未還の名簿 青島顕 2026.8.12.
2026.8.12. 未還の名簿 シベリア最下層捕虜・村山常雄の祈り
著者 青島顕 1966年静岡市生まれ。91年に早稲田大学法学部を卒業し、毎日新聞社に入社。西部本社整理部、佐賀、福岡、八王子、東京社会部、水戸、内部監査室委員、東京社会部編集委員、多摩総局長などを経て、2026年3月現在は新聞研究本部に勤務。中央大学、専修大学で兼任講師。『MOCT(モスト) 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』で第21回開高健ノンフィクション賞を受賞。共著書に『徹底検証 安倍政治』『記者のための裁判記録閲覧ハンドブック』。
発行日 2026.3.31. 第1刷発行
発行所 集英社
序章 2人の「常雄」
終戦の3年前に新京で生まれ、’44年父が徴兵され、母死亡後、親戚に引き取られ帰国。’46年父がシベリアで戦病死との公報。学芸大を出て小学校の教員をしながら、2008年シベリアで亡くなった人の名簿が出版されたとの新聞記事を見て入手。肌身離さず持ち歩いていた出生届にあった父の名を見つける。名簿を作った筆者と同じ「常雄」だった
第1章
原稿になかった言葉
l 取材してほしいことがある
新聞記者の私が村山を知ったのは2005年。「シベリア抑留」をテーマに記事を書きたいと思って、手が空くと「捕虜体験を記録する会」の江口十四一を訪ねていた。江口は帰還者延べ326人の手記を集めた『捕虜体験記』全8巻を編み、’98年菊池寛賞受賞
江口から、会の会報『オーロラ』に寄稿した村山の「いま、なぜ抑留死亡者名簿か」を見せられ取材してほしいと頼まれる
村山は、「戦争の犠牲者を悼み、その名を正しく歴史に刻む作業は、生き残った者の当然の義務であり、戦争犠牲者名簿はすべて、第一義的に、かけがえのない人間一人一人の、無念と命の尊さを、重くその固有の使命に刻んで歴史に残すものでなければならない」と説く
l 背筋のピンと伸びた人
村山のいる新潟の能生を訪ねる。4年間の抑留の後、中学の国語教師を務め、退職後に名簿作成を決意
'91年、ゴルバチョフが約3.8万人の死亡者名簿を持って来日したが、ソ連の係官が通訳を介して本人から聞き取った名をキリル文字で記録したままのもの。厚生省がそれをカタカナに置き換えて発表したため、とても日本人とは思えないような「名前」が混在
その後も崩壊後のロシアやモンゴルなどから名簿が断続的に届いたが、大量の重複があったが、日本政府に積極的な動きは見られなかったところから、村山は自ら正確な名簿を作ろうと考えた
日本政府が約3万人分の名前の漢字表記データを持っていることを知って、手元のカタカナ表記と照合し、日本人らしい表記に直していく
l 漢字名簿を世に問う
取材をもとに書いた最初の記事は、'05年5月の『毎日新聞』東京本社版の社会面トップに掲載。その時点でのデータベース掲載総数は44,935人、うち漢字表記は30,773人
データベースは、2か月後ホームページに掲載。全国各地から反響が寄せられるようになり、それから1年の間にすべての大手メディアが取り上げ、たちまち村山は時の人に
l 「シベリア抑留は未解決です」
その後、抑留帰還者に対して、日本政府が事実上の補償をする特別措置法が成立。生存者約7万人に特別給付金が支払われた
2013年、「シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い」開催。87歳の村山が主催者の1人として挨拶したが、最後に原稿になかった「シベリア抑留は未解決です」と結ぶ
第2章
大正15年生まれ
l 貧しかった子ども時代
村山は1926年新潟の生まれ。造船で栄えた名家だったが祖父の代に没落
親類の援助で県立能生水産学校(大の里が相撲留学)に入り、’42年繰り上げ卒業してハルビン水産試験場に就職
l 戦争の最後の網にかかった雑魚
'43年徴兵年齢が19歳に引き下げられ、'45年満19歳になった村山は徴兵検査で第一乙種となったが、南方に送られた関東軍主力の穴埋めにすぐ徴兵される。永遠の「初年兵」となり、自らの境遇を「戦争の最後の網にかかった雑魚」と表現
徴兵検査後一旦能生に帰郷していた村山に入隊日の知らせが届き、5月に満洲に戻る
l 兵隊は捨て駒
関東軍機動第三連隊に入隊するが、機動部隊とは名ばかり。初年兵も多くは満蒙開拓青少年義勇軍出身の子どもばかり。すぐに「特攻隊さながらの訓練」が始まる
l 戦わずに降伏
8月8日軍事演習に参加。翌未明ソ連の攻撃開始を知る。友軍がソ連領内に進軍との虚報に沸き立つが、敗戦を知って連隊長は自決、残る兵には生きて祖国の復興にあたれと命令
l ソ連兵に銃を突きつけられて
収容所内でのソ連兵による略奪行為が常態化
l 1000人の捕虜の行軍
南方の朝鮮との国境へ向けて約200㎞の行進が始まる
第3章
最初の冬
l 飢餓集団の行進
豆満江を渡って朝鮮に入るが、また満洲国に戻らされる
l 北の国へ
落伍者を出しながら行進は続き、ソ連領に入る
新たな作業大隊が組織され、その中にいた元将校が指揮を執る
l 囚人列車に乗せられて
貨車で移送
l 砕かれた希望
ハバロフスクの駅名を見て、帰国への淡い期待は砕ける
さらに北東へ400㎞いった、1930年代に造成されたばかりの工業都市コムソモリスク・ナ・アムーレに着く
l 「運命づけられた」高い死亡率
作業は森の木の伐採で、極め付きの重労働
塩分が不足して体がむくむ
l 伸びきった尻の皮
尻の皮膚の張り具合で栄養失調が判定され、作業量が決められた
それまで兵隊をこき使って体力を温存していた下士官は作業量を多く割り当てられたが、監視の緩いのをいいことに、自分のノルマを体力の衰えた兵隊たちにやらせていた。旧軍隊機構の下級者に対する抑圧や制裁が公然と存在していた
第4章
「みみず」から「人」へ
l 天涯孤独
生来の虚弱体質だったが、若さゆえに生き残る
1年後の体格検査で、屋外作業免除となったが、体力が回復するとまた屋外作業に
怪我がもとで足が腐り始め、病院に収容。2か月ほどの入院生活を送る。死にかけたみみずのような存在だったが、病院内で初めて人間扱いされた
l ダモイとだまされて
‘48年初め、ダモイだとだまされて貨車に乗せられ西方に送られ、鉄道路盤工事に従事
l 死なないですんだ
2009年の市民団体のアンケートで村山は、「シベリア抑留で嬉しかったこと」と聞かれて、「抑留後期、強制労働を自発労働に転化できた時。3年目の春死なないですんだと思った時」と書いている
'48年4月、同じ地区から帰還者が現れる。仕事のコツが分かったら楽しく、特に帰国を急がなくてもという気になった
l 「民主運動」集会へ
旧日本軍の組織を利用した収容所管理に代わって、「民主運動」が盛んになる
ハバロフスクで発行される『日本新聞』が届けられ、捕虜たちによる勉強会が開かれ思想教育が始まる
戦犯裁判も始まる
l 2度目の入院、そして帰国へ
さらにまた別の収容所に移動して、セメント工場の建設作業に従事、粉塵を吸い込む
'49年、「肋骨カリエス」発症。特別病院に入院。かなりの重症
20日ほどの入院生活の最後に捕虜生活の終りを通告
同年6月、ナホトカから帰ろうとしたら、傷口が塞がっていなかったために再手術
7月、漸く高砂丸に乗船して舞鶴へ
l 縁を結んだ『シベリア物語』
「シベリア帰り」のレッテルを貼られ、就職差別が厳然とあったのを知って、日大の通信教育課程を受け、教職の単位を取得したほか、速記を学ぶ
ソ連映画『シベリア物語』の上映館の中で女性に声をかけたのが縁で、'54年結婚
l フランス革命を語る目に涙
'52年、新潟県公立学校教員に採用され、中学の国語教師となる。授業でシベリアの話は一度もしたことがなかったが、フランス革命の話をした時には目に涙していた
第5章
最後の国語教室
l 20年ぶりにシベリアへ
'69年、日ソ旅行社のシベリア旅行の広告を見て、奥さんが誘う。費用は19.8万円。大卒初任給の6倍。旅の終わりがハバロフスクで、墓参が組み込まれていた。墓の1つ1つに酒をかけてまわる
l 青春を埋めし土地
村山が手帳に書きつけた「わが戦友の墓標はここに、わが青春の墓標はここに」の言葉が忘れられなかった奥さんは、帰国後短歌を作る。それが朝日歌壇の五島美代子の選ぶ15首の筆頭に載る 「青春を埋めし土地」とうハバロフスクに今われ立ちぬ嗚咽する夫と
村山のノートには「シベリヤ虜囚酔夢譚」とあり、夢を見た日にはそれを綴っては当時を再現していた。シベリアから離れられない自分との葛藤が続いていた
l 偉くならない方がいい
中学を転々としたが、教頭にも校長にもならず、力量のある人が指導者になるべきだと言って、自分は最後まで教壇に立つ方を選ぶ
'80年代、中学が荒れ始めると、早期退職の意志を翻して立ち向かう
l しぶきを浴びて、雪に耐えて
荒れた能生中に教務主任として2度目の赴任
l 必ず分かってくれる
シベリアでひもじさ、寒さ、理不尽の限りを体験し、平和で豊かで公正な社会の実現を目指して教育に当たってきた、その価値観を覆すような校内暴力や無法、無秩序、自我喪失は理解できなかった
全人生をかけて卒業式で贈る言葉を1人1人に呼びかけた
第6章
文字列の叫び
l ソ連から届き始めた名簿
'90年、ソ連高官がシベリア抑留日本人、死亡者1444人の名簿を日本にもたらすと同時に、翌年春のゴルバチョフ大統領訪日の際に、日本人死亡者名簿3.8万人分を持参するとのニュースが出る
最初の名簿には、「ロシア文字の訳なので、不自然なもの、判読不能や不鮮明な場合には?をつけた」と注釈がある。それを見て、紛れもない日本人が、死後40年以上も経って、こんな奇妙な名前で新聞に登場するのはなぜか。心に生まれた悲しみや虚脱感は、時間が経つにつれて、やり場のない怒りのようなものへと転化
l 遺族に情報が届かない
ゴルバチョフは、抑留問題に関して死亡者名や墓地を特定し、墓地を整備することについて日本政府と協定を結ぶ
厚生省は、翻訳作業を済ませ約38,600人分の名簿を公表
ソ連崩壊後も、ロシアやカザフスタン、モンゴルから追加の名簿が届く
l いつか書き継ぐ日を
村山は、教員退職後、ソ連への慰霊の旅を続ける
l かの国からの客人との交流
村山は、地元の学習会でロシア語の初級文法も教えたり、ロシア船が新潟の港に入港すると、生徒を連れて港に出向き、片言のロシア語で交流を試みる
笹神村(現阿賀野市)に、地元の銀行の出資で出来たばかりのテーマパーク「新潟ロシア村」にも出向いて、ロシアからきている職員とも交流。「苦労したが、普通のロシア人のお陰で、生き続けることができた」とロシアへの愛を語る村山を見て、ロシア人は感動したという
第7章
70歳の誕生日
l 人生総括のとき
'96年、村山は重大な決意をしたことを、交流のあったロシア人職員に手紙で知らせる
自分の人生の総括を始めるべく、シベリア抑留死亡者の正確な名簿を作ろうと決意
パソコンとの格闘が始まり、5.2万人を対象に、修正を重ねる
l 力強い味方
パソコン操作を技術面で支えてくれる人や、朝日新聞に死亡者に関する名簿の提供を呼び掛けると、全国から反響があった
毎年のようにシベリア墓参を続けながら、丸4年かけてデータベース登録者45,960人、埋葬地数864筆を作り上げる
l 漢字の名前を記した資料が欲しい
2000年時点でのデータベースは大部分がカタカナ。漢字の資料は6,250人に過ぎない
厚生省も、ゴルバチョフ名簿を手に入れたものの、身元の特定が出来ず、その扱いに困っていたが、ソ連が個人別の調査票を作成していて、モスクワの軍事公文書館に保存されていることを突き止め、アクセスの許可を取る。漢字の署名などもあり、マイクロフィルムにとって資料を持ち帰り、旧陸軍などから引き継いだ未帰還者名簿データと照合しながら特定を進める。さらに公文書館に40項目に及ぶ個人記録の「登録簿」の存在を突き止める
帰還者らで作る全国抑留者補償協議会は、'92年モスクワに拠点を置き、希望する遺族らの求めに応じて、軍事公文書館から代理で情報入手する事業を開始
村山は、生存者の分の「登録簿」もあることを知って、自分の分を取り寄せると、帰国までの詳細な記録が送られてきた
l 3枚のフロッピーディスク
村山は、厚生省が漢字データを把握していることを知って、'98年閲覧と利用を求めるメールを送ったが、プライバシー保護の観点から閲覧は不可との返事
'00年6月、墓参事業で厚生省と繋がりのあった全国強制抑留者協会(協議会とは別組織)を通じて厚生省に働きかける。5か月後、漢字化へ加工されたcsvデータが送られてきた
収容所ごとの死者の漢字表記が3万人分あり、村山の作業は一気に進む
l 奇跡のタイミング
当時の社会・援護局長に聞くと、課長以下で対応したのだろうが、思い切った判断だったと思うと答えてくれた。「情報公開法」が'01年施行される直前だったのが幸いした
'06年、村山が名簿をネットに公開することにより、名簿は「公知の事実」になり、情報公開法の壁を越える
l 先人との出会い
村山は、さらに精査作業を続けるうち、抑留者が77人の仲間の死者の情報を密かに隠し持って帰還したという情報を得て、本人と連絡を取って名簿を入手。新たに31件のデータが追加された。難読の姓名のいくつかも判明。持ち帰った名簿の正確性に感銘
第8章
死者と生きる
l 「一大事。衝撃的」
名簿の完成が近づいたころ衝撃が走る。'03年『シベリア抑留死亡者名簿』が出版される。'90年に1444人の名簿を持ってきたロシア人高官の編、東北大東北アジア研究センター発行となっている。高官は、モスクワの公文書館で日本人に関するデータの探索を続けてきて、’03年当時は東北大の客員教授。キリル文字をカタカナに書き改めたもので、手元の名簿と比較すると、目新しい情報はなかった
‘05年、持病の高血圧が悪化、発表について、シベリア体験を持つ尊敬する文学者高杉一郎和光大名誉教授に相談したところ、名簿を激賞したが、ロシア高官と話し合うべきだとアドバイス。高官の名に傷がつくことを恐れたようだ
l 名簿の存在が全国に知れ渡る
'05年の私の毎日新聞の記事をきっかけに、村山名簿の存在が世の中に知られると、全国から問い合わせが寄せられる
村山の手元に、「北朝鮮での死亡者名簿」が加わる。ソ連は、労働力にならなくなった捕虜を北朝鮮に送り返し(「逆送」と呼んだ)、そこから多くの死者を生んだ
戦時中から挑戦に駐留していた将校らで作る「三合里戦友会」のメンバーが、逆送死者らの名簿を密かに持ち帰っており、その名簿からも880人が村山名簿に追加された
l ホームページが繋げた縁
‘05年、ホームページで名簿を公開
その後、収容所の個人記録は、厚労省でも入手できるようになる
l 届いたメールに目を赤くして
感謝のメールとともに、訂正の情報や、さらなる探索の依頼も寄せられる
l 真っ赤なバラを胸に
'06年、第40回吉川英治文化賞受賞
現地当局の記録がなくても、抑留中の死亡が確実な人、新たに542人を追加掲載
l 「1人ひとりを紙碑に刻む」
名簿公開後も、「死者1人ひとりを紙碑に刻む」ことを目的にした村山は、自費出版として1000万円を用意、丸2か月かけて校正を終える
最終的に名簿に掲載したのは不完全な表記も含め46,300名。うち漢字表記できたのが32,324名。『シベリアに逝きし人々を刻す』の刊行は'07年7月。B5版1053ページ
はしがきには、「死者は1人ひとりねんごろに、その固有の名を呼んで弔われるべき」
l 「この賞は本当にうれしい」
‘09年、第12回日本自費出版文化賞大賞受賞
「紙碑」に刻んだことが公に認められて、村山はことのほか受賞を喜ぶ
受賞から間もなくして、選考委員の紹介で、『シベリアに逝きし46300名を刻す』出版
第9章
「正史を作ってほしい」
l 実態解明を目指して
2010年、戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)成立。民主党政権で漸く日の目を見て、25~150万円の特別給付金支給されるとともに、政府に対してシベリア抑留問題の実態調査のための基本方針を定めるよう義務付け
特措法推進母体の「全国抑留者補償協議会」解散ご、新たに「ソ連における日本人捕虜・抑留被害者支援・記録センター(略称:シベリア抑留者支援・記録センター)」設立
l ただ「平和」と言うのではなく
村山は、講演などの反響を通じ、この国の平和が揺らいでいることに強い危機感を抱く
マスメディアの態度も、シベリア抑留の報道は表面的なものが多くなった
逆に、事実からかけ離れた被害の誇張をしないことも呼び掛けた
l なお名簿に載らない死者たち
'10年、成蹊大で日ソ関係史を教えていた富田武教授が「シベリア抑留研究会」起ち上げ。村山も参加していたが、懇親会の席上で、「シベリア抑留の正史を作ってほしい」といい、抑留の実相を後世に伝えたいとの本音を吐露
厚労省は、57.5万人の軍人・軍属が抑留され、旧ソ連で5.3万人、モンゴルで2000人が死亡したと説明。帰還者からの聞き取り調査を通じてまとめた数字を基に推定したというが、その数字を信用しない当事者は多い。村山も、こうした公式の定義から零れ落ちた人たちのことを考える。自身や他の抑留生存者から聞いた話と記録を突き合わせてみると、名簿から零れ落ちた人がまだいるはずというのが、容易に推測できる
l 兵士と将校。彼らを分かつもの
正史を考えるうえで、難しいもう1つの問題は、所属した軍隊の階級によって捉え方が大きく異なること。村山は自らの体験から、将校や下士官らはソ連側から一定の自治権や部下の兵士の管理権を委ねられ、その管理不全が兵士の心身を消耗させ、死者数を増やす大きな要因になったとみる。将校たちも、その後の思想教育で自己批判を強いられ、密告・暴行され、いわれのない罪を着せられることがあった
NHKによる抑留証言記録でも、一面だけを捉えていて、公平な立場から全容を解明するものではないとの感想も抱く
l 解決していないこととは
‘13年に村山が「シベリア抑留は未解決です」と言った(第1章)のは、以下のことが念頭にあったのだろう
旧ソ連の地方都市にまだ眠っているであろう記録を見つけ出して、1人でも多くの死者の氏名を記した名簿を作ること
シベリア抑留の正史を作ること
特に、理不尽に死ななければならなかった”下”の立場の人たちのための記録を作ること
l 最期の日々
‘11年肺がん手術。'13年娘の住む大宮のタワマンに転居
'13年間質性肺炎で入院。翌年退院するが、パソコンが打てなくなり、「生きている価値なし」と自覚。5月逝去
l 情熱の人と歩んだ人生
自にきびしく他人(ひと)に涙もろき夫なりき一滴の涙も見せず逝きたり (夫人の歌)
村山は、シベリアで何があったのか、妻に胸の内を明かすことはなかった
第10章
祈りの手記
l 後回しになったもの
シベリア抑留当事者による体験記は2000近く出版されていると聞く
村山は、抑留を記録すことに強い意欲を持っていたのに、自身の体験の全体像は書いていない。講演で語っていたのも、名簿作りの動機や平和の大切さ
最後に「シベリア抑留研究会」で体験談を話してもらったときは、体に残った3か所の抑留時代の痕跡を見せながら、とりとめのない調子で、行ったり来たりを繰り返す
l シベリアの樵(きこり)
研究会で村山は自身の体験を綴った小冊子『シベリア樵覚え書』を配った
ゴルバチョフ名簿の中で、村山と同じ年生まれで同じ部隊に配属された名前を探したが見つからなかったところから、彼への手向けとして体験記の執筆を思い立つ
4人の初年兵仲間の視点から描かれた抑留生活の描写が、新たに上司になった元下士官の理不尽な暴力で始まったところで突然終わる
l 取材ノートに「手記を500枚」
名簿発刊の際、自分の体験記を載せることを計画していて、500枚ほど書いたと聞かされていたが、未完のまま収録されることはなかった
l 幻の原稿
'22年、村山夫人は、名簿作りに関する資料を「シベリア抑留者支援・記録センター」に寄託していたが、自宅に残る資料を見せてもらうと、聞かされていた原稿に間違いないと思われる400枚ほどの原稿が出てきた
l 私の知らない若い日の村山さん
原稿には、入隊前のハルビンの回想を交えて話が展開する
l 新たな使命感
原稿は、最初の半年くらいの描写で終わる。旧軍組織の軋轢が消え、食糧の配分が少しまともになり、作業が軽減され、初年兵にも生きる希望が生まれてきたことになっている
村山はかつて、「書きながら、もっと大事なことがあるのではと思った」とも語っていた。過酷な体験を、客観的かつ冷徹に受け止めて書き続けることが出来ないと悟ったのかもしれない。その代わりに取り組んだ名簿作りが、村山の使命感を充足させ、生きる喜びを与えたのだろう
第11章
生きている名簿
l 4.6万人の名前を読む
'20年、コロナ禍で「犠牲者追悼の集い」も縮小せざるを得なくなり、当事者が年々減っていく中、次世代にどうやって継承しようかと悩んでいたとき、オランダからナチ収容所に送られた犠牲者10万人余りの名前を、1人1人読み上げる追悼式の模様が放映されたのを見て、事務局がZOOMを利用して同じことをやろうと思い立つ。シベリア抑留の研究者の準教授も学生たちに声をかけて参加。イベントは以後も毎年続いている
l 読み上げをきっかけに正しい表記に
イベントには遺族が多勢参加
なかには、朝鮮北部で突然行方不明になったまま、戦時死亡宣告を受けていた父親が、厚労省からの突然の通知でシベリアで抑留死と聞かされ、村山名簿に近い名前があったので精査した結果、名簿が訂正され、父親の死の詳細が判明したという例も出てきた
l 1人ひとりを思いながら
l 戦後80年、初めて知る伯父の最期
l 2つの名簿、官民それぞれの役割
村山の死後3か月、厚労省が新たに死亡者名簿をウェブ上で公開
「死亡者の氏名、出身地(都道府県名)だけでは、公表する情報を元々知り得る者(遺族等)以外は容易に死亡者を特定又は推認することはできないため、保護すべき個人情報には当たらない」との見解
厚労省はこれまで41,178人(旧ソ連39,642人、モンゴル1,536人)の死者の正確な氏名を確認、公表しているが、当初の不正確なままの表記順を変えていないため検索しづらい
おわりに
l 死は鴻毛より軽しと覚悟せよ(軍人勅諭の1節)
戦争と平和は非対称であり、単純で分かり易く訴求力が強い「戦争」に対し、「平和」は常に人々がエネルギーを注がなければ維持できないもの。シベリアで亡くなった1人ひとりを忘れないように名簿を作る行為は、そうした思想を伝えることでもあった
l 日本海の見える丘に
'24年のお盆に、新潟の村山家のお墓参りに
l 信じられない訃報
10月、村山夫人逝去
l 「虜友」を探して
村山に代わってしなければならないのが、村山の3人の「虜友」を見つけること
国立公文書館の『義勇隊名簿』を閲覧し、それぞれの消息を当たっている
l 映画で描かれたシベリア抑留
村山に代わって「正史」を書くことはできないが、せめて、最下層捕虜の立場から抑留を見つめようとした村山の「生活と意見」を受けつぎたいと思う
'22年公開の映画《ラーゲリより愛を込めて》は、「シベリア抑留」を世の中の広い層に伝えたが、極端に図式化・単純化され、抑留の歴史がステレオタイプに捉えられてしまうのではとの懸念が残る。映画の主人公の長男が、公開直後に自伝的ノンフィクションを出版。映画化に感謝しながら、映画には現れない事実を知ってほしいと願って書いたという
l 名前を消せば人生がなかったことに
村山名簿がウェブに公開された'05年、個人情報保護法が全面施行
名前を消してしまったら、史料の中の個人の尊厳が失われてしまいかねない
守られなければならないプライバシーと、残されなければならない個人の記録について、人々の考え方が整理されないままに、どちらも守られない状況が生じている
沖縄戦で亡くなった全ての人の名を刻んだ「平和の礎」がある
大阪国際平和センターには、大阪空襲の9千人の死者の名簿が館内で閲覧できる
東京都は、東京大空襲の死者8万人の名簿を作成したが、非公開。'25年には市民団体が犠牲者441人の名簿を公開
集英社 ホームページ
シベリア抑留死亡者46,300人の名簿を、たった一人で作った老帰還兵。執念と鎮魂の衝撃ノンフィクション。
シベリア抑留死亡者の詳細は、長い間、人数も個人名も正確な事実が伝えられてこなかった。ようやく1990年以降、ソ連とその継承国から日本へ死亡者名簿が届いたが、その名前の欄には「ヤニトア?シガノシ?」「タモル・ダムノツ」「フニヤメ・サギヤノ」といったものも含まれていた。
これに悲しみと怒りを覚えたシベリア帰還兵・村山常雄。これが日本人の名前なのか? なぜ暗号のような名で伝えられなければならないのか? 人の死が軽く扱われていないか? ここから、正確な死亡者名簿作りが始まった。
先の見えない作業。孤独な闘いの日々。だが、無念を抱えて凍土に眠る無名の仲間を弔うために、そして生きて還ってきてしまった自分を癒すために、折れそうになる気持ちを奮い立たせた。その情熱と知恵が周囲の人々や日本政府関係者を動かし、ついに奇跡を起こした……!
【村山常雄さんプロフィール】
1926年新潟県生まれ。1945年、満洲でソ連の捕虜に。その後、4年間シベリアに抑留されたのちに帰国。中学教師を務め、定年退職後に人生の総括として名簿作りを始める。2007年、1053ページの『シベリアに逝きし人々を刻す ―ソ連抑留中死亡者名簿―』を刊行、第5回新潟出版文化賞選考委員特別賞(新井満賞)受賞。2009年、第12回日本自費出版文化賞大賞受賞。単行本『シベリアに逝きし46300名を刻む ソ連抑留死亡者名簿をつくる』を出版。2014年、88歳で逝去。
(書評)『未還の名簿 シベリア最下層捕虜・村山常雄の祈り』 青島顕〈著〉
2026年6月27日 5時00分 朝日新聞
■墓碑銘のように死者の名を刻む
アジア・太平洋戦争の終結後、ソ連は約60万人の日本軍将兵などをシベリアやモンゴルに連行、過酷な強制労働に服させた。死亡者は6万人を超えるとされる。いわゆるシベリア抑留である。
本書は、一兵士として4年間抑留された村山常雄の「戦後史」である。帰国した村山は、1996年の70歳の誕生日を機に、抑留中の死亡者の正確な名簿を作ることを決意する。日本政府は、ソ連などから提供された資料に基づき、死亡者名簿の作成を始めていたが、ロシア語で表記されたものをそのままカタカナに置き換えたため誤記が多く、重複も目立った。
村山は他のデータと照合しながら、名簿の補正作業に取り組む。1日の作業時間は10時間を超えた。名簿が完成し自費出版という形で公刊されたのは、2007年のことだ。名簿に掲載された死亡者の数は、不完全な表記のものを含めて4万6300人、このうち漢字で表記できたのは、3万2324人だった。
1926年生まれの村山は、徴兵検査を受けた最後の世代である。つまり、「最下層の二等兵捕虜」として抑留を体験した。そのことが、彼の抑留観に大きな影響を及ぼすことになる。特に、食糧の不平等な分配の結果、下層の兵士ほど死亡率が高いのではないかという問題意識を終始抱き続けたことが重要だ。「犠牲の不平等」への着目である。
村山はまた、自らの体験を手記にまとめようとして二度挫折している。深い悲しみや怒りのため、冷静に文章化することができなかったのだ。それに代わって選び取ったのが、墓碑銘のように死者の名前を黙々と刻み続ける苦行だった。彼にとって、「死者を刻むことはシベリアの傷を癒やすこと」を意味した。
著者は、関係者への粘り強い取材を積み重ねながら、村山の人生に寄り添うようにして、この本を書いた。戦争体験継承の一つのあり方を指し示す労作である。
評・吉田裕(一橋大学名誉教授・日本近現代史)
*
『未還の名簿 シベリア最下層捕虜・村山常雄の祈り』 青島顕〈著〉 集英社 2200円
*
あおしま・けん 66年生まれ。毎日新聞社に勤務。著書に『MOCT(モスト) 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』。
東京新聞
故村山常雄さんのつづった4万6300人の名前の意味はなお…没後10年の回顧展 シベリア抑留の記憶伝える
2024年5月12日 06時00分有料会員限定記事
戦後の旧ソ連によるシベリア抑留の犠牲者のうち約4万6300人の名簿を1人で作り上げた故村山常雄さんが88歳で亡くなり、11日で10年となった。節目に功績へ思いを寄せようと、名簿の基礎となった資料など約250点を集めた回顧展が、東京都千代田区の九段生涯学習館で開かれている。17日まで。ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのパレスチナ自治区ガザへの侵攻など、各地で戦火が絶えない今、歴史と教訓を振り返る場となっている。(山下葉月)
シベリア抑留 太平洋戦争終結後、旧ソ連軍は旧満州(現中国東北部)や朝鮮半島で日本兵や民間人を拘束。シベリア地域などの収容所に送り、鉄道建設や森林伐採などの強制労働を課した。抑留先は中央アジアやウクライナ、モンゴルにも及んだ。厚生労働省によると、抑留者約57万5000人のうち約5万5000人が飢えや寒さなどで死亡したとされる。1956年の日ソ国交回復まで帰国事業が続き、抑留期間が10年以上の人もいた。
◆独力でシベリア抑留で命を落とした人たちの氏名を特定
村山常雄さんがシベリア抑留死亡者名簿作成のために使用した資料や本が並ぶ会場=10日、東京都千代田区で
村山さんは1926年、新潟県糸魚川(いといがわ)市生まれ。関東軍の兵士として旧満州(現中国東北部)で終戦を迎え、旧ソ連ハバロフスクに近いムーリー地区の収容所などに約4年間、抑留された。帰国後は県内で中学校の教師を務めた。
1996年、70歳の誕生日を機にシベリア抑留者の調査を開始。旧ソ連や継承国ロシアが日本政府に引き渡した犠牲者名簿などを基に、2005年に自身のホームページで名簿を公開した。
ロシアなどから提供された名簿は片仮名で、日本人とは思えない名前も見られ、不正確な部分も多かった。村山さんは1人1人の名前を、役場などに残る名簿と対照させるなど、漢字表記の特定を進めた。
◆「捕虜の人権や人質の問題は現代にも通じる」
完成した名簿は漢字氏名のほか生年、死亡年月日などを記載。製本すると1000ページを超えた。展示では、名簿の完成に至るまでの手書きの原稿やシベリア各地の地図、遺族や抑留者グループから寄せられた資料などを集めた。
主催した市民団体「千代田・人権ネットワーク」(東京)の有光健代表は、ウクライナやガザへの侵攻に触れ「捕虜の人権や人質の問題は現代にも通じる。悲惨なことがなぜ起きたのか、一歩踏み込んで考えてほしい」と力を込める。
展示は午前11時〜午後7時。最終日のみ午後5時まで。入場無料。
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◆抑留された呉正男さん「仕事は土掘りが最も多かった」
太平洋戦争当時は日本統治下にあった台湾出身で、旧ソ連に抑留された、横浜市中区の呉正男(ご・まさお)さん(96)が10日、会場を訪れ、自身の抑留体験を語った。
1944年、16歳で旧日本陸軍に志願。爆撃機の通信士になり、当時は日本領だった朝鮮半島の飛行場で終戦を迎えた。ソ連軍に捕まり、カザフスタンの収容所で約2年間過ごした。
辺りは乾いた大地。「仕事は土掘りが最も多かった。それがダムのためだと知ったのは、つい最近だった」。働かずに済むのはマイナス25度より冷えた時だけ。「ここで死んだら、誰が親に知らせるのだろう」。不安を感じながら、日々を耐えた。空腹にも苦しんだ。1947年7月に京都・舞鶴に帰還。約60キロあった体重は、抑留生活で41キロに減っていた。
会場に並ぶさまざまな資料や、同じカザフスタンでの収容生活の絵を時折指さしながら、当時に思いをはせた。「戦争では市民が死ぬ。どこもそう。めちゃくちゃになるから、当然反対だ」と話した。
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共催した市民団体「シベリア抑留者支援・記録センター」は11日、回顧展の会場で、2年に1度の「第5回村山常雄記念シベリア抑留研究奨励賞」を、収容者と家族が交わした「俘虜(ふりょ)郵便」の研究を続ける平和祈念展示資料館(新宿区)の学芸員山口隆行さん(38)と、「捕虜体験記」(全8巻)編集代表の高橋大造氏の研究を続ける堀川優奈さん(31)の2人に贈った。
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