最後の社主 樋田毅 2021.2.9.
2021.2.9. 最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム
著者 樋田毅(つよし) 1952年愛知県出身。県立旭丘高卒、早大第1文社会学科卒。78年朝日新聞入社。高知支局、阪神支局を経て大阪社会部へ。大阪府警担当。グリコ森永事件の取材など”事件記者”として名を馳せ、87年阪神支局襲撃の赤報隊事件では取材班キャップ。京都支局次長、地域報道部・社会部次長、和歌山総局長。朝日カルチャーセンター大阪本部長を経て、12~17年大阪秘書役、17年退社。ジャーナリスト
発行日 2020.3.26. 第1刷発行
発行所 講談社
戦後、社主家と朝日新聞社の経営陣との間に生じた「確執」が歴代の経営陣をいかに悩ませていたのか、その事情は理解できます。私も、経営側から送り込まれ、動いた人間だったからです。しかし、経営陣と村山家との「闘い」の最終局面に立ち会い、時には理不尽でさえあった経営側の冷徹な対応ぶりに、悩み、考えることがしばしばでした(あとがきより)
第1章
深窓の令嬢
l 出会いの日
07年秘書課の主査として、村山美知子の世話係兼内情探索
l 「とんでもない世界に入ってしまった」
l 「御霊様」との会話
生活全般に強い拘りを持つ ⇒ 朝食のパンはウェスティン大阪のパンドミ、10枚切り
05年、85歳のとき邸内で転倒、車椅子生活に
邸内の御霊様でお詣り
l 思わぬ大失態
祖霊祭で車椅子の担ぎ手の1人が手を放して社主は転倒、軽い打撲で済む
l 「わからず屋のあばあさん」のお世話係
社会部からの転身人事は異例
社主から「私のことを本に書いてね」と言われた
第2章
「新聞王」の初孫
l 日本一のお屋敷町
20年、村山龍平の1人娘於藤と、岸和田藩主の岡部家から養子に入った長挙の長女として、有馬の別荘で誕生、日本一のお屋敷町といわれた御影で育つ
私立甲南幼稚園から私立甲南小学校へ
l 思い出の有馬の別荘
l アメリカ帰りの同級生
l プールでお点前
魚崎町の別荘にあったプールで父がお点前をし、姉妹で手伝った
l 負けず嫌いの妹
龍平は美知子を村山家の跡取りとして可愛がる
6つ下の妹・富美子は、美知子と対照的に活発でお転婆。2人で日本舞踊に熱中、歌舞伎座で公演もしている
第3章
凱旋行進曲
l 遂げたり神風
33年、甲南高等女学校進学。「朝日新聞社の顔」としても各種行事に参加
37年、純国産の朝日新聞社機「神風号」の東京―ロンドン最短時間の連絡飛行記録達成の祝賀行事に姉妹で参加
l 「不自由学園」
38年、自由学園高等科進学、寄宿舎に入るが、寮生活に馴染めず1年で中退。作曲家・呉(ごう)泰次郎の私塾に通って音楽理論や作曲を習う
l 海軍士官との結婚
48年、豊田貞次郎元海軍大将の二男・武田光雄と見合い結婚するも、光雄が新聞社の仕事に興味を示さず離婚。実際は於藤との間の諍いなどがあって家風に合わなかった
対外的には、美知子は生涯独身とされているが、73年の来賓挨拶で自ら過去を暴露している
第4章
夢の舞台を
l プロデューサー・ミチ
52年、姉妹でニューヨークへ。その年朝日新聞社の招きで来日し村山家と親密になった米国で大人気のワグネリアン・ヘレン・トローベル宅に滞在して3か月余りコンサートや歌劇を楽しむ。この時の経験が後の大阪国際フェスティバルとして結実
56年、大阪国際フェスティバルの準備本格化 ⇒ 朝日新聞社主催のコンサートを通じて村山家縁の音楽プロモーターとなった白系ロシア人・アウセー・ストロークの提案で、未知(音楽の世界で使用していた名前)をプロデューサーとして担ぎ出す
l 欧州視察報告書
一緒に欧州視察をしようとした矢先にストロークは急逝、未知は一人でザルツブルクとエジンバラに向かう。オーストリアでは、呉塾の後輩・大町陽一郎の案内で視察
朝日新聞社の呼びかけで大阪財界がこぞって後援、大阪商工会議所で芸術祭協会が結成され、阪大の北村音一の設計で2700人収容のホールの建設が始まり、カラヤンも絶賛する音響を実現
58年の開幕は、ニューヨーク・シティーバレエ団、メトロポリタンのテノール・ジャン・ピアーズ、ザルツブルクの人形劇団。ハイフェッツには(老齢?を理由に)断られた
l 誇り高きマエストロたち
レニングラード響が初来日、チェロのロストロポーヴィッチとはそれ以来の付き合いとなる
翌年からは、財団法人に改組されて単独主催となり、美知子が専務理事として仕切る
59年にはストラヴィンスキーが指揮をしたが、レニングラードの成功を耳にして自ら出演を打診してきたもので、N響とのコンサートが実現、超満員で絶賛
60年にはシャルル・ミンシュ指揮のボストン響、作曲家のコープランドも同行し、自作を指揮
年末には、日本ではまだ馴染みの薄かったジュリーニが指揮するイスラエル管も招聘
61年には東独のゲヴァントハウスが来日、父方の従姉妹・小坂旦子(あさこ)の義兄・小坂善太郎外相の奔走で実現したもの。善太郎は後に大阪国際フェスティバル協会の理事長
l ついに実現した「奇跡の公演」
67年の第10回ではバイロイトの引っ越し公演を実現。《トリスタンとイゾルデ》《ワルキューレ》を各4回、満席で公演し大反響を呼び、日本のオペラ史上の金字塔となる。総費用2億円、ロイヤルボックス席は2日通しで6万円。「法外」とこき下ろされた
オーマンディのフィラデルフィア響も参加。汗かきの指揮者のために特別の冷房を入れる
l 「帝王」カラヤン降臨
カラヤンとベルリン・フィルは66年、70年、77年と3度参加。70年は万博との共催でベートーヴェン・チクルスを、77年はブラームス・チクルス
フェスティバルに最も多く出演した1人はワイセンベルクで、69~82年の間に7回。98年に招いた時はパーキンソン病で指が動かなくなり、中止の決断
l 「この人は必ず伸びる」
71年には親日家のメニューインを招聘。20年前に米国の親善大使として来日して以来
59年ブザンソンで優勝した小澤に演奏の場を提供したのも美知子で、朝比奈隆を説得して大阪フィルの指揮したのが契機となってN響の指揮者にも招かれ、ボイコットにあった後も励まし続けた。69年にはトロント響を率いて凱旋公演、フェスティバルのオープニングコンサートを任せた
佐渡裕も親身に応援、89年ブザンソンで優勝のあと、国内で演奏の場がなかったのを95,96年のフェスティバルに出演を要請、96年の大阪センチュリー響を指揮した《キャンディード》は上昇気流の先駆けとなった
井上道義にも大阪の舞台で様々な実験的コンサートへの挑戦を認め、応援したし、アルゲリッチも76年に招聘され、成功を収めたのが契機となって別府音楽祭を開催することになった
95年の開幕で佐渡指揮の東京響と共演した17歳の女流ヴァイオリニスト・リーラ・ジョセフォッウィッツは、4年前にNHKテレビで演奏を見て「この人は必ず伸びる」と高く評価
l 火の中に飛び込むような決断
戦前のレコード化の時から美知子の才能を高く評価してフェスティバルに協力したのが山田耕筰で、60年には自作《黒船》を指揮したし、同じく美知子を高く評価した團伊玖磨も代表作のオペラ《夕鶴》や《ひかりごけ》をフェスティバルで上演
30周年記念写真集で、團が美知子に当初の苦労を聞いた時、「火の中に飛び込むような決断」だったと述懐
l 美貌なれ昭和
フランス、オランダ、旧西ドイツ、オーストリア、スペインから叙勲、フランスからは3つも
深田祐介著『美貌なれ昭和』のエピローグに、「戦前の朝日の文化活動の伝統を少しでも継いで行ければと思った」と、「深窓の令嬢」美知子が語るとあった
第5章
果断の人・村山龍平
l 官憲の圧力
龍平は1850年紀州藩の支藩・田丸藩士の家に生まれた(現在の三重県玉城町)
氏族制度廃止の直前に氏族の身分を放棄して大阪に出、貿易商として飛躍していく中、仕事仲間から新聞社の創業を提案され、仲間の失敗の跡を拭う形で自ら経営に乗り出す
社会・風俗を扱う「小新聞」から出発、国会開設・憲法発布を機に政治を論じる「大新聞」へと脱皮、大阪を上野理一に任せ、88年東京朝日新聞を創刊
大新聞に飛躍するに際しては、何度も内容が過激だとして発行停止命令を受けた
l 朝日新聞 最大の危機
主筆や社説執筆にリベラルな論客を積極的に登用
経営と編集を分離、両者が良好な関係を保ちながら社の難局に立ち向かう体制を構築
1918年の白虹事件。大正デモクラシーを背景に新聞の政府批判が激化、寺内内閣はシベリア出兵と米騒動を巡る報道禁止措置を取るなか、大阪朝日の記事が朝憲紊乱に当たると見做され、廃刊に追い込まれ、龍平も暴漢に襲われる
l 「個人経営」の新聞社
朝日は全面屈服、龍平は一線から退き、上野理一に社長を譲る
19年株式会社に改組して、再び龍平が社長に、上野は急逝
龍平と於藤が58%、上野理一と精一が30%、幹部社員20名が12%という株主構成
l 新元号「大正」をスクープ
19年、長挙を養嗣子に迎え、経営者として後事を託し、徐々に一線から退き、変わって体制維持の矢面に立ったのは入社1年足らずで新元号「大正」をスクープした主筆の緒方竹虎
51年、追放解除により長挙が社主・会長に復帰
第6章
村山騒動
l 醜を天下にさらす
63年、役員就任を巡る確執が具現
妹の富美子は、ボストン大に留学中の同僚だった医師の良介と恋仲になり帰国後の58年結婚、良介は京大麻酔科に勤務する傍ら、米国流の病院経営を模索、香雪記念病院の前進をつくる
l 妹の買い取り合戦
役員の1人が通例の取締役会の合意ではなく、株主総会の投票で再任されなかったのが「村山騒動」の始まり
64年、村山邸での取締役会で村山社長解任動議が出され全会一致で承認、上野精一会長も経営側に加担した責任を取って辞任を申し出受理。経営側を後押ししたのは、全国の新聞販売店店主らの動きで、回収した販売代金の入金拒否運動に発展
村山家と経営陣の対立は激化、全日空の社長に転出していた美土路昌一が古巣に復帰して社長に就任するが対立は収まらず、村山家と会社側の株買い取り合戦に発展、村山家側は退職した幹部に無償で配布していた株を高額で買い取るため、麻布市兵衛町の屋敷をホテルオークラに売却
l 積もり積もった思い
69年の株主総会で、上野家は19.51%の株を保有して会社側につき、妹の富美子も8.75%で会社を加勢したため、僅かながら村山家合計を上回る(長挙12.03%、於藤11.32%、美知子8.75%)。富美子の積年の鬱屈した感情が爆発したのだろうが、これを機に両親と姉との関係は決定的に悪化、絶縁状態になる
会社側は富美子を厚遇、1人息子の恭平の面倒も見た
65年、経営と編集の完全分離を確立。長挙は激怒したが、美知子はフェスティバルに奔走
第7章
哀しみを越えて
l 異様な社葬
71年、長挙は脳軟化症で倒れ、77年死去、享年83。社葬は、広岡社長が長挙社長退任の緊急動議提案者だったため、於藤夫人が拒否し、副社長が葬儀委員長となる異様な葬儀に
l 絶縁と和解
長挙の跡を継いで美知子が社主に就任、新たな社主規定によって、社の行事への出席や挨拶など儀礼的な役割に限定
会社と村山家の敵対関係の象徴だった「累積投票」は79年を最後に消滅、代わりに実質的に村山家の事業だった香雪美術館や国際フェスティバルの事業を資金的に支援して協力関係を回復
富美子も長挙が倒れたのを機に絶縁を解消、良介も香雪記念病院で長挙の治療に加わる
良介は、富美子と別れて慢性疼痛医療の専門家として活躍、05年死去
l 母のための献身
85年頃、於藤は自宅で転倒し、股関節を骨折。美知子の看病生活が続く
89年逝去、享年91
フェスティバルホールと新朝日ビルの同時建設を決断したのは朝日ビルの社長だった於藤
相続により美知子は朝日の36.46%の株式を保有
l 「御影の意向」
於藤の死亡記事掲載について、すべて美知子の意向で事細かに指示された
朝日の社員は、「村山家は常に理不尽な要求を突き付けてくる」という「先入観」で仕事をしてきたという
第8章
創業家の矜持
l こういう時はデーニッシュなのよ
95年の大震災の時、生活棟以外は甚大な被害を受けたが、社主は無事で、リーガロイヤルのパンを届けたら、「こういう時はデーニッシュなのよ」と言って口にした
l 大赤字の公演
大阪国際フェスティバルは98年から主催が協会から朝日新聞社・朝日新聞文化財団に代わる。数億円の累積債務も引き継ぎ。村山家との過去の確執解消策の一環。債務は朝日新聞と美知子で折半
98年の40回記念公演は結果的に大赤字となって、朝日新聞社の事業担当専務の廣瀬道貞が事情聴取。興行は水物だという美知子に対し、けじめは必要で慎重にということでケリ
l お気に入りの社長
99年から朝日新聞が全責任を負うことになり業務に介入してくるが、協会との確執が表面化
渡辺誠毅、一柳東一郎の時代は村山家と蜜月、朝日文化財団を作って美知子の事業を全面的にバックアップしたのも一柳だったが、中江利忠以降また株式の財団などへの寄付の話が持ち出され関係は悪化していく
創業100周年記念事業として90~95年に刊行された社史の編集に美知子が深く関わったのも、経営側との確執を増幅させる一因。社史が歪曲されたとの批判も出たが、創業家の名誉を守るための「もう1つの闘い」でもあった
l 黒御影石の記念碑
2000年創刊120周年記念事業で中之島に黒御影の「朝日新聞創刊之地」の記念碑建立
当初は新聞配達少年の像だったが、社主の一言で却下、1年遅れで結着したもの
イタリア在住のデザイナー喜多俊之が無償でデザインを引き受け、美知子は龍平の墓石と同じ赤御影を指示したが、国産ではなかったため最上等の黒御影にしたもの。予算が足りないと言ったら美知子が全額持つというが、微妙な関係にあった箱島社長が朝日の負担とした
05年美知子が骨折して車椅子生活になると、意見を挟む機会は次第に減っていく
第9章
社主の役割
l 朝日が外資に乗っ取られる
06年夏朝日の株式構成は、美知子36.4%、富美子8.75%、上野尚一(社主、理一の曾孫)12.82%、上野克二3.34%、上野信三3.34%、従業員持株会10.56%、役員持株会2.18%
06年末、恭平が富美子から5%を譲渡され株主に、いずれ村山家の株を全て相続する可能性
恭平の発案で、長年確執が続く村山家と上野家の会食がアレンジされ、上野家の遠縁にあたるアスキーの西和彦も同席。恭平も仕事上の付き合いがあり、その関係から外資系投資ファンドに保有株の一部が売却されるとの噂も出たり、恭平が朝日を分社化する構想をマスコミに漏らしたこともあったため、経営陣に衝撃が走る
l トラブルメーカー
将来の社主のための社内研修プログラムが恭平に用意されるも、あちこちで誤解を招く発言などがあり評価は散々、美知子も器ではないと言っていたが、コンピュータ・オタクで裏表はなかった
l 「恭平にも困ったものね」
長挙の30年祭で、恭平が外資系証券の供花をアレンジ、美知子は拒絶したが、当日になって墓前に強引に持ち出し、美知子の顰蹙を買う
l 朝日株の行き先
美知子にとって恭平は唯一血縁の甥、富美子が出産後ボストンで学業を終えるまでの1年間手元に預かって育てたが、上野家との会食や長挙の墓前祭の供花の件も含め、恭平に不信感を抱く
07年、「村山騒動」終焉の策として、美知子の全持ち株を文化財団に無償譲渡する話が進む
l 決断の日
弁護士の説明に納得して美知子は譲渡契約に捺印したが、その後周囲に説得されて美知子は翻意。代わって朝日の専務からテレビ朝日の会長になっていた廣瀬道貞を中心に妥協案が示される ⇒ テレビ朝日に売却、香雪美術館へ寄付、継続保持に3分割
美知子は、重度の不整脈に悩んでいて、美知子の両親の頃から村山家の主治医だった日野原重明の診察を受けペースメーカーを入れることになるが、手術前に株式処分を決断
l 「経営安定のため」
美知子も「経営安定のために貢献」と公表、55年から続いた「村山騒動」に終止符
美知子の手元には11.02%の株式と売却代金の80億円、1000坪の家屋敷が残り、村山家全体でも20%未満となって、朝日新聞社の経営に深刻な影響を及ぼすことがなくなった
北野病院での手術も無事終了
l どさくさ紛れの遺言書
ところが秋山社長らが美知子に遺言状の作成を持ちかけたところから話がこじれる
朝日の持ち株のみならず全財産を包括的に香雪美術館に遺贈する内容で、遺言執行人は社主の信任篤い廣瀬道貞。恭平を介入させない仕組みとして考えられた
l 600億の課税をどうするか
恭平が朝日の経営陣と敵対することに至った背景は、いずれ村山家の朝日持ち株がすべて恭平の者になった時には、600億もの相続税がかかるということで、それにもかかわらず経営陣が何も対策を講じようとしないどころか、資本と経営の分離を求める経営側の主張は、資本側の一方的な犠牲によってのみ成立するものだったので、このままでは株主の立場を継ぐことの意味を見出せなかった
09年、筆者は本社に戻り、関連会社に出向
第10章 養子探し
l 二度目の秘書役
12年、村山家の養子探しの手伝いとして秘書課に戻る
l キンシップ・ユニバース(親族関係図)
美知子が血縁を重視したため、親族関係図から掘り起こし、長挙の実弟で龍平の岳父の養子に入った小林長世の長男・正世にコンタクト。美知子姉妹は正世の招待で岡部家の従姉妹会にも出席
l 旧華族の血縁者
岡部本家から出してもらうのが最善となり、候補者の家族を美知子に引き合わせる
l 「もの言う株主」の退場
13年、社主や株主に見切りをつけた富美子と恭平から株式譲渡の申し出があり、朝日新聞からの提案で凸版印刷と従業員持ち株会への譲渡がまとまる
l 話が違う
恭平の持ち株が消滅したことで安心した会社側の風向きが変り、養子はいいが御影の家屋敷は香雪美術館に譲渡して欲しいと注文を付けてきた。一方で美知子の体調が急激に悪化
l あと3年早かったら
美知子は明確に養子認知の意思表明をしていたが、15年には認知・判断能力は不安定になり、話は立ち消えに
l 「ペンタゴン・ペーパーズ」の女性社主
米国映画《ペンタゴン・ペーパーズ》は、ベトナム戦争の秘密報告書を記事化する編集局長を支えてニクソン政権と闘うワシントン・ポスト紙の女性オーナー・キャサリン・グラハムを描いたものだが、朝日新聞社でもあり得た未来
l たった1人のためのコンサート
美知子は晩年、フェスティバル・ホールの建て替えに強い関心、形状にも注文を出し、一部は取り入れられている。13年音響チェックのため大フィルの演奏会が準備されたが、指揮者の井上道義がリハーサルの1日を美知子だけを招いて《コリオラン》を演奏。フェニーチェ劇場メンバーによるガラ・コンサートの本番にも日野原らを招待して出席
第11章 闘病の日々
l 「限界が近づいています」
15年、誤嚥性肺炎で北野病院に緊急入院、危篤状態から生還したが、限界が近づいていると警告される
l 病床の楽しみ
闘病生活が続く
l 「仏」と「阿修羅」と
「経管栄養注入」で栄養剤を摂取
寝ながら社主の顔つきが変化する
l 「104歳の名医」の診断
16年日野原の見舞いに喜ぶ
l 感激の再会
16年、96歳の誕生会を病室で
17年には小澤征爾が見舞いに駆けつけ、30年ぶりの再会を果たし、小澤はトロント響公演の時の恩義を思い出し涙にむせぶ
l 残された時間
付き添いチームの手厚い看護が続く
第12章 奇跡の人
l 後見人選び
15年美知子の緊急入院の直前、朝日新聞社の秋山耿太郎元社長が廣瀬道貞らとともに公証人の立会いの下社主の後見人を決める。財産管理担当の任意後見人には村山家の顧問税理士の藤木克尚、身上監護担当の任意後見人に朝日の産業医の吉田途男を選任、美知子の同意を得て契約
認知症が長谷川式テストの合格ラインに達しなかったため、当日公証人が再確認
l 「社主のお墓も造ろうと思っています」
15年の入院後に、秋山らが村山家の先祖供養を目的とする奉賛会を組織、藤木が後見人の立場で美知子の金を引き出して振り込む。美知子も恭平も全く知らされていない
病床を見舞った際、秋山が同じ墓地内に社主の墓を造ろうと提案、美知子の同意なしに墓石を購入。両親の墓を作る時に墓石の御影石に拘った美知子の同意なしに墓石が購入されることはあり得ない
l 「側近」を自称する3人
秋山、廣瀬、藤木による三者委員会に、元役員で香雪美術館長の内海紀雄が加わって、美知子の判断・認知能力が衰える中、着々と話を先に進めていく
l 「これで主治医と言えるのか」
吉田は美知子を病床に見舞うが、聴診器も当てずほとんど話もせず
16年末、フェスティバルホールでのコンサートに完全看護で出席した際、吉田が付き添っていたが、なにかの拍子で美知子との間に大声でのやり取りとなった
l 理由なき全員解雇
17年、朝日新聞社の中之島の新高層ビルに香雪美術館がオープンすることとなり、慈善に美知子に見せようとしたところ、吉田が半年前のコンサートでの不始末を理由に猛反対
一旦は同意したが、後見人として翻意するとともに、筆者とは世界観が違うので一緒に仕事は出来ないとし、筆者がアレンジした付き添いチームにも全員辞めてもらうと宣言。恭平が聞きつけて関係各所に撤回要請の手紙を書いたが、覆らなかった
l 泣いてばかりの毎日
美知子は身辺から付き添いがいなくなって涙にくれた
吉田は筆者の追放にも矛先を向けてきて、内海経由美知子の身辺から引くことを要求
内海は、退職後も村山家とは接触しないとの誓約書に署名しろと迫るが拒否
l 最期の日々
解雇された付き添いチームの4人が労働審判に訴え、和解が成立
美知子の意識が朦朧とするなか、急激に悪化した場合の人工呼吸器の装着の同意を求められ、恭平は自然な形での最期を主張したにも拘らず、吉田が後見人として装着に固執
あとがき
2020年3月3日逝去、享年99
遺言書に基づき、全財産が香雪美術館へ遺贈されるはず
美知子社主は朝日新聞社の象徴天皇のようなもの
『文藝春秋』 2020年5月号
『朝日が村山美知子社主に書かせた「遺言書」』
~ 社主の持ち株割合を下げるために経営陣はここまでやるのか――
07~09年と12~15年の都合7年間大阪本社秘書課主査として、ダントツ(36.4%)の筆頭株主だった美知子社主に秘書として仕える
村山家と朝日新聞は長年、株式の問題などを巡り緊張関係が続いていた
もともと村山家の内情を探るために秘書となったが、長く出入りするうちにその気品に溢れた人柄に惹かれ、社主家の重荷を背負い続けた人生に深い共感を寄せるようになり、”あること”をきっかけに、朝日新聞の美知子社主への対応に納得できない思い、義憤のような思いを抱くようになる
神戸市御影の6,000坪の豪邸で暮らし、「最後の深窓の令嬢」と言われたが、15年7月からは大阪の北野病院に入院、晩年はほとんど意識がなく、会話もできない状態。3月2日に逝去。享年99
祖父村山龍平と上野理一が創業した朝日新聞の6割を超える株式を所有してきた両「社主家」の存在が長い間、朝日の経営陣を悩ませてきた
先鋭化したのは63年の「村山騒動」 ⇒ 美知子の父・村山長挙(ながたか)社長(当時)が大株主の権利を行使して役員人事を強行したため、経営陣は長挙を解任。以後経営陣は上野家とは良好な関係を保ったが、村山家とは”冷戦状態”となり、村山家の持ち株をいかに減じるかが歴代経営陣の宿願
騒動後に作られた社主規定には、「式典には出席するが、経営には関わらない」と定められた
美知子社主が心血を注いだのは、「大阪国際フェスティバル」などの音楽事業
秘書役就任当時、経営陣が最も危惧していたのが、外資による乗っ取りで、美知子の妹・富美子の長男・恭平の動向が物議。社主には子供がおらず、恭平は唯一の血縁の甥
06年、恭平の呼びかけで疎遠だった両社主家が会食 ⇒ 村山家(美知子・富美子・恭平)の持ち株は45.03%、上野家を加えると64.53%となる。恭平の関心は600億ともいわれた相続税対策だったが、『文春』が会合の内容をスクープして外資への売却を示唆すると、経営陣は震撼
相続税対策として、秋山社長が社主の顧問弁護士と相談して、「全株式を朝日新聞文化財団に寄付」することを提案し、まとまりかけていたが、社主が突然翻意して潰れ、代わりに07年出てきたのが、美知子社主の株式の3分割案 ⇒ 1/3をテレビ朝日に売却、1/3を村山家縁の香雪記念美術館に寄附、1/3を社主が保有し続ける案で、極度の不整脈に悩んだペースメーカー装着手術が背中を押す
美知子社主の手術は無事に成功して家に戻り、手元には80億余りの預金と土地が残り、村山家3人の持ち株は20%以下となって、歴代経営陣の宿願達成
株式譲渡の枠組み決定の直後、経営陣は社主に遺言状を書かせている ⇒ 美知子社主の株式を含む全財産を「包括的」に香雪美術館に遺贈。美術館は、龍平翁の収集した美術品を収蔵するため、長挙夫妻が73年に開設した施設で、当時の理事長は美知子社主。美知子社主の死後、美術館の役職者を選ぶ委員会が創設され、村山家から切り離される。遺言状も、後に美知子社主が富美子と恭平に5億づつ遺贈するとの希望を入れて書き直されたために、社主の意思を明確に反映したものと見做され、経営陣は濡れ手に粟で宿痾を解決
一旦秘書を退任したが、3年後に上司から「美知子社主が村山家を守るために養子を探している」と言われ、秘書に戻って手伝う ⇒ 候補者とのお見合いの後、ほぼ決まりかけていたところで、富美子と恭平が持ち株を凸版印刷に売却、「今後は社主問題などに一切関わらない」との誓約書まで提出、経営陣は最も警戒していた恭平の株式売却を機に、養子問題から距離を置くようになり、美知子社主も14年には体調急変、翌年には誤嚥性肺炎から呼吸困難
秋山元会長(13年退任)と、テレ朝元会長・広瀬道貞、村山家の顧問税理士・藤木克尚、朝日新聞の産業医・吉田途男(後に美知子のかかりつけにも)の4人が公証人の立会いの下で社主に会い、藤木が財産管理担当、吉田が身上監護担当の任意後見人として選任する契約締結するが、契約締結前に長谷川式認知症スケール(認知度評価テスト)を何度実施しても合格ラインに達しなかったにもかかわらず、契約当日公証人が直接社主と話をして「任意性あり」と判断したという
さらに社主が生死の境をさまよっている最中の15年、秋山らは恭平に相談もないまま村山家の墓地管理を行う「奉賛会」を設立、社主資産から50百万円を拠出して墓石を購入
生前美知子社主から、「私のこと本に書いてね」と言われていた樋田氏は、さる3月『最後の社主』を上梓
美知子の死去に伴い、村山家の持ち株はゼロに。大株主の美術館の理事長は広瀬
美知子社主が最後まで保有し、養子に引き継ぐはずだった11.02%の持ち株比率は、信頼関係と同時に緊張関係を保持するうえで、妥当な水準と思われ、株による支配ではなく、権威と見識で良好な関係を築いた上で、資本と経営が相携えて「言論の自由」を死守していくうえで有効に機能するのではないか
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村山 美知子(1920年8月16日 - 2020年3月3日[1][2][3])は、日本の文化人。朝日新聞社の第3代社主。元朝日新聞社社長村山長挙の長女。兵庫県出身。
l 来歴・人物[編集]
朝日新聞社の発行済み株式総数のうち36.5%(116万6,641株)を保有する筆頭株主だった。1963年6月から株式会社朝日新聞社取締役社主付として就任。1977年8月から朝日新聞社社主に就任。
また朝日新聞と関係が深い朝日放送(現・朝日放送グループホールディングス)の発行済み株式総数の3.5%(14万5,500株)を保有し、1979年6月から2007年6月27日まで同社の社外取締役を務めていた。
2020年3月3日、肺炎のために死去[1][2][3]。99歳没[4]。生涯独身とされていたが、実際には1948年元海軍大尉の武田光雄と結婚、しかし武田が新聞経営に興味を示さないなどの理由で1950年に離婚。夫婦仲が悪かったわけではなく、その後は2人とも独身を通し、晩年には交流があったという[5]。
l その他役職[編集]
公益財団法人香雪美術館理事長。同美術館は神戸市東灘区の村山邸の一角に建てられている。
そのほか、財団法人朝日新聞文化財団理事、大阪国際フェスティバル協会会長などを務める。音楽関係者の間では、大阪国際フェステイバル運営への貢献が高く評価されている。
l 保有株式数の変更の推移[編集]
2008年6月6日にテレビ朝日(現・テレビ朝日ホールディングス)に対して朝日新聞社の発行済み株式38万株(11.08%)を234億4000万円で売却し、31万9千株(9.97%)を香雪美術館に寄贈した。
朝日新聞社は村山の申し出に応じてテレビ朝日株式5%分1株15万円、総額75億4500万円で購入し村山はテレビ朝日株を香雪美術館に寄付した。これで村山の持ち株は46万株になった。
2009年5月12日に村山が所有する同社株式46万株のうち、2万株を3200万円で従業員の朝日新聞社社員持株会に譲渡。これにより朝日新聞社従業員持株会が同社株式13.9%を保有する筆頭株主になった。
このほか村山は同社株式2万株を財団法人朝日新聞文化財団に寄付した。これで村山の同社持株数は42万株、持株比率は13.3%になった。
2009年12月10日朝日放送に対して朝日新聞社の発行済み株式の2.31%に当たる7万4000株を34億7800万円で譲渡した。
現在の朝日新聞社の持株数は35万3641株、持ち株比率は11.02%、第3位(上野尚一と同位)の株主である。
村山美知子の逝去を機に、朝日新聞社は2020年6月24日開催の第167回定時株主総会で社主制度を廃止した。[6]
l 家族[編集]
元朝日新聞社国際本部副部長村山富美子は妹。朝日新聞社初代社主村山龍平は祖父。朝日新聞社社主は上野尚一(2016年死去)と共同で務めた。
l 系譜[編集]
村山龍平(祖父、初代社主)= 村山長挙(父、2代目社主)- 村山美知子(3代目社主)
l 伝記出版を巡るエピソード[編集]
朝日新聞社から派遣され村山美知子の秘書役を務めた樋田毅は、村山美知子の生前に美知子から信頼を得て、私のことを本に書いて、と言われていた。樋田毅は美知子の逝去直後の2020年3月26日に『最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム』を講談社から出版した。そこには、村山家と朝日新聞社の様々な対立・葛藤や美知子の結婚・離婚など非公開だった美知子の私生活上の事実が書かれていた。出版を知った朝日新聞社は3月26日に「守秘義務違反やプライバシー侵害の疑い、不正確または不適切な記述など、多くの問題が認められます」として樋田毅と講談社に抗議文を発し、朝日新聞社ホームページで公開した。[7]しかし樋田毅と講談社は抗議文を無視し、朝日新聞社もその後は訴訟などそれ以上の抗議措置を取っていない。朝日新聞や『週刊朝日』など関連媒体には、『最後の社主』に関する記事・情報はいっさい掲載されていない。
脚注[編集]
1.
^ a b “村山美知子さんが死去 朝日新聞社社主”.
日本経済新聞 (2020年3月3日). 2020年3月5日閲覧。
2.
^ a b “朝日新聞の村山美知子さん死去 77年から社主、大阪フェス主宰”. 北海道新聞 (2020年3月3日). 2020年3月5日閲覧。
3.
^ a b “朝日新聞社主・村山美知子さん死去…99歳”. nifty (2020年3月3日). 2020年3月5日閲覧。
4.
^ "朝日新聞社社主・村山美知子氏が死去 99歳". 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 3 March 2020. 2020年3月3日閲覧。
6.
^ 2020年6月25日付朝日新聞朝刊「朝日新聞社の第167回定時株主総会が24日開催」
音楽通じ海外と文化交流 「大阪国際フェス」創始 村山美知子社主死去
2020年3月4日 5時00分 朝日
3日に亡くなった朝日新聞社社主の村山美知子さん(99)は、日本の音楽祭の先駆けとなった大阪国際フェスティバルとともに歩み、文化交流と国際親善に力を注いできた。▼1面参照
子どもの頃からクラシック音楽に親しみ、作曲も学んだ。大阪国際フェスティバルのきっかけとなったのは、戦前に朝日新聞社が催した海外音楽家の来日公演に携わり、村山家と交流があったニューヨークの音楽プロモーターから「ヨーロッパのフェスティバルを日本でやってみては」と勧められたことだった。
村山さんは、オーストリア・ザルツブルクや英国・エディンバラの音楽祭や芸術祭を視察。各国の演奏団体と交渉を進め、1958年、大阪・中之島のフェスティバルホールで開かれた第1回大阪国際芸術祭にニューヨーク・シティ・バレエ団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団を招いた。
芸術祭の後、村山家は財団法人大阪国際フェスティバル協会を設立。59年から大阪国際フェスティバルを開催した。61年には、旧東ドイツからライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団を招き、東西冷戦下の芸術交流にも貢献した。70年の万博企画ではカラヤンとベルリン・フィルによるベートーベン交響曲全曲演奏会を実現した。こうした功績により、レジオン・ドヌール勲章オフィシエ(仏)など、フランス、旧西ドイツ、オランダ、オーストリア、スペインから勲章を受けた。
数々の名演奏の舞台となったフェスティバルホールへの愛着は深かった。旧ホールは2008年末から建て替えで一時閉館したが、高層ビル「中之島フェスティバルタワー」内に新ホールが完成。こけら落としとなった13年4月の大阪国際フェスティバルに出席し、旧知の指揮者・佐渡裕さんらに「新しいホールも音響がすばらしいと皆さんから称賛の声を聞き、心から安堵(あんど)しました」と話していた。
15年1月、全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)を創設した祖父村山龍平の野球殿堂入りが発表された際には、「祖父の高校野球への貢献を評価していただき、とても喜んでおります」とコメントした。
入院していた大阪市内の病院には、指揮者の小澤征爾さんや井上道義さん、佐渡さんら音楽関係者が見舞いに訪れていた。
朝日 2020.8.4.
故・村山美知子朝日新聞社社主 9月1日にお別れの会
故村山美知子・朝日新聞社社主のお別れの会は、9月1日に大阪市北区中之島5の3の68のリーガロイヤルホテルタワーウイング3階「ロイヤルホール」で行われる。朝日新聞社と香雪美術館でつくる実行委員会が開催。委員長は同社の渡辺雅隆社長。会場では新型コロナウイルス感染拡大防止策を講じ、午後3時半から5時まで献花を受け付ける。連絡先は朝日新聞社大阪本社内お別れの会実行委員会事務局(代表06・6231・0131)
最後の社主 樋田毅著
新聞経営巡る暗闘と音楽愛
2020年5月23日 2:00 日本経済新聞
モーツァルトらをパトロンとして支えたオーストリアの皇帝のような人物が、つい最近まで日本にもいたのだ。その人物は女性で、しかも「朝日新聞」の社主を長らく務めていたのである。
彼女は昭和30年代前半に、日本で初めて、世界規模の音楽フェスティバルを大阪で実現させた。以来、カラヤンやストラヴィンスキーといったビッグネームはもとより、名高い「バイロイト・ワーグナー・フェスティバル」をそっくりそのまま招聘(しょうへい)したりした。友人のクラシック・マニアによれば、とりわけ"バイロイト"の海外公演は奇跡的だという。
彼女――村山美知子にはもうひとつの顔があった。明治前期に朝日新聞を創業した村山家の当主として、代々の朝日新聞経営陣と経営権や株式所有をめぐる暗闘をくりひろげてきた"女帝"の顔である。私もマスメディアの一員なので、朝日の社主家と経営陣との対立は風聞程度には知っていたけれど、かくも根深く執拗なものとは思わなかった。
著者は社会部の事件記者あがりだが、秘書課の主査として村山家に送り込まれる。密命はなんと「お世話役を務めながら、村山家の内情を探ること」。そこで著者が目の当たりにした村山家の暮らしぶりは、想像を絶するものであった。神戸の約6千坪の敷地に建つ大豪邸で、私の乏しいイメージでたとえると、鹿鳴館時代の華族のような日常が続いていたのである。著者は当初"スパイ"の立場であったが、やがて美知子社主の「気品と威厳」に打たれ、孤高の人生に「深い共感」を寄せつつ、朝日経営陣と対立するようになる。
実のところ、本書で詳述される両者の確執に、私は『華麗なる一族』のさらなる"ドロドロ版"を見せられているようで、いささか辟易(へきえき)とさせられた。むしろ音楽家たちの素顔のほうが興味深い。今年99歳で亡くなる前の美知子社主を、やはり病身の小澤征爾が見舞いに訪れた際、急に病室から飛び出し、窓際で号泣する場面には、こちらまで胸が熱くなった。穢土(えど)に咲いた一輪の花を、著者は書き遺(のこ)したかったにちがいない。
《評》ノンフィクションライター 野村 進
2020-03-26
社主に関する書籍の無断発行に抗議しました
社主に関する書籍を無断で発行したことについて、朝日新聞社は著者である樋田毅氏と発行元の講談社に抗議する書面を送りました。守秘義務違反やプライバシー侵害の疑い、不正確または不適切な記述など、多くの問題が認められます。
詳細はPDFファイルに
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