芸術空間の系譜  高階秀爾  2026.6.21.

 2026.6.21. 芸術空間の系譜

 

著者 高階秀爾 19322024年。東京生まれ。東京大学教養学部卒業。東京大学名誉教授。195459年、フランス政府招聘留学生として渡仏。ソルボンヌ大学附属美術研究所に学ぶ。国立西洋美術館館長、大原美術館館長、日本芸術院院長を歴任。レジオンドヌール勲章シュヴァリエ章を受章。日本の様々な美術のシーンを牽引しつづけた。著書に『ルネッサンスの光と闇』(中公文庫、芸術選奨)、『名画を見る眼』(岩波新書)、『20世紀美術』『世紀末芸術』(ともにちくま学芸文庫)など多数。ウィント『芸術と狂気』(岩波書店)など翻訳書も多い。

 

発行日            1967.9.20. 第1             1997.4.25. 第16

発行所            鹿島出版会

 

 

²  原始空間の特質 

ルイ14世が中国の皇帝に贈った肖像画を見て、皇帝はフランスの王様は顔が半分しかないと言ったという逸話がある

「頭で知っていること」を描きながら、それを「眼に見えるもの」と同一だと思い込んでいるところに、人間の知覚作用の面白い一面がある

エジプト人たちが、正面像と側面像の奇妙に入り交じった不思議な人体を描いたのは、最初からそのように「見えた」からだと述べているが、20世紀のキュビストたちは、そのことを意識的に行った。複数の視覚像の混在といえる

人間の眼と頭とは、あるがままの対象の姿を捉えない。網膜が捉えた像がそのまま知覚像になるわけではなく、頭によって一度「修正」されて知覚像になるので、普通に言われる「眼に見える世界」というのは、実は眼と頭(知性)との協力によって生み出されたもの。眼がカメラと同じであれば、網膜の捉える像は上下左右が逆のはず

フランスのラスコーやスペインのアルタミラなどに多く点在する洞窟絵画は、2万年前に描かれたものでありながら、生々しい描写力で我々を驚かし、古代の芸術家たちの現実再現力に讃美を惜しまないが、現在われわれが言う意味での「写実的」なのではない

彼らの絵は、写生ではなく、記憶に基づいて描いたもの。不思議にも横から見た姿ばかりで、正面や後ろ向きが全くないのも、頭で描いた絵であることを語っている

壁画はあくまで二次元の平面であり、主題は、人間にとって他者である動物に限定

原始彫刻は、視覚世界とは別の原理に基づいている。抽象化された空間意識はなく、自分たちの行動を認識の手がかりとした

 

²  ギリシャ人の空間意識

パルテノンのペディメント(三角形の切妻、破風)やシャルトルのティンバヌム(半円形)など、与えられたいささか不規則な空間の中で、彫像がいかに自然に見えるか、ということを絶えず考えていた

 

²  イタリア美術の空間意識

それぞれの動物はみな自己に固有の世界像を持っていて、それぞれの世界像の間には、何の共通点もないという。人間の世界像と、犬や猫、鳥などの世界像とは全く違う

「空間」というものは人間が外界を認識するための1つの形式に過ぎず、人間同士の間でも、「空間」の捉え方、空間意識にかなりの差があるのは当然

それゆえ、我々は過去の芸術作品を前にした時、そこに表されている独自な表現形式に関心を抱き、その表現形式を通じてそれを生み出した精神世界に迫ろうとする。おそらく芸術というものは、多かれ少なかれそのような認識論的基盤を持っている。そして、空間の中における造形性の表現である美術の場合には、その作品を生み出した精神世界の空間意識が作品を通して我々に語られるのである

造形芸術における空間表現の在り方を決定する条件は3つ、民族、時代、環境で、3つの変数の組み合わせによって解き明かすことができるという

静謐で安定したものの持つモニュメンタルな大きさと力とをイタリアにおいて初めて統一的に完成したのは、古代ローマ帝国で、ローマの建築は、外観以上に内部の空間創造に関心を向けた

イタリアで西ローマ帝国滅亡後、キリスト教文化に触れて多くの教会建築を生み出すが、キリスト教建築がイタリアにもたらしたものは、超越的空間意識ではなく、豊麗多彩な装飾意識だった。イタリアの風土の中では、華麗な装飾表現の舞台装置となった

建築はもっぱら舞台装置のための、すなわち書き割り的な役目を担わされたものとしての建物という点が強調され、終局的には建物そのものよりもその正面部をどのように扱うかという点に主要な関心が注がれる。正面部は、建物の構造とは別に建物に貼り付けられた仮面のような役割を果たす

「書き割り」とは、建物本体の構造とは関係なく、広場や街並みを美しく演出するために貼り付けられた「見せかけの正面壁(ファサード)

建物の正面部や広場を1つの「舞台装置」と見る空間把握は、当然にその「舞台」を飾る芸術家に一種の「演出家」の役割を与える。イタリアの、特にルネサンス期に、芸術家が大きな権威を持ち、多彩な能力を発揮したのは、それなりの地位を与えられたからに他ならない

ダ・ヴィンチにしてもジョットー、ミケランジェロにしても芸術家以上の才能の持ち主

絵画は逆に建築的表現を好んで取り入れ、建築と一緒になって不可分に発展。宮殿内部の装飾はその典型だし、「壁面墓碑」や「壁龕彫刻」も建築と彫刻との協力による「演出」に他ならない。建築に従属するのではなく、建築に絵画的効果を与える存在

壁龕彫刻(へきがんちょうこく)とは、建築の壁面を半円形や矩形に窪ませた空間(壁龕・ニッチ)の中に配置される彫刻作品を指します。古代ローマ建築から西洋のキリスト教建築に広く用いられ、彫像を保護しつつ空間に奥行きと荘厳さを与える手法として発展

 

²  ゴシック空間の象徴性

ゴシック建築の空間の持つ特性は、水平性と垂直性という2つの方向性の相克、せめぎ合いから生まれるドラマチックな緊張感にある

2つの方向性の相克という意味では、ロマネスク時代から存在するが、ロマネスクの建築空間が人間をそのまま受け入れ包み込んでくれるように、人間と建築の共謀関係が成立しているのに対し、ゴシック建築の空間は、冷たく人間を拒否しているように見える

その理由は、ゴシック建築が2つの方向性の相克と超人間的なスケールという2つの側面を同時に統一的に実現させているところにある

 

²  ルネッサンスの理想都市

ルネッサンス期における都市イメージの展開は、現実的なものと非現実的なもの、厳しい理論的追求と豊麗な幻想性、あらゆる面における技術上の進歩とその進歩の生み出す新しい夢等、一見相矛盾するような要素の複雑な絡み合いと相互作用とから成り立っている

現在残っているような都市の基本的相貌が形成されたのはゴシック末期で、イタリアの町の特色である広場の構成や、噴水、橋、道路等の基本的都市プランはほとんど中世末期が出発点だが、それにもかかわらず、イタリアにおける「都市のイメージ」の誕生は明確にルネッサンス期のものとされるのは、その視覚的効果への関心の強さ、視覚芸術における都市の表現への執着、「理想都市」の構想等、豊かに多彩に花開いたからで、「視覚的空間」の表現を可能ならしめる表現技術がルネッサンス期に初めて完成された。都市の統一的視覚化の試みも、版画技法の発達もあって15世紀末から急速に増えてくる。寄木細工においてみられる一定点からの視覚の統一化が意識的に行われている

「都市イメージ」発生の史的背景として考えられるのは、①ルネッサンス時代は西欧において「都市の時代」であり、都市間の文化的繁栄競争があったこと、②建築、絵画、工芸における様々の理論的追求と、それに伴う手段の進歩発達があり、特に建築理論は内容の充実と思想的深みを備えるように成熟がある

 

²  新しい技術と空間的可能性 

エッフェルが「塔」を建てたのは、新しい技術の持つ可能性を具体化するためであって、決して新しい「美」の規範を示すためではなかったが、詩人や画家たちはその「離れ業」に驚くよりその造形の美しさに新しい時代の新しい美を見出した

1889年当時、ほとんどすべての人々がこの「怪物」の醜悪さを語っていたことを思えば、19世紀末から20世紀初頭にかけての西欧人の「趣味」がいかに急速に変わりつつあったかを物語る。そこに「世代の差」や「歴史のパラドックス」を見ることも可能

新しい技術、素材のもたらした造形上の可能性が、いかに20世紀建築に深い影響を与えたかということの例証でもあり、「建築家」と並んで「技術者」という新しい人種が登場

新技術は、その計算において幾何学や数学を使わなければならなかったため、意識せずして新しい造形を作り出していた。技術者は、建築家の知らなかった強力な武器を手にして、「美学」を受け持っていた建築家から、世界の支配権を奪っていった

19世紀半ばに始まった「プレハブ方式」も、コルビュジェの主張を100年近くも前に実現していたが、植民地での風変わりな実験にとどまっている

元々19世紀に急激に注目されるようになった新しい技術は、本来それだけでは決して優れた造形表現としての新しい建築の登場を保証するものではなかった。新技術も新材料も、当初は建築の表に触れない部分、裏街道での自己主張から始まる

新しい技術の持つ力に対する無知は、必然的にロマンティックな懐古趣味に結びつく。ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動はその典型例。新しい技術の本質を「手わざ」の否定に見たのはモリスの慧眼だが、19世紀に新しく登場した機械は、蒸気機関など人間以外の動力源の開発を伴い、人間の手を離れてそれ自身で仕事をすることができた

 

²  世紀末芸術の空間意識

造形芸術の歴史において「世紀末」と言える時期は、18901905年と短期間に過ぎない

短期間であろうと、「悪趣味」と言われようと、大きな歴史の曲がり角には違いない

フランスでは「支那そば様式」、イギリスやベルギーでは「うなぎ様式」、ドイツでは「サナダ虫様式」、イタリアでは「花模様様式」と呼ばれ、「アール・ヌーヴォー」「モダニズム」を主張しながらも認められることはなかった

創造的、革新的運動が保守的な同時代人の反対と無理解に出会うのは珍しいことではないが、多くの場合、それらは次の若い世代に強力に支持され、受け継がれてゆくものだが、世紀末芸術については、後継世代の強い反発があり、完全に克服した上に新世代の機能主義やキュビズムが打ち立てられた

 

²  キュビスムの空間意識 

キュビズムのルーツのセザンヌの有名な一句、「自然を円錐と、円筒と、球体とによって扱うこと」が公表されたのは1907年。死後1年経った回顧展でのこと

セザンヌのこの言葉をピカソやブラックは受け継いでいるが、そこには35歳以上の歳の差があり、極めて大きな断絶もある

セザンヌの求めたものは、自然のあらゆる対象を幾何学的な「原形態」に還元することによって、自然を逸話的なものから造形的なものへ高め、すべてを感覚的な色模様の中に溶かし込んでしまった印象派の画面に、改めて確固とした形態を回復しようとした

ただ、あくまでも三次元の視覚世界の等価物を追い求め、印象主義の平面的構成よりもずっと伝統的なものであり、古典的視覚世界にとどまっていた

一方で、ピカソやブラックにとっては、二次元の平面としての画面の確認と、色彩を色彩そのものの持つ表現力のために用いることとは当然なことで、伝統からの自由さという点で、セザンヌと大きく違っていた

セザンヌの対象把握は、あくまでも1つの視点から不動のものとして眺められた対象の捉え方であり、遠近法や明暗法などを用いて自己と対象との正確な距離を正当に表現しようとする空間表現ともいえる。それに対し、ピカソやブラックの分析的キュビズムは、正当な距離感を喪失させるもの。思い切って対象に密着し、しかも視点を自由に移動させるため、対象との結びつきは限りない細部の積み重ねに終わるが、対象との正常な距離関係を喪失したという点に意味があり、そこにこそキュビズムの新しさがあった。風景画はほとんどなく、静物画ももっぱら楽器、コップ、パイプ、新聞、トランプ等、「手に触れることによってはじめて意味のあるようなもの」に限られているのは、対象との距離を零にすることであり、最も客観的な対象表現の世界であって、セザンヌのような風景画とは全く正反対の世界

複数化され、細分化されたイメージの集合体としての対象表現は、西欧の視覚と空間意識とに大きな影響を与えずにはいなかった。人間中心的な統一的視覚像から解放された西欧の造形表現は、外の世界に対して遥かに自由な態度をとることができるようになった

 

²  抽象的空間の成立――抒情と幾何学

現代の抽象絵画は2つの系列に整理。1910年代のカンディンスキーに代表される抒情的抽象画(熱い抽象)と、1920年だのモンドリアンに代表される幾何学的抽象(冷たい抽象)

カンディンスキーは、対象の存在が絵画の美しさにとって有害だと悟り、「対象のなくなった画面をいかにして秩序ある1つの絵画世界に変貌させるか」という、「なくなった対象の代わりに何を持ってくるか」の問題となり、その答えとして出てきたのが、色彩の対立と調和、および構図の豊かな統一に関する独自の理論で、その後の抽象絵画の発展に大きな影響を与えた

カンディンスキーにとっての絵画とはあくまでも画面に「最も豊かな、最も強力な」様々の要素を配置して、それを「統一ある」「純絵画的なコンポジション」にまとめ上げるもので、それらの諸要素を載せる四角い画面そのものの存在は、絵画の大前提として全然疑われなかった。常に外から与えられた要素の総合、統一によって成立している

これに対し、新造形主義の画家たちは、画面そのものの存在を問題とする。その結果、美術館や蒐集家のサロンから離れて、建築装飾やグラフィック・デザインのような応用美術の方面に豊かに発展していく

 

 

 

筑摩書房 ホームページ

2026/02/09 文庫版発行

内容紹介

芸術とは「眼に見えたもの」の再現ではなく「知っていること」から創られる。絵画や彫刻にせよ建築や都市にせよ、優れた独自の表現が確立された時、そこには、かつてなかった精神的価値に裏打ちされた空間認識が根ざしているに違いない。原始時代の洞窟壁画、ギリシアの神殿と彫刻、ゴシック建築、ルネサンスの理想都市、鉄とコンクリートと工業化から現れた世紀末芸術、20世紀に花開く抽象芸術……。自己と対象との関係において際立った表現様式が持つ文化史的・精神的背景を解き明かす、圧倒的な芸術論。西洋美術の碩学の隠れた名著。解説 三浦

 

 

(ひもとく)高階秀爾の仕事 美術を見る時のたしかな導き手 宮下規久朗

20241221日 朝日新聞

 先日92歳で亡くなった美術史家の高階秀爾先生は、戦後日本の美術ブームを半世紀にわたって牽引した美術の巨人である。その活動は多岐に及び、東京大学教授から国立西洋美術館や大原美術館の館長、日本芸術院院長など多くの公職を歴任し、文化勲章受章にいたるまで、半世紀にわたって日本の美術史研究や文化行政に大きく貢献してきた。

 しかし、先生のもっとも偉大な仕事は、その著作の数々である。各種の美術全集の編集や解説に加え、今年になっても新著を出されていた先生の著作は膨大だが、主要な著書の多くは30代から40代、1970年代までに執筆されたものであり、その早熟ぶりと先見性に驚かされる。

 古典にして定番

 先生の代表作として真っ先に挙げられるのが、『名画を見る眼』(1969年。岩波新書・1364円)である。ファン・アイクからマネまでの名画を取り上げ、その意味や意義を明快に説明したもので、半世紀以上も読みつがれている西洋美術入門の古典にして定番。モネからモンドリアンまでを扱った続編(71年。同新書・1364円)もあり、昨年いずれもカラー版が刊行された。

 いま読んでも文章の明晰さやみずみずしさに打たれる。その後の著作や、拙著を含む類似の名画入門と比べても、ひときわ抜きんでているといえよう。私は10歳のころ、近所の書店でたまたまこの本を見つけて夢中で読み、一つの絵にこれほど深い意味があるのかと驚いた。絵が好きで将来は画家になりたいと漠然と考えていたが、この本によって美術史の奥深さに魅了され、実際に高階先生に習いたいと、この道に進んだのである。

 先生はパリで本格的な美術史学を学び、帰国後それに基づく論考を次々に発表した。当時、美術といえば文学者や美術家がエッセー風に語るものや、思想家が哲学的に論ずるものが目立っていた。しかし美術とは、個人の感性や趣味の問題ではなく、また思弁的な美学とは異なり、作品を時代や社会の中に客観的に位置づけ、解読すべきものだ。先生はこうした正統な美術史学を紹介し、実践してみせた。

 『ルネッサンスの光と闇 芸術と精神風土』上・下(71年。中公文庫・各990円)は、フィレンツェ絵画と新プラトン主義との関係など、欧米のイコノロジー(図像解釈学)の成果を詳細かつ明快に論じた力作。『美の思索家たち』(67年。新潮社・品切れ)は、パノフスキーやゴンブリッチなど、西洋の代表的な美術史家の方法と業績を論じたもので、美術史学を学ぶ者にとってきわめて有益であった。これらによって、日本の美術史学のレベルが底上げされ、欧米に近づくことができたといえよう。

 日本も研究対象

 明治以降の日本の美術は、近代文学とちがって長らく学問的な研究の対象ではなく、美術館の現場などで場当たり的に扱われてきた。『日本近代美術史論』(72年。講談社文庫・品切れ・電子書籍あり)は、日本近代の画家について美術史的に考察した論集。冒頭の高橋由一論には、先生がフランスから帰って由一の「花魁(おいらん)」を見たときの衝撃が記されている。単なる西洋の模倣でない「異質な感受性の存在」に驚愕し、違和感とともに強く共感したというが、その体験が日本の近代美術を研究する契機となったという。本書は日本の近代美術を本格的な美術史研究の対象として押し上げ、私たちはみなその道筋に沿って研究してきた。先生には、『日本近代の美意識』(78年。青土社・品切れ)や『日本美術を見る眼 東と西の出会い』(91年。岩波現代文庫・1331円)のように、西洋と比較して日本美術の特質や美意識を分析する論考も多い。

 先生はつねに西洋とは異質な感受性を持つ日本人が美術とどう向き合い、理解すべきかを考えてきた。それを明晰な文章によって説きあかし、美術の知的な魅力を普及させてくれた。真に優れた学問的成果はわかりやすく明快である。そのことを先生の仕事ほど感じさせてくれるものはない。今後も、日本人が美術を見るときのたしかで信頼できる導き手であり続けるだろう。

 みやした・きくろう 神戸大学教授(美術史) 63年生まれ。『カラヴァッジョ』『聖母の美術全史』『日本の裸体芸術』など著書多数。

 

 

Wikipedia

高階 秀爾(たかしな しゅうじ、193225 - 20241017)は、日本の美術史学者・美術評論家。位階は従三位

東京大学文学部名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。日本芸術院院長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長、大原美術館館長などを務めた。秋田県立美術館顧問。

経歴

出生から修学期

1932年、東京で生まれた。父は哲学者高階順治で、母方の姓を継いで旧姓・佐々木を名乗った[1]東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学し、のちに東大教授となる芳賀徹平川祐弘石井進平田賢とは同じクラス(第1部)であり、波多野里望とはこの頃から仲良しであった。1944年に小学校を卒業し、東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。19449月から19469月まで、父親の出身地である秋田県大曲町)に疎開し、旧制角館中学で学んだ。

1948年、四修で旧制第一高等学校に入学。1年修了で翌年新制東京大学に入学。在学中に矢代幸雄の『世界に於ける日本美術の位置』を読み、西洋美術史研究を志す。1953年、東京大学教養学部教養学科を卒業。東京大学大学院に進み、在学中の1954年から1959年まで、フランス政府招聘留学生として渡仏。パリ大学付属美術研究所およびルーブル学院で西洋近代美術史を専攻し、展覧会の運営など美術行政についても学んだ。

美術研究者として

帰国後、国立西洋美術館主任研究官に就いた。美術館勤務の一方で評論活動も開始し、1967年には遠山一行江藤淳と雑誌『季刊藝術』を創刊。編集長は古山高麗雄1979年まで計50号発行した。学界では、1968年に発足した日本文化会議に参画(1994年に解散)。

1971年、東京大学文学部美術史科助教授に就いた。1979年に同教授昇格。1992年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。

19924月、国立西洋美術館館長に就任。2000年まで務めた。1997年、パリ第一大学より名誉教授を授与された。20024月~20236月、大原美術館館長[2]2004年、京都造形芸術大学大学院長となり、同比較藝術学研究センター所長も兼ねた。2008年、京都造形芸術大学を退職。2015年、日本芸術院会員に選出された。202010月~20239月まで日本芸術院長を務めた[3]20244月に発足された大原芸術研究所の所長に就任[4][5][6]。運営財団の理事も兼務していた[7]

20241017日、心不全のため、死去[8]92歳没。死没日付をもって従三位に叙された[9]

受賞・栄典

研究内容・業績

  • 西洋美術館研究官、東京大学の美術史教授として、1963年の『世紀末芸術』を始め数多くの著作があり、啓蒙的役割を果した。ルネサンス期以降の西洋美術を専門としながら、日本近代美術にも造詣が深くその方面の著作、画集編集もある。
  • 同じ東京大学比較文学教授を務め、京都造形芸術大学名誉学長である芳賀徹とは小学校時代からの友人。
  • 『名画を見る眼』正・続(岩波新書)は、半世紀重版され計・82万部出された(新版の紹介より)。

家族・親族

 

 

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