戦争と音楽 京極高鋭 古川隆久 2025.6.26.
2025.6.26. 戦争と音楽 京極高鋭(たかとし)、動員と和解の昭和史
著者 古川隆久 日本大学文理学部教授。1962年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。広島大学総合科学部専任講師、横浜市立大学国際文化学部講師、助教授等を経て、2006年より現職。主な著書に『昭和天皇』(中公新書、2011年。サントリー学芸賞受賞)など
発行日 2025.3.25. 初版発行
発行所 中央公論新社 (中公選書)
表紙袖
西洋音楽には、近代日本における動員と和解の2面がある。これを一身で体現したのが本書の主人公、京極高鋭。華族の家に生まれた京極は、後の昭和天皇の「御相手」を務め、長じては音楽ジャーナリストとなり、メニューインらと親交を深めた。戦時下には「愛国行進曲」のプロデュースを手掛け、戦後は東京オリンピックの開催に関った。この「華麗なる縁の下の力持ち」の遍歴に、近代日本が抱えた矛盾と音楽の持つ力を探る
はじめに
戦争と音楽は切っても切れない繋がりがある
国家が人々を動員する手段としての一面が音楽、なかでも洋楽にはある
一方で、言語の壁を超えて通用する記譜法を持つ西洋音楽は、国や立場の違いを超えて人々を和解させる一面もある
本書の主人公、京極高鋭(1900~74)は、平和と戦争が入り乱れた激動の昭和期に、音楽やスポーツのこうした動員と和解の2面性を一身で体現した人物の1人
洋学者で帝大総長・枢密顧問官の加藤弘之を祖父に、明治天皇の侍医・加藤照麿を父に持つという上流家庭に生まれ、幼少時は迪宮の遊び相手の1人。弟郁郎は後の古川ロッパ。学習院在学中にクラシック音楽に興味を持ち音楽部の創設に関わり、東京帝大経済卒後は新聞記者。のち京極子爵家に婿入りし、京極姓を名乗る。1930~32年欧米に滞在、有名クラシック音楽家たちと会見し、欧米のクラシック音楽事情を日本に伝える。柔道にも親しみ、日本のオリンピック運動の中心だった嘉納治五郎が創設した講道館に籍を置く
'37年日中戦争と同時に政府の広報宣伝部門(情報委員会、後の内閣情報部)に転身、日本初の官製ヒット曲「愛国行進曲」の企画・製作や宣伝に携わり、プロデューサー役を務める。その成功を契機に、様々な官制ソングの制作に関わり、'39年には貴族院議員となって、音楽界の国策協力と保護育成に関わる。戦時中に「鬼畜米英」的な発言はない
戦後は、音楽評論家としてだけでなく、クラシック音楽の有名演奏家の日本招聘に関わる
スポーツの分野では、JOC委員として関わり、'67年のユニバーシアード東京大会では音楽専門委員長を務める。戦後は音楽とスポーツを通じて和解の方面で活動
音楽における動員と和解の2面性を体現した人物としては、山田耕筰がいるが、昭和戦時期の戦争協力から敗戦直後に戦争責任を追及された
京極はプレイヤーや批評家としてではなく、側面から西洋音楽やスポーツの活動を支える。日本近現代史の中で、側面支援に関して、音楽・スポーツという2分野に関わって、国際的に活動した人物は、京極を置いてほかに見当たらない
そもそも日本の近代には大きな矛盾があった。西欧社会に対する劣等感を克服するために相手を受け入れなければならなかった。そうした前提条件の中で音楽やスポーツの2面性に直面することが何を意味するのか。京極の軌跡を辿ることで考えてみたい
第1章 昭和天皇の「御相手」
1.
洋学から洋楽へ
祖父弘之は、明治初期の知識人グループ明六社の一員。但馬国出石(いずし)藩士の子
佐久間象山に学び、ドイツ語を学んで法学・哲学を研究。元老院議官となり憲法草案に関わる。天賦人権論を唱えるが危険思想と見做され、社会進化論に転じる。'90年帝大総長と貴族院議員、男爵
父照麿は東大医学部からベルリン大に留学。宮内省侍医として、大正天皇の子どもたちを担当。妹隆子は山県有朋の養子に嫁ぎ、徳子は鉄道技師古川(古川ロッパの養子先)に嫁ぐ。梅子は九大医学部教員の榊に嫁ぐ。榊はヴァイリンの名手でドイツ留学中にヨアヒムに師事、帰国後九大にオケを創設
高鋭(幼名鋭五)が生まれたのは、弘之が男爵になった年
長兄成之は、東京帝大文学部で美学を学び、東京美術学校の教員。男爵を継ぎ、貴族院議員となり、米内内閣の拓務参与官。東京藝大音楽部長、女子美学長などを務め、’69死去。夫人の父は順天堂の佐藤達次郎
次兄四郎は、東京帝大法卒、浜尾子爵家に婿養子。検事から弁護士、探偵小説家
姉雪子は、園芸研究家の金子恭一と結婚
弟郁郎は、古川家に養子。早大中退、映画評論家から声帯模写、喜劇俳優
末弟七郎は、増田家の養子。養父義一は実業之日本社創業者。東京帝大文卒後、同大図書館司書、日本文学研究者
2.
迪宮の「御相手」となる
1905年、海軍中将川村純義の里子に出された迪宮と弟淳宮雍仁(あつのみややすひと)の遊び相手8人の1人に選ばれる。就学前なので、「御学友」ではなく「御相手」
第2章 華族は皇室の藩屏
1.
学習院という学校
初等科・中等科を通じ、平日は校内の寮で暮らし、週末と長期休暇は自宅で過ごす
学習院は、当初華族の親睦団体の華族会館の一部の扱いだったが、'84年に宮内省管轄の官立学校となり、皇族も通うようになる
中等科以上の学生活動の中心として'89年に学習院輔仁(ほじん)会が作られ、大会(文化祭に相当)、運動会などが行われる。大学は、帝大の定員未達の学部・学科に進学できるが、法学部など競争率の高い学部には進学できないため、秀才は京都帝大などに流れたり、中等科のあとは外に出た。宮内省の管轄だったため。大学進学には一定の制約があった
「華族は皇室の藩屏」との概念を学習院と結びつけたのは近衛篤麿(1863~1904)。5摂家筆頭の当主で、貴族院の公爵議員、第7代学習院長。気概と品位を持ち、それを踏まえて何をするかが決まる。「皇室の尊厳を無窮に保持し、人民の師表となって国事に尽瘁」する
篤麿の「華族は皇室の藩屏」の方針は、後任の菊池大麓院長以降も学習院に受け継がれ
第10代乃木院長の訓示も、軍隊の将校教育を連想させる厳しい内容
2.
活動写真と戦争ごっこ
家族揃って外食したり映画を見たり、機械いじりに興味を持ったり
華族の子弟は職業軍人になることが奨励され、志願の動きも窺えるが、実際になった記録はない・近眼など、身体検査で落ちた可能性も考えられる
3.
邦語部(演説部が改称)と柔道部
弁論大会で入賞――洒脱な皮肉たっぷりな明快な論は聴衆を惹きつけた
中等科3年からは柔道にも注力
第3章 クラシック音楽との出会い
1.
白樺派の影響
1922年、白樺派の影響もあってクラシック音楽に興味を持ち始める
1910年、学習院在学中の武者小路や有島武郎、柳宗悦らが、ヨーロッパの芸術文化全般に関心を持つグループとして白樺派を立ち上げ
1922年、学習院音楽部の第1回演奏会開催。アマチュアの学生オーケストラとしては、1902年のワグネルを筆頭として続く7番目。白樺派の影響が明確にわかるのが特徴
2.
学習院音楽部
第1回演奏会の報告を鋭五が書いている。音楽歴の出発点。高等科3年で最終学年
近衛秀麿が指導し、指揮。鋭五はビオラとバリトン。オケの17名中7名が外部の援助者
演奏会を契機に、鋭五のリーダーシップで'24年正式に学習院音楽部誕生
演奏会では、バリトン歌手としても登場、本格的な芸術歌曲を歌う
3.
ミッシャ・エルマン、聞きのがすまじ
1921年、ヴァイオリニストのエルマンが来朝。初の一流音楽家の演奏に心躍る。さらにアルトのシュ-マンハインクを聴き、鋭五たちにオーケストラ創設の機運が高まる
ビオラの師は不明だが、バリトンの師は東京音楽学校卒のバリトン柴田知常
4.
大学生活
東京帝大経済に進学、'26年卒。1週間だけ京大に聴講に行き、西田幾多郎の哲学、河上肇の経済原論、瀧川幸辰の刑法などの講義を聴く
第4章 音楽ジャーナリストになる
1.
新聞記者になってはみたが・・・・・
'26年、東京日日新聞(後の毎日)入社、政治部配属。華族記者は珍しいが、動機は不詳
1年半後には退職。「蚤の歌」を十八番に、音楽活動をしながら、弟郁郎の映画評論に刺激を受ける。弟に声帯模写の手ほどきをしたのは鋭五だとの自身の回想があるが確証はない
2.
欧米音楽旅行
'30年、音楽関係の仕事に就くべく欧米の著名な音楽家へのインタビューを求めて旅立つ
'32~37年、読売の貴族院担当の政治記者となる
伝手を辿って事前に手配した上で、レコードでは有名だがまだ来日していない巨匠に面会、その模様を雑誌などに投稿。音楽ジャーナリストを目指した外遊だったことがわかる
寄稿は、創刊当時から同人同様な貢献をした『ディスク』に限定
3.
メニューインもフルトヴェングラーも――会見の様子
記事は、欧州の自動車旅行に始まり、唱法に重点を置いた歌手の演奏評により、レコードでは再現しきれない魅力を、専門知識を活かして伝える
注目すべきは、鋭五ならではのインタビュー記事。欧米楽壇最高の人気演奏家としてメニューイン(16~17歳)を挙げる。貴志康一の尽力でフルトヴェングラーにも面会、レコード・トーキー・ラジオの音楽を音が悪いと否定する大指揮者に対し、日本人は生の演奏に接することは不可能なので是非盛んにレコードに入れて欲しいと希望する
ヘンリー・ウッドは、鋭五がロンドンの夏の名物だったプロムナード・コンサートの創始者として関心を持っており、音楽を大衆に近づけた功績を高く評価して紹介
リヒャルト・シュトラウスとの面談は、全墺国立劇場総監督のシュナイダーハーンの紹介で実現。シュトラウスの楽壇での地位を日本の政界における西園寺に準え、「無垢の巨人」と印象を伝える。シュトラウスが鋭五に挙げた現代の名指揮者は、ブッシュ・クナッパーツブッシュ・クラウス・ポーラック・ブレッヒ・クライバーの6人
欧米でこれだけ集中的に取材する日本人ジャーナリストはその後も現れず、鋭五は大旅行の成果を発表する機会を戦後に至るまで持ち続ける
第5章 著作権問題、結婚
1.
洋楽の普及発達のために
1933年、プラーゲ問題――1886年国際的に著作権を定めたベルヌ条約がヨーロッパ10か国で締結。日本も3年後に加盟。日本でドイツ語教師をしていたプラーゲがヨーロッパの著作権管理団体の委託を受け、日本での演奏に対し、日本放送協会に著作権料を請求した事件で、大幅に値上げを要求したため、近代音楽の演奏や放送が出来なくなる
著作権法の改正で、日本にも著作権管理団体が創設され、軍楽隊を含む公教育、慈善事業やレコードコンサートなどは例外とすることで問題は解決
2.
結婚と襲爵
'34年、子爵京極高頼の娘典子と結婚、3年後爵位を継ぎ、その3年後京極高鋭と改名
京極家は、丹後峰山藩士。室町幕府の三管四職の四職、徳川の外様、維新時は4家に分家
高頼も多度津京極からの養子、会社役員で能楽に凝り、お洒落で大らか、結婚相手も平民
典子は唯一の跡取り、15歳の年の差。媒酌は民法の権威穂積重遠男爵
第6章 「愛国行進曲」のプロデューサー
1.
歌詞と曲の懸賞募集
'37年、内閣の情報委員会事務嘱託。襲爵により、ヒラの新聞記者というわけにはいかなかった。政府の週刊広報誌『週報』の編集を担当。首相は近衛、委員長は風見章
歌詞と曲を公募して国民歌を作ろうとしたのが鋭五。大正天皇の即位大礼の際文部省が「大礼奉祝唱歌」を公募した例はあるが、それは小学生を対象にしたもので、全国民を対象とするのは初の試み。ドイツの黒シャツの歌やイタリアの「ジョビネツァ」など、「力強い愛国歌」で国威発揚しているのに刺激された。鋭五の発案に陸軍が飛びつく
2.
「国民歌」の決定まで
公募曲の名称が「愛国行進曲」と明示され、新聞に募集公告が載る。西条八十作詞、中山晋平作曲の同名の曲があったが、鋭五は認識していなかったようだ
事例として言及されたのは、イギリスの「ルール・ブリタニア」「ブリティッシュ・グレナディーアス」、フランスの「マルセイーズ」「パルタンプール、ラシリエ」、ドイツの「ラインの守護」「ナチスの歌」、イタリアの「ファシストの歌」、アメリカの「ヘイル・コロムビア」「ジョオジア越」。国家のイデオロギーに拘らず、国民としての意識を持ってもらう手段の1つとして歌や音楽を用いているところに注目し、洋楽の普及を国家のために活用
歌詞の応募は5.7万首余り。審査員は、乗杉嘉寿(東京音楽学校長)、片岡直道(東京中央放送局長)、穂積重遠、河合酔茗(詩人)、佐々木信綱(歌人)、北原白秋、島崎藤村など
次いで曲を募集。楽壇総動員で、応募は1万を超える。審査員は岡田國一(陸軍軍楽隊長)、内藤清五(海軍軍楽隊長)、橋本国彦(東京音楽学校教授)、堀内敬三、信時潔、山田耕筰、小松耕輔(音楽教育者)、近衛秀麿
作詞は鳥取の印刷業者、作曲は瀬戸口藤吉(元海軍軍楽隊長)
3.
普及徹底の方針と大ヒット
著作権を開放して普及第一に、あらゆるメディア、イベントを考える
レコードの売上は100万枚を超える。それまでの記録は「露営の歌」の60万枚
4.
「愛馬進軍歌」
翌38年には「陸軍省の嘱託」となって、「愛馬進軍歌」の撰定に従事。陸軍省と農林省の馬政局が懸賞募集
「愛国行進曲」のヒットを契機に、公的機関が制定する歌(公的歌謡)が多数生み出される
鋭五は、「国策音楽」プロデューサーとして、この後もこの手の歌の公募に関わる
第7章 貴族院議員になる
1.
子爵議員に当選する方法
子爵の中で貴族院議員になるのは5人に1人、互選で決まる。任期7年。再選可能なので、辞職や死去しない限り、新人が入り込む隙はない
'39年の子爵議員の定数は66人。尚友会という同窓会的な組織が実質仕切って候補者を決め、新聞発表する。鋭五の場合は、政界における文化芸術界の代表としての役割が期待され、著作権問題での提言などもあり、「皇室の藩屏」として相応しい役割と考えた
2.
「紀元は2600年」――「軍歌撰定普及業」者として
「出征兵士を送る歌」「紀元2600年」「大政翼賛の歌」
'40年、京極高鋭に改名
電通の機関誌に、「国策歌謡(京極の造語)の制作と宣伝普及の仕方」を寄稿
3.
音楽新体制
'41年、日本音楽文化協会(音文)設立。様々な分野で進んだ新体制運動に呼応する形で、音楽界が一致団結して国家に尽くすことを目的に、音楽関係の各種団体を統合。会長は徳川義親、副会長に山田耕筰、京極も役員に就任
第8章 戦時下の音楽はどうあるべきか
1.
南方音楽政策
太平洋戦争期の京極の活動は、音文での活動と、貴族院議員として政府に音楽関係の質問を行ったこと。音文の戦時対策特別委員となり、「決戦下の士気鼓舞に必要な音楽案件の協議即決の実を上げる」ための活動に邁進
京極は太平洋戦争にあたり、音楽関係者は音楽により国家に奉公すべきという考えで、’43年には、「音楽というものが今日ほど重要視され、重大な文化問題として厳しく批判され、かつ期待される時代はない」との時代認識を明示。「音楽は国家民族のためにのみ存在しなければならない」という歴史観・世界観は、当時知識人たちの一部が試みていた、西洋発の近代文明に日本はどう向き合うべきかを問題提起した「近代の超克」論争に辿り着く
一連の戦争において日本に正当性があるという前提の下で、さらに西洋を否定せずに、新たな日本らしさを生み出し、ひいては日本の正当性を内外に認識させることが、日本の音楽界に課せられた使命であるというのが当時の京極の認識だった
貴族院の質疑でも、南方への文化宣伝工作について、音楽を重視すべきと主張
2.
厚生音楽運動
情報局委員として、音文の地方への巡回演奏家にも同行
3.
被災と敗戦
'45年5月の空襲では番町で被災。九死に一生を得、峰山に疎開
京極は、満洲事変以降の戦争について、印刷物や公共の場で反対の意思を示したことはなく、戦争への国民動員に積極的に協力。人脈的にも近衛に連なり、日本が新しい世界を切り開く可能性を展望する側に近い立場だが、神懸かり的な発言をしたことはない
戦争以前は、クラシック音楽を中心とした西洋音楽によって、日本と欧米世界を繋ぐ、いわば和解の役割を果たしていたが、日中戦勃発以降は、西洋音楽を国民動員に役立てることで西洋音楽の普及を図る方向に転換。大局的には和解から動員に転じたのは間違いないし、一連の対外戦争が内外にもたらした悲惨な結果に対して責任がないとは言えない
第9章 戦後の音楽界で
1.
戦争責任と戦後改革
'45年、音文に代わる日本音楽連盟結成に関与するが、山田に対する戦争責任追及の声が山根銀二から上がり、山田が開き直った結果、敗戦直後に音楽界における戦争責任について十分議論されずに終わり、翌年連盟は発足、理事長の有坂愛彦以下、指導層は一新
近衛秀麿は、間もなく指揮活動を開始、自前のオーケストラを作ったりしたが、資金難や人間関係で挫折。京極との親交は続いた
戦後も、貴族院廃止まで在職、文化界への資材配給に特別の配慮を要望している
国家の保護なしでは芸術文化の発展は難しいとして、後の文化庁設置に繋がる議論を展開したが、この段階では内閣情報局の統制主義的、非民主的なイメージ故に顧みられない
公職追放に関しては、’44.11.~46.5.のNHK理事の経歴が問題となり得るが、対象から外れ、'47年以降の文化関係の公職追放でも、音楽家や美術家の該当者はいなかった
公職適格認定を受け、参議院に立候補する選択肢もあったが、立候補しなかったことにより、戦中の自分の行動について、京極なりに一定の責任を取った可能性がある
2.
華族の身分を失って
無職となって、音楽ジャーナリスト業を本格的に再開
'50年、日本光頭クラブ結成メンバーに。ナンバーワンは山田耕筰
'51~64年、松平康昌(元宗秩寮総裁、式部頭)が学長の相模女子大の社会科教授に。プロの音楽家やバレエ団の公演を年1回行っているが、京極の人脈によるものだろう
3.
メニューイン、シゲティらの招聘
‘51年のメニューイン来日公演に関わる。社会現象としての「メニューイン協奏曲」の一端を担う
‘53年のシゲティ、翌年のバックハウスの来日にも関与するが、そのあたりを最後に、京極の音楽ジャーナリストとして最大の資産だった戦前の情報は、もはや価値を失って、主要音楽雑誌における活躍も終わる
この後、京極は国際的なスポーツの世界に活躍の場を見出す
第10章 スポーツと音楽、そして大団円
1.
国際スポーツ大会への関与
'36年、第1回全日本重量挙選手権開催、重量挙連盟結成。会長の三島通陽との学習院繋がりもあって京極も理事に就任、のち副会長。戦後再建された連盟でも死去まで在任
‘60年のローマオリンピックでは、重量挙連盟からの視察派遣と同時に日本オリンピック委員会からは式典音楽の模様の視察という使命を帯びて帯同。国際ウェイトリフティング連盟の副会長に選出され、4年務める
帰国直後に日本オリンピック委員会の委員に選出。’64年東京オリンピックでの式典運営協議会の音楽部会で中心的役割を果たしたことは間違いない
'67年のユニバーシアード東京大会の音楽面でも音楽専門委員長として貢献。演奏した新作音楽はすべて日本人作曲家によるもので、日本製の質の高い洋楽を存分に披露
2.
晩年
'68年には公職から退任、引退生活に入る。東京五輪終了後は、昭和天皇の幼少期の語り部という側面が大きくなる
'65年、西尾末広の民社党支持の評論家として雑誌に紹介されたことがあるが、民社党は議会政治を維持しつつ、社会主義的な政策を漸進的に進めるという方向性の政党であり、京極は改革志向の華族集団である十一会に近く、議会制度は尊重しつつ、国家による芸術文化への援助を主張していたことから、近い立場であることは確か
'74年死去。訃報記事の肩書は、音楽評論家と音響機器ティアックの元監査役、「故古川緑波氏の実兄」とある。日本刀剣保存会顧問であり、その機関誌の追悼記事が最晩年の様子を伝える。温顔、律儀で細かい人柄が偲ばれ、大団円の幕切れ
おわりに
京極がまず目指したものは、欧米のクラシック音楽愛好の気持ちを踏まえ、日本国家の発展には洋楽の普及が必要という観点から「皇室の藩屏」としての自らの役割を考えた
具体的には、クラシック音楽の名曲、名演奏を普及させることで文化の程度を上げること、もう1つは「愛国行進曲」のようにクラシック音楽への入口として、洋楽の歌を歌うことを普及させることで元気な国民を生み出し、公募によって作曲する人を増やすことで洋楽文化の普及を図ることも視野にあった。日本の伝統音楽には国際的な普遍性が十分ではないという前提から、欧米のクラシック音楽を音楽文化の1つの標準と見做し、日本に普及させれば欧米と対等に付き合い、相互理解を深め、「和解」に繋がるという信念を持った
戦争の長期化とともに、音楽を取り巻く状況は厳しくなり、音楽が不要不急の文化と見做され兼ねない状況下、音楽関係者にとっては国内の音楽文化を守ることが最優先となる
太平洋戦初期には、音楽界の国家貢献を示すことで、国家の保護を得ようとする動きが目立つ中、京極は東南アジアとの音楽文化交流に「和解」の意味を見出し、議会では洋楽擁護の論陣を張るが、戦局悪化とともに、音楽が持つ「和解」に資する側面はほぼなくなり、「動員」を超えて敵愾心を煽る方向に傾く
敗戦により、音楽が不要不急とされることはなくなったが、国家の保護も当面は期待できず、京極が新聞社による有名クラシック音楽家の来日イベントに関与したのは、民間の力を借りて彼なりに音楽文化の向上を目指したものといえる
教育の場でもクラシック音楽鑑賞の場を増やしたり、オリンピックやユニバーシアードなどのスポーツの場での音楽活用に関わることで、国際交流や、日本からの洋楽文化の発信を進める。戦争の軛から逃れ、京極が音楽を通して目指すものは再び「和解」の方向に回帰
日中戦争の勃発と拡大の際は行政府の1職員に過ぎず、国家の意思決定を直接左右する立場になかったので、京極の目指すところは戦争によって阻まれたと言える
京極の一生は、祖父や父親の事績も考えれば、西洋文化を吸収することで日本を一流の国にすることであり、それを華族という立場を利用して得意の音楽の分野で進め、さらに日本からの西洋文化の発信まで見通した人生だったと言える。それが、京極にとっての「華族は皇室の藩屏」の意味だった
幼少時の天皇との関係を生涯誇りとしていたのは、昭和天皇擁護論からも確か
近衛文麿とは、日本と欧米の対等な関係の樹立を目指し、華族や貴族院の改革、日本の文化の向上という点で近い立場にあった
兄弟の中では、古川ロッパと性格も容姿も似ていて親しくしていたが、ロッパ替えの件に対する劣等感を常に抱いて波乱の多い人生を送り、50代後半で人生を終えたのに対し、京極は穏やかな晩年を迎えている。ロッパはあと先を考えずに状況に飛び込んでゆき、その後で反省する傾向があったのに対し、京極は周りを冷静に見る余裕があった。常に主役であり続けようとしたロッパに対し、サポート役、縁の下の力持ちに徹したため、周囲との軋轢は恐らく皆無で、状況への対応の仕方が2人の人生行路を分けたと言える
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戦争と音楽――京極高鋭、動員と和解の昭和史
古川隆久 著
近代日本において、西洋音楽は「動員」と「和解」の2つの役割を担った。これを一身に体現したのが本書の主人公、京極高鋭である。京極は、戦前は国民精神総動員の方針のもとに作られた「愛国行進曲」のプロデュースを手がけ、戦後は東京オリンピックの開催に大きく関わった。祖父は初代東京帝国大学総長・枢密顧問官の加藤弘之、父は昭和天皇の侍医という名家。本人は幼少時、のちの昭和天皇の遊び相手でもあった。弟は喜劇役者古川ロッパである。白樺派の影響を受けて長じた「華麗なる縁の下の力持ち」京極の人生を通して、昭和史における動員と和解、日本が引き受けざるを得なかった矛盾を描く。
紀伊国屋書店
内容説明
西洋音楽には、近代日本における動員と和解の二面がある。これを一身で体現したのが本書の主人公、京極高鋭である。華族の家に生まれた京極は、のちの昭和天皇の「御相手」を務め、長じては音楽ジャーナリストとなり、メニューインらと親交を深めた。戦時下には「愛国行進曲」のプロデュースを手がけ、戦後は東京オリンピックの開催に関わった。この「華麗なる縁の下の力持ち」の遍歴に、近代日本が抱えた矛盾と音楽の持つ力を探る。
書評『戦争と音楽』古川隆久著
クラシック普及 華族の昭和
2025年5月10日 2:00 [会員限定記事] 日本経済新聞
華族きっての音楽マニア。学習院でオーケストラを立ち上げる。バリトンで歌いもする。外遊し、フルトヴェングラー、R.シュトラウスなど伝説的な音楽家のインタビューを取る。著作権整備にも貢献する。弟は喜劇役者の古川ロッパである。音楽のためなればこそ、富も名誉も人脈も、本人の意欲も能力もある。しかし彼の脂がのり切ったそのとき、昭和戦時期が幕を開けて待っていた。
本書は昭和期の音楽界等で国際的に活躍した元華族、京極高鋭(きょうごくたかとし)の初の伝記である。昭和天皇と一つ違いで、幼少期から遊び相手を務めた。避暑避寒にも泊まりがけで同行し、気を使い過ぎて熱を出して寝込んだ。そこまで尽くしたはずなのに、天皇は戦後彼のことを覚えていなかった。切ない。
しかし彼は華族として「皇室の藩屏(はんぺい)」たれと教育されていた。学習院でクラシックに夢中になると、西洋音楽の普及こそ国家繁栄のための自らの使命と自覚する。音楽界に居場所を作ろうと音楽記者となり、33歳で結婚。内閣の情報委員会という広報機関に転職した。
直後に始まったのが、日中戦争だった。思いついたのが、国民を盛り上げるための第二の国歌の制作で、採られた方法はなんと公募。詞・曲ともに一等には破格の賞金が呈され、豪華審査員により「愛国行進曲」が選定された。猛烈な普及策も奏功して津々浦々で誰彼構わず歌われ、成功体験を得た政府は次々に資金投下して曲を作り始める。京極のプロデュースにより、弾圧とは真逆の、音楽が空前絶後の規模と勢いで社会の役に立ててしまう空間が広がった。
戦局が悪化すると、貴族院議員として音楽の有用性を主張し続けた。戦後はスポーツ振興、大学教育にも携わり、1974年没。政治と凭(もた)れあい、和解と動員の間を行きつ戻りつした京極の歩みはそのまま昭和前半期の音楽界に重なる。
京極は演奏者でも批評家でもない。記者や政治家として片づけるにも持て余す。こうした収まりの悪さが伝記化を妨げていた。本書は京極を「華麗なる縁の下の力持ち」と控えめに評す。しかしそれでいて彼の戦争責任を等閑に付すことはない。社会の役に立つことには責任を伴う。日本学術会議任命拒否問題にも奔走した著者の筆致が現代の学問芸術にも響く。
《評》宮崎公立大学講師 金子 龍司
Wikipedia
京極 高鋭(きょうごく たかとし、明治33年(1900年)12月15日 - 昭和49年(1974年)12月7日[1])は、昭和時代の華族、音楽評論家。男爵加藤照麿(旧出石藩士)の五男。兄に加藤成之、浜尾四郎。弟に古川緑波、増田七郎がいる。京極子爵家(旧峰山藩主家)当主京極高頼の婿養子となる。
経歴
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東京出身。初名は加藤鋭五[1]。幼少の頃は迪宮(昭和天皇)のお相手を務めた[2]。学習院に入学し、部活動では吹奏楽、また声楽の勉強に熱中した。東京帝国大学経済学部を卒業する。大正15年(1926年)に東京日日新聞の記者となり、昭和7年(1932年)に読売新聞へ移籍する。また、昭和6年(1931年)頃より音楽ジャーナリストして音楽雑誌に執筆を行う。昭和9年(1934年)、京極子爵家の典子の夫として婿養子になる。昭和12年(1937年)、読売新聞を退職して内閣情報部嘱託になり、「愛国行進曲」の選定に携わった。昭和14年(1939年)7月10日に貴族院議員となる[3](1947年5月2日まで、研究会所属[1])。昭和15年(1940年)5月4日に高鋭と改名した[4]。貴族院議員時代には情報局委員、日本音楽文化協会顧問ならびに国際音楽専門委員を務めた。戦後は外務省調査委員、NHK理事、相模女子大学教授などを歴任した。ほかにも日本オリンピック委員会委員も務めた。昭和49年(1974年)に73歳で没した。実子はなく、豊岡京極家から高幸(京極高光の五男)を養子としている。墓所は京丹後市常立寺。
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