仕方ない帝国  高橋純子  2019.11.29.


2019.11.29. 仕方ない帝国

著者 高橋純子 1971年福岡県生まれ。1993年に朝日新聞入社。鹿児島支局、西部本社社会部、月刊「論座」編集部(休刊)、オピニオン編集部、論説委員、政治部次長を経て編集委員・論説委員を兼任。19TBSサンデーモーニングコメンテーター

発行日             2017.10.20. 初版印刷             10.30. 初版発行
発行所             河出書房新社

1章は書下ろし、その他初出誌紙は各文末に
『政治断簡』に著者が書き始めたのは2016年初め、政治部次長になってから

仕方ないまえがき
本を出す新聞記者、正直言って好きではない
本に対する憧憬がことのほか強い
生まれ育ったのは典型的なベッドタウンで文化の匂いなど皆無、本を読むのは好きだったが、文学作品には興味がなく、婦人誌の付録『完全なるミセスの常識』を何度も読み返し内容に精通。町立の図書館は、返却期間を過ぎていると督促電話をかけてきたおばちゃんの物言いが高圧的で恐ろしく、行かなくなったが、知りたいという欲求だけは強くあった、この社会のこと、政治のこと
2で『小説吉田学校』を読んだが、なぜそんな選択をしたのか? 単に分からなかっただけで、政治のことを知りたいと思って自力で辿り着いたのが平積みされていた当時の角川のベストセラー。平積みばかり読んでいたらば自然と頭は右に傾く
そんな傾きを正してくれたのが鶴見俊輔。その著作に出会っていなかったらいまごろ、仕方ない仕方ないと呪文を唱えて日々をやり過ごす一方で、抑え込んだ怒りや悔しさを「日本スゲー」で晴らし、惨めな自分を「日本人でよかった」で慰める人間になっていたかもしれない
本はすごい。人を変えたり救ったりする。だから自分が本を出すなんて恐れ多い
18回分を再録した『政治断簡』は、その時々の社会の空気を自分なりに吸って吐き出したもの

第1章          ささやかな不断の闘いの中
Ø  深く眠るために
2016年政治部次長になって『政治断簡』を担う
多様な叱責が届くが、次長という肩書に反応したものも多い ⇒ 「次長のくせに」が何かのはずみで「日本人のくせに」から「売国奴」へと発展。くせにくせには癖になる
人種、性別、国籍、学歴、役職、年収、引こうと思えば線はいくらでも引けるが、線に合わせた社会などつまらない。自分で自分を分別しない、自分で自分に値札をつけない。誰かにとって都合のいい私になんかなる必要は、ないのだ
朝日新聞デジタルの記事は読まれた順、SNSでシェアされた順にランキングされるが、偶に『政治断簡』がランク入りするのは炎上した時
私の中では、読者は読者で、「お客様」ではない。読んでもらえればいいのであって、気に入られる必要はなく、読者の思考をちょっとでも揺さぶりたいだけで、そこを曲げたら終わり
損か得か、結果だけ、数字がすべて。政治の世界もそんな価値観に侵食され、例えば7月の都議選で圧勝した都民ファーストの会。政党は企業、議員は社員という認識なのだろうか、取材は全て広報経由。毎日新聞のアンケートにも大半の議員が「無回答」でその理由は、「都政に専念するため」。都民の負託を受けた各々の議員に自由な発言を認めないなら、ブラックそのもの。非自民の受け皿がブラックでもいいってか。そんな政党の人気につられて民進党議員が擦り寄っていくトホホ。目には見えない民主主義的価値があれもこれも毀損されているこの時に、目先の損得を優先して動くのなら、どんなに美辞麗句を並べたところで、政治家として一線を超えたと言わざるを得ない
一線を超えたと言えば、自民党の今井絵理子参議院議員。神戸市議との略奪不倫に際し発出した弁明文は、うっかり政治家になっちゃった人の不安定な自我のありようがダダ漏れで興味深い ⇒ 国会議員を「先生」と呼び地方議員は「方々」と見下す。「支えていただく皆様、そしてなによりも最愛の息子へ、私の人生をかけて向き合っていきたい」とは、国会議員たる自分の立ち位置、社会との距離感を掴み損ねている。「お仕事」を「やらせていただく」など芸能人ならまだしも政治家は言うべきではない。国会議員たるもの主権者たるすべての国民の代表で、国民の負託という重たいものを自ら進んで受けた以上は、ファンや支持者だけ向いて与えられた仕事をこなしておけばいいはずはない。今井のみならず「安倍1強」時代に誕生した議員の多くはこの辺りを根本的に理解していないのではないか
8月の安倍改造内閣では「結果本位の仕事人内閣」と胸を張ったが、なんとまあ安いコピーであろうか。必ずしも正解のない政治の世界で、結果に至るまでのプロセスをすっ飛ばして、自分たちが出したい「結果」だけを強引な手段で出してきたのが安倍政権。詐欺師仕事師双子の如し。「仕事人」が結果を出す暇もないまま首相は「いまだ!」と衆議院を解散するというのだから馬鹿げている
鶴見俊輔「深くねむるために 世界は あり ねむりの深さが 世界の意味だ」
たった26文字で構成されたこの詩の、途方もない余白の大きさ、圧倒的な奥行き。これぞ世界と思う。深くねむるために、世界の余白に思いを馳せ、少しづつ、美しい色を載せていく。政権が変わろうが、社会のシステムが変化しようが、絵筆を握っているのは結局私たち11人なのだ。あなたにしか出せない色で、さあ、この世界を

Ø  無形の蓄積
仕事をしていると、魂を売るかどうか迫られる局面が少なくない。新聞も最早紙の時代ではない、ページビューを稼げるコンテンツを意識しろ、長い原稿や堅苦しい原稿は読まれないぞ、など陰に陽に「脅し」をかけられ、まるで「魂を売れ」と言わんばかり
『論座』089月号で吉本隆明のインタビュー記事を載せたが、「くたびれたから寝るというのと、これだけはしなければと机に向かったができなかったというのでは格段の違いがあり、510年重なったらまるで違う。この怖さは文学の怖さ。この"無形の蓄積というのが重要だということだけは、自分の実感を交えて言える気がする」
目の前の評価や損得といった、形のあるものばかりを追い求めるのをやめて、そういう風に仕事や人生を捉えられたら、5年後10年後の自分が楽しみになる

Ø  誰かの檻
政治家を理解する上では、ファッションは1つの大きな手掛かりになる。その人の自意識、自己認識が漏れ滲むものだから
「最低でも県外」発言で圏外に飛んだ鳩山が首相になる8年前に新聞で取り上げ、「淡いピンク地に青いチューリップのネクタイ姿。安っぽい色柄だが一目で高級と分かる。品とゆとり、浮世離れ感を象徴しているが、それでいて強い男に拘るところが人気の出ない一因ではないか。開き直って、自らの言葉で率直に何を考えるのか語ってほしい」と書いた
九州北部豪雨で自衛隊が救援活動をしている最中、私的勉強会で防衛省を離れ、省に戻ったときに手にしていたのがプラダのバッグ。大臣たる自身の行動がどう見られ、どんな感情を抱かせるかに思いが至らないのはやはり、自分が誰に対して、どのような責任を担っているのかを根本的に理解していないからではないか。大臣としてはもとより、政治家としての資質を欠いているとしか言いようがない。本筋から外れた批判が肯定されながら拡散し、「これだから女は」が上書きされていく
安倍内閣の閣僚が6月の閣議に「かりゆし」を着る。安倍は前日翁長知事からもらったものを着用していたが、たたみ皺が2本くっきり、貰ったまんま、なんか切ない。沖縄に対する政権の尊大でぞんざいな姿勢を2本の皺が図らずも示しているように思えてならない
大学で「政治報道」について講義した際、女子学生から、「どうしたらそんな風に強く、言いたいことを言えるようになるのか」と聞かれ、「狭い世間の掟に縛られたり男尊女卑的考え方に晒されたりして育つ中で、反逆を試みていたからだ」と答える
川久保玲が言う、「簡単に手に入ったり、容易くものが言えたりしても、自由とは違う。服で言えば、楽に着られる方が自由だとは思えない。着ることが楽ではない服を作ろうとすると、重く厳しい日々と戦わなくてはならない。でもそれが達成できたときに何かを感じられたら、それが私にとっての自由だ」
いま、批判的言辞で政権を評する人間に対して、「堂々と政権批判ができる、こんなに自由で豊かな日本に何の不満があるのか」「そんなに嫌なら日本を出て行け」みたいな批判が往々にして噴き出す。何でも言えれば自由というわけじゃない。私という主語で、自分の声で、現下の政治を批判する言葉を吐くことが如何に勇気のいることか。努力して声を上げた時の感覚から自由が生まれる
好きな服を着て街に出よう。誰かの檻に入れられないように

Ø  分断線/カネ目/その向こう
2014年当時の石原伸晃環境相が、原発の汚染土の中間貯蔵施設の建設を巡り、「最後はカネ目でしょ」と発言、釈明したが、途方もなくすごい言葉だ。ゼロの数で人間は動く、動かせる。人間なんてどうせそんなものだという奥行きのないペラペラの人間観。「1億総活躍」「人づくり革命」など、人間を道具扱いするかのごとき安いキャッチフレーズを次々と繰り出して憚らない、安倍政権の特質を見事に象徴している
差別や憎悪や妬みといった人間の醜い感情を利用して分断統治するような政治と対峙するということは、そういう人間観に抗して、カネ目以外の解を見つけ出すこと、なのかもしれず、めちゃくちゃ難しい
『論座』で「現代の貧困」という特集をした時のこと、取材で知り合った31歳フリーターと意気投合したが、彼が別の雑誌に私小説を投稿している中で、フリーターの鬱積をぶつけるような筆致で、「年収1,000万のマスコミの人間に一体何が分かるんだ」との一文を見つけ、自分のことだと思ったが、小説とはいえ職業や年収で「線」を引かれ、「敵」さらには「偽善者」と決めつけられてしまったら、いったいどうすればいいのか。分かりたいという気持ちまで否定されたら足がすくむ。そんな線を引いて、いったいどうやって社会を変えようというのか

第2章          「美しい国」で
朝日新聞『政治断簡』より
2016.2.28. だまってトイレをつまらせろ
工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しない場合どうするか。6070年代初頭にかけ山谷や釜ヶ崎で名を馳せた船本洲治という活動家は、「新聞紙で拭いてトイレを詰まらせる」という選択肢を提示。だまってトイレを詰まらせろ、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う
他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を、「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌い上げる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。ある種の秩序は保たれるが、「生」は切り詰められる
メディア論専門の石田英敬東大教授は2013年、安倍政権が発するイメージはこれに尽きるという。翌年の解散・総選挙。安倍は「この道しかない」と言ったが、為政者にそんなことを言われるのはイヤだ。道は自分の足で歩いているうちにおのずとできるもの

2016.3.27. スプリング・ハズ・カム
先月の記事で週刊新潮から「チリ紙1枚の価値もない」記事を書かせたら右に出るものなしと太鼓判を押してもらった
批判の中でどうにもいただけなかったのが「死刑にしろ」で、どんなに気に食わなかったにせよ、刑の執行という形で国家を頼むのは安易にすぎる
反日。国賊。売国奴。いつからか、国に寄りかかって「異質」な他者を排撃する言葉が世に溢れるようになった。批判というより排除のための言葉。国家を背景にすると人はどうして声が大きくなるのか。一方で匿名のブログにひっそりと書かれたはずの「保育園落ちた日本死ね!!!」が、下品だと批判されつつみるみる共感の輪を広げたのはなぜか
なにものにもよりかからず、おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を持つ。自分の足で歩け。僕らはみんな生きている

2016.5.1. スイッチ押したの、誰だ?
敵か味方か。役に立つか立たないか。人間を、世界を、2つの「箱」に仕分けしたがる人がいる。そんな人たちに「1億総活躍」の旗を振られると、役に立て、味方になれと言われているようで苦しい
政治家だったら教えてくれよ。世界はもっと豊かだと。君が生きたいように生きていいのだと。そのためにこそ、政治はあるのだと
ひとくくりにするな。人の生をナメるな。そう、知らないことが多すぎるのだ、私たちは

2016.5.29. こすれ合って、成り立っている
大きな摩擦は困る。だが、なければいいというものでもない。新宿ルミネのカフェが看板の脇に貼った”War is Over!”のポスターに、「政治的過ぎる」とのクレームがついた時の感想。クレームはルミネに入り、店長は皆に考えて欲しくてツイッターでクレームを公表
店長の祖父は東條内閣の農林相でA級戦犯容疑者として巣鴨に拘禁、第2次岸内閣の法相。安倍のツイッターにメッセージを送り、自己紹介の後、「祖父の臨終の際岸さんが来て祖父の手を握ってくれた。祖父の自伝によれば、東條を総理に担いだのは、総理になれば様々な立場の意見に耳を傾けなければならないから、戦争には突っ走らないだろうという狙いがあったが、裏目に出た。明日官邸前での集団的自衛権行使可能の閣議決定への抗議行動に参加する。日本の進むべき道、私たちの命運を勝手に決めないでいただきたい」
安倍はつるんとしている。政治手法は強権的だが、相手と組み合うのではなく、ものすごいスピードで勝手にコロコロっと転がってゆく。こすれないからいつもピカピカ。それが首相の魅力であり、政治家としての欠点でもある。ならば対峙する側が、摩擦係数を高めていくしかない
自分が真に何を望むか見定める。それと誰かの望みがこすれ合う。快も不快も痛みもある。でもそうやって成り立っているのだ、この世界は

2016.7.3. 今日のおまんまと明日のなにか
映画のDVD1.5倍速で見て、得じゃね?というのを聞いてびっくり。無駄なような、なくてもいいような細部に、映画的生命は宿っているのだと思う
現下の日本政治もまた、1.5倍速的だ。手間暇かけて織り成すプロセスこそ民主主義なのに、早回しされ、民主主義は多数決であるかのごとく矮小化されている
「結果」がすべて。そんな倍速政治において、人間は単なる「1票」に貶められ、勝者の「道具」にされてしまう。そもそも選挙で選んでいるのは「勝者」ではなく「代表」だが、如何にも嘘くさい。だからこそ結果ではなくプロセスを大事にしないと壊れてしまう
敗戦直後の浅草の露天商が長年世話になった組から新興勢力の乗り換えた理由を吐露、「明日のことを考える余裕はない。今日のおまんまが食えりゃ、それでいいんだ」
「今日のおまんま」と「明日のなにか」。選挙で天秤にかけられているのはこの2つなのかも
新興勢力に騙されているが、やり口が汚い分、傘下に入れば「得」をする。これに抗する組が提示するのは「渡世の仁義」。世の中にはどんなに力を持っていても、やっていいことと悪いことがある、と
社会は、実はそういう目に見えないものに底支えされているのだが、皆が自分の今日のおまんまのことしか考えなくなれば、あっさり壊れる。社会の底が抜ける
選挙の結果より遥かに大事なのは、誰が勝者になろうとも、「道具」にされない私たちであること。目には見えないそれぞれの明日を、信じる力を持ち続けることだろう

2016.7.31. 私、「失敗」しないので
安倍政権が多用するカギカッコ。自民党の広告に、「アベノミクスは、確実に「結果」を生み出していますが、まだ道半ば、さらにエンジンをフル回転させる」とある
結果を「結果」にしてしまえば、永遠に留保可能、結果責任を回避し続けられる
記者会見も話し言葉では気付かないが、ホームページでは、「リスク」「危機」「悲観」「新しい判断」「国民の信を問う」などカギカッコが付き、そこに脈絡はない
政治権力にカギカッコを多用させてはいけない。カギカッコで括られた言葉はゼリー状にゆるみ、批判が刺さらないから。読みも字面もそのままに、意味を自在に変えられるから。言葉が変われば、強権を振るわずとも、成り行きで世界を変えられるから

2016.9.18. 天高く馬肥ゆる秋
鶴見俊輔の言葉。大きな観念の旗を掲げても戦争はぶっ潰せない。大事なのは、何かの仕方で常に国家や戦争に対峙する姿勢を準備すること。観念の旗の大きさより、その底にある態度が重要という
学生団体SEALDsが解散したが、彼らの出発点が「私」だったことが、何よりも貴重。主語が明確な言葉が国会前に響き、社会の深いところに変化の種が蒔かれた

2016.10.16. 立つ人、立たぬ人
169月安倍が所信表明演説で、「心からの敬意を表そうではありませんか」にスタンディングオベーション。なぜ海上保安庁、警察、自衛隊に限って敬意を表するのか。日本はかつてそうやって少しづつ道を踏み外していったのではないか。その前年安倍は安保法制と自衛隊のリスクを巡る答弁で、「自ら志願し、危険を省みず職務を完遂することを宣誓したプロ」と、首相として初めて自衛隊を「プロ」と評したが、何のプロかを言明しない。そこに重なるスタンディングオベーション。殺す。殺される。危険を顧みず。だってプロだから。「敬意」という薄紙にくるまれているものは何だ?
NFLでは人種差別への抵抗から、試合前の国歌演奏時に不起立を続けるスター選手がいる。国家への思い入れがケタ違いの彼の国でもオバマ大統領は、表現の自由として擁護。かたや安倍は、敬意だから、野党議員も座って拍手すればよかったという趣旨の話を、若手議員らとの会食の席でしたそうな

2016.11.13. 2158分のあなたへ
電通での新入女子社員の過労自殺、労災認定で、胸が塞がれたのは彼女がツイッタに書いた上司に「女子力がない」言われた言葉。自分で使う分にはある種の諧謔を含んで自身を鼓舞する言葉となるが、男性に使われると物差しとなり、上司に使われると途方もない抑圧となる。勝手に試合のリングに上げられ、勝手に期待されたり批判されたりする。若い女性の生きづらさは、働きながら子育てをする母親への抑圧とどこか似ている。どこまで行っても正解のないなか、あれがいい、これはダメという人はいるが、これでいいんだと言ってくれる人は驚くほど少ない。出口はどこだと途方に暮れる感じに、政治が追い込みをかけてくる。17年自民党が提出を予定する「家庭教育支援法案」は、子に「生活のために必要な習慣を身につけさせる」ことを基本理念に置く。安倍政権は女性が輝く社会、1億総活躍社会を謳う。輝くにはこの社会の酸素はあまりに薄い。酸素濃度を上げるために政治はあるのではないか

2016.12.11. 書いて、消して、潜って
言いたいことはたくさんあるが、世界が混沌とし過ぎていて、手持ちの言葉では間に合わない感じ。書いては消すを繰り返す。世界的潮流としてある「反既成政治」「反エスタブリッシュメント」。日本政治の傾向として極めて顕著な「”1の驕り」「だらしない野党」
カジノ法案。金目の話に矮小化される。誰かの不幸が前提の経済成長って何? 根源的な議論はされずに賛成多数。これぞ「決められる政治」の成れの果て。かつて気軽に便利に使ってきた言葉に報復されている気すらしてくる
言葉は安易に振り回さない方が良い。わからないことはわからない、難しいことは難しいと言いながら、言葉を捉まえた方がいい
「今日の惨めさ」を、「明日のもしかしたら」にすり変えていく、その人々の志向の中に、ファシズムの芽が育まれる。自分の惨めさを引き受けることから逃げて、鼻先に「もしかしたら」のニンジンをぶら下げられ、為政者のために走る馬に成り下がってはいないか

2017.1.22. 怖い強いコワい
肉体と精神と。しのぐことの難しさと大切さを説いたのが色川武大。10代で博打の世界に身を投じ、阿佐田哲也(朝だ、徹夜)のペンネームで独特の人生観が綴られた『うらおもて人生録』を読むと、「強い」の捉え方が変わる
一発全力主義のアマチュアと違って、プロは持続を旨とすべし。そのために大事なのは6分勝って4分捨てること。これが身についたら博打に限らず、どの道でも怖い存在になる
安倍の場合がそう。1次政権の時は全勝を狙い、力任せに勝つには勝つがロスも多く、1年で折れた。今はとにかく長く首相でいるため、捨てられるものは捨てる。戦後70年談話や慰安婦問題をめぐる日韓合意、真珠湾訪問など、従来の主義主張に照らせば齟齬があるはずだが、勝ち星としてではなく大きく負け越さないための星として積まれているのかも。一世一代の大勝負、憲法改正で勝つために…怖い?いや、手強い
しかし、本当に怖いのは、そんな首相と相対する側の「負け癖」で、「感性が鈍くなって、負けを負けとして認識できなくなる。これが怖い」。だから安倍に施政方針演説の中で、「国会の中でプラカードを掲げても、何も生まれません」などと舐められる

2017.2.19. 「仕方ない帝国」に生きてて楽しい?
類は友を呼ぶ。日米首脳会談でこの言葉を噛みしめている。厚遇、おべっか、ナイスショット。2人は「嗤(わら)う」が板についているという点で「類」だ。人を馬鹿にしたり見下したりは誰しもついつい普通にあるが、それと「嗤う」ではステージが違う。ある意味才能
予算委員会で安倍が突然退席。やがて戻ってきた安倍はズボンをずり上げる仕草に続き両手を上げて伸びをし、閣僚からどっと笑いが起きた。野党議員を嗤っている。「真意」は関係ない。嗤われる側はそうやって少しづつ気力を削がれ、政治のダイナミズムは失われる
嗤いは嗤いを、軽蔑は軽蔑を招き、社会はすさむ。ゴールデングローブ賞の授賞式でトランプを念頭にメリル・ストリープがスピーチしたように。「衝動的に人を侮辱するパフォーマンスを権力のある人間が演じれば、あらゆる人たちの生活に影響が及び、他の人たちも同じことをしてもいいという、ある種の許可証を与えることになるのです」
「現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません」(丸山眞男)
そのように捉えられた現実は、容易に「仕方がない」に転化。こうした思考様式が如何に広く戦前戦時の指導者層に食い入り、日本の「現実」を泥沼に追い込んだか。丸山はこう言葉を継ぐ。「ファシズムに対する抵抗力を内側から崩していったのもまさにこうした「現実」観ではなかったか」
既成事実への屈伏が、更なる屈服を生む。対米追従は仕方ない。沖縄に米軍基地が集中するのは仕方ない……。現状追認の無限ループ、そんな「仕方ない帝国」に生きてて楽しい?
嗤われたら笑い返せ。現実は「可能性の束」だ。私もあなたも一筋の可能性を手に、この世に生まれてきたのだ

2017.3.19. 私にもスケベ心はありますが
心は売っても魂は売らない。原稿に行き詰まり、筆がツルッと滑りそうになったときに噛みしめるこの言葉
人間は基本、スケベだ。小さな拍手をもらうと、もっと大きな拍手が欲しくなる。知らず知らずに拍手をもらうことが自己目的化し、過剰に飾ったり尖ったり、その過剰さにいつしか人格が飲み込まれてしまう人もいる。例えば籠池し。その言動には驚くが、そんな氏に「拍手」を送り、今は知らん顔をしている政治家、有名文化人の魂の所在を考えずにはいられない
「安倍晋三記念小学校」ではないが、様々大勢の人が首相に喜んでもらいたい、と日々知恵を絞っている。首相に纏わるあらゆることを忖度している
スケベはスケベを呼ぶ
「敵」を仕立てて被害者面をする。己の責任には無関心で、詰みそうになっても認めず、ときに逆ギレして盤面を荒らす。「お国のために頑張っている=自分は間違っていない」という無敵の脳内等式に支えられている。「愛国心は無頼漢の最後の避難所」(サミュエル・ジョンソン)とはよく言ったもの
安倍は盛んに「印象操作」を連発、挙句の果てに福島瑞穂の質問に「あなた責任とれるんですか」と声を荒らげた。憲法は国会議員の国会での発言に免責特権を認めている。質問者は国民の代表であれば、安倍は国民を恫喝する異常事態。政治家が説明責任や道義的責任を放棄するなと言おうとしたら、自民党の新ポスターのキャッチコピーが「責任を果たす」だと知る

2017.4.24. スットコドッコイと愛の行方
小学1年生の道徳の教科書で「パン屋」が「和菓子屋」に替えられたとの報に触れ、いいからとにかく尊重しろ、愛せと言うのは、バカになれと言っているに等しい。伝統も文化も国も郷土も、重層的で多面的だ。愛すべき部分も憎まざるを得ない部分もある。右傾化というよりスットコドッコイ化。愛さえあれば生きていけるってか
もとより愛することは難しい。愛しすぎて常軌を逸してしまうことも、多々ある
作家の百田氏が、「昔、朝日新聞は北朝鮮のミサイルが日本に落ちても、1発だけなら誤射かもしれない、と書いた。また書いたら社長を半殺しにしてやるつもりだ」とツイッターに投稿。調べてみると、一般論として武力攻撃の線引きは難しいことを解説する記事のようだった

2017.5.29. 恋々としてますが、なにか?
周南市に新設する図書館、中が空洞の「ダミー本」を1/3置くとする。自慢の大きな本棚をダミー本で埋めている家主など信頼できない。安倍政権が民を扱う手つきに似ている
参加でも共働きでも包摂でもなく、動員。中身や過程はどうでもいい、頭数さえそろえばOKという身もふたもない割り切りが、安倍政権の特質。唐突な9条「加憲」表明も、国会議員や国民を動員しやすいと見越してのことだろう。動員に効くのは雰囲気の演出。なにかにつけてオリンピックを持ち出す。あるいは逆らったら面倒なことになるという空気を作り出す。地位に恋々、恫喝連々(加計学園で総理のご意向文書の存在を証言した前川前次官を官房長官が「地位に恋々」と個人攻)
でも、私たちは過半数を形成する頭数でも、「1強」を演出するインテイリアでもない
「反骨の母」と呼ばれる川久保玲のブランド、コムデギャルソンが発出したメッセージ。「常にあなたを他の誰かのようにしようとする世の中で他の誰でもない自分でいること、それは人間にとって最も過酷な戦いに挑むことを意味する、戦いを諦めてはならない」

2017.7.3. 個人と世界と真夜中のギター
「性犯罪を受けたのに、相手が不起訴処分になった」として検察審査会に不服を申し立てたフリー・ジャーナリストの詩織さんに共感して、「詩織と闘う」と書いたプラカードを胸に議事堂前に150人ほどが黙って立っているだけだが、ずっしりとした怒りがたたえられている。詩織という固有名詞を超えて、自らの尊厳が傷つけられたときの痛みの記憶、その古傷から漏れ出す怒りなのかもしれない。一緒に闘う、あなたは1人じゃない。私たちはときに「誰か」に、そう伝えたくなる。誰も聞いていないのに、真夜中のギターを弾いてみたりする
前川前次官は「個人の尊厳、国民主権」と揮毫。自分の信念、思想、良心は自分自身だけのものとして持たなければいけない、との趣旨
個人、良心。自民党の改憲草案では、13条「すべての国民は個人として尊重される」が、「個人」は「人」に、19条「思想及び良心の自由は侵してはならない」が「思想及び良心の自由は保障する」に変えられている
あったことがなかったことにされ、なかったことにはできないと良心に従って声を上げた個人が攻撃される国は美しい国ですか

2017.7.31. 「こんな人たち」に丁寧はじめました
人気の定食屋が暫くして行くと閑散としていて早番潰れるなと思ったらその通りになった
安倍内閣の支持率続落を重ね合わせる
安倍は自らの政治の正統性を支持率の高さによって根拠づけてきたので、支持率低下は致命傷。少数意見に耳を傾ける。幅広い合意を得る。政治の正当性はプロセスが正しくあることによって担保され得るのに、どれもこれもかなぐり捨て、「数」を頼みに暴走を繰り返した。それでも高い支持率を維持できたのは取り囲むファンというフィルターの効果
有名無名、首相の熱烈なファンは確かにフィルターとして機能し、「強引」「傲慢」「実行力」に変換されて拡散、ファンの外側に分厚い「消極的支持層」を育んできた
都議選最終日「安倍やめろ!」の声に対し、「こんな人たちに負けるわけにいかない」とファン越しに首相を見ていた消極的支持層までをも指さしてしまった。フィルターを自ら無効化しちゃったのだ
内閣改造で、「丁寧はじめました」としたくらいで客足は戻るのか

2017.9.18. 慰められたの、誰だ?
毎年横網町公園で行われる関東大震災の慰霊祭。虐殺された朝鮮人らを追悼する式典も長きにわたって行われてきた
今年初めて、朝鮮人の虐殺犠牲者数は過大だとする市民団体も同じ公園で慰霊祭を開くが、大勢の警察官に守られながら挙行
5年前の石垣島でも同じ光景。終戦直前石垣港から出た最後の台湾疎開船が米軍機に攻撃され、魚釣島に漂着、餓死者も続出。本土にはほとんど知られぬ史実だが、2012年尖閣諸島国有化の1か月前、「日本の領土を守るため行動する議員連盟」などが慰霊祭を計画、政府は魚釣島への上陸を許可しなかったので、洋上で慰霊祭が行われた。遺族会は毎年石垣島で恒例の慰霊祭を開くが、あれほど慰霊したがっていた人たちはどうしているのか。国土を巡る政治的なアピールに慰霊は利用された
関東大震災では、朝鮮人と思われた日本人も殺された。「日本人の名誉を守れ」は結構だが、その「日本人」って誰?

2014.5.20. 1分半に1度かけられる命
2014年集団的自衛権の行使に向け一歩を踏み出した会見で安倍が国民の「命」を「守る」と言った回数は計21回。135秒に1
問われているのは、憲法9条の歯止めを外して日本を「戦争をする国」にするのか、しかもその歯止めを閣議決定による政府の憲法解釈変更で外していいのかだ。ところが安倍はこの問いに正面から答えようとせず、「お父さんやお母さん、子供たちを助けられない。それでいいのか」と、レトリックというよりトリックの弁を繰り返すばかり、覚悟も熱意も感じられない。国民に分かってもらうことを重視したという。だとすると政権が想定する国民像は、論理的な説明よりも、お涙頂戴が効く人たちだということなのか
安倍は、敵を批判したり、嘲笑したりするのは得意だが、他者に何かを伝えるのは下手だ。反対する人を説得しようという気がそもそもないからだろう。「身内」に「いいね!」と言ってもらい、最後は数の力で押し切る。会見には安倍のそのような政治観が滲んでいた
会見場に置かれた首相肝いりのパネルには、赤ちゃんを抱く母親に不安げな表情で寄り添う子供のイラストが描かれていた。だが不安な表情で見つめられているのは誰か。首相、あなた自身なのではないか

2015.5.22. 「政治=選挙」ですか?
下がり続ける投票率と、それにも拘らず「選挙に勝った我々こそ民意だ」とばかりに独善的に振る舞う政治家と向き合う時、この国の代表民主主義は「型」の中で窒息しかかっているのではないか、との思いも抱く
安倍は14年消費税先送りについて国民の信を問うと衆院を解散したが、安保法制の整備も公約だった、それで選挙に勝ったのだから国民から支持を得たと、涼しい顔をしている
主権者が選挙の時だけ姿を現す有権者に留まっていたら、「*個人の感想です」みたいな安倍の弁もまかり通ってしまう。政治はある意味、言葉の奪い合い。とりわけ、安倍政権下では

2015.7.3. 「いざという時」が来た
SEALDsの安保関連法案への国会前抗議行動に参加した憲法学の重鎮樋口陽一東大名誉教授が、若者の力強い声を聞き、いきいきした姿に接して、この国のいまと未来にもう一度自信を持ったと発言。予てより、いざという時が来たら街頭に立って演説すると言っていたが、「いざという時」が来たのだ。「不真面目な人たちによって、戦後日本が営々と築き上げてきたものが解体される瀬戸際にある。それに甘んじることは、我々が辱められること。跳ね返そう」
民主主義は手間と時間がかかり、経験則はあっても「正解」はない。多くの人が手をかければ、いつか実がなる。その「いつか」を信じる人たちがいま、「私の言うとおりにすれば間違いない」とうそぶく政治権力に、自分なりの言葉とスタイルで対峙しようとしている

2015.8.7. 「一息で言う」ということ
自分で問題を作って、自分で答えを出す。どうも答えが決まらないときは、問題を持ち越す。持ち越しつつ考え続けるというのが、哲学者鶴見俊輔の流儀(15.7.逝去)
戦時中海軍軍属として南方に送られ、幸い人殺しをせずに済んだが、もし殺せと命じられ、逆らえずに殺してしまったら、どうしただろう? と、戦後も考え続け何十年もかけて答えを出した。「俺は人を殺した、人を殺すのは悪いと一息で言えるような人間になりたい」
安倍政権下、言い訳したり人のせいにしたり、息を継ぎながらしか自らの非を認められない政治家の姿を見るうち、自分なりの解釈がついた。「自分の弱さから目を逸らさず、自身の手で、必ずここに立ち返れという旗を立てることができるかどうかという問題」だと
その意味で、日本はまだ先の大戦の責任について一息で言えていない
戦後70年の夏、全国各地で若者が戦争のできる国への大転向に反対の声を上げ始めている。彼らは自分たちが享受している平和や自由が、何と引き換えだったのか、歴史の中に身を置き、自分の頭で考えている
We are a minority, but a great minority. そこに希望を見出し、運動の継続を考えていく」。鶴見が残した言葉はきっと、その旗の支えになるだろう

第3章          政治の言葉はなぜ貧しいか(インタビュー)
Ø  それはやっぱり、個人のモラルの問題です ~ 町田康(作家、パンク歌手) 『論座』200510月号
『パンク侍、斬られて候』では、「名、実、自意識あるとすれば、彼らはまず自意識、自意識が傷つくことを何よりも恐れ、名よりも実よりも自意識を尊重する」

Ø  なめらかな民主主義 ~ 鈴木健(スマートニュース会長、共同CEO) 『朝日新聞』2013.5.2.
『なめらかな社会とその敵』の著者 ⇒ 300年先を見据え、「誰も何も代表したりされたりしなくても回る民主主義社会=なめらかな社会」を構想
自由に生きるということは、限られた選択肢の中から自由に選択できることではなく、選択肢自体を生み出せる豊饒な空間が保障されていること
理想主義は現実主義との戦いに敗れ、私たちは未来への想像力を失っている

Ø  巨人、大鵬、卵焼き、そして自民党 ~ 鳩山友紀夫(元首相、東アジア共同体研究所理事長)  『朝日新聞』2013.3.22.
理想は語ったが十分に実現できなかった。そのことに責任はあります。ただ、後の政権が完全に現実追認になったことは残念
民主党も制度改革には熱心だったが、それは野党の時だけで、権力を手中にすると気持ちよくなるという人間の本性を軽く見過ぎていた
巨人、大鵬、卵焼きのように、強い者には強くあって欲しいという、好き嫌いに関係なく、自民党はどこか日本人の心のよりどころになっている
12年末政界を引退。信条の「友愛」から1字をとり、「由紀夫」から「友紀夫」に

Ø  ふたたび安倍政権、ヤンキー社会の拡大映す ~ 斎藤環(精神科医) 『朝日新聞』2012.12.27.
なぜ安倍は再登板できたのか、支えてるのは何か ⇒ ヤンキー化した自民党。日本社会に広く浸透している「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなる」という空疎に前向きな感性であり価値観。経済やふるさとを「取り戻す」と言っても根拠は薄弱
義務を果たした人間にだけ権利が与えられる、秩序を乱さない範囲内で自由を認めるという発想は、まるでヤンキー集団の掟。安倍はヤンキーに憧れたけどひ弱でなれなかった
「新しい国へ」という政権構想を発表したが、英訳はrestoration=復古で、古い国に戻そうとしている
保守は知性に支えられた思想だが、ヤンキーは反知性主義。主張の内容の是非よりも、どれだけきっぱり言ったか、言ったことを実行できたかが評価のポイントで、マスコミにもその傾向を後押しされ、結果、日本の政治が無意味な決断主義に陥っている

Ø  勝ったのは誰だ ~ 外山恒一(活動家) 『朝日新聞』2013.7.27.
07年の都知事選で、石原3選確実視の中立候補し、「投票に行くな、どうせ選挙では何も変わらない」と訴え、いま日本を縦断し自民党を誉め倒している
13年の参院選。自民党圧勝に対し、棄権率47.39%なので、勝ったのは棄権を呼びかけ投票率ダウンを推進してきた自分たちだという

Ø  「敗けた」ということ ~ 白井聡(政治学者) 『朝日新聞』2013.7.3.
戦後日本が大切に紡いできた「平和と繁栄」の物語の読み直しに挑む社会思想史家
多くの日本人の主観において、日本は戦争に「敗けた」のではなく、戦争は「終わった」のだ
このすり替えから日本の戦後は始まり、敗戦を「なかったこと」にしていることが、今もなお日本政治や社会のありようを規定している。私はこれを「永続敗戦」と呼ぶ
独立して在るとは「いうべき言葉」を持つことに他ならないが、敗戦をなかったことにし、アメリカの言うなりに動いていればいいというレジームで生きている限り、自分の言葉など必要ない。グローバル化の時代だと言われれば、国家にとって言語とは何かについて深く考察するでもなく、英語だ、グローバル人材だと飛びつく。敗戦の事実すらなかったことにしているこの国には、思考の基盤がない。仮に言うべきことを見つけても、それを発するには資格が必要。ドイツでも「俺たちだけが悪いのか」と言いたいのを堪えてきたからこそ、彼らは発言できるし、聞いてもらえる
言うべきことがないことと、「仕方ない」で何事もやり過ごす日本人の精神風土は関係している。代表例が原爆投下。被爆の経験はそのような最悪の事態を招来するような「恥ずかしい」政府しか我々が持ち得なかったことを端的に示しているはずなのに、「恥ずかしい」ことと思っていない。原発事故も政官財学が一体となって築き上げてきた安全神話が崩壊したのだから、まさに恥辱の経験。「仕方ない」で万事をやり過ごそうとする、私たちの知的・倫理的怠惰が、こういう恥ずかしい状況を生んでいる。恥の中に生き続けることを拒否すべき。それが、自分の言葉を持つということでもある

Ø  主権と回復 ~ 片山杜秀(慶應大教授) 『朝日新聞』2013.4.27.
13.4.28.両陛下隣席の下、「主権回復、国際社会復帰を記念する式典」挙行。国家主義的な動きが強まっているやに見えるが、「国民国家が崩壊過程にあるからこそ起きる現象だ」と政治思想史家の片山は言う
実に安上がりな「国民統合」の仕掛け。安倍政権が主権や国防軍、日の丸、君が代といったナショナルなシンボルをやたらと強調するのは「もう国民の面倒は見ない。それぞれ勝手に生きてくれ」という、政権の新自由主義的なスタンスと表裏の関係にある
明治以来日本は天皇の下で国民統合が図られ、天皇制を脅かす存在を潰す一方、国民に不満を持たせないよう食わせるための努力をしてきた。札ビラを見せながらやってきたのが戦後自民党で、池田の所得倍増計画はその典型。税金や徴兵などの義務を強いる代わりに後々まで面倒みるというのが国民国家だが、今の安倍政権はそういう保守ではなく、その国家観はそこからズレている。改憲草案では、「家族は互いに助け合う」としているが、自助努力の文脈でとらえるべきで、安倍政権の特質である「安上がり」の代表例。国民の面倒は見ない、でも文句を言わせないための安上がりな仕掛けをたくさん作っておくというのが安倍政権の改憲路線。「俺たちは日本人だ」という雰囲気を盛り上げ、辛い目に遭っている人ほど持つ「連帯したい」という感情を糾合し、文句を言わせないようにする
安倍政権が戦後の保守とは質を違えているのは、4.28.で歴史に線を引くという発想に現れている。軍国主義から平和主義、天皇主権から国民主権へ。天皇のいる民主主義国家を作り、守っていくための仕掛けは、占領時代に日米の絶妙な政治的駆け引きによって生まれ、だからこそ自民党の長期政権も可能になったにもかかわらず、4.28.以前の日本は占領軍に手足を縛られ、何も思うようにできなかったかの如く言うのは、歴史の歪曲であり、戦後保守の自己否定
日本の精神主義は、「持たざる国」であることからきている。「持たざる国」という現実を美化するロジックは無尽で、後は精神力でカバーすれば何とかなると。そうやってずっとやってきた。安上がりで済ますにはうってつけの精神風土があることは疑いない

Ø  秘密法とどう向き合う ~ 長谷部恭男(憲法学者) 『朝日新聞』2013.12.20.
13年長谷部は国会で自民党推薦の参考人として、特定秘密保護法に賛成の意見を述べ、集団的自衛権の行使容認にも、憲法改正にも反対してきた長谷部の変容に世間は驚いた
賛成の趣旨は、特別な保護に値する秘密が外に漏れないようにするため不可欠の法律だということ。必要な情報は秘密が守られるのだから各役所も情報を出せということ
「漏らせば厳罰」というより、どの情報が保護に該当するかはその都度行政が決めざるを得ないが、それに該当しない情報は外に出せるということ

Ø  デモと民主主義 ~ 高橋若木(大学講師) 『朝日新聞』2014.9.13.
原発再稼働や集団的自衛権の行使容認など、安倍政権の政策にブレーキをかけるために、特定の党派や組織に拠らない人たちが新しいスタイルのデモを始めた
反対デモの現場で知り合ったりネットで連絡し合ってできた仲間による、社会の「内側」にいる市民・主権者という強い立場から、主権者を見下すような無礼な政治家を叱るといった、強者の感覚に根差した容赦のない、クールな抗議を目指す
選挙で「代表」を選んだ後も全権委任しているわけではなく、主権は自分たちの方にある
若者が大事にしているのは、今の日本社会にある自由であり平和であり多様性。それを守りたいからこそのデモ参加。投票とデモは民主主義の両輪。デモの究極の役割は、どんな政権が出来ても完全には押し込まれない、公正な社会の枠組みがボロボロにされないような政治文化を作ること。「これは自分たちの社会だ」という確信と、「社会は変えられる」という希望を甦らせ、拡散すること

Ø  戦争するということ ~ 塚本晋也(映画監督) 『朝日新聞』2015.9.17.
人間の本質を鮮烈な映像美でえぐり続け、大岡昇平の戦争文学『野火』を映画化して反響
加害者目線で描く戦争。涙とは無関係の世界にいる加害者、戦争の一番の怖さはそこにある。加害を描かなければ戦争や人間の本質には届かない
加害の記憶は、多くの人が口をつぐんだまま亡くなられるので、継承されにくい。それをいいことに、加害の事実をなかったことにして、戦後日本の方向性が大きく変えられようとしている
自民党の改憲草案には、国家のためには個人の人権は軽く扱うということが、難しい言葉で書いてある。「戦争は絶対悪だ」という線を手放してしまえば歯止めはないに等しい
大林宣彦監督が、「何が正義かは教育が教えてきたので、時代やその時の政治で変わるが、正気は教えられるものではなく、確実に自分の中にあるものだ」と言ったが、時代の熱狂や共同幻想から距離を置かないと正気は保てない。自分の正気と対話しながら、物事を深いところで把握する。その積み重ねがいつか事態を覆す力になる


仕方ないあとがき
仕方ないなんてことはない。私たちは何だってできる。私たちは自由なのだと、ちみちみ書き続ける。私にはそれしかできない




Wikipedia
高橋 純子(たかはし じゅんこ、1971 - )は、朝日新聞編集委員・論説委員
来歴[編集]
1971年福岡県生まれ。1993年に朝日新聞入社。鹿児島支局、西部本社社会部、月刊「論座」編集部(休刊)、オピニオン編集部、論説委員、政治部次長を経て編集委員・論説委員を兼任[1]19TBSサンデーモーニングコメンテーター
複数の筆者が担当する政治面のコラム「政治断簡」を担当。政治部次長時代に高橋が書いたコラムは、反安倍政権の姿勢を貫き、「だまってトイレをつまらせろ」[2]、「スケベはスケベを呼ぶ」[3]等と書き物議を醸し、読者から「下品な」、「中学生みたいな文章を書くな」、「朝日新聞も落ち目」(降旗学 (2016312)との批判も受けたという[5][6]
発言・行動[編集]
朝日新聞阪神支局襲撃事件から30年の201753日、言論の自由をテーマにした神戸朝日ホールで行われた集会でパネリストとして参加し [7]
「政治家がメディアを選別して情報を流すようになっているが、(権力に)対峙する姿勢を示し、信頼を獲得することが大事」
と述べた。
安保法制を野党が「戦争法案」と批判したことに対して安倍晋三が「無責任なレッテル貼り」と反論したことに対して[8]
「政治はある意味、言葉の奪い合い。とりわけ、安倍政権下では。『レッテル貼りだ』なんてレッテル貼りにひるむ必要はない。さあ、奪いに行きましょう。堂々と貼りにいきましょう」
日刊ゲンダイの「注目の人・直撃インタビュー」にて (朝日新聞・高橋純子氏 「安倍政権の気持ち悪さ伝えたい」日刊ゲンダイ. (20171225
安倍政権の振る舞いや政策を正面から論じても読者はピンとこない。(中略)欺瞞を正面から論破するのは難しい。だから「なんか嫌だ」「どっか気持ち悪い」などといった自分のモヤモヤした感情をなんとか言葉にして読者に伝えないと、権力に対峙したことにならないんじゃないかと思うんです。
著書[編集]
『仕方ない帝国』(河出書房新社2017年、ISBN 978-4309248295


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