霧の彼方 須賀敦子  若松 英輔  2021.2.13.

 

2021.2.13. 霧の彼方 須賀敦子

 

著者 若松 英輔 批評家、随筆家。1968年新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年『越知保夫とその時代 ──求道の文学』で第14回三田文学新人賞を受賞。16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で第2回西脇順三郎学術賞を受賞。18年『詩集 見えない涙』で第33回詩歌文学館賞を受賞。同年『小林秀雄 美しい花』で第16回角川財団学芸賞を受賞、19年に第16回蓮如賞を受賞。他の著書に『井筒俊彦──叡知の哲学』『霊性の哲学』『イエス伝』『詩集 愛について』などがある

 

発行日           2020.6.30. 第1刷発行

発行所           集英社

 

初出

『すばる』 201611月号~20179月号、201711月号~201810月号、201812月号~20191月号

 

 

第1章        書かれなかった言葉

作品を読む前からこの作者とは深い交わりになると感じることがあるが、須賀敦子の場合がそれで、07年新人賞受賞して最初に書いたのが編集長の提案だった須賀敦子論。それまで名前は耳にしたが、著書さえ持っていない

フランスの哲学者ガブリエル・マルセル(18891973)は、「我々カトリックは、と言う時私たちは「普遍(カトリック)」の埒外にある」と言ったが、須賀が考えるカトリックはマルセルが語る「カトリック」と著しく響き合う。彼女もマルセルを読んでいるし、後に大きな影響を受けるキリスト教思想家のエマニュエル・ムーニエ(190550)と同時代人でその思潮の中枢にいた

須賀が日本に向けて作成した石版刷りの小冊子『どんぐりのたわごと』の第1号には、「ことばや頭で祈れなくとも、生きることによって祈れる。愛したいとねがって生きることそれ自体がりっぱな祈りなのだ。主とひとつになること、主を受け入れることによって、主がわれわれのうちにきて祈ってくださるということを、あまりにも信用しなさすぎるのではないか」と、尊敬する師の言葉を引用している。祈りは、人から神にささげられるだけではない。むしろ、神が人のうちに生き、私たちのために祈っていることを発見すること、それが須賀の感じていた信仰の営みで、内なる神の声を聞くことが祈りだとする

1958年、予想外のヨハネ23世の誕生でカトリック教会の改革が始まる。他の宗教を排斥するのではなく、対話を持ちかける。改革の中心に近いところで活動していたのがコルシア書店の仲間たちで、信仰も職業も多様な人々が群れ集まり、狭いキリスト教の殻に閉じこもらないで、人間のことばを話す「場」をつくろうとした

須賀が先例を受けたのは47年、18歳の時。その直後に聖心女子大入学、学長のマザー・ブリットに出会い敬意を払う

翻訳者として書き始めたのは比較的早い時期。在俗の信徒の共同体「祈禱の使徒会」がイエスの言葉を広く人々に届けようとして発行した『聖心(みこころ)の使徒』に寄稿している

「霧」は、須賀の作品を読むとき最も重要な言葉の1つ。「霧の向こうの世界」は見えないが、確かに存在する場所で、言葉はその世界に届くと彼女は感じている。『ミラノ 霧の風景』における「霧」は、伴侶を失った彼女の悲しみの光景であると同時に、生者が死者を感じるのは悲しみにおいてほかないことを知る彼女の境涯を象徴する1語になっている

詩人ウンベルト・サバ(18831957)は、霧を謳う詩人。夫が愛した詩人

亡き者と、痛みにおいて、密やかに交わる。胸を貫くような痛みを感じるとき、人は目に見えない死者の存在を感じるという。言葉にならない、ひとたび、そう感じるところに生まれるもの、それが須賀にとっての文学。不可視の実在を感じるのと同じように、書かれていないことは存在しなかったことではなく、書かれていることは書き得ないことによって支えられ(歪曲)ている

 

第2章        不得意な英語と仏教

須賀の信仰には、彼女を深く愛した祖母・信の影響が大きい。須賀商会を実質切り盛りし、真言宗の篤信家

須賀の洗礼を周囲が反対するなか、祖母だけは「仏さんも神さんも同じでっしゃろ。どうせ神さんは一つやから」と言って賛成した

小学校3年で小林から東京に編入した時壁となったのが英語で、この時の小さな挫折が外国語との関係を深める契機になる。個人教授について英語を学び、大学の卒論ではアメリカの女流作家ウィラ・キャザーの長編小説を翻訳、最初の文筆活動も英文のキリスト教思想の翻訳、56年には光塩女子学院で小中学生に英語を教え、59年在ロンドン中には『歎異抄』を短期間で英訳

 

第3章        人生の羅針盤

少女時代から読書に耽っていた須賀は、親友の紹介で『死にいたる病』のセーレン・キェルケゴール(181355)の思想に親しむ。キェルケゴールは、真実のキリスト教に人々を導くことができなければ世に問うた意味はないと書く

宮沢賢治の詩に魅せられたことが後年彼女の文学に決定的な意味を持つ。ユルスナールの言葉に喚起されながら、彼女がはっきりと感じ始めていたのはヨーロッパの霊性への憧憬とともに拭い難く存在する違和の感覚で、年を経るごとに彼女はヨーロッパの文化と内なる霊性との齟齬を感じるようになる。そこに彼女が日本語で、自らの生涯を巡る文章を書き始めなくてはならない必然もあったように思われる。ミラノの大聖堂に感じた違和の理由は、パリのノートルダム寺院を想起した時に氷解する。「ミラノの大聖堂は、外側だけだからだ」と思ったのは、内部の緊張感や精神性が感じられなかったからとした

聖堂は彼女の文学を読み解こうとするとき、最も重要な鍵語の1つになる。聖堂と信仰者の関係は、彼女の精神界の「英雄」だった、童話作家というより実践的なキリスト教作家のサン=テグジュペリが言ったように、「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ意味がない。出来上がったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になっては駄目。内なる聖堂を建てよ。そこに神の臨席を仰げ」ということに尽きる

自分がいまも聖堂を建て続けているか、聖堂の椅子を見るたびに、また自分がこうと思って歩き始めた道が、不意に壁に突き当たって先が見えなくなるたびにサン=テグジュペリを思い出し、これを羅針盤のようにして自分の立ち位置を確かめた

内なる聖堂を建てるとは、「自分自身になること」と同義。真の自己になろうとするとき人は自分と他者を比べるのを止める。その人にしかできないことに注力しなくてはならない

リルケの存在も看過できない。ユルスナールは、造られた神を拒む敬虔なる求道者としてリルケの後継者で、『ユルスナールの靴』は彼女が出会った求道者たちの伝記でもあった

リルケは、詩人にとって詩を書くとは、死者と天使から言葉を預かることだと考え、この世界の彼方にあるもう1つの世界への扉を開くところに文学の秘義があると信じた

須賀はいつも死者の存在を近くに感じていた。彼女の中には書かなくてはならない言葉があった。その内なる促しにどこまでも誠実であろうとすることに大きな時間と労力を捧げたのではなかったか。彼女にとって書くとは、まず、亡き者たちへの手紙だった

「文学好きの長女を、自分の思い通りに育てようとした父と、どうしても自分の手で、自分なりの道を切り開きたかった私との、どちらもが逃れられなかったあの灼けるような確執に、私たちはつらい思いをした。今、本を読むことについて、父に長い手紙を書いてみたい。そして、何よりも、父から返事が欲しい」(『父ゆずり』)

 

第4章        二人の聖女

1冊の書物が、というより、そこに秘められている言葉が人の生き方を根本から変える

大学に入学した当時西洋史の授業で選んだデンマークの詩人で作家ヨハンネス・ヨルゲンセンの評伝『シエナの聖女カテリーナ』がそれで、1957年には『聖心の使徒』に初めて書き手として自分の名前で短篇『シエナの聖女』を発表

同じ雑誌に須賀は、『ゆりのごとく花ひらけ ベルナデッタ・スビルウ』という一文を寄せている。フランスの聖地ルルドを見出した人物を取り上げたもの。泉から湧き出る水による病気治療の奇蹟によって聖地となった

 

第5章        母の洗礼

「洗礼と堅信によって、キリスト教徒はキリストの生命に全面的に預かり、ひいてはキリストの司祭職にも参加する」「キリスト教徒の召命を生きるということは、神の御言葉を、すなわち、愛を、どのような逆境にあっても、本気で信じているものとして生きることで、だからそれは、日常のあらゆる瞬間を、心を込めて生きることに他ならない」

信仰を巡るこうした率直な文章はこれ以降書かなくなるが、それは川端康成との出会いで、ノーベル賞授賞式の途上ローマで出会い、夫の逝去で途方に暮れているときで、川端から小説を書くことを強く促された

52年末、病弱の母が洗礼を受ける。神の存在など信じてもいなかったのに、突然の変心で、「何も信じないよりはましだと思って」と言う。柔らかな母の信仰が羨ましくなった

慶應のカトリック栄誦会の責任者だった哲学者松本正夫(191098)の影響で、「カトリック左派」に傾倒。聖と俗の垣根を取り払った「新しい神学」

須賀は、時代を生きる使命という問題を深化させ、宮沢賢治の言う「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という言葉こそ、キリストの神秘体たる世界を信じる私たちの、いくら黙想しても足りぬ事実なのだと書く

「カトリック左派」という言葉は、須賀の作品を読み解く重要な鍵となるが、「新しい神学」が両義的だったように、コルシア書店の運動を象徴する表現ではありながら、同時に彼等にとって半ば自虐的な呼称でもあった。党派、宗派の壁を打ち破り、言説ではなく、その精神、心において交わり、対話し、時に討論する場を作ろうというのが彼等の狙いだったからだ。まだ当時は、他の宗派との対話を積極的に行う状況にはなかった

1953年、政府保護留学制度に合格、ジェノア経由パリに向かう。パリを目指したのは、慶應時代の親友の夫で文学部長を5期にわたって務めた三雲夏生(19231987)と知り合ったのが影響、三雲は1950年海外渡航が解禁された際篤志家の支援で遠藤周作らとともに渡仏。加藤周一の書物にも触発された

 

第6章        夢幻のカテドラル

最初の留学期にカトリック思想書を精読・研究したことがその生涯の哲学的・神学的基盤になっていく。作家須賀の奥にある、キリスト教の中世哲学から現代神学までをその最前線で学び、それを創造的に受容し、実践した人物としての彼女の姿を見過ごしてはならない

非言語的表象に意味の深みを探ることにおいて須賀は異能と呼ぶべき力を持っていた。絵画・彫刻は勿論、街並みからも彼女は無音の「声」を聞いた。ファサードの模写がそうした力を育んだようだ。彼女はしばしば教会のファサードに世界の深みからやってくる呼びかけを聞く。「霧」が此岸と彼岸を繋ぐものだったように、「ファサード」は異界への扉となる

ノートルダムは須賀にとって人生の聖域となる。その威厳の源泉は神は勿論、民衆の内なる信仰からも来ている

もう1つ、彼女の拠り所となった場所はアッシジ。54年初めて訪れた年だけで8回訪問、清貧の聖者フランチェスコ(1181)の弟子としての自負を持っていた

パリでは、「エマウス運動」との出会いもある。1949年アベ・ピエール(19122007)によって提唱された貧困者救済の運動で、72年には彼女は日本でその運動に参加

 

第7章        レジスタンスの英雄

渡仏後まもなくカトリック教会の集まりであるサン・ジャン・バティスト会に参加。その指導者で、第2バチカン公会議の実現にも参与した、のちの現代カトリック思想界の重鎮ジャン・ダニエル―神父と出会い、エマウス運動を教えられる

シモーヌ・ヴェイユ(190943)とエディット・シュタイン(18911942、修道女、アウシュヴィッツのガス室で死去)は、女子学生の仲間にとって灯台のような存在であり、少なからず影響を受ける

 

第8章        終わらない巡礼

パリから80㎞先のシャルトルへの巡礼に参加。須賀は、シャルトルへの巡礼を始めたシャルル・ペギーを、「知性と神秘性、個人の愛と社会的な愛が両立する教会を求めて20世紀の教会史に大きな足跡を残した詩人」と紹介。カトリック左派の霊的淵源となる人物

知性を育みながら神秘を生きる、知性が神秘への敬虔を忘れなければ人はそこに愛の萌芽を見つけることができる。個が内なる愛を認識していく過程がそのまま、世に広がる情愛の発見となり、自己への誠実がそのまま他者への真摯な対峙になる、それこそペギーと須賀が見出そうとした境涯

もう1つ、須賀がペギーから継承した重要な霊性が孤独。他者と共にありながらどこまでも自己への誠実を見失わない態度を指す。孤独者の目にこそ、孤立に苦しむ者の姿が映る

 

第9章        ベルージャへの招き

54年、シャルトルへの巡礼の後、外国人大学でイタリア語を学ぶためペルージャへ向かう。フランス文化との間の埋めがたい溝を感じて、様々な可能性を模索した一環

 

第10章     文筆家の誕生

1955年、将来の道を見つけられないまま帰国。NHKの国際局欧米部フランス語班の嘱託として働き始め、翌年には光塩女子学院の英語の教師を兼務したが、不可視の壁に当たる

彼女が選んだのは実社会で働くこと、もう1つは、自分が出会い、動かされた言葉を他者と分かち合おうとすること、そして若い人に教えること

58年、再度渡欧するまでの3年間、欧米のキリスト思想家の文章の翻訳を始める

翻訳は形を変えた批評であり、訳者には優れた批評精神が求められる

翻訳は熟読と批評の果実

遠藤周作の師だった吉満義彦は、須賀とも哲学的関心において無視できない繋がりがあるが彼の言う、「文学者と哲学者と聖者の3つの人格が融和することがキリスト者における1つの理想」というのは須賀にとっても生きる意味そのものを表象する言葉だった

この頃、ジェノアで出迎えてパリ行きの列車の駅まで送ってくれたマリア・ポット―二から定期的に送られてきたのがコルシア書店発行の出版物で、Pとしか署名していない寄稿者の文章に惹かれたのがイタリア行きのきっかけでもあった

留学以前に、カトリック学生連盟に所属し、52年には破壊活動防止法案反対運動にも参加、カトリック左派に共振する精神は既にこの頃からあった

マリアは、上司がパルチザンで、それに加担したため強制収容所に送られるが、奇蹟的に生き残り、戦後「レジスタンスの英雄」に祭り上げられ、各界の有力な人々との間に関係が結ばれていき、そうした人脈によって須賀も大いに助けられていた

 

第11章     ローマと新教皇

1957年秋、まだ将来のはっきりした設計もない居心地の悪さを晴らすためもあって、バチカン直轄の組織であるカトリックの団体カリタス・インターナショナルが主催するイタリア留学制度に応募してローマにわたるが、社会学専攻が義務付けられたため、奨学金を放棄して独立、フランス人シスターの下で勉学にいそしむ

シスターとの対話、同年でイタリアの彫刻を学んでいた小野田はるの(宇花)との出会い、家族同様の付き合いとなった日本大使館の広瀬達夫参事官夫妻、東宮侍従濱尾実の弟でローマで叙階したばかりの文郎(後に枢機卿)との面識

ピウス12世の葬儀にも参加、後継のヨハネ23世が高齢を押して改革を断行、第2バチカン公会議を開催し、真に開かれた宗教にする現場を直視

ヨハネ23世の革新性を論じたのがハンナ・アーレント(190675)

 

第12章     ダヴィデ・マリア・トゥロルド(1916)

須賀敦子の生涯は3つの時期に分かれる

1期は、59年のローマまで

2期は、ローマを出てジェノアに旅するところから始まり、71年帰国するところまで

3期は、エマウス運動を経て、教育者、研究者、そして書き手となっていき、亡くなるまで

2期の入り口で出会ったのがダヴィデ神父。マリアが送ってくれた小冊子によって、コルシア書店を率いるダヴィデが、修道司祭でありながら、詩人の登竜門と言われたヴィアレッジョ詩賞を獲得したことで興味を惹かれ、神父との出会いをイタリア留学の目標の1つに決める

コルシア書店の人々と会って、ペッピーノとの交際が始まり、コルシア書店の霊性を日本に伝える役割の担いたいと考えて作ったのが『どんぐりのたわごと』

58年末、マリアの紹介で神父に会う

 

第13章     ミラノへの階梯

コルシア書店の運動は、硬直化したカトリックの改革だっただけではなく、パルチザンから繋がる「神」を除くあらゆるものの束縛からの自由を求める精神運動で、時代においては圧政と闘い、霊性においては狭まろうとする信仰の門の番人となったが、ダヴィデはその象徴的人物だった。ミラノの大聖堂で共産主義の「インターナショナル」を歌って人々を扇動して追放され、ロンドンに居を構えていた

須賀はダヴィデから詩を教わる。神に向かって語りかける言葉としての詩を学び、詩情を深めていく

 

第14章     ある幼子の物語

1960年初にジェノアでコルシア書店に正式に迎え入れられることが決まり、ペッピーノとの文通が始まって、ミラノへと移住。彼女が重要だと考えたのは、何かをすることではなく、その人間が存在することによって体現することで、「精一杯生きること」が重要であり、そこに身を置きたいと願った。コルシア書店がまさにその場所だった

「キリストに夢中」になる自分を「精一杯生きること」、それが自分の悲願だという

須賀は自分の思いを「こうちゃん」という架空の子を題材にして物語に書き、新しい霊性を人々と分かち合おうとしていた。物語は後に『どんぐりのたわごと』に掲載するが、この物語にペッピーノからの助言を得たことが2人の関係が深化する契機になった

 

第15章     言葉という共同体

1996年発表の『古いハスのタネ』と題する作品があり、「遺言」となった

祈りと共同体をめぐる真摯な記述が頻出 ⇒ 「共同体によって唱和されることがなくなった時、祈りはリズムも形式も失い、韻文(詩文)を捨て散文が主流となる。散文は論理を離れるわけにはいかないから、人々はそのことに疲れ果て、祈りの代用品として呪文を探すことがあるかもしれない」と言い、共同体の喪失は詩の喪失に他ならないとする

彼女にとって共同体とは、社会的生活と霊的生活の分断から人々を守るものの異名であり、書くことにおいても、彼女にとって作品を生み出すことは亡き者たちとの繋がりを取り戻そうとする営為にほかならない

共同体という問題と須賀が決定的に結ばれたのは、60年にアッシジで哲学者エマニュエル・ムーニエに出会ったことによってだった

 

第16章     エマニュエル・ムーニエ(1905)と『エスプリ』

サン=テグジュペリの言葉が「羅針盤」なら、ムーニエの哲学は彼女の精神的支柱のようなもので、彼の霊性を胸に刻んで出発したといってよい

語ることより行動を、文字を記すことより意見を異にする者との対話を重んじた

須賀は「精神」と「たましい」を使い分ける。「精神」は理性と呼応するもので、人間の特性を決定するもの、「たましい」は存在そのものを司る。人間において理性、あるいは「精神」と「たましい」が有機的に繋がり合っている状態をムーニエは「人格」と呼ぶ

彼女はムーニエの思想に出会うことによって、社会と信仰、さらには哲学、宗教学を含む高次な意味での文学、この3者を1なるものとして生き抜く道を発見した

『エスプリ』は1932年ムーニエが創刊、ヨーロッパ思想界でも大きな力を持つ。宗教と思想、あるいはキリスト教とマルクス主義といったように2分された世界に統合を取り戻そうとした。遠藤周作もムーニエと人格主義に出会って、『エスプリ』を日本に紹介しようとしているが、須賀と遠藤ではその受け止め方が異なる

1981年、遠藤は音楽家でプロテスタントの遠山一行と勉強会「日本キリスト教芸術センター」を立ち上げ、宗派を超えたキリスト教芸術に携わる人々との語らいの場としたが、一度出席した須賀は言葉少なで居ずらそうだったという。2人の間には容易に越えることのできない見えない壁があった

 

第17章     内なるファシスト

1971年帰国した年の日記に突然、内なる「ナチ的な傾向」に言及。特定のイデオロギーによって他者との関係性を判断することを意味しているのだろう。あらゆる思想、宗教は1つ間違えばファシズムに堕する萌芽を有しており、カトリックはそうした趨勢を最も強く内包している宗教だということを彼女は熟知しているがゆえに出てくる言葉

それにはっきりとした形で抗するところにカトリック左派の自覚が芽生える。運動が起きたのは1930年代の後半で、まずは1938年のスペイン内戦で、ポルトガルの新聞記者の目から描き出したアントニオ・タブッキの小説『供述によるとペレイラは・・・・・』を須賀が翻訳したことは、彼女にとってコルシア書店誕生の原点を確かめることとなった

 

第18章     ほんとうの土地

宮沢賢治が法華経の世界を知り、「法華文学」の使者になることを希求したのと同様、須賀も単に護教的な言葉に終わらず、書く自分に、またそれを読む人に静謐な観想を促すような言葉を生み出したいと思っていた。その結晶が「こうちゃん」(14)であり、『わるいまほうつかいブクのはなし』

 

第19章     悲しみの島

「島」も須賀の最重要な鍵語の1つ。人生の岐路、あるいは危機に遭った時のことを書く時に使うが、コルシア書店も彼女にとっては「島」の1

教会を見ると船を想起する。ゴシックの大聖堂を側面から眺めた時に木造船を想像する

愛する者たちの死を経験した須賀は、自分が感じている悲しみこそが、見えない「船」だったことに気がつく。信仰は、そうした不可視な船によって運ばれ、自分のところまでやってきたことに眼を開かれる

 

第20章     ゲットとウンベルト・サバ

1967年夫と死別したあと友人に誘われて訪れたヴェネツィアは、慰藉をもたらした「島」であり、その後の彼女の行く末に大きな暗示を与えた場所

『ヴェネツィアの悲しみ』を書いたのは1996

連れて行ってくれたユダヤ人女性によって「ゲット」の存在を知り、死者の声に言葉をもって応えようとして、ウンベルト・サバの言葉に共振

夫が愛した詩人が深く愛おしんだのは「あたりまえの」毎日であり、「あたりまえの人々」だった。須賀がミラノまで来たのも、「あたりまえの人々」の中で「あたりまえの」信仰を育むためであり、そこで「あたりまえの」言葉を生き、「あたりまえの」文学を育むことが彼女の悲願で、どこまでも「あたりまえの」言葉で語ること、そこに自分の信じる詩人の使命があるという

 

第21章     川端康成と虚構の詩学

ヴェネツィアは彼女にとって悲しみの街で、この「島」の「暗い部分に少しずつ惹かれるようになっていき、その悲しみに寄り添った」

1968年ヴェネツィア訪問の翌月、ノーベル賞授賞式の帰路ローマに立ち寄った川端康成と面談。川端の『山の音』の翻訳許可を得るのが目的。65年から4年かけて日本文学をイタリア語に翻訳し、『日本現代文学選』として刊行、翻訳者「リッカ敦子」をイタリア文学界に知らしめたが、『山の音』は夫の死後自分だけの力で仕事の目途をつけるきっかけとなる

川端から小説の啓示を受けるが、後に川端の『葬式の名人』に、「虚構=死者の世界を、現実=生者の世界に先行させる川端詩学の出発点」を見出し、啓示を反芻する

「愛するものが死んだという事実の彼方に、真実を垣間見たいのなら、「小説」を書くとよい」と言った川端の言葉は、早くに家族を喪った川端自身が数えきれない悲しみの果てに辿り着いた文学上の告白のようなものだった

 

第22章     二度の帰国

日本移住の直前父親の危篤で一時帰国している

夫の死の直後、母の危篤で帰国した際、父は最初の手術を受けた後で、母の症状が落ち着き、父の看病をしようと日本に留まろうとした時、父は俺の看病のために自分の選んだ生き方を曲げるな、ミラノへ帰れと言った

父の葬儀を執行したのが夙川教会のヴァラード神父で、日本におけるエマウス運動の牽引者。須賀は52年に会って運動への参加を希望したが、女の子はいらないと言って断られている

68年、胃癌の手術をした翌年、豊治郎はヴァラード神父から洗礼を受け、家族全員がキリスト者となる。周囲の反対を押し切って3歳年上の万寿と結婚したが、結局うまくゆかずに49年に家を出て愛人と暮らし始める。67年には祖母逝去

日本に帰る前、ヴァラード神父の案内でエマウス国際ワークキャンプに参加

帰国後運動に加わり、75年まで責任者を務める

79年上智の常勤講師、英語で近代日本文学を講義、82年助教授、89年教授。『ミラノ 霧の風景』を書いたのはその翌年の暮れ

 

第23章     ダンテを読む日々

須賀敦子を巡る文章で特異なのは、松山巌の『須賀敦子全集』に寄せられた解説と、オリベッティの広報誌『SPAZIO』の編集者だった鈴木敏恵の『哀しみは、あのころの喜び』

鈴木は、1976年同誌のミケランジェロ生誕500年記念特集で彼の詩と書簡の翻訳を依頼、次いで『イタリアの詩人たち』の連載から、ギンズブルグの『ある家族の会話』の翻訳と続き、ついに独自のエッセイを書くことを勧め、『別の目のイタリア』のタイトルで連載を始めたのが後の『ミラノ 霧の風景』、PART IIが『トリエステの坂道』として刊行

若き須賀はアメリカから来たキリスト教をそのまま受け入れようとしたのではなかった。フランスに渡り、イタリアで暮らし、発見しようとしたのも、そのまま「輸入」できるようなキリスト教思想ではない。生涯をかけてそれと対峙し得るような何かだった。日本という土地に根付くものへと新生させ得る何ものかとの邂逅を切望していた

須賀が探求したのは、内なる聖性の発露。文化や人種によって左右されることのない聖性の遍在を、イエスの言葉とともに見つけようとすること、それが須賀にとっての信仰

81年秋上智の講師の時、ダンテの『神曲』を読みたいとう3年生を紹介され個人教師をするが、その学生が今日ダンテ研究の第一人者の藤谷道夫で、西洋古典文学研究者としての須賀の血脈を受け継ぐ。須賀は日本における従来のイタリア文学研究の在り方に大きな疑義と憤りがあった。須賀の書き残した『神曲』和訳を基に、後に藤谷が共訳として刊行

81年初、論文『ウンガレッティの詩法の研究』を慶應大に提出して博士号を取得

90年末『ミラノ 霧の風景』を始め次々と刊行を続け、96年末に自らの病を知って翌年国際医療センターで癌の治療を受け、一旦退院するが9月には再入院、翌年3月逝去

 

第24章     見えない靴、見えない道

生前自著を出したのは5冊。最後となった『ユルスナールの靴』では「あとがき」ではなく「あとがきのように」として、「もっと文章を練りたかったが、「本が決めた時間」が来てしまったように思える」と言って、あたかも「本」を「生ける」ものと感じた須賀の姿がある

須賀は、ランボーとダンテに言及。2人とも時代とその文化を代表する詩人と同時に共に正統なる異端者で、古い教えに忠実であろうとするために時代の常識に抗わなくてはならなかったが、ユルスナールに2人の血脈に連なるものの姿を見る

1つの宗教を捨てても、真正の教会とその深みを求める」と書き、教会が人間世界を表象する「精神」と、神の国に属する「たましい」とを峻別する2分法に疑義を唱え、「たましい」を認めない者によって「たましい」の問題が問われ、深化されることがあるのではないか、むしろ「精神」こそ「たまし」の闇を照らし出すことがあることを強調

「靴」が意味するところは、内界を旅する者の同伴者でもある「見えない靴」を指している

他者と真に繋がるために、人は「孤独」を受け入れなくてはならない。『ユルスナールの靴』は、「孤独」の深まりの先に、時空を超えた共時的共同体と呼ぶべきものを発見しようとする挑みでもあった

 

第25章     トランクと書かれなかった言葉

『ユルスナールの靴』は彼女の詩的自伝であり、「詩的」とは文字では直接書き記すことのできないものを言葉の余白によって語ろうとすることに他ならない

父親がトランクとスーツケースを峻別していた。トランクは簡単に手で持ち上げられるものばかりではないが、スーツケースは持ち運びできることを主目的に造られている、というのが父親の持論だったと須賀は書く。何気ない思い出話のようだが、須賀がこの言葉に宮沢賢治の童話『革トランク』を思い出したかもしれない。トランクに収められた荷物と共に、懐かしく、また未知なる時間が人間のもとに運ばれてくる。「ユルスナールのもとにも、古い手紙や幼いころ使っていた銀食器などの詰まったトランクが届いたのが彼女を有頂天にした」と須賀は書く

書くことは、「精神」という地層を超えて、「たましい」の層にあるものに触れようとすること。思ったことを書くのではなく、書くことで「思い」の奥にある「念(おも)い」と呼ぶべきものを確かめようとしているようでもある

努力すれば「思い」は文字にできるが、「念い」は決して言葉にはならない。真に祈りと呼ぶべきものにたゆたう「念い」は、言葉という器に入るには大きすぎる

 

あとがき

この本で試みたかったのは、誰も見たことのない須賀敦子の姿を描くことではない。むしろ、誰も目にも明らかだから、改めて語られることのなかった彼女の一側面を描き出したに過ぎない

須賀は、彼女の言う「霧」の彼方で「生きて」いる。少なくとも彼女自身は死者の存在を信じていた。つたない作品だが、内村鑑三の言葉を借りれば、彼女の「高尚なる勇ましい生涯」に、敬意と共にこの本を捧げたい 

 

 

『霧の彼方 須賀敦子』刊行記念エッセイ

弱き勇者たちの軌跡──須賀敦子とその仲間たち  若松英輔

奇妙なことをいうと思われるかもしれないが、「評伝」という形式は、書き手の努力だけでは書き進められない部分がある。もちろん、紙を文字で埋められはするが、それだけだとどうしても「作りもの」になってしまう。登場人物の息吹を感じることができない。

それは「生まれてきたもの」でなくてはならない。言葉は、何とも呼びようのないところから湧き上がってくる。そのとき書き手は、助産師になる。「生まれて」きた作品は、じっさいの子どもがそうであるように、遠からず、一個の独立した存在として書き手である親のもとから離れていく。それどころか書き手が、いつまでも親であると主張することを暗黙のうちに拒むようなところさえある。

須賀敦子の作品にも、そうした巣立っていった言葉の香りがする。だからこそ読者は、彼女が描き出す、未知なる人の姿にふれながら、私の奥にいて、見過ごしてきた「わたし」を見出す。そして、それは強い「わたし」ではなく、むしろ、弱い「わたし」ではあるまいか。

代表作の一つ、『コルシア書店の仲間たち』では、しばしば弱い人たちの姿に出会う。当然ながら、人の弱さに気が付けるのは、おのれの弱さを知っている人だけだ。

一見すると弱さは至らなさと判別がつきにくい。しかし、それは似て非なるものである。至らなさが、その人の悪癖とつながっていて、他者を遠ざけることが珍しくない一方、弱さは、それに接する他者の胸の眠れる愛に火をつける。

コルシア書店──正確にはコルシア書店だった場所──には、幾度か行ったことがある。須賀がミラノを後にしてからは様子が変わってしまったこともあったようだが、現在はかえって彼女がいた頃に近くなっている。何があったのかは知らない。並んでいる本が、「どんぐりのたわごと」で須賀が紹介していた文章と強く呼応しているのである。この「書店」は、本を売るだけでなく、出版する機能もあった。むしろ、それがいわばコルシア精神の支柱だった。書店全体を切り盛りしていたのが須賀の夫ペッピーノである。彼は1967年に、何かに連れ去られるように亡くなった。今、目にしているこれらの本は、もしペッピーノが生きていたら、この書店から世に送り出されていたものだったのかもしれない、そう思いながら書架を眺めていた。

その典型的な著者が、ディートリヒ・ボンヘッファーだ。数年前、この書店を訪れたとき、真っ先に目に入ってきたのが彼の本だった。ボンヘッファーは、1906年ドイツに生まれ、1945年、ナチスによって処刑されたプロテスタントの牧師である。若くして、20世紀でもっとも影響力をもった神学者カール・バルトにその才能を認められ、イギリス、アメリカに渡ってキリスト教諸派との対話を重ねた。分裂した教会に、新しい一致をもたらそうとするエキュメニカル運動を象徴するような人物でもあった。非暴力主義者でもあった。インドで、ガンディーに学ぼうと試みたこともあった。処刑されたのは、ヒトラーの暗殺計画にかかわったからだった。これは単なる嫌疑ではない。非暴力を説き、徴兵すら拒んだ経験がある彼が、主体的に下した決断だった。

ファシズムとたたかう。それはコルシア書店の原点でもあった。「書店」の創設者で、神父でもあるダヴィデもカミッロも、ファシズムと戦ったレジスタンス、イタリアでいう「パルチザン」だった。その言葉を「羅針盤」にしたというサン=テグジュペリ、スペインの独裁を批判したジョルジュ・ベルナノス、そしてシモーヌ・ヴェイユもまた、ファシズムという現代の悪とたたかった人たちだった。『コルシア書店の仲間たち』の「銀の夜」にはこんな一節があった。

「神を信じるものも、信じないものも、みないっしょに戦った」

ダヴィデは、ミラノ大聖堂で共産主義者の唱歌である「インターナショナル」を歌ったことがあるというほど開かれた人だった。その言動を見た目通りに受け止めるだけでは、彼が司祭でいる理由も理解できないかもしれない。しかし、彼だけでなく、その仲間たちも信仰を手放すことはなかった。たとえ教会が、ミラノからの「追放」を命じてもダヴィデは一介の司牧者であることを止めなかった。それは須賀も同じである。彼女が、時代の教会に対してときに厳しい見解をもっていたことはイタリアに行く以前に書かれた文章からも窺える。しかし、信仰者であることは止めない。

おそらく彼、彼女たちは、真の意味で悪とたたかい得るのは、世にいう善ではなく、聖なるものであることをどこかで感じていたのではないだろうか。そして、聖なるものとのつながりは、人が、おのれと他者の弱さを受け入れたところに始まることも、深く体得されていたように思われる。

今、私たちは、須賀敦子とその仲間たちと同質の試練に対峙しなくてはならない境遇にいるのかもしれない。そのとき彼女とその同志の軌跡は、私たちにとって、かけがえのない道標になるだろう。そこに私たちは、おのれの「弱さ」と向き合うという暗夜の経験の彼方に、単なる力強さを超えた、容易に折れることのない「勁(つよ)さ」を発見するのである。

(「青春と読書」7月号より転載)

 

 

折々のことば:2011 鷲田清一

2020.12.2. 朝日

 列車は、ひとつひとつの駅でひろわれるのを待っている「時間」を、いわば集金人のようにひとつひとつ集めながら走っているのだ。 (須賀敦子)

     

 作家は学生の頃、上京のたびに鈍行の夜行列車に乗った。あと何時間?とため息をついてはまた眠りこける。目が醒(さ)めると無人の駅。どこかから滝の落ちる音がした。列車が再びゆっくり走り出した時、ふと思った。時間は過ぎゆくものではなく、拾い集められることで一つの流れになるのだと。随想「となり町の山車のように」から。

 

 

 

霧の彼方 須賀敦子 若松英輔著

正統なる異端者の道程描く

2020829 2:00 日本経済新聞

須賀敦子をめぐっては、これまで松山巖による評伝、湯川豊による担当編集者としての読解、大竹昭子による須賀の足跡をたどる旅の記録と、深い交流のあった人びとによる哀惜と追悼の言葉が紡がれてきた。

(集英社・2700円) わかまつ・えいすけ 68年生まれ。慶大卒。東工大教授。批評家。著書に『悲しみの秘義』『小林秀雄 美しい花』など。 書籍の価格は税抜きで表記しています

齡(よわい)60を越えてから纏(まと)めた第一作品集『ミラノ 霧の風景』で一躍注目をあつめ、69年の生涯を終えるまでの歳月7年をどう受けとめるか。短いが稠密(ちゅうみつ)な「作家」活動期間との見方が大勢を占めるのは、須賀の生涯をその文章と重ねて「物語」として読む姿勢がもたらす現象かもしれない――若松英輔の労作は、それを気づかせてくれる。

生前面識はなく著訳書も読んだことのなかった若松が描き出そうとしたのは、「信仰者」にして「求道者=異端者」須賀敦子のすがた、そしてこれまでほぼ論じられることのなかった須賀の「思想的役割」である。そのために注目するのが、「キリスト者となっていく道が彼女の生涯とは別なところでも開かれていたこと」である。

須賀の卒業論文に替わる訳業ウィラ・キャザー『大司教に死来る』、『聖心(みこころ)の使徒』誌上でのトマス・マートンをはじめとするカトリック系思想家の翻訳紹介――ここに須賀の「内なるキリスト教思想家と内なる批評家」が鍛えられる「道程」を見る重要性を説く。それが須賀の後半生を貫くエマニュエル・ムーニエの思想との「共振」となり、ミラノでのカトリック左派運動参加を準備したというのが若松の見立てである。

それゆえ『コルシア書店の仲間たち』を「代表作」と位置づけ、中から繰り返し「銀の夜」を引きながら、そこに自身もまた「その歴史の一部になった」「カトリック左派の精神とその伝統」を生きる須賀の「祈りと共同体の物語」を読む。

そして最後の著書『ユルスナールの靴』を須賀の「すべてが凝縮され」た「異端の書」にして「遺言」であると見る。「霊魂の闇」という言葉に神秘家ボナヴェントゥーラの影を、「たましい」とあればランボー、ダンテにブルーノ、さらには内村鑑三、聖フランチェスコの思想と言葉を参照しつつ、「正統なる異端」の系譜に須賀を据えていく。

「霧」を「此岸(しがん)と彼岸(ひがん)をつなぐもの」という若松もまた、須賀の「終わらない巡礼」の同行者として歩んでいる。

《評》東京外国語大学名誉教授 和田 忠彦

 

 

すばる 

「思想家・信仰者のたましいに深く下りていく」

若松英輔『霧の彼方 須賀敦子』最相葉月

 1990年、須賀敦子が第一作『ミラノ 霧の風景』を発表したとき、「ほとんど一撃を以て読書界を圧倒した」と現代ギリシア詩の翻訳で知られる中井久夫が書いている(『時のしずく』)。それまではギンズブルグなどイタリア文学の翻訳者として、また、川端康成や谷崎潤一郎など日本文学のイタリア語訳者として、知る人ぞ知る存在だった。生前に出版された自著は5作。69歳で亡くなるまでわずか8年間の作家生活だった。
 これが何を意味するかといえば、著作だけ読んでも、須賀がどんな思想をもち、どんな人生を生きた人かはわからないということだ。没後に編まれたエッセイ集や近しい人々による回想記はあるものの、読むほどに、何か決定的なことをつかみきれていないという気にさせられる作家だった。
『霧の彼方 須賀敦子』はその空隙を埋めるだけでなく、これまでの須賀敦子像に大幅な修正と語り直しを求める評伝ではないか。
 理由は二つ。まず著者は須賀の5作をエッセイとは呼ばない。近代日本文学に新たな地平をひらく「新しい意味と可能性を蔵した私小説」と位置づけ、須賀が虚構によって「事実を真実の経験に昇華する」手法を発見し、作家となるまでの精神の軌跡をたどっていく。
 また、翻訳がたんにイタリア文学の紹介ではなく、はじめからある目的に照準が定められていたことも今回明らかになった。須賀は大学院時代にパリに留学し、イタリアへ行き、帰国して再びイタリアに渡る。2度目の渡欧までの3年間はこれまで顧みられなかったが、著者はカトリック信徒の共同体の機関誌に寄稿された文章をひもとき、この時期に「彼女の内面で文筆家の才能がたくましく芽吹き、キリスト教思想家と文学者、そして信仰者の境涯が一つになりはじめた」ことを浮きぼりにした。
 初めて寄稿した訳文「病者の使徒職」は、病気になって自分の役割と生きる意味を実感した原著者P・シャルルが神に捧げる手紙として書いたもので、須賀に「弱き者、悲嘆を生きる者の存在を通じて、世に光がもたらされる」地平があるという気づきを与え、信仰者としての原点になった文章だという。
 もっとも注目したいのは、須賀がトマス・マートンの日本最初期の翻訳者だったことだ。マートンは諸宗教との対話を実践したトラピスト会の司祭で、現代のカトリック教会を方向付ける第二バチカン公会議の思想を準備した、20世紀宗教界の「霊性の巨人」である。
 須賀がパリにいた1950年代は、30年代に始まった、聖と俗の垣根を取り払おうとする「あたらしい神学」を社会的な運動に進展させた哲学者エマニュエル・ムーニエの思想が、カトリック学生のあいだに熱病のように広がっていた。ムーニエが提唱する人格主義は、「人格/ペルソナ」を有していることにおいて万人は平等と説く。真の普遍(カトリック)を目指す思想を目の当たりにした須賀は、日本のカトリック界の思想的貧困に気づき、翻訳で貢献したいと願ったのである。
 これらの原典を掲載していたのが、ミラノのコルシア書店が発行する冊子だった。書店の創設者で詩人のダヴィデ神父や須賀の夫となるペッピーノら「カトリック左派」と呼ばれる人々を知るためにも、この時期の翻訳を見落とすことはできない。キリスト教がわからなければ須賀の文学がわからないわけではないが、須賀が果たした思想的役割を見ずに作品だけ論じても、「根を離れた切り花のような何かを瞥見することになりかねない」とは、なんと辛辣な批評だろう。
 代表作といわれる『コルシア書店の仲間たち』もたんなる回想録ではない。伝統にとらわれ、社会の進展に背を向けてきた教会を「生きている時間」に合わせるために対話を重ね、突破口を開いた「霊的修道士たちの物語」だと著者はみる。昨年、来日した教皇フランシスコが宗教各派はじめ多様な人々と交流する姿が報じられたが、「普遍」を目指して闘った人々の祈りによって実現した光景だと思うと感慨深い。書店を切り盛りしていたペッピーノと須賀は、まさに改革の当事者だった。
 著者は二人の絆を丁寧に描く。鉄道員の貧しい家に生まれた夫とその家族をめぐる物語は、夫との別れが突然であるだけに切ない。二人が愛したユダヤ系の詩人ウンベルト・サバの人生に、キリスト教とユダヤ教で神のはたらきを意味する言葉「風(プネウマ)」を重ねながら須賀の悲しみに深く下りていくくだりは、同じキリスト者で詩人である著者でなければ表現できない彼方の世界だろう。
 川端康成との出会いも須賀に重要な示唆を与える。亡き夫の話になり、「あのことも聞いておいてほしかった、このこともいっておきたかったと、そんなふうにばかりいまも思って」という須賀に川端はいった。「それが小説なんだ。そこから小説がはじまるんです」。
 川端の言葉は時間をかけて醸成され、須賀は、「自分の悲しみを深化させることしか他とつながる道はなく、他とのつながりによってしか自分の悲しみは深化しない」と気づく。帰国後は貧困者を支えるエマウス運動に没頭するが、須賀にとって、それはごく自然で当たり前の行動だったのだと思えた。
 著者はこれまで、霊性、すなわち「宗派的差異の彼方で超越者を希求すること」(『霊性の哲学』)を主題に、生と死を真正面から問うた鈴木大拙や吉満義彦ら、多くの哲学者や思想家を論じてきた。本書でも霊性は鍵語で、そこには現代の宗教や文学や哲学が人々の悩み苦しみに十分答えられていないという著者の切実な思いが見てとれる。夫の急逝によって神の沈黙という「霊魂の闇」に向き合った須賀が、どのように悲しみと向き合い、どんな言葉を杖に再び歩き始めたのか。須賀の生涯に生きる手がかりと希望を見出す読者は多いだろう。
 かつて私は著者の『イエス伝』を読み、福音書は異教徒のためにも書かれたという視点に目を開かれ、聖書の森に分け入ろうと決意した。今回もまた、新たな扉の鍵を開けてもらった気がしている。

 

 

 

 

Wikipedia

須賀 敦子(1929119(戸籍上は21[1] - 1998320)は、日本随筆家イタリア文学者。 従兄弟には、考古学者で同志社大学名誉教授の森浩一がいる。

20代後半から30代が終わるまでイタリアで過ごし、40代はいわゆる専業非常勤講師として過ごす。50代以降、イタリア文学の翻訳者として脚光を浴び、50代後半からは随筆家としても注目を浴びた。2014年には、イタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。

l  経歴[編集]

大手の空調・衛生設備業者、須賀工業(旧須賀商会)経営者の家に生まれる。カトリック系の学校に通い、後にカトリックに入信(洗礼名はマリア・アンナ)。教会での活動に打ち込みながら聖心女子大学で学んだ後、自分の進路を決めかねていたが、1年後慶應義塾大学大学院社会学研究科の修士課程に進学。フランスの神学にあこがれてパリ大に留学するために慶應を中退するも、パリの雰囲気が肌に合わず、次第にイタリアに惹かれるようになる。1954年の夏休みにはペルージャでイタリア語を学び、イタリアへの傾倒を決定的なものとする。26歳の時に一旦日本に戻るが、29歳の時に奨学金を得てローマに渡る。この頃からのコルシア書店関係の人脈に接するようになる。

1960年、後に夫となるジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)と知り合う。この年の9月にはペッピーノと婚約し、翌年11月にウディネの教会で結婚。ミラノに居を構え、ペッピーノとともに日本文学のイタリア語訳に取り組む。しかし1967年にはペッピーノが急逝。1971年にはミラノの家を引き払って日本に帰国する。

帰国後は慶大の嘱託の事務員を務めながら上智大学などで語学の非常勤講師を務める。専業非常勤講師の状況は1979年、50歳になるまで続く。1979年に上智大学専任講師、1981年に慶大にて博士号取得。1985年、日本オリベッティ社の広報誌にてイタリア経験を題材としたエッセイを執筆。以降はエッセイストとしても知られる存在となっていく。1997年に卵巣腫瘍の手術。翌年3月、心不全のため死去。

l  家族[編集]

祖父 須賀豊治郎(初代) 須賀商会(須賀工業の前身)創業者

父親 須賀豊治郎[2](二代目:大正14年、初代豊治郎の死後家督を嗣ぎ前名「彦一」を改め襲名) 日本の近代的な上下水道を事業化した須賀工業の須賀家を継いだ。文学的素養があり、敦子は影響を受けた。仕事の視察で世界一周をし、ヨーロッパの素晴らしさを敦子によく話していた。

母親 万寿 実家は豊後竹田の武士であったが、大阪に出てきた。

叔父 藤七、栄一、保 

夫 ペッピーノ - 本名・ジュゼッペ・リッカ。貧しい鉄道員の息子。コルシア・ディ・セルヴィ書店の仲間として知り合い、1961年に結婚。日本人とイタリア人の結婚は当時珍しく、テレビ放映された。夫の家族はミラノ郊外の薄暗い鉄道官舎に暮らしており、敦子は彼らを通じて貧しさを初めて知る。また、夫に日本文学の翻訳を勧められ、25冊を訳した。結婚6年にして41歳で病没。

妹 良子

弟 新(あらた) 須賀工業元社長

l  年譜[編集]

兵庫県芦屋市生まれ(出産病院は大阪市)、西宮・東京で育つ。東京では俳人原石鼎の隣家に住んだ。

小林聖心女子学院に入学。1937、父の転勤に伴い東京都麻布に転居。併せて聖心女子学院に編入。

戦争勃発し、航空部品工場に動員される。一時期疎開のため兵庫県夙川に転居。再び小林聖心女子学院で学ぶ。

1945、東京に戻り、聖心女子学院高等専門学校英文科から聖心女子大学外国語学部英語・英文科に進む(寄宿舎生活を送る)。

1947、在学中にカトリックの洗礼を受ける。

1951聖心女子大学第一期生として文学部英文科を卒業(同大第一期生には中村貞子=緒方貞子、後輩に正田美智子=上皇后美智子がいた)。卒論代りにウィラ・キャザーを翻訳。カトリック学生連盟所属。

1953慶應義塾大学大学院社会学研究科中退。貨客船平安丸で渡仏し、政府援助留学生としてパリ大学文学部比較文学科で2年間学ぶ。新しい女性の出現と新聞に報じられる。

1955、帰国。NHK国際局欧米部フランス語班常勤嘱託。

1956光塩女子学院英語講師。翻訳活動開始。

1958ローマ、レジナムンディ大学聴講生。大学の女子寮で暮らす。ミラノのサンカルディア書店

1960ミラのサンカルロ教会のコルシア・ディ・セルヴィ書店勤務。同店は第二次大戦レジスタンス運動を行なったカトリック左派運動の中心的存在ダビデ神父が作った書店で、革命的拠点を目指す自由な活動により教会から圧力を受けていたが人々には支持されていた。この書店の活動を日本に伝えるため、個人誌「どんぐりのたわごと」創刊。

1961、ジュゼッペ・リッカと結婚。

1964年 夫ジュゼッペ・リッカと協力して、夏目漱石森鷗外樋口一葉泉鏡花谷崎潤一郎川端康成中島敦安部公房井上靖庄野潤三などをイタリア語訳。

1967、夫病死。中国の文化大革命の影響でコルシア書店が急速に左傾化したことで教会から閉鎖の圧力を受け、次第に仲間が離散。

1971慶應義塾大学国際センター事務嘱託およびNHKイタリア語班嘱託。廃品回収で得た収入を貧民救済に使うエマウス運動を始める。練馬に「エマウスの家」を作り、若者たちと共同生活を送る。

1972、慶應義塾大学外国語学校イタリア語講師。

1973上智大学比較文化学科および大学院現代日本文学科非常勤講師。以後、京都大学イタリア文学科・聖心女子大学英文科・東京大学イタリア文学科・文化学院でも現代イタリア文学などを講じる。

1981、「ウンガレッティの詩法の研究」で文学博士

1982、上智大学外国語学部助教授(のち比較文化学部日本語日本文化学科教授)。当時の教え子の一人に歌手の早見優がいた。以後カルヴィーノアントニオ・タブッキウンベルト・サバなどを日本語訳。

1989、上智大学比較文化学部教授。同年、ナタリア・ギンズブルグ『マンゾーニ家の人々』翻訳でピコ・デラ・ミランドラ賞。選考委員は加藤周一都留重芦原義信

1991、『ミラノ 霧の風景』で女流文学賞山田詠美『トラッシュ』と同時受賞)。選考委員は瀬戸内寂聴田辺聖子阿川弘之大庭みな子佐伯彰一。また講談社エッセイ賞も受賞(伊藤礼『狸ビール』と同時受賞)。選考委員は丸谷才一井上ひさし大岡信山口瞳

1994地中海学会賞。

1998心不全により69歳で死去。

l  著作一覧[編集]

l  単著[編集]

『ミラノ 霧の風景』 白水社1990白水Uブックス1994

『コルシア書店の仲間たち』文藝春秋1992文春文庫1995、白水Uブックス、2001

『ヴェネツィアの宿』文藝春秋、1993、文春文庫、1998、白水Uブックス、2001

『トリエステの坂道』みすず書房1995新潮文庫1998、白水Uブックス、2001

ユルスナールの靴』河出書房新社1996河出文庫1998、白水Uブックス、2001

『イタリアの詩人たち』青土社1998、新装版2013

『遠い朝の本たち』筑摩書房1998ちくま文庫2001

『時のかけらたち』青土社、1998

『本に読まれて』中央公論社1998中公文庫2001

『地図のない道』新潮社1999、新潮文庫、2002

『こころの旅』 角川春樹事務所「ランティエ叢書」、2002、ハルキ文庫、2018

『霧のむこうに住みたい』河出書房新社、2003、河出文庫、2014 

『塩一トンの読書』河出書房新社、2003、河出文庫、2014

『主よ一羽の鳩のために 須賀敦子詩集』河出書房新社、2018

全集・作品集[編集]

『須賀敦子全集』 8+別巻、河出書房新社(20002001

河出文庫(20062008、別巻2018

ミラノ霧の風景、コルシア書店の仲間たち、旅のあいまに

ヴェネツィアの宿、トリエステの坂道/エッセイ 19571992

ユルスナールの靴、時のかけらたち、地図のない道/エッセイ 19931996

遠い朝の本たち 本に読まれて 書評・映画評集成

イタリアの詩人たち、ウンベルト・サバ詩集ほか

イタリア文学論 翻訳書あとがき

どんぐりのたわごと 日記

書簡 年譜 ノート・未定稿 初期エッセイほか

別巻、対談・鼎談(19921998

『精選女性随筆集9 須賀敦子』文藝春秋、2012川上弘美

日本文学全集25 須賀敦子』河出書房新社、2016池澤夏樹個人編集

『須賀敦子エッセンス』河出書房新社、2018湯川豊

1. 仲間たち、そして家族、2. 本、そして美しいもの

訳書(日本語訳)[編集]

G.ヴァンヌッチ編『荒野の師父らのことば』中央出版社 ユニヴァーサル文庫、1963

ジャック・マリタン/ライサ・マリタン『典礼と観想』エンデルレ書店、1967

ブルーノ・ムナーリ『木をかこう』至光社、1982

ブルーノ・ムナーリ『太陽をかこう』至光社、1984

ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』白水社、1985、新版1992、白水Uブックス、1997 

ナタリア・ギンズブルグ『マンゾーニ家の人々』白水社、1988、新版1998、白水Uブックス(上下)、2012 

アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』白水社、1991、白水Uブックス、1993 

タブッキ『遠い水平線』白水社、1991、白水Uブックス、1996 

ギンズブルグ『モンテ・フェルモの丘の家』筑摩書房、1991、ちくま文庫、1998河出書房新社「世界文学全集」、2008

タブッキ『逆さまゲーム』白水社 1995、白水Uブックス、1998  

タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』青土社1995、新版19982009、河出文庫、2018

タブッキ『供述によるとペレイラは・・・』白水社、1996、白水Uブックス 2000

イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』みすず書房1997、河出文庫、2012 

ウンベルト・サバ詩集』みすず書房、1998、新装版2017

叢書『須賀敦子の本棚』[編集]

没後20年に池澤夏樹監修のもとに河出書房新社よりすべて新訳、初訳として刊行。須賀以外の訳者によるものも含むが、「須賀の思想の核となった作家・詩人・思想家による著作」として刊行されているため[3]、以下にすべて挙げる。

1巻:ダンテ・アリギエーリ神曲 - 地獄篇(第1歌~第17歌)』須賀敦子・藤谷道夫共訳(新訳)2018

2巻:ウィラ・キャザー『大司教に死来る』須賀敦子訳(新訳)2018

3巻:ナタリア・ギンズブルグ『小さな徳』白崎容子訳(新訳)2018

45巻:エルサ・モランテ『噓と魔法』(上・下)北代美和子訳(新訳)2018

6巻:シャルル・ペギー『クリオ - 歴史と異教的魂の対話』宮林寛訳(新訳・初完訳)2019

7巻:アリー・マッカーシー『私のカトリック少女時代』若島正訳(初訳)2019

8巻:シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』今村純子訳、2020

9巻:ダヴィデ・マリア・トゥロルドイタリア語版)『地球は破壊されはしない』須賀敦子訳(初訳)2019

日本文学のイタリア語訳[編集]

Atsuko Suga または Atsuko Ricca Suga として[4] - 新版のみ示す。

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』(La gatta, Bompiani, 2018

川端康成『山の音』(Il suono della montagna, Bompiani, 2019, 2002

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(Libro d'ombra, Bompiani, 2000

川端康成『美しさと哀しみと』(Bellezza e tristezza, Einaudi, 1985

阿部公房『砂の女』(La donna di sabbia, Guanda, 2012

谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』(Diario di un vecchio pazzo, Bompiani, 2000

Narratori giapponesi moderni, Bompiani, 1965(『近代日本小説家』- 短編集)- 夏目漱石『こゝろ』・森鴎外『高瀬舟』・樋口一葉『十三夜』・泉鏡花『高野聖』・国木田独『忘れえぬ人々』・田山花袋『一兵卒の銃殺』・志賀直哉范の犯罪』・菊池寛『忠直卿行状記』・谷崎潤一郎『刺青』・谷崎潤一郎『夢の浮橋』・芥川龍之介『地獄変』・井伏鱒二山椒魚』・横光利春は馬車に乗って』・川端康成『ほくろの手紙』・坪田譲治『お化けの世界』・太宰治ヴィヨンの妻』・林芙美子『下町』・丹羽文雄『憎悪』・井上靖『闘牛』・大岡昇平俘虜記』・三島由紀夫夏子の冒険』・深沢七郎楢山節考』・石川淳『紫苑物語』・庄野潤三『道』・中島敦『名人伝』[5]ほか

『須賀敦子が選んだ日本の名作 60年代ミラノにて』河出文庫202012月。作品13編とその解説

 

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