印刷博物館とわたし 樺山紘一 2021.2.11.
2021.2.11. 印刷博物館とわたし
著者 樺山紘一 印刷博物館長、渋沢栄一記念財団理事長、東大名誉教授。1941年東京生まれ。東大大学院博士課程終了後、京大人文科学研究所助手、76~00年東大文学部在籍、
東京大学教授、国立西洋美術館館長などを歴任。専門分野は西洋文化史。『歴史の歴史』で2014年毎日出版文化賞
発行日 2020.10.20. 初版第1刷発行
発行所 千倉書房
第Ⅰ部 わたしと印刷博物館の20年
l 長い助走、短い序章
2020年創立20周年を迎え、大幅リニューアル。歴史の中に証言を残す
95年凸版印刷の創立100周年記念事業となる社史を兼ねた『印刷博物誌』の編集長を引き受け。社内の編纂委員長はグラフィック・デザイナーの粟津潔
01年刊行、印刷の歴史の集大成
l 博物館プロジェクトへ
もう1つの100周年記念事業が印刷博物館の建設で、既に会社にあった史料館を整理・発展させるもので、00年小石川の旧印刷工場跡地に開館
l 新設のミュージアム
ミュージアムという施設自体がデザインの挑戦という発想で、什器備品に至るまでトータル・デザインの発想を導入した粟津を初代館長に迎えてスタート
筆者も外部から運営を手伝う。その間国立西洋美術館館長として4年勤務するが、文化庁管轄下の独立行政法人では知的な飛翔感を受け取る余地が狭く燃焼不足の感を抱く
l 館長のスタート台
05年第2代館長引き受け。15年の経験をもとに問題点をまとめる
「企業ミュージアム」であるということ ⇒ 企業本来の利潤実現活動とは無縁。メセナ活動の一形態ともいえるが、有意義な文化芸術活動や慈善事業に参与したわけでもなく、名画を購入して公開したわけでもない
l 印刷文化学のシステム化を
第2の問題点は、専門的な技能や成果を獲得し表現するにあたっての課題。業務の実践知を超えて、学術水準の向上に努める必要がある。そのためには印刷に関わる学術上の領域を作り、広範な研究体制を確立する必要がある
l 企業ミュージアムとは
第3の問題点は、ビジターへのアピールを整えるためにも、類似の企業ミュージアムとの連携、情報交換が必要。全国的な協力組織もあるが、自由度の高い、民間の企業系ミュージアムの緩やかな繋がりを求めて、新組織「産業文化博物館コンソーシアム」を立ち上げ
l ミュージアム論争を巡って
06年頃「ミュージアム論争」が起こり、国公立の博物館・美術館の収支劣悪、社会的サービスの未達成などが問題に
l グローバル化に直面する
激増する外国人来館者への対応と同時に、学芸・展示のグローバルな視点も必要
l 展示戦略としての伝統文化
印刷工房という実習施設を稼働
最大のミッションは現物展示。常設展の展示の陳腐化回避の工夫
企画展として注力したのが、日本の伝統的印刷文化の再発見と、列島各地の多様な伝統的印刷センターの発掘、さらには日本の印刷文化と東アジア諸国との関係
l 印刷産業革命
企画展で力点をおいた中に、印刷における産業革命がある ⇒ グーテンベルクの技術革命がその後どのように継承・発展させられたかについて、体系的に整理
その過程で、日本にもたらされた活版印刷の技術は、旧来の「グーテンベルク体系」の忠実なコピーではなく、新たなシステムに転換しつつある技術体系だったことが判明
l 第3次印刷革命か?
デジタル革命によって印刷文化は巨大な曲がり角に来ている
変革の目撃記録として発信し続けたい
l 3人の旧幕臣たち ⇒ 今後に向けた個人的構想の一端
本木昌造は日本語印刷活字の開発・製作に取り組むと同時に、安政大地震で大破したロシア旗艦の補修を通じて日本で初めて洋式造船術を目撃
西周は幕府の洋学スタッフに加わりオランダに留学して実証主義哲学を修得、西洋学問の理論的基礎をもたらす
渋沢栄一は水戸徳川の従臣から新政府に出仕、行政の専担に立つが、73年には下野し、民間の経済活動に没頭、民間活力の源泉を自主・自立と組織化に求めた
第Ⅱ部 印刷博物館の展示を振り返る
序章 大印刷時代の到来 (初出 02年開催、バチカン教皇庁図書館展「書物の誕生―写本から印刷へ」図録より)
1450年代にグーテンベルクの活版印刷術が登場、15~16世紀はまさに「大印刷時代」で、印刷物の出版・刊行が急増
ルネサンス、宗教革命、大航海時代とも密接な関係を持ちながら印刷が世界に流布
ヨーロッパ全土に印刷が拡散すると同時に、アメリカ大陸にもスペイン人がもたらし、アジアでも宣教師たちによって広められた
1591年、長崎・加津佐で開版されたキリシタン版はその成果であり、秀吉の朝鮮出兵の際出会った活字文化の技術を受け継いだ駿河版活字が家康の下で製作されたのは、ヨーロッパで始まった大印刷時代とアジア独自の印刷技術の遭遇ともいえる象徴的事件
第1章
天文学と印刷 (初出 18年開催、「天文学と印刷―新たな世界像を求めて」展図録より)
15世紀に始まった天文学上の新たな探索を、印刷文化の展開と並行して捉えようとする試み。バイエルン州立図書館とゲルマン博物館から資料を出品
「近代の門口」「現代思想の告知者」と呼ばれるドイツの哲学者ニコラウス・クザヌス(1401~)こそ、「新しい世界像」の出現。無数の思想対立を合一して近代思想を打ち立てようとした。教皇庁に重用され、マインツ訪問の際グーテンベルクの活版印刷術を目撃、「神の業(わざ)」と命名して技術者をローマに招致、一気に技術が広がる
古代地中海における科学的達成の粋ともいうべきクラウディウス・プトレマイオスの『アルマゲスト』が活版印刷されて天体学の発展に寄与
木版やそれに代わる銅版などにより簡便な図像で表示されたことが理解の拡散に繋がる
第2章
ルネサンス教皇の夢 (初出 15年開催、開館15周年特別企画展「バチカン教皇庁図書館展 II 書物が開くルネサンス」図録より)
後に教皇シクストゥス4世となるフランチェスコ・デラ・ローヴェレ(1414~、在位1471~84)は、ルネサンス都市としてのローマの栄光を築く。教皇の名をとったシスティーナ礼拝堂はその象徴。教皇国家の軍事化が始まる
教皇ユリウス2世(在位1503~13)はシクストゥス4世の甥、フランスと連携して政敵を倒し教皇位を奪還。ローマを改造、ヴァチカン宮を新改築
第3章
スタンホープ、ふたつの革命の体現者 (初出 06年開催、「近代印刷のあけぼの―スタンホープの産業革命」展図録より)
200年前開発されたスタンホーププレスは数百基を世に送り出す
スタンホープ(1753~1816)は、ワットの蒸気機関が産業革命を、イギリスがアメリカ植民地に課した印紙法に基づく課税が市民革命を引き起こした時代に生まれ、2つの革命を牽引。フランス革命勃発の際も急進的自由主義をとり、貴族院議員の資格を剝奪
第4章
活字人間「徳川家康」の謎 (初出 00年開催、開館特別記念展「江戸時代の印刷文化―家康は活字人間だった!!」図録より)
1600年、豊後に漂着したオランダ船のイギリス人乗務員ウィリアム・アダムスを外交顧問に起用。木活字による出版を励行、自らも初期印刷書籍の熱心な読者だった
隠棲後も駿河版活字を創始させるなど、印刷の伝播に注力したが、死後は熱が冷めていく
金属の鋳造活字は忘れ去られたが、木活字を使った木版はによる整版印刷は広がり、印刷ブームを迎える ⇒ なぜグーテンベルクの技術を見限って、独自の印刷文化を生み出したのかは謎
第5章
武人の知の東西――武断と文治とその先へ (初出 00年開催、「武士と印刷」展図録より)
17世紀末までに文治の方向性がおおよそ固まり、武断原則が次第に解除
新井白石 ⇒ 木下順庵の下で甲州藩主に出仕、1709年幕政の中枢に抜擢、元禄文化の軌道修正、朱子学を背景に儒教の理想主義の定着を目指した
松平定信 ⇒ 田沼意次の開放経済の行き詰まりの打破に寛政の改革を断行
両者とも「印刷する武士」の筆頭格。啓蒙を単に近代社会・文化への志向としてのみ限定することなく、それぞれの時代に対応するような起動力として活用
第6章
世界史のなかの印刷首都 東京 (初出 12年開催、「印刷都市東京と近代日本」展図録より)
19世紀に急成長を遂げた国民国家の首都は、統治センターとして成長
首都における印刷業務の技術と文化が重要な役割を果たす
ロンドンは、産業の立地条件を充足せず、産業革命では中心的役割を果たせなかったが、産業革命の資本面の基盤を確立、そのためには情報の蓄積と交換の迅速かつ的確な遂行が要請され、産業情報のセンターとして成長。印刷業務はその重要なインフラとして活用
パリは、行政機能の合理的なシステム化を目指し、実務集団や機構が立地、印刷機能は重要な一環として充実・拡張が図られた。文学や芸術上の出版機能も充実させた
ベルリンは、後発の政治都市で、先ずは教育と文化の領域が中心で、印刷業務もその領域を支えるものとして発展
東京は、全国を統治する合理化された近代官僚制を定着させ、印刷技術が全国に配布される大量の布告や規則集等文書作成の膨大な作業に援用
首都機能と印刷産業の結びつきが有効に機能した例として、学校教育や学術の分野がある
学術と教育は国民的知育の水準に関わり、首都機能の中核を占めるもの
第7章
木本昌造の世界史 (初出 03年開催、開館3周年記念企画展「活字文明開化―木本昌造が築いた近代」図録より)
1856年長崎に活字版摺立所設置、取扱掛になったのがオランダ語通詞だった本木昌造で、出島のヨーロッパ人から手ほどきを受けつついくつかの「長崎版」を制作したが、ヨーロッパの活字・活版技術を異なった文字体系の日本語文字に適用する困難さを克服するのは至難の業で、上海の印刷・出版工場である美華書館の宣教師ウィリアム・ガンブルに出会って、電胎法による日本語活字字母の製作に成功するのは1869年のこと
1851年、広州で勃発した太平天国の乱では、統治機構の中に文書発給を目指す印刷・出版活動が創設され、上帝の意思や政策を領民に伝える手段として印刷文書が重要視されたが、中国ではすでに6,7世紀から木版の整版印刷が始まっていたとされ、木活字による活版印刷と並行して技術開発も進んでいたとみられる
19世紀における印刷技術面での進歩 ⇒ 活字鋳造機の開発、植字の機械化、印刷機械の改良、動力印刷機械の発明、製紙法の改良で紙価格の急速な低減と紙質の向上、製本と装丁工程の改変、図版印刷法の改良、石版印刷の開発
第8章
百学連環、もしくは西周の理想 (初出 07年開催、雑協・書協創立50周年記念 世界出版文化史展「百学連関(ママ)―百科事典と博物図譜の饗宴」図録より)
西周(1829~97)は日本の最初の哲学者。西欧の学術と遭遇、哲学の方法的基礎を明白に提起。津和野の藩医の家系、鷗外とは遠縁、儒学を学んだあと洋学、特に英学に傾倒、幕府の洋学政策の中核に加わり、62年オランダ留学、65年帰国後は新政府の中軸にあって高等教育体制の新設に献身
私塾・秀英塾では、「百学連環」のタイトルで講義 ⇒ エンサイクロペディアそのもので、諸学問を適正に区分して、その体系ごとに整理・概観する
留学で実地に観察したのが印刷術。諸学を通じて得た知見を、適正な方法で記述、容易に検索される形で人知に提供されるよう配備されなければならず、そのための現実の方策や施設として、印刷・出版に寄託され、博物館・図書館に収蔵され、広く開示・展示されるべきと説く
第9章
お雇いイタリア人芸術家たち (初出 14年開催、「印刷と美術のあいだ―キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本」展図録より)
1876年、政府が3人のイタリア人を招聘 ⇒ 画家フォンタネージ、彫刻家ラグーザ、建築家カペレッティ。他に前年版画家キヨッソーネがいた
キヨッソーネ(1833~98)は紙幣印刷の専門家 ⇒ 江戸時代からあった腐食銅版印刷(エッチング)ではなく、(直刻銅版(エングレーヴィング)が基本、電胎法の開発にも参加
フォンタネージ(1818~82)は自然は風景画の泰斗で浅井忠ら多数の若い洋画家に刺激を与える。90年代の黒田清輝のフランス外光派とは対照的
ラグーザ(1841~1927)は工部美術学校に新設された彫刻学科の教授として、木彫による彫刻法を主体とした日本の伝統に対し、彫塑技法を伝授
カペレッティの活動歴は不明だが、靖国神社遊就館と陸軍参謀本部の建築を担当
第10章
雑誌の時代――国民から市民へ (初出 08年開催、「ミリオンセラー誕生へ!―明治・大正の雑誌メディア」展図録より)
近代日本において、新聞とほぼ同じころ出発した雑誌メディアだが、明治の後半になって、独自の分析力や評論性が社会的に受け入れられる土壌が形成されてきた
憲法発布とともに内外の政治に関する国民的関心が論議を喚起するようになり、基本的思考を要請することになった
明治21年から昭和初期に至る約40年間に限定して雑誌メディアの展開を概観
第1期(明治21年~30年代半ば)では、政治・経済体制の形成に関わり、国家構成員たる国民としての関心事が論議の主題 ⇒ 徳富蘇峰の『国民之友』と三宅雪嶺の『日本人』を対峙、次いで、『実業之日本』と『東洋経済新報』
第2期(~大正初年)は、近代市民としての意識が急浮上、その動きに沿った大正教養主義などの論調が登場 ⇒ 博文館の『太陽』と滝田樗蔭の『中央公論』、次いで、学習院の『白樺』と日本女子大の『青鞜』を対峙
第3期(大正期)は、表面化する急進的な社会改革への希求で、大正デモクラシーの成熟に伴って市民としての政治意識に基づき民主主義の結実を求める急進的な議論も登場 ⇒ 山本実彦の『改造』と長谷川如是閑を中核とした『我等』、次いで、小市民的主婦を念頭に置いた『主婦之友』と『中央公論』の姉妹誌『婦人公論』
第4期(1920年代)はデモクラシーや市民意識が広範な市民によって共有され、生活日常に浸透する「大衆」という語彙が採用され、近代社会の基礎がそこに探索されるようになる ⇒ 日本初のミリオンセラーとなった講談社の『キング』と産業組合中央会の機関誌として出発、同じくミリオンセラーとなった『家の光』、次いで、『週刊朝日』と『サンデー毎日』。「週」単位の刊行が日本人のライフスタイルに新たな要素を持ち込んだ
第11章
幼児教育と大正リベラリズムの伝統――倉橋惣三と絵雑誌の系譜 (初出 17年開催、「キンダーブックの90年―童画と童謡でたどる子どもたちの世界」展図録より)
1876年、東京女子師範が、国家的制度の下で付属幼稚園設置。固有の課題や方向性が事前に設定されていたとは言い難いが、幼児教育の嚆矢となり、各地で設立が続く
近代ドイツの幼児教育に理想を求めるフレーベル(1782~1852)理論が、アメリカ経由で導入され、市民教育体系の一環となる近代人間形成に向け、幼児教育固有の課題を要請
1926年幼稚園令制定により、固有の目的と機能を持つ教育機関として認定。これを機に幼児向け出版が盛況。印刷技術の進展により、安価な大部数の刊行が可能となり、多色刷りの絵雑誌が子どもたちの関心を引き、絵本、絵雑誌の時代が到来
幼稚園教育理論の核心を目指した倉橋惣三の校閲で1922年創刊の月刊誌『コドモノクニ』
フレーベル館が1927年に刊行した『観察絵本キンダーブック』が続く
一般書・誌として登場した『赤い鳥』(1918~36)は、童話・童謡雑誌として大人にも読まれた
倉橋惣三(1882~)は、東京帝大哲学科卒、児童心理学を修了して女子高等師範の講師に、欧米への留学を経て幼児教育論を確立、女子師範教授と付属幼稚園の主事を兼務
倉橋の幼児教育論も、昭和の軍国主義の煽りを受け険しい時代を迎えるが、幼児教育・文化の萌芽は遺産として保全され、終戦とともに活動を再開
『キンダーブック』も、戦中のしばらくは誌名も変更を余儀なくされたが、戦後は名称も、そこに込められたエネルギーと感性を分厚い遺産として回復させ、戦後文化の核心として活動の場を発見していく
第12章
第一次世界大戦の世界史 (初出 07年開催、「モード・オブ・ザ・ウォーー東京大学大学院情報学環所蔵 第1次世界大戦期プロパガンダ・ポスター・コレクションより」展図録より)
大戦はまたとない成長の好機、大正デモクラシーを産み落とし、進歩への信念が諸階層の隅々に行き渡りつつあったことから、大戦に対する真摯な理解力を備えそこなった
今回の大戦時期におけるプロパガンダ・ポスターの展示を機会として、あたらめて大戦の意義を考えるチャンスが到来
終章 1955年の敷居をまたいで――日本人の暮らしの変容 (初出 08年開催、「デザイナー誕生―1950年代日本のグラフィック」展図録より)
1950年代を主題として考えるときに、「もはや戦後ではない」の命題は重要な地位を占める。それが1955年を挟む1両年の現実の中から発言され、広く受け入れられたことも忘れるわけにはいかない。55年を境目として、空気は一変、異なった世界へと突入
55年には自由党と民主党が合併して自由民主党となり、はれて国会の過半数を占め安定した政治の遂行を可能とした。社会党も左右両派が合併して、唯一の対抗勢力として、ある程度の緊張感を政治にもたらし、その下で官僚主導という形での行政上の整備が進行
国際情勢では米ソを両極とした東西対立が鮮明となり、日本はアメリカの軍事力の庇護のもと国際政治の位置が指定、国際社会への復帰が認められ国連にも加盟
経済面でも1950年に始まる朝鮮戦争の特需も手伝って本格的な経済成長への曙光が見えたことが、経済白書で「もはや戦後ではない」と強弁し、技術革新に希望を託した
55年の敷居を超えてみると、後の半世紀にも及ぶ現代日本の図柄が浮かび上がる。現在に連なる日本人の暮らしの起源がそこに埋め込まれている
(著者に会いたい)『印刷博物館とわたし』 樺山紘一さん
2020年12月19日 5時00分 朝日
■技と文化、歴史家の目で 印刷博物館長・樺山紘一さん(79)
人類の印刷の歴史を伝える民間の博物館を率いて15年になる。「今だからこそ印刷の意味を問い直したいという当初の課題は、ある程度達成されているかなと思っています」
20年余りにわたる博物館との関わりをつづった。東京大を退官後に引き受けた国立西洋美術館長については「ミュージアムという語感がしめす、自由な開放感とは裏腹に、知的な飛翔感を受けとる余地があまりにも狭く、やるせない燃焼不足の感をいだいていた」と率直に記す。
専門は西洋中世史だが、「江戸時代以降の日本の印刷史に、歴史家として関心を持ち続けてきました」。本書に収められた印刷にまつわる14の論考は、過去20年間に開かれた展覧会の図録に寄せたものだ。「展覧会に関わるテーマで、論文として形にできるものだけ書いた」と、妥協しない姿勢をにじませる。
文字では説明しにくい天体現象が15世紀ヨーロッパで図像印刷によって図解され、科学の成立に決定的な役割を果たしたこと。明治期に日本の通貨制度の信頼を支えたのは、お雇いのイタリア人版画家によって導入された紙幣印刷術だったこと。印刷が文化や社会を形作ってきたさまを改めて知らされる。
読者を時空を超えた旅へといざなう独特の文体のわけを尋ねると、「動詞と形容詞はできるだけひらがなで書きたい。日本文化の表現ですから」「ラテン語とギリシャ語の修辞法を現代日本語に生かしたい」と明かしてくれた。
今後も向き合いたい研究対象は、明治初めに多くの学術用語を造語した哲学者西周(にしあまね)だ。「1860年代のヨーロッパの思想世界を自分の言葉で日本人に伝えようとした営みは大変なものだったと思う」としみじみ語る。その講義「百学連環」を再び公刊しようと作業を進めている。
(千倉書房・3080円)
(文・吉川一樹 写真・小山幸佑)
Wikipedia
印刷博物館は、東京都文京区水道トッパン小石川ビルにある印刷に関する博物館である。2000年に凸版印刷が100周年記念事業の一環で設立し、印刷文化に関わる資料の蒐集や研究活動、活版印刷などの印刷を実体験するなどの実践・啓蒙活動を行っている。館長は樺山紘一。
ミュージアムショップ、印刷関連図書専門のライブラリー、P&Pギャラリー、研修室(グーテンベルク・ルーム)、VRシアター(土日・土日に続く休日のみ)を併設している。
2002年に日本展示学会(会長:端信行)学会賞の作品賞を受賞している。
l 所蔵品[編集]
本木昌造・活字復元プロジェクト成果物
l 利用情報[編集]
開館時間
- 10時~18時
休館日
- 月曜日(祝日の場合は翌日)
入場料
- 一般400円、学生200円、高校生100円、中学生以下および70歳以上無料、団体割引有
併設のライブラリーは印刷機械や技術だけではない、印刷の歴史や社会的な背景、表現など印刷文化に関わる本全般を扱っている。99%の図書が閉架なので検索が必要である。
l 交通アクセス[編集]
江戸川橋駅から徒歩8分、飯田橋駅から徒歩13分、後楽園駅から徒歩10分。
都営バス上69・飯64系統「東五軒町」、「大曲」バス停から徒歩3分。
文京区コミュニティバスBーぐる「トッパンホール・印刷博物館」バス停から徒歩4分。
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