帝国の疫病 Jim Downs 2024.5.4.
2024.5.4. 帝国の疫病 - 植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか
Maladies of Empire; How Colonialism,
Slavery, and War Transformed Medicine
2021
著者 Jim Downs ゲティスバーグ大学歴史学教授。専攻はアメリカ史、医学と公衆衛生の歴史。本書が3冊目の著書である
訳者 仲達志 翻訳家。主な訳書にピリング『日本‐喪失と再起の物語』『幻想の経済成長』、マーフィー『日本‐呪縛の構図』、ハリス『セガ vs. 任天堂』、ネイピア『ミヤザキワールド―宮崎駿の闇と光―』
発行日 2024.2.16. 第1刷発行
発行所 みすず書房
序章
ガーナから新大陸に向かう奴隷船の中で食事を拒否した男がナイフで自殺を試み、船医のトーマス・トロッターが応急処置をしたが男は爪を立てて傷口をかきむしり息絶える。それから数十年後の1839年、ロンドン在住の医師ロバート・ダンダス・トムソンが男のことを、英有力医学誌『ランセット』に紹介。トロッターが1790年代に議会で奴隷貿易に関する証言を行ったものを逸話として引用。人間が食事抜きでどれだけ長生きできるかの調査の過程で1週間以上も生存し続けた事実に関心を持ち、残虐行為や奴隷貿易の残虐性については無視
トムソンは、「栄養欠乏状態」が病気を惹起することや、アフリカの住民は食事抜きでは10日間しか生存できないと結論づける
医師が患者の事例を研究に活用してきたことは周知の事実だが、奴隷貿易からも実例を引いていた事はあまり知られていない。奴隷貿易では、多くの人間が過密な環境に置かれたために疾患が発生し、医師たちに貴重な情報を提供する結果となった
本書では、世界各地で発生しつつあった疫学的危機へと研究の焦点を移し、以下のような主張を展開――疫学とは複数の集団における疫病の分布、感染拡大、感染抑制に関わる医学の一分野であり、その発展はヨーロッパの都心部だけでなく、国際的な奴隷貿易、植民地主義、戦争、及びこれらすべての事象に伴う人口移動を対象とする調査研究に基づくものであった
「疫学」という呼称は、ロンドン疫学会が設立された1850年に公式に認められたが、疫学的思考そのものはかなり早い時期から発展を遂げており、とりわけ疾病の発生原因、感染拡大、予防策を解明するための追跡調査に関しては様々な研究手法が考案されていた。軍の病院や野営地、奴隷船、及び大規模な人口移動は人が密集した状況を生み出し、医師にとって疾病の感染拡大経路を可視化しやすくしただけでなく、これまで都市、監獄、病院での観察研究から得られた知見とは異なる様々な種類の情報をもたらした
大規模な集団の健康に関する医療情報を中央で一括管理し、分析するプロセスが展開され、欧米の政府は生物学に関する新たな理解に基づき、各集団に対して権力を行使するメカニズムを発展させた
本書では、学術的研究では別個のテーマである奴隷制度、植民地主義、及び戦争の間に、医療専門家の観点からすると多くの共通した特徴が見出せることを明らかにする。これらの歴史的事象はいずれも、行動の自由を束縛された人々の大規模な集団を生み出し、その構築環境が医師たちが疾病の拡大経緯を観察することを可能にし、流行を引き起こした社会的要因を調査するきっかけを与えた。本編は、インドの監獄で死亡したイギリス兵の話から始まるが、それは当時の医療界全てにおいて、新鮮な空気の必要性を示す試金石的な事例として用いられるようになった。最後は1865~56年のコレラ・パンデミックの拡大経路追跡のために世界各国が行った取り組みを詳述して終わる
本書では、1756~1866年に形成された考え方がどのように医学理論として体系化され、現代疫学の発展に寄与していったかを明らかにする――観察から始まり、公式の報告書にまとめられ、最終的には主張や理論として医学専門誌や講演や学術論文を通じて発表されるが、疫学の分野に影響を与えた手法がどうやって生み出されたのかを解明
感染症の世界的な急拡大に関する医師たちの報告書は、特定の地域で疾病がどのように広がったかを示す鳥観図を医学界に提供。特に軍事医学は、感染地域の位置を特定することで、拡大経路を地理的に把握することを可能にした。流行病の全体像を俯瞰的に捉えられるようになったことは、現代疫学における重要な手法の1つである医学的監視(サーベイランス)の枠組みを発展させる契機となった
本書ではさらに、国際的な奴隷貿易、植民地主義の拡張、クリミア戦争、アメリカ南北戦争、及びイスラム教徒の聖地巡礼が同時期に起きたことが、医学に重大な影響を及ぼしたという主張を展開。従来は個別のテーマとして別々に取り上げられていたものを包括的に取り上げ、医学界における疫病の感染拡大に関する理解をどう変化させていったかを明らかにする
世界の様々な拠点で実践を重ねることにより、医師たちはコスタギオン(接触感染)説に磨きをかけ、様々な議論が新しい手法の発展――データ収集、医学的監視、感染拡大の地理的可視化mapping――に不可欠な役割を果たした。いずれも今日でも疫学的実践の根幹をなす
本書は、埋もれた歴史を掘り起こし、疫学の発展に貢献した諸要素を可視化することを目指して書かれた。肝要なのは、医学的理論家や医師やその他の専門家たちから、自らの健康や苦痛、そして時には死をもって医学的知見の発展に貢献した人々へと焦点を移す試みでもあること。本書が目指すのは、そういう人たちが忘れ去られ、歴史的文献からも姿を消した状況を明らかにし、その歴史的功績を本来の形で伝えることである
第1章
過密な空間――奴隷船、監獄、そして新鮮な空気
1756年、インドのカルカッタ市内で、負傷し疲弊した146人のイギリス兵が、うだるような暑い獄房に幽閉。後に「カルカッタの黒い穴」として知られる牢獄で、ウィリアム要塞の守備隊長で捕らえられたホルウェルの証言に基づき、イギリスの医師ロバート・ソーントンが実情を報告したもので、喉の渇きが我慢の限界を超えた時、窓の下の「新鮮な空気」が彼を甦らせたという。ようやく釈放された時、生存者は23名で、残りは窒息死。ソーントンは、この事例を根拠として、新鮮な空気の十分な補給のない過密な空間の危険性について警鐘を鳴らしている
空気に関する初期の研究としては、近代化学の創始者として知られるロバート・ボイル(ボイルの法則)などによって空気の構成要素の特定などが行われていたが、同時期に医師たちは空気の質的変化という観点から疾病の分析を始めていた
1752年、軍隊病に関する著作で「汚れた空気」、悪臭を放つ空気が多くの疾病を引き起こすとし、密閉空間に新鮮な空気を供給するための機械換気装置の使用を推奨
1783~84年に海軍軍医トロッターが奴隷船で行った観察の結果、アフリカ人奴隷が極度の過密状態にあることを、1790年英議会下院の奴隷貿易に関する公聴会で証言。奴隷船ブルックス号の船内見取り図は大西洋両岸において奴隷制廃止運動を象徴する最大のシンボルとなるが、生命維持における酸素の重要性に関する初期の科学的理解を深めた事実は、人々の記憶からほぼ消え去ってしまった。1783年、ブルックス号は西アフリカの黄金海岸で、若くて頑強で健康な上質の奴隷を100人単位で購入し、高さ1.5~1.8mの船倉に押し込めて大西洋を渡る。室内温度は華氏96度。間もなく何人もの奴隷の病状観察から壊血病で死へと進む様子が確認される。航海後に生き残った約600人のうち、半数が壊血病の症状を保有
新鮮な野菜や果物を与えると症状が改善することが確認される
1786年、トロッターは帰国後『壊血病に関する観察』を上梓、換気不十分な船底に幽閉され、満足な食事も与えられず、運動も許されなかったような悪条件が壊血病の深刻な流行に繋がったとして、既存の他の諸説に異議を唱え、直接口で柑橘類の果汁を吸い取らせることこそ最善の治療法だと主張。後に医療人類学者たちは、これらの諸々の悪条件を「構造的暴力」としたが、トロッターは、国際的な奴隷貿易の残忍性と暴力性がアフリカ人の壊血病への感受性を高めたと強調
18世紀における気体化学の発展の影響も否定できない。過密な環境が空気の質に与える変化について考察が進み、より大型の船で少ない人数を搬送することが推奨された。柑橘類の果実が治療に有効なのは、それらに「生命維持に必要な空気=酸素」が含まれているからで、「汚れた空気」が発病しやすい条件を作っているとし、新鮮な空気の重要性を強調
ただ、トロッターは医学界の専門家向けに臨床用語を使用して書いたため、具体的な事例の詳細は記述から省かれ、アフリカ人奴隷の存在は「多くの事例」としてしか言及されていない
船底における過密状態は新鮮な空気の必要性を可視化しやすくし、新興分野である酸素の研究に科学的根拠をもたらす。過密状態や新鮮な空気の不足が病気や死を招きかねないという結論はいまでは常識だが、当時はまだ事実として定着していなかった
個人ではなく集団の健康を研究対象としたのは、公衆衛生に関する考え方の基盤となる
トロッターの証言は、酸素の重要性を説いた複数の医学論文で引用され、気体医学の提唱者の1人だったソーントンは『医学選集』(1796)で「動物体内における気体酸素の働きと、生命維持と随意運動の原因」を取り上げ、トロッターを著名な科学者たちと並記し、彼の貴重な観察が「酸素の働き」の理解を深める上で、医学界にいかに重要な証拠を提供したかを強調
18世紀後半のイギリスでの監獄改革運動も、水や空気など衛生状態の改善に貢献。特に「新鮮で爽やかな空気」と「開放された窓」の重要性を強く訴え、1779年の監獄法改正に繋げる
刑務所熱が過密な生活環境に起因する医学的な疾患であることが明らかにされ、十分な対策が取られることにより獄中の罹患率が低下
同様に、フランス革命政府も啓蒙思想から生じた合理主義と秩序を重んじる考えに基づき、監獄と病院における衛生改革と新鮮な空気の必要性を重視する提言が行われ、19世紀前半のコレラなどの疾病の根本原因を解明することはできなかったが、健康的な環境を促進するための効果的な手順の作成や、疫学的原理の誕生の促進など一定の効果をもたらす
新鮮な空気と換気の重視は公衆衛生の主要原則の1つとなったが、それは貧困層の過密な生活環境の観察から生まれたもので、流行病が発生し拡大していくプロセスを理解したい医師たちにとって、貧困層は格好の調査対象となった
イギリス帝国が世界の他の地域に版図を広げるに従い、過密環境の事例研究は、特にインドのような地域で急増し、疾病に対する疫学的アプローチの発展に寄与するようになった。疾病や症状を体系的に分類し、病気別の死亡率の一覧表を作成するなど、疫学の発展を特徴づける統計学的なアプローチを実践
疾病予防と公衆衛生の歴史は、薄汚れた都市中心部を浄化する改革の試みに焦点を当てることが多いが、植民地主義と奴隷制度が作り出した過密な環境も新たな懸念を生じさせ、新たな任務地に派遣された医師たちは、そこで感染症の原因と拡大に関する新たな医学理論を構築。奴隷貿易の発展が、新たな医学的理論誕生の契機となる医療危機を引き起こした
人々の健康と生命を守るために、換気装置の設置が有用であることが強調され、その証拠として奴隷船の換気装置が奴隷の死亡を1/4から1/20以下にまで減少させたことを挙げる
過密な環境、新鮮な空気、換気の役割について書かれた歴史文献では、実際に過酷で暴力的な状況に置かれて声を挙げたアフリカ人奴隷の哀願が強力な証拠となって換気装置の設置を検討させたり、国際的な奴隷貿易が軍艦の設計を大きく進歩させたということを読み取ることはできない。同様に、医師や医療改革者たちが各地の集団を対象に接触感染と感染に関する理論を検証し始めた際にも、事例の可視化に貢献することで医師の理解を助けた人々――洗濯婦や病院職員――の姿が記述から抜け落ちてしまった
第2章
歴史から消された人々――コンタギオン(接触感染)説の衰退と疫学の台頭
1830年代、エジプトのアレクサンドリアなどペストが流行した都市から船で渡ってきた旅行者が、マルタ島で隔離されたが、彼らの汚れたリネンを洗った洗濯婦の名前は伝えられていない
ヨーロッパへの旅を続ける前に、島の隔離施設であるラザレットと呼ばれる病院に一定期間収容され、感染懸念あるものは隔離期間を延長された
マルタの洗濯婦たちを29年観察した結果、ペストに感染した洗濯婦は皆無で、接触感染という支配的考え方を突き崩し、隔離規制は不必要かつ多額の出費を伴う時代遅れの代物だと主張されたが、洗濯婦たちのことは観察者たちの眼中にはなかった
感染症に関する医学界の理解は、帝国の支配下にある世界各地の集団に依存。帝国の拡大により、海外の流行事例を研究できるようになった。植民地支配のお陰で、医師たちが社会状況と健康問題の関係について高い調査能力と発揮でき、気候や非衛生的な状況や居住空間の過密度を含めて、物理的及び社会的な環境を疾病の原因とする議論を展開
19世紀前半、医師が世界中に活動拠点を持ち、各地での体験に基づいて報告書を作成し始めると、病気が広がるメカニズムを理解するために病院職員や洗濯人の健康状態を観察する手法が広く活用された
1837年、ペストが流行していたメッカ巡礼から船で地中海の港に戻るイスラム教徒たちにも注目、マルタ島で隔離中も、施設内が過密状態だったにもかかわらず、ペストが他の収容者に感染していないことから、汚染された空気から引き離され新鮮な空気への露出によって、船内が「浄化」されたことがペスト化の継続を阻んだと主張。隔離中に感染した者も皆無だった
現在の視点から見れば、ペストの主要な媒介者はノミ、肺炎を伴う肺ペストの場合は人から人へと空気感染する可能性がある。当時の医師たちの貢献は、感染に関する主張の正しさよりも、むしろ彼らが活用した手法にあった――世界各地の現場の最前線に立つ医師たちに質問状を送って、その回答を「証拠」として焦点を絞り、検疫法の隔離規定の妥当性を論じた
マルタの洗濯婦やイスラム教巡礼者のほかにも、インドの病院職員やアラブ人村落の住民など、帝国内の様々な集団で疾病が拡大する経緯を観察する機会に恵まれ、それらの情報を広く集めて分析する取り組みは、現代疫学における標準的手法の発展に寄与
イギリス疫学会創始者の1人ミルロイは、感染性疾患(インフェクシャス)と接触感染性疾患(コンティジャス)の違いについて論じる――感染性疾患にあっては、健康体であっても、複数の人間が狭くて換気が悪い空間に押し込められれば必ず、彼らの身体から放出された不快な気体に空気が次第に汚染され、熱病に冒されるのはほとんど不可避となる
次章カーボベルデの住民たちの証言は、被支配者の立場の人々が疫学的手法の誕生にどのように貢献したのかを示す転換点となった
第3章
疫学が伝える声――カーボベルデで熱病を追跡する
1845年、カーボベルデのボア・ヴィスタ島が爆発的な流行病に見舞われ、病因を巡って議論が分かれた。1833年に廃止された奴隷制度に違反した奴隷貿易取り締まりのため、イギルスの軍艦が派遣されたが、その出航後に正体不明の致死率の高い疾病が蔓延。住民の間で囁かれた様々な噂を断片的に繋ぎ合わせて事態を把握しようとした
軍艦はシェラレオネなどを回って熱病患者もいたが、「普通の沿岸熱」として処理され、船員も上陸したため熱病が住民に広がる。船員の間にも伝搬したため帰国の途に就くが、熱病の流行が島を覆い尽くし死者が続出。英国籍船舶への検疫強化を回避するため、イギリス政府は島に調査団を派遣、100人を超す人々に聞き取り調査を行う
調査団の報告書からは、奴隷制度と帝国主義が疫学的手法をどのように発展させたかが明確に見て取れる。住民が治験の創出に貢献。彼らが調査に参加したこと自体が、面談形式の聞き取り調査を疫学的分析の根幹をなす手法の1つとして確立させる要因となった
島の人々への詳細な聞き込みによって、熱病が人から人へと感染し、島全体に広がっていった過程が明らかにされる。19世紀末迄には蚊によって伝染することが判明しており、接触感染の有無に焦点を置いたことは的外れではあるが、対面による聞き取り調査は注目に値する。流行病の発生源、性質、挙動を理解する上で、患者自身の体験談が中心的な役割を果たすことから、地域住民に対し、体系的な手順に沿って一連の標準的な質問を行うことは、今や公衆衛生と疫学の双方において基本的な方法として定着
調査に回答した人々が重要な情報提供者として言及されることはないが、彼らの観察、知見、苦悩、さらには死でさえも、疾病感染の問題に対する医学界の取り組み、検疫・隔離規制に関する政策立案者の論争、疫学者による疾病拡大の調査方法の発展に寄与したことは間違いない。帝国主義がどのように科学知識を生み出したかを示す一例
当時の論争は、ジョン・スノウがロンドンで有名なコレラの調査を開始する10年近く前のこと
第4章
記録管理――イギリス帝国における疫学的手法の実践
1849年イギリスが、囚人の新たな移送先ケープタウンに輸送船を向けた際、地元の入植者は団結して反対、5カ月漂流してタスマニアに向かったが、この逸話は植民地の抵抗運動の一例としてよく知られるが、知られざる側面もあった。船内の1囚人がイギリス内相に手紙で、船内に横行する邪悪で忌まわしい行為を暴露し、虐待や管理不行き届きの調査を要求していた
世界各地で実施された疾病流行に関する観察研究には個人に関する詳細情報が満載され、いずれも官僚機構を通じて本国に送られたが、この囚人の手紙も同様のルートで保存された
帝国の成長とともに、標準化した記録管理システムが発達し、医学報告書を作成して本国の医療当局や政府当局に提出することが一般化し、さらにこのシステムを通じて観察結果を理論化するプロセスが形式化されていった。理論化するにあたり依拠した証拠の大半は、被支配者の立場にあった集団の調査から得られたもの
疫学誕生の発火点となったのは、19世紀半ばにロンドンで猛威を振るったコレラの大流行であると言われることが多いが、同時に、イギリス帝国全域において奴隷や植民地現地民をはじめとする被支配者集団の間で感染症が拡大したことも重要な影響を及ぼしている
1817~66年、コレラ・パンデミックは5回にわたって別個に発生、最初はインドで、そこからロシアとヨーロッパに拡大、大西洋を横断してカリブ海地域と北アメリカに拡散。欧米人にとって比較的新しい病気だったため、未知の疾病に震え上がった
官僚機構が流行病の動向を追跡する手段と化し、症状や治療法について議論をする際に連絡を取り合う手段を提供、世界中の流行病について秩序だった物語を展開することを可能にした。帝国主義のために設立された官僚機構が、疫学の発展を実現するための基盤として浮上
イギリスの官僚機構は、1800年代前半にこの種の情報収集の形式を体系化し、科学情報を保存するための政府公文書館を設立
コレラは汚染された空気を介して伝播するという考えは、後に事実と合致しないことが明らかになったが、彼やその他の人々が公衆衛生改革の一環として重視した清浄水の供給は、結果的に疾病減少対策にとって不可欠な要素となった。こうした医学的知見の多くは、植民地と軍の官僚機構という存在のお陰で創出され、流布され、体系化されていった
イギリス王室がカリブ海地域に医師を派遣したのは、帝国による経済的投資を保護するためだったが、この取り組みは疫学の発展を促進させるという思いがけない副産物を生み出す。疫学的手法の主要な特徴の1つである、疾病の流行を予防し、その拡大に歯止めをかける手段について報告することは、イギリスの帝国支配における重要な要素の1つだった
軍と植民地の官僚機構は、知見創出プロセスの下位体制として機能し、そこで義務化された記録管理は、疫学の発展に寄与するだけでなく、バミューダの監獄船で観察された同性間の愛情行為やジャマイカにおける解放奴隷の生活環境といった19世紀の日常生活に関する様々な詳細情報を後世に伝える役割を果たす
第5章
フローレンス・ナイチンゲール――クリミア戦争とインドにおける知られざる疫学者
戦争は19世紀半ばから後半にかけて、感染症の調査に利用可能な大規模な人間集団を動員したことにより、大きな影響力を及ぼすようになった。軍医たちは、戦争が惹起した医療危機に着目、戦争によって生じた生物学的大惨事は、疾病の原因、感染拡大、予防策に関する報告書を大量に生み出す。戦時下の医療は、疫学の分野を進歩させ、英米の医師が疾病の原因と感染を理解するための方法論を方向付ける重要な研究成果を生み出した
とりわけクリミア戦争(1853~56)を契機に、陸軍病院の悲惨な状態に注目が集まり、その結果、同様の状況にある英米の民間病院にも目が向けられるようになった
19世紀には大半の人々が自宅で医療行為を受けることを希望し、病因は主として貧困層や被収奪層のための施設と見做され、劣悪な環境は改善されず、博愛精神の下に設立された施設が、かえって患者の病状と死亡率を悪化させていた。監獄や奴隷船、植民地の大農園と同様、陸軍病院が疾病の拡大を助長していた状況を、説得力ある根拠を体系的に示して実証したのは医療改革者の功績だったが、中でも特筆に値するのがナイチンゲールの活躍
1854年、イギリスのジャーナリストたちが初めて陸軍病院の抱える問題を暴露。1828年の露土戦争では「流行病、ペスト、飢餓」によって8万人の兵士が死んだと指摘し、戦地での医療改善を訴えるとともに、女性読者にも戦争努力の支援を嘆願。それに呼応したのがロンドンの病弱婦人病院の院長だったナイチンゲール。同年、少数の看護師派遣隊を組織し、コンスタンティノープル近郊のスクタリ病院に向かい、「兵舎の女主人」として采配を振るう
ナイチンゲールは帰国後、現地での見聞を『病院に関する覚書』(1858年出版、800ページ超の大著)にまとめ、1857年陸軍の衛生状態を調査するために設立された王立委員会でも証言。負傷兵を看護した献身的な姿勢や戦地への従軍で示した勇敢さ以上に貢献したのは、公衆衛生と疫学における功績であり、統計学者としての足跡であり、彼女が実施した疾病予防策や公衆衛生改善の取り組み、疾病感染に関する理論の構築、さらには病院の設計など土木工学的手法の開発を見れば明らか。自身が疾病研究の分野で重要な理論家として頭角を現したのみならず、看護師が疾病調査において鋭敏な洞察力を発揮することを実証してみせた
彼女のキャリアで最も重視すべき点は、陸軍病院における高い死亡率の原因に対する考え方に起きた変化。初年度に多数の悪疫による高い死亡率の原因を栄養不足と物資供給の怠慢にあると考えていたが、55年イギリス議会が衛生委員会を組織して調査した結果、原因は不具合のある下水道と不十分な換気にあると指摘。その調査結果がナイチンゲールの理解に変化をもたらし、陸軍病院の衛生状況に対して細心の注意を払うきっかけとなり、衛生環境に関する調査の第一人者となり、衛生改革の提唱者として努力を続けていくことになる
調査結果をもとにナイチンゲールは、戦時中の総合的な病院運営のモデルとなり得るような総合病院制度を作り、複数の建物で構成されるか内部を壁で仕切り、病棟の両側には窓を設けて十分な換気が確保できるようにする必要があるとし、各病棟は管理を容易にし運動に利用できるように渡り廊下で繋ぎ、病棟は臨床的な指示を実行し効率的な管理ができるように十分な広さが求められると、細かい点にまで言及している
彼女の病院批判は女王夫妻の目に留まり、王立委員会設置の支持を取り付け
さらに、人口動態統計を担当する一般登録局の統計学者との共同作業から、戦傷死の7倍の兵士が予防可能な疾病により死亡していた事実を発見、併せて陸軍が直面してきた衛生面の課題を歴史的に遡って明らかにする
瘴気説の信奉者だったナイチンゲールは、疾病が空気を媒介して広がると信じていたため、病院内の換気を確保して「汚染された空気」を排出することを提唱、併せて排水不良や下水道と配管設備の設計が劣悪である点も指摘
クリミア戦争当初の7か月間における死亡率は、過去のどの疫病の時よりも高かったが、衛生改革実施の結果、終戦直前の6か月間は、本国の健康な近衛師団の死亡率と大差なくなった
彼女は、戦時中に収集した死亡率のデータと国内の死亡率統計を比較、兵士の死亡率が遥かに上回り、それも大半は病死だったこと、さらには陸軍の疾病の分類体系の変更の必要性についても言及。自ら考案した「ローズチャート」と呼ばれる円グラフを使ってクリミア戦争の死因別死亡率のデータを可視化。さらには、ロンドンの15カ所の病院を調査し、女性看護職員の死亡率が女性人口のそれを遥かに上回ることも示し、病院内の衛生状態の維持の重要性を強調、優れた看護師の予防可能な病気による損失は、兵士の損失より弊害が大きいとした
戦争での任務で大規模な人数の患者と接した結果、彼女は集団を対象とする疫学者が用いるような枠組みに基づいて分析を行うようになり、看護の現場に従事するより、病院の構造を調べ、統計を分析し、換気の改善策を講じることに全力を傾ける。疾病予防のための衛生管理の取り組みはメソポタミア文明でも存在が確認されているが、19世紀半ばにおいて、予防医学の誕生に繋がる決定的な転機をもたらしたのは、ナイチンゲール個人が鳴らした警鐘と、より広範な社会における衛生改革の実施だった。それにより、治療中心の軍事医療も変化を遂げ、疫学的な問題や課題にも取り組むようになった
彼女は、接触感染の議論にも異論を唱え、上下水道の整備、十分な換気など衛生状態の改善が感染症への罹患リスクを回避できると主張。理論よりも、既知の場所で具体的な状況から生じた説得力ある証拠を例示し、予防措置の手順も提案したが、発病の原因そのものは「有機物や汚染された空気を吸い込むこと」にあると信じた
彼女は従軍中に大病を患い、残りの人生を病院での現場から自室に閉じこもって過ごす。病名は明らかにされていないが、ブルセラ症(動物からうつる細菌感染症)と考えられる
帝国主義が生み出した巨大な官僚機構は、衛生状態や疾病の感染拡大に関する膨大な量の情報をもたらし、それはナイチンゲールに急成長中の応用統計学の原理を実践することを可能にし、彼女は現地に赴くことなく、インド全域の衛生状況を研究することができ、科学的知見の創出が可能であることを実証してみせた。帝国主義が、衛生状況の調査のために統計的知見と物語(ナラティブ)形式で書かれた報告書を活用する方法を普及させた
1858年、ナイチンゲールは王立統計学会初の女性会員に選出され、彼女の考案した「統一的な病院統計体系」が参加国政府代表に提供された
1870~80年代にかけて、パスツールやコッホが主軸となって細菌説が提唱され、ナイチンゲールは細菌説を一顧だにせず、環境的な要因への視点がぼけることを懸念する。両陣営の主張は必ずしも相互排他的ではなく、病気そのものの原因は細菌によって感染するが、公衆衛生は実践の問題で、彼女は顕微鏡で実際に細菌を観察した後でもなお、健全な衛生状態を維持するために現場で講じるべき対策を提唱し続けた
ナイチンゲールが従軍看護師だったのは短期間に過ぎず、キャリアの大半は、疾病の感染に関する考察など、疫学者や統計学者としての活動に充てられたにもかかわらず、彼女のその分野での功績が見過ごされてきた理由は、科学的知見の発展がヨーロッパの白人男性の業績に帰せられてきた事実によって部分的に説明できる。女性の仕事は考慮の対象外だった
彼女は、疾病予防に関する考え方を特定の地域や集団の特殊事情を超越した理論の域にまで押し上げようと試み、そうした努力が結果的に疫学への貢献として結実したと言える
第6章
博愛主義から人種的偏見へ――アメリカ衛生委員会の矛盾した使命
1861年、アメリカで南北戦争が始まると、リンカーンの呼びかけに応じて、ナイチンゲールに触発された中・上流の白人女性が健康と衛生管理の問題に関与する一方、医師が人種偏見を疫学と公衆衛生における中心的要素として確立したため、疫学の進歩を逆行させた
1849年アメリカで医学学位を取得した最初の女性となったエリザベス・ブラックウェルは、劣悪な社会状況と不衛生な環境が疾病を引き起こすと考えていた。ナイチンゲールに会ってその知見を学んだあと、戦争勃発の際軍の医療部門に女性活躍の場を求め、救護活動の統合を企図。開戦とともに医療危機の現実を突き付けられたが、軍医総監はお飾りで、最初に野戦病院が設置されたのは1862年のこと
1863年、リンカーンが奴隷解放宣言を発布したのは、南部連合から労働力を流出させる戦時戦略の一環だったが、大農園で奴隷労働に従事する何十万もの人々が北部に逃亡し、膨大な数の解放奴隷が北軍に参加。それと同時に白人医師は人種を疾病拡大の要因の1つと見做し始め、ナイチンゲールの推進する衛生対策の足枷となった。ナイチンゲール自身は、人種差の存在を肯定し、イギリス人を最も優れた人種と見做したが、他の医師同様疾病の拡大を人種により説明することはなかったが、アメリカでは調査の中心的要素として人種差を取り上げた当時は、人種的特性が疾病への感受性や免疫機能と関連していると考える医師が多数派で、連邦法により創設されたアメリカ衛生委員会USSCも、次第に人種的特性に科学的な意味付けを加味していくようになり、疾病の原因を外部環境ではなく、患者の人種的特性に求め、初期の疫学の前提を突き崩してしまう。南北戦争は奴隷制度を終わらせたが、皮肉なことにUSSCは人種差を増幅させ、医学的知見に寄与するために奴隷制イデオロギーを復活させた
人種分類を重視するUSSCの考えは、黒人からさらに進んで、ムラートと呼ばれる混血人種を調査の対象とし、皮膚の色の濃淡に関心が注がれた。彼らは戦争によって獲得した職業的地位とネットワークを利用して、偏見に満ちた疾病の原因に関する理論を提唱し、優生学と科学的人種差別主義の根源となる人種的序列の概念を後押しする結果を招く
第7章
「歌え、葬られぬ者たちよ、歌え」――奴隷制度、南部連合、そして疫学の実践
開戦前から天然痘が大流行、隔離が感染拡大防止の常套手段だったが、開戦とともに隔離が難しくなり、代わって予防接種が始まったが、痘苗の確保が困難となり、牛痘法に代わって人痘法が行われるようになった。人痘法は、種痘を受けた者の皮膚から削り取られた痂皮(かひ、かさぶた)や「痘漿」を健康な人に植え付ける予防接種で、18世紀初めにボストンで流行した際、奴隷を使った人体実験で有効性が証明されたもの
南部連合が全軍を対象に接種したことは、大規模集団におけるワクチンの効果を観察する未曾有の機会を提供したが、そのために必要な痘漿の供給源を奴隷の乳児や子どもに目をつけ、危険を承知のうえで人工的に作り出していた。痘漿を採取した後は痂皮となり、こうした瘢痕や痘痕(あばた)が生涯残り感染の記憶を永遠に刻み込んだが、痘漿採取のことは奴隷の台帳や大農園の記録に記載されることはなかった
奴隷の子どもたちを使うのは変則的でもなく、被収奪者をワクチン生産の仲介者として利用する広範なパターンの一部であり、種痘した子供を痘漿の輸送手段として利用した例もある
ワクチン接種には標準的な手順があったわけでもないので、接種による合併症や過誤も頻繁に発生。特に、細菌感染症の梅毒の拡散には手を焼き、当初は予防接種が原因だとされた
北軍の軍医でさえ、元奴隷の子どもの集団を理想的な痘苗の採取源と見做し、1863年北軍駐屯地で起きた天然痘の大流行の際には、新鮮な痘苗確保のために黒人の子供が使われた
感染症拡大に関する情報収集や予防措置と治療法の開発は、奴隷制度や植民地支配、それに戦争が生み出した力の不均衡に依存する部分が大きかったし、医学界もそれを認識していた
南部連合もまた感染症の拡大を調査し、記録する必要性を痛感し、事故に繋がった予防接種に関する調査を行い、処置の失敗が招いた結果を報告。その過程で奴隷の子どもたちを利用した痘苗の採取が常套手段と化していることが明るみに出てしまう
終戦後、南北の医師たちは情報を共有し合うが、この協力関係を通じて、北部の医師の分析に南部の人種差別主義が紛れ込む
予想外かつ未曾有の感染症拡大から得た情報を科学的根拠として用いるこの種の手法は、カリブ海とインドでイギリス人医療専門家の活動を下支えしてきたが、南部の医師たちも終戦と同時に、戦争で得られた情報をまとめる大規模な作業に着手。ワクチン接種の有効性を証明し、その効果の阻害要因を明らかにする証拠を提供してくれたのが南北戦争だった
特に、非人道的で忌まわしい場所とされたジョージア州アンダーソンヴィル捕虜収容所での収監された戦争捕虜への虐待に対し南部連合と収容所司令官が、「健康を害して生命を破壊し」、「戦時の法規や慣例に違反する殺人」を企てた共謀罪で特別軍事法廷に告発され、1865年絞首刑。戦争犯罪が訴追された史上初のケースとなり、第2次大戦後のニュルンベルク裁判の先例となる。虐待の一例として、毒物と知りながら意図的に天然痘のワクチンを接種したことが含まれ、それによる死者は衝撃的な数にのぼるという
トロッターからナイチンゲールまで、19世紀までの医療専門家は自らの観察に基づいて医学理論を発展させてきた。医師は疾病の拡大を調査する過程で、その原因をしばしば自然環境や構築環境の中に求めるようになっていたが、初稿段階では被支配者層の存在と貢献に言及したものの、理論が体系化された段階では彼らの存在は欠落したばかりか、天然痘ワクチンを培養するために体を利用された乳幼児や黒人の子供たちを代弁するものは誰もいなかった
南部の医師たちもまた、被支配者の立場にあった奴隷や戦争捕虜という集団に依存する形で理論を発展させていった
南部連合の官僚機構は、大英帝国と同様、疫病の影響が様々な状況で同時に表面化するのを確認できるようにしたが、それこそが疫学研究に見られる重要な特徴だった。終戦直後にコレラ・パンデミックが発生すると、この特徴は一層鮮明になる
問い合わせ内容 :
「帝国の疫学」を興味深く読みました。
第7章表題の『歌え・・・・』は、本文中のどこの文脈に関連したものでしょうか。
また、誰が、誰に言った言葉なのでしょうか。
ご教示いただければ幸いです。
『帝国の疫病』をお読みくださり、まことにありがとうございます。
第7章の「歌え、葬られぬ者たちよ、歌え」というタイトルについての説明は、本文中には特にないのですが、ジェスミン・ウォードの小説『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』からとっていると思われます。
(邦訳は作品社から)
作品社|歌え、葬られぬ者たちよ、歌え (sakuhinsha.com) (原書は2017年)
ウォードのこの本は、第7章に出てくる種痘をテーマにはしていないのですが、天然痘の予防接種開発のために奴隷が使われたことを、ウォードの本と重ね合わせていると思われます。
***
すみずみまでお読みいただき、たいへん有難い限りでございます。
どうぞ今後ともお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。
みすず書房 営業部
第8章
言葉が描くnarrative地図――黒人兵、イスラム教巡礼者、そしてコレラ・パンデミック(1865-66年)
アメリカでは、1832,49,66年の3回コレラ・パンデミックに見舞われ、特に3回目は、軍で働く医師たちに疾病拡大の原因を調査し、有効な予防措置を模索するための豊富な機会を提供
それらの調査から導かれた接触感染という結論は間違っていたが、コレラ拡大を追跡するための調査手法の枠組みを確立することによって、環境を綿密に調査し、感染者数の一覧を作成、人々の移動を注視し、日付を正確に記録、さらには他の医療専門家から得た証拠まで活用できるようにしたのは、疫学の発展上の大きな貢献となる。肉眼で見えない病原体の動きを見えるように工夫した努力は、世界中で流行病を追跡するための定性的観察(統計情報よりも文書化された説明的narrativeな報告書に依拠する手法)を発達させる
コレラはアジアの一部地域で数世紀前から存在していたが、人間の移動が他の地域にまで拡大する結果となったとし、特に、イスラム教の巡礼者に注目が集まる。さらに、南北戦争後のアメリカでの大流行は、様々な集団内での拡大を観察するための監視手法を確立させた
医師たちは世界的視野の重要性を痛感し、1851年には国際衛生会議ISCを発足させ、国境を超えた集団監視態勢を整える。ペスト、黄熱病、コレラを対象に、検疫や隔離措置の妥当性・有用性について議論され、結論には至らなかったものの、感染拡大経路を可視化する試みを通じて疫学の発展をさらに促進する結果となる
19世紀半ばまでには、世界中の多くの政府が流行病の発生に備えて監視手法の確立に着手
1866年、コレラ・パンデミックがアメリカに発生してから6か月後、アメリカ軍医総監室は南部と西部の全域に配属された軍医たちから観察報告を収集。前年から大流行していた天然痘は主として黒人に感染したが、コレラは白人にも黒人にも拡散。予防措置のガイドラインは主に衛生管理に関する要件で構成
軍隊内でのコレラの発生により各部隊の調査を開始、兵員の国内移動がどのようにコレラ拡大を引き起こしていったかを観測する。軍医たちからの報告書が蓄積するにつれ、コレラの病理に関する知見は強固なものとなり、病気の原因の調査も進展
66年に陸軍で発生したコレラ流行に関する包括的な報告書は、アメリカ疫学史における転換点となり、連邦政府は、将来的な流行病拡大を防止するための様々な手法やアイディアを全国から集めて整理した。67年に陸軍が再度コレラ流行の脅威に直面すると、前年の報告書の写しを全陸軍の医官宛に送り、事例発生の直後から迅速に対応して患者数の激増を防いだ
結論――疫学の起源roots
1756~1866年、医学界は世界中の様々な集団に依拠して疫学を発展させてきた。医療専門家たちは、理論を検証し、主張を裏付ける根拠を示すために、兵士やイスラム教巡礼者だけでなく、奴隷や植民地の現地民にも頼る必要があった。本書では、それらの事例の一部を取り上げることで、軍と植民地の官僚機構が被支配者集団における流行病発生の調査をどのような形で促進してきたかを明らかにするとともに、その調査の手法が広く普及していたことを明らかにし、それがどのように疫学の発展に寄与したかを辿っている。植民地主義、奴隷制度、及び戦争の直接的な結果として発展した構築環境が、特定の集団を調査対象として利用可能にし、新たな理論が展開される文脈を創出した経緯を解明しようと試みた。奴隷船の調査は、換気装置の効用と新鮮な空気の重要性を裏付けることに貢献したが、それは同時に酸素の必要性というごく基本的な事実を可視化するために、奴隷を収容した船倉内の暴力的で残虐な状況を科学がいかに利用してきたかを浮き彫りにした
本書はさらに、感染症の研究を広範な社会的変化と切り離して行うことが不可能なことを如実に示している。奴隷制度は1つの経済制度として設計されたが、同時に医学的知見や公衆衛生的手法の発展に寄与したことが判明している
流行病を調査した当時の医療従事者たちが残した功績は、理論の内容自体よりも、むしろ開発した手法にこそあった。流行の原因を特定し、感染経路を追跡し、症状を記録し、地域ごとの医療状況の鳥観図を作成し、政府当局に予防策を提示するといった取り組みを行うことで、同時代における疫学と公衆衛生の基礎をなす知見に貢献した
本書は、奴隷制度と帝国主義と戦争を1つの論考の中で連結させることにより、当時の医師の大半が感染症を人種差ではなく、主として社会的かつ環境的な要素の観点から考察していたことを明らかにしている
本書を執筆した目的は、医学史における議論の焦点を医学の権威とされる人々から彼らの理論を可視化させた人々へと移すことにあった。ナイチンゲールによる統計重視は、負傷兵を数値に変換してしまった。定量的データに重点を置く疫学の台頭によって、事例研究から生身の人間の姿が省略され、それに代わって定量化し、図式化し、要約することが可能な情報が活用されるようになった。人種を具体的な指標として用い始めると、こうした傾向が加速され、人間の人格が否定されるようになる
訳者あとがき
本書は、疫学の起源を世界史的な視点から論じた最先端の研究で、欧米諸国の都市中心部における調査研究が疫学発展の中枢を担ったという従来の歴史学的視点から離れて、奴隷船や植民地や大農園などで生じた力の不均衡の中で声を封じられた人々が感染症拡大の解明に大きな貢献を果たしたという主張を展開。そこから浮かび上がるのは、医学発展の基礎が彼らの犠牲の上に築かれてきたという歴史の深層
被収奪者の集団が支配者層の医師から同意を求められないまま、劣悪な環境で病魔に冒される様子を観察され、感染症の拡大経路を記録され、さらにはワクチンの効果を検証されることで現代医学の発展に貢献したプロセスを明らかにしていく。データ蓄積、感染経路の地理的可視化、接触歴追跡、聞き取り調査といった近代疫学の主要な調査手法は、植民地主義や戦争を通じて体系化されていった。読者を最も震撼させる結論の1つが、黒人を奴隷制度から解放したはずの南北戦争の最中に、人種を指標とする考えが疫学や公衆衛生の研究に混入し、現在に至るまで根強く残っているという、アメリカ史における最大の皮肉の指摘だろう
疫学の創始者は、1854年にロンドンのソーホー地区でこれらの発生源を追跡したジョン・スノウだというのが定説だが、著者によれば、スノウの出現以前から、イギリス帝国内の様々な植民地では流行病に襲われた現地民や奴隷が無自覚のうちに疫学的な情報を収集しており、医師たちは彼らから聞き取った情報を体系化することで感染症に関する知見を深めていった。著者の考えでは、疫学の起源に関する歴史がこれまで顧みられなかった理由の一端は、奴隷制度や帝国主義の犠牲者となった人々の大半が有色人種だったことにあるという
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(裏表紙)
18世紀、悪名高い奴隷船ブルックス号で、奴隷たちが次々と死亡した。船医トロッターは、監禁による極度の過密状態、換気の悪さ、運動の禁止、栄養状態が、病の集団発生の原因であることを突き止めた。
奴隷船や監獄に閉じ込められ、疫病にかかった多くの人々の観察をもとに、疫学は大きな発展を遂げた。植民地の官僚機構が調査を容易にした。
19世紀、ナイチンゲールはクリミア戦争下の病院において、感染と衛生状態の関連に着目し、公衆衛生に革新的な知見をもたらした。過密空間や不衛生な環境が疫病を蔓延させることは今でこそ常識だが、その重要性を見抜いたナイチンゲールの疫学者としての功績は、「ランプを持つ貴婦人」のイメージの影に隠れた。
植民地主義や戦争が生み出した大量の人々のデータに基づいて、医学が飛躍的に発展したにもかかわらず、かれらの「貢献」は歴史の闇に葬られてきた。奴隷、植民地の人々、兵士、衣服やシーツを洗う洗濯婦などの存在は、疫学が理論化される過程で消えていったのである。疫学の発展を逆側から照射し、知られざるもうひとつの医学史を明らかにする。
帝国の疫病 ジム・ダウンズ著
医学研究の裏に無名の人々
2024年4月6日 日本経済新聞
疫学とは、人間の集団内で発生する病気の要因や分布を研究する学問を指す。19世紀半ばにロンドンで流行したコレラの発生源を特定したジョン・スノウや、1880年代に結核菌・コレラ菌を発見して近代細菌学を創始したロベルト・コッホによって疫学は発展した。コッホの弟子で、新千円札の顔となる北里柴三郎も代表的な疫学者である。
しかし本書が主に扱うのは、そうした偉大な学術的発見を成し遂げた人々ではない。18世紀以降、コレラや天然痘などの病が世界で流行した背景には、劣悪な衛生環境でアフリカの人々を輸送した奴隷貿易や、やはり過密な空間で兵卒を管理した近代戦争があった。彼らの健康被害については、欧米の帝国主義の産物である精緻な官僚機構によって、膨大な記録が残されていた。
これらの記録は、細菌ではなく瘴気(ミアズマ)を病因とするなど、今日の見地からは誤りも含んでいるが、そこで収集されたデータなしには疫学の発展もあり得なかった。
このような見地から、著者は無数の公文書の海に潜り、奴隷船における健康被害を記録した医師や、西アフリカ沿岸沖の島で発生した熱病を調査した軍医、米南北戦争時に実施された天然痘のワクチン接種を調査した南部の医師などの業績を再評価する。特に興味深いのは、クリミア戦争時の兵舎病院における衛生状態の劣悪さを記録し、改善策を提唱したフローレンス・ナイチンゲールの疫学と統計学における貢献を明らかにした第5章である。
もっとも、これに増して重要なのは、疫学の発展を支えた名もなき人々の物語を本書が甦らせたことである。客観性を装った記録の背後にある植民地支配や人種差別を明らかにしながら、著者は支配され、抑圧され、声を奪われた人々の苦しみを描き出す。奴隷船で抗議の絶食の果てに自死したアフリカ人や、南北戦争中の米南部で天然痘のワクチンを得るため、強制的に痘苗を植え付けられた黒人奴隷の幼児の姿など、その生々しさに震撼させられる。
こうした描写から、読者は疫学の発展が帝国主義や世界戦争といった社会の病と密接な関係を持つことに気づかされる。この指摘は、コロナ禍を経験した私たちにとって決して他人事ではないはずだ。
《評》東京大学教授 武田 将明
原題=MALADIES OF
EMPIRE(仲達志訳、みすず書房・4950円)
▼著者は米ゲティスバーグ大教授。専攻は米国史、医学と公衆衛生の歴史。
HATENABLOG
基本読書
医学の発展に貢献したにもかかわらず、歴史から抹消されてしまった人々を掘り起こす──『帝国の疫病
- 植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか』
「疫病」とは、集団発生する伝染病などのことを指す。少し前ではコレラや赤痢。最近ではコロナウイルスなどのような病のことである。同様の病は昔からあったが大きな問題になるようになったのは多文化がより頻繁に交錯するようになったこの数百年のことで、疫病の広がりと共に疫学もまた発展を遂げてきた。
本書は主に疫病に対抗する疫学がどう発展してきたのかの歴史をたどるわけだが、そこからさらに踏み込んで「疫学の発展に大きな貢献を果たしてきたにもかかわらず、これまで歴史からその存在を抹消されてきた人たち」に光を当てた一冊である。どういうことかといえば、1700年〜1800年代はまだまだ観測技術や遺伝子についての理解も進んでいなかったから、医学の理論や検証のために用いられてきた主な手段は現場を観察し法則を見つけたり検証を行う事例研究であった。で、一般に住まう市民などさまざまな人がその対象になっているわけだが、病において多くの有益な情報を提供していたのは、ひどい扱いをされた奴隷や植民地現地民たちだったのである。
彼らはその命を軽く扱われ、船旅に際して栄養も換気も不十分で窓もない船底のスペースに何百人もが詰め込まれることもあった。彼らはそこでは息ができないと苦しさを訴えた記録が残っているが、過密な空間がいかに人体に有害かすらもろくに理解されていない時代(1700年代中頃)は、彼らの証具体的な症状や死者数のデータを足がかりにして、当時の医師たちは理論を組み立てていったのである。つまり、奴隷の人々の犠牲の上に現在の医学や疫学は成り立っているともいえるのだ。
本書は、統計、データ収集、聞き取り調査、それに医学的監視を用いる手法が、帝国主義、奴隷制度、及び戦争──そのどれもが暴力を基盤としている──によっていかに拍車をかけられたかを明らかにしている。疫学は、それ自体の歴史から抹消された人々と場所に対する大規模な侵犯行為の結果として誕生したのである。(p.203)
そして、実はそうした「奴隷や植民地現地民が医学にどのように寄与したのか」というのはこれまで歴史から抹消されてきたのだと著者は語る。彼らを観察した結果であったり、そのデータは最終的に科学的原理として体系化されたが、当事者たちのエピソードや悲惨な状況それ自体は積極的に書き残されることもなかったからだ。
従来の医学史研究において、彼らは存在しないも同然であった。彼らの名前と声はしばしば忘れ去られ、時には歴史的文献から作為的に抹消された。本書が目指しているのは、彼らが姿を消した状況を明らかにし、その歴史的功績を本来の形で伝えることである。(p.11)
けっこう専門的な本ではあるのだけど、難解な表現はほとんどなくどのエピソードも興味深いものばかり。知的関心を満たしながらもサクッと読み終えられるだろう。
奴隷船の過密な空間。
最初に取り上げられていくのは、奴隷や捕虜が船底の過密な空間に押し込まれた状況と、それがもたらした医学的知見についてである。1700年代半ば頃、人間の生存に空気が必要不可欠であること自体は知れ渡っていたが、空気の有効性が過密な空間で失われる理由を詳しく理解するまでは至っていなかった。科学者たちが実験室で空気の構成を調べていた時、医師たちは密閉空間で過ごした人々に注目していた。
密閉空間が人体にどのような影響を与えるかについての有効な事例になったのが、奴隷を運ぶ船なのだ。たとえばイギリス海軍に所属していたトーマス・トロッター医師は、1783年から84年にかけて奴隷船ブルックス号で行なった観察の結果を数多くを残している。ブルックス号には西アフリカに到着すると100人以上の奴隷を購入し、二人一組にして腕と足を鎖で縛り、窓も換気装置もなく空気が淀んだ船底に押し込めたのである。船底のスペースは空間の高さは1.5mから1.8mほど。窓もなければ換気システムも存在しないから、室内の暑さもひどく35度を超えたこともあった。
当然呼吸は苦しかったようで、トロッターは奴隷たちが苦悶の表情を浮かべながら必死に呼吸している姿や、自分たちの母語で「息ができない」と叫び声を上げていた様を目撃している。彼は換気の重要性を訴え、従来よりも少人数を船で運ぶように推奨するようになった。のちにトロッターの奴隷船に様々な事例を付け加えながら(インドの換気の悪い監獄内でイギリス人捕虜たちが123人窒息死していた事件など)新鮮な空気とそれに伴う換気は人間の生存に必要不可欠であるとを訴えたロバート・ソーントン(1768-1837年)もいる。要するに当時は過密状態や空気の不足が病気や死を招くという、今では当たり前の知識すらも事実として定着していなかったのだ。
多数の人間を過密な密閉空間に幽閉するのが当たり前奴隷貿易が、あらたな医学理論の誕生を促したといえる。このように奴隷船はきわめて重要な調査対象だったわけだが、医学専門誌や報告書では「事例」や「船舶」といった表現に置き換えられ、通常奴隷の存在は科学的事実とは無関係のものとして抹消されてきたようだ。
天然痘と奴隷
他、個人的に印象に残ったのは天然痘の予防接種の初期において、人体実験的に黒人奴隷が用いられていたことを明かす第七章「歌え、葬られぬ者たちよ、歌え」だ。
天然痘は古くから二度はかからないことが知られていた。そのため、アフリカやインドでは天然痘の予防のために天然痘患者の膿やかさぶたを感染していない人の皮膚に植え付ける「人痘接種法」というやり方で予防接種が実践されてきた。1700年代初頭、アメリカではまだ人痘接種法は行われていなかったが、当時の医師は天然痘の大流行に対抗するため、奴隷の身体を使ってその実験を行ったという。
ボイルストンは、接種後の様々な段階を〔奴隷の身体を使って〕観察し、記録した功績をマザーと共に称えられた。北アメリカのイギリス植民地で予防接種が新たな医学的処置として定着したのは、奴隷制度に負うところが大きかった。(p.198)
天然痘と奴隷の関係はそれだけではない。アメリカの南北戦争時にも天然痘は猛威をふるったが、戦中であることも手伝って予防接種のワクチンの数は足りなかった。そこで、人痘接種と牛痘接種の双方において、奴隷の子供たちを意図的に天然痘に感染させ、発熱し膿疱ができたらそこに薄く切り目を入れて痘苗にするための漿液を採取していたのである。当時大農園には何百人もの奴隷の黒人の子供がいて、そこは痘苗の大規模な生産現場であると同時にその後の追跡調査の実験場となっていた。
おわりに
本書では他にも疫学者としてのナイチンゲールを評価しようとしたり(彼女は戦時中に収集した死亡率のデータと国内の死亡率統計を比較して兵士のリスクを分析したり、兵舎病院と総合病院で様々な要素を追跡するための記録管理システムを開発したりとデータを駆使し仮説を導き出す最初期の疫学者であった)と、植民地主義や戦争がどのように現代でも用いられている疫学的手法につながっていたのかが語られている。
当時の人々のリアルな観察結果や証言から、どのようにして疫学とそもそもの「科学的手法」が発展・立ち上がってきたのかがよくわかる。おもしろいだけでなく、いまのわれわれの社会を支える貢献者たちに敬意を持つためにも、重要な一冊だ。
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