ピカソの私生活  Olivier Widmaler Picasso  2020.3.21.


2020.3.21. ピカソの私生活――創作の秘密――
PICASSO: PORTRAIT INTIME(私的な姿)    2013

著者 Olivier Widmaler Picasso 1962年生まれ。パブロ・ピカソの孫。法律を学んだあと、自身で定義するところの「タレントのリスク管理者」である彼は、タレントのマネージメントに携わるほか、映像のプロデューサー、コンサルタントとしても活動。近年は、多くの現代芸術やオペラのドキュメンタリー、またファッション、デザイン、写真、建築、音楽といった各分野の大芸術家たちのドキュメンタリーの制作に携わる
2744年までパブロの愛人だったマリー=テレーズ・ワルチルの娘マヤ(ピエール・ヴィドマイエールと結婚)の息子。パブロとマリー=テレーズは、パブロの死の直前まで手紙を交換し合っていた。11年、芸術・文学のシュヴァリエ勲章を受章

訳者 岡村多佳夫 美術評論家。早大大学院博士課程修了。専門はスペイン美術史、近・現代美術史。「生誕100年記念ダリ回顧展」など美術展の監修を多く手掛ける

発行日           2019.10.25. 初版第1刷発行
発行所           西村書店

序章
11歳の時、テレビのテロップでパブロが死んだことを知り、その日を境にすべてが変わった
94年末、パブロに捧げる初めてのCD-ROMにより作品カタログを制作、次いでパブロの日常生活を見直そうとしたのが本書。まったく知らないと言っていいくらいの自分の祖父を発見する旅

第1章        ピカソと女性たち
早くから絵の才能を見込まれ、15歳前にバルセロナで美術学校に入り、97年には裕福な医者の叔父の援助でマドリードの王立アカデミーに行くが、夜遊びにうつつを抜かし、叔父の支援を断ち切られ、ゼロから出発しなおす
1900年、初めてパリに行き、万博を見学
1905年、アメリカ人コレクターのレオとガートルードのスタイン兄妹が彼の作品に興味を持ち始めたころから財政状況が好転、翌年にはアンブロワーズ・ヴォラールが20点余りの主要な油絵すべてを買い上げ、パブロも制作に没頭
堅牢などっしりとした形態をゴーギャンと彼の描いたタヒチの人々から、アフリカ芸術を収集していた人類学博物館から想を得たのが、07年《アヴィニョンの娘たち》(37MoMAに寄贈)に結集され、現代美術の象徴的作品として、パブロを新しい世紀が待ち望んでいた創造主に祭り上げたものの、油絵自体は9年後まで展示されることはなかった
キュビズムと呼ばれることになる作品群は多くの人が馬鹿にする中、最初に認めたのはガートルードと、ドイツ人画商ダニエル=アンリ・カーンワイラーで、カーンワイラーは何枚かのパブロの重要な油彩画を買うことから始め、パブロの正式な画商となる
08年、税関吏ルソーの《婦人像》を購入、作者と知り合いになり、この肖像画を生涯手元に置いていた
15年頃ジャン・コクトーと出会い、パブロが上流社会に加わるための理想的な扉となり、文化活動の庇護者に巡り合う。バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の創始者ディアギレフはその庇護を受けたなかでも突出した人物の1人 
18年、バレエ・リュスのダンサーだったオルガ・コクローヴァ(18911955)と知り合い結婚。コクトーが立会人。息子パウロをもうける
22年には、彼の表現はよりはっきりと「動きを描く」方へと変わる
24年、バレエの仕事も活発になる
25年、シュルレアリスム展に展示 ⇒ かつてグループ展には絶対に参加しないと決めていたが、2年前ファッション・デザイナーで収集家のジャック・ドゥーセが購入した《アヴィニョンの娘たち》の貸し出しを認める
同年、現代芸術に関する内輪の雑誌『カイエ・ダール』を創刊した青年クリスチャン・ゼルヴォスは、第1号をパブロに捧げ、以後2人の生涯にわたる全作品を収めるカタログ・レゾネ制作の共同作業が始まる。ゼルヴォスは70年逝去までパブロの写真を撮り続ける
27年、まだ18歳に満たない未成年だった私の祖母マリー=テレーズ・ワルテル(190977)と出会い、モデルになって欲しいと申し出。オルガとの間は完全に冷め切って、不倫関係が続く
30年、パリ近郊のジゾールの城を購入、作品の倉庫にするとともに、マリー=テレーズとの愛の巣とした
31年には大恐慌の影響がヨーロッパでも深刻となり、共和国の建国宣言がある中、パブロは熱に浮かされたように32年の大きなピカソの回顧展準備に没頭。回顧展は6か月にわたりすべての「時代」の225点の油彩画と、7点の彫刻、6点の挿絵本を展示。コレクターたちも所蔵作品を躊躇うことなく貸し出し。前衛芸術の若き旗手として脚光を浴びる
共和国建国によって離婚が可能となったため、34年のクリスマスからオルガとの離婚手続きに入る
35年、調停不調のままマリー=テレーズは娘マヤを出産。37年パブロの主張が認められたが、38年にはフランコ総統の政令で離婚が認められなくなり、パウロの親権を放棄して別居のみ申請。さらに離婚の為フランスに帰化申請したが、かつての無政府主義者との付き合いを指摘され却下。43年オルガの暴力による仕事の妨害が最高裁で認められたが、オルガはマリー=テレーズと娘の存在を知らなかったのか、名誉を重んじで「既婚女性」という身分に固執、別居決定に異議を唱えず、財産分与の権利も行使せず、その代わり「ピカソ夫人」であり続けた
35年末、若い女性写真家ドラ・マール(190797、本名テオドラ・マルコヴィッチ、クロアチア出身)を紹介され、政治に無関心だったパブロの政治参加に寄与するとともに、アヴァンチュールを楽しむという二重性の中で生きる。36年の市民戦争勃発とともに、パブロはドラの手引きで共和国支持を宣言、その代償として、潰走する共和国政府がすべてのコレクションを避難させた後の単なる名誉職だったが、プラド美術館館長に任命される。37年、共和国から受けた、急な注文作品《ゲルニカ》の制作が始まり、3人の愛人の中では唯一ドラが傍らで特権的証人として立ち会い自らの地位を確かなものとした。ここからパブロの終世まで続く「政治の時代」が始まり、政治活動が家庭生活にも優先した
フランスの参戦で、パブロはレジスタンスへの支持を示したため、絶えず監視下に置かれスペインへの追放の危機にあった
39年、MoNAがパブロの初の回顧展を企画し、アメリカの10大都市を巡回して熱狂的に受け入れられ、数多くの傑作がナチの魔の手から逃れることができた
43年、パリのアトリエ近くのレストランで、パブロの知り合いの俳優と食事をしていた若く可愛らしい女性と出会い紹介してもらい、すっかり魅了されたが、彼女が後に『ピカソとの日々』を書いたフランソワーズ・ジローで、完全に魅了されたが、彼女は不本意ながらパブロの人生から離れていく
44年、パリ解放の時、パブロはマリー=テレーズと娘との生活に戻る。オルガはスイスの友人に預けられ、ドラは2人の関係の破綻から長く鬱状態にあって精神科医の下に連れていかれ、アンティーヴに生涯過ごすことになる家を与えられる。パブロにとってドラはいつも泣く女で、彼自身も「耐え難い苦しみの形として描く」と回想している
フランソワーズ・ジロー(1921)は画家で、はじめてパブロと出会ったときから彼が現代芸術の生ける神であることを知っており、自分の作品を彼に見てもらうのが夢だった
パブロはいつも前の愛人を描き続けながら、新しく手に入れた女のいくつかの性格を表わしてゆくが、今回も同じで、マリー=テレーズは2人の関係の終わりを理解し、感謝の気持ちのこもった関係へと変わっていく。44年秋サロン・ドートンヌで彼女を描いた作品が公に展示されたのを最後に「マリー=テレーズの時代」は終わりを告げる。マヤだけは例外で、4245年に数えきれないデッサンを描いた《青いデッサン帳》を彼女に捧げる
46年、散々焦らされた挙句、ようやくフランソワーズと同居が始まる。アンティーヴの豪壮な城の中にアトリエを構え、47年には息子クロード誕生。48年からはカンヌの後背地の小さな村ヴァロリスに居を構え3人で暮らす。49年娘パロマ誕生。53年にはパブロに「閉じ込め」られるのを嫌悪したフランソワーズが別離を決意、初めてパブロに逆らった女だったが、礼儀正しい関係は続き、55年には子供たちの代理後見人(母親が亡くなった場合の後見人)となり、61年には子供たちが彼の姓を名乗れるよう申請し承認された
64年、フランソワーズは2人の過去を『ピカソとの生活』として出版、パブロは怒って61年に結婚したジャクリーヌ・ロックの後押しもあって提訴したが敗訴
68年、クロードとパロマは事実関係を明確にさせるため「親子関係の承認」を求めて最初の行動を起こすが、パウロ以外唯一巨匠に近づくことが許されたジャクリーヌによって阻止
53年末、フランソワーズが去った直後に現れたのがジャクリーヌ・ロック(192686、ブルジョアのキリスト教徒)で、夫とともにヴァロリスでマドゥーラ窯を所有。55年にはパブロがカンヌに巨大なアトリエを購入、すべての作品を収納。オルガの死もあって4人の子供たちを集めたとき面倒を見たのがジャクリーヌ。そのころからパブロは過去の偉大な作家たちから着想を得、それに時間を割いていったが、ジャクリーヌはそれら過去の作家たちに新しさをもたらした
5455年、ドラクロアの作品に基づく《アルジェの女たち》40点近くを、57年下半期にはベラスケス作品に基づく《ラス・メニーナス》50点近くを、59年夏~61年末にはマネ作品に基づく《草上の昼食》30点近くを、さらには62年にダヴィッド作品に基づく《サビニの女たちの略奪》を描く。これらの作品はエル・グレコ、クラーナハ、クールベ、セザンヌ、晩年の《銃士たち》の引用元となったレンブラント、さらには後に彼が肖像画を描いた時に参照したニコラ・プッサンらの作品から着想された他の以前の作品のように、彼の先達たちとの絶えざる対話である。08年秋パリのグラン・パレで開催の「ピカソと巨匠たち」展では、パブロのそれらの作品と美術史における傑作が一堂に集められた
58年秋ヴォーヴナルグ城購入、少しづつアトリエに変え、自身の作品のほか、買い集めたマティス、セザンヌ、クールベらの作品で飾る
61年、パブロは生の証としてジャクリーヌと契約なしで秘密裏に結婚、ムージャン(カンヌの後背地)に居を構える
72年夏にパブロの最後の住まいに招かれたロストロポーヴィッチは、ウォッカを持参、大いに飲んだが、翌朝帰る段になって弓がないのに気づく。心から済まなそうなパブロのいたずらっぽい目の前で、家族全員で探し回ったが見つからず。何年も経ってこの家を訪れたマエストロは、ガラス棚の中に2つのウォッカのグラスとともに展示されている弓の射手を目にして驚かされた
65年末から次の1年を通して、デッサンと版画に没頭し、絵画からは完全に離れる
67年には、12年間訪れることのなかったパリのアトリエを引き払う共産党尾に加わったことの代償を払うかのように、レジオン・ドヌール勲章を2度にわたって断っている
常に現役の芸術家であることを証明するために、《銃士》の油彩画を、次に、色彩と喜びに震える道化師とともにサーカスの人々を作品に描き、6970年初にかけて大きなサイズの約165点を仕上げ、70年央にはこれらの作品展を荘厳なアヴィニョンの法王庁で開催
71年には90歳の誕生日が盛大に祝われ、グラン・パレやパリ国立図書館などで大きな回顧展が開催され、さらには、ポンピドゥー大統領がルーヴルのグランド・ギャラリーでピカソの《アルルカン(道化)》《座る女》《座る裸婦》など絵画8点とフランス絵画の古典的傑作とを向かい合わせにして展示。存命中の芸術家の絵画が初めてルーヴルに掛けられた(ママ)

第2章        ピカソと政治
パブロの作品は独特な力学、則ち規則に対する否定と完全に結び付けられる。初期のアカデミズムから彼本来の才能を見出すまで、パブロはすべてを否定した。新たな秩序の圧倒的な力も、以前からある枠組みに閉じ込められるのも嫌い、特に「終わり」という言葉を嫌い、怖れた。保守的な芸術家であると同時に永遠の革命家だった
44年共産党に入党。仲間の芸術家や知識人たちはすでに入党。パブロの政治的な道程は、個人的な参加であるのと同時に、芸術表現だった
パブロの絵画は現実を記すと同時に、私たち素人の目が見分けられないものを明らかにする。人が思う以上に苦しんでいて、あらゆる創造者と同様、自分の作品の中に入り込むのは当然であるべきだと思っていた
印象主義やフォーヴィズムの画家たちを激しく非難。第1次大戦中に、フランス人による外国人叩きの政治を、国外へ「亡命した」キュビズムの画家たちを「敵に買収されたドイツ芸術の支持者」に仕立て上げるという政治を体験、第2次大戦中には、彼を首謀者と考える退廃芸術に対するナチの政治宣伝にも耐え忍んだ!作品を通して、途切れることのない情熱を美と政治に傾けた。作品の多くは、金銭的な心配がなくなってから描かれている。成功が、あらゆる物質的圧力から彼を解放し、欲求に従って活動することを許した
単なる画家というより、芸術家になる道を選び、たやすく入学試験に合格し、バルセロナの美術学校に加わる。若きパブロはすでに反体制的性質を示し、授業のアカデミックな教育よりも新しい絵画表現を身につけた
政治的にはアナーキズムが広がり、近代主義のあらゆる異常な方向に傾き始めるころで、パブロはあらゆる試練に耐えて自由と勇気を勝ち取る。慢性的な農業の不振から大都市のプロレタリアート(無産階級)の誕生を目にして、社会運動が革命化し、一方でカタルーニャの独立運動も顕在する中、パブロにも政治の意識が現れ、ブルジョア芸術を唾棄し、左翼的な方向に向かうとともに、芸術が恐るべき武器であることを自覚
1900年のパリ万博見物で一層刺激される。パブロの政治参加が、第2次大戦の結果生まれた共産主義的思考を通して「決意させられた」ものといわれるのは間違いで、彼の知的な歩みは、共産主義の主張が彼の政治的な理想に最も近かったことを十分に証明している
彼の人生の中で最も貧困に苦しむ時期を過ごした「青の時代」の絵は、その苦悩を論理的に反映し、人々の窮乏を見た主題の向こうに自身の日常を忠実に描写
次にくる、より幸せな「バラ色の時代」でも、パブロは人々のこの素朴さから遠く離れてはいない。アルルカンなどを主題にする一方で、「良俗」とは言えないエロティックな芸術も現れた
1910年代の初めには、必要なものはすぐに買うことができるようになる。画商には、彼自身が最低価格を決めるという販売形式を納得させ、売ってもいいと思ったものを売った
1898年、スペイン支配からの解放闘争をするキューバ人民支持を明示し、09年には政教分離を解くスペインの革命家フランシスコ・フェレールの処刑に反対するデモ行進にも参加し、その後の「暗黒のスペイン」に対する戦いの象徴となる
12年、急速に未来派の運動に同化
14年の第1次大戦では、スペインが中立だったために、パブロは直接戦争には関わらなかったが、仲間だった「現代」画家たちの価値を破壊するかのように安価で売り飛ばされるのを目にして、描き続けることがレジスタンスとしての行動を示していた。コクトーから提案されたロシア・バレエ団との仕事を引き受けることはさらに革命的な振る舞いだった
新しい仲間はシュルレアリストたちで、芸術的であると同時に政治的な共同体の一員になりたいという気持ちに関連していた
スペインがファシストの手に落ちるのを阻止するためにたびたび抗議活動にも参加。36年プラド美術館長になったことは、共和国政府がパブロの作品と威光をいかに必要としていたかを証明する出来事。その立場を活用してスペイン支援の国民的委員会には多額の寄付をする一方、フランコ一派による市民への爆撃と残虐行為には徹底抗議
37年の《ゲルニカ》では、スペインを苦悩と死の海に沈めた軍部の特権階級に対する自らの恐怖を明確に描き出す ⇒ 直後のパリ万博のスペイン館に展示
パリ解放当時、多くのアメリカ兵士がピカソに会いたがったのは驚き。彼らにとってピカソは1つの象徴であり、アトリエの前の行列でピカソの名声は計り知れないほどに高まる
戦争に終わりをもたらしたのはソヴィエト軍であり、共産主義が、「平和を願う人たちが共有する経験は人々に幸せをもたらす」という鳴り物入りの宣伝で拡散され、レジスタンスであった多くの友人とともに共産党に入党。共産主義者こそ、彼らが常に守っていた理想である、自由、平等、博愛を最もよく具現しており、パブロもそこにある種の知的な家族を見出していた
すでにフランスを除く世界中の大きな美術館で注目され、よく知られた芸術家だったピアカソが共産党に入党したことは、ソヴィエト的共産主義にとってこの上もない強力な宣伝となったが、他方多くの人が仰天。というのは、共産主義というだけでアメリカ人コレクターの何人かは拒否反応を示したからで、それに対しピカソは、「共産党入党は、私の人生、私のすべての作品に通底する一貫した論理に基づいている。私は単なる飾り物、気晴らしの芸術として絵画を考えたことは一度もない。真の革命家として絵を通して常に闘ってきた」と応えたが、後になって取り返しがつかなくなるのを恐れて何度も打ち消している
ヤルタ協定がソヴィエトの体制を公認し、50年には共産党員でもあるヴァロリス市長から名誉市民の称号を授与されたように、当時共産党への投票は全く当たり前の行為だった
48年には初の国際舞台として「国際平和会議」に出席、チリでの迫害に反対する発言をする
会議のポスター用に《平和の鳩》を制作し、50年にはレーニン平和賞を受賞。53年にはスターリンの追悼のための肖像画を、レジスタンスの詩人として知られる仏共産党中央委員のアラゴンの勧めで新聞紙上に描いたが、若い頃の肖像をごく普通のデッサンで無邪気に描いたのが共産主義者たちのイメージを壊したとして書記長名で非難された
フルシチョフによるスターリン批判で、共産党とは距離を置くようになったが、622度目のレーニン平和賞受賞
パブロの共産主義は、政権の右寄りの人間、とりわけ現代美術からは遥かに遠いところにいたド・ゴールを苛立たせたが、パブロもフランスの文化行政に関わる人間とはあまりいい関係を持つことはなく、自分の未発表の作品は、国ではなくパリ市に属するプティ・パレにしか貸さなかった
パリの空き家になっていたアトリエを引き払えとの行政命令を、誰彼構わず出した文化担当大臣のアンドレ・マルローを許さなかったし、71年にはパブロが全く望んでいないレジオン・ドヌール勲章を授与しようと、文化担当大臣がムージャンまでやってきたが追い返した。フランスが現代美術に対するどうしようもない遅れを取り戻すのはポンピドゥー大統領まで待たねばならなかった
68年のマルロー法は、個人の芸術作品やコレクションを国家に提出することによって相続税の支払いに充当できるとしたが、ピカソの相続を念頭に置いたもの
ポンピドゥーは、パブロの90歳の誕生祝の会場にルーヴルを提供
晩年のパブロの唯一の政治行動は、ソヴィエトから追われているロストロポーヴィッチを72年に南仏の家に招き、一緒に撮った写真を、共産党からの財政支援を絶たれて財政が窮状に瀕した新聞紙上に支援の意味を込めて公開
69年、スペインからの返還要請に対し、弁護士に《ゲルニカ》の将来を託す ⇒ スペイン国家に遺贈するが、それはスペインに共和主義政権が樹立された時で、フランコが生きている限りスペインに行くことはないとし、それまではMoMAに寄託した。75年フランコが死去しスアレスが首相になり、77年立憲君主政下でスペイン議会が返還要求を可決、78年には米議会もスペインに民主政の回復が認められれば返還すると議決。多くのスペインの都市が受け入れの名乗りを上げたが、80年未亡人のジャクリーヌがマドリードが念頭にあったと証言して決着。館長をしていたプラド美術館に戻され、その後92年からはソフィア王妃芸術センターに展示されている(一度もスペインに置かれたことはないので正確には「帰還」ではない)

第3章        ピカソと家族
アンダルシアのマラガの美術館の学芸員をしていた父のもとに生まれ、91年には北のラ・コルーニャに移り住み、父は中等教育のデッサン教師の職を得たが、96年バルセロナに移る。1901年以降パブロは父親の姓を捨て、ピカソを名乗る
真の愛情を伴う生活は、2度目のパリ旅行から、04年にパリに移り住むようになってから始まる。最初は移り気なモデルのマドレーヌで、妊娠するが流産。次のフェルナンドも堕胎経験から不妊。3人目が画家の愛人だったが若くしてがんで死去
17年、ローマでディアギレフ一座に合流、オルガと知り合って18年結婚、21年ようやく第1子をもうける。長い間押し殺していた父親としての優しさのすべてを、とても美しいデッサンと水彩画で表し、肖像画家としての才能を開花させ、大金を手に入れる
オルガとの関係悪化につれ、パウロから引き離され、成長するにつれ、パウロは少しづつキャンバスから消えていく。代わって登場したのがミノタウロスや画家、兵士、近衛騎兵などで、27年以降はマリー=テレーズとなる
オルガとは、パウロの教育を巡っても行き違いが多く、オルガを苛立たせる
23年に現れたのがアメリカ人の富豪の実業家の娘で流行画家の妻サラ・マーフィーで、パブロはその時々の女性から得た着想を作品に描きこむが、その時もサラの顔を描きながらタイトルにはあくまでも妻の名前を与え続けた
マリー=テレーズの出現で、パブロはオルガに離婚を求めたが、35年調停は不成立。43年確定した離婚訴訟は、彼らの別居を認めたが、オルガは財産分与の請求を一切しなかったし、パウロも母親亡き後その権利を追い求めなかった
35年マヤの誕生で、パウロへの愛はマヤに移るが、パブロの愛はさらにドラへと移る
46年ごろ、パウロはパブロの計らいで初めて異母妹のマヤと出会う。息子からマリー=テレーズの存在を知らされたオルガはただ無視
45年にはフランソワーズとの関係が、ジャーナリストの注目の中で明らかにされ、47年にはクロードが、49年にはパロマが誕生、コート・ダジュール近くに定住。子供たちはパブロの創造の源泉で、パブロは彼らに無垢のイメージを再び見出し、子供たちと過ごす時間を楽しんだ
53年にフランソワーズが子供たちを連れて出ていくと、パブロにとって大きな痛手だったが、翌年ジャクリーヌが現れ、連れ子のカトリーヌ(愛称キャシー)が子供たちの1員となる
マヤは、成人すると徐々にパブロから距離を置くようになり、55年バルセロナに行ったあと戻ってきて60年海軍将校のヴィドマイエールと結婚、子供たちができたことは母やパウロからパブロに伝えられた
55年、オルガの死後、マリー=テレーズが思いがけない結婚の申し出を論理的に断った後で、自由になったパブロはジャクリーヌ母娘と暮らし始め61年結婚
ナポレオン法典は、結婚した父親が自発的に認知すること、「不義の子」に対して財産を贈与したり、遺言によって遺産を残すことを許さなかった。2001年の法改正で、ようやく嫡出、非嫡出、養子の区別なくすべての親子関係が平等になったが、父親であることを証明するための法的手続きによる承認が必要
70年、親子関係を求めたクロードとパロマの訴えは、パブロが「不義の父親」であることを認めているにも拘らず、庶子の親子関係を認めることは法律的に禁じられているとして却下。マヤも養父を認知してもらうための訴訟を起こしたが、23歳以下という提訴の年齢制限があって却下
フランスで父親による自由で自発的な認知行為が認められるのは93年になってから
74年パブロの死後になってようやく不服申し立てが認められ、マヤも父親の姓「ルイス・ピカソ」を持つことが認められ、4人の子供と未亡人のジャクリーヌが本当の家族になり、平等に遺産相続に参加することができるようになった
パウロは、53年離婚、男女2人の子供は妻が引き取る。55年母のオルガが亡くなり法定相続人としてオルガがパブロから与えられたボワジュルー城の収益権を受け取る。このころから「ピカソの秘書」として公文書にも登場。59年新しい恋人との間に男児誕生、62年結婚。特定の教育は受けず、機械、車、オートバイ、速度への情熱を持った、優しくて率直な陽気なお祭り好きの男。73年パブロの死を追うように前妻との間の息子が自殺
パブロの相続が開始され、6か月以内に財産の申告が必要だったが、対象の余りの多さに間に合わず(最終的に60万点超の目録が完成したのは7年後)、法定管理人を選任して、5人の相続人の間で友好的な話し合いが始まる
75年央、パウロが肝臓癌で急逝
77年、マリー=テレーズが自殺。パブロとの別れが遠因で心身とも疲れ果てたのが原因
85年、国立ピカソ美術館が開館、未亡人のジャクリーヌがほぼ20年間守っていた信じられない内容の作品が納められ、彼女の役目は終わった。スペイン国家の大きな支援の下でマドリードで彼女のコレクションの大展覧会を企画、86年の初日の夜銃で自殺。彼女の連れ子カトリーヌはただ1人の相続人として、ピカソの遺産の重要な部分をも受け取った。なぜなら、ジャクリーヌは決定相続権を持たずに一番の受益者になっていたからで、さらにそこには膨大な数のジャクリーヌの肖像画と、24冊の重要なデッサン帳が含まれていて、いずれも90年に国立ピカソ美術館の収蔵品に加えられた
カトリーヌのコレクションは、03年パリのピナコテークが開館した際、「ジャクリーヌのコレクション」という名で初めて展覧会が開かれ、初めてコレクションの内容が部分的に明らかになった。同じような境遇となったカトリーヌとマヤは急速に親しくなり、悲嘆を分かち合った
最後のエピソードは、ピカソの伝説に並外れた事実を付け加えることで終わる。あらゆる悲劇の要素は、狂った幻影を、そしてまた不幸にも、下劣な物語と悩ましい噂を増強することになってしまった

第4章        ピカソと金
パブロは確かに人類史上最も裕福な画家
全作品のほぼ4/10は相続人たちに分配された
1901年、アンブロワーズ・ヴォラールに紹介されたが、大きな取引にはならなかったが、0607年に戻ってきていくつかの重要な作品を買い上げた中に、《アヴィニョンの娘たち》の予備習作があった。そのころ裕福なアメリカ人スタイン兄妹との付き合いも始まり、名前が話題に上り始める。ドイツ人のカーンワイラーも登場、初期のキュビズムの作品の成功で、ピカソの相場が爆発的に上昇(4,5年で20倍に)
パブロを国際的に知らしめた功績は、第1次大戦でカーンワイラーを継いだポール・ローザンベールと彼の共同経営者ジョルジュ・ウィルデンシュタインによるもの
画商に主導権を渡すことを嫌い、競わせてコントロールしようとした。画商たちが欲しがるものを与える代わりに、パブロが売りたいと思うものを提示。だからと言って、パブロがとても若い時から、芸術よりも財政面での野望が強かったということを意味するのではない。金なしで生きることは不可能であることを知っていたということで、いくつかの伝記では吝嗇だと書かれているが、それはパウロの娘で学費を払ってもらったことも忘れてさらなる庇護を求めて失敗したマリーナが広めた噂に過ぎない
5060年代にかけては、1100件以上の寄付の請願も受けていたし、事実多くの人々の必要に応えてもいた。極端な貧しさという経験を通して、お金を無駄に使わないことを習得。本質的に、最低限の生活をするために、自分をはじめ近親者、妻、愛人、子供たち、スペインにいる家族、政治的な原因で追い詰められている友人たち、古くからの関係者たちのために尽くした
非公式の組合のリーダーとして、常に芸術により大きな価値を与えることを目指す。芸術の市場が国際化した時代で、彼はその仕組みをよく理解し、支配することもわかっていた
1910年頃からパブロの生活水準は明らかに上がり、12年にフェルナンドと別れる頃にはゆとりすら出てきた。キュビズムの絵画以降世に知られ始め、「潮流」を先導
13年は、10年前にサロン・ドートンヌで新しい世紀の芸術を明らかにするために設立された「熊の皮(皮算用)」という名の投資ファンドが初年度マティス3点とピカソ10点を皮切りに、その後も年間予算を決めて買い進んだ145点の作品を途方もない値段で売却した年として記憶に残る
10年間で美術市場は急上昇、14年には20世紀最初の美術作品の競売も行われ、有名な画商やパリの上流社会の人々で埋め尽くされた
17年、オルガとの結婚により、彼女の導きで上流社交界入りを果たし、パブロはオルガの贅沢な浪費を黙認、優雅な妻を持ったことを自慢に思い、ひどい喧嘩の時でさえ、2人の間で金銭が不和の原因になったことはない
生活費において、家族や友人たちを援助することに躊躇しなかった。寡婦となった母親への送金はもとより、妹が亡くなった時には彼女の下に預けておいた初期の若い頃の絵画や、素描などの全作品を引き取って、義弟への財政的援助とした
マヤは、金銭に対していつでも自立した態度をとり、物欲に対してほとんど心動かされなかった。パブロがアパルトマンを買ってあげようとした時も断っているし、金銭の授受が自由を奪われることの代償であることをよく理解していた。パブロは、彼女の結婚に際し、持参金代わりに大金を贈る
クロードとパロマに対しても、終生扶養料を払い、フランソワーズの暴露本には激怒したが、支援を打ち切ることはなかった
卓越した美術史家は、パブロが極端に気前が良かったと評する。それは、彼が関わった人それぞれが自己実現することを望んでいたからで、自分に対しても支援を申し出てくれたし、若い写真家がカメラを壊して新しいのを買えないのを見て、最高級のカメラを買い与えたりした。若い頃出入りしていた娼館で出会い親切にしてもらった女が年老いて病床にあるのを助けもしている
ド・ゴール政府発行の新紙幣にスケッチをして、「これで倍の価値が出るぞ」といったような悪ふざけもしたり、海岸で絵を描いてくれと頼まれた時には、相手の素肌にスケッチしたために、風呂にも入れなくて困らせたりしたこともあった
彼自身も190708年の冬には不愉快な思いをしている。極貧生活の中勇気を奮い起こして銀行家でコレクターのレオ・スタインのところに絵を見せに行った際、常にパブロをラファエロと比較していたスタインは、「なぜだれも望まないような恐ろしい絵を描き続けるのか」といって、施し物をするかのように硬化を投げてよこした。施しを受けに行ったのではなく、ただ彼の妹が買ってくれるだろう絵を見せに行っただけなのに、手元に、画布もパンもなかったパブロは、硬貨を投げ返す代わりに掴んで立ち去ったという
1990年代初めに、ヴェトナムの孤児支援のためのマリーナ・ピカソ財団設立。パウロの娘が単独で出資して始まったが、実際には「孤児」でない子供が含まれていてスキャンダルとなり、国に接収。ピカソの家系に生まれたものが持つ特権として、私たちの11人が「再配分」に寄与したいと考えた
パブロが唯一惜しんだのは時間で、世界中に知られるようになってからは、家族との時間さえ削らざるを得なくなった
仕事に対する情熱は並外れていて、それに比べ金銭は何の価値もなかった
相続財産の総計は、1,372,903,256フラン(860百万ユーロに相当)
オルガとの共有財産は、結婚から1935年の「調停不可」決定の時まで、61年のジャクリーヌとの結婚からパブロが亡くなるまでが第2の共有財産の日とされ、表に出ていた作品もそうでない作品も同一の扱いで、機械的に嫡子のパウロの1/2の価値が非嫡子3人の取り分とされた。パウロの2人の子供には父親の遺産の取り分とオルガの遺産を加えた金額が均等に分配。パウロの未亡人クリスティーヌにはパウロの取り分の1/4を受け取る
全作品の評価は、芸術的な価値が均等になるように設定され、相続人がそれぞれ公平に、多くの傑作を受け取る。特に絵画を中心に10グループに分け、ジャクリーヌ3、マヤ、クロード、パロマ各1、マリーナとベルナール(パウロの子供たち)2という配分で籤引き
「寄贈」という代物弁済が適用され、あらかじめまとまった数の作品が除外された
財産目録は77年中に仕上げられ、その前年にはポンピドゥーが71年の盛大な式典以降検討していた国立ピカソ美術館(元の塩の館を改装)の館長が任命。79年には財務省が代物弁済としての「遺贈」を受け入れ、79年には作品の一部が一般公開
相続財産の支払いと並行して、倫理上の権利の行使が具体化 ⇒ 作品を公開する権利、父子関係を認められる権利、作品の名誉を保護する権利、作品を修復する権利で、パブロは存命中にこれらの権利を行使していた
倫理的権利は、共有財産のように、それに続く子孫に属する。ピカソの財産共有者は3人の子供と、75年からは亡くなったパウロの権利に基づき2人の孫が加わる。当初はジャクリーヌもいた。彼らは、作品の使用、複製、展示の許諾判断をする権利を集団的に所有、譲渡不可の権利はパブロ没後70年の2043年まで有効
ピカソの作品は、73年以降世界中で複製されるようになる。彼は仏著作権協会に自らの権利を委託していたが、通常とは異なる使用例(衣類や食器など)では財産共有者が個別に判断しなければならないため、共有者で社団法人を作って管理、20年後にはピカソ・アドミニストラシオン(財団)に発展
80年、アメリカ著作権協会から、事前の許可がないまま大量の多種多様な複製品が出回っているとの通報 ⇒ すべてマリーナ(パウロの娘)が相続した作品の複製で、マリーナが権利を売却していたことが判明
権利を買収した米社はピカソ遺族からの抗議を受けて、偽造活動停止の代償として今日の10億ユーロに匹敵する額を請求。仕方なく過去の経緯を追うのは断念し、新たな5年間の暫定協定が結ばれ、クロードが共有の権利を管理するうち、代理で管理していた仏著作権協会が95年に破綻、マリーナを除く4人の権利を保護するためにピカソ財団を設立し、世界中に出回っている700以上にも上る不法な「ピカソ」の商標を摘発
今日、ピカソの名前と作品の使用許可のあるライセンス契約が10件前後と少ないのは、管理の徹底と、相続者たちの用心深さの証明
世界中で毎年10件前後のペースで、回顧展が開催され、パブロの理念を示している
ピカソの芸術は20世紀の美術市場の発展とともに歩んだ。芸術家は作品の中に、お金の価値でははかれないような、11つの感動を幸運にも残した。理性よりも、心という彼の人間的な質を芸術に帰したかのように

第5章        ピカソと死
パブロは、ヴァチカンの教え以上の、より中世的なカトリック教義に従属した19世紀のスペインに、異端審問によって形成された厳格主義のスペインに生まれた。熱心なカトリックではなかったが、迷信や式典の儀礼に現れるスペインの伝統から逃れることはできなかった。すべては善か悪、吉か凶、神か悪魔であった。自らの死や恐怖に対して、作品を通して自らの問いかけを表わした
初めて死と向き合ったのは、1895年妹がジフテリアに罹って8歳で死んだとき。すべては運命に導かれるままという、彼の運命論の始まり
オルガと過ごした時代を除き、彼は質素で、つつましく、常に精神的目的に向けた生活の、常に芸術に「こだわった」生活の実践者
無神論者と言いながら、作品の中ではしばしば宗教的主題を拠り所にしていた
1896年制作の《初聖体拝受》は、パブロが晩年まで持ち続けた作品で、早熟な才能の証。同年の美術展に出品され、同年の大作《科学と慈愛》とともにバルセロナのピカソ美術館の傑作の一部(1970年本人寄贈)。一方で修道女の祈りを、他方で医者の知識という主題の両義性は、それ自体が大胆な試みであり、伝統に異を唱える同時代の連中が抱える困難に対し、規範を外れた革新者の覚悟を持って、秩序を破壊する表現形式に手を付けた
42年、パブロは娘マヤの洗礼に際し代父となる ⇒ オルガとの離婚が認められなかったためにマヤを認知できなかった代償
85歳の時の胆嚢の手術を除き、健康には全く問題がなかっただけでなく、「衰え」も見られないというお墨付きまでもらった

第6章        永遠のピカソ
どんな環境でも自己を開花させたいという抑えがたい欲求を持っていた
19世紀末、とりわけスペインに美術市場は存在せず、「芸術家」とはサロンやパトロンから恩恵を受けた人たちだった
印象派の芸術家たちは、芸術の新たな様式や、新たな経済構造と、さらには新たな名声の形を築いた先駆者であり、金と名声が同時にもたらされた
20世紀への移行は精神を強く刺激するもので、パブロは自分自身で何かをせずにはいられなくなる ⇒ 世界の中で最も華やかな都市であるパリに出て、将来へ一縷の望みを抱きながら貧しい芸術家生活を始めるという冒険を犯す
美術界で評判を生み出し、最初の成功体験をするが、あくまで美術界といった小さな世界でのこと。次いで、出版物やラジオ・テレビという技術革新によって世紀を揺るがす激変が起こりメディアの社会が生まれ、45年以降は世界中にその名が知れるようになった
彼は有名人であることを、どの程度自覚していたのか? それを意識したのはいつか?
パリ解放の日、アメリカ兵が訪ねてきたがその中にマーロン・ブランドもいた
名声と知名度を巧みに持ち続けることを知っていた。有名になるには、まずメディアによって、やがて大衆によって容易く覚えられる親しげな名前。次に、世の中にショックを与えること。最後に、「ピカソは良い奴だ!」という自らのイメージを丹念に仕上げること
政治にもかかわり、革命家だったが、あらゆる出来合いの観念と慣習を除いて、何も破壊することはなった
話すのが好きではなかった。フランス語を誤って使うことを恐れていた。自分の発言に尾ひれをつけられたり、誤解されて伝えられたりすることに苦しめられていた。冗談やユーモアが好きだったが、常に言いふらされ、誇張され、はね返ってきた。訛りのためにマイクの前で話すことに劣等感を感じていた。505355年と映画になった時も話さなくていいというので撮影され、56年にはカンヌで、59年にはヴェネツィアで受賞
パブロの情報伝達の才能は、極端な場合には、誰とも相通じないことで成り立っていた。最晩年は訪問者を拒否、平穏を望み、ジャクリーヌがそれを保証した
名声とスキャンダルは背中合わせだが、パブロは意識的に考えを練り上げ、神話を保ち続けることを自覚。《アヴィニョンの娘たち》が周囲の嘲弄をあったときから、自らの芸術的態度を表明することに固執して、勝った。現代芸術の考案者となり、偉大なる破壊者となった。私生活が明らかにされることは反発、訴訟費用についてのスキャンダルは収まるところを知らなかったが、人間としての生き方と芸術家としての生き方が、常に不可分に入り組んで結び合わされていて、パブロの場合は特に両者の間に乖離はない
20世紀初頭の愛人フェルナンド・オリヴィエの回想録や、フランソワーズの『ピカソとの生活』にパブロは激怒して訴えたが、後から読み返すと過剰反応だったことが分かる
54年、冷戦と共産主義の下での政治参加についてのメディア報道以降、インタビューは拒否したが、共産党の代表は受け入れ、党費を払い、画家として作品を提供することにより党を支持していた
65年以降は、パパラッチの餌食になったこともあり、ほとんど外出もせず、作品に集中。完全に物質的な束縛から解放され、ごく親しい同意見の仲間とだけ活発な政治的な会話や知的な論戦を交わした
スペインでは伝統と法律上、両親双方の名前の一部を組み合わせた姓を持つが、パブロは後に作品の署名には母親の姓だけ取ってPicassoとしたが、スペインでは二重のsが珍しいこともあって、「風変わりで響きがいい」ことを見出した。マティス、プッサン、ルソーも皆二重のsだったことも念頭にあった
パブロのイメージを広範に支配しているのは、彼が人の心をつかむ男だったということ。多くの女性をものにし、画商を操り、大衆まで操ったのか?
女性関係でいえば、だれにも嘘はついていない。パブロを導くのは心だけで、より大きな関心事は、決して誰も傷つけたくないということだったと思われる
画商との関係では、彼は強気だったが、それは仕事の成り行きを確認したいという理由から。彼の運命論的性格が、物事をなすが儘にしていたし、多くの疑問を持たずに、本能に従った。粘り強く、想像もつかないもの、漠然としたものを一所懸命追い求め、時に思いがけない出会いに身を置くほうがよいことを知っていた
マリー=テレーズが言ったように、パブロは「聖なる悪魔」だったが、また「素晴らしく並外れた男」でもあった


横尾忠則 書評委員が選ぶ「今年の3点」
20191228 500分 朝日
 (1)ピカソとの日々(フランソワーズ・ジロー、カールトン・レイク著、野中邦子訳、白水社6600円)
 (2)ピカソの私生活(オリヴィエ・ヴィドマイエール・ピカソ著、岡村多佳夫訳、西村書店・4180円)
 (3黒澤明羅生門(ポール・アンドラ著、北村匡平訳、新潮社2750円)
 今年の新刊は書評のために読んだ24冊が全てで、他に読んだ本は文庫本が数冊。だから、薦める本はやはり書評の対象になった中から選ぶしかない。
 ピカソの伝記を2冊評したが、どちらも知られざるピカソの内実が。かつてのピカソの愛人フランソワーズ・ジローと、娘のマヤの長男という身内によって書かれただけに、愛憎こもごも、読者にとっては大変興味深い。
 (1)の著者ジローはピカソによって訴えられることになるが、結局ピカソは敗訴することになる。
 (2)の著者はドキュメンタリー作家だけに構成が立体的に仕上がっている。
 (3)この映画によって世界には日本映画だけでなく、日本の文化、芸術がクローズアップされることになった。(美術家


好書好日 2019.11.30.朝日
横尾忠則
親しき者だけが知る、画家パブロ・ピカソの素顔
ピカソの孫である著者が、「女性」「家族」「政治」「金」「死」をテーマに、R・キャパやマン・レイによる貴重な写真と作品で、祖
ピカソの私生活 創作の秘密 [著]オリヴィエ・ヴィドマイエール・ピカソ
 本書は作品や写真が多数掲載されているせいか本文は横組み。その延長で書評も横組み。ピカソのキュビズムは縦横斜め回転。女性遍歴もその作品も20世紀の様式をひとりで駆け抜けた。91年の生涯を万華鏡的様式とその変化に寄り添った7人の女性とピカソの物語。
 ピカソにとって様式のマンネリは死をも意味する。その様式の変化の原動力は性愛のエロティシズム。ピカソの芸術に寄与、貢献した愛人と妻の愛と、創造の葛藤の歴史を、愛人マリー=テレーズの娘マヤの子、オリヴィエが綴る。ピカソの私生活と創作の秘密をドキュメンタリータッチでリアルに描く。身内の書いた伝記では他とは一線を画す不思議な愛憎のドラマとして興味津々。私事になるが本書の著者の母マヤとフランソワーズ・ジローの子クロードを知る者として、ピカソ一族には特別の興味を抱き続けている。
 話は変わるが、仏教用語に随縁という言葉がある。仏の縁によってものが変化する。特別の努力を必要とせずに成るように成る。新しい生き方を求めることによって新しい縁が生起する。
 ピカソの人生には常に随縁が関与するが、それが女性である。彼は自らの約束された運命を生き抜いた稀有な芸術家であるが、彼の様式の変化と、女性たちとの随縁による出会いは彼の芸術に不可欠である。彼の女性遍歴と作品の様式は奇蹟のように一体化し、二人の愛は二輪駆動車のように見事に回転する。が、それも束の間、新たな女性の出現によって、時には複数の女性を相手にする創造的必然に、追いつ、逃れつ、サスペンス映画の様相を呈することもある。
 ピカソ自身の本性は無垢な子供の魂そのものだが、子供同様、常に物事に飽き、流動する変化を愛し続ける。複雑な人生にもかかわらず、ピカソにとってはどこか遊戯的にさえ見える。台風の目の中心にいるピカソは周囲を振り回し、彼に関わった全ての女性や子供も、どこか悲劇的な運命に翻弄されていくが、彼の求める世界は常に芸術そのもので、それを支える女性は芸術必需品のように思えなくもない。
 彼は自身の子供や連れ子たちの名を作品番号のように誕生年で呼ぶ。1946、1947、1948、1949と。
 ピカソの死後、彼の作品や財産問題の整理を終えた最後の女性ジャクリーヌは、この壮大なひとりのまれに見る芸術家の物語の幕を引くように自らの命を絶つ。
 イスラム教徒がモスクの入り口で靴を脱ぐように、自分もアトリエの入り口で肉体を脱ぎ捨てるのは画家が一般的に長生きする理由だとピカソは最後に結ぶ。
    
 Olivier Widmaier Picasso 1961年、仏生まれ。2744年までパブロ・ピカソの愛人だったマリー=テレーズ・ワルテルの娘マヤの息子。映像プロデューサー。パブロと死の直前まで手紙を交換していた。




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パブロ・ピカソ(Pablo Picasso [ˈpaβlo piˈkaso]18811025 - 197348)は、スペインマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家素描家彫刻家
ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯におよそ13500点の油絵素描10万点の版画34000点の挿絵300点の彫刻陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。
l  名前[編集]
ピカソの本名は、聖人縁者の名前を並べた長いもので、出生証明書によると、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picass(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ)」である。 洗礼名は、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Crispiniano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。画家として活動を始めたピカソは、はじめパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、ある時期から父方の姓のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになった。
l  年表[編集]
18811025日午後1115分、スペイン南部アンダルシ地方マラガ市のプラス・ラ・メルセド15(当時は36)に生まれた。長男。父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス。
1891ガリシア地方ラ・コルーニャに移住。父ドン・ホセは同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。
1892、ラ・コルーニャの美術学校に入学。
1894、父、ホセは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に自分を凌駕している息子の才能への賞賛が原因とされる。
1895バルセロナに移住、美術学校に入学。1月の猶予のある入学製作を一週間で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。
1897、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』がマドリードで開かれた国展で佳作(奨励賞)の評価を得て、2週間ほど展示される。後にマラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、ピカソはアカデミズム・学校で学ぶことの無意味さを悟り、中退する。プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写をすることで絵画の道を求めていった。
1898、春猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロで療養。
1899、バルセロナに戻る。バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。バルセロナ画壇の大御所、ラモン・カザスに代わり、メニューの表紙イラストを手がけることになる。
190021日、再びピカソの個展が開催され、アール・ヌーヴォーの影響が色濃い線画が約150点が展示された。カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。
1901、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで初の個展。「青の時代」の始まり。
1902画廊であるサラ・パレースでカザスとの二人展を開催する。10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む。
19044月、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。
1905、「ばら色の時代(Picasso's Rose Period)」または「桃色の時代」が始まる(~1906年)。ガートルード兄妹のパトロンを見つける。
1909、フェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。
19119月、ルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の1人として逮捕された(ただし1週間で釈放された)。
1913、父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。
1916、パリ郊外モンルージュに移る。
1917、バレエ『パラード』の装置、衣装を製作。
19181月、オルガ・コクローヴァと結婚。パリ8ラ・ボエシー (Rue La Boétie) に移る。
19195月、ロンドンで『三角帽子』の装置、衣装を製作。
1920、『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。
1921、息子パウロ誕生。
1922コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。
1924、バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置、衣装を製作。
1928、彫刻に専心。
1930、『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。
1931、『変身譚』の挿絵を制作。
1932、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。
1934、スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。
1935、娘マハ誕生。詩作。
1936人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。パリ6グラン=ゾーギュスタン河岸 (Quai des Grands-Augustins) 7番地に居住(1955年まで)。
1937、『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、『ゲルニカ』製作。
1939ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。
1940ナチス・ドイツ占領下のパリへ帰る。ナチにより解放されるまでパリを離れることができなくなった。
1941、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。
1944パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。
1947、息子クロード誕生。陶器製作。
1949、娘パロマ誕生。
1951、『朝鮮の虐殺』製作。
1952、『戦争と平和』のパネルを制作。
1953、リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。
1954、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。
1955カンヌ「ラ・カルフォルニ」に住む。妻のオルガが死去。
1958、『イカルスの墜落』製作(パリ、ユネスコ本部)。
1961、ジャクリーヌ・ロックと結婚。
1964、日本、カナダで回顧展。
1966、パリ グラン・パレプティ・パレで回顧展。
1967シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。
1968版画に専心、半年間に347点を製作。
1970アヴィニョン法王庁140点の新作油絵展。バルセロナのピカソ美術館開館。
197348午前1140分(日本時間午後740分)頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。ヴォーヴナルグ城に埋葬された。
l  作風[編集]
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。
19歳のとき、親友のカサヘマスが自殺したことに大きなショックを受け、鬱屈した心象を、無機プロシア青を基調に使い、盲人娼婦乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。現在「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。
Ø  ばら色の時代(19041906
フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族兄弟少女少年などを描いた。1905年に、ガートルード兄妹のパトロンを見つける。
Ø  アフリカ彫刻の時代(19061908
アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻の影響を強く受けた時代。1907年に、キュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。
Ø  原始的キュビスムの時代(19081909
1908年にはアフリカ彫刻の影響が色濃く現れながらも、原始的キュビスム(初期キュビスム/プロトキュビスム)といえるキュビスムが確立され始める。ポール・セザンヌの影響も強く伺えることから、セザンヌ的キュビスムということもある。
19095月、ピカソはフェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。
Ø  分析的キュビスムの時代(19091912
1910年後半から1911年にかけて対象の分析はさらに進む。この頃には、原始的キュビスムの時代にしばしば描かれていた風景画はほとんど描かれることはなくなり、人物や静物が主な対象となる。対象が徹底的に分解され、何が描かれているのか識別することが困難なところにまで到達する。広義的には抽象絵画ともいえるが、あくまで具象絵画である。
Ø  総合的キュビスムの時代(19121921
総合的キュビスムでは、印刷物などの紙や新聞紙、壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュ(パピエ・コレ)が導入される。これはマルセル・デュシャンレディ・メイドの先駆である。また、分析的キュビスムの時代には抑えられていた色彩表現が復活した。1914年頃から緑を基調とした、装飾的なキュビスムを描き始める。装飾的で優雅な表現であることから、ロココ的キュビスムと呼ばれる。
Ø  新古典主義の時代(1917 - 1925
1914年に勃発した第一次世界大戦のために、ジョルジュ・ブラックや友人が徴兵され、キュビスムの共同作業者や擁護者を失ったこと、バレエ・リュスとの共同制作や、それに伴う初めてのイタリア旅行で古代の都市や遺跡を訪れ、ルネサンスやバロックの名品を目にする機会が重なったこと、オルガの「わかりやすく描いてほしい」などといった言葉が影響し、新古典主義の時代に突入する。妻オルガと息子パウロをモデルにすることが多く、どっしりと量感のある、身体に比べて大きい手足、彫刻のような肉体、額から続く高い鼻などが特徴である。
Ø  シュルレアリスム(超現実主義)の時代(19251936
1925年頃にシュルレアリスムに興味を持ち、シュルレアリスムのグループ展に参加する。妻オルガに対する不満が大きく膨らんだ時期に描かれた『三人の踊り子(ダンス)』や『磔刑』などが代表作。
Ø  ゲルニカ、戦争の時代(1937 - 1945
ナチ・ドイツ(実行したのはドイツ空軍のコンドル軍団である)がスペインのゲルニカを爆撃したことを非難する大作『ゲルニカ』や、その習作(『泣く女』など)を描いた。
Ø  戦後の時代(1946 - 1953
この時期には陶器を多く手がける。
Ø  晩年の時代(1954 - 1973
過去の巨匠の作品のオマージュを手がけたり、油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。自画像も多く手がけた。1965年から最晩年と見なすこともある。
l  私生活[編集]
ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。パリ時代初期には、モンマルトル洗濯船モンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネールガートルード・スタインアンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。
正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエen:Fernande Olivier)だが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァ・グールfr:Eva Gouel という名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle Humbert)と付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA JOLIE)」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は結核を患い、1915年に亡くなった。
1916、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーで貴族出身のオルガ・コクローヴァen:Olga Khokhlova)と知り合い、1918に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。二人のあいだには息子パウロ(Paulo)が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。
1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテルen:Marie-Thérèse Walter)と出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。ピカソとオルガは1935に別居した[12]が、結婚そのものは1955にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マヤ(Maya)が生まれた。
またピカソは1936から1945まで、カメラマンで画家のドラ・マールen:Dora Maar )と愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。
1943、ピカソは21歳の画学生フランソワーズ・ジローen:Françoise Gilot)と出会い、1946年から同棲生活を始めた。そしてクロードen:Claude Picasso)とパロマen:Paloma Picasso)が生まれた。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、19532人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている。
しかしピカソはすぐ次の愛人ジャクリーヌ・ロックen:Jacqueline Roque)を見つけた。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたと言われている。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚すると、ピカソは既にジャクリーヌ・ロックと結婚していた。
このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。
ピカソが亡くなったとき、長男パウロとパウロの長男(ピカソの孫にあたる)パブリートはすでに死んでいた。パウロは酒と麻薬に溺れて身体を壊し、パブリートは自殺だった。ピカソの遺産は後妻のジャクリーヌが3割、早逝した先妻オルガと長男パウロの取り分4割を、パウロの子供であるベルナールとマリーナが2割ずつ、非嫡出子であるマヤとクロードとパロマは1割ずつで分けられた。
ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは後に自殺している。フランソワーズ・ジローは、現在まで画家として旺盛な創作を続けている(2010年に東京で日本初の個展を開催)。ピカソの孫にあたるマリーナ(Marina、パウロの長女)の著書には、「いいおじいちゃんになる方法を教えてあげられれば良かった」という言葉がある。
l  イデオロギー[編集]
l  左翼・反体制思想[編集]
第一次世界大戦スペイン内戦第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランス2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった[14]
ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちと付き合ったが、結局運動には参加しなかったという経歴がある。
スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。
スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。現在はマドリードソフィア王妃芸術センターに展示されている。
1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。
l  フランス共産党員[編集]
1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。1950ターリン平和賞を受賞し、1962レーニン平和賞を受賞した。
l  晩年[編集]
1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ィエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤプッサンマネクールベドラクロワでも同様の仕事をしている。
1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。この映画は1956年の9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984にはフランス国宝に指定されている。
ピカソの最晩年の作風は、彼がそれまで経てきたスタイルの混合である。ピカソは最後のエネルギーを制作に注入し、より大胆に、カラフルで激しい絵を描いた。
1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚して女性器を露わにする女性たちを描いたものがある(これは、現代写真家のペッター・ヘグレに影響を与える。)多くの批評家がこれを「不能老人のポルノ幻想」、あるいは「時代遅れの画家のとるにたらぬ絵」とみなした。長い間支持者として知られた批評家のダグラス・クーパーさえ「狂った老人の支離滅裂な落書き」と評した。しかしピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。
晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。
l  死後[編集]
ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインではバルセロナ1963年にピカソ美術館 (バルセロナ)が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガカソ美術館 (マラガ)を開館した。
ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。また友人の画家(アンリ・マティスなど)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を徴収し、1985年に国立ピカソ美術館を開館した[17]。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3,000点を所蔵している。
このほか、アンティーブカソ美術館 (アンティーブ)カンヌ近郊のヴァロリスピカソ美術館 (ヴァロリス)が存在し、パリと合わせてフランスには合計3つのピカソ美術館が存在する。
1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。
l  オークション落札額の推移[編集]
2004年、ニューヨークサザビーズ競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が14168000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。20065月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が95216000ドル(約108億円)で落札された。
201054日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークのクリスティーズで約1650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。それまで(20102月当時)の最高額はアルベルト・ジャコメッティのブロンズ像『歩く男』の約1430万ドルだった。
200610月、ラスベガスホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィンが、13900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。
20127月、オランダクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネルシアン・フロイドの絵画と共に盗難される。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた。
2015511日には、ニューヨークのクリスティーズの競売で、ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」が179365000ドル(約215億円)で落札され、絵画取引の最高額を更新した。
201858日、クリスティーズで『花のバスケットを持つ裸の少女』が11500万ドル(約125億円)で落札された。
l  家族[編集]
ピカソにはかけがえのないパートナーがいた。それは鳩である。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。アトリエには妻さえ入れなかったが、鳩は特別に入れていた。フランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘に「パロマ=鳩」と名付けた。パロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、1980年からはティファニー社のデザイナーとして活躍している。
l  語録[編集]
「明日描く絵が一番すばらしい」
「ミュージアムをひとつくれ。埋めてやる」
「絵画は、部屋を飾るためにつくられるのではない。画家(私)は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」
「労働者が仕事をするように、芸術家も仕事をするべきだ」
「誰でも子供のときは芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」
「昔、母は私にこう言った。お前が軍人になれば、将軍となるでしょう。修道士になれば、法王となるでしょう。そして私は画家となり、ピカソとなった」
「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」
「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」
スペイン内戦は、スペイン人民と自由に対して、反動勢力が仕掛けた戦争である。私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。私が反動勢力すなわち死に対して賛成できるなどと誰が考えることができようか。私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する。」(「ゲルニカ」制作時の声明より)




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