文学は割に合う! Antoine Compagnon 2026.7.31.
2026.7.31. 文学は割に合う!
2024
著者
アントワーヌ・コンパニョンAntoine
Compagnon 1950年、ベルギー、ブリュッセル生まれ。理工科大学校、国立土木学校という理系のエリート校を卒業したが、その後、25歳で文学研究に転じた。パリ・ソルボンヌ大学教授を経て、2006年よりコレ─ジュ・ド・フランス教授。コロンビア大学教授を兼任。2022年に、アカデミー・フランセーズの会員に選出される。プルースト、モンテーニュ、ボードレール、文学史、文学理論に関する著書が多数ある。
本田 貴久 (ホンダ タカヒサ) (訳)
1975年生まれ。中央大学経済学部准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。訳書に、ウィリアム・マルクス『文人伝──孔子からバルトまで』(水声社)、ジャン=ピエール・デュピュイ『ありえないことが現実になるとき──賢明な破局論にむけて』(共訳、ちくま学芸文庫)、ジャン=クロード・ベルフィオール『ラルース ギリシア・ローマ神話大事典』(共訳、大修館書店)など。
発行日 2026.3.25. 初版第1刷印刷 3.30. 発行
発行所 作品社
挑発的なタイトルをつけたが、今日、文学やその価値、効力、有用性、未来を疑う人々が、同僚である大学教員や同志である作家、そして私の読者の中にも出てきていると実感する
この文学への疑いを端的に要約すると「文学は得にならない、あるいはもう得にならなくなるだろう」ということになる
2012年に仏人作家が、フランス文学の凋落を示す兆候を描き、その終焉を予言した。仏文学のアメリカ化と商業化を非難する一方で、文学賞を目指して棚に並ぶ商業的とは言えない小説が次第に出版されなくなっているという。この敗北主義的な痛々しい認識は現在、非常に浸透し支配的でさえあるが、私はこの敗北主義を受け入れることを拒否する
ここで話題にしたいのは、文学のコストとか利益のこと。本とお金の関係のこと
読書には時間がかかる。書くとなるとさらにかかる
「文学は割に合う!」というスローガンには2つの意味がある。1つは「作者にどれほどの利益をもたらすのか」、もう1つは「読者にどれほどの利益をもたらすのか」
最初に言い出したのは2012年、パリ経営大学院での講演でのこと
第1章 詩こそはもっとも見返りの多い芸術のひとつ
作家が文学から引き出す収益性、利益という観点から言うと、ほとんどの作家は生活に困窮しており、生きていくためには他の収入に頼るほかない
年間最低賃金の半分にも満たない印税を年額で受け取れるのは、物書きのうちの15%
現在、最も書店で売れている詩集『悪の華』の詩人ボードレールの生活は困窮そのもの
しかし、「詩こそは最も見返りの多い芸術の1つであるが、いわば投資のようなもので、その利子は後にならなければ受け取れない。その代わりとても大きな利子だ」と語っている
彼にかけられた呪いとは、報われるのが遅すぎたということ。『悪の華』が古典として認められるのは、死後約50年経ってから
2024年、出版業界の一連の再編の幕が閉じ、大手に集約され、ほとんどの著作家たちは編集者から見向きもされないどころか、12.5%の印税をまともに受け取れるのはベストセラー作家に限られている
読書・文学・執筆には遅さが必要。今世紀のトレンドにうまくフィットできない。書店での売れ行きが順調で著者に利益をもたらすなら、逆に先行きは疑わしいということ
似たような製品をクリアケシ生産する「量産型文学」でない限り、文学作品はその1つ1つが複製不可能なオリジナルだが、これが芸術とお金の関係を、そして文学とそれを販売するビジネスとの関係をややこしくしている。「大手出版チェーン」による過剰生産がなされるのも、スタート時点でどの本が成功するか分からないからたくさん並べる
第2章 教養と美容
文学は教育や一般教養と同様、生産性を向上させ利益を得るというモデルとは相性が悪い
1960年代、ニューヨーク市における文化関連のコストが制御できないほど上昇し市の財政を圧迫した際、調査を担当した経済学者が、ある業界でコストだけが一方的に増大していく現象を「コスト病」と名付け、生産性の向上が期待できない業界では、人件費の上昇が期待できず、世間相場並みに人件費を上げれば収益性が落ちるのは当然だとした
文化と比べたいのは美容で、質を担保した上で、時間を節約することはできない
鉄製のペン先が普及する過程で、作家のほとんどはその使用を拒否。羽ペンを削る時間がなくなると、書くために考える時間もなくなり、美しい文体を生み出せなくなると主張
プルーストの草稿を見ると、余白への書き込み、欄外に貼った訂正用の小さな紙片(ペグ)、折りたたんだ紙片による加筆訂正(パプロル)などから、彼が作品を終わらせることはなかったのだと確信できる。テキストエディターはコンピューターとともに生まれたのではなく、ITは単に編集法を広く一般に開放しただけで、編集とは、修辞学の縛りから解放された作文の儀式のことであり、数世紀にわたって偉大な作家たちがそれぞれ自分の仕方で編み出したもの
作家の生産性向上に唯一寄与するのは、読書を減らして時間を節約すること。読書は作家の仕事を遅らせる。と同時に読書こそが作家を鍛える。作家とは本質に於て読書家のこと
本というのは、複数の本と読書からなる
「量産型文学」あるいは「甘ったるいロマンス小説≒エンタメ小説一般」(ジャンル文学)は、いずれ人の手を借りずに生産されていくでしょう
第3章 通りを渡る
もう1つの、読者にもたらす収益の観点もまた、長期的投資や緩やかな収益性に関わる
時間はかかるが読者にも利益がもたらされる。しかし、読書がもたらす配当を死後も読者がどう享受できるかははかりかねる
小説家のフィリップ・ジアンは、「小説かは何か役に立つ必要があると考える。美的な感動を読者に喚起するというだけでは役に立っているとは言えない。プルーストも美しく好きだが、通りの渡り方は教えてくれない。今の作家は、世渡りを後押しするものであるべき。世渡りというのは、ある作家を読み終わった後に、プルーストだけを読む人とは違う振る舞いを世間でするようになるということ」という
短くて速く読める短編作家のものは、読んでも時間はかからないし、お金に見合ったものをより速く得られ、投資に対するリターンは加速する。だからどうだというのか
第4章 文学の欲求
「文学は何の役に立つか?」この問いは高邁な人々を不快にする。彼らの見方は、ブルジョワ的功利主義に対立し、芸術のための芸術という近代的理念に呼応する
ボードレールは、漠然とユートピア的社会主義に傾倒していて、ブルジョアの邸宅の壁や棚に芸術を配置することが出来ると考えていたが、ヴァレリーは、芸術は人間の自然の欲求の対象ではなく、芸術がなくても人間は生きていけると唱える
絵と文章は、人間の生理学的欲求に応えている。精神の経済学の傍らには、芸術の身体の経済学があり、芸術は退屈に対する身体の反応
最初、芸術はその作り手の欲求にのみ応えていた。虚無は恐ろしいが、それを「補完」すると装飾になる。装飾、芸術とは、退屈を補う補完物として作られる。空いた空間や時間を何かに使うこと、埋めることは極めて自然な欲求であり、芸術はそれを作り、それを受け取る人間の「極めて自然な欲求」に叶っている
第5章 「本当の人生、それは文学である」
ボードレールは、「およそ科学と哲学の間に位置して仲良く進むことを拒む文学は、いかなる文学であれ、他をも自らをも殺してしまう文学であることを、遠からぬうちに人々は理解するだろう」といい、時代に根差す、しかし時代に隷属も奉仕もしない文学を信奉
カント以降、芸術の目的が芸術それ自体であることは了解済みであり、ロマン主義以降、文学の絶対性という理念が圧倒的な影響力を持ち、文学崇拝にまで嵩じた。その傾向はマラルメとヴァレリーにおいて、またプルーストやブランショにおいて頂点に達した
プルーストは、自己実現は社交生活の中ではなく、文学によって、文学のお陰で、文学の内部で成就するのだと示唆し、文学の神聖化をもたらすと同時に、芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、他者の目で世界を見ること、他者を理解することも語る
有用性と文学的教化主義への抵抗が見られる一方で、文学的教養の妥当性とその維持が企てられ、そして文学がもたらす世界と他者への理解が肯定される
第6章 オルニカールはどこ?
現代のフランスの国語教育が、生徒本位に傾く一方で、教師の権威が希薄化した結果、破綻の危機に陥っているとして非難した映画が公開された
小学校教育の基本が「読み、書き、算盤」なのに対し、中学、高校でこれに見合うものは何でしょう?
接続詞を満載した語呂合わせ「だけど、それならオルニカールはどこ?(しかし、どこ、したがって、もしくは、~もない、というのも)」を知らない。数学の問題を解いたり、定理を理解したりするためには、これらすべての接続詞の知識が必要
第7章 高等教育ビジネス
今日の教育では、知識とともに、応用力competencyが重視される。あらゆる教育にとってその目標とは、知識であり、スキルであり、生き方を知ること
フランスでは今日、文学系教育を敵視する強固な偏見がある。高校ではS系(理系)とES系(政経)、L系(文学系)の間に厳然たる格差が問題視された。S系は、大学以降あらゆる分野への進学が可能となる総合的コースなのに対し、ES系やL系は制限されていた
フランスの大学には入学者選抜がないので、文学部には総合的コースに行けなかった学生が集まり、英米が文学の学位に対して大手企業が門戸を開いているのと好対照
大学での一般教養の涵養という使命は、職業教育、つまりすぐに雇用できるスキルの学びにその座を譲る
高等教育は、学生や家族にとって、割に合わないことが明らかになりつつあり、高卒資格で妥協せざるをえなくなると、高等教育の学位の増加は、イノベーションや経済成長、繁栄を生み出す必要条件となっているため、深刻な問題
教育システム全体において職業志向型教育が評価されるようになると、雇用市場で魅力を訴えずらいように見える学問分野がその影響を真っ先に受ける。人文系諸科学は十分に割に合わず、教育ローンを返せるだけの収益力がないため、少しづつ学生が減少
学生は消費者として大学に入り、商品として卒業していく。であれば文学的商品として卒業した学生にはどんな価値があるのか
第8章 「ピアノを習いなさい、キーボードを叩く練習になるから!」
知識とスキルとよりよく生きる知恵が商品化されていくと、人文学が占めていた場所は、徐々に減少して消滅してしまう恐れがある
現実を直視して、文学の有用性、文学教育の妥当性、文学的教養の正当性の問題を容赦なく追及しよう。まずは「適切さrelevance」の要請に屈しないとならないのかという問題
読書を、文学の内在的価値によって正当化するのみならず、例えば競争や成長、富の創出という観点から、読者の人生にもたらす優位性によって正当化することはできるのかという問いになる
芸術や文学を正当化する立論の中には、本章の表題のように、本末転倒した滑稽なものもある
一般教養教育が根付かなかったフランスには、大学的伝統があるとは言えない
文学部は教員養成学校だが、中等教育の教員を目指さずに、その後自分の学歴に見合う仕事を見つけるのに苦労する若者が文学部に入学するようになったから、学問の到達点の問題が俎上に上がった。人文社会系の学位取得者の失業率が他の分野に比べて高いわけではないが、仕事の質に対して学歴が高過ぎるという傾向はある
文学的教養の拒絶は、教養は平等に得られるものではないという推定によってさらに激しくなる。一般教養、つまり文学的素養は、上流階級の子弟たちが、公平性を謳いつつその水面下で特権化した社会的選抜の道具だから、入試科目から除外されるべきだと糾弾する
一般教養は「やや空疎な聞きかじりの文化」とまで揶揄
第9章 忙しいひとびとはまちがっている
第10章 気配りと卓越性(ディスタンクシオン)
プルーストは、官僚、判事、技術者、医師らは、教養があるほど、仕事において成功し、上の地位まで出世し、さらには地位やボーナス、手当といった点で収入も多くなっており、その教養が報われていると観察する
文学は「literary
literacy(文学リテラシー)」を与えてくれる。文学的識字率、文学的応用力とでも訳されようが、最もふさわしいのは古フランス語にあるレトリュールではないか
レトリュールとは、何よりも単純に教養であり、文学的修養のこと
私が本書で問いたいのは、「察するレトリュール」であり、文学的コンピテンシーのこと
「察するレトリュール」は、あらゆる活動において優位に立つことが出来るある特殊な技能を、あるいは生き方さえももたらしてくれる
プルーストは「卓越性」に関心を示す。「察するレトリュール」のある人物が実質的に富を得た時、彼の同僚は「彼は偉大な教養人で、まったく卓越した人物」と言って納得する
プルーストの時代、気配りが出来る者、遠慮があり、控えめで、分際をわきまえ、「自分の存在を消せる」人が、上まで登りつめた。「そうである」ためには数世代もかかる
当時は、出自であり特権的な生まれがその根拠とされたが、むしろ、文学が、人間や物事に関して、より良い理解をもたらしてくれるからではないか
イタロ・カルヴィーノはこう述べる
文学が研究し教えられることは、わずかだがかけがえのないものだ。つまり隣人と自分を観察する方法、個人の出来事と一般的な出来事を関係づける方法、些細なあるいは大きな事柄に価値を与える方法、自分と他人の限界と欠点を認識する方法、人生の均衡や、そこでの愛情の占める位置とその強さと律動を見出す方法、死の持つ意味とそれについて考える、あるいは考えない方法。文学は、厳しさ、慈愛、悲しみ、皮肉、ユーモアなど、必要で難しいこうした事柄を教えられる
プルーストは、上流階級の人々の基礎的知識の欠如が露呈した愚かさを非難する一方で、上流階級の文化と下級階級の文化が両立しないという主張には与しなかった。文化の対立という概念の根底には、個人の「社会資本」と「文化資本」に応じて私たちの将来は、生まれながらにしてほとんど決まってしまうという主張があった
第11章 ひとには自分の価値に値する価値があるのか?
旧来の家柄に基づかない能力主義が疑問視される現代、問題を要約すれば、「人には自分の価値(メリット)に値する価値があるのか」ということになろう
メリットとは、全体に対する部分という意味で、転じて、各々の分け前、運命によって各人に与えられた持ち分を意味する
プラトンは、分け前を自由に選択するという能力主義の思想の先駆者となった
フランス共和国の学校は、社会的出自と進学の相関関係、進学と社会的地位の相関関係を解きほぐす機能があるという前提で、能力主義が成立しているが、学校のこうした機能に対する異議申し立てが、社会学の定説になっている。労働者の子弟の学校とブルジョワの学校の統合で社会的再生産は隠せたが、生徒は自分の人生の失敗の責任を負わされることになった
50年前、エコール・ポリテクニックに合格した時、勉強の努力が報われたことで、自分の価値が自分をそこまで導いてくれたのだと信じることができた。当時なら社会的出自と学歴・社会人としてのキャリアとの相関性を知らないで済ますことが出来たが、学校のランクと社会的地位の再生産(=社会的再生産)は、むしろ強まっているとさえいえる
社会的上昇はまだ可能だが、その可能性はひどく狭まっており、学業的・社会的重圧も非常に大きい。そんな悪条件でも、自分の分け前に責任があるというのか? その人の価値は、どの程度遺産のもたらす金利に依存しているのか?
第12章 階級に復讐する
卓越性は相続された特権でしかないのか、それとも、読書そしてあらゆる形の学識によって得られるものなのか? 学識の語源は、精神が作り出した作品と接触することで、粗さを取り除き、整え、こすり、完成させること
学校や試験においては、社会的格差の影響が大きいという懸念があり、一般教養とは、不公平で、差別的で、咎められるべきもの、との批判がある
レトリュールは特権。生まれとともに与えられるが、獲得できる特権でもある。かつて階級越えを果たした人々は、自ら獲得した教養を誇りとし、パリのエリート層を体現していたとまで言われたが、彼らの多くは、自分たちはあくまで例外的存在であり、残りの人びとのために社会は動いてくれないという事実を裏書きするだけだと語り、彼らの成功は逃走や脱走でしかなく、それゆえに辛い体験だったとも語る
ノーベル賞作家アニー・エルノーは、「自分の人種に復讐」するという。彼女の両親は食料品店の経営者で、自らの階級を捨てた「階級からの離脱者」で、娘を労働者の通う公立学校ではなくカトリックの私立学校に通わせるために血が滲むほど働いた。アニーが言う「人種」とは食料品店主の階級であり、アニーに期待し支援してくれた、いわば尊敬し賞賛されなければならない人々。多くの「階級からの離脱者」は、どちらの階級にも誠実に慣れないという違和感や出身階級を裏切ったという恥ずかしさをも抱く
グランゼコールに進学する奨学生や庶民層の生徒たちの人数は明らかに足りていない。だからといって、一般教養や外国語に代えて、ボランティア活動や実務経験などを選考基準にすれば解決策になるというものでもない
1902年頃近代バカロレア制度が整えられたが、当時ラテン語の位置づけについて同じような議論があった。ラテン語は上流階級の子弟に有利に働くので不公平だという。今日では、フランス語、小論文、要約といった項目は、社会的上位層の子弟に有利に働くという理由で、試験から排除されようとしている
テクストの意味を解釈するには、教養の蓄積が必要であり、遺産相続者(上流階級)に有利であれば、避けるに越したことはないとして、代わりに形式的で技術的な手続きだけの物語分析法が導入されたが、文学がこうした技法に還元されてしまったとき、文学には何が残るのか。読書の教訓として、読書の恩恵として何が得られるのか
第13章 野心とは、有象無象の悪徳ではない
モンテーニュは「野心とは、我々のような有象無象が頑張ってどうにかなるような悪徳ではない」と公言し、そうすることで自分の野心を否定しているが、決して野心を捨ててはいない。貴族として、政治家として、著作家として認められようと試みた
私が理系に進みながら文学の道に転向したことに驚かれるが、私は2つの文化を対立させたところで大した意味はないと思っており、若い人たちには、「理系科目を勉強するなら、本を読み続けることを、文学を学ぶのであれば、数学や統計、確率の勉強を続ける」よう助言している
第14章 すべてのひとのための文学
すべての人々の人生や教育における文学の地位を維持し、可能であれば引き上げることが最優先のプログラム
文学を通じてなされる一般教養の教育は、理系・ビジネス系の進学準備クラスでは、相変わらず行われ、将来の「忙しい人々」にとっても妥当性のあるものとして評価されている
一般教養教育は、中等教育でも高等教育でも文理を問わず、教育のどの段階においても軽視されてはならない。多価的教養は今後の人生の身の振り方を考える時にこそ必要
変わりゆく世界においてさまざまな活動に備えるためには、それがどんな活動であっても、一歩下がって、目先のことに捉われず、広い視野をもたらす教養ほど役に立つものはない
一般教養がもたらすものとは、洞察力とか直観力という別種の知性。鋭い勘ともいうべきもので、生まれつきではなく、読書によって養われる。読書は他の経験への入口ともなる
困難を切り抜け、立て直すのにこれほど必要なものはない
文学は、文学部で登壇する専門家だけにものではない。1960年代、前衛でありたい20世紀文学の一部が、難解さと純粋さを目的としたために、一般人を寄せ付けないかのような様相を見せたことはあったが、今や、文学にも進化と絶え間ない革新というスローガンが適用されるべきと主張する作家は皆無であり、文学は誰にでも開かれ、誰にでも有用であり、誰にでもかけがえのないもの
人文的教養は、あらゆる人間の活動において切り札になる。これは自分の言語をよりよく知るためには、外国語との接触が必要なのと同じ考え方であり、『人間喜劇』を読まないと、ファイナンスも分からない
第15章 リホボス・ビーチ
60年前14歳の時、デラウェアのリゾート地リホボス・ビーチに別荘を借りて両親と過ごしたが、その時『赤と黒』を読んで興奮し、夜中に起きていくとまだ起きていた母と言葉を交わし、母は死ぬのだと理解した。病気は癌で、私たちに告げることなく、3か月後に亡くなる。『赤と黒』を読んだ高揚感がなければ、この小説から得た人生への洞察がなければ、亡くなるまでの3か月間、平常心と鋭敏さを失わずに母のそばに寄り添い続けることはできなかっただろう
第16章 魔法の直方体
読書を擁護しなくてはならない。若者がほとんど本を読まず、画面を見ている
現代における文学の位置付けは、デジタル時代における読書の位置付けと切り離せない
画面文化に席巻された若者たちにとって、読むとはどういう行為なのか
本は、グーテンベルクが最初の印刷本を発明して以降、ほぼ完璧な物体であり、これを上回る存在を考え出すのは難しい魔法の直方体
デジタルには画像と音の面で圧倒的な利点がある。軽さも利点だがすぐに劣化し、常に新しい媒体に移される必要がある
第17章 耳も読む
電子書籍よりも恐ろしい脅威が、レトリュールと読書の原理に対して迫っているように思われる
米国では、ハードカバーと文庫本を含む紙書籍が売り上げの70%を占め、電子書籍のシェアは11~12%、残りのうち多くを占めるのはオーディオブックで、ほとんどがオンラインで入手する音声版の書籍。これが年々10%以上成長している
何か別のことをしながらオーディオブックを聴いているが、そもそも読むと言えるのか?
神経科学の知見では、同時に2つのことをしているようでも、脳は2つの活動を随時切り替えているだけで、実際にはどちらの仕事も巧く出来ていないとされる
現代における読書の脆弱性は、数千年にわたって読書の方法が変化せず、今日まで生産性の利点を享受できなかったことに由来する。神経科学の分野では、速読術に脚光が当たっている。速読術は、認知能力を最適化し、単語を解読するのではなくページをざっと眺め、それを心の中でスキャンして、いわゆる本の「マインド・マップ」を脳に記憶させることが出来るようになるという。学識に富み、多様な価値が同居する文学の場合、速読術は幻想に過ぎないと思う。斜め読みはよくない読み方で、生産性の向上が望めないあらゆる活動(美容、教育、執筆、一般教養など)においても同様です
オーディオブックは革新の可能性を秘めている。ほかのことをしながら本を読めるようになるので、読書は加速するだろう
第18章 読むことは健康のためになる
読書における「遅さ」を擁護する
遅さとは、言語と文学と読書に対する長期的投資において遅いという意味であり、「察するレトリュール」(第10章)や「ゆっくり急げ」という格言に含意されているもの
私たちの世界は、言語や文学に自然な時間である、待つことや持続、遅延に対して否定的になっている。あらゆる活動、あらゆる欲望が短期的な結果を求める方向へ向かっている
効率的な文化活動の目的は、イベント的なものである以上に、持続可能性でなくてはならない
収益性の拡大という観点から語られるようになった学校や大学において、外国語や文学の教育への投資はそれなりに見返りがあるということは留意する必要がある。外国語を学ぶことはコストのかかる投資となるだろう。15歳の子供たちの場合、外国語の学習によって、読解力のみならず数学における成績が高くなるという結果が示されている。認知科学の知見によると、母語とは異なる外国語の学習で鍛えられる分析能力や精神の柔軟性は、数学など数々の分野で役に立つというし、外国語を使うことによってアルツハイマーの進行を4年以上も遅らせることが出来るという研究結果もある
読むことは健康のためにもなる。認知能力を高めるには画面よりも紙の本が効果的。それもフィクションの本は非常に前向きな影響を与える一方マンガやコミック、SNSなどは悪影響があるか全く影響がない
読書が危機的状況にあるとしても、それは学校だけの責任ではない
読書の原初風景は家庭的なもの
第19章 自分の人生の作者になるということ
文学の読書は私たちにどのような能力を授けてくれるのか?
文学部自体は縮小傾向にある一方で、あらゆる学問は文学を必要とし、文学的であろうとしている
今日、心理学、社会学、哲学など大半の学問領域で支配的なのは、主体に関する理論で、アイデンティティと物語性とを結びつける。人は自分の人生の物語を構築することで自身の主体性を創造するという。もしも人生の物語を欠く場合には、うまく生きられずに不幸になり、様々な不安に苦しむ。自分の生活を巡る物語的視点がなければ、記憶により人生を再構築することがなければ、精神的経験もない。自らの物語こそが、あらゆる精神生活に不可欠な前提条件になるという考え方。生きるとは自分の人生を書くこと
端的に言えば、文学は文学部を除いて、いたるところに拡大している。しかし、適切でない用い方をされていることがしばしばあり、メディア的に成功しているとはいえ、文学は、耳障りのいいストーリーと一貫性のある物語へと還元されてしまったわけなので、これは代償が大きすぎる勝利なのだ
第20章 文学はどこにでも
文学がどこにでもあるもう1つの証拠は、物語倫理学の1部門である「物語に基づく医療」と呼ばれる、医療に応用される語りによるアイデンティティ理論の存在。物語構築トレーニングを通して、医者が患者の状況を認識し、吸収し、同化し、解釈し、また病気の話に感動するといった物語能力を身につけることにより、臨床診療を補強する。治療専門家が患者や同僚との協力関係を築く能力を伸ばすことで、看護の実効性を高めるのを助ける
「物語に基づく医療」は、技量に偏重する、人間を一層疎外する医療という仕事に楔を打ち込む。より効果的な治療を進めるためには、病気が物語の中に組み込まれる必要がある
同様の動きは、法学研究の分野でも認められる。法を文学あるいは語りによる「構築物」と考える。文学理論の道具を駆使して、解釈学的な関心において法文書を解読する
同じような変化や別の動きが、社会学や民俗学、特に文化史に顕著だが歴史学にも見られる。「語る能力」という「レトリュール」があれば、法律家、医師、美術館の学芸員は高い評価を得ることが出来、それは流行にさえなっている
第21章 詩人たちの恩恵
文学は、ストーリーテリングだけで汲み尽くすことはできない
経済学、社会学においては、語り以上に、直観的なイメージそして比喩の創造は核心。比喩を巧みに扱えない経済学者や社会学者には成功はない
普及することになった経済学的・社会学的概念は、およそほとんどが文学的・詩的なもの
第22章 マタイ効果
マタイ福音書に想を得た「マタイ効果」とは、例えば試験の合格者で最低点の人と、不合格者で最高点の人の間に見られるように、最初はほんの少しだった差が、長い時間をかけて積み重なった結果、大きな差になること。また、持っている人は与えられて、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられること。勝者総取り
アカデミー・フランセーズの伝説的な41番目の席次は、40人の定員に選ばれなかった者のためのもので、一例を挙げれば、デカルト、パスカル、モリエール、ルソー、バルザック、スタンダール、フローベール、ボードレール、ヴェルレーヌ、ゾラ、プルーストという錚々たる顔触れ。現代でもノーベル賞作家などがいる
もっと深刻なのは20歳そこそこで決まってしまう入試
「マチルダ効果」とは、科学への女性が果たした貢献を否定したり、過小評価したりする構造のこと。DNA構造の発見に関してワトソンとクリックに劣らない働きを見せたロザリンド・フランクリンや、ダウン症候群の原因となる染色体異常を発見したマルト・ゴーティエなどの例がある
あらゆる活動において最高峰を極めるためには詩的才能が不可欠だという。さらに、壁を越え、常識を乗り越える意志がもたらす成果を証明した
第23章 文学と統計学
最も優秀な経済学者や社会学者、数学者には文才がある
文学とは、人間存在の自然な欲求であり、コスト病によって簡単に消滅しない
伝えたり、作り出す能力が求められている社会では、文学の需要は高まる一方
文学は、及ぶ範囲がどこまでも広く中心のない神の全能性をわずかではあっても備えており、また数学がものをいうこの社会で脚光を浴びる統計学のように、自らが全能であることを理解できない。一方に数学があり、もう一方に文学がある。どちらか一方だけでは人生というのは成り立たない
人間の知的活動のほとんどにおいて、語る力や創作する力は不可欠であり、その力は、職業的であろうと趣味的であろうと、あらゆる分野でパフォーマンスを向上させなければならない。文学は、学校でも社会に出ても、あらゆるレベルで学ばれるべき
読書でつまずいているのだから、物語を語る方法や普遍性と遍在性に気づかせるのだ。なぜなら、数え方のみならず、話し方が出来なければ、何も伝達できないし、誰も説得できない。専門家でない人に哲学や文学を教えることは、文学や哲学に値しないどころか、文学/哲学の平凡化・陳腐化というリスクを冒すという反論もあるが、文学とは、日々、明日読むことになる本だということは銘記しておいてほしい
第24章 失われた機会
読書は、すべての要であり、よかれ悪しかれあらゆる手段を通じて手に入れなければならない
愛書家や蒐集家もいるし、稀覯本のオークションもあって、私でさえ40年前にちょっとした投資をしていれば、相当裕福になっていたでしょう。お金の投資という点では、少なくとも私には文学は何ももたらしてくれなかった
文学の原稿は儲けを狙って行う投資対象ではないが、詩や読書もそんな投資対象ではない
第25章 落ち着いて、またいつでも会えるから!
プルーストは、教養ある技術者や法律家が他の同業者と比べて優れている理由、レトリュールのある銀行家や実業家が比類なき存在になる理由をはっきりとは語らなかった
1922年に亡くなるが、最後の2年間で彼の文学的野心は報われ、比類なき存在となる
彼はブルジョワたちが集まるサロンの常連だったが、仲間のブルジョアの無知と低俗さをあざけり、自己満足をあざけることでプルーストは権威的に彼らに知らしめた。仲間からは「文学好きのユダヤ」という扱いだったが、「文学好きの好青年」に修正される
読書を通じて醸成される第六感であるレトリュールは、出来事を歓迎し、機会を見抜き、「マタイ効果」を利用する〈予期せぬ事態への洞察力〉にほかならない
『失われた時を求めて』が言語化しようと企てる心理学的法則の1つ2つを見つけられるのはレトリュールのお陰で、それは、通りを、街を、人生を渡っていくための適切な距離感をもたらす。豊かさや成功への野心も、欲望も、判断を曇らせる主観的な幻想だ
文学的な教養がある者は、自己愛に捉われず、適切な距離感を保つ。教養ある判事、文人的な政治家、詩人の外交官は、人生における運命の役割、キャリアだけが絶対的ではないこと、助言と出来事のバランス、偶然と幸運などに極めて意識的だ。彼等は降りかかる運命から何かしら引き出す術に長けていて、ゲームで見つけた切り札の使い方を弁えている。彼らが成功するのは、望み過ぎないから。教養ある者は、自らの人生の作者となる。文学と読書とそれを圧縮したレトリュールは、待つことが出来る者に、必ずや報いてくれる
「いわば投資のようなもので、その利子は後にならないと受け取れない。その代わりにとても大きな利子だ」
訳者あとがき
本書は、アントワーヌ・コンパニョン(Antoine Compagnon, 1950-)のLa Littérature, ça paye ! (2024)の全訳である。
冒頭、やや専門的になるが、本書で語られる著者のアントワーヌ・コンパニョンのアイロニーに満ちた「文学観」の理解の手がかりとして、彼の学問的な軌跡について簡潔に確認しておきたい。
コンパニョンは、フランス文学研究を専門とし、ボードレールやプルーストといった近代の詩人・作家のみならず、16世紀の思想家モンテーニュにも通暁していることからうかがえるように、古今を問わず、文学史の広範な学識を備えている。また後述するが、現代的な文学理論にも目配せを欠かさない。名門のソルボンヌ大学、コロンビア大学で教鞭をとり、2006年からは王立教授団を源流とするコレージュ・ド・フランスの教授に就任し、「フランス近現代文学――歴史・批評・理論」という講座を担当した。2022年、本書でも語られるように、フランスの文系知識人の最高峰ともいえるアカデミー・フランセーズの会員に選出された。肩書きを見れば、まぎれもなくフランス文学研究の第一人者ということになる。
代表的な研究として、引用という行為を、読むこと/書くことの実践として徹底的に分析した『第二の手、または引用の作業』(1979年、邦訳2010年)、「新しさ」や「理論性」がはらむ近代のパラドックスを整理した『近代芸術の五つのパラドックス』(1990年、邦訳1999年)、近代の内部に巣食う「反近代」の系譜を、ド・メーストルからロラン・バルトにいたるまで追跡した『アンチモダン――反近代の精神史』(2005年、邦訳2012年)などが挙げられる。また、プルーストやボードレールの校訂版を主導していることからも察せられるとおり、厳密な文献批判という実証的研究こそが、彼の文学研究者としてのゆるぎない礎となっている。
ここにさらに、コンパニョンが1960年代、新旧論争でフランス知識人界に大きな震動を引き起こしたロラン・バルトの高弟であったという点も付け加えなければならない。「新批評」「詩学」、「構造主義」「記号学」の名のもとで文学理論が燦然と輝き、フランスを席巻した20年――彼はその震央のごく間近で研究者としての自己形成をはかったのだった。しかし、その後、彼は文学理論の諸潮流に対して一貫して批判的な態度をとることになる。制度を批判し、硬直した枠組みを揺さぶった革新的な文学理論の季節が過ぎ去ると、かつて批判の矛先であったアカデミックな制度の頂点に立つこととなったのだ。この屈折した軌跡が、本書の語り口に影を落としている。バルトの周辺から出発した者が、制度の中心で「文学」を語るとき、文学の価値を、声高に叫ぶことはもはやできないはずだ。むしろ、批判にさらされ価値が削られていくその仕組みを、制度・教育・市場という観点から点検し、なお文学というものの価値を冷静に見定めようとしているというのが実態ではないだろうか。
たとえば『文学は割に合う!』というタイトルは、神聖なる文学の世俗的な功利主義への屈服、あるいは市場原理への寝返りのように映るかもしれない。だがこれはコンパニョン一流のアイロニーである。なぜなら、この身振りには、彼が擁護しても不自然ではない、文学を「役に立たないが美しい」という聖域のなかに幽閉しようとする言説に対するもどかしさが表明されているからだ。コンパニョンが、ボードレールの散文詩やプルーストの小説において、どこまでが本気で、どこからが冗談なのか判然としないアイロニーを幾度か指摘していることに読者はお気づきであろう。つまり、功利主義に対する屈服ではなく、かといって芸術至上主義への逃避でもない、どちらでもありどちらでもないというアンビバレントなテクストをコンパニョンは的確な嗅覚で突きとめる。しかしそれを矛盾として非難するのではなく、むしろそうとしか言いようのない状態に秘められた潜在力を信じている。ボードレールがダンディズムという仮面をかぶって近代を批判できたように、コンパニョンが「収益性に関心がある」という仮面をかぶりつつ市場原理を批判するとき、そこには間違いなくアイロニーが戦略として用いられている。現代の経済至上主義がもたらす変化を否定できない前提として受け入れながら、なお批判的精神を保ち、文学がその制度に絡め取られないようにと、穏やかにではあるが頑固に抵抗するにはアイロニーに訴えるのが有効なのだ。この市場原理主義からの批判とその抵抗の図式が、右に記した、文学理論からの攻撃に対する常識の抵抗という図式と驚くほどよく符合することは、次の一節が示すとおりである。
理論が主として興味深く、また真正なものに思えるのは、理論的ないし神学的側面でもなければ、実践的ないし教育的側面でもない。それは、文学研究において常識(sens commun)にたいして理論が挑んだ活力あふれる容赦ない闘いゆえであり、また、それにたいして常識が同じように断固として示した抵抗ゆえである▼1。
興味深いのは、伝統へ牙をむく理論の攻撃性のみならず、常識側が示した抵抗にもコンパニョンが高い評価を与えている点であり、これが彼の立ち位置を雄弁に物語っているように思われる。どちらの言い分にも辛抱強く耳を傾け、批判と抵抗という図式を表裏一体のものとみなす姿勢は、フランスの教育において伝統的に採用されてきたディセルタシオン(フランス式小論文)のフォーマットに通じるだろう。渡邉雅子によれば、ディセルタシオンという論証のフォーマットとは、「現実世界の複雑性を受けとめつつも、それを混沌のままにせず視点を〈正〉〈反〉〈合〉の三つに切り分けることで複雑性を反映させながらも認識可能な形におさめ、矛盾を解決して新たな視点を模索すること」である▼2。ここでいわれている〈正〉は常識、〈反〉は批判と言い換えてよいだろう。批判にさらされた常識は、批判を織り込むことで自らを再定義し、新たな装いをまとってより強固になるという見立てには一理あるだろう。同様に、批判が常識に打ち克つ場合も想定可能だ。しかし、批判はやがて常識と化し、新たな批判にさらされることになる。こうして、いずれの場合でもこの弁証法的プロセスはほぼ永続的に繰り返されることになる。コンパニョンの鮮やかさは、短期的には両立不可能な亀裂と映る論争を、歴史的プロセスの一環として、驚くほど容易に、そして簡潔に位置づけてしまう点にある。『アンチモダン』はまさに新旧対立を歴史のなかに描き出すことで、モダンの絶対性を相対化しようという試みでなかったか。
その延長で彼は、あえて「payer(割に合う)」という、いわゆるコスパの良さを連想させる卑近な語をタイトルに用いたのだ。人文学が「役に立つのか?」という浅薄だが死活的な問いにさらされ続ける現代において、文学がもつ独自の時間軸と価値形成の論理を、経済的観点から戦略的に再構築しようとするのが本書の試みだといえよう。
さて、本書は研究者のみならず、より広い一般読者へと間口を広げている。従来の著作が、研究書としては当然のことであるが、テクストの微細な引用に終始しがちであったのに対し、本書では具体的な出版データやジャーナリズム的な話題が縦横に織り交ぜられている。現代の世俗的な関心のただなかに文学を配置することで、必然的に文学は、現実のなかにつなぎとめられ、その存在を存在意義とともに示すことになる。文学と必ずしも縁がない読者であっても、市場原理がいたるところで見せるほころびに少しでも懸念をもつのであれば、本書はそれらの問題と向き合う際のヒントとなりうるだろう。
ひとつだけ分かりやすい例を挙げると、コンパニョンは、経済学者ウィリアム・ボウモルが提唱した「コスト病」という概念を、文学の存在意義を説明するキーワードとして導入している。ボウモルの指摘するとおり、音楽を演奏するために必要なリハーサルの時間は、18世紀から現在まで短縮されていない。同様に、モンテーニュの『エセー』の読書に必要な時間は、一秒たりとも短縮されることはない。この「時間の固定性」こそが、生産性向上を至上命題とする現代において、文学を「病」のように見せている原因である。しかし、コンパニョンはここにおいてコペルニクス的転回を試みる。効率化できないこと、すなわち「時間がかかること」こそが、文学の希少価値の源泉であるというのだ。フローベールが一行を推敲するために浪費した膨大な時間は、その作品が数世紀にわたって読み継がれるための「投資」となる。現代の出版文化が、ベストセラーを刹那的に追い求める「ネガール(芸術を否定するお金)」に支配されるなかで、文学はあえて戦略的に「遅さ」に向けて舵を取る。この「遅れてくる利子」という発想、あるいは「長期的投資」という観点は、教育や学術研究全般にも適用可能な、きわめて重要な人文学のメリットである。
とはいえ筆致はどこまでも穏やかである。ジャーナリズム的な分析や市場原理からの挑発に対する、彼の抵抗はむしろ抑制的なものだ。ゆえに読者はコンパニョンがはしばしにちりばめる自身のエピソードに共感しながら、あるいはそうでなければ疑問を抱きつつも、対話的に読み進めることできるだろう。これらの挿話群のなかでもとりわけ記憶に残るのは、文学に対する剥き出しの「信仰」が告白される場面である。合衆国の静かな避暑地であるリホボス・ビーチでのある晩、差し迫る母の死という現実と虚構の文学とがたがいに浸透しつつ結びつく瞬間が厳(おごそ)かに語られる。ひとりの若者が、喧騒から離れた場所で文学がいかに人間に報いてくれるのかをめぐって、密かに思いを馳せる。「割に合うか」という経済的視座は極限まで無化され、他者の言葉を自らの内面に取り込むことへの絶対的な確信が芽生えている。この抒情的な思索こそが、本書のアイロニカルな語り口の背後に潜む、文学への揺るぎない確信の正体なのだろう。
* * *
ここで比較のために日本のデータにも触れておこう。日本でも「読むこと」は時間と市場の両面から圧迫されている。文化庁が発表した令和五年度「国語に関する世論調査」(2024年実施)によれば、直近一か月に、雑誌や漫画をのぞいて、本を1冊も読まなかったひとは62.6%に達し、1~2冊にとどまる層が27.6%である。調査方法が変わっているので比較には注意が必要であるが、5年前の調査時に比べて一冊も読まなかったひとの割合は15ポイントも増加している。電子書籍については、「利用する」が40.3%に達しており、日本でも普及していることが見てとれる(この調査では雑誌や漫画が含まれている)。
読書時間について、ベネッセ教育総合研究所と東京大学社会科学研究所とが合同で実施した「子どもの読書行動の実態」(2023年)では、高校生の66.7%の読書時間は0分であり、平均読書時間は12.4分と報告されている▼4。なお、フランスと違って高校生になると読書時間に関しては男女の性差は解消されていくようである。また、画面(スマホ、ゲーム機、パソコンなど)を眺める時間については、こども家庭庁が実施した「青少年のインターネット利用環境実態調査」によれば、高校生は一日あたり379.4分(約6時間19分)を費やしている▼5。
一方、市場ではデジタル化が進んでいる。出版科学研究所のプレスリリースによると、2024年の出版市場(紙+電子)の合計は1兆5716億円で、紙媒体は、書籍が5937億円、雑誌が3119億円と微減だったのに対し、電子出版は5660億円へと伸長し、市場の36%を占めるにいたった。ただし、電子コミックのシェア(5122億円)が圧倒的に大きく、電子書籍(452億円)や電子雑誌(86億円)は規模としては限定的である。コンテンツ別に見ると、コミックが全体の40.3%を占めており、2014年調査時の17.1%から大きくシェアを伸ばしている。電子書籍という新しい媒体の恩恵に浴しているのがコミックだというのは日本の特徴であろう。一方で、活字に触れている時間は「それほど変わっていない」「増えている」と答える人がそれぞれ3割台を占めているので「活字離れ」が進行しているわけではないようである。読む対象が本・新聞・雑誌から、SNS、インターネット上の記事などのデジタル情報に置き換わっているのだ。
コミックの突出したシェアをのぞけば、日本の状況はフランスと似たり寄ったりであろう。文学は市場原理からの批判のみならず、デジタル化がもたらす変化のなかでコンテンツとしてのシェア争いにも巻き込まれている。さらに爆発的に普及する生成AIが「御用聞き」という便利な存在から、文学の「脅威」へと姿を変える日も遠くない。なにしろ生成AIに小説を書かせることはすでに現実となっているのだから(とはいえ、生成AIに書かせた文章を小説家が自信をもって公開できるほどの質にまで高めていくためには、膨大なAIとの対話と調整が必要になるらしい)。しかし、コンパニョンの見立てにしたがえば、文学は挑戦にさらされることで再生をはかる。新たな〈ライバル〉の出現は、文学を蝕むのと同時に、文学を抵抗させ存続させるのだから。文学の行く末は、論理的にはむしろ明るい。
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訳者として、本書が日本の読者、とりわけ「文学を学ぶ意味はあるのか?」と自問自答する者に、本を読み、考えるという一連の営みを肯定する一助となることを切に願う。文学は、つねに挑まれ傷つき衰えていくものの歴史ではあるが、決して過去の遺物ではない。その歴史を更新し続けることは、現在進行形のものとして文学の生を証しだてすることになる。
末筆ながら、本書の翻訳の機会を与えていただいた恩師の中地義和先生には、深い謝意を表したい。本書の端緒となったのは、2012年6月2日、東京大学安田講堂で行われた日本フランス語フランス文学会50周年記念大会の講演「文学は割に合う」であり、同年『群像』9月号に講演録として掲載されている。この講演を企画し、翻訳をされたのが中地先生であった(本書と重なる箇所については、講演録の訳文を踏襲している)。講演内容がフランス文学の学会内にとどまらず、文芸誌の関心をひきつけ、一般読者にまで届いたという事実は重要である。学会から読者への回路はかぼそいものの持続している。それから十年余を経ることで内容は大幅に刷新されたが、同じ問いはふたたびわたしたちの前に投げ返されている。本書の訳業に際しては、作品社の青木誠也さんに並々ならぬご尽力をいただいた。刊行を前に遅々として仕事が進まない訳者を忍耐強く激励しながら、伴奏していただいた。心から御礼申し上げる。
作品社 ホームページ
【内容】
世界にはびこる文系不要論に抗し、人間的な豊かさをはぐくむための文学の有用性を説くのみならず、その市場価値にまであえて踏み込み、「長期的投資」「遅れてくる利子」としての意義を強調する。フランス文学界の碩学による、抒情的な思索とアイロニカルな語り口に満ちた唯一無二の書。
本を読み、考えるという営みの肯定
紹介
★作品社公式noteで「訳者あとがき」全文公開中→「文学は割に合う! 試し読み」で検索!
世界にはびこる文系不要論に抗し、人間的な豊かさをはぐくむための文学の有用性を説くのみならず、その市場価値にまであえて踏み込み、「長期的投資」「遅れてくる利子」としての意義を強調する。フランス文学界の碩学による、抒情的な思索とアイロニカルな語り口に満ちた唯一無二の書。
本を読み、考えるという営みの肯定。
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文学・哲学だけでなく、美術、映画、画面上のたくさんのコンテンツも含めた教養は、仕事における目先の作業から距離をとり、自らを客観視し、外部と内部とに同時に存在しながら自らを見つめ、人生を変えるための手助けをしてくれます。もともとのキャリアを超え出るため、方向を変えるため、関連分野へと分化していくため、新しいチャンスをとらえるためには、教養が不可欠なのです。一般教養がもたらすものとは、洞察力とか直感力という別種の知性です。これは優れた犬や狐にみられる勘に近いものなのです。鋭い勘は生まれつきではなく、読書によって養われるものであり、読書は他の経験への入り口となります。読書は勘を養ってくれるのです。困難を切り抜け、立て直すのにこれほど必要なものはないのです。(本書「第14章」より)
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さてその夜、ジュリアン・ソレルの冒険に大興奮してしまったので、なかなか寝つけませんでした。(…)母が階下にいて、ダイニングの椅子に座っていました。(…)「寝ないの?」「本を読んでて眠れないんだ」――こんなとりとめない言葉を母と交わしました。そのときようやくわたしは理解したのです――母は死ぬのだと。(…)その夜、文学と生とが、恋と権力とが、そして二階で読む小説のなかにあらわれる野心と一階の母につきまとう苦しみと死とが、対立すると同時にたがいに浸透し、受け入れあっていました。文学が人生すべてだというつもりはありませんが、『赤と黒』がもたらした高揚感がなければ、この小説から得た人生への洞察がなければ、亡くなるまでの三ヶ月間、平常心と鋭敏さを失わずに母のそばに寄り添い続けることはできなかったでしょう。(本書「第15章」より)
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訳者として、本書が日本の読者、とりわけ「文学を学ぶ意味はあるのか?」と自問自答する者に、本を読み、考えるという一連の営みを肯定する一助となることを切に願う。文学は、つねに挑まれ傷つき衰えていくものの歴史ではあるが、決して過去の遺物ではない。その歴史を更新し続けることは、現在進行形のものとして文学の生を証しだてすることになる。(「訳者あとがき」より)
文学は割に合う! アントワーヌ・コンパニョン著
後から受け取る大きな利子
2026年5月16日 2:00[会員限定記事]
あえてタイトルにこう掲げるほどだから、文学は《割に合わない》ものと世の相場が決まっているらしい。だとしたら、外国文学の翻訳を生業とする身にとって由々しき事態ではないか。本書はそんな風潮に真っ向から異を唱えようという、なんとも頼もしい一冊だ。
ここで論じられているのは、ずばり「文学のコストとか利益のこと」、そして「本とお金の関係のこと」。つまりは文学の意義を、誰もが関心のある金勘定の側面から(と言ってしまうと身も蓋もないが)解き明かそうとするユニークな試みである。出てくる用語も市場原理や生産性、長期的投資やらとビジネス啓発書顔負けだが、著者はフランス文学研究の泰斗とあって、文学という営みの本質やその受容をめぐる奥深い議論が展開されている。
扱うトピックは多岐にわたる。作家を脅かす経済的な不安、文化を蝕(むしば)むコスト病、国語教育の空洞化、読書時間の減少、電子書籍やオーディオブックの台頭などなど、文学を取り巻く現代的な状況が、ユーモアや皮肉を交えて描き出される。繰り返しその名が引かれるモンテーニュやプルーストに倣ってか、行きつ戻りつしながらゆったりと進む語り口は決して安易な結論へと急がず、ともに考えることを読者にうながしている。コストパフォーマンスを第一にする現代的な要求に抗(あらが)う文学本来のありかたを、自ら実践しているかのようだ。
文学によって養われる「競争力のある強み」を、著者は古いフランス語にある言葉を借りてレトリュールと呼ぶ。本書では「文学的応用力」という訳語もあてられているが、端的に「文学力」と言ってもいいだろう。これを身につければ他のさまざまな分野、例えば哲学や社会学、経済学、医学、はては政治の世界でも役立つというからまさに万能だ。ただしこの力は一朝一夕に得られるものではなく、ときには数世代かかって熟成され、受け継がれていく文化資本として、格差のもとにもなりかねない。文学とは「いわば投資のようなもので、その利子は後にならなければ受け取れない。その代わりにとても大きな利子」なのだ。これは本書の冒頭と末尾に引かれたボードレールの言葉だが、なるほど至言である。
《評》翻訳家 平岡 敦
(本田貴久訳、作品社・2970円)
▼著者は50年ベルギー生まれ。2022年、アカデミー・フランセーズの会員に選出される。
作品社 note
【本要約】文学は割に合う! AI時代にこそ、物語を読む人だけが手に入れる3つの力
2026年4月8日 06:21
「文系には意味がない」「役に立たない学問に金を出すな」
フランス文学の泰斗(たいと)が、その「刺さったもの」に名前をつけ、経済学の言葉を道具として使い、「文学は割に合う」という挑発的な命題を、叙情とアイロニーをまぶしながら論証してみせる。
要点
本書は、フランスの文学研究者アントワーヌ・コンパニョンが、「文系不要論」が横行する現代社会へのアンチテーゼとして書いた、文学擁護(ようご)のエッセイ集だ。
著者は「教養の価値」「詩の見返り」「野心と文学」「医療としての読書」「文学と統計学」など、多岐にわたるテーマを縦横に論じながら、文学の「有用性」を「使える知識」ではなく「時間差のなかで遅れてくる利子」として定位する。
核心にあるのは、経済学者ボウモルの「コスト病(Cost Disease)」という概念の逆用だ。文学の制作・受容には、本質的に削れない時間と手間がかかる。著者はこの「生産性向上不能」を欠陥ではなく、長期的な価値の源泉として読み替える。
抒情的な思索とアイロニカルな語り口が共存する、フランス知識人特有の文章の運動それ自体が、「文学は時間をかけるに値する」という主張を、論証しながら実演してもみせる書だ。
こんなひとにオススメ
- 文学や人文学を専攻していながら、「それで何になるの」と問われるたびに押しつぶされそうな気持ちになる学生・院生。
- 読書が好きだという自覚はあるが、その「好き」を自分でどう正当化していいのか、言語化できずにいる社会人。
- 文系学部の削減、人文系予算カット、STEM偏重の教育政策に危機感を持ちながら、反論の語彙を探している教育者・研究者。
著者について
アントワーヌ・コンパニョンは、1950年ベルギー生まれのフランス文学者・批評家で、パリのコレージュ・ド・フランス(Collège de France)教授およびコロンビア大学教授を長年兼任してきた、現代フランス人文学の頂点に立つ研究者のひとりだ。
マルセル・プルーストの研究で国際的に高名であり、アカデミー・フランセーズ(Académie française)の「フランス語および文学輝翼賞」や日本学士院賞など、国際的な賞を複数受賞している。
著作は『アンチ・モデルン』『文学をめぐる理論と常識』など多岐にわたり、文学理論・書誌学・読書論の領域で、いずれも「アカデミックな厳密さ」と「読書人としての個人的熱量」が同居する独特の筆致を持つ。
プルーストの「本当の人生、それは文学である」という言葉を繰り返し引用してきた著者にとって、本書は単なる文学の弁護ではなく、自身の知的生涯の凝縮であり、「なぜ読んできたのか」という問いへの最終的な応答でもある。
目次
- Ⅰ 「文学は何の役に立つのか」という問いに挑む
- Ⅱ コスト病という逆説――生産性向上不能を「美徳」に変える
- Ⅲ 「遅れてくる利子」としての文学
- Ⅳ 詩・野心・階級――文学の社会的射程
- Ⅴ 読書と健康・老い・死――個人的な声
- Ⅵ 文学と統計学・AIの時代
- まとめ――文学を「小さな革命」として読む
Ⅰ 「文学は何の役に立つのか」という問いに挑む
本書がまず対峙するのは、世界中でますます力を強める「文系不要論」だ。
STEM(理系・技術系)教育への資源集中、人文学部の縮小・廃止、大学の「産業界への貢献度」による予算配分――こうした動向は、フランスでも日本でも、また英米でも共通して見られる現象だ。
著者は、こうした流れを正面から否定するのではなく、むしろその「経済言語」を逆手に取る。
「文学は役に立つのか」という問いに、「役立ち方を間違えている」と答えるのではなく、「もっと長い時間軸で見れば、文学ほど利子の高い投資はない」と応じる、その逆転の発想が本書の出発点になっている。
〔注:著者は「文学に有用性を求めるな」という「高踏的(こうとうてき)」な立場には明示的に反対している。文学を「経済的有用性の外に置くこと」によって守ろうとする知識人のポーズを、むしろ批判する〕
Ⅱ コスト病という逆説――生産性向上不能を「美徳」に変える
本書の論理的な核を成すのが、アメリカの経済学者ウィリアム・ボウモル(William Baumol)が提唱した「コスト病(Cost Disease)」の概念だ。
コスト病とは、ある種の産業・職業においては、技術革新がどれだけ進んでも、生産性を根本的に向上させることができないという現象を指す。
代表例として挙げられるのは、クラシック音楽のカルテット〔注:弦楽四重奏(げんがくしじゅうそう)。ヴァイオリン二人、ヴィオラ、チェロの四人編成〕だ。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を演奏するためには、19世紀と同じく四人の奏者が同じ時間をかけて練習し、同じ時間をかけて演奏しなければならない。AI化もライン生産も意味をなさない。
著者はこの「コスト病」を、文学の創作と読書にも適用する。
小説を書くためには、生きることに費やされた時間が不可欠であり、小説を読むためには、読者が自分の時間を差し出さなければならない。
その「削れなさ」は、工業的・経済的に見れば欠陥だ。
だが著者は、この生産性向上不能こそが文学の価値の源泉であり、コスト病こそが「文学の特権」だと読み替える――時間をかけることによってしか生まれない価値が、ここに宿っている。
Ⅲ 「遅れてくる利子」としての文学
コスト病の逆用から、著者が導き出す核心概念が「遅れてくる利子」だ。
読書は、投資と同様に、すぐには見返りが来ない。
高校時代に読んだ一冊の小説、大学で出会ったある詩の一節、失意の時期に偶然手にした短篇。それらは、読んだ直後には「役に立った」という実感を持てないことも多い。
だが、10年後に何かの出来事に直面したとき、あの場面の言葉が照り返してくる。
あの登場人物の決断が、自分の感情に名前を与えてくれる。
あの詩の一行が、頭の中で突然、現在の傷を言語化する鍵に変わる。
この時間差こそが、文学の「利子の遅れてくる」構造だと著者は言う。
即効性のある情報・スキル・資格のような「現在価値」ではなく、後に回収される「将来価値」として、文学の効用は積み立てられていく。
経済学的に言えば、これは「長期的投資」の論理であり、株式市場でいえばバフェット型の忍耐を要する複利運用だ。
だからこそ、短期的な成果を求める教育制度や企業文化の中では、文学の価値はどうしても可視化されにくい。
〔注:著者は「忙しいひとびとはまちがっている」という章で、「忙しさを誇る現代人は、長期的な価値を摂取する機会を自ら切り捨てている」と論じており、これはある種の生産性批判でもある〕
Ⅳ 詩・野心・階級――文学の社会的射程
本書の中盤以降は、より具体的な社会的文脈へと踏み込んでいく。
「詩こそはもっとも見返りの多い芸術のひとつ」「高等教育ビジネス」「階級に復讐する」「野心とは、有象無象の悪徳ではない」といった、挑発的な章題が並ぶ。
「階級に復讐する」という章は、特に印象深い。
文学的教養は、生まれつきの階級を超える「特権破壊のツール」になりうるという議論が展開される。
知識や感受性は、金持ちにしか相続されないものではない。
むしろ、文学を読むことで磨かれる「人間の機微を読む力」「言葉を通じて感情を分節化する能力」「他者の経験に没入する訓練」は、出自を問わず、読書という行為そのものによって誰もが獲得できる。
これはロマンティックな理想論ではなく、社会移動(ソーシャルモビリティ)における文化資本〔注:ピエール・ブルデューの概念。学歴や読書経験など、経済資本に換算しにくいが社会的優位を与える知識・技能〕の機能として、著者は論じる。
「野心とは、有象無象の悪徳ではない」では、野心を単なる欲望ではなく、「自分がいまより大きな可能性を持っているという確信」として再定義し、文学がこの確信を育む媒体であることが示される。
登場人物の人生を追う中で、読者は「もし自分がこの状況に置かれたら」という仮想実験を繰り返す。
この反実仮想の繰り返しが、自分の人生の可能性を広げる心理的インフラとなる。
文学を読むことは、自分が体験できなかった人生を何十、何百と並行して生きることであり、その多重の「擬似経験」が、単一の人生の射程を延長する。
Ⅴ 読書と健康・老い・死――個人的な声
本書が読者の心に刺さる理由のひとつは、著者が時折、自分の個人的な経験を開陳するからだ。
「読むことは健康のためになる」という章では、読書の認知機能への効果や、老年期の脳の活性化という議論が展開されるが、これは単なる医学的エビデンスの列挙ではない。
著者はそこに、母の死、喪失の経験、文学が支えてくれた時間の記憶を重ねる。
他者が書いた言葉を読むことは、「他者の人生の終わり」を何度も経験することでもある。
登場人物の死、物語の終わり、詩の最後の一行。
その繰り返しが、読者の中に「終わりというものに慣れる」練習を積み重ねる。
「落ち着いて、またいつでも会えるから!」という最終章のタイトルは、読書が「別れに耐える力」を育てることへの、著者の静かな確信の表れだ。
〔注:これは「読書=死の練習」という哲学的テーマと接続する。文学を通じて他者の死を代理体験することで、自分の有限性を内面化するプロセスとして読む解釈を、著者は意図せず後押ししている〕
Ⅵ 文学と統計学・AIの時代
本書の後半に置かれた「文学と統計学」「失われた機会」という章は、デジタル・計量人文学〔注:Digital Humanities。テキストをデータとして処理し、統計的に文学を分析する手法〕の台頭と、AIが文章を生成する時代への、著者の向き合い方を示している。
著者は、計量的・統計的な文学分析を頭から否定しない。
むしろ、テキストの大量処理が可能になったことで、これまで見えなかったパターンが見えるようになったという認識は持っている。
だが、その分析が掴めるのは、文学の「形式的な外側」だけだ。
なぜあの一行が自分の胸を打つのか、なぜあの小説の結末が10年経っても忘れられないのか、という経験は、統計が扱える問いではない。
AIが量産できる「よくできた文章」が増えるほど、人間の手と時間と苦悩から生まれた文章の「触感」は、逆説的にその希少性を増す。
「失われた機械」としての人間の身体と時間こそが、文学の生産性を構造的に制限し、同時に文学の代替不可能性を保証する。
まとめ――文学を「小さな革命」として読む
第一に、「文学は最後の反資本主義的聖域」という読みだ。
ボウモルのコスト病を「特権」として読み替えるコンパニョンの論理を、そのまま政治哲学へと接続すると、文学はマルクス的意味での「使用価値」〔注:実際の用途に基づく価値。「交換価値」=市場での値段と対比される〕の最後の砦()として立ち上がる。
資本主義は時間を「効率的に使える生産要素」として合理化してきた。
だが文学を読む行為は、その時間合理化の論理に構造的に抵抗する。
読書中に生産性は上がらない。読んでいる間、私たちは資本の回路から脱落している。
その「脱落の時間」こそが、小さな革命だ。
「忙しいひとびとはまちがっている」という章のタイトルが、この文脈でより鋭く光る。
忙しさを誇ることは、資本主義的時間合理化への自発的な服従であり、読書の時間を「無駄」と感じる感覚は、その服従が完成した証拠でもある。
文学を読むことは、資本に回収されない時間を確保するという、現代においては奇妙なほど政治的な行為なのだ。
第二に、「AIによる文学の神格化」逆説だ。
著者がAIに言及する章を読むと、その論点を未来に向けてもう一歩だけ押し広げることができる。
生成AIが「それなりの文章」を無限に安価に供給するほど、人間的な遅さと苦悩から生まれた作品の希少性は、指数関数的に上昇する。
コスト病の論理でいえば、AIは文学の「コストゼロの代替物」を大量生産できる。
だがそれは、「時間と身体をかけて生み出された」文学の価値を下げるのではなく、上げる。
かつてレコードが普及したとき、生のコンサートの価値は下がるどころか上がった。
AIが量産する文章が氾濫するほど、人間が書いた一行の「手触り」は、超希少な職人芸品として格上げされる。
これはコンパニョンが直接述べることではないが、本書の論理は、この逆説的な結論へと自然に向かっていく。
第三に、「読書行為は死の練習」論だ。
「読むことは健康のためになる」「落ち着いて、またいつでも会えるから!」という章に漂う、母の死と文学の交差を語る著者の声を、極限まで押し広げてみる。
文学とは、他者の死を代理体験することで自分の有限性を内面化する「哲学的予行演習」だ。
登場人物の死、物語の終わり、詩の最後の沈黙。それらを何度も反復することで、読者の内側に「終わりを受け入れる心理的筋力」が育つ。
ならば、読書率の低下は何を意味するのか。
それは単に活字離れではなく、死を忌避し、有限性から目を背けることを選んだ社会の症候なのかもしれない。
SNSのスクロールは「終わらない」――フィードに最後の一行はなく、タイムラインに結末はなく、エンドロールも流れない。
その「終わりのなさ」への慣れが、人を「死の練習」から遠ざけ、あらゆる終わりに対して脆(もろ)くしていく。
文学を読む行為は、「終わりを経験すること」の反復であり、それが失われた社会は、死と有限性を扱う語彙を少しずつ失っていく。
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