福翁夢中伝  荒俣宏  2024.5.18.

 2024.5.18. 福翁夢中伝 上下

 

著者 荒俣宏 1947年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、日魯漁業(現マルハニチロ)に入社。コンピュータプログラマーとしてサラリーマン生活を送るかたわら、紀田順一郎氏らとともに雑誌『幻想と怪奇』を発行、編集。英米幻想文学の翻訳・評論と神秘学研究を続ける。1970年、『征服王コナン』(早川書房刊)で翻訳家デビュー。1987年、小説デビュー作『帝都物語』で第八回日本SF大賞を受賞。1989年、『世界大博物図鑑第2巻・魚類』でサントリー学芸賞受賞。近年は京都国際マンガミュージアム館長も務める。おもな著作に『世界幻想作家事典』『世界大博物図鑑』『荒俣宏コレクション』『アラマタ図像館』『妖怪少年の日々 アラマタ自伝』ほか多数。

 

発行日           2023.12.10. 印刷 12.15. 発行

発行所           早川書房

 

本書は、ミステリマガジン20199月号~213月号に『夢中伝―福翁余話』のタイトルで連載された作品を大幅に加筆・修正し、改題の上書籍化

 

『福翁自伝』は青空文庫に全文あり

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1898年(明治31年)7月1日~1899年(明治32年)2月16日、日刊新聞『時事新報』(時事新報社)に、福沢諭吉(18351901)の自伝『福翁自傳』が連載された。

1899年、時事新報社編『福翁自傳』(時事新報社、40銭)が刊行された。

 

 

表紙カバー袖

明治三十一年、『福翁自伝』を著した福澤諭吉は脳溢血で倒れたのち、奇跡的に回復した。

死から舞い戻った諭吉は、自分の人生をこう回顧する。

短いようで長い己の人生、それはまるで過ぎれば消え去ってしまう夢の中の出来事ではないか――、と。

そう考えた諭吉は、社交クラブ「交詢社」の一隅で、速記者の矢野由次郎を相手に、最後の著作『福翁夢中伝』を語り始める……

咸臨丸での渡米、慶應義塾の創設、「経済」「演説」「版権」といった新たな日本語の発明、不偏不党の新聞『時事新報』の創刊といった功績の裏側や、勝海舟・濱口梧陵・小泉信吉・川上音二郎・北里柴三郎・福澤桃介ら、時代の傑物との交流――

激動の幕末から明治維新を経て、日本国民の独立自尊を促し、この国の進むべき道を指し示した諭吉の人生とは……

近代日本の父・福澤諭吉の生涯を、現代の知の巨人・荒俣宏が膨大な資料を渉猟して著した、畢生の大作にして著者最後の小説。

 

l  余計で、しかも長ったるい序文(読者よ、退屈をがまんして読みたまえ)

自伝なる雑書を物することは、既に欧米の学者先生の間で流行するところと承知している。その建て前は、後の世代に生き方の手本を残すという教育上の配慮と申すべく、巷間に一流と名が知れた学者はこれを執筆すべき義務があるようなことになっているらしい。わがはいもそれに倣い、初めて自らの半生を振り返ってみたのが、『福翁自伝』の真実だが、生き恥を晒すようでまことに気恥ずかしく、ついつい大ぶろしきを広げて体裁を繕ったところが多々あった。先年、死ぬか生きるかの大病を患い、奇跡的にこの世に舞い戻った時に、ふと、その物足りなかったところを増補しておかねばならぬと気づいた

福澤諭吉識(しるす)

 

l  序文(編輯者に依る) ―― 『時事新報』編輯部主筆 石河幹明(いしかわかんめい)

兼ねて慶應社中では、西欧の学者に倣い、福沢先生の自伝への要望が高く、一昨年秋維新前後の実録談を語ったのに加えて、今般幼児よりの経歴を速記者に口伝し自ら校正をし、『福翁自伝』として『時事新報』に明治317月より連載。さらに後世の人の参考のために事実による維新の顛末を記述し、自伝の後に付す計画だった。大病を克服され、自伝事業を実現

碩果生 筆 (石河幹明の号)

 

l  特別前口上 「新たなる対話編」の筆法について 

―― 三十一谷人(さんじゅういつこくじん)福澤諭吉論述

自伝の筆法が、日本の文学の真摯な新実験であることを説明する

そもそも旧幕府から委託されたわがはいの初仕事は、オランダ語や英語を、外交用に日本語に翻訳する作業だったが、文化文明の違う外国語には、日本語に翻訳できない言葉がいくらでもあり、まずは新しい日本の語彙を発明しなければならなかった。漢学が役に立ち、24字で意味を表す漢語・熟語のたぐいを使えば英語を容易に日本語に置き換え得ることを発見、これにカナ交じり文を加えれば、不調法だが自由な俗文を創作できた。これが日本語改革の第1歩で、今後もこの俗っぽいヘンテコ仮名交じり文を日本語の新スタイルとする

世間に向かって語りかけるなら、俗の言葉で語るしかない。その覚悟を教えてくださったのは、大坂の大学医・緒方洪庵。江戸の杉田成卿と並んで蘭学の両雄といわれた洪庵は、自分の理解した部分を自分の書き方で、蘭学の翻訳書を読むのに漢字の字典が要るようでは本末転倒と言い、俗人に分かる平易な俗文を用いた

父は漢学者で、周囲からも漢文や漢字を正しく使うよう勧められたが、日本語に存在しない外来語を訳すのに漢字典を調べまくって蘭語や英語の意味をそこに乗せるなどという雅俗めちゃめちゃの日本語を使う俗文主義を貫くことにした。「三十一谷人」という印章を使うが、その意味は、「世」を分解すると「三十一」、谷と人をあわせると「俗」、両者合わせて世俗に徹すという気分を込め、一生の決意となって、日本語を壊す決心を固めた

l  蓮如上人のみちびきもある

漢文体を、俗字俗語にうまく組み合わせて使い、ムチャクチャ日本語を創作する

和文のカナ遣いの手本にしたのが、蓮如上人の御文様(おふみさま)。庶民に語りかけるように書いた法話。七五調の平易な文章なので、スラスラと教えを理解できる

外国の新知識を日本語に移すのに、漢字の2字熟語を便利に使い、新文字を創造

l  本書『福翁夢中伝』の題名について

己の一生を夢の中の出来事と感じ、自伝の書き換え版に新題をつけた

物故者もあの世から呼び出して、勝手に自説を述べさせている

(速記者 矢野由次郎:『時事新報』速記者、『福翁自伝』の速記者)

 

第1話     すべては咸臨丸に始まる

緒言 回顧すれば六十何年、人生既往に想へば恍(こう)として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い「賑やかな夢」でした            福澤諭吉『福翁自傳』より

l  ふたたび自伝を開始するの辞

ポリフォニィ方式で、多数の人が同時に登場して勝手に討論する形式で書く

l  横槍の多いおさらい?

安政6年、緒方塾の塾頭、弱冠26歳の福澤が、咸臨丸で渡米

大分中津奥平藩の下級武士だった父親は、三浦梅園の学統に連なる漢学者。大坂在勤蔵番となり23女をもうけ、末っ子の諭吉を、門閥に縛られない僧侶にしようとしたが、諭吉が3歳の時不遇のまま他界し、母子は中津に戻るが藩内では孤立。門閥制度を親の敵として育つ

l  身に着けた処世術

旧態依然たる中津から出ることだけを考えた

l  中津藩の知られざる裏側

ペルリの黒船襲来で、蘭語の習得が叫ばれ、各藩とも軍備増強のため外国と交渉するのに蘭語のわかる人材を物色、諭吉に白羽の矢が立つ

中津藩主は薩摩島津家と親戚で、蘭癖大名が輩出、築地の聖路加病院の地にあった中津藩中屋敷は同藩の蘭学者・前野良沢の屋敷があった場所であり蘭学発祥の地

薩摩藩士・松木弘安(後の寺島宗則)を蘭語教師に招くが、番所調所になった後を諭吉が継ぐ

諭吉は、中津藩砲術講師・岡見彦三の支援で江戸に塾を開設、後の慶應義塾の土台を築く

l  江戸で運が向いた恩人のこと

後の家老・奥平壱岐と長崎で培った友情、長崎留学を助けてくれた実兄、適塾でわが子同然に可愛がってくれた緒方洪庵、家督を継ぎながら大坂に出ることを認めてくれた母、渡米に帯同を認めてくれた木村摂津守、勝安房

l  維新史の「因縁」は咸臨丸にある

1898年、諭吉は脳溢血に倒れるが奇跡的に回復。その翌年勝安房(維新後は安芳に)死去

勝は諭吉にとって盟友のような仇敵

諭吉が江戸で開いた塾の近くには、江戸蘭方医の宗家とされた桂川甫周の邸宅があり、そこに出入りしているうちに甫周夫人の兄・木村摂津守の面識を得て、咸臨丸乗船の幸運を掴む

横浜開港とともに、蘭語から英語に切り替わり、いち早く勉強を始めていたことが役立つ

条約批准のための幕府の使節はアメリカの黒船ボウハタン号でアメリカに向かっており、同行の咸臨丸は幕府の海軍伝習所での訓練の成果を示す、いわば日本海軍の出陣式だった

l  咸臨丸航海、前半の記録

その時海軍の新たな船旗として掲揚されたのが日の丸

l  船上での反目と和解

出航前から摂津守と勝との確執は始まり、助っ人の外国船員との待遇差に不満が鬱積したが、出航直後からの大時化(しけ)にあって、諍いどころではなくなり、外国船員の助けで何とか公開を続ける。日本人で何とか作業を続けたのは通弁のジョン万次郎ほか2,3名のみ

摂津守が身銭を切って待遇差を穴埋めしようとしたことを知って、勝との確執が収まる

l  勝安房守に下された密命

船酔いと感冒の疾病で寝込んだ勝を世話したのも万次郎

最初に勉強したのは、日本人船員には日本語の航海用語が必要ということで、後に文明開化を進める際にも、開化の内容に分かりやすい日本語を当てはめることから始める

ブルック大尉の指導で日本海軍は見事に立ち直り、復路の航海では大尉は同行しなかったが見事な規律を示し、往路ではあれほど嫌ったブルック大尉を称賛。大尉は日本海軍への批判に溢れた自らの航海日記の公表を控え、自分の死後50年を経た1960年まで公表を禁じた

ブルックは、海底調査や海底の砂の採取方法を確立した科学者で、「ブルックの深海探査装置(ブルック式)」と呼ばれる採取器具を発明している

咸臨丸には、小笠原諸島の保全という密命があった。列強が目をつけたがペルリが『日本遠征記』で日本人がどこよりも早く島に渡っていたという伝承を記し、意図せざる援護になった

l  無名の神のこと

咸臨丸の航海では3人の下級乗組員が死亡、サンフランシスコの墓地に眠る

 

第2話     討ち入りと武士の出会い

l  金欠ながらも楽しい我が家

慶応3年の師走、江戸市中には薩摩浪士と呼ばれる暴徒の集団が出没、諭吉らの洋学者も標的に。その年の初め、幕府軍艦受け取り委員として渡米、洋書を大量に買い込んで塾の財産とする一方、『西洋事情』や『雷(ライフル)操縦法』など、時世に合わせた売り物を出版

l  怪しき「多声の会合」と悪だくみのこと

l  福澤先生不倫疑惑と、男の「瘠せ我慢」を語る

l  先生と呼ばれるほどの・・・・・

慶應義塾が存続できたのは、中津藩家老筋の家柄で塾頭・小畑篤次郎の功績

l  頬被りと居合い抜き

桜田門外の変以降は、攘夷派の刺客を避けるために頬被りをして外出

l  『雷操縦法』を買いに来た武士

戊辰戦争の発端となった薩摩屋敷襲撃事件は、慶応3年末薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩邸を襲撃したため、その仕返しで薩摩屋敷が放火・全焼

l  薩摩屋敷討ち入りの真相:前段

文久元年、身分違いとの反対を押し切って藩上級武士の娘と結婚、翌年欧州使節団に翻訳方として随行。慶応3年、米国からの帰国後、鉄砲洲の住まいが外国人居留区に指定されたため、芝新銭座に転居し、独立自営の私塾を開設、慶應義塾の正式な発足となる

l  桜田門外の変から発した因縁

桜田門外の変の水戸浪士が逃げ込んだのが三田の薩摩屋敷。前薩摩藩主・島津斉彬が朝廷に無断で開国条約を結んだ井伊直弼を幕府から追放しようと画策していた

l  モニがない、モニがない

この頃諭吉は、中津藩に俸禄を返上、自由に学問だけで食っていく独立生活を始めたはいいが、翻訳で手間賃を稼ぐも大勢の向学の士を抱えて金に困る。そこで始めたのが出版業。蕃書取調からの依頼を受けて外交文書を翻訳して原稿料を稼ぐ傍ら、その原稿や洋書を翻訳・出版し広告して販売することにより利益を得て、塾の経営に充てた

維新前に3度の欧米渡航の幸運に恵まれ、洋書を買い漁ったのは幸運

文明開化を歌う明治は、幕末から一変して教育が日本国の一大関心事となり、洋書があって外国のことが学べるところは、結局諭吉の家塾しかなかった

l  庄内武士との出会い

慶応3年、移転直前の鉄砲洲の福澤塾に訪ねてきたのが『雷操縦法』を手にした長坂欣之助

庄内藩士の身分を隠し、諭吉は塾に招いたが、固辞して別れる

l  諭吉、秘本を押し売りすること

諭吉は別れ際に、杉田玄白が遺した『蘭学事始』(1815)の写本を長坂に渡し、学問を守っていくよう頼む

l  原稿の会読:後段

慶応3年末、市中取り締まりの庄内藩江戸市中見回り武装隊や庄内藩お預かりの浪士隊「新徴組」が、管内の三田薩摩藩邸へ討ち入り。「新徴組」は、清河八郎の浪士組を幕府が拾い上げ新たに江戸警備を担当させたもので、取締役には山岡鉄太郎と高橋泥舟がつき庄内藩酒井家のお預かりとなった

長坂は、庄内藩に戻って新政府軍と戦い、最後は正式に朝敵の汚名を着せられ、藩主の命で戦闘を中止し、晩年を殉死者の鎮魂に捧げる。松山城下を守り切った長坂は藩主から「松守」の姓を賜るが固辞、代わりに「松森胤保(まつもりたねやす)」と改名

l  長坂党の最終報告

松森胤保は、博物学者として自動車や飛行機まで構想、後世に名を残す

敗戦で庄内藩が転封された際、藩主・酒井家が縁のあった佐賀・鍋島藩を頼り、佐賀の大隈重信が一肌脱いで庄内藩を罰金だけで転封を免れた

l  追記

焼き討ち事件の際、咸臨丸は神奈川港警備の幕府艦隊に配置され、薩摩軍艦「翔鳳丸」に乗って江戸から逃れようとした薩摩浪士団の追跡を命じられたが、蒸気機関を撤去され帆走しかできなくなった船では追い付けず、その後は運搬専門に格下げ

 

第3話     まぼろしの渡航群像 上

l  文明開化で命が狙われる

1885年、明六社創設、文明開化の具体策について議論する私的な会席

欧米人の日常をいかに取り入れるかが文明開化に繋がる

慶應義塾が「スピーチェ」をいう文明人の日常能力ともいうべき自説開陳の術を学ばせるのも、日本人を普通の文明人に一変させるためには、まず、われら自身の念ずることを相手に伝える方式に習熟することが肝要と考えてのことである

l  「スピーチェ」、日本に上陸す

1885年、讒謗律と新聞紙条例が発効、言論弾圧が始まる

明六社は、洋行帰りが中心となった結社で、外務官僚・森有礼の発案になり、初代社長に就任

機関誌『明六雑誌』が人気を博したが、そこにあったのはスピーチェやデベーションという西洋の新習慣。それを慶應にもたらしたのが紀州出身で後の塾長・小泉信吉(のぶきち)

l  奇縁の4人、再会のこと

清水卯三郎はパリ万博で新橋芸者に接待させて売り出した商人。津田仙は農学者でキリスト者、後に梅子を留学に出す。咸臨丸で諭吉と同行。箕作秋坪は、明六社2代目社長で津山の洋学者・阮甫の養子。遣欧使節で諭吉と翻訳方の同僚。諭吉を入れた4人で西欧談義

l  商人を軽んずべからず、役人は信じるべからず

演説に「である」を多用

l  草莽(そうもう、民間)の民が使った魔法

生麦事件の報復で英国が薩摩を攻撃した際、寺島宗則と五代才助の乗船した薩摩の戦艦が船ごと英軍に捕縛。その時英軍の通訳となったのが清水卯三郎。2人を見て命がけで匿う

薩摩はすぐにイギリスと和睦し、グラバーを通じてイギリスの新兵器や、南北戦争終結で不要になった銃を大量に買い付け倒幕に活用

l  ヤマトフという謎の日本人

安政2年の大地震の際、アメリカ船の来航の後を追ってロシアも外交関係樹立のためにディアナ号を派遣するが、寄港していた下田で被災・大破、戸田の水夫の助けでわが国初の洋式船を建造するが、ロシア帰還の際遠州掛川藩の立花久米蔵が同船で密航、ロシア名ヤマトフ/ヤマトスキーを名乗る。岩倉使節団のロシア訪問の際は歓待し諭吉も会ったが、その後帰国

l  廃人藩主と小笠原の亡霊

肥前唐津藩初代藩主の長男として生まれながら幼くして江戸に追いやられた小笠原長行は、ペルリ来航の年に建白書を出して水戸の烈公に見いだされ、藩主でもないのに幕閣に加わって老中にまで昇進、生麦事件の際イギリスに賠償金を独断で払い、同時に朝廷への約束を履行するために国内の港をすべて閉鎖するよう各藩に通達。ところが長州が馬関戦争を引き起こし撃破されると、長州も戦力を西洋式にして強化、薩長連合が出来て、長州再征伐を指揮した長行は戦線から逃亡

l  咸臨丸渡航の裏側ふたたび

小笠原諸島は「無人島(ぶにんしま)」と呼ばれていたが、信州松本の小笠原藩生まれの御船手衆が発見、家康から領有を許されたもの、林子平の『開国兵談』に記載されたのをペルリも知っていた。外国奉行水野忠徳が、米国航海から帰った咸臨丸を小笠原諸島へ派遣

l  紀州の傑物、水野と会談すること

天下一醤油の大正・濱口儀兵衛は紀州出身、家業の関係で銚子に滞在、醤油を売りながら外国船の動向や、西欧の優れた文明に関する知識の収集に注力。勝安芳を援ける。民間人でありながら、勘定奉行にまで取り立てられ、外国行きを夢見たが、晩年は国元で教育に携わる

 

第4話     まぼろしの渡航群像 下

l  貧乏は苦痛なり

小泉信三の父・信吉は、1887年塾長となり、大学部を創設した功労者。元は銀行員

1882年諭吉は、自前で慶應から『時事新報』という新聞を出し始め、時流に乗らずに時事の理解を基礎として殖産興業と教育の普及に資することを目的とした

l  福澤先生やりこめられる

濱口梧陵は、銚子の醤油醸造商人でありながら、早くから開国を説き、また故郷である紀州の疲弊を救ってきた経世家としての名声高く、幕府にも新政府にも重用された。素封家でもあり、故郷と銚子の店の民生には心を配り、窮民を援け、たくさんの若者に修学の機会を与えた

l  梧陵の境遇と「まぼろしの渡航」

l  2つの”tsunami”

伊豆を襲った「安政東海地震」と紀州を襲った「安政南海地震」(実際の年号は寛永だがすぐに安政に改元、翌年の江戸の地震も含め「安政の大地震」と総称)1日を措いて連続発生、震源は駿河湾沖でマグニチュード8.4。卯三郎は伊豆で、梧陵は紀州で遭遇

地震に伴う津波で、下田湾内の875戸のうち841戸が流失、死者122人、紀州でも流失家屋125戸、死者30人。下田の津波は、西洋船の建造技術習得に繋がり、紀州の津波は梧陵を中心に防災工事の事業化に繋がる。梧陵が支援した一種の民間による公共工事

l  懸命の説得

勝は、咸臨丸で渡米する際、佐久間象山の下で知り合った梧陵の同道を要請するが、さすがの素封家の梧陵も地震の救済で手許が枯渇。さらには梧陵が若者を育てることの方が先決と固執したため、勝も説得を断念

l  濱口梧陵、夢の実現を決意す

1884年、梧陵は家業を嗣子に譲り、念願の世界旅行に出立

l  彼岸への旅

梧陵の見聞録は、『時事新報』などに掲載されたが、翌年客死

 

第5話     神出鬼没は政治家の常態

l  鼻っぱしらの強い、小さな女友達

諭吉に最も因縁深い同時代人は勝安芳。咸臨丸での渡米以来何度も交わり、行き違う

2人に共通しているのは、新政府との利害関係がないことと、自分より「くに」のことを心配する度量の広さ。2人から手厚い援助を受けたのがアメリカ人の可愛らしい女の子クララ・ホイットニー、父親は「商法講習所」所長になったお雇い外国人。14歳ながら信仰心篤く、後に勝の妾の子と結婚。勝はキリスト教伝道会始めキリスト教の儀式に足繫く通っている

l  グラント将軍、コレラ禍の日本上陸

1879年、グラント前大統領来日。不平等条約改正に尽力してくれた唯一の外国元首であり、各所で大歓迎を受ける。大阪・神戸はコレラで上陸できなかったが、東京では商法会議所会頭・渋沢栄一の尽力で、民間主催の歓迎宴に天皇が臨幸するという「神武以来初の快事」

l  明治天皇とグラント将軍の対話

そもそも、王政復古を目指した宮廷の公家たちや尊攘派の浪士は、西郷や横井小楠を除いては、幕府を倒したあかつきにどんな政府を作るかという問題について、テンデンばらばらな考えしか頭になかった。そこで諭吉が書いたのが、西洋の政治論を紹介した『西洋事情』が、好悪室も政府もまだ構想段階でしかなかった憲法草案を突然発表したために、政府から睨まれた

明治憲法については、明治帝は1876年頃から憲法制定を口にしたが、手本がなく困っていたところに来日したのがグラント将軍。浜離宮での2時間にわたる対話形式での質疑となる

l  悪魔の甘い誘惑

大隈と兄弟のような間柄だった諭吉は、1881年大隈に慶應義塾への資金援助の側面支援を依頼するが、大隈から爵位を受けることと引き換えならと言われ諭吉は激怒

代わりに、民選議院設立に向けた政府の広報のための新聞の主筆を頼まれる

l  天皇とは何か、大隈が諭吉に質したこと

神聖な存在の聖上が、君臨すれども統治せず、欽定憲法の下での民選議院によって統治する

l  大隈がやってみせた「世直り」

平田篤胤が説く、星や日月の運行に異変があると世が連動して悪しくなる、夜が悪しくなる原因が天体の異変にあるなら、人民が力で直すのは不可能なので、天体運行の不整合を祈りと占いによって順行に戻すしかないという教えで、反乱や転覆のような力による「世直し」ではなく、自然の「世直り」を目指す

l  3参議、福澤を売らず

伊藤博文、井上馨、大隈と諭吉による4者会談で、国民に政治教育の材料を与える公報を創刊し、議院立法の最終的な可否を判断できる「世論」を形成しようとした。諭吉は、引き受ける条件として、他3人の変わらぬ支援を確認

l  外された梯子

ところが、同年中に議院開設の是非を巡る対立に異変勃発。大隈の相乗根異様に危機感を感じた岩倉に加え、排除される脅威に晒された薩摩勢が大隈追放に動き出し、10年後の議院開設の聖断は下ったが、大隈は追放、返す刀で伊藤や西郷が官職にいる慶應出身者矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅らを次々に馘首。諭吉は、伊藤と井上に抗議文を送るが反応はなかった

諭吉は、新聞発行を自腹で決行、1882年に不偏不党の『時事新報』となって実現

 

 

下巻

表紙カバー袖

明治14年に明治天皇が国会開設の詔勅を発し、伊藤博文、井上馨、大隈重信ら政府高官が諭吉ら開明派を取り込む動きを見せ始める。しかし同年、政変により諭吉派の大隈重信が失脚すると、慶應義塾出身の議員・官僚らが次々と官職を追放され、諭吉も反政府陣営の急先鋒に仕立て上げられてしまう。権力におもねらず不偏不党の新聞『時事新報』を刊行した諭吉だったが、開明的な『学問のすゝめ』の影響力を削ぐため、政府は天皇公布の形をとって封建的な「教育勅語」を世に送り出した・・・・・

私塾として始まった慶應義塾も大所帯となり、小泉信吉、門野幾之進ら有能な後継者も次々と育ち、諭吉が見込んだ婿養子・福澤桃介や北里柴三郎らもそれぞれの分野で頭角を現しつつあった。未来の日本を担う人材の育成に尽くしてきた諭吉は、自身最後の大仕事として、近代化を迎えてなおこの国と国民を縛る旧弊な価値観を改め、心身の独立即ち「独立自尊」の精神を人びとの心に根ざすために、「教育勅語」に対峙する新時代の「修身要領」を打ち立てることを決意する――

 

第6話     師とその弟子

l  和歌浦に漕ぎでた舟

小泉信吉は、諭吉の懇請で慶應義塾の総長を引き受けるが、家族経営をやめようとしない諭吉の拘りに憤慨して手を引き、故郷和歌浦の妹背島に戻ってしまう

l  口にしてはならないこと

信吉は、欧米風の「大学」を目指し学業達成主義を導入し、官学に匹敵する人材の育成が急務

l  蹉跌のはじまり

諭吉の子は45女。長男・一太郎と二男・捨次郎は米国に留学、次女・房の惚れた相手・岩崎桃介を養子にして米国へ

改正徴兵令により、私学の兵役猶予・免除が停止されるが、「英語学校の最高峰」との世評は維持し、各地の師範学校から英語教師斡旋の要請が来る

1888年、小泉が総長に就任、学事改革に着手。90年大学部発足。各科目60点以上、全科目合計で7割以上のみ進級を認める厳格な運用が始まったため、学生ストライキに発展

l  「我が校に変人奇人はいない」

新任外国人教師の参画により教職員も2派に分かれて紛糾

諭吉は、大学部発足の挨拶で、塾出身者に変人奇人の少ないことを自慢するとともに、学問以上に実学の重要性に触れ、「変通活発」なるを目指すと宣言したが、俗に傾きすぎると小泉は批判。特に、外国人教師の待遇を巡る意見の違いで小泉は塾を去る

l  仙人が俗事を収めること

諭吉の甥(姉の子)中上川彦次郎が間に入って建て前を取り繕い、腹心の小幡篤次郎を塾長代行とし、2代目に繋ぐ。小泉を慕って横浜正金に入ったが辞めて晴耕雨読の仙人生活をしていた日原昌造を説得にかかる

l  諭吉先生の泪

1894年、病に倒れた小泉を泪で見送り、諭吉も98年脳溢血で倒れると、新世紀に相応しい新道徳綱領の宣布の悲願達成は日原を措いて他になかった

 

第7話     福澤家に異人加わる

l  桑港のふしぎな邂逅

1899年、1年余にわたる欧米教育事情の視察を終えた慶應大教頭の門野は帰国の途につく

l  カンニング問題とカワカミ一座

門野は、桑港に着いたばかりの川上一座と遭遇。川上音二郎は慶應の学僕だった

l  苦難の訪れ

福澤家の婿養子となった岩崎桃介は、勉学で身を立て両親に報いようと志し、福澤の姓を名乗る代わりに海外留学をすることになり、人生が一変

l  「細ともし」の1

明治維新で凋落した歌舞妓に代わって勢いがあったのは、西洋風のリアルな演劇と、川上音二郎らの壮士劇。川上座の苦境を支えた番頭の作った俳句の3(結句)が「細ともし」

l  明と暗の交差

同じ塾生でカンニングや門限破りなど不行跡を働きながら、川上音二郎は退学処分としながら、岩崎桃介は婿養子にした。桃介は、1886年養子になるとすぐに留学するが、実父母の逝去もあって2年余りで帰国、諭吉の投資する北海道炭鉱鉄道に就職。大仕事をして北炭を甦らせるが、結核に罹患。それを援けたのがドイツ帰りの北里柴三郎

 

第8話     敵味方、それぞれの想い

l  夢の燠火(おきび、)にともった灯

諭吉が晩年注力した事業が、東京に大規模な伝染病研究所と病院の設置

l  ベルリンから来たサムライ

1890年、コッホが結核の新薬を創製。その下で学んだ北里は天下の細菌学者に成長

l  孤立した北里と福澤の出会い

1874年、東京医学校に入った北里は、人道・人倫から筋を通し教授陣や他の学生たちと対立、帝大から内務省衛生試験所に入るとドイツに留学、コッホ研究所で赫々たる成果を挙げる

日本でも伝染病研究所の設立が画策され、帝大閥で固めた構想が持ち上がるが、北里の研究所創設が先行。脚気の病因を巡る論争でも恩師の病原菌発見に泥を塗ったとして忌避

l  柴三郎、タヌキに騙されること

1892年、帝大閥の包囲網に絶望した北里が、公衆衛生を取り仕切る上司の長与専斎から紹介されたのが長与と適塾同期の諭吉。諭吉と森村市左衛門の支援により私立の研究所と病院を開設。諭吉は、病院の事務長に慶應の卒業生を派遣、93年の結核療養所開設は非常な評判を呼び、借財は1年で返済

l  ベルリンにはじまる因縁

1887年当時、ベルリンには前途有望な日本の留学生総勢19名が結集(「ドイツ・ナインティーン」)。北里や森のほか、ジョン万次郎の息子の中浜東一郎などもいた

l  思いがけない反対論

手狭になった研究所を内務省の肝いりで建て替える計画が、元幕府蘭方医で衆議院議員・長谷川泰の尽力で進められたが、予定地の芝・愛宕町の住民から反対運動が起きる

計画は、長与や後藤新平らの内務省が主体、一方、帝大側は文部省と組んで対立。結局内務省案が通る。長谷川は長岡藩の軍医、松本良順と順天堂の佐藤尚中に西洋医術を学び、河合継之助に雇われ、最期を看取る。西洋医学者を民間で養成するための済生学舎も開校させるが、これが後の日本医大。衆議院議員の後は後藤新平を継いで内務省衛生局長に就任

l  松山棟庵対森林太郎

諭吉の主治医で北里の右腕の松山と海軍の高木兼寛は、スラムを伝染病の温床とみて都市からの追放を唱え、1889年には東京の芳川顕正知事の施策に取り込まれ、帝都中心部を縮小する市区改正案となるが、そこに伝染病研究所を建てようとした北里に、地元の芝の住民が猛反発。反対の急先鋒はドイツで公衆衛生と都市計画を学んで前年帰国した森林太郎

l  諭吉、喧嘩を買ってでる

93年、反対論がさらに激しくなって伝染病研究所の建設に危機が迫ると、諭吉は無害実益を説く意見書を『時事新報』に掲載。北里は表向き所長を自認し、竣工後に復帰する

l  桃介のベッドにて

桃介は北炭での激務の末に肺結核となり、さっそく北里の病因の入院患者となる

l  養生園で見た「未来」

諭吉の肝煎りと支援で出来た結核療養施設の土筆ヶ岡養生園は、おいしい飲み水と明るい電気により、暮らしの革命からさらにはそれらを供給する企業体の革命を狙ったもの

l  挫折した夢と株券

95年、80年に一旦廃止した医学部の再興を決断

 

第9話     以て瞑すべし

l  清水湊を通過する車内で

1900年、王子製紙の取締役に就任した桃介は、前年自ら興した北海道の樹木資源の活用を狙った丸三商会を倒産させている

l  ある石碑と、咸臨丸の悲劇

最後まで幕府軍軍艦として抵抗した咸臨丸は、清水港で修理しているところを官軍艦隊に砲撃され、20名近くの死者を出し、咸臨丸は拿捕され江戸に回航。その殉難者を悼む碑が清水・清見寺に建てられたが、末尾に「食人之食者死人之事 従二位榎本武揚」とあるのを見て諭吉は激怒。「人の食にあずかった者はその人のために死ぬ」の意であり、「従二位」とまで書いた

l  「碧血(へきけつ)」と侠客(きょうかく)

官軍の殉難者埋葬禁止に逆らって葬ったのが清水次郎長こと山本長五郎。一説に、次郎長を吟味したのが山岡鉄太郎と言われ、岡本綺堂の戯曲にもなる。以後、「死人に官軍も賊軍もない」との次郎長の言葉が広がり、各地で賊軍の死者を葬る仕事が侠客に委ねられた。「碧血」とは、『荘子』の言葉で、忠義を全うして死んだ武人の血は3年して碧玉に変じる故事

l  瘠せ我慢の怨念

箱館で死刑判決を受けた榎本の助命嘆願を引き受けたのが、幼少からの友人だった諭吉

殉難の碑に題字を請われた榎本は、徳川家の恩顧に浴した者として、徳川を守るために一命を賭した部下たちの名誉を、まず真っ先に顕彰しなければならなかった。この心境を諭吉は「瘠せ我慢」と表記したが、榎本も勝も静かに死者たちの冥福を祈るのが道であったはずにも拘らず、榎本は手のひらを返して栄達を望み、従二位と刻ませた。勝も伯爵となって恥じない

諭吉は、2人に質問状を叩きつけ、檄文を死の直前『時事新報』に「瘠我慢の記」として掲載

l  元旦に載った記事

「瘠我慢の記」に対し、『国民新聞』には徳富蘇峰と推察される批評が掲載される。勝を、無血に天下交代を実現させた立役者と持ち上げる

l  2つの誤解が生んだ「列強侵略説」

幕末の諸史料を見る限りでは、列強には国論として日本を占領するとの謀略はなかった。政治的な緊張状態を現出させた要因の多くは、現場での感情的な突発事故にあり。日本人は、この時期集まってきた外国船に対し2つの意味で誤解。1つは、日本に対しても強奪手法を用いてくると考えたこと、もう1つは、「貿易」という経済互恵の方法が理解できなかったこと

l  新たな説得術、「漫画」の出現

『時事新報』でも、絵で読ませる社会記事として新聞漫画を重視

l  来日した外国人の本音

勝は亡くなる直前摂津守に以下のように申し送りがあった。「諭吉から晩節を汚したと罵られながらも、徳川家の存続が未来永劫叶えられる様、政府内部から運動をしてきた結果、98年に慶喜様が聖上陛下に拝謁され、その願いが叶った。聖上は慶喜様と酒を酌み交わし、公武合体がここに完結したとも仰せになられ、朕は徳川から天下を取ったが、これで罪滅ぼしが出来た、とも仰せになられ、慶喜様も、これも浮世のことゆえ、致し方のないことでありました、と返された。摂津守にだけ自らの心情について一言伝えたい。われ、以て瞑すべし、と」

勝にしてみれば、公武合体のような野合じみた講和は本意ではなかったが、聖上と慶喜の気持ちが一致したことで、思い残すことなく死ねるということだったのだろう

l  川上音二郎、欧米大立ち回りの巻

1901年、桃介が『川上音二郎米欧漫遊記』の原稿を送って来た。シスコを皮切りに、興行師に騙されながらも各地で成功を収め、東海岸からヨーロッパに渡る

l  華のパリーで大喝采

パリでも大成功を収め、シベリア鉄道経由で日本へ

l  諭吉、川上の快挙に想う

川上が演劇の改革に命をかけ、福地桜痴も海外の小説を翻訳して歌舞妓や落語に材料を提供し革命を起こすのを見て、諭吉も遅ればせながら演劇改良のために腰を上げる

 

第10話 一片の論説、天を動かす

l  善きも悪しきも大福澤の感化

諭吉には、実践的な教えを学生たちに納得させる方法を捻り出す「観察力と想像力」があったのは事実で、その人の現状をよく観察し、どう説得すれば理解させられるかを一瞬にして見抜く力があった。また、飢えで苦しんでいる貧乏な若者を援助することに時間と金銭を費やす「趣味」のようなものがあって、近辺を歩きながら見込みある若者を見出しては支援を与えた

l  消極的な金儲けの達人たち

諭吉は、晩年の1年間、三田の学舎を叩き売ってでも世に広めたかった「修身」の綱領作りに心血を注ぐ

消極的に稼ぐのが分相応でいい

l  森村市左衛門と中川嘉兵衛のこと

森村組も、御用商人として大儲けする機会はいくらでもあったが、福澤の教えを守って自重

中川は三河の出身、塾員ではないが福澤の崇敬者。横浜で外国人相手に牛肉料理店を開くが、夏に肉を食わせるために諭吉の入れ知恵で氷作りに励む。瘠せ我慢の仕事だった

l  見果てぬ夢のために

98年、脳溢血で一時危篤状態になったが、幸運にも回復。後継者に譲る手配を始める

大学の教育体制は、門野を欧米に派遣し、調査の成果を大学の改革に結実させることにする

大学では真の学問を自発的に行わせるべきで、教育を受ける義務が教育を受ける権利に置き換わることで、高等教育への転換が生まれ、好きな学問が自由にできるようになるから、学生も学問に身が入り、喜びや生き甲斐を感じるようになる。学生と先生が同じ屋根の下に暮らす寄宿舎もでき、両者が一丸となって組織する「俱楽部」が無数に生まれ、代表は先輩との交流を目的とした三田社交倶楽部や、音楽愛好家の集うワグネルソサイエティ(1901年創立)

l  カンニング撲滅同盟団?

99年、自治会の有志による「革新同盟団」は独立自治の精神で塾風の革新を期すとの綱領を掲げ、カンニングの撲滅、喫煙への制裁、制服着用励行を促し服装を監視、塾員と塾生の関係修復などの活動を行う。残された問題は、「教育勅語」との折り合いの決着

l  『学問のすゝめ』 vs. 「教育勅語」

民権派の議院開設要求を聖上陛下自らが受容したことで、新政府は開明派の取り込みが容易になったが、技術や産業といった文明改革は進んだものの、精神的な部分はなお保守的で、国民に自由な言論権を与える代わりに、教育の実権を民間の塾から奪い取り、東大を頂点とする国立大学設置という、国家のために働く国民を作り出すための管制学校を建てだした

同時に政府は1890年、儒教的教育を復活させる手段として、親授の「教育勅語」を起草、その先頭に立ったのが文部大臣経験者の井上毅

l  福澤の諭吉、「教育勅語」をうたがう

新政府は、攘夷を敢えて切り捨て、開国に舵を切った代わりに、社会を統制してきた古い道徳あるいは徳育を温存

l  物乞いの女房の生き方

死の直前になって漸く、「物質世界の知を与えることは文明開化の仕事ではなくなり、情を―故人やその損得を超えた、集団で暮らす人の心構え―すなわち、心の自立こそを、説かなければならない」と悟り、死ぬ前にその答えを出さなければならないと覚悟

l  女大学を啓(ひら)

晩年に2つの著作を書きたいと願っていた。1つは女性の修身に関する手引書で、98年前半までに口述筆記を終えた。もう1つは『女大学評論』と『新女大学』で、同年末に書き上げる

男女平等を柱にした女人道の教えを書き終えて、脳症で倒れる

l  新たなる「修身」の創立へ

教育界における修身の問題の混乱を収めるため、新社会に用いるべき生き方の手本を市民に示す。女性を苦しめている旧来の女道論を配し、女性を活用し、満足させる徳教を、箇条書きにて分かりやすく提示。基本は一夫一婦制、男女平等、男女相愛

綱領起草に尽力したのは日原昌造。条文の総括として「独立自尊」を標語とし、前文と29条からなる「修身要領」としてまとめ、1900年紀元節に成立、『時事新報』に掲載

l  福澤諭吉、最後の戦い

たちまち社会的論争に火がつく。福澤側も全国遊説隊を派遣して啓蒙に努める

l  廃塾の危機に立つ

諭吉は、ついに啓蒙のために慶應義塾の廃校を宣言したが、1901年初に不帰の客となり、廃校は沙汰止みとなる

l  世紀送迎会のさざめき

死の直前、三田の丘で学生自治会主催の世紀送迎会開催。知から情へ向かう探究の主体を、次世紀に引き渡す伝達式となった

 

エピローグ 死から覚めて視た未来

 

 

版元 ドットコム

咸臨丸による渡米、不偏不党の新聞『時事新報』創刊、そして慶應義塾の創設と教育改革――。開国に伴う体制一新の時代、勝海舟、北里柴三郎、川上音二郎ら傑物との交流と葛藤の中で、国民たちの独立自尊を促し、近代日本の礎を築いた福澤諭吉の生涯。

 

 

福翁夢中伝(上・下) 荒俣宏著

史観に新風吹き込む多声性

2024224 2:00 [会員限定記事] 日本経済新聞

福沢諭吉については、日本の近代を開いた偉人としての評価が定まっている。また、その創設した慶応義塾大学についても、有数の学術機関として世評が高い。

(早川書房・各1980円)

そんな福沢の生涯に新たな光を当てる著作を生み出せるとしたら、荒俣宏その人を措(お)いていないのかもしれない。『帝都物語』など、博覧強記に支えられた鮮烈な作品世界を展開してきた作家ならではの新機軸がここにある。

読んでいて興趣が湧くのは、その構成の現代性。年齢の異なる福沢諭吉、そして作家の視点などを取り入れた「多声性」が読者の興味を惹きつける。

『福翁自伝』などを通して知っていると思っていた福沢諭吉の生涯について、認識が揺れる。福沢が乗って米国に渡った咸臨丸が密かに担っていたミッションとは何か。福沢は、富国強兵で発展した明治の日本に対してどのような思いを持っていたか? 政府で活躍する人材を輩出する帝国大学との比較で、かえって浮き上がる慶応義塾の特質とは何か?

読者は、福沢が生きた時代を重層的になぞることで、歴史の醍醐味と奥行きを知る。さらに、そもそも事実をとらえ、記述するという行為に潜む危うさ、頼りなさ、だからこその面白さをも浮き彫りにすることができる。

『福翁夢中伝』は、現代から離れた時代を描くフィクションのあり方を、アップデートする。たった一つの事実をめぐってさえ、さまざまな見方が交錯する現代。歴史小説というジャンルを、今日の世界で求められるリテラシーの水準に一気に運ぶ作品である。

しかも、その筆致は愛に満ちている。自身も慶応大学出身の著者だからこそ、文明開化の偉人、福沢諭吉の描写に新風を吹き込むことができた。

幕末から明治にかけて「坂の上の雲」を目指して駆け抜けた群雄を描いた司馬遼太郎の業績は、「司馬史観」として広く受容された。荒俣さんは、複眼的構成を導入することで、明るく希望に満ちた日本像を陰影とともに再構成することに成功している。

安易に没入して酔うことを潔しとしない現代ならではの、ファクトチェック経由の感激。福沢諭吉を立体的に描いて夢中にさせる「荒俣史観」が誕生した。

《評》脳科学者 茂木 健一郎

 

 

「『福翁夢中伝』記念講演」 荒俣宏・鹿島茂トークイベント開催のご案内 2023/11/15

早川書房では125日に荒俣宏『福翁夢中伝』を刊行します。博覧強記の著者が描く、近代日本の立役者・福澤諭吉評伝小説の決定版です。

これを記念して、著者である荒俣宏さんと、長年日本でフランス文学の研究や文芸評論に携わってこられた鹿島茂さんを登壇者としてお招きし、下記の日程で「『福翁夢中伝』刊行記念講演」を開催いたします。

 

「福翁自伝よりもっと面白い福沢伝を」荒俣宏さん、福沢諭吉の評伝小説を刊行

2023/12/14 05:00 讀賣新聞オンライン

 作家の荒俣宏さん(76)=写真=が、福沢諭吉の評伝小説『福翁夢中伝』(早川書房)を刊行した。11日には、荒俣さんの母校の慶応大三田キャンパスで、仏文学者の鹿島茂さんとの記念対談が行われ、約100人が参加した。

 『福翁夢中伝』は、晩年の福沢が「人生は夢の中の出来事のようだ」と、渡米や慶応義塾の創設など自身の半生をユーモラスに語る物語。早川書房の早川浩社長から、「(福沢の自著)『福翁自伝』より、もっとおもしろい福沢伝を書いてほしい」と言われ、生まれた作品だという。

 対談では、鹿島さんが「内容は正しい資料を使っていて、語りがフェイクだ」と新刊を評すると、荒俣さんは「福沢諭吉になったつもりで書いたら、スラスラ書けてしまった。創設者に忖度せず等身大の姿を描いたから、大学卒業資格を剥奪されるかと思った」と応じた。

 福沢は自身の家族を大切にしていたといい、荒俣さんは、「福沢先生がやろうとしたのは、『文明開化』ではなく、品位のある家族を持てる国にすること。その教えを大学の外にも伝えようとしていた」と語った。

 

 

Wikipedia

『福翁自伝』(ふくおうじでん、旧字体:福󠄁󠄂自傳)は、幕末維新明治洋学者教育者である福澤諭吉晩年の口語文体による自叙伝である。

1898(明治31年)71から1899(明治32年)216まで計67回にわたって「時事新報」に掲載された。単行本は1899年(明治32年)615に刊行。

福澤自身の人柄が判るだけでなく、幕末から維新にかけての動乱期に、近代思想の先駆者として日本を大きく導いた当事者による自叙伝は、日本近代史の重要な文献でもある。「門閥制度は親のかたき」等の有名な言葉もこの自伝からである。

成立

西洋では学者の多くが自叙伝を著すことから、慶應義塾関係者[?]は福澤に自伝を書くよう勧めていたが、多忙を極め一向に執筆にかかれないでいた。そんな中、ある外国人[?]から幕末維新前後の体験談に関するインタビューを受け、口述筆記という方法を思い立ったのがきっかけである。福澤諭吉が口述した内容を、矢野由次郎(時事新報記者)が速記し、その原稿に福澤自身の手で推敲加筆するという形で書かれた。そのためか[独自研究?]本文では福澤の記憶違いなどが散見される[誰によって?]が、文法誤記は脚注により指摘され、訂正されている。1948(昭和23年)に速記原稿が発見され、小見出しが付けられている。

また福澤が、個人的にも尊敬していた18世紀アメリカ政治家・著述家だったベンジャミン・フランクリン(「フランクリン自伝」)に、大きく習ったものともされる[誰によって?]。近年多く行われているオーラル・ヒストリー発祥の書ともいえる。[独自研究?]

差別表現問題[編集]

本書における

「そんな()けだから塾中の書生に身なりの立派な者は()ず少ない。そのくせ市中の縁日など()えば夜分屹度(きっと)出て行く。行くと往来の群集、就中(なかんずく)娘の子などは、アレ書生が来たと云て脇の方に()けるその様子は、何か穢多でも出て来て()れを(きた)ながるようだ。如何(どう)仕方(しかた)がない。往来の人から見て豚を殺す穢多のように思う(はず)だ」

との記述が問題視され、「穢多」の語が「ゝゝ」と伏字に置き換えられたり「えた」と平仮名表記に改竄されたりしたことがある。

この点について、本書の校注者の会田倉吉は「本書中には、差別用語として使用を当然さしひかえるべき表現が、数か所にわたって見うけられる。(略)その福沢にして、いかにも無造作にこのような表現を用いている事実は、その生きた時代をしかと知るうえになんらかの示唆を与えることと思われる」と述べ、本文中の差別表現を敢えて原文のままとした。

 

 

 

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