『江戸大地震之図』を読む  杉森玲子  2020.4.3.


2020.4.3.  『江戸大地震之図』を読む

著者 杉森玲子 1969年東京生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東京大学史料編纂所准教授。博士(文学)。専門は日本近世史。2017年より東京大学地震火山史料連携研究機構准教授、2019年より東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター准教授を兼任

発行日           2020.1.27. 初版発行
発行所           KADOKAWA (角川選書)


震災を描く絵巻から幕末の政治と江戸の社会を読み解く
国宝・島津家文書の中の『江戸大地震之図』。ほぼ同じ絵巻がアイルランドのチェスター・ビーティー図書館にあり、近衛家に旧蔵されていたという。2本の絵巻はなぜ作られたのか。地震による混乱と復興はどう描かれているのか。薩摩藩邸とそこにいた篤姫を描く意図は何か。画像を解析し、文献史料をあわせて読むと、地震にとどまらない事実が浮き彫りになっていく。安政江戸地震を通して幕末の政治と江戸の社会を語る絵画史料に迫る


はじめに 絵画史料として読む『江戸大地震之図』
平安から幕末維新までの15,000点余りからなる島津家文書の一部。全体は質量とも武家文書の白眉といわれ、02年国宝に指定、東大史料編纂所所蔵
前後の場面も合わせると10mを超える絵巻がいつ、誰によって、何のために描かれたのかは、奥書や落款もないためはっきりしない
もう1つの謎は、ほぼ同じ図様の絵巻『安政大地震災禍図巻』がアイルランドにあるが、こちらは奥書はもとより題簽(だいせん)すらない
安政江戸地震の震源については諸説あるが、マグニチュード7程度、最大震度6の直下型地震。100万都市の江戸では、1703年の元禄地震以来150年ぶりの大地震で甚大な被害が生じた
死者総数7,095
内閣府が被害想定を行う首都直下型地震のモデルとされる
地震直後から、揺れや火事による被害を伝える摺物が大量に流布
摺物には、幕府が3日後から設けた御救小屋の場所が記載され、情報が更新されていく
『江戸大地震之図』には、被害状況は細密に描かれているが、詞書(ことばがき)はない
文献資料には、島津家から近衛家に嫁した夫人に地震の様子を伝えるため島津家で作成したものの写しを送ったという両本の関係が記されたものもあるが、年代的に矛盾し成り立たないことが判明
2013年、絵画史的アプローチにより両本の比較検討が初めて本格的に行われ、概ね同じ長さで同じように描かれているが、細部の表現では違いがあることが明らかにされたものの、制作目的については、文献資料による裏付けができず、絵画表現の分析から、『江戸大地震之図』は島津家が注文し、同家の人々の関心を満たすべく作られた映画作品のようなものとしているのは従来通り
両本とも絵画作品として注目されることはあっても、絵画史料としては検討されてこなかった。絵巻が全体として何を表現しているのか、十分に読まれてこなかった
絵画作品を資料として読み、そこから歴史を明らかにすることの重要性は、1980年代以降、相次いで発表されてきた絵画史料論の豊かな成果が示している
『江戸大地震之図』は、島津家文書とは別に保管されていた「島津家所蔵御手許書類」に含まれていた
本書では、主に『江戸大地震之図』(島津本)に拠りながら、これを絵画史料として読むことを試みる。この絵巻に何が、どのように描かれているのか、関連する文献資料をあわせて読むとともに、『安政大地震災禍図巻』(近衛本)の伝来の経緯を見直し、両本の関係からもその史料的性格を考える。それによって、絵巻の生まれた状況が明らかになり、幕末の政治状況や江戸の都市社会の姿の一端が見えてくることになるだろう

第1章     にぎわう町並み
青々とした松に紅葉が映える描写から始まる。101日開催の炉開きの模様が描写
茶室は黒塗りの板塀に冠木門を構えた屋敷の一角にある
城の入り口に二重に門を配置した桝形の近くで御用提灯を掲げている小屋は、江戸城の幸橋門か外(新橋1丁目)に設けられた御救小屋と考えられる ⇒ 地震直後に設置
御救小屋の手前で雪の中を歩く行列に注目 ⇒ 「め」組と増上寺門前の町の名がみえる
古着屋が軒を並べるのは(日本橋)富沢町、隣は古道具屋

第2章     冠木(かぶき)門を構える屋敷
幕府に仕えるものが、拝領した町屋敷を貸して収入を得ることは広く行われていた
大奥女中も屋敷を拝領。拝領した町屋敷は本人に、その死後は養女に、一生あるいは縁付まで下され、該当する期間が過ぎると上がり屋敷となって、同格の女中など他の者が再び拝領するというのが一般的
抱屋敷は多くの場合、武家が郊外の百姓地を購入し、敷地を囲って家作を設けたもので、年貢・諸役を負担するのが原則。武家屋敷と並び立ち、武家が借用していた例もある
幸橋門外(現・新橋第一ホテル辺り)にあったそれらの屋敷が描かれている
冠木門は、15人扶持(75)という泰然の禄高に対応する形式
屋敷の場所を特定する際の参考になるのは、門前を歩く2人の乞食の姿。江戸では府内を4人の非人頭が分割し、その支配下ある非人は河岸端などの小屋に住んで、決められた範囲を勧進に回っていた。施しを受けようとするこの2人が非人集団に属していたかどうかは判然としないが、幸橋の東に架かる土橋の南詰には非人小屋があり、その向かい側に描かれている武家屋敷があったところから、巻頭の屋敷が幸橋門外のものだとすれば、その屋敷の門前を乞食が歩く姿は近くに非人小屋が位置する状況とも重なる
以上から、巻頭では幸橋門のほうから見た門外の光景が描かれ、巻末では幸橋門外から門のほうを望む(ママ)構図になっていて、お互い対をなしている

第3章     雪の中の行列
巻頭の紅葉と巻末の雪も対をなすと同時に、経過した時間を印象付ける
雪の中の行列に注目すると、複数の町の人々が町ごとに並び、幸橋門近くまで歩いてきた姿を表現しているものとみられる
古くからある町の名主の日記から地震後の町の状況をミルト、夜11時ごろに発生した地震は、居宅より土蔵の損傷が大きく、翌日にかけて30回以上の余震があり、直後の火事でも多くの死者が出たという。町会所が握り飯の炊き出しを行い、御救小屋が設けられた
江戸の名主は1831年現在で246人。1番組から21番組と、品川・新吉原をあわせ23の組合に分けられ、組合を通じて握り飯に代えて白米が配られた
その日稼ぎの者のうち特に困窮しているものは御救の対象とするため、組合毎に人別帳を作成。一例では約70%が窮民に該当し米の配給を受けたが、江戸全体では381,200人余が配布を受けた。配布が終わったのは1224日で、20日未明から雪が降りだした
雪の積もる中を町ごとに並んで歩く行列は、米の配給を受領するためのものだった

第4章     島津家と近衛家
薩摩藩の芝屋敷は大破、島津斉彬は家族とともに渋谷屋敷(現・渋谷区東4丁目)に移る
島津家一門の今和泉島津家の当主島津忠剛(ただたけ)の長女として生まれた篤姫は、将軍家定の後妻候補となり、伯父斉彬の実子として届けられ一子から篤姫と改名、家斉に嫁した広大院の例に倣い、近衛家の養女として嫁がせることとし、地震の2年前には芝屋敷に到着していた
その翌年、京都女院御所からの出火は仙洞御所から内裏まで及び、新内裏が造営されるが、そのための材木を運ぶタイミングで11月には東海、南海と相次いで地震が発生、船が難破する
地震もあって先延ばしされた篤姫の婚儀は、翌年初には内意があり、7月には近衛忠煕の養女敬(すみ)子となって、12月婚礼。縁談の申し入れがあってから6年経過

第5章     大名屋敷と江戸城
地震で打撃を受けた町並みが描かれている中、薩摩藩の芝屋敷についても大破する中で斉彬と正室恒姫、養女篤姫が救出される様子も描かれている
渋谷屋敷は、もともと越後村上藩下屋敷18,000坪で、内陸の台地にあり田畑に接していたものを、異国船が来航する中、海岸に近い芝屋敷や高輪屋敷に何かあったら困るということで、篤姫が上京する1年前に4,400両余りで購入
屋敷の庭には常盤御前が植えたと伝えられる古い松があり、常盤松と呼ばれ、絵図にも場面を転換させる松として描かれているが、1945524日夜の大空襲で焼失。現在、跡地には石碑が建つ
斉彬の国元への文書では、まずまず他と比べればいいほうだといい、同藩の桜田屋敷や高輪屋敷は死者が出たが、芝屋敷では怪我人もなく、大破したが焼失はせず、江戸では第1の無難とされ、地震後の大名屋敷の描写はこの点にも適っている
屋敷は、内側に置いた視点から屋敷内の人や建物の様子を描いている点に大きな特徴があり、焼失した屋敷が外側から見る構図になっているのとは好対照 ⇒ この屋敷の内部の者が無難だった事実を伝える意図をもって『江戸大地震之図』を制作させたことが想定され、注文主は島津家と考えられる
巻頭に描かれた幸橋門外の屋敷は、家定の誕生以来家定付きの奥医師のものであり、多くの屋敷がある中で奥医師の屋敷を内部の人物共々描き、門外のその屋敷から始まり、門外から江戸城を望んで終わるという流れには、家定に結び付く要素が含まれていると考えるべき。屋敷を描いている構図も、桜田屋敷に視点を置けば、左手幸橋門の先に奥医師の屋敷を見る形となって、巻頭と同様の構図となり、『江戸大地震之図』が幸橋門外の屋敷を描いて始まるのは、島津家の視点に立っていることの表れと理解される
幸橋門外の光景は主題や注文者と深く関わるもので、『江戸大地震之図』が地震による被害や江戸の復興の様子を主題としているだけでなく、地震で遅れていた家定と篤姫の縁組をもう1つの主題としていると考えられるところから、注文者は島津家の中でも縁組成就に向けて尽力した斉彬に違いない

第6章     絵巻の制作と伝来の経緯
1977年以降、島津家文書の整理が進められた
近衛本が、近衛忠煕公のために描かれたと伝えられ、近衛家に所蔵されてきたという事実は、忠煕の養女となった篤姫に関わる主題が含まれていることとも整合性がある
料紙や装飾に明らかな違いがあり、島津本には楮(こうぞ)紙が使われているのに対し、近衛本にはより大型で上質の鳥の子紙が使われ、紙の上下には金霞が引かれているのは、近衛本が贈るために制作されたことを物語る
斉彬は別途忠煕宛の書状で、地震により縁組の沙汰が遅れる心配を伝え、関係者への働きかけを期待する旨書き送っており、地震の状況を伝えたかった斉彬が近衛本も同時に発注したと考えるのが自然
両本の細かい差異から、島津本がまず描かれて、それを参考にして近衛本が制作されたとみられ、島津本の制作時期は、雪が降った年末から1か月ほどの間に描かれたものと推測される
近世後期になると、薩摩画壇は幕府の奥絵師をつとめた木挽町狩野家と繋がりを強めるが、篤姫婚礼の際も狩野家当主が深く関わっているところから、近衛本の制作は当主が手掛けた公算が大きい。島津本については、藩内にいた狩野派の高弟がまとめたものと思われる
斉彬が忠煕に直接会ったのは安政44月。国元に向かう途中、地震と篤姫の婚礼の後初めて会い、翌年鹿児島で亡くなっているので、この時が唯一の機会。忠煕は日記をつけていたが、それらしき記述はない。ただし、日記は欠年や記載のない日も多い
幕末から明治維新の混乱期に絵巻を制作する余裕は他藩にはなく、進まぬ縁組という主題を持つ両本は、島津家と近衛家の固有の関係の下で制作されたものであり、類例が見られないのはそのためではないか

第7章     混乱する江戸
両本の史料としての可能性は、まだ十分には引き出されていない
地震史料、絵画史料として研究の可能性を残す
江戸の大火を主題とした絵巻のうち、江戸3大大火の最初である明暦3(1657)の大火を描いた『江戸火事之図』は、内容的に最も早い時期のものだが、時間を追って場面が展開していく構成をとっていない。これに対し、3大大火の2番目の明和9(1772)の目黒行人坂の火事以降を描いた絵巻は少なくとも15本が知られ、火事が起きてから火消しの活躍で鎮火に至り、復興に向かう様子を描くという構成になっている
従来、詞書のないこうした火事絵巻は特定の火事を記録したものではなく、鑑賞用に作成されたと言われてきたが、史料として読めば制作目的が違って見える
地震や火事による被害とその後の状況を反映した描写を両本から見出し、混乱する江戸の様子と復興への歩みを辿る
火事が収束に向かうのに従って、人々の様子も変化
被災地に立つ木札は、建物に被害の出た者が仮住まいや仮営業の場所を周知する目的で立てた可能性が高い
食べ物や飲み物を扱う者の姿も散見
市中が混乱する中、諸商人は居宅に被害が出ていても、大勢の人が難儀するので、それぞれ持前の商売をするよう強く求められ、心得違いにより商売をいわれなく休む者がいたら厳しく対応するとのお触れが回る ⇒ 木札も、地震の3日後に出された町触で、人々が困らないよう市中での商売の継続を重視する方針が示された中でのこと

第8章     復興への歩み
3日後の町触は、町奉行所から直接名主を通じて出されたもの
内容は、商売の継続、両替の対応、職人などの雇上げ、飯米の販売、往還通行の確保
余震もあって往還に野宿する者が絶えなかったが、6日後の雨で様子が変わる
幕府による御救小屋の開設で、日雇など野宿を収容、2,697人に上ったことが記録
町方では、富裕な町人が金や米を施したり地代や店賃を免除したりしたが、寺院や武家による施行(せぎょう)も広く見られた
絵画史料としては、薩摩藩主島津家の視点に立って設定された構図を持ち、大地震による混乱と幕末の政局という条件の重なったところで生み出されたもので、社会の動きと不可分の政治状況を体現した史料として捉えることができる
一般に絵巻は詞書と絵を交互に配列することによって物語を表現するが、詞書のない両本の画面は、全体でひと続きになっていて、連続的に示した特定の場所を描くことに意図があり、その途中にある大名屋敷の被災した様子を内側から描いて、固有の題材と構成を持つ作品になっている
また、両本は当時の江戸で見られたであろう光景を時間的な幅を持って描いている点でも他に例を見ない。文献だけでは伝わりにくい内容を絵巻の描写から視覚的に理解することができる点にも絵画史料としての力が発揮されている ⇒ 双子の絵巻は、江戸の社会の姿を伝えるとともに、幕末政治史の過程を物語る類稀な絵画史料



おわりに 絵巻が語る幕末の政治と社会




「江戸大地震之図」を読む 杉森玲子著  幕末の震災描いた絵巻解読
2020/2/29 日本経済新聞
江戸末期、1855年秋の安政江戸地震は首都直下型で犠牲者7000人を超えた。被災のもようを描いた絵巻「江戸大地震之図」が薩摩の島津家文書に伝わっていて、ほぼ同じ絵柄のものが公家の近衛家にも旧蔵されていた。10メートルを超す絵巻2つは誰がいつ何のために描いたのか。東大史料編纂所の研究者が詳細を探ると、隠れたテーマが浮かび上がってきた。
まず絵巻に登場する幕府の御救小屋、火消し「め組」の旗、小道具店や古着店、通行人などの細部を手がかりに古地図や文献史料とつき合わせ、絵巻の舞台を江戸城南側の芝周辺と特定する。芝には薩摩藩上屋敷があり、絵巻にも半壊した屋敷と島津家当主の斉彬と娘の篤姫が描かれていたと突き止めた。
数年前には篤姫と13代将軍家定の縁組が持ち上がっていた。斉彬は篤姫を家格のある近衛家の養女にして嫁がせるつもりだったが、震災前のペリー来航による混乱で縁談は進んでいなかった。地震での篤姫の無事と、縁組がさらに遅れることを近衛家に知らせようと、斉彬が絵巻を作成したというのだ。
ほかにも当時の文献が「大つぶれ」と表現した芝の近くの家屋倒壊や、幕府が配る御救米を待つ被災者の行列が描かれていて、絵巻は震災史料としての価値も高いという。(KADOKAWA1800円)


カドブン
安政江戸地震を描いた絵巻が見事に読み解かれた『「江戸大地震之図」を読む』
(評者:黒田 日出男 / 東京大学名誉教授)
 一八五五(安政二)年十一月十一日夜に、江戸を大地震が襲った。「安政江戸地震」と呼ばれる地震だ。マグニチュード七、最大震度六強と推定されている直下型地震である。この大地震についての絵画史料としては「鯰絵」が有名だが、大地震そのものを描いてはいない。
 この大地震の発生から復興に至るプロセスを実にリアルに描いた絵巻(画巻・図巻)が、二つ残されている。一つは島津家旧蔵で、東京大学史料編纂所の所蔵であり、今一つは、近衛家旧蔵で、アイルランドのチェスター・ビーティー図書館にある。なんと両者の描写は瓜二つだ。
 冒頭には昼間の江戸の一角が描かれている。やがて夜になり、人々は寝静まった。霞で区切られた次の画面では一瞬にして家々が倒壊し、人々は道路に飛び出している。崩れた家屋には、下敷きになった母子らの姿が見える。この惨状に続いて描かれた大名屋敷の一角(練塀の内側)には畳が二枚敷かれ、殿様と奥方・娘らがおり、侍女や家来が駆けつけてきている。ここには殿様の仮屋が作られるようだ。遠くの町に火の手が上がっている。ここで松の大木によって場面が転換し、町々の炎上が描かれ、町人たちは襖などで扇いで延焼を防いでいる。倒壊を防ぐためのつっかい棒をした家々が続き、焼け落ちた大名屋敷や町家があり、死者の葬送や人々の仮住まいの様子が描かれている。その先は雪景色だ。地震から二、三カ月のうちに大雪が降ったらしい。そこに「め組」の旗を立てた町人の行列が進んでいく。御救小屋が描かれているので、そこへ向かっているのだろう。雪だるまが作られているその先では、土蔵普請が行われている。早くも復興が始まっているのだ。江戸城の門も修復が始まっており、登城する武士の一行がある。こんな具合に「安政江戸地震」の直前・発生・直後の避難生活・御救小屋の存在・復興の息吹などが時系列に沿って描かれており、本当に興味深い絵巻なのである。
 この両絵巻については、地震史の研究者と近世史(幕末史)家、文学研究者や美術史の研究者などが関心を持ち、いくつもの解説が書かれてきている。がしかし、どれもあいまいな記述に留まっており、「江戸大地震之図」は絵画史料として読解されていないと私は感じてきた。この絵巻こそ幕末期の稀有な絵画史料なのではあるまいかとも思っていた。しかし、私は幕末史については素人だ。安易に手はだせない。
 そもそも、この両絵巻は安政江戸地震をどのように描いているのであろうか? いったい何処が描かれているのだろうか? 二つのそっくりな絵巻が作られたのは何故なのか? 誰が何のために両絵巻を作らせたのか? この両絵巻を見たのは一体誰なのだろうか? これらの疑問を解き明かす本格的な絵画史料読解が試みられるべきだろう。
 ところが、「江戸大地震之図」の諸々の謎を周到に読み解いた本書がいきなり登場したのだ。杉森は、「江戸大地震之図」の全体を丁寧に観察し、その細部に着眼点つまり読解の糸口を見つけていく。絵画史料読解にとって何より大切なのは、カギとなる着眼点の発見だが、それが的確になされている。そして、一つひとつの細部の表現の読解にさまざまな地図史料や文献史料が関連付けられ、的確な解釈がなされていく。幕末期の諸史料の縦横無尽な活用によって、「江戸大地震之図」は絵画史料へと変身を遂げていくのである。
 本書の読者は、最初は少々まどろっこしく感ずるかも知れないが、直ぐにここまで読めるのかと驚き、納得ずくの読書を楽しめることだろう。「江戸大地震之図」は、杉森の読解によって安政江戸地震だけでなく、幕末の都市社会史や政治史の絵画史料にもなったのである。正直に言って私は、杉森がとても羨ましかった。幕末期の膨大な諸史料の存在は本当に物凄い。これらの膨大な諸史料が、本書のように確実で豊饒な絵画史料読解を可能にしてくれるのだから。
 さまざまな視点(関心)による「江戸大地震之図」の読解(発見)は、本書を基盤にして始まるだろう。のみならず、本書は幕末の絵画史料論の起点となるに違いない。


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安政江戸地震は、安政210218551111)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震である。世にいう安政の大地震(あんせいのおおじしん)は、特に本地震を指すことが多く、単に江戸地震とも呼ばれる。
南関東直下地震の一つと考えられている。
l  地震の概要[編集]
特に強い揺れを示したのは隅田川東側(江東区)であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及ぶ。
近代的な観測がなされる前(明治17年以前)に発生した歴史地震であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や前兆現象の記録などから、北アメリカプレート内部の内陸地殻内地震(大陸プレート内地震)、北米プレートに沈み込むフィリピン海プレートによるプレート境界地震、フィリピン海プレート内部のスラブ内地震、北米プレートに沈み込む太平洋プレートによるプレート境界地震などと推定されている。震源は東京湾北部・荒川河口付近、または千葉北西部と考えられている。
震源の深さについても諸説あり、深さ約40km以下の浅い場所で発生したM6.9の地震とするもの、フィリピン海プレート上面で発生したプレート境界型地震、古記録から初期微動の継続時間が約10秒と読み取れることから深さ100km程度、などである。
東京湾北部の市川市付近で深さ70kmフィリピン海プレートに関係するものだとされた。
震度分布を東北や北信越まで広げて分析した結果、フィリピン海プレート内部地震である2005年の千葉県北西部地震(深度74キロメートル、M6)と類似点が大きく、同地震での深度を約60キロメートルでM7と設定してシミュレーションした時、隅田川河口付近の活断層を震源とした場合では生じてしまう関東各地の震度分布の不整合が克服され、文献等の記録とほぼ一致するなどの報告がある。
l  規模[編集]
河角廣は現・足立区付近(北緯35.8°東経139.8°)に震央を仮定しMK = 4としてマグニチュード M = 6.9を与えていた。宇佐美(2003) M = 7.0-7.1としている。引田(2001)は強震動のシミュレーションから M = 7.4が妥当としている。
被害の状況[編集]
この地震に関する古記録は江戸時代末期であったため歴史地震としては非常に多く残されている。
街道
推定震度[5]
京都(e), 池田(e), 大坂(E)
半蔵門(6), 四谷(6), 小川町(6), 大名小路(6), 神田(6), 湯島(6), 三田(6), 築地(6), 亀有(6), 大谷田(6), 三峰(E), 青梅(4), 五日市(4), 八王子(E), 日野(E), 田無(4), 小野路(E), 草加(6), 彦糸(6), 越谷(5), 所沢(4), 秩父(E), 小瀬戸(E), 毛呂山(5), 川越(5), 志木(6), (6), 浦和(6), 大宮(5), 桶川(5), 鴻巣(5), 吹上(6), 熊谷(5), 幸手(6), 栗橋(6), 鶴見(6), 神奈川(6)
高萩(E), 上出島(6), 三村(6), 大野(5), 銚子(e), 鏑木(E), 布川(6), 布佐(6), 我孫子(5), 松戸(6), 佐倉(5), 成田(5), 成東(5), 部田(5), 若山(E), 勝浦(5), 房総陣屋(5), 木更津(6), 袖ヶ浦(6), 鶴巻(6), 鷺沼(5), 上宮田(6), 材木座(6), 戸塚(5) - 藤沢(6) - 平塚(5), 上溝(5), 勝沼(E), 甲府(E), 茶畑(E), 箱根(5), 足柄(4), 網代(E), 下田(E), (5), 沼津(e), 府中(e), 新居(e), 豊川(E), 豊橋(e), 西尾(e), (e), 伊勢(e)
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新発田(E), 分水(e), 見附(e), 馬屋(e), 糸魚川(e), 氷見(e), 大野(e)
宮津(E)
岡山(e), 笠岡(e)
S: 強地震(4),   E: 大地震(4),   M: 中地震(2-3),   e: 地震(3)
被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域に限られたが、大都市江戸の被害は甚大であった。被害は軟弱地盤である沖積層の厚みに明確に比例するもので、武蔵野台地上の山手地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する日本橋地区の大半や銀座などでは、大名屋敷が半壊にとどまることなどから震度5強程度とみられ、被害は少なかったが、下町地区、とりわけ埋立ての歴史の浅い隅田川東岸の深川浅草吉原などでは、震度6弱以上と推定され、甚大な被害を生じた。また、日比谷から西の丸下大手町神田神保町といった谷地を埋め立てた地域でも、大名屋敷が全壊した記録が残っているなど、被害が大きく、震度6弱以上と推定されている。また福井県や大阪府で震度4から5と見られる揺れがあり、異常震域があったと考えられる。
l  犠牲者[編集]
死者は町方において106日の初回の幕府による公式調査では3,950人、10月中旬の2回目の調査では4,293人、怪我人2,787人であり、倒壊家屋14,346軒、1,724棟、潰れた土蔵1,404軒とされている。またこれに寺社領、より広い居住地を有し特に被害が甚大であった武家屋敷を含めると死者は1万人くらいであろうとされる。
大名諸家では、266家のうち116家で1,860人の死者と推計(121家で2,066人との記録もあり)
『破窓の記』には「今度の地震、山川高低の間、高地は緩く、低地は急なり。その体、青山、麻布、四谷、本郷、駒込辺の高地は緩にて、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川辺は急なり。その謂れ、自然の理有るべし。」とあり、当時から特に揺れの激しい地域の存在が認識されていた。
l  火災[編集]
地震直後に30余箇所から出火、朝から小雨で微風であったため大規模な延焼は起きず翌日の午前10時頃には鎮火したが 1.5km2を焼失した、古い資料では焼失面積は2.2km2とされている資料も存在するが、 1.5km2と再計算された。旗本・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受けた。亀有では田畑に小山や沼が出来、その損害は約3に上った。
小石川水戸藩藩邸が倒壊して、水戸藩主の徳川斉昭の腹心で、水戸の両田と言われた戸田忠太夫藤田東湖らが死亡した[4]。また斉昭の婿である盛岡藩藩主南部利剛も負傷した。指導者を失った水戸藩は内部抗争が激化、安政7年(1860年)の桜田門外の変へとつながった。
江戸城や幕閣らの屋敷が大被害を受け、将軍家定は一時的に吹上御庭に避難した。江戸幕府は前年の安政東海南海地震で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられ、幕末の多難な時局における財政悪化を深刻化させた。
l  津波[編集]
津波が起きたとする記録は無いが、地震動によって誘発されたと思われる川や溝の水が揺れ、はね上がる現象は生じていたと思われる。
l  余震[編集]
『安政見聞誌』や『破窓の記』などには江戸各所の被害が詳細に記録され、地震当日から10月中の約一か月間の余震がその強さに応じて黒丸(夜)および白丸(昼)の大きさで表示され、余震回数が日時の経過とともに減少していく様子が窺える。『なゐの日並』には日記形式で11月中頃まで余震が記録されている。
l  影響[編集]
被害情報を伝える瓦版が発行され、風刺画鯰絵なども刊行された。復旧事業が一時的な経済効果になったとも言われる。地震後には夥しい数の瓦版鯰絵が巷に出回り、よく売れたとする記録が少なくない(『武江地動之記』『なゐの日並』など)。瓦版には市民の情報獲得に対する欲求を満たす役割があり、中には国元の縁者に親子兄弟の安否を刷り込み知らせるもの、地震の発生を歓迎するような詞書が添えられているものもあり、災害が世の乱れを糺すべく天が凶兆を以て警告するのだとする思想が当時は依然として根強く残っていた。
『安政見聞誌』には、地震当日の夜五つ時頃(20時頃)、「浅草御蔵前通大墨」という眼鏡屋が所有する3余(約1m)の磁石に吸付いていた古釘、古錠など金物が悉く落下し、地震後に再び鉄を吸付ける力を回復したとある。この現象を元に、佐久間象山が大地震を予知する地震予知器を開発している。地震の予兆について人々から聞いた話を元に作成され、原理としては磁石の先端に火薬が付けられ、大地震が来る前にはその火薬が下に落ちるとするものであったという。死者の無料埋葬、米の配給、物価抑制のための公定上限価格の設定なども行われた。
l  安政年間の地震[編集]
安政年間は日本で多くの大地震が発生した時代である。安政江戸地震発生の前年である安政元年11418541223日)には安政東海地震(M8.4)、その約32時間後に安政南海地震(M8.4)が発生しており、安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」と呼ばれる。また、安政南海地震の二日後には豊予海峡地震(M7.4)も起きている。この他にも安政年間には安政元年615185479日)に伊賀上野地震(M7.4)、安政2211855318日)に飛騨地震(M6.8)、安政5226185849日)に飛越地震(M6.7)が発生している。
ただし、伊賀上野地震(安政伊賀地震)・安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震は「安政」への改元前に発生した地震である。これらの地震や黒船来航内裏炎上などの災異が相次いだため、1127日に「嘉永」から「安政」へ改元された。




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