日本語を、取り戻す。 小田嶋隆 2021.1.30.

2021.1.30.  日本語を、取り戻す。

 

著者 小田嶋隆 1956年東京生まれ。コラムニスト。早大卒後、食品メーカー勤務などを経て文筆業を開始。著書に『ア・ピース・オブ・警句』『超・反知性主義入門』『ザ、コラム』など

 

発行日           2020.9.20. 第1版第1刷発行

発行所           亜紀書房

 

私たちが暮らす社会では、なぜことばがここまで空疎なものになってしまったのか!?

森友・加計、検事長の定年延長を巡る数々のデタラメ、新型コロナウィルスを巡るアレコレ、世界を、日本を跋扈するポピュリストたちのワンフレーズ、機能不全に陥っているメディア……。世の中を真摯にそして斜めに睨みつづける〈至高のコラムニスト〉が、雨後の筍のごとく湧いて出る様々な問題を、舌鋒鋭く、ユーモアいっぱいに斬り捨てる!

 

 

1.    あの人にさよならを。

Ø  言葉を扱うはずの「政治家」というお仕事

そもそも、自粛は他人に要請されるべきものではなく、他人に要請して良いものでもない。「自粛」はあくまでも本人が自分の意思で自分の行動を差し控えること。世間の空気を忖度したり、他者からの圧力に屈して活動範囲を狭める反応は「萎縮」と呼ばれるべきだし、自分以外の人間や集団に自粛を求める態度は「恫喝」「強要」というべき

3月以来あらゆる事態がとんでもない勢いで動いているが、世界中の政治家たちが強いメッセージを発信しているのを聞くにつけ、政治家が言葉を扱う仕事だということを改めて思い知らされる

メルケル(https://japan.dipro.de/ja-ja/themen/politik/-/2331262事態は深刻です。皆さんも深刻に捉えていただきたい。ドイツ統一、いや、第二次世界大戦以来、我が国における社会全体の結束した行動が、ここまで試された試練はありませんでした)に限らず、ジョンソンも朝令暮改も辞さずに細心の事態に適応推した政策転換を悪びれずに実行したし、トランプについても自分らしい率直な言葉で国民に語りかけている

政治家の言葉は、巧みでなくても、誠実であれば十分に伝わるはずのもの。せめて、正直に、自分の言葉で、真っ直ぐ語りかけて欲しい

 

Ø  この奇妙な政治家への感情

安倍晋三について書いたり考えたりするとひどく疲れを覚えるのは、思考の対象というより、感情の源泉だからだろう。感情が暴走するので文章は支離滅裂になる

安部の政治手法に苛立つ理由は、彼が政治家というよりアジテーターに見えるからだろう

安部の持ち出すスローガンは、具体的な政策というより、イデオロギーに近い何かに見える。「日本を、取り戻す。」という時の「日本」が具体的にどんな「日本」なのかは、受け手の国民の側に委ねられている。「戦後レジーム」というのも戦後的な体制や思想や取り決め全般をやんわりと包括しており、それを見直すことは、「保守」ではなく「革命」に近いので、若年層には受けるが具体的な姿は示していない

安部への感情は、アベノミクスや憲法改正という具体的な争点に宿っているのではなく、安部という触媒を介して、不可逆的な変化に向けて変容していくであろう世界を受け入れられるかどうかという思考実験に依存している

 

Ø  最大の罪は国の文化と社会を破壊したこと

安部政権に言いたいこと ⇒ 対米追従&対露弱腰外交は「売国」と言えるし、経済では消費税によってアベノミクスを炎上させたが、それ以上の罪は彼等の日常動作の中にある

行政文書の記録・保存制度の破壊、政治資金報告の欺瞞、正確な日本語を使って公の場で嘘をつかないという最低限の規範を放棄。この国の文化と社会を破壊した罪は計り知れない

 

2.    言葉と空気。

Ø  データは人生であり、墓碑銘である

データは、自分自身が生きてきた証でもあれば、私という人間の魂の反映でもある

森友事件では、財務省が情報システムを更新し、国有地売却関連の文書や記録データを消去するという。積み上げてきた過去の歴史を一切なくすとはどういうことか

現政権の最も大きな罪は、国会を愚劣な言葉がやり取りされる場所に変貌させたこと

「総理の強いご意向」を示唆する文書の存在が報道された時には、官房長官が「怪文書」と切って捨て、文科省の前次官がその真実性を証言すると、文書の内容には触れず当人の人格攻撃の言葉を並べ立てた

 

Ø  「共謀罪」がこともなげに成立してしまう背景

「共謀罪」への懸念が大きな声になっていないのは、この法案の危険性への認識が共有されていないからだろう。「一般国民を対象にしない」という与党側の説明を鵜吞みにしている

大多数の日本人が多数派なのは、自分が多数派であることを何よりも大切に考えている国民だからで、自分たちとは異なった行動をとり、相容れないマナーで世間と対峙している人々を「共謀罪」で捜査するのは、治安上も望ましいと考える

 

Ø  残るならなくしてしまえ議事録を

現政権の最大の問題点は、個々の閣僚の言動の是非や、実行している政策の評価は別にして、しかるべき行政の手続きを公然と無視しているところ

公文書を「破棄」し、「隠蔽」し、「黙殺」し、「改竄」するのに加えて、今回は「非作成」

官僚の仕事はすべて文書として記録されるのが文書主義の建前で、行政の評価や引継ぎが可能になるし、間違っても記録に基づいて訂正ややり直しができる

経産省内部で、議事録不作成の指示が出たという報道にもさしたる反響がなかったということは、自分たちが行政の怠慢に慣れていることを誰もが不思議に思っていないことで、世の中が腐敗しつつある

 

Ø  明るみに出すための暗闘

現政権が行政の根幹を支える礎石たる「データ」を軽視することは、公的機関内部に蔓延している「倫理崩壊」の深刻さを物語る

ミスを犯すことはあり得ることだが、ミスがミスとして放置されることは、ミスそのものとは別の問題を引き起こす。不祥事の責任が問われず、ミスを犯した人間が処分されず、行政上の瑕疵が不問に付されるとしたら、ミスは永遠に繰り返されるだろうし、ミスを防ぐ手立ては事実上消滅する。発生したミスを検証し、責任者を処分することが重要

 

Ø  プチホリエモンたちの孤独

先の震災以来、我々の国が、極めて内圧の高い相互監視社会に変貌している感じを抱く

一例として、「デモ」を危険視し、「政治的であること」を異端視するマナーが、一般市民のための「常識」として共有されつつある現状を上げることができる

「政治的」という言葉が「反政府的」の意味でのみ用いられるようになり、我々は「政治的」であることを自ら抑圧しながら、結果として自分の意図とは関わりなく、全員が「お上」の手先となって「非国民」を自動的にあぶり出す社会を形成し始めている

21世紀の日本人は、普通の声量で、激することなく、互いの話に耳を傾けながら政治の話をするマナーを失って久しい

政治がカジュアルな話題としてやり取りされている場所では、政治的な見解の違いは、致命的な対立を招きにくいもの

でも参加を「税金泥棒」呼ばわりするホリエモンは、「デモに参加している奴の大半は実質的に納税額より給付される額の方が多い」と説明し、高額納税者万能思想を漏らしたが、この尊大な思想に乗っかってデモ隊を罵倒しているフォロワーはそこまで理解していない孤独な存在

 

Ø  破棄、改竄、受領拒否、お次は?

野党からの質問に対し、政権側が「回答を差し控えたい」と言う回答は、言論の府たる国会の存在意義そのものの全否定。野党の質問を黙殺したのでは議論が成り立たない

自衛隊の日報事件以降、公文書や行政記録を「廃棄」することによって野党やジャーナリズムからの批判の声をはぐらかすことが常態化

次いで、森友問題では、財務省の決裁文書を「改竄」

文書記録が消えた国では、民主主義は死滅する

自ら任命した審議会が上げてきた報告書を「受け取らない」という新基軸

 

Ø  観測気球は魔の三角地帯に消えた

197月萩生田幹事長代行が、改憲シフトのための衆院議長交代を示唆したのは暴言だが、現政権では「首相側近」がある日突然観測気球的に前のめりの発言をし、炎上騒動を党役員が火消しにかかるというのが定例化、いずれ観測気球が有効に利用される

現政権の特徴の1つは、党の役員や内閣の重要閣僚よりも、総理の個人的な側近の政治家や官僚に権限が集中している点

 

Ø  ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか

大震災以降、怒りという感情をかつてないほどネガティブに評価する社会に変貌している

ある時点から、日本人が「感情」という要素を軽んじる方向に舵を切ったことが、この国の社会に変化をもたらしている

昭和の人間は正直で、他者に対して寛容だったが、現代の日本人は、自分が他人に迷惑をかけることを死ぬほど恐れている半面、他人が自分に及ぼす迷惑を決して容認しようとしない

「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているは、飼い馴らされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会ということ

義務としてニコニコしている人間が少なからずいると思う

真顔ほど正直な表情はない。真顔を不機嫌と解釈する人間が増えたのは、単に社会の不正直さの反映に過ぎない

 

Ø  黒川弘務検事長の定年延長問題、トンデモ人事の裏のウラ

安部政権が、法改正を経ずに、閣議決定で検事の定年を延長する挙に出たのは、身内や親安部の産経新聞ですら批判のやり玉に挙げたほどだが、ガチで自分が逮捕される近未来を心底恐れたためで、なりふり構わず国会答弁を踏みにじる勢いで押し通そうとした

それほどまでにして恐れた逮捕事案とは何なのか、興味は尽きない

 

3.    ワンフレーズの罠。

Ø  経済政策を隠蔽する用語としてアベノミクスは役割を果たしている

経済政策としてのアベノミクスの評価は分からないが、あらゆるメディアに取り上げられたことは、経済政策を隠蔽する用語として間違いなく大成功

アベノミクスは安部経済政策の総称であって、それ自体は何も言っていないに等しい。それをメディアまでが、政府の打ち出す経済政策に端的なタイトルを付与する業務を放棄して、政府の言葉を丸呑みしてそのまま垂れ流しにしている

アタマに人間の名を冠した言葉を安易に流布させてしまうと、そのタイトルが指し示す内容について吟味することが次第に困難になるのは問題、ましてやそれが現役の総理であれば猶の事、一定量の「権威」と「称賛」を含む

 

Ø  「安保はまだ難しかったかい?

安全保障関連法案が強行採決されたが、事前の世論調査の数字を見て、安部以下が国民の「理解が進む」とか「進んでいない」という言葉を使っている。この法案に関しては当初から政府関係者の間で「理解」という言葉を連発

「理解」には、法案を「聖典」視させる一種の詐術が含まれる。理解できれば支持される、支持されないのは国民の理解不足だという論法

この言葉を多用するのは基本的に「異論」を認めない人間で、「理解」という言葉の前後には、自分の側が教える立場で、相手の側が教えを乞う立場だという暗黙の前提がある

 

Ø  ダブルバインド、それも一つの選択肢

「駆けつけ警護」には違和感、駆けつけない警護はない

日本の安全保障を巡る独特の概念で、軍隊ではない自衛隊が戦地に派遣された際、実質的に武力を行使する友軍の救援作戦に従事することを想定

自衛隊が派遣された南スーダンでは、167月に「衝突」はあったが「戦闘行為」はなかったことになっている。戦闘行為が生じていない場所にPKO部隊を派遣する必要があるのか

戦闘地域に自衛隊を派遣できないという憲法上の制約を回避するための強弁

「駆けつけ警護」に伴って生じる「武器使用」も、「軍事行動」ではないという奇天烈な解釈

外務省は国際社会に向けて「ロジスティック・サポート」という言葉を使いながら、日本向けの政府の翻訳では「後方支援」であって、「戦闘行為」ではない

 

Ø  「トランピズム」という呪い

トランプの就任                    演説は、7歳児の英語で起草され、構文が単純でセンテンスが短く、平易な単語を使い聞き取りやすかった。アジ演説に近い

トランプは遅れて登場したオレンジ色のパンクス(パンクミュージシャン)であり、破壊衝動に出口を与える存在であり、つまるところ現代という時代そのものに対して向けられた呪いだということで、呪いである以上無礼で無知なほど純粋で、無頼であるほど魅力的

初期のパンクロックに熱狂した70年代の先駆的なパンクスが、新しい音楽スタイルを造形するより、とにかく既存の音楽の破壊を願ったように、トランピズムに乗る人々が望んでいるのも、新たなアメリカ像や新機軸の政策ビジョンである以上に、とにかく既成の秩序の「破壊」と正統的な価値の「逆転」であり、グレートリセットなのだろう

 

Ø  「小池劇場」はポピュリズムの悪魔結合である

小池都政の支持率が高い

常識の経年劣化により、現実感覚が、ナマで起こっているリアルな現実と、微妙な部分で噛み合わない ⇒ 言葉遣い一つとっても、意味が変化してきている

小池支持というポピュリズムが都民を支配しているのはなぜか

ポピュリズム批判は、かなりの度合いで「愚民批判」を含むので、そのまま民主主義自体への殺意に変貌しかねない点に留意

橋下大阪府政独特の地域政党の周辺に発生するもので、大阪だからこそ起きた集団ヒステリーであり、彼の地の人々が長年味わってきた閉塞感と屈辱感へのあから様な反動形成と決めてかかっていたら、都政にも同様の現象が出来、メディアまでがこぞって小池陣営に籠絡されているのには驚き。小池のメディア操作術は、あざとさ、いかがわしさ、うさん臭さ、えげつなさ、押し付けがましさに溢れている

民放各局のワイドショーが丸ごとそっくり小池万歳の翼賛体制に陥り、失業者と専業主婦と年寄りしか見ていないワイドショーはその視聴者ゆえに影響力は絶大

小池氏は、政治の師である小泉流のわかりやすさに加え、橋下に通じるメディア扱いのしたたかさを併せ持ち、小池と橋下の悪魔結合の様相

 

Ø  佐川氏証人喚問視聴記

無意味なパフォーマンスだったが、エンタテインメント目的の軽演劇として、また我々社会に底流する不条理を視覚化した極めて批評的なドキュメンタリー映像として評価してみると、示唆するところの多い不規則ノイズ満載の制作物だった

喚問を通じて明らかになった「事実」はゼロだったが、ナマ動画から実に多大の「感想」を得ている。政局はしばらく、「何かが明らかになる」ことによってではなく、「何一つ明らかになっていない」ことへの苛立ちや諦念がもたらす複雑な波及効果によって動くことになるだろう

憲政史上前例のない不毛な対話で蓄積された壮大な徒労感は、この先様々な局面で噴出せずにはおかない

無内容で薄っぺらな定型句の繰り返しが、聞き手にどんな印象をもたらしたかを考える

「敬語」の使い方 ⇒ 過剰な敬語を使う人間のうさん臭さ、丁寧語の裏に隠されているもののけったくその悪さを感じ、国会という議論の場の存在意義を丸ごと疑わしめることになるという意味で、非常に破壊的な言葉

敬語を聞かされる側の人間が、その言葉の堅固な様子から、「冷たさ」や「隔絶の意思の表明」や「人として触れ合うことの拒絶」や「形式の中に閉じこもろうとうする決意」を感じる

過剰な敬語の背後に、必死で守ろうとしているものの正体を忖度せざるを得ない

厳しい質問に定型句で無表情に回答していた佐川が、最後に質問者が「公務員の信頼を失墜させるに値するが、注目して視聴している全国の公務員に向けてメッセージを」と促されて、予想外の方向からの質問に意外だという表情で、「公務員の信頼を貶めることがあったとすれば申し訳ない」と初めて頭を下げた

 

Ø  「言い訳にすぎない」と言えるのは、自分だけ

東京都が制作して東京駅に掲出したポスターに、パラバドミントンの女子選手を実名で載せ、キャッチコピーが「障がいは言い訳に過ぎない。負けたら、自分が弱いだけ」

すぐに炎上したが、キャッチコピーの文章はどちらも、当事者による自戒の言葉だからこそ意味を持つので、他人が言ったら障碍者への迫害になる

にも拘らず、東京五輪招致決定以来、この種の文言を大書したポスターが掲出されるに相応しい空気が都内に蔓延し始めている。アスリートを前面に押し出して、「頑張る人を応援する」という一見前向きなメッセージを発信しつつ、その実、「頑張らない人」や「現状安住」を攻撃する言説を広めようとしている人々が各所に現れ始めている

松本人志が、「自殺者をついつい庇ってしまいがちだが、死んだらみんなが庇ってくれるという風潮が嫌で、もっと死んだら負けということを教えていくべきだ」と主張して言い続けているが、希死念慮を抱く人間にとっては勝ち負け以前に死が頭から離れなくなっていることが多く、そういう人間を鞭打つ結果になり兼ねない

自己超克的な人生観は他人に求めるに相応しいものではないし、上の者が下の者に求めると迫害になる

 

Ø  民主主義は重箱の隅にある

沖縄の基地移転の賛否を問う県民投票で、反対が72%、投票率が52.5%の結果に対し、反対派有権者の38%しかないと自民党議員が主張。何を分母に使うかは数字の遊びに過ぎない。投票率と得票率はそれぞれ別の意味を持った数字で、民意は「真摯」に受け止めなければならない

岩屋防衛相が、「沖縄には沖縄の民主主義があり、国には国の民主主義があり、それぞれに民意に対して責任を負う」と言ったのは、筋が悪すぎる。「利害」なり「立場」であればそれなりの説得力があるが、「民主主義」というと文意が狂う。民主主義の概念自体が溶解する

重箱の隅をつつく言葉遊びでと思うかもしれないが、民主主義を実現するための政治とは、つまり重箱の隅を整理する議論に他ならない。「民意」や「民主主義」といった厄介な言葉について、言葉で遊びを繰り返すことこそが、民主政治を具現化するための最も確実な方法なのだ

 

Ø  代案なしで文句言ったっていいじゃん

193月、米下院がトランプの疑惑を追及するという記事の最後に取ってつけたように、「1院を支配しながら政策の代案を示さずに政権追及に終始すれば、世論の批判の矛先が民主党に向かう可能性もある」と締め括っていたが、疑惑追及に代案は不要。文章を書く専門家であるはずの新聞記者にしては、無神経に不必要なことを書き立てた誹りは免れない

 

Ø  敵は中国か、ウィルスか

203月麻生副総理が財政金融委員会で、「武漢発ウィルスで、『武漢ウィルス』が正確な名前」と発言。国際ウィルス分類委員会では「SARS-CoV-2」、WHOでは病気の症状を「COVID-19」と命名。国際機関は特定の国名や地域名を冠した言い方を戒めているし、発生地の特定は極めて困難な作業

国際協力の枠組み作りに勤しむべき政治家、しかも副総理の発言とあらば国家の信用に関わるにもかかわらず、メディアの反応は鈍い

 

Ø  忖度は国民のお仕事です

204月の対コロナ第1回緊急事態宣言発出の際の記者会見で外国人記者が、「世界はロックダウンしているが、安部の対策は一か八かの賭けのように見える。失敗した場合の責任をどうとるのか」と質問したのに対し安部の答えは、「最悪の事態になった場合、私達が責任を取ればいいというものではない」という驚くべきもの。一国のリーダーがそこまで無能無責任では恥晒しもいいとこなので、思わず外国人向けの「意訳」を考えてしまった

「辞任するだけが責任を取る唯一の方法ではない」という辺りに真意があるのだろうが、そういうマトモな言い方で自身の意図を説明できないのは由々しき問題

 

Ø  麻生さんを擁護してみようと思う

麻生首相時代、誰もが麻生をバカにして半笑いの上から目線で嘲笑、揶揄、辱め、からかっていた。漢字の読み違えは誰でもあるが、普段の態度が「偉そう」に、「いかにもモノを知っています」っぽく、もったいぶって喋っているその態度が「小面憎い」からこそ、何かでミスった時の失点がより劇的に見える

粋がったおぼっちゃまが滑って転んでそれでも肩を聳やかして強がっているみたいな姿がこっちのいじめ欲求を刺激してやまない

問題は、誤読そのものではなく、誤読を改めずにここまで生きてきた生き方にあるのかもしれない。誤読を改めないのは無知だからではなく、独善家だからかもしれない

若い人の無知は本人の問題だが、老人や偉い人の無知は、それをサポートする組織の問題、ひいては彼を取り巻く権力構造の問題

暴君の城壁は「無謬性」というフィクションで固められているから、間違いを指摘したり誤読しそうな漢字にルビをふったりするのは難しい

 

4.    がんばれ、記者諸君。

Ø  無視できない一部国民のメディア観

「マスゴミ」という言葉がネット上の各種コミュニティで盛大に共有されているのを、マスコミは無視してはいけないし、一定の支持を受けている背景の分析が必要        

あからさまなメディア介入を繰り返す現政権の強気さの背景には一般国民のメディア不信がある

放送法の「不偏不党、真実及び自律を保障」するとの規定は、放送事業者や番組制作者に課せられた「義務」ではなく、これらの原則を守るよう求められているのは政府などの公権力

にも拘らず、安部の答弁はこの基本を理解せず、権力によるマスコミ統制が当然の言い方をしている。それでいて内閣支持率が低下するわけでもない

マスコミを「権力者」として敵視している人々が一定数いる事実が重要で、マスコミ攻撃が世間の喝采を浴びるのは、既得権益者を懲らしめようとしているのだ

 

Ø  忖度と揚げ足取りで日本は回る

今村復興相が東日本大震災について、「東北でよかった」と発言して辞任したが、全文を読めば趣旨は明確で、前回の「(自主避難は)本人の責任、訴訟でも何でも起こせばいい」より罪はずっと軽いが、前回は東電株保有まで判明、利益相反が露見したこともあって、その時点で即辞任すべきだった。任命権者のメンツに拘り処分を先送りした挙句のドタバタ辞任劇に見え、前回は記者会見の場での暴言だったのに対し、今回は首相も出席した派閥パーティーで繰り出されたことで首相の顔をツブしたための更迭

「被災者の感情を踏みにじる発言はセーフでも、首相の体面を損なう発言はアウト」というのが現政権の任免の基準であり、まるで独裁国家の恐怖人事の水準

その関連で、今村のボスである二階幹事長が、「言葉の誤解があった場合、いちいち首を取るまで張り切らなくてもいい」と発言し、そんな記者はあらかじめ排除すべきとまで言ったが、あからさまなマスコミ批判、報道威圧発言は、明らかな報道の自由への圧力

幹事長の恫喝発言に対し、当のマスコミはたいして問題にしていないのは腰抜けの極と思うが、マスコミの「揚げ足取り」と官僚の「忖度」は一対の相互補完的な仕草

剥き出しの言葉を使う人間は、コミュニケーション能力の低い人間で、コミュ力の低い人間は障碍者と見做される社会で暮らしている。日本語という「場面によってどうにでも響く曖昧な」言語の曖昧さの中に責任や権限を融解させる気持ちの悪い社会を作り上げた

言葉が言葉としての本来の意味を喪失しているからこそ、その「真意」を「忖度」して職務権限の遂行に協力したり、その「揚げ足を取る」ことで責任を追及せねばならない

自民党内には、「二階から目配せ」「二階から鼻薬」という諺があるほど、権力者は「言葉」を介さない暗黙の示唆に徹し責任を取らず、現場の人間だけが「言葉」でしくじり責任を取らされる

 

Ø  「シルバー民主主義」の注意点

当初に比べて、「老害」のようなネガティブなニュアンスで使用されるようになった

警戒すべきは、若年層と中高年層の間に無理やり線を引いて分断を図ろうとする人々の論法で、誰かを悪者にする耳辺りのいい「正論」に過ぎない

テレビを見るのは老人で、政府批判報道が多くなったことで反政府寄りになったと決めつけ、シルバー・デモクラシーの弊害と批判する。高齢になるほど安倍政権の支持率は低くなっているが、それはテレビが政権批判報道の比率を高める以前からの現象で、最近(17年央)の調査では、支持率が最も低下しているのは1020代の女性

 

Ø  コラボTシャツが越えた一線

月刊誌『新潮45』が、LGBTを「生産性がない」と言って貶めた水田議員の差別的な論文を掲載したことで批判を浴び、批判に応えて「そんなにおかしいか水田論文」という特別企画で恥の上塗りをした結果廃刊に追い込まれたが、20世紀の思想と言論をドライブさせてきた一つの産業が死に絶えようとしている

講談社の女性ファッション誌『ViVi』のウェブ版と自民党がコラボした広告企画記事は、「どんな世の中にしたいか?」という問いに回答すると、同誌のモデルの政治へのメッセージが描かれたTシャツが当たるというもので、同社は取材に対し、「若い女性に自由な意見を表明する場を提供しただけで、政治的な背景や意図はない」と答えたというからあきれる

言葉を扱うこと専門家の出版社が、政党の広告を掲載して、「政治的な意図や背景がない」などとよく言えたもの。羞恥心も自己省察もない

これに対し、もっと政治をオープンに語る場を増やすべきといって好意的に見て、政党間の広告競争を煽る人がいるのはちょっと違う感じがする

政治家は議会における言論や、議員としての政治活動で競うべきで、雑誌広告の出稿量や、メディアへの資金投入量や、広告代理店を思うがままに動かす手練手管の多彩さを競うとすれば、「競争」が「政治」を劣化させる

出版も同じで、オリンピックや憲法改正を睨む巨大な広告収入を目の前にぶら下げられて、本来のあるべき姿を見失ってはおしまい

 

Ø  新世代のヒヨコが心配だ

『週刊ポスト』が「韓国なんか要らない」という特集記事を出した。中身は穏当で隣国との協調の大切さを訴えるものだったが、露悪的な見出しが問題

出版人は、「世間の空気」を出版倫理の根拠としている令和の末期症状と、その先にやってくるであろうカタストロフィこそ問題にしなければならない

テレビ、週刊誌がこぞって「嫌韓」に舵を切っている背景には、嫌韓ネタを好んでやまない購読者や視聴者の嗜好がある。メディアの偏向報道が先か、国民の狂躁が先かはニワトリと卵だが、新世代のヒヨコが、悪魔の翼を持って生まれてくることだけは間違いない

 

Ø  目くらまし大臣就任会見

19年安部の内閣改造では、NHKニュースの開始早々に速報の形で小泉の就任記者会見が報道され、本来の改造ニュースが霞んでしまったのは、改造の中身に種々問題を抱えているからで、官邸の「作為」が見え見えなのにもかかわらず、NHKは安易に受け入れた

近年のNHKの変節はより深刻かつ露骨

民放の夜郎自大とNHKの小心翼々は、一見正反対の行動原理のように見えるが、もたらされる結果に大きな違いはなく、何れもゴミみたいなネタをフレームアップして、大きな問題から目をそらす方向で、自分たちの存在意義を毀損している

 

Ø  セコくなった大臣の首取り

21世紀の不況下の報道メディア各社は、ニュースバリューの大きさや事件の重要性よりも、取材のやり易さや視聴率の高さを重視する方向にシフトしている

近年大臣が辞職に追い込まれる話がどんどんセコくなっているが、この傾向は政治不信よりも、報道不信を招いている。辞任の陰で、巨悪を取り逃がしている

 

Ø  サッカー監督に聞くべきは

イングランドでサッカーの監督が記者会見でコロナウィルスについての考えを聞かれ、「シリアスな問題についてサッカー監督の意見を聞きたがる風潮が理解できない」と答える。完璧な自己省察に脱帽。日本のワイドショーでお笑い芸人が政治家の発言を断罪したのとは大違いだが、問題は、専門家でもない人を連れてきてコメントさせるような番組を作ることにある。「24時間総バラエティ化」の一環。一般国民がそんなテレビを見て笑っている限り、いずれこの国は、世界の笑いものに成り下がっていく

 

Ø  なぜマスクは市場から消えたのか

東日本大震災来の極めて不安定な期間の中にあって、我々日本人は社会不安に対して強い「耐性」を身につけている。震度4程度の地震にはほとんど動じないし、流言飛語にも騙されなくなっている。今回のコロナ騒ぎでマスクやトイレットペーパーが店頭から消えたりする事実を目の当たりにしても、店頭に行列している人をよく観察すれば、誰もが冷静な表情を浮かべている。愚かだったのは、大騒ぎして描写し続けたワイドショーの見せ方

危機対応として当然の生活防衛のために備蓄しただけで、日本中の市場から在庫が焼失した事実は教訓として活かさなければならない。背景には、30年来の不況に対応するため、在庫と配送回数を極限まで切り詰める形での経営努力を続けてきた結果として、効率と引き換えに余裕を相当程度喪失したことがある

メディアは、新型コロナによる世の中の不具合や停滞を「大衆の愚かさ」に帰責させる「愚民論」を拡散していたが、我々はそれほど愚かではなかった

人々は懸命に振舞っている。にも拘らず、社会はうまく機能していない。責任を感じるべきは、逆境に極端に弱くなった「経済」、そして「政治」じゃないのか

 

 

 

 

 

(書評)『日本語を、取り戻す。』 小田嶋隆〈著〉

2020.11.7. 朝日

 空疎な説明は「非科学的」の典型

 タイトルから、巷に溢れる怪しげな日本語に警鐘を鳴らす本だと勘違いして読み始めたところ、良い意味で完全に裏切られた。

 著者が今まで発信してきたコラム33編からなる本書は、政治家の発言と、それを巡る新聞社に代表される報道機関の記事が、いずれも理解できないほど劣化しているにもかかわらず、社会がそれに慣れっこになってしまった現状を、一貫してややシニカルにしかし論理的に憂えている。

 著者は安倍前政権に対して極めて批判的であり、「いちコラムニストが、日本語の守護者として安倍晋三その人と対峙してきたスコアブックの如き書物になっている」と自認するほど。

 その批判自体の妥当性は別として、問題の元凶がそこで用いられている日本語の空疎さと無意味さにあるとの著者の結論には激しく同意する。その上で、本書のタイトルは「科学的であれ」と同義だと解釈した。

 科学とは、専門家が難しげな知識を振りかざして、勝手な結論を押し付けるものではない。仮に自分にとって自明であろうと、誰もが納得できるような証拠を提示し、論理的にその結論を導く過程こそが科学。自分の主張とは一見矛盾するような事実であろうと包み隠さず、その解釈を論理的かつ徹底的に議論し尽くすことが科学の方法論だ。

 言うまでもなくその方法論は、狭い意味での理系分野のみならず、社会のあらゆる局面で共有されるべきだ。それこそが科学的という言葉の本質なのである。「日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌」「国民に対して、起こっていることをまともに説明しようとしない」は、非科学的姿勢の典型例だ。残念ながら、その体質は現政権でも踏襲されたままらしい。

 著者は、報道側もその異常さに慣れてしまい、政権に「忖度」し「追及しやすいネタだけ追いかけ回してないか?」と畳み掛ける。今こそその疑問をはね返すような報道を期待したい。

 評・須藤靖(東京大学教授・宇宙物理学)

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 『日本語を、取り戻す。』 小田嶋隆〈著〉 亜紀書房 1760

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 おだじま・たかし 56年生まれ。コラムニスト。著書に『超・反知性主義入門』『ザ、コラム』など。

 

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