昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実 牧久 2017.7.25.
2017.7.25. 昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実
著者 牧久 1941年大分県生まれ。ジャーナリスト。64年早大政経政治学科卒。日本経済新聞社に入社後、東京本社編集局社会部に所属、都庁記者クラブ」、68年国鉄記者クラブ(ときわクラブ)配置、サイゴン、シンガポール特派員、89年本社社会部長、代表取締役副社長などを経て、テレビ大阪会長。著書に『サイゴンの火焔樹』『不屈の春雷――十河信二とその時代』など
発行日 2017.3.15. 第1刷発行
発行所 講談社
「・・・・・お前の首はいつでも切れるんだ。俺が相当我慢して、お前の勝手気ままを許してやったんじゃないか。恩を仇で返すとは何事だ。井出、お前はここで辞表を書け。俺はまだ権限を持っているんだ」
友情と連帯、暗闘、変節、裏切り、保身、憎悪の昭和史ドキュメント
序章 日本の鉄道でいちばん長い日
1987.4.1.国鉄はすべての業務を終え、115年に亘る長い歴史の幕を閉じる
この日、6旅客会社と、日本貨物鉄道会社など12法人に引き継がれた
1872年、官営鉄道として発足、1906年全国の私鉄17社を買収して国有鉄道となる
日本国有鉄道法第1条にある「公共の福祉の増進を目的とする」という文言によって、国鉄は長い間政治の世界に翻弄され続け、戦後は企業としての収益性の観点を忘れた「親方日の丸」意識を蔓延させ、経営の足枷となってきた
国鉄最後の列車は「旅立ちJR東日本号」で、23時50分上野発
国鉄の分割・民営化は、25兆円を超える累積債務(他の債務も加えると37兆円)を処理し、人員を整理(7万人に及んだ)して経営改善を図ることが表向きの目的、ウラでは最大の国鉄労組と同労組が中核をなす全国組織「総評」、そして総評を支持母体とする社会党の解党を企図した、戦後最大級の政治経済事件
国鉄の経営が単年度赤字に陥ったのは、新幹線が開業した1964年
鉄道再生の動きは、井出正敬(たか、51、JR西日本副社長へ)、松田昌士(たけ、50、JR東日本常務へ)、葛西敬之(よしゆき、46、JR東海取締役へ)の改革派「3人組」、時の政権中曽根内閣と財界総理・土光敏夫率いる第2臨調の行財政改革の地下水脈と合流し、日本の戦後政治・経済体制を一変させる大河となる
新会社共通のCIは、電通の提案によって旧JNRからNationalをとったJRに統一
職員277千人のうち新会社に採用されたのは200.6千人、「希望退職」が4万人、3万人近くが公共部門に採用、残る7千人が清算事業団で待機
本書は、国鉄再生20年余の再検証。ミニ国家とも言える国鉄の一大改革であり、昭和の解体をも意味していた
第1章
田中角栄と細井宗一
1967年美濃部都政に続いて革新系知事が相次ぎ、68年には学生運動が燃え上がる
64年田中角栄主導でつくられた鉄建公団が、国鉄が資金不足で実現できなかったローカル線の新規着工を次々に予算化、国鉄が新路線を決定する当事者能力を喪失したどころか、新線は建設債務ごと国鉄へ譲渡されたため国鉄の財政事情は年を追って悪化
67年、「5万人の合理化計画」発表 ⇒ 新幹線開業後の輸送力増強のための大幅ダイヤ改正に伴い必要となる5万人を、合理化によって生み出そうとするものだったが、対象は47万人の10%近くに当たり、労組は順法闘争で抵抗
国労は、「現場協議制度」を勝ち取る ⇒ 現場長との直接交渉を行う職場闘争こそ労働運動の原点として進めてきたのが、国労中央執行委員の細井宗一。田中角栄と同年、同郷、ソ満国境の部隊では角栄の上司であり、終生の友、シベリア抑留から戻った後、共産党の闘士、「国労きっての理論家」と言われ、実際の采配を仕切っていた
細井が、団体交渉を嫌う経営側に対し、「現場協議」と名を変えて認めさせ、実質団体交渉の場と変えてしまうとともに、原則公開とし、全組合員が傍聴できるようにしたため、「大衆団交」が可能に
69年、国鉄生え抜きのプリンス・磯崎叡(さとし)が総裁就任 ⇒ 下山事件などで世情騒擾の中で「10万人解雇」を達成、労務対策には絶対の自信を持つ
強硬路線をとる磯崎に対し組合はストで抵抗、史上最大規模の処分したため、動労はその救済で財政面でも心理面でも壊滅的な打撃を被るが、経営内部でも強硬な反対論が出る
第2章
磯崎総裁の「マル生(せい)運動」と国労の反撃
磯崎が始めた生産性向上運動(マル生運動)は、組合に奪われた現場の管理権の回復を目的とするが、結果は二度と元に戻らない労使のささくれ立った対立と職場の荒廃
いわゆる「生産性向上運動」とは、行き過ぎた資本主義の反省に立った運動であり、基本精神は労使協調路線で、経営者や幹部社員に労働者の人間性を認めよとの意識改革を促すものだったが、国鉄では再建のための「職員に意識革命を促す精神運動」として展開
全体の2%の質の悪い職員は放っておく。残り98%のうち管理者が何も言わなくてもわかっている職員は半分くらいしかいない。残る半分は黙っていてはわからない職員なので、それを対象にキチッと指導することが重要と説く
組合側は、運動に賛成する組合員も出てきて勢力図が大きく変化する中、細井を先頭に立てて、「マル生粉砕」の教宣活動を活発化するが、組合員の脱退は雪崩を打ったように続く
細井の薫陶を受けて組合を引っ張ったのが富塚三夫。14歳から国鉄に入った生粋の鉄道員のたたき上げで、若い頃から組合活動に没頭、前後6回の処分を受け60年免職。66年には30代で東京地本の執行委員長に就任、後に国労書記長、総評事務局長を務め、岩井章に次ぐ労働界のスターとなる
富塚を先頭に、なりふり構わぬ反マル生運動の強硬路線が始まり、マスコミを使って内部告発を流し、世論を喚起し味方につけていったため、磯崎も危機を感じて運動の推進にブレーキを掛ける
そのウラには、佐藤栄作が沖縄返還を引退の花道とするため、障碍となるものは極力排除しようとして、反マル生キャンペーンの高まりと社会党の追及が沖縄返還交渉の障碍になると考え圧力をかけてきたことがある
各地で不当労働行為に対する批判の高まりや、判決が出たことも追い風
経営側が知恵を絞った不当労働行為をやれと指示した盗聴テープが国会に出されるに及び、磯崎も全面撤退を決断、陳謝して国鉄の完全敗北に終わる
組合は、新しい職員局長の人事にまで介入、以後の労使関係は組合主導となり、当局はすべての面で組合に押し切られることになる
組合からは、マル生運動を主導した管理職の追放が要求され、職務年数を基準とする昇格制度が実現し後の働いても働かなくても同じという風潮の蔓延を招くとともに、一部職場では当局はおろか組合中央指導部もコントロールのきかない状況を出来
第3章
政府・自民党vs国鉄労使
佐藤に代わって首相となった角栄が『日本列島改造論』で強調したのが全国新幹線網の整備と、ローカル鉄道が人口の都市集中を回避し地域開発に果たす役割
国鉄にとっては、再建計画の一環として赤字ローカル線の廃止に向けた努力が否定された
73年の春闘に合わせて、動労は本格的な「運転保安闘争」を開始 ⇒ 首都圏の電車のダイヤが大混乱し、乗客の反乱が各地で勃発。騒ぎの最も大きかったのが上尾駅(上尾事件)
続く首都圏国電暴動事件では遂に政府が介入して順法闘争を終結、磯崎は遅すぎる辞任
後任はOBの藤井松太郎。十河時代の技師長だったが新幹線計画に反対して左遷、石田時代に復活。国鉄信濃川工事事務所長時代に角栄と交友
処分と闘争を繰り返す最悪の労使関係立て直しには、スト権付与しかないとなり、74年の春闘の最大のテーマもスト権問題。交通ゼネストの直前に田中内閣が3公社5現業のスト権付与について75年秋までに結論を出すと言って妥協したが、単なるガス抜きと判明し、先々の騒動のタネになる
金権政治批判で退陣した田中に代わって首相となった三木はスト権付与に積極的だったが、議員の多数派は反対で、公労協9組合による8日間192時間という戦後史上空前のストライキが始まり、国鉄も全国で運転をストップ
スト権のあるべき姿の諮問を受けた専門委の結論を書いたリベラリストの加藤寛は、三木寄りで、スト権付与に賛成の結論を書いてくれることが期待されたが、現状の経営形態では不可との結論を書く ⇒ 豹変のウラに何があったのかは疑問だが、第2臨調で国鉄の分割・民営化の推進に大きな役割を果たしたことを考えると、中曽根幹事長と気脈を通じて「臨調――分割・民営化」路線への前哨戦が始まっていたとも考えられる
国鉄ストが続いても、物流は国鉄離れが進んでいたこともあって国民生活への影響はほとんどなかったこともあって、組合は水入りを宣言
政府・自民党や国鉄内部からも"労使癒着”と厳しく批判される時代が始まる
中曽根幹事長は、国鉄に対し処分と組合に対する202億円の損害賠償請求を要求 ⇒ のちに国鉄分割・民営化の容認と引き換えに賠償は免除
藤井総裁は、木村睦男運輸大臣に対し辞表提出。旧知の角栄の要請で総裁に就任したが、政界の派閥抗争の荒波に翻弄され、マル生闘争の勝利で増長した組合との狭間でもがきながら惨めな辞任に追い込まれた。以後国鉄のエリートは一層”事なかれ主義”へと走る
組合側にとっても初めての躓きとなり、敗北の鬱憤を晴らすかのように、現場協議でも「職制マヒ職場闘争」を強め、内部からも崩壊への歩みを速めていく
第4章
走り始めた国鉄解体
76年、誰も引き受けてのなかった後任に三木の懇請によって引き受けたのが前大蔵事務次官の高木文雄。6兆円を超える累積赤字の処理に大蔵省がバックアップしてくれることを期待 ⇒ “持参金付き”の総裁と世間は受け止める
高木は早々に労使融和路線の処分を断行、スト権問題に対しても労使問題は職員局の担当者に任せると発言して、組合軽視だと物議を醸す
その後も高木は裸の王様同然で、実態を糊塗する秘書の言うがままに、労使関係に問題ないことを公言
80年、鈴木内閣で行政管理庁長官となった中曽根は、第2臨調の設置を企図、土光を会長として、林敬三(日赤社長)、瀬島龍三(伊藤忠商事会長)、谷村裕(東証理事長)他9人を委員に81年から実質審議を開始。国鉄問題は加藤寛が部会長を務める第2部会で審議
その中から国鉄OB角(かく)本良平の言った分割・民営化に瀬島も土光も共鳴
臨調とは別に、国鉄内部でも、経営企画室の井出を中心に「後のない経営改善計画」をまとめ、運輸大臣の承認を得て実施に移された
第5章
運輸族・三塚博の秘密事務局員
81年、葛西が井出のいる経営計画室に転勤、既に井出の計画自体の破綻を見越して、分割・民営化に向かって臨調をどう活用するかを考えていた ⇒ 葛西の妹の仲人だった瀬島と会い現状の問題点を挙げる
国鉄改革で意気投合した井出、松田、葛西は、労使の癒着ぶりや現場の恥部をマスコミを使って流し始める。出張費を使った裏金作りや、組合員をカネで買うなど、次々に不祥事が発覚
国鉄内部の問題暴露で、自民党内にも国鉄糾弾の動きが加速、自民党交通部会の下に国鉄再建小委員会(三塚小委員会)」を設立、国鉄の職場規律是正に取り組む ⇒ 会長の三塚博と3人組が初めて会談、3人組の口から国鉄の内部の実状を聞かされ、3人を秘密裏に使って実態を小委員会で公にしていく
82年、第2臨調第4部会長の加藤寛は「国鉄解体すべし」と主張、同参与の屋山太郎(時事通信解説委員)は「国鉄労使《国賊》論」を説き、先走って分割・民営化を主張したが、第2臨調の土光も瀬島も他の政治家も一切クレームをつけなかった
改革の1歩として手をつけたのが職員の兼業禁止と現場協議の見直し ⇒ 兼業は社会党・共産党を中心に地方議員が594人もおり、二重給与をとっていた。現場協議は現場の組合員の力に押されてヤミ手当など悪慣行の元凶となっていた。いずれも対組合強硬策で、その実施により「後のない経営改善計画」の実現に向けて動き出す
第6章
中曽根「風見鶏内閣」誕生
82年、第2臨調の「基本答申」提出 ⇒ 「増税なき行政改革」を謳い、最も注目された国鉄再建については、7ブロック程度に分割して経営
答申に基づき設置されたのが国鉄再建監理委員会 ⇒ 国家行政組織法の第3条に限りなく近い8条委員会と位置づけ、総理府の諮問機関(8条委員会)だが、関係行政機関に対し協力を求めることができる(3条委員会)権限を持った
同年末、外交で挫折した鈴木内閣に代わって、鈴木派と田中派の後押しを得た中曽根が総理・総裁となる ⇒ 田中への恩返しで、二階堂幹事長、後藤田官房長官と、党・内閣の要職を全て献上したため、第3次田中内閣と揶揄され、政治倫理の欠如とまで言われて批判されたが、中曽根にしてみれば、倫理を後回しにしてでも官僚に強い力を持つ田中軍団の力を借りて、行財政改革という大目標にとことん力を注ごうという、いわば毒を以て毒を制する内閣だった
国鉄に関しては、分割・民営化に抵抗する運輸族を抑えるために中川派の長谷川峻を起用、中川派の破壊力を期待するとともに、三塚との協力を約束させ、さらに三塚の親分格の灰色高官だった加藤六月をあえて国土庁長官に起用、最後のチャンスを与えた
中曽根は、「戦後政治の総決算」を唱え、具体的な標的を「国鉄の分割・民営化」に向けた
中曽根が国鉄改革に照準を合わせた狙いは、社会党との間に複雑な対立と協調を続けてきた「55年体制」からの決別であり、社会党・総評を背後から支えてきた国労・動労などの巨大な組合勢力を崩壊させ、社会党・総評の弱体化、ひいては「55年体制」の解体を期す
管理委員会のトップは住友電工の亀井正夫、第2臨調での前捌きの見事さに惚れて中曽根が懇請したもので、元運輸次官で異色の住田正二とともに奔走することに
国鉄改革は、自民党では行財政調査会会長の橋本龍太郎が仕切っているが、橋本の岡山2区の選挙区では加藤六月と因縁の選挙戦を繰り返しており、これまで国鉄は全面的に加藤支援だったが、これを機に改革派が橋本の推薦をすることになる
国鉄内外の激しい動きに、総裁の高木はほとんど蚊帳の外で、分割・民営化反対派に担がれて先頭に立たされていたが、次第に嫌気がさして83年末には辞意
後任候補は副総裁の馬渡一眞。叔母が愛知揆一に嫁ぎ、妹を養女として婿養子の愛知和男と結婚。角栄は馬渡の将来を見込んで、傷つけないように温存。代わりに浮上したのが国鉄を常務理事で退任、西武鉄道副社長から、鉄建公団総裁となっていた仁杉巌(15年生、府立四中から東大帝大土木卒)
仁杉は、改革派から意見を聞きつつ、全国の私鉄が曲がりなりにも主体的に経営しているところにヒントを得ようと3人に研究を命じ、その調査結果が国鉄改革の下敷きになる
第7章
国体護持派と改革派の暗闘
83年、ロッキード裁判の一審判決が出て、中曽根は角栄に議員辞職を求め、解散総選挙で禊を図ろうとしたが、角栄の秘書で越山会の女王・佐藤昭が申し出を葬り、さらに田中軍団に押されて、行革法案の成立と引き換えに衆議院を解散する
角栄と中曽根は、同じ18年生まれ、47年新憲法下初の総選挙で同時当選以来14期連続当選、互いに派閥を越えて通じ合うものがあったが、この時ばかりは意見を違えた
選挙は予想以上の大敗となり、新自由クラブを抱き込んで自民党初の連立政権となり、角栄の影響を排除する組閣をし、運輸大臣には運輸官僚OBの細田吉蔵を指名。細田は元田中派だったが運輸族の多い福田派に鞍替え、大幹部として運輸族を抑えることを期待されたが、就任早々に分割・民営化は困難とぶち上げ、以後も抵抗勢力となる
国鉄内部でも、反対派の縄田が副総裁(=実質は省庁における事務次官)となって言論統制が進行
84年、仁杉は、国鉄の赤字が90年になってもさらに増えることを公表、分割・民営化に賛成を表明したところ、反対派と組合から突き上げを食らい一気にトーンダウンするが、直後に三塚が3人組に大塚陸毅(のちのJR東日本社長)、細谷英二(同副社長、りそな銀行会長)を加えた改革派の作業の結果を運輸族の非難を承知で出版。国鉄内部では焚書扱いとなったが後の祭り
国鉄当局による合理化対策の柱は、国鉄の出資先111社にいるOBの処遇見直し、管理職の1/3削減、出向・一時帰休制などによる余剰人員対策で、雇用安定協約破棄をも辞さない覚悟 ⇒ 労使の対立が深刻化
84年、再建監理委員会の初の提言出され、分割・民営化の基本方針が示される
電電公社は専売公社では、全国1社の組織を維持した民営化の準備が進んでいたこともあって、国鉄内部も組合も、民営化はやむなしとしても分割には断固反対、改革派リーダーの井出を秘書課長から左遷
84年末、国鉄の秘密役員会が、非分割・民営化を軸に独自の再建案をまとめ、各方面に根回しを始めたのを契機に、3人組が他に同志を募って三塚のもとに決起
改革に消極的な細田に代わって運輸大臣となった三木・河本派の山下徳夫には、就任直後に3人組がレクチャーをしており、運輸省も分割・民営化の方向で動き出している
第8章
改革派、絶体絶命
中曽根が、臨調の線に背く者はけじめをつけなければならないと発言、その翌日創政会発会式、その20日後に角栄が脳卒中で倒れた頃から一気に、公然と国鉄の分割に走り出す
85年春の人事異動で松田が左遷、他の同志もバラバラにされたが、葛西だけは本社で監視下に置かれ「格子なき牢獄入り」となったのを機に、連判状(決起趣意書)を作成、管理委員会の亀井に説明
常務理事の1人が記者との宴席でうっかり現首脳陣の政府方針への面従腹背の意思を吐露、記者はテープにとって文書に起こし、それを見た中曽根が激怒して、首脳陣全員の辞表を出させ、後任総裁に前運輸事務次官の杉浦喬也を起用
総裁を含め14人のうち7人が辞任、井出は「総裁室審議役」として本社に戻り、組織・人事の全権を委ねられて、87年4月とされる分割・民営化の推進を指揮することになるが、3人組がまず新総裁に対してやったことは秘書役として同志の大塚を指名させたこと
第9章
最後の主戦場
85年7月、監理委員会の最終答申、87年4月より6旅客会社と1貨物会社に分割・民営化。北海道、四国、九州は「経営安定化基金」を設定し、その運用益で営業損失を補填
監理委答申を実現するための最大の”カギ”は余剰人員対策 ⇒ 適正規模は183千人で、93千人の余剰、うち3万人は官公庁で受け入れ
監理委で最後まで問題となったのが貨物部門。全国1社となったが具体策は国鉄自身に任され、縮小均衡策による黒字化の計画でスタートするも、現在に至るまで本業は赤字に苦しみ、上場の見通しは立っていない
組合は、動労が元革マルの闘士・松崎明が委員長として表に出てきて分割・民営化容認に動き、国労は阻止を貫くが闘争する力量は残っていなかった。鉄労は国鉄労使関係史上初めて総裁が大会に出席して一体になった国鉄改革を呼びかけ、鉄労が結成から23年目にして労組として公式に認知されたことに歓喜の声が上がる
当局は、国労とは雇用安定契約を打ち切り、全職員を対象に進路希望のアンケートを実施
85年末、翌年国鉄分割・民営化を争点に衆参同時選挙で一気に国鉄改革問題に決着をつけようとした中曽根は、内閣改造で三塚を運輸相に任命
86年初、国鉄は初めて異例の労使共同宣言を発表、改革へ向けた労使一体の意思表明だったが、ここでも国労だけは参加せず、労組が完全に2派に分裂
新会社への職員の"再配置”は、社内異動でやると不当労働行為ともなりかねなかったが、職員は一旦清算事業団に引き取られ、新会社が必要に応じて採用する形にすれば問題ないことが分かり、国鉄改革法第23条に、新事業体の職員数は運輸大臣が決めるとし、ここでも国労を中心とする反対派を排除することができた
86年2月、国鉄改革法案第1号国会に提出 ⇒ 希望退職法案で、2万人を対象に割増退職金の支払いを認める内容。続いて国鉄改革関連8法案提出。5月に第1号のみ通過
希望退職者は4万人にのぼり、うち16千人は自分で仕事を見つけて辞めた
第10章
「猛き者ついに滅びぬ」
7月の参院選挙に合わせて衆議院を解散 ⇒ 55年体制下で自民党支持率が最高の59%、中曽根の支持率も53%を見据えて踏み切る。「死んだふり解散」と言われ、最大の争点が国鉄分割・民営化
改革派は、全国の国鉄組織を挙げて選挙対策に取り組み、特に「落とすリスト」の「アンチ応援」までやって改革賛成派に協力、自民党の結党以来の304議席の大勝に貢献
中曽根総裁の連続3選・1年延長が特例として認められた
運輸大臣に運輸族を排して橋龍を起用、過去のしがらみを洗い落として新しい運輸行政に転換しようとの決意の現われ。三塚は留任が期待されたが、党の推進本部事務総長として、橋本の改革を自民党側からバックアップすることになる
国労に決定的なダメージを与えることになったのが第二次労使共同宣言 ⇒ 組合に対し、分割・民営化を丸呑みし、争議を自粛すれば、スト権ストで請求した202億円の損害賠償を勘弁するという内容だが、動労はのんだが国労は強硬な反対派に押されて分裂
その間にも中核派によるゲリラ活動が多発、国労の方針転換への反対の動きも
終章 国鉄落城――新時代への出発
11月8法案が圧倒的多数で可決成立、87年3月末での国鉄解体が正式決定
杉浦が東日本社長と目されていたが、中曽根の指名は杉浦より先輩の住田。反対論の強かった運輸官僚を説得した功労者であり、夫人は中曽根の有力な後援者だった山種証券創業者の娘
杉浦は清算事業団の理事長
橋龍から伝えられた各社社長人事に次いで3人組の処遇はあっと驚く逆転人事だった
北海道は大森義弘(国鉄常務理事)、東日本は住田正二(元運輸事務次官)、東海は須田寛(国鉄常務理事)、九州は石井幸孝(同)、四国は伊東弘敦(同)、貨物は橋元雅司(国鉄副総裁)。西日本は経営体力が弱く、関西財界でも対立があって人選難、結局橋龍の剣道仲間の角田達郎(元海上保安庁長官)としたところから、そのサポートに井出を副社長。松田が北海道から東の常務へ、葛西は予定通り東海で、3人で本州3社の要の役を果たせという
橋龍は、井出に対し、選挙で岡山に来て加藤支援の国鉄票を橋龍に転換させた功労者の本田を営業部長とするよう依頼。橋龍が人事に介入したのはそれだけで、運輸官僚やそのOBの新会社への押し込みには極力抵抗してくれた
新会社の人事の目玉は、民間若手の役員起用。7社の役員総数105人のうち44人が民間出身・キャリア職員は少なくとも鉄道管理局長以上は原則退職。国鉄経営破綻の責任を取った。国鉄出身役員の総数は61人だが、うち26人は40歳代で、新会社の実務は国鉄改革に立ちあがった30代40代初めの中堅、若手社員が担う
組合は新会社毎の企業別組合として再編、新しい労使関係が作られる ⇒ 動労と鉄労はもともと不倶戴天の敵同士で、それぞれ別個に主導権争いが始まる。新会社発足時には全ての組合を統合した鉄道労連の結成に漕ぎ着けたが、内紛は収まらず、最終的には動労の指導力が制覇。旧国労主流派も全国組織を維持して対抗したが、組合員の脱退は止まらず
55年体制の一翼を担った野党第1党の社会党を支えたのが総評の組織力で、それを支えたのが国労という巨大組織。国労出身の国会議員は最大時23人
89年総評解散 ⇒ 官民一体、78組織、8百万人の「連合」に生まれ変わる
2017.5.28. 朝日
(書評)『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』 牧久〈著〉
■対立となれあい、戦後の縮図
本書のタイトルはなぜ「国鉄解体」ではなく、「昭和解体」なのだろう。その思いで読み進むうちに単に日本国有鉄道や国鉄労働組合(国労)の歴史が昭和を代表しているだけでなく、革命の前哨戦のような光景を演じていたからだと気づかされる。
昭和24(1949)年に公共企業体として発足した日本国有鉄道は、戦後すぐは兵士として徴兵された青年たちや海外からの帰還者などを積極的に雇用した。当初は憲法でスト権は保障されたが、GHQ(連合国軍総司令部)の命令でこのスト権は禁止された。そして過剰な人員の解雇(9万5千人)をめぐっての労使紛争やGHQの介入などに苦しんだ下山定則総裁の自殺(他殺説もあり)があった。昭和24年である。戦後の出発時から国鉄は日本社会の縮図ともいえたのだ。
さらに、収益性を無視して政治家の都合により路線をふやし、一方で「親方日の丸」意識での慢性赤字の事業体と化していった。その国鉄をどうするか、労働現場での組合管理に近い状態、それに抗する当局側との対立の中で、その方向性が次第に問われていく。とくに最盛期には50万人の組合員を擁した国労が中心になって現場協議制度が実施され、職場長の権限と権威は失われる。当局はこれに対して生産性向上運動との名目によるマル生運動で応じるのだが、メディアもこのマル生運動には批判的だったために組合寄りの報道が行われる。
赤字や職場規律の乱れがやがて行財政改革の対象となり、分割・民営化へと進んでいく。
著者は長年、国鉄の推移を見つめてきた元新聞記者だが、こうした国鉄当局と組合(国労のほかに動労、鉄労、全施労など)の対立やその裏側の労使なれあいの実態をえぐっていく。著者の筆は容赦ない。関係者の証言や史料をもとに、より具体的にそれぞれの場を語っていくのだが、つまりは莫大(ばくだい)な赤字を生む体質そのものに問題があると浮きぼりにする。国鉄当局の松田昌士、井手正敬、葛西敬之の三人組の改革派がいかに分割・民営化を目ざしたか、仁杉巌、杉浦喬也ら歴代総裁の心情、国労書記長の富塚三夫など組合幹部の思惑を洗いだし、分割・民営化が主な潮流となっていく状況が説かれている。鈴木善幸内閣の行管庁長官・中曽根康弘が、その後、首相となって第二臨調のもとに民営と合理化路線を軌道にのせるプロセスも詳しく書かれている。
「昭和」の暗部を再びよみがえらせないための、この書の教訓、それは著者が本文中でなんどかにおわす〈権力の横暴と権力への媚(こ)び〉に対する怒りにあるのではないか。
評・保阪正康(ノンフィクション作家)
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『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』 牧久〈著〉 講談社 2700円
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まき・ひさし 41年生まれ。ジャーナリスト。日本経済新聞社に入社後、東京本社社会部長、代表取締役副社長などを経て、テレビ大阪会長。著書に『サイゴンの火焔樹』『不屈の春雷』など。
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