僕の大統領は黒人だった  Ta-Nehasi Coates  2021.2.3.

 

2021.2.3. 僕の大統領は黒人だった バラク・オバマとアメリカの8年間 上下

We were Eight Years in Power       2017

 

著者 Ta-Nehasi Coates 1975年メリーランド州ボルチモア生まれ。高校は追い出され、93年ハワード大入学(中退)3冊のノンフィクションと1冊の小説を発表。『世界と僕のあいだに』(2015)は大ベストセラーで、全米図書賞とカーカス賞、著者自身もマッカーサー基金の天才奨学金を受ける。自伝的な作品に『美しき闘争』(2005)。ほぼ10年間定期寄稿者だった『アトランティック』誌を中心に、活発な執筆活動を続ける。本書第5章の『黒人大統領の恐怖』でナショナル・マガジン・アワード、第6章の『賠償請求訴訟』(2014)でジョージ・ポーク賞、ストウ賞を受賞、アメリカを代表するジャーナリストと目されるようになる。マーベル・コミックスの脚本も手掛け、その発言が常に注目を集める有力なオピニオン・リーダーである

 

訳者

池田年穂 1950年横浜市生まれ。慶應義塾大名誉教授。歴史学者。翻訳家。コーツの紹介者

長岡真吾 1961年生まれ、福岡女子大国際文理学部教授。

矢倉喬士 1985年生まれ。西南学院大助教。阪大大学院言語文化研究科博士課程修了。博士(言語文化学)15年日本アメリカ文学会関西支部奨励賞受賞

 

発行日           2020.11.20. 初版第1刷発行

発行所           慶應義塾大学出版会

 

【上巻 カバー裏フリップ】

本書の原題は、南北戦争後の再建期にサウスカロライナ州でアフリカ系アメリカ人による統治が成果を上げたことにを指して、著名な黒人政治家トマス・ミラーが後の1895年に述べた言葉。再建期が終わる1877年以降、南部では相次いで有色人種に対する分離政策(ジム・クロウ法)が立法化され、奴隷制度の復活こそなかったものの、黒人への人種差別は再び強化される。この差別状況は1964年の公民権法成立以降もなお続いていく。タナハシ・コーツは、そうして現代まで続くアメリカの悪夢を振り払う方法を模索する

アフリカ系アメリカ人が辿った

過酷な歴史を踏まえながら

アメリカ初の黒人大統領バラク・オバマと

黒人社会が歩んだ8年の軌跡を丁寧に辿り、

圧倒的な賛辞を集めた全米ベストセラー

 

【下巻 カバー裏フリップ】

本書は、現代のアメリカを代表する黒人知識人コーツが、アメリカ初の黒人大統領オバマとアフリカ系アメリカ人が歩んだ8年の軌跡を追うもの。コーツの旅は、ハーレムのハローワークから始まり、大統領執務室でのオバマへのインタビューで終わる。「これだから俺たちは白人に負けたんだ」「アメリカの娘」「南北戦争を研究する黒人がほとんどいないのはなぜか?」「マルコムXの遺産」「黒人大統領の恐怖」「賠償請求訴訟」「大量投獄時代の黒人家庭」「僕の大統領は黒人だった」という、オバマ政権の8年を描くエッセイは、この間の黒人を取り巻く状況に白人至上主義があることを明らかにする

 

『世界と僕のあいだに』『美しき闘争』によって一躍、現代アメリカを代表する

黒人オピニオンリーダーとなったコーツが

「ブラック・ライヴズ・マター」の本質を描く、必読の書

 

 

序章 黒人による良き統治について

1895年、サウスカロライナ州が「リコンストラクション」(「再建」の時代。18651877が目安)の平等主義的な革新から抑圧的な「リデンプション」(「復権」の時代)に移行して20年経って、サウスカロライナの州議会下院議員であるアフリカ系アメリカ人トマス・ミラーは州憲法の制定会議で訴える。「我々は8年間政権の座にあった。学校を建て、慈善施設を設立し、刑務所を建設・維持し、聾啞者に教育を施し、船着き場を建て直した。我々がこの州を再建し、繁栄への軌道に乗せた」

1890年代になると、リコンストラクションは「黒人支配」の基本的に腐敗した時代だったと見做され、サウスカロライナ州は「アフリカ化」され、野蛮や不法に引きずり込まれる危険に晒されていると言われた

ミラーの願いは、アフリカ系アメリカ人に市民権を維持させるよう説得することだったが無視され、1895年採択の州修正憲法は、参政権の資格に識字試験と資産所有を追加し、

専制的な白人至上の復活を覆い隠すもので、黒人による良き統治が捻じ曲げられた

南北戦争の末期、北軍の「黒人部隊」の優秀さを目の当たりにした南部連合は、自軍に黒人採用の検討を開始したが、当時兵士という概念は男らしさや市民権という概念と密接不可分だったため、黒人が劣っているという確たる前提に基づいている奴隷制を擁護するために組織された軍隊が、方針転換することはあり得なかった

本書は、アメリカ史上初の黒人大統領の政権下で著者が『アトランティック』誌に発表した8本の記事からなる

オバマは、アメリカ社会が恐慌を来す中で大統領に選出され、8年の任期中、調停者、綿密な立案者としての側面を見せた。保守的なモデルを発展させて、国民皆保険の枠組みを作る。経済破綻を防いだが、その破綻に重大な責任を持つ者たちの訴追は怠った。国家が認めた拷問は廃止したが、世代をまたいで続く中東での戦争は継続。オバマの家族はブルックス・ブラザーズのカタログから切り取ったように見えた。革命家ではなく、大きなスキャンダルや汚職、贈収賄は避けて通った。度が過ぎるほど慎重で、自らをアメリカの聖なる伝統の守護者と自任。アメリカの犯した罪に悩んだとしても、最終的には、アメリカは世界のために役立つ力なのだと信じた。オバマと彼の家族、彼の行政府は、黒人たちがアメリカの文化や政治、神話の(脅威となりようのない)メインストリームに完璧に同化することが容易であるということの、重宝な歩く広告塔だった

そしてそれこそが常に問題だった

アメリカの白人に究極的な恐怖を与えるのは、黒人のギャングや暴徒といった暴力的な黒人の向こう見ずな行為だというのが、アフリカ系アメリカ人について脈々と受け継がれてきた考え方だが、集合的に見れば、この国が真に恐れているのは、黒人の高い社会的地位、「黒人による良き統治」なのだ

「黒人による良き統治」が何らかの形で生身の黒人に生身の白人を凌駕する力を与えることが明らかになると、恐怖が生まれ、アファーマティブ・アクションへの非難が始まり、バーサリズム(とりわけオバマに対して、アメリカ生まれでないから大統領資格がないとする態度)が誕生。それはアメリカの神話は、その核心において、肌の色と無縁ではなかったからで、ある階級に属する人間は誰にでもピオン(隷属的な労働力)の血が流れているとする「奴隷制についての理論そのもの」から切り離すことはできない。アメリカの神話に黒人が円滑に同化していくことを頭の中では想像できても、実際はこの神話が着想された時のままの形で胸に留まっている

「黒人による良き統治」に対する昔からの恐怖こそが、トランプの大統領選出という一見衝撃的な方向転換について多くを説明してくれる。恐怖が人種主義という象徴に力を与えた

この国の基本的な前提は、黒人が中流階級の価値観に沿うような生き方をし、礼儀正しく、教育があり、道徳的であれば、すべてのアメリカの果実を手に入れることができるというものであり、人種主義や白人至上などは存在しないと言っているが、個人レベルでも政治レベルでも「黒人による良き統治」が戦おうとしている相手の白人至上を増長させている

トマス・ミラーに起こったのはこのことだったし、「リデンプション」の間にサウスカロライナに住む黒人にも起こったことだし、ニュー・ディール政策施行期間に第1次大戦後の南部からのアフリカ系アメリカ人大移動の結果としてシカゴのサウスサイドに住んでいた黒人に起きたこと。さらには今、アメリカ史上初の黒人大統領が遺したものに起きていること

8本の記事は、何れも「「黒人による良き統治」の効用とその占める位置について」、というテーマの何等かの側面について論じる。各章の冒頭の「ノート」は、僕がなぜ書いているのか、その記事を執筆しているときに僕が人生のどんな時期にいたかを伝えようとする試み

 

第1章     2008

「ノート」 072月、マンハッタンのハーレムに住み3度の失業のあと職探しをしていた。黒人が読み書きをするのは反逆の兆候だとされた伝統の中で物書きをしている

大統領選にオバマが立候補、まるで自分たちと違う言語で白人に語りかけた。自分を黒人と称し、黒人と結婚、当時は成功と同化assimilationが直結していると信じられていたので衝撃を受けると同時に、この事実が僕の人生を変えた。アメリカ社会の風向きの変化でもあった。オバマによって多数の黒人のライターやジャーナリストが頭角を現わす

黒人のスタンダップ・コメディアンで人気者のビル・コスビーは、都市周辺部の低所得者層の居住地域(インナーシティ)を回って、「白人を非難する」のを止めるよう説得する活動に従事したが、公民権の契約で自分たちの責任を果たさない「経済的な下層階級及び下層中流階級の人々」を痛烈に非難

 

『これだから僕たちは白人に負けたんだ』――ビル・コスビーの大胆な黒人保守主義

コスビーが各地で多くのアフリカ系アメリカ人に、人種主義はアメリカの至る所にあり、だからといってそれが努力を怠る言い訳にはならないと説く。人種主義への対抗手段は、集会や抗議運動や嘆願ではなく、強い家族、強いコミュニティだ。平等という抽象的観念に重点を置くのではなく、黒人たちは自らの文化を浄化して、個人の責任を受け入れ、過去に黒人を力づけてくれた伝統を取り戻す必要があると主張。彼の価値と責任についての強硬な発言の背後にあるのは、キング牧師の真綿でくるんだようでなにもかもが含まれた「ドリーム」とは明確に異なるヴィジョン

1965年に始まったアフリカ系アメリカ人が主役を務めた最初のレギュラー番組で、人種を超えたアメリカがあるという概念を提示。その後の人気番組でも常に黒人を意識、番組の背景に反アパルトヘイトのポスターを貼ってNBCを苛立たせたり、1881年創立の元黒人女子大に多額の寄付をしたりしたが、世紀末には元の木阿弥に戻りかけていた

04年ブラウン対教育委員会判決の50周年を記念した全米黒人地位向上協会の授賞式で最後の受賞者だったコスビーは、公民権運動がアメリカ黒人のために門戸を開いてくれたのに黒人は責任を果たしていないと非難。俺たちはもうアフリカ人ではないと言ったが、黒人エスタブリッシュメントから攻撃を受ける

「人種の行く手を阻む最大の障碍は、例外なくその人種の中から生まれる」とも言われ、マルコムXもこの考えに共鳴し、自らの運命をきちんと掌握できない黒人を非難

アメリカ黒人の実情は、人口比は13%、殺人事件の被害者の49%、受刑者の41%が黒人、10代の出産率は1000人当たり63人で白人の2倍以上、05年には黒人家庭の収入の中央値はエスニック・グループの中で最下位で白人家庭の中央値の61%。60年代に中産階級に誕生した黒人が貧困に近い状態に逆戻りしてしまう確率が45%で白人の3

最近の調査では、黒人の進歩の状況について、1983年以降のどの時点よりも悲観的

黒人に内在してきた保守的伝統が一挙に高まっているのは、アメリカがリコンストラクションへの再チャレンジから手を引いたことへの反応でもあって、アファーマティブ・アクションを法廷が弱体化させ、麻薬との戦争では死傷者数から判断して黒人に対する戦争のように見えたし、大統領選挙でも黒人に対する偏見が都合がいいように利用されていた

強制バス通学(バシング)や住宅での人種隔離廃止の完全な失敗も見たうえに、05年にはハリケーン・カトリーナの恐怖も味わう。その結果は黒人進歩の主要な達成手段であるはずの政治に対するあからさまな不信

コスビーは、不利な境遇にいる黒人たちに、施しや外部からの助けを待つのではなく、自ら目の敵にしているギャングスタ・ラップ(暴力的な日常をテーマにしたラップ)のような不健全な要素を自分たちの文化から一掃することから始めるべきと主張

コスビーが喚起する黒人保守主義の緊張感はオバマの選挙運動でも表面化。運動の初期では、個人の責任についてコスビーを彷彿とさせるオバマの訴えは黒人票を減らすと推測されたが、投票行動に反映されることはなかった。それどころか、文化的に保守的な黒人と、アメリカ黒人社会こそ頽廃の砦と信じている白人の両方に迎合できた

アフリカ系アメリカ人の85%は、コスビーが黒人社会に対して「良い影響」を及ぼしていると回答。1位はオプラ・ウィンフリー87%、3位がオバマ76

コスビーの行動主義を突き動かし、彼のメッセージに力を与えているものの中に、すべてのアフリカ系アメリカ人の胸中にある生々しい憤怒、自己憎悪にも似た集団的な恥辱の感覚がある ⇒ 白人が黒人の好きじゃないところは全部、黒人が黒人の本当に好きじゃないところなんだという感覚

 

第2章     2009

「ノート」 08年夏32歳でアスペン・アイディア・フェスティバルに参加。アメリカの知識階級がエリート集団に向かって提言などを発信する場

オバマが予備選に勝利し、アメリカ歴史の禍根というべき白人至上主義が一掃されることが十分起こり得ると思われた熱狂は、結局のところ誤ったものだった

オバマは、「アメリカ政治における新しいタイガー・ウッズ」と呼ばれ、「厳密には黒人ではない」男とされた。麻薬ディーラーでもないし、スラム街の出身でもなく、豚の内臓を揚げたチタリングを食べて育ったのでもなく、母親が白人の家の床を清掃する仕事に就いたこともなかった。これは困惑をもたらし、人種主義の実質的な幅を狭めることになった

オバマの混血の血統が特別視されただけで、世界の秩序の不変を再認識した結果に終わる

オバマの黒人性の否定には、黒人の大統領などあリ得ないとした過去の間違いを認めることを拒否し、新しい現実に修正して適応するに留めるという目的もある

『アトランティック』誌から、ミシェル・オバマの人物評論を依頼され、『アメリカの娘』と題して書き進める。初めて著名な人物の姿を描くという夢観てきた機会が巡ってきた

バラクとミシェルのオバマ夫妻が僕たちの暮らし向きを変えた。彼等の存在そのものが一つの市場を切り開いた。自分を取り巻く世界が変わりつつあった。黒人ならではの感覚を抱き、人生で初めて自分の国を誇るという感覚を覚えた

 

『アメリカの娘』

生身のミシェルを初めてみた時、一瞬白人と間違えそうになった

ミシェルの本質的なアメリカ性は彼女の故郷シカゴのサウスサイドに根差している。90年代半ば、誰もがブラック・プライド(黒人であることの誇り)をそれなりに気取り、白人居住区に囲まれた黒人居住区としては国内最大のサウスサイドも様変わり

シカゴにおける黒人闘争はこの都市が誕生した時から始まっているが、18世紀にこの地を開拓したサーブルも、オバマと同じ混血の黒人だったし、黒人で最初に公認会計士になった14人の半分はシカゴ出身者、20世紀最初の黒人連邦議会議員もサウスサイド出身だし、アフリカ系アメリカ人が大統領を目指して本気で選挙運動をしたのはジェシー・ジャクソンとオバマの2人だけだが、いずれもサウスサイドから始まっている

20世紀初頭のシカゴには人種差別と人種隔離があったが、黒人にも仕事があり、よりよい生活が保障されているというのがミシェルの祖父母が南部から移住してきた理由

政府の仕事をしながら黒人の中産階級が形成され、1948年の隔離的な住宅計画が違法とされると、白人人口の郊外流出を招句が、中産階級の黒人は留まり、シカゴ全市が持つ経済的、文化的複雑さに満ちた縮図となった

きちんと社会が機能して他に頼らなくても不足のないアフリカ系アメリカ人の世界で育てられれば、客観的には自分がマイノリティだとわかってはいるものの、人種に基づくアイデンティティなど意識の表層には上がってこない。人種隔離によって保護されている

ミシェルのプリンストンでの卒論のテーマは、「プリンストン大で教育を受けた黒人と黒人コミュニティについて」で、子供の頃から知っている世界が、大学生として入っていこうとしている世界とは大きく異なっていたことに面と向かって取り組んでいる

 

第3章     2010

「ノート」 オバマの勝利が意味するのは、単に黒人大統領の誕生というだけでなく、黒人のほとんどが支持する民主党が国会の過半数を占めること。主要な知識人らは、白人の憤懣に突き動かされた運動としての現代的保守は終焉に差し掛かり、人口の膨らんだアジア系、ラティーノ系と黒人が大波のように押し寄せて共和党を転覆させるだろうと予言していた

たった5年のあいだに75万の兵士が殺された南北戦争は、「アフリカ人を奴隷にする制度」を拡大させるために宣戦布告された。開戦は嫌々ではなく健全かつ力強く宣言された。人間が人間を所有することが文明の礎となり、神の勅令となって自らの子らを神の口へと送り込むことが正しいと信じる男たちによって宣言された。戦後も敗北したはずの神はそのまま生き延びて、リンチや人種差別による組織的殺戮によって人間の生贄を捧げられている。アメリカ史上最大の犠牲を払った南北戦争は、国としてのアメリカが標榜するあらゆる理念に真っ向から敵対するために始められた。南北戦争は何世紀にもわたる人間の奴隷化の産物であり、この戦争の結果さらに戦いは長期化し、より全体的なものになっている。この2つのことを理解するためには、アメリカとは自由への航路標識であるとされてきた通念を修正しなければならない

今のところ、奴隷解放と公民権が贖(あがな)いになったというのが国民一般の定説。自由の福音を称揚する奴隷所有者によって建国された国ゆえに、不安で依然として不完全な解決策だ。オバマの台頭で、この定説が幻想であると気づかされる

神の摂理による進歩という一般定説、すなわち奴隷制の罪と民主主義の理想との間の必然的調停など、でっち上げに過ぎないことを知る。奴隷制の下で民主主義的平等の基盤を形成、ヨーロッパから来た貧しく抑圧された大衆に次第に法的権限が与えられるのと時を全く同じくして、奴隷にされたアフリカから来た人々とその子孫からは法的権限が奪われていく

南北戦争の古戦場を見て回割ると、どこでも流された地に心を揺さぶられたが、その尊崇な感情には何か別の感覚がつきまとう。そこを訪れる人々――大半が白人――が解釈する物語には、何かが欠けていて完全ではないという感覚で、この不完全さは思慮不足からくるものではなく、本質的なものだ

南北戦争開始時点で400万の奴隷がいたが、それは想像を絶する額の経済的利益を意味。奴隷の手で摘み取られた綿花は国の総輸出の60%を占め、1860年に全米で億万長者が集中していた場所はミシシッピ川流域で、巨大プランテーションの地主たちの屋敷が屹立

白人の奴隷制に対する依存は経済的なものから社会的なものへと拡張。白人の法的権利は黒人を下層階級と見做すことで成り立っていた。当時の南部連合の事実上の大統領たちも白人の平等はそれよりも下層階級があることで成り立っていると認めているように、奴隷制が白人同士の社会的平等をもたらし、アメリカ的民主主義の基盤を築いた

ハーバード大の高名な黒人教授が長期旅行から帰って来た時、玄関の鍵のトラブルからこじ開けて入ったところを目撃・通報され、治安紊乱行為で逮捕・告発・勾留された事件で、オバマは警察が愚かな振る舞いをしたと発言したところ、警察を批判したことでオバマは公然と非難され、大統領は急ぎ退却、警察官に謝罪した上両者をホワイトハウスに呼んで一緒にビールを飲んだという

 

『南北戦争を研究する黒人がほとんどいないのはなぜか?

1980年代半ば、7学年の時に学校からバス旅行でゲティスバーグに行った

無分別が蔓延する一方で、黒人の歴史をほとんどトーテム的なまでに崇拝する機会が拡大

黒人の疎外は単独で形成されたものでもなければ、偶然転がり込んできたものでもなく、アメリカ的デザインによって生み出されたもの。アメリカの歴史のかなり多くの部分で黒人という事実は都合の悪いものなのだ

南北戦争50周年の頃には、戦争の原因が奴隷制にあったという事実を覆い隠すために、奴隷制は南部が真に意図していた全体像のほんの一部だとし、連邦主義と中央集権主義という敵対する原理が衝突したものとする歴史修正主義が喧伝され、南部連合の真っ只中で生まれ、戦争後で南部出身の最初の大統領となったウィルソンは、黒人を連邦の仕事から追放し、分離されたトイレを使うよう追いやった

アメリカ史の権威が軒並み南北戦争における奴隷制の役割を最小限にしか評価しないばかりか、2010年の映画《声を隠す人》では監督のロバート・レッドフォードはリンカーンの暗殺に関わって死刑となったメアリー・サラットを政治的迫害の犠牲者として優先的に描き、現実に生き方そのものが迫害であった人々には意識を向けなかったように、南北戦争を公式に描いた最良のものでも南軍のリー将軍が個人としては奴隷制に反対していたという間違った主張をして止まない

アフリカ系アメリカ人にとって戦争は1861年に始まったのではなく、ヴァージニア植民地でアメリカが最初の黒人規制法を通過させ始めた1661年に始まっていた。迫害され虐げられた黒人たちは常に戦争状態にあることを理解して反応した

各地の古戦場にはアフリカ系アメリカ人の訪問者をほとんど見かけない。南北戦争が一般的には近代アメリカを創生し、個別的には近代ブラック・アメリカを生んだという認識と向き合うならば、僕たち自身が古戦場を管理し先達を呼び起こさなければならない

 

第4章     2011

「ノート」 人を奴隷にすることはどう考えてみても狂気だし犯罪。加害者は巨大な略奪者でもある

スラム街を再開発するジェントリフィケーション(紳士化・高級化)に凄まじい怒りを感じるのは、そこに住む黒人が一掃されたからだけではなく、単に白人至上主義にとってより聞こえがいいだけだからだ

 

『マルコムXの遺産』――なぜ彼のヴィジョンがオバマの中で生き続けているのか

マルコムの軌跡を巡る論争は、暗殺から46年後でもなお続いている

思い遣りの欠如した犯罪者から闘争的な禁欲者へと転身し、憤慨した人種差別主義者から反抗する人道主義者へと変化した男

ハーレムの野心的な活動家としてのマルコムに憧れた

1950年春、投獄され改宗したばかりのマルコムが仲間と語らってイスラム教戒律の遵守を主張、抗議のため2年間をパンとチーズだけで過ごしたが、ネイション・オブ・イスラムの中では常に変わり者で、後に黒人解放運動家へ転身

最終的にマルコムが体現していたのは、ブラック・アメリカの頭脳ではなく心のほうで、マルコムはブラック・アメリカの声そのものだった。最も意義深いのは、他人が押し付ける外見の美しさの基準を拒絶して、(黒人のあるがままを美しいという)新しい基準を打ち立てたところにある

人生の終盤になって不道徳な放浪者から極端に道徳的な熱狂的信者へと転身

マルコムは黒さを一貫して擁護し、それを失敗の理由とはせずに、個人の、そして究極的には集団の向上のための必ず成し遂げなければならない命令としたがゆえに、今も圧倒的な説得力を持つのだ。白人の差別主義を激しく非難する裏にはより深遠な、より奮起させるような思想が隠れている。「自分で思っているよりも君はよい人間なのだ」と呼びかけ、「だから、それに見合った行動をするのだ」と

マルコムへの称賛に値するのがオバマ。彼の道徳心への呼びかけが温かく迎えられているのは、黒人の中の深いところにあるアメリカ的なるものに訴えかけることに繋がるからで、自分たち自身の手で、より良い人間になることができる、新しく生まれ変わることができるという信念である

マルコムもオバマも、黒人聴衆に対するスピーチは自己創造への奨励に満ち、自身の伝記的事実を多く引用している

 

第5章     2012

「ノート」 オバマ政権下で政務を行っていたシャーリー・シェロッド解任事件は、右翼的政治工作や扇動を行っていたブライトバートによって、彼女が全米黒人地位向上協会で行ったスピーチ映像が公開され、人種差別的な軽視や冷遇を耐え忍んできたことを理由に白人農家への復讐に身を任せているかのように見え、それは非暴力的人道統合主義者としての彼女の人生とは真逆のもので、スピーチの完全版を見ればいかにして復讐への衝動を克服したのかを丁寧に説明していたにも拘らず、直ぐに礼を失した形で解雇

このエピソードはオバマ政権に恥をかかせたが、白人のイノセンスが持つ偉大な力を示してもいた。どんなことが起こっても、アメリカ白人社会は究極的にはお咎めなしで済む

オバマが、ハーバードの教授を逮捕した警官(3)にも責任があると主張した際には、抗議の声が響き渡ったのと同様で、反対に初めての人種演説において、白人のイノセンスを擁護し、都心部の人口過密地帯で用心深く窓を閉めている白人たちに共感するように言及した際は、見事な政治的手腕を発揮したと称賛された

1次オバマ政権が終わりに近づき、統治能力にも限界が見えてきた。黒人大統領は、どこにでもいる黒人たちの生を限界づけているのと同じ力によって限界づけられていた

僕たちの苦しみがどこから来ているのかを逃げずに率直に語ることは決してできなかった

オバマの統治能力はもう1つの代償を伴っていた。アメリカという国家がその国民に対して行う罪は、イエメンやアフガニスタンやイラクへの爆撃と同じように、今では黒人男性によって認可されていた。これは手に入れる価値のあるものだったのかという疑問が残る

黒人大統領が支払うことになった代償は僕にとって心惹かれるもので、『黒人大統領の恐怖』と題するエッセイに生命を吹き込む中心的な問いになった

 

『黒人大統領の恐怖』

オバマのアイロニーは、トレイヴォン・マーティンの死とそれに続く騒動に寄せられた彼のコメントに最もよく表れている

中庸主義で大統領の職務をこなしたオバマは、元来保守派が持っていた思想への賛意を演説に散りばめる。レーガンを引用し、アメリカ国民の不朽の叡智を大袈裟に褒め称える

彼の保守主義が最もよく表れているのは人種問題で、頑なに言及を避けてきた

2012年、フロリダで保険証券請負業者が不法侵入しようとした10代の黒人マーティンを射殺した事件。正当防衛だとして逮捕されなかったために爆発的な抗議の声が上がり、殺人で起訴され、オバマも口を開く

「私たち全員がアメリカ人としてこの事件をそれに相応しいだけの切実さを持って受け止め、何が起こったのか徹底究明する」としたコメントは、事件を国家的に喪に服する段階を終え、人種的な政争の具にされ、民意を一致させるという幻想は崩れ去った

保守派は、マーティンの全てのツイートを公開して内容を非難したり、「真の問題は非黒人が引き金を引いた時にしか黒人の死に興味を持たないことだ」と結論付けたり、加害者こそ本当の被害者かもという考えが国中に広がり始め、弁護費用を募るサイトには巨額の資金が集まったという

人種問題への言及を避け、「クリーン」なイメージを保ったお陰で、アメリカ史において最も成功を収めた黒人政治家となったが、消えることのない黒人性が、彼が触れるものすべてにまき散らされるのは何とも皮肉。このアイロニーは、アメリカという国が持つより大きなアイロニーに根差している。アメリカ史の大部分において、政治システムは2つの相互に矛盾する事実に基づいている。1つは民主主義への愛であり、もう1つは白人至上主義で、政府のあらゆるレベルに刻み込まれている

黒人男性と白人女性の間に生まれ、世界中の多民族的コミュニティで育ったという彼の経歴が功を奏し、オバマはアメリカの人種関係について彼特有の有利なポジションをとってこられた。黒人社会と白人社会双方を導き、双方のコミュニティの決定的多数に届けるに相応しい言語を見つける能力に長け、04年の民主党大会では、古い偏見や恥ずべき歴史に捉われないアメリカの到来を告げるスピーチを行う

オバマが大統領になってからも、黒人の全面的な受け入れは保留されたままで、この保留がもたらす大きな影響のせいで、オバマが大統領としてこなせる仕事は、人種に無関係と思われる領域へと制限されている

1次オバマ政権は、下院では共和党員からの大規模な抵抗戦略、上院では記録的な量の議事妨害の脅威とともにあった

「人種的反感や人種差別的歴史がある限り黒人は大統領にはなれないが、並外れて天賦の才があり、有能な若者が偶然にも肌が黒かった場合なら大統領になることが可能」とする公式は、革命であると決して宣言してはならない革命と、人種問題の重みを決して認めてはならない民主主義を2大特徴とするオバマ時代を体現。アメリカは黒人を大統領として受け入れられるほど啓蒙されていない

 

第6章     2014

「ノート」 黒人有識者の間にさえ、人種的な溝は黒人たち自身に部分的な責任があると主張する長い伝統がある

婚外子比率の増加が文化の衰退の指標として大いに問題視されていたが、結婚している女性に生まれた子供の数が落ち込めば比率も上がるため、比率は80年代後半に急上昇したが今では低下して1969年以来最低の水準。2000年代に入ってからの数年でティーン・エイジャーの妊娠数は歴史的な下降を見せ、その下降のかなりは黒人コミュニティで起こっている。粗雑に文化を論じては真実を見誤る

賠償というものを常に信用していたわけではない。黒人の窮状は奴隷制があった事実と結びついて、奴隷制という犯罪に対する賠償は広義には理に適っているという主張には納得するが、現実的な解決策には程遠い

2次大戦後に、黒人家庭が連邦住宅局のローン・プログラムから弾かれ、それが原因で郊外住宅地開発からほとんど締め出されてきたが、住宅がアメリカ家庭の資産の大いなる源泉であることから、黒人と白人の格差はこの政府の施策が原因の1

黒人排除は、復員軍人援護法や生活保護、失業保険といった他の非人種主義的なニュー・ディール政策においても見られるが、それはルーズヴェルトがニュー・ディール政策を通すために南部の上院議員たちに支払った対価だった

『賠償請求訴訟』の要素とは、体面を重んじる政治への批判、歴史を否定することはできてもそれから逃げることはできないという認識、南北戦争が長きにわたって落とした陰、僕が自分自身の発言や言語を発見しようとする試み、そして最後に、白人至上はアメリカの根幹をなしているので、僕の子どもの存命中には、もしかすると永遠に打倒されることはないだろうという深く胸に刻まれた確信など

なぜ賠償はなされなかったのか。賠償を法で定めることは単に賠償金を払うだけでなくアメリカそのものの歴史を深く再考することを意味したからで、「人種」という狭い領域に限定されない。アメリカの自由と文明がアメリカの建国以前から近年までの略奪によってのみ可能だったとあけすけに言ってしまうことは、アメリカ人が最も大切にしている神話が偽りだと認める事だろう

 

『賠償請求訴訟』

I 「そうさ、あれは私が失ったもののほんの1つに過ぎないのさ」

1923年ミシシッピ州で40エーカーの農場を持つ家に生まれたクライド・ロスの一家が求めたのは、アメリカの深南部の黒人家族がどうしても欲しいと願っていた法の保護だけ

20年代のミシシッピ州は、社会のあらゆる側面において泥棒政治kleptocracy(国の資源・財源を権力者が私物化する政治)の様相を呈し、州民の過半は永久に選挙権を強奪

州政府は選挙権と富の強奪を組み合わせ、黒人農家の多くはかつての雇用主だった綿花王の支配下、負債の返済のためにただ働きをして暮らす。働くことを拒めば、浮浪罪による逮捕とし州の刑罰制度に基づく強制労働が待っていた

ロスの家でも、父親が税の滞納を理由に抗議する手段もないまま土地を差し押さえされ一家全員が分益小作人に転落

2001AP通信の南北戦争以前まで遡る黒人所有地に関わる調査には、406人の被害者と24千エーカーの強奪された土地が掲載され、油田やゴルフ場になっているのもあった

黒人児童の教育機会も制限。シアーズ・ローバックの共同経営者の1人ジュリアス・ローゼンウォルドは南部全域で黒人のための学校を建てようと乗り出したが、ロスが野良仕事に間に合うように歩いて往復するには遠過ぎた。白人の子供にはスクールバスがあったが、ロスにはなかった

失ったものはどんどん増え、一家の賃金は地主の政治活動の不正資金に流用され、綿花畑の収益の分け前も恣意的に削られた

徴兵年齢になって、故郷で働けば兵役免除といわれたが、戦地に赴くことを選択しカリフォルニアに配属されると、何にも悩まされることなく店に入れることに気付く。第2次大戦で戦い、47年故郷に戻ると暴政が待ち受けていた。20世紀のほぼすべての時期に及ぶ600万人のアフリカ系アメリカ人の大移動は第2段階に入っていたが、南部の欲深い領主たちから逃げて法の保護を求めるものだった。ロスもその1人でシカゴに来て安定した賃金を得る。家庭も持ち子供も生まれ、普通の市民の生活ができたが、唯一欠けていたのが持ち家で、アイゼンハワー政権下のアメリカで中流階級という聖域に足を踏み入れるために必要な最後の証だった。61年ウェストサイドのノース・ローンデールに家を購入、元々はユダヤ人居住区だったが、異人種共生の実験的なコミュニティにする努力が行われていた

購入直後にボイラーが爆発。購入に際して住宅業者と「請負契約」を締結、長期賦払いとしたが、完済まで所有権移転は留保されるにもかかわらず、家を所有することに伴う責任はすべて購入者側にあり、1度でも延滞すればすべてを失うという圧倒的に不利な契約内容

住宅業者は、意図的に購入者を追い出しては次の黒人に住宅を売りつけていた

1934年連邦議会が連邦住宅局FHAを創設し、民間住宅モーゲージローン契約を保証する制度を始めたが、ロスはそのローンを利用することができなかった。黒人居住区は支援対象外に区画されていた

アメリアk前途において、アメリカンドリームの実現を目指す白人たちは政府に支えられた法的な信用制度に頼ることができたが、黒人たちは高利貸しの下へ追い込まれていった

91歳のロスは今も同じ地域に家を所有して住んでいる。68年、略奪システムの犠牲者が集まった組織「契約購入者連盟」に参加し、悪徳業者を提訴。単なる法の保護を超えて、犯罪として認めさせるとともに、被った多大なる損失に対する損害賠償を求めた

 

II 「程度の問題ではなく、完全に異質」

ノース・ローンデールは、シカゴの中でもさらに底辺にあり、異人種共生の時代は終わり、黒人が92%、殺人発生率は10万人当たり45人でシカゴ全域に比べ3倍、43%は「貧困線」を下回る暮し(シカゴ全体の2)、全世帯の45%がフード・スタンプによる食料品購入補助を受ける(シカゴ全体の3)、シアーズも87年本社を移転し1800人の雇用が失われた

黒人居住区の刑務所への収監率ので最悪値は、白人居住区の最悪値の40倍以上で、コミュニティの比較として驚異的な格差であり、程度の問題ではなく完全に異質

黒人の暮らしは良くなったが、いつ崩れるかわからない不安定な地盤の上にあり、白人家庭と黒人家庭の収入格差は70年と現在で大きく変わっていないし、白人の4%と黒人の62%が貧困地域で育っていることも世代が変わっても実質的な変化は見られなかったが、豊かな地域に生まれた白人たちが豊かな地域に留まり続ける傾向があるのに対し、黒人たちは豊かな地域から転落してしまう傾向にあった。これは20倍という有意な資産格差があることも一因だし、居住可能な地区の選択を制限されるハンデも負っている

貧困の集中がメラニン色素の集中とペアになっている事実があり、その結果生じた厄災は黒人たちにとって壊滅的なものだった

人種差別を黒人たちの責めに帰す考えもあるが、アメリカの人種主義の本質は敬意を払わないことなので、被害者をより尊敬できる人間に変えたところで決して打破できるものではない

契約購入者連盟の訴訟は76年まで長引き、陪審裁判で敗訴。陪審員長は、この評決結果が「ブラウン対教育委員会裁判」などで生じた混乱を収束させることを願うと発言、連邦最高裁もそうした感情を共有しているように思われる。この20年間、1960年代の進歩的な法整備が退行するのが見られ、リベラルが守勢に回ってきた

08年オバマが大統領候補だった時、2人の娘がアファーマティブ・アクションの恩恵を受けるべきかと尋ねられ、否定しているが、彼女たちは特権の産物であり、何を達成しようとも、広く平等な社会が築かれたことの証明にはならない

 

III 「私たちは潤沢な世襲財産を相続する」

1783年、ガーナ出身の女性が50年間の奴隷の身分から解放されマサチューセッツ州を相手に賠償請求の申し立て、所有者だったプランテーションから年金の支払いが認められた

賠償請求が成功した早い時期の一例で、建国期には積極的に議論され、しばしば実を結んだ。特にクエーカー教徒は、「かつての所有奴隷に補償を行うことを条件とした教会員制度」まで作った

20世紀には、賠償請求の大義が多様な人々によって取り上げられ、87年には「賠償請求のための全米黒人連盟」が組織され、全米黒人地位向上協会も93年には賠償請求を支持したが、アメリカという国からの反応は実質的に不変

略奪状態から半分ほど抜け出した状態にあるとはいえ、なお悩まされ続けている

「アフリカ系アメリカ人に対する賠償案検討調査委員会法(H.R.40)」が賠償に賛意を表する議員によって提出され公聴会まで言ったが、民主・共和両党とも下院議場に持ち出すことはなかった。共和党上院院内総務のマコーネルは、奴隷制をアメリカの「原罪」と認めたうえで、「150年前に起こったことで、現在生きている人間には責任のないことへの賠償が良案とは思えない」と発言したのに対し、本書の著者は、「賠償は奴隷制だけでなく、数百年にわたる窃盗と人種的テロへの償い」と証言

黒人リンチが多く行われた時代は過去のものとなったが、奪われた命の記憶は根強く残り影響の数々の中に今なお生き続けている

1810年、イエール大学長のティモシー・ドワイトは、「彼等をこちらに連れてきたのは私たちの祖先であって私達ではないと言い張っても無駄だ。わたしたちは潤沢な世襲財産を相続するが、それに付随する負債も同時に引き受け、私たちの祖先の負債を返済する宿命を持っている。彼等に自由を与えたことで能事畢(おわ)れりとすることは、彼等に呪いを与えることなのだ」

 

IV 「奴隷制が解放してくれる面倒ごと」

アメリカは黒人からの略奪と白人の民主主義によって始まっており、この2つの要素は相矛盾するどころか相互補完的

植民地時代には奴隷と貧乏白人には共通点があって、一致団結したこともあったが、英国王の臣民だった白人に比べ、法的保護から除外された黒人は最大限の搾取に適していた

それに続く250年の間、アメリカの法律は、黒人たちを不可触民の階級に貶め、すべての白人たちを市民の水準に押し上げる役割を果たした

1860年、資産としての奴隷たちの価値は、アメリカの全ての製造業、鉄道、生産能力を足したものよりも多く、アメリカ経済全体において他の追随を許さぬ最大の経済的資産だったのみならず、付随的な富が生まれた。奴隷購入は課税され、ローンで買えば利子を生み、早死にするリスクには保険が掛けられ、黒人の売買自体で経済をなした

コミュニケーション手段が未発達で黒人たちが自由に移動する権利を持たなかった時代、黒人家族を引き離すことはある種の殺人に等しい。アメリカの富と民主主義のルーツは、どんな人間にとっても入手可能で最も重要な資産である家族を利益追求のために破壊してきたことに見出すことができる。この破壊はアメリカの興隆に付随したものではなく、その興隆を促進した

アメリカに必要不可欠な労働者階級は政治の領域に収まらない「財産」として存在し、アメリカ白人たちが自由や民主主義的価値観への愛を声高に吹聴できるようにした

 

V 静かなる略奪

250年続く奴隷制という黒人の家族にも個人にも仕掛けられた戦争の影響は深甚

マイホームを所有したいというのと同様に、奴隷所有は上昇志向の者たちの好みに合っていた。奴隷制は国家に欠かせぬ土台であると見做され、それを終わりにしようとする者たちは死に値する異端者。今日の大統領がすべてのマイホーム所有者から家を取り上げることになったら何が起こるだろうか

南北戦争後はテロリズムが勝利を収め、リコンストラクションの夢は潰え、その後1世紀間、黒人の上に偏見に基づく過激な暴力と虐待の嵐が襲う

 

VI 第2のゲットーを造る

今日シカゴは、アメリカで最も人種隔離の甚だしい都市の1つだが、それは入念な都市計画を反映したもの。元々黒人毛皮貿易商サーブルによって作られた街だが、1917年不動産局が南部からの黒人の流入を恐れて、白人至上を維持するために市全域を人種別にゾーニングしようとした。連邦最高裁で却下されたが、連邦政府の補助を受けた住宅モーゲージローンを組めないようにするのに役立つ「制限約款」を使用して、半分の地区から実質的に黒人を締め出すことに成功。連邦最高裁が制限約款の法的強制を否定した際は、公営住宅の土地選定に人種隔離が導入され、195060年代に建てられたすべての家族用公営住宅のうち98%以上が黒人のみが暮らす地域に建てられ、「第2のゲットー」を造り上げた

シカゴの白人市民による悪意に満ちた人種主義によってシカゴ市政の人種隔離は加速され、うまくいかない時は人種的な暴力であるテロや暴動に訴えた

 

VII 「そういえばたくさんの人たちがいなくなったわ」

オバマ夫妻やロスたちは何とか切り抜けた例外として、数えきれないほどの人々が家を手放していなくなってしまった

 

VIII 「黒人の貧困は白人の貧困とは異なる」

今日のリベラルたちの多くは、人種主義を積極的になされる個別的な悪とは見做さず、白人が抱える貧困と不平等とに関連付けているが、アメリカが黒人の成功を積極的に罰してきたという長い歴史や、その罰し方が20世紀半ばには連邦政府の政策にまで高められてきたことを無視している。ジョンソン大統領は65年に公民権についての歴史的なスピーチの中で、「黒人の貧困は白人の貧困とは異なる」と述べたが、その差異を認めるいかなる政策をも生み出すのを嫌がっている。アファーマティブ・アクションの目的は常に判然とせず、78年の連邦最高裁の判決でも「社会的差別」やそれに伴う害悪の特定は困難とし、マイノリティ優遇制度を違憲としている

 

IX 新たなる国へ向けて

奴隷制経済にアメリカの起源があったということを忘れて、一方では自由と民主主義を賛美するのは虫の良い愛国主義

黒人への賠償は、広くて深い隔たりを解消する道を模索することになるだろう

完全な賠償など不可能だが、それ以上に、賠償という概念を持ち出すと、能力より遥か深みにあるものを脅かす、それはアメリカの伝統、歴史、世界における立ち位置といったもの

僕たちアメリカ国民は新しい国を心に描かねばならない。賠償は、僕たち自身を真っ向から見据えるために支払わなければならない代償なのだ。アメリカの繫栄は不正手段で得られたものであり、その分配において差別的であるということ。必要なのは、アメリカの精神Psycheを治療し、白人の罪を振り払うこと

 

X 「ドイツから賠償はとれなくなるぞ」

1952年、西ドイツがホロコーストへの償いに取り組み始めた時、彼等は僕たちにとって参考になるに違いない条件の下で行っていた。抵抗は激しく、罪の意識を感じるドイツ人は5%、ユダヤ人が賠償を受けるに値すると信じていたのは29%に過ぎなかった

アデナウアーは熱心な賠償論者だったが、彼自身の党でも意見が分かれ、野党の票を取り付けてようやく協定を通過させた

イスラエルでは、弾劾から暗殺計画までの、暴力的で恨みを込めた反応を引き起こす

ホロコーストの生存者たちは、金によってドイツの評判がロンダリングされるのを危惧し、復讐の方が好ましいとする感情もあった

最終的に西ドイツは3450百万マルク(70億ドル)以上を支払い、、さらに個人的な賠償請求が続いた。インフラの整備などに消費され、賠償協定の結ばれている12年の間にイスラエルのGNP3倍になった

賠償はナチスが犯した殺人の埋め合わせをすることは出来なかったが、確かにドイツが自身の罪を清算するきっかけを作り、恐らくは偉大なる文明社会がその名に相応しいものになる方法についてのロードマップを提供した

賠償協定を評価して、イスラエルのダヴィッド・ベン=グリオン首相は、「国民同士の関係において歴史上初めて、偉大なる国が道徳的圧力のみの影響により、過去の政府が生み出した犠牲者たちに補償金を払う役目を自ら引き受ける先例が作られた。迫害され、略奪された民族の歴史上で初めて、迫害と強奪を行った者が奪ったものの一部を返すよう義務付けられ、物質的損害の部分補償として集団的賠償を引き受けるまでに至った」と語る

アメリカに賠償を喚起しているのは道徳的圧力以上のもので、僕たちは自身の歴史から逃げられない

これまでの賠償請求がほとんど敗訴に終わった結果には意気消沈するが、国家を相手取って告発した犯罪には、決して少なくない町や企業が関わっている。その犯罪はあらゆるレベルで、あらゆる形でアメリカ国民自体を告発する

アメリカ政府によって数十年続けられた人種主義的な住宅政策は、アメリカ企業によって数十年続けられた人種主義的な住宅供給の慣行と一緒になって、アフリカ系アメリカ人たちを同じ地区に集中して住まわせるよう共謀。過去の略奪が現在の略奪を効果的なものにした。05年、「人種的マイノリティ顧客への住宅ローン販売で業界トップを走る創始者」を自称するウェルズ・ファーゴ銀行は一連の蓄財戦略セミナーを開催、黒人の著名人を集め、黒人たちに資産形成を啓発したが、実際は融資の際の信用力を無視して黒人たちを略奪的なサブプライムローンに追い込んだとして司法省から「人種差別訴訟」で告発、175百万ドルの和解金を払わせられた。が、すでに手遅れで、0508年ウェルス・ファーゴでローン契約を結んだ所有者の住宅の半分は09年には空き家になっていた。そうした不動産の71%は黒人が住民のほとんどである地域にあった

 

第7章     2015

「ノート」 アメリカの物語は、勝利ではなく壮大な悲劇の物語

アメリカにおいて黒人であることは、略奪されるということ、白人であることはこの略奪から利益を得ることを意味。レイシズムは強盗行為そのもので、アメリカにとって付随的なものではなく、必然的なものだった

オバマに面会、彼は人種状況を無視した「カラー・ブラインド政策」を主張し、黒人たちの欠点といわれるものに基づく弱い者いじめをする傾向があった

『大量投獄時代の黒人家庭』は僕の探求の旅の終着点。それまで理解していなかった人種差別制度の問題が明らかになり、答えは略奪で、黒人たちが心ではその存在を信じていた

 

『大量投獄時代の黒人家庭』

I 「私たちの街の下層階級の振る舞いが、彼等自身を分断している」

モイニハン(192703、ニューヨーク選出民主党上院議員、国連大使)・レポートはジョンソン政権下の労働次官補で、政権が提唱した貧困との戦いに幻滅したモイニハンが1965年に発表した黒人の貧困対策のための報告書で、既存の社会制度や家父長制が主導権を握るべきとし、黒人家庭に焦点を絞って、黒人のシングルマザー家庭比率の高さが、黒人の経済的及び政治的平等実現を阻害していると論じたが、危機回避のための具体的政策は何一つ提唱せず。黒人シングルマザー家庭の増大は、職がないことによって生じたものではなく、奴隷時代と米国南部の永続的な黒人差別に遡る、ゲットー文化の破壊的気分によって生じたものだと断定。マスコミも白人の責任を追及するものとして受け止めず、「黒人の家庭生活における失敗」として受け止め、社会不正義や差別を正当化し、貧困叩きを推進するものとなり、「怠け者、無責任な者、仕事を嫌う者、性的に粗暴な者、犯罪傾向のある者、あるいは単に愚かな人たちが貧しい」という「貧困の道徳的構築」だとされたが、貧困の原因を怠惰な個人のせいにして、その個人が存在する社会構造を完全に無視しており、「道徳的問題があるから貧困なのだ」という単純な考えで、暗黙的には、「貧しくない人は、道徳的に正しいからだ」と、白人の道徳観に関して学問的に行われたとてつもない責任逃れとの批判を浴びる

モイニハンは、黒人家庭への関心を公言し続け、ニクソン政権では都市問題担当の大統領顧問となり「家族支援計画」を提唱したが上院で潰され、悪化し続ける社会不安に対し、政権から離れた後、「私たちの街の下層階級の振る舞いが、彼等自身を分断している」と緊急警告したが、政権がやったのは大量投獄という手軽な解決方法だった

 

II 「収監者数は少なすぎる」

Grey Waistとは投獄国家のこと。投獄者は近年急増し、先進国と比べても数倍~10倍強、ロシアと比べても投獄率は倍近い(10万人当たり700)し、中国より収監者数が50万人も多い

暴力的犯罪率は減少しているが、投獄率は犯罪とは関係なく、刑事政策との関係で上昇

ドラッグを中心に犯罪を厳しく取り締まる法律によって実刑判決が出やすくなっている

世界的な傾向を見ても、厳罰や高い投獄率は犯罪の増加とは無関係で、アメリカでも集団の惨めさが増大しただけで、特に黒人家庭の経済的な生活能力に多大なる影響をもたらす

サンフランシスコやロサンゼルスの仮出所者のうち3050%がホームレス

1984年、仮出所者の70%が無事執行猶予期間を終え完全なる自由を手にしたが、66年の44%から改善したものの2013年には僅かに33

 

III 「9時を過ぎたらシャワーは使うな」

元受刑者を待っている環境は厳しい

収監者のおよそ半数は非識字者だし、刑事被告人は裁判前に8割の確率で経済的困窮状態と認定される。02年には収監者の68%が薬物に苦しんでいた

 

IV 「黒人の犯罪まみれの黒さ」

奴隷制が終わり、白人至上主義は存亡の危機に陥り、様々な罪人を生み出すことで歯止め策が講じられ、白人なら合法と見做される行為が黒人がやると犯罪とされた

黒人たちは罪を犯しやすい人種だという執拗かつ体系的な認識は、黒人指導者に対するアメリカの認識にまで広がる。半世紀近くFBI長官だったフーヴァーは3世代にわたって黒人指導者たちを苦しめ、69年のフレッド・ハンプトン暗殺で最高潮に。黒人奴隷の逃亡を支援し続けたハリエット・タブマンは最高レベルの盗賊と見做されていた

犯罪と警察活動の関係は不分明にも拘らず、ジュリアーニのニューヨークでは、「秩序維持」を優先に「ストップ・アンド・フリスク」という職務質問が一般化、不審者を呼び止めて所持品検査を行うが、黒人やヒスパニックが白人より呼び止められる頻度が圧倒的に高く、一方で武器を押収できたのは白人の方が多かった。この政策は後継者のブルームバーグの任期中の13年に憲法違反とされたが、他の地域で表向き犯罪防止活動と呼ばれたものは堂々たる略奪と大差ない

大戦間にニューオーリンズで起こった黒人の大量投獄事件でも、犯罪撲滅運動が激化した一番の要因は、社会統制にまつわる白人たちの不安で、27年最高裁は人種に基づくゾーニング制度を違憲と裁定

 

V 「これまであらゆる社会が経験してきたなかで、最もひどい時代」

アメリカ人は犯罪にどう反応するのか。黒人の悪行と同一視してきた歴史と分けて考えることはできない。公民権運動の最中に、犯罪の増加が繰り返し黒人たちの歩みと結びつけられたのも驚くに値しないし、「人種隔離廃止が黒人の犯罪を増やす」と公言されたし、66年にはニクソンも犯罪率の上昇をキング牧師の市民的不服従の運動と結びつけた

96年、凶悪犯罪が急激に減少し始めた時でさえ、世論をリードする立場の人々は、凶暴な若い男性たちが発生していて、「これまであらゆる社会が経験してきたなかで、最もひどい時代」と危機を煽り、その後の10年で投獄率は急上昇を遂げた

94年クリントンは刑務所建設への国庫補助と仮釈放処分を減らす法案に署名したことを、最近になって投獄件数を上げる決定的役割を担ったと認め後悔していると述べたが、その時でさえ、ある民族の大多数を投獄する行為は純粋な善意に基づいており、論理的で、犯罪に対する人種差別抜きの対応だったという思い込みを撤回しようとはしなかった

 

VI 「あの子と一緒に刑務所に入っているみたい」

2010年、連邦最高裁は、殺人を除く犯罪で有罪となった年少者に対して仮釈放の余地がない終身刑を与えるのは違憲とし、2年後には殺人についても追加

受刑者を詰め込み、更生プログラムや財源を削減するのは、より長く厳しい罰を与えようという国家規模の運動の一部で、釈放のための要件もより厄介になっている

 

VII 「私たちの価値体系では、生き延びることと生きることが対立するようになった」

家庭の暮らし向きがより良く、より強く、より安定したものになることは重要だが、家庭はより大きな社会構造の内側にある社会構造だという認識も同様に重要

 

VIII 「貧しい黒人たちはますます公然と暴力的になっています」

モイニハンの「黒人家庭――国家的対策を擁する事例」の出版から50年経って、このレポートが予言的だったと評価されているが、根本的に性差別主義に基づいた資料であり、家庭のみならず家父長制の重要性を推し進め、黒人男性は黒人女性を犠牲にして力を獲得するべきだと論じている

モイニハンはニクソンに向けて、黒人下層階級は異常なまでに自己破壊的になっていくとし、「貧しい黒人たちはますます公然と暴力的になっています」と進言

 

IX 「今や黒人たちは損害賠償を受けるに値するという考え方がある」

1995年、テキサス州知事のブッシュはほぼ毎週新たな刑務所をオープンする政治体制のトップだったが、10年後に大統領になった時には彼自身と国民全員が過ちを犯したと断言、一般教書で60万人の釈放に言及

16年の大統領選挙では、ブッシュの号令を繰り返し、広大な投獄国家の解体を宣言しているが、道のりは前途多難

 

第8章     2017

「ノート」 オバマのリスペクタビリティ・ポリティックス(マイノリティがマジョリティの社会に受け入れられるように振舞うべきとする政治問題)を批判

オバマは、トランプの大統領は不可能と断定

トランプは虚無から躍り出てきたのではなく、8年間の狂乱から出てきた。前下院議長のベイナーはオバマが「ちゃんとした仕事に就いたことなど一度もない」と主張したが、彼はまともな議員の1人だと言われていたし、クリントン時代の下院議長だったキングリッチはオバマのことを「フードスタンプ大統領」と呼んだが、彼は頭の良い議員の1人といわれていた

 

『僕の大統領は黒人だった』

I 「愛が君に間違ったことをさせる」

1610月、オバマの任期末期のお別れパーティが大勢の黒人をホワイトハウスに集めて開催された

オバマは、黒人の人々の毎日の、驚くべきアメリカ人らしさの象徴

パーティでオバマがみんなと歌ったのは、アル・グリーンの《ラヴ・アンド・ハピネス》で、「君に正しいことをさせる、愛が君に間違ったことをさせる」

 

II 彼は氷の上を歩いたが決して転ばなかった

オバマが、トランプは勝てないといった評価は、彼の持って生まれた楽観主義とアメリカ国民が持つ究極の叡智を信じる揺ぎ無さから来ていた。それは異例の5年で昇進を果たしたのと同じ特質であり、オバマの躍進を生んだ04年の民主党大会でのキーノート・スピーチも同じ論理に根差していた

8年間オバマは氷の上を歩き続けて一度も転ばなかった。誰よりもカラーラインの意味を機敏に解釈し、人種の境界領域を渡っていった。黒人の心への深くて誠実なつながりを明確に示して見せる一方で、決して白人の心を疑うことはなかった

オバマが白人のイノセンスを受け入れることは、政治的な生き残りの問題として明らかに必要だった

強固な人種的敵対心にも拘らず、また、ホワイトハウスに到着した瞬間から公然と繰り広げられた連邦議会の共和党議員らによる徹底した抵抗に直面しながらも、オバマは主要な偉業を成し遂げた

 

III 「その世界の一部となることを決心したのだ」

オバマは自伝で、高校でバスケットをしていた時に黒人の友人たちの活躍する姿を見ながら、「その世界の一部となることを決心したのだ」と書いているが、この一文を書くことができるほど十分な力を持った黒人は過去にほとんどいなかった。無数のトラウマとともに黒人種の中にいることを悟らされるが、オバマには警察によって殴打されたり、貧しい学校に送られたりするトラウマは見られないにも拘らず、自ら入っていった。オバマにとって黒人であることは、そこから逃げ出すようなものではなく、かっこいいことだと思われ、大事に迎え入れるようなものだった

 

IV 「それでも地元の界隈に帰らないといけないんだ」

選挙運動期間中、トランプが大統領に相応しくないと示す新しくより衝撃的な暴露や証拠が毎日のようにもたらされた

 

V 「彼らは虎の背に乗ってやってきた」

オバマの最も大きな踏み違いは彼の最も偉大な洞察から直接発生

オバマは、自分の所属政党の味方の中にさえ自分を支持するよう説得するのに大いに苦労する者たちがいたし、苦境を救ってあげたのに裏切られたりした

共和党は、単に白人が多い政党というだけでなく、白人であることの歴史的特権を保護するという利益を自分たちのアイデンティティとする白人を優先する政党

民主党員の32%が反黒人主義的考え方を持っているのに対し、共和党員では79%に上る

08年の予備選と本選の両方の選挙運動でオバマは人種差別に遭遇

民主党全国大会の直前、FBIはデンバーでの白人至上主義者らによる暗殺計画の企てを公表。各地で黒人を嘲弄する行為が拡散

その時までには、バーサリズム(誕生主義)は、トランプの動きによって火に油を注がれており、共和党の一般党員たちを席巻していた。15年の調査では、共和党支持者の54%がオバマはイスラム教徒と考えており、僅か29%がアメリカ生まれだと信じていた

オバマが人種差別を批判するコメントを出した数少ない例に対して、政権運営を圧迫しかねないほどの激しい逆風が吹いた

ハーバード大の黒人教授の逮捕事件(3章参照)でオバマが「警官は愚かな振る舞いをした」と指摘したことに対し、白人の1/3が大統領の好感度が下がったと言い、2/3近くがオバマのコメントを「愚かな振る舞い」だと主張。オバマケアを議論する両院合同会議では慣例と礼節を無視して「嘘つき」呼ばわりされたし、猿と同一視する議員さえいた

ティー・パーティ抗議運動の究極の結果の現れがトランプで、2015年大統領がアメリカ人ではないという人種差別神話を売り歩いて回ることによって政治的名声を獲得してのし上がってきた男・トランプが大統領候補になった時、その運動は頂点に達した。政治信条はさまざまに異なっていても、その運動で多くの白人知識人が支持する1つの理論が、グローバリゼーションからくる危機感と縁故資本主義によって脅かされた白人労働者階級の大規模な不満が反応として現れたという考え方

トランプは、女性嫌悪、イスラム人嫌い、外国人嫌いなどを自由主義的に売り物にしつつ、好きなように選挙運動を展開したにも拘らず当選、民主主義の伝統を持つと考えられてきたこの国が、どうしてそんなにも素早く、たやすくファシズムへと落下する崖っぷちへと押しやられたのか

選挙後に共和党のことを指して、「彼らは虎の背に乗ってやってきた。そして今や虎が彼らを喰っている」といっていたが、今や彼らだけではなくみんなを喰い尽くそうとしている

 

VII 「出ていったときには、私の全部を一緒に持っていった」

オバマが就任した時には大きな幸福感が沸き起こったが、何を期待すべきかという考えも準備もなしにオバマ時代に突入、その可能性としての重要性を評価しようとする者などほとんどいなかった

奴隷解放から1世紀の間、疑似奴隷制が取り憑いてきた。黒人と白人の分離教育が違憲とされた後も多くの学校が分離教育を維持。門は開かれてはいるが、とても遠い所にある

アメリカが最初の黒人大統領の次にトランプを選ぶという考えはその歴史にぴたりと一致選挙後には、南北戦争後に北軍が引き揚げると南部で人種差別が復活したポスト再建時代の亡霊が現れるんじゃないかといい始めた

 

エピローグ アメリカ史上初の白人大統領

トランプは白人であり、そうでなければ大統領にはなれなかった。先任者たちは「白人であること」という要因のお陰で高い地位に上り詰めた。白人であることは「おぞましすぎる遺産」で、ほとんどの者にとって追い風となる。土地を盗み、人間を略奪することで、トランプの先人たちのための場所が切り拓かれた。個々の勝利がこの排他的集団をしてアメリカ建国にまつわる罪を超克したように見せた

トランプの政治的キャリアはバーサリズム擁護から始まる。バーサリズムとは、黒人は自らも参加して造った国の市民に相応しくないという古いアメリカの戒律を現代風に焼き直したもの

トランプには真のイデオロギーがないともいわれるが、事実ではなく、「白人至上」がそれ

白人至上主義者たちは、トランプの中に仲間を見ている

トランプにとって、白人であることは彼の力の中核。選挙で選ばれた地位にも政府での役職にも軍務経験にも無縁のまま上り詰めた初めての大統領であり、もっと重要なのは、自分の娘が「ピースオブアス」(性的対象としての女)だと公然と認めた初の大統領

トランプは真に新しい存在――その政治的存在の全てが黒人大統領という事実に依存している最初の大統領故に、単に他の全ての大統領と同じ白人というだけでは事足りず、「アメリカ史上初の白人大統領」という敬称をつけて呼ぶべき

 

II

トランプの「白人であることへの傾倒」の広汎さに拮抗しているのは、そのことに対する一般国民の「知的な不信」だろう

トランプは、白人労働者蔑視に対する反発の産物

トランプの立身出世の主たる動力源は文化的なルサンチマンと経済の暗転だったというのが白人の思想的指導者のお決まり文句だが、実際の調査では、支持者の平均世帯収入は高く、白人の率が極めて高い地域の出身である傾向があり、白人のほとんどの層で優勢

 

III

ヒラリーが最初の選挙戦で未成年の凶悪犯罪者(スーパープレデター)を最悪世代の源と決めつけたが、「忘れられた」若い黒人有権者として成長、クリントニズムの再来に疑念を抱くいたのは当然

 

IV

09年、政権の座に就いたオバマは「良識ある」保守派の人々の政策の特徴を取り入れれば協力していやってけると信じたが、共和党の第1の目的はオバマを「1期限りの大統領」にすることで、保守系のシンクタンクが先導してオバマが提案した医療保険制度も、突如として社会主義と見做され、賠償の一形態とまで見做された

黒人思想家の間で以前から自明の理とされているのは、白人であることが直接的に黒人の肉体を危険に晒しているが、白人自身にも白人と黒人に共有されている国家にも、そして全世界にまで、もっと大きな脅威が迫っているということ

「アメリカ初の白人大統領」はアメリカ史上で最も危険な大統領でもある

アメリカ国民は2つのことを自覚しなければならない。1つは、アメリカ人もまた単一の「階級」に属していること。アメリカ国民の名の下に実行された拷問、爆撃、クーデターの歴史に責任を負い、そうした歴史と本質的に結びついた「階級」に属しているということ。次いで、グローバルな状況の中では、恐らく、アメリカ国民は全員が「白人」になってしまうのだろうということも自覚しなければならない

白人であることの告発と、強欲さに特権を与え手際のよい略奪を法的に助長した野放しの資本主義によってもたらされた堕落の告発、この2つの間に葛藤は存在しえない

賠償金の請求と「生活資金」の要求の間に、正当な法執行の要求と「単一支払者医療制度」の要求の間に、矛盾はない。お互いに関連してはいるが、代替にはならないからだ

性差別、人種主義、貧困、戦争との闘いはすべて、もっと人道にかなった世界の実現を究極の目標としている

 

 

 

 

(書評)『僕の大統領は黒人だった バラク・オバマとアメリカの8年』(上・下) タナハシ・コーツ〈著〉

2021116 500分 朝日

 苦悩が育んだ柔らかな「社会派」

 あの米連邦議会「襲撃」事件の後ではもはや思い出すことさえ難しいが、いまから12年前、「ポスト・レイス」(脱人種)という言葉が、つかのま、輝かしい希望と感じられたことがあった。

 2009年、初の「黒人」大統領となったオバマ氏の就任式前後のことである。だが次第に「黒人大統領を実現したアメリカにもはや人種差別は存在しない」とする的外れの謬見が広まり始める。

 そもそもオバマは「人種的にあいまい」といわれた。「奴隷の子孫」ではないという生い立ちもさりながら、人種に関わるどんな問題でも「融和」を説いて隠忍自重を崩さず、それが「保守」を自称する反動勢力につけこまれた。彼の知的な能力や清廉な人柄を認める人ほど、「オバマのジレンマ」に深く悩まされたのである。

 しかしながらこのジレンマは、その痛苦のぶんだけ、新しく柔軟な知性と感性をひそかに育んでもいたのかもしれない。本書はそんな思いを抱かせる新しい「社会派文学」だ。

 各章は08年の大統領選のさなかから8年余り、論壇誌「アトランティック」に発表された折々の社会批評やルポルタージュだが、どれも古びることなく、そのつどの希望や困惑、失望や怒りを得がたく描き出す。

 当初、オバマのさっそうたる登場に「風立ちぬ」と感じて身ぶるいした黒人青年の著者は、インタビューしたミシェル・オバマの堂々たる物腰にけおされ、黒人客のいない南北戦争史跡ツアーに熱中し、マルコムXを再考し、それらの記事が高く評価されて、やがて大統領に会うまでになる。

 しかしその過程で、人種差別を外科的に除去可能な「腫瘍のようなもの」と思った自分の未熟を悟り、最初のアフリカ人奴隷から4世紀にわたる歴史は「白人への優遇措置」だという認識を得る。そして最終章では「白人であり、そうでなければ大統領にはなれなかった」ドナルド・トランプこそ「アメリカ史上初の白人大統領」だという卓抜な逆説に至るのである。

 いまやアメリカ文学の次代のリーダー、「ジェームズ・ボールドウィン亡き後の空白を埋める存在」とまでいわれる著者の文体にはヒップホップの影響があると解説されるが、評者はもうひとつ、本書の筆致にブロガー出身という物書きとしての生い立ちを感じる。

 もともと私的なつれづれに適したブログは読者がどこにいるかもわからない点で「私」でも「公」でもないあいまいさに揺れる。それが小さな池の水面のように、迷いもためらいも、期待も微苦笑も映し出す。そこで培った柔らかさが、オバマの雄弁を超えて、希望と確信を語る日を待ち望みたい。

 評・生井英考(立教大学アメリカ研究所所員)

     *

 『僕の大統領は黒人だった バラク・オバマとアメリカの8年』(上・下) タナハシ・コーツ〈著〉 池田年穂、長岡真吾、矢倉喬士訳 慶応義塾大学出版会 各2750円

     *

 Ta-Nehisi Coates 75年生まれ。米誌「アトランティック」を中心に執筆活動を続け、著書に『美しき闘争』、全米図書賞を受賞した『世界と僕のあいだに』など。昨年は初の小説も発表した(未邦訳)。

 

 

タナハシ・コーツ『僕の大統領は黒人だった』があぶりだすアメリカの実像

VOGUE BOOK CLUB|池田純一】 BY JUNICHI IKEDA 202118

ダイバーシティの本質をより深く理解するための一助となる良書を紹介する連載の最新回は、ピューリッツァー賞をはじめ数々の受賞歴を誇るアメリカのジャーナリストで作家のタナハシ・コーツによる『僕の大統領は黒人だった』。2008年から2017年、つまり第44第アメリカ大統領選からドナルド・トランプ政権誕生の間に『アトランティック』誌に寄稿した評論を編んだ本書が今、訴えることとは。

202011月に行われたアメリカ大統領選では、民主党のジョー・バイデンが勝利した。だが、選挙後、現職大統領のドナルド・トランプはかたくなに敗北宣言を拒んできた。その結果、この16に連邦議会でわれた選挙結果の承認会議のには、トランプ信奉者が暴徒と化し、会場となった議事堂を襲撃するという痛ましい事件まで起きてしまった。

こうした事態は、もちろん、アメリカ政治史の中では異例のことなのだが、さすがにここまで来ると、その必死なまでの抵抗の素振りの背後に狂気すら見え隠れする。とはいえ、それでもなんとかなると信じられるのは、ひとえにバイデンが勝ってくれたからだ。そうでなかったら、これから先の4年間、アメリカどころか世界がどうなるのか、全く想像もできなかったことだろう。

なぜこんなことから書き始めているのかというと、『僕の大統領は黒人だった』の原書は2018年、トランプ政権の真っ只中で出版されており、その時点ではトランプ再選の未来も当然想定されていたはずだからだ。一方、この訳書を手にとったのは、すでにバイデンの勝利、すなわちトランプの敗北が決した後だった。多分、この違いは決定的に読後感を変えているにちがいない。

というのも、終盤に置かれた「僕の大統領は黒人だった」と「アメリカ初の白人大統領」の2篇の評論によれば、バラク・オバマという黒人が、それまで43代続いた白人大統領の歴史に楔を打ったがために、むしろ白人優位社会としてのアメリカの本質が露わにされ、その反動としてトランプの台頭を呼び起こしたことになるからだ。そのようなこの本の結末を2018年に読み終えた、心あるアメリカ人の衝撃はいかばかりだったか。それほどまでにアメリカの黒人と白人の間にあるカラーラインの溝は深く、その点をタナハシ・コーツはこれでもかとばかりに切り込んでくる。

トランプが「アメリカ初の白人大統領」と呼ばれるのもそういうことだ。黒人のオバマが大統領になったことで、アメリカの白人の多くが、自分たちの社会が白人社会であったことを改めて思い出し、その結果、トランプの台頭をもたらした。コーツも本書の中で指摘しているように、トランプは2016年の大統領選で、性差、学歴、年齢、年収、地域特性といった全ての属性で白人からの支持を取り付けていた。メディアでしばしば耳にする、ラストベルトのホワイトワーキングクラスだけが、あるいは大学を卒業していない学歴のない白人男性だけが彼を支持したわけではないのだ。広く白人全般からの支持を取り付けたのがトランプだった。その事実から目をそらしてはいけない。

つまり、2016年のトランプの勝利とは、端的にアメリカ白人の中に潜む白人優位意識が浮上した結果だった。アメリカの日常生活を彩る社会慣習の随所に白人優位意識に基づいたものが眠っている。いやむしろ社会的無意識として取り憑いている。そんな非情な現実をトランプはあぶり出した。

となるとむしろ、白人至上主義(white supremacism)というアメリカ建国の大きな柱から意識をそらさせるために、トランプは自ら道化を演じてきたようにすら思える。どこからが本心で、どこからがリップサービスなのか、どこからが冗談で、どこからが真顔なのか、トランプの百面相は、その真意を全く理解させない。だが、そうしたトリッキーな振る舞いに彼の狙い通りにあしらわれてはならない、というのがコーツの主張だ。これは、黒人コミュニティに内在した視点からオバマに対してすら批判的に接してきた経験があればこそ可能になった、コーツならではのトランプ批判である。その点では、オバマのウィングマン(相棒)だったバイデンが、トランプから大統領職を取り返したことの象徴的意味は深い。

このようにコーツの意識は常に「人種」に集中しており、ぶれることはない。

黒人による良き統治、の反動。

本書の原題は“We Were Eight Years in Power”、つまり、「私たちは8年間権力を手にしていた」というものだ。序章にある通り、このタイトルは、南北戦争後の再建期(18651877年)に、南北戦争で負けた南部諸州のひとつであるサウスカロライナ州で州議会下院議員を務めた黒人政治家のトマス・ミラーの言葉から取られた。

ミラーの言葉は、この再建期に奴隷から解放された黒人が政治に参加することで、治安はよくなり、総じて「黒人による良き統治」がなされたことを強調し、黒人の政治参加を継続させるよう懇願するものだった。

だが、残念ながらミラーの願いが聞き入れられることはなく、北部の監督が外された1878年以降サウスカロライナでは、実質的に黒人の市民権を制限し、学校やバス、食堂といった公共空間における黒人の隔離を実施する体制──いわゆる「ジム・クロウ法体制」──へと移行した。さすがに新たに制定された憲法修正第13条によって、黒人が奴隷という地位に戻ることこそなかったものの、それ以外は実質的に南北戦争以前の、白人優位の社会が復活し、その状態は20世紀なかばの公民権運動の時代まで継続される。

南部白人社会が拒絶したのは「黒人による良き統治」、原文では“good Negro government”であり、つまりは「良き黒人政府」のこと。だが、ニグロによる政府が良かった、なんてことになったら、そもそも自分たちの「民主的」社会基盤である信念(=白人優位)が根底から覆されることになる。全く了承不能のものだった。

なぜ、このことを強調するのかというと、この本はとどのつまり、オバマが大統領を務めた8年間(2009年-2017年)は、「ニグロによる統治」の8年間という点で、南北戦争後の再建期にミラーたち黒人が政府に加わった8年間に準じている、という歴史観に依拠しているからだ。それは同時に、この8年間の再建期の後に、その反動として南部でジム・クロウ法による白人優位社会が復権したことを示唆してもいる。その「かつての反動」の反復が、2017年のトランプ大統領の誕生だと、コーツの目には映った。となると、2018年に原書出版後にこの本を読んだ人たちの心のなかで、歴史の反復としてジム・クロウ法のような「隔離すれど平等」の時代が再びやってくるかもしれない、という不安を呼び起こしたに違いない。

その点では、終盤の評論タイトルからとった『僕の大統領は黒人だった』という邦題は──もしかしたらコーツを当代の著名な黒人作家に引き上げた『世界と僕のあいだに』(2017年)にならったのかもしれないが──いささか感傷的すぎる。実際はもっとハードな評論集だからだ。なにしろ、原書副題は“an American Tragedy”、すなわち「アメリカの悲劇」なのである。

特に、タナハシ・コーツの作家としての評価を一気に高めた「賠償請求訴訟」という2014年に発表された評論は、その名の通り、アメリカという国家が奴隷という形で黒人たちから彼らの歴史を略奪した史実に対して、その補償を賠償請求として論じたものだ。彼の「人種」に対する問題意識と、その熱意に裏打ちされた各種調査と、コーツらしい詩的で内省的な文体があいまった硬派の評論である。

伝えることと語ること。

この論考で注目を集めたコーツは、翌年の2015年に刊行された、父から息子に宛てられた書簡という体裁をとったエッセイ集である『世界と僕のあいだに』で全米図書賞ジャーナリズム部門をはじめとする各賞を受賞する。さらには「天才助成金」と呼ばれ、過去には作家のトマス・ピンチョンや評論家のスーザン・ソンタグも受賞したマッカーサー賞を授与された。そうして名実ともに、アメリカの、それも黒人の「パブリック・インテレクチュアル(公共知識人)」の仲間入りを果たした。

本書は、コーツが、アメリカの伝統あるリベラル評論誌である“The Atlantic”に寄稿した論考の中から、オバマ大統領の8年間の間に発表されたものを毎年1本ずつ選んで編まれたものだ。一冊の本にまとめるにあたって、8つの論考の前には彼自身の回顧録として、その論考に対して、今、コーツがどう考えているかを記した「ノート」が書き足されている。

その結果、図らずも本書は8年間に亘る作家コーツの成長の記録にもなっている。彼が文筆家として自分のスタイルを磨いていく過程を振り返った自省の書でもある。そこには、アメリカでいわれる「雑誌ジャーナリズム」や「文芸ジャーナリズム」の伝統への彼なりの対処、というか「もがき」が記されている。

たとえば、伝えることと語ることの違い。評論と報道の配分、その匙加減。自分自身のボイスの捉え方、扱い方、残し方。そのボイスを念頭に置いたメインテキストとサブテキストの使い分け、等々。こうした文芸技法のあれこれについて、彼自身の試行錯誤の軌跡が、「ノート」の部分に事後的な告白として正直に記されている。

ここで興味深いのは、彼が念頭に置く文芸上の主題もスタイルも、黒人文学の伝統に則ったものであることだ。つまり、文芸ジャーナリズムといって通常想起されるトルーマン・カポーティやトム・ウルフといった人たちとは、多分、一線を画している。

実際、この本を読むと、アメリカにおける黒人の存在は、他のマイノリティ・グループと比べた時、全く異なる「特異な(singular)」存在であることを思い知らされる。Black Exceptionalism(黒人例外主義)とでも言ってもいいくらい違う。アメリカにおける黒人は、アメリカをアメリカたらしめるための刻印のような役割を担わせられているのだ。実のところ、「白人」と「黒人」という二項関係が、アメリカ社会を、経済的にも政治的にも支えてきた。黒人奴隷という存在が、プランテーションによる綿花の大量栽培を可能にし、アメリカの資本制を離陸させた。黒人奴隷がいたからこそ、本来ならヨーロッパ各国からの種々雑多な移民からなるアメリカ社会を一律に「白人社会」に変え、その「白人」たちの間で自由と平等を謳うアメリカン・デモクラシーを実現させた。

きっとこうした社会の見方や歴史の理解は、コーツも通ったハワード大学などのHBCU(歴史的黒人大学)に、黒人社会の内側から観察され蓄積された無数の記録の上に成り立っているのだろう。その最たるものが、ジェイムズ・ボールドウィンやトニ・モリスンに代表される黒人文学というわけだ。そして、どうやら、そのような歴史をつくってきた先達の肩の上から、今の黒人社会とアメリカ社会の有り様を記述することに、コーツは、自分の使命を見出している。

新しいアメリカ観。

ちょうど202012月に入って、アメリカでは、MLB(メジャーリーグベースボール)が、黒人だけで行っていた「ニグロ・リーグ」の記録を正式にアメリカン・ベースボール史に掲載すると公表したけれど、同じようなことが黒人文学にもあるのかもしれない。つまり、黒人文学には、通常のアメリカ文学史には登録されない裏街道のようなところがあって、黒人以外にはその表現の襞にまではなかなか到達できない。タナハシ・コーツの書いたものを読んで驚愕したら、そのようなブラインドサイトに置かれた黒人文学のことを思い浮かべるべきなのだろう。

もっとも、コーツはコーツで、この本が「オバマの8年間に自分が手にした僥倖の記録」であることを隠そうとはしない。オバマに対して批判的なトーンで書いているところも多々あるのだが、しかし、コーツにもオバマという大波に乗ったという自覚はある。

実際、バラクとミシェルのオバマ夫妻の登場で、コーツの執筆環境は激変したのだという。オバマの登場は、著述を生業とする黒人たちにとって新たな一つの市場をもたらした。2008年から、ITバブルならぬ「ブラック・バブル」が起こった。ヒップホップやNBAに代表されるブラック・カルチャーやブラック・コミュニティに対する一般の関心が一気に高まり、その要望に応える過程で、作家の執筆対象も質量ともに拡大した。そうした潮目の変化の中で、コーツも、以前から関心のあった「人種(race)」にまつわるテーマを様々な角度から検討する機会に恵まれ、見識を深めることができた。そうした幸福な好循環の執筆環境の中で書かれたのが本書に収められた評論群だ。

ここまで見てきたように、本書は、作家タナハシ・コーツの転換点を記録する一冊だ。彼の来し方行く末を見据えるためにも、そしてなによりも、黒人社会に内在したアメリカ社会の実像を知るためにも、ぜひ一読を勧めたい。

とはいえ、念のため記しておくと、本書は決してすらすら読めるタイプのエッセイ集ではない。むしろ、内容にしても文体にしても相当ハードだ。だから、読むときは、できれば頭がスッキリして元気のある時が望ましい。だが、そうして読み進んだ先には、これまでとは異なる眺望がきっと開けることと思う。少なくともアメリカの見え方は確実に変わる。その意味で本書は読者に対しても成長を促す一冊だ。

この本を編むことで、コーツ自身は、作家として次のステップに進もうという静かな気概を示している。オバマの8年間は、自分を育ててくれた。随分と知的にも人間的にも肥えることができた。ここから先は「削ぎ落とす」時間だ。終盤に行くにつれて、言外に彼はそんな決意を告げているように聞こえた。

 

 

Wikipedia

バラク・フセイン・オバマ2世(Barack Hussein Obama II196184 - )は、アメリカ合衆国政治家弁護士。同国第44大統領(在任2009120 - 2017120)。

民主党に所属し、アメリカ本土生まれでなく、アフリカ系アメリカ人有色人種初の大統領となった。200513日から20081116日までイリノイ州選出の連邦上院議員199718日から2004114日までイリノイ州議会の上院議員を務めた。

l  概要[編集]

196184日にハワイ州ホノルルで誕生する。1983年にコロンビア大学を卒業後、シカゴでコミュニティ・オーガナイザーとして働く。1988年にはハーバード・ロー・スクールに入学し、黒人として初めてハーバード・ロー・レビューの会長に就任した。卒業後は公民権弁護士となり、1992年から2004年までシカゴ大学ロースクールで憲法学を教えた。オバマは選挙政治に目を向け、1997年から2004年までイリノイ州第13区の代表を務め、上院選挙に出馬した。2004年には3月の上院初当選・7月の民主党全国大会での基調講演・11月の上院選挙での地滑り当選で全国的に注目されるようになった。2008年アメリカ合衆国大統領選挙においてヒラリー・クリントンとの接戦の末に民主党の大統領候補に指名され、共和党のジョン・マケインを抑えて当選し、2009120日にジョー・バイデンと共に就任した。その9ヶ月後には2009年のノーベル平和賞受賞者に選ばれた。

オバマは就任して最初の2年間に多くの画期的な法案に署名して法律を成立させた。可決された主な改革には、医療保険制度改革(一般的に「アフォーダブルケア法」または「オバマケア」と呼ばれる)、ドッド=フランク・ウォール街改革・消費者保護法2010年のドント・アスク、ドント・テル廃止法などがある。2009年アメリカ復興・再投資法2010年の税制救済・失業保険再承認・雇用創出法は、大不況の中で景気刺激策としての役割を果たした。国の債務上限をめぐる長い議論の後、彼は予算管理法とアメリカ納税者救済法に署名した。外交政策では2001年アフガニスタン紛争でのアメリカ軍の増派・アメリカ合衆国及びロシア連邦との間でSTART条約による核兵器の削減・イラク戦争への軍事関与の中止などを行った。リビアでは軍事的介入を命じ、ムアンマル・カダフィ政権の打倒に貢献した。また軍事作戦を指揮し、アメリカ同時多発テロ事件を引き起こしたアルカイダの最高指導者オサマ・ビンラディンやイエメンのアルカイダ活動家アンワル・アウラキの死をもたらした。

2012年アメリカ合衆国大統領選挙において共和党の大統領候補であるミット・ロムニーを破って再選を勝ち取ったオバマは、2013121日に2期目の大統領に就任した。この任期中に彼はLGBTのアメリカ人のためのインクルージョンを推進した。オバマ政権はブリーフィングを提出し、最高裁判所同性婚禁止令を違憲として破棄するよう求めた(United States v. Windsor and Obergefell v. Hodges)が、2015年にはObergefellで同性婚が法制化された。サンディフック小学校銃乱射事件を受けて銃規制を提唱し、アサルト武器の禁止を支持した他、地球温暖化や移民に関する広範な行政措置を行った。外交政策では2011年のイラク撤退後のISILの増長に対応してイラクへの軍事介入を命じ、2016年のアフガニスタンでのアメリカ軍の戦闘活動を終了させるプロセスを継続し、2015年の地球温暖化に関するパリ協定につながる議論を推進し、ロシアのウクライナ侵攻2016年アメリカ合衆国大統領選挙でのロシア連邦の干渉後に再びロシアへの経済制裁を開始し、イランの核開発問題を仲介し、アメリカ合衆国とキューバの関係を正常化した。キューバ広島平和記念公園アフリカ連合本部を訪問した初の大統領である。オバマ大統領は最高裁判所に3人の判事を指名した。ソニア・ソトマヨールエレナ・ケイガンが確定したが、メリック・ガーランドは党派的な妨害に遭い、確定しなかった。

オバマ大統領の任期中にアメリカ合衆国の海外での評価は大幅に向上した[3]。彼の大統領職は一般的に好意的に評価されており、歴史家・政治学者・一般市民の間での彼の大統領職に対する評価は、アメリカ合衆国大統領の中で上位に位置している。オバマは2017120日に退任し、現在もワシントンD.C.に居住している[4][5]

l  経歴[編集]

l  生い立ち[編集]

196184ハワイ州ホノルルにある、女性と子供のためのカピオラニ医療センター英語版)で生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア1936から1982)は、ケニアニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang[6])のルオ族[7]、母親はカンザス州ウィチタ出身[8][9][10]白人アン・ダナム[11]である。 父は奨学金を受給していた外国人留学生であった[12][13]2人はハワイ大学ロシア語の授業で知り合い、196122に結婚。[14]

父と同じバラクというファーストネームは、旧約聖書の登場人物で、古代イスラエルの士師(軍事指導者)であるバラクに由来する。

バラク・オバマ自身はプロテスタントキリスト教徒であり[15]キリスト合同教会(英語では"the United Church of Christ (UCC)"で、キリスト連合教会、合同キリストの教会、統一キリスト教会などとも訳される。)に所属している[16][17]。オバマは自伝で、「父はムスリムだったが殆ど無宗教に近かった」と述べている[18]

バラク・オバマは自分自身の幼年期を、「僕の父は僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している[19]。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した[20]

1963に両親が別居し、翌年の1964に両親が離婚した[13]。両親が別居するとオバマ・ジュニアは母のもとで暮らした。 1965に父はケニアへ帰国した後、政府のエコノミストとなる。父はハワイ大学からハーバード大学を卒業したため、将来を嘱望されていた。 バラク・オバマの両親は双方ともに結婚歴が複数回あるため、異父妹が1人・異母兄弟が7人いる[21] 1971に父と再会を果たした [22]

l  インドネシアへ[編集]

バラク・オバマはインドネシアに行った。 バラク・オバマの母であるアンはオバマ・シニアとの離婚後、人類学者となった。 その後アンはハワイ大学で親交を得たインドネシア人留学生で、後に地質学者となったロロ・ストロ(Lolo Soetoro1987没)と再婚する。

1967、ストロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデター930日事件)が勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した[23]。オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った[ 1]1970には、母と継父のあいだに異父妹のマヤ・ストロが誕生する。

l  ハワイへの帰還[編集]

1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンレー・ダナム英語版)(1992没)とマデリン・ダナム英語版)(2008年没)夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫のプレパラトリー・スクールであるプナホウ・スクールに転入し、1979に卒業するまで5年生教育を受けた[25]。在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に飲酒・喫煙・大麻コカインを使用したと自伝で告白している。また2014年には大麻について問われた際に、「悪い習慣だという点では若い時から大人になるまで長年吸っていた煙草と大差無い。アルコールよりも危険が大きいとは思わない」と述べている[26]

なお1972に母のアンがストロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国し、1977まで滞在する。同年に母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994まで現地に滞在した。このあいだに、1980にアンと継父のストロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995に卵巣癌で亡くなった[14]。以上のように青年時代のオバマはハワイにおいて母親と母方の祖父母(ともに白人)によって育てられた。

l  大学時代[編集]

1979年に同高校を卒業後、西海岸で最も古いリベラルアーツカレッジの一つであるオクシデンタル大学カリフォルニア州ロサンゼルス)に入学する[27]2年後、ニューヨーク州コロンビア大学に編入し、政治学、とくに国際関係論を専攻する[28]

1983に同大学を卒業後、ニューヨーク出版社NPOビジネスインターナショナル社英語版)に1年間勤務[29][30]。その後はニューヨーク パブリック・インタレスト・リサーチグループ英語版)で働いた[31][32]。ニューヨークでの4年間のあと、オバマはイリノイ州シカゴに転居した。オバマは19856月から19885月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP)の管理者(コミュニティオーガナイザー)として務めた[31][33]。オバマは同地域の事業所の人員を1名から13名に増員させ、年間予算を当初の7万ドルから40万ドルに拡大させるなどの業績を残した。職業訓練事業の支援・大学予備校の教師の事業・オルトゲルトガーデン英語版)の設立と居住者の権限の確立に一役買った[34]

1988年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面している。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。初年の暮れに「ハーバード・ロー・レビュー」の編集委員[35]に、2年目には編集長に選ばれた[36]

1991法務博士の学位を取得、同ロースクールをmagna cum laudeで修了[ 2]シカゴ大学の法学フェローとなる。

l  弁護士時代[編集]

ハーバード大学ロー・スクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(Voter registration drive)に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務。 1992年、シカゴの弁護士事務所において、親交を得たミシェル・ロビンソンと結婚。 1998にマリア、2001にサーシャの二人の娘に恵まれた。

1995年には、自伝「Dreams from My Father(邦題:『マイ・ドリーム』 )」を出版する。 また、1992年から2004年までシカゴ大学ロースクール講師として、合衆国憲法の講義を担当した。

l  イリノイ州議会議員[編集]

人権派弁護士として、頭角を現し、貧困層救済の草の根社会活動を通して、1996イリノイ州の州議会上院議員(イリノイ州議会は両院制である)の補欠選挙に当選を果たした。 1998年と2002に再選され、2004年の11月まで、イリノイ州議会上院議員を務めた。 尚、2000には、連邦議会下院議員選挙に出馬するも、オバマを「黒人らしくない」と批判した他の黒人候補に敗れた。

l  アメリカ合衆国上院議員[編集]

20031月にアメリカ合衆国上院議員選挙に民主党から出馬を正式表明し、20043月に7人が出馬した予備選挙を得票率53%で勝ち抜き、同党の指名候補となった。対する共和党指名候補は私生活スキャンダルにより撤退し、急遽別の共和党候補が立つが振るわず、200411月には、共和党候補を得票率70パーセント対27パーセントの大差で破り、イリノイ州選出の上院議員に初当選した。アフリカ系上院議員としては史上5人目(選挙で選ばれた上院議員としては史上3人目)であり[38]、この時点で唯一の現職アフリカ系上院議員であった。

2004年アメリカ合衆国大統領選挙では、ジョン・フォーブズ・ケリー上院議員を大統領候補として選出した2004年民主党党大会英語版)(マサチューセッツ州ボストン)の2日目(727)に基調演説[39]を行った。ケニア人の父そしてカンザス州出身の母がハワイで出会い自分が生まれたこと、次いで「全ての人は生まれながらにして平等であり、自由、そして幸福の追求する権利を持つ」という独立宣言を行った国、アメリカ合衆国だからこそ、自分のような人生があり得たのだ、と述べた。そして「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもエイジアンのアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ」「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う『アメリカ人』なのだ」と語り、その模様が広く全米に中継される[40][41]。長年の人種によるコミュニティの分断に加え、2000年大統領選挙の開票やイラク戦争を巡って先鋭化した保守とリベラルの対立を憂慮するアメリカ人によりこの演説は高い評価を受けた。

なお、ケリーのスタッフが当時イリノイ州議会上院議員だが全国的には無名であったオバマを基調演説者に抜擢したのは、オバマがアフリカ系議員であることから、マイノリティーの有権者を惹き付けられるであろうこと、若くエネルギッシュで雄弁であるからである。また、オバマが同年の大統領選挙と同時実施の上院議員選挙における民主党候補(イリノイ州選出)に決まっており、党大会の基調演説者としてアピールできれば、上院議員選挙にも有利に働くであろうと民主党が期待したことなどからである[42][43]2006には連邦支出金透明化法案の提出者の1人となっている。

2006年を通してオバマは外交関係・環境・公共事業・退役軍人の問題に関する上院の委員会に課題を提出した。また20071月に彼は環境・公共事業委員会を出て、健康・教育・労働・年金・国土安全保障及び政府問題委員会に伴う追加課題を扱った。 また彼はヨーロッパ問題に関する上院の小委員会の委員長になった。

2008114日に行われた2008年アメリカ合衆国大統領選挙で勝利したオバマは、次期大統領英語版)として政権移行に向けた準備に専念するため、1116日に上院議員(イリノイ州選出)を辞任した[44]。後任は州法の規定によりイリノイ州のブラゴジェビッチ州知事(民主党)の指名を受けたローランド・バリス英語版)が就任した。

l  大統領候補[編集]

l  大統領予備選挙[編集]

l  立候補[編集]

2004年以降2008年アメリカ合衆国大統領選挙の候補として推す声が地元イリノイ州の上院議員や新聞などを中心に高まっていった。本人は当初出馬を否定していたが、200610月にNBCテレビのインタビューに「出馬を検討する」と発言した。翌20071月に、連邦選挙委員会に大統領選挙の出馬へ向けた準備委員会設立届を提出し、事実上の出馬表明となった。そして2007210日に地元選挙区であるイリノイ州の州都のスプリングフィールドにて正式な立候補宣言を行った。

出馬の演説でオバマは「ここ6年間の政府決定や放置されてきた諸問題は、われわれの国を不安定な状態にしている」と述べ医療保険制度や年金制度、大学授業料、石油への依存度等を、改革が必要な課題として挙げ、建国当初のフロンティア精神へ回帰することを呼びかけた。グローバル資本主義には懐疑的であり、アメリカ国内にブルーカラーを中心に大量の失業者を生んだとされ、新自由主義経済政策の象徴である北米自由貿易協定NAFTA)に反対し、国内労働者の保護を訴えるなど、主な対立候補となったヒラリー・クリントンよりもリベラルな政治姿勢とされた。

l  予備選挙前半[編集]

当初は知名度と資金力に勝る元ファーストレディのヒラリー・クリントンの優勢が予想されたものの、大統領予備選の第1弾が行われるアイオワ州の地元紙(電子版)により、予備選直前の200712月に行われた世論調査では、オバマの支持率がヒラリーを上回りトップであった。200813日に行われたアイオワ州党員集会では、保守傾向にある下位の他候補の支持者や20代の若者など幅広い層からの支持を集めて、ヒラリー、ジョン・エドワーズジョセフ・バイデンを初めとするほかの候補者を10ポイント近い大差で破り、オバマが勝利した。

同年18日に行われたニューハンプシャー州予備選挙ではヒラリーに僅差で敗北。しかし本人は「私はまだまだやりますよ」と今後の選挙戦勝利に意欲をのぞかせた。126日に行われたサウスカロライナ州予備選挙で、アフリカ系や若い白人及びヒスパニック層などから圧倒的な支持を受けてヒラリーに圧勝した。CNNでは投票締め切りと同時に「オバマ勝利」と報じるほど他の候補を圧倒した。なおこの頃よりエドワーズやバイデンなど他の候補が次々と予備選挙からの撤退を表明し、事実上ヒラリーとの一騎討ちとなっていく。

l  ジェレマイア・ライト[編集]

選挙の盛り上がりとともに、かつて家族とともに20年間に亘って所属したトリニティー・ユナイテッド教会に関して、長き時を私淑したことで多大な影響を受けていると言われている牧師のジェレマイア・ライトについての論争がしばしば活況を呈した。その過程でライトの反アメリカ政府的とされる様々な説教の内容が取り上げられている[ 3]

予備選挙最中の20083月にはオバマとトリニティー・ユナイテッド教会、そしてライトとの決裂が伝えられた。上記のような過激な発言がABCニュースに報道されたのが原因とされている[45][46]。報道直後、オバマはシカゴのアフリカ系アメリカ人社会に対する貢献を挙げてライトを弁護しようとしたが、その後も人種差別的だとされる発言を続けたことを理由にライトと絶縁した[47][48]。その一環として「もっと完璧な連邦(A More Perfect Union)」と題するオバマの演説が人種問題に言及した[49][50][51][52]

525日にはトリニティー・ユナイテッド教会に招かれた神父のマイケル・フレガー[ 4]が説教中にヒラリーを(アフリカ系アメリカ人に対する)人種差別主義者とみなし、クリントンの泣真似をして喝采を浴びる件があった[54]。オバマはこの件について失望の意を表し、31日に「私は教会を非難しないし、教会を非難させたがる人々にも関心が無い」が、「選挙運動によって教会が関心に晒され過ぎている」として、教会から脱退する[55]

l  「スーパー・チューズデー」[編集]

なおヒラリーとの一騎討ち状態になったことで、その後選挙戦から撤退したエドワーズやバイデンがオバマ支持に回った他、ジョン・F・ケネディ元大統領の娘で、民主党内に一定の影響力を持つとされるキャロライン・ケネディニューヨーク・タイムズ紙でオバマに対する支持を表明した。

だが、2522州で行われた「スーパー・チューズデー」ではオバマが13州を抑えたものの、ヒラリーが大票田のカリフォルニア州や地元のニューヨーク州を抑えるなど、ヒラリーとの決定的差はなかった。しかし、スーパー・チューズデー後はミシシッピ州ワイオミング州ケンタッキー州オレゴン州を抑えるなど予備選で9連勝し、一気に指名争いをリードした。

l  クリントン陣営の混乱と「失言」[編集]

これに対してヒラリー陣営は210日にパティ・ソリス・ドイル選対主任が「選挙戦の長期化」を理由に辞任した(実際は選対内の意見対立が原因とも言われている)ほか、ヒラリー本人が、223日にオハイオ州シンシナティで行われた集会で、オバマ陣営が配布した冊子の中でヒラリーが進める国民皆保険計画について「国民に強制的に保険を購入させる内容である」と記載していたことに対して「恥を知れ、バラク・オバマ」[ 5]と、オバマを呼び捨てで非難した。これに対して多くのマスコミや民主党内からは「理性を失っている」との批判が沸き起こった[ 6]

なおヒラリーはこのような失点があったにもかかわらず、34日には大票田のテキサス州とオハイオ州で勝利をおさめたが、各種調査の結果「選挙戦において完全に劣勢に立たされた」との評価を受けることが多くなった。この様な状況を受けてヒラリーと、夫で元大統領のビル・クリントンが「クリントン大統領、オバマ副大統領」の政権構想を民主党内やマスコミに対して一方的に喧伝し始めた。これに対してオバマは「なぜより多くの支持を得ている私が副大統領にならなければいけないのか理解できない」と拒否した。

その後もオバマの優位は揺らぐことは無く、5月には特別代議員数でもヒラリーを逆転した。完全に劣勢に立たされたヒラリーは同月に「(敗北が確実視されているのに)選挙戦を継続する理由」として、かつて大統領候補指名を目指したものの、予備選最中の19686月に遊説先のカリフォルニア州ロサンゼルス暗殺されたロバート・ケネディ司法長官の例を挙げた。これは「オバマが予備選挙中に暗殺されること(そしてその結果自分に勝利が転がり込んでくること)を期待している」と受け取られ大きな批判を浴び、その後ヒラリーはケネディの遺族とオバマに対して謝罪した。

但しこの予備選挙の最中、ノーベル文学賞受賞のイギリスの女性作家ドリス・レッシングがキング牧師暗殺事件の例を引き合いに「オバマは暗殺される可能性がある」と発言するなど、アメリカ世論でも黒人候補であるオバマが暗殺の危機に晒されていると見られていた事は事実ではある。

l  予備選挙勝利[編集]

同年63に大統領予備選挙の全日程が終了し、全代議員数の半数(2,118人)を超える2,151人の指名獲得を集めたオバマはヒラリーを下し、民主党の大統領候補指名を確定させた。なお予備選挙の最中に、2006年に次いでグラミー賞朗読部門賞を受賞している。

l  一般投票に向けて[編集]

オバマは2008年民主党党大会3日目の同年827、民主党大統領候補の指名を正式に獲得し、副大統領候補に上院外交委員長を務めて予備選挙で戦ったものの、その後オバマへの支持を表明した上院議員のジョセフ・バイデンを指名した。

オバマは民主党党大会最終日の828にコロラド州デンバーアメリカンフットボール競技場「インベスコ・フィールド」において、84000人を前に指名受諾演説を行った。オバマは「次の4年を(ジョージ・W・ブッシュ政権下の)過去8年と同じにしてはならない」、「未来に向けて行進しよう」と民主党内の結束を呼びかけた。外交問題については「粘り強い直接外交を復活させる」とし、「明確な使命が無い限り、戦地にを派遣することは無い」と表明した。ジョージ・W・ブッシュ政権で行われたイラク戦争については、「責任を持って終結させる」とした。

オバマは共和党大統領候補として対決するジョン・マケインを、「ブッシュ大統領を90パーセント支持してきた。残り10パーセントに期待するわけにはいかない」と批判した。またオバマは1963年の丁度この日にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、ワシントン大行進においてアメリカにおける人種差別撤廃への夢について語った演説「I Have a Dream」を踏まえ、「われわれの夢は1つになることができる」と述べた。

同年1029プライムタイムには、全米4TVネットワークのうちの3つ(CBSNBCFOX)及びユニビジョン(ヒスパニック向けのスペイン語ネットワーク)などを含む7つのテレビネットワークから放送枠を買い取り、30分のテレビCMを全米に放映した。このような大規模な宣伝を行えた背景には、74500万ドルという史上類を見ない豊富な選挙資金の存在が有った[57][ 7]

l  一般投票勝利・当選[編集]

2008114日に全米で行われた2008年アメリカ合衆国大統領選挙(大統領選挙人選出選挙)においてオバマは、地元のイリノイ州・伝統的に民主党地盤である大票田のニューヨーク州(クリントン元候補の地元)・カリフォルニア州・ペンシルベニア州に加え、過去2回の大統領選挙で大激戦となったフロリダ州・オハイオ州・さらには長く共和党の牙城とされてきたバージニア州ノースカロライナ州インディアナ州でも勝利した。

また近年ヒスパニック系住民の増加が顕著な南西部のうちマケインの地元であるアリゾナ州以外の3州(コロラド州・ニューメキシコ州ネバダ州)でも勝利を積み上げ、選挙人合計365人を獲得[ 8]してマケイン(173人)を破り、第44アメリカ合衆国大統領に確定した。一般投票の得票率は52.5パーセント(マケイン46.2パーセント)だった。獲得選挙人数はクリントン1992年は370人で1996年は379人)には及ばなかったものの、得票率が50パーセントを越えたのは民主党候補では1976ジミー・カーター以来だった。

現地時間114日午後10時頃、オバマの地元のシカゴ市内中心部のグラント・パークで、約24万人の聴衆が見守る中[58][59]、公園内に備え付けられたスクリーンに「オバマ、大統領に当選」というテロップが流れると、会場は熱気と興奮に包まれる。約1時間後、家族とともに登壇したオバマは、歓声と拍手にどよめく会場で「アメリカに変革が訪れた」と勝利演説を行なった[60][61][62][63][ 9]。会場の一般観客席では、19841988年の民主党予備選挙に出馬しアフリカ系アメリカ人初の2大政党大統領予備選挙有力候補となったジェシー・ジャクソンが感涙に咽ぶ姿も映された[64]

勝利後の117に大統領就任後の最重点課題として、サブプライムローン問題が表面化した後の世界金融危機による信用収縮や、国内の雇用情勢の悪化を阻止するため「必要な全ての手段を取る」と表明し、アメリカ国内における信用収縮の緩和と勤労世帯の支援、経済成長の回復などの経済対策に注力すると表明した。

1215日に各州とワシントンDCにおいて選挙人による投票が行われ、明けて200918日のアメリカアメリカ合衆国議会両院合同会議にて、オバマが選挙人票の過半数の365票を得たことが認証され、正式に大統領に選出された。選挙人票が黒人に投じられた例もこれが初めてである。

l  当選後[編集]

なおオバマの勝利後、アメリカ国内で銃器の売り上げが一時急増したという。これはオバマや副大統領候補のバイデンが銃規制に前向きであると見られていたからであり、オバマ政権発足後の銃規制強化を懸念した人々からの注文が増加しており、ライフル自動小銃の売り上げが伸びているという[65]

オバマの後任の上院議員選出を巡り、イリノイ州知事ロッド・ブラゴジェビッチが候補者に金銭を要求したとの容疑がかけられ、2008129連邦捜査局により逮捕され[66]、翌年129にイリノイ州上院の弾劾裁判にて罷免された[67]

l  アメリカ合衆国大統領[編集]

l  1期目[]

l  大統領就任式[編集]

2009120日正午(ワシントンD.C.時間)、アメリカ合衆国大統領就任式における宣誓を以てオバマは第44代アメリカ合衆国大統領に正式に就任した。オバマはアメリカ合衆国建国以来初の非白人の大統領であり、初のアフリカ系アメリカ人フリカ系と白人との混血)の大統領であり、また初のハワイ州生まれの大統領であり、かつ初の1960年代生まれの大統領である。また大統領就任時の年齢は歴代で5番目に若いものとなった[ 10]

オバマは大統領就任宣誓を予てからの予告通り、第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン18611期目の就任式で使用した聖書に左手を置いて行なったが、その際にジョン・ロバーツ最高裁判所長官が宣誓文を読み間違えたことを受け(20日の宣誓は法的には有効)、2009121日にホワイトハウス内にて宣誓をやり直した[69]

なお「オバマの大統領就任式を見るために、ワシントンD.C.には全米から約200万人を超える観衆が集まったと言われており、史上最高の人数である」と報じられた。

詳細は「バラク・オバマ大統領就任式」を参照

l  指名された高官らの不祥事[編集]

政権発足後にオバマが指名したスタッフらによる不祥事の発覚が相次いだ。アメリカ合衆国財務長官候補のティモシー・フランツ・ガイトナーアメリカ合衆国保健福祉長官候補のトム・ダシュル、行政監督官候補のナンシー・キルファーに納税漏れが発覚し、加えて支持者からダシュルへのリムジン提供が明るみとなり、上院での指名承認が大幅に遅れる事態となった[70]。この事態を受け、ダシュルとキルファーは指名を相次いで辞退した[70]。批判を浴びたオバマは、ダシュル指名を「大失敗」[70]だったと認めて謝罪した。

また、アメリカ合衆国商務長官候補に至っては、指名者が次々に辞退する異例の事態となった。最初に指名されたビル・リチャードソンは、自身に献金していた企業が捜査対象となったため、連邦議会での承認手続きの前に指名を辞退した[71]。続いて指名されたジャド・アラン・グレッグは、オバマとの政策的な対立が解消せず、同じく指名を辞退した[72]

また、国家経済会議議長ローレンス・サマーズが、DE・ショウから顧問料として年間520万ドル超の収入を得ており、さらにリーマン・ブラザーズシティグループから講演料との名目で年間約277万ドルを受領していたことが、ホワイトハウスによる資産公開にて明らかにされた[73]

l  論功行賞に基づく大使人事

大統領選挙中、オバマはジョージ・W・ブッシュ政権の外交官特命全権大使人事に対して「政治利用しすぎる」[74]と強く批判しており、自らが政権を獲った際には「実力を優先する」[74]と断言していた。しかし、実際に大統領の地位に就くと、オバマは前言を翻し縁故や論功に基づく人事を繰り返した。

特命全権大使に指名された者のうち、職業外交官以外が占める割合は、ブッシュ・ジュニア政権では3割程度に過ぎなかったのに対し、オバマ政権では6割を占めている[74]。かつて情実人事で批判を受けたケネディ政権ですら3割に留まっており、過去の歴代政権と比較してその割合は突出している[74]

さらに主要国に駐在する大使には、オバマに対し多額の献金を行った支援者らが次々に指名されている[74]。具体例として、駐日本大使ジョン・ルース駐フランス大使チャールズ・リブキン英語版)、駐イギリス大使ルイス・ズースマンらは、いずれもオバマに対し多額の献金を行っていたことが知られており、外交経験がほとんどないにもかかわらず指名された[74]。市民オンブズマン団体「公共市民英語版)」の代表者らは「大口献金者を優先する大使人事は相手側諸国への侮辱」[74]に値する行為であると指摘するなど、オバマの論功行賞的な外交官人事は厳しく批判された。

l  他国との外交[編集]

詳細は「バラク・オバマ政権の外交政策」を参照

20093月、同盟国のイギリスからゴードン・ブラウン首相が訪問した。しかし、イギリスのマスコミは首脳会談の時間が短いと指摘するなど、オバマ側の応対に懐疑的な論調が強まっていた[75]。首脳会談に際し、ブラウンは、イギリス海軍帆船の廃材を加工したペンホルダーをオバマに贈呈した[76]。その帆船は奴隷貿易撲滅活動に参加した経歴を持ち、姉妹船の廃材はホワイトハウスの大統領執務室の机にも使われていることから[76]、考え抜かれた贈答品であると評価されていた[75]。ところが、オバマからの返礼の品は、『スター・ウォーズ』など25枚のDVDであり[75]、しかもイギリス国内では再生不可の規格「リージョン1」であった。

同様に首相の妻であるサラ・ブラウンは、オバマの娘たちのためにトップショップドレスネックレスイギリス人作家の本を贈ったが、ミシェルからの返礼の品はブラウンの男児のためのマリーンワンおもちゃ2つであった[75]。さらに、ホワイトハウスによりサラとミシェルの会談の写真が公表されたが、公開された写真は1枚のみでサラの後頭部しか写っていなかった[77]。これらの応対の様子が公になると、『デイリー・メール』が「無作法な対応」[75]だと指摘し、『タイムズ』に至っては「これほどサラ夫人を見下し、うぬぼれた意思表示は無い」[75]と厳しく指摘するなど、火に油を注ぐ結果となった。

20094月、オバマ夫妻はバッキンガム宮殿を訪問したが、その際もミシェルはイギリス女王エリザベス2の背中に手を回し身体に触れるなど、外交儀礼を無視した行動をとった[78]

日本

日米安全保障条約を締結するなどアメリカと関係の深い日本との間では、沖縄県普天間基地移設問題などで民主党政権に移行した日本政府との間で軋轢が生じた。

政権交代以前の:20092月、日本から麻生太郎首相(当時)がアメリカを訪問し、オバマにとってはホワイトハウスで開催される初の外国首脳との会談となった。オバマとの首脳会談に際し、麻生ら日本側は外務省を通じて共同記者会見の開催を懇願したが、ホワイトハウスが拒否したため、共同記者会見は開催できなかった[79]。日米首脳会談後に共同記者会見が開催されないのは極めて異例である。この麻生の訪米の以前に、アメリカはヒラリーを日本に派遣しているが、日本側は皇后とのお茶会を用意するなど、ヒラリーを閣僚クラスとしては破格のもてなしをしている(ヒラリー側の強い希望によるもので、宮内庁は外交儀礼上現職閣僚では無く元大統領夫人として招待)。そのため両国の対応の違いを比較して「アメリカは麻生政権を重視していないことの表れではないか」(江田憲司)という批判的な解釈をする論者もあった。

200911月にシンガポールで開催されるAPEC首脳会議に出席する途中の13日にオバマは来日(翌14日まで滞在)した。本来12日に来日予定であったが「テキサス州の陸軍基地で起きた銃乱射事件の追悼式に出席するため」として13日に変更された。13日から14日にわたる日本滞在では鳩山由紀夫首相主催の晩餐会と鳩山首相との首脳会談で「日米安保」について会談した。この会談でオバマは、鳩山が敬愛する第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの著作『勇気ある人々』の初版本を持参しプレゼントしている[80]。なお、同共同記者会見では、9.11事件ムハマド被告の裁判に付いて触れ、公正な裁判が期待される旨を述べている(引用されたノーカット版では、「モハメド被告は厳しい形で裁かれる」と通訳されているが、大統領自身は「justice」という用語を用いており、「公正に裁かれる」の意。なお、NHKでは、その様に通訳、報道されている。)[81]。また、サントリーホールで特別に招待された小浜市長を含む日本国民を前に演説した[82]。さらに皇居御所(スケジュールの都合で宮殿ではなく天皇の自宅にあたる御所となった)で天皇・皇后と昼食会など準国賓並みの待遇を受けた。この時天皇と握手した際に最敬礼に近い角度で深々とお辞儀をしたが、アメリカ国内の一部メディアからは「大統領が他国の君主に対して頭を下げるのは不適切」との批判の声が挙がった[83]。このお辞儀についてケリー報道官は1116日の記者会見で「天皇に対する尊敬の表れ」と述べて問題は無いとし、さらに「日本の国家元首と初めて会う際に敬意を示すことは、大統領にとって自然な振る舞いだ」と述べた[84][85]。退任後も日本を訪れ、安倍首相と会談して旧交を温めてる[86]

20101113菅直人内閣総理大臣との日米首脳会談で、日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りを支持することを表明した[87]

また、ロシアや中国との領土関係問題での対応に苦慮する日本政府の立場を支持したり、北朝鮮による砲撃事件を契機として安全保障面での協力関係強化を主張するなど、日米同盟を基盤とした関係強化を重視した。

メキシコ

メキシコはアメリカ合衆国と国境を接する国の1つであり、大統領就任前後に首脳会談を行うことが半ば慣例となっているなど両国関係は深い。しかし麻薬を巡る非難の応酬によりメキシコ首脳部が激怒する事態を招いた。

2009112日にオバマとカルデロン大統領との非公式会談が行われたが、その直後アメリカ国防総省幹部が「メキシコは、いつ崩壊してもおかしくない国」[88]と名指しで批判したことが明らかになった。オバマ政権発足後も国務省公文中で「メキシコは、失敗国家[88]と名指しで批判したことが発覚するなど、麻薬の蔓延が深刻化するメキシコへの批判が繰り返されたが、その中で世界最大の麻薬消費国であるアメリカについての自己批判や、アメリカの麻薬犯罪組織摘発の失敗などについては言及されなかった。

一方、カルデロン大統領は麻薬撲滅を最重要政策の1つとして掲げており[89][90]、捜査当局に摘発の強化を厳命した結果、およそ12ヶ月で捜査員や麻薬組織関係者ら約7300人の死者を出すほどの厳正な捜査が進められていた[88]。ところが、その捜査によりアメリカ側の公務員が事件に関与していた疑いが強まり、アメリカの警察関係者800名近くが摘発されていた[88]。このような経緯があるにもかかわらず一方的な非難が繰り返されたため、穏健な親米派と目されていたカルデロンが「麻薬撲滅の障害はアメリカの汚職だ。ギャングと癒着している自国の政府関係者もいるが、アメリカはもっと酷い。何人逮捕されていると思っているのか」[88]と激怒する事態となった。さらにカルデロンは「麻薬問題が解決しないのはアメリカが最大の消費国だからだ」[88]とも指摘している。

同年416の首脳会談では、アメリカ国内の麻薬に対する需要がメキシコを混乱させた一因であることをオバマが自ら認め、メキシコとの関係改善を図っている[91]。また、アメリカ合衆国からメキシコへの銃器の流入が麻薬組織と警察や軍との抗争を激化させている点も認めたが[91]、流入防止のための銃規制強化については実施する考えがないことを明らかにした[92]

中華人民共和国

オバマ個人としては、異父妹の夫が中国系カナダ人であり、また異母弟にも中国人妻と結婚している者もいることから親戚筋を通じて中国と関わりを持ってはいる。

政権発足当初は、中華人民共和国との関係を深めようとする関与的な協調路線を採ったため、「親中派」であると評された事もあった。米中戦略経済対話の冒頭演説では、中国の思想家、孟子の教えを引用し、米中両国の相互理解を促した[ 11]。また米中が緊密な協力関係を結ぶ新時代の幕開けへ向け、気候変動自由貿易イランの核開発問題など多くの課題で協力していくことで合意した。このような協力関係はG2と呼ばれた時期もあった。

2009年の米中首脳の会談の時点では、チベット新疆ウイグルの独立問題や、中華人民共和国と中華民国の間における、いわゆる「台湾問題」では、中華人民共和国の立場を尊重し[ 12]、それに対し中国の胡錦濤国家主席は「アメリカ側の理解と支持を希望する」と述べた。他にオバマはダライ・ラマ14の訪米での会談を見送っており、人権派議員らに「北京への叩頭外交だ」と批判された。

しかしオバマ政権は、ブッシュ前大統領と同じように、2010に入ると台湾へ総額64ドル(約5800億円)に上る大規模な武器売却を決定するなど台湾関係法に準じた対応を行った[93]

2010218日にオバマは訪米したダライ・ラマ14世と会談した際、中国政府と中国共産党は会談以前から猛烈な抗議と非難[ 13]を行ったが、アメリカ政府は中国の抗議に取り合わない姿勢を表明していた。その後も中国政府は、オバマとダライ・ラマの会談に対して最大限の非難を繰り返した。

20109月には、東アジアの軍事バランスの変化を重要視するアメリカとASEAN諸国との共同声明において、南シナ海の資源を狙って軍事活動を行う中国の動きを牽制する内容が盛り込まれた[95]。ただし、米中の信頼醸成のために環太平洋合同演習(リムパック)への中国の参加を認め、環境政策では協力できるとしてパリ協定に中国と同時批准を行った[96]。退任後も釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会見して中国との交流を深めたいと表明してる[97]

l  軍事[編集]

パキスタンへの攻撃

大統領就任直後の2009123日のオバマはキスタンのイスラム武装勢力に対する無人機によるミサイル攻撃を指示した[98]。その後もパキスタンに対する越境攻撃を繰り返し行ったため、現地では多数の死傷者が出るなど被害が拡大している[99]。上院の審議にて、アメリカ合衆国国防長官ロバート・ゲーツは政府高官として初めて越境攻撃の事実を認めたが、今後も攻撃を継続すると証言した[99]。その後、国土安全保障・テロ対策担当補佐官ジョン・オーウェン・ブレナンの提案した無人機による標的殺害英語版)作戦「ディスポジション・マトリックス英語版)」(通称キルリスト)が推進されることとなった[100]

イラク戦争の終結

大統領選挙期間中、オバマは「大統領就任後16ヶ月以内にアメリカ軍イラクからの完全撤退」を公約として掲げてきたが、就任後にこの公約を修正・撤回した。2009227日にオバマはノースカロライナ州で演説し、20108月末までにイラク駐留戦闘部隊を撤退させ、その後は最大5万人の駐留部隊をイラクに残すという新戦略を発表した[101]。これは、完全撤退に対する反対意見が根強い共和党や軍上層部からの意見に配慮したものと見られる。20111214には米軍の完全撤収によってイラク戦争の終結を正式に宣言した[102]

文民統制の不徹底と綱紀の緩み

20106月にアフガニスタン駐留軍司令官スタンリー・マクリスタルはマスコミの取材に応じ、副官らとともにジョセフ・バイデン副大統領らオバマ政権の高官に対する痛烈な批判を展開した[103]。ところが、マクリスタルが批判した政府高官らはいずれもだったことから、文民統制の観点から騒動となった。

マクリスタルは、かつてイラク駐留軍の司令官としてイラクに赴任し、現地の治安の改善を実現させるなど[104]、その手腕が高く評価されていた。マクリスタルらの問題発言が報じられると、オバマは「マクリスタル司令官と彼のチームが、粗末な判断を下したのは記事で明白だ」[105]と批判しつつも「決定を下す前に彼と直接、話をしたい」[105]とも語った。また、ロバート・ギブズ大統領報道官が「大統領は怒っていた」[105][106]と語るなど、政権内から厳しいコメントが相次いだ。しかし、更迭すればアフガニスタン政策の混乱を如実に示すことになり、続投させれば「軍を統制できない大統領」であることが露見することになるため、いずれの対応を採っても政権にとっては苦渋の選択だと報じられた[105]。さらに、北大西洋条約機構の報道官が「(ラスムセンNATO)事務総長はマクリスタル司令官と彼の戦略に全幅の信頼を置いている」[107]とのコメントを発表するなど、内外を巻き込む騒動となった。

最終的に、オバマはマクリスタルを解任しないものの、マクリスタルが自主的に辞任を申し出ることで決着が図られることになり、後任にはデービッド・ペトレイアスが充てられた[104]

リビア内戦への介入

2011リビア内戦が発生したため、312日にアラブ連盟国際連合安全保障理事会リビア飛行禁止空域を設定するよう要請した。この要請は通り、結果を受けてアメリカはイタリアデンマークノルウェーと共にオデッセイの夜明け作戦を実施し、リビア国内へ空爆を行った。

ビンラディン殺害作戦

2011年にジョージ・W・ブッシュ政権から捜索されてきたアメリカ同時多発テロ事件の首謀者であるオサマ・ビンラディンの身元特定に成功し、429日にオバマはウサーマ・ビン・ラーディンの殺害を命じて長きにわたる対テロ戦争に一区切りをつけた[108]52日、ホワイトハウスのシチュエーションルームで中継される作戦を見守った。

ISILへの攻撃

2014年、イラクとシリアで活動する過激派組織ISILに対して武力攻撃する生来の決意作戦有志連合で行い、アルタンフ基地英語版)を設置するなどシリア領内にアメリカ軍を駐留させた[109]。また、2015年にはシリアでのISILに対する空爆においてホットラインの設置など米露両国の衝突を回避する措置でロシアと合意した[110][111]。。

l  2009年ノーベル平和賞受賞[編集]

2009109日にノルウェー・ノーベル委員会はオバマの「核無き世界」に向けた国際社会への働きかけを評価して2009年度のノーベル平和賞を彼に受賞させることを決定したと発表した。ノルウェー・ノーベル委員会はオバマの受賞に関して冷戦終結を促した政治活動をしたヴィリー・ブラントミハイル・ゴルバチョフと比較してオバマは受賞するに値する活動をしたと判断したと述べている。就任してから1年も経っていない首脳の受賞は極めて異例である。ノーベル平和賞受賞者には賞金1000スウェーデン・クローナが授与されるが、オバマは全額を複数の慈善団体に寄付することを表明した。

現職のアメリカ合衆国大統領にノーベル平和賞が授けられるのは、1906に第26代アメリカ合衆国大統領に在任していたセオドア・ルーズベルト191928代目アメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンに続いて3人目である。またアメリカ合衆国大統領経験者の受賞は2002年のジミー・カーター以来である。

セオドア・ルーズベルトは日露戦争の講和、ウィルソンは第一次世界大戦の講和における努力の成果を評価されての受賞であったが、オバマは未だはっきりした成果をあげておらず、受賞に関して「時期尚早」との意見が強く世論は内外で賛否が分かれた。日本の鳩山首相や秋葉忠利広島市長は受賞を評価した。一方、ロシアは奇異と評し、アフガニスタンではターリバーンが「2万人以上の増派を行い、戦火を拡大させたオバマが平和賞を受賞するのは馬鹿げている」と批判した[112]。また、ベネズエラウゴ・チャベ大統領は「オバマはこの賞に値する何をしたのか」と述べ [113]キューフィデル・カストロは「(ノーベル)委員会の姿勢にいつも賛同できるわけではないが、今回については前向きな決定だ。今回の決定は、米国の大統領への賞というよりも、かの国の少なからぬ大統領が続けてきた大量虐殺政策への批判だと受け止めたい」と賞賛している[114]イスラエルは自国への支援の削減を危惧した。

オバマ支持層の民主党系やリベラル派からも批判や当惑が噴出している。リベラル派の女性コラムニスト、ルース・マーカス英語版)は「この受賞はバカげている、オバマはまだなにも達成していない」と書き、民主党系外交コラムニスト、ジム・ホーグランド英語)もオバマが中国の機嫌を損ねないようにダライ・ラマ14世との会談を避けたことも、平和賞にそぐわないと批判し、トーマス・フリードマンは「ノーベル委員会は早まって平和賞を与えることでオバマ大統領に害を及ぼした」と書き、「世界で最も重要な賞が、このように価値を落とすことには落胆した」と述べた[115]イギリスニュースサイトであるポリティックス・ホームの調査によると、イギリス人62%、アメリカ人の52%がオバマは受賞に値しないと答えている[116]

オバマはこれらの批判にも配慮してか、受賞に対して「歴史を通じて、ノーベル平和賞は特定の業績を顕彰するためだけではなく、一連の目的に弾みを付ける手段として用いられることもあるということも承知している。故に私は、この賞を行動への呼び声として――21世紀の共通課題に対処せよと全国家に求める声として――お受けする所存である」との声明を出した[ 14]

l  2012年アメリカ合衆国大統領選挙[編集]

オバマは現職のアメリカ合衆国大統領として2012年アメリカ合衆国大統領選挙に再選を賭けて出馬。9月の民主党全国大会で候補者に正式指名を受けると、アメリカ共和党候補者のミット・ロムニーと激しい選挙戦を展開し、第1回討論会などの結果を受けて一時は苦戦を伝えられた。

1025日に現職のアメリカ合衆国大統領として、初めて期日前投票をした[117]

116日に選挙が執行され、ロムニーとの激しい接戦の末、大票田のカリフォルニア州・激戦区となったオハイオ州で勝利を収め、残り2州の結果を待たずに大統領選挙人を300人以上獲得して大統領再選を勝ち取った[118]。オバマの再選はハリケーン・サンディの対応が高く評価されて、最終的な後押しになったとの論評がある[119]

l  2期目[編集]

l  大統領就任式[編集]

2013120日にアメリカ合衆国憲法の規定に基づき、ホワイトハウスに於いてジョン・ロバーツ最高裁判所長官、大統領夫人と2人の娘が立ち会う中で就任宣誓式を執り行い、オバマ政権の2期目がスタートした。しかしこの日は日曜日であることから翌日の121日に改めてアメリカ連邦議会前にて正式な就任宣誓式を執り行うとされた[120]

2013927日にイランハサン・ロウハーニー大統領と電話で会談した。これはイラン革命後初めてのアメリカ合衆国・イラン両国首脳の接触となった[121]

l  シリアの化学兵器問題[編集]

2013821日にかねてから内戦状態であったシリアの首都ダマスカスの郊外で化学兵器サリンが使用されたと報じられた。ジョン・ケリー国務長官はシリア政府が使ったことは「否定できない」と発言するが、化学兵器の使用をシリア政府が行ったものか、反アサド政権組織が行ったものかは特定されなかった[122]。こうした中、オバマは国連安保理の決議無しでもシリアへ軍事介入する姿勢を見せ、化学兵器の使用についてアサド政権によるものだとの結論に達したと述べ、また、イラク戦争と今回の違いを主張した[123]。しかし、イギリスの参戦が見込めなくなり、また国内からのオバマに対する批判の声が多々挙がり、831日にオバマはアメリカ合衆国議会の承認を得た上でアサド政権に対する限定的な武力行使に踏み切ると表明した[124]。オバマは議員との夕食会に参加し武力介入の支持を求めている[125]

化学兵器の使用は反体制派に拘束されていた記者が反体制派内の会話から「欧米の軍事介入を誘発するために実施したものだ」と聞いている[126]。また、調査報道記者のシーモア・ハーシュは、シリア内戦に参戦している反アサド政権組織アル=ヌスラ戦線がサリンの製造方法を熟知し、大量に製造する能力を持つという報告が既にオバマに対して上げられていたが、オバマは軍事介入への正当化のためその情報を意図的に排除していたと指摘している[127]9月にシリアの化学兵器を国際的な管理のもとで廃棄していくこと、並びにシリアの化学兵器禁止条約への加盟をロシアは提案した。この提案にアメリカも合意をしたことからシリアへの侵攻は見送られた。

l  現職のアメリカ合衆国大統領初の広島訪問[編集]

伊勢志摩サミット出席後の2016527日に安倍晋三内閣総理大臣とともに、現職のアメリカ合衆国大統領として初めて広島平和記念公園を訪問した。広島平和記念資料館を視察後、慰霊碑に献花し、「人類が悪を犯すことを根絶することはできないかもしれない。しかし大量の核兵器を持つアメリカなどの国々は恐怖から脱却し、核兵器のない世界を追求しなければならない」として、「核兵器なき世界」に向けた所感を述べた。また「広島に原爆が投下された、あの運命の日以来私たちは希望を持てるような選択を行ってきた。そしてアメリカと日本は同盟関係を築いただけで無く友情を育んできた」として、日米同盟が世界平和のために果たしてきた役割の重要さを強調した[128][129][130][131]

詳細は「バラク・オバマの広島訪問」を参照

l  他国との外交[編集]

日本

2014424日本倍晋三首相と会談し、その後の記者会見で、日本の尖閣諸島日米安全保障条約5条の適用対象であり、アメリカは防衛義務を負うことを表明した[132]

キューバ

詳細は「キューバの雪解け」を参照

オバマは2013年春にキューバとの「ハイレベルでの接触」に着手した[133]。アメリカとキューバの1年半にわたる秘密交渉では、カナダ政府ローマ教皇フランシスコが仲介役を担った[134]20131210日には、南アフリカ共和国で執り行われたネルソン・マンデラの追悼式でオバマはスピーチの前にキューバ国家評議会議長ラウル・カストロに握手を求め、両首脳は双方の歩み寄りを示唆する握手を交わした[135]

20141217にオバマとカストロは国交正常化交渉の開始を電撃発表した。数か月以内に大使館を開設し、銀行や通商関係の正常化を話し合うことでも合意した[136]。『ニュー・リパブリック英語版)』はこの雪解けを「オバマ政権の最大の外交成果」だと位置づけている[137]

201571日にアメリカとキューバは54年ぶりに国交を回復することで正式合意した。オバマとカストロが親書を交わし、大使館を相互に開設することで一致した[138]2015720ワシントンD.C.の「キューバの利益代表部英語版)」とハバナの「アメリカの利益代表部英語版)」が大使館に格上げされ、アメリカとキューバ両国は1961の断交以来54年ぶりに、国交の正常化を実現した[139]

2016320日に現職のアメリカ合衆国大統領として1928年以来88年ぶりにキューバを訪れた[140]

l  退任後[編集]

退任後はワシントンD.C.に残る、ウッドロウ・ウィルソン以来のアメリカ合衆国大統領経験者になる[141]

アメリカ合衆国大統領退任後の年金額は207,800ドルと現職時の報酬の約半分が支給される他、事務所経費や旅費・医療費などの手当も支給される。また、シークレットサービスの身辺警護は生涯続く[142]

20181025日、BBCによると、デビー・ワッサーマン・シュルツの名前を騙ったパイプ爆弾の爆発物が、ヒラリー・クリントン、バラク・オバマ、CNNジョン・オーウェン・ブレナンCIA長官、エリック・ホルダー司法長官、ジョージ・ソロスに送られたが爆発しなかった[143]1026日にFBIは指紋からフロリダ州在住の熱烈なトランプ支持者の56歳の男を逮捕した[144][145]

2019425日、自身の政権の副大統領だったジョー・バイデン2020年の大統領選挙への出馬を表明したことについて、オバマの広報担当者は、オバマがバイデンを副大統領に選んだことは「自分が下した中で最高の決定の1つ」で、2人は「力強く特別な絆」を築いたと述べていることを明らかにしたが、この段階ではバイデンへの正式な支持表明をしなかった。オバマの支持表明がなかったことについて質問されたバイデンは「オバマ氏には支持を表明しないようお願いしたし、オバマ氏も支持を望んでいなかった。(中略)この予備選を勝ち抜くのは、自力で勝利をつかめる人だけだ」と答えている[146]

バーニー・サンダースが党指名候補争いから撤退を表明してバイデンが党候補に確定した後の2020414に正式なバイデン支持表明を出した。人の痛みを知るバイデンなら、新型コロナウイルスに苦しむ国民をいたわり、団結させることができると呼びかけた。また「科学を無視」するドナルド・トランプ現政権や、「権力」しか興味のない与党・共和党を批判した[147]

その後は応援演説や選挙資金集めのイベント開催などでバイデンを支援した[148]

829民主党全国大会における演説では「(トランプは)自分自身と友だちを助ける目的以外で、大統領の強大な権限を使うことに関心を示していない」「この政権は勝つためであれば、我々の民主主義を破壊する用意を見せている。だから、(選挙に)全力を投じる必要がある」「(トランプに大統領の職務を引き継いだ時)我々の国のためにトランプ氏が仕事を真剣にすることにいくらか関心をもち、職務の重さを感じ、自身に託された民主主義への敬意をもつようになるのでは、と願っていた」「しかし、一切そうならなかった。トランプ氏が成長していないのは、できないからだ」「失敗の結果は深刻だ。(新型コロナウイルスで)17万人の米国人が死亡し、数百万人の雇用が失われた。我々の国際的評価は落ち、民主的な機関はかつてないほど脅かされている」「(トランプは)政策で勝てないと分かっているので、投票を可能な限り困難にし、投票は重要でないと思わせることで勝とうとしている」「彼らに民主主義を奪われてはいけない」と述べ、現職大統領で共和党候補のドナルド・トランプを痛烈に批判した。アメリカでは任期を終えた元大統領は党派が異なっていたとしても現職大統領を批判することはほとんどなく、オバマもこれまではトランプに批判的な姿勢は示しつつも、正面切って批判することはなかったが、大統領選を前に姿勢を一転させる形となった[149]。トランプもオバマの演説に激しく反応し、演説中に「(オバマは)私の選挙陣営をスパイした」といったツイートを連投した[149]

その後もオバマはバイデンの応援演説でトランプを痛烈に批判し続けた。トランプのことを「頭のおかしいおじさん」と呼んだほか「人種差別主義者」と呼び[150]、「(トランプの)無能さと無関心さにあと4年間も米国を委ねる余裕はない」と述べた。バイデン陣営幹部は「オバマ氏には、辛辣なトランプ批判を聞きたい都会の若者や黒人、ヒスパニック系など少数派のリベラルな支持層を活気づけ、バイデン氏を補完する役割が期待されている」と述べている[151]

113日の大統領選挙でバイデンの当選が確定した後に出演したCBSの朝番組『サンデー・モーニング』の中で「私にできる形で、彼(バイデン)のサポートはしていくつもりです。でも今は、また突然ホワイトハウスで働くような予定はありません」と述べている。また将来閣僚になる可能性はあるかという質問には「いや、やらないと思う。ミシェルに捨てられちゃうから」と冗談交じりに答えている[152]

l  政権[編集]

l  政権スタッフ[編集]

職名

氏名

任期

大統領

バラク・オバマ

2009 - 2017

副大統領

ジョー・バイデン

2009 - 2017

大統領顧問団

国務長官

ヒラリー・クリントン[153]

2009 - 2013

ジョン・ケリー

2013 - 2017

国防長官

ロバート・ゲーツ[153]

2006 - 2011

レオン・パネッタ[154]

2011 - 2013

チャック・ヘーゲル

2013 - 2015

アシュトン・カーター

2015 - 2017

財務長官

ティモシー・ガイトナー[155][156]

2009 - 2013

ジェイコブ・ルー

2013 - 2017

司法長官

エリック・ホルダー[153]

2009 - 2015

ロレッタ・リンチ

2015 - 2017

内務長官

ケン・サラザール[157]

2009 - 2013

サリー・ジュエル

2013 - 2017

農務長官

トム・ヴィルサック[157]

2009 - 2017

商務長官

ゲイリー・ロック[158]

2009 - 2011

ジョン・ブライソン

2011 - 2012

ペニー・プリツカー

2013 - 2017

労働長官

ヒルダ・ソリス[159]

2009 - 2013

トーマス・ペレス

2013 - 2017

保健福祉長官

キャスリーン・セベリウス

2009 - 2014

シルヴィア・バーウェル

2014 - 2017

住宅都市開発長官

ショーン・ドノバン[160]

2009 - 2014

フリアン・カストロ

2014 - 2017

運輸長官

レイ・ラフッド[159]

2009 - 2013

アンソニー・フォックス

2013 - 2017

エネルギー長官

スティーブン・チュー[161]

2009 - 2013

アーネスト・モニツ

2013 - 2017

教育長官

ーン・ダンカン[162]

2009 - 2016

ジョン・キング・ジュニア

2016 - 2017

退役軍人長官

エリック・シンセキ[163]

2009 - 2014

ロバート・マクドナルド

2014 - 2017

国土安全保障軍人長官

ジャネット・ナポリターノ[153]

2009 - 2013

ジェイ・ジョンソン

2013 - 2017

200915日に、表にあるような各長官の任命を行い、同年121日に前日のオバマの大統領就任を受けて正式な政権として発足した[ 15]。この人事は国務長官に大統領選挙を戦ったヒラリーを起用するなど、オバマのと対立的立場の人材を起用したことから、オバマの敬愛するリンカーンの政権人事「チーム・オブ・ライバルズ」に似ていると評されている[164]

l  経済政策[編集]

世界同時不況への対応としてアメリカ再生・再投資法ARRA法)を20092月に成立させ、積極的な財政政策を行った。同年6月には製造業としては史上最大の倒産をしたゼネラルモーターズGM)を国有化することで救済した[165]連邦準備制度理事会(FRB) 議長に再任したベン・バーナンキによる大規模な金融緩和にも支えられ、2010年から2016年にかけてアメリカは主な先進国の中で最も高い年率2.09パーセントの経済成長を達成し[166]20097月から始まった景気拡大は後任のトランプ政権下の20202月まで持続して史上最長の128カ月に達した[167]

金融政策では、20107月にドッド=フランク・ウォール街改革・消費者保護法を成立させ、大恐慌以来の金融規制改革をもたらした[168][169][170]

l  医療保険制度改革[編集]

詳細は「医療保険制度改革 (アメリカ)」を参照

医療保険制度改革を内政の最重要政策として掲げ、国民皆保険制度の実現を図るために国民の保険加入を義務付けるといった医療保険改革法案を20103月に成立させた[171]

l  環境政策[編集]

気候変動に関する協議に積極的に参加すると述べ、主要企業に二酸化炭素排出量の上限(排出枠)を設定する「キャップ・アンド・トレード」方式の排出量取引を開始し、2020までに温室効果ガスの排出量を大幅に削減する意向をカリフォルニア州の地球温暖化関連の会合に寄せたビデオ演説で表明した。パリ協定採択にも関わった[172]

後任の大統領であるドナルド・トランプがパリ協定から離脱を表明した直後、「地球の未来を拒否する一握りの国に加わった」とトランプ大統領を非難するとともに、アメリカの各州や各都市、全ての企業には「国民一人ひとりが政権を頼らずに率先して、今後も地球温暖化対策をしっかり取り組んでくれるだろう」との期待を示している[173]。その期待に応えてワシントンニューヨークカリフォルニア3州による、パリ協定順守を目的とした米国気候同盟の結成[174]に繋がった。また、退任後のパリ訪問時においては「パリ協定に米大統領の指導力が一時的にないなんて嘆かわしい」とトランプ大統領を改めて批判している[175]

l  外交・安全保障[編集]

イランとは核合意を成し遂げ、キューバとは国交を樹立させるなどアメリカと長らく敵対してきた国と対話する路線に転換した。第41代大統領のジョージ・HW・ブッシュ湾岸戦争を評価しており、アメリカ主導の国際協調を理想とした。しかし、保守派からはこの路線が「弱腰」と叩かれたかつてのジミー・カーター大統領の姿勢と似通っていると批判されていた[176]。また、アメリカは「世界の警察官」をやめると宣言した初めての大統領でもある[177][178]

イラク戦争には一貫して反対しており、開戦直前の2003316にジョージ・W・ブッシュ大統領がサダム・フセインに対して48時間以内のイラク撤退を求める最後通牒を出した際、シカゴでの反戦集会で聴衆に対して「まだ遅くない」と開戦反対を訴えた。就任後は段階的な撤退を目指すとした。

「イラクに拘ればアフガンで泥沼にはまる」と述べ、治安が悪化しているアフガニスタンパキスタンアメリカ軍の増強を検討。州兵に頼らない10万人の正規兵を増派した。

20121119日には現職のアメリカ合衆国大統領として初めてミャンマーを訪問した[179]

尖閣諸島については20144の日米首脳会談後の記者会見で、「日本の施政下にある領土、尖閣諸島を含め、日米安保条約5条の適用対象になる」と述べ、尖閣諸島は日米安保条約適用範囲内でありアメリカが防衛義務を負うことを表明した[180][181]。オバマはこの会談の前にも、読売新聞によるインタビューの中で同じ趣旨の発言をしているが、現職のアメリカ合衆国大統領が尖閣諸島への安保適用を明言したのはオバマが初めてである[182]

l  核兵器政策[編集]

「国際的な核兵器禁止を目指す」とも発言しており、ロシアと協力し双方の弾道ミサイルを一触即発の状況から撤去し、兵器製造に転用可能な核分裂性物質の生産を世界的に禁止、更に米ロ間の中距離弾道ミサイル禁止を国際的に拡大することを目指した。

それに関連して200945日にチェコの首都プラハで行った演説で「アメリカは核兵器を使用した唯一の核保有国として、行動を起こす道義的責任を有する(As the only nuclear power to have used a nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act.)。」と1945年の広島市、長崎市への原爆投下に対するアメリカの責任に言及した[183]

これを受け、200986日の広島市平和記念式典において秋葉忠利広島市長は平和宣言の中で「オバマジョリティ (Obamajority)」という造語でこれに言及し、「Together, we can abolish nuclear weapons. Yes, we can.(我らはともに核を廃絶できる。できるとも)」と初めての英語での演説でオバマの決め台詞を使用し核廃絶を訴えた。

しかし2010年オバマ政権は臨界前核実験を行い、各方面から疑問の声が上がった。オバマのノーベル平和賞受賞をかつて支持した秋葉広島市長からは、「激しい憤りを覚える」とする抗議文が駐日アメリカ合衆国大使館に送付された[184][ 16]

政権1期目では、ロシアとの間に第四次戦略兵器削減条約(START)を結んでいる。

l  先住民政策[編集]

オバマは先住民に対する政策に熱心であり、先住民の生活改善に30億ドルの財政支援を行う方針をした。大統領候補時代にクロウ族の居住地に訪問し、オバマの演説は先住民をもひきつけ、大統領就任式では先住民もパレードに参加した。20098月には「大統領自由勲章」をクロウ族のジョセフ・メディシン・クロウ英語版)に授与した[187]

またオバマはチェロキー族の女性をホワイトハウス上級顧問に任命した[ 17]。ちなみにオバマの母のアン・ダナムはイングランドアイルランド、そして先住民のチェロキー族の祖先を持つため、オバマはアフリカ、ヨーロッパ、新大陸のルーツを持っているのである。

しかしウサーマ・ビン・ラーディン殺害作戦のコード名が「ジェロニモ」と、あたかもビン・ラディンが「ジェロニモのようなもの」だといわんばかりの作戦名に対して先住民団体から抗議が起きた[188]

l  オバマによる任命[編集]

オバマはアジア系アフリカ系ヒスパニック系、そして先住民を重要ポストに就任させる政策をとっており、それまで以上に様々な人種で構成されるようになった。日系では退役軍人長官にエリック・シンセキを任命し、中国系では商務長官にゲイリー・ロック、エネルギー長官にスティーブン・チューを任命した。アフリカ系では司法長官にエリック・ホルダー、アメリカ合衆国通商代表部にロナルド・カークを任命、インド系のアニーシュ・チョプラ英語版)を米政府初の最高技術責任者に指名し[189]ソニア・ソトマイヨールをヒスパニック系としては初となるアメリカ連邦最高裁判事に指名した[190]

l  移民制度改革[編集]

オバマは2008年アメリカ合衆国大統領選挙において包括的な移民制度改革の実現を掲げ、ヒスパニック系の有権者から膨大な支持を取り付けて当選した。オバマは大統領就任1年目の政策としてこの移民制度改革の実施を公約としていたが、オバマは公約を反故にした[191]201012月になって、オバマは移民改革法案を提出し可決を求めたが[192]上院において民主党内からの反対票も有り法案は否決された[193]。オバマ政府は再度 移民制度改革法案を提出し、20137月に上院で可決された[194]。オバマは反対意見が根強く採決に至らない下院に対して2013年中の法案の成立を求めている[195]20146月、同改正法案は下院による採決見送りのため廃案となった。オバマは下院の共和党議員を激しく非難したうえ、議会の承認を得ずに法案の成立を求める考えを示した[196]。このようなオバマの強硬姿勢に対しては大統領弾劾の可能性も取り沙汰されていた[197]

l  同性婚への支持[編集]

201259、現職のアメリカ合衆国大統領として初めて同性婚支持を表明した[198]

201548、同性愛者やトランスジェンダーの若者の性的指向や性自認を変えることを目的とする「転向療法」をやめるよう呼びかける声明を発表した[199]

オバマ政権の時期には、同性愛者など性的少数者の権利の向上が進行した時期であった。2012127日、合衆国最高裁判所は「結婚を男女に限定した」「結婚保護法」を違憲無効とする判決を出した[200]

2015627日に連邦最高裁が「デュープロセス条項の自由」を謳ったアメリカ合衆国憲法修正第14条を根拠に、アメリカ合衆国のすべての州(首都ワシントンを含む)に同性結婚を認める判決を出した。これによって同性結婚を認めない州法は直ちに無効となった[201]

オバマは最高裁判決によってアメリカ合衆国が同性婚を認める国になったことに関して「アメリカにとっての勝利である」「同性婚合憲判決でアメリカが完璧な国にほんのわずかながら近づいた」と判決を肯定した[202]

l  有給病気休暇[編集]

201597日、アメリカ合衆国連邦政府の契約業者の従業員に年間最大7日間の有給病気休暇を認める大統領令に署名した[203]

l  プロチョイス(中絶権利擁護派)[編集]

人工妊娠中絶に対して賛成であり、プロチョイスの立場を取っている[204]。オバマはアメリカの中絶病院チェーンであり、プロチョイス(人工妊娠中絶権利擁護派)の団体であるプランド・ペアレントフッド(全米家族計画連盟)からの支援を受けており、その会議にも出席し、演説している[205]。また、プランド・ペアレントフッドへの助成を廃止しようとする共和党の予算案に対し、拒否権を行使すると発言した[206][207]

l  人物像[編集]

l  名前[編集]

オバマは母親とは別姓であり、名前の「バラク」とは「神に祝福されし者」を意味するスワヒリ語であり(さらに遡れば、アラビア語)、姓の「オバマ」はケニアに住んでいるルオ族に見られる姓である。過去のアメリカ合衆国大統領イングランドドイツアイルランドオランダなど、ヨーロッパにそのルーツを持つ姓や名を持つ者のみであり、アフリカにルーツを持つ姓や名、そしてイスラムにルーツを持つミドルネームを持つ者がアメリカ大統領になる事は史上初の事である。奴隷時代の影響でヨーロッパ系の姓と名前であるアフリカ系アメリカ人のミシェル夫人は初めてその名を耳にしたとき「バラク・オバマ? 変な名前だわ」「少し変わり者で、オタクっぽい人に違いない」と思ったという[208]

なお、姓を「オサマ」と呼び間違えられることがある。過去にCNNや上院議員のテッド・ケネディ200710月にはマサチューセッツ州知事(当時)のミット・ロムニーがオサマ・ビンラディンを説明中にうっかり言い間違えている[209][210]

20086月頃から主に若者のオバマ支持者の間でメールアドレスFacebookなど一部のSNSや会員制サイトのハンドルネーム、また買い物の会員カードなどその他名前を登録するあらゆる機会においてミドルネームに「フセイン」と入れる、いわゆる「フセイニアック現象」が起こり、選挙前にはその盛り上がりがピークを見せた。元々イスラム教に由来するこの名前は、イスラム教徒に限らずあらゆる人種や家系や宗教の若者の間でオバマへの支持を表明する手段となった[211]

l  演説[編集]

かつては知名度で元大統領夫人であるヒラリー・クリントンに差をつけられていたが、演説の巧さと人を惹きつけるカリスマ的魅力があり、遊説を続けるごとに支持者を獲得した。

政策は具体性に欠け抽象的・理念的な話が多いという評価がある一方、演説の説得力はジョン・F・ケネディの再来とも形容される。演説では、"we"(我々)、"you"(あなた)を多用した短いフレーズを重ねていく手法を採用している。とりわけ「Change」(変革)と「Yes, we can.」(私たちはできる、やればできる)の2つのフレーズは、選挙戦でのキャッチコピーとして多用された。

演説用原稿のライティングは1980年代生まれの若手のライターであるジョン・ファヴローが抜擢された。彼はこれまで数々の「名演説」を書いてきた。彼はかつてジョン・ケリー陣営で修行を積んでいたこともある[212]

一方産経新聞は、オバマが意味不明な発言をすることもあるとしている。同紙によれば、オバマはソマリア沖での海賊行為を特殊部隊で鎮圧した際の記者会見で、「われわれはあの海域での、プライバシーの台頭に終止符を打つ決意を固めています」と発言していたという(海賊行為は、綴りが似ている「パイラシー」が正しい)[213]。在米ジャーナリストの西森マリーは、オバマはスピーチライターの書いた原稿を読んでいるだけであり、事前に通知されていない問いには、とんでもない返答を再三行っていたと述べている[214][213]

l  懸念材料[編集]

オバマは「アメリカ史上初の黒人大統領」である[ 18] 1964年のジョンソン政権時に成立した公民権法が施行されてから40年以上が経過しているが、未だにアメリカは南部を中心に深刻な人種差別問題を引きずっており、今回の「黒人のアメリカ大統領」誕生が与えるイメージ変化は計り知れず、そうした面から当選を願う声も多かった。

反面、「人種差別の過激派(KKKなど)が暗殺を企てるのではないか」と指摘されたこともあり、当選後も厳重な警護がなされている。因みに「KKKの支部がヒラリー・クリントンに反対する動機からオバマ氏に献金した」という報道(Ku Klux Klan Endorses Obama200828日時点のアーカイブ〉)は捏造とされる[215]。また、元KKKで後年自身のKKK参加を誤りとしたロバート・バード上院議員はオバマを支持している[216]

また予備選においては意識的に自らの人種を強調しない戦略をとったにもかかわらず、オバマ一家と関係の深い牧師のジェレマイア・ライトが白人を敵視するかのような発言を繰り返すなど選挙戦でも人種問題と無関係ではいられない状況にあった。

なお20世紀以降に大統領となった人物の多くが知事か副大統領としての行政経験を持ち、若さを売りにしたケネディでさえも、上下院合わせて10年以上も連邦議員を経験してから大統領となっている。州議会議員の他は上院議員1期だけという政治経歴は例外的に短い。このことは「既成の体制から自由である」という清新なイメージを与える点で大きな強みとなるが、一国の大統領として国家を率いていけるかという根強い懸念を生んでおり、対抗馬による攻撃対象の一つとなっていた。

l  問題点と疑惑[編集]

オバマに対しては、イリノイ州上院議員時代からいくつかの疑惑が報道された。それらを大きく分類すると、汚職関連問題や極左ウエザーマン活動家(テロ前歴者を含む)及び人種間の衝突を扇動する個人や団体との関係が挙げられる。

別件で政治関連の贈賄罪等で有罪判決が確定されたトニー・レズコ英語版)の妻はオバマ夫妻が一戸建ての自宅を購入する際、隣接の土地を購入し後にその一部をオバマ夫妻に転売することにより、実質上の不正寄付を行ったと批判されている[217][218]

オバマの出生地はハワイ州ではなくケニアもしくはインドネシアであり、アメリカ領土において出生したことをアメリカ国籍の要件とする当時の法律に照らして大統領となる資格を有しないとの主張があり、これに関連した訴訟も提起されている。このような意見は共和党主流派からも批判されるなど一般に陰謀論とみなされているが、ティーパーティー運動参加者を中心に根強い支持が存在し、同様の主張をする者はバーサー(birther)と呼ばれている。オバマは当初抄書のコピーを提示するだけで済ませていたが、2011年になりドナルド・トランプが取り上げメディアの注目を集めたため、正式な出生証明書を公表した。(バラク・オバマの国籍陰謀論

オバマの大統領選時の選挙陣営は「ロビイストからの献金は受け取らない」と宣言していたが、市民団体の調査では606人のbundlerがおり、その内17人がプロのロビイストだと判明している[219]

200512月に起こった原子力発電企業に関する公害問題で立ち上がり、原子力関連施設の規制強化を目指したが業界は反発しロビー活動を強化した。程なくしてオバマは修正に応じ法案を再提出したものの「業界には屈さなかった」とコメントした。しかし、修正法案の中身は業界に大幅に譲歩したものであった事が『ニューヨーク・タイムズ』紙に報じられ明るみに出た[220][221]。なお後に、問題を起こした原子力発電企業の取締役達は大統領選挙におけるオバマ陣営の最高額献金者リストに加わっている[222]

大統領選挙期間にインターネットを経由しての少額献金から莫大な選挙資金を獲得したと信じられており、選挙責任者のDavid Plouffe (David Plouffeは平均献金額は100ドル以下と話したが、ワシントン・ポスト紙が連邦選挙管理委員会のデータを詳細に調査した結果、200ドル未満の少額献金者は全体の4分の1に過ぎないことが判明している[223]。これは2004年度の再選キャンペーン時にジョージ・W・ブッシュが獲得した比率よりも低い。

20082月、オバマ候補はNAFTA(北米自由貿易協定)のチェンジを求めているとカナダのテレビ局が報じた。それを危惧したカナダ政府がオバマ・チームに真意を伺ったところ、「ご安心ください。あれはアメリカの労働者向けのジェスチャーですから」と返事したという[224]

オバマは大投資銀行UBSUnion Bank of Switzerland[ 19]総裁でアメリカのUBSグループの頭取であるロバート・ウルフ英語版)と非常に親しく、一緒にゴルフをしている姿が度々報じられている[225][226]。ウルフはオバマの大統領候補指名選挙戦の資金として2006年に25万ドルを献金し、2012年の大統領選においては50万ドル以上を献金している[226]20092月、彼はオバマ大統領によってホワイトハウスの景気回復諮問委員会英語版)の委員に任命された[227][228]

l  家族[編集]

1992年に結婚した妻のミシェル(Michelle)、1998年生まれの長女のマリア(Malia)と、次女で2001年生まれのナターシャ(Natasha、「サーシャ(Sasha)」と呼ばれることが多い)の4人家族である。なおナターシャは初の21世紀生まれのホワイトハウス住人である。

2014年には、娘のマリアとナターシャの2人が米タイム誌の「2014年の最も影響力のある25人のティーン」に選ばれた[229]

l  愛犬[編集]

歴代のアメリカ合衆国大統領と同様、大統領当選後よりホワイトハウスにおいて愛犬を飼うことを表明し、様々な団体や政府から愛犬の譲渡の申し出が相次いでいた他、動物愛護施設からの譲渡も検討されたが、マリアに軽度のアレルギーがあることもあり、愛犬探しは難航した。

しかし最終的に、テッド・ケネディ上院議員よりポヂュギース・ウォーター・ドッグが贈られることとなり、2009414にお披露目され、同時に「ボーBo)」と名付けられたことも発表された。

l  親戚[編集]

継父ロロ・ストロと実母アン・ダナムの間に生まれた異父妹のマヤ・ストロがおり、マヤはマレーシアから来た中国系カナダ人コンラッド・イングと結婚して娘のスハイラを出産した。

また実父のシニアは他に3人の妻との間に子供がおり、ケジア・オバマ(Kezia Obama)との間にはマリク・オバマ(Malik Obama 、アウマ・オバマ(Auma Obama 、アボー(サムソン)・オバマ(Abo Obama 、バーナード・オバマ(Bernard Obama)という4人の子供、ルース・デサンジョ(Ruth Ndesandjo)との間にはマーク・オバマ・デサンジョ(Mark Okoth Obama Ndesandjo 、デイヴィッド・デサンジョ・オバマ(David Opiyo Ndesandjo Obama)という2人の子供、Jael Otienoとの間にはジョージ・フセイン・オニャンゴ・オバマ(George Hussein Onyango Obama)という1人の子供がいる。

2013年、マリクはケニアで知事選に立候補したが落選している[230]。マリクはスーダンのイスラム・ダワウ機関(IDO)の事務局長を務め、オマル・アル=バシール大統領の側近とされている[231]。彼はケニアにおいて、アメリカ合衆国内国歳入庁からの資金援助などを承認されたバラク・H・オバマ財団(BHOF)と言うオバマ一族が経営する慈善団体の経営者でもある[232][233]。またマリクはエジプトムスリム同胞団を資金支援していると疑われている[234]

アウマは作家やジャーナリストとして活躍し、オーストラリア生まれのアボーはアラブ首長国連邦リンクトイン上のnidale trading llcの人事部長を務めた。マークは中国を拠点に慈善事業を運営し、中国語も堪能で妻も中国人である。デイヴィッドは1987年にオートバイ事故で死去した。またマークとデイヴィッドはユダヤ系アメリカ人の血を引いていた。兄弟の中で一番若いジョージはナイロビのスラム街にある小屋で暮すが、その前は数年間野宿暮らしをしていた。2009年に大麻所持の疑いで逮捕されている[235]

バラク・オバマ・シニア(実父) - ケニア人のルオ族

アン・ダナム(実母) - イングランド人、アイルランド人、チェロキー族

スタンレー・ダナム(母方の祖父) - イングランド人、アイルランド人。

マデリン・ダナム(母方の祖母) - チェロキー族

ロロ・ストロ(義父) - インドネシア人

マヤ・ストロ(異父妹) - イングランド、アイルランド、チェロキー族、インドネシア人

マーク・デサンジョ(異母弟) - 在中。中国人と結婚。

ミシェル・オバマ(妻) - アフリカ出身の黒人奴隷の子孫

クレイグ・ロビンソン英語版)(義兄) - アフリカ出身の黒人奴隷の子孫

コンラッド・イング(義弟) - カナダ出身の中国系マレーシア人

以上のようにバラク・オバマの家族や親戚は様々な国に起源を持っている。

l  ルーツ[編集]

オバマ本人は自らのルーツの多様性を「小さな国連」と形容した[236]。大統領就任演説では「ケニヤ人の子」といい、アイルランド訪問時にはアイルランド風に"O'Bama"と名乗ろうと思ったことがあると発言したことがある。また日本訪問時の演説では自分を「アメリカ史上最初の『太平洋人大統領』」と称した。

オバマの母方の祖先はイングランド王ヘンリー2の庶子であるソールズベリー伯爵に遡る。このため子女をたくさん儲けたヘンリー2世の子孫であるジェームズ・マディソンウォレン・ハーディングハリー・トルーマンリンドン・ジョンソンリチャード・ニクソンジェラルド・フォードジョージ・HW・ブッシュ歴代大統領やロバート・リー南軍司令官、ウィンストン・チャーチル英首相アルベルト・シュヴァイツァースコット・フィッツジェラルドジャン=ポール・サルトルは遠縁に当たる。ジョージ・W・ブッシュとは10親等ブラッド・ピットとは9親等、ディック・チェイニー[ 20]とは8親等離れた親族である[237][238][239][240]

また、アフリカからの留学生と白人の間の子であって、アメリカの黒人コミュニティの主流である「元奴隷の子孫」ではないと言われていたが、2012年には、1647年に年季奉公を放棄、逃亡した罪で奴隷身分とする判決を受けたジョン・パンチ英語版)(アメリカ最初の黒人奴隷)が、白人である母親の先祖のひとりであると、系図会社の Ancestry.com英語版 が発表した[241]Ancestry.com が古文書とDNA解析により調査したところによると、パンチと白人女性の間に生まれたムラートである子は自由民となり、その子孫はヴァージニアの地主の家として代々続いたという[242]

l  エピソード[編集]

l  喫煙者として[編集]

アメリカでは責任ある地位にある者に対して自己規制能力を強く求める傾向があるため、喫煙者や肥満などの者は否定的な評価を受ける。そんな中、オバマは就任当時、現職大統領で喫煙者であった。大統領選挙出馬時にミシェル夫人が選挙運動への協力する条件に禁煙を求めたことや、ホワイトハウスが禁煙になっていることから、オバマの禁煙への挑戦とその結果が世間の注目を集めた。2011には禁煙に成功した[243]

l  スポーツ[編集]

オバマはスポーツ好きとして知られる。特に好きなのは学生時代からプレーしているバスケットボールであり、現在もプレーを続けている。2008年の民主党予備選期間には、予備選・党員集会の投票日の朝にはバスケットをプレーするようにしていたという[244]20101126日、休暇中に家族や友人らとバスケットの試合に興じていた際、対戦相手の肘が上唇を直撃し12針を縫う怪我を負った[245]

2008年には40代後半とは思えないほどの鍛え抜かれた腹筋が話題になった[246]NBAチームではシカゴ・ブルズのファンであり、大統領就任後も試合を観戦に訪れている[247]。好きなNBA選手はブルズでキャプテンを務めるルオル・デンNBAのスーパースター、レブロン・ジェームズが移籍先を交渉中の際は、公式会見でブルズへの移籍を薦めた(結局レブロンはマイアミ・ヒートに移籍)。NCAAカレッジバスケットボールでは、ノースカロライナ大学を応援している[248]

基本的に地元シカゴに本拠地を置く北米4大プロスポーツリーグのチームは全て応援しており、地元のMLBチーム・シカゴ・ホワイトソックスNFLチーム・シカゴ・ベアーズNHLチーム・シカゴ・ブラックホークスのファンであることを公言している[249][250]シカゴ・カブスについては、ファンではないものの、シカゴを代表するチームの1つとして敬意は示している[249]NFLでは、ベアーズを除くとピッツバーグ・スティーラーズが一番好きだという[251]カレッジフットボールに関しては、「そろそろカレッジフットボールにプレーオフを導入する時期だと思う。もうコンピューターによる格付けにはうんざりしている。」とコメントし、制度の改革を望んでいる[252]

2009年のMLBオールスターゲームでは始球式を務めたが、それに先立ってイチローと対面し、イチローからサインボールを手渡された。その際、イチローの大のファン(Big fan)だと語った[253]

また、インドネシア滞在時にサッカーをプレーしていた経験があり、オバマの2人の娘はサッカーをプレーしている。2003年の訪英時にプレミアリーグウェストハムの試合を観戦して以来、ウェストハムのファンであるという噂も流れていた[254]2014 FIFAワールドカップの際には決勝トーナメント1回戦に挑むアメリカ代表の試合をホワイトハウスで観戦し、その後選手たちの健闘を称えるダイレクトコールを送っている。

ゴルフも得意であり、スポーツ全般に関心が高い。2016年夏季オリンピックの開催地に立候補しているシカゴ市の招致活動[255]や、2018もしくは2022FIFAワールドカップ招致活動[256]にも全面的にバックアップをすることを表明していた。

l  音楽[編集]

大の音楽ファンであり、iPodユーザーとしても有名である。幼少期はエルトン・ジョンアース・ウインド&ファイヤーなどを愛聴していた。現在のiPodの収録リストには、ボブ・ディランブルース・スプリングスティーンジェイ・Zローリング・ストーンズシェリル・クロウなどが入っている。他にもジャズクラシックなど音楽の趣味は幅広い[257]

もともと民主党は音楽産業や映画産業などからの支持が厚いが、オバマの支援に関してはかつてないほどの盛り上がりを見せた。大統領選挙の応援演説にはブルース・スプリングスティーンが駆け付けた他、伝説のロックバンド・グレイトフル・デッドが応援のために再結成、さらにウィル・アイ・アムがオバマの名演説「Yes We Can」を元に新曲を制作するなど、様々な動きが起こった。その他にもアメリカ国内外を問わず、多数のアーティストから支持表明を受けている[258]

2009118日にはオバマの大統領就任を記念した特別コンサートが開催された。主な顔ぶれは、ブルース・スプリングスティーン、スティービー・ワンダーU2ビヨンセ、ウィル・アイ・アム、アッシャー、シェリル・クロウ、メアリー・J. ブライジジョン・ボン・ジョヴィハービー・ハンコックガース・ブルックスなど。オバマ本人も出演し、ステージの最後にスピーチを行った[259]

201062日、ポール・マッカートニーガーシュウィン賞が授与され、ホワイトハウスにてパフォーマンスを行った。ミシェル・オバマ夫人が主催となっており、「ホワイトハウスでプレイしたくて仕方なかった」というビートルズ時代の楽曲「ミッシェル」などを熱唱した[260]

l  「オバマを勝手に応援する会」[編集]

福井県小浜市では市名にちなみ観光協会のメンバーを中心として「オバマを勝手に応援する会」を発足させ、親書と市名産の「めおと」を送るなどしている[261][262]

また長崎県雲仙市小浜町小浜温泉でも同様に勝手連が発足し、応援活動を行っている[263]福島県二本松小浜にある二本松市立岩代図書館は大統領就任を記念したコーナーを2009年に設置した[264]

この活動についてはオバマも承知しており、2008年アメリカ合衆国大統領選挙後の麻生太郎との電話会談にて、「小浜市については知っている」と述べた[265]

l  専用車[]

2009114日にはオバマ専用の車としてゼネラルモーターズ社の最高級ブランドである「キャデラック」のフラッグシップ・モデルである「DTS・リムジン」の新型特装車が一般公開された。この新しいDTS・リムジンは、前任者のブッシュ前大統領専用車のDTS・リムジンと比べ装甲がさらに強化した他、最新の通信機能が装備されたが、これらの装備で車重が増したために最高速度は時速100キロ程度であると発表されている。

この車のシャシーにはGMC・トップキックのものが使用されており、アメリカ大統領専用車として初のディーゼルエンジン車である。また、フロントノーズの国旗と大統領紋章旗が夜間にLEDでライトアップする新機能が追加された他、負傷時の対応を考え、オバマの血液が車内に常に用意されている。この車両の防護装備や、性能等については警護・保安上極めて重要な機密事項であるため、一切公開されない。

なお、かつては大統領就任パレード用のオープンカーも併せて用意されていたが、テロリストによる狙撃を防ぐことが困難なため、1980年代以降は用意されておらず、大統領専用車にも同様に用意されていない。

2016527日の広島訪問時にはオバマと共に、現職のアメリカ合衆国大統領専用車としては、初めて被爆地『ヒロシマ』の地を踏んだ。

l  発言[編集]

20093月、NBCのトーク番組であるザ・トゥナイト・ショーにゲストとして出演した際、自身のボウリングの腕前を、「スペシャルオリンピックスの様だ」と発言し?メディアなどから大きく取り上げられる。これを受けホワイトハウスは、「オバマの発言はスペシャルオリンピックを貶めるものではない」と釈明したが、オバマはスペシャルオリンピックス会長のティモシー・ペリー・シュライバーに謝罪している。

l  アフリカでの評価[編集]

ケニアではオバマが英雄視されている。同国の大統領ムワイ・キバキは「オバマの勝利はケニアにとっての勝利でもある」と発言し、116日をケニアの祝日に定めた。ほかのアフリカの国々でも、それぞれ「オバマ・デー」の名の祝日が急遽できたようで、タンザニアガーナでも祝っていた。ガーナ出身で黒人で初めて国連事務総長となったコフィ・アナンは「オバマの勝利は彼の卓越した資質とともに、世界の変化へのアメリカの適応能力を証明している」と祝福した[266]。また、南アフリカで初めて黒人大統領になったネルソン・マンデラは「アメリカ建国以来初の黒人大統領の誕生は希望のシンボルだ」と述べ、「この勝利は、より良い世界を築きたいとの夢を持たない人物はこの世界にはいないということを示してくれた」との祝福をオバマに送った。さらにケニア国内では、「オバマ」「ミシェル」と子供に命名する親が急増した[ 21]2009年の7月にはガーナ訪問し、家族と共に奴隷貿易の拠点だったケープコースト城を訪れた。

20157月には現職のアメリカ合衆国大統領として初めてケニアエチオピアを訪問し[267][268]、ケニアはオバマの父の出身国ということもあってケニア市民から歓迎を受け[269]、エチオピアではアディス・アベバアフリカ連合本部でアフリカの民主化を演説して聴衆から拍手喝采を受けた一方で[270]、中国に対するアメリカのアフリカ支援の遅れから「中国のお金で建てたアフリカ連合本部に行き、中国が造った道路を旅した」と揶揄する声もあった[271]

l  学校教育[編集]

200998日にオバマはバージニア州アーリントンの高校の始業式で演説し、「高校を中退したらよい職業につくことはできない」、また「高校を中退することは、国を見捨てること」とアメリカ全体的に発言した。なお、よい職業の例としては「医師、教師、警官、看護師、建築家、弁護士、軍人」を挙げている[272]。これは全米の学校に映像が配信され、なるべく多くの生徒が視聴できるように準備が整えられ、テレビやインターネットでも全米に配信されている。この演説に対し、共和党支持者が「子どもたちに政府に都合のよい思想を吹き込もうとしている」などと非難したため、ホワイトハウスは演説内容を事前に公開した[273]  

l  服装[編集]

政務では選択・意思決定することが多く、余計なことで選択する労力を使いたくないという事からスーツはほぼ紺系か灰色系に限られている[274][275]

身長[編集]

身長は6フィート1インチ(約185.4センチメートル)である[276][277]

著作[編集]

20101116日、オバマ自身が著した絵本が出版社Knop Books for Young Readerから「Of Thee I Sing:A Letter to My Daughters」という書名で出版された。イラストはローレン・ロング英語版)。日本語訳は201176日、『きみたちに おくるうた――むすめたちへの手紙』というタイトルで明石書店から刊行された。訳者はさくまゆみこ[278]

l  大邸宅の購入[]

2019年、大統領時代から休暇を過ごしてきたマサチューセッツ州マーサズ・ヴィニヤード島にある大邸宅を1,175万ドルで買い取った[279]

l  注釈[編集]

1.         ^ 保守フォックス・テレビイスラム神学校で教育を受けたと報じたが、後にCNNの現地取材によってこれは否定された[24]

2.         ^ ハーバード・ロー・スクールではトップ10%の成績の者に与えられる[37]

3.         ^ 例えば、

4.         『アメリカ合衆国政府は彼ら(アフリカ系アメリカ人達)にドラッグを与え、より大きな刑務所をつくり、3回重罪加重懲役法を成立させたくせに、我々(アフリカ系アメリカ人)に「神よアメリカに祝福を (God bless America) 」と唱わせようとする。とんでもないことだ。このようなことをする国に対して聖書は「神よアメリカに断罪を (God damn America) 」と唱えよと教えている。我が市民(アフリカ系アメリカ人達)を人間以下に扱っているアメリカに神よ断罪を。自分があたかも神であるかのように、かつ至上の存在であるかのようにふるまっているアメリカに神よ断罪を』

5.         なかでも最も大きな論争を起こしたのが、アメリカ同時多発テロ事件の直後に発していた次のような説教であった。

6.         『・・・我々は広島を爆撃した。我々は長崎を爆撃した。そして我々は核爆弾を落とし、このたびニューヨークとペンタゴンで殺された数千人よりもはるかに沢山の人々を殺害した。我々はこのことから目を背け続けている』

7.         ^ カトリック教会神父だがプロテスタントのトリニティー・ユナイテッド教会に招かれて説教した。カトリック教会はフレガー神父の発言内容を譴責し停職処分を下した[53]

8.         ^ "Shame on you, Barack Obama."[56]

9.         ^ ヒラリーはオバマ陣営のパンフレットが根拠を欠き不当であると冷静な口調で長々と筋道立てて説明した後に「恥を知れ」と発言したのだが、テレビ報道では時間枠の都合やテンポの問題もあり、説明の部分が大幅にカットされて「恥を知れ」発言に焦点を合わせた映像が繰り返し放映された。

10.      ^ オバマに対する献金の4分の1200ドル以下の少額献金により賄われ、残りをゴールドマン・サックスユービーエス・エイ・ジーJPモルガン・チェースリーマン・ブラザーズ シティ・グループなどからの大口献金が占めた[57]

11.      ^ en:United States presidential election, 2008

12.      ^ en:Barack Obama presidential acceptance speech, 2008

13.      ^ 就任時年齢が若い順に、42 322セオドア・ルーズベルト(第26代)、43 236日ジョン・F・ケネディ(第35代)、46154日ビル・クリントン(第42代)、46311ユリシーズ・グラント(第 18代)、47169日バラク・オバマ(第44代)[68]

14.      ^ オバマ大統領が引用したのは、孟子「尽心章句」の一節。「山中の小道は、人が通ってこそ道となる。しばらく通らなければ、茅(かや)でふさがれてしまう」と引用した上で、大統領は「子供の世代のために誤解や埋めがたい溝を避けるよう努力を」と訴えた。

15.      ^ オバマは「両国人の交流は極めて大切。民間人の交流を全力で支持する」、「台湾問題はひとつの中国というアメリカの政策は不変」、「チベット独立は支持しない」、「新疆問題については、中国の主権と領土の保全を尊重する」と述べた。

16.      ^ たとえば、201025日付の中国共産党機関紙・光明日報は「オバマ、中国人13億人はおまえを軽蔑する」と題する記事を掲載し、その中でオバマに対し「オバマのいうエセ平和の恐るべき正体」「面従腹背、二枚舌のうそつき野郎」「狼のような野心の何と恐るべきことか」との文化大革命調の悪口雑言を並べた[94]

17.      ^   ウィキソースには、ノーベル平和賞受賞に際するバラク・オバマの声明の日本語訳があります。

18.      ^ 各長官は上院の承認を経て正式に就任するため、就任日にばらつきがある。

19.      ^ 20142月にもアメリカは臨界前核実験を成功させているが、アメリカのメディアでは殆ど取り上げられなかったこともあり、オバマに対する非難の声は報じられなかった[185][186]

20.      ^ ただしアメリカ先住民は社会進出は遅れているものの絶望的な貧困であえいでいるわけでなく、エニ・ファレオマヴァエガのような下院議員になる者も現れ、先住民の血を引く白人黒人もかなり多い。

21.      ^ 奴隷制時代を経験した先祖を持たないケニア人の父と、後述のように奴隷制時代を経験したアフリカ系の先祖を持つ白人の母親の間に生まれた混血。しかし社会的にはオバマは黒人と認知され、エスニックグループとしての黒人社会に帰属するものとみなされている。

22.      ^ UBSは、世界中の金持ちたちが自国での脱税目的で秘密口座を持っていることで知られる。その口座の数は5万以上という。脱税を助けてきたことに対して、アメリカ政府はUBSを相手取って民事刑事告発をしていたが、20092月、UBS780億円の罰金を払うことで決着。この罰金はアメリカの保険会社AIGUBSが掛けていた保険で支払われた。

23.      ^ オバマとチェイニーの共通の祖先は17世紀にフランスから移住したマリーン・デュバル英語版)である[237]

24.      ^ アフリカ支援をしたブッシュ前大統領もアフリカでは「ジョージ・ブッシュ」と命名する社会現象があった。

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.