子規全集第6巻 和歌 新体詩 漢詩 正岡子規 2026.9.13.
2023.9.19. 子規全集第6巻 和歌 新体詩 漢詩 (非売品)
著作者 故・正岡子規
発行日 大正13年10月25日 印刷 10月30日 発行
発行所 (資)アルス 発行者 合資会社代表者 北原鐵雄
【竹の里歌】
Ø 明治15年(1首)
三並良(みなみはじめ、哲学者、松山出身、子規の5友の1人)へ(7月31日)
隅田てふ堤の桜さけるころ花の錦をきてかへるらん
Ø 明治21年(63首)
「女郎花の巻」(七草集) 夏目向島閑居
檐(ひさし)の端にうゑつらねたる樫の木の下枝をあらみ白帆行く見ゆ
Ø 明治22年(6首)
「新宮へ御移転あらせたまふを祝き奉る文」の末に
いつまてもつきせぬ御代にくらへては千代のみとりの松もものかは
Ø 明治23年(5首)
「紅葉会の発会を祝す」の末に
とこしへに散らぬつゞれの錦とはもみぢに似たる鳥の跡かな
Ø 明治24年(15首)
「かくれみの」のうち
ある人にこよひのやとりを問はれて
世の中にすみかなけれは天が下いづこかおのがやどりならざる
Ø 明治25年(7首)
高濱虚子へ(1月25日)
うちむれて若菜つむなるをとめ子がかたみの底に浅き春かも
Ø 明治26年(14首)
「鎌倉一見の記」のうち
高とのゝ三つは四つはのあと問へば麦の二葉に雲雀なくなり
Ø 明治27年(18首)
棚橋に駒をたてをれば薄月夜梅が香遠く匂ふ夕くれ
Ø 明治28年(17首)
寄海祝(この年の歌会始のお題。戦時中のため歌会始自体は中止)
朝日うつるこがねの波にむれ遊ぶ亀かと見えて八洲浮ぶなり
Ø 明治30年(6首)
愚庵和尚より其庭になりたる柿なりとて15ばかりおくられけるに
御仏にそなへし柿ののこれるを我にぞたびし十あまりいつゝ
Ø 明治31年
百中十首
およそ百ばかりの歌の中より十を選べと乞ひて同人の選びたる者この百中十首なり。歌の悪きは選者の罪にあらず、作者に善き歌無ければなり。見ん人必ず選者をな咎めたまひそ
其一(白雲選)(10首)
山里に蠶(かいこ)飼ふなる五畝の宅麦はつくらず桑を多く植う
其二(徒然坊選)(10首)
月更くる忍が丘に犬吠えて桜の影を踏む人も無し
其三(某選)、其四(碧梧桐選)、其五(虚子選)、其六(鳴雪選)、其七(墨水選)、其八(戯道選)、其九(竹柏園選)、其十(露月選)、其十一(遠人選)
Ø 明治32年
絵あまたひろげ見てつくれる歌の中に
なむあみだ佛つくりがつくりたる佛見あげて驚くところ
寄漱石
あづま菊いけて置きけり火の國(熊本五高教師時代)に住みける君の帰りくるかね
Ø 明治33年
笠
旅行くと都路さかり市川の笠売る家に笠もとめ著つ
羯南氏男子を失へるに
淵にすむ龍のあぎとの白玉を手に取ると見し夢はさめけり
「龍のあぎとの白玉」とは?
中国の古典『荘子』にある「驪竜(りりょう)の顎(あぎと)の下の珠」の故事に基づいています。命がけでなければ絶対に手に入らない「この世で最も貴重な宝(極上の栄誉や地位)」の例えです。
どのような状況で詠まれたか?
藤原実資が右大臣という最高の栄誉(あるいは長寿や子孫繁栄の吉兆)を手にする直前、あるいは人生の絶頂期に見た夢を振り返って詠んだとされています。「手に入れた!」という最高の喜びの絶頂でパッと目が覚めてしまった、
東宮御婚儀を祝する歌
すめろぎの御子のみことと大み女と玉串さゝげ神ちぎります
すめろぎの御子(みこ)のみことと:天皇・皇室の血を引く若き王子(皇子)さまと
大(おお)み女(むすめ)と:高貴な家柄の姫君(または皇女)とが
玉串(たまぐし)さゝげ:神前に玉串を捧げまつり
神ちぎります:神々に対して、永遠の愛と結びつきを誓い合われます
Ø 明治34年
新年
うつせみの我足痛みつごもりをうまいは寝ずて(ぐっすり寝られずに)年明にけり
Ø 明治35年
御題新年梅
大君のみことかしこみあら玉のとしのはじめに梅の花さく
Ø 年代不明(4首)
大ぶつのみくしのうへに日はおちてあきかせさむしかまくらの里
【新体詩】
Ø 鹿笛 明治29年8月5日
近者闌更集を読む。中に
鹿笛に谷川渡る音せはし
という句あり。巻を掩ふて嘆じて曰く、嗚呼僅々17字、なんぞ其の余音の嫋々(じょうじょう)たる。すなわちこれを布衍して長歌1篇を作る。世人幸いに蛇足を笑うなかれ
一
藁頭巾、種が嶋、 火縄片手に うちふりつゝ、 宵闇に、紛れ 立ち出でたり。
小道盡きたる 八重葎、 うばらかきわけ 茅踏みつけ、 山又山 深く入る。
以下、三まで続く
江戸時代中期〜後期の俳人・高桑闌更(たかくわ らんこう)。1726(享保11年)〜 1798(寛政10年)
人物:江戸時代中期から後期にかけて活躍した加賀(金沢)出身の俳人・医師。
功績:松尾芭蕉の作風(蕉風)の復興に努め、天明期の俳諧中興に大きな貢献をした人物です。別号に「半化房(はんかぼう)」などがあります
Ø 父の墓 明治29年8月20日
一
父の御墓に 詣でんと 末広町に 来て見れば
鐵軌寺内を よこぎりて 墓場に近く 汽車走る。
石塔倒れ 花萎む 露の細道 奥深く、
小笹まじりの 草の中に 荒れて御墓ぞ 立ちたまふ。
以下、四まで続く
Ø 小蟲 明治29年9月5日
胡蝶
一もと菫 物思ふ ゆふべの胡蝶の 舞ひ落ちぬ
しきりに蝶は さゝやきつ 嬉しげに花は うなづきつ。
以下、虹、蜻蛉、峰 と続く
Ø 戈 明治29年9月5日
来れ君だち。われゝゝは 敵の重圍の 中に在り。
味方はわづか 十余人 たとひ鬼神の 勇ありとも
逃れ出づべき やうにあらじ。
Ø 筆 明治29年9月5日
さらばよ、少女。此日頃 世にわりなくも 馴れし身の
今は最期の 別れなる。
Ø 四季 明治29年9月20日
春
かすみながらに 空晴れて 緑萌え立つ 山の端に、
薄紅の 衣軽く 長き裳を いとゆふと
乱して空に 靡かせつ、 吹かば消えなん 御姿の
くはし女神ぞ 立ちたまふ。
以下、夏、秋、冬 と続く
Ø 音頭の瀬戸 明治29年10月5日
宇治の港船出して 四国に渡る通ひ路の
呉、江田嶋と打ち過ぎて、 波も静かに風もなく
音頭の瀬戸にかゝりけり。
Ø 園の秋 明治29年10月5日
萩薄
小庭に生ふる萩薄、 いまだ二葉のはじめより
行末かけて契りしか やがて穂に出で花咲きぬ。
以下、鶏頭、蝉蜩、蟲聲、白菊 と続く
Ø 金州雑詩(明治28年金州滞在中所観) 明治29年10月20日
金州城
わがすめらぎの春四月、 金州城に来て見れば、
いくさのあとの家荒れて、 杏の花ぞさかりなる。
以下、三崎山、髑髏、空村、空家、若菜、胡弓 と続く
Ø 洪水 明治29年8月5日
一
杉深く水清きところ、 二人の神はいであひぬ。
千歳の老木半ば朽ち、 苔厚く蒸す根の上に
腰打ちかけし森の神 絶えて久しく逢はざりき。
以下、五まで続く
Ø 病の窓 明治29年12月20日
心地例ならず打ち臥して はや二十日にもなりにけり。
ややおこたりし昨日今日、 書繙きて見んとすれど
読むにものうし筆取りて 物書かんとすれど力なし。
Ø 明治29年 明治30年1月1日
『三浦出獄』
ひとり獄に在り。徐ろに 心やすめて坐し居れば 四方に鳥啼き花笑ひ 春風ゆるく襟に入る。以下略。 牢を出て人の顔見る寒さかな
1896年(明治29年)1月20日、前駐韓全権公使の三浦梧楼陸軍中将らが、広島刑務所(当時は広島監獄)から出獄しました。これは、前年に朝鮮(李氏朝鮮)の王宮で発生した王妃暗殺事件「乙未事変(閔妃暗殺事件)」をめぐる裁判の判決によるもの
『政党合同』
一本の矢は折るに易く 一束の箸は折る可らず。黒白二つに分かれてぞ 全局の勝は望むべき 分れけり小鴨は小鴨鴨は鴨
1896年(明治29年)3月1日、立憲改進党を中心に複数の政治グループが合同し、進歩党が結成されました。 大隈重信を事実上の党首(機軸)とした政党であり、同年の第2次松方正義内閣と提携(「松隈内閣」とも呼ばれる)して政権に参画
以下、朝鮮動乱、従軍紀章、板伯入閣、償金収容、露帝戴冠 と続く
三陸海嘯(地震の逆流) 人すがる屋根は浮巣のたぐひかな
以下、馬匹天覧、紀念郵券 と続く
皆既日食 ひやゝかや喰はれ残りの日の光
東北地震 地震さへまじりて二百十日かな
府下出水 都かな悲しき秋を大水見
以下、内閣新成、演習天覧
日清条約 稲妻のうしろの方に油断すな
以下、仏林俗議、蓮宗訴訟、宮相事件、軍艦派遣、端艇競漕まで
Ø 筆はじめ 明治30年1月1日
雞一聲
雞一聲夜未だ明けず。 あやなき闇の中空に
ほのかに赤き物見ゆる 物や初日の富士ならん。
以下、松影映水、人一人 と続く
Ø 新年 明治30年1月5日
「うれしげなりや、女の童。 語れ、女の童、語れ。
いかに新年の うれしきかを なぜに正月の 楽しきかを」
Ø 新年雑興 明治30年1月
其一
著はしゝ書の ありたけを 積み重ねたる 床の間に
輪飾掛けて 新年の 文運祝ふ 心あり。
以下、其四まで続く
Ø 老嫗某の墓に詣づ 明治30年1月20日
われ幼くて恩受けし 姥のなごりの墓じるし、
せめては水を手向けんと 行くや、湯月の村の外。
Ø 田中館甲士郎を悼む 明治30年1月20日
世を憤るそのために 名士の末に生れけん、
不平に駆られ、君終に 都を出れば行路難。
日本の著名な地球物理学者である田中舘愛橘の異母弟です。開墾を志して北海道へ移住したのち、1896年(明治29年)12月に消息を絶ち、若くして亡くなった(後に失踪宣告)
Ø 少年香庵を悼む 明治30年1月20日
あはれ八月十五夜の 月は隈なく輝けど、
香庵終に帰り来ず、 永く見捨てし仮の宿。
Ø 古白の墓に詣づ 明治30年1月20日
何故汝は 世を捨てし。
浮世は汝を 捨てざるに、
我等は汝を 捨てざるに、
汝は我をぞ 見捨てしに。
Ø おもかげ 明治30年?
指かゞなへて 十あまり、
思へば夢の 昔なり。
我まだ若き 花の顔。
Ø 皇太后陛下の崩御遊ばされたるをいたみたてまつる 明治30年1月25日
かしこきや國の御母。 ゆゝしきや御門の御親。
凩に吹き散る木の葉 もろともに誘はれますや、
有明の落つる山の端、 哀しその青山の宮。
Ø 蒼苔を憶ふ 明治30年2月5日
蒼苔去つて帰り来ず、 知らず吉凶今如何。
浮世を捨てゝ浮世より 楽しき處何處やらん、
霞の外か、日の中か、 西も東も天無辺。
歌原蒼苔(うかはら そうたい、1875~1942)は、愛媛県出身の俳人です。本名は恒(つね)。正岡子規の従弟。子規の門に入って俳句を始めた。日露戦争に少尉として従軍した後、朝鮮に移住し、農園を経営。また大邸図書館司書を務め、同地の俳界の中心となる。著書に『俳句に現はれたる植物』などがある。
Ø 子の愛 明治30年2月20日
桟橋長う海の上、 あわただしげにわめく聲、
船今出づと彼方なる 蒸汽に近く人のよる。
Ø 俚歌に擬す 明治30年3月5日
俚歌の中に子守唄、及び小児の歌う歌は言葉ひなびたれども面白き節少なからぬを、小学校に唱歌を教へしよりやうゝゝに唱歌行れて俚歌は跡を絶たんとす。なかゝゝに唱歌よりも俚歌に文学趣味多きを思ふに、其全く世に忘られんことを口をしく、此頃幼き時に覚えたる歌の忘れたるを老人に聞き正して書いつけ見るに、一入興に入りて、終にその口まねをぞこゝろみける。吾は韻語の自然ならぬを笑ふ、人は事の益無きを笑はん。
其一
ねんねんやおころおりや。 ねんねの坊やは誰が子ぞや。
お城の上の星の子か、 南の海の河豚の子か。
以下、其六まで
Ø 花草 明治30年3月20日
山吹
弓手ばさみし武者一騎、 狩場の道や迷ひけん、
装束濡れて、雨しげき 土手にためらふ、川の辺。
以下、牡丹、朝顔、水仙と続く
Ø 奈翁仮面の図を見る 明治30年3月20日
一たび鞭を加ふれば、 勇士従ふ馬の側、 欧州千里山震ふ、 蹄の跡は皆墓場
再び鞭を揚ぐる時、 國平かに草靡き、 木のは凱歌を奏しつゝ、 萬歳祝ふ風の息
Ø 微笑 明治30年11月20日
腹かつさぱき死せと言ふ。 我は得死なじ、とありても。
頭を触れて、大磐石、 砕けて死せよ。せじ、それも。
Ø 花四種 明治30年
梅
誰が吹きすさむ 笛の音か、 したひて行けば 梅林、
夜の気匂ふ 霧の中 一痕の月 空白し。
以下、 紅梅、海棠、桜 と続く
Ø 病中新年 明治31年1月5日
(一)
元気に富める空の果、 火のかたまりを中にして、
玉ころがしの玉のごと、 土くれ人を乗せし儘
三百六十五度我と ころげて、其夜明くる今、
以下、(三)まで続く
Ø 花売る歌 明治31年10月
花めせ 花めせ 秋は七草百千種 月の穂芒蛍草 秋海棠よくれなゐの
粧ひは誰が思ひ者 花の脣もの言はゞ 露やこぼさん露散らば 桔梗の花も妬むらん
芙蓉の花も猜むらん
Ø 豊年の秋 明治31年10月
車に積まば 七車 舟に載すれば こゝの舟、 さツさ、 稲舟、 稲車、
動かにヤ、 嫁御も 押しに来い、 重たきヤ、 そこらへ うち捨てろ、豊年ぢヤ、 満作ぢヤ。
Ø 猩々 明治31年11月
(上、下)
かしら衝く日に近き山 山の尾に木なす高草 其陰に親猩々は 子を抱きて眺め居る空
汝が父はいづくの海び さまよふぞこゝだ年月 伕とふたり住み馴れし谷 草枕ふしど荒れたり
Ø 菊合せ(11月3日天長節に際し) 明治31年11月5日
豊葦原の瑞穂の國 二千余年を経て今に 仰げば高き日の御子よ
天の御位つぎゝゞに 限りもあらじ千代八千代
明治時代には、明治天皇の天長節を祝う中心的な行事として「菊花の宴(重陽の宴)」が重ねられ、宮中で大規模な菊の品評会(菊合せ)が行われた
Ø 村の光 明治31年12月
わが村の村の光と 白玉の玉なす君は
桃すもゝ言さへ問はぬ うつくしのつれなの君よ
Ø 芒(すすき)老ゆ 明治31年12月
芒老いて菊はつぼむ 萩を刈りて菊は開く
白き薔薇に晴るゝ小雨 葉鶏頭に散る夕榮
Ø 内地雑居の歌 明治32年8月
(一)
鄰のお蝶さんはアーエ 緑の黒髪、鷲の鼻、
あか金光(かねびか)りに窪眼、 著物は西洋、嶋田髷、 あれは誰の子、 世界の子。
以下、(二)に続く
Ø 富士山 明治32年
直立一千二百丈 足もとよりぞ起りける 夏猶寒き白雪は 空の真中に積もりけり
仰げや高き富士の山 富士は御国の鎭めなり
Ø 古城の月 年次不詳
矢叫びの音 鬨の聲 敵も味方も 屍なり 十里山河 血に染みて 彼も一時と なりにける
ふりにし跡を 来て見れば 石垣ばかり 残りにき 三百年の 夢さめて 昔を照す 秋の月
【漢詩稿】
Ø 明治戊寅11年
聞子規 余作詩以此為始
一聲孤月下。 啼血不堪聞。 半夜空欹枕。 古郷萬里雲。
欹(イ、そばだつ)
Ø 明治己卯12年
春日還家
乗馬騎馬早帰来。 一謁雙親喜自催。 處處鶯啼春以海。 故園芳樹待吾開。
Ø 明治庚辰13年
Ø 明治辛巳14年
太田道灌
獵罷孤鞍風雨中。 女兒不語意何窮。 棣棠一朶黄葩色。 却作英雄愧面赤。
棣(テイトウ、やまぶき)、朶(ダ、えだ)、葩(ハ、はな)、愧(キ、はじる)
Ø 明治15年壬午
西行法師
雲水絶塵縁。 懶加弓馬列。 斯心可比何。 富士千秋雪。
懶(ライ、ものうい)
Ø 明治16年癸未
Ø 明治17甲申年
Ø 乙酉詩稿18年
寄贈武市幡松
與君分日未期分。 忽發三津愁緒紛。 孤客東遊千里地。 故山西望萬重雲。
風催金気何無感。 樹送秋聲不可聞。 半歳寥寥絶音信。 空看天際雁群群。
忽(コツ、たちまち)
武市 幡松(たけいち ばんしょう、1863-1924)は、愛媛県出身の政治家・農業指導者。本名庫太。俳号としては他に「雪燈(せっとう)」など。子規の「良友」(親しい友人)として知られ、子規の文学活動や松山での俳句研究会の発足にも深く関わった。
Ø 丙戌19年
Ø 明治20丁亥年
Ø 明治21戊子年
Ø 明治22己丑年
寄夏目漱石漱石時在房州海水浴場
総房臨海夏常涼。 鹹水医痾若薬傷。 黄巻青編消永昼。 清風澹月伴漁郎。
鹹(カン、しおからい)、痾(ア、やまい)、澹(タン、あわい)
鹹水医痾若薬傷:鹹水(かんすい)痾(やまい)を医(い)するに 薬(くすり)の傷(きず)をいやすが若(ごと)し
明治22年、夏目漱石は房総半島へ旅(修学旅行)に出かけました。その際、漱石から送られてきた旅日記(『木屑録』)に対し、子規が赤字で批評や漢詩を添えて返した、二人の深い友情を示す交流の中で詠まれたものです。当時、二人はお互いに病気や体調不良を抱えがちだったため、子規が「房総の豊かな自然や海の力で、どうか体調を良くしてきてくれ」と、ユーモアと深いいたわりを込めて漱石にエールを送った一幕
「黄巻青編消永昼」(おうかんせいへん えいちょうをしょうす)は、読書にふける雅なライフスタイルを表現した言葉です。
黄巻(おうかん):黄色い紙(染紙)に書かれた古い書物。転じて、漢籍や古典などの立派な書物全般を指す。
青編(せいへん):歴史書や書物のこと(古くは竹簡を青い紐で編んだり、青い布の覆いを用いたことから)。
消(しょうす):時間を過ごす、退屈を紛らわす。
永昼(えいちょう):「春や夏の日の長い一日」(昼の時間が長いこと)。
伴漁郎:漁師(漁夫)と仲間になる、漁師の連れとなって一緒に過ごす
Ø 明治23庚寅年
三保松原
舊蹤討来問漁父。 苔蘚斑斑断碑古。 青松老盡仙不還。 空傳霓裳羽衣舞。
芙蓉吃立海中央。 玉顔雪膚雲為裳。 当年去路従何處。 望美人兮天一方。
霓(ゲイ、にじ)、兮(ケイ、ああ詠嘆)
三井寓居寄夏目漱石 次其所寄韻
琶湖携筆避紅塵。 山紫水明憶美人。 一夜天風吹我去。 白雲皎月遇詩神。
「次其所寄韻」(其の寄せられし韻に次す)とは、漢詩の作詩技法や詩題で使われる言葉で、「(知人などから)送られてきた漢詩で使われている韻(押韻の文字)と同じ韻を、同じ順番で使って返歌(返詩)を作る」という意味です。
主に漢詩の贈答(やり取り)において、相手への敬意や親愛の情を示したり、自身の詩才を披露したりする際に用いられる「和韻(わいん)」あるいは「次韻(じいん)」と呼ばれる高度なルールを指しています。
Ø 明治24辛卯年
Ø 明治25壬辰年
Ø 明治26癸巳年
Ø 明治27甲午年
Ø 明治28乙未年
Ø 明治29年丙申
送夏目漱石之伊予
去矣三千里。 送君生暮寒。 空中懸大嶽。 海末起長瀾。
僻地交遊少。 狡兒教化難。 清明期再会。 莫後晩花残。
矣(イ、感嘆)、瀾(ラン、なみ)
漱石:1895年伊予赴任、子規との交遊を深める。96年熊本赴任
Ø 補遺(年代不詳)
編輯後記
この巻を編むにあたって第一に困難を感じたのは、居士自輯の原本『竹の里歌』が見当たらないこと。原本は明治15年以後の短歌、長歌、新体詩を併せて約2000首あり、その中から明治30年以降に限って長歌15首、旋頭歌(せどうか)12首、短歌544首を選出したもの
30年以前は居士が真に短歌に向かう前なので割愛しているが、年代的な変化をみたり前後対照の意味からいっても収載の必要があるので、発見できたものは採録
居士が『日本』に初めて発表した『かけはしの記』にも若干の和歌が含まれ、『はてしらずの記』に至る紀行中にも散見するが、「竹の里人」の名を書して単独に和歌だけを発表したのは明治27年2月23日の『小日本』紙上の『棚橋に駒たてをれば』の1首が最初のようだ。他にも10首ほどあり、数は多くないが、初期の作と短歌革新に着手してからの作との間に介在して、調子その他の上にある特徴を認め得るのみならず、時に相類似したものを発見することもある
31年以後の和歌の排列は大体発表された順によるが、順次の特定に苦しんだ歌も多い
31年以後の歌の資料として子規庵に現存するのは、「竹の里歌」と題した切り抜き帖と、子規庵で催された歌会の会稿。歌会は31年3月俳人仲間だけで開催、次いで32年2月以後翌年10月まで連続して開催。その結果が『日本』紙上に発表されるようになったのは32年7月の第4回目からで、子規庵に現存する会稿は33年1月までの10回分
居士の筆になる歌会の記事は、いずれ追加として刊行する『随筆』中に収める
歌会の歌でも、他に重複して発表されたものは、どちらか一方を取ることにした
新体詩も同様の困難あり。最初に発表された作は、『陣中日記』(明治28年)の中の「金州城」を詠んだものだが、真に新体詩に注力したのは、29年『日本人』誌上に「竹の里人」の名で「鹿笛」を発表してから後で、居士の事業としては時代的に見て俳句と和歌の中間に位置する
新体詩における居士の書名は「竹の里人」がほとんど、発表掲載も『日本人』が大多数
一方越智處之助の名でしばしばこれを評している(第5巻参照)
明治30年3月、新詩会の人々によって小詩集『この花』刊行。居士も子規の名で加わる。顔触れは落合直文、佐々木信綱、武嶋羽衣、杉烏山、大町桂月、与謝野鉄幹、塩井雨江など
居士の晩年に新体詩の作品が見当たらないのは、和歌に多くの力を注がれたのと、病苦の重きを加えたことによるのだろ。ただ、俚謡(りよう、田舎びた歌)の調を帯びたものが2,3、不思議に34年中の文中に残る。『墨汁一滴』『病臥漫録(枝豆)』にあり、第10巻参照
漢詩は子規庵に現存する『漢詩稿』1巻にほとんど収録
明治11から15年は莞爾先生の名で、同16~18年は獺祭魚史、同19~21年は蔗尾道人の名だが、22年以後はこの種の名がついていない
『漢詩集』の名も初めは『青苔黄葉』だった
発表されたものが少なく、最初は明治25年の「不如帰齋主人」の名で『日本』紙上に掲げた『岐蘇雑詩30音』だが、30年以後は病重く身辺多事なるに従い余力がなくなった
折り込み
和歌
ふらんすのぱりにゆく絵師送らんと 画をかきてくひ牛くひてかく 規
世の人はさかしらをすと酒のみぬ 吾は柿くひて猿にかも似る 升
新体詩原稿
子規居士筆詩箋(明治16年)
漢詩ノート
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