未完の建築 前川國男論  松隈洋   2026.8.9.

 2026.8.9. 未完の建築  前川國男論・戦後編 

 

著者 松隈洋 1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業、前川國男建築設計事務所入所。20004月京都工芸繊維大学助教授、200810月同教授、20234月から神奈川大学教授。京都工芸繊維大学名誉教授。工学博士(東京大学)。専門は近代建築史、建築設計論。主な著書に『建築の前夜 前川國男論』『ル・コルビュジエから遠く離れて』『モダニズム建築紀行』『ルイス・カーン』『近代建築を記憶する』『坂倉準三とはだれか』『建築家・坂倉準三「輝く都市」をめざして』『残すべき建築』など。「生誕100年・前川國男建築展」事務局長、「文化遺産としてのモダニズム建築―DOCOMOMO20選」展と「同100選」展のキュレーションの他に、アントニン・レーモンド、坂倉準三、シャルロット・ぺリアン、白井晟一、丹下健三、村野藤吾、谷口吉郎・谷口吉生、吉村順三、大髙正人、増田友也、山本忠司、浦辺鎮太郎、瀧光夫、鬼頭梓など、多くの建築展に携わる。DOCOMOMO Japan代表(20135-20189月)、文化庁国立近現代建築資料館運営委員(20134-20203月)。同志社大学兼任講師(20094-20123月、20184-20213月)、京都芸術大学非常勤講師(2011-)。2019年『建築の前夜 前川國男論』により日本建築学会賞(論文)受賞。本書は『建築の前夜 前川國男論』(みすず書房 2016)の続編にあたる。

 

発行日            2024.12.2. 第1刷発行

発行所            みすず書房

 

 

序章 前川國男の戦後をどうとらえるのか

明治150年の節目を迎え、日本近代とは何だったのか、広く問われ始めている。背景にあるのは、ほころびの露呈した現代に対する強い危機感

日本近代150年を振り返り、私たちが何を得て何を失ったのか、戦後的な価値や方法をどれほど持ち得たのか、を確認することが重要

成長に任せて只管建設に邁進してきた建築の戦後は正しかったのか、が問われ始めている

前川の戦後とは、過酷な戦争へと突き進む時代の極めて不自由な状況の中で、それでも原理的な問いと思考錯誤によって培われた建築思想と方法が、ようやく形となって開花し、実現する過程

閉ざされた戦時下で前川が獲得したのは、ル・コルビュジェやレーモンドと同じく、長い歴史の中で建築の在り方を考える思考方法だった

石やレンガの厚い壁で覆われた近代以前の建築が、鉄筋コンクリートの細い柱だけで支えられる虚の空間が支配的になるモダニズム建築になった時、建築の在り方が根本的に変わったのではないか、という問題意識があったが、実際にぶつかってみると、近代建築の限界に気づく。モノとして実在する建築に、いかにして時間の流れに耐えうる存在感を備えさせることが出来るのか、そのための工業化された確かな素材や信頼できる構法の地道な開発こそ、戦後の実践で前川が取り組んだ中心的課題だった

前川が目指したモダニズム建築とは、建築家の社会的使命とは? 近代建築の本道は、建築家の個性的な精神によって検証されたところの、一つの「原型」としての建築を創造することで、近代建築に求められるのは、人々の営みや都市への人口集中、大量消費社会という社会の状況への対応であり、それぞれの建築家の個性的な精神によって検証された上で提示される社会性と普遍妥当性を持った「原型」でなければならないと考えた

 

I 敗戦後の混乱の中から

l  敗戦を迎えた前川國男と所員たち

前川は敗戦の日を富士市の日産航空機部の工場で迎える

5月の東京大空襲で事務所が焼けたが、目黒の自邸は自らの決死の消火活動により延焼を食い止め、仮の事務所として使われた。鳥取分室も含め、15人の所員は全員無事で終戦

戦後の5年間に90件手がけるが、日本無尽の支店群とAIU関係がベース

東京都都市計画課長石川栄耀の「帝都復興計画案」が敗戦からわずか7か月足らずで決定

その街路計画に、「100m道路の愚」と題してすぐに抗議したのが前川。人間不在で、目の前の膨大な住宅不足に応えていない時代錯誤的なものであることを見抜いていた

l  建築家たちの「不吉な出発」

戦争遂行に協力した組織の統制組合が、そのまま戦後の進駐軍の仕事の受け皿となったという意味で「不吉な出発」

膨大な進駐軍工事に有頂天になった建築業界をしり目に、前川は意識的に拒否、たまたま木工所を多く持っていた山陰工業に関係したこともあって、木造組立住宅に没頭

l  「プレモス」という出発点に託されていたもの

木製グライダーを制作していた山陰工業の木工技術を活用した組立住宅の開発に挑む

普通の住宅6坪を建てる資材で10坪建てる方法とか、坪7千円を5千円で済ます方法などの開発こそ、日本の建築家の社会的責任であり、日本の生産者の国民的義務だと考えた

 

l  紀伊國屋書店からの再スタート

在野の前川は、戦後もほとんど無名からスタート

1947年、紀伊國屋の田辺が南平台の友人宅を訪問、その建築の豪壮・茫洋さを気に入って、500余坪の土地に新しい型の書店の設計を前川に依頼したのが両者の関係の始まり

薪炭問屋に生まれ、佐野利器設計の丸善を見て本屋開業を決意した田辺が、東京大空襲で全焼した後バラックで書店を再開。文化国家の建設の第一歩を踏み出したいという田辺の熱意の下に新本社屋の建築が計画された

紀伊國屋書店は、前川にとって、紛れもなく、プレモスと同じく、戦後の再スタートを飾る建築

 

l  作品集、『PLAN』の刊行とMID同人構想

1947年、『前川國男建築事務所作品集』刊行

1948年、論文集『PLAN―建築、工藝、都市』発刊。若い世代の研究者の論文に共通して流れる新鮮な息吹こそ、これからの建築の学問の進むべき新しい針路を啓示するとした

MID同人構想は、志を共有する自立した建築家による組織で、お互いの切磋琢磨を希求

 

II 建築の工業化を求めて

l  敗戦後の建築学会と岸田日出刀

戦時中は、平和産業としての建築は軍国主義的傾向の国家から何ら恩恵を受けず

研究資材と人員は保証され研究者は召集を免れた

戦時中の翼賛的な建築学会の改革に提言したのが村野藤吾

'47年、新しい定款に基づく建築学会の会長になったのが前川の恩師の岸田日出刀で、前川や同級生の谷口、丹下、吉田五十八など若手が加わる。建築設計競技執行規準の作成と建築学会建築作品賞の創設を通じて、自由なコンペの実現と、建築作品を表彰し、戦後を担う建築家を育成するという岸田の願いが込められた

 

l  岸田日出刀と「日本的なるもの」

1925年、前川の入学と同時に助教授に就任したのが岸田。前川にコルビュジェの著書を貸し与え、作品を高く評価

戦時中から、「建築における日本的なもの」の再認識について研究を続けた

「日本的なもの」とは、日本の風土気候や風俗習慣、建築の材料や技術に即して、建築の日本らしさをどこまでも即物的に探求する。特質として「構造即表現」「表現の簡明」「無装飾性」「明朗開放性」などを挙げ、これらが現代建築の特性と相通じると指摘

残された記録からは、「日本趣味」を基調とする折衷主義的な帝冠様式を否定し、ヨーロッパで始まった「新建築運動」とつなげようとする持続的な意志が読み取れるし、前川の建築にも、岸田の切り拓いた「日本的なるもの」と「現代建築」を結ぶ眼差しは大きな意味を持ち続ける

 

l  木造バラックの時代を乗り越えて

紀伊國屋に続いて手掛けたのが慶応病院再建。5月の東京大空襲で2/3が焼失。’48年春着工、全木造2階建てで9月には完成。空調設備もエレベーターもない制約の中、明るく清潔でのびやかな病院としての空間の質感が表されている。’50年代に始まった本格的建築は弱小の一民間事務所には回ってこなかった

 

l  テクニカル・アプローチの始まり

前川事務所は、進駐軍の仕事を請け負うことなく、曲がりなりにも近代建築の本筋を貫きながら設計活動を続けることができた

続いて日本無尽から、多くの支店群と本店の設計の依頼が来る。'48年以降木造が27店、コンクリートが24店。次々に近代建築が誕生していく

近代建築を豊かに表現するためには、近代建築を構成する豊かな技術が必要だという信念のもと、「テクニカル・アプローチ」と称して、構造技術のみならず、設備技術、建築資材にまで神経を行き届かせる

 

l  日本相互銀行本店で試みたこと

本店は'50年着工。事務所が手掛ける初の「本建築」

木造バラックの仮設ではなく、鉄筋コンクリート造による永続性のある本格的な建築を「本建築」と呼んで、それを手掛けたいという願望が建築界を覆っていた

先進諸国の近代建築と同一のスタートラインに立たせることこそが唯一最大の目標

建築単価が高い課題を克服するために、構造体の合理化と軽量化を図る

日本の建築からコンクリート壁を抹殺することを近代建築のスタートとする

外壁が消え、自由な立面、表皮としてのカーテン・ウォール(非構造壁)が生み出される

1階を内柱のない大空間とするために、巨大な10本の鉄骨鉄筋コンクリートの柱を主体とする大架構を構成。'52年度の日本建築学会作品賞を受賞するが、カーテン・ウォールから漏水。設計者のミスがわかり、前川は自腹を切って外壁を補修。この失敗を糧に、どうしたら工業化を前提とする近代建築が、一般の人々に受け入れられる存在になるのか、生涯を通して問い続け、追い求めていくことになる

 

l  テクニカル・アプローチは何を目指したのか

1次大戦後のヨーロッパの建築が、冷厳な経済の現実、社会の緊張が新建築を単なる造型的なものから、多分に経済的な、技術的なものへと変貌していったように、日本も今こそ本物を目指すべきとし、特に建築技術の脆弱さの克服を期す

1930年から5年間在籍したレーモンド事務所での実務経験が建築技術の基本を教えてくれた。「先人によって認められた材料、または構作物を正直に、純真に組み立てていく仕事の歓びをまず自分のものとしたい」

建築の構造体を単純化して軽量化を図り、そこにはめ込む建築の構成要素を着実なものとして開発すること、そのために、サブコンと呼ばれる建築部材の製造業者の技術を育てることが、近代建築を発展させていくために不可欠な作業であることを自覚。その作業がテクニカル・アプローチと名付けた方法論であり、そこからプレキャスト部材やスチール・サッシなどが生まれ、改良されていく

新しい人間性の回復をこの日本に実現するためには、土着性の回復こそ日本の近代建築の主体性の核心だった。前川の行動理念は、日本の近代建築の後進性から必然的に生まれねばならなかった土着性の喪失という宿命に、西欧文明史的な人間性の回復という視野に立って、真正面からぶつかってゆこうとする姿勢から作り出されている。テクニカル・アプローチの追求も、この一貫した理念の現れ

 

III コンペ挑戦の再開へ

l  弘前から始まる公共建築への第一歩

弘前は前川の母の故郷

弘前中央高校の創立50周年記念事業として講堂の建設が決まり、'50年前川事務所に特命で発注。鉄筋コンクリート造とするが、朝鮮戦争勃発で資材入手が困難となり、たびたび工事が中断、'54年漸く竣工

 

l  戦後のコンペをめぐる模索の中で

在欧中からコンペにはすべて応募、'43年まで13件中8件入賞、実現は1件のみ

戦後の最初は’48年の広島のカトリック聖堂。177件の応募案があったが、1等は選出されず、審査員の1人村野の設計で、'54年竣工。2等丹下、3等前川だったが、宗教家の好みと隔たりがあり過ぎたのが1等を選出しなかった裏の理由

村野は、「いつまでもコルビュジェの建物の構想から図面の仕上げの末梢に至るまで付きまとっているのには驚きもするが、またかという風に感じられ、いい加減捨象されてもいいのではないかと言ってみたくなる」と言いながら、まったく自由に任されたと言いながらも教会側が変わった教会の写真は全て否定、最後はやめる決心で持っていったものが今のような形だという。村野が聖堂に求めたものは、そこへ通う信者たちの気持ちを受け止めることのできる素材感と存在感、そして広島の信者たちにとって違和感のない日本的な雰囲気だった

その後の歴史を先取りすれば、建築に何を求めるかという視点からは、丹下の都庁舎('58)と村野の読売会館('57)を巡る『新建築』誌上における論争として、また、宗教施設における構造表現の根拠となる建築思想の違いについては、丹下がHPシェル構造の明快な造形によって指名を獲得して実現し、前川が落選した東京カテドラル聖マリア大聖堂('64)においても再び問われる。村野が聖堂で示した人の心に届く建築の質感の実現という課題は、前川にとっても、最晩年まで自分なりに考え続ける大きなテーマとなっていった

 

l  1950年代の指名コンペ連続応募の先に

コンペは、鎌倉美術館('50)、日銀金沢支店('51)、都庁舎('52)と続く

鎌倉の指名コンペは、審査委員長吉田五十八、前川、山下寿郎、坂倉、谷口、吉村の5人で、坂倉が1等となり実現。当初予算2000万に対し、坂倉だけが鉄骨、アスベスト張りで3000万、他は本格的な鉄筋コンクリートで56000

日銀の指名コンペは、審査委員長が岸田日出刀、佐藤武夫、前川、山下、松田平田、日建設計、共同の6社が参加、佐藤が1等になったが、一万田総裁が山下案を採用して混乱

都庁舎の指名コンペは、委員長が小林政一、村野以下11名が参加、最年少39歳の丹下の圧勝したが、高く評価されたような特質には乏しく、空間の伸びやかさにも欠けていた

'52年、東京国立近代美術館を設計。旧日活本社ビルの改装。設立準備委の岸田の推薦。ニューヨークの近代美術館の方法を忠実にトレース。続く前川の設計方法論の第一歩

 

l  節目となった二つの指名コンペ当選案

コンペでの敗退の間にも、近代建築を作り上げるために必要な、サッシュと外装材のプレキャスト・パネルの開発、純ラーメン()構造による建物の軽量化と自由な平面と立面の実現など、様々な試みとしてのテクニカル・アプローチの実践を続けるとともに、近代美術館では、内と外が連続的につながる流動的な空間構成を試みていた

'52年、神奈川県立図書館・音楽堂のコンペ。指名は坂倉、丹下ら5名の中で前川が1等になり、弘前に続く2つ目の公共建築を手掛ける。明快な空間構成を生んだ設計方法論の存在が傑出。建築が空間構成の芸術であることの原点に立血、日本的建築空間が持つ特性として、日本絵画に見られる「空白」(余白)がもたらす図と地の関係性に注目

'53年、岡山県庁舎のコンペ。審査委員長は岸田、村野・森ら4名に指名、村野の外遊で日建設計に変更するなか、前川が1等に。日本絵画の持つ空白にヒントを得た全体的空間構成の実現が意識的に試みられている

神奈川と岡山の2つの公共建築で実現されたのは、戦時下に「日本的なもの」の追求から獲得された空間構成の方法と、戦後のテクニカル・アプローチによって開発された構造と工業化素材による集大成ともいえる近代建築の姿。続く仕事の中でさらに深化を遂げる

 

l  国会図書館問題とコンペのジレンマ

限られた建築家への指名コンペに対し、若手から反発の声が上がり騒動に発展したのが'54年の国会図書館。審査委員長は長老の内田祥三。懸賞募集で、著作権が認められないことに吉阪・丹下らが反発、設計変更等の場合は設計者の意見を尊重するとの努力規定とすることで妥協。123点から1等になったのは、MIDグループ20名の共同設計案。全員が前川事務所と構造の横山事務所員

前川が腐心したのは、隣の議事堂との調和。議事堂の1/3の費用で、しかも社会条件や時間的な経過を超えて、何らかの繋がりを持ったものに仕上げようというのが狙い

実際の建設は2期に分け、1期工事の設計をし直すことになり、前川事務所は少額の設計料を拒否、話し合いの結果当初見積もりの2割安で妥協、漸く設計に着手。竣工は'61

7年後の’68年、第2期工事が竣工し全体の完成に漕ぎつける

'57年、建築設計競技規準協定がまとめられ、著作権は応募者に帰属と明記

'86年、前川は新館の設計にも携わり、没する直前の竣工式に出席

前川のコンペに対する考え方は、建築が技術である以上、蓄積があり経験があるというもので、現在は「設計者()」を選ぶプロポーザル方式が設計者選定の主流になっていて、前川の視点が稀薄となり、アイディアばかりが評価されるが、それが健全なのかどうか疑問

 

IV 集合住宅の実践を通して

l  ル・コルビュジエとの再会と欧米視察から

‘51年、モダニズム建築運動の先駆者たちによって’28年に結成されたCIAM(国際建築家会議)でル・コルビュジェと再会。丹下は広島の作品展示の機会を得る

前川は、近代建築の技術的な未成熟と、ヨーロッパの古い建築に蓄積された歴史の重みを痛感する一方、丹下は国連ビルなどのアメリカの戦後の近代建築に「普遍的なもの」を期待しつつ、西欧の真似ではなく日本の技術水準や素材やさらに生活水準や様式から導き出して近代建築の本道に迫り得る何かを発見していこうと感じていた

前川は、コミュニティのためのコアという会議のテーマを持ち帰り、続くプロジェクトで実践していく

 

l  前川國男の求めた建築のリアリズム

前川の最大のテーマは、コルビュジェに学んだモダニズム建築の理念と方法を日本に定着させるための前提となる、経済性と合理性を持つ単純明快な構造体を実現することであり、そこに取り付く外壁を構成する工業化材料と工法を見つけ出すこと

「自由な平面」「自由な立面(ファサード)」は西洋近代建築のいわば1枚看板、それを日本の現実の中で、普遍的な方法としての経済的な合理性を担保する形でどう実現するか

建築においても、戦後はデモクラシーが指導的なイデーであり、日本式超重構造の持つ威圧的な、冷淡な、拒絶的な表現への抵抗あるいは否定の上に立つことは当然

前川が追い求めた建築のリアリズムは、その後の建設産業の隆盛の中で次第に見えなくなっていく。’55年に丹下が「機能的なものは美しい」と言ったのが、「多くの気の弱い建築家たち」を「技術至上主義の狭い道」に迷い込ませた、として、その表現を転倒させ、「美しきもののみ機能的である」と明言し、造形表現への道筋を強力に表明したことによっても見失われていく

 

l  RC造集合住宅の試作を通して

セメント生産高の推移は、明治以来の日本の建築の近代化の流れの経過を明確に表す

'37年建築資材統制により激減した生産高が、'46年以降復調に転じ、'50年の朝鮮戦争を機に一気に急上昇。急激な建設ラッシュにより、原理的な追求を欠いたまま、欧米の形だけを真似た近代建築が次々に建設されていく

'54年、前川事務所となるMIDビルで徹底した工業化と軽量化を実践、それを機に、鉄筋コンクリート造による集合住宅の試作に取り組む

'53年、建設省から「公営住宅1953年型標準設計」の作成依頼。敗戦後の応急の住宅対策を恒久的なものとする国の施策に沿い、低所得者に対する借家の供給が目的。従来の壁構造からラーメン構造へ

この頃NHKの仕事が多い。母の兄佐藤尚武の関係からか。職員のアパ-トとして鉄筋コンクリートの集合住宅を設計

 

l  晴海高層アパートという最後のトライアル

'55年、戦後の住宅不足に取り組むべく日本住宅公団設立

'40年万博予定地に全15棟の晴海団地を建設。14棟は公団の標準設計による中層5階建てなどだが、1棟だけ日本初のエレベーター付き10階建て167戸の高層アパートとして前川に設計依頼。未経験の高層アパートで基本設計に8か月もかかり、竣工後前川は、公団のプロトタイプというのはあんな難しいものじゃないと言ったという。前川の働きかけにも拘らず、研究試作は晴海1戸にとどまり、プロトタイプモデルの提案には至らず

 

l  テラスハウスというもう一粒の種子

経済成長に伴う都市の爆発的膨張にあって、住宅地の加速度的な拡大と地価の高騰という現実を前に、都心における高密度で高層の集合住宅のケース・スタディとして試みられたのが晴海高層アパートだったが、'56年同時に前川に依頼されたのが、郊外型低層2階建てのテラスハウスのプロトタイプの設計。それに基づき、鷺ノ宮、烏山、阿佐ヶ谷の3か所に実現していく。アメリカの建築雑誌が行っていた試作住宅の実践の日本版ともいえるものだったが、住宅事情の急激な悪化により、阿佐ヶ谷を最後に中層へと重点が移される

 

V 歴史との対話と方法論の構築

l  日本建築家協会の設立をめぐって

木造主流のわが国では、棟梁・大工が地域の施主との信頼関係を維持させながら建築を作り、明治以後資本の導入による請負建設企業が組織化されると建築士の業務は企業の中に埋没し、建築士なる業務が独立して営まれることは極めて少なかった

'14年、辰野金吾ら12名の発起人によって、全国建築士会発足。建築士法制定を働きかけ

‘41年、日本建築士公用団を結成、戦争遂行に協力。戦時中は日本土木建築統制組合に

戦後は日本建築設計監理協会が建築士たちの活動の中心を担う

'50年、建築士法制定。建築士の資格制度確立。'52()日本建築設計監理協会設立。'56年日本建築家協会と改称し、会員180名を抱え新たな職能団体として動き出す

'59年、前川が会長に就任。建築家の社会的地位確立に奔走し、2年後は建築家会館の建設を構想して会社を設立、初代社長に就任。'68年本館竣工。自由の精神を持った自立した建築家像の確立という悲願が込められていた

 

l  「都市のコア」創出の実践へ向かって

'50年代後半は、前川の社会的な役割と責任が大きく拡大する時期

その起点となったのが'57年の世田谷区庁舎指名コンペ。制定された規準に則った最初のコンペが実現。参加は前川ら4名、審査は今井兼次、岸田、武藤、谷口

コミュニティの一体としての共感を呼び起こすような施設を目指す。CIAMで提示された「都市のコア」というテーマへの自分なりの解答を試みた

建築は必ずその外にも内にも空間を作り出す。大切なのは建築そのものではなく、この空間で、建築は空間を創るためにあり、空間は人間のためにある

都市の中に、「市民の生活の場」に連なる「親しみやすい空間」を作り出すために、1つの建築に開かれた中庭的な要素(コア)を内包させる、という空間構成のアイディアは、その後の前川の建築において、大きな意味を持っていく

 

l  ブルータリズムへの傾斜と方法論のゆらぎ

戦後派建築家たちの活躍と、建築ジャーナリズムの興隆、国際的な交流も隆盛となって、前川事務所の仕事も個人から、MID同人など共同体への転換に期待を表明

前のめりに突き進む時代と建築界の気負いを前に、前川は歴史的な眼差しで、1人遠くを見つめる

 

l  ブリュッセル万博で試みた「日本的なるもの」

膨大な量の仕事に追われ、さらにトロントや今後の国際公開コンペにも応募

'57年、東京文化会館の設計者に特命の随意契約で選ばれる

戦後派の所員に期待してMID同人という共同体制を構築しようとしていた

‘56年、2年後のブリュッセル万博日本館の建築と展示構成の企画・設計依頼が来る

‘36年パリ万博コンペで1等を取りながら「日本的ではない」ことを理由に拒絶され、坂倉に世界デビューを飾らせるという苦い経験を活かし、再び「日本的なもの」を試みる

日本館のテーマを「日本人の手と機械」に設定、敷地全体を中も外もない1つの庭として大きなアンブレラ―をかけることで、伝統と環境に培われた建築と自然との繋がりの美しさを、スティールとコンクリートという近代技術による大屋根の下で展開することにより、博覧会のテーマである技術文明とヒューマニズムへの1つの解答を試みる

白木造り、白壁の純日本風の建物

現地の新聞にも絶賛され、展示総合審査では116館中9位となり、金星賞受賞

合理主義建築の限界を超えたところで展開される前川建築の新たな方法論へと繋がる手掛かりを掴む

 

l  ヨーロッパ長期滞在が与えたもの

万博関連でのヨーロッパ連続出張と長期滞在を経て、改めて自らが追い求めてきた近代建築をより広い視点から見つめ直す時間が出来る

'58年、万博開会式の後、自ら運転して東京文化会館の参考とするため、ドイツのオペラハウスをいくつか回った後、’55年改修を終えたばかりのウィーン国立歌劇場を見学。16日間1200㎞を走破。翌年にも3か月にわたって欧州に滞在し、コルビュジェの竣工間もないロンシャンの礼拝堂を訪ねる。何から何まで騒がしい近代建築にソッポを向くような建築、何か建築家の虚栄心、愚かさなどを静かに嗜めるように、すっくと立つ

ヨーロッパの長期滞在を経て、前川の「感動」を誘ったものとは、長い建築の歴史が蓄積してきた文明の厚みに対する畏敬の念から気が付いた、人間にとって建築が存在することの意味への自覚ではなかったか。その視点から自らが20数年にわたって実践してきた近代建築をより広く時間の中で捉える眼差しを獲得。それは続く時代の中で、繰り返し、自らが拠って立つ原点と目指すべきテーマを照らし出してくれる視点であり続けたに違いない

 

VI 時間の中の建築を志向して

l  古都の伝統と歴史と向き合う中で

'57年、万博の仕事と並行して中に指名コンペで獲得したのが京都会館(現ロームシアター)

京都も空爆に晒され、建物疎開もあって過酷な状況下にあったし、終戦後も講和条約発効までの6年半は1万近い米兵が駐留、朝鮮戦争中は傷病兵の収容施設にまで使われた

'50年、京都国際文化都市建設法をきっかけに、観光諸施設整備の一環として観光会館建設が決まり、森田慶一を審査委員長に、村野と日建設計とともに応募。前川は、岡崎公園と周囲の景観が持つ特質に注目し、環境との調和を重視した空間構成を盛り込む

 

l  転換点としての京都会館

京都の木造文化を傷つけることなく、それとの繋がりを保ちながら、同じく時間に耐えうる造形をどうしたら生み出せるか、という新しいテーマと向き合う。過剰な造形表現を避け、地道な方法によって、京都という場所に着地させることを目指す

外壁には、これまで使ってきた工業化素材とは全く異質の、特注の陶製の沪器質ブリック(セラミックス)を使用、時間に耐える確かさを与える素材を建築に求めようとした

京都会館は、前のめりに工業化、量産化へと突き進んでいた建築の技術的な追求を相対化し、モノとしての存在感を重視する起点となる。4度目の建築学会賞と建築年鑑賞

隣接する公会堂別館(1931)は鉄筋コンクリート造の「日本趣味」の建築であり、戦前から前川は、「日本趣味建築こそ最も近世唯物的功利的自由主義的精神の発露ともいうべきで、この種建築の主導者佐野博士及びその追攝者は最も当今排撃さるべき建築家の範疇に属す」と建築を戦争へと動員した中心人物を攻撃。京都会館は、20年を費やして実現させた「日本的なもの」というテーマに対する自分なりの解答だった

建築時に京都市長は「生活道場」として活用していくと述べていたが、その熱情を持続できなかったのか、2016年の大規模な改築によって、前川が「平俗化を恐れる」と危惧したように、民間資本の導入によって商業ホールへと変貌し、公共空間としての意味を失った

 

l  打込みタイル構法の始まり

ひとかどの建築家と言われるほどのものは、方法論との格闘をしょっちゅうやっていなければならないというのが前川の持論

建築の永遠性に憧れ、語りかける壁を求め、プロテクトする外装材に着目したところで生まれたのが打ち込みタイル。コンクリート建築するのはいいが、仕上げが困るということから、仕上げをやめたのが打ち放しだったが、空気のポリューションを考えると何か仕上げが必要となってタイルの打ち込みを使ったのが京都会館

打込みタイル構法はその後の建築でも、コンクリート打ちの工程で打ち込むやり方や、タイルの焼成方法が低能率の石炭ガマから重油炊きのトンネル窯へと移行、歪みも色ムラも改善されていくが、逆に特有の味わいは失われ、焼物の本質の良さを犠牲にして能率を上げるという量産化のジレンマに遭遇しながらも、打ち放しコンクリート仕上げへの1つのアンチテーゼとして、前川建築の表情と質感を培う象徴的な方法へと発展していく

 

l  群造形の構成による「コア」創出の試み

'58年、学習院大の校舎群の設計依頼。'55年からコルビュジェが進めた国立西洋美術館計画では、本館のほかに将来構想として広場を中心とする複数棟の基本設計案が提示され、その実施設計に協力していた前川にとって、複数の建物による構成方法を自ら試みる絶好の機会となる。安部能成学長の慧眼により、組織的な計画立案が前川に持ち込まれる

‘60年竣工したのは4棟からなる校舎群、延べ床面積1.2万㎡。「学問のコア」と「学生生活のコア」を設定。「安い絹」よりは「丈夫な木綿」の方針の下、堅実で簡素な、修道院のような佇まいを実現。ピラミッド型の中央教室頂部は'08年取り壊されたが、学校の象徴として、戦前の権威の象徴のような形式化した塔より集会の場として大教室を選び、それを最も安定した架橋で作ろうとしたのがピラミッドになったもので、その造形によって周囲に余白としての広場の創出を意図している

古典建築が時代の風雪に堪えてそれぞれの時点にそれぞれの小宇宙を見事に守り続けている秘密は一体どこにあるのか。建築における不易なものを現代の建築はどうして見出していったらいいのか。古典建築における強さと、現代の技術による現代建築の脆弱さの落差を自覚した上で、「学園のコア」としてびくともしない力強い確かな造形を求めようとした

 

l  「音楽の殿堂」東京文化会館の誕生

'52年、民間の有志からの要望を東京商工会議所会頭の藤山愛一郎がまとめて都知事に意見書を提出。その段階から前川は建築家として唯一人参画、「都民生活の新しい中心」として、都市計画的考慮の必要性を強調

開都500年記念事業の一環で、「大江戸ゆかりの地域を文化的に開発するという十字軍的主張」から場所は上野公園になるが、浮浪者の密集する場所で、鉄道線路に近く遮音の問題があるなど、難題山積

 

l  唯一無二のモニュメントとして

目の前に建設中のコルビュジェの国立西洋美術館('59)や、南西側に隣接する吉田五十八の日本芸術院会館(‘58)との関係性も考慮した配置計画で、日本初の本格的なオペラ上演が可能な2327席の大ホールと、国際会議場としても利用される661席の小ホールなどを備え、延床2.1万㎡、総工費16.3億円で、'57年基本設計着手、'61年竣工

5度目の建築学会作品賞と朝日賞を受賞するが、竣工当初の評価は必ずしも芳しくない

全体的に装飾的構成で満たされているとか、近代合理主義と装飾主義の交錯、コルビュジェの亜流めいたなどの批判だったが、前川が成長株として期待していた大高正人の個性的な造形志向が前面に出た結果と言える。あくまで工業製品を使用した一品生産記念建造物で、前川にとって、それまで手掛けてきた建築とは次元が大きく異なる、特別な位置を占める唯一無二のモニュメントとして完成した建築

管理の側において、都民の生活に対する信念と確信に基づいた、しっかりした見通しを持っていてもらいたいと要望、猥雑な上野の環境を文化的に開発し、文化的な橋頭保を作るんだという覚悟を持った当事者の初志を忘れてはならないと強調

1年に1度くらいは健康診断して建物を可愛がっていくという気分が建築家になければだめだともいう。建築はできた時が作品ではなく、使ってだんだん作品に成長していく

前川の語ったように、10年刻みで適切な改修工事が施され、'99年の遠山一行館長が計画し、次の三善晃が実現させる本格的な舞台周りの大規模リニューアルでも、前川の願いと「当事者の初志」を忘れることなく、建物を守り育てようとした見事な改修がなされる

最晩年の前川は、代表作を2つと言われて、東京文化会館と埼玉県立博物館を挙げる

 

VII 都市への提案を重ねる中で

l  近代建築の進路に対する懐疑

'61年、前川はアメリカ建築家協会の名誉会員に選任

‘63年、オーギュスト・ペレー賞授与

前川が近代建築で目指したものは、「今日の技術構造」による「今日の様式」の確立という道筋であり、技術諸問題を克服しながらデザインに努力しなければならないということ

ところが、目標としていたヨーロッパの建築界は急速に分業が進み、現場の仕事はビルディング・エンジニアという職能が出来て全て引き受けてしまうため、建築家が現場の仕事を知らないどころか、建築家は特定の技術の枠内でしか仕事が出来ないとして幻滅を感じる

技術の進歩によって形が洗練されて定型に近づくという、前川が想定する近代建築の健全な発展のプロセスが、いつしか余剰のコマーシャリズムによる過度な商品化によって歪められるのではという危惧の念が生じ、技術の進歩が人々の幸福に連なるという確信が大きく揺らいだ

そんな中で前川は、「人間らしい純粋さ」を堅持するコルビュジェへの敬意の念や、彼が守ろうとする建築家としての矜持に対する信頼を抱き続ける

‘61年頃の前川には、近代建築に対する内省的な思考が芽生え始めていた。高度経済成長へと突き進む時代の喧騒の中で、たし算から引き算の建築へと、進路の転換作業が始まる

 

l  内省的な空間への志向転換

建築を作ることによってその外側に広がる公共空間を整えるという空間構成の方法を継承しつつ、彫の深い彫刻のような量感性や、静謐な佇まいから感じられる、陰影のある内省的なものへと変化

顕著に見られるのが'63年竣工の岡山美術館(現林原美術館)。岡山城内堀に面する敷地に地元の実業家林原一郎が建設を目指す

現場における職人による仕事の限界を知って、工場で製作されたPC(プレキャスト・コンクリート)を用いて現場作業を減らし、その質の向上を図る一方、工業化材料ではなく、古来から日本にある伝統的な素材への関心を持ち始める。地元の伝統的な備前焼に対する関心から、レンガやタイルなどの「焼き物」に注目

 

l  単位空間によるプランニングの方法論へ

‘63年の学習院大図書館では、正方形プランの配置によって生み出された内外の空間の広がりが、正方形をモチーフとするパターンで外部へと展開し、緑深い前庭とも相俟って、余白のある心地よい環境を作り上げた

'64年世田谷区立郷土資料館では、限られた数種のPC部材で、地上部の隅から隅まで100%の構造体を組み立てる

 

l  激動する1960年代の都市と向き合う

空前の建設ブームが建設業の近代化を強く促し、伝統的な現場生産方式から工業生産方式へ移行。同時に実力を蓄えた大手の建設会社による「設計施工一貫した建築設計体制」が主流となり、建築士の急増とも相俟って、建築家の職能の変容が見られる

前川の都市への提案の第一歩となったのが'64年竣工の紀伊國屋ビル

間口16.5m、奥行き85m1階中央部に通り抜けできる横丁のような街路を引き込み、「小さな町づくり」を目指し、技術的、構法的な蓄積をすべて注ぎ込む

 

l  弘前という根拠地での実践から

前川の建築思想と方法論を静かに深化させていった場所が弘前市

'32年のデビュー作木村産業研究所、弘前中央高校講堂を経て、弘前市庁舎(‘59)を起点に弘前での一連の公共建築の仕事がスタート

市庁舎に特徴的なのは、コンクリート打ち放しの柱と梁、そして、建物全体を巡る頑丈な水平の庇から構成された堂々とした骨太な佇まい。弘前城との対照を意識

 

l  コンペと博覧会で培われた方法論

弘前市民会館で試みられた「ランダム・ウォール」という名の、リズミカルな壁柱による新しい構造体と閉じた内省的な空間

'64年、ニューヨーク市制300年記念世界博の日本館では、日本の石積みの美しさを強調。石積みの外壁で覆われ、周りには水をたたえた堀を配し、城を再現

日本館の設計の最中に、レーチェル・カーソンの『沈黙の春』の原著を目にして衝撃を受け、現代文明の行方に対する強い疑念が去来。前川の仕事に「人間性の回復」と「それを実現するための技術的基盤」による「土着化の追求」が見られるが、それをかき消すかのように、近代建築が「驀進」を続けていた

 

VIII 文明論からの問いを抱えて

l  ル・コルビュジエの訃報を前にして

'64年の東京オリンピックでは、前川は何も手がけることはなかった。施設特別委員長の岸田は丹下を指名するが、丹下の都市論は徹底して開発主義的であり、根底には長期的成長が継続するという見通しがあり、それがどれほど破滅的に誤りだったかは明らか

首都大改造が進められ、都財政は100億を超す赤字を出して歪みだけが残る
こうした都市の虚ろな現実と人々の孤立を目撃していたからこそ、前川は同じ年3月に竣工した紀伊國屋ビルの設計にあたって、「乾き切った砂をかむような町の中に、何か一息つける場所を作りたい」と願って、建物の正面にアルコーブ状の小さな広場を作ろうとした

この頃の前川建築の方向性を窺い知ることの出来る1つがケルン市立東洋美術館。日本・朝鮮・中国の優れた美術工芸品を多数収蔵するケルン市が、第2次大戦で爆破されたままの旧東亜美術館(1913)の再建に向け、コルビュジェ門下生の前川に設計を依頼してきた。竣工は'77年。南隣の日本政府による日本文化会館と一体化、環境尊重を最大のポイントとして設計

'65年、コルビュジェが海水浴中に心臓麻痺で急死。享年77。「20世紀は金のタメに建設をしたけれど、人間のタメには何も建設しなかった」というコルビュジェの嘆きを、我々は真剣に考えなければならないということは、何よりも我々の生活環境の現実が有力に証言している

 

l  都市へと手を差し伸べる方法論の展開

'65年竣工の蛇の目ミシン本社ビル(京橋)は、前川によるテクニカル・アプローチの到達点といえる建物。'63年建築基準法改正により容積率制が導入され、31mの絶対高さ制限が撤廃されたが、村野のダイビル八重洲口('67)、日建設計のパレスサイド('66)、芦原のソニービル('66)とともに、旧制限下の最後のビルで、6度目の建築学会賞

翌年竣工の埼玉会館は大小ホールを備えた文化センターで、3つに分棟化し、展示棟などを地下に埋め込み、その屋上部分にエスプラナードと名付けた公共的な広場として開放するという前例のない方法をとる

 

l  「もうだまっていられない」と書き留めて

都市への提案を試みた前川は、建築を作り上げる素材や構法についても、焼物を用いた打ち込みタイルによって確かな手応えを得ていた。それらは、自らが目指した近代建築を、誰もが共有できる普遍性を持った「原型」として提示しようとしたものだが、広く共有されることなく、高度経済成長下の建設ラッシュの中で次第に孤立し、「特殊なケース」として受け取られた

建築の持つ本質的な美しさとか立派さとは何か、根源的な問いと向き合い、建築の果たすべき社会的な責任に言及

東京オリンピックがもたらした最大のものは、東京という都市そのものの歴史からの切断と、新たな遠近の力学による東京一極集中の本格化

昭和38年を境に非木造の占める割合が木造の割合を超え、日本は木造文化の国ではなくなる時代へと質的な構造変換を遂げた

資本の強大化、国家権力の強化にあって、一貫した楽観主義的な工業化が我々の生活を非人間化し、近代建築の使命感をひずめ、初心を曇らしている

‘66年度の建築学会賞は、前川の埼玉会館と磯崎の大分図書館に絞られ、時代の転換を見るかのように35歳の磯崎に決まる。近代建築の規範が、潜在的な固定観念になりかかっていたことへの警鐘でもあった

前川の近代建築発展への貢献に対して、この年から設けられた建築学会大賞が授与されるが、前川が受賞者の言葉として記したのは、「もうだまっていられない」と題された文章

建築家は社会環境に対して責任を負わねばならない。精神の自由を確保して、時流にも、営利にも権力にも、悪徳にも歪められることなく、刻々の厳しい決断を集積してその建築を築かねばならない職能人だった筈。人間にとって不易なもの、そして建築家において不易なもの、それを守り続ける意気地がなくて、どうして人間に生まれ建築家を志した効があるか

 

l  「何も建てない建築家」という逆説の中で

建築家の職能の確立は「今日的な建築の環境に対する抵抗でなければならない」という建築家の社会的使命に対する自覚の大切さを訴える建築家の「自由な立場」を守るために、「建築家の連帯感」の必要性を訴え続ける

一番重大な問題は、建築家がなぜこの建物を建てるか、また、何を建てるかという決定の問題で、一方的なお抱え大工的な姿勢では最早まずいという時期に来ている

'69年箱根国際観光センターの公開コンペ。運輸省主導、畑引山に国際会議場を建設。前川が審査会の会長。自然破壊が社会問題化するなかで、現代建築と自然の関りを深く探求することによって、新たな「環境」を創造すべく、応募者には「自然と人工」に関する深い思索を期待すると強調したが、応募作品390点の大半は自然破壊を厭わず、山の頂点に建築の威容を誇示するか、自然の中に自己を埋没隠蔽して「自然」との和解を図ろうとするもので、1次をパスした4人はいずれも大手建設会社所属など、独立した建築家ではなかった

もともと、前川は現場を見て、建てることそのものに否定的だったこともあって、結果発表の半年後の'71年、運輸省の政治的判断から建設計画が断念される

 

l  「自然と人工」というテーマと向き合う

箱根は前川にとって後味の悪い手痛い挫折

「自然と人工」に思いを馳せた前川の1つの答えが’71年竣工の埼玉県立博物館。自然環境に恵まれた大宮公園の一角に、県の100年記念事業として構想

目の前にある環境を「いきいきとした人間の生の実感」が持てるものへと育て上げることに建築家は仕事を集中すべきと言い、出来た建物を本当に人間の生きがいを感じさせるような使い方をしてほしいと願ったが、前川の空回りに終わる

人々が環境に拠って「生活実感」をいかに回復できるのか、そのために建築はどうあることが求められているのか、そのような問題意識を前川は抱き始めていた

毎日芸術賞を受賞するが、評価は分かれ、自然との融合の確かな答えと評価する一方で、保守化に対する失望感も現れる

 

IX 都市の巨大化と建築の危機のもとで

l  超高層ビルへの挑戦の中で考えたこと

'65年、東京海上から本社ビル建て替えの相談を受ける。建築基準法改正で、31mの高さ制限の撤廃と、丸の内地区が容積率1000%を認める第10種容積地区に指定

三菱地所に超高層を拒絶された東京海上が、知己の推薦で前川に依頼、前川は2週間で超高層のアイディアをまとめる

 

l  仕組まれた「美観論争」が露呈させたもの

'66年、地上32階、高さ130mの基本設計を完了し、確認申請を出す段階になって、都が皇居周辺を美観地区としてビル建築を規制する新条例制定案が浮上。都は建設省も巻き込んで、東海上の動きを察知して1年前から水面下で規制の話を進めていた

美観条例の推進者は、石川栄耀の下で都市計画を学んだ東京都首都整備局長の山田正男

容積制への移行を受けて合法的に計画された超高層ビルが政治的圧力によって歪められたことに対し、建築界がどのような立場と見解を社会に示すことが出来るのかが試されるとともに、高層化によって都市の公共的な空間をどのように育てて整えていくか、という合意形成の方法のあり方が本質的な課題として浮上

都の条例制定委員会設置に対し、建築界4団体は一致して条例化反対を表明。美観条例は先送りされたが、構造認定の建設大臣認定の段階になって佐藤首相が美観と国民感情を盾に反対し政治問題化。最後は三菱グループ内での意見調整に持ち込まれ、25階建て99mに申請変更し、申請から4年後の'70年認可。直後に着工、’74年竣工

建築の高層化を逆手にとって建物の地上部分を取り除き、都市の公共空間として開放する先駆的な事例を提示しようとした

美観の規制の必要性を主張し、決めるのは行政だとする山田に対し、前川は都市計画は大衆の協力なしにはできないと主張して抵抗。東京が大規模な都市計画を実施し得る機会はこれまで関東大震災と戦後復興の2度だが、区画整理事業と建築の取締行政に終始して都市の造形的創造にまで発展し得なかった。都市計画事業に建築家の創造的参加が欠落していたのは、都市計画の日本的悲劇。近代社会が連帯感を失ってバラバラになっている現状がここにも露呈。建設業界が、「皇居前100mラインという暗黙の規則」があるとなった途端にこぞって超高層ビルの相次ぐ具体化に走り、丸の内が辿ったのは、前川が望んだ「都市空間の社会化」ではなく、際限のない敷地全体の囲い込みによる超高層の林立という現実

(東海上ビルは、2025年初の木工超高層として、レンゾ・ピアノと三菱地所が'28年の竣工を目指して20110mに建て替えを決定)

 

l  日本万国博覧会の光と影の中で

'70年万博の鉄鋼館と自動車館を手掛ける。鉄鋼館は恒久施設の計画

鉄鋼館は全く新しい形の多面体音楽ホール。大原總一郎の発案で、クラレ営繕部長から独立した浦辺鎮太郎の設計。取りまとめ役の吉田秀和が前川に助言を求めたが、「高踏的で大衆性がない」として、大原の遺志を継いで前川が「音が主流のディスプレー」として、武満徹を相談相手に再設計。岩窟をイメージして、地の底から音が揺り上げてくるような独特な空間を創出。日本の基幹産業に相応しい芸術的関心のデモンストレーションの場とした

 

EXPO'70パビリオン

l  鉄鋼館の「休眠」と万博の危うさをめぐって

ブリュッセル万博でコルビュジェが設計、クセナキスの電子音楽を奏でるフィリップス館を超える本格的な実験劇場を試みたが、閉会後の鉄鋼館を寄贈された大阪府は跡利用について及び腰で、'71年設立の万博記念協会に民芸館とともに再寄贈されたが、転々とする中で再開に必要なエネルギーや人間関係は失われ、40年後の'10年、漸くEXPO'70パビリオンという名称の記念館として整備され、単なる展示施設として一般公開開始

'64年のニューヨーク世界博の日本館で前川に協力した亀倉雄策が、大評判をとった流政之による石積みの城壁に対し自らの板ペラと紙細工のチープな展示のアンバランス、限られた時間で進められた計画が孕むコスト配分の拙さがもたらした内部展示の貧困を自嘲し、「博覧会の仕事は孫子の代までお断り」と言っていた

今回も巨額な費用をかけ、名だたる著名人を大動員して、珍奇で人目を引き、話題になればそれで目的を果たしたことになるようなものができたが、亀倉が自らの手痛い経験から見抜いていたのは、万博が建築界にもたらした、一過性の話題になればそれでよしとする、パビリオンの建築が持つ必然性の希薄さと計画の危うさだった

万博の狙いは、堺屋太一が掲げたように、「儲かる万博」であり、計り知れない経済効果のみが称揚され、国民全体の福祉や利益という観点はきれいに抜け落ちている

建築史家の伊藤鄭爾が指摘したように、理念を喪失して進められた建設過程が持つ生々しい現実が、国家的イベントに便乗する形での都市開発事業の推進を至上目的とする事態を招来した。受益者の集合体だった事務局がまずやったのは場所割と予算配分

 

l  方法論への確信と見えない着地点

'72年札幌五輪の恒久施設として国が建設する真駒内スピードスケート競技場の設計依頼を受ける。施設専門委員長は、東京五輪の岸田の下で駒沢公園の全体計画に加わった高山英華。'40年の幻の東京五輪では前川も岸田の下で施設の計画案に携わったが、’64年には岸田の指名で教え子の丹下が抜擢され、前川の出番はなかった

岸田は齢の近さもあって、前川と坂倉を嫌っていたが、札幌では岸田が口を出さないというので、高山が前川にスケート場、坂倉にスキー場(大倉山)を割り振った

自然公園の中で5万人収容の条件を満たすため、傾斜地を利用してスタンドの3方は土盛りで大会後は芝生張りに改造、座席は1.7万人分で残りは立見席とする

都市環境が醜悪化しており、そのことに建築家自身が「無感動」「無神経」になっていると指摘したうえで、「多数の精神のない専門家と、趣味の悪い大衆を生み出している」と警鐘

自然と人工物としての建築との関係性について思考を深める

そんな前川に東京都美術館改築の依頼。実業家佐藤慶太郎(福岡出身の炭鉱王)の寄付、岡田信一郎の設計で’26年会館、日本初の地方自治体による公立美術館。諸般の事情から公募展中心の運営だったため、改築にあたっても美術館の性格が見えないまま設計が進むという困難に直面、同じ敷地に前より大きい建物が要求され、入口広場を含め60%を地下に

学芸員がいて、展示する作品があれば、人と物に合わせての設計がベスト

 

l  熊本県立美術館に結実したもの

‘72年、前川は現代の建築家の抱える問題点と果たすべき課題について、切実に問いかける。「現代の建築家は、自ら手を下して木材を刻み、石を刻んで建築を築き上げるかわりに、紙に書いた「設計図」を作って建設業者に発注する。「モノ」を作る手応えを自ら経験することもなく「世界を変えてしまう」工業技術の申し子と言える」「新製品新技術の情報洪水の中から取捨選択に忙殺され、しかもその最終選択に確信を持ち得ず、ついに1個の「デザイナー」に成り下がった」

‘71年、熊本県立美術館の特命設計依頼。熊本城内唯一の建物として、城の重みに堪え得るモニュメンタルな建物が期待される。数年前県庁舎の敷地候補となったが、市民の猛烈な反対で流れたいわくつきの敷地。楠と榎の大木に囲まれた樹林の中にあって、樹木は1本も切らずに、重厚な外観の近代建築を徹底的に樹林の中に隠す戦法が取られる

'76年竣工の熊本美術館は、前川の求め続けてきた「モノ」としての実在感と、流れるように展開する空間構成が結実した前川建築の到達点

従来の前川建築では、空間構成の体系=スキームを、普遍性のある原型=プロトタイプとして作り出そうとする意識が強く働き、環境に建物をどう入れていくかと考えたが、埼玉県立博物館以降は、まず環境があって、その中にどういうスペースを入れていくかを考えていく中でスキームが浮かび上がるという手法に質的転換が見られる

 

l  ポスト・モダニズムと「建築の危機」の時代に

‘75年、心を許した盟友坂倉の7回忌に合わせた追悼集の中に前川の論考がある

単なる経済的合理主義の論理を超えて「新しい価値観の論理」を見出す「直感」こそが残された活路だと言い、近代建築の合理主義の徹底がもたらす存在感の喪失に疑問を投げかける

建築が手段たらざるを得ない宿命にあるとすれば、その宿命の中でディテールをリファインさせながら、建築家としての個性的な様式=スタイルを作り出していかざるを得ない

この頃からポスト・モダニズムと呼ばれる地殻変動が始まり、黒川雅之には「老練なのか、クライアントへの媚なのか」「普遍への飛翔がない」と酷評される

 

X 最晩年の思考と方法論の到達点

l  「ドミノ」の方法論を乗り越えて

1929年に「最小限住宅」をテーマに国際建築家会議で提出したコルビュジェ案を前川が担当した経験がその後の前川の半世紀にわたる設計活動の中で思考の軸となる

鉄筋コンクリート構造によって独立した柱だけで建物を支えることができ、建築を制約していた外壁と間仕切り壁がすべて取り払われ、自由な平面、自由な立面(ファサード)が可能になり、耐震的に自立できるある単位のユニットを連結して構成するドミノ思考

空間構成の体系的方法=systemを作り上げようとした

コルビュジェが第1次大戦後の町の早急な再建のために考案して特許取得までを目指したというドミノを、四角い空間が鎖状に重なり合って相互貫入(インターロッキング)する、より高度な次元に深化させ、かつ、空間が流れるように展開する

前川は、「建築のエレメント」である空隙voidとしての空間を形作る要素に着目、それが持つスケール感と質感textureの重要性を指摘。同時に、空間の質を決定づける要素が、近代建築では石や煉瓦に代わって大量生産による工業化製品になっていることを問題視、石は古くなればなるほどよくなるのに対し、鉄は逆だしコンクリートも風化に耐えられない

長年にわたり開発に取り組んできた打ち込みタイルも、エレメントの1つであり、解決策の1つだが、洗練されて表現の画一化になっては困る

'70年代は「列島改造のための文化施設整備の時代」で、前川も10年の間に埼玉、東京、熊本に続いて、山梨(‘78)、福岡市(‘79)、国立西洋(‘79)、宮崎(‘81)7件も竣工させる

‘74年に依頼されたのが置県100周年記念事業の山梨県立美術館。ミレーの落札騒動に戸惑い乍らも、周囲に歴史的遺構もないところから、完結した自立的な建物とし、24x24m角の正方形の単位空間が重なりながら雁行するプランで構成。外壁には打ち込みタイルを発展させた新たな構法である「二重壁方式」が取られる

‘76年に依頼されたのが福岡市美術館。政令指定都市昇格を受けた構想。大濠公園の一角の広大な敷地に山梨の倍を超える建物で、常設館としては日本最大。風致地区を生かし、建物をその中に溶け込ませるよう、壁面に変化を持たせる工夫がなされた新構法を採用

 

l  建築の永遠性を求める内省的な思考へ

新自由主義の台頭で、前川の追い求めてきた近代建築の理念と方法は、’70年代以降急速に見えなくなっていた

‘74年竣工の磯崎の群馬県立近代美術館は、建築に対する全く異なる考え方で作られた理解しがたい建築と言われ、美術館が人間と芸術にとってどのような存在なのか、という視点が欠落、建築の論じ方自体がすでに建物の機能を問わない枠組みに変質していて、ポスト・モダニズムという言葉が初めて使われた

美術館の持つ意義や周囲との調和など一切無視して、自分の手法の世界にのめり込んでいく、現実の世界に対する当てこすりや皮肉としての「反建築」という建築の在り方は、前川の理解を超えていたが、独創性が評価されて建築学会賞を受ける

このような動きに対し、前川は1人建築の永遠性(ペレニテ)への思いを募らせていく

コルビュジェは、エッフェル塔という1人の技師が作り上げた鉄の塔が、市民に愛され、それなしのパリを想像出来ないほどの永遠性を感じさせる、圧倒的な存在感と新しさを発信し続ける姿に、自らの試みる「新精神」の建築の理想像を見た

前川も、コルビュジェとの会話を思い出しながら、漸く手にした打ち込みタイルや型鋼のサッシュなどの手段を用いて、永遠性へと繋がる建築の実在感を作り上げようと願った

 

l  ふたつの美術館と新・前川國男自邸

'75年、国立西洋美術館の評議員となり、新館の基本構想の検討の依頼を受ける

前川も設備と構造を分担したコルビュジェによる本館は、講和条約発効を機に仏政府から返還された松方コレクションを常設する美術館として’59年開館したが、手狭だったため北側に土地を取得して新館を建設、本館を松方の常設館に、新館を特別展用とする

世界の美術館では、自然光が再評価されつつあり、ここでも自然採光を取り入れた新しい展示空間の実現が要望され、天井に採光のためのピンホールを設け、開口部の大きさを自動調整できる制御機構が開発された。外壁にもPC版による二重壁方式を改良

本館と一体となった流れるような空間構成と、閉じつつ開く内外空間の連続性、本館とは対照的な象徴性と親密さを併せ持ち、堅固な鎧をまとった時間に耐える永遠性を獲得した美術館として誕生。前川にとって上野公園の一連の仕事の最後を締めくくるもの

'78年に設計が始まったのが宮城県立美術館。県芸術協会の陳情により動き出したプロジェクトで、貸し館業務は行わず、生涯教育の場を提供するのが目的。専任の学芸員の意向が強く反映された

'90年には佐藤忠良記念館も増設され、'19年県が移転集約を公表、取り壊しの危機に直面した際は、多くの市民や美術関係者らの努力によって移転計画は撤回。大改修を経て'26年再オープンしている

建築を構成する素材と構法についても、松嶋健壽の不二窯業(打ち込みタイル)、外川貞頼の湊建材工業(PC)、石井均の昭和鋼機(型鋼サッシュ)など、職人的な技術者との長い協働作業によって、確かな信頼のできるものへと育て上げられていた

‘74年春品川区上大崎に竣工の前川自邸。'70年夏設計に着手、’72年冬着工。記録からは、自らの掌に入る仕事だけに、制約と困難の多いプロジェクトが続く中、作ることの初心に立ち戻った自由な発想を広げて楽しもうとする喜びのようなものが伝わる

「無償の建築→それ自身が目的の建築」と「合目的の建築→手段としての建築」が1つになって、「エステティックとしての建築→環境建築」になると言い、この「環境建築」こそ、前川の追い求めた究極の建築の姿ではなかったか

 

l  弘前のその後に見る晩年の境地

軍都弘前の戦後の都市計画は、軍施設の払い下げによる再整備から始まる。前川は、市庁舎('59)の設計に始まり、市長を助けて都市再生に協力

‘69年焼失した津軽病院に代わる市立病院の設計。患者や利用者の立場を取り入れた病院の空間の在り方を、そこで過ごす人間の心と身体の側から具体的に捉えようとし、ここにも前川の人間と建築との関係性を重視しようとする姿勢が読み取れる

前川は、都市計画的、環境論的、持続的な視点から、竣工後に起こりうる問題点と、長く生き続けるための方策への希望を伝えずにはいられなかった

続いて手掛けたのが’74年竣工の市庁舎増築棟、‘76年竣工の市立博物館、'80年の緑の相談所、'83年の市斎場

 

l  未完に終わったふたつの計画案

東京海上の'74年本館竣工に続いて、新館('30)建て替えでは、設計依頼を受けないまま、三菱地所で設計が進んでいることを伝え聞き、自らの案を東京海上に提案する

'90年の池袋豊島小跡地の東京都芸術文化センター構想でも、設計者未定の段階から事務所内で検討を進める。都は芦原義信に依頼

 

l  指名コンペ当選案とMID同人への思いを遺して

'76年、株式会社前川建築設計事務所設立。社長は創立時からの社員田中誠。事務所の資産を移管して、前川亡き後もその仕事を継承していくのが目的

特命発注の時代は終わり、厳しい受注競争と無縁ではいられなくなる

'79’85年に来た指名コンペは5件。熊本県立県民文化センター('82年県立劇場として竣工)、国立音大講堂(‘83)、新潟市美術館(‘85)、石垣市民会館(‘86)、都庁舎(落選)

応募した公開コンペは、駒ケ根市文化公園施設(‘83)、全労災会館(‘85)、第二国立劇場(‘85)、湘南台文化センター('85)で、いずれも不調に終わる。事務所設立時に、「自分の主張する道は、コンペ以外にはない」と言っていた通り、すべて応募の方針は貫徹

前川は、建築家としての自立心を持つ所員によって構成される設計集団「MID同人」構想を終生持ち続け、方法論を持った建築家の育成に邁進。所員11人が自己鍛錬を通して独自性を開花させ、個性的で普遍的な方法論を追い求める力を獲得することが肝要だとする思いが伝わる。その鍛錬の場、方法論構築の場としてのコンペの重要性を説く

‘81年『一建築家の信條』発刊。自らの建築家としての歩みを反芻し、原点を見つめ直す

‘85年『前川國男=コスモスと方法』発刊。事務所創立50周年の直筆スケッチと言葉をまとめたもの。作品集をあえて持とうとせず、『現代日本建築家全集』にも欠落しているが、自らの職分に対する社会的な責任を自覚した自制的な態度が見られる

作品集の発行は、没後の’90

'83年のダンピング入札事件で、前川と会社経営陣との関係悪化が顕在化。経営陣を更迭。戦後派の所員の経営に任せる

公開コンペは、会社のスタッフがチーフとなって仕上げるが、前川がスケッチで指示することはなく、連続挑戦は’86年の都庁舎の丹下案当選をもって締め括られる

並行して進んでいたのが国会図書館新館プロジェクトで、コンペから15年後の'68年で漸く全体が完成したあと、'76年に新館計画がスタートし、10年かけて’86年竣工

竣工を見届けるかのように、竣工式出席から3週間後に永眠

日銀総裁前川春雄は弟

 

結章 前川國男の求めたもの

死の1年前のインタビューで、「現代の建築界/設計姿勢に一番欠けているのは建築に対する愛情だ」と語る。「建築の群れとしての佇まいがもっと人々の関心を引かないといけない」といい、東海上新館ビル建て替えの際の街並みへの配慮の欠如を批判

建築家は施主の要望に応えると同時に社会的な責任を持っている。専門のプロフェッションに対する倫理又は誠実が大切だが、それが非常に希薄になっているのが建築界の実情

学校でも、「職業的誠実」を身につけた教師が少なく、学生は技術を習っても「建築家はいかに生きるべき」という一番大切なことは何も教わっていない

前川は、目の前で苦しんでいる人々へと注がれたコルビュジェの建築家としての眼差しに強く惹かれて、彼のパリのアトリエに学ぼうと決心

前川は、「未完の建築」というジレンマを自覚しつつも、人々の日常生活の拠り所となる「環境建築」の実践を目指していた。「未完のプロジェクト」としての近代建築の道筋を、前川の歩みを手掛かりに再定義し、新たな生命の息吹を注ぎ込むことが必要

 

 

 

 

 

 

みすず書房 ホームページ

〈何が人の心をうつのだろう。その建築を築き上げている柱や梁の寸法釣合い、屋根の大きさや傾斜、そうした実体によって創り出された内外の空間、そうしたものの美しさが人の心をゆり動かす。そうした感動のみが人の心の支えとなる。
いつの頃からか、われわれはこうした建築の本質的な美や力を見失って、表面的な美しさ豪華さにのみ心を奪われるようになってしまった。いわば官能的なこころよさは究極人間の心を打つ永遠の力をもち得ない。飽きがくる。すたりが来る。それが現代文明の本質であるというのかもしれない。もしそうだとすれば、現代建築に人間精神の安住の地を求める事は、も早や不可能となるだろう。そして都市は永遠に精神の砂漠になってしまうだろう〉
(前川國男「設計者のことば」1963

敗戦直後の木造プレハブ住宅プレモスにはじまり、新宿の紀伊國屋書店、慶應義塾大学病院、国立国会図書館、東京文化会館、東京海上火災ビル、弘前での建物群はじめ日本各地の美術館・市民会館など数々の建築の設計を手がけてきた前川國男(1905-1986)。高度経済成長、東京オリンピック、大阪万博、ポストモダンの時代の渦中にあって、ル・コルビュジエの精神を継ぎ、根源に立ち戻って「人間にとって建築とは何か」を問いつづけた前川は、派手な建築世界から距離をおき、その姿勢や思想は晩年の建築群に刻まれていく。
「私は、今日ある意味で一番えらい建築家というのは、何も建てない建築家だと、そういう逆説の成り立つそういう時代じゃないかと時々思います」とまで語った前川にとって、建築とは何であったのか。前川自身のことばや関係者の発言、当時の資料を駆使して、その人と作品と社会と時代を鮮やかに描き切った渾身の力作である。
『建築の前夜 前川國男論』(2016)を継ぐ、前川國男の仕事の戦後編。

本書は、第79回毎日出版文化賞〈人文・社会部門〉を受賞しました。

本書の成果により、著者は第76回芸術選奨文部科学大臣賞(評論部門)を受賞

本書は、2026年日本建築学会著作賞を受賞

 

 

みすず書房 ホームページ

『建築の前夜 前川國男論』(2016

「東京に戻って、すでに一ヵ月半が経ちました。そして現在、私は、私がいない間の日本で、何が起って何が起ろうとしているのかを理解しようとし始めています。見るもの聞くものすべてが恐ろしいほど嫌気がさします。今日では、もし私たちが真剣に、取り巻くすべての現実の条件と状況を見つめるなら、私たちには、二つの選択肢しか残されていません——ニヒリズムになるか、左翼になるか」
(前川國男、ル・コルビュジエ宛書簡)

ル・コルビュジエのもとで学び、帰国後レーモンド事務所を経て独立した建築家・前川國男(1905-1986)の前半生、敗戦までの軌跡。「日本趣味を基調」という募集規定にあえて逆らった案により一躍モダニズム運動の旗手として脚光を浴びた東京帝室博物館(現・東京国立博物館)コンペ、代々木か明治神宮外苑か駒沢か——IOC総会で開催決定後も主競技場の敷地が二転三転するなか岸田日出刀のもとで練りあげた幻の「第12回オリンピック東京大会」会場計画、当初の前川案から紆余曲折を経て坂倉準三の手に委ねられ、建築部門グランプリを受賞したパリ万博日本館、前川が審査員に加わり丹下健三が一等当選を果たした日米開戦後の大東亜建設記念営造計画、そして戦時下最後のコンペとなった在盤谷日本文化会館ほか日本近代建築史上重要な設計競技やプロジェクトの実相を水面下の動きとともに浮かびあがらせ、戦時下の体制への建築家の関与や抵抗をも検証した決定版資料である。収録図版約200点。

I ル・コルビュジエと出会う
父の背中と大正デモクラシー
東京帝国大学建築学科
卒業論文にみる初心
セーヴル街のアトリエで
「遠く巴里からも」

II
 レーモンド事務所の時代
東京帝室博物館コンペ前史
「負ければ賊軍」
木村産業研究所
コンペ連続挑戦のなかで
所員としての仕事

III
 独立後の挑戦
森永キャンデーストアー銀座売店
二転三転、パリ万博日本館
オリンピック東京大会会場計画
幻のオリンピック東京大会が遺したもの
建築事務所の経営事情

IV
 日中戦争下の模索
幻の日本万博会場施設
一等当選、大連市公会堂コンペ
「パンドラの箱」忠霊塔コンペ
「日満一体」の名のもとに
上海の集合住宅を手がける

V
 ナチス・ドイツの影
報道技術研究会
四軒の木造住宅
「ナチス叢書」のころ

VI
 太平洋戦争と建築学会
「大陸」「南方」「大東亜」
大東亜建築委員会
南方建築指針による建築様式論
大東亜建設記念営造計画コンペ
佐野利器と前川國男

VII
 思索と日々
綴られた「日誌」から
建築家の本棚
論考「建築の前夜」と「覚え書」

VIII
 自邸とバケツと
自邸での試みと発見
東京市忠霊塔コンペ
在盤谷日本文化会館コンペ
太平洋戦争下の仕事について

結びにかえて

 

 

 

<書評>『未完の建築』松隈洋著

2024/12/8 08:00 産経新聞

 

『未完の建築 前川國男論・戦後編』松隈洋著(みすず書房・7480円)

「紀伊國屋ビルディング」(東京)や「岡山県庁舎」などで知られる建築家、前川國男(190586年)。設計事務所の部下でもあった建築史家が、前川の歩みをその言葉とともに振り返る。

先の大戦直後の資材不足の中で、前川は市井の住宅再建を模索した。その後も、師事したル・コルビュジエの思想を胸に「人間の建築」を体現しようとする姿は、住みよい社会の在り方をも問う。

日本を代表する建築家だが、昭和39年の東京五輪施設の設計にその名がない。「言うこと聞かねえから」。関係者が明かしたそうした内幕も、前川の矜持を物語る。

 

 

 

 

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『未完の建築――前川國男論・戦後編』(みすず書房)

 

余白、敷地の外へも、人の温かみ

前川國男(19051986年)は「近代建築のひとつの頂点」(加藤周一)と評される京都会館(1960年竣工)や「音楽の殿堂」東京文化会館(1961)等、多数の作品を設計し日本の建築文化をリードした大建築家である。本書は晩年の事務所に6年間在籍した著者が、『建築の前夜 前川國男論』に続き足跡をたどる戦後編。
前川建築が市民に愛されるのには秘密がある。それでいて没後には前川のモダニズムを冷笑するかのようなポスト・モダニズム建築が流行った経緯がある。著者の前川論が併せて1100ページを超える大部となったのは、前川建築の秘密を解き明かし、前川への批判が有効でないことを論じたからである。それでも本書が一気読み出来てしまうのは、文体に建築評論にありがちな難渋さがなく、前川と対峙(たいじ)するかのごとく作品ごとにコメントを付しているからだ。

戦後で圧巻なのが、前川が建築技術を進化させていく1970年ころまでのモダニズムの進展だ。伝統的に日本では地震のため骨組みが超重構造であり、建築単価が高くなっていた。そこで前川は高性能軽量資材を追求、鉄筋コンクリートからサッシュ、ガラス、タイルまでつぶさに検討した。漏水や汚れやすさといった欠点が生じれば修正し、炻器(せっき)質タイルを打ち込む構法に到達して、おおらかで自然な美しさを獲得した。この構法により、岡山県庁(1957)や熊本県立美術館(1976)の壁には独特な温かみがある。

一方、設計上の技法として、戦前から引き継いだ「空間構成」がある。前川は「日本的なもの」として日本画の「余白」、すなわち図と地の関係を見る。そこから自邸(1942、江戸東京たてもの園に現存)や在盤谷(ばんこく)日本文化会館(コンペ、1943)では、敷地内に引き込まれる「建築外的空間」と、敷地の外へと広がる「環境的空間」を有機的にむすびつけ、全体の空間を構成した。さらに戦後になると、人の歩みによって内外の風景が流れるように展開する「一筆書き」の技法が開発された。その到達点として実現したのが埼玉県立博物館(1971)で、その場に立って初めて体感しうるため写真には撮影しづらく、包み込まれるような空間構成となった。

評者は経済学者だが、経済には経済だけでは完結しえない矛盾が秘められていると考える。市場は効率的であっても将来の不確実性が高まると、将来不安から人口は減り労働力は不足する。競争は自然資源の乱獲を促進するし、規制が緩いと金融取引は危機に瀕する。前川が魅力的なのは、建築は目立つだけの、たんなる商品にはなりえないと洞察したからだ。

建築は一面において商品だが、住宅が環境やコミュニティから切り離され町の一部でなくなると、住民は愛着を持てなくなる。そこで前川は建築家に「人間的な温かみ」を付加する配慮を「社会的使命」として求めた。そうした使命を不要とみなすポスト・モダニズム建築は商品化に走りやすく、「嫌なものを見てしまった」と評する人もいる。

近年では公共建築でも竣工して数年もしないうちに雨漏りし、装飾の木材が腐る例が後を絶たない。役所も早々に取り壊そうとする。前川が建築に夢見た永遠性は朽ち果てようとしている。

書き手:松原 隆一郎

1956年兵庫県神戸市生まれ。東京大学工学部都市工学科卒業。同大学院経済学研究科博士課程修了。 東京大学大学院総合文化研究科教授を経て、20184月より放送大学教授、東京大学名誉教授。武道家としても知られる。著書に『ケインズとハイエク』『日本経済論』『分断された経済』『経済学の名著30

 

 

 

Wikipedia

前川 國男(まえかわ くにお、1905514 - 1986626[1])は、日本建築家

人物

ル・コルビュジエアントニン・レーモンドの元で学び、モダニズム建築の旗手として、第二次世界大戦後の日本建築界をリードした。丹下健三木村俊彦は前川事務所の出身であった。

近代建築を最初に生み出した西ヨーロッパからみれば前近代的であった日本に、真正の近代建築を根付かせるという使命を自らに課すことから、前川國男は出発した。日本と日本建築界は当時の先進地域と同水準の技術的な土台、経済的下部構造または生産の社会的諸条件を備えるべきであり、もしそれが先行あるいは並行して実現されなければ、日本の近代建築は見せかけだけの偽物にとどまるしかないであろうと、前川は考えた。

第二次世界大戦中・直後の資材統制が終わった1950年代に前川は「日本相互銀行本店」をはじめとする諸作品によって「テクニカル・アプローチ」の範を示し、日本における近代建築の技術的諸課題の克服に直接的かつ間接的に寄与した。

しかしその設計作品は、初期および中期においてさえ、均等ラーメン構造、工業化、機能主義等によって特徴付けられる(いわゆる国際様式の)単なる近代建築というよりは、「光の下で組み合わされた諸々のヴォリュームの巧緻精確で壮麗な遊戯」(ル・コルビュジエ)とみなすことができ、人間的な尺度と民俗的または土着的な温かみを兼備している。

1960年代半ば以降、前川は産業社会とそれを支える合理主義のいくつかの側面にきわめて批判的になったが、近代運動の理想の最良の部分を最後まで放棄しなかった。何よりも強調するべきことは、前川はその生涯を通し建築家の職能と職業倫理の確立のために尽力したと言い得る[2]

経歴

受賞

エピソード

  • 東京海上ビルディング本館(合併し東京海上日動ビル)は、生涯で手掛けた唯一の高層建築だが、建設時には「美観論争」が巻き起こった。これは、196131メートルの高さ制限(いわゆる百尺規制)撤廃と容積制への移行をふまえ、当初は、地上30階、高さ130メートルの超高層ビルとして構想されていたが、丸の内が美観地区に指定されていたこと、また「皇居を見下ろすとはけしからん」という反対の声が上がり、国会質問でも取り上げられるなど賛否をめぐり論争になった。最終的に地上25階、高さを99.7メートルにする設計を変更して建設することになった。
    前川自身は、超高層建築の条件として敷地に公共的なスペースを確保することを持論としており、東京海上ビルディングの建築では1100平方メートルの敷地のうち、ビルが立つ部分の面積は2100平方メートルだった(1986年に新館が建てられたが建築面積は4900平方メートルに抑えられた)。2000年代に規制緩和で、丸の内には超高層ビルが建て替え林立し、東京海上ビルディングの建物はそれらに取り囲まれる格好になった。東京海上ビルディングも再開発により、202210月から解体された(新ビルは2028年度に完成予定)。
  • 青森県弘前市には、母菊枝の生家が弘前藩士だった事もあり、前川の手がけた建築物が数多い。現在は、木村産業研究所(1932年)、弘前中央高校講堂(1954年)、弘前市役所1958年)、弘前市民会館1964年)、弘前市立病院1971年)、弘前市立博物館1976年)、弘前市緑の相談所(1980年)、弘前市斎場(1983年)が残されている。
  • 前川リポート」で知られる日本銀行総裁(第24代)の前川春雄は、実弟(三男)である。なお父は内務省勤務の土木官僚前川貫一で、國男は長男。
  • 府立一中(現・都立日比谷高)時代に、梁田貞により音楽の世界に魅せられ、また建築家アントニン・レーモンドの妻ノエミも同校で英語教師をしていた。
  • 東京帝国大学在学時に、師の岸田日出刀がヨーロッパから持ち帰ったル・コルビュジエ4冊の本に影響され、渡欧留学するきっかけとなった。なお著書『今日の装飾芸術』(構成社書房、1930年/改訳版・鹿島出版会SD選書〉、1966年)を訳している。

建築的プロムナード

ル・コルビュジエが映画、キュビスム絵画、アラブ建築等の原理を研究しながら考案した内部交通システム。建築家富永譲によれば、前川作品における建築的プロムナードは、初期および中期においては、ル・コルビュジエの強い影響下にあり、シトロアン住宅にみられるような吹き抜けを通しての垂直的運動を重視していた。しかし、ル・コルビュジエの没年でもあった1965以降、特に後期の美術館群においては、「ある種の音楽的なリズム」あるいは緩急の変化を伴う水平方向の運動が相対的に強まり、造園や書道とも関連すると考えられる「一筆書き」のプランとともに日本的空間把握に基づく独自の建築的プロムナードを完成させた。

ル・コルビュジエの散策路では、来訪者が歩みを進めるにつれ、様々なパースペクティヴ(遠近感)が継起しながら展開する。それは「絶えず変化に富み、思いがけず、ときとして驚きを与える諸々の様相」を提供し、光や薄暗がりを作り出したり、突然建物の外部に向かって開かれたパースペクティヴのなかに来訪者を投げ込んだりする、多くの仕掛けに満ちている。

後期の前川作品にも同様の特徴は残っているといえるが、富永が的確に指摘するように、「水平に雁行しながら増殖するL字型の壁」が「生活感のある細部の諸要素」とともに空間の連続性を構成しており、同時にまた、この連続性は「時間的な経過のなかで起きる現象を意図した緻密なデザイン」に貫かれている。それは単に来訪者を外部に向かわせるだけでなく、風景や季節の移ろいを取り込み、映し込むための背景、つまりそれ自身は目立つことを望まない控えめな装置として構想されているのである。このような建築的プロムナードは来訪者をせわしなく歩かせ続ける代わりに、そこここで立ち止まらせ、佇ませ、憩い寛ぎながら「自分を取り戻すこと」を可能にする。富永はそれを「壁をめぐる目的のない旅(漂泊)の空間」と呼び、建築家クリストファー・アレグザンダーの「無名の質」についての哲学的省察と関連付ける。このようにして富永は、後期の前川國男が「人生の儚さ」に対峙して建築のなかに追い求めた「永遠」が、たんに「打ち込みタイルの耐久性」のみに還元されるわけではないことを示唆している[19]

今野政憲, 大川三雄 建築家・前川國男の「エスプラナード」の形成過程に関する一考察 (PDF(『平成25年度日本大学理工学部 学術講演会論文集』)によると、エスプラナード、あるいは、いこいの広場と呼ばれる外部空間が存在する。

 

前川國男 建築作品 16

 

 

 

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