ピッケルと口紅  北村節子  2026.2.24.

 2026.2.24.  ピッケルと口紅 地球あちこち登った笑った考えた

 

著者 北村節子 1949年生まれ。72年に読売新聞東京本社に入社。小3の子連れの同僚と結婚。2001年、読売新聞社調査研究本部主任研究員。08年、退職。日本山岳会会員。主な共著書に『シングルウーマン』(有斐閣)、『「スピン」とは何か』(講談社)ほか多数。本書は『ピッケルと口紅 女たちの地球山旅』(1997年、東京新聞出版局)を復刻したもの。

 

発行日            2025.9.1. 初版第1刷発行

発行所            山と渓谷社 (ヤマケイ文庫)

 

初出 『ピッケルと口紅 女たちの地球山旅』(東京新聞出版局、1997年刊)の文庫版

 

 

はじめに 山女の集まりに新風を吹き込んだ女性記者 田部井淳子 1997

1981年、日本人として初めて入山したチベットのシシャパンマの第2キャンプで田部井と北村

2人の最初に出会いは1971年、エベレストの許可が下り、登山計画を話し合う第1回合宿ミーティングの席。彼女は新聞記者として参加。翌日入隊の申し出。慣習にとらわれず、ずけずけ物怖じせずにものをいう度胸に驚き、どんな困難も彼女とならば超えられると思うようになる

 

第1章        エベレスト

l  「物語」はかくして始まる

長い「物語」のきっかけは’73年の小さな新聞記事。「日本女子隊にエベレスト登山許可」の見出しを見て、入社早々の新米記者の筆者はインタビューに出かける

'70年にアンナプルナIII峰を制した女子登攀クラブが次の目標をエベレストにした

隊員の合宿する鳩ノ巣を訪ねた後、隊長の田部井を川越の自宅に訪問。人柄に魅せられてその翌々日には入隊希望の電話をする。雪山入門程度の経験と知識で玄人集団に入り込む

女子登攀クラブとは、「お行儀良くなんかしていられない、自分のエネルギーを隠すことが下手」な女たちの集まり

l  恍惚と不安、初年兵編

'75年羽田発。隊員は15名。予算6,500万円の寄付集めは、石油ショック後の不景気もあって、「女がヒマラヤだあ?」と冷たい目で見られ、予算削減と、個人負担の増額で賄う

標高3000mのルクラのベースキャンプまでの370kmは陸路で高度に慣れる

 

ことば マガジン 昔の新聞点検隊

エベレスト、登ってみせますわよ

(2013/01/22)

1975(昭和50)130日付朝日新聞東京本社版朝刊17面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

登ってみせますわよ 女性エベレスト登山隊 元気に羽田を出発

 今春、世界で女性として初めてエベレスト(八、八四八メートル)にいどむエベレスト日本女子登山隊の久野英子隊長(四一)ら十三人が二十九日夜、東京・羽田発のタイ航空機でネパールへ向かった。同じ便でヒマルチュリ(七、八六四メートル)をめざす専修大パーティーの先発隊も出発し、いよいよ一九七五年度の「ヒマラヤ・オリンピック」の開幕となった。

 エベレスト日本女子登山隊一行は、すでにカトマンズ入りしている田部井淳子副隊長(三五)ら二人と合流して装備の点検などをすませたあと二月九日、カトマンズからベースキャンプへ向かう。順調にいけば、五月上旬に、まだ女性が踏んだことのない山頂に達する予定。ルートは二十二年前、英国隊のヒラリー卿(ニュージーランド)とシェルパのテンジンが初登頂した通常コースの東南稜(りょう)。

 川越市の渡辺百合子隊員(三一)の長男研ちゃん(六つ)と長女早苗ちゃん(五つ)にとっては、六カ月間のお別れ。空港で二人は「エベレストは富士山より大きなお山だけど、ママは大丈夫」と、無邪気そのもの。まだ、登山の恐ろしさなど、何も知らないらしい。心配そうなパパの斉さん(三四)とは対照的だった。(略)

1975〈昭和50〉年130日付 朝日新聞東京本社版朝刊17

 

l  最高峰は高くつく

エベレスト・ベースキャンプは標高5350m。熱は37度、脈拍は100を超える

氷河のブロックがC2を襲撃、就寝中の隊員7人がテントもろとも15m流され氷塊の下敷きとなった事故で、一旦は撤収も考えたが、田部井が現場から断固「継続」を主張

C2から発ったアタック隊は田部井と渡辺とシェルパ。補給線がなく渡辺はC4で撤退、アタックは田部井とシェルパの最少単位になり見事成功したが、反省会ではC4で渡辺が撤退したことが原因で田部井と渡辺の間の長年の信頼が壊された結果に

渡辺は'87年不幸な死に方をしている。毎年の命日に墓前に参っているのは田部井だけ

 

2章 シシャパンマ(希夏邦馬)

l  ゴサインタン(チベット語ではシシャパンマ)はどこにある?

すっかり有名人になった田部井からはその後もちょくちょく山行きの声がかかる

中国・チベット自治区領内の8000m峰ゴサイタンにはまだ外国人が登っていない

日本女子隊のエベレスト登頂成功の11日後に北面(チョモランマ)からの登頂に成功したのが中国隊で、中にチベットの女性藩多がいて、'79年シャモニの山岳フェスティバルで同席した機会に同女史に接近。なんとか筆談で登頂が叶い、'81年本番となる

l  難関「北京ヶ岳」

ゴサイタンは標高8012m。チベット領内のため外国隊の手が届かず、世界8000m峰14座で最後まで未踏。中国が国を挙げて初登を遂げたのは1964

中国登山協会から来た協力作業の値段に驚き、’80年には直接交渉に北京に乗り込む

'64年の登頂成功者が女子隊に参加。予算は5000万円に圧縮。まずは偵察行から

l  恍惚と不安、アタッカー編

半年後には隊員9人を含む総勢30人が標高5000mのチベット高原に

5150mのベースから5800mのC2まで氷河沿いのルートが27㎞も続くのが難所。隊員に高度障害が出た場合、すぐに高度を下げることができない

最後は田部井と北村でアタックすることになったが、7350mで食糧が切れ、翌々日田部井だけが登頂に成功。日本で初めて8000m2峰を制した女性となる

 

3章 マッキンリーへ

l  ふたりぼっちもいいもんだ

中国登山協会に信用借りのまま帰国。最後の何百万かは、田部井と北村のローン負担として残る。なんとか返済の目途をつけて、'83年には田部井と2人だけの山行きでインド・ヒマラヤの5928mのハヌマンチバに遊ぶ。山旅は自分のお金で行くものと決める

l  「名門クラブ」軟化す

女子登攀クラブは、「大部隊からより個人的な山旅へ」と軟化の傾向を見せる

ブータンや中国天山のように、ほとんど外国人を受け入れない山々に、世界の田部井の名でチャレンジしてきたが、「とにかく楽しい山行き」志向の集まりになってきた

'87年、田部井に誘われてアラスカへ

l  「強い男」のお茶の味

'88年、男女計10人での短期チャレンジ。女だけの登山への拘わりを捨て、4200mBCまでの荷揚げの力仕事は男性に頼る

デナリ国立公園のレンジャー・オフィスには登山者用ビデオの日本語版があった

高度こそ6000mそこそこながら高緯度のため、ヒマラヤの7000mに相当

厳しい環境下では、本当に強い男、本当に自信のある人間こそが、自分の身の振り方にカリカリせずに、周囲の人間に気を配ってやれるし、自分もその場の雰囲気を楽しめる

北村は最後で気管支炎で断念、田部井と新人女史が登頂に成功。田部井は女性初の5大陸最高峰踏破達成。次は6大陸目の南極が視野に。同行動だった男組のベテラン2人は、翌年初厳冬期の同じルートに散る。あの「お茶が入りました」の愉快な声は、もう聞かれない

 

4章 南極

l  「国際隊」に見参す

目指すはビンソン・マシフ(5140)’86年に三浦雄一郎がアメリカの大富豪と登る

カナダの旅行者がチリからのルートを提供、'911月と決まるが、問題は同行者と費用。マッキンリーで一緒した道産子女史と他に若い男が2人。旅行者への支払いは11.6万ドル。装備はいつもの新大久保のICI石井スポーツで見立ててもらう

南米最南端の岬の町プンタアレナスで、気候回復を待つ頃12日、ようやく’53年製のDC6は飛び立つが、不時着を考え防寒装備のままで乗る。エアコンなしの機内はそれでもまだ寒い。乗客は10人、8時間の飛行で南極に着き、そこから小型機で標高2400mのBC

l  極寒レース「ゲート・イン」

日米欧3組の奮闘が始まる

l  南極の彼方の空遠く、第七の山があるという

太陽の沈まない南極とはいえ、午後5時半から登り始めて9時間後に頂上に辿り着く

同行した若い男が『毎日』の記者で、個人登山だという了解で連れて行ったが、チリに戻るや登頂写真を会社に送稿、挙句に帰国後は『毎日グラフ』に特集を組み、田部井に断りなしに登高中の写真を表紙にして後味が悪い結果に

1年余りののちにはニューギニア島の北西端カルステンツ・ピラミッド(4884m)を目指す。オセアニア州の最高峰で、世界7大陸の1つ。入山するだけでも特別ビザが必要

 

5章 ニューギニア

l  やってきました「ジャングルブック」

‘923月、現地で田部井・北村を含む5人の即席の国際隊が組まれる

ジャングルを通るのに、ガイドは現地青年1人。道なき道を行く

l  岩の上のピンチ

鬱蒼としたジャングルの泥地を倒木と格闘するように進むと、不意に林が切れて、草原のような平地が現れ、熱帯が突然終わり、最高峰につながる広く長い尾根に立つ

仲間が偵察と称して先に登攀に成功するが、2度とやりたくないといって下山。ガイドの青年も躊躇して結局全員下山に

l  リターン・マッチ、成功す

我々2人が持つ軍の滞在許可は6日を残すのみで、現地工作の甲斐なく撤退したが、現地鉱山会社を説得して通行許可を取り直し、7月に田部井が現地パートナーと組んで再挑戦し、見事7大陸最高峰登頂を達成。現地支局記者の署名入りの記事となるが、大部分は私が担当

 

6章 そしてアイガーへ

l  ちょっとピッケル置いて考えよう

達成感と同時に喪失感も味わっているところに次のプログラムが天から降ってくる

世界の一流クライマーで組織する「HAT-Himalayan Adventure Trust」は、山岳環境団体で、田部井にも参加要請が来て、そのためには自国の山岳仲間を動員して啓蒙活動のためのイベントを実施しなければならない

'91年、日本版HATJを立ち上げ、国際シンポ開催。私が司会を務める

「親の世代の価値観から脱出し」「新しいライフスタイルを手に入れる」ための装置を、この数十年、若い女性は模索してきたはずだ。私たちにとってはそれが「山」であり、「山で出会った夫」だったといえそうだ

l  「卒業生」はいま

'95年にはエベレスト登頂20年を記念して、各国からエベレスト登頂女性9人を招いて田部井と10人による国際シンポジウム「エベレスト・ウィメンズ・サミット」を開催。この時点で登頂者は延べ32人に上る

l  大団円はまだいらない

'90年に、7大陸制覇後の保険に、ボーナスでも行ける山として田部井と選んだのがマッターホルンを始めとするヨーロッパの山々

'957月、田部井と2人でアイガーへ。それぞれに現地のプロガイドを雇い、2パーティーに分かれて登攀、無事登り切って頂上に「2人で101歳」の白旗を掲げる

 

あとがき

‘93年から1年間、山岳雑誌『岳人』に「女たちの地球山旅」を連載

タテヨコ2m四方に2人で閉じこもらなくてはならなくなった時、どんな人に相棒になってほしいか、「気は優しくて力持ち」に限るという自明のことを、テントの中の真理として山の世界は改めて教えてくれる

 

少し長めの文庫のあとがき                 2025

2025年は、「最高峰への女性初登頂」からちょうど50年。田部井家の家族物語が映画化され、この本も参考資料として使われた。その縁で絶版となっていた本が文庫本化された

その間、2016年に田部井が病で去り、私には虚脱の時期がやってきた

折から昭和の中盤過ぎ。「結婚して子どもを産んでナンボ」と規定されていた女性たちが、教育を受け、自分でお金を稼ぎ、旅に出る楽しさを知った時期。田部井は憧れのモデルになる。「ジュンコ・タベイ」の名は、国際世界でも響き始める

HATの一員となり、山岳自然保護を大々的にアピール。「山の自然を守ろう」という機運は、あの頃を機に「世間の常識」にまで成長した感がある

「登るだけ」から「山に関する社会活動」にまで、行動圏を広げた田部井に、'03年乳がん発覚。北村も同時期、「非結核性抗酸菌感染症」に罹患

'12年、田部井に腹部の悪性腫瘍発覚。余命何か月の宣告から無事回復

‘13年から、毎年夏山小屋を借りて自炊しながら山や丘で遊ぶことを繰り返す

 

解説 女性たちの「力」と人間的魅力               坂東眞理子(昭和女子大総長)

通奏低音をなす2人の友情が印象的

未踏の分野に橋頭保を築いていった昭和の女性たちの熱気とエネルギーがこのプロジェクトに凝縮されていた

坂東は’69年総理府入省。エベレスト登頂成功の'75年は「国際婦人年」。それが'78年には「国際女性学会」(現国際ジェンダー学会)に発展、そこに北村がジャーナリスト会員として参画し知り合う。田部井とは、内閣府退官後昭和女子大教授から総長になるが、同大卒業生としてながらく理事を務めていた彼女と知り合う

世界の女性社会進出ランキングでは、日本は148国中118位。性別役割分担はいまも根強く女性たちの前に立ちはだかっている。女性自身が自らを縛っているアンコンシャスバイアスを軽やかに脱ぎ捨てて羽ばたけることを可視化し、次の世代の女性たちの意識を変え、行動を変えさせた。まさに彼女たちはチェンジメーカーだった

 

 

 

 

Google AI

『ピッケルと口紅』は、1975年に女性世界初のエベレスト登頂を成し遂げた田部井淳子と、その遠征から行動を共にしたジャーナリスト北村節子のコンビが、世界各地の山々に挑んだ実話に基づく女性冒険譚です。厳しい自然環境や困難な資金調達、女性への偏見を、笑いと友情、そして強靭な精神力で乗り越えていく姿を描いた爽快な人間ドラマです。 

詳細なポイント

  • 内容: 1975年のエベレスト遠征後も、2人はタッグを組んでマッキンリーや南極など世界七大陸の最高峰に挑戦しました。
  • 特徴: 登山界の男性優位な風潮の中で、女性らしい感性やおしゃれ(口紅)を忘れず、生き生きと山を楽しみ、困難を笑い飛ばす姿が描かれています。
  • テーマ: 友情、自然の厳しさ、挑戦、そして新しい生き方を模索する現代女性への応援歌。
  • 背景: 1997年に出版され、のちにヤマケイ文庫で復刻。2025年公開の映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』の原作的なエピソードが多く含まれています。 

登山を愛する女性たちの、真実の友情と冒険が詰まった一冊です。

 

 

「冒険研究所書店」は日本唯一の北極冒険家・荻田泰永が小田急江ノ島線・桜ヶ丘駅東口前にオープンした書店です。

子ども達や大人までが新しい世界に触れられるような、旅と冒険と本を通して世界への扉が開くような、そんな場所を目指しています。

 

女性初のエベレスト登頂者・田部井淳子とその相棒・北村節子のペアが登山界に新風を起こした。転んでもただでは起きない、女性記者の奮闘記。

19755月、日本女子登山隊が世界で初めて女性によるエベレスト登頂に成功しました。頂に立ったのは副隊長・田部井淳子。そしてその傍らには、遠征準備から苦楽を共にした本書の著者・北村節子がいました。
本書は、著者と田部井がその後も長年にわたって挑み続けた世界の山々、シシャパンマ、マッキンリー、南極、そして七大陸の最後の一座・ニューギニア最高峰までの冒険を描いた、真実の「女子冒険譚」です。自然の厳しさや異文化との出会い、人間関係の葛藤など、旅の舞台裏を生き生きと描写しつつ、そこにはいつも笑い合いながら困難を乗り越える2人の姿がありました。最終章では、登頂成功をきっかけに“世界の有名人”となった田部井が背負うことになった新たな社会的役割と、それでも変わらぬ友情で楽しんだヨーロッパの山旅が綴られます。自らの足で世界を切り拓いてきた女性たちの姿は、今を生きる私たちに力強いメッセージを投げかけてくれます。

 

 

山と渓谷オンライン

【書評】ピッケルと口紅で拓き、築いた頂と友情『ピッケルと口紅 地球あちこち登った笑った考えた』

評者=柏 澄子

1975年、女子登攀クラブがエベレストに挑み、田部井淳子が女性初の登頂を成し遂げた。著者の北村節子は、当時26歳の新聞記者。女子登攀クラブの集会を訪ね出発前の取材のつもりが、数日後には「一緒に行きたい」と申し出て、エベレストに同行する。

田部井とは、その後も熱き友情が育まれ、世界中の山を登り歩く。本書はそれを著したもの。新聞記者らしい観察眼、北村の性格を表わしたような軽快な文章で物語は進んでゆく。

1967年生まれの私は、ところどころに時代性を感じる。私より若い世代はもっと強く感じるかもしれない。山に登るのに女性というだけで、そんなにもがんばらないとならなかったのか。たしかに私も経験した。山が私たちに向ける姿には、男女の違いはない。けれど一般社会だけでなく山の社会でも、性別による周囲の態度の違いはある。北村たちの時代の風当たりはいっそう強い。けれどそれを一度は飲み込み、笑い飛ばし進んでゆく。それでも北村は書いている。「陽気さと鈍感さは違う」と。性別のことだけでない。世界を登り歩くなかで経験した、やりきれない矛盾に対してだ。

『ピッケルと口紅』という書名は象徴的だ。ピッケルも選んだ、そして口紅も選んだ。山に登る女なんてどんな奴らだと思われていた時代に、口紅だって塗りますという宣言。けれどこれとて時代。いまはむしろ口紅ではない。鮮明な色で女を主張するよりも淡いリップクリーム。日々日光を浴びるクライマーも山小屋スタッフも、美容医療でシミ取りをする。ダウンタイムがあるから「ケガをして山に行けない間にやったよ」と。

そんななかで本書にいまも共感するのは、「仲間」ではないだろうか。印象的だったのは、北村が2週間の海外出張に出かけたとき、エベレストの仲間たちが交代で彼女の家に泊まり込み、息子の世話をしたシーン。その間に夫を山で亡くした仲間がいた。北村の息子は彼女の隣で一緒に泣いた。

山の魅力に有名無名はない。人生を振り返ったときに思い出すのは仲間たちのこと。どの山に登ったかではなく、誰と登ったか。友情ほどありがたいものが、この人生にあるだろうか、と私は思う。

田部井の次にエベレストの頂に立った女性であるチベット人の潘多(パンドゥ)とポーランドのワンダとの出会い。1991年に世界中の登山家が尽力し発足したHATHimalayan Adventure Trust)。目的は山岳環境保護であるが、いまこそ急務。こういった話が、昨日のことのように読めるのも本書だ。

初版の97年から今日まで当然色んなことがあった。田部井が鬼籍に入り、北村の身にも変化があったと、今回のあとがきに書かれている。それでも変わらないのが山の魅力であり、友情だ。

ピッケルと口紅
地球あちこち登った笑った考えた

澄子

1967年生まれ。世界各地の山岳地域をテーマに執筆するフリーライター。日本山岳ガイド協会認定登山ガイドⅡ。今秋、『山と溪谷』連載をまとめた『凪の人 山野井妙子』を刊行予定。

 

 

 

Wikipedia

田部井 淳子(たべい じゅんこ、1939昭和14年〉922 - 2016平成28年〉1020)は[2][3]日本登山家福島県田村郡三春町出身。旧姓は石橋[4]

女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。

プロフィール

福島県田村郡三春町生まれ。三春小学校卒業。小学4年生の時に那須の茶臼岳に登ったことが(一説には福島・安達太良山とも)登山家への意識の芽生えになったと言われている[5] 福島県立田村高等学校卒業。 1962昭和女子大学英米文学科卒業。日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐ。以後数年間、谷川岳穂高岳でのクライミングに熱中した。1965佐宗ルミエと共に、女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功した(1219-20日)[6]

登山・アウトドアの活動が趣味の田部井政伸と山で出会い交際、1967に結婚した。

1969、「女子だけで海外遠征を」を合い言葉に女子登攀クラブを設立した。翌年にアンナプルナIII峰(7555m)に遠征して登頂に成功した。

1975、エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、女性で世界初の世界最高峰エベレスト8848mネパール名:サガルマータ、チベット名:チョモランマ)登頂に成功。その後、日本女性で登頂したのは難波康子1996年)で、田部井が登頂成功した21年後である。ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞朝日体育賞

1988、福島県民栄誉賞第1号、埼玉県民栄誉賞、川越市民栄誉賞、三春町名誉町民、エイボンスポーツ賞を受賞した。

19921988年のマッキンリー1991年のビンソンマシフに次いでエルブルス山に登頂し、女性で世界初の七大陸最高峰登頂者となった。同年文部省スポーツ功労賞を、1995に内閣総理大臣賞を受賞した。1999、旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、スノー・レオパードの称号を得た(日本女性初)。

20003九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程を修了した。研究テーマはエベレストのゴミ問題だった。年78回海外登山に出かけるかたわら、山岳環境保護団体・HAT-J(ハット・ジェー)の代表を務めた。

2006年から2016年まで 認定NPO法人 富士山測候所を活用する会 の理事を務める

2016723日、HAT-Jが主催する福島県の小学生を対象としたネイチャーカレッジにて福島県雄国山登山に参加、これが生涯最後の登頂となった。2016727日、東日本大震災被災者への支援活動として東北地方の高校生らとともに富士登山に参加し、これが生涯最後の登山となった。7合目で断念したため登頂には至らなかった[3]

20161020腹膜[7]で死去。77歳没[3]

2018年、第1回ネパール社会貢献者表彰を贈られる[8]

2019年、田部井にちなんで、国際天文学連合は冥王星の山に「Tabei Montes」と命名[9]

エベレストの女性初登頂

エベレスト登山の費用は当時、総額4300万円(自己負担150万円)。準備期間は実質4年。荷物を軽くするために乾燥食品を持参した。高所訓練中、隊長の久野英子が一時帰国、副隊長だった田部井に重圧がかかった。テントを飲み込んだ雪崩にあったにもかかわらず生還、下山をせずアタックすることを主張し計画は続行された。頂上アタックのため,第四キャンプには登頂予定の田部井と渡辺百合子が待機していたが、荷揚げを予定していたシェルパ六人が高山病のため荷揚げが出来ず、酸素ボンベの不足が決定的になった。隊長の久野英子はアタッカーとして田部井を指名し登頂に成功した[10]。企業からの献金を使わないという方針転換で行われたので予算が減少、当初2回アタックの予定が1回に変更になった。

エピソード

  • 登山で「もうダメだ」と思ったことが3回あり、いずれも雪崩に巻き込まれたときである。1度目はエベレストの第二キャンプ(6500m)でテントごと雪崩に埋められ、2度目は1986年にポベーダ山(トムール)の雪崩で600m流され、3度目は、その夜に再び近くを通過した雪崩の爆風に襲われ、テントごと吹き飛ばされた[11]。ポペーダ山では1999年に登ったときにも雪崩がテントを襲ったが、早朝に出発していたため助かった[11]
  • 1969年冬に登った谷川岳一ノ倉沢凹状岩壁は、エベレストよりもつらかったと回想している[12]
  • 旅行会社が企画する登山ツアーやテレビ・雑誌の登山企画の出演によって謝礼は得ているものの、自分が求める登山ではスポンサーなどによる資金を得ずに自身でお金を支払っていること、ガイド資格などを所持していないことから「登山家が自分の仕事かと言うと、そうではないと思う」とインタビューで答えている[13]。エベレスト後の登山では一切スポンサーをつけていない[14]

主な登山歴

アンナプルナIII峰(1970年) マッキンリー山登頂(1988年)

 

 

 

 

 

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