敗者が変えた世界史  Jean=Christophe Buisson  2019.12.17.


2019.12.17.  敗者が変えた世界史
上巻 ハンニバルからクレオパトラ、ジャンヌ・ダルク
下巻 リー将軍、トロツキーからチェ・ゲバラ
Es Grands Vaincus de L’Histoire            2018

著者
Jean=Christophe Buisson 『フィガロ』誌の副編集長であり、歴史に特化したテレビチャンネルの番組《イストリックモン・ショー》の司会を担当していた
Emmanuel Hecht 歴史研究家、ジャーナリスト、編集者。『独裁者たちの最期の日々』、『ツァーリたちのロシア』、ペラン社叢書「真実と伝説」の編者として知られる

訳者 
神田順子 序文、15章担当。 フランス語通訳・翻訳家。上智大外国語学部フランス語学科卒
田辺希久子 6章担当。青山学院大大学院国際政治経済研究科修了。翻訳家
清水珠代 7,8章、10章、12,13章担当。上智大文学部フランス文学科卒
村上尚子 9章担当。フランス語翻訳家、司書。東大教養学部教養学科フランス分科卒
濱田英作 11章担当。国士舘大21世紀アジア学部教授。早大大学院文学研究科東洋史専攻博士課程単位取得


発行日             2019.9.25. 第1
発行所             原書房

序文 敗者の美学
本書が取り上げるのは、栄光のきわみから地獄の闇に突き落とされた敗者13
傑物を打ちのめす運命の気まぐれを説明できるのは、虚栄心、誇り、軽侮、尊大、周囲を見ようとも耳を澄まそうともしない慢心、ヒュブリス(ギリシャ人が呼ぶところの過剰な野心や自信)、弱さや優柔不断といった、心の内側にある要因や性格の欠陥に説明を求めるべきであり、時として古代ギリシャの賢人たちがカイロスと呼んだ好機を取り逃がした、もしくは、力関係や奸計を軽視したという、ありがちな躓きが敗因となっている
英雄詩と歴史を司る文芸の女神クレイオの策術の好例が傲岸なチェ・ゲバラの伝説で、ゲリラとしての死を覚悟してボリビアのジャングルに向かいリベルタドール(解放者)を気取ってはいたが、地元のレンジャーに捕縛された時のゲバラはやせ衰えてボロを纏っていたにも拘わらず、後世にはこれと全く異なるキリスト教の殉教者の如きイメージが伝わる
傲岸不遜は敗者に憑りつく悪霊
敵を侮辱もしくは無視する(この2つは同じことを意味)こと以上にまずい手はない
歴史に名を残す偉大な敗者たちは、自分は神々と緊密な関係を結んでいると考え、往々にして常識を欠いていた。生まれつき自惚れが強い彼らは、権力の近親相姦的な恋人である「裏切り」が至る所で徘徊していることに気付かぬために挫折する

第1章          ハンニバル(BC247BC183) ローマを震え上がらせた将軍
ローマ進軍を目指して象を引き連れてアルプスを越える、という快挙によって歴史に名を残す。比類なき戦術家、無双の勇者だったが、同盟を結んでローマに対抗するようイタリア半島の部族を説得できなかった。アレクサンドロス大王から1世紀後、自分も大帝国を打ち立てようと考えた彼の壮大な計画に無関心で、商取引で富を得ることのみに熱心なカルタゴの寡頭支配階級の動きを封じることも出来なかった
BC216年春、ハンニバルに率いられたカルタゴ軍はアドリア沿岸北部からイタリア半島南部まで長い行軍を開始。ハンニバルの評価は正反対の評価があり、功罪相半ばする
イタリア半島南端の砦を奪取し、ローマとイタリア半島西南部の同盟氏族との連絡網を遮断。55千の軍勢でもって、南下してきた10万のローマ軍を迎え撃つ
カルタゴは、フェニキア人がアフリカ(現チュニジア)に築いた都市国家で、文化的にはギリシャ系
包囲戦でローマ軍の重装歩兵を無力化して殲滅、圧倒的に有利な立場にいたが、そのままローマに進軍せずに兵士を気遣って休息を与えたことが最終的な敗北の遠因となる
ハンニバルの作戦のお手本となったのは、脅しよりも魅力的な条件提示と相手国の尊重を武器にして、およそ10年間で大帝国を築き上げたアレクサンドロス大王で、ローマに対して勝利を積み重ね、同盟諸都市のローマへの不信を高め、同盟離脱を促し、戦闘抜きでローマが降伏せざるを得ないように持っていくことであり、ローマに抵抗するイタリア人のためにやってきたというのがハンニバルが繰り返し述べていたところ
BC241年第1次ポエニ戦役でローマに敗れたハンニバルの父率いるカルタゴでは、商売に差し障る戦争回避のためには何でも譲歩するという寡頭支配階級が、敗戦の責任を軍事指導者であったハンニバルの父親に負わせ、磔刑は免れたものの、ハンニバルは敬愛する父親の屈辱を我が事のように堪え忍んだ
ローマはサルディニアを征服した後、小麦の実りが豊かな交通の洋書シチリアを狙い、海洋国家のカルタゴもティレニア海の島々を拠点に自国の通商ルートの安全を図り、シチリアを重要な中継基地として利用していた
BC264年イタリア半島の征服をほぼ終えたローマ軍がシチリアに上陸、保護領としていたアグリジェントを荒らしまわったため、カルタゴが反撃して第1次ポエニ戦役が勃発
船乗りとは無縁だったローマ軍が戦術を見直し始めての海戦勝利を挙げ、続くBC256年の最大の海戦にも勝利し、アフリカにまで上陸を敢行。BC241年に雌雄が決した
ローマへの賠償金支払いのため、イベリア半島の貴金属に目を付け、軍の後継者に指名されたハンニバルの指揮の下ローマとの間で半島を折半するが、カルタゴ領内にあって服従を拒む地方を攻撃したのが、ローマにカルタゴ攻撃の口実を与えるところとなり、ローマがカルタゴに宣戦布告し、BC218年第2次ポエニ戦役(別名ハンニバル戦争)勃発
ハンニバル率いる10万弱のカルタゴ軍が戦史における最初の装甲車と呼べる戦象を活用してアルプスを越えて広大なポー平原に出てローマ軍を撃破するが、ミラノからボローニャ辺りで次の春を待つ。次の春、凍てつく寒さの中アペニン山脈を越えてローマへと向かうが、途中化膿性眼炎によって右目を失う
両者の戦いは、ヒスパニアとイタリアの他にも拡がり、ガリア、シチリア、サルディニア、マケドニア、北アフリカなどでも前線が開かれるが、ハンニバルがここまでローマに近づいたのも初めてであれば、手勢の弱体化も初めて
BC211年将来のスキピオ・アフリカヌスがヒスパニア遠征軍の指揮官に任命され、イベリア半島からカルタゴ軍を一掃
BC203年ハンニバルのほうからスキピオに和平の誘いをかけるが、翌年には戦端が開かれ、ハンニバルは辛うじて逃げ延び、ローマは各地のカルタゴ領を征服して一大帝国を築く
ハンニバルは祖国に戻って行政官として和議条件受け入れのために積極的に動くが、寡頭支配階級の抵抗は強く、逃亡者に成り下がった挙句シリア王アンティオコスの軍事顧問となるも宮廷内の派閥抗争から退けられ、その後の彷徨については不明な点が多い
BC146年第3次ポエニ戦役でローマが雌雄を決すると決意した結果、3年の攻囲戦の末カルタゴは徹底的に破壊され、住民は虐殺、生存者は奴隷に売られ、完全に滅亡

第2章          ウェルキンゲトリクス(BC80頃~BC46) カエサルに「ノン」といった男
アルウェルニ(現仏中南部オーヴェルニュ地方)の族長の子として生まれ、青年時代を過ごしたローマで軍事の才能を磨き、若くして族長となると、ローマから派遣された総督としてガリアを支配していたカエサルに対抗するため、ガリア各地に割拠する何十もの族の結束に初めて成功。英雄的に抵抗したが、BC52年アレシアの戦いで敗れる。この挫折はガリア独立の夢に終止符を打つが、その後にフランスとなる一帯に祖国愛の種を蒔くと同時に、フランス国民の物語を形づくることになる1つの伝説が誕生
BC60年カエサルはポンペイウス、クラッススとの間で3頭政治を取り決め、元老院の影響力を弱めて執政官に就任、BC58年には前執政官としてローマ辺境の複数の属州を統治する総督に就任、その中にガリア・トランサルピナ(フランス南部)が含まれていた。地域は平和だったが、ライバル関係にあったポンペイウスに対抗するには軍功が必要で、ゲルマン人の圧迫を受けて撤退してきた部族を押し戻すところからガリア戦争勃発。BC55年にはドーヴァーを越えてブリタンニアへ侵入し、武勲を挙げ「ガリアは静穏で平和である」との報告をローマに上げるが、ガリアは決して平穏ではなく、BC53年カエサルが全ガリア部族長会議を主催するがいくつかの部族は無視
カエサルがガリアにもたらしたのは、貧困、服従、不幸、略奪のみで、ただの隷属化が進んだため、これまで団結の気風が芽生えたことのなかったガリア人の間に反撃に向けた意見の一致が見られるようになってきた ⇒ ウェルキンゲトリクスの呼び掛けに応じてガリアの各部族が参集、ガリアの騎兵大隊が結成された時点で攻撃に出ることを決めるが、カエサルも直ちに反撃に出たため、アレシアに迎え撃つも撃破され、ガリアの部族は四散してウェルキンゲトリクスの敗北が決まり、ガリアは決定的にローマに組み入れられた
BC46年アフリカから戻ったカエサルは、自分の戦利品をお披露目してローマと世界を感服させようと凱旋式の目玉としてウェルキンゲトリクスなどをカエサルに脅威を与えたガリア人として晒し者とされ、テヴェレ川に投げ捨てられた
ウェルキンゲトリクスは死に、彼の伝説が生まれた
Wikipedia
最終的にはガリアの都市アレシア(現在のディジョンに近い地域)に追い詰められ、ローマ軍に包囲された。突破作戦を決行するも失敗し、部下達の保全を条件についに降伏、投降した(アレシアの戦い)。その後、ウェルキンゲトリクスはローマへと送られ、6年間トゥッリアヌムに投獄された後、カエサルの凱旋式が行われた際に処刑された。カエサルは基本的に敵に回った人間でも処刑することがなかった(蛮族に対してもやや基準が厳しいが、人質の倍増で済ますことがほとんど)が、若くして統一組織のないガリアの諸部族をまとめあげてしばしばローマ軍を打ち破った彼に対してだけはそうはしなかった。
近代に至ってもウェルキンゲトリクスはフランス最初の英雄、ガリア解放の英雄とされ、かつてアレシアの町があった現在のアリーズ・サント・レーヌ英語版にはナポレオン3の命によって銅像が建てられた。また、フランス人彫刻家フレデリク・バルトルディ作のウェルキンゲトリクスの像が、クレルモン=フェランの中央広場に建てられた。そのほか、サン=ジェルマン=アン=レーには彫刻家エメ・ミレ英語版作の像が建てられている

第3章          クレオパトラ(BC69BC30) 失われた幻想
自国エジプトを救い、過去の偉大なファラオの時代の栄光を取り戻すため、彼女は当時の強国ローマとの連携を考え、カエサルに次いでアントニウスの愛人となって、アレクサンドロスと同様に東西統一の幻想を抱く。魅力、固い信念、資金力を武器にあと一歩まで行ったが、彼女の夢を砕いたのは後に皇帝アウグストゥスとなるオクタウィアヌス。彼女を自殺に追いやったのち、巧妙で効果たっぷりのプロパガンダによって彼女のイメージ毀損に
努める。こうして作られたイメージは、女性そして女王としてのクレオパトラにとって不当なものであった
BC48年クレオパトラは、7歳年下の弟で夫のプトレマイオス13世からシリアの砂漠地帯に追放され、カエサルに追われたローマの執政官ポンペイウスを、歓迎すると見せかけて殺害し、首をカエサルに差し出すという稚拙な胸算用で、エジプトの政治と外交を危なっかしく揺さぶるさまを注視していた。案の定、カエサルはエジプトの野蛮な仕打ちをおぞましく思い、アレクサンドリアに逗留して、プトレマイオスに姉との関係修復を迫り、世界の覇者として権力を固めるためにエジプトの経済的な豊かさを利用できるようにするべく、ローマに従順な政治体制をこの国に築こうとした
政治的感の優れていたクレオパトラは、カエサルの「望み」を察知するとともに、王権復帰の機会ととらえ、密かにアレクサンドリアに戻ってカエサルの館に忍び込み、カエサルを虜にすることに成功。カエサルとクレオパトラ追放を狙ったプトレマイオス軍がアレクサンドリア戦役で敗れると、エジプト国民はカエサルに国威の回復への尽力を期待し、クレオパトラはカエサルの子を宿す
ローマへの帰途カエサルは小アジアに寄り、ゼラの戦いでポントス王ファルナケス2世に圧勝。この電撃戦での勝利を元老院に報告する時に述べたのが「来た、見た、勝った」
帰国後のカエサルはローマ市内の秩序回復に努め、ローマの共和制を有名無実化した後、クレオパトラと彼らとの間の息子を呼び寄せ、約2年間テヴェレ川右岸の別荘で暮らす
カエサルが下したいくつかの決断に自らの影響力の大きさを感じ取ったクレオパトラは満足 ⇒ アレクサンドリアに倣ったローマの都市改造や、エジプトの天文学者の計算に基づいた太陽暦(ユリウス暦)の採用に加え、終身独裁官に就任した後ですらエジプトのファラオに倣って自分を神格化しようとしている節もある
カエサルが専制君主となるのを恐れた元老院議員がブルトゥスに率いられ暗殺されたことを知らされたクレオパトラは絶望に襲われ、アントニウスが後継者として追悼演説をする中、群衆から死を叫ばれローマを去る決断をする
カエサルは姪の息子オクタウィアヌスを養子及び後継者に指名しており、クレオパトラとの間の息子が後継者としてローマの支配者となるという希望も断たれるが、アントニウスと気脈を通じれば自分とエジプトが守れるのではないかとの一縷の望みに賭ける
BC44年クレオパトラを迎えたエジプトは平和で富み栄えていた。プトレマイオス14世を殺害し、息子をプトレマイオス王カエサルと呼ばせて、偉大なエジプトの栄光を甦らせようと奔走
カエサルの後継者オクタウィアヌスとカエサルの最も優秀な部下の1人としてローマ軍騎兵隊を率いてカエサル晩年の戦いで目覚ましい活躍を見せたアントニウスは、カエサル暗殺者の討伐のため共闘を組むことになり、BC42年には目的を果たす。そのあとにクレオパトラは、ローマの支配権を3分割する取り決め(3頭政治)によりもっとも豊かな東方を手中に収めたアントニウスからキリキア(現トルコ)に召喚され赴き、目論見通り恋の虜にする
翌年には2人の間に双子も誕生するが、BC40年アントニウスの正妻がオクタウィアヌスに対抗してイタリアでアントニウスの弟ルキウスと挙兵して敗退、アントニウスは全ての責任を正妻に負わせて、自らはBC37年オクタウィアヌスと新たな協定を結び、彼の実姉と結婚して3頭政治を5年延長。クレオパトラは忘れられたかのようになる
ところがアントニウスは不可解な行動に出て、結婚を破棄しクレオパトラのもとに舞い戻り、クレオパトラは復縁の代償としてカエサルとの息子をエジプトの正統な後継者と認めるよう要求。全てを受け入れたアントニウスは、クレオパトラに唆されるままにオクタウィアヌスとの直接対決に臨み、BC31年ギリシャのアクティウムで対決。恋故に盲目となった指揮官を見限った麾下の複数の将軍の寝返りでアントニウスは惨めな顛末を迎える
クレオパトラはインドへの逃亡を試みるが失敗、アントニウスとともにローマに降伏を申し出るが無視され、BC30年オクタウィアヌス軍のエジプト侵入に対抗しようとしてアントニウスは自害に追いやられ、後を追おうとしたクレオパトラは生け捕りにされ、ローマに護送される直前毒をあおる。エジプトは正式にローマの属州となり、オクタウィアヌスは東方と西方を合体した世界帝国を築き、ローマ初代皇帝アウグストゥスとなって、カエサルの慧眼に応える
死したエジプト女王については伝説が史実を凌ぐことになるが、敗北を受け入れることができなかった女王の謎を全面的に解き明かすことは、今に至るも誰にもできていない

第4章          ジャンヌ・ダルク(1412頃~1431) 死をへての勝利
ロレーヌ生まれ、神と1人の国王シャルル7世のみに仕えた英雄、しかも平民の娘。シャルル7世が権威と正統性を取り戻すのを助け、同時に100年戦争で疲弊したフランスを救う。王政下で現実政治の祭壇に生贄として捧げられた娘が、歴史家ジュール・ミシュレが彼女の事績を称え、「政教分離派の聖女」に祭り上げるとともに、デュパンルー猊下(オルレアン司教かつアカデミーフランセーズ会員)が宗教裁判で異端者の烙印を押された彼女がカトリック教会の聖女と認定されるよう奔走したことから見事に甦った
ミシュレにとって、王国辺境の富農の娘ジャンヌは、民衆と愛国心の象徴であり、以後ジャンヌ・ダルク賛美は、社会主義者から極右に至るまで、政治的立場の違いを超える減少となった
1920年ヴァティカンは、異端裁判が有罪判決を下して火刑に処した彼女を聖女と認定(列聖)
神の命じるところのみに従うと明言したが政治については素人であり、彼女が「気高き王太子」と呼んだシャルル7世が実践していたレアルポリティークの、理想やイデオロギーを二の次とする手法が彼女の破滅を招く
1420年のトロワ条約により、フランス王シャルル6世の後継者はイングランド王ヘンリー5(ランカスター朝)と決められ、地域は3分割 ⇒ ①一方的に成立が宣言された英仏二重王国が欧州大陸において統治するランカスター朝フランスで、中心はノルマンディ公国、②ブルゴーニュ公が支配するフランスで、時勢に応じてイングランドとくっついたり離れたりする、③後のシャルル7世となるシャルル・ド・ヴァロワが治める「王太子のフランス」で、オーヴェルニュからアルマニャック、ラングドックを含み面積は最大だが、備えは万全とは言い難く、前2者に絶えず狙われ、略奪や虐殺に遭ってきたため、「国境近辺のナショナリズム」の肥やしとなり、ジャンヌはこのナショナリズムを、ヴァロワ朝王家への揺ぎ無い忠誠心という形で高らかに表明することになる
ヴァロワが逼塞している「ブールジュ王国」の北の境界線上にあるオルレアンの城砦を火器で強化し、イングランド勢と同盟者のブルゴーニュ派の侵入に対抗しようとしたが、膠着状態で意気消沈
富農に生まれたジャンヌの要望や外観については一切不明、髪は褐色で背は低かったという証言が残る。新興芯が強く、12歳の頃から天使、フランス王国の守護聖人となった大天使ミカエルの声が聞こえるようになったと言い、1428年神のお告げによってフランス王国を修復するため村を出て近隣の要塞に赴く。神の名で語り出した平民の女を君主が謁見することは当時としては稀ではなく、悪魔払いの儀式ののち王太子も彼女の話に耳を傾け、包囲されたオルレアンに派遣、戦闘に参加すると連戦連勝、90年間続いたヴァロワ朝の屈辱がそそがれる
ジャンヌは、シャルルがランスで教会の聖別によって戴冠することを熱望したが、指揮官たちはイングランドの大陸における橋頭保であるノルマンディに攻め入る方が先だと考え、次々に要塞を落とし、その後にランスのノートルダム大聖堂での戴冠のために敵陣のなか300㎞を行進、晴れてシャルルを戴冠させ、彼の王位継承権を否定したトロワ条約を無効にした
勢いに乗ってパリ入城を期したが、イングランド軍とパリを守るブルゴーニュ派に阻まれ断念、イングランドに対抗するためにブルゴーニュとの連携を模索、シャルルの優柔不断さに業を煮やしたジャンヌは王の意思に反して出陣、ブルゴーニュと戦って捕虜になる
シャルルも戦いに勝てなくなったジャンヌが邪魔になり、ブルゴーニュも彼女をイングランドに引き渡し、ジャンヌは教会の裁判にかけられ、一旦終身刑となるが最後は火刑に
4年後の1435年、アラスの和約の締結により内戦が終了。シャルル7世は和議のためにブルゴーニュ公の要求を悉く受け入れた結果、その後は着実に勝利を重ねて、翌年パリ入城を果たす。最後はジャンヌ抜きでフランス王国を再征服し、これを足掛かりとして「フランスの偉大な王政」を再興。和平に前向きなイングランド王ヘンリー6世とシャルル7世の義理の姪であるアンジューとの婚約によって休戦が本格化
1449年シャルル7世はノルマンディで起きた反乱を口実に進撃し、ルーアンに入城するが、同地で行われたジャンヌの異端裁判がシャルルを動揺させる。敬虔なキリスト教徒とされるフランス国王が魔女のお陰で戴冠できたとの噂を拭い去るため1450年にジャンヌ異端裁判の見直しに着手、6年後には一審の判決を無効と宣言
1453年イングランド軍は最後のカレーを残して撤退、カレーも1558年には陥落し、1066年のヘイスティングズの戦いで始まったフランスとイングランドの「500年戦争」が終了するが、イギリス王がフランス国王の称号を正式に放棄し、紋章から百合の花を取り去るのは1802年のアミアンの和約ができてから
ジャンヌの悲劇的なヒロイズムは、復古した王政にとって扱いが難しく、長く王家が彼女を見離したと非難を浴び続け、愛国的で神秘主義的な信念の持ち主でしかも平民であるというジャンヌのイメージが誕生し、フランス人にとって最初の救国者の象徴となるのは、ミシュレが事績を掘り起こした19世紀の半ばのこと

第5章          モクテスマ2世 最後の皇帝
本心では君主になることを恐れ、選ばれて歴史が浅いアステカ帝国の王座に就いたものの、もって生まれた内向的で控えめな性格を克服できず、混乱に手をこまねくばかり。発端は1519年スペインのコンキスタドールたちのメキシコ上陸で、鋭敏な戦略家コルテスに対し、無力な迷信や伝統に雁字搦めとなったモクテスマは弱々しく優柔不断で、ずるずると譲歩し敗北から破局へと突き進む。抵抗運動を組織できないまま、自らの臣民に軽蔑され見捨てられ、帝国首都のティノチティトラン(現メキシコシティ)でスペイン人の捕囚の身で最期を迎える。彼の死はアステカ帝国の死、1つの文明の終わりを告げた
150235歳でアステカの第9代君主に就く。鉱山を富の源泉とし人口2,000万を擁す
弱気を隠して遠征を続け版図を拡大
アステカの政治と社会の仕組みは、信仰と宗教文学とも呼べる神話に強く結びつき、迷信深い
早くから海洋に出て大冒険に身を投じていたコルテスは、1511年キューバ征服に参加、初代キューバ総督ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルの秘書官となり、1519年メキシコ征服に出立。首都の真東の海岸ベラクルスに上陸。モクテスマは特使を送って懐柔を図るが、モクテスマは自らコルテスの捕虜となり、武器をもって立ち上がった臣民に武器を捨てるよう話したため、臣民の怒りをかって1520年殺害。享年54
王の死によってスペイン帝国が支配するアメリカの黄金時代100年の幕開きを迎え、各地への征服を拡大、各地で現地の富の略奪と搾取を行う行政組織が整備されていく

第6章          ギーズ公アンリ1世 神に従い、王に反して
ギーズ公は、王冠以外の資質をすべて兼ね備える。ギーズ公爵家は何代にもわたって王位を夢み、婚姻によって王座は近いと思われたが、「血統親王(フランス・デュ・サン)」即ち聖ルイ王の子孫にあたらないため、王位希求は挫折する運命にあった。特に、カトリック同盟との連携を強め、「平和的」な権力掌握ではなく、プロテスタントとの全面戦争を選んだことが敗因となる。「真の信仰(カトリック)」への義務を怠ったとして、国王アンリ3世に対するカトリック側の反発を煽ったことは、自身の死刑判決に署名したのも同然だった
王宮となって100年がたつブロワ城は、ロワール渓谷の宝石と呼ばれ、ルイ12世とフランソワ1世の手で従来のゴシック様式に加え、フランス軍がイタリアから持ち帰った装飾的なイタリア様式が取り入れられて、新たなフランス芸術の象徴となっていた。フィレンツェ出身のカトリーヌ・ド・メディシスは、ヴァロワ家のフランソワ1世の息子アンリ2世に嫁ぎ、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母親となって、この城の3つの庭園に心血を注ぐ
1588年アンリ3世は、プロテスタントのユグノーに対し弱腰で融和的だとして、パリ市民の反対闘争に遭いブロワ城に逃避。緊張の高まりを受けて国王は、ギーズ公兄弟の殺害を決意。国務会議と偽って呼び出し殺害
アンリ3世は、四半世紀前兄の国王シャルル9世から疎まれ、母親の仲介でポーランド王に推挙されたが、兄が早世したため国王としてパリに戻る
ギーズ公はヴァロワ家とルイ12世の孫同士で、何世代にもわたって両家の間の婚姻を絆とする親戚同士で、幾多の婚姻を通して序列3位まで成り上がり、さらに王権に空白が生じるたびにスペインとの関係強化をも目指し、異端のユグノー根絶を図る
パリでもプロテスタントの疑いある者が逮捕され、「真の信仰」に立ち上がる
暴力的な抗争がエスカレート、王太后はどちらも立ててバランスを取ろうとしたが、カトリックの大貴族たちは王家の弱腰に憤慨し、王家抜きで「伝統的な信仰」を守ろうとしたが、その急先鋒がギーズ公アンリで、「教皇派」の反対派貴族の領袖と見做された
1562年王権がサンジェルマン寛容令を出すと、カトリック側の怒りはさらに高まり、君主国フランスの原則である「1つの信仰、1つの法、1つの王」が破られれば戦争しかないとして内戦開始 ⇒ 第1次ユグノー戦争に発展、1563年アンボワーズの和議で集結したが、改革派の礼拝を認める内容だったため、紛争の根本的解決とはならず再び内戦状態となり、1598年ナントの勅令によって一旦終止符が打たれたものの、カトリクとプロテスタントの戦いが終わることはなかった
1567年モーの奇襲は、プロテスタント側がシャルル9世を人質にしようとしたもので失敗に終わり、続く第2次ユグノー戦争(156768)でギーズ公アンリが初陣
王室は政略や婚姻政策にばかり捉われ、カトリック臣民の怒りを過小評価。ユグノーを支持し、教皇から破門されているイングランド女王エリザベス1世との防衛条約の締結に民衆が激怒 ⇒ 1572年ギーズ公アンリの主導によるサン=バルテルミーの虐殺に発展、地方にも拡散するが、73年プロテスタントの中心都市ラ・ロシェルの包囲戦が失敗に終わる
1572年アンリ3世の聖別式が行われ、ギーズの同族と結婚するが、ユグノー内戦は継続したまま第5次を迎え、プロテスタントと同盟した一部のカトリック教徒が反乱を起こし、ギーズ公の活躍によって2度までも王座が守られる
にも拘らず自信のないアンリ3世は、1576年ボーリューの勅令でユグノーやカトリックにも保証を与え、改革派の礼拝を全国で許可、サン=バルテルミーの死者の名誉まで回復させ、挙句の果てに謀反を起こした王弟のアランソン公の封土を増やし、様々な勢力に屈したアンリ3世は屈辱のあまり涙を流す
1584年跡継ぎのないアンリ3世の、生き残った唯一の弟アランソン公が結核で亡くなると相続を巡る争いが勃発。5回も改宗を繰り返した後プロテスタントになったナヴァール公アンリが合法的に王位継承権を主張できるようになり内戦に突入
軍事的に膠着状態の中、国王軍がナヴァール公アンリ軍に初めて敗退を喫し、ギーズ公は第8次ユグノー戦争で連戦連勝、神聖ローマ帝国軍をも破った後パリに入城、熱狂的に迎えられ、国王はシャルトルへ逃避、ギーズ公にとってはルビコンを渡る絶好機だったが、王への忠誠を誓っていただけに、王の逃避は打撃で、パリ市民は王権の打倒までは視野になかったことから、ギーズ公も王に表敬、後ろ盾だったスペイン艦隊がイギリス艦隊に大敗したことも影響。88年王は権威を取り戻し、意に従わないギーズ公の殺害を決意する

第7章          コンデ大公 その傲岸不遜
ルイ2世・ド・ブルボン=コンデは、反逆者であり対勝者。大軍人であると同時に王になってもおかしくなかったが、傲岸不遜な性格が災いして思慮深い政治家になることが出来ず、敵方に寝返ったものの、結局膝を屈し、かつて歯向かって相戦ったルイ14世に仕えることになる。数奇な運命を辿ったコンデ大公は貴族階級の象徴だっただけでなく、名誉の時代から権勢の時代への移行を体現してもいた
1643年アルデンヌの平地で対峙したのがネーデルランド総督指揮下のハプスブルク家の部隊とアンギャン公(コンデ公の儀礼称号)率いる劣勢のフランス軍で、予想に反しフランス軍が大勝し、新しい英雄の誕生への歓喜が沸き上がる。後にアレクサンドロス大王に例えられるようになったようにリーダーらしいカリスマ性を備える
1635年フランスがスペインに宣戦布告して以来、両国は北の国境の要塞を巡って毎年春になるたびに衝突、一進一退を繰り返す
フランス国内は疲弊し、農民や貧民が蜂起、ルイ13世の死去でますます混迷
1648年ウェストファリア条約締結で漸く30年戦争が終結
コンデ公の父はルイ13世から嫌われ不遇をかこったまま46年死去、息子は軍功に対する褒章を貪欲に求め、その傲岸不遜さが周囲の反感を買う
1650年捕囚の身となるが、国内は3分して抗争を繰り返し、コンデ公は6年にわたってスペイン軍の最高司令官に転身、53年には欠席裁判で死刑を宣告され、ブルボンの家名と爵位を剥奪
1654年ルイ14世がランス大聖堂で戴冠式
1659年ルイ14世とスペイン王女の婚約を含むピレネー条約を締結、広大な領地と堅固な国境線を確定。コンデ公はブルゴーニュを取り戻す条件としてフランス国王に謁見して過去の振る舞いへの償いを誓わされ、高等法院もコンデ公に対する判決の「赦免状」を登録
ルイ14世は、男系王族の「助言の義務」制度を廃止、日に日に権力を強めていき、フェリペ4世没後スペインに対し戦端を開き、スペイン領ネーデルラントに侵攻。コンデ公は再び請われて王軍を率いて勝利に導く
王政は雪辱を果たし、威厳に満ちて絶頂期に向かう中、コンデ公は自分の領地シャンティイ城で隠遁生活を送り、若い頃は放蕩を尽くしたが、死期が近づくにつれ信仰心を持つようになる
1686年死去、ルイ14世は「フランス随一の偉大な人物を亡くした」と弔辞を読み、地位が脅かされ、何度も苦しい目に遭ったことをこの一言で帳消しにした

第8章          フランソワ・アタナズ・シャレット わが心のヴァンデ
1つの信条と抵抗の精神を全うした人物として、ふくろう党の英雄の軍事的敗北と悲劇的な死は、ヴァンデ戦争の終焉を告げるとともに伝説を生む
米独立戦争中イギリス海軍に屈辱的敗北を喫した軍艦が辛うじて生き残り、アメリカの独立を承認するパリ条約が米英間で締結された1783年に本国に帰還。パリ条約はフランスの勝利でもあったが、その中でひと際目立ったのがシャレット。ブルゴーニュ出身で早くから海に憧れ、海軍将校の教育を受ける
1789年国中で暴動が起こる中、年上の裕福な未亡人と結婚したシャレットは一旦船を降りるが、王宮を守るために立ち上がる ⇒ 暴動が広がり、ルイ16世は捕らえられて共和国が成立
1792年シャレットは、青軍(共和国側)に対抗して立ち上がった農民に担がれ、白軍(反革命軍)の大将として戦い、戦火と血にまみれたヴァンデ地方に王党派の地歩を築くことに成功し、王党軍総司令官にしてルイ17世の代理人に選ばれる
ロベスピエールの処刑と恐怖政治の終焉をきっかけに、共和国軍は内戦の幕引きを画策し、シャレットのふくろう党に和平が持ちかけられ、1795年に一時的な合意が成立
シャレットは小さな王国ベルヴィルで合意の条件である王太子ルイ17世とその姉マリー=テレーズが解放されるのを心待ちにしたが、ルイ17世は骨結核で死去したとの通知を受け取り、同年再び武器を手に立ち上がる。一時イギリス軍が支援しようとしたが失敗、ルイ16世の弟アルトワ伯(後にシャルル10世として即位)を迎えようとしたがイギリスの反対にあって果たせず、最後は青軍に追い付かれ捕縛されてナントで銃殺刑に処せられる

第9章          リー(18071870) 勇敢な将軍
「南部の象徴」「南部連合の伝説的存在」といわれるリー将軍は、南北戦争における最も偉大な将校。生粋のヴァージニア人は、ウェストポイントで軍事教育を受け、ジョージ・ワシントンの理念に従おうとしていた。そのリーが南軍を選んだのは、建国の信念より、自分の土地、家族、そして生まれ育った郷土への愛着がまさったから。「レ・ミゼラブル」と呼ばれた同朋とともに、人数も物資も優勢な北軍を敵に回して、長い年月を戦った。奴隷制という「失われた大義」を擁護する人たちの頂点に立ったため、リーは兵士の鑑とされた紳士的な人物だったにもかかわらず、最悪の評判に晒され、名誉ある敗北すら忘れ去られることとなる
降伏文書の受け渡しに立ち会った北軍のグラントと南軍のリー両将軍はウェストポイントの15歳違いの卒業生。184647年の米墨戦争で出会っているが、グラントにとってリーは憧れの先輩だったが、リーには全く出会った記憶がなかった
1863年のゲティスバーグまでは殆ど負け知らずで、何度も北軍との境界線であるポトマック川の北に侵攻し、ワシントン近郊まで大砲で近づいたが、リーが主導したゲティスバーグの敗戦の責任を取ってデーヴィス南部連合大統領に交代を願い出るが認められず
リーはヴァージニアの名家の出身。父親は独立戦争で軽騎兵の指揮官として活躍、その後ヴァージニア州知事。母方もイギリスの名高い政治家の家系。妻はジョージ・ワシントンの義理の孫の1人娘
52年ウェストポイントの校長となり、55年には西部征服に抵抗するインディアンとメキシコ人の征伐に向かうが、義父の死で軍を離れる
59年奴隷制に反対するジョン・ブラウンの反乱の際、リーは海兵隊長官に任命され秩序の回復と反逆者の捕縛のため指揮をとり、事態を鎮圧
60年の大統領選で奴隷制廃止を訴えた共和党のリンカンが当選すると、サウス・カロライナ州が合衆国連邦からの離脱を宣言。リンカンは事態の鎮静化に努めてきたが、チャールストンの要塞が南部に統治されることを拒否して包囲攻撃し宣戦布告となる
連邦離脱の直前テキサス軍に復帰したリーは、なにより生まれた土地に愛情を持ち奴隷解放にも好意的な地主だったが、南軍の旅団長の地位もリンカンからオファーされた連邦軍総司令官の地位も蹴る。一時連邦軍の軍務離脱を決意するが、「連邦への献身、アメリカ市民としての忠誠心や義務感をもってしても、私に近い人々、家族に対して手を上げることは考えられない」としてヴァージニア軍の指揮に戻る。緒戦の撤退で更迭されるが、戦争相として徴兵制を導入するなど南軍全体の立て直しに貢献、62年後半からは前線を指揮してオーラと威厳を高める
ゲティスバーグでの敗戦の後、65年南軍の総司令官に任命されたが、反対を押し切って奴隷の志願兵による連隊迄結成しようとしたが失敗
晩年の数年間、レキシントンのワシントン大学学長として高い評価を受ける
南部諸州の人々は後世まで、将軍の高潔な人格と優れた戦略を褒め称え、敗者だった過去は帳消しにされた。かつての敵将グラントも69年大統領就任後は、和解のプロセスを積極的に推進したので、リーは高く評価されるようになり、国民全体の意識に、完全に名誉回復を果たす。分裂から統合へ向かうアメリカにとって、当代一の名将軍をいつまでものけ者にすることはできなかった

第10章       トロツキー(本名レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン) 裏切られた革命家
1905年ロシア革命時のサンクトペテルブルク・ソヴィエト(評議会)指導者、ボリシェヴィキが権力奪取した17年のクーデターの首謀者、類まれな演説家、鋭敏な理論家、赤軍の設立者、革命の軍事組織主導者であり、レーニンの後継者を打診されてもいた。彼が最も軽蔑したスターリンにより、追放されたままメキシコで暗殺。傲慢な性格と政治屋的政治への軽蔑が災い。彼が批判したのは、凡庸な「官僚」たちですら見違えるほど立ち回りがうまく危険な存在となり得る政治の世界だったが、ロマンに満ちた生涯と悲劇的な最期は、知識人、そして政治家としての威光を彼に与え、その影響力は20世紀を通して衰えることがなかった。スターリンは権力の戦いに勝ったが、トロツキーは死後の戦いに勝った
1922年共産党中央委員会書記長にまだ知名度も低かったジョージア出身のスターリンが選出される。17年の革命以来、数々の惨禍を経験して荒廃しきったロシアは、疲れ切った初代赤い皇帝レーニンの後継者として当初満足を持って迎える。ライバルだったトロツキーは、演説もうまく頭脳明晰で、リーダー格であると同時に組織力もあったが、傲慢ですぐ大風呂敷を広げる癖があり、人を見下して踏みにじったため、いつも足を掬われ、権力の中枢に行くほど敵が多かった
トロツキーの父親は、ロシアが帝国の国境安定のためウクライナ南部へ送り込んだユダヤ系開拓民の1人で、大土地所有者として成功。息子は中等教育で出会ったチェコ人の人民主義者に感化され職業的な革命家になることを決意。1897年ロシア労働者同盟の創設に携わるが、オフラーナ(秘密警察)に逮捕され、4年間東シベリアに流刑
1902年逃亡を企て、ロンドンでレーニンに会う。1905年サンクトペテルブルクでの「血の日曜日事件」が革命のきっかけとなり、トロツキーもロシアに帰って武力蜂起を企て、労働者のゼネストの際にはサンクトペテルブルクの初期ソヴィェト(評議会)を指導
一時逮捕され終身流刑を宣告されるが逃亡、ヨーロッパからニューヨークまで亡命生活を続けながら、革命思想家としての地歩を固めていく
1917年ブロンクスで革命勃発を聞き急遽首都ペトログラードに戻り、レーニンから武力による権力奪取を任された時は上機嫌で、クロンシュタットの水兵たちを率いて臨時政府に対し軍事クーデターを進め、レーニン率いる新政府/人民委員会議(ソヴナルコム)組織に貢献するが、ユダヤ人の出自を理由に幹部就任は辞退 ⇒ 反ユダヤ主義が先鋭化することを予測していたのでは
レーニンの人民政府で外務人民委員に就任、独墺との講和交渉に臨み、18年ブレスト=リトフスク条約締結、実質降伏を認めたようなものだったが、時間稼ぎとなりモスクワに遷都、トロツキーは軍事人民委員に就任して軍の立て直しを図る ⇒ 赤軍を編成し、内戦を指揮。かつての同胞が反ボリシェヴィキで立ち上がった時の弾圧は、残酷な恐怖政治の実践であり、革命を成功させるためには全世界を革命に巻き込まなければならないという「永続革命論」を唱えて、徐々に隠然たる後継者としての存在感を増していく
1922年新たな弾圧機関として秘密警察を改組したGPUを設立
1923年何度も発作を起こして瀕死のレーニンは、スターリンの関係を知って訣別を決意し、トロツキーにスターリンを押さえつけるよう促したまま死去。早々に手をまわしていたスターリンは、党執行部とその官僚制化批判を口実にトロツキーを排除
27年にはたびたび癲癇の発作を起こし、党からも除名され、多くのトロツキストはシベリア送りとなり、トロツキー一家も翌年カザフスタンに追放、さらに32年ソヴィエト国籍を剥奪され国外追放となって、40年メキシコでの亡命生活中にソヴィエト共産党内務委員会から派遣された工作員によって暗殺
公的な失脚を翻すかのように知的営為が結実、1938年アメリカの哲学者ジョン・デューイが議長を務めたモスクワ裁判に関する国際調査委員会で不思議な告白をする。「個人的には権力に執着はない。文学的活動の方がよほど満足感を得られる。権力は重荷となるが、避けられない必要悪だ。あなた方の思想に分があるときは、権力を手にすべき。しかし権力のメカニズムは悲惨なもの」
トルコからメキシコまで、亡命生活中は革命のために闘う禁欲的闘士として規則正しい生活を崩さず、外国の闘士やシンパが来ると、ファシズムに対する共産主義インターナショナル(コミンテルン)の敗北を宣言し、新たに「ボリシェヴィキ=レーニン主義」なる第4インターナショナルの設立を宣言するべく奮闘
トロツキーは、その死を境に、純粋な精神、「人間の顔をした」周期的な共産主義の提唱者に変貌。聖人に近い存在となり、少なくとも殉教者であることは間違いなく、あまりの皮肉な結末に、無神論を唱えるマルクス主義者トロツキーは泉下で困惑しているかもしれない

第11章       蒋介石(18871975) 丈にあわぬ服を着た男
農村の子弟から身を起こして総司令()となった男は、40歳にして不可能だと思われていたことを成し遂げたが、優柔不断なところがあって、危うい成功は手に余った。32年からの日本の侵略に手をこまねき、自ら率いる国民党の指導層による国の富の簒奪と腐敗を見て何も行動を起こさず、中国人民の支持を日々失うに任せた。林彪と毛沢東の共産ゲリラ躍進の土壌を作り、彼らからの屈辱的敗退の後台湾へ逃避、この島を剛腕で4975年まで統治
9歳で「郷紳」という名士だった父の死に会い、さらに2年後弟の死にあって、母親に病的なまでに厳しく育てられ、痩せこけて機嫌の悪い乱暴者となり、これほどまでに堅苦しく、垢抜けず、寡黙な男もいないというほどになる
職業軍人を目指し、19歳で中国人士官を養成していた東京振武学校へ派遣され訪日、満州族の清朝の偽善者と闘う愛国的結社の活動家たちと知り合い、1911年の上海での革命の際帰国して戦う。孫文による新体制の用心棒となるが、袁世凱による転覆で上海の国際租界に潜伏して非合法活動に従事する傍ら、淫蕩に耽る
17年孫文が復活し、軍団長に昇進して軍人生活に戻り、大元帥府大本営参謀長となった蒋介石は、1927年ソ連滞在を通じて赤軍制度に感銘を受け、アヘン戦争以来の西欧勢力や列強の傀儡たる軍閥に対抗する「革命的民族主義者」として自負、中国の再統一を目指す
蒋介石は本質は反共産主義者だが、「ソヴィエトニキ」というソ連からの軍事顧問を雇って軍事クーデターにより国民党のすべての権力を手に入れ、北伐を敢行、26年末までには6つの省と全土人口の1/3を支配下に収めたが、飢餓と洪水が国中を蝕みつつあり、南方からは毛沢東の中華ソヴィエト共和国が、北方では日本が満州国として廃帝溥儀を擁立
1932年上海事変に際し、外敵よりも内敵である「共匪」掃討を優先させ、34年には紅軍を撃破し、逃避行に追いやる
1936年西安事件により、張学良が蒋介石を拉致監禁し、密かに手を結んでいた周恩来の前で国共合作を承諾させられ、共同抗日戦線成立。最初の戦いが盧溝橋事件。37年の首都南京での虐殺事件を経て、より深奥部の武漢へ避難、さらに重慶に撤退
農民を犠牲に撤退を続ける国民党政府は、領土だけでなく民心も失っていく
真珠湾攻撃によって息を吹き返した蒋介石は、1943年末のカイロ会談ではローズヴェルト、チャーチルと並んで蒋介石夫妻が公式写真に一緒に収まり、蒋介石はアヘン戦争による屈辱的不平等条約に決着をつけ、満州と台湾の回復の約束も取り付け、完全な主権の回復を信じたが、最終局面に蒋介石の出番はなかった
45年ミズーリ号上での降伏文書調印の際は、マッカーサー最高司令官の傍らに総統名代の徐永昌将軍が立つが、中国の内戦はこれから再燃
465月国民党は南京に再建。共産党との初期対決で国民党が有利に立った後だけに歓呼の声に迎えられたが、反飢餓と反内戦の国民の声は強く、鎮圧をもって応えたため、民衆の不満が爆発、47年夏には潮目が変わり、国民党軍の敗北が続く
49年台湾に避難、台湾人エリート(本省人)と大陸の中国人(外省人)との厳しい反目の中、アメリカの軍事的な庇護の下、蒋介石の独裁体制が敷かれる
アメリカが台北と外交関係を断絶し、中共を唯一の中国と認めるのは蒋介石の死の4年後

第12章       チェ・ゲバラ(192867) 伝説となったある男の最後の転落
絶対自由主義革命なる幻想を追い求め青春期の倦怠を紛らわせる。ボリビアの軍事政権によって武器を手に名誉の死を遂げる。数十年にわたって、意志と行動を貫いた革命の英雄の象徴となったが、そこには誤解があって、色男であり、ただの天使ではなく、「徳か恐怖か」と叫び、死の天使長と呼ばれたサン=ジュストの系譜に連なると言っていい。部下に対しては暴君の如く振る舞い、解放するために来たと言いながらキューバからアフリカを経てボリビアに至るまで、ゴルゴタへの道を行くがごとく戦った
1966年ボリビアに初めて革命の灯をともしに行くためにゲバラが仲間を訓練。いずれアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、ペルーに広げていくきっかけとなるものと期待され、行く先をくらますためモスクワ、パリ経由でボリビアの首都ラパスに向かい、翌年ボリビア政府軍に捕縛され処刑
ボリビアは、政情不安でクーデターが頻発し、鉱山労働者組合が伝統的に強い南アメリカ最貧国で、5つの国と国境を接し、南米大陸一帯に革命の狼煙を上げるには絶好の位置にあった。国土がフランスの2倍と広く、支配が生きわたりにくく、パルチザン活動には理想的な環境
バリエントス将軍のもと、農地改革によって土地所有者となり農村共同体同士の対立を解消し、革命を成就したのに、ゲバラが自分の革命を押し付けようとやってきたため、若手将校が中心となってゲバラと戦う
10代にわたってアルゼンチンに住む一族に生まれたゲバラは、エリート教育を受けて医師免許を取った後、中南米全域を旅しながら、職業的革命化への道を歩み、懐疑精神旺盛で皮肉屋だったゲバラは厳格な戦闘員となる。メキシコの病院で働くうち、カストロがいる「キューバ人グループ」を紹介されカストロと意気投合。初めてキューバで反バティスタ政権のゲリラ活動に参画。58年にはカストロの右腕に昇格
カストロ兄弟とゲバラに率いられたゲリラ部隊がバティスタの正規軍を撃破、そのままバティスタはサントドミンゴに逃亡し、カストロ軍が首都ハバナに入る
粛清のための虐殺の指揮を執ったのはゲバラ
ゲバラがすぐに闘争的になり極度にマルクス主義寄りの言葉を吐くことに疑念を抱いたカストロは、常に「右翼でも左翼でもないオリーヴ色の人間主義革命」だとしてアメリカの意を迎えようとしていた
危険な男ゲバラは、キューバにおけるアメリカ資本の3/4を占めていた砂糖産業、製油所、電話電力会社などの国営化を断行し、キューバ経済を危険な状態に陥れる
制度を先鋭化し、政党の廃止、新聞雑誌の廃刊、カトリック系大学の国有化、近隣地区を監視するための革命防衛委員会の設置を進める
59年初めての外遊は3か月に及び、ナセル、ネルー、チトーなど第3世界の大物たちと次々に会談
62年のミサイル危機の時には、ミサイル配備の中心地となったピナル・デル・リオ地方の防衛を任される一方、社会主義を根付かせるため獅子奮迅の働きをする
カストロとゲバラの二人三脚は崩壊。カストロは絶対的権力を行使するようになると特権階級の魅力を味わおうとし、ガリシア人集団の新しい首長として振る舞う一方、ゲバラはカストロに対する揺るがない忠誠心を持ちながら、制圧すべき戦地のことを念頭に置いていた
カストロは、ゲバラをコンゴに新しい中核前衛を打ち立てる目的のために派遣
ゲバラが最後に公の場に姿を現したのは65年。96日間の世界旅行の終わりにキューバに帰ると、カストロにつかまり、ソ連寄りになったカストロはもはや「平和的共存」を金科玉条としていたが、ゲバラは相変わらず空想的で、カストロの心変わりに失望してキューバ国籍を始め党幹部の地位などすべてを捨てて65年モブツが強権をふるうコンゴに入るが、今後では革命の気配は全く起こらず、ゲバラは「同盟者」カビラを軽蔑し、カビラとは全く相容れない仲となる。ゲバラは挫折し、カビラはゲバラの死から30年後の97年モブツを倒す

第13章       リチャード・ニクソン(191394) 呪われたN
37代大統領はアメリカで最も偉大な大統領の1人。国内ではそれまでの民主的大統領の実績を遥かに凌ぐ、最貧困層や黒人に向けた寛大な社会政策を実施。国外ではベトナム戦争を終結させ、最後には共産主義国の中華人民共和国との関係を改善するなど、卓越した外交手腕によって25年間の冷戦から世界を解放。これほどの政治家がなぜウォーターゲートという三流工作員が仕掛けた事件に躓くことになったのか。苦境に陥った彼に黒い噂がなすりつけられて広がり、消し去ることができなかったのは不思議でならない
1974年ニクソンは、「ウォーターゲート事件」で司法妨害、議会に対する侮辱、権力乱用のかどで弾劾の瀬戸際に立たされ、粘りに粘った挙句辞任。46年に初めて出馬した大統領選以来つけられた「トリッキー(詐欺師)・ニクソン(ディック)」という手ひどい綽名は最後まで彼に付きまとった
政権の座を降りてから25年も、最悪の大統領の筆頭とされ続ける。一部の調査ではヒトラー以上に国の恥と見做されている
ニクソンの謎はその急激な転落にある ⇒ 69年月面着陸の成功が絶頂期
苦学生だったニクソンは、17歳でハーヴァードとイェールの奨学金を手に入れながら、両親の手伝いをするためにカリフォルニアのホイッティアー大で歴史と政治学を学び、南のハーヴァードと呼ばれるデューク大大学院に入る。卒業後はカリフォルニアの弁護士会に入り、ホイッティアーにある法律事務所で相続権を担当
2人の娘の下は1948年生まれでアイゼンハワー元大統領の孫と結婚
46年共和党から推されて下院議員選挙に立候補、ルーズヴェルトのニューディールを批判して名を上げ当選、さらに標的を「アカ」に変えて攻撃し4年後には上院議員に当選。39歳で副大統領に選出
60年ケネディに負け、2年後のカリフォルニア州知事選でも敗退した時は政界引退しても不思議ではなかったが、弁護士として再出発しながら6年後には共和党内で右派のゴールドウォーターとリベラルなネルソン・ロックフェラーに対し中道主義的で和を重んじた考えを主張し、マイナスイメージとなっていた神経質さが消えて68年大統領選に勝利。56歳での華々しい復活劇はアメリカ政治の歴史上異例
71年『ニューヨークタイムズ』の1面に「ペンタゴン・ペーパーズ」が掲載され、リークした機密文書から解き明かされた30年にわたるベトナム政策をまとめた内容で歯車が狂いだす。皮肉にも、ニクソンの長女の結婚を報じたコラムのすぐ隣に掲載された
この漏洩事件によってニクソンと報道陣の間に亀裂が入り、ホワイトハウスのメンバーはますます疑心暗鬼となって、トラブルメーカーを特定し監視する「プラマー・チーム」(鉛管工の意。漏洩を防ぐことから来た呼称)を設置。すぐに犯人が特定されマクナマラ国防長官の部下で元海軍大尉のタカ派のエルズバーグ。内輪の人間だったことが火に油を注ぎ、元々猜疑心の強かったニクソンはますます周囲に目を光らせる
大統領として、アメリカに平和をもたらすための努力を惜しまず、ヴィクトリア時代のイギリス宰相ディズレーリを手本に、福祉国家政策を強化、貧困を減らし、アフリカ系アメリカ人の中産階級形成を後押し。熱心に社会保障制度を根本的に改革し、貧困層の4人家族すべてを対象とする最低賃金保障制度(アメリカでは革命に等しい)を創設。議会の自称「進歩主義」議員から反発を受けたほどの変革で、30年後オバマがこれに近い制度を実施したが、ノーベル賞の経済学者クリュグマンによると、ニクソンの制度と比べると規模は小さいという
民主党のジョンソン前大統領時代に暴動が頻発していた郊外に平穏を取り戻そうと努力。マイノリティに対する「つまらぬ冗談」
で非難を浴びたりしたが、南部の学校の人種統合政策に最も注力、小学校での白人と黒人の分離制度を廃止したのもニクソン
「ペンタゴン・ペーパーズ」が暴露した内容は、前政権の失態を暴くものだったが、「ドラ息子」だったにもかかわらず暗殺によって聖人に祭り上げられたケネディを批判することは不可能であり、元々卑劣な行為は苦手だったニクソンは、同時に政治活動を始めたケネディに対して常にフェアプレーで接してきた
ニクソンは、正反対の境遇に育ったケネディに対し「階級コンプレックス」を抱き続け、60年の大統領選ではテレビの普及によって広報戦略が政界の生き血を吸い取り始めており、完膚なきまでに打ちのめされる
72年の大統領選挙戦の最中、プラマーたちはウォーターゲートビルの民主党本部に盗聴器を仕掛けるがあえなく逮捕され、CIA工作員の身元が露見しホワイトハウスの電話番号から大統領の関与が明らかになったにもかかわらず、自らの関与はなかったと嘘をつく
ニクソンは、48年有能な外交官がソ連のスパイとして告発された際、下院の非米活動委員会の一員となって偽証罪で有罪判決に追い込み、冷戦勝利に筋金入りの反共主義を示して「ホワイトカラーのマッカーシー」と呼ばれるようになった経歴から、アメリカの司法機関は嘘を犯罪以上に悪をもたらすものと見做すことを誰よりも知っていたはずなのに、これまでの危機を乗り切ってきた自信からか、戦術を見誤った
彼が経験した最初の危機は、アイゼンハワーの副大統領候補の時。種々雑多な出資者からの裏金の提供に世間の批判が激化し、陣営から見放されそうになった時、テレビで国民に訴えかけ、その自己弁護は後に弁論の模範として語り草となった。「政治資金を受け取ったことを認めたうえで、相手も何の代償も受け取っておらず、また自らの全資産を公開し、どんな僅かなお金でも正当に得たものであることに満足している。ただ共和党の支持者から贈られた子犬だけは受け取った」と話し、視聴者は子犬の話に涙したという。この緩急自在な名調子は、子犬の名を取って「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれて後世語り継がれる
当時、毛沢東との会談や軍縮に関するソ連との合意などの外交上の成功や、「平和と繁栄の候補者」として南部の保守的で人種差別的な民主党支持者迄取り込んで圧倒的な優位で選挙戦を終え、50州中49州で537人中520人の選挙人を獲得
圧勝の後、ニクソンは部下の総辞職を要求、僅かな例外が首席補佐官のハルデマンとアーリックマン。さらにナチによって故郷バイエルンを追われたユダヤ系知識人キッシンジャーも神出鬼没だったが、ニクソンは病的に独占欲の強い側近を唯一の相談相手としたものの、外交政策を自らの独壇場にしようとしているとして心底では信用していなかった
もう1人側近の怪物がいかなる組織からも自由なチャールズ・コルソン元海軍大尉で、ウォーターゲート事件のお粗末グループを集めた張本人
大統領就任の宣誓式直後、民主党本部侵入事件の容疑者たちは、最も重い刑を科す傾向があることから「最高刑シリカ」と呼ばれたシリカ判事の目に並ぶ。アメリカ史上最も長い戦争となったベトナム戦争の終結のパリ和平協定調印の快挙も霞むほどの国家的事件に発展
FBINo.2マーク・フェルトが、ニクソンによってフーヴァーの後任に指名されなかったことを恨んで『ワシントン・ポスト』の記者に情報を提供したことにより事件の性質は一変。大統領の部下が次々に司法取引に応じて離反。ニクソンは司法長官の更迭で対応したが、ホワイトハウス内でも盗聴のための録音システムの存在が暴露されるに及んで万事休した。司法長官によってホワイトハウスの捜査権限を持つ特別検察官が指名されたが、ニクソンはその解任を指示、拒絶した司法長官も副長官も罷免(「土曜夜の虐殺」)。テープの一部公開によって大統領による司法妨害が明らかとなる。その過程でアグニュー副大統領が脱税事件で辞任、フォードに代わる。74年「ウォーターゲート・セブン」と呼ばれた被告人は全員懲役の有罪判決を受け、支持率は39%低下、次いで大統領と国が対決するという異例の裁判となり、最高裁は「大統領行政特権」の申し立てを却下しテープの全面公開が命じられる。下院司法委員会も弾劾に向けて動く。テープによって大統領による事件の捜査妨害指示が証明され、ニクソンは辞任を決断。アメリカの歴史で唯一、副大統領になるときも大統領になるときも選挙を経ていないフォードが大統領に就任。フォードが大統領特別恩赦を与え、訴追を免れた
ニクソンは、偉大な先人の中でウィルソンを個人的に尊敬しており、69年の就任演説でも、「歴史が与える最も大きな名誉は、平和をもたらす者という称号だ」と述べている
裁判費用などが嵩み家計を圧迫していたニクソンは回想録の執筆にとりかかる。キー・ビスケーンの別荘を売りに出し、イギリスのジャーナリストでテレビ番組の司会者でもあるデイヴィッド・フロストと連続対談番組の契約をすることで何とか凌ぐ。77年放映のこの番組は記録的な視聴率となる
共和党では、ニクソンが代表した穏健派はレーガン的保守派、ブッシュ親子の「ネオコン」(新保守主義者)に道を譲り、新しい時代が始まる。75年ベトナムは共産主義の手に落ちる
毛沢東は特別機を出してニクソンを北京に招き、鄧小平はワシントン公式訪問の際、カー-ター大統領にニクソンの同席を求める。78年『ニクソン回顧録』上梓、引退後書いた10冊余りのうちの最初の本で、どれもよく売れた。80年あらゆる国から見放されて亡くなったイランのパフレヴィー国王の葬儀に参列。翌年には暗殺されたサダト大統領の葬儀にも参列。年々、「呪われた(N)」という不名誉な形容詞は忘れられていった
93年パット夫人の葬儀で久しぶりに人々の前に顔を出し、その後1年しないうちに逝去
葬儀には存命の歴代大統領が全員参列、最高の敬意が示されたことにより、アメリカで最も偉大な大統領の1人として名誉回復が叶ったと言える。感動的な光景だった


(書評)『敗者が変えた世界史』(上下)ジャン=クリストフ・ビュイッソン、エマニュエル・エシュト〈著〉
2019.11.23. 朝日
メモする
 没落した成功者の弱さと偉大さ
 本書はハンニバル、クレオパトラ、ジャンヌ・ダルク、さらにリー将軍、トロツキーといった、いったんは大きな成功を収めつつ、その後に栄光から転落していった人々を論じるものである。ある意味で、成功者の「失敗」を知ることは、読者の興味をくすぐる主題であろう。あれほど運命の女神に愛された人物が、なぜ敗北したのか。盛者必衰、運命の残酷な一撃……いささか下世話なロマンチシズムに堕しがちな話である。
 本書を類書から区別するものがあるとすれば、その控えめな筆致にある。筆者は古代ギリシャの悲劇を念頭に、優れた資質を持つ主人公が、それでも自らの能力の過信による慢心(ヒュブリス)か、あるいは致命的な性格の弱さゆえに没落していく道筋を描き出す。
 例えば、アルプス越えを敢行し、ローマを滅亡の瀬戸際に追い込んだカルタゴの名将ハンニバルの運命を暗転させたのは、敵であるローマではなく、味方であるはずの本国の人々の嫉妬と敵意であった。正規の教育を受けることなく、にもかかわらず聡明さと使命感に燃えた「聖女」であったジャンヌ・ダルクを死に追いやったのは、自らが善と考えることを実現したいと逸るあまりに、最後まで待つことを拒否した彼女の資質にあった。
 政治学者である評者の心をくすぐるのは、本書の後半に登場する人々である。南北戦争において南軍を率いた無敵のリー将軍は、高潔な人物であり、奴隷制の狂信的な支持者でもなかった。北の将軍たちにも尊敬されたリー将軍が、あえて未来のない南軍に身を投じたのは、南部の地に対する愛着と忠誠心にほかならない。
 革命キューバの指導者としてカリスマ的人気を誇るチェ・ゲバラは、デュマやボードレール、フォークナーを愛読し、ヒッチハイカーになることを夢見た病弱な青年であった。生真面目で苦行者の風貌を持った孤独な革命家は、つねにどこか自己破壊願望を感じさせる人物でもあった。そのチェ・ゲバラがボリビアに向かったのは、どこか意図しての敗北への道であったのかもしれない。
 そしてウォーターゲート事件で失脚したアメリカ大統領、リチャード・ニクソンである。貧困問題に取り組み、ベトナム戦争を終わらせるとともに、共産主義中国との関係を改善したニクソンは、その実績からいえば「優れた大統領」と言える。実際、今日、その再評価は目覚ましい。が、そのニクソンが三流工作員のケチな陰謀につまずいたのはなぜだったのか。
 弱さを抱えた人間が、それゆえに滅びていくが、そこにどこか偉大さが感じられる。人間の面白さであろう。
 評・宇野重規(東京大学教授・政治思想史)
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 『敗者が変えた世界史』 ジャン=クリストフ・ビュイッソン、エマニュエル・エシュト〈著〉
 上:ハンニバルからクレオパトラ、ジャンヌ・ダルク 神田順子、田辺希久子〈訳〉
 下:リー将軍、トロツキーからチェ・ゲバラ 清水珠代、村上尚子、濱田英作〈訳〉
 原書房 各2200円
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 Jean-Christophe Buisson 68年生まれ。仏「フィガロ」誌の副編集長。編著書『王妃たちの最期の日々』。Emmanuel Hecht 歴史研究家、ジャーナリスト、編集者。『独裁者たちの最期の日々』編者。


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