営する紡績会社に入社するも、同年10月末に退社した(ただし大学については後に学費を追納した上で寄付金を納め、除籍ではなく中退扱いとなった[14])。115日、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家津村節子)と結婚する。

作家として

繊維関係の団体事務局に勤めながら、丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』、小田仁二郎主宰の同人誌『Z』などに短篇を発表する。

1958(昭和33年)2月、短篇集『青い骨』を自費出版する。6月、『週刊新潮』に短篇「密会」を発表して商業誌にデビューする。

1959(昭和34年)1月、「鉄橋」が第40芥川賞候補に、7月に「貝殻」が第41回芥川賞候補に、1962(昭和37年)に「透明標本」が第46回芥川賞候補に、同年「石の微笑」が第47回芥川賞候補になるも受賞を果たせず、1965(昭和40年)に妻の津村節子が受賞した。この間に、受賞の知らせを受けて自動車で駆けつけると間違いだったということが起きている(『私の文学漂流』より)。

1966(昭和41年)に『星への旅』で第2太宰治賞を受賞する。この年、長篇ドキュメント『戦艦武蔵』が『新潮』に一挙掲載されたことでようやく作家として立つことになった。1972(昭和47年)、遣独潜水艦作戦を描いた『深海の使者』により第34文藝春秋読者賞を受賞する。1973(昭和48年)、『戦艦武蔵』『関東大震災』など一連のドキュメント作品で第21菊池寛賞を受賞する。

1979(昭和54年)、『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞を受賞する。1985(昭和60年)、『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞を、『破獄』で讀賣文学賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞する。1987(昭和62年)、日本芸術院賞を受賞する。1994(平成6年)、幕末に起きた天狗党の乱をテーマとした『天狗争乱』で大佛次郎賞を受賞する。1997(平成9年)、日本芸術院会員になる。2003(平成15年)には妻の津村節子も会員となっている。

日本文芸家協会理事、日本近代文学館理事、日本芸術院会員(19971215日付発令)。2004(平成16年)から2006(平成18年)まで日本芸術院第二部長。

1999年(平成11年)、日本文藝家協会理事長の江藤淳の死去により、理事長代行に就任し、2000年(平成12年)まで務めた。

晩年

2005(平成17年)春に舌癌と宣告され、さらにPET検査により膵臓癌も発見され、2006(平成18年)2月には膵臓全摘の手術を受けた。退院後も短篇の推敲を続けたが、新たな原稿依頼には応えられなかった。同年730夜、東京都三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の731午前238分に死去。79歳だった。遺稿「死顔」は、『新潮 200610月号に掲載された[注釈 1]。墓所は新潟県南魚沼郡湯沢町の大野原墓苑。

作風

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初期の作品は死をテーマにした緻密な光景描写の短編小説が多く、そのなかで『星への旅』は太宰治賞を受賞した。その後、『戦艦武蔵』がベストセラーとなり、歴史小説作家としての地位を確立した。歴史小説では、『戦艦武蔵』にも見られるように、地道な資料整理、現地調査、関係者のインタビューで、緻密なノンフィクション小説(記録小説)を書き、人物の主観的な感情表現を省く文体に特徴がある。NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』をはじめ、TV番組の原作や題材に用いられることも多く、題材も江戸時代から現代(昭和中期)までの事象や人物を対象としていた。

また、海を題材にした歴史小説を多く書いており、徹底した史実調査を行っている。『戦艦武蔵』に端を発する、近代日本戦史を題材とした「戦記文学」というジャンルを確立したのは吉村であるとも言われており、史実と証言の徹底的な取材と検証、調査を基にした事実のみを描いていたが、1980年前後を最後として近代以前の歴史作品に軸を移すようになった。これを吉村は自筆年表で「多くの証言者の高齢化による死」を理由に挙げている。事実を見据えた実証的な作品が書けなくなったことで、戦史を書くことはなくなった。1980年以降に次々と発表されたものは、近代以前の俗に歴史ものと呼ばれる作品群であったが、磯田光一は「彼ほど史実にこだわる作家は今後現れないだろう」と言っており、フィクションを書くことを極力避け、江戸時代のある土地の特定年月日における天気までも旅商人の日記から調査して小説に盛り込む、ということまで行っている。ただ、『ふぉん・しいほるとの娘』に関しては余りに創作部分が多く、近年のシーボルト研究の中で現在は完全なるフィクション本として扱われている。また、『光る壁画』では、胃カメラ開発の実話に加えて主人公の私生活をフィクションとして書いたと「あとがき」に記されているが、実話や実名を使用している個所についても、史実と異なる内容が多く描かれている[15]

当時の文壇では珍しい速筆の作家としても知られていた。あるとき、吉村と池波正太郎が「ぼくたちはいつも原稿が早いので、それが当たり前になって編集者がありがたがってくれない」「そうそう、だから原稿料も安い」と話したことがある[16]。担当編集者が締め切り日に彼の自宅に赴くと、完成した原稿が金庫の中に必ず用意されていた。

人物と没後の顕彰

学習院大学にて文芸部委員長を務めた際には、同人誌発行のため奔走した。同人誌の費用を賄うために落語研究会を発足させ、五代目古今亭志ん生らを招いて興行を行っていた[17]。当初は学習院側から講堂の使用許可が下りなかったため、院長の安倍能成の自宅を訪ねて直談判し、使用許可を取り付けている[17]。興行のチケットは文芸部の部員が販売したが、部員の一人が皇太子明仁親王にまでチケットを販売していたため、興行当日には明仁親王も観客として来場した(三代目春風亭柳好が『五人廻し』を口演している際にこれに気づき、「不敬罪にあたるのではないか」と動揺して途中で高座を降りてしまうという事態が発生している)[17]。なお、日本の大学において落語研究会が設置されたのは、このときが初めてだとされる[17]

吉川英治文学賞オール読物新人賞大宅壮一ノンフィクション賞新田次郎文学賞太宰治賞大佛次郎賞の選考委員を務めた。

病魔に侵された晩年を、いわゆる尊厳死の形で終えたことは関係者に大きな衝撃を与えた。夫人は「本人は考えた上でのことだろうが、家族にとっては突然のことだった」と振り返っている。

没後の2011年(平成23年)に発生した東日本大震災の後、『三陸海岸大津波』が再評価され、新たに多くの読者を獲得したことが話題となった。

吉村昭記念文学館(東京都荒川区、ゆいの森あらかわ内)

出身地の荒川区は2017年(平成29年)326日、吉村昭記念文学館を備えた複合施設「ゆいの森あらかわ」を開設した[18]

吉村は1969年(昭和44年)から死去するまで、三鷹市(井の頭公園近く)に暮らした[3]。吉村の没後、自宅の庭に離れとして建て、母屋から毎日「出勤」して執筆に励んでいた吉村の書斎1978年〈昭和53年〉建築)・自筆原稿・蔵書、遺品が、津村節子らの遺族から三鷹市へ寄贈された。

2024年(令和6年)39日、三鷹市は吉村の書斎を移築復元した顕彰施設、三鷹市吉村昭書斎[19]を開館した[20]

家族・親族

吉村家

駿河国富士郡比奈村(現在の静岡県富士市比奈)、東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区東日暮里)、東京都三鷹市)

安土桃山時代から江戸時代初期の武将福島正則の家臣吉村又右衛門宣充(のぶみつ)は吉村家の始祖と言い伝えられてきた[21]。主家没落後、又右衛門は浪人になった[22]ものの、桑名藩主の松平定綱が彼を寛永20年(1643)に名目は五千、実質は一万石で招いた[23]。吉村又右衛門宣充は慶安3年(1650)に没し、桑名顕本寺に葬られた[23]。今も顕本寺に墓があり、桑名市指定史跡となっている[23]。その後の吉村家は本家、分家の二家系とも松平家の家老として代々勤めた[23]

福島正則は初代広島藩主であったが改易され、吉村昭の一族もその際、広島を去って富士山麓の比奈に定住したと言い伝えられてきた[24]。ここに帰農して農耕に従事し、地方の豪族として村を治めた[24]。長学寺所蔵の過去帳によれば初代は萬右衛門宗感、二代は萬右衛門理安、三代は萬右衛門久甫、四代は萬右衛門浄底、五代は萬右衛門、六代は権右衛門日儀、七代は権右衛門日持、八代は萬右衛門日宣、九代は権右衛門、十代は権右衛門、十一代は萬右衛門、十二代は権右衛門と続く[25]。昭の父の隆策家は三代目の久甫の家から分家したものである[26]。久甫には浄底、重兵衛、知恵の三兄妹があった[26]。四代目を浄底が継いだ[26]。知恵は二代目萬右衛門の三男利左衛門日行を婿養子に迎えて分家した[26]。この利左衛門が隆策家の初代である[26]。その後二代目から六代目までは利左衛門を引き継いで名乗った[26]。七代目は儀左衛門、八代目は利八、九代目は昭の父隆策である[26]。二代目の利左衛門、六代目の利左衛門、七代目の儀左衛門は養子で六代目と七代目は比奈の叔父吉村郡一家から養子にきた[26]

文政8年(1825)生[26] - 慶応4年(18688月没[26]

家業の豆腐屋とともに米屋を営んでいたが、十七歳の時山で怪我をし足が不自由になった[26]。店の前には豪農の渡辺家があり、儀左衛門はその米の取扱いをするようになった[26]。慶応4年(18688月、海辺の得意先に掛取りに出掛けた時、三人の暴漢に襲われ殺害された[27]。吉村昭はこの曽祖父殺害の事実を調べるため静岡に出かけたが、詳細はわからなかったという[27]

  • 曽祖母・えい(静岡県富士郡須津村中里、菊池氏の娘[26]
  • 祖父・利八[26](米屋、玉子屋、乾物屋、綿屋[28]

1903(明治36年)2月没[29]

利八は「其の人となり信義に厚く、商才に秀いで、苦境に処して屈せず卓論不羈の風格があった[26]」。1903(明治36年)224日、憲政本党森田勇次郎をかついで衆議院議員の選挙に奔走していた利八は急死した[29]

  • 祖母・てる(静岡県富士郡吉原町依田原、土屋豊次郎の妹[29]

1939(昭和14年)4月没[30]

1891(明治24年)2月生[29] - 1945(昭和20年)12月没[31]

吉村昭の少年時代、家は家父長と呼ばれる父親を中心に営まれた[32]。その権威は絶対的なものだった[32]1901(明治34年)4町立沼津商業学校に入学した[33]。あまり勉強好きではなかったようで、父利八の死後学校に行かなくなった[33]。青少年時代の隆策は極道息子だった[33]。母てるが甘やかして育てたせいといわれている[33]。秘かに不動産の権利書を持ち出し、金に換え、遊興にふけった[33]。隆策の酒と女と博打で吉村家は没落していった[33]。「富士郡で一、二」といわれた製綿業者で、職人を三十人以上も使っていた家業は傾き、生まれ故郷を捨てることを決意した[33]。このとき隆策25歳で、神奈川県横須賀市若松町に綿屋を開いたが、生活は貧しかった[34]。五男敬吾が生まれて三ヵ月後に夜逃げをするように横須賀市を去り、東京府北豊島郡日暮里町の元金杉千百五番地の貸工場に落ち着いた[34]。当時の日暮里は田畑のなかに点々と家屋が建っている新開地だった[34]。綿の打直しの仕事はたくさんあった[35]1919(大正8年)4月、田宮惣左衛門から百二十五の地所を借り、住宅十一坪五合、工場三十八坪、綿機三台、電動機一台を備えた家が新築された[36]。「吉村製作所」の看板をかけた[36]1932(昭和7年)からは日暮里町四丁目二番地で綿糸紡績業を営み、東洋商業学校を卒業した長男利男に管理させた[7]

母の父亀次郎による母きよじへの躾は厳しく、祖父の躾は母を通じて吉村昭にも伝えられた[37]

利男[4]

1911(明治44年)9月生[33] -

武夫(実業家・花嫁わた社長[38]、郷土史家[39][4])「大江戸趣味風流名物くらべ」などの著書がある。

1912(大正元年)12月生[34] - 2001[40] 

英雄[4]

1914(大正3年)6月生[33] -

政司[4]

1916(大正5年)12月生[34] - 疫痢で生後八ヵ月足らずで亡くなる[4]

敬吾[4]

1918(大正7年)4月生[34] - 1941(昭和16年)8月に戦死[4]

健造[4]

留吉[4]

1923(大正12年)6月生[4] - 1923(大正12年)6月没[4]。留吉は誕生した日に亡くなる[4]

  • 姉・富子[4]

1924(大正13年)7月生[4] - 7歳の夏、疫痢にかかり亡くなる[4]

1981(昭和56年)8月没。末期ので亡くなる。その闘病録として執筆したのが『冷い夏、熱い夏』である。

1928(昭和3年)6月生 -

  • 長男
  • 長女

受賞等歴

 

 

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