百年の散歩  多和田葉子  2017.7.2.

2017.7.2. 百年の散歩

著者 多和田葉子 1960年東京生まれ。早大文卒。82年ハンブルクへ。ハンブルク大大学院修士課程修了。チューリッヒ大大学院博士課程修了。91年『かかとを失くして』で群像新人賞。93年『犬婿入り』で芥川賞。00年『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花賞。02年『球形時間』でドゥマゴ文学賞。03年『容疑者の夜行列車』で谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞。11年『尼僧とキューピッドの弓』で紫式部文学賞。『雪の練習生』で野間文芸賞。13年『雲をつかむ話』で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)。日独2か国語で作品を発表しており、96年にドイツ語での作家活動によりシャミッソー文学賞、16年にはドイツで最も権威ある文学賞の1つクライスト賞受賞。06年よりベルリン在住
07-02 アメリカ-非道の大陸』参照

発行日           2017.3.30. 発行
発行所           新潮社

初出 『新潮』20146月号~201610月号

私は今日も、あの人を待っている。ベルリンの街を歩きながら。

「カント通り」「カール・マルクス通り」他、かつて国境に分断され、今や世界中の人々が行き交うベルリンに実在する10の通りからなる連作長編

都市は官能の遊園地、革命の練習舞台、孤独を食べるレストラン、言葉の作業場。
世界中から人々が集まるベルリンの街に、経済の運河に流され、さまよい生きる人たちの物語が、かつて戦火に焼かれ国境に分断された土地の記憶が、立ちあがる


Ø  カント通り
Ø  カール・マルクス通り
Ø  マルティン・ルター通り
Ø  レネー・シンテニス通り
Ø  ローザ・ルクセンブルク通り
Ø  プーシキン並木通り
Ø  リヒャルト・ワーグナー通り
Ø  コルヴィッツ通り
Ø  トゥホルスキー通り
Ø  マヤコフスキーリング
マヤコフスキー ⇒ 20世紀初頭のロシア未来派ロシア・アヴァンギャルド)を代表するソ連詩人




2017.6.4. 朝日
(書評)『百年の散歩』 多和田葉子〈著〉
メモする 通りの名に誘われてぐるぐる
 扉を開けて題字を通り過ぎ目次までたどり着くと、十ほどの名前が日本語とドイツ語で並んでいる。いずれもこれから始まる「百年の散歩」の通過地点となるベルリンの通りで、哲学者から革命家、画家や彫刻家、詩人などの歴史的な人物にちなんで名付けられたものばかりだ。
 だが、街を散策していれば世界中どこでも出くわす偉人たちの銅像のようには、通りは本人を模倣してくれない。まっすぐだったり、曲がっていたり、枝分かれしていたりして、むしろ人間離れしている。目次をめくるとあらわれる地図がそうであるように。
 それでもひとたび名がつけば、通りはそれらしくかれらにたたずまいを寄せる。ときにはその名の分泌する蜜に惹(ひ)かれた人を虫のように引き寄せ、その通りならではの巣にもよく似た店が顔を出し、不意に誰かが足を踏み入れるのを罠(わな)さながらに待っている。
 通りの一角で「あの人」を待ち続けている「わたし」もそのひとりだ。だが、約束はいつも果たされることはなく、結局「その人」はあらわれない。待つだけの「わたし」は、いつのまにか通りの名を手綱にしている。
 行ったこともない遠い土地に想(おも)いを馳(は)せたり、まだ幼かったころの記憶をよみがえらせたり、果ては死んだ子供の幽霊に出会ったりして、考えなくてもいいはずのことを延々と考え続ける。そして不安な旅に出る前夜の鞄(かばん)のように、ぎゅうぎゅうになるまで頭の中に言葉を詰め込み、想念で破裂しそうになる。結局、街に憑(つ)かれているからだ。
 だが、詩人に由来する最後のマヤコフスキーリングは通り(シュトラッセ)ではない。輪(リング)だ。同じ道でも、輪は通りのように左右の端がないことで、位相幾何学(トポロジー)的に内と外をひっくり返せる。ならば、始まりと終わりのある百年の散歩もここで終わりだ。そのとき、ベルリンという街と「あの人」の代わりに姿をあらわすものとは。
 評・椹木野衣(美術批評家・多摩美術大学教授)
     *
 『百年の散歩』 多和田葉子〈著〉 新潮社 1836円
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 たわだ・ようこ 60年生まれ。小説家、詩人。ベルリン在住。日独両言語で執筆。著書に『献灯使』など。

百年の散歩 多和田葉子著
ベルリンの街で耳澄ませる
2017/5/13付 日本経済新聞 朝刊
 ベルリンの大通りの一つカント通りに面するカフェで、「わたし」は一番奥の壁際の席に座り、いつまでも姿を現さない「あの人」を待ちつづけている。そんな場面で幕を開ける『百年の散歩』は、作家や芸術家の名を冠した10の通り(や広場)をモチーフにした連作短編だ。語り手の年齢や性別は明かされないが、作者と同じベルリン在住の日本人らしい。
http://www.nikkei.com/content/pic/20170513/96959999889DE3E4E0EBE2E7E3E2E3E0E2E7E0E2E3E59F8BE4E2E2E2-DSKKZO1629052012052017MY6000-PN1-1.jpg
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 壁の崩壊後に目まぐるしく変貌し、移民の流入が続き、経済格差が拡大するベルリンの街を「わたし」はさまよい歩き、飛び交う多様な言語に耳を澄ませる。カフェでふと居心地の悪さを感じると、「勘定」を払う代わりにあやうく「感情」を払ってしまいそうになる「わたし」は鋭い言語感覚の持ち主で、たえず日本語とドイツ語のはざまでゆらゆら揺れている。
 言葉への違和感、言い間違いや誤変換にこだわる言語センスはいかにも多和田作品だが、作中に満ちあふれる一見無害な駄じゃれや言葉遊びは、政治・社会への敏感な嗅覚とじかにつながっている。2014年から16年にかけて「新潮」に連載された本作には、ギリシャの経済危機や移民排斥運動など、リアルタイムに発生した時事問題が随所に織り込まれている。
 そこに、清算されない過去の問題がかぶさってくる。たとえば「ミルク」という言葉は、ただちに「黒いミルク」や「汚染されたミルク」を呼び起こす。日常的な言葉は、ユダヤ系詩人ツェランの詩『死のフーガ』を経由してナチスの強制収容所の記憶と、あるいはチェルノブイリや福島の原発事故の記憶と地続きになっているのだ。
 そんな「わたし」と終始すれ違いを演じる「あの人」とは誰なのか。ふわふわと足もとが定まらず空想癖がある「わたし」とは対照的に、安定志向の「平均的な西ベルリン人」らしきその人の正体は最終話「マヤコフスキーリング」でさらりと明かされ、そこから見直すと物語全体がまた違ったふうに読める。いずれにせよ、これは孤独についての物語だ。本書の表題はガルシア=マルケスの『百年の孤独』を思わせるが、「孤独」と「散歩」はもともと互換性のある言葉かもしれない。孤独な散歩者の視点から、単一の言語に安住する立場からは見落とされてしまう世界が鮮やかに切り取られる。
(新潮社・1700円)
 たわだ・ようこ 60年東京生まれ。作家。80年代からドイツ在住。近著に『雲をつかむ話』『献灯使』など。16年独クライスト賞。
《評》京都大学准教授


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