四字熟語の中国史  冨谷至   2026.9.10.

 2026.9.10.  四字熟語の中国史

 

著者 冨谷至 1952年大阪府生まれ。京都大学文学部史学科東洋史専攻卒業,文学博士。 京都大学人文科学研究所教授。専攻中国法制史。著書『ゴビに生きた男たち』(白帝社)。 『古代中国の刑罰』(中公新書)ほか

 

発行日            2012.2.21.1刷発行

発行所            岩波書店 (岩波新書)

 

 

「四つの漢字」という窓から

四字句の基調は、漢字そのものの属性と、漢字を使ってきた元祖中国の漢字文化に起因する。単語・熟語からまとまった内容を表現する文となれば、四字の句が基本となり、またその四字のリズムが最も安定したリズムであり、視覚的にも安定した構造がここに出来上がる

四字句を基本とした漢文の構造が最も典型的に表れたのが六朝時代(46世紀)の四六駢儷(べんれい)体。基本となる四字句とそれに二字を加えた六字句の構文が完成された美文とみた

もともと持っていた原義から、その表現がでてきた背景、典拠をも包括する別の意味へと敷衍した熟語として形を変える。四字句が内包する奥深さと意味の広がりをどれだけ伝えることが出来るのかが、士大夫の作文力いな知識人としての資格となった

本書は、時代順に4階建て

1階は「聖人を語った言葉」で、紀元前56世紀、春秋時代の孔子と『論語』にまつわる四字熟語

2階は「諸子百家の興宴」で、公使と儒教に対抗する思想などを取り上げる

3階は、殷周時代、春秋戦国時代、秦末漢初さらには前漢時代と時代を追って、司馬遷が記した『史記』のなかから4種類の四字熟語を取り上げる

4階は「転換する時代と四字熟語」で、広く東アジア世界への遠望を見る

子曰く。之を知る者は之を好む者にしかず、之を好む者は、これを楽しむ者に如かず(『論語』雍也(ようや))

 

一 聖人を語った言葉──孔子と『論語』
 1 温故知新──なぜ「温」が「たずねる」なのか

20篇の『論語』がまとまったのは前漢時代初め(BC2世紀)

子曰。温故而知新 可以為師矣(もってしとなるべし)(『論語』為政(いせい))

「温」は「たずねる」という解釈が一般で、「故(ふるき)をたずねて新しきを知る」となるが、朱子学嫌いの荻生徂徠は反論し、「あたためる=古いものを温めて熟成させる」と解釈

「古いことを知ることが新しいことを知る方法」といった解釈ではなく、

「古いことに習熟してこそ新しいことが理解できる」「新しい知識はそれまでの学習の間断なき積み重ねの上に成り立ち、出来る者が師となれる」との意味が正解

 

 2 韋編三絶(いへんさんぜつ)──書写材料の変遷

「韋編三絶」とは、「書物を熟読すること」「読書に熱心なこと」

『史記』孔子世家が出典。孔子の学問好きを語る逸話

「韋編」とは「書籍の(なめし革の)とじ紐」とされるが、孔子の時代は木簡や竹簡が使用されており、その際の繋ぐものは「縄」であって、なめし革が出てくるのはもっと後

 

 3 盗泉之水(とうせんのみず)──「正名」それとも「潔癖」

「渇しても盗泉の水を飲まず」とは、「困窮しても不正には手を出さない」の意

最古の出典は『尸子(しし)

「盗泉」とは、魯の東北に湧き出る泉であり、地名である可能性もあり

「渇して盗泉の水を飲まず」との孔子の寓話は「その名すら悪ん」だ潔癖を言おうとしたのか、「その名こそ悪む」形式重視を主張したのか、決め難い

 

 4 糞土之の牆(ふんどのしょう)──許されない「魯魚亥豕(ろがいぎょし)

孔子の弟子の1人宰予(さいよ)は、孔子が言語に秀でたと評価するが、言動が奇矯

孔子が、宰予の昼寝をしているのを見て、「朽木(きゅうぼく)は雕(きざ)むべからず、糞土の牆は杇()るべからず、予に於てか何をか誅()めん」と激怒したという

なぜ昼寝に激怒したのかは不明だが、そこから以下の解釈が人口に膾炙

「糞土之牆」とは、土が古くなりボロボロになった壁土、「腐った木は、彫刻が出来ず、古くなった壁土は、塗り直しても無駄」、そこから手のつけようのないダメな人間との意

 

二 諸子百家の興宴──春秋戦国時代の思想
 1 守株(しゅしゅ)矛盾──韓非子の儒教批判

儒教とは、人間の善意に対する楽天的信頼と、古(いにしえ)の秩序ある世の中(聖人君子の世、三王五帝、堯・舜・禹の理想的な時代)を模範にして、そのような世界を実現するという尚古思想がその根底にある

非現実気理想主義だとして攻撃したのが法家であり、その旗手が韓非子

韓非子は、現実に立脚して論を展開。「先王の政をもって当世の民を治めんと欲するは、皆守株(しゅしゅ)の類なり」として、昔のやり方に固執するのは愚かなことだと批判

焚書坑儒は漢代になって秦始皇帝の暴政を象徴する行為として出てくるが、両者の背景は異なり、両者は一連の政策ではない。「坑儒」は、神仙思想に傾倒していった始皇帝が、まやかし者の方術士たちに騙されていたことに腹を立てて、彼らを穴埋めにした事件で、儒教弾圧ではなかった。「焚書」は現実主義に立脚した政治を貫徹するための措置であり、無責任な尚古主義に対するもので、「守株矛盾」の喩に通底するもの

韓非子の理想に依った李斯の尚古主義への批判は、現実に立脚した現実主義として一理あるが、その現実主義を進めるために「焚書」を断行するのは、実現が不可能な非現実的政策だった、そこに李斯の矛盾がある

 

 2 宋襄之仁──宋の人はなぜ笑われるのか

魯の国の年代記『春秋』では、宋と楚の戦争で、戦力で圧倒する楚の渡河中を攻撃しなかった宋の戦術を「宋襄之仁」として褒め称えている

動機重視か結果主義か、背反する2つの主義は各時代の局面で問題となってきた

宋に関する四字熟語:

「朝三暮四」―猿を飼っている者が、家の食い分を削って猿に餌を与えていたが、困窮してきたので、猿に「トチの実を朝に3、夜に4やろう」と言ったら猿が怒りだしたので、一転「朝に4、夜に3やる」と言ったら猿は皆ひれ伏して喜んだ

「隣人之父」―宋の資産家の家の垣根が崩れかかっていた。息子が「修理しないと泥棒が入る」と警告、隣の主人も同じことを忠告。夜になって泥棒が入って大金を盗まれた。資産家は息子を知恵物として、隣家の主人を疑った

宋人にかこつけた寓話が多いが、この宋は、周に滅ぼされた殷の末裔で、殷人は融通の利かない頑固な人間(=頑民)として周以後に揶揄された

殷の頑民こそが宋人で、そこから「宋に・・・・」という笑い話h¥が生まれ、それはまら頑なに正義を墨守して敗退した「宋襄之仁」にも繋がる

 

 3 不射之射(ふしゃのい)──我れ未だ木鶏たりえず

『列子』には、弓術の会得と達成者に関しての説明があり、弓術の極意として言われたのが「不射の射」

対象が意識され、存在するうちは、その対象を超越せねばならず、いわば匹敵の状態でしかない。対象というものを全く凌駕するということは、自己の存在をも凌駕すること

真の名人(=至人)とは、自己を昇華させた境地、自己そのものが無となった状態であり、それは「木鶏(もっけい)」という喩で、『列子』『荘子』には描かれている

『列子』『荘子』とも木鶏を「徳、全しー完全な徳を身につけた」というが、ここでの「徳」は儒教で言う「仁徳」ではなく、無為自然のエネルギーであり、それを会得した究極の道を意味する

東洋における究極の名人、究極の完成は道の体得にあり、スポーツ、芸能を超え、無為自然の境地への到達、自己の存在の昇華と密接不離な関係を有するものだろう

 

 4 風林火山──信玄の旗印

典拠は『孫子』。兵以詐立、以利動、以分合(ぶんごう)為変者也。故其疾如風、其徐(しずか)如林、侵掠(しんりゃく)如火、不動如山、難知(しりがたき)如陰、動如雷震(らいしん)

兵法家孫子の列伝は『史記』。2人いて1人は春秋時代の斉の孫武、もう1人がその100年後魏に仕え後に斉の軍師となった孫臏(そんびん)。両者とも兵法書を残しているが、現在伝わるのは前者が書いて魏武帝の曹操が注をつけたもの1冊のみ

信玄がなぜ「風林火山」の4句を川中島の戦いから採用したのか。当時、臨済禅と兵法書とが深い繋がりを持ったことが関係。信玄が4句のあとに付けた「天上天下 唯我独尊」も禅文献に見られる

「徐」を「しずか」と読むのが一般的だが、曹操以下の注釈では、ゆっくりと整然たる隊列を組んで進む(=徐行)こと、緩行する隊列は林の如く見えるので敵の掩襲を防げるとする

武田氏の歴史を残した『甲陽軍鑑』には、「其静如林」となっているとされるが、同書の資料性自体に疑問が残る

荻生徂徠の解釈は、「徐とはしづかに押行くことなり。静の字の意に非ず。静の字は動かぬこと、物音なきことに用ふ。徐はおもむろともゆるやかとも読で、押行く上でしづかなることなり。人数をしづkに押行く体は森林の樹立のいよやかにかうかしくて、中々より近づかれむ如くあるべしと云う事を、其徐如林と云うなり」


三 太史公の歴史がたり──『史記』の世界
 1 酒池肉林──「暴虐なる王」の背景

周に滅ぼされた殷の最後の王は30代の王帝辛(ていしん)。諡は紂(ちゅう)。諡は死後に生前の行いを評価して付ける名称。「紂」は「残義損善―義を残(そこ)ないて、善を損(やぶ)る」。『史記』にも彼の暴虐ぶりが、「酒池肉林」「炮烙(ほうらく)の刑」として記されている

殷に先立つ夏王朝最後の王である桀(けつ)王の事として記す文献もある

周では、祭祀以外での飲酒を禁じた。牛肉も殷の時代から王朝の祭祀・儀礼の供物であり、それを無節操に飲み食いしたところに殷の紂王の破滅の原因があったとの言い伝えが周の初期に現れ、儒教の倫理道徳という流れの下で紂王の「酒池肉林」の話が形成されていった

 

 2 臥薪嘗胆──語り物と熟語の完成

春秋時代の呉と越の抗争の中で登場。越王勾践に敗れた呉王が息子の夫差に復讐を託す。越は呉を攻めるが逆に会稽山に追い詰められ返り討ちに遭い、助命嘆願して一命をとりとめ、会稽の恥を忘るるやと臥薪嘗胆の日々が始まる。10年後、呉が斉に兵を進めたところで、勾践は側面から呉を攻撃し遂に復讐を遂げ、夫差は助命嘆願も叶わず自害し、長年の抗争が終結

「呉越同舟」の言葉からも、両国が抗争していたのは事実だが、「臥薪嘗胆」の話はもともとは司馬遷の創作で、時代を追って脚色され現在の形に作り上げられていった

 

 3 四面楚歌──天命をまえに

BC206年に秦を滅ぼした漢の高祖劉邦と、楚の項羽の激突は、「楚漢戦争」と呼ばれる

垓下(がいか)の戦いで漢軍に包囲された項羽が、四方から漢軍の歌う楚の民歌を聞いて「絶体絶命の窮地」を悟ったという

項羽は、虞美人と駿馬の騅(すい)を前に詩を為して曰く。「力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う 時に利あらずして、騅は逝()かず 騅の逝かざる奈何(いかん)とすべき 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん」

項羽は、最後まで自らの戦いが拙かったのではなく運がなかったと言い、「天之忘我」としたが、司馬遷は項羽のこの自負に批判的

 

 4 曲学阿世──司馬遷が接した公孫弘(こうそんこう)

出典は『史記』儒林伝。漢の武帝の時代、御用学者に頑固・強直と煙たがられていた儒者袁固生(えんこせい)が、老齢になって再度武帝に召された際、同時に徴用された若い儒者で後に丞相となって漢の内政に重要な役割を果たすことになる公孫弘に向かって言った言葉。「務正学以言、無曲学以阿世(正学を務めて以て言え、曲学、以て世に阿ること無かれ)

「正学」とは「正統な学問」、「曲学」はその対極で「いい加減な学問」であって、「曲」を動詞と読んではいけない。「いい加減な小手先の学問で世に迎合してはならない」という戒め

公孫弘は司馬遷と同時代の人。『史記』にも立伝されているが、司馬遷の評価は相反する記事があって定まらない

公孫弘のライバルが碩学の春秋学者董仲舒。董仲舒は公孫弘を阿諛迎合の御用学者と見下し、公孫弘は董仲舒に人事で陰謀を仕掛けるとの記述が『史記』にも見える。董仲舒を師とする司馬遷の筆致に何らかの屈折を与えたのだろうか

儒教国教化に貢献したのは、董仲舒か公孫弘かについても議論がある

「曲学阿世の徒」については、元々碩学が政治家に向かって吐いた言葉だったが、サンフランシスコ講和条約締結に際し、吉田首相が東大総長の南原繁を非難した際に使われたというのは、面白い逆説

 

四 転換する時代と四字熟語──古代の終焉
 1 乱世姦雄──曹操の墓をめぐって

「乱世姦雄」とは、魏呉蜀が鼎立した三国時代(220265)の魏の曹操に対する標語

曹操とは新時代を先取りした稀有の政治家で、「非常の人、超世の傑」とまで言われるが、郷里の人物評価で高名の士に自らの評価を聞いた時の答えが、「子治世之能臣、乱世之姦雄(子は治世の能臣、乱世の姦雄たり)


 2 親魏倭王──称号が語る日中交渉

「親魏倭王」とは、印面に刻まれた称号であり、邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝から賜与された王号で、『三国志』魏書東夷伝・倭人の条(「魏志倭人伝」)にその経緯が記される

朝鮮にも勢力を拡大してきた魏に対し、卑弥呼が朝貢を始め恭順の意を示す

「王」とは皇帝に従属する臣下の一呼称であり、印綬を賜与されたのは魏の官僚体系、主従関係の中に入れられたことを意味する

180余年前にも倭は、後漢王朝の光武帝に朝貢し、「漢委奴国王」の金印(志賀島で発見)を賜与。「漢の倭(委は倭に通じる)の奴()の国王」と読まれてきたが、「倭奴国」の「王」と読むべきで、「奴」は漢から倭を見た蔑称であって、「親魏倭王」と同一

遣隋使では、「日出処天子」として書を送り、対等の関係を目指すが、隋は認めず、代わりに使われたのが「皇帝問倭皇」。「王」に代わって使われたのが「皇」であり、「天皇」もここから出てきた


 3 天知神知、我知君知──賄賂はなぜ犯罪となるのか

『後漢書』列伝に、「楊震(ようしん)」という清廉潔白の地方長官の伝が設けられている

楊震が郡守として赴任する時通過した県で、かつて楊震が官吏登用試験に推挙した王密が県令となっていて、楊震に金員を献上。「誰も知る者はいないから」という王密に対して楊震が言った言葉が、「天知神知、我知君知」で、「後世に清白の吏の子孫と称されること、これを残すのが、何よりの贈り物だ」と言った

世話になった人にお礼したのであれば、事後収賄罪のなかった当時、贈収賄罪とはならないが、受け取らないことが清廉と評価されたということ


 4 蛍雪之功──読書人の世界

仏教説話集『沙石(しゃせき)集』(127983)が出典

中国では、「照蛍映雪(しょうけいえいせつ)」「蛍窓雪案(けいそうせつあん)」「聚蛍映雪(しゅうけいえいせつ)」が一般的。「蛍の火」は東晋時代(4世紀)の車胤(しゃいん)の勉学についての記事がベース。「窓の雪」については、5世紀南朝の孫康(そんこう)が、灯火の代わりに窓の雪で読書をしたという故事に因む

 

あとがき

本書は、しばらく前の文化講座で同名の定期講義をしていて、その講義原稿を書籍化したもの

 

 

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内容紹介

「温故知新」「風林火山」「臥薪嘗胆」「蛍雪之功」──どこかで目にしたことのある四字熟語の背景には,どんな歴史や思想があったのだろうか.『論語』や『史記』,諸子百家の思想に登場する四つの漢字を〈窓〉として古代中国を遠望すると,紆余曲折を経て,遠い時代や場所へと言葉や考え方が伝わる筋道が見えてくる.

 

 

紀伊国屋書店

内容説明

「温故知新」「風林火山」「臥薪嘗胆」「蛍雪之功」どこかで目にしたことのある四字熟語の背景には、どんな歴史や思想があったのだろうか。
『論語』や『司記』、諸子百家の思想等に登場する四つの漢字をとして、古代中国を遠望する。
漢字文化圏の基礎にある言葉や考え方が、紆余曲折を経て、遠い時代や場所へと伝わる筋道が見えてくる。
「温故知新」「風林火山」「臥薪嘗胆」「蛍雪之功」──どこかで目にしたことのある四字熟語の背景には、どんな歴史や思想があったのだろうか。『論語』や『史記』、諸子百家の思想に登場する四つの漢字を〈窓〉として古代中国を遠望すると、紆余曲折を経て、遠い時代や場所へと言葉や考え方が伝わる筋道が見えてくる。

 

 

 

 

 

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