パブリック・スクール 新井潤美 2017.6.28.
2017.6.28. パブリック・スクール ―― イギリス的紳士・淑女のつくられかた
著者 新井潤美 1961年生まれ。14歳でチェルテナム・レイディーズ・カレッジの寄宿生となり、クイーンズ・カレッジの通学生となって卒業。東大大学院博士課程満期退学。専攻は比較文学比較文化。現在上智大文学部教授。学術博士
発行日 2016.11.18. 第1刷発行
発行所 岩波書店(岩波新書)
歴代首相をはじめ著名人を輩出した、イートン、ハロウなどの寄宿制私立名門校パブリック・スクール。階級が根強く残るイギリス社会において、上流階級の子弟の教育機関でありながら、文化の一部として広く国民に共有されてきた。独自の慣習からスポーツ、同性愛まで、小説や映画などからそのイメージの成立と変遷をたどる
はじめに
パブリック・スクールの出身者に特定のイメージが結びついている
パブリック・スクールは、イギリスの階級制度と強いつながりを持っていた
イギリスにおける階級間は、「ヒエラルヒー制」「3層制」「二極制」が混在
イギリスの文化における各階級のイメージをあえて単純化すると、「アッパー・クラス」とは、伝統的に土地の収益によって暮らすことのできる貴族や地主階級、「アッパー・ミドル・クラス」は聖職者、法律家、軍の士官、裕福な商人などの知的職業についているか、いわゆる「商売」で財を名した者を指す。ここまでの階級の教育機関として発展してきたのがパブリック・スクール
「ロウワー・ミドル・クラス」は、小規模の商人、職人、教育を受けて事務職に就くことができるようになったワーキンギ・クラスを指す
パブリック・スクールのイメージが、イギリス文化においていかに大きな位置を占めているかを、小説、演劇、映画などを通してみるとともに、その実態と歴史的背景をも併せ紹介
第1章
パブリック・スクールの成り立ち
定義は曖昧 ⇒ 校長が1869年に創られた学校長協会のメンバーである学校とされる
パブリック・スクールが、私立のエリート校であるというイメージが確立したのはヴィクトリア朝(1837~1901)においてだった
イギリスで最も古いパブリック・スクールは、ケント州カンタベリーのキングス・スクール。597年頃の開校
キリスト教の教会には学校が併設され、1つはソング・スクールと呼ばれる聖歌隊員に歌と音楽を教える役割を果たし、もう1つはグラマー・スクールと呼ばれるラテン語の教育をする役割を果たした。両者がパブリック・スクールの源流
16世紀初め、イギリス国教会の設立とともに、新たにグラマー・スクールが認可され、「グラマー・スクール創立の黄金時代」到来。裕福な商人や私人が慈善事業として教育に参入、当時は無償で成功する機会を貧しい少年に与えるために開かれた
1868年のパブリック・スクール法で、学校と老人用施設の経営が切り離されるまでは、学校と老人ホームが併設されているケースが多かった
18世紀の終わりには、大部分が有償化
アッパー・クラスの子供の教育は家庭で行われたが、19世紀になると家庭で手に負えない子を学校に入れる習慣が広まる ⇒ 学費を払うアッパー・クラスの子弟を多く受け入れるグラマー・スクールを「パブリック・スクール」と呼ぶようになる
生徒は暴動を起こしたりお互いのいじめが蔓延、先生は体罰を科すことにより「しつけと人格形成」を目指す。寄宿制度も怪しげなものが多かった
裕福なミドル・クラスの数と力の増大とともに、パブリック・スクールにも「ミドル・クラス的でリスぺクタブルナ」秩序とルールが必要となってきて、パブリック・スクールの改革が始まる
第2章
「学校物語」とイメージの確立
1828年、ラグビー・スクールの校長に就任したアーノルドが改革によって学校を変えただけでなく、他のパブリック・スクールにも大きな影響を及ぼし、パブリック・スクールに秩序と品格をもたらす 体罰や、上級生が下級生を使い走りに使うファギングという慣習を利用、上級生により大きな権限を与えると同時に責任を持たせた
不適切な生徒や、学校から得るものがないと思われる学生は除籍
生徒のモチベーションを上げるために、試験の成績によって賞金や奨学金を設けた
1869年、学校を国会の運営の下に置こうという動きに「9大校」を中心に26の学校が対抗して設立したのが学校長協会 ⇒ このメンバーをパブリック・スクールといった
改革における校長の裁量が認められ、パブリック・スクールの改革が進められると、一つの教育機関だけでなく、イギリスの文化とアイデンティティの重要な部分を占める存在となり、独特のイメージが確立されていくことになる
寄宿制のパブリック・スクールを舞台にした「学校物語」が人気となり、パブリック・スクールとは無縁の世界に生きるロウワー・ミドル・クラスにも読まれた
「学校物語」はイギリス特有のもの ⇒ イギリスでは教育は主に階級と関連。プチブルとワーキング・クラスを分ける最もはっきりした線は教育に金をかけるかどうか。ぶろじょあの中でも「パブリック・スクール」と「プライベート・スクール」にもまた超えることのできない溝がある。「かっこいい」パブリック・スクールの内幕が人気を呼ぶ
20世紀初頭にチャーターハウス・スクール出身のベイデン=パウエルが始めた「ボーイ・スカウト」運動は、ワーキング・クラスの少年に、パブリック・スクールの規律と人格形成の機会を与えようという試み
第3章
理想の裏側
チャーチルは、プレップPreparatory・スクールからハロウに通ったが、彼の記憶に最も強く残っているのは鞭を使った体罰の恐ろしさ。イートンの伝統を踏襲したもの。すぐにパブリック・スクールの生徒の憧れだった陸軍士官学校(通称サンダースト)への進学に関心が向いたところから、チャーチルにとって「最良の時」ではなかったのは明らか
多くの卒業生にとっては、「大切な思い出」「人生最良の時」として肯定的に受け止められている
パブリック・スクールを批判的に描いた「学校物語」が出たり、試験の時のカンニングや、規制の違反、さらには同性愛まで、古典とスポーツが過度に重視された閉ざされた排他的な空間であるがための醜い面も種々存在したことも事実
第4章
女子のパブリック・スクール
女子の教育は、19世紀半ばまでほとんど存在しなかった
18世紀まで、アッパー・クラスやアッパー・ミドル・クラスの女性は、「たしなみ
accomplishments」と呼ばれる、結婚相手を見つけるために必要とされた様々な技能を家で教えられるのみ
女性の教育の改善は、アッパー・ミドル・クラスの淑女を教える家庭教師に、より良い教育を施すという名目から始まる
アッパー・ミドル・クラスの女性にとって、特に20世紀後半から、医師、法律家を始めとする専門職などの、同じ階級の男性が付く職業への道が開け始めると、学校できちんとした教育を受け、大学に進むことが重要になってくる。こうして、最初は家庭教師養成のために創立された女子校は、特にアッパー・ミドル・クラスの女性に、男性と同等の教育を受ける機会を与える施設、つまり女子パブリック・スクールとなっていった
男子のパブリック・スクールとはかなり違う性質のものではあるが、イギリスの文化の中で1つの独特のイメージを形成している
第5章
グラマー・スクール
その他のグラマー・スクールの多くは、学費をとって、ミドル・クラスの子弟を受け入れるようになる
ラテン語の文法を教えることが基本
1840年のグラマー・スクール法により、ラテン語以外を教えることが可能となり、1869年以降は、アッパーとアッパー・ミドル・クラスの子弟を教育する寄宿制のパブリック・スクールと、ミドル・クラスの子弟により実践的で近代的な教育を与える通学生のグラマー・スクールという2つの方向に別れていった
「運命の年」と言われる「イレブン・プラス」 ⇒ グラマー・スクールに入学する学力があるかどうかを試す学力試験のこと。11歳以上の生徒が受験するのでこの呼称がある
テニスは、クリケットやラグビーと違って、基本的に女子のパブリック・スクールにおいて夏行われるスポーツであり、もともとはミドル・クラス、特に「郊外居住者」のスポーツ
1944年の教育法により、イングランドとウェールズでは初めて公立の無料の中等教育がすべての生徒に与えられることになる ⇒ 3部構成制度と呼ばれ、生徒に学校の選択が付与された
① セカンダリー・テクニカル・スクール ⇒ 工業専門学校。数%の学生が進学
② セカンダリー・モダン・スクール ⇒ 主に職を得るのに必要な実用的な知識や技術を生徒に与えることを目的とする。大半の生徒はここ
③ グラマー・スクール ⇒ 高等教育を目指す生徒を集めるため、イレブン・プラスによって選抜されたトップ25%の教育をするための学校。疑似パブリック・スクールとなる
戦前まで、オックスフォードとケンブリッジは、優等卒業学位、あるいはまったく学位をとる必要のないアッパーやアッパー・ミドル・クラスの子弟に、彼らが社交界に入るのに役立つ交友関係と知識を与えるという名目で、特に試験を課さずに入学させていた
戦後大学の数が増えて、大学教育が就職の条件になってくると、両大学とも志願者が急増、そのような制度を保つことができなくなった
それでも両大学は、共通試験「一般教育証明書」のアドバンスト・レベルの成績と面接で学生を選ばず、独自の入試を行っていた。教養問題では、個性的な発想と幅広い知識が必要とされ、英国流の実用主義的な考え方に基づいて、何らかの説や論を展開する場合に、必ず文学書や歴史書からの引用でそれを裏付けることが要求されるため、受験者はそういう文学や歴史の素養がそれまでの教育と生活の中で自然に蓄積されているという前提に基づいて行われる試験だった
両大学が独自の入試をすることへの批判が高まり、1980年代半ばには共通試験と面接で入学できる制度が始められた
第6章
現代のパブリック・スクール
1957年には、すべてのパブリック・スクールは政府に登録することを義務付け
パブリック・スクールでも学力重視 ⇒ カリキュラムの変更。ギリシャ・ラテン古典最優先から、英文学と科学系の科目が増やされ、それまで科学を軽視どころか蔑視さえしていたパブリック・スクールも科学の教育に注力。現在でも科目における「優劣」の感覚が根強く残るのは興味深い
能力別クラス編成(ストリーミング)が一般的。1学年は学力により3つのレベルに別れる
科学科目にもヒエラルヒーがあり、化学が最上、次が物理、一番下が生物
共学化 ⇒ 男子校のパブリック・スクールの多くは共学となり、同性愛は影を顰める
1964年、労働党の政権下、公立の制度に統合する動き ⇒ 階級闘争の一環で、パブリック・スクールを目の敵にしたが、1976年にはグラマー・スクールを廃止し、コンプリヘンシヴ・スクール(総合中等学校)に統合
2016年、保守党から首相になったメイがグラマー・スクールを戻そうとしている ⇒ グラマー・スクール出身の首相の懐古趣味?
政権交代に伴って学校制度がころころ変わるのが特徴
パブリック・スクールも80年代のサッチャーが首相の頃は、公立校への援助金を削減したことで、優秀な生徒が集まり一時的に黄金時代を迎えたが、97年の労働党政権で萎む
リーグ・テイブル ⇒ 1991年、保守党の新聞『デイリー・テレグラフ』紙が、高校卒業資格試験である「一般教育証明書」のアドバンスト・レベルの試験の成績をもとに、各学校のランク付けを示したため、パブリック・スクール精神とは相反する学力重視にならざるを得なかったが、現在のパブリック・スクールは生徒の人格形成だけでなく、学力指導においても優れているというのが一般的なイメージ
近年の学費の高騰が敷居を高くしている ⇒ アッパー・クラスでも、よほどの財力がないとパブリック・スクールに入れることは難しくなった
1つ大きく変わったのは、アッパーやアッパー・ミドルの人々やその価値観、文化、話し方に、ほとんど自動的に敬意を抱くということがなくなった。むしろ彼らの話し方と発音は反感を抱かれるほど。国会のやり取りでもパブリック・スクール出身者に対する批判が強まっている
パブリック・スクール 新井潤美著 重要な英国文化から見る世界
2017/1/29付 日本経済新聞 朝刊
この本を手にしたひとたちには、「はじめに」の章からではなく、「おわりに」の章から読み始めるように勧めたいと思う。そこには、「イギリスの子供が必ず接すると言ってよい『古典』には、寄宿学校への言及が多い」と書かれている。著者は勿論(もちろん)日本人であるが、「子供の頃に通っていた香港のイギリス人学校の図書室」で、そのことを知ったという。そして、いつの日にか、「イギリスの寄宿学校」に行きたいという思いを抱いたというのである――。この本は、或(あ)る意味では、彼女の自伝でもあるのだ。
父親の仕事のこともあって、彼女はオランダのアムステルダムの学校に移ったあと、一四歳くらいのときに、英国のチェルテナム・レイディーズ・コレッジという「女子パブリック・スクール」に移る。その次には、ロンドンで学校生活を送ることになる。そして今は東京の大学で、英文学を教えているのである。『パブリック・スクール イギリス的紳士・淑女のつくられかた』は、そのような経歴をもつ研究者の手になる本なのだ。
著者の狙いは明確である。「本書では、パブリック・スクールのイメージが、イギリス文化においていかに大きな位置を占めているかを、小説、演劇、映画などを通してみるとともに、その実態と歴史的背景をも併せて紹介していきたい」。この狙いは十分に実現されていると言っていいだろう。
有名な『トム・ブラウンの学校生活』は勿論のこと、他のさまざまの作家の手になる実にさまざまな作品が取りあげられ、それらと関係する政治改革や教育現場での問題や改革も紹介されている。そう、パブリック・スクールと階級問題にも、女子教育のあり方の問題にも、植民地問題のあり方の問題にも、眼(め)が向けられている。そこには、次なる研究を誘発するようなアイディアがあふれかえっていると言うしかないかもしれないのだ。そんな魅力的な誘発力をもつ一節を引用してみよう。
「第一次世界大戦で、パブリック・スクール出身の士官の勇敢な行動や、優れた指導力、英雄的な行動が報道されると、パブリック・スクールはいよいよ『真の紳士の形成場所』として理想化され、憧れの対象となっていく。ほんの一握りのアッパー・クラスおよびアッパー・ミドル・クラスの子弟が行くパブリック・スクールのイメージは、こうしてイギリス全体に大きな影響を与え、イギリス文化の重要な部分になるのである」。うーんと唸(うな)るしかない。
(立正大学教授 富山 太佳夫)
Wikipedia
パブリックスクール (public school)
13歳~18歳の子供を教育するイギリスの私立学校の中でもトップの10%を構成するエリート校の名称。以前はその大部分が寄宿制の男子校であったが、現在は一部を除き共学制に移行している。イギリスのトップ大学に当たるラッセル・グループ、特にその頂点にあるケンブリッジ大学、オックスフォード大学などへの進学を前提とする。学費が非常に高く、入学基準が厳格なため、奨学金で入学を許された少数の学生以外は裕福な階層の子供達が、寮での集団生活を送っている。近年は、海外の金持ちの子供達がイギリスでの大学教育を見越して入学することが多くなっている。
中世において学校とは地元の教会かギルドに付属しており、その目的は僧侶(見習い)および職人育成が目的とされており、入学資格も出身地、親の職業や宗派や身分などにより制限されていた。一方で貴族の階層の子弟の教育は在宅での個人教授を主としていた。しかし近世になるとともに、貴族の身分に属さない富裕階層であるジェントルマンが勃興するなかで、親の出生や身分に関係ない学校が必要となる[1]。このような背景の中で、以前の学校と違い、一般(パブリック)に開かれた寄宿生の私立学校であるウェストミンスター校、ウィンチェスター校、イートン校、ハーロー校、ラグビー校、マーチャント・テイラーズ校、セントポールズ校、シュルーズベリー校、チャーターハウス校などがパブリックスクールと俗称されるようになる。これらの学校が非常に優秀な教育機関でありその活動には公共的意義があることが広く社会に認識されたことも「パブリック」スクールと呼ばれることになった一因であると言われている。 その後、1860年代に開かれた王立クラレンドン委員会(英語版)において、パブリックスクールの定義やその社会的意義および責任が調査され、1868年のPublic Schools Act(パブリックスクール法(英語版))によって、その呼称に法律的な定義が与えられる。
この時期の改革で活躍したのは、道徳的人格形成に主眼を置いたラグビー 校校長トーマス・アーノルド、科学技術(アウンドル校(英語版))校長(F.W.・サンダーソン(英語版))や、教育環境と教育構造面などを改革した (アッピンガム校(英語版))校長(エドワード · スリング(英語版))であった。これにより、前記の9校(後に、クラレンドン校と呼ばれるようになる)が法的に「パブリックスクール」として認可される一方で、これらの9校以外でも、条例の定義に当てはまる私立学校は「パブリックスクール」と呼ばれるようになり、現在ではスコットランドやアイルランドも含めた200余りの学校が「パブリックスクール」の団体である校長会議に属する[2]。
イギリスで一般に私立学校は国営でないという意味で「インデペンデント・スクール」と呼ばれる。また中等教育と高等教育を専門とするパブリックスクールに対して12歳以下の初等教育を専門とする私立学校はパブリックスクールに入学の準備をする学校という意味でプレパラトリー・スクール、略してプレップ・スクール (Prep school)(あえて日本語に訳せば「予備学校」)と呼ばれる。これに対して公立学校は地元の生徒のみを受け入れるため「ステート(公立)スクール」と呼ばれる。「私立」学校、プライベートスクールという表現が使われないのは、英語でプライベートと言う表現は「営利」という含意がある一方で、パブリックスクールを含むイギリスのインディペンデント(独立・非国営)の学校はすべて非営利団体として登録されており税制上、「私立・営利」の企業と違い、課税の対象外であるからである。後者の団体に属する教育機関には家庭教師の斡旋企業などがあげられる。ただし、近年では、膨大な学費を課し、普通の大学よりも優れた施設を有し、一部の金持ちの子弟の教育施設に過ぎない学校を非営利団体として非課税にするのはおかしいとの批判が高まっており、優秀でも経済的に恵まれていない子供を奨学金などで入学させないと「非営利」団体の認可、ひいては非課税の権利を剥奪するとの政府の圧力を受けている。
ウェストミンスター校、ウィンチェスター校、イートン校、ハーロー校、ラグビー校(ラグビー・フットボール発祥校の逸話あり)、マーチャント・テイラーズ校、セントポールズ校、シュルーズベリー校、チャーターハウス校の9校が「ザ・ナイン」と呼ばれる代表的な名門校である。 更に新しい世代のものとしてはゴードンストウン校、アトランティック・カレッジなど。元々は全寮制の男子単学であったが、ゴードンストウンなど新しい世代のプログレッシブ(progressive―前衛)と呼ばれる学校群が男女共学に踏み切ったため、徐々に女子も入学出来るようになってきた。現在ではウェストミンスターやラグビーなど、歴史的名門校でも共学化している。
それぞれ学校名には「School」若しくは「College」がつくが、一般に、イートン校(Eton College)、ハーロー校(Harrow School)、ラグビー校(Rugby School)といった呼称が日本では使われている。1387年に司教ウィカムが創立したウィンチェスター・カレッジ(イングランド、ハンプシャー州ウィンチェスター)は最古のパブリックスクールと言われている。
1969年にロンドンのペンギンブックスから発行されたロバート・シキデルスキー(Robert Skidelsky)著 "English Progressive
Schools" (ISBN 978-0140210965) が、これらの学校に新しい光を当てた書籍として知られる。
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