アガサ・クリスティー Lucy Warsley 2024.4.30.
2024.4.30. アガサ・クリスティー
Agatha Christie; Very Elusive Woman 2022
著者 Lucy Warsley オックスフォード大学で古代・現代史で優等学士の学位を取得。サセックス大より博士号(美術史)。卒業後は“古建築と英国遺産の保護協会”に勤務。現在は“ヒストリック・ロイヤル・パレス”の主席学芸員、BBCの歴史教養番組のプレゼンターを務める
訳者 大友香奈子 英米文学翻訳家。1965年北海道生まれ。早稲田大学第二文学部卒
発行日 2023.12.25. 第1刷
発行所 原書房
序文 平凡な見かけに隠れて・・・・・
豪華な後期ヴィクトリア朝の世界に生まれ、一家は富と大きな家を受け継ぎ、やがてそのすべてを失い、アガサに自分で生計を立てさせることになる。彼女の80年間は、2度の世界大戦と、大英帝国の衰退と、ほぼ1世紀にわたる激しい社会の変化をくぐり抜けてきた時代でもあった。そのすべてを80冊の本に記録した。それらは病みつきになる軽い読み物に止まらず、歴史家にとっての素晴らしい資料でもある
女性としてベストセラー作家の地位についたことに興味をもち、しかも小説家に止まらず、歴史上最も多く上演された女性の劇作家でもあり続けた。新しい境地を開いた人であり、同時に名物でもあった。同時に誤解もたくさんある。絶対禁酒主義だが、大酒のみと思い込まれ、周囲にいながら見逃され易かった。アガサ自身も、あえて平凡に見えることを利用していた
名前を聞かれれば、二度目の結婚の相手の姓「ミセス・マローワン」と名乗り、職業はと聞かれれば無職といい、公的な書類にはいつも”主婦”と書いた。とてつもない成功を収めたにもかかわらず、自分を定義しようとする世界を避けて、第三者と傍観者の観点を持ち続けた
本書では、どうしてアガサは、実際は様々な境界を崩していきながら、あくまで平凡なふりをして人生を過ごしたのかということを掘り下げていきたい。女性ができることと出来ないことについて、従わざるを得ない原則がいくつもある。生まれついた世界とも大いに関係があった。これは、20世紀の物語と絡み合う物語を持つ、1人の女性の人生を描いた歴史的傾向のある伝記である
1926年の彼女が失踪した劇的な11日間について、夫を殺人犯に仕立て上げるために隠れたと言われることが多く、彼女は死ぬまで沈黙を通したと言われるが、彼女が話した言葉を繋ぎ合わせると謎の多くが解け、言われていることが間違いであることが分かる
アガサは20世紀の女性についての数々のルールを打ち砕いた。彼女と同じ世代と社会階級の女性たちは、ほっそりとしていて、稼ぎがなく、たくさんの子どもを盲目的に愛し、絶えずほかの人のために自分を捧げることを期待されていたが、彼女が完全に果たしたのは最後の1つだけ。自分の最善のもの――努力、創造力、天才的な閃き――を読者に捧げた
アガサを構成する矛盾の塊のどこかにとても暗い心があったという事実に向き合わなくてはならない。子どもも人殺しができる物語を考えついたり、彼女の作品に、今日では受け入れられない人種や階級についての見方が含まれる――でも、だからといって、目をそらすべきではない。アガサの作品は、ある種、典型的な英国人の世界の見方を簡潔に表すもので、彼女と同じ階級や時代の偏見は、20世紀の大ブリテン島の歴史の一部なのだ
刊行当時の読者たちにとって、クリスティー作品は、”郷愁を誘うもの”でも”伝統”と関係のあるものでもなかった。クリスティ自身、”現代的”な飛んでる生活をしており、書いたものも読者をワクワクさせる生き生きとした”現代的”なものだった
第1部 ヴィクトリア朝の少女 1890年代
第1章
生まれた家
アガサの家族の家は、彼女の人生の中で、最も重要な場所であり続ける。老婦人になった時に自分の人生の物語を書くことになり、『アガサ・クリスティ―自伝』として出版したが、始まりも終わりも、アッシュフィールドと呼ばれた生家と、庭にいる自分の姿を記している
アガサは母親クララから、アッシュフィールドの家は自分が気に入ったから買ったと聞かされてきて、母親の衝動的な行動を観察していたアガサはクララを真似て、巣作りをする人、貯め込む人、自分の家を買わずにいられない人になり、一時期は8軒もの家を持っていた。家を持つことが幸せの極致だという考えに戻り続け、初期の頃の話は全て”残虐なレディ・アガサ”と” 城の相続に絡んだ陰謀”についてのものだった
第2章
家族の中の狂気
作家アガサ・クリスティ―は、デヴォン州の豊かな赤土に根ざした、クリームティーを愛する、典型的な英国女性として出版社によって売り出されたが、実は、世界を股にかけた一家の出身であり、元々大ブリテン島や英国人に対して、よそ者の視点を持っていた。父はドイツ系アメリカ人の両親の元ニューヨークで生まれ、母の出生地はアイルランドのダブリン。一家の富の源泉は、父方の祖父でマサチューセッツ州出身のたたき上げの実業家で、後に英国に帰化
母親クララの一家に精神疾患の傾向があったことが新たな研究で判明している。兄は自殺、いとことはとこは溺死、大叔父は精神病院で死去等々。こういうことは、ヴィクトリア朝の家族を不安にさせ、不名誉に思わせる類の話で、母の家族の狂気はアガサの執筆につきまとう
クララは物語と詩の両方を創作していて、クララ自身が、作家としてのアガサの最初の手本
クララは自分を本質的に劣ったものとして考え、ヴィクトリア朝の典型的な女性を演じていた
第3章
家のなかの魔物
小さい頃から大勢の使用人に囲まれた生活が当然だったアガサは、他人の家で働く者たちが侮辱的な扱いも経験することを、本当に理解してはいなかった。作家としての彼女がしばしば「非難」される点の1つは、家事使用人に対する慈悲の欠如。アガサは使用人たちを見下してはいない。彼らや彼らの変わりゆく地位に興味を持ち、彼らの生活を探るために立ち止まる場面がいくつかの小説にある
幸せな家の中心にも、悪の元凶が存在しているかもしれないというアガサの考えは何度も繰り返し現れる考えで、子どもの頃にお馴染みだった『ザ・ガンマン』に登場する悪夢の影響
だが、アッシュフィールドの本当の汚れた秘密であり、ミラー家の成功した生活の影に潜む「家の中の魔物」は、一家が金を使い果たしつつあること
第4章
破産
1890年代の終わり頃、一家の投資の収益率が低下
5年前に17歳の姉マッジはニューヨークの社交界にデビュー、兄のモンティは怠惰でハロウ校を追放され1900年陸軍に入隊、父は心臓発作の頻発から肺炎を併発して1901年死去
マッジはその直後に結婚して家を出て、モンティはボーア戦争後もアフリカでハンターとして留まる。クララとアガサには、英国人の平均年収の10倍の遺産からの収入があったが、それまでの生活を続けるには十分ではなかった
第2部 エドワード朝のデビュタント 1900年代
第5章
運命の人を待って
破産してもなお、クララは末娘に、自分より高い階級の人と結婚させようとして、学校教育を受けさせなければ、よりその可能性が高くなると信じていた。女の子を育てる一番いい方法は、おいしい食事と新鮮な空気を与え、無理に頭を使わせないことだと考えた
1901年、エドワード朝時代の国勢調査では、英国の女性の31.6%しか職についておらず、その大半は家事使用人か紡織業
マッジは普通に寄宿学校に行って、高等教育を受けたが、”新しい女”の価値観を身につけたことは、クララにとって不満足な経験でしかなく、アガサに対しては伝統的な教育に立ち返る
送り込まれたフランスのフィニッシング・スクールではピアノと歌に打ち込み、空いた時間は読書で過ごす
第6章
最高のヴィクトリア朝のトイレ
マッジが結婚した相手は、紡績業で成功した一家の4代目で、ウェストミンスター宮殿と同じインテリアデザイナーが装飾したホールを、アガサは「最高のヴィクトリア朝風のトイレ」と表現したが、その大邸宅はアガサの想像力を何度も刺激して、小説が生まれた
第7章
ゲジーラ・パレス・ホテル
多くの人は、アガサのことを、キャッツアイ型メガネの、威圧的な初老の”死の公爵夫人”だと考え、若いころはどれほど男性にモテたかに気づかない
大々的な社交界デビューの代わりに、英国の支配下にあったエジプトで国外居住者たちの社交シーズンにデビューさせることを思いつき、クララとアガサは3カ月間の旅に出る。夜ごとのダンス修業で雑談の仕方も覚え、エジプトを出る時には結婚の申し込みもあったが、クララが無断で断る。代わりにエジプトで過ごした時間の貴重な遺産が最初の長篇小説『砂漠の雪』
外国にいる英国人についての広い意味での諷刺だったが、小説を書く習慣が出来た
女性作家たちは常に、日々の生活からはみださないぎりぎりのところに、仕事をはめ込んできたが、アガサは20歳前に完全な小説を書く暇を持てた幸運を、率直に認めている
トーキーに戻ってプロの助けを借りて『砂漠の雪』を出版社に送るが没になる代わりに、結婚の申し込みが殺到
第8章
アーチボルド登場
英国中のハウスパーティーに送り出され、10人目に求婚してきたのがアーチボルド・クリスティー。父はインドの政府官庁に勤める法律家だが、11歳の時アルコールによる精神錯乱から、進行性麻痺(梅毒)で死去。陸軍航空隊のパイロットになり中尉。アガサは既にマッジの相手以上の人と婚約していたが破棄、両家の反対を押し切ってアーチ―のプロポーズを受諾
第1次大戦を前に、アガサの祖父の会社は倒産し、クララの収入は覚束なくなる中戦争勃発
第3部 従軍看護婦 1914~18年
第9章
トーキー公会堂
開戦とともにアーチ―は副鼻腔炎となり、航空隊のパイロットから輸送係に異動
アガサは彼の出征後、赤十字のボランティア(救急看護奉仕隊)に応募、2年余りにわたって病院になったトーキー公会堂で無料奉仕に従事。全く予想もしなかった仕事の世界を垣間見ることになり、達成感と成功を経験。2年後には金を稼ぐようになり、「結婚した女性が金のために働くのは嘆かわしいことだ」という中流階級の一般的な考えだった当時の常識を覆す
戦場に臨んだ兵士たちの苦しむトラウマには、戦争神経症(シェルショック)という名前があるが、看護婦の苦悩にはなく、彼女たちの将来の心の健康に問題を溜め込む。ただ、看護の仕事が、小説家としてのアガサには不可欠なものだったと思われる
アガサは、病棟を去って、病院薬局で働く訓練を受けることを決意
お堅い看護婦や横柄な医師たちに対抗するアガサとその同調者たちは、自分たちを”Queer Women”と呼び、密かに自己主張を続けた。薬を扱う仕事が、毒を使用する可能性について彼女の想像力を刺激し、そこから初めて探偵小説を書くアイディアを得ている
第10章 愛と死
開戦とともにフランスに送られたアーチ―は、空軍の慣例を破ってすぐに結婚すると言い出し、性急な戦時中の結婚となり、周囲を困惑させる。以後3年半以上、夫妻はごく短い休暇の間だけ一緒に過ごし、18年後半になって漸く一緒に生活が始まり、第1子を設ける
第11章 ポワロ登場
薬局での仕事の合間に詩を書く。2作目の小説のテーマは毒殺で、毒物のキャリアの始まりとなり、全66冊の探偵小説のうち、41作が毒物により遂げられた殺人か、殺人未遂か自殺を扱っている。特にシアン化物がお気に入り。女性薬剤師の登場人物として作られたのが『スタイルズ荘の怪事件』(1921)のシンシアで、16年にこの本の創作を始めるとき、自分と共通点の多い物語世界を作り上げる。まさに自分の女性の家族を見て、そこに闇を見たことを示しているし、彼女が母親を愛しながら、クララの力と執着心を恐れていたことを直感できる
アガサがミステリー作家としてスタートを切るのに、毒雑が最適な場所になったのは、英国の近代史に根付いた理由もある。ヴィクトリア朝の社会では、毒が家の中で、信用している者によって投与されるべきものだった
探偵小説のジャンルは、産業革命が田舎から都会までの多くの英国人の生活を変えたときに始まった。飢饉や病気による死の心配は少なくなったが、人々が町に住むようになって隣は見知らぬ人となり、得体のしれない恐怖に襲われるようになった。新しい探偵小説のジャンルは、こういう恐怖を取り出して磨きをかけ、新しい発明品である探偵によって打ち負かす
アガサは自分の探偵ポワロをベルギー人亡命者にしたが、それは戦時のトーキーに現れ始めた大勢の亡命者たちにヒントを得たものだが、ジョークでもある。ヘラクレスHerculesは筋骨たくましいギリシャ神話の英雄だが、フランス語読みの”エルキュール”・ポワレは小柄で、気難しくて、気取り屋の、彼自身のような名前。ドイルのホームズとは違う方法で仕事をする
第12章 ムーアランド・ホテル
病院の仕事の休みの日に、アガサは本を書き続けた
トーキーの西北の保養地ダートムアのムーアランド・ホテルに籠って書くことも
典型的な”クリスティー・トリック”は、よく見える所に物を隠すこと。アラン・ポーも、「書類を隠す一番良い方法は、見た目を変えて、丸見えのところに置くことだ」という。もう1つのトリックは”隠れたカップル”、積極的に互いを嫌っているように見える2人の人物で、誰にも気づかれていないが、密かに殺人を企む姦通者同士だった
原稿が完成して、何社かの出版社に送ったが、すべて返送されてきた
第4部 有望な若き作家 1920年代
第13章 ロンドン生活の始まり
終戦間際にアーチ―中佐がロンドンの空軍省に配置され、殊勲賞を授与
結婚4年目にして初めて妻としての生活が始まり、アガサは主婦の仕事が大好きだと分る
アーチ―は空軍を辞めて金融サービスの会社に就職するが、消化不良など戦争後遺症に悩む
1918年は、女性参政権が認められた最初の選挙。市民権と連動、拡大の範囲は限定的
第14章 ロザリンド登場
1919年、娘ロザリンド誕生。アーチ―もアガサも親という新しい役割にひるんでいて、アガサは自伝でも子どもの誕生についてあまり書いていない
第15章 大英帝国使節団
娘の誕生直後に同郷の著名な編集者であり、ボドリー・ヘッドという出版社のジョン・レーンから呼び出しがあり、一部書き直しを条件に『スタイルズ荘』の出版の申し出。ほぼ作家を諦めていたアガサはすっかり舞い上がる。レーンの申し出た契約は、世間知らずの作家にケチな印税を約束し、次の本も引き受けるが、制限的な5冊の出版契約に閉じ込めるものだった
探偵小説の黄金時代の主な4人の女性作家たちの仲間入り。他の3人は、ドロシー・セイヤーズ、マージェリー・アリンガム、ナイオ・マーシュで、結婚して子供を産んだのはアガサだけだが、インタビューでは母親の役割を軽視、作家としての役割を重視すると言って憚らなかった
1924年ウェンブリーで開催される大英帝国博覧会への世界中の帝国領を回って支持を得るための使節団の団長がアーチ―の学校の教師で、アーチ―に財務顧問として参加するよう招請があり、ロザリンドを預け夫妻で9カ月の船旅に参加。出航当日は、アガサの2冊目『秘密機関』が出版された日。アガサが経験することは全てその後の人生で小説のネタになった
第16章 スリラー
アガサ・クリスティ―は、いかにも英国的な作家の思えるが、初めから国際的に成功した作家で、『スタイルズ荘』も英国の出版よりは約1920年にアメリカで最初に出版。英国ではこの小説が、主に国外居住者に読まれる週間の特別版『タイムズ』紙に連載されていたため、5カ月の連載を終ってからハードカバーで出版されたのは1921年で、当初は週刊誌の作家だった
書評は概ね良好。探偵小説に関して一連の暗黙の”ルール”が現れてきていたが、そのなかには、作者は読者に対して”フェアプレー”に徹し、少なくとも犯人の正体を推測する機会を与えなくてはならないという考えも含まれていて、”科学的に未知の謎の毒物”はフェアでないと見做されるトリックの部類に入り、アガサは生涯を通じ、それを避けるのがとても得意だった
評判の割には、作家より出版社の方がずっと儲かっていて、それに気づいたアガサは、もう書かないと決めたと自伝では言っているが、せっせと書きたがったというのが本当のところで、1920年代のアガサの出版記録を見ると、成功の陰に戦略があったのは明らか。1921~31年に12冊の本を書いたが、典型的な探偵小説は5冊のみ。1冊は詩集、1冊はロマンス小説、5冊は彼女が”スリラー”と呼ぶもの。ジャンルの実験をして、何が一番売れるか模索している
自分は市場のために書く職人だというアガサの考え方は、両大戦間の時期の”文豪”の名簿から彼女を除外した。1920年代に、モダニズムのアヴァンギャルド作家たちは、新聞小説のような大衆的な文化形態が広まりつつある状況に困惑し、”ハイカルチャー”の支持を打ち出して大衆文化との差別化を図った(“バトル・オブ・ブラウズ”として知られる)。本質的に、モダニズムはそれまで通用していたものとは違う実験的なもので、自分たちを”ハイブラウ”と呼び、従来の語り口を使うアガサのような作家は”ロウブラウ” と呼び始めた
アガサの”スリラー”という新しいジャンルへの挑戦や、『トミーとタペンス』シリーズでの主人公夫婦の新しい生き方などはモダニズムを遥かに超えているのはいかにも皮肉
「文筆による収入を所得として考えたことはなかった」というアガサの言い分は内国歳入庁には通用せず、アガサと税務署員との不愉快な関係が始まり、新たに著作権エージェントを指名
たちまちに売れっ子作家になったアガサのもとには、雑誌からの寄稿依頼が殺到、新作スリラー『茶色の服の男』の連載権に500ポンドの提示があり、彼女はそれで当時の贅沢品だった小型車のモーリス・カウリーを買った
『チムニーズ館の秘密』(1924)はいくつかの偉大な”クリスティー・トリック”を含み、さらにアガサの最も好感の持てるヒロインの1人である、活発で進取的な若い女性を登場させてもいる。アガサの若い頃にはやった”新しい女”は、1920年代の”陽気な若者たち”に道を譲っていたが、アガサは誰が何と言おうと彼女を面白がっている。また、現代の読者が問題だと思う決定的な点は、登場する悪役はこの年代の特徴をよく示していて、曖昧で、世界的な陰謀を企み、時には共産主義者であり、時には犯罪者でもある。この世界のもう1つの特徴は、著者の立場も登場人物の立場も、不快な反ユダヤ主義だということ。『チムニーズ館』でも、「太った黄色い顔に、コブラを思わせる不可解な黒い目、大きく曲がった鼻と、えらの張った力強いえごをしている」という表現があるが、これは平凡な決まり文句で、ドロシー・セイヤーズの作品に出てくるユダヤ人の描写とほとんど同じ。反ユダヤ主義は、アガサが決して完全には抜け出せないものだった。30年代にナチ党員と初めて会って以降、ユダヤ人に対する侮辱的な言及はなくなったと言われるが、実際は偏見がまだ残っていた
1920年代が進むにつれ、『チムニーズ館』のすぐ後に世間に認められた傑作で、ポワロの登場するミステリ『アクロイド殺し』が出版されたため、スリラーの数は減っていく
だが、その本が出版されたのは、彼女のそれまでの人生で最も困難な年となる1926年
第5部 1926年 1920年代
第17章 サニングデール
1926年、ロンドン西郊外のサニングデールに転居、成功した女性作家の壮観なミドルブラウの家は雑誌でも取り上げられるが、アガサは周囲と馴染めず、アーチ―は市内に仕事を見つけて超多忙となり、成長したロザリンドも独立心旺盛で、家庭内もばらばらに
マッジもマンチェスターの暮らしに飽きてきたが、自作の戯曲『要求者』の上演が決まる。それを見てアガサも戯曲『十年』と『うそ』を書くが、今では劇作家としても才能があったと評価されるが、当時は軽視された。いずれも、友愛として始まった結婚の炎が消えていくことを題材
モンティは、アフリカでの従軍の怪我の痛み止めに服用したモルヒネの依存症となり、アガサは驚くほどそれを正直に話し、小説のなかにも取り入れている。29年兄死去
第18章 スタイルズ莊の怪事件
1926年、アガサの6冊目で史上最高の探偵小説となる『アクロイド殺し』を出版。ミス・マープルの原型が登場。卓抜な”クリスティー・トリック”を仕掛けたのが“フェア”か否かで大論争に
「読者が信頼するようになった誰かによって、小さいけれどカギとなる事実が省略される」というトリックを、アガサは何度も繰り返し仕掛け、“ルール”破りとは言わないまでも、”ルール”を曲げていたため、「悪趣味で不適切な作品で、失望した」と酷評されたが、アガサは「説明の不足はあるが、ウソは言っていない。すべての人を疑うのは読者の仕事だ」と抗弁
高く評価される一方で、人を欺く作品を書いたことの唯一のマイナス面は、増えてきたアガサが狡猾だという評判に、その件が加えられたことで、26年の事件展開で彼女に不利に働く
『アクロイド殺し』は新しい出版社ウィリアム・コリンズ&サンズ社が出版を成功させ、アガサは永続的な著作権使用料で報いる。新たに1軒家を借り、”スタイルズ荘”と呼ぶ
引っ越しの直前、母のクララが亡くなったときから不運が始まる。すっかり打ちのめされたアガサに対し、アーチ―は外国にいて葬儀にも戻らず全く何の支えにもならないことが判明
ロザリンドを連れてアッシュフィールドに夏の6週間滞在。アーチ―が訪ねて来て、不倫を告白し離婚したがっていた。相手は使節団団長の友人で、アーチ―と同じゴルフクラブの仲間、アガサより10歳年下でよく知っていて、アーチ―は戻ってくると信じていた
1926.12.3.(金)、アーチ―は仕事で週末は帰らず、秘書も夕方から休みを取っていた。その夜遅く秘書が戻った時、アガサは姿を消していた
第19章 失踪
アーチ―が戻ってこないことを予感したアガサは、車で出かけ、そのまま行方不明に。秘書宛に残したメモには、週末は戻らないこと、着いたら電話することが書かれていた
翌朝警察から、衝突して乗り捨てられた車が発見されたとの電話がある。エンストしているところを助けたという証言が出てきたが、自殺未遂から精神錯乱状態まで、種々憶測を呼ぶ
アーチ―は、不倫相手と友人の別荘に”婚約”パーティーのために泊まり掛けで行っていた
第20章 ハロゲート・ハイドロパシフィック・ホテル
2008年のニューヨークで、若い女性教師が”解離性遁走”と呼ばれる症状を経験。アガサの場合も、”記憶喪失”や”解離性遁走”などを含む鬱病ということになるのだろう。母親の死と結婚の破綻のトラウマによって引き起こされた精神障碍により、生きがいと自意識を失う
精神療法士の助けを借りて、彼女は後に、空白の行動の話をまとめ始める――鉄道でロンドンに行く。交通事故で神経炎を発症、以前にもその治療のために行ったハロゲートに向かう
警察はすぐに行方不明者を公表、新聞はアーチ―を悲劇のヒーローとして描く
新聞に写真が掲載されたため、ハロゲートのホテルでは従業員たちがクリスティー夫人だと言い始めるが、ホテルは病気を患った退屈な金持ちに贔屓にされていて、秘密を守った
ある新聞が、アーチ―が若い女性と友人の別荘に滞在していたと曝露、警察がアーチ―を重要参考人としてマークし始めると、アーチ―は当初アガサは記憶喪失だと言っていたが、仕事のために失踪を計画していたといって自分を正当化しようとした
12日の日曜日、アガサが滞在しているホテルのバンドのメンバーが警察に通報
第21章 ふたたび現れる
警察からの連絡を受け、アーチ―がホテルに確認に行き無事再会を果たす
医師により記憶喪失が確認され、ロザリンドに会っても娘だと分らず、過去のことも一切覚えていなかった。そんな中でアガサはロザリンドのために復縁を懇請するが、アーチ―は受け入れずに談合離婚の手続きに入り、アガサはロザリンドの親権を獲得した
1926年の『アクロイド殺し』は4千部の売り上げで世間を驚かせるほどではなかったが、失踪のすぐあとからは評判のお陰で次々とヒットを飛ばす。精神疾患が彼女を打ちのめしたが、彼女を成功させる原因ともなり、偉大な女性にした
第6部 金権主義の時代 1930年代
第22章 メソポタミア
1928年、離婚成立。1週間後アーチ―は不倫相手と再婚。アガサは夫の結婚の記事を読むのを避け、娘を寄宿学校へ入れてオリエント急行で海外旅行へ
イスタンブールからダマスカス経由、バグダッドへは砂漠用マイクロバスで、さらにアブラハムの出生地とされたユーフラテス川の古代都市ウルへ。遺跡の発掘隊に迎えられる
第23章 マックス登場
ウルへの2度目の旅でアガサは、”一般フィールドアシスタント”の若きオックスフォード大出のマックス・マローワンと出会う。マローワンは、アガサをイラクのほかの考古学の遺跡見学に案内。アガサより14歳年下で小柄、結婚など考えもしなかったが、マローワンがロンドンの大英博物館に戻って2人の関係が復活
第24章 あなたと結婚すると思う
マローンのプロポーズは、アガサがずっと夢に見ていた”共同事業”といった類にものだった
マローワンは、離婚した女性との結婚を認めないカトリック教会を去る
1930年、2人はあらゆる障碍を乗り越えて結婚。教会も新聞も歳の差を誤記。マッジは完全に距離を置くことで不賛成の意を表す
第25章 8軒の家
アガサは絶えず移動していて、恐らく旅行している時が最も心から寛いでいたのだろう
旅行の次に好きだったのは、新しい家に引っ越しすること。30年代をアガサは”金権主義の時代”と呼び、たくさんの家を買い、それぞれの家を居心地よくする仕事に没頭
家についてのアガサの興味は女性的なもので、同様に、それが彼女の作品を本質的に二流に見せたが、それは自らも承知していた。多数の作品を出版していたにも拘らず、「仕事を求めて列に並ぶとき、昔ながらの”既婚女性”以外を記入することは絶対に思い浮かばない」といったし、自分が”本物の作家”と呼ばれるものではないという考えを持ち続ける方法の1つは、専用の執筆部屋を持たないことで、いつどこで書いているのか分からないと言われるくらい、人目につかない片隅で仕事をして、出来る限り苦悩する作家という型にはまった考えとは違うものでいようとした。この家庭生活への興味のすべてが、30年代に、アガサが憑りつかれた女のように不動産を手に入れ、終いには8軒を持つまでになったことをよく説明している。ロンドンの西にある比較的安い掘り出し物で、1軒は個人用に使用し、他は賃貸
マローワンは新しい隊長の下での発掘に従事することになり、アガサも毎年一時期をマックスと西アジアで過ごし、マックスの仕事を手伝いながら執筆も行った
マックスは、大英博物館に、最初の独立した探検のスポンサーになってもらい、1933年イラクのアルパチアでの発掘に挑むが、2000ポンドの経費のうち大英博物館が援助してイラク英国考古学院から600ポンドのほか、匿名で500ポンドの寄付があり、アガサが夫の考古学という仕事の資金提供者としての長くなるだろう経歴を始める。だが、従来イラク国立博物館と発掘者とで折半していたが、独立したばかりのイラクの国家意識の高揚から遺物を持ち出すのは困難となり、後に”アルパチア・スキャンダル”として知られるが、マックスの輸出許可は却下
30年代後半、マックスは関心の的をシリアに変更
1937年、ロザリンドがロンドンの社交界にデビュー。離婚した女性にはバッキンガム宮殿で娘を披露する資格がないため、友人に連れて行ってもらった
アガサは、30年代の終わりに過去との本当の決別をする。26年の、神経が参ってしまった女性とは全く別人となり、38年ダートマスの大邸宅を買うためにアッシュフィールドの家を売却
39年、開戦直前にベイルートから引き揚げ
第26章 黄金時代
30年代の10年間は、探偵小説にとってもアガサにとっても黄金時代。マックスとの結婚が、かつてないほど大きなプロとしての自信をもたらし、出版者やプロデューサーなど仕事関係者はそれを痛感させられる。35年には『3幕の殺人』が初年度1万部突破。28年に『アクロイド殺し』の演劇版が、『アリバイ』という題で脚色・上演され、新しい収入源をもたらす。自ら脚色も手掛けたのがポワロの劇『ブラック・コーヒー』(1930)
あがさ自身の頭のなかは尽きることのないアイディの源泉のようで、探偵小説家のアリアドニ・オリヴァ夫人を登場させ、馬鹿馬鹿しいほどアイディアに恵まれた自分を茶化している
アガサ自身を表すジェーン・マープルは、30年新婚旅行の間に出版された長篇小説『牧師館の殺人』に初めて本格的に登場。きっかけは、戦間期に社会全般に独身女性が目立ったいたことで、21年の国勢調査では200万人の未婚女性がいて、同じ境遇の男性を上回り、”余った女性”は前の世代よりも独身女性をより目立たせ、「田舎の独身女性のシスターフッドについての内容が多すぎてうんざり」との批判もあったが、彼女たちからの共感を得やすかった
英国とアメリカの読者が異国情緒を感じる場所が舞台の、アガサの代表作がいくつかみられる。『オリエント急行の殺人』(1931年の洪水で動けなくなった自身の体験とリンドバーグの息子の誘拐事件がベース)や『ナイルに死す』(1933年のマックスとのエジプト旅行がベース)など、最高に視覚的に興味を引く作品。『メソポタミアの殺人』(1936、マックスの行動が中心)
『そして誰もいなくなった』(1939)の原題には人種差別用語が含まれていた。原題では“And Then There Were
None”のあとに”Ten Little Niggers,
Ten Little Indians”とある
クリスティーの表現のいくつかが現在、大きな不快感を引き起こす理由の1つは、人々が彼女の作品を時代を超越していると思うからではないか。1980~90年代に作品が浄化されてテレビ放送された結果有名になったが、それは彼女の文章がとても平易で明瞭なので、書かれた特定の年を直ちに声高に言わないからでもある。これは同様に、年代的にも地理的にも広く人気を集める理由でもある。もっと人種問題に敏感なアメリカでは、最初から『そして誰もいなくなった』の題名で出版された。その間に事件発生、ある出版社が提出した要約が、プロットの秘密を事実上明かすものだったため、アガサが激怒したことが、出版社が異常なほどネタバレを意識することに繋がり、さらに彼女の作品を議論したり評価したりする批評家の自由を減じるというマイナス効果をもたらした。アガサのプロットや、彼女の文章の“代数的な”性質と呼ばれることのあるものを優先させればさせるほど、彼女の最高の本の会話や登場人物やユーモアに気づいて楽しむ自由が少なくなる。クリスティがしばしば過小評価せれることになるのは、このせいでもある
第7部 戦時労働者 1940年代
第27章 爆弾の下で
1941年、ロンドン大空襲の後、アガサは戦時の病院薬局に戻り、3年間働き続ける
新作『NかMか』でナチスを嘲り、初期の作品とは対照的に、ユダヤ人を被害者の文脈で描く
アガサの黄金時代の金メッキがはがれ始めたのは38年。愛犬の死と、米国IRSからの問い合わせ、開戦と続きく。マックスの両親の出生地が外国だったため、マックスは敵国人と見做されたが、国防市民軍に参加して強制収容を免れる。英国でも、米国での収入を加算した上で80%もの戦時の税金が賦課され、納税のために執筆を続ける
第28章 娘は娘
1940年、ロザリンドがウェールズ生まれで地主階級の職業軍人と突如、衝動的に結婚
マックスもカイロの同盟国軍に志願していなくなり、一人で残されたストレスが創作活動にはよかったようで、40年代中頃は、彼女の人生の中で最も熱心な執筆を経験
1943年、ロザリンドに最初の子が生まれる
第29章 人生はかなり複雑だ
ロンドンでの孤独に堪えられないアガサは、マックスの友人に接近。アガサは個人的には、20年代の離婚法の緩和に影響され、戦争の結果でさらに激変。友愛あるいは平等な結婚が、アガサの世代のより急進派のゴールで、マックスとともに見つけたものだったが、ここにきてロマンチックな恋愛、”運命の人”への脇目もふらない献身が結婚契約の中心と考えられ始め、この新しい”ロマンスの礼賛”は40年代には婚前交渉がそれ程眉を顰められなくなったことを意味し、やがてロマンチックな愛の失敗が離婚理由として受け入れられるようにまでなる
1944年、ロザリンドの夫がノルマンディ上陸作戦に参加中に戦死
第30章 メアリ・ウェストマコット名義
アガサの人生のパターンは、個人的に困難な時が、芸術家アガサ・クリスティ―の創作の時で、第1次大戦の激しさの中でポワロを生み出し、結婚生活の不調の時期に『アクロイド殺し』を出版、精神疾患の余波の中でミス・マープルを考え出した
ペンネームを使うのは、2種類の本を分けておくこと、自分自身もきちんと分けておけば、好きなように書けるためで、匿名で出版すれば、「自分の人生を少し書き込める」という感覚をアガサは喜び、実際にもペンネームのもとでアガサの人生と考えを暴露している。『未完の肖像』はアガサ自身の躾や結婚生活の破綻の経験が記録され、自伝とも類似
1949年、新聞が著者を暴露したため、ペンネームでのアガサの経歴は挫折し、そのあとアガサは仕事と進行状況についてさらに秘密に内密に引きこもり、晩年には、他の人たちを自分の心の中に入らせるのを頭から拒否
第8部 満潮に乗って 1950年代
第31章 金のかかる大きな夢
終戦とともにマックスが戻ってきて、家も接収を解除され、また新たな生活が始まる
1949年、ロザリンドが再婚、夫はアガサの屋敷の庭の管理人としてとりこまれる
第32章 バグダッドの秘密
マックスは、ロンドン大学の考古学研究所で、西アジアの考古学の教授に招聘され、イラクのニムルドというアッシリアの遺跡発掘のため1949年バグダッドにイラク英国考古学院を復活させ校長になり、アガサも一緒になって発掘を手伝う
1958年の革命に向かって緊張が高まりつつあり、55年にはアガサが膀胱炎で入院、マックスの好む古い宝探しタイプの考古学は、”科学的な”アプローチに次第に見劣りがしてきたこともあり、57年が隊長として最後のシーズンとなる
2015年、イスラム国の武装勢力が古代遺跡の残りを徹底的に破壊したが、その後の調査で大半がまだそのままになっていることが判明している
第33章 戦後のクリスティー・ランド
40年代後半と50年代のクリスティ・ランドの住人の多くは、中流階級の生活水準の低下に直面していたが、アガサは読者が感じている大英帝国へのノスタルジアや不安をうまく利用したため、これまで以上に商業的に成功。だが同時に、文学的な評判は落ち始めた。”怒れる若者たち”が、ハードボイルドなどの新しいスタイルを拡散し始めた
アガサは、現代的な生活への情熱を失わず、”クリスティ・トリック”の1つには、プロットに同時代のニュースになっている話を使うことで、現実の事件と実在の場所を舞台にしている
アガサが怒りを買ったのは、生涯を通して反ユダヤ主義の何がいけないのかを分かろうとしなかったことで、アメリカの不寛容に対する評議会に取り上げられ、アガサの出版社に当初に遡って、新版全てから反ユダヤ主義を削除するよう求められる
第34章 特別席の2列目
1958年、アガサの戯曲『ねずみとり』が2239回目の上演を果たし、あらゆる種類の舞台作品の中で一番のロングランとなったことを祝って、これまでで最も盛大な演劇のパ-ティーが開かれ、アガサが、小説家のみならず世界的に有名な劇作家としても決定付けられた
1944年には『そして誰もいなくなった』に基づく戯曲がロンドンとニューヨークのブロードウェイで同時に上演され、54年にはウェスト・エンドで同時に3本の戯曲が上演され、そのうちの2本は68年後にロンドンで上演されている。にも拘らず、劇作家としてのアガサの仕事は評価が低い。クリスティーの演劇は特にアマチュアに人気があり、劇の上演をアマチュアに許可することはプロから見れば質が低いことに繋がり、ベテラン作家が特別席の2列目から出すコメントに左右された男性演出家による中傷のキャンペーンにも傷つけられた
『ねずみとり』は46年に始まる。BBCがメアリー王太后に80歳の誕生日の贈り物を選ぶようお願いしたところ、アガサの新しい芝居を頼まれ、『3匹の盲目のねずみ』と題した30分の芝居ができ、47年ラジオ放送された。アガサは執筆料を子どものための慈善事業に寄付。筋書きは里親に虐待を受けて死亡した少年デニス・オニールの実話に刺激されたもの。52年舞台用に長くした『ねずみとり』として上演、異例のロングランとなる
第35章 チャーミングなおばあちゃん
1950年、彼女は王立文学協会フェローになり、56年には大英帝国勲章(第3位)を受章、61年にはエクセター大学より名誉文学博士号授与
アガサの世評嫌いは、だんだん時代に合わなくなっていったようだが、、それは相変わらず1890年生まれの中流、または上流階級の女性の完全な典型だった。60年代に入ると、ますますアガサは写真を撮られるのを渋るようになる。80キロの容姿についての劣等感を深める
女優のマーガレット・ロックウッドのために書いた『蜘蛛の巣』がアガサの最後の大きな演劇的成功となり、マッジや義理の妹の死もあって、次の『評決』(1958)は完全な失敗で意気消沈
第9部 スウィングしない 1960年代
第36章 クリスティーの財産の謎
60年代は、アガサの作品が映画という媒体を通して今まで以上に多くの人々に届いた10年
『謎のクィン氏』(1928)が最初の映画化作品だが、ハリウッドに対抗して一定数の国産映画を上映しなくてはならないという議会制定法に対応した安っぽい企画
1960年代、著作権代理人は、アガサの40作の権利を、利益分配契約でMGMに売却することを決断。契約金は100万ポンドとも言われたが詳細は不詳。61年アガサの小説『パディントン発4時50分』が最初に映画化(映画の題名は”Murder She Said”)。アガサと同年代のマーガレット・ラザフォードがミス・マープルを演じたが、アガサは期待外れだったと認める
MGMはアガサの巧みなプロットを望んでいないことが分かると同時に、作品の中身はそれに記された署名より重要ではなくなってきた。4作目では、MGMが独自の脚本にアガサの小説の登場人物を使い、”ナンセンスの寄せ集め”の作品を作ったことに愕然とする。金のために文学的な高潔さを手放してしまったと後悔したが、後の祭り
アガサは、金に関しては全くの無頓着。売り上げは跳ね上がり成長が続き、1959年にはユネスコが聖書は171の言語、シェークスピアは90の言語、アガサ・クリスティ―は103の言語に翻訳されていると発表し、61年には公式に彼女を世界のべストセラー作家と名付けた。48年、アメリカの税金について合意に達し、54年には英国の税務当局がアメリカの税金の支払いを認めたが、追徴課税の支払いが必要。英国の累進課税の最高税率88.75%を回避するために、一部小説の収益を孫に譲ったり、会社を設立したり
「クリスティー著作権信託」が設定され、アガサの既刊書リストのほとんどの収入が、相続税を免れて贈与することが可能になった
1968年、アガサの個人会社の51%を、ブッカー賞を創設したブッカー・ブックスに売却して、内国歳入庁からの巨額の請求を払い、税金問題を最終的に解決したが、76年になって『フィナンシャル・タイムズ』紙が”クリスティーの財産の謎”という記事を掲載して、アガサが死んだ時の財産が10万ポンドしかなかったことを説明しようとしたものの、本人も全く無頓着のままで、本人にとっても謎のままだった
第37章 クィア・ロット
何十年もしぶしぶ有名人でいたが、60年代にはさらに煩わしさがエスカレート。記者やカメラマンに追い回されたが、だんだん歳とともに達観。長年にわたる記者の誤報が、彼女が噓つきだという神話を作り上げるのを助長してきたのは間違いない
いつも多勢の疑似家族に囲まれて過ごし、普通のおばあさんを演じていた
マックスも68年にナイト爵位を付与され、よそ者の身分を克服
62年、アーチ―は気管支炎で死去。アガサの自伝では、アガサが決して許すことも忘れることも出来なかったことがわかる。アガサは弟のキャンベルとは親しくしていたが、彼も翌年、彼らの父親の精神的な問題を想起させるような事件で、自宅のガスの充満するキッチンで死亡
第38章 女探偵たち
アガサは、人生で欲しいものを手に入れながら、まだ”淑女らしく”あり続けるというヴィクトリア朝に不可欠な性質を主張していた。そのことは、公然と反フェミニズムであることを意味しているガ、一方で、”隠れ”フェミニストということもできる。彼女は、登場人物も含め、行動が自分の言葉より雄弁に語る人だった。アガサの作品における最も重要なメッセージは、善は悪に勝つという信念のほかは、弱者でも勝てるというもので、後に女探偵の登場人物により、歳を取った人たち、特に年配の女性は見た目以上に世界に提供するものがあることを示した
1930年『牧師館の殺人』でミス・マープルが初めて登場したとき、ドロシー・セイヤーズはすぐ確信を掴んで、「詮索好きなおばあさんは、唯一の正しい女探偵で、あなたの仕事の中で最高」とアガサに手紙を書いた。ミス・マープルは、アガサ自身に存在するように見える”善”と同じくらいの善を促進する力であり、社会的には保守的で死刑を支持する裕福で成功した女性
第39章 引き際を知ること
アガサは『鳩のなかの猫』(1959)で、女子高の校長に、「引き際を知ることは人生においてとても肝心なことの1つだ。自分の力が衰え始めて、統率力がなくなる前に引くこと、何となく飽きたなと感じる前に」と言わせている。アガサの出版チームも同じ質問をしていた
晩年の作品の衰えについて、最近判明したことは、恐らくアルツハイマー病の初期の症状に苦しみ始めていたためという。アガサの統語法は決して複雑ではなく、それが彼女の作品がとても効果的に他の言語に翻訳され、しかも余り時代遅れにならない理由の1つだが、81歳の今はもっと単純になり、この十数年で語彙が31%少なくなっていることが判明
アガサは決して健康状態を診断してもらわなかったが、優雅に身を引くことを渋る芸術家の苛立ちは、病気と闘い始めた兆しだったかもしれない
第10部 カーテン 1970年代
第40章 ウィンターブルック
アガサの小説が深く根差していたアッシュフィールドは、とうに手放していたが、いざ開発されるとなって遅まきながら買い戻すための入札に参加したものの却下され、1960年には取り壊しの建築許可が下りた
1971年、女王がアガサに大英帝国勲章DBE(第2位)を与えると発表、”デイム・アガサ”
81歳になっても執筆は続け、金権主義時代の34年に購入して長年夫妻の実際の住まいだったテムズ川ほとりのウィンターブルック(「マックスの家」と呼んだ)で多くの仕事をしていた
71年、腰を骨折するが奇跡的に復活し、最後の小説『運命の裏木戸』(1973)を書く。アッシュフィールドを反映したところが随所にみられるが、小説としては繰り返しが多く欠陥があったにもかかわらず、名前だけでまたしてもベストセラーに。そしてかなり痛々しいのは、最後のノートに、さらにもう1つの小説のアイディアが載っていたことで、衰えつつあるのは”彼女の想像力”ではなく、”彼女の進化する力”だった
74年、心臓発作。その2年前、『オリエント急行の殺人』映画化の申し出があり、驚いたことにアガサが受け入れ。ショーン・コネリー、イングリッド・バーグマンなど一流の俳優がこぞって参加、74年にアメリカで公開するとヒットチャートの最上位となり、英国でのプレミアでは女王だけでなく、アガサも車椅子で出席、英国史上最も成功した興行収入を上げ、小説のペーパーバックは300万部売れた
74年に短編集が出され、75年に何十年も前に書かれた『カーテン』が発刊され、ポワロにとって劇的な終わりとなり、『ニューヨーク・タイムズ』にはポワロの死亡記事が出た
75年には衰弱がひどくなり、76年死去。翌年マックスは再婚し、1年もしないうちに死去
第41章 葬儀を終えて
1983年の調査では、その年英国のレパートリー劇場で上演された女性による戯曲28作品のうち22作品がアガサだった
残された大量の手紙や書類は「クリスティー・アーカイブ・トラスト」が管理し、この本の執筆が可能になった。自伝は1977年出版、ロザリンドが最終原稿の編集に関わり、26年の痛ましい出来事についての短い章を入れることを許可。その後公式伝記執筆の申し出を却下したこともあって失踪について様々な憶測を呼んだため、ロザリンドは1984年に作家のジャネット・モーガンに、公平で良心的な伝記の出版を許可する。にも拘らず、アガサは悪人だという神話はしつこく続く。アガサが病気だったというのを信じない人が大勢いた
2007年にローラ・トンプソンが2冊目の公認の伝記を書いた時、アガサの作品についての思い遣りのある熱烈な賞賛が含まれていた
1990年代、2人の女性の学者が再評価を始めた。アガサが1人の人間ではなく、アガサ・ミラーに始まってデイム・アガサまで、生涯にわたって、絶えず自分を一から作り直していたとし、アガサの悪名高いプライバシーの感覚の分解も始めた。だが一方で、クリスティーの自分の執筆を軽視するような態度を額面通りに受け取るよりは、作品そのものを見るべきとの研究もあり、彼女が伝統に従う人としてではなく、”因襲打破主義者”としてクリスティーを再評価している。アガサは自分のことを真剣に考えることができなかったかもしれないが、ようやくほかの人たちが彼女のためにそれをし始めた。アガサの遺産は間違いなく彼女の作品だが、単に成功した小説家というだけでなく、彼女の社会階級やジェンダーのルールを再定義した人物でもあった。彼女の野心は小さくても20世紀の文化に深い影響を残した
訳者あとがき
本書は、2023年度アメリカ探偵作家クラブ賞評論・評伝部門ノミネート
アガサ・クリスティ―は、テレビドラマや映画の人気が高いこともあって、エンターテインメント作家と見做され、文学的な評価は低かったが、最近は文学的な見地から研究されることが多くなり、再評価の機運も高まっている。本書も、作家研究の視点から新たなクリスティー像を作り上げようとする試み
有名作家でありながら、病院の薬局で働いていても誰にも気づかれることはなかったといい、普段の彼女は内気で目立たないという自身の利点を生かして、周りの人々を観察し、それを作品に投影してきた。彼女の作品を読めば、その時代の空気や人々の考えが分かる、貴重な歴史的資料だと言われる所以である
原書房 ホームページ
全世界に読者をもつ巨匠アガサ・クリスティー。しかし彼女は職業を聞かれれば無職と答え、書類には主婦と記入した。当時の社会階層やジェンダーのルールにより、平凡なふりをして生きた20世紀の偉大な作家の一生に光を当てる。
紀伊国屋書店 ホームページ
20世紀を記した非凡な女性作家の生涯。全世界に読者をもつ巨匠アガサ・クリスティー。しかし彼女は職業を聞かれれば無職と答え、書類には主婦と記入した。当時の社会階層やジェンダーのルールにより平凡なふりをして生きた20世紀の偉大な作家の一生に光を当てる。“タイムズ”紙ブック・オブ・ザ・イヤー選出!
アガサ・クリスティー ルーシー・ワースリー著
逆境でこそ燃える創作意欲
2024年2月3日 日本経済新聞
アガサ・クリスティーの小説は日本を含む世界中で読まれており、映像化の試みも後を絶たないけれども、彼女本人の生涯については、その知名度のわりには広く知られているとは言えない。『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』は、歴史学者である著者が、そんな彼女の実像に迫った試みである。これまで知られていなかったエピソードも多く、熱心なファンが読んでも発見が多い一冊となっている。クリスティーの人生や周囲の人々にまつわる出来事が、こんなにも彼女の作品に反映されていたというのは驚きである。
原題=AGATHA
CHRISTIE(大友香奈子訳、原書房・3520円) ▼著者は英BBC歴史教養番組の司会者。邦訳に『暮らしのイギリス史』など。
本書の最大の読みどころは、1926年に彼女が起こした失踪事件の真相の解明だ。母の死や最初の夫の不倫が原因という前提は従来の説を踏まえつつ、これまで彼女の精神状態を説明するために使われてきた「記憶喪失」という用語は不正確なものだとし、計画性がないからこそ不可解に見えてしまった失踪事件の背後にあったクリスティーの同情すべき精神的苦悩を浮かび上がらせている。
クリスティーの著作は本国イギリスのみならずアメリカでも刊行されたが、それに起因する税金の問題が彼女を生涯悩ませていたことも、本書で新たにクローズアップされた話題だろう。彼女とは正反対の作風だったハイスミスの生涯を追ったドキュメンタリー映画「パトリシア・ハイスミスに恋して」(2023年日本公開)でも、税金問題が悩みの種として言及されていたことを想起させられた。
裕福な家庭に育ったクリスティーだが、若くして実家の破産を経験し、2度の世界大戦では病院や薬局で働くなど、20世紀の荒波と直面した。のみならず、失踪事件では国民的なスキャンダルの渦中の人となり、ベストセラー作家になったせいであらぬイメージを背負わされて苦しむことにもなったが、「第一次世界大戦の激しさのなかでポワロを生みだし、結婚生活が不振だった時期に『アクロイド殺し』を出版し、精神疾患の余波のなかでミス・マープルを考え出した」と本書にもあるように、逆境の時こそ彼女の創作意欲は燃え上がった。苦しみを乗り越えて前例のない成功を収めた彼女の、作家として、人間としての偉大さが窺える素晴らしい評伝だ。
《評》ミステリ評論家 千街 晶之
「アガサ・クリスティー」書評 慎重に語り直された作家の一生
評者: 山内マリコ
/ 朝⽇新聞掲載:2024年02月24日
時代を超越した、破格のベストセラー作家。生まれ年をあえて元号で記すと、明治23年。アガサ・クリスティーは、ヴィクトリア朝のイギリスを生きた人だ。伝記は、お姫様のようなドレスを纏(まと)った幼少期の写真からはじまる。
良家の子女らしく、将来は条件のいい結婚だけを望まれた。立派な邸宅で使用人に囲まれ、「大ざっぱな教育」を受けて育つ。成人する頃に大英帝国の絶頂期も終焉を迎え、時代はそこから急速に動きだした。
第一次世界大戦が勃発すると男たちは戦場へ、ポストが空いたことで女たちが外で働きはじめる。アガサもまた病院で看護奉仕に励んだ。床掃除をし、医者から無礼な扱いを受け、薬剤師の助手となる試験勉強もした。今も残るノートには、毒薬の一覧表が。
この専門知識はデビュー作『スタイルズ荘の怪事件』のトリックでも遺憾なく発揮され、アガサは一躍有名作家となる。才能でお金を稼ぎ、自分で車を運転する、二十世紀の女だ。
1976年に85歳で幕を下ろした彼女の人生は、世界の歴史上はじめて女性が解放されていった、20世紀を映す。しかしこれまでは、主に男性的な視点で物されてきた。
その結果、とりわけ大スキャンダルとなった有名な失踪事件は、不倫した夫を困らせるために、故意でやったことだと広められてしまう。ミステリーの女王といえど、20世紀はまだまだ、女の証言は信じてもらえなかった。
だからこそ著者はアガサの発言を掘り起こし、信じ、彼女の側に立って、今こそ真実を明かそうと試みる。非常に慎重に、とても2020年代的な筆致で、アガサ・クリスティーの一生を語り直していく。
海外文学の新訳が出るように、伝記もまた、時代に合わせて新しく書かれるべきだと強く思った。その人生を、生きた本人も気づかなかった功績は、新たに称えられるべきなのだ。
Lucy Worsley 英「ヒストリック・ロイヤル・パレス」主席学芸員。BBC歴史教養番組プレゼンター。
1980生まれ。2008年「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞し、2012年『ここは退屈迎えに来て』でデビュー。主な著書に『あのこは貴族』『一心同体だった』『すべてのことはメッセージ
小説ユーミン』など。2023年4月より書評委員。
Wikipedia
アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie、DBE、旧姓:ミラー(Miller)、1890年9月15日[1] - 1976年1月12日[2])は、イギリスの推理作家。66冊の探偵小説と14冊の短編集で知られ、発表された小説の多くは世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた。特に架空の探偵エルキュール・ポアロと ミス・マープルを主人公とする小説で有名である。メアリ・ウェストマコット(Mary Westmacott)名義の小説が6作品ある。
1971年、大英勲章第2位(DBE)に叙され「デイム・アガサ」となる。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの第4代会長。
ユネスコのインデックス・トランスラチオヌムによると、最も翻訳された作家(英語版)である。小説『そして誰もいなくなった』は、約1億部を売り上げ、史上最も売れた本の一つである。戯曲『ねずみとり』は、演劇史上最長のロングラン記録を持っている[注釈 1]。
日本語表記は「クリスティ」と「クリスティー」がある[注釈 2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1890年、資産家の父フレデリック・アルヴァ・ミラー(1846年 - 1901年)と母クララ・ベーマー(1854年 - 1926年、イギリス陸軍士官の娘)の次女としてイギリス南西部のデヴォンシャーに生まれる。3人姉弟の末っ子で、10歳近く年の離れた姉と兄がいた。しかし姉マーガレット(1879年 - 1950年)は寄宿学校におり、長兄モンタント(1880年 - 1929年)はパブリックスクールを退校して軍に入隊していたために幼少期を共にする機会が少なく、もっぱら両親や使用人たちと過ごした。
父フレデリックはアメリカ人の事業家だったが商才に乏しく、祖父の残した遺産を投資家に預けて、自身は働かずに暮らしていた。母クララは父の従妹で、少々変わった価値観を持つ「変わり者」として知られていた。母の性格はアガサや家族の運命に少なからず影響を与えたが、フレデリックは奔放な妻を生涯愛し続け、アガサも母を尊敬し続けた。
少女時代[編集]
少女時代のアガサは兄や姉のように正規の学校で学ぶことを禁じられ、母から直接教育を受けた。母クララの教育に対する風変わりな信念は大きな影響を幼いアガサに与えた。例えばクララは「7歳になるまでは字が書けない方が良い」と信じており、アガサに字を教えなかった。それによりアガサは世間一般の子供より識字が遅く、父がこっそり手紙を書く手伝いをさせるまで満足に文字を書けなかった。変則的な教育は、字を覚えた後も独特の癖をアガサに残してしまい、現存している子供時代の手紙はスペルミスが非常に多い。
同年代の子供がパブリックスクールで教育を受けている間も、アガサは学校に入学することを許されなかった。同年代の友人のいないアガサは使用人やメイドと遊んだり、家の庭園で空想上の友人との一人遊びをしたりして過ごし、内気な少女に育っていった。一方で、父の書斎で様々な書籍を読みふけって過ごし、様々な事象に対する幅広い知識を得て、教養を深めることが出来た。
また、ある事情により一家が短期間フランスに移住した時、礼儀作法を教える私学校に入って演劇や音楽を学んだ。16歳のときにはオペラ歌手を目指してパリの音楽学校に入学したが、すぐに退学した[6]。結局、母は最後まで正規の教育を受けることは許さなかったが、アガサ自身は自らが受けた教育について誇りを持っていたという。
小説家へ[編集]
父の破産と病死(1901年11月 死因は肺炎と腎臓病)[7]、自身の結婚と離婚など様々な出来事を乗り越えながらも、アガサは小説家として執筆活動を続けていった。
1909年、自身初の長編小説『砂漠の雪』を書き、作家イーデン・フィルポッツの指導を受ける。私生活では1914年にアーチボルド・クリスティ大尉(1889年 - 1962年)と結婚し、1919年に娘ロザリンド・ヒックス(英語版)(1919年 - 2004年)を出産する。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として勤務し、そこで毒薬の知識を得る。
1920年、数々の出版社で不採用にされたのち、ようやく『スタイルズ荘の怪事件』を出版し、ミステリー作家としてデビューする。1926年に発表した『アクロイド殺し』における大胆なトリックと意外な真犯人を巡って、フェアかアンフェアかの大論争がミステリ・ファンの間で起き、一躍有名となる。また、この年には母が死去しており、アガサは謎の失踪事件を起こす。
失踪事件[編集]
アガサ・クリスティ失踪事件とは、ロンドン近郊の田園都市サニングデールに住んでいたアガサ・クリスティ(当時36歳)が1926年12月3日、自宅を出たまま行方不明となった事件を指す。警察は自身の失踪として探す一方、事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて捜査をした。後述のように、アガサと夫のアーチボルドは問題を抱えていたことからアーチボルドの犯行という推測も出た。
有名人の失踪、複雑な背景は結果として新聞の興味を掻き立て、報道により事件を知った大衆から多数の目撃情報が寄せられた。その検証のために大勢の人間が動いた。捜査機関を含む関係筋から動員されたのは、延べ人数で数千人に及んだとされる。マスコミの盛り上がりによりドロシー・L・セイヤーズやアーサー・コナン・ドイルもコメントを出した。
11日後、保養地のハロゲイトにあるホテルに別人名義(夫の愛人Nancy Neeleの名からテレサ・ニールの名)で宿泊していた彼女が家族の確認の上で保護されることで決着した。そのため、Agatha Eleven Missingと呼ばれる。
当時のアガサは、ロンドンの金融街で働いていた夫のアーチボルド、一人娘のロザリンド(当時7歳)と田舎の大邸宅で暮らしていた。休日にはアーチボルドはゴルフに熱中していたが、アガサはゴルフをしなかった。家事はメイドを雇い、執筆の仕事では秘書のシャーロットを住まわせていた(シャーロットはアガサの信頼を得て、長く彼女の側で勤めることになる)。
キャリアにおいては、『アクロイド殺し』(1926年)によりベストセラー作家の仲間入りを果たす一方で、事件の前には最愛の母親を亡くし、また夫には恋人がいた事実に傷つけられていた。事件の起きた日、アガサは住み込みのメイドに行き先は告げずに外出すると伝え、当時は珍しかった自動車を自ら運転して一人で出かけている。その際に彼女は秘書のシャーロットと夫に手紙を残している。
なぜ失踪したのかについては諸説あり、伝記作家の間でもこの件については、心身が耗弱していた、意図的な行動であった等、意見が分かれているが、自伝では事件について触れていない。しかし、事件の結果としてマスコミや世間の好奇の対象とされたアガサが心に傷を負った点、そしてこれ以降の彼女の内面世界が徐々に変化を見せた点に関しては諸説一致している。
この失踪事件を題材に、独自の解釈でアガサ・クリスティをめぐる人間模様を描いた映画『アガサ 愛の失踪事件』が1979年に公開された。
再婚とその後の人生[編集]
1928年にアーチボルドと離婚するが、1930年の中東旅行で出会った、14歳年下の考古学者のマックス・マローワン(1904年5月6日 - 1978年8月19日)とその年の9月11日に再婚する。この結婚について「クリスティはなぜ彼と結婚したかと問われて『だって考古学者なら、古いものほど価値を見出してくれるから』と答えた」という逸話がある。一説によるとそれは誰かが流した心ないジョークで、アガサはジョークの作者を殺してやるといきまいていたとも言われるが(ハヤカワ・ミステリの解説より)、孫のマシュー・プリチャードはアガサ自身が冗談めかしてこのように語ったとしている(『オリエント急行殺人事件』DVD特典インタビューより)。
1943年に『カーテン』および『スリーピング・マーダー』を執筆。死後出版の契約を結ぶ。私生活では孫マシュー・プリチャードが誕生している。
1973年に『運命の裏木戸(英語版)』を発表。これが最後に執筆されたミステリー作品となった。
死去[編集]
1976年1月12日、静養先のイギリス、ウォリングフォードの自宅で、高齢のため風邪をこじらせ死去(満85歳没)。死後『スリーピング・マーダー』が発表される。遺骸は、イギリスのチョルシーにあるセント・メアリ教会の墓地に埋葬された。
略歴[編集]
1890年9月15日 イギリスの保養地デヴォンシャーのトーキーにて、フレデリック・アルヴァ・ミラーと妻クララの次女、アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラーとして生まれる。正規の学校教育は受けず母から教育を受ける。
1901年 父が死去。この頃から詩や短編小説を投稿し始める。なお、詩や小説を書くことになった理由は、インフルエンザにかかった際、読む本がなかったからだという。
1909年 自身初の長編小説『砂漠の雪』を書き、作家イーデン・フィルポッツの指導を受ける。
1914年 アーチボルド・クリスティ大尉と結婚。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として勤務し、そこで毒薬の知識を得る。
1919年 娘ロザリンド・ヒックスが誕生。
1920年 数々の出版社で不採用にされたのち、ようやく『スタイルズ荘の怪事件』を出版、ミステリー作家としてデビューする。
1924年 『茶色の服の男』で初めてまとまった収入を得る。サニングデールに家を買い「スタイルズ荘」と命名する。
1926年 『アクロイド殺し』を発表。大胆なトリックと意外な真犯人をめぐって、フェアかアンフェアかの大論争がミステリー・ファンの間で起き、一躍有名に。また、母が死去する。この年アガサは謎の失踪事件を起こす。
1927年 スタイルズ荘を売却する。
1928年 アーチボルドと離婚。アーチボルドは愛人と再婚。
1930年 中東に旅行した折に、14歳年下の考古学者のマックス・マローワン(1904年5月6日 - 1978年8月19日)と出会い、9月11日再婚する。
1933年 夫とともにエジプトへ旅行。道中で乗船したナイル川のクルーズ船に触発され、旅行から4年後に『ナイルに死す』を上梓[8]。
1938年 グリーンウェイの別荘を購入。以後、毎年夏の休暇をここで過ごす。
1943年 『カーテン』および『スリーピング・マーダー』を執筆。死後出版の契約を結ぶ。孫マシュー・プリチャードが誕生。
1952年 書き下ろしの戯曲『ねずみとり』の世界最長ロングラン公演(1952年11月25日 - )始まる。
1973年 『運命の裏木戸(英語版)』を発表。最後に執筆されたミステリ作品となる。
1975年 『カーテン』の発表を許可する。
1976年1月12日 高齢のため風邪をこじらせ静養先のイギリス、ウォリングフォードの自宅で死去。死後『スリーピング・マーダー』が発表される。遺骸は、イギリスのチョルシーにあるセント・メアリ教会の墓地に埋葬された。
2009年には『犬のボール』など未発表短編2篇が発見され、創作ノート『アガサ・クリスティの秘密ノート(上・下)』とともに公刊された。
作品[編集]
1920年のデビューから85歳で亡くなるまで長編小説66作、中短編を156作、戯曲15作、メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名義の小説6作、アガサ・クリスティ・マローワン名義の作品2作、その他3作を執筆。ほとんどが生前に発表されている。中でも『アクロイド殺し』(1926年)・『オリエント急行の殺人』(1934年)・『ABC殺人事件』(1936年)・『そして誰もいなくなった』(1939年)等は世紀をまたいで版を重ねており、世界的知名度も高い。また生前中に刊行されなかった作品や死後に見つかった未発表作、小説作品の戯曲化、あるいはその逆など細かい物を含めればまだ数点増える[注釈 3]。
推理の謎解きをするエルキュール・ポアロ、ミス・マープル、トミーとタペンスといった名探偵の産みの親でもある。
小説[編集]
エルキュール・ポアロとミス・マープル[編集]
1920年に発表された処女作『スタイルズ荘の怪事件』で初登場した、探偵エルキュール・ポアロは、長編33作と50以上の短編に登場する。しかしアガサは、長年の間にポアロに愛想を尽かしてしまう。1930年代の終わりには、アガサは日記にポアロを「我慢できない」と書き、1960年代には「自分勝手な変人」だと感じていた[9]。
ミス・ジェーン・マープルは、1927年12月から発表された一連の短編(短編集『火曜クラブ』に収録)で登場する。マープルは上品な年配の独身女性で、イギリスの村の生活になぞらえて事件を解決する。「ミス・マープルは決して私の祖母を描いたものではありません。彼女は私の祖母よりもずっと気難しく、オールド・ミス的でした」とアガサは語っているが、彼女の自伝は、この架空の人物とアガサの継祖母マーガレット・ミラー(「グラニーおばさん」)および彼女の「イーリング取り巻き」達との間にしっかりした関係があるとしている。マープルもミラーも、「誰に対しても、何に対しても、常に最悪の事態を想定し、それが恐ろしいほどの正確さで、たいてい正しいことが証明されるのである」。マープルは12の長編と20の短編に登場する。
第二次世界大戦中、アガサはポアロとミス・マープルをそれぞれ主人公とする『カーテン』と『スリーピング・マーダー』という2つの小説を書いた。この2冊の本は銀行の金庫に封印され、彼女は娘とその夫に贈与証書によって著作権を譲り渡し、それぞれに一種の保険をかけたのである。アガサは1974年に心臓発作と深刻な転倒に見舞われ、その後執筆することができなくなった。彼女の娘は1975年に『カーテン』の出版を許可し、『スリーピング・マーダー』はアガサの死後1976年に出版された。これらの出版は、1974年の映画版『オリエント急行殺人事件』の成功に続くものであった。
『カーテン』の出版直前、ポアロはニューヨークタイムズ紙に訃報を載せた最初の架空の人物となり、1975年8月6日の1面に掲載された。
アガサはポアロとミス・マープルが同時に登場する小説を書いたことはない。2008年に発見・公開された録音で、アガサはその理由を明かしている。「エルキュール・ポアロは完全なエゴイストで、年配の独身女性に仕事を教わったり、提案されたりするのは好きではない。プロの探偵であるエルキュール・ポアロは、ミス・マープルの世界ではまったくくつろげないだろう」。
2013年、クリスティ家はイギリスの作家ソフィー・ハナ(英語版)が書いた新しいポアロもの『The Monogram Murders』(モノグラム殺人事件)の公開を支援した。ハナはその後、2016年に『Closed Casket』(閉じた棺)、2018年に『The Mystery
of Three Quarters』(スリークォーターの謎)、2020年に『The Killings at Kingfisher Hill』(キングフィッシャーヒルの殺人)の3つのポアロものを出版した。
その他の探偵
ポアロとマープルに加えて、アガサは素人探偵トミーとタペンス(トマス・ベレスフォードとその妻プルーデンス・タペンス(旧姓カウリー))を創作し、1922年から1974年の間に4冊の小説と1冊の短編集に登場させている。他の探偵とは異なり、ベレスフォード夫妻は『秘密機関』で登場した時点ではまだ20代前半であり、作者と同じように年を取ることができた。アガサは、彼らの物語を軽いタッチで扱い、批評家たちがこぞって賞賛するような「ダッシュと勢い」を与えた。彼らの最後の冒険である『運命の裏木戸』はアガサの最後の小説となった。
ハーリ・クィンは、アガサの架空の探偵の中で「最も異例な存在」であった。アガサが「ハーレクイン・ナード(英語版)」(イギリスの喜劇のジャンル)の人物に愛着を抱いていたこともあり、半超能力者のクィンはいつもサタースウェイトという年老いた凡人と行動を共にする。この二人は14の短編に登場し、そのうちの12編は1930年に短編集『謎のクィン氏』に収録された。マローワンは、これらの物語を「空想的な脈絡のある検出、おとぎ話に触れる、アガサの特異な想像力の自然な産物」と評した。また、サタースウェイトは小説『三幕の殺人』や短編集『死人の鏡』にも登場するが、これらはいずれもポアロが主人公である。
また、あまり知られていないキャラクターとして、退職した公務員で、型破りな方法で不幸な人々を援助するパーカー・パインがいる。彼が登場する短編集『パーカー・パイン登場』(1934年)は、「アガサ・クリスティの愉快で風刺的な自画像」であるアリアドネ・オリヴァ(オリヴァ夫人)が登場する『退屈している軍人の事件』で最もよく記憶されている。その後数十年にわたりオリヴァは7つの小説に再登場する。そのほとんどで、彼女はポアロに意見を述べる役割を担っている。
戯曲
1928年、マイケル・モートンは『アクロイド殺し』を『アリバイ』というタイトルで舞台化した。この作品はそれなりに上演されたが、アガサは自分の作品に加えられた変更を嫌い、将来的には自分で劇場のために書くことにする。最初の舞台作品は『ブラック・コーヒー』で、1930年末にウェストエンドで公開され、好評を博した。1943年に『そして誰もいなくなった』、1945年に『死との約束』、1951年に『ホロー荘の殺人』を発表した。
1950年代には、「演劇は...アガサの関心の多くを占めていた」。彼女は次に、ラジオの短編劇を『ねずみとり』に改作し、1952年にピーター・サンダースの演出でリチャード・アッテンボローがオリジナルのトロッター部長を演じてウェストエンドで初演された。この作品に対する彼女の期待は高くはなく、8か月以上は上演されないだろうと考えていた。『ねずみとり』は、2018年9月に27,500回目の公演を行い、世界で最も長く上演されている演劇として演劇の歴史に長く刻まれている。新型コロナウイルスの流行によりイギリスのすべての劇場が閉鎖した2020年3月に一時的に閉演し、2021年5月17日に再オープンした。
1953年に発表した『検察側の証人』は、ブロードウェイ公演で1954年のニューヨーク演劇批評家協会の最優秀外国作品賞を受賞し、アガサはアメリカ探偵作家クラブのエドガー賞を受賞した。女優マーガレット・ロックウッドの依頼で書いたオリジナル作品『蜘蛛の巣』は、1954年にウェストエンドで初演され、これもヒットとなった。アガサはロンドンで3本の戯曲を同時に上演した最初の女性劇作家となった。『ねずみとり』、『検察側の証人』、『蜘蛛の巣』である。彼女は「劇は本よりもずっと書きやすい。なぜなら、心の目で見ることができるし、本の中でひどく詰まって、何が起こっているのかに取りかかるのを止めてしまうような、あらゆる描写に妨げられることがないからだ」と述べた。娘に宛てた手紙の中で、アガサは劇作家であることは「とても楽しい!」と述べている。
メアリー・ウェストマコット名義の作品
アガサはメアリー・ウェストマコットというペンネームで6冊の小説を発表した。このペンネームは、彼女に「最も私的で貴重な想像の庭」を自由に探索させるものだった。これらの本は、一般的に彼女の探偵小説やスリラー小説よりも良い評価を受けた。1930年に出版された最初の『愛の旋律(英語: Giant's
Bread)』について、ニューヨーク・タイムズの批評家は、「...彼女の本は、現在の小説の平均をはるかに超えており、実際、『良い本』の分類の下に十分に来る。そして、その称号を名乗れるのは、満足のいく小説だけである。」と書いている。「メアリー・ウェストマコット」が有名な作家のペンネームであることは当初から公表されていたが、ペンネームの背後にある正体は秘密にされていた。『愛の旋律』のブックカバーには、著者が以前に「本名で...半ダースの本を書き、それぞれ売上3万部を超えている」と記載されている(これは間違いではないのだが、控えめな表現でアガサの正体を隠している。『愛の旋律』の出版までに、アガサは10冊の小説と2冊の短編集を出版しており、いずれも3万部をかなり超えていた。)。ウェストマコット名義の最初の4作を執筆したのがアガサであることを1949年にジャーナリストによって明らかにされた後も、彼女は1956年までにさらに2作を執筆した。
他のウェストマコット名義の作品は、『未完の肖像(英語: Unfinished Portrait)』(1934)、『春にして君を離れ』(1944)、『暗い抱擁』(1948)、『娘は娘(英語: A Daughter's a Daughter)』(1952)、『愛の重さ』(1956)である。
ノンフィクション
アガサはノンフィクションをほとんど発表していない。考古学の発掘作業を描いた『さあ、あなたの暮らしぶりを話して』は、マローワンとの生活から描かれたものである。『The Grand Tour: Around the World with the Queen of Mystery』は1922年に南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダを含む大英帝国を旅行した際の書簡を集めたものである。彼女の死後1977年に出版された『アガサ・クリスティー自伝』は、1978年のエドガー賞で最優秀批評家・伝記作品賞を受賞した。
作品評
アガサの推理小説は旅から生まれた(とりわけ離婚後のオリエント急行でのイスタンブールやバグダードへの一人旅は大きな影響を与えたといわれている)。
アガサの推理小説の魅力は、殺人のトリックの奇抜さと併せ、旅から得た様々な知識が背景描写に使われていることとされる。オリエント急行でのイスタンブール行きは、38歳の離婚後、友人の家に招待されたときに聞いた話がきっかけとなった。1928年10月のことである。
初期の作品は、『ビッグ4』や『秘密機関』など国際情勢をテーマにした作品があったり、ドイツや日本が関係する作品があったりするなど国際情勢に関する話が多い。冷戦時代はソ連のスパイも話題に上っている。
そのファンからなるアガサ・クリスティ協会によると、彼女の作品は英語圏を越えて、全世界で10億部以上出版されている。聖書とシェイクスピアの次によく読まれているという説もあり、ユネスコの文化統計年鑑(1993年)では「最高頻度で翻訳された著者」のトップに位置している。ギネスブックは「史上最高のベストセラー作家」に認定している。日本でも早くから紹介され、早川書房はクリスティー文庫としてほぼ全ての作品を翻訳している。
アガサが作品を発表した20世紀初めのイギリスは、保守的な風潮が世間に残っており、トリックに対するフェア・アンフェア論争が起こったり、犯人の正体がモラルの面から批判の的になったりするなど是非が論じられていた。同時にラジオや映画といったメディアが発達していたことで、作品が広く知られることにもつながった。アガサは人見知りの傾向を持ち、失踪事件(1926年)でマスコミの餌食とされたこともあり、意識的に表舞台から離れるようになったが、これが神秘的なミステリーの女王伝説につながっていった面がある。
作品に登場する主な探偵
エルキュール・ポアロ(相棒としてアーサー・ヘイスティングズ、協力関係者としてジェームス・ハロルド・ジャップ)
関連人物[編集]
探偵小説の黄金時代(英語版)を築いた中で、アガサ・クリスティを含めて、ナイオ・マーシュ、マージェリー・アリンガム、ドロシー・L・セイヤーズの4人は、queens of crime と称される。
アガサ・クリスティとイギリス空軍士官(のちに法廷弁護士)アーチボルド・クリスティ(英語版)との間にできた一人娘ロザリンド・ヒックス(英語版)は、『娘は娘(英語版)』に登場する主人公のモデルで著作権を相続しているが、母と娘の関係・自身のプライベート・母の再婚など複雑な思いが投影される『娘は娘』の劇場化などに積極的になれなかった。
注釈
1. 1952年11月25日にウエストエンドのアンバサダー・シアターで開幕し、2018年9月までに27,500回以上上演された。2020年3月にロンドンで新型コロナウイルス感染症流行のロックダウンのため一時休演し、2021年5月に再演した。
2. 早川書房においてはクリスティー表記で統一しているため、アガサ・クリスティー賞、クリスティー文庫という表記になっている。かつては「クリスティ」「クリスティー」以外に「クリスチィ」「クリスチイ」「クリスチー」と表記されていたことがある。創元推理文庫の旧版では「クリスチィ」、平凡社の『世界探偵小説全集』では「クリスチイ」と表記されており、東都書房からは『世界推理小説大系
13 クリスチー』(1962年)が出版されていた。江戸川乱歩の「クリスチー略伝」や横溝正史の「クリスチー礼賛」というエッセイもある。
3. ほかに、クリスティ著ではないが、クリスティ財団が公認したポアロものの長編『モノグラム殺人事件』 -The Monogram Murder、『閉じられた棺』 -Closed Casket(ソフィー・ハナ作)が、早川書房(クリスティー文庫)から刊行されている。
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