青嵐の旅人  天童荒太  2025.6.19.

 2025.6.19.  青嵐の旅人

上巻 それぞれの動乱

下巻 うつろう朝敵

 

著者 天童荒太

Wikipedia

天童 荒太 196058松山市生まれ。小説家推理作家。初期は本名の栗田 教行(くりた のりゆき)名義で活動した。代表作に『家族狩り』『永遠の仔』『悼む人』など。

道後温泉の近くで生まれ育つ[2] 愛媛県立松山北高等学校明治大学文学部演劇学科卒業。

童話・映画脚本などさまざまな賞に応募し、本名で投稿した「白の家族」が野性時代新人文学賞を受賞。『ZIPANG』『アジアンビート』など映画の脚本などを手がけた後に、天童荒太名義で小説を書く。ペンネームを変えたのは、「白の家族」で一度新人賞を取った後にミステリーの賞に応募することになり、「(同じ名義で)落ちたらみっともない」と考えたためで、当初はあとで本名に戻すつもりだった。「荒太」の由来は小説の登場人物につけようと考えていた名だが、それには平凡な名字が合わず、また父親が姓名判断の字画にこだわるタイプで、組み合わせ上良い字画の名字が「天童」しかなかったためこの名となった。自分の本来の性格とはかけ離れたイメージの氏名と思いつつも、担当者の勧めや受賞で大々的に発表されたなどもあり以後そのままこの名前で活動を続ける。のちに、本名からペンネームに移行することで書けなかったことが書けるようになったという実感があり、変えて「本当によかった」と述懐している。[3]

代表作にベストセラーとなり、よみうりテレビ制作で連続ドラマ化もされた『永遠の仔』など。『包帯クラブ』は20079月に映画公開(堤幸彦監督)、また、『孤独の歌声』は、200711月にWOWOWドラマW枠にて内山理名主演で映像化された。

20091月、『悼む人』によって第140直木賞を受賞。

寡作で知られる。また初期作品は文庫化の際に大幅に改稿しており(『永遠の仔』以降は少々の改稿に留めている)、山本周五郎賞を受賞した『家族狩り』は物語の骨組みや結論はそのままだが、登場人物などの設定や性格、途中発生する事件の描写などが大幅に変更されており、まったく別の作品に仕上がっている(このことについては、大ベストセラーとなった『永遠の仔』が強く影響しているらしい)。

インターネットには触れず、携帯電話も所有していないという[4]

受賞・候補歴

太字が受賞したもの

 

発行日           2024.9.20. 印刷      10.1. 発行

発行所           毎日新聞出版

 

初出は、毎日新聞2023.1.21.2024.5.12. 本件はフィクション

 

旅人の 青嵐の中を 下りけり          正岡子規

 

登場人物

l  さぎのや――ヒスイ(さぎのやの娘、高野長英の娘とも)、救吉(ヒスイの弟)、勇姿郎(さぎのや長男、瓦版屋)、天莉(同長女、キリシタン)、希那(同女将)

l  伊予松山藩――青海辰之進(天文測量方)、青海虎之助(辰之進の兄)、曾我部惣一郎(辰之進の従兄弟で竹馬の友、長曾我部の末裔)、大原観山(有恒、藩士、明教館教授)、鷹林雄吉(藩内屈指の秀才)、内藤助之進(辰之助の友人)

l  明王院――院主(修験道場の長、道後の霊泉の管理者)、包源(院主の一番弟子)

l  土佐――坂本龍馬、沢村惣之丞(勤王党)、那須俊平

l  新選組――原田左之助(伊予松山脱藩)、沖田総司、山南敬助、土方歳三

 

 

1862年、古くから修験道の修行の場だった石鎚山を、修験者の装束の14歳のヒスイが登る途中、腹痛に倒れた龍馬を救う

ヒスイの祖母は大原観山の幼馴染み。観山の娘が松山藩士正岡常尚に嫁ぎ、生れたのが恒規、幼名升(のぼる)、後の子規

龍馬は、沢村、那須と共に脱藩して長州に向かう途中。追手から逃れて裏遍路道を案内

救吉は、遍路道に捨てられていたのを、明王院の修験者に拾われ、懇意の遍路宿さぎのやでヒスイの弟として養育された

 

室町幕府の頃、伊予国守護河野通盛が道後に湯築城を築くが、秀吉の頃小早川隆景に降伏、福島正則に移り、1587年廃城。関が原で東軍についた伊予の正木城城主加藤嘉明は石高が加増となり、勝山の山頂に新たに城を築く許可を得、伊予松山城とする

 

道後温泉は、江戸時代初期の1638年、藩主松平定行が温泉施設の整備充実を命じ、3つの湯に分け、一之湯は武士・僧侶用、二之湯は婦人用、三之湯は一般男子用とし、皆無料。十五銭湯を武士の妻用に、十銭湯はお遍路や身分の低い人用、無料の養生湯も設置

定行は、於大の方が生んだ家康の異父弟久松定勝の次男。家光の時代に、四国初の家康の血族の藩主として、周囲の外様に睨みをきかせる意図で伊予藩主となる

 

内藤助之進は、同年第一の秀才だが武道は弱く、後に素行と改め、明治の世には文部省で近代教育の確立に携わる。俳号は鳴雪。子規を支援して弟子入り

伊予松山藩の当代(13)藩主松平勝成は、高松藩松平に生まれ、伊予松山松平家の養子となって、’1856年家督を相続。津藩主藤堂家に生まれた定昭を世継ぎとして養子に迎え、内藤はその小姓に取り立てられる

 

1次長州征伐では、出兵はしりが戦う前に長州が恭順の意を表して、戦わずして勝つ

2次長州征伐は、長州の島に上陸するが、反撃していた奇兵隊に追い返され、這う這うの体で引き揚げ

鳥羽伏見では、幕府側にたって参戦するが朝敵となり、慶喜が江戸に逃亡したため幕府側は敗退。伊予松山藩も長州から第2次長州征伐での損害への謝罪や補償を求められる

藩主定昭の妻が土佐の山内容堂の姪だったところから、土佐に降伏する形を取り、容堂のとりなしで、御家断絶は免れる

 

ヒスイ、救吉の姉弟は、藩医見習いと看護師として従軍するが無事帰還

 

 

謝辞

初の新聞連載

初の時代小説

 

 

 

毎日新聞出版

 ホームページ

青嵐の旅人(上)それぞれの動乱

著者  天童 荒太

発売日:202410 1

 

定価:2090円(税込)
『永遠の仔』『悼む人』を超える、新たな"世界"の誕生。

激動の幕末の伊予松山藩。
戦を厭う娘ヒスイ、医の道で人を助ける救吉、若き武士辰之進。
霊泉の湧く故郷を守るため、若者たちが立ち上がる!

文久2(1862)年。舞台は、260年間続いた江戸幕府がいま、まさに消えようとする頃の伊予松山藩(愛媛県)。代々続くおへんろ宿「さぎのや」で育てられた娘ヒスイと弟の救吉は、危機一髪の場面を救われたことをきっかけに、年少の藩士、青海辰之進と知り合う。医術で人を救うべく精進する救吉に、ある日郷足軽隊の調練に医師見習いとして同行せよと命が下る。誰よりも戦を厭い、平和を願うヒスイは、やがて救吉が真の戦に送られることは必定とみて、男装して弟に同道することを決意する。

 

 

書評『青嵐の旅人(上・下)』天童荒太著

幕末、理想掲げて生きる青春

20241116 2:00 [会員限定記事]

天童荒太の初の時代小説は、幕末から明治にかけての動乱の中を駆け抜けた、3人の若者の青春物語だ。物語は、文久2年(1862)の春から始まる。伊予松山藩の道後の湯は、明王院が管理していた。その院と縁のある、へんろ宿「さぎのや」で育った14歳の娘のヒスイは、山深い森の中で水にあたった男を助けた。その男こそ、坂本龍馬である。ヒスイは龍馬に、戦だけは避けてほしいといった。その後、彼女と弟の救吉は、危ういところを年少の藩士の青海辰之進に助けられる。一方で、藩内屈指の秀才だが、暗い心を持つ鷹林(たかばやし)雄吾との悪因縁も生まれた。

やがて松山藩にも時代の激流が押し寄せ、救吉は郷足軽隊の見習い医師になる。それに反対するヒスイだが、覆せないと理解すると、男装して看護人となり、弟に同道した。

以後、京に行ったヒスイと救吉は、池田屋騒動にかかわる。また、長州征伐にも従軍し、悲惨な現実と向き合うことになる。辰之進も、戦の場所で暮らす民のことを考え、自分が無力なことに苦悩するのだった。

戦を避けたいというヒスイの理想は現実的ではない。ひたすら理想を語る彼女の姿が、時に駄々っ子のように見えた。だがヒスイは、戦の渦中で危機に陥っても、自らの信念を曲げることがない。その強き心が、彼女の理想を気高いものにしているのだ。救吉の、人を救いたいという思いや、辰之進の武士としての生き方も同様だ。若者たちが非情な現実の中で、真っすぐに成長していく姿が、熱い感動を呼ぶのである。

しかし、光あるところには影もある。人間の暗黒面を象徴する存在として雄吾が、3人の前に何度も立ち塞がるのだ。また龍馬だけではなく、緒方洪庵・新選組・桂小五郎・高杉晋作など、多数の実在人物もヒスイたちに絡み、ストーリーを盛り上げる。本来なら無縁のはずの松山藩の運命に、ヒスイたちが深くかかわる終盤の展開もよかった。

現在、世界各地で戦争や紛争が起こり、先の見えない時代に突入している。未来に不安を覚える人も、少なからずいるだろう。だからこそ、前に進みたい。ヒスイたちのように理想を掲げて、生きていきたいものである。

《評》文芸評論家 細谷 正充

 

 

 

伊予松山藩は、幕末期には親藩として幕府側につき、長州征伐や鳥羽・伏見の戦いに参戦しましたが、その後、新政府に恭順し、松山城を明け渡しました。

幕末の伊予松山藩の主な出来事:

  • 長州征伐:

親藩として幕府側に立ち、長州征伐では先鋒を務めました。しかし、この出兵により藩の財政は悪化しました。

  • 周防大島での略奪:

第二次長州征伐の際、周防大島を攻撃し、住民への略奪や暴行、虐殺を行ったことが、後の長州藩との関係悪化につながりました.

  • 鳥羽・伏見の戦い:

幕府側として大坂の警備に当たっていましたが、徳川慶喜の江戸帰還を知り、帰国しました.

  • 恭順と開城:

鳥羽・伏見の戦いの後、朝敵として追討対象となり、松山城では恭順派と抗戦派が対立しましたが、最終的には恭順し、土佐藩の占領下に置かれました.

  • 新政府への恭順:

15万両を献上し、藩主の蟄居、家老の更迭などを条件に赦免され、松山城を返還されました.

幕末の松山藩を語る上で重要な人物:

  • 松平定昭:14代藩主で、幕末期に藩の舵取りを担いました.
  • 奥平弾正:定昭の側近で、恭順の決断に尽力しました.
  • 大原観山:藩の重臣で、正岡子規の祖父にあたります。恭順の決断に尽力しました.

その他:

  • 松山藩は、明治維新後、廃藩置県によって松山県となり、その後、愛媛県に編入されました.
  • 松山城は、明治6年(1873年)に廃城となりました.

 

 

Wikipedia

伊予松山藩(いよまつやまはん)は、江戸時代伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に久米郡野間郡伊予郡などを知行した。藩庁は松山城

歴史

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慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにて東軍徳川家に味方した加藤嘉明外様)が20万石で立藩。寛永4年(1627陸奥国会津藩42万石に加転封される。

同年(寛永4年)代わって、出羽国上山藩より蒲生忠知(外様)が24万石で入封。寛永11年(1634嗣子無く死去のため蒲生氏は断絶した。

寛永12年(1635)、伊勢国桑名藩より松平定行親藩)が15万石で入封し明治維新まで続く。

江戸初期には経済的には豊かであったが、寛文延宝年間(1661 - 1680)に干ばつ・洪水などの飢饉に見舞われ、それ以後は財政難が続いた。寛永16年(1639年)に松山城の天守が初代定行により5重から3重に改築された。慶安4年(1651年)、定行の弟である 刈谷藩主の松平定政が狂乱改易になり、預かりを命じられた[1]

二代定頼は寛文2年(1662)正月、56歳で江戸藩邸にて騎馬の稽古をしたところ、落馬して危篤に陥り死去した。三代定長は流鏑馬が得意で、四代将軍家綱の御前で披露した。

元禄16年(1703)には、幕府から江戸松山藩邸(三田中屋敷)での赤穂義士のうち10名の預かりを命じられた。四代定直は義士を罪人として扱い、大目付である仙石久尚の指示により厳しい対応をした。24日に大石良金はじめ全員が切腹した[2]。特に大石に対しては、波賀朝栄が乱暴で無礼な介錯をしている[3]1118日、同屋敷が火事になり、また年末に松山で暴風雨が起き城下で1,200軒の家が潰れた。「吉良義央の祟り」などの流言蜚語が家中に飛んだ[4][5]。定直は神学者の大山為起を招き、宝永7年(1710年)には『日本書紀』の注釈書『日本書紀味酒講記』を完成させた。

五代定英享保17年(1732)に起きた享保の大飢饉では、領民の餓死者は3,500人にのぼる甚大な打撃を受けた。これは全国の三割に相当する。この餓死者の中に藩士は1人も含まれていなかった。定英は領民を蔑ろにしたとして、幕府より「裁許不行届」と咎められ差控え(謹慎)の処分を下された。定英は放免後に藩邸(愛宕下上屋敷)にて倒れ頓死した。

江戸時代の一揆は全国で約3,200件。伊予164件で六十余州において第二位(松山藩は34件)[6]。六代定喬の治世で、寛保元年(1741)に久万山一揆が起きた。久万山全ての村で「走り百姓」(農民が高年貢の田畑を放棄し他領に逃亡すること)が起き、大洲藩領に逃散するという大騒動に発展する。この一揆は講談の題材にもなった[7]

七代定功の治世は2年に過ぎなかったが、吉田良香(通称が久太夫、号は蔵澤)を抜擢し代官とした。能吏である久太夫に関する逸話は『垂憲録拾遺』等に採り上げられており、彼の墓は松山市指定記念物(史跡)になった。

明和2年(1765)、松山新田藩主だった定静が本家を継いで八代松山藩主となる。この際に新田1万石は松山藩に返還されることなく幕府に返上され、松山新田藩は消滅する。桑村郡のうち新田の五、三七一石余と越智郡のうちで四、六二八石余、合計一万石が同年722日、松山藩から幕府代官・竹垣庄蔵に渡された[8]。(他藩の例では広島新田藩米沢新田藩の場合、廃藩の際に本藩が新田分の石高がそのまま加算されている。)

松山城は三度も火災に遭っている。天明4年(1784)には落雷により、天守が焼失してしまう。九代定国は再建の許可を幕府から得られたがこのような財政難の中、工事を棚上げにした。天守の再建工事が開始したのは11定通1820年(文政3年)である。

定通は文政11年(1828年)に明教館を設立、朱子学中心の講義が行なわれた。一等(新入生および、入学が許されない徒士・三下[注釈 1]らへの公開講義)では朱子学の入門書である『近思録』と『小学』、六等(上級生で卒業を目指す者)で四書五経が学ばれた。武芸は剣術のほか弓馬、槍術、柔道が必須とされた[9]。国学と算術は、「武士が商人や学者になってはいけない」との理由、古学(聖学)は久松松平より格上である家門・親藩の保科正之がかつて嫌ったことで藩校から排斥された。

12代藩主勝喜は、松山城天守安政元年(1854)にようやく再建した。また、13代藩主勝成は、安政6年(1859)に勝海舟の設計により、外国船舶に対処するため武蔵国神奈川(現在の横浜市神奈川区)に砲台の築造や警備などを行った。

幕末は親藩のため幕府方につき、特に長州征討では先鋒を任され出兵。財政難の極致に陥った。この際に占領した周防大島において住民への略奪・暴行・虐殺を行ったことが後に長州藩閥から冷遇される要因となる[10]14定昭は藩主になるや老中に就任。大政奉還後、辞職している。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは定昭と藩兵は梅田方面の警備に当たっていたが、徳川慶喜が江戸に引き上げたと知り帰国する。この戦いにより朝敵として追討され、城内では先代藩主勝成の恭順論と定昭の抗戦論が対立するが、127日に戦わずに城を明け渡して土佐藩の占領下に置かれた。なお、円滑な開城が実現した背景には、碩学である三上是庵による恭順・抗戦両派への説得や長州藩の動きを警戒する土佐・松山両藩の思惑があったとされている。

同年512日、松山藩は財政難の中15万両を朝廷に献上し、藩主定昭は蟄居して先代藩主である勝成を再勤させる事や家老などの重臣の蟄居・更迭などを条件に赦され、522日に松山城が返還された[11]。また、その後、明治政府より「松平」の姓から旧姓である「久松」に復するよう命が下った。明治4年(1871廃藩置県により松山県となる。のち石鉄県を経て愛媛県に編入された。

三田綱坂にあった中屋敷(写真右手奥。手前は島原藩中屋敷)。屋敷の庭で大石主税堀部安兵衛赤穂浪士10名が切腹した。維新後、松方正義の邸宅となり、その後松方巌十五銀行に譲渡され、のちイタリア大使館となった。1863年撮影

藩主家は明治17年(1887伯爵となり華族に列した。藩邸は現在イタリア大使館として使用されている。

俳句

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四代定直俳諧を嗜んだ。幕府での諸侯寸評も「文武諸芸を学び、才智も指導者としての器量もある」と褒められている[12]。その後、九代定国は江戸湯島の俳諧師・司馬可因に学んだ。安永年間(1772 - 1781)なると一般にも普及し、領内での俳諧が盛んになった。さらに明治時代になると、藩士の子弟から正岡子規高浜虚子を輩出し、現代俳句へと発展した。

子規が松山に帰郷した際、昔を懐かしみ詠んだ次の句の碑が、JR松山駅前に建っている。

春や昔 十五万石の 城下かな

歴代藩主

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加藤家

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外様 20万石 1600 - 1627年)

  1. 嘉明

蒲生家

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外様 24万石 1627 - 1634年)

  1. 忠知

松平(久松)家

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親藩・御家門 15万石 1635 - 1871年)

  1. 定行
  2. 定頼
  3. 定長
  4. 定直
  5. 定英
  6. 定喬
  7. 定功
  8. 定静
  9. 定国
  10. 定則
  11. 定通
  12. 勝善
  13. 勝成
  14. 定昭
  15. 勝成
  16. 定昭

支藩

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重臣

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初代藩主松平定行の生母二之丸殿(奥平貞友の娘)の弟奥平貞由に始まる家。

奥平貞由貞守貞虎貞継貞幹貞教昌蔭貞臣(鶯居)-貞操

  • 長沼吉兵衛家

長沼朝之-之春-朝喬=朝張-朝克=光輔-伯政=之敬-宗倫-宗文

  • 竹内久六家

竹内信重-信一-信重-信行-信易-信猶=信命=敦信-信金-信均-信倫

  • 水野甚左衛門家

藩祖松平定勝の伯父水野信元の子茂尾に始まる家。

水野茂尾-一元=一玄=忠恒-忠統=忠徳-忠誠-忠恕=忠格-忠広

  • 菅五郎左衛門家

菅正勝-正由=良玄=良当-良礼-良秋-良彦-良史-良弼=良恭

  • 服部図書家

藩祖松平定勝の外孫服部正辰の次男保元に始まる家。正衆の代に実父奥平貞国に連座して家名断絶するも、後に由緒ある家柄により家名再興を許された。

服部保元=正盛=正輝=正衆=正弼-正名-鼎

  • 津川右近家

尾張守護斯波義銀の次男津川近利は、藩祖松平定勝の客分となり、その次男近義(近良=ちかなが)は藩士となる。

津川近利-近義(近良)-義堅-義富-義全=義彊=義彰-義員

  • 遠山三郎左衛門

遠山景運-景朝-景標-景軌-景庸=景平=景誠=景暁=景寛-景房=景忠=盛之介

  • 奥平三郎兵衛家

初代藩主松平定行の生母二之丸殿(奥平貞友の娘)の叔父貞政に始まる家。貞国の代に松山騒動により家名断絶するも、後に由緒ある家柄により家名再興を許された。8代藩主定功は一時期この家の養子となっている。

奥平貞政-貞朝-貞隣-貞胤=貞国-貞敦=貞概(松平定功)=貞喜=貞寛

  • 久松清左衛門家

藩祖松平定勝の叔父久松定重の嫡男定盛に始まる家。

久松定盛-勝直-勝成-貞成-貞誠-貞祥=貞継-貞居-貞吉-貞明

幕末の領地

明治維新後に、宇摩郡23村、新居郡6村、桑村郡4村、越智郡8村、風早郡3村(いずれも高知藩預りの幕府領)が加わった。

 

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