クレットマン日記  ルイ・クレットマン  2019.12.21.


2019.12.21. クレットマン日記 若きフランス士官の見た明治初年の日本


著者 ルイ・クレットマン(18511914) ストラスブール生まれ。71年上位の成績でエコール・ポリテクニックに入学。普仏戦後フォンテーヌブローに設置されていた工兵実習学校に学び、74年首席で卒業。75年中尉で日本に向け出発。76年から陸軍士官学校で地形測量法、築城学、化学を講義。任期末には教務主任となり、大尉に昇級、785月離日。最終大将まで進み、1912年希望して退官。日本での滞在は、非常に興味深い仕事に携わる良い機会で、各地を旅行して見聞を広め、日本を離れるのは残念だったようで、日本側も契約を更新する積りでいたが、彼は他に野心を抱き、あくまで若き優秀な士官の輝かしいキャリアにおける幕間の寸劇に過ぎなかった。1914年アルザスがフランスに復帰するのを待たず逝去

訳者 松崎碩子 東京生まれ。パリ・ソルボンヌ大博士課程前期修了。もとコレージュ・ド・フランス日本学高等研究所所長。著書『満鉄と日仏文化交流誌「フランス・ジャポン」』(2012)、『両大戦間の日仏文化交流』(2015)

発行日           2019.12.13. 初版第1刷発行
発行所           平凡社 (東洋文庫)


訳者謹呈

序 フランシーヌ・エライユ
ルイ・クレットマンの孫ピエールがコレージュ・ド・フランス日本学高等研究所と連絡を取り始めたのは1996年末。祖父が持ち帰った手帳などの資料の判読に援助が必要だった
クレットマンの資料は、1999年国文学研究資料館の調査団によって調査され、図版入りのアルバムは田安家に伝わるものと確認された。このアルバムは日常の様々な主題を扱っており、多くの巻が東京国立博物館で所蔵されている。コレクション中の逸品、本人が撮影または購入した535点の古写真のうち120点の展覧会が2000年に横浜開港資料館で開催
ピエールが祖父の資料をコレージュ・ド・フランス日本学高等研究所に寄託された際、滞在記の出版が計画されたが、判読などが難航、この度やっと出版の運びとなった
書簡では、業務関連より、明治初期の日本における生活の様子が具体的に想像できるような、自然で率直さあふれるルポルタージュが展開されている
日本の軍事組織についての情報は、友人たちに伝えていたようで、部隊の優秀さ、生徒たちの聡明さ、短期間で素早くものにする進歩の速さなどについて語る。自己犠牲、命をものともしない、古からの武士の美徳が未だ続いていることに驚き、77年夏の九州における戦闘での損失は無駄なことだったと考えていたようだ
横浜への船の到着が比較的不規則で、日本がヨーロッパだけでなく、中国とも遠い距離にあることなどよく理解させてくれる
日本国内の旅行の描写も示唆的。道路網が多くの商品の流通に未だどれほど適していないかを非常によく示している
東京の冬の夜、時には1晩で10件以上もあった火事の描写は、いろいろ教えられるところがある。消防士たちが建物を破壊して延焼を防ぐ方法にびっくりし、再建の速さも指摘
士官学校や野戦演習場での高官たちの閲兵や視察など、「軍事的工芸品」と呼んだ社交的な催しにも、彼にとって非常に気に食わないこともあったようだ
明治天皇や従者などの描写では、若き士官(クレットマン)が両親に拘りなく語った表現に不敬が見られる。彼は仏国大統領のマクマオンも同じように扱った。また、新年の社交上の義務を誤ってヨーロッパの真似と見て批判しているが、日本の社会では義務的なものや形式ばったものなどが数多くあり、彼が言うように、名刺や紙に名を書いて置いてくるだけでよかったであろう(何のことか不明)
各村では学校の校舎の状態が良いと感心しているが、フランスではまだそのような状態ではなかったのだ。日本における写真の普及の速さにも驚き、写真機を担いで来るのは不要だと思ったようだ
しかし、日本に対する好奇心や驚異は、書簡の中の1面にしか過ぎない。
親思いのクレットマンは、両親に陶磁器や漆器などを送ることに努めたが、当時工芸品収集は外国人たちの主な活動の1つだった
キャリアへの配慮、大尉への昇級に、軍事顧問団のメンバーはルイのために時間を費やしたが、彼らの主な心配事は、フランスやヨーロッパの政治状況に関するもので、特殊部隊の多くの士官同様断固たる共和主義者で反教権主義者でもあったルイは、77年マクマオン大統領がド・ブロイ公爵率いる王党派内閣を任命したことに激怒。7778年の露土戦争の経緯も関心事で、ロシアの緒戦での苦戦に落胆。彼の煩瑣な愛国主義(意味不明)は、特にドイツとの関連において多くの場で表明されている
100年後に蘇ったこれらの記録は、1876年の東京や横浜でヨーロッパ人がどのような生活を送っていたのかを知りたい読者を魅了するだろう。好奇心に満ち、広い視野を持った若き好青年を知る機会となるであろう。彼は、都会や田舎での日本人の生活や、近代化を図る首脳者たちの断固たる態度を垣間見て、たびたび驚き、感心したのである


クレットマン日記
²  187512月 マルセイユからアデンへ
16日マルセイユでフランス郵船会社の船に乗るが、揺れがひどく
アレクサンドリアからカイロは陸路。ピラミッド見学。スエズ運河で別の船に乗船

²  18761月 アデンから香港へ
1日にアデン着、下船
11日セイロン着、下船
29日香港着、下船。中国の新年のお祝い

²  18762月 香港から横浜まで/江戸(東京)に住まいを構える
4日日本が見え、薩摩湾に入港
7日横浜入港、下船。日本の将校から浜離宮に招待され出かける
14日士官学校の大教室で初めての授業
20日馬で江戸の西の郊外を初めて散策、新宿の十二社で
アメリカはストーンウォール艦の古い残骸を日本に高く売りつけ横浜のドックに置かれているが、代金はアメリカ領事が着服したため、数か月後アメリカが再び支払いを請求し、日本は領収書を手にしていながら2度目の支払いを行う

²  18763月 江戸(東京)の街の発見/3丁目谷への引っ越し
7日日本人はヨーロッパ人の屎尿(しにょう)に対し偏見がある。肥料のためには温かすぎて発酵すると言って、我々は汲み取り料を支払うが、日本人のは無料で処理。畚(もっこ)を担ぐようにして小さな桶が通りを通って運ばれていく
12日来日以来2度目の大火事、四谷方面。16日には神田橋で火事。日本の消防士は物凄く無鉄砲に働く。各消防組が火のぎりぎりのところに大きなマネキン人形のような纏(まとい)を据え付け、火がその纏の3/4を焼き尽くす迄引き下がらない
日本人はワインを飲むと頭がくらくらすると言って嫌うが、酒はたくさん飲む。酒は一番質の悪いコニャックよりはアルコールの度が強い
130日付けの手紙が18日朝に到着
21日にも新橋で2つの大きな火事を見たが、もう気にかけなかった
30日引っ越しの真っ最中
31日かなり強い地震、揺れは62秒続く

²  18764        ビエ・ブーグアンと小田原、箱根、大島旅行
2日神田橋の火事の現場を通るが、すっかり建て直されていて火事の痕跡は全くない
11日旅行の準備を終えて、神奈川九番(色街?)に出発。芸者、三味線、うるさい。朝方人力車が迎えに来る
12日神奈川を出発し、箱根に向けて東海道を行く
13日小田原の先の三枚橋で人力車を降り、後は駄馬か駕籠。芦ノ湖に到着して柏屋という大ホテルに宿泊。富士山の素晴らしい眺望
16日山道を徒歩で熱海まで下り、翌日大島へ櫂で漕ぐ船を賃借りして行く。我々が近づくと島民は逃げ出し、その後興味深そうに我々を見つめた。三原山登山
19日荒天で荒れる海を川奈に戻る、そのまま雨の中を徒歩で韮山へ、荷物は馬
20日人力車で沼津経由三島から御殿場に行こうとしたが悪路で手前の佐野に泊まる。途中狩野川の支流黄瀬川を何度かわたるが、架かる橋の状態が悪く、人力車を手で運ぶ
21日大島で捻挫したため馬に乗ったが、箱根を越えたところで徒歩になり、藤沢で宿泊
22日保土ヶ谷で夕食

²  18765        江戸と横浜の「時節」/野戦演習場滞在
7日地震の強い揺れ
8日上野公園開園に伴う行幸への招待状は、在日年数によって配布されたため私には回ってこず、仲間から慰留の食事に招待
10日開宴の招待状は質の悪い冗談だったようで、招待状無しでも入れたし、ミカドの行幸も無し。士官学校で化学も教えることに
20日暑さの中横浜の競馬場へ。海岸通りのグランドホテルで夕食。すばらしい建物だが商売は儲からないようだ。《アンゴー夫人の娘》観劇。非道い。最終列車で帰る
26日砲兵射撃演習場(柏?)へ行く。ブールジュの演習場をモデルに建設。日本人部隊のベッドで固く短く寝られない。28日帰京
31日華頂の宮葬儀。全部隊が準備万端整えている。恐らく町のあちこちに散らばっている朝鮮人を撃つためでもあろう

²  187667月 江戸と横浜の「時節」()
34日浅草へ。扇の遊戯
13日最終講義。江戸の町の守護神山王の祭りで、町中が紅白の提灯で照らされる
16日ミカドの皇女(2皇女、1歳で夭折)の葬列で行く手を阻まれた
19日芝離宮で山県陸軍卿主催の公式夕食会に顧問団全員14名招待。ガス工場近くの小さな夏の別荘で、純和風建築だが、ミカド用の椅子や磁器はフランス製
74日アメリカ人は独立記念祭を上野で行う予定だったが一日中土砂降り。招魂社で死者鎮魂祭。九段の競馬も流れる
日本人はヨーロッパの風習を取り入れるのに特別なやり方で取り掛かる。帯刀は廃止され難なく実行。日本式に髪形を結わない理髪師には税金免除とする勅令。公務員は洋服着用の勅令。その結果士官学校の写真家は灰色の山高帽にゲートルといういで立ち

²  187689月 下関と長崎へ旅行、繰り上げ帰省
3日船で瀬戸内海経由長崎へ。熱があって体調がすぐれず。長崎湾はナポリより美しいと書簡にある。帰省(とあるが、何のことかわからず)
926日トヤマで初の狩。獲物はおらず、一発も発泡せず

²  18761011月 野戦演習
5日田舎者と江戸の町民との違いは、江戸の風呂の温度に耐えられないので、火事を消すことができない
11日豪雨。正午に7度もない凍るような気温
112日熊本のサムライたちの反乱(10月の神風連の乱)についていろいろ話されている
17日ミカドの行幸をえて野戦演習の最後。幕僚の小屋でミカドに謁見、紅白2反の絹織物を賜る
30日記憶に残る中で一番の火事。神田橋から京橋にかけ3,000軒焼けた

²  187612月 シャルヴェ中尉来日/クリスマス
2日皮なめし工の職業に対する日本人の偏見。かつては江戸に住むことを禁じられ、裸足でしか江戸に入ることができなかった。あちこちで火事
2526日ここでもクリスマスを祝うようだ。数多くの小さな店の殆どが羽子板、凧など子供のおもちゃを売る
30日我が家の門に稲の藁と縄を張った2つの緑の竹の大きな束が立っていた

²  18771月 新年拝賀/日本の士官の家に招待される
1日次々と公式訪問。全ての通りは竹で飾られ、凧や羽子板で遊ぶ人で賑わっている
2日雪の中、ミカドに参賀。赤坂の宮殿でこれほど多くの正装した醜い者どもを見たことはない。親王や王子たちは、歳に関係なく、熊の毛皮のオペラハットを被り。キラキラした紋、金色の縞のグレーのズボンをはく
12日教導団騎兵隊将校の家に招待。和食。日本人の礼儀作法:箸は料理に突き刺さず、横に置く。半分注がれた自分のグラスを敬意を表したい人に渡し、その人のグラスを飲み干し、隣人のグラスと交換する。家族の子どもと女性は同席するが一緒に食事はしない。3人の芸者。動作の順序を覚える遊びで間違えると着物を1つ失う罰を受ける。すばらしい夜会だった
27日浜御殿で大山陸軍()大臣主催の夕食会

²  18772月 火炎の月/反乱の始まり
1日外務省火事。士官学校でも新厩舎が消失。翌日も強風で同僚の家が火事。地震も
512日教導団で2回の火事
14か南の方から悪い情報。鹿児島のサムライの反乱勃発、パリ・コミューンと同じようにして始まった。待命予備の全部隊が出発
17日両のレートは急落、ドルが上がる

²  18773月 反乱は続く/神戸とその近郊に出発
8日士官学校の生徒も出陣。日比谷練兵場で全部隊の集会
26日神戸に向け横浜で名護屋丸に乗船。900人の部隊兵士が同乗
28日神戸に着き市街見物。人力車で有馬へ。30日には人力車で名塩経由大阪へ、さらに(先月開通したばかりの)鉄道で京都へ
31日京都見物。夜は4人の芸者と過ごしたが、東京の芸者より優れた点は別にない

²  18774        シャルヴェと神戸、京都、奈良、大阪旅行
2日琵琶湖に遠征、3日奈良に向け出発。方広寺の焼けた後の金箔木造の大仏像を見て鎌倉に劣ると言い、三十三間堂で9列に並べられた金箔の木造の仏像を見てすべてを数えるのは難しいと言い、東福寺、伏見稲荷、平等院を経て奈良に出る
7日大阪では帝国造幣寮を訪問、角座で芝居見物、回り舞台で舞台装置を変えていた
8日ヨーロッパ街(外国人居留地:松島遊郭)を散策
12日船で横浜に戻る
24日ロシアとトルコの間で戦争勃発しそうとの情報。翌25日宣戦布告

²  1877567月 ガロパン中尉の来日/日本の2人の士官を招待/伝統的な祭り
2124日麹町で山王祭り、25日天神様の月例祭

²  18778月 シャルヴェ、ブーグアン、ガロパン、エイルブロネと日光、浅間山に旅行
5日クルマで幸手経由古河で宿泊、翌日日光へ。徒歩で中禅寺湖まで登る
12日今市に下り、栃木、太田泊、高崎で3泊、松井だから碓氷峠経由、山々は突然風変わりな鋸歯状の形をして聳え立つ
18日坂本からは人力車が行かず、3里の急な上り坂を徒歩で軽井沢へ。荷物は駄馬
浅間の麓を追分まで2里半、樹木の生えていない大きな山で、もくもくと立ち上がる煙が断続的に大きくなる。火山の麓の美しい村で一泊。湯川で釣りをするが収穫はなし。追分の宿屋・油屋は築後80年以上経つ
21日浅間山登山、道はほとんど付けられていない。硫黄地滝経由火山円錐丘の裾を通り抜けてカルデラに出ると、至る所で噴煙の合間から火口が見られる。行きは6時間、下りは3時間。眼下は厚い雲に覆われ眺望は効かなかった
22日富岡に向けて出発。軽井沢までは人力車。坂本までは徒歩で、その先又人力車で松井田に到着するが、その先はぼられそうになったので仕方なく夜道を歩いて富岡に
23日富岡製糸所見学後、24日は鳥川を船で下り、栗橋で下船・宿泊後、人力車で東京へ
26日同僚死去

²  18779月 内戦終了
5日日比谷練兵場での軍事刑罰執行に初めて立ち会う。旅行から戻ると内戦は終わったと告げられた。警察官は120両の支払いを受けて戻ってきた。今日西郷が鹿児島を占領したという。警察官は前より一層強い勢いで再び出征していった(辻褄が合わない?)
13日芝の寺院(=増上寺)で和宮葬儀。仏教による葬列は去年の内親王の神道による葬儀より遥かに見劣りがするが、国庫金の現在の貧窮状態によるものと思われる
17日大阪の上司から、負傷または療養中の生徒の詳細が送られてきた。死傷者合計40%以上
24日内戦は西郷、桐野、村田の死をもって終了。上海、横浜、長崎、神戸でコレラが流行

²  18771011月 野戦演習場滞在/大尉に昇進/教務主任に任命される
6日下志津(佐倉)の砲兵隊野戦演習所に出発。人力車で逆井へ、乗馬で船橋経由で
13日大尉昇進を知る。教務主任の通告
15日九州から戻った生徒の追悼記念祭
30日ミカドが上野の博覧会の閉会式を司る。不忍池には赤い提灯のイルミネーション

²  187712月 たくさんの宴会!/ジュールダン大尉の離日
5日フランス公使邸で夕食。よそよそしく退屈。大久保利通、伊藤博文両大臣参列。私は英語を話す伊藤の隣。ボアソナード氏は徒歩で提灯を手に帰宅。博覧会では素晴らしい買い物をしたくせに・・・・

²  18781234月 日記を記す時間があまりない
12日ミカドの謁見(お雇い外国人として)。政府に雇われているヨーロッパの数が減り、謁見者も去年より少ない。300円以下の俸給の者も外された
317日神田橋で火事。日本人の洋服仕立て屋がまたも焼けたが、彼は数えきれないほど火事にあっている
23日江戸城の非公開の庭園を初めて訪問
25日電信開業式。夜は工部大学校中堂で工部卿主催の祝宴。中国の使節団も招待され、至る所で唾を吐く。食事はイギリス料理、つまりとてもまずかった。ワインの選択は失敗、コルク栓の臭いがした。イギリスの音楽隊がこの晩演奏したような不快な《ファウスト》を聴いたことがない
6日トヤマで各国公使臨席のもと、(対抗演習の)芝居をする。ミカドはいつもよりぼんやりとされていた

²  187851日~20日 出発準備/514日、大久保卿暗殺/520日、日本出航
8日一連の私の送別昼食会やディナーが始まる
10日虎ノ門近くの金毘羅の祭りに寄って、いつもの悪ふざけを始める。少女の巻き髪に簪を指す。うち3人に家までついていくよう誘われ、お祖母さんがおいしいコーヒーを出してくれる。このような歓待はごく普通のことのような様子で、煙草を配り、吹上まで帰る切符もくれた。お互いに満足して別れた
14日大久保暗殺。暗殺者は自首したが、真の日本人がするように、何も感動の表情を表さず、暗殺の成功に満足の様子を示していた。16(日本の記録では17)神道による葬儀
17日東京での最後の晩。昼食後横浜に向かうが、出航は悪天候で2日間延期
20日早朝素晴らし天候のもと出航


²  解説 松崎碩子
本書はコレージュ・ド・フランス日本学高等研究所により2015年刊行された『滞日2年、187678(仏語)』のうち、第1部・日記の翻訳
クレットマンは、第2次フランス軍事顧問団のメンバーとして1876.2.7.来日、78.5.20.離日。プロテスタントで、日本の賽銭を非常に厳しい目で批判。ストラスブール帝国高等学校を優等で卒業後、普仏戦争で1年遅れてエコ-ル・ポリテクニック(理工科大学)入学。普仏戦争でプロイセンに占領されたアルザス地方の住民は、国籍離脱という条件で居住を認められ両親は残ったが、ピエールと弟は仏国籍維持を選択し町を去る
1872年予定通り来日した第2次フランス軍事顧問団は、普仏戦争の敗戦で日本政府がプロイセンよりに傾き、顧問団幹部の帰国が相次ぐと劣勢となり、若き士官には契約更新が勧められ、クレットマンも6か月の休暇を取って両親を説得し、また日本に戻る積りでいたところ、帰国途上で弟の急逝を知り、悲嘆にくれる両親を残して戻ることはできず復職を断念。2度と日本の地を踏むことはなく、陸軍士官としてフランス各地で勤務ののち、1908年にはエコール・ポリテクニックの校長に任命。12年病気で辞職、14年他界
マルセイユを出発した日から小型のノート2冊に日記をつけ始める。日本滞在記として家族宛の書簡を残しているが、日記はその下書きのようなもの、参考資料としての役割を果たしていた面もある
日本から写真や講義録、地図、画集、版画など持ち帰ったが、陸軍士官として各地を転戦していたため、資料の整理が出来ず、晩年エヴィアン近郊に広大な土地を購入して家を建て、資料を収納したが、病のため手つかずで死去
死後20数年、孫のピエールが資料を発見、日記・書簡集の私家出版、写真展などを通じてコレクションの広報に努め、資料の2/3をコレージュ・ド・フランス日本学高等研究所に寄託。95年には日記・書簡を翻刻し、私家版2冊を自費出版して関係者に配布しているが、ピエールには日本に関する知識がないため、内容におかしな箇所が多々あったため、コレージュ・ド・フランス日本学高等研究所にて内容を精査の上、改訂版として出版したのが本書の原本。日記と書簡は現在クレットマン家で保管
クレットマンの滞日していた時代は、日本の近代化が進み、フランスも大いに協力。横須賀製鉄所はレオンス・ヴェルニーが、富岡の製紙工場はポール・ブリュナが、横浜と東京のガス工場はアンリ・ベルグランが中心となって設立、開業したが、クレットマンも訪れている。鉄道も1872年に開業、工兵将校のクレットマンは鉄道の施設に興味を持ち、多くの写真を持ち帰っている
日本の「西洋式」の「近代化」は、西洋人から見ると滑稽な場合も多く、クレットマンは場違いな服装などを皮肉交じりで描写。西洋音楽導入にはキリスト教徒軍隊が大きく関わっていたと言われるが、フランス軍事顧問団にいた喇叭(ラッパ)手が陸軍軍楽教師となって指導したが、軍楽隊の演奏は拙いものだった。大変な音楽愛好家だったクレットマンは耳にした音楽のタイトルをその都度日記に書き留めているが、当時ヨーロッパで全盛期を迎えていたオペレッタが多かった
滞日中に不平士族の反乱が相次ぎ、総決算ともいえる西南戦争では、貴重な生きた情報を提供。あくまでアウトサイダーに留まると両親にも語っているが、職業柄無関係というわけにもいかず、生徒や同僚は動員され、死傷者も出て、そのリストを日記に丹念に書き留めている
軍事顧問団は1880年で契約が切れ、第3次顧問団が8490年来日するが、数名の小規模なものに終わる。85年以降プロイセンから将校が招聘され、プロイセン式の軍制に切り替えられていく
資料を寄託されたコレージュ・ド・フランス日本学高等研究所は、1970年エコール・ポリテクニックがパリ南郊のパレゾーに移転した後のカルティエラタンの同校旧校舎の一画に居を構える


²  幕末維新期の軍事改革とフランスの役割 保谷徹(東大史料編纂所)
明治維新を挟み、フランスからは数度にわたり軍事顧問団が来日するなど、日本の近代陸軍の創設にフランスの支援が大きな役割を果たしている
アヘン戦争における中国の敗北が、やがて資本主義列強の圧力が日本に向かう前兆として捉えた老中水野忠邦は、高島流砲術を立ち上げた長崎の町年寄高島秋帆を呼び寄せ、武州徳丸ヶ原(現板橋区高島平)で西洋砲術の訓練を行わせた。高島流はヨーロッパ流の3(歩・騎・砲)戦術を取り入れた1820年代のオランダ調練書に基づいていた
幕府は、韮山の代官・江川英龍と旗本・下曾根信教に命じて高島流砲術を学ばせ、家塾での砲術指南を認め、江戸だけでも4000人の門人を輩出
1853年のペリー来航で一段と軍事改革が進み、西洋流=オランダ式を目指した
1863年攘夷期日に長州による下関砲撃から、翌年下関戦争に発展。敗戦を機に幕府も欧米の最新軍事技術導入に踏み切り、英仏に次々に伝習依頼を行う
1866年伝習はフランスに統一され、イギリスには海軍の伝習を依頼。年末にはシャノワンヌ参謀大尉らの第1次顧問団19名が来日、旗本指定から選抜された生徒たち約1000名はフランス語を学び、学科と演習に当たる
フランス式の特徴は、体操の実施と号令の喇叭のみの使用 ⇒ ナンバ走りの矯正
顧問団は旧幕軍に加わって箱館戦争にも参加しているが、英仏ら条約列強は局外中立を宣言したため、第1次顧問団は来日僅か2年で契約打ち切りとなり帰国
新政府は、諸藩によってまちまちだった兵制を統一し、軍事的集権化を進めるために、幕府時代の軍事組織を引き継いでいたことから、フランス式による近代軍隊作りを継承、1870年正式にフランス式採用を決定。第1次顧問団に所属し、その後駐日公使館に勤務していたデュ・ブスケが兵部省顧問となって徴兵制施行に関する提言を行い、新政府もフランスへの伝習を依頼
1870年には陸軍はフランス式、海軍はイギリス式と布告され、1871年の廃藩置県で一時中断、普仏戦争もあって遅れたが、72年に第2次顧問団が到着
73年には徴兵制施行、服役期間3年、特徴的なのは免役条項として戸主・学生・官吏は免疫に加え、代人料として270円を設定したこと
2次顧問団は、マルクリー参謀中佐を団長とする16
72年に兵部省を廃止して、陸・海軍省設置。幼年学校、教導団(下士官養成)、戸山学校(現役士官・下士官の再教育)、士官学校設立
顧問団は日本各地を巡視し、7577年にかけて、沿岸部の防御計画を立案。東京湾のほか、長崎・鹿児島・函館・新潟等の要地・要港を、そして淡路・下関・備後・豊後各海峡など瀬戸内海への入口を砲台で固めることを目指す ⇒ 観音崎や猿島の要塞群、第1海堡などはこの時着工したもの
1878年陸軍省下の参謀局をプロイセンに倣って参謀本部として改組、軍隊の指揮命令の軍令機関を、軍隊の編成・維持管理をする軍政機関から独立させる
80年フランス軍事顧問団との契約が切れ、第3(8490)は数名の規模でしかなく、日本は急速に「自立」化を遂げる
83年陸軍大学校設立に伴い85年にはドイツから参謀少佐を招聘し、戦術教育の充実を図るが、山縣のもとドイツ留学から帰国した桂太郎らがドイツ流を主唱し、フランス式を書き換えていった
日本陸軍の基礎を作ったフランス顧問団の功績に対し、明治政府の褒章は様々な機会に繰り返し行われ、日露戦争後の1909年にも、第2次顧問団の一員だったクレットマン少将(ポリテクニーク校長)など計4名の将軍が叙勲されている


訳者あとがき
ルイ・クレットマンの孫、日記の発見者である故ピエール・クレットマンに初めて会ったのは1996年。田安家旧蔵の『献英楼画叢』4冊を含むクレットマン・コレクションの意義を求めて日仏間を往復し、広報に尽くされている中で出会い、フランス軍事顧問団や祖父の滞日について話をしてくれた際、悪名高き日本陸軍の創設にフランスが大きく貢献したことなど知らなかった私には耳新しく頭に残り、その後ピエールから祖父についての調査の結果を報告してくれたが、ピエールは03年急逝
ピエールが翻刻、私家出版したルイの日記と書簡の改訂版は、日仏修好通商条約締結150周年の08年刊行を目指したが、15年にずれ込み
08年フランス学士院の記念学会では、ルイ・クレットマン・コレクションの写真について発表したが、準備の段階で課題の重要さに気付き、とんでもないものを引き受けたと後悔
4月に転倒して右手首を骨折、手術、入院などで出版準備が遅れた



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