クラウディオ・アバド  Wolfgang Schreiber  2025.7.19.

 2025.7.19. クラウディオ・アバド 静かな革命家

Claudio Abbado, Der Stille Revolutionär             2019

 

著者 Wolfgang Schreiber 1939年ドイツ・コブレンツ生まれ。ドイツ語圏でもっとも著名な音楽批評家の一人。ウィーンで新聞・雑誌等に文化記事を執筆した後、19782002年南ドイツ新聞の文芸欄で音楽部門の編集、批評を担当。1970年代からクラウディオ・アバドの活動を間近で追い、親交を持つ。2002年からはフリーの批評家としてミュンヘンおよびベルリンで活動 

 

訳者 杉山有紀子 應義塾大学准教授。ザルツブルク大学博士課程修了。専門はドイツ語圏、特にオーストリアの近現代文学

 

発行日           2025.1.20. 第1刷発行

発行所           春秋社

 

目次

1 友人たちのクラブ

アバドは文学と本を愛し、自らの人生の道と音と静寂との織り成す神秘に結び付けた。だが、彼の信念はもっと実際的なものだった。音楽への愛はアバドにとって始めから最も重要かつ「最も美しい」ものだった

1968年、「旅するアバドの友人たち」による協会クラブ・アバディアーニ・イティネランティが生まれ、会員はアバドの友人を自認し、追っかけして回る。このクラブは、'95年アバドの生誕地ミラノで公的組織となり、死後は彼の娘アレッサンドラが総裁を務め、「アバドによる社会的・教育的プロジェクトの自然な継承」を自認するボローニャの非営利組織「モーツァルト14」に引き継がれ、アバドによって始められた病院や刑務所、学校を舞台とした音楽プロジェクトに組み込まれ、アバドが重要と考えていた音楽の持つ社会政治的なポテンシャルを引き出すことに役立っている

 

2 幼年時代と少年時代(1933‐49年)

l  「音楽の響く家」

父母ともに音楽家で、アバドは幼年期を密かな現在のようなものとして守り続けることに成功した人であり、彼にとって非常に重要なのは、あらゆる音楽が何らかの形で「リアル」である、即ち実人生と結びついていると確信できることだった

シューマン著『家庭と生活のための音楽の規範』の結びにあるモットー「学ぶことに終わりはない」が、アバドの音楽家としての人生全体を規定しているように見える

父ミケランジェロはヴァイオリニストで、ミラノ音楽院教授、後に室内楽アンサンブルを立ち上げ、母はピアノ教師、兄マルチェッロはピアニストで、後にヴェルディ音楽院の理事、姉ルチアーノはヴァイオリニストで音楽出版社リコルディに入社し、フェスティバル・ミラノ・ムジカを設立、弟ガブリエーレは建築家

アバドにとって最も重要だった3枚のレコードは、シャリアピンが歌うボリス、メニューインの弾くモーツァルトのヴァイオリン協奏曲、メンゲルベルクの指揮する《コラリオン》

ムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》は、生涯を通じて彼のオペラ世界の中心に留まる

家庭での室内楽に始まり、ピアノは父の伴奏を務められるほど上達、一緒に音楽を演奏するときには、弾けることより聴けることの方が重要だと教えられる

‘33年トスカニーニが亡命。アバドも戦時体験を通じ「反ファシズム的」立場に目覚める

l  「読書は神秘を生む」(オーストリアの作家ペーター・ハントケ)

書物と読書への情熱を受け継いだのは母から。母方の祖父は考古学の権威、「並外れた存在」

アバドは読書を通じて、思考及び芸術的実践を、文学的な探究と調和させることに成功。彼の世界像は、文学が見せてくれる様々な風景を巡る遥かな「読書による旅」のお陰で広げられた。「文学が、認識の力として、探究する際の助けとして、私の人間として、芸術家としての成長において大きな意味を持っていた」と自認。特にロシア文学に没頭

 

3 ミラノとウィーンでの学生時代(1949‐58年)

終戦後ヴェルディ音楽院でピアノ、和声学、対位法、作曲の勉強を始める。ポリーニやムーティは兄弟弟子、指揮はトスカニーニの弟子でスカラ座にいたヴォットに師事

芸術的な面でアバドにとて決定的だったのは、’50年スカラ座で《指環》の指揮をしたフルトヴェングラーから受けた印象。オーケストラに勢いと精密さを要求するトスカニーニの凶暴さや、団員に対してかっとなって非難を加えるような態度にアバドは反発を覚えたのに対し、フルトヴェングラーの音楽づくりは、アーティキュレーションや音の動きが生み出す交響的・演劇的な物語に、そして音楽の本質的意味に専念するもので、それがアバドの中にも深く刻みつけられた

l  文学史への旅――サルヴァトーレ・クァジーモド

アバドに消し去りがたい印象を残したのが「神秘主義的」な詩人であり作家のクァジーモド。祖父と同じシチリア人で、アバドがヴェルディ音楽院で聴講後の'59年ノーベル賞

l  シエナ夏季講座――メータとバレンボイム

20歳でピアノの学位、22歳で作曲科修了。バレンボイムの演奏を聴いてピアニストは諦め、作曲家になるのも時間を要することから、指揮者になる決断をする

'56年、キジアーナ音楽院の夏季講座で、3歳下のメータと13歳のバレンボイムに出会い、メータがウィーンでのスワロフスキーのマスタークラスに誘い、それに乗ってウィーン音楽院に留学

l  初恋

留学前に、ミラノの音楽院で知り合った声楽科卒のジョヴァンナと結婚。11女をもうけるが、ミトロプーロス・コンクールで優勝してバーンスタインの下でアシスタントを務め始めた'68年離婚。ガブリエッラと再婚して次男誕生

l  ウィーン――師ハンス・スワロフスキー

ウィーンは、’55年独立を回復するまでソ連軍が駐留、クラシックの祖国の地位を回復

アバドはメーターとともにスワロフスキーのマスタークラスの生徒となり、ウィーンにおけるドグマ的ともいえる伝統崇拝、歴史に対する反省と共感の排除が、モダニズム音楽の抑圧に成功してきた実態を知らされる

師の音楽・文化に関する知識、偏見のない教えはアバドにとって道しるべとなるもので、師の体現する文化的地平の広がり、その音楽的世界像と技術、音楽分析の指導に強い印象を受け刺激される。師の楽譜分析や整合的な音楽解釈の考え方は、スコアを「書かれている音符の通りに読むこと」を志向するものであり、作曲家の意志として認識したものに集中すること。演奏者の個人的見解や感情の表出、過剰な表現や単なる感覚といったものの入り込む余地はなく、ひたすら作品に仕える表現を生み出すことこそ必須のものだった

今日では疑問視される概念だが、当時楽譜と作品への忠実というモデルを体現していたのはトスカニーニ。ライバルのフルトヴェングラーはこれとは全く違って、「自由な演奏の基礎となる規律を説いた」

アバドにとってウィーンで最も深い影響を受けた経験の1つは、20世紀前半のモダニズム音楽を学んだこと、特にマーラーの音楽と、シェーンベルクと弟子たちによるその継続発展は、アバドの音楽的思想の中心的な結節点となる

楽器に「歌わせる」こと、イタリア音楽の伝統であるカンタービレを、アバドは自身のオーケストラから特に好んで求めた

ウィーンでアバドは古楽の「歴史的知識に基づく」最初期の実験的演奏に出会った。オーストリア出身のチェリスト・指揮者で音楽学と楽器研究のパイオニアだったアーノンクールがコンツェントゥス・ムジクスで披露していたもので、古楽演奏を聴いた体験を通して、古典作品が如何にして「本来の姿で」響き得るかを知る

メータとともに楽友協会協会合唱団のメンバーとなり、通常ではリハーサルを見学できない「偉大な老指揮者たち」の練習に立ち会うことができた。ワルター、セル、カラヤン、クリップス、フリッツ・ライナー、ベーム、シェルヘンなどが指揮台にいた。特に老齢のワルターのあり方は知的にも感情的にも満たされた音楽づくりの指針であり続けた

他の芸術分野のモダニズムにも関心を持ち、エゴン・シーレの表現主義絵画にも心酔

アバドとメーターは一緒に卒業コンサートで舞台に上がり、アバドが卒論のテーマに選んだのは、《ボリス・ゴドゥノフ》

アバドはウィーンという都市を、自らの音楽家としての未来の実験場として体験したと言える。ウィーンは文化面における第二の故郷のような街となり、、'71年からは定期的にウィーン・フィルの指揮台に立ち、その「主要指揮者」の1人に選ばれ、'8691には国立歌劇場の音楽監督を務める

 

4 最初の受賞、指揮台の席巻(1958‐68年)

卒業後のアバドとメータの指揮者としてのキャリアは異なるテンポで異なる段階を進む

‘58年のタングルウッドのサマーキャンプで、2人はそろって指揮者のワークショップとクーセヴィツキー指揮者コンクールに参加、アバドが1位でメータが2位となり、メータはすぐにアメリカでの一流オーケストラの指揮台に立ち始めたが、アバドはアメリカの誘いを断ってイタリアに帰る。自己への疑念による慎重さが勝ったようだ

アバドと同じミラノ出身のポリーニも、’60年にショパン・コンクールで優勝した後、自省の時間を取り、忍耐力と冷静さを鍛えたが、同様の決断を下した

ミラノや地方の町での小さめのアンサンブルの指揮から始め、'60年ミラノ・スカラ座でのスカルラッティの生誕300周年記念演奏会に初出演、ヴェルディ劇場ではオペラ指揮者としての力量を示す機会が与えられた

l  パルマでの室内楽講師

指揮者としてのキャリアに対するアバドの慎重さは、当時の彼が選んだ珍しい進路にも表れている。’6063年、パルマの音楽院が新設の室内楽科の講師の職をオファー、学生に室内楽を教えながら、音楽家として社会に根を下ろすことに目覚める

l  新世界への出発――ニューヨークのバーンスタイン

'63年、ニューヨークのミトロプーロス指揮者コンクールに出場。優勝した特権でニューヨーク・フィルのバーンスタインのアシスタントとして働く。バーンスタインの熱狂的な性格、音楽に対する鋭敏な感覚、そして音楽家として、博愛家としての器の大きな人柄に強い印象を受ける。当時マーラー演奏において極めて大きな役割を果たしていたパイオニアであり、ちょうどこの時期にニューヨーク・フィルでレコード録音に取り組んでいた

バーンスタインからの更なる刺激となったのは、青少年をクラシック音楽へ導き入れるための活動で、ニューヨーク・フィルでは1924年から「ヤング・ピープルズ・コンサート」というシリーズが始まっていた。エデュケーション・プロジェクトの先駆けであり、アバドも優勝者としてバーンスタインの司会するテレビコンサート「ヤング・パフォーマー」にゲストとして呼ばれる

l  指揮者としての出世の始まり

‘63年西ベルリン放送交響楽団にデビュー。首席指揮者のフリッチャイが死去し、マゼールが後を引き受けようとしていた。翌年このオーケストラに戻って来た時には、カラヤンが聴きに来ていて絶賛、ザルツブルク音楽祭に招聘。'65年にウィーン・フィルを指揮してマーラーの《復活》を演奏。感銘を受けたウィーン・フィルは翌々年の定期演奏会に招聘

ザルツブルクでアバドの国際的キャリアは始まったといっていい。カラヤンの積極的な後押しのお陰だが、その後2人の関係は冷めていく

 

5 オペラの聖地、ミラノ・スカラ座(1968‐86年)

オペラの殿堂ミラノ・スカラ座は1778年オープン。第2次大戦後、トスカニーニによって再開されたが、今日的な意義に乏しい博物館的存在に墜ち、世代交代は必至の状況。そこに現れたのがアバド。‘65年にスカラ小劇場で初演、翌シーズンにはメインホールでベッリーニの《カプレーティとモンテッキ》を指揮、'67年には初の開幕公演でドニゼッティの《ランメルモールのルチア》を指揮、同年ドイツ・グラモフォンとの仕事も始まる

'68年シーズンから首席指揮者となり、開幕公演ではシラー原作によるヴェルディの《ドン・カルロ》を指揮、それまでヴェルディ作品の中では認知度が低かったこの作品を蘇らせるとともに、スカラ座の新たな時代の始まりを告げる。その後、シェーンベルクやシュトックハウゼンのような近現代の作曲家をスカラ座に持ち込み、新たに解釈してみせ、スカラ座をベルカントの神殿から、全ての人のための、文化における「基本的保障」に変身

アバドは、世界各地の音楽の都でも、儀礼化した慣習への敵意を隠さず、粘り強くそれと闘った。目指したのは、芸術面での革新と、社会への開放

アバドは’82年にスカラ・フィルハーモニー管弦楽団を創設、演奏会のためのオーケストラだが、ウィーン・フィルを手本としてオペラ座の管弦楽団とほぼ同一のメンバーからなるもので、最初の演奏会はマーラー

‘72年、パオロ・グラッシが総裁に就任すると、スカラ座の革新は確定的なものとなる

l  ミラノのイノヴェーション

アバドとグラッシの最も大胆な決断は、プログラムとレパートリーに関する芸術的観点からの改革。モダンで同時代的意義を備えた歌劇場を作りだそうとした

現代的な演劇及び舞台美術の表現方法が必要とされていたのは、すでに確立されたオペラのレパートリーにおいてで、演劇において実績のある演出家を招聘、オペラの舞台表現に新たな解釈が試みられる

l  オペラのレパートリー

ある音楽家が自分の周囲をどんな作品で固めているかということは、その人の音楽家としてのポートレイトであり、思考や目標について知るのに役立つ。アバドがレパートリーとした20あまりのオペラも、好まなかったものも含め、彼独自の考え方や振る舞い方について多くを語る。ヴェルディに対する強いこだわりは明白であると同時に、高度に批判的な自省を伴ったもので、ヴェルディの世界や表現する言語に対し深い共感を抱いていたにもかかわらず、歌劇全26作品のうち7作品しか指揮しておらず、さらにそのうち3つを繰り返し新たに、隅から隅まで探究せずにはいられなかったという。《ドン・カルロ》と《シモン・ボッカネグラ》を特に贔屓し、《アイーダ》《マクベス》《仮面舞踏会》を好んだというのは、ある種の共通するライトモチーフによって導かれたものだろう。それはヴェルディによってドラマチックに表現された権力の挫折・悲劇的転落というテーマ

《オテロ》《ファルスタッフ》にも、年齢を重ねてからようやく取り組んだが、叙情的かつ劇的な死者へのモニュメントであるヴェルディのレクイエムは、初期からアバドの中心的なレパートリーであり続けた。一方で、ヴェルディの名高い作品《イル・トロヴァトーレ》《椿姫》《リゴレット》は、家族を巡るカタストロフィであり、避けて通っている

精神的深化はアバドの芸術表現に欠かせない側面であり、比較的少ない作品を汲み尽くすように繰り返し取り上げることを好んだ。ムソルグスキーと《ボリス・ゴドゥノフ》の熱心な擁護者であり、ワーグナーでは《ローエングリン》を好んで指揮、後に《トリスタン」が続き《パルジファル》へと進む。イタリアのメロドラマにも早くから親しんでいたが、近しかったのはロッシーニのベルカント芸術のオペラのみで、《セビーリャの理髪師》《チェネレントラ》《アルジェのイタリア女》。モーツァルトではダ・ポンテの3作品《フィガロ》《ドン・ジョヴァンニ》《コシ・ファン・トゥッテ》を好んで取り上げ。《魔的》や《フィデリオ》に関心を抱くようになったのは晩年のこと

指揮しなかったオペラは、プッチーニやモンテヴェルディやヘンデルのようなバロック・オペラ、さらにはフランス・ロマン派のオペラやウェーバー《魔弾の射手》にも関心を払わず。リヒャルト・シュトラウスでは前衛的な《エレクトラ》のみに魅力を感じる

ベルクの《ヴォツェック》には極めて決然と、強い信念をもって取り組む。彼にとってこの作品は、度重なる戦争と犯罪に襲われた20世紀における、ユートピア的な真実のドラマであり、アバドは「貧しい者たち」のドラマを、聴衆に対し繰り返し新たに提示し続けた

ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》の色彩豊かな響きと魔法のように漂う音色を好み、この作品で20年近く務めた音楽監督の座を降り、スカラ座の聴衆に別れを告げた

アバドが好んだのは、個人の精神的危機と政治的あるいは社会的なカタストロフィとの結びつきに着目し、描き出すようなオペラであり、ルイジ・ノーノが描く叙情的かつ知的な形に昇華させた悲劇的役割に強く共感

イタリアは、「文化的には非常に豊かな国だが、政治組織や計画という点においては非常に貧しく」、音楽監督としてのアバドが当時任されていたオペラ座の運営はますます困難となり、’86年退任。ウィーンに向かう

 

6 「音楽(ムジカ)/現実(レアルタ)」――アバド、ノーノ、ポリーニ

現代作曲家の中でもヴェネツィア出身のノーノこそは、音楽的、政治的な同時代性を、カリスマ的かつ最も信頼に足る形で体現することができた1人だとアバドは考えた

1924年生まれ、イタリア共産党の好戦的なメンバー。ブーレーズやシュトックハウゼンと並び、「新音楽」と呼ばれる戦後の知的モダニズムに、エモーショナルな力を与えることに成功。ノーノにとって、音楽は政治的現実の中で一定の役割を果たすもの

アバドは上流市民假定出身であり、「左派インテリ」に共感、ノーノの音楽と政治美学に対して全面的な共感を感じたが、その階級闘争的な衝動に対しては控え目な反応を示す

アバドにとってポリーニほど精力的に共演を重ねた器楽奏者は他にいないが、ポリーニが直接的かつ衝動的な発言をしたのに対し、アバドは自らの仕事を通して世界に対する自分の見方を表現する方を選ぶ

'72年、ポリーニはミラノでのリサイタルの冒頭、アメリカのベトナム戦への抗議の言葉を述べようとしたが、聴衆は拒絶、コンサートは台無しになる。イタリアの芸術家や知識人たちはメディア上で「音楽と政治」について熱く議論。イタリアの文化界は「左派」の政治性と、ヨーロッパとラテンアメリカを覆っていた革命的学生運動によってかき乱されていた。アバドらの芸術的刷新の中でも特に重要だったのは、’72年に実現したスカラ座の学生及び労働者への開放。保守的なミラノ市民は反対したが、「左派」多数の市議会が支援

アバドとノーノ、ポリーニの友情は、音楽づくりのパートナーシップに始まり、新しい時代へのメッセージを発信。’73年には「音楽/現実」と題する一連のイベントを始め、クラシック音楽と現代音楽とを互いに孤立した状態から解き放とうとするもの

ノーノはアバドにとって、現代における最も重要な作曲家であり続け、民族的多様性を支持し、人種差別主義に反対するコメントを連名でプログラムに掲載

 

7 アバドのユース・オーケストラ

最初に本格的に取り組んだのが、’78年のEUユース・オーケストラEUYOの共同発起人

アバドは芸術監督となり、オーケストラ総裁にウィーン・コンツェルトハウスの元支配人ハンス・ランデスマンを迎える。ランデスマンはアバドの守り神にして援助者となり、その後各地でアバドの下で働く。EUYOを母体にして’81年ヨーロッパ室内管弦楽団誕生

‘86年にはウィーンでグスタフ・マーラー・ユーゲント室内管弦楽団を、’03年にはルツェルン祝祭管弦楽団に発展、’04年にはボローニャで若手とベテランのコンセイによるオーケストラ・モーツァルトを組成。特に「東欧ブロック」からの若手の受け入れにも奔走。マーラー・ユーゲントとともに、アバドは変革を求める中欧の文化政治の核心にアプローチ

‘92年からは、全ヨーロッパの出身者に対象が広げられ、’97年には年齢制限を超えたメンバーでマーラー室内管弦楽団が組成された

 

8 指揮台でのさまざまな職務(1972‐85年)

'7080年代、仕事場は急拡大。複数のオペラハウスや音楽祭、管弦楽団の仕事を両立させる⇒「遍歴時代」が、ウィーン・フィルとの関係から始まる。’71年にウィーン・フィルの何人かの「主要指揮者」の1人になったのを皮切りに、ボストン響、ロンドン響、シカゴ響と関係を深める。’88年には初めてウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮

複数のポストを並行して務めながら、自分の音楽性を汲み尽くすことを目指す

‘87年に健康問題が起こり、これが警告となって仕事を制限し始める

 

9 ロンドン交響楽団(1979‐87年)

'72年首席客演指揮者から始まり、’79年からアンドレ・プレヴィンの後任として首席指揮者から音楽監督に就任。延12年にわたって共演。ロンドンの聴衆は、若き指揮者のモダニズム音楽への情熱を好意を以て受け止め、'85年のマーラーを取り上げた音楽祭は、まだ決してコンサートの世界でその価値を認められ広く知られていなかったマーラーをウィーン学派から現代音楽への橋渡しとして印象付けることに成功し、絶賛を浴びる

ボヘミア系アメリカ人ピアニストのゼルキンと’80年代前半に企画した大規模なモーツァルト・プロジェクトは、ロンドンを超えて世界的に大きな反響を呼ぶ。ゼルキンはモーツァルトの全ピアノ協奏曲の演奏を望んだが、半分で病に倒れる。ゼルキンによってアバドはこの作曲家を本当に尊敬することを学んだ。「モーツァルトの単純さに正しく相対するのは本当に難しい」とアバドは述懐

 

10 愛憎渦巻くオペラの殿堂――ウィーン国立歌劇場(1986‐91年)

ウィーン・フィルとの関係は、'65'91年の間280回に及び、うち定期が35回、ニューイヤー・コンサート2回、ツアーは'73年の日本・中国・韓国、'76年の米英独、ベートーヴェン交響曲ツィクルスを'87年日本、’88年ヨーロッパで演奏

ウィーン国立歌劇場にデビューしたのは'84年の《シモン・ボッカネグラ》

国立歌劇場として公的資金が入っているために、政治が支配力を握り、歌劇場の運営にはオーストリアの文化的伝統に向けられるあらゆる感情や幻想、革新が凝縮されている

アバドの前任者のマゼールはわずか2年で退任。国立歌劇場にパラダイムシフトを起こすべく、伝統的な「レパートリー・システム」という毎日違った作品を演奏する上演スケジュールから、緩やかな「スタジョーネ・システム」という演目ごとのブロック形式に変更しようとしたが、政治・メディア・聴衆から拒否された

‘84年、歌劇場総裁に就任したドレーゼが東に向けた国境開放を期してアバドを推薦

l  「ウィーン・モダン」

'8691年で、約150回指揮し、うち11回がプレミエ。’87年新設のウィーン市の音楽総監督という地位を引き受け、未来に目を向ける中で、'88年にはウィーンにおける学際的な現代音楽のフェスティバルを創設、高らかに「ウィーン・モダン」と名付けた

アバドにとって「ウィーン・モダン」は社会的使命にも等しく、道徳的クレド(信条)のようなもので、すでに成功している現役の作曲家たちの作品の演奏に始まり、若い世代へと拡大。「理念、イデオロギー、現実」をテーマとするシンポジウムを通してこのフェスティバルの存在意義を確認する試みがなされた。さらにはほぼ全てのジャンルによる国際作曲コンクールを創始。ロシア人映画監督タルコフスキーを主役とするフェスティバルを開催

l  プログラム編成

ウィーン国立歌劇場でのアバドとドレーゼの挑戦は、劇場の可能性と伝統あるオペラ座の精神的本質を新たに測り直すこと。ウィーンの高貴な伝統文化が多くの部分において硬直した伝統崇拝へと退化しているのを立て直すために、「多くを、しかしあれやこれやではなく」をモットーに上演計画を立てる。マーラーが、「劇場の「伝統」とは無精さとだらしなさを言い換えたものだ」という警句を残しているが、アバドは原則としてマーラーが始めたことを継続しようとした。モダニズム作品をレパートリーに加え、音楽と舞台が一体となって作られる音楽劇場を目指す。シューベルトの《フィエラブラス》など滅多に上演されない作品が、ウィーンにおける「発見」を旨とするプログラム編成の見事な例となる

伝統的なレパートリー方式に対し、カラヤンが推進した少ない演目を連続して演奏する「ブロックシステム」を伴うスタジョーネ・システムの対立の中間をとったセミ・スタジョーネ型で、演出家との緊密なやりとりを通じ、総合芸術としてのオペラを作り上げる

オペラの演劇性を保証してくれる演出家と仕事をすることを望み、次々に新趣向のオペラを提供。初期モダニズムの鍵となる《ペレアスとメリザンド》《ヴォツェック》はアバドにとって特別な作品で、ウィーンを去る時には《ヴォツェック》を取り上げた

‘88'89年のニューイヤー・コンサートでの選曲も、《仮面舞踏会》など独特のもの

‘89年、ムソルグスキー《ホヴァーンシチナ》のウィーン初演実現もアバドの発掘による

ウィーンにおけるシューベルトというのは、アバドにとって特別なテーマ。楽友協会の所蔵する世界最大の自筆譜コレクションを見て、印刷譜との間の膨大な相違を知り、8つの交響曲の全曲録音に、ウィーン・フィルではなく小規模編成のヨーロッパ室内管弦楽団と取り組むことで、シューベルトの初期の交響曲が正確に表現された

l  新たな愛

ウィーン国立歌劇場の音楽監督時代にロシア人ヴァイオリニストのヴィクトリア・ムロ-ヴァとの付き合いが始まり、’90年妊娠を機に、父としての責任はとれないとして別れるが、息子は4人目の子として認知

l  ウィーンからの別れ

アバドの5年の努力の結果、オペラ座はとうに時機に適うものとなっていた近代的な劇場へと進化、同時代への関わりを持ち、博物館的なものを脱した舞台美術や解釈の美学を備えた歌劇場に成熟したが、就任当初から、コミュニストとの批判や、音楽監督を置くこと自体、他の優れた指揮者を排除するとの批判があり、さらにブルク劇場の監督も「進歩的」ドイツ人のクラウス・パイマンだったこともあってドレーゼへの批判もあり、市民階級寄りのウィーンのメディアやオーケストラも、初期の好奇心と期待を失いつつあったのみならず、ドレーゼを軽蔑の目で見、アバドを2流のカペルマイスターだと言い始める

'88年、ドレーゼの3年後の契約終了が決定、ウィーン人でなければこの街相手に事を成し遂げるのは不可能なのだろう。後任はオペラ歌手のヴェヒターだったが就任の数カ月後に死去、アーティスト・エージェントだった共同支配人のイオアン・ホレンダーが国立歌劇場とフォルクスオーパーの構造改革を掲げてトップに就任するが、改革は短期で終わる

アバドは、音楽監督の座に留まるためにヴェヒターと妥協、ドレーゼはアバドを変節したと批判したが、’89年カラヤンの死でアバドがベルリン・フィルの首席指揮者に選出され

ドレーゼとアバドの国立歌劇場運営を総括するにあたっては、ウィーン文化界の独特の雰囲気を正しく評価する必要がある。自らをあらゆる「侵入者」から守らなければならないと信じるオペラの街ウィーンは、芸術家たちの優れたパフォーマンスを勝利として祝福する一方で、執行部の精鋭をもってしてもどうしても起こってしまう空転や失敗は避けられないが、ウィーンはそれに完全な挫折の烙印を押したがる

 

11 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 前編(1989‐98年)

ベルリン・フィルがアバドを選出した意義は3つ。①音楽界において、ミラノ・ウィーン・ロンドン・シカゴの大きな組織での経験、②古典・ロマン派からモダニズムまで「主要レパートリー」を知り尽くしている、③多くの録音によってレコード業界とも強い繋がりを持つ

イタリア人であり、ヨーロッパ人としての生き方を実践し、文化の開放という観点から様々に力を尽くしてきたことが評価された。その一例が、「ヨーロッパ・コンサート」の設立。毎年51日にヨーロッパのいずれかの都市で開催、テレビ中継され、音楽を通してヨーロッパ思想を深めようというもので、第1回は’91年アバドの指揮によりプラハで実現

l  ベルリン・フィルとその指揮者たち

前任者は4人。ワーグナーとブラームスの名手だった頑固で独創的なフォン・ビューロー、堂々とした革新者でモダンな完璧主義者ニキシュ、音楽への熱い情熱に燃えた後期ロマン派的精神の持主で、自身の哲学的思想に深く根差す音楽づくりを展開したフルトヴェングラー、コンサート及びメディアの世界において完璧な形で作り上げられた響きの美学へとオーケストラを導き入れたカラヤン

アバドの最初の客演は’66年。ザビーネ・マイヤー事件を契機にカラヤンとオーケストラの対立が始まり、カラヤンの死の直前完全な決裂となる。彼の死後、まったく正反対のタイプの指揮者を首席に任命したのは、まさに唖然とするような事態

l  選挙

ベルリンの壁崩壊の1カ月前に行われた選挙は、史上初の自由投票の秘密選挙で新首席を選出。事前の後継候補者の非公式リストにアバドの名はなく、民主的に選ばれたということは、ベルリンにおいてアバドが芸術的な正当性を得るために大きな意味を持つ

アバド個人にとっても、ウィーンの危機的状況から脱出することができ、芸術的な再生への展望が開けたことを意味していた

ベルリン・フィルの楽員たちは、自意識の動揺という、それまで彼らには無縁だった状況に陥っていたが、アバドの登場によって、日常の落ち着きと、ある種の秩序を回復

前月に行われたベルリン祝祭週間での2回のコンサートでの指揮が決定打となった

アバドがまず考えたのは、美的な伝統と遺産によって輝かしい地位に置かれているこのオーケストラを、極めて慎重に、しかし力を込めて、より広い文化的地平へと導いていくこと、そしてベルリンの楽員たちとともに開放と進化に向けた問題提起を行うというもの

アバドは、1980年代に至るまで世界中で当然のものになっていた「指揮台の英雄主義」、専制的な指揮者像とは全く関わりを持たない人だということが楽員にはすぐわかる。代わりに彼がベルリンの楽員たちに提供したのは、民主的に基礎づけられた芸術家同士の関係で、オーケストラと一緒に「音楽づくりをする」様な指揮者でありたいと望み、自らを「同輩の中の首席」と見做していた。自己抑制と反権威主義がアバドの指針

アバドを真に感服させたのはフルトヴェングラーだけ

l  ベルリンでの最初の年月

ベルリンにおいては、愛ある関係をコンサートにおいて作り出すために、全ての楽員との協力の精神が非常に重要だと訴え、楽員たちの心をよく知り、理解することに努める

l  リハーサルのスタイルと音楽づくりの理想――フルトヴェングラーの足跡

アバドのリリハーサルは「寡黙」に始まり、作曲家に深入りすることはなく、審美的な教訓に走ることも避け、比較的長いパッセージを中断なく弾かせ、その確かな聴覚をもとにしつつスコアをチェック、細部を修正していく

l  『ベルリンの上にかかる音楽』(2001年刊)

アバドはベルリンでの数年を総括して本を書く。ベルリンの役割、フィルハーモニーでのプログラム作りについて、音楽と音楽文化について、諸芸術との結びつきについて考察

ベルリンはアバドにとって、「新しい時代のシンボル」だという。音楽そのものが「歴史を包含し、記憶と自意識を刺激する主観的体験」の象徴だといい、こうした確信から、ベルリン・フィルでの分野横断的なテーマ制ツィクルスが生み出される

l  客演、演奏旅行、ザルツブルク復活祭音楽祭

就任早々、大ホールの屋根の一部が崩落、1年余り外部で指揮。その間演奏旅行や客演をこなす。’94年、ザルツブルク復活祭音楽祭の芸術監督に就任。カラヤンが'67年、自身のバイロイトとして立ち上げたもので、そのためにベルリン・フィルにオペラを演奏させた

l  ジーメンス音楽賞

‘94年、「音楽のノーベル賞」とも称されるミュンヘンのエルンスト・フォン・ジーメンス賞受賞。「長く受け継がれてきた音楽作品の演奏、並びに同時代の作品の演奏において、極めて高い水準の刺激的な問題提起を行っている」音楽家だとし、若い演奏家や作曲家への「配慮と好意」についても評価

 

12 ベルリンでのテーマ制ツィクルス

アバドは芸術監督として、シーズンごとに毎年変わる文学、文化史、神話といった観点から選ばれた1つのテーマに取り組んでもらうよう楽員と聴衆を促した

就任にあたって、ベルリン・フィルのオーケストラ文化の拡張という考えを語り、室内楽を活用して、1つの特定の時代において様々な編成の作品を一緒に登場させたり、1つの管弦楽曲に美術・演劇・舞踏・映画・文学などを取り入れることも試みる

早い時期から、テーマ制ツィクルスのドラマトゥルギーを構成するため、様々な芸術分野や文化機関と一緒に仕事をしたいという希望を表明

ベルリンに'73年からあった祝祭週間をモデルに、毎年特定の文化的テーマについてのツィクルスを企画。最初が'92年のアバドが指揮したプロメテウス・コンサートで、ベートーヴェン、ノーノ、リスト、スクリャービンの関連する作品を取り上げる。その後は;

1.   ヘルダーリン(‘93)

アバド後半生の最愛の詩人をシリーズの主題に取り上げ、演奏会はもとより、朗読会、展覧会、、映画などが開催され、ベルリンに新たな文化フェスティバルが生まれることになる

2.   ファウスト(‘94)

ファウストは言語的、音楽的な表現を生み出す力の化身。マーラーの8番を皮切りに、リストやベルリオーズなど、さらには映画も各種上映

3.   古代ギリシャ(‘94/’95)

アバド指揮のシュトラウスのオペラ《エレクトラ》に始まり、初めてシーズンを通してツィクルスが続く

4.   シェークスピア(‘95/’96)

アバドはヴェルディの《オテロ》をセミステージ方式で指揮、締め括りは滅多に演奏されないドヴォルザークの《オテロ》序曲。演劇が多数上演された

5.   アルバン・ベルクとゲオルク・ビュヒナー(‘96/'97)

20世紀で最も心を揺さぶるオペラ《ヴォツェック》を音楽界に贈った2人であり、ベルクによるヒューマニズムのメッセージは、とりわけこの作品においてアバドの心を動かしていた。20世紀における人間性の破壊を描き出し、他者への苦しみに対する共感を伝達する作品を取り上げるとともに、ベルクの他のほぼ全作品をコンサートで演奏

6.   さすらい人(‘97/’98)

アバドが取り上げた「私はいたるところでよそ者である」というモティーフは、ドイツ・ロマン派の鍵となるメタファーであり、ルイジ・ノーノの生涯の業績を称えるもの

7/8. 「トリスタンとイゾルデ――愛と死の神話」、「アモーレ・エ・モルテ」(‘98/'99)

アバドはこれまでに指揮していた唯一のワーグナー・オペラは《ローエングリン》だが、「トリスタン」の壮大な規模についてはよく意識しており、「あらゆる音楽家にとって並外れた挑戦を意味している」と考え、テーマに取り上げる。「トリスタン伝説の解釈の広がりだけでなく、死によって最高の形で満たされる愛という文化史的モティーフ」でもあった

「アモーレ・エ・モルテ」ツィクルスでは、アバドは当時まだほとんど注目されていなかったヴェルディの《シモン・ボッカネグラ》を指揮

9.   「音楽は地上の楽しみ」(‘00/'01)

‘00年秋、アバドは胃癌の手術を受け3カ月休養。その後も精力的な演奏が続く

このシーズンのテーマは、冗談と快楽をモットーとしたもの。ヴェルディの最後のオペラ《ファルスタッフ》幕切れのフーガのモティーフを契機としたもので、あらゆる因習的プログラムに背を向けたもの。スイングまで取り入れたコンサートで聴衆を唖然とさせた

10.    「パジファル」(‘01/'02)

アバドのベルリンでの最後の2年は、ヴェルディとワーグナーの最後の作品に特徴付けられていたと言える。喜劇《ファルスタッフ》と舞台神聖祝祭劇《パルジファル》で、バイロイトの音響的理想に合わせて書かれた《パルジファル》の主人公が伝える謎めいた教えの言葉、「ここでは時間が空間になる」のモットーを持って、アバドはツィクルスの前段階としてベルリン・フィルハーモニーの設計者の哲学を探究。《パルジファル》のスコアの中にアバドは、時間的にも空間的にもモダニズムへと向かう入口となるような音楽を見出し、ベルリン・フィルハーモニーの舞台にも持ってくることが可能かを考え、'01年秋にセミステージ形式で実現させる

ベルリン・フィルの音楽監督としての仕事は、オーケストラを堅実に導くこと、そして巧みな音楽解釈を行うことに留まらず、この地において様々な芸術の間に文化的ネットワークを築く可能性を追求。音楽、演劇、舞踏、文学、映画、建築、美術。アバドの芸術及び社会的な関係性に向けられた眼差しが、彼をあらゆる芸術分野との協力へと導いた

 

13 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 後編(1998‐2002年)

l  ベルリン退任宣言の衝撃

'982月、アバドは《ファルスタッフ》で遅ればせながらベルリン国立歌劇場にデビューしたが、そのリハーサル期間中に、'02年期限の契約を延長しないと宣言。余力を残した中で、理由も告げずに宣言したことで種々憶測を呼ぶ。ベルリン・フィルが自身に満ちて強い意見を持つオーケストラだけに、時とともに楽員とのコミュニケーションに齟齬をきたしてきたのはあり得る話。ベルリン・フィルの二重構造から来る権限の交差、利害の相克、財政的・芸術的な衝突は不回避。演奏会やツアーは、「ベルリナー・フィルハーモニッシェス・オルケスタ―」という市政府の下部組織たる音楽団体が担い、レコード録音やテレビ出演など独自の法的権限による音楽活動は私営の「ベルリナー・フィルハーモニカ―(民法上の組合)」で、運営権や利益はすべて団員に帰属。両者の衝突は、カラヤン時代の後期から公の目につく形で先鋭化、世間の批判も浴びて来た。'00年後任のラトルが選出された後になって漸く新しい「財団法人ベルリナー・フィルハーモニカ」としてオーケストラの構造を整理することに成功

‘96年、新たにオーケストラの経営に携わる支配人としてヴァインガルテン(前ベルリン・ドイツ交響楽団の支配人)が任命され、アバドとの間もテーマ制ツィクルスなど合意に基づく生産的な関係が続いたが、時とともに信頼関係に影が落ち始め、’00年アバドの癌からの復帰後はヴァインガルテンが身を引いた

アバドの退任宣言後も、オーケストラとの活動は続き、各国への演奏旅行は成功裏に終わり、芸術面での調和ももたらされた

l  ベルリン・フィル退任記念コンサート

締め括りも独自性のある曲目選択で、聴衆そしてオーケストラをも驚かせる

3日にわたり指揮したプログラムは、彼の文化的「世界観」の総体であり、1つの信仰告白のようなもの。ヘルダーリンの「我々は定められている/如何なる場所にも安らうことがないようにと」が幕開けで、ブラームスの《運命の歌》、マーラーのリュッケルトの5つの歌曲、ショスタコーヴィチの映画《リア王》のために書いた交響詩

通常のシンフォニー・コンサートの慣習を悉く捨て去り、《リア王》では映画の短縮版を上映、パステルナクによるロシア語訳の台詞の一部も流す。いかにも「シンフォニックを超えた」指揮者らしい別れとなった。ドイツ連邦共和国の大功労十字星章を授与

首席指揮者としての最後の演奏は、ウィーン楽友協会でのコンサート、シェーンベルクの《ペレアスとメリザンド》、マーラーのリュッケルト歌曲と交響曲7番を振る

 

14 友情のオーケストラ――ルツェルン(2003‐13年)

自主的な音楽づくりができるオーケストラを目指し、’99年ルツェルン音楽祭総裁のミヒャエル・ヘフリガーに、'93年解散されたスイス祝祭管弦楽団の復活を提案。マーラー室内管弦楽団を核とするアンサンブルが立ち上がる

l  ルツェルン祝祭管弦楽団

‘03年夏、有名なソリストや室内楽奏者たちが続々と詰めかけ一緒に演奏するルツェルン祝祭管弦楽団を初めて指揮、音楽づくりに対するアバドが独自の理想とした、室内楽の理念及び演奏様式を実現。以後10年にわたり、ブーレーズを芸術監督とするルツェルン音楽祭アカデミーと、アバドの祝祭管弦楽団により、「ルツェルンの奇跡」とまで呼ばれる音楽祭を続ける。プロの音楽家たちの自意識をその場で家族のような感情へと変えることができたのは、芸術家としての自律性の尊重、そして室内楽的な近しさと友情だった

選曲は多彩だが、ベルリン・フィルでのコンサートの方針と比較すると、現代音楽を少数しか取り上げなかったものの、全体を通したテーマとして、マーラーとブルックナーは一貫

ただ、ブルックナーの最も濃密で最も長い「墺皇帝フランツ―ヨーゼフ1世」に捧げられた8番は、奇妙なことに生涯指揮しなかった

音楽活動の最後の10年間、アバドは自身の演奏活動の道筋と舞台とを新たに整えることを目指す。ベルリン・フィル退団が大きな転機となり、精力的に動く契機ともなる。'04年にはボローニャでオーケストラ・モーツァルトを設立。活動に合わせ受賞も積み上がる

l  何度となくベルリンへ

ベルリン・フィル退団以降も毎年1度は指揮台に帰る

 

15 イタリアとラテンアメリカ

アバドは、ミラノを出た後もベルリン・フィル、ウィーンフィルの客演でイタリアの指揮台に立っていたが、娘アレッサンドラが文化政治・学芸担当として仕事をしていた街フェラーラに’90年代前半から頻繁に登場、アバドのお陰で芸術面の活気を取り戻し、彼の死後1798年建設のテアトロ・コムナーレを「クラウディオ・アバド劇場」に改称

l  オーケストラ・モーツァルト

'04年、アバドがボローニャで新たなオーケストラを設立。2年後のモーツァルト生誕250年を目してのもの。14歳のモーツァルトを招いた歴史ある音楽機関アカデミア・フィラルモニカ・ディ・ボローニャの特別プロジェクトとの位置付けで、地元金融機関がスポンサーとなる。若手とベテランが一緒に演奏するオーケストラは、拡大された室内管弦楽団であり、アバドは模範的なモーツァルト演奏を実現することができた

2012107日はアバドにとって重要な意味を持つ日。3年前のイタリア中部地震で崩壊したラクイラの街を直後に訪問してコンサートを開催。友人の建築家レンツォ・ピアーノに依頼して建てた仮設の木造コンサートホールの開館記念コンサートで大統領を招いて演奏。崩壊の危機にあった文化が、国の政治との間で素晴らしい結びつきに至ることができたという事実が明らかにされた

l  ミラノ・スカラ座への帰還

'86年の退任後、アバドがスカラ座の舞台に立ったのは2度、’89年のウィーン・フィル、’93年のベルリン・フィルだけ。ようやく’10年マーラーの《復活》の「ギャラ」として9万本の植樹と引き換えという形で実現しかけたがコスト面で挫折、その後アバドの病気もあって、'12年ついにスカラ・フィルの指揮台に立つ。30年前にアバドがウィーン・フィルをモデルに設立したオーケストラで、そこにオーケストラ・モーツァルトを加えて150人の楽員から成るオーケストラとし、マーラーの《交響曲6番 悲劇的》を指揮。当時スカラ座の音楽監督だったアバドの親しい友人バレンボイムが前半でショパンのピアノ協奏曲を演奏

大勢の年下の同業者も客席に来て、スカラ・フィルはアバドに胸像を贈る

コンサートの数日前に実姉ルチアーナ・ペスタロツァ逝去

アバドはイタリア文化の弱点をよく知り、文化政策における怠慢、音楽文化における多くの喪失に心を痛め、改善に向けて尽力。’09年のナポリでの公演を、作家でマフィア批判者のロベルト・サヴィアーノただ1人に捧げたのも、彼が真実を語る勇気を示したから

ベルルスコーニのような、経済的利害のためにイタリア文化を破壊した政治家たちを批判

l  ラテンアメリカでのアンガジュマン――エル・システマ

ベネズエラの教育者ホセ・アントニオ・アブレウが始めた公的融資による音楽教育プログラムで、子供や青少年のための音楽学校やオーケストラによるネットワーク「エル・システマ」を、アバドは’99年の南米ツアーで初めて知って尊敬、イタリアでもこれをモデルとした活動が進められており、アバド自身も同様のものを創設するために尽力

ヴァイリニストで指揮者のドゥダメルは、アバドとサイモン・ラトルの後押しを受けて、この音楽教育が生んだ最も才能ある音楽家として、世界的に称えられた

ディエゴ・マテウスもこのプログラムの出身で、アバドはオーケストラ・モーツァルトの首席客演指揮者に引き上げた

 

16 晩年の音楽づくり――内面化された耳

アバドの生涯最後の10年は、密度の高い仕事と効率的な時間の使い方を徹底したモットーとして過ごし、ぎっしり詰まったスケジュールを精力的にこなした

'13年、レンツォ・ピアーノと並んで、終身元老院議員に指名

アバドは病気を克服し、「胃を失ったことが内側に耳を与えてくれたかのように、自分の内側から聴くことができるようになった」といい、その演奏は、透明で軽やかになり、説得力を増した

l  交響的世界像

アバドの管弦楽曲のレパートリーの中心は、古典及びロマン派の作品で、18世紀後半から19世紀にかけてのドイツ・オーストリアの伝統だが、特に後期ロマン派に属するモダニズムの予言者たち、ムソルグスキー、ドビュッシー、マーラーなどが際立つ。20世紀の古典的モダニズムにも目を向け、ヒンデミット、バルトーク、ラヴェル、プロコフィエフ、ストラヴィンスキーなど。特に好んだのが新ウィーン学派のシェーンベルクとその弟子アルバン・ベルク、ヴェーベルン。戦後アヴァンギャルドの音楽の中ではルイジ・ノーノ

オラトリオや大規模な合唱作品も好んで取り上げ

一方で、1920世紀の「国民楽派」の幾人かは除外。シベリウス、エルガー、ブリテン、レスピーギ、ファリャなど

l  レコーディングプロダクション

アバドは、レコーディング技術という観点から見て最も生産的な音楽家の1人。レコード産業は1990年代、特にコスト的な理由から、スタジオ録音に代わってオペラやコンサートのライヴ録音にシフト

レコーディング以上に「オーセンティック」な保証となるのが映像。多くはベルリン時代、そしてその後ルツェルンのホールを舞台にオーケストラを指揮する姿を伝えている

 

17 死と変容

最後のコンサートは2013826日。それ以後の予定はすべてキャンセルされ、翌年初死去。ミラノ・スカラ座は、自分たちの偉大な指揮者を追悼する古い慣習に従い、ベートーヴェンの《エロイカ」の葬送行進曲を、無観客のオペラ座の扉を開け放って演奏、指揮は音楽監督のバレンボイム

l  素顔のクラウディオ

「モーツァルト的な軽やかさの持ち主」とも呼ばれる。控え目な人柄で、大きな足音を立てず、しかし強い意志と自信を失うことのなかった音楽家への眼差し

何歳になっても好奇心があり、新しいものやアイディに対してオープン

 

 

 

 

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出版社内容情報

世界的指揮者、クラウディオ・アバド(1933-2014)の評伝。カラヤン亡き後のベルリンフィルの芸術監督として一時代を築き、音楽界を牽引。現代音楽への取り組みや、ルツェルン音楽祭、若手の積極的な育成など、次世代に果たした役割も大きい。その華々しいキャリアと、静かに燃える芸術の根源に迫る。

内容説明

カラヤンに続くベルリン・フィルの芸術監督として一時代を築いた指揮者アバド。その華々しいキャリアと静かに燃える芸術の根源に迫る。

 

 

 

 

(書評)『クラウディオ・アバド 静かな革命家』 ヴォルフガング・シュライバー〈著〉

2025222日 朝日新聞

 

 精妙な音楽づくり、出色の評伝

 若い頃、アバド指揮のCDをよく聴いた。ヴェルディ演奏の金字塔「シモン・ボッカネグラ」、生気溌溂(はつらつ)としたロッシーニ序曲集、ピレシュやグルダらと組んだモーツァルトのピアノ協奏曲。どれも明快で理知的な音楽づくりから、のびやかで豊かな歌が深く響く演奏であり、その洗練されたセンスは比類がない。お高くとまった気取りとは無縁の、軽快で機能的で、かつ奥行きのある多彩な響きを丹念に手づくりする――それはクラシック音楽の「静かな革命」と呼ぶにふさわしい。

 そのアバドの人生を再現した本書は、達意の訳文も含め、音楽家の評伝としては近年出色の一冊である。もともと、詩に強い関心をもち、内向的で寡黙であった彼は、カラヤンのような独裁者的な指揮者であることを望まず「自己抑制と反権威主義」を貫いた。楽団の演奏家たちが「お互い聴きあうこと」に根ざした、彼の精妙な室内楽的音楽づくりは、まさにこの控えめなエレガンスから生み出されたのだ。

 その一方、イタリアの反ファシズム運動を背景とするアバドは、音楽を骨董(こっとう)品にすることを拒み、盟友のルイジ・ノーノやポリーニとともに、音楽と政治が切り結ぶ地点を探究した――しかも、音楽の内発的な力や、街の歴史的な奥行きを決して犠牲にすることなく。この最大限の注意深さが、オペラから現代音楽までを旅しながら、各地でユースオーケストラの設立に尽くした彼の活動の源になった。本書はその長い軌跡を、いたずらに神格化せずスマートに描いている。

 音楽とは魂の栖(すみか)である。そこではさまざまな矛盾する感情が、無限の響きをともなって再創造される。アバドはベルリン・フィルの首席指揮者になってからも、山上の古い農家で聴く雪の音に魅せられていた。この自然の吐息のような静寂を含んだ、アバドのさっそうとした演奏の記録は、われわれに自らの栖を探す力を与えるだろう。

 評・福嶋亮大(りょうた)(批評家・立教大学教授)

     *

 『クラウディオ・アバド 静かな革命家』 ヴォルフガング・シュライバー〈著〉 杉山有紀子訳 春秋社 3630円

     *

 Wolfgang Schreiber 39年生まれ。ドイツの音楽批評家。著書に伝記『グスタフ・マーラー』など。

 

 

クラウディオ・アバド ヴォルフガング・シュライバー著

寡黙な指揮者の意志と挑戦

202538 2:00 [会員限定記事] 日本経済新聞

アバドというと、帝王と呼ばれたカラヤンの次にベルリン・フィルの芸術監督になったイタリアの名指揮者だが、ややおとなしい過渡期的な存在だった、というのが一般的なイメージかもしれない。オペラ指揮者としては途轍(とてつ)もない実力者だったし、ミラノ・スカラ座やウィーン国立歌劇場の来日公演を通して、それを体感したファンもおられることだろう。だが、取材に対しては控えめで多くを語ろうとしなかったこともあり、捉えがたい人物でもあった。

本書は、2014年に80歳で亡くなったアバドの死後5年たって刊行された評伝で、生前親しかったミュンヘンの音楽ジャーナリストの手によるもの。キリストの兄弟姉妹について書かれたアラム語の福音書を訳してバチカンから破門された考古学者の祖父との思い出、独裁者的なトスカニーニのリハーサルに接してショックを受けてそれを反面教師とした少年期のトラウマ体験は、いかにアバドの職業倫理観――原典の尊重と徹底的な探求、自己抑制と反権威主義――に影響があったかが分かって興味深い。

盟友だったピアニストのポリーニや左翼系知識人だった前衛作曲家のノーノとの共同作業、ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」やヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」「ドン・カルロ」といった特定のオペラへの強いこだわり、映画監督タルコフスキーへの深い共鳴と友情、ベルリン・フィルでシーズンごとに「ヘルダーリン」「ファウスト」「シェイクスピア」といったテーマを設けて音楽をより広い文化的地平へと導いた業績、上からの義務を負わない自主的な音楽づくりを求めてルツェルンで新しいオーケストラを設立したことなど――音楽家としてのアバドの全体像と本質に迫ることのできる充実した読み物となっている。

いま誰もが声高に語ること、派手に自己演出することがますます求められる昨今、これほど寡黙に控えめに、しかし強い意志をもって次々と挑戦を重ね、古い家父長制的な慣習を打破し、大きな成果を成し遂げてきたアバドの仕事ぶりは、改めて振り返ってみると、良心的なまぶしささえ感じられてくる。「静かな革命家」というサブタイトルは言いえて妙である。強い共感を持って読んだ。

《評》音楽評論家 林田 直樹

(杉山有紀子訳、春秋社・3630円)

著者は39年ドイツ・コブレンツ生まれ。音楽批評家。著書に『グスタフ・マーラー』など。

 

 

 

Wikipediia

クラウディオ・アバド(またはアッバードClaudio Abbado[1]1933626 - 2014120[2][3])は、イタリアミラノ出身の指揮者

来歴

生い立ち等

1933に、ミラノの音楽一家に生まれる。父のミケランジェロ・アバドは、イタリア有数のヴァイオリンの名教育者であり、ヴェルディ音楽院の校長を務めた。19歳の時には父と親交のあったトスカニーニの前でJ.S.バッハの協奏曲を弾いている。

指揮者としてデビュー

ヴェルディ音楽院を経て、1956からウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)で指揮をスワロフスキーに学んだ[4]1958クーセヴィツキ国際指揮者コンクール、1963ミトロープス国際指揮者コンクールで優勝[4]。その間1959に指揮者デビューを果たした後、カラヤンに注目されてザルツブルク音楽祭にデビューする。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団シカゴ交響楽団シュターツカペレ・ドレスデンなどの桧舞台に早くから客演を重ね、確実にキャリアを積み重ねていく。

ミラノ・スカラ座時代

1968にミラノ・スカラ座の指揮者となり[4]1972には音楽監督1977には芸術監督に就任する。イタリア・オペラに限らず広大なレパートリーを高い質で提供しつつ、レコーディングにも取り組んだ。スカラ・フィルハーモニー管弦楽団を設立してオーケストラのレベルを格段に上げたことは特筆される。ウィーン転出を機に1986年に辞任する。なお、アバドはイタリア・オペラでもプッチーニヴェリズモ・オペラは取り上げないなど、独自のこだわりを持っている。一方では、1960年代までは『セビリアの理髪師』以外は上演機会が少なく存在感の薄い存在だったロッシーニを積極的に再評価し、いわゆるロッシーニ・ルネッサンスの立役者の一人となった。

ロンドン時代

イギリスでも1979に、ロンドン交響楽団の首席指揮者[4]1983年には同楽団の音楽監督となった。レコーディングはさらに増え、楽団員と良好な関係を築きオーケストラのモチベーションを引き上げることに成功する。押しも押されもせぬ世界のトップクラスに躍り出て、いよいよ黄金期を迎えるかという矢先、アバドが契約延長をしないことを発表した。楽団員は延長を望んでいたこともあり、失望は大きかった。

ウィーン時代

1986には、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任し[4]、音楽面に専念する形でグローバル化を図った。ムソルグスキーなどのオペラを頻繁に取り上げ、レパートリー拡充に尽力した。また、必然的にウィーン・フィルとの共演も増え、ベートーヴェンの交響曲全集など数々のレコーディングが実施された[5]。しかし伝統を重視するエーベルハルト・ヴェヒターが総監督に就任すると、1991年に辞任した。

ベルリン・フィル時代

1990マゼールなど他に様々な有力指揮者らの名前が挙がった中、カラヤンの後任として選出されベルリン・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督に就任し[4]、名実共に現代最高の指揮者としての地位を確立した。ベルリン・フィルとの組み合わせでの初来日は1992(同行ソリストはムローヴァブレンデル)。同芸術監督には2002まで在任した。アバド時代のベルリン・フィルについて、アバドの音楽的功績や指導力については評価は様々である。在任年間のベルリン・フィルとの録音として、ベートーヴェン交響曲全集(2回目・3回目)や、ヴェルディレクイエムマーラー3589[6]ワーグナー管弦楽曲集、などがある。現代音楽もいくつか録音されている。

ベルリン・フィル退任以降

2000胃癌で倒れ、以後の活動が懸念されたが、手術を受けて健康状態は持ち直し、ベルリン・フィル辞任後も新たな活動を続けた。2003年以降はルツェルン祝祭管弦楽団[4]などや、自身が組織した若手中心のオーケストラ(マーラー室内管弦楽団モーツァルト管弦楽団など)と活動することが多かった。ベルリン・フィルへも定期的に客演を行っているが、ウィーン・フィルとは、同団特有のローテーション制(リハーサルと本番で違う奏者が出てきたりする)に関する意見の相違から、疎遠となっていった。2006にルツェルン祝祭管弦楽団と来日、ルツェルン・フェスティバル・イン・東京の一環としてサントリーホールにてオーケストラ公演が行われた。夏のルツェルンにての公演でも高い評価を得ていたブルックナー交響曲第4の演奏がとりわけ評判となった。

2014120ボローニャの自宅で胃癌により逝去[2]80歳没。アバドの遺体は火葬され、遺灰の一部が入った骨壷が、ヴァル・フェックスにある15世紀のフェックス・クラスタ礼拝堂の墓地に埋葬された。この墓地は、アバドが別荘を構えていたスイスのグラウビュンデン州シルス・マリア村の一部である[7]

人物

楽曲解釈は知的なアプローチをとるが、実際のリハーサルではほとんど言葉を発さず、あくまでタクトと身体表現によって奏者らの意見を募る音楽を作っていくスタイルだという(エマニュエル・パユなどの証言)。

同郷のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニや、作曲家ルイジ・ノーノとの長きにわたる交友関係でも知られる。また、マルタ・アルゲリッチとも多くの録音がある。原典版の『禿山の一夜』や『ボリス・ゴドゥノフ』、ショスタコーヴィチ版の『ホヴァーンシチナ』のレコーディングを行うなど、ムソルグスキー・フリークとしても有名である。

一時期不仲が伝えられたリッカルド・ムーティとは、音楽祭や若手オーケストラを通じて交流が始まり、互いに尊敬の念を伝え合うなど関係は良好であった。ヴァイオリニストのクレーメルとは相性が悪かったらしく、クレーメルの自伝の中で、アバドとマゼールは無能扱いされている。オペラ監督のダニエル・アバドは息子、指揮者のロベルト・アバドは甥である。一時期ヴィクトリア・ムローヴァと不倫関係にあり、ウィーン4年間生活を共にしていた。ムローヴァとの間に男児がいる。

生涯プッチーニの作品は演奏しなかったが、その理由として、2003年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した際の記者会見で、「プッチーニが嫌いなわけではない。ただ、私は革新にひかれる」と答えている。

受賞歴

 

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