超訳 芭蕉百句  嵐山 光三郎  2026.2.10.

 2026.2.10.  超訳 芭蕉百句

 

著者 嵐山 光三郎 1942年、静岡県生まれ。『素人庖丁記』により講談社エッセイ賞受賞。『芭蕉の誘惑』によりJTB紀行文学大賞受賞。長年の薀蓄の末に到達した芭蕉像を描いた『悪党芭蕉』で、泉鏡花文学賞、読売文学賞をダブル受賞。他に『文人悪食』『追悼の達人』『「下り坂」繁盛記』『不良定年』『ごはん通』『「世間」心得帖』『年をとったら驚いた!』『枯れてたまるか !』『超訳 芭蕉百句』など著書多数

 

 

発行日            2022.9.10. 第1刷発行

発行所            筑摩書房 (ちくま新書)

 

 

『子規全集』で俳句への関心を高めている折、文藝春秋に嵐山の追悼記事があり、高い評価を受けたとある

 

26-02 悪党芭蕉』参照

 

 

カバー袖

いまや日本の誰もが知っていて、神格化すらされている俳聖松尾芭蕉。だが、その実像を我々は本当に知っているのだろうか。『悪党芭蕉』『芭蕉という修羅』などの一連の芭蕉評論で、これまでに知られてこなかった芭蕉の姿を描き出した著者が、代表句百句を選りすぐり、タブーとされてきた衆道の側面や隠密としての行動を明らかにしつつ、虚実が分かちがたく絡み合う芭蕉の俳句ならではの魅力を探る。著者一流の独特な視点と軽妙な文体による「超訳」によって松尾芭蕉の実像に迫る。

 

はじめに──「旅する者」も闘いである

この100句は、『奥の細道』の旅が、幕府の諜報を兼ねていたという前提で訳している

『ほそ道』のたびに随従していた曾良は伊勢長島藩の謹言(ママ)実直な武士で、芭蕉没後は九州壱岐・対馬の巡見使となる。巡見使は幕府が諸藩に巡検した監察官。曾良が記録した『旅日記』により『ほそ道』紀行の虚実がわかる

紀行文は虚実おり交ぜた創作で、句は言葉による記念写真

旅する者の力とは、風景に対峙する目玉であり、無常を嗅ぎ取る鼻であり、嵐の音を聴く耳である。句の現場で、それまで抱いていた思い込みが崩れ、それこそが自分の視線

超訳としたのは、全てを現場検証したため

 

第1章     伊賀の少年は江戸をめざす──春やこし年や行けん小晦日(宗房、むねふさ)

1 春やこし年や行けん小晦日

芭蕉最初の1句。寛文2(1662)19歳。俳号は宗房。『千宜理(ちぎり)記』に入集

前日が立春で、新春の気分を感じる暮の心情を詠む。『古今集』巻頭の「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とはいはむ」と、『伊勢物語』の「君や来し我や行きけむおもほえず夢かうつつかねてかさめてか」のイメージを重ねた貞門俳諧の技巧が見られる

2年後の習作は、        月ぞしるべこなたへ入(いら)せ旅の宿

どうぞこの宿にお泊り下さい、という挨拶句。「入らせ旅」は「いらせ給へ」「入らせ食べ」とかけ言葉。いくつもの謡曲が背景にある

貞門の滑稽を引き継ぎつつも、能の定番を頭に叩きこむことで力量を発揮

23歳の作        年は人にとらせていつも若夷(えびす)  『千宜理(ちぎり)記』に入集

「若夷」は恵比寿神社の紙札、買えば福が来るとされた。人は年を取るが、若夷はいつも若いという、ユーモアあふれる吟。古めかしい貞門に学びながら、当意即妙の句も作る

江戸に出て俳諧宗匠となるきっかけとなったのがこの年寛文6

 

2 七夕は夕辺の雨に逢ハぬかも        宗房 寛文5年『野は雪に』百韻

藤堂家若君良忠(蝉吟)に仕えたことで道が開ける

貞門の俳諧は、機知滑稽を狙った言語遊戯。密室に集まって、虚空からひとかけらの物語を紡ぐ秘儀。蝉吟は寛文5年貞徳13回忌追善の「野は雪に」百韻を興行。翌年蝉吟死去

23年後、「おくのほそ道」の旅の途上、「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を詠み、蝉吟と交した「七夕の夜」を思い出して追悼した

 

3 ()紅梅のつぼミやあかいこんぶくろ(此男子) ()兄分に梅をたのむや児桜(虵也)

芭蕉が創作した俳人。29歳で上野天満宮に奉納された『貝おほひ』入集

40年前のシャレ者の放蕩を歌った小唄を題材とした。「あかいこんぶくろ」は睾丸の隠語で衆道を暗示。右は、梅の花を兄と慕う児(ちご)

句合では、判者(主宰)2句を並べて勝敗を決め、原則は左勝。左が右より格上

『貝おほひ』は、芭蕉が撰者として出板した唯一の著作。他はすべて弟子の名で出板

遊里の隠語が多く、小唄や流行語をふんだんに使い、思い切りふざけた衒学的発句合

芭蕉の発句は、後の枯淡なる独白、風雅なる旅の句も、基本的には作り話が多い。芭蕉の頭の中には中国詩人や西行の吟ほか多くの雑多な古典の引用があって、風景などはさして見ていない。「おくのほそ道」にしても、観念としてある風景を現場に当てはめた。芭蕉は作意を嫌った。芭蕉の言う作意とは、作り手の仕掛けが見え透いてしまうことで、句が上達すると、技巧が先行して純粋の感動が消えてしまう。だが芭蕉が作意を嫌ったのは、自分が作意の人であったから。『貝おほひ』は素の芭蕉がむき出しで出て、ギラギラしている

藤堂家が金を出し、同家御用達の魚屋で町内の鯉屋杉風の後押しがあった

 

4 天びん(金偏に平)や京江戸かけて千代の春 桃青 『俳諧当世男』(1676)芭蕉33

俳号を変える。「まだ熟さない青い桃」の意で、「当世」にもかける

この年より水道工事を請け負って100余人の人夫を差配

天秤は貨幣の秤量に使った商人の必需品。京と江戸の春を秤にかけてみれば、共に同じくらいの重さで、平均が取れてめでたいという賞賛の句

江戸の旦那衆は、気取った貞門よりも、言葉がパチーンとはじける談林風を好んだ

もともと土木・水利の技術に優れた藤堂家が神田上水の改修工事を命じられ、芭蕉は水道工事のエキスパートとして29歳のころ江戸に派遣されたが、早くも江戸俳諧の風雲児に

 

5 此梅に牛も初音と鳴(なき)つべし 桃青 『江戸両吟集』(1676)

山口信章(素堂)と天満宮へ二百韻を奉納。信章は漢学と儒学で幕府に仕官、博識で脱俗の人、芭蕉と意気通じ、後に葛飾派を起こす

梅の盛りに、(石づくりの)臥牛までもホーホケキョと鳴くだろうという軽妙な吟

梅は談林風の西山宗因(梅翁)であり、宗因の新風にあやかろうという挨拶を込めている

芭蕉の発句に信章は「ましてや蛙人間の作」と脇をつけた。「人や蛙までもが句を詠む」の意

信章も水路・土木の専門化で、故郷の笛吹川の堤防工事を監督。芭蕉とは生涯の友に。追善歌仙にも出座。素堂作でが、「目には青葉山ほととぎす初鰹」が有名

 

6 猫の妻へついの崩(くづれ)より通ひけり 桃青 『江戸廣小路』

『伊勢物語』に業平がお忍びで通うとき、家の正門から入らず、仕切りの壁が崩れたところより忍び込んだ故事を歌う。和歌では「鹿の恋」は詠むが「猫の恋」はない。猫の恋は庶民的で気取りがなく、これぞ俳諧の妙味。桃青は絶好調。芭蕉が住む日本橋は魚問屋が並ぶ

 

7 あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁 桃青 『あら何ともなや』百韻(1677)

「あら何ともなや」は「何でもなく無事だった」という嘆息。「ふくと汁」はふぐ鍋で、食べた翌朝も何ともなかった、というお惚けの句。この句を発句に信章ら3人で百韻連句を巻く

 

8 かびたんもつくばゝせけり君が春 桃青 『江戸通り町』(1678)

「かびたん」は長崎出島のオランダ商館のこと。毎年3月江戸に来て幕府に拝謁する慣習

「つくばゝせけり」は、這いつくばって礼を言い、将軍の威光を讃える

 

9 実(げに)や月間口千金の通り町(ちょう) 桃青 『江戸通り町』(1678)

「間口千金」は日本橋通り町の土地の価格で、謡曲からの転用。千金の通り町に照る月のありがたさを賞賛。芭蕉の発句より、36吟の歌仙が巻かれる

 

10 阿蘭陀(オランダ)も花に来にけり馬に鞍 桃青 『江戸蛇之鮓』(1679)

江戸に拝謁に来たオランダ館長が馬に鞍を置き花見に来た時の吟

芭蕉は新しい風俗が好きで、特にオランダには人一倍興味を抱き、長崎への憧憬ともなる

 

第2章 深川へ隠棲した本当の理由──夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿ッ(桃青)
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 夜ル竊ニ虫は月下の栗を穿ッ 桃青 『東(あずま)日記』(1680)

『和漢朗詠集』から着想を得た漢文調の句

この年の暮、ひとり深川に隠棲。「点者(俳諧を評点する宗匠)生活をする宗匠の日々がいやになった」というのが表向きの理由だが、深川へ移るのは宗匠としての自殺行為。俳諧興行で執筆(しゅひつ、連衆の句を書き留め、式目に反していないかを点検する役)を務め、力をつけ、其角・嵐雪らの門弟と共に『桃青門弟独吟二十歌仙』(1680)を刊行。直後に家綱が没し、49日間の「鳴物停止(なりものちょうじ)」となり、大老酒井忠清が免職となり翌年謎の死を遂げるなか、芭蕉も静かに姿を消す。藤堂家を支えていた酒井の失脚で、武家の教養として推奨された俳諧でも藤堂家の後ろ楯で世に出た芭蕉の地位も危うくなる

綱吉の前将軍時代に権勢を誇った人々の粛清は徹底していて、身の危険を察した芭蕉は、いち早く姿をくらましたというのが深川隠棲の真相。隠れ家は杉風が用意。俳号も捨てた

 

12 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮 桃青 『東日記』(1680)

『曠野』(1689)には「かれ朶(えだ)に烏のとまりけり秋の暮」とあり、芭蕉の俳号

芭蕉が枯淡の境地に開眼した吟。中国水墨画の画題に「寒鴉枯木」があり、それを和風の「枯淡閑寂」へ移し直した技が見所で、翻訳漢詩の要素が出始めた

「秋の暮」は、夕暮れと晩秋の両義

 

13 櫓の声波ヲうつて傷(はらわた)氷ル夜やなみだ    (深川、1680)

前書きに「深川冬夜ノ感」とある。悲しくて淋しくて涙が止まらない

以後の紀行文は、この漢文和訳のスタイルが「地の文」として登場する。句と組み合わせることにより芭蕉絶唱スタイルが始まった

 

14 雪の朝獨リ干鮭(からさけ)を囓(かみ)得タリ 桃青 『東日記』(1680)

干鮭とは鮭のはらわたを干したもので、一番安い庶民の食べ物。『東日記』には『菜根譚』を引用して、「富家は肌肉を喰い 丈夫(男子たるもの)は菜根を喫す 予は乏し」との前書きがあり、貧乏自慢の句。芭蕉は中肉中背の小太りの人、体力はあった

このころ凶作飢饉の相次ぐ時代、深川に住む不自由と貧しい食生活を、隠者になることによって克服しようとしている

 

15 藻()にすだく白魚やとらば消(きえ)ぬべき 『東日記』(桑名)

「すだく」は群がること。春の海辺の藻に集まる白魚を手ですくうと消えてしまうだろうなあ、と和歌を詠む気分で詠嘆。取れそうで取れない、という儚い美意識は古来の日本人にあり、和歌の世界では普遍的テーマ。『万葉集』では葉の上に乗った白露が散見

『東日記』は関西の俳人池西言水(ごんすい)編集。言水の代表句は「凩(こがらし)の果てはありけり海の音」

 

16 芭蕉野分(のわき)して盥(たらひ)に雨を聞夜哉             『武蔵曲』(1681)

庵に植えた芭蕉が野分()の風に当たって音をたてている。庵の中は雨漏りを受ける盥に雨だれの音が響く。杜甫と蘇東坡の心境を重ね詠んだもので、貧相な深川の芭蕉庵は、芭蕉の想像力によって、中国文人の侘び住まいに化けた

芭蕉という俳号は、謡曲「芭蕉」に由来? 「維摩(ゆいま)経」では芭蕉は無常の象徴。西行の歌でも、芭蕉の葉は儚く破れやすいものの譬えだった

芭蕉が深川に居を移したのはこの前年で、「柴の戸に茶を木の葉掻()く嵐哉 ばせを」と詠み、前年から芭蕉という俳号を使っていた。あでやかな桃青の号からの変身

芭蕉の葉の風に裂け易い性質を表すために「風羅坊(ふうらぼう)」とも号した

 

17 氷苦く偃鼠(えんそ)が咽(のど)をうるほせり 芭蕉 『虚(みなし)栗』

「茅舎(ぼうしゃ、芭蕉庵)水を買う」との前書きがつく。深川は神田上水の水が届かず、飲料水を水船から買っていた。偃鼠はどぶねずみで、自らを譬えている。博識の芭蕉は、どぶねずみも『荘子(そうじ)』を下敷きにしている。俳人にとって『荘子』は必読の書。題材の多くが依拠。この句は其角編『虚栗』に出てくるが、他にも『荘子』の寓言を下敷きにしたものが散見される。自らを卑下しつつ、『荘子』の寓言を想起させている

 

18 雪の(ふぐ)左勝水無月の鯉 芭蕉 『虚栗』

『続深川集』(1682)に「杉風が採茶(さいだ)庵に涼(すずみ)て」と前書きがつく。杉風が自邸で句会を開いて出した鯉料理を褒めた即興の挨拶句。句合は2つの句を並べて、勝負を判定する、歌合の俳諧版。雪見時のふぐを対抗として仮想し、左の鯉料理を勝ちとした

 

19 あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉 芭蕉 『虚栗』

一番弟子の其角が夜遊びの句を詠んだのを、自分は早起きだと自慢し、からかいながら楽しんでいる。『虚栗』は実のない栗で、価値がないものの比喩。並べて其角が詠んだのが「草の戸に我は蓼食ふほたる哉」。昼は家でぶらぶら、夜になると出歩く毎日を自嘲した吟

 

20 世にふるもさらに宗祇のやどり哉 芭蕉 『虚栗』(深川)

「世にふる」は「経る」と「降る」で、過ぎゆく世を生きながらえていること。宗祇は室町の連歌師。過ぎゆく世に宗祇翁が宿っていると詠嘆。宗祇のやどりは宗祇の句を踏まえている

「古池や」もふる池には「時間がたった池」の意が隠されている。芭蕉庵が焼失してから3年が経った池がふる池で、世をふることによって、新しい命が生まれて来る

 

21 椹(くわのみ、桑の実)や花なき蝶(てふ)の世捨て酒 芭蕉 『虚栗』(深川)

晩春の桑畑で実に蝶がとまって果汁を吸っているのを見て、花が散った季節なので蝶は世捨て酒を飲んでいるのだろう。桑の実は醸造して桑酒となる。桑酒は桑門(そうもん、僧侶)を連想、桑門と書いて「よすてびと」と読ませ、桑酒は世捨て酒となる

桑の実が歌や句の素材になった例はない。芭蕉は新しい俳枕(和歌の歌枕に匹敵、俳句に詠みこまれる名所・旧跡)の地を探し、新しい素材を取り込もうとした

 

22 馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉 芭蕉翁 松琵編『水の友』(深川) (1683)

芭蕉庵が焼けて山梨に避難する時の句。馬で夏野を行く自分が絵になりそうだの意

江戸時代の俳句は濁音符をつけないのが通例

 

23 野ざらしを心に風のしむ身哉              『野ざらし紀行』

「野ざらし紀行」は、1684年夏から8カ月かけて江戸と伊賀上野を往復する旅。2年前八百屋お七の大火で焼け出されたあと、実母の死去で故郷へ墓参りに行くのが目的

野ざらしは「骸骨」のこと。江戸大家の折大川でどくろを見てこの句が出たもので、「白骨(野ざらし)となって死んでもいい」とまで思いつめた旅

帰路名古屋で歌仙を巻き『冬の日』が完成。それもあって芭蕉没後に弟子たちがこの旅の「句控え帳」(作品ノート)を『野ざらし紀行』として刊行

 

24 猿をきく人すて子にあきのかぜいかに      『野ざらし紀行』(富士川)

富士川で3歳の捨て子に会い、連れて行くわけにもいかず、食べ物を与えて立ち去った

「猿をきく人」は杜甫のこと。杜甫に「猿の声を聞いて泣く」という詩がある。個人は猿の声を聞いて無常を感じて来た。そういう人が泣く捨て子にどう対応するかという問いかけ

芭蕉は紀行文に作り話を入れる達人で、句の情景も門人ならすぐ「作り話」と気づく

 

25 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり   『野ざらし紀行』(小夜の中山)

小夜の中山は掛川の急坂で歌枕。西行はこの峠で「命なりけり」の歌を詠み、歌碑が建つ

「馬上吟」と前書きにあり、乗っていた馬が道端の木槿を食べたというだけの写生の句

「野ざらし紀行」の芭蕉は、観念の中を旅する人だが、古典の下敷きもなく、ただナマの風景が飛びこんできたのを柔らかく受け止めたところに芭蕉の進化があり、芭蕉開眼の一句とされる

 

26 馬に寝て残夢月遠しちやのけぶり          『野ざらし紀行』(小夜の中山)

「杜牧(とぼく)が早行(そうかう)の残夢、小夜の中山に至りて忽驚(たちまちおどろく)」と前書きがある。晩唐の詩人杜牧の詩「早行」を馬上で思う。「早行」は早朝馬に乗り馬に任せて数里行くが鶏はまだ鳴かない。芭蕉も馬上でうつらうつらし夢覚めやらぬうちに有明の月が遠くに上り、気づくと峠の茶屋で茶を煮る煙が立ち上る

 

27 明ぼのやしら魚しろきこと一寸(いっすん)          『野ざらし紀行』(桑名)

明け方に網に上げられた一寸の白魚の鮮やかさが目に浮かぶ

「一寸」は、杜甫の詩に「天然二寸の魚」とあるところからの着想で、桑名には「冬一寸春二寸」と魚の成長を示す言い方があった

芭蕉は「白げし」「白露」など「白」を使った吟が多く、「白し」という表現を多用

 

28 海くれて鴨の聲ほのかに白し  『野ざらし紀行』(熱田)

「海辺に日暮(くら)して」と前書きがあるが、舟中の吟。幽玄の句で、「声が白い」と言いたかった。このころ「白い」ものに目がいく。漢詩では春は青(青春)で秋は白い(白秋)

 

29 水とりや氷の僧の沓(くつ)の音   (奈良) (1685)

前書き「二月堂に籠りて」。「水取り」は東大寺二月堂の修二会。深夜連行する僧を氷の僧という。お堂の中では11,2人の僧が夜を徹して行をし、回廊には燃える大松明をかざした僧がバタンバタンと沓音を立てて走り、火の粉が火事みたいに舞う。「沓」は歯のない檜板の下駄。句碑には「こもりの僧」とあり、蝶夢(ちょうむ)という俳人が勝手に添削したもの

 

30 辛崎の松は花より朧にて             (大津) (1685)

大津から琵琶湖ごしに唐崎(西岸)の松を見て詠んだ句。切字(きれじ)がない発句、禁じ手として問題とされてきた。切字とは「や」「かな」「けり」「の」「たり」「ず」「らん」といった言葉

芭蕉は、自分が好き勝手に作っているのだからガタガタ言うなと自信を見せる

松に桜以上の幽玄さを見て取った芭蕉の目の付け所がいい

金沢兼六園の松は唐崎の松の苗を移した

 

31 菜畠に花見顔なる雀哉   『野ざらし紀行』

「吟行」の前書きのみ。芭蕉が敬愛する西行でも菜の花畑は詠まなかったし、雀など田舎臭い鳥も詠んだりはしない。そこへ目を付けたところに俳諧師としての芭蕉の面目がある

菜の花が畑一面に咲くようになったのは江戸時代に入ってからのことで、菜の花の盛りというのは江戸の新風景。「ナニナニ顔」というのは西行の応用

俳諧は庶民の美意識と生活を描写する文芸。この句も、王朝歌人が目を付けなかった、歌枕にもならない無名の地での1シーン

 

32 命二ツの中に活(いき)たるさくらかな   『野ざらし紀行』(水口)

前書き「水口にて20年を経て故人に逢ふ」。滋賀の水口で伊賀上野藩士服部土芳に会う。翌年土芳は藩を辞して俳諧一途の道に入る。お互い無事に生きて、旧友に会った嬉しさを桜に託す。「の」を入れたところに再会した感激と興奮が躍っている

 

33 山路来て何やらゆかしすみれ草(ぐさ)    『野ざらし紀行』(大津)

北村湖春(季吟の息子、幕府歌所)が、「山に咲くすみれは詠まぬ」と的外れな批判も、芭蕉は和歌にない景色を発見しようとする革新派。堂上歌学(公家の和歌)でも禁制ではない

 

34 狂句こがらしの身は竹斎(ちくさい)に似たる哉    『冬の日』(名古屋)(1684)

「野ざらし紀行」で名古屋で歌仙を巻いた時の発句。名古屋俳諧のリーダーは医者の荷兮。江戸より町衆文化は遥かに練れて成熟、ハレとケがはっきりしており、日常は地味だがいざとなると惜しみなく金を出す。その名古屋で芭蕉は勝負に出た

「竹斎」は藪医者で滑稽文学の主人公。名古屋で「天下一藪くすし」として頓智を使った治療をした後江戸に向った。芭蕉は自分を竹斎に見立て、名医荷兮に挨拶すると同時に決闘の申し入れ。『冬の日』(こがらしの巻)決戦は、俳諧の傑作として名を残す

芭蕉の心に熱い火をつけたのは杜国。芭蕉の奇才と称せられたが、この句会の直後に空米売買の罪で追放される

『冬の日』花仙を記録編集し、翌年には1冊の本に仕上げるところに名古屋俳人の実力があり、江戸蕉門にとってはかなりのショックだった

 

35 白げしにはねもぐ蝶(てふ)の形見哉       『野ざらし紀行』

前書き「杜国子に贈る」。なんとも痛ましい句で、芭蕉は取り乱している。『冬の日』でも杜国は飛び抜けてうまい。たちまち意気投合して恋仲となる。白げしが杜国、蝶が芭蕉

 

第2章     古池とは何か──古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)

36 古池や蛙飛こむ水の音   『蛙合』(1686)

深川芭蕉庵で蕉門社中の20番『蛙合』を興行。芭蕉の巻頭の句ほか40句を左右に分け、連衆の合議で優劣を決める。編集は蕉門の仙化だが、姓は不明

1             古池や蛙飛こむ水の音              芭蕉

                      いたいけに蝦(かはづ)つくはふ浮葉哉              仙化

最初の1番は勝敗を記さないが、左が勝ちと決まっている。仙化は這いつくばっている

2     ()  雨の蛙声高(こはだか)になるも哀也              素堂

                      泥亀と門をならぶる蛙哉              文鱗(裕福な商人)

3     ()  きろきろと我頬(つら)守る蝦哉              嵐蘭

                      人あしを聞(きき)しり顔の蛙哉              孤屋

5             蓑うりが去年(こぞ)より見たる蛙哉              李下

              ()  一畦(ひとあぜ) しばし鳴(なき)やむ蛙哉              去来

20   勝負なし うき時は蟇(ひき)の遠音(とほね)も雨夜(あまよ)          曾良

                         こゝかしこ蛙鳴く江の星の数              其角

以下、『悪党芭蕉』「2 「古池や・・・・」とはなにか」参照

寛政5(1793)の芭蕉100回忌に「桃青霊神」の神号を神祇伯白川家から下賜され、文化3(1806)には「古池や」の吟に因んで朝廷より「飛音明神」の号を賜る。天保14(1843)150回忌には二条家から「花の本大明神」が与えられ、芭蕉は偶像化され神となった

「古池や…」のキーワードは「古池」にある。ふるは「経る」「降る」で、時間がたつという意。大火があって芭蕉庵が焼失してから3年、様々なことが起こり、再生されていく池

蛙を題材に選んだのは蕉門の戦略。生類憐みの令発布の翌年であり、さして見栄えのしない小動物を句題とした『蛙合』は時流に沿ったもの。蕉門には藩士が多い

最初に英訳したのはラフカディオ・ハーン、 「Old Pond-frogs jumped in-sound of water 蛙は複数

サイデンステッカーは、「The quiet pond/ A frog leaps in/ The sound of the water」で蛙は単数

 

37 名月や池をめぐりて夜もすがら              『孤松』(深川の月見)

月を偏愛し、どこで月見をするか、が生涯のテーマ。月は信仰の対象でありつつ、魔物の気配で現れる。前書きは「舟に乗って廻った」。第2次芭蕉庵周辺の掘割を一晩中巡った

 

38 ものひとつ我がよはかろきひさご哉        『あつめ句』

素堂の勧進で第2次芭蕉庵が出来る。柱にかけた大きな瓢(ひさご)にかけて感謝して詠んだ句。貧乏な芭蕉のために弟子たちが食料を持ち寄ってこの瓢に入れた

 

39 水寒く寝入(ねいり)かねたるかもめかな  『深川八貧』(1688)

寒さで寝られなところに酒をもらってお返しの句。貧しさに喘ぐ一同を杜甫の詩「飲中八仙歌」に擬して「深川八貧」と称した

 

40 初雪や水仙の葉のたはむまで       『あつめ句巻』(深川)(1686)

芭蕉庵の四季の移ろいを詠んだのが『あつめ句巻』(34)

 

41 月はやし梢は雨を持(もち)ながら   桃青       『鹿島紀行』(鹿島)(1687)

心酔していた鹿島根本寺の仏頂和尚の招きに応じて、曾良と宗波を連れて常陸鹿島に月見の旅に出る。月面にかかる雲の動きが早くて、月が走っているように見える。旧俳号を使ったのは和尚が5年前に鹿島神宮に奪われた寺領奪還の訴訟に勝ったお祝いの印

綱吉の時代になり、家綱時代の裁決を再審査して悉く覆したが、芭蕉も仏頂の訴訟を支援

 

42 寺に寝てまこと顔なる月見哉   桃青    『鹿島紀行』

仏頂の根本時に泊まって詠んだ句。仏頂が訴訟中に住んだ深川の臨川寺は芭蕉庵のすぐ近く。芭蕉は月見が好きで、生涯に60句以上詠んでいる

 

43  (ねぐら)せよわらほす宿の友すゞめ        主人(自準)

       あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ)        (芭蕉)

前書き「帰路自準に宿す」。鹿島の帰りに旧友で主治医だった自準宅に立ち寄る

自準は芭蕉一行を友雀(ともすずめ)に譬え招き入れたのに対し、主人たるあなたのお心は、春に植えて丹精育てた杉の生垣の美しさで分かりますよと感謝している。くねは生垣、指杉は杉の枝を挿し木して作った生垣

 

44 旅人と我名(わがな)よばれん初しぐれ   『笈の小文』(1687)

『笈の小文』は、故郷伊賀上野への旅の紀行文。出発に先立つ餞別会で披露した『笈の小文』巻頭の1句。芭蕉にとって「旅人」になることは、和歌の西行や連歌の宗祇の系譜に繋がることを意味した

名古屋まで珍しく1人旅だったのは、流罪中の杜国に会うため

 

45 星崎の闇を見よやと啼(なく)千鳥           『笈の小文』(星崎)

星崎は星の名所。最悪の風光を絶景に見立ててしまう魔法に、鳴海連衆は舌を巻く。この句以降星崎は闇夜の名所となって俳人が訪れるようになる。芭蕉以前に闇夜の千鳥を詠んだ人はいないため、芭蕉の力量を示す句として評判になる

 

第3章     『笈の小文』は禁断の旅である──冬の日や馬上に氷る影法師(芭蕉)

46 冬の日や馬上に氷る影法師    『笈の小文』

星崎の句会の後伊良湖崎に逼塞している杜国に会いに行く道中で、杜国を幻視している

 

47 鷹一つ見付てうれしいらご崎   『笈の小文』(伊良湖)

鷹は杜国。3カ月先に2人で旅する密約をする。『笈の小文』の後半は、翌年杜国と吉野・明石・須磨・京都を巡る旅

伊良湖にはこの句碑のほか、藤村の詩「椰子の実」の舞台でその詩碑もあり、岬のすぐ向いは三島由紀夫の『潮騒』の舞台となった神島が見える

 

48 ふるさとや臍(へそ)の緒に泣年の暮        『笈の小文』(伊賀上野)

久し振りに帰省して臍の緒を見せられ、亡き父母を思い出して涙する

 

49 蓑虫の音を聞(きき)に来よ草の庵(いほ)             (伊賀上野)

伊賀上野にある土芳の庵で芭蕉が身を寄せ、達磨の絵を描き、賛としてこの句を書きつけたところから蓑虫庵と名付けた。現存

 

50 さまざまの事おもひ出す桜かな              『笈日記』(伊賀上野)(1688)

伊賀上野の蝉吟邸で嗣子主催の花見の宴に招かれ、その桜を見た芭蕉は万感胸に迫る

流罪者の杜国との旅だったため、『笈の小文』は本来世に出てはならぬ「禁断の旅日記」

 

51 よし野にて櫻見せうぞ檜()の木笠

禁断の旅が始まり、まずは吉野へ花見。門出のあたり笠の内側に落書きしたのがこの句

 

52 蛸壺やはかなき夢を夏の月          『笈の小文』(明石)

前書き「明石夜泊(やはく)」。蛸壺の蛸は芭蕉と杜国(万菊丸)の行く末を暗示

明石は人麻呂、光源氏、平家一門の思いをとどめた地などいろいろあってかえって詠みにくい。そこで蛸壺に目を付けたところに、俳諧の味がある。明石は秋の月が名物とされているが、夏の月に目を付けたところで、短夜の頼りない気分がある

 

53 おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな   『曠野(あらの)(長良川)(1688)

長良川での吟。杜国との旅を終えたあと、鵜飼いを見物。最初は「面白い」と興じていたが鵜舟が去ると何とも悲しい哀愁が漂う

 

54 あの中に蒔絵書たし宿の月          『更科紀行』(木曾谷)

『笈の小文』の後、弟子の越人を同道して岐阜から木曾街道に入り、更科経由姨捨山から名月を鑑賞、善光寺に参拝、浅間山麓経由で江戸に戻る。芭蕉は11句詠み、その最初の句

木曾谷で見た月があまりに大きいので、月の中に蒔絵を描きたくなったと嘆息

 

55 棧(かけはし)やいのちをからむつたかづら          『更科紀行』(木曾路)

川沿いの崖に丸太を乗せて藤づるで結んだだけのもの。岸の岩場から伸びた蔦葛が、生きようと必死になって絡みついている様子を詠んだ

木曽の棧: 木曽八景の一つ「棧の朝霞」で知られる棧(史跡)。古くから危ないもののたとえとして歌枕にもなった中山道の難所。かつては崖に沿って丸木と板を組んだだけの棧道が100mも続いていたが、江戸初期に焼失、その後石組に改築。現在は棧の上を旧国道が走り、石垣の一部だけが残されている

 

56 俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣(なく)月の友    『更科紀行』(姥捨山)

「田毎の月」を見ながら、芭蕉の頭にあったのは謡曲「姥捨」。姥捨山の伝説をもとにした句で、月を愛でつつ老婆の面影を偲ぶ

 

57 吹とばす石はあさまの野分哉       『更科紀行』(浅間山)

野分が浅間特有の軽石を吹き飛ばす。『更科紀行』最後の句

 

第4章     『ほそ道』紀行を決意する──蛙のからに身を入るる声(芭蕉)(1688)

日光東照宮改修工事に関する仙台藩の動向を調査する「おくのほそ道」の旅は、綿密に計画され、用心深く組み立てられていった

内藤露沾(ろせん)公から選別吟「月花を両の袂の色香哉」を賜った際につけた脇で、「から」は死体、『蛙合』でもぬけのからになった蛙のからに新しい自分を入れるという「新生」の決意を示すとともに、「蛙の姿に変装する」という比喩でもある

 

58 草の戸も住替る代()ぞひなの家          『おくのほそ道』(深川)(1689)

『おくのほそ道』最初の句。すべてを捨てて旅に出ようとして、住んでいた草庵を売る。娘のいる一家が住んで雛を飾っている。侘しかった庵が華やかに飾られ、その変わりように世の無常を思い知らされた。巻頭の「月日は百代の過客」という思いがこの句に反映されている。叙情的な詠嘆と見せかけて世の転変の相を示している

改稿を重ねた『おくのほそ道』には他の紀行にはない2つの特徴

   旅を歌仙形式に仕立てて、神祇(神々)・釈教(釈迦の教え)・恋・無常・羇旅・述懐という流れで構成する文学的挑戦。句文融合の旅行案内記、月と花を愛で、歌枕を訪ねて新しい俳枕を探そうという野心、西行・能因・宗祇といった先人への追慕、悲劇の武将義経と義仲への哀悼が込められている。芭蕉の吟には裏があり、風景を詠みつつ故人を追悼するという新古今的技法など、深く句を掘れば謎が解けて来る。深く思考して分かりやすく詠む。奇跡の紀行

   幕府隠密としての任務。仙台藩内に燻る幕府への謀叛の動きを追及したのは曾良で、名所旧跡を書き留めた「名勝備忘録」を用意し、『旅日記』『俳諧書留』を書き残す

 

59 行春(ゆくはる)や鳥啼(なき)魚の目は泪             『おくのほそ道』(千住)

『ほそ道』2番目の句。深川から舟、千住から歩く。過ぎゆく春と親しい友人との別れを鳥と魚に託している。魚屋の杉風が芭蕉を見送りながら泣いている

 

60 あらたうと青葉若葉の日の光                『おくのほそ道』(日光)

「日の光」は「日光山」の言い掛け。ひたすら日光威徳をうたいあげた『ほそ道』3番目の句

『ほそ道』の旅は、修験道山岳仏教と関わりが深く、日光も出羽三山もそうであり、自然をご神体とする修験道は、芭蕉が希求する旅に共通する

「室の八島」は下野総社で『延喜式』に出てくる「けむり」の歌枕として知られる

かつてこの地域に古来より歌枕(和歌に詠まれた名所)とされた「室の八島」があったと言われ、大神神社にはこれを再現したと言われる池の中に石橋や、朱塗の橋がかかる島が八つあり、それぞれの島に筑波神社、天満宮等8つの神社が鎮座している

「おくのほそ道」は「みちのく」であり、伊達藩仙台領を指す

東照宮参詣の翌日、含満(かんまん)ヶ淵へ行く。岩間を急流が走り、水流が鏡のように止まる深い淵があって青葉の間から一瞬光が射し込むと、水面に梵字が浮かぶ

 

61 暫時(しばらく)は滝に籠るや夏()の初(はじめ)            『おくのほそ道』(日光)

含満ヶ淵の先に「裏見の滝」がある。滝の裏に窪みがあり、そこから「夏の初」と詠む。「夏()の行(ぎょう)が始まる頃に着いて、自分も修験僧のように夏行しようとシャレた

日光から黒羽に向かい、さらに高久へ。高久村の庄屋の高久家は500年続く旧家。5代目の時芭蕉が2泊。そのときの句が、「落ちくるやたかくの宿のほとゝぎす」(高久の名の通り空高くからほとゝぎすの声が聞こえる)

松尾金作に始まって、芭蕉の俳号は多過ぎる。庵号は俳名が多いのは素顔を隠したいから

高久家に泊まったことは『ほそ道』には書かなかった

 

62 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす                『おくのほそ道』(那須野)

馬上の頭上を横ぎってほとゝぎすが鳴いたので、その声をもう一度聞くために馬を横に引き向けた。広い関東平野をゆっくりと馬で進む映画のようなシーン

 

63 田一枚植てたち去る柳かな                   『おくのほそ道』(芦野)

那須湯本から北西15㎞に柳街道があり、田の中の細道を入ると山懐に温泉神社があり、西行が和歌に詠んだ「遊行柳」がある。謡曲《遊行柳》は柳が化物となった説話。この句も早乙女が田植えを終えるまで見て立ち去ったとの定説では平凡。「柳の化物が田植えして立ち去る情景を芭蕉が幻視した」ということではないか

 

64 風流の初(はじめ)やおくの田植うた                   『おくのほそ道』(須賀川)

白河の関を越え、須賀川に等窮を訪ね、歌仙を巻く。等窮は昔江戸に出て芭蕉と親しくなり、今は須賀川の駅長で奥州俳壇の実力者

 

65 早苗とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)                 『おくのほそ道』(福島)

早乙女たちの早苗とる様子を見て、昔の人がしのぶ摺をした面影が思い出される

福島の東郊外、阿武隈川の岡部の渡しで対岸に渡ると忍ぶ(信夫)の里は、源融の「忍ぶもぢずり誰ゆゑに」で知られる。「しのぶ摺」は、シノブ草などの葉や茎を布に擦りつけて乱れた模様を染め出す「摺り衣(すりごろも)」の一種。「忍ぶ里」は芭蕉の故郷の伊賀上野に通じる

医王寺へ行き飯坂温泉に泊まる。医王寺では佐藤継信・忠信兄弟の墓前で涙する

 

第5章     「あやめふく日」仙台に入る──あやめ草足に結ん草鞋の緒(芭蕉)

66 あやめ草足に結(むすば)ん草鞋(わらぢ)の緒                  『おくのほそ道』(仙台)

本丸の仙台に入る日を、「邪気を払う男子の節句」に決めていた

政宗は「草」という忍者組織を作る。他領へ忍者を入れて情報収集することを「草を入れる」といい、仙台に侵入した敵の諜者を捕まえることを「草を探す」という

紹介状をもらった地元の知己に贈られたマムシ除けになる草鞋に、家々の軒に挿してあるあやめ草を結んで旅を続けようという晴れやかな気分に満ちている

 

67 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす             『おくのほそ道』(松島)

多賀城は奈良時代に蝦夷鎮圧のために置かれた国府跡で、朝廷の基地。芭蕉が感動した壺の碑(いしぶみ)は、格子窓の覆堂(さやどう)に包まれて南門跡に建っている。そのあと塩竈神社、松島へ行く。松島は、芭蕉が一番行きたかった地で、「句が浮かばず眠ろうとしたが眠れなかった」と告白。この句の外にも「島々に千々(ちぢ)にくだけて夏の海」と詠んでいるが、『ほそ道』は句文融合の歌仙形式をとり、松島では地の文だけで風景を立体化させようという気魄があった。探索した仙台の匂いを消して、見所を松島という名所一点に転換

大淀三千風(16391707)は伊勢出身の俳人で、幕府の隠密として伊達藩に侵入、松島や仙台で活躍し、西行ゆかりの大磯・鴫立庵を再興。芭蕉とも同時代に活動し、『松島眺望集』で「芭蕉の辻」を紹介するなど、仙台俳壇の指導的立場として芭蕉とも交流やゆかりがあった。

『猿蓑』には曾良の句として掲載。芭蕉が曾良にあげた句

 

68 夏草や兵どもがゆめの跡             『おくのほそ道』(平泉)

義経の居館があった高館(たかだち)の丘から詠んだ句

芭蕉は義経を殊の外敬愛。一関からの日帰りで、わずか2時間の滞在で無常を痛感

 

69 五月雨の降(ふり)のこしてや光堂          『おくのほそ道』(中尊寺)

平泉では、中尊寺の光堂(金色堂)と経堂(経蔵)へ参拝。全ての建物を腐らしてしまう五月雨なのに、ここばかりは降り残しているかのように燦然と光っている、今にも朽ち落ちそうな光堂を見た衝撃を詠む

 

70 蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと          『おくのほそ道』(堺田)

仙台藩最後の地である尻前(しとまえ)の関を番所の役人に怪しまれながらようやく越えて、堺田に泊まる。馬の産地で、大切な馬が母屋の中で飼われているため、夜中じゅう馬の排泄音がする。尿が重なるのは芭蕉のつくり話。泊まった旧有路(ありじ)家住宅は封人(ほうじん、国境を守る人)の家江戸初期の建築。芭蕉が泊まった宿で唯一そのままの形で残る

 

71 涼しさを我宿にしてねまる也                『おくのほそ道』(尾花沢)

涼味をわが宿のものとし、心地よく寛いでいるという、旧知の清風への挨拶吟

清風は紅花を売買する富商、談林派の俳人。大儲けして吉原を3日間貸し切り、三浦屋の高尾太夫との交情でも知られる。「ねまる」とはこの地方の方言で、「膝を崩して寛ぐ」の意

紅花は染料として加工。幕府の直轄地で安心して10日間滞在し、何句か詠む。別れの挨拶句が「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」。「眉掃」は白粉(おしろい)をつけた後で眉を払うのに用いる刷毛。紅の花から女性が化粧する色っぽい姿を連想

 

72 閑さや岩にしみ入蝉の聲                      『おくのほそ道』(立石(りっしゃく))

山寺山上の「奥の院」へ登っていくと、そこかしこで鳴く蝉の声が多孔質の軽石の孔に吸い込まれていく。近習役として仕えた蝉吟追悼のために引き返したもの

中国の漢詩には寺と石、岩と蝉の組み合わせがあり、芭蕉は中国天文台を幻視していた

 

73 五月雨をあつめて早し最上川                『おくのほそ道』(最上川)

大石田の船問屋で歌仙を巻いた時の発句。幕府の舟役所があり舟運で栄えた旧家が多く、俳諧の新風を乞おうとする富商が多くいた

 

74 涼しさやほの三()か月の羽黒山          『おくのほそ道』(羽黒山)

出羽三山の1つ。「ほの三か月」とは「ほの(かに)見える」と「三か月」をかけている

出羽三山詣りは旅のクライマックスの1つ。『ほそ道』の記述でも最も長い。出羽三山信仰は擬死体験。羽黒山は現在(いま」であり、死の入口。次に月山で死ぬ。湯殿山に登って新しい命を戴いて甦る(命の永遠化)。古代は「恋の山」で湯殿山神体の自然岩が女体の象徴

 

75 雲の峰幾つ崩(くづれ)て月の山             『おくのほそ道』(出羽三山)

夜の山道を歩くと、目前に雲の峰が現れては消え、突然崩れて、その奥の月光に照らされる月山が見えた、という「動く句」。「崩て」という語感が持つ艶っぽさを見つけた芭蕉は、出羽三山を歩く恍惚の中で生死の端境(はざかい)を幻視し、崩れる月光を掴んで句とした

出羽三山はいずれも歌枕ではないのに、1984mの月山に命がけで登ったのは、芭蕉の「未知への誘惑」から

 

76 暑き日を海にいれたり最上川                『おくのほそ道』(酒田)

鶴岡から川船で酒田に出、初めて日本海を見て、夕日が西の沖に落ちる様子を詠む

酒田36人衆という自治組織があり、「西の堺、東の酒田」と呼ばれるほど栄え、俳諧が盛ん

 

77 象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花                   『おくのほそ道』(象潟)

象潟は入江。芭蕉が旅したころは99島、88潟あったが、文化元年(1804)の大地震で隆起し、入江は陸地になった

雨に濡れて咲く合歓(ねむ)の花は、悲運の美女西施が物憂げに目を閉じている姿を思わせる。西施が「眠る」と「ねぶ」が掛け言葉。地の文に「松嶋は笑ふが如く、象潟は恨むが如し」

『ほそ道』の紀行は歌仙を巻く形式で構成され、歌仙の芯は月、花、恋。月は月山、花は象潟で「ねぶの花」、恋はこのあと出雲崎で「恋」を見る。それも荒海の佐渡の空で繰り広げられる恋である

 

第6章     幻視する内面の宇宙──荒海や佐渡によこたふ天河(芭蕉)

78 荒海や佐渡によこたふ天河                   『おくのほそ道』(出雲崎)

出雲崎の吟と同時に、旅中の俳文『銀河の序』にも出てくる

宝島と同時に、大罪朝敵で多くの罪人(順徳天皇、日蓮上人、日野資朝、文覚上人など)が配流。『旅日記』によると、この日は雨で佐渡は見えなかった。芭蕉が幻視した風景

これは、「恋の句」のスタート

出雲崎は良寛の生誕地

 

79 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月                『おくのほそ道』(市振いちぶり)

新潟かた来た伊勢参りの遊女2人が隣の部屋に泊まる

『ほそ道』の仕掛けの1つ。日光には月光(月山)、松島には象潟という陰陽の対比に加え、ここでは黒羽で会った「かさね(=撫子の花弁)」という少女に対し、市振では萩の花。萩の花を遊女に見立て、月光を世捨て人の自分に見立て、「萩と月」と詠う

 

80 わせの香()や分入右(わけいるみぎ)は有磯(ありそ)           『おくのほそ道』(有磯海)

高岡から広い早稲(わせ)田の平香がする岸に分け入り、倶利伽羅峠に上って右を見ると、雨晴海岸辺りの有磯海が見え、海峡越しに雪の立山が見える。雲に海の色が反射し、青い影となっている。倶利伽羅峠は、義仲が平家の大軍を破った古戦場。芭蕉は義仲が好きで、墓も故郷ではなく大津の義仲寺

「わせの香」で五穀豊穣を称え、有磯海をほめる最大級の賛辞。芭蕉は大国に入るときは、まず品位ある句を詠むのが心得だと語る。有磯海は「荒磯」と「洲浜(すはま)」を配した定番の画題で中国伝来の名景。この句の句碑は富山県に10基もある

 

81 塚も動け我泣(なく)聲は秋の風                         『おくのほそ道』(金沢)

金沢に寄ったのは、直前に亡くなった一笑の追善が目的。芭蕉を迎えて前田家の息がかかった俳諧師が集まって追善会が催され、連衆が大声をあげて泣いた

芭蕉は犀川上流から金沢城に通じる全長11kmの辰巳用水を見たかった。逆サイフォンの原理で兼六園から暗渠で金谷(かなや)御殿(現尾山神社)庭園の池に引いた水道技術は抜群

 

82 むざんやな甲の下のきりぎりす             『おくのほそ道』(小松)

小松の多太(ただ)神社にある斎藤別当実盛の兜の下で、蟋蟀(こおろぎ)が秋の哀れを誘うように鳴く。神社境内で見つけたきりぎりすを謡曲《実盛》の悲劇に重ねた

実盛は義仲と闘って討たれた老将。義仲は幼い頃上野国で実盛に命を救ってもらったことがあり、討ち取られた実盛の黒く染めた白髪を見て号泣。その故事が謡曲となる

『ほそ道』は謡曲の名場面を当てはめる幻視の旅。「殺生石」「遊行柳」「安積(あさか)山の黒塚」「堕涙の石碑」「平泉の栄耀一睡」「実盛の甲」など

 

83 石山の石より白し秋の風                      『おくのほそ道』(那谷寺)

那谷(なた)寺は、717年開基の真言宗の古刹、白山信仰の拠点。足利尊氏の城塞で、新田義貞に攻め込まれて堂宇は盡く焼失、多くの兵士が没したのを、加賀藩3代藩主前田利常が再興。重要文化財が立ち並び、参道奥には白い岩肌の奇岩遊仙境がある

自然描写の句だが、芭蕉は句の裏に死者への哀悼を重ねる。句には「し」がいくつも重なる

 

84 山中や菊はたおらぬ湯の匂                   『おくのほそ道』(山中)

山中温泉の共同浴場「菊の湯」は総湯

芭蕉が泊った宿の主人は14歳の美少年。乞われるままに桃青の一字を与えて「桃妖」と名付ける。芭蕉は湯の効能を絶賛し、菊を折らなくてお湯に浸かるだけで延命長寿の効能があると言った。謡曲《菊慈童》の故事に因んで、桃妖に万菊丸(杜国)のイメージを重ね、「菊は手折らぬ」とは「手を付けません」との意で、「菊」は衆道を暗示する。無色透明で匂いのない山中温泉で「湯の匂」とは、前句の余情や気配を匂いで受け継ぐ「匂付」という連句の技法で、「湯の色気」といったところ。桃妖は長命で山中蕉門の重鎮となる

 

85 浪の間や小貝にまじる萩の塵                『おくのほそ道』(色ヶ浜)

色ヶ浜は海水が澄んだ鄙びた漁村で、増穂(「赤い色をした」の意の古語)の小貝が砂浜で拾える。芭蕉は小貝を拾おうと舟を走らせ、夕暮れの寂しさに心打たれ、『源氏』の須磨の浜辺のような秋の浜の情趣を感じ、「寂しさや須磨にかちたる濱の秋」とこの句2句を得た

 

86 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ                   『おくのほそ道』(大垣)

『ほそ道』結びの句。旅の最初を「行春や」だから終わりは「行秋ぞ」と対応。全行程2400km150日間の旅。伊勢名産の蛤を、二見ヶ浦の枕詞として使い、蛤が貝と殻と2つに分かれるところから「別れ」につなげている。ふたみは「二見」と「ふた身」であり、さらに蛤の貝とかけている仕掛けの多い句

大垣では多くの俳人が集まり、山中温泉から別れて先行していた曾良も伊勢から駆け付け歌仙を巻く。連日親しい人が日夜やってきて蘇生のものにあうがごとく…

「命がけの隠密旅行」を「風雅な旅」に転化するために、『おくのほそ道』を書く準備に入る

大垣から長島温泉で旅の疲れを癒し、伊勢神宮を参拝してから故郷の伊賀上野に帰省

 

 

第7章     こころざしは高くやさしい言葉で──初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(芭蕉)

87 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也                 『猿蓑』(一・冬)

伊勢から伊賀上野に向かう途中、雨の中で猿に出会った時の句

晩年の芭蕉の自信作で、俳諧集『猿蓑』の巻頭(元禄4年刊)1

『ほそ道』の後芭蕉は、「軽み」へと一歩を踏み出す。志は高く持ちながら、やさしい言葉で伝えようとする意志。芭蕉の掲載句40句の中からあげると

           こがらしや頬腫(ほゝばれ)痛む人の顔

                     お多福風邪で腫れた両頬をかばいながら道を急ぐ人の顔が痛々しい

           から鮭(ざけ)も空也(くうや)の痩(やせ)も寒の内 

「から鮭」は干した鮭、「空也」は在俗僧

           人に家をかはせて我は年忘

                     滞在先の乙州(おとくに)の新築した家に一緒に住んで年を送る

 

88 病鳫(びょうがん)の夜さむに落て旅ね哉             『猿蓑』(三・秋)(堅田)

琵琶湖西岸の堅田は景勝の地。弟子の招きで訪れた際風邪をひいて床につきながらも頭上を鳴き渡る雁に思いを寄せて詠んだ句。近江百景の「堅田の落雁」を踏まえているが、落雁の音は幻聴。芭蕉の自信作で、弟子たちの間でもたちまち評判に

 

89 うぐひすの笠おとしたる椿哉                 『猿蓑』(四・春)(伊賀上野)

故郷に帰って歌仙の発句を詠む。地面に落ちている椿の花萼(かがく)を見て、「鶯が頭につけていた笠だ」と連想。軽やかにスタートして、座を和ませた。和歌の世界では梅の花を鶯の笠とし、「梅の花笠」といったが、その定法を破って椿を持ってきたのが俳諧の技法

 

90 行春を近江の人とおしみける                 『猿蓑』(四・春)(近江)

元禄3(1690)の正月を伊賀上野で過ごし、京都や大津一帯を回っていた

近江は晩年の芭蕉にとってしごく居心地の良い地で、この句も大津・義仲寺境内の無名庵で得た。琵琶湖のほとりに舟を浮かべて湖畔の暮春を惜しむ

近江蕉門の古老がケチをつけ、「近江」は「丹波」に「行く春」は「行く歳」にもなるので句が不安定としたが、見当違い。「近江の春」は古歌に詠まれた名勝で「都の春」と対応

 

91 先(まづ)たのむ椎の木も有夏木立                      『幻住庵記』

庵の前に立つ椎の木に「ひとまず木陰を作ってくれよ」と呼びかけた。「軽み」の新境地

幻住庵は、膳所藩の勇士曲水が芭蕉のために提供した古びた住まい

俳文『幻住庵記』の最後に「頓(やが)て死ぬけしきは見えず蝉の聲」とともに並ぶ句

 

92 うき我をさびしがらせよかんこ鳥                      『猿蓑』(二・夏)

郭公よ、物憂い私を、寂しい鳴き声でもっと淋しくしておくれ。落柿舎で書いた軽口半分の冗談。落柿舎主人は去来、芭蕉43歳の時の弟子。『猿蓑』の編集もここで始まる

芭蕉はここで『嵯峨日記』を書き、この1句を詠んで『猿蓑』に掲載。「禁断の旅」をした杜国の死を知らされ涙する。「うき我をさびしがらせよ」は芭蕉がしばしば使うフレーズ

 

93 鶯や餅に糞する縁の先                          杉風宛書簡

元禄5(1692)の句。「これぞ日々の工夫から出来た句」と自慢。和歌にはない糞を詠みながら、のどかで優雅な趣がある。鶯の糞は化粧品の原料でもあったから、糞でも別格

芭蕉も「公糞(くにくそ)」「土糞(つちくそ)」などの俳号を使う

 

94 年々や猿に着せたる猿の面                    『薦獅子集』

元禄4年の芭蕉歳旦吟。正月の猿回しが、猿に猿の面をつけて踊らせる。人間がやることも同じだと自戒。許六も去来も仕損じの句としたが、それは「軽み」が強過ぎるからで、芭蕉が『ほそ道』で見つけた「不易流行」が弟子たちにはうまく伝わらなかった

 

95 菊の香や奈良には古き仏達                    『笈日記』

元禄7(1694)奈良での重陽の節句の吟。「菊の香」と「古き仏」の風味が一つに合体して響きあい、古都の情景が心に沁み込んでくる。前日伊賀上野を出て次の日には大坂に着くが、1日に菊を4句も詠んでいる。一連の吟はうっすらと「死」を予感している

 

96 此道や行(ゆく)人しに秋の暮                 曲翠()宛書簡

元禄7年大坂から曲翠宛に書簡を出し、弟子たちの勢力争いに対する愚痴を言った後にこの句を示す。大坂の茶店での吟で、「所思(しょし)(思うところ)と前書きされている

行く人のない道に、秋が暮れていく。衰弱した芭蕉の孤独感がひしひしと感じられる

 

97 升買て分別(ふんべつ)かはる月見かな

弟子の争いをおさめる発句。大坂住吉神社「宝の市」に行ってこの句を得た。新米を供える祭儀があり、境内で升を売り、その升を使うと富を得るという

体調をこわしていた芭蕉は、境内の月見の会に参加するつもりでいたが、「升を買うと世帯じみて分別くさくなり帰ってしまった」という弁明の句。芭蕉も座を仕切れなくなった

 

98 秋の夜を打崩(うちくづ)したる咄(はなし)かな               『笈日記』(大坂)

大坂の喧嘩は、句はさしてうまくないが大坂を仕切るボスで薬種屋の之道(しどう)と進出してきた新風で生意気な洒堂(しゃどう、珍碩)との勢力争い

この句は、別の半歌仙の発句。静かな句会が、話の興がのってひとしきり笑い声が起こるのが「秋の夜を打崩した」という

 

99 秋深き隣は何をする人ぞ                       『笈日記』

芭蕉が没する15日前の吟、熱にうなされ胃病に苦しむ中で詠まれた。実質的な辞世の句

招かれていた句会の発句として作ったが、病気のため出席できなかった

之道邸で一人寝ている。隣家のひっそりとしている様子が気になった。「軽み」が漂いつつも、薄く研ぎ澄ました洞察があり、隣家の閑寂を探っている。隣がひっそりとしている、という問いかけで、この後の句が続くように配慮している。「隣」とは死後の世界でもある

この句を送った後即興句会が開かれ、秋の名残を惜しみつつ七種(ななくさ)の恋を発句とした。題詠を出されて芭蕉がすぐ詠んだのが、「月澄(すむ)や狐こはがる児(ちご)の供」と衆道の句。すぐ詠むところが力業

 

100 旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)                   『病中吟』(大坂)

芭蕉の病気平癒祈願の句(弟子10人の10)を住吉大明神に奉納

最後に辿り着いたのは、虚飾もなく技巧もなく、ただ、「夢は枯野をかけ廻る」というまっすぐな独白

 

あとがき──「軽み」俳句をめざして

旧来の歌学の伝統を打ち破ろうとして「ついに西行を超えることはできなかった」という思いがある。「甘味を抜け」といった。濃い味を捨てて、あっさりと軽い味にしろという。芭蕉の言う「軽み」は「理屈」をこねず、古典に頼らず、肩の力を抜いて句作する域に達した

「不易流行」は蕉門にはさして広がらず。人は悟るために句を吟じるのではない

芭蕉は求道的になるほど破綻し始める。芭蕉が欲しかったのは、放蕩児と言われた其角の無頼さだった。「軽み」も今ひとつ伝わらず、芭蕉没後、蕉門は激し分裂

「軽み」は現代俳句の主流で、「思ったまま」をそのまま詠む自在さが身上

 

 

 

 

 

 

筑摩書房 ホームページ

百の代表句を選りすぐり、著者一流の独特な視点と軽妙な文体による「超訳」で芭蕉の知られざる実像に迫り、虚実が分かちがたく絡み合う芭蕉の俳句の魅力を探る。

 

 

読売新聞オンライン

『超訳 芭蕉百句』嵐山光三郎著(ちくま新書) 1034円

2022/12/09 05:20

評・宮部みゆき(作家)

 テレビ番組がきっかけとなった広範な俳句人気は、一過性のブームに終わらず、すっかり定着した感がある。句作を通して初めて季語に親しみ、この国の言語表現の多様性を知ることもあれば、季語にこだわらない自由俳句で、今を生きる日々の実感をアクロバティックに表現する喜びを味わうこともある。

 さらに、俳句には名句の鑑賞という大きな学びの楽しみもあるのだが、歴史上の著名な俳人だけでも何人もいるし、名高い句集も評伝も評論集もいっぱいあって、いったいどの入口から入ったらいいの? と迷っている方に、本書をお勧めしたい。俳聖・松尾芭蕉について永年情熱的に研究評論を続けてきた嵐山光三郎さんが、敬愛する「芭蕉さん」の百の名句をよりすぐり、その一つ一つが生まれた場所を探訪し、つまり現場検証してから解読と鑑賞をほどこすという贅沢な本なのだ。「古典文学は足で読む」。タイトルの「超訳」の意味もそこにあり、一昔前のあらすじ翻訳ミステリーとは違います。ただ、本書にミステリー的な趣向があることは確かで、それは読んでのお楽しみ。

 

読書委員プロフィル

宮部みゆき( みやべ・みゆき 

 1960年生まれ。作家。87年に「我らが隣人の犯罪」でデビュー。99年に『理由』で直木賞。2007年に『名もなき毒』で吉川英治文学賞。22年に菊池寛賞を受賞。

 

 

 

 

文藝春秋 20262月号 「蓋棺録」

嵐山光三郎

 作家で評論家の嵐山光三郎(あらしやまこうざぶろう、本名・祐乗坊英昭〔ゆうじょうぼうひであき〕)は広い人脈を持つ異色の編集者として活躍し、評論や小説を書いてファンを楽しませた。

 2006(平成18)年に刊行した『悪党芭蕉』は、それまでの芭蕉探求の集大成といえた。以前にも「俳聖」とされる芭蕉の実像を求め、江戸での水道工事人としての力量、衆道への傾斜などを指摘していた。本書では「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を失敗作と論じ、その晩年を克明に解き明かした。泉鏡花文学賞と読売文学賞を受賞。

 1942(昭和17)年、静岡県にある母の実家で生まれる。その後、朝日新聞社員だった父が借りた国立町(現・国立市)の社宅で少年時代を送る。桐朋中学・高校を経て國學院大學文学部に入学。英語の篠田一士や仏語の安東次男の授業に集中的に出席した。この頃に唐十郎との付き合いが始まっている。

 卒業後は3つ受けた出版社のうち唯一合格した平凡社に入社する。当時、同社は百科事典で急成長していて、社員には奇行の知識人が多かった。後に民俗学者となる谷川健一は大酒飲みで、嵐山を酒に誘ってくれたが、急に怒り始めて激しい口論となった。

 嵐山は入社直後大人しくしていたが、この喧嘩をきっかけに「会社は戦いの場」と思い始め、雑誌『太陽』編集部では次々と企画を提案する。最初は馬鹿にされたが、やがて同誌別冊を任され、36歳で編集長となる。ところが平凡社は経営危機に陥り、3年後、下中邦彦社長の慰留を断わって退社した。

 その後、平凡社での先輩と、退社した若者を集めて青人社を立ち上げる。当初は平凡社時代のヒット企画「年賀状図案集」で凌ぐが、82年に若者雑誌『DoLive ドリブ』を創刊し企画力と人脈で成功させた。同時に執筆を本格化、テレビでもタモリ司会の『今夜は最高!』に出演、同年から『笑っていいとも!増刊号』のレギュラーとなる。

87年に刊行した「素人包丁記」は固くなった孟宗竹を食べるなど、悪食の実践で話題になり、講談社のエッセイ賞を受賞、多くの分野で本を書いたが、文人でありながらも俗事にも強い、西行、兼好、芭蕉などに、強い憧れとシンパシーを持っていた

特に芭蕉については00年に「芭蕉の誘惑」(後に「芭蕉紀行」)を刊行。芭蕉の紀行文全行程を踏破して、俳句に隠された秘密を明かしJTB紀行文学大賞を受賞。高い評価を受けた「悪党芭蕉」に加えて「芭蕉という修羅」や「超訳 芭蕉百句」も刊行。晩年まで論じ語って活躍し続ける(2025.11.14.没、肺炎、83)

 

 

 

 

北口雅章弁護士事務所―弁護士のブログ

2022.12.24.

このほど、嵐山光三郎著「超訳 芭蕉百句」(ちくま新書。以下「嵐山訳」という。)を読んで、大層面白かったので、読書ノートを兼ねて、私のブログ読者にも紹介し、お薦めしておきたい。
私は、元来、詩と俳句の評価については、その主観性・あいまい性ゆえに消極的だったが、芭蕉の俳句に係る「嵐山訳」は、非常に分かり易く、「百句すべてを現場検証した」上での、説得的な解釈論を展開されているがゆえに、俳句に対する評価が俄然変わった。

嵐山訳が分かり易いのは、日本語として分かり易いことは勿論であるが、著者は意識しているかどうかはともかく(多分、無意識に自覚していると思う。)、「分析(analysis)」と「解釈(interpretatio)」とを明解に区別されているからだと思う。言葉の意味を解きほぐして分析的に理解するのは「分析」であって「解釈」ではない。「文学作品におけるinterpretatioとは、その作品の言葉をまず『分析』して文法的辞書的意味を理解したうえで、その意味が『何を指示し、または教えているか』を『翻訳』することである」(今道友信「ダンテ『神曲』講義」)。 嵐山訳は、芭蕉の句の文法的辞書的意味を読者にわかりやすく説明した上で、作品の背景、具体的には、「古典文学の下敷」(謡曲、漢詩、西行・宗祇等)、「作品現場の状況」、そして、芭蕉の性的な嗜好等を的確に教示してくれるからだ。

例えば、

初しぐれ 猿も小蓑(こみの)をほしげ也(なり)
     『猿蓑』(一・冬)

「『おくのほそ道』の旅を終えた四十六歳の芭蕉は、大垣に二週間あまり逗留(とうりゅう)した後」、「伊勢から伊賀上野へむかう山中で、雨が降り出した。時雨にぬれながら歩いていくと一匹の猿に出会った。冬が近づいて肌寒い山中で、猿が木の上で小さくなってふるえている。芭蕉は蓑をつけているが、猿はなにもつけていなかった。雨にぬれそぼる猿を見て、『おまえも蓑がほしいんだろう』と思いやった句である。」

ここまでは、句の「分析(analysis」である。

これに対し、「わびしげな猿の姿は、そのまま、芭蕉じしんの姿でもあり、猿に語りかける『軽み』がある」、「山中での寂しさが、猿のあわれさを強調している。さらに、『ほしげ也』という観察に、猿とじゃれあう感情移入がこめられている。」

というのは、「解釈(interpretatio」であろう。

また、

鷹一つ見付(みつけ)てうれしいいらご(伊良湖)
『笈の小文』伊良湖

この句の意味について、「伊良湖(愛知県・渥美半島先端)へきて、鷹が飛んでいるのを見つけて、(そこに杜国の姿を思いうかべて)嬉しい」というのは、「分析(analysis」であるが、「そこに杜国の姿を思いうかべて」、「鷹とは杜国のことである。」というのは、「解釈(interpretatio」である。勿論、そのような解釈が『客観的に』成立するには、杜国が『空米売買の罪で家屋敷をとりあげられ、(江戸を)追放となり、三河国渥美(あつみ)郡畠村(はたけむら)(現在の渥美町)へ閉居した』との史実、「白げしに羽もく蝶の形見哉」という尋常でない句との関係性、「万菊丸とは、なんとも稚児まる出しの名で、菊花は修道(しゅうどう)を暗示する」等等の緻密な「分析(analysis」が前提である。

嵐山訳が説得的であるのは、「現場検証」をされている上、「タブー」(「芭蕉の生涯にわたる衆道好み(男色)」)をタブー視していないことにある。嵐山訳の解釈(interpretatio)のとおり、芭蕉が、(主君)藤堂良忠(俳号・蝉吟[せんぎん])、前掲「杜国」、あるいは、「おおくの細道」を同道した「曾良(そら)」とも、同性愛の関係にあったであろうことは、ほぼ間違いないと思われる。その理由については、本書を読んでいただければ、皆さん、納得されると思う。芭蕉は、杜国(万菊丸)について、「いらご崎にて契(ちぎ)り置(おき)し人」と言っている(137頁、145頁)。

芭蕉の如上の背景事情を理解すると、
カノ名句「閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)(せみ)の聲(こえ)」も、「教科書では教えない」別の意味合いを持つことが分かる。嵐山訳によれば、「芭蕉は蝉の声のなかに、もうひとりの声を聞いている。それは主君藤堂良忠である。良忠は蝉吟[せんぎん]と号し、芭蕉は近習として仕えていた。二歳上の蝉吟は、芭蕉に句を教えてくれた恩人である。初恋の人である。」

芭蕉の句は難解な句が少なくない。不明確な「分析(analysis)」と、主観的・恣意的な「解釈(interpretatio)」では、腑(ふ)に落ちない。このような読者の精神状態について、嵐山さんは、「この句はどうも意味がわかりにくく、胸にストンと落ちてこない」、「奥歯に疑問がはさまったままの消化不良の訳になった」と先人の「分析(analysis)」や「解釈(interpretatio)」を批判された上で、「こういうときは現場検証をすればたちどころに句の本意がとけてくる。」と説かれる。このような前置きをして、解説されているのが、次の一句。

田一枚(まい)(うへ)てたち去(さ)る柳かな

 『おくのほそ道』芦野

嵐山訳を読むと、なるほどぉ!!と思う。
この句に係る嵐山訳こそ、本書の面目躍如、といったところですね。

 

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