豊臣兄弟  磯田道史  2026.1.23.

 2026.1.23. 豊臣兄弟 天下を獲った処世術

 

著者 磯田道史 1970年岡山県生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。国際日本文化研究センター教授。著書に『徳川家康弱者の戦略』『感染症の日本史』(ともに文春新書)、『無私の日本人』(文春文庫)、『日本史を暴く』(中公新書)、『武士の家計簿』(新潮新書)、『近世大名家臣団の社会構造』(文春学藝ライブラリー)など多数

 

発行日           2025.12.18. 発行

発行所           文藝春秋 (文春新書)

 

2026NHK大河ドラマ《豊臣兄弟》関連の特集

原作はなく、脚本家の八津弘幸(やつひろゆき)氏によるオリジナル脚本

 

 

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豊臣兄弟 天下を獲った処世術

大河ドラマより面白い!! 令和の太閤記

「豊臣ブラザーズ」の人生は学びが多い。(中略)
豊臣ブラザーズは永続して貴族になったファミリーの生まれではありませんでした。であるにもかかわらず、彼らは巧みに天下を獲りました。この国にあって、どのような生き方をすれば、いかなる性格を持ってすれば、このような出世の階段を駆け上がることが可能なのか。歴史家としては、この謎を解き明かして、世間の目にさらしたい衝動に駆られます。(本書「はじめに 歴史から得られるヒント」より)

 

5分で聴く文春新書】磯田道史著『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』

2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』。豊臣秀吉と弟の秀長の兄弟は裸一貫の状態から、なぜ天下を獲ることができたのか。磯田道史さんは『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』で、史料と最新学説をもとに豊臣兄弟の実像に迫りました。今回は、担当編集者の二人が、本書の読みどころ、面白さについて語ります。
(話し手:前島篤史・文春新書編集長、東郷雄多・文春新書編集部)

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【+BOOK TALK】「豊臣兄弟」の謎に磯田道史と木下昌輝が迫る秀長は実は秀吉よりも優秀だった? 謎に包まれた包丁人「大角与左衛門」とは?

今回は2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送に合わせて、歴史学者の磯田道史さん、歴史小説家の木下昌輝さんのお二人によるスペシャル対談をお送りします。 昨年末には磯田さんは『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』、木下さんは『豊臣家の包丁人』いう、ともに豊臣兄弟にまつわるご新刊を刊行。秀吉の弟であり、今回の大河ドラマの主人公となる秀長をクローズアップしています。兄の陰に隠れがちだった秀長の「意外な才能」、そして、この兄弟に仕えた包丁人「大角与左衛門(おおすみ・よざえもん)」の正体とは――。史伝と創作について掘り下げながら語り合うお二人のやりとり、ぜひご覧ください。(聞き手:村井弦「文藝春秋PLUS」編集長)こちらの番組の動画は「文藝春秋PLUS」公式チャンネルでご覧いただけます。

本の話おすすめ記事

歴史から得られるヒント――ゼロから天下統一を成し遂げた豊臣兄弟の秘密に迫る

2026.01.02ためし読み  著者 磯田 道史

 

 

 

(ひもとく)秀吉と秀長 時代のありよう、映し出す「鏡」 佐藤雄基

2026124日 朝日新聞

 今年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は、豊臣秀吉の弟秀長である。私にとって豊臣兄弟のイメージは、1996年の大河ドラマ「秀吉」が今なお強烈だ。竹中直人が「心配御無用!」の決め台詞(ぜりふ)とともにエネルギッシュに演じた秀吉。その傍らで実直な補佐役を務めた、高嶋政伸演じる秀長。私はこのコンビの名演に魅了された。

 「貧しい農民の子として生まれ、己の才覚一つで天下人にまで上りつめる」という秀吉の立身出世物語は、日本人に最も広く流布した歴史像の一つといえるだろう。だが実は、秀吉の生い立ちは今なお多くの謎に包まれている。

 天下人の出自は

 この謎めいた秀吉の出自について、社会史の観点から大胆な議論を提起したのが服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社・3080円)であった。秀吉は子どもの頃に乞食(こじき)や針売りの行商をするなど、その生い立ちは中世の非農業民・被差別民の世界と隣り合わせだったと主張し、大きな話題を呼んだ。秀吉は被差別民の世界との繋(つな)がりを背景に頭角を現したと論じた。ところが、天下人となった秀吉は、かつての出自を塗り替えるかのように被差別民を弾圧していく。

 一方で、近年の戦国史研究は、当時の政治社会の具体像をより緻密(ちみつ)に描き直し続けてきた。黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』(角川選書・2024円)は、今回の大河ドラマで時代考証を務める著者による最先端の成果である。黒田氏は秀吉の家族関連の史料を網羅的に検討し、秀吉は父の死で一時的に貧困化したが、本来は上層百姓の出身であったと推定する。

 補佐だけでなく

 実は秀吉以上によく分からないのが秀長である。河内将芳(かわうちまさよし)『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥〈えびすこうしょう〉出版・2200円)は歴史に詳しくない人でも読みやすく、大河の入門書に最適である。とともに、兄弟の母大政所(おおまんどころ)の存在に光をあて、単なる補佐役にとどまらず、天下人秀吉の後継候補となった新たな秀長像を示す。

 黒田氏が兄弟の出自とする上層百姓は、村を飛び出して大名の家来となり、社会を流動化させ、戦国の動乱の原動力となった階層である。これに対して、藤木久志氏が名著『刀狩り 武器を封印した民衆』(岩波新書・1166円)で説いたように、豊臣政権は刀狩令によって身分規制を図り、平和を実現した。中世から近世への転換を、非農業民・被差別民の世界から照らし出すのか、村の百姓に見出(みいだ)すのか。秀吉の出自論争は、中近世移行期をめぐる歴史像にもつながっている。だが、いずれにせよ、天下人として自らの出自を否定しなければならなかった秀吉の抱えた矛盾に、私は思いを馳(は)せざるを得ないのである。

 秀吉の前半生の謎は、後世の想像力を激しく喚起してきた。堀新・井上泰至編『秀吉の虚像と実像』(笠間書院・3080円)は、よく知られる秀吉関連のトピックをめぐって、歴史学者が実像編、文学研究者が虚像編を担当するユニークな構成をとる。歴史研究者は実像に力点を置きがちだが、虚像自体も後世の人々が生み出した歴史の産物である。私たちが馴染(なじ)んできた物語がその虚像の歴史のどこに位置するのか、本書から見取り図を得られるだろう。

 結局のところ、実像が「よく分からない」からこそ、人々は秀吉という存在にさまざまな願いを読み込んできた。それゆえに秀吉像は、その時々の研究状況や社会情勢を反映しやすい。いわば秀吉像とは、それぞれの時代のありようを映し出す「鏡」である。秀吉の弟秀長に焦点を当てた今回の大河が、令和の現代にどのような秀吉像を描くのか。歴史の深淵(しんえん)と人々の想像力が織りなす新たな物語を、私は楽しみに待ちたい。

 さとう・ゆうき 立教大学教授(日本中世史) 81年生まれ。著書に『御成敗式目』など。

 

 

 

文藝春秋 202510月号~20262月号

 磯田 道史 (みちふみ)歴史学者

短期集中連載 秀吉と秀長 第1回 豊臣兄弟の謎

~ 天下人と最良の補佐役はどこで生まれ、どのように育ったのか?

 2026年のNHK大河ドラマのタイトルは『豊臣兄弟!』。主人公は豊臣秀吉の弟、豊臣秀長です。一般に、秀長といえば天下人に登りつめた兄を補佐する誠実で温厚な常識人のイメージでしょう。兄秀吉の強烈すぎる個性もあり、秀長には、影の存在の印象があります。

 しかし、「弟が兄を補佐する」姿は、戦国時代、自明のものではありません。織田信長の弟、信行は、兄と争い、抗争の末に謀殺されています。戦国時代の兄弟は血で血を洗うライバルにもなりえたのです。

 秀吉は人の能力の見積もりにたけ、要求水準も高いのです。弟でも安泰ではない中、秀長は、秀吉「代理」に起用され続け、時には大軍勢を率いて合戦に臨んでもいます。結果を出し続けたのです。秀吉・秀長の兄弟関係を現代の常識のメガネを一度外して検証していきましょう。

l  無から有を作り出した

 豊臣兄弟は、いわば「セミの兄弟」です。その前半生は、地中で過ごしていたかのように、古文書に姿を現しません。彼らが書状など同時代の確実な史料に本格的に登場するのは、30代を過ぎてからです。

 秀吉は無から有を作り出した男です。裸一貫から天下人となり、この国を支配した人物は、日本史上、稀です。戦国の下剋上でも身分のない者はのし上がりにくい日本です。織田信長は父が戦国大名。徳川家康も、祖父も父も三河で有名な大名です。足利尊氏も父祖が全国的に名門とされた鎌倉御家人でした。

 日本での「支配の正当性」の根拠は長らく家柄でした。ただ黒船が来ると、もう身分では戦えません。西洋化、工業化、富国強兵には翻訳と計算が必要です。生きた翻訳機・計算機を選ぶような入試問題を作り、合格者に地位を与える学歴身分制をはじめたのです。明治末から大正期以降、帝国大学や陸海軍の士官学校を出た人が地位を占めていきました。学問ができれば得をする、出世できるとなったので、日本中の民が必死で学問をし、明治から高度成長までの勃興が生じました。この時代は食堂でさえ、役員・正職員(学歴者)・雇員(無学歴)とわかれ、学歴が反映されていました。学歴下剋上の時代です。算盤や帳簿つけが上手だった人の子孫が多く良い学歴になりました。江戸期に識字率が高かった地主・商家・医者・下級武士の子や孫です。彼らは江戸時代は支配層から下に見られていましたが、学歴社会の到来で恩恵を受けていました。

豊臣家についての古典的な名著は、渡辺世祐(よすけ)の『豊太閤の私的生活』(1939)

そこでは、「秀長は思慮深く温厚の君子、寛仁大度の人で、よく太閤の欠点を補った」とある。堺屋太一の小説『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』もこれに影響

l  いつ生まれたのか?

諸説紛々。秀吉は天文6(1537)でほぼ決まりだが、秀長は天文10年生まれ、天正19(1591)没説と、天文9年生まれ説

l  父親は誰か?

母親(後の大政所)は同じだが、父親については不明

『太閤素生(すじょう)記』は、

l  『太閤素生(すじょう)記』が信頼できる理由

江戸初期の寛永年間(17世紀前半)に聞き書きをまとめたもの。著者は秀忠・家光に仕えた旗本の土屋知貞。父は検校として武田・今川・北条・家康に仕え情報通、養母は秀吉の出身地中村の代官の娘で秀吉と同世代、祖母は16歳の秀吉に直接会っている

l  2人は異父兄弟

秀吉の父は木下弥右衛門で、信秀に仕える鉄砲足軽だが、戦傷で百姓になる。秀吉とその姉を残して秀吉8歳のとき死去とあるが、事実かどうかについては疑問点もあるし、そこに秀長についての記述がない

信秀の家来に竹阿弥という同朋衆(技能で暮らす人)がいて、病気をして中村に帰り、秀吉の母と再婚し、男女2人の子をなす。その男子が秀長と記されている

l  『太閤素生記』の背景にルーツ調査あり

『太閤素生記』は、徳川家の家臣土屋家による丁寧な豊臣家のルーツ調査が背景にあるので信頼性は高い。竹阿弥の子だから秀長は幼名を小竹といったと地元で言われていたのを確認している。妹は後の朝日姫で、小牧長久手の戦いの後、家康と政略結婚

朝日姫の嫁入りには大政所も人質として同行しており、秀吉の素生に関する情報も徳川家にもたらされている

l  秀吉は寺院都市に生まれた?

秀吉の出生地は尾張の中中村というのが定説だが、『関白任官記』には「飛保村雲」という地名が出て来る。『関白任官記』は、秀吉が関白になる時に作らせた履歴で、祖父母が朝廷に仕えていたとあり、捏造とされていたが、出生地が岐阜県境の江南市に似た名前の村があり、そこには大伽藍があるので、父も僧侶の可能性がある

l  どこでも猿と呼ばれていた秀吉

兄弟が育ったのは中村。秀吉は養父となった竹阿弥とはうまく行かず、16歳で家出

秀吉は右手の親指が1本多い多指症、もともとハンディキャップを負った人生

l  秀吉最初の奉公先はただの豪族ではない

浜松に出た秀吉は、今川家の家来で久能の小城主松下加兵衛に仕える。そのとき浜松城主飯尾豊前のもとに『太閤素生記』著者の祖母もいたという。松下は山伏の頭領でもあった

l  木下姓は松下にあやかった?

加兵衛は秀吉を手元に取り立て納戸を任される(主人の持ち物を管理)が、あまりの出世に周囲から妬まれ、加兵衛は秀吉に金を与えて尾張に帰す。後に織田軍で頭角を現した秀吉は加兵衛を召し抱え、恩を返す。秀吉は松下にあやかって木下姓を名乗ったのではないか

l  織田家家臣・木下藤吉郎

尾張に戻った秀吉は、信長のところで小者奉公を始める。その後の10年余りのことは文書として残っていない。織田軍が急拡大していく中で、秀吉の活躍の場も広がる

l  秀吉より待遇がよかった秀長

秀長が歴史上に登場するのは天正2(1574)。伊勢長島の一向一揆で、信長の馬廻に木下小一郎として出て来るが、馬廻は信長の親衛隊であり、雑役従事の小者奉公から出発した秀吉よりも待遇が良い。その理由として考えられるのは、父親の違い、体格の違いなどが考えられるが、秀長が最初「長秀」と名乗ったことも関係しているのでは

l  「秀長」への改名に込めた秀吉の戦略

信長から「長秀」と名乗ることが許された。天正12(1584)小牧長久手の戦いの最中に改名。その前年秀吉は従一位関白となり信長を超え、「長」と「秀」を入れ替え、「もう羽柴家は織田家の下には立たない」と宣言したようなもの

 

2回 「豊臣兄弟の類まれな経済センス」

         ~ 裸一貫から出発した2人は、知恵を授けることで声望を集めていった

秀長が兄秀吉に従い、但馬(兵庫県北部)、播磨(同南西部)に進出する頃から、天正10(1582)62日、本能寺の変で信長が倒れる辺りまでの軌跡を追う

基礎史料は秀長の文書(もんじょ、書状や手紙)

l  秀長の1次史料は少ない

秀吉は生涯に約7000通の書状を残したが、秀長は130点、信長以前では20点のみ

l  秀長から百姓衆への手紙

秀長の最も古い文書は天正元年8月の書状

当時秀吉は浅井長政との戦の最終局面で織田軍の軍事指揮官として浅井攻めの先頭に立つ

「木下小一郎長秀」書名の書状の宛先は、近江国黒田郷の住人(=惣百姓中)で、荒廃した村の住人に治安維持を保障して帰村を呼びかけた。秀吉も同様の書状を発出

この時期の文書には、兵士たちが領民に対し無法を働くことを戒めるものが少なくない

天正2年の長島一向一揆には、信長の馬廻り衆として「木下長秀」と名乗って参加したが、翌年秀吉から古橋郷を250石で統治を任された際には、秀吉が2年前に名乗った羽柴を名乗り、信長の直属から離れ、秀吉一門としての位置付けが強くなった

天正5年には、秀吉の代官的な役割を果たし、秀吉の対毛利外交・戦争に深く関わる

l  「世上をする」人

前近代の人々の暮らした世界は農民も武士も、自分の所属する「イエ」という家族中心の交際圏と、自分の住む「ムラ」という地縁共同体の2つだが、その小世界を越えて別の世界と交流することを「世上/世間をする」と呼ぶ。商業や外交活動であり一種の特殊技能

「世上をする」人たちは彼等同士でネットワークが出来、そこからの情報が織田家中で秀吉が台頭する際にも強力な武器となる

信長は、秀吉や光秀など世情する人間を優遇し取り立てる

l  中国の秀吉、四国の光秀

信長は、浅井・朝倉撃退の後、天正3年には家康とともに武田を迎撃。さらに周囲の敵撃破の為に、秀吉には中国地方の、光秀には四国の工作を命じる

l  姫路への「落下傘降下」

光秀が決起する原因は、信長が対四国外交の方針を変えたことだというのが「四国説」

秀吉が、敵の石山本願寺を飛び越えて遠く姫路にまで「落下傘降下」

l  別所長治との決裂

秀吉の播磨占領に綻びを来したのは三木城の別所の離反。別所は室町の有力大名赤松氏の流れを汲む播磨の名家で、秀吉を見くびり関係を悪化させる。光秀まで播磨に送るが離反は他の豪族にも広がり、光秀の姻戚の摂津の荒木村重まで籠城。これに対し、信長はまず四国の安定を図るために光秀の家老の姻戚である長宗我部懐柔策に出る

l  信長の戦略的転換が光秀を追い詰めた

天正8年、秀吉の兵糧攻め(三木の干殺し)により三木城陥落。石山本願寺とも和睦成立、東部でも家康が対武田で優位に立ったことから、信長は四国でも一気に強気に出る。抵抗する長宗我部に対し四国征伐に立ち上がり、光秀は秀吉の毛利征伐の援護に行かされる

光秀は武田に内通していた節もあり、武田の投降者からばれることを極度に恐れたという

l  生野銀山を手中に

天正5年、但馬の竹田城が堕ち秀長が城代に。竹田城は生野銀山の警備の拠点であり、秀吉が銀山を手に入れたのはその後の軍資金調達にとって重要

信長から三木城を堕とした秀吉への褒美は、信長の信頼の証である茶会を開く権利と、生野銀山。この資金により高松城はわずか1カ月で落城。三木城の20カ月との差は大きい

l  お金儲けへの鋭い嗅覚

秀長の但馬の百姓宛の文書(年代不詳)では、「悪事をしたものは成敗する」とした上で、宿を借りた者から人も馬も借り賃を徴収せよと指示し、棟別銭という課税の財源とした。命令の徹底と治安回復に留まらず、金稼ぎにも結び付ける経済センスは秀吉兄弟独特のもの

川沿いに住む4人に鮎漁の特権を与えた文書もに同様のセンスが窺われる

l  知恵で人心を掴む

秀長の特徴は、事前に起こりうる事態を想定して、具体的に指示を下している。鮎漁の特権でも、網を借りるのはいいが、網を貸したり、他人を漁に連れてきたりするのは禁止

もともと家臣のいない秀吉兄弟が自分たちのために働く人々を集めるには、「ギブ・アンド・テイク」や「知恵の分配」しかなく、それによって人心を掌握し、忠誠心を高めていった

「銭の儲け方」のアイディアを思いつく天才でもあった

 

 

3回 「ポスト信長は土木・情報・スピードが決めた」 

~ 中国攻略が豊臣兄弟を飛躍的に進化させた

l  『豊鑑(とよかがみ)』が描く秀吉の苦戦

三木合戦は、豊臣兄弟を「天下取り」に飛躍させた重要な戦いであり、「勝ちパターン」を確立していくが、その辺の兄弟の動きを詳述したのが『豊鑑』(寛永8(1631)竹中半兵衛の息子・重門の回想録)

l  明智光秀との確執

三木合戦では毛利・宇喜多の援軍が、秀吉の名を受けて山中鹿介(しかのすけ、本名幸盛)の守る上月城を包囲。信長は、信忠を総大将に滝川一益や光秀らを秀吉の救援に送るが、三木城攻めが先だとして上月城には向かわず。秀吉と光秀の関係が決定的に悪化した契機となる。上月城は堕ち鹿介は討死。秀吉は決して彼らを許さず、滝川を賤ケ岳で追い落とし、光秀も山崎に討つ

l  秀長、奮戦す

秀長は三木合戦の天正6年、平井山の戦いで武名を上げる

決して逃げずに、山や野に堀を掘り土塁を重ね柵を結って内側から火力で敵の攻勢を止めてから打って出る陣地戦は、秀吉軍の勝ちパターンとなるが、先ずは秀長が実行

l  兄弟の飛躍的進化

三木合戦が秀吉兄弟にもたらした「進化」は3点――①軍事土木技術の飛躍的向上と戦場への応用、②畿内―中国地方を結ぶ情報網の確立、③「戦国最速」を誇る移動能力

信長は長篠の戦(天正3年」で野戦での防護柵と濠による防御に成功するという軍事革新を行い野戦築城の萌芽となったが、秀吉はさらに一歩進めて、城攻めに土木を用いる

豊臣流の土木戦、陣地戦の最たるものが備中高松城の戦い

l  中国大返しと「情報・移動」インフラ

中国遠征の過程で、秀吉は兵站を荷う輸送拠点に加え上方からの情報伝達システムを構築

本能寺の変の後、光秀は2人の使者を毛利に送り、秀吉挟撃を持ち掛けるが、秀吉に捕縛

秀吉は自分のルートからも情報を得て異変を確信

さらに秀吉は、信長の西国出陣に備えて「御座所(ござどころ)」と呼ばれる宿泊拠点も次々に建設。こうしたインフラの整備が異変直後の大返しを可能にする

毛利が信長の死を知っても秀吉を追撃しなかったのは、もともと織田軍団の侵略に対する防衛戦争だったため、高松城講和の後は、家臣統制と裏切り者への対策や処置だった

l  「フェイクニュース」の活用

秀吉は、高松城陥落からわずか9日後に山崎で光秀を討つが、秀吉の宣伝戦に注目

高松落城後、今後の対応の指示を待つ摂津の中川清秀に対し、秀吉は、信長親子は無事に逃れたと偽情報を流し、光秀への接近を食い止める

さらに秀吉は、光秀を討つのは「天の与えたるべく候」として、明確に自身の飛躍のための天与のチャンスだと捉えていた。状況の見定めの適確さ、早さも秀吉の大きな特徴

l  及び腰だった光秀

光秀が恵解山(いげのやま)に敷いた本陣はかなり後方で最初から腰が引けていた布陣。本能寺も襲撃を陣頭指揮したのは家老で、光秀はもともと前線に出ていない

清洲会議では、No.2の柴田が信長の三男の信孝を担いだのに対し、秀吉は長男信忠の遺児で嫡男三法師(後の秀信)を担ぐ。秀吉は信長の4男秀勝を養子にしていて、信長の追善の仏事を提案するが返事がなく、秀吉が信長の後継であることを示す一大イベントとなる

秀長はその警備隊の隊長。秀長の「守る力」が如何なく発揮されたのが賤ケ岳の戦い

l  時を操る兄弟

天正11年、滝川が長島城を拠点に秀吉に対し兵を挙げると、柴田も近江へと出陣。秀長に長島への備えを命じ、秀吉は柴田と美濃の信孝軍に向かう。ここでも秀吉軍は情報とスピードで「美濃大返し」を行い柴田軍を賤ケ岳に破るが、それを可能にしたのが秀長の守備

豊臣兄弟の強さの秘密は、彼等の「時間を操る力」にあった

 

4回 豊臣兄弟流もてなしの極意

                   ~ 官位をちらつかせ、上洛を促し、黄金茶室にご案内

天正12年、小牧長久手の戦いで、信雄(のぶかつ)・家康連合軍を撃破して秀吉が天下人としての足場を築くが、家康もまたこの戦いで、圧倒的多数の秀吉軍に局地戦で勝ち、「海道一の弓取り」としての実力、野戦での異様な強さを全国に見せつけ、「不沈の強者」という信頼の看板を備えることが出来、これが後に家康を天下人へ押し上げる大きな力となる

l  池田恒興の決断と焦り

信長死後、家臣団は身の振り方に悩むが、信長の乳兄弟の池田は信長の故地の尾張・美濃を狙い賤ケ岳の後美濃の大垣城に入り、小牧長久手では秀吉側について犬山城を占拠し家康との戦端を開く。秀吉軍とは独立の別動隊で家康の背後にまわって功を挙げようとしたが露見して惨敗し討死

l  官位による大名操縦

秀吉は、和睦を望む信雄を家康から切り離して和議。大義がなくなった家康も、次男結城秀康を秀吉の養子にして兵を引く。この時も秀長は、信雄家臣団が尾張に出兵してがら空きとなった伊勢の領地に筒井順慶らと攻め込んで彼らの本拠地を攻略し和睦へと導く

秀吉は、信雄に官位を用意し三法師に代わり織田家の当主扱いをすれば納得すると見切る

当時武家で権大納言の地位を得ていたのは足利義昭と秀吉のみ。いずれも従三位で、公卿に属する。信長は正二位右大臣。信忠は従三位左近衛権中将

秀吉は、天正12年従三位になる直前、弟の名を「長秀」から「秀長」に変えさせている

天正13年、信雄は上洛し正三位権大納言。秀吉は翌月正二位内大臣、翌年従一位関白。秀長は従三位参議近衛中将

l  有能であるがゆえの妥協

天正13年、天正地震勃発。戦略拠点大垣城の全壊焼失など、美濃・尾張・伊勢が大打撃

秀吉は家康と妥協、妹の朝日姫を家康に嫁がせ、大政所を岡崎に向かわせて家康の上洛を促し、漸く臣従関係を確立。家康は大坂の秀長の宿所に赴き、豊臣兄弟は秘術の限りを尽くして家康を接待。家康は秀長と共に正三位権中納言

秀吉が家康との宥和政策を選択したことで、天下人となる道が確定するが、同時に家康も豊臣政権に代わり得るポジションを獲得

l  紀州、四国、そして九州へ

天正13年、秀吉と秀長は、紀伊半島の根来衆・雑賀衆を攻撃。次いで秀長は、信長に対抗していた四国の長宗我部を撃破

秀吉は、大々的な國分(くにわけ)を行い、畿内の要所を親族と近臣で固める。秀長は大和、紀伊、伊賀と和泉で100万石の大領主になり、大和郡山を拠点とする

l  豊臣兄弟のおもてなし外交

秀吉は小牧長久手での局地戦敗戦の教訓から、天皇の出す官位を活用する政治手法を案出

最初の官位は「諸大夫成(しょだいぶなり)」という五位以下、次いで「公家成」で昇殿が許され「殿上人」となる、さらに上が「清華成」で大臣になれる。その上が摂政・関白になれる5摂家と豊臣家。武家でも「清華家」に成れる仕組みを作り、次々に「清華成」を作る

最初のターゲットは毛利家を支える小早川隆景と吉川元長。次いで上杉、毛利へと広げる

l  秀長の最期

天正15年頃から体の不調を訴え始め、18年には寝込む。この年朝日姫も病没

秀長の嫡子与一郎は早逝、丹羽長秀の3男仙丸を養子にするが、姉の子御虎(後の秀保)を娘婿にして継がせるも17歳で亡くなり、大和大納言家は断絶

天正19年、秀長没(享年51?)。『多聞院日記』(興福寺僧侶たちの日記)によれば、巨額の金銀が遺されたと記され、死んでもあの世に持っていけるはずもないのにあさましいとのコメントが付されている

l  成長の世紀の始まり

秀長は「奈良借(ならかし)」という貸付業務を行う。多くは商人相手だが、産業投資の側面もあった。大和は、武具・文具に酒など種々産業を擁し、秀長は積極的にこれらの産業に投資し、経済の活性化に繋げる

戦国から江戸前期、日本では石高が3000万石に倍増、人口も3000万人台に急増。新田開発などで食糧が増産され、人口増に対応。畿内を中心に手工業も伸び、1人当たりの豊かさで中国大陸の水準を追い抜き、「成長の世紀」の始まり

秀長死去は秀吉にとって誤算であり、秀吉の分身を失った豊臣家は急速に没落していく

 

 

 

 

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