わたしたちが孤児だったころ  カズオ・イシグロ  2025.7.23.

 2025.7.23.  わたしたちが孤児だったころ

When We Were Orphans     2000

 

著者 カズオ・イシグロ Wikipedia参照

 

訳者 入江真佐子 ICU教養学部卒。英米文学翻訳家

 

発行日           2006.3.31. 発行  2017.10.18. 13

発行所           早川書房 (ハヤカワepi文庫)

 

2001.4.早川書房から単行本として刊行された作品の文庫化

 

カバー裏

上海の租界に暮らしていたクリストファー・バンクスは十歳で孤児となった。貿易会社勤めの父と反アヘン運動に熱心だった美しい母が相次いで謎の失踪を遂げたのだ。ロンドンに帰され寄宿学校に学んだバンクスは、両親の行方を突き止めるために探偵を志す。やがて幾多の難事件を解決し社交界でも名声を得た彼は、戦火にまみれる上海へと舞い戻るが……現代イギリス最高の作家が渾身の力で描く記憶と過去をめぐる至高の冒険譚。

 

PART I.     1930.7.24. ロンドン

主人公のバンクスは、1923年夏ケンブリッジ大卒業、ロンドンに出る。私立探偵になることを目指す。学生時代の友人で、コネに恵まれていたオズボーンと出会い、彼の父親が主催する社交界のパ-ティーに誘われ、浮名を流しているサラ・ヘミングズに出会う

上海で両親を亡くした後、イギリスの伯母の下に連れ帰ってくれたチェンバレン大佐にロンドンで出会う

ある殺人事件を追っている時、殺人現場にサラ・ヘミングズが現れ、被害者一家と親しくしているといい、メレディス基金の晩餐会へのエスコートを依頼される。断るが、サラは強引に晩餐会に乗り込んでくる。彼女もまた両親を亡くしている

 

PART II.   1931.5.15. ロンドン

上海時代、社宅の隣にいた同じ年のアキラとはよく遊んだが、そのうちアキラが日本自慢をするようになって辟易とさせられ、長崎の学校に行くと決まってほっとした

母は、父がアヘン交易で利益を上げている会社の社宅に居ながら、反アヘン論者で、仲間を集めて議論、父ともよく論争し、その後は数週間にわたってお互いに口を利かなかった

ある日突然父が誘拐され、ほどなくして親しくしていたフィリップおじさんに外に連れ出された間に母もいなくなる

 

PART III.  1937.4.12. ロンドン

3年前に伯母の遺産で家を購入。オズボーンの夕食会で出会った孤児を世話する慈善団体の婦人から2年前の海難事故で両親を亡くした10歳の孤児の女の子の話を聞かされ、遺産で女の子を育てようと興味を示す

1年以上前に知人の結婚式でサラと再会。サラは再婚していてこれから上海に行くという

 

PART IV.   1937.9.20. 上海 キャセイ・ホテル

上海に行って、失踪した父母の行方を調査し始める

 

PART V.    1937.9.29.  上海 キャセイ・ホテル

学生時代の友人でジャーデン・マセソンの香港駐在になっているモーガンと再会、彼の案内で昔住んでいた家に行くと、中は大きく改造され中国人一家が住んでいる

 

PART VI.   1937.10.20.  上海 キャセイ・ホテル

共産主義者の密告者イェロー・スネークとの接触を試みる

両親が囚われているとみられる場所を突き止め、日中衝突の上海租界の中を捜し歩く

途中で中国人に捕らわれていたアキラと出会い助ける

アキラの案内で場所を探すが、結局日本軍に保護され、領事館に送り届けられる

領事館の支援でフィリップおじさんと再会。フィリップこそイェロー・スネーク

父は愛人を作って失踪、2年後にチフスで死亡

母とフィリップおじさんは、アヘン貿易をやめさせようと運動するが、イギリスが動かないのでアヘンの輸送を監督する軍閥に中止を持ちかける。軍閥は中止すると見せかけて自らがアヘン貿易を取りしきろうとする。それを知った母は軍閥に抵抗するが囚われの身となり、バンクスの安全と引き換えに軍閥に身を任せる。バンクスは軍閥の支援によって学校を卒業し探偵になって成功を勝ち取る

軍閥は4年前に死去。フィリップおじさんは、母がまだ生きているだろうと言い、バンクスはさらなる捜索を続ける

 

PART VII.           1958.11.14. ロンドン

母が上海の修道院にいることを突き止め会いに行く

2人だけで話すが母は息子のことがわからず、昔の愛称を告げると初めて反応を示し、今でもずっと愛しているという。それを聞いてバンクスは満足し、母をそのまま修道院に残してイギリスに戻る

 

 

 

「もう、よせよ。忘れた振りなんかするなよ」             作家 古川日出男

孤児たちは気丈に生きる。愚痴をこぼさない。孤児たちは自分がうまくやっていると思う。孤児たちは夢を追う。周囲の視線を気にしない。しかし感情は自制する。孤児たちは、自分が孤児になった瞬間を覚えている。「まるで世界が自分の周りで崩れてしまった」と思い、その瞬間の記憶を反芻する

カズオ・イシグロは、本書で、結局のところ、僕たちは永遠に小さな男の子、小さな女の子かもしれない、と描く

読了して、何かが圧倒的に自分の一部なのだ、と感じる。つまり私たちも、孤児だった

大人になった時点から、それぞれ過去を振り返る形で書き綴られる

だから、小説の大半の部分において、主人公は冷静に、できる限り自制して記述する

孤児となった主人公はイギリスの寄宿学校に転校生として入り、見事に溶け込む。適応すること、それが孤児としての彼の処世術だった

これは記憶の書である。主人公が、孤児だった自らの記憶に迫り続ける手記

孤児は探偵にならなければならない。それは、孤児にとってこの世界は最初から邪悪だから。彼を孤児にするほど、悪意に満ちているから。両親の失踪の謎を解けるのは、刑事ではなく、組織に属さずたった1人で世界に立ち向かう探偵だ

 

 

 

Wikipedia

『わたしたちが孤児だったころ』は、2000に発表されたカズオ・イシグロ5作目となる長編小説である。同年のブッカー賞最終候補作。

概要

推理小説的な手法をとっており、作者自身も「アガサ・クリスティのパスティーシュ(模倣)である」と語っている[1]

エピソード

主人公の後見人(フィリップ叔父)が、主人公の母親に欲情を抱いていたことを主人公(パフィン)に告白するというクライマックスは、数ヶ月前、19999月に発表された村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』と同じ話しである。[要出典]

脚注

[脚注の使い方]

    1. ^ “アガサ・クリスティー作家デビュー100 「記憶はウソをつく」から読み解く、カズオ・イシグロとの共通点|好書好日”. 好書好日. 20211024日閲覧。

 

 

2020.12.19

アガサ・クリスティー作家デビュー100年 「記憶はウソをつく」から読み解く、カズオ・イシグロとの共通点

文:川口あい

 聖書とシェイクスピアの次に読まれている作家といえば、ミステリーの女王ことアガサ・クリスティーだ。2020年は生誕130周年、デビュー100周年という記念の年。新訳本が発売されたり、イギリスの名優ケネス・ブラナーが探偵ポワロ役をつとめる映画「ナイル殺人事件」(21年、日本公開予定)が作られたりと盛り上がりを見せるなか、クリスティー作品の「記憶」に関する描写を読み解きながら、その手法に大きな影響を受けたと公言する作家、カズオ・イシグロとの共通点を見ていきたい。その描かれ方は、現代に生きる私たちに、どんな教訓を与えてくれるだろうか。

2020年はクリスティー記念イヤー

 クリスティー作品のトリックの多彩さは言うまでもない。なかでも「記憶」を手法として使うときの描写は情緒的ともいえる。

 心理学者の榎本博明の著書『記憶はウソをつく』によれば、記憶には、あとから書き換えられたり捏造されたりする特徴があるという。同時に人間には「想像しイメージしたことが、時を経るにつれて現実に経験した出来事の記憶の中に紛れ込んでいく」という「記憶のゆらぎ」に関する法則がある。あえてそうした「記憶」の曖昧さに耽溺する人間の哀しい性や、そこから生まれる思い込みや自己欺瞞が、クリスティー作品においても、事件の背景や犯人の動機に深みをもたせる。

「記憶」は嘘をつく

 「記憶」が物語の核となるクリスティー作品の代表例といえば、「五匹の子豚」と「象は忘れない」だろう。

 「五匹の子豚」は過去の毒殺事件を、関係者の証言をもとに再捜査する物語だ。ある女性が夫を毒殺し、獄中で亡くなった。しかし本当は無実だったという告白の手紙が、16年の時を経て成長した娘の元に届く。裁判も終わりすでに解決とみなされた事件だが、ポワロは再び過去への扉を開くことになる。

 本作のタイトル「五匹の子豚」はマザーグースの童謡からとっているが、アメリカ版では「回想の殺人(Murder in Retrospect)」となったように、証言者のナラティブによって事件の概要が浮き彫りになっていく仕組みだ。

 あるひとつの事象、つまり「画家の男性が毒殺された」ことだけは変わらない。しかしそこに対するアプローチや見え方は、人によって異なる。それぞれの人間が自分の視点で記憶をたどり過去を回想すれば、そこには「各々の事実」が介在することになる。

 作中で、「事実というのは、誰もが認めるものを指す」「そうです。だが、事実の解釈となると、またちがってきます」と表されるように、人間の記憶は曖昧で頼りなく、誰もが自分なりのフィルターを介して事物を見ているからだ。

 本作ではそうした「信頼できない語り手」のような文学的手法が使われながらも、事件解決のための客観的事実が丁寧に汲み上げられ、重厚なミステリーとして真相に結実する。

 もう一作の「象は忘れない」も、過去の事件を掘り起こす物語だ。ある女性の両親が心中した事件について、「父が先に母を殺したのか、それとも逆だったのか」という死のトリガーをめぐり、ポワロと推理作家のオリヴァがその謎に迫る。

 タイトルは”An elephant never forgets”(象は決して忘れない)という英語のことわざに由来する。象はとても記憶力がよく、過去の恨みを忘れない生き物だという。人間もまた、過去の妙な出来事を覚えていたりする。ふとした違和感、振り返ってみて気づく意味。それらが表出される「象たち」の追想をまとめながら、ポワロは真実に近づいていく。

 そして本作でも「五匹の子豚」と同じく、記憶の不確実性が言及される。(実際に作中でも、過去の殺人事件を究明する例として「五匹の子豚」事件のエピソードが言及される)
オリヴァーのセリフ──「記憶。記憶のある人ならいくらでもいましたわ。ただ困るのは、記憶はあっても、それはつねに正しい記憶とはかぎらない」──にあるように、あらゆる関係者の回想を聞くほど疑問は大きく膨れ上がる。信用できない事実、ふとした噂話。ただそれらのなかにも真実の糸はひっそりと繋がっている。

l  「記憶」は分厚いレンズ

 そんなクリスティーの影響を受けていると公言するのが、2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロだ。氏のほとんどの作品では「記憶」がモチーフとなっている。

 なかでも著名な作品として、日本でもドラマ化された『わたしを離さないで』がある。ディストピアな世界観のなかで登場人物らが「記憶」を頼りに、自身の存在理由やルーツを模索する作品だ。

 作中では大げさなほどに「記憶」が描写される。それは登場人物たちがクローンであるという枷を背負っているからだろう。自分たちも普通の人間と何ら変わらないという静かな主張が、悲しくなるほど詳細な「記憶」の描写に見え隠れする。

 さらに5作目の長編『わたしたちが孤児だったころ』については、イシグロ自身「アガサ・クリスティーのパスティーシュ(模倣)である」と語るほどで、物語の装置として使われる「記憶」の手法に重なる部分がある。本作では(まさに)探偵となった主人公・バンクスが、過去を思い返し、ときに補完しながら、自分にとっての真実を見つけ出そうとする。

 バンクスは、幼少期に上海の租界で暮らし、両親の失踪によって孤児となった。成長して探偵となり、あらゆる事件を解明しながら名声を上げ、再び上海の地へと舞い戻るが、過去をたどるうちに新たな事実に気づく。

 彼もまた「信頼できない語り手」の代表例だ。執拗な過去の描写で記憶を補完するような演出も、前述したクリスティーの回想殺人にある「記憶の不確実性」に類似する。作中では、断片的で曖昧な記憶を頼りに自己欺瞞の語りが展開され、回想と現在のシーンが入り交じる。そして読み手は早晩、気づくだろう。仔細につくりこまれた主人公の妄想世界に陥っていると。

 こうした「記憶」の曖昧さや不確実性は、人間の理不尽さを表象する。これらが物語を読み解く醍醐味と相まって、さらなる深みを味わえるのだ。

l  「正しい記憶」のパラドックス

 成長したバンクスは「ほんの23年前なら自分の心の中に永遠に染み込んでいると思っていた」上海で過ごした子供時代や両親との記憶が消え始める。

 「わたしがまだ覚えている思い出になんらかの秩序をもたせようとしている今夜でさえ、どれほど多くの思い出がぼんやりとしたものになってしまったかに改めて驚いている」と、おぼろげな記憶をなんとか掘り起こそうとする。しかし、その描写さえ信じていいかはわからない。思い出すという行為を介すことで、事実はフィルタリングされてしまうからだ。

 イシグロは5歳のとき、家族とともに故郷である日本を離れイギリスへ渡った。渡英は一時的であり、いずれ日本に帰国すると思って生活をしていたそうだが、それは実現しなかった。そして成長するにつれ、自身のアイデンティティーのルーツを探るように日本文学や映画に触れるようになる。そこに描かれる日本の様子をもとに、おそらく自覚的に「記憶のなかの日本」を補完した。その模索が本作にもつながっていると考えられる。

 榎本によれば、人間は「記憶と想像の間には明確な境界線は引けない」という。ある記憶を頭のなかで思い描いている時点で、その境は曖昧になる。つまり「正しい記憶」など、この世には存在しないということだ。

私たちは「忘れる」ことができる

 物語の後半、旧友に再会したバンクスは言う。「人はノスタルジックになるとき、思い出すんだ。子供だったころに住んでいた今よりもいい世界を。思い出して、いい世界がまた戻ってきてくれればと願う」

 記憶の補完やゆらぎを受け入れることは、人が人として生きていくために必要な習性なのだ。

 戦争、自然災害、疫病──歴史上あらゆる困難が、世界を、私たちの人生を変えた。今も変わらず、常に新たな壁が立ちはだかる。だが私たちはその経験を、記憶を、どれだけ対峙し、受け止め続けることができるだろうか。風化にあらがい、教訓を後世に伝えることが大事な一方で、記憶の風化と変化もまた、日々生きる人間にとって避けられないことでもある。

 そして私たちは記憶を書き換えたり忘れたりしながら、なんとか正気を保って生きていく。そんな悲しくて、でも愛おしい人間の真理が、両者の作品から浮かび上がる。

川口あい(かわぐちあい)

NewsPicks Brand Designシニアエディター。昭和女子大学大学院文学研究科修士課程修了。小学館クリエイティブ、ハフポスト日本版パートナースタジオ チーフ・クリエイティブ・ディレクター等を経て現職。スポンサードコンテンツ制作、メディアビジネス領域に従事。映画・海外ドラマや英米文学に関するコラム等を執筆。Forbes Japan オフィシャルコラムニスト。

 

 

 

 

2013.8.17.

カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』

 初めてカズオ・イシグロを読んだ際に受けた感銘はこのブログに『日の名残り』のレヴューとして書き留めた。私は関心をもった作家については固め読みすることが多いが、この作家についてはあえてゆっくりと読み継いでいる。急いで読むのが惜しいのだ。これまでに私は音楽を主題にした短編集『夜想曲集』、カフカ的な不条理小説『充たされざる者』、そしてなんとも切ない読後感を残す『わたしを離さないで』という三つの小説をあえて時間をあけて読んだ。驚くべきことには、内容は全く異なりながらもいずれも傑作と呼ぶにふさわしい。私はイシグロの小説家としての資質にあらためて舌を巻いた。
 久しぶりに同じ作家の『わたしたちが孤児だったころ』を読む。これもまた今まで読んだどの小説とも異なった内容でありながら、いかにもイシグロらしい味わいのある傑作である。実はこの小説に先立ち、私はコーマック・マッカーシーの『チャイルド・オブ・ゴッド』とドン・デリーロの短編集『天使エスメラルダ』を続けて読んだ。いずれもこのブログで応接したことのある作家であり、どちらも相当な問題作である。しかしこの二冊の横に本書を置くならば、私がまずレヴューしたい小説は明らかだ。なによりも『わたしたちが孤児だったころ』には小説を読む愉しみがあふれている。以下、内容にも立ち入りながらこの小説について論じる。
 今、私はカズオ・イシグロの小説がお互いに全く似ていないと述べた。第二次世界大戦前後のイギリスの貴族の邸宅、東欧を連想させる何処とも知れぬ街、近未来の謎めいた寄宿舎。イシグロの小説は舞台も登場人物もそれぞれに異なる。その一方で私は『わたしたちが孤児だったころ』の冒頭に私は既視感も覚えた。「1923年の夏のことだった。その夏、わたしはケンブリッジ大学を卒業し、シュロップシャーに戻ってほしいと伯母が願っていたにもかかわらず、自分の未来は首都ロンドンにあると心に決め、ケンジントンのベッドフォード・ガーデンズ14b番地に小さなフラットを借りた」という冒頭の一文。すでにここでいくつかの説話的な構造が明らかになる。まずこれが一人称によって語られる物語であること、時代と場所が特定可能であること、そしてさらに重要な点はこの物語が未来の一点から回顧として語られていることである。このような語りは『日の名残り』の主人公、執事スティーブンスの語りとよく似ている。事後としての語り、ここには既に一つの説話的な企みが凝らされている。すなわち話者はあらかじめ何が起きたかを全て知っているのに対し、読者は物語の中で生起する事件を話者の語りを通してしか知りえない、このような不均衡をイシグロほどみごとに小説に生かす作家を私は知らない。
 全部で7章から成るこの小説はいずれも章のタイトルに時間と場所が明示される。すなわち1章と2章は1930年と31年のロンドン。3章は1937年のロンドン、そして4章から6章までは1937年の上海、7章は1958年のロンドンが物語の舞台とされている。最初に述べたとおり、この小説は一人称の語り手の気ままな語りによって成立しているから、それぞれのエピソードの時と場所はめまぐるしく変わるが、この章立てを頭に入れておけば物語の推移を追うことはさほど難しくない。最初の二つの章で語り手、すなわちケンブリッジ大学を卒業した青年クリストファー・バンクスによって一つの謎が発せられる。いかなる謎か。勿体ぶる必要はなかろう。この謎は物語の中で明確に語られるし、そもそもタイトルがそれを暗示している。貿易会社に勤務する両親や乳母たちと上海の租界で安穏と暮らしていた少年クリストファーの前から父そして母が相次いで謎の失踪を遂げたのである。イギリスの伯母の元に引き取られ、長じて探偵としての成功をおさめたクリストファーは父母の消息を求めて日中戦争の最中にある上海へ旅立つ。ロンドン出立から上海における探索がこの小説の3章から6章までを占める。父母の失踪にまつわる謎は6章の最後で一応の解明をみる。そして時を隔てた20年後、7章において物語全体が静かに一つの結末を迎える。未読の読者のために謎の解明と最後の結末については触れないが、このように乱暴に物語を要約したとしても作品の魅力は全く色あせない。少しずつ明らかにされる謎、巧妙な伏線と意外な展開、交錯する人間関係、頻繁なカットバックやフラッシュフォワード、イシグロが次々に繰り出す小説的技巧に翻弄される中で私たちはあらためて小説を読むことの愉楽に身を任せる。
 この小説における時制、つまりそれぞれの章がどの時点で執筆されたかを特定することは難しい。一つの手がかりはそれぞれに章の冒頭に書きつけられた日時と場所だ。第2章の末尾に次の記述がある。「だが、今は眠らなければならない。朝には仕事がたくさん待っているし、今日の午後、サラとバスの二階に乗ってロンドンを動き回ったために失った時間も取り返さなければならない」この記述からこの章はクリストファーがロウアー・リージェント・ストリートのレストランでサラ・ヘミングスという女性と再会した日に記されたことが推定され、おそらくそれは章の扉に掲げられた1931515日の出来事であっただろう。したがって章のタイトルに付された年記と地名はそれぞれの章を執筆した時と場所の覚えであると考えられる。この時、この小説は2章と3章の間に大きな断絶をはらんでいる。先に述べた通り、最初の2章がロンドンで1930年代初頭に執筆されたのに対して、3章以降は1937年の上海、具体的にはキャセイ・ホテルで記されたはずだ。(厳密には3章にはロンドンという表記があるが、内容的に上海へ渡航する前触れであるから2章との間に断絶がある)形式的にも最初の二つの章と3章以降には大きな違いが認められる。最初の二つの章ではフラッシュバックが頻繁に用いられ、読者はロンドンと上海、現在と過去をめまぐるしく往還する。しかし3章以降、語り手の意識は現在、つまり1937年の上海に集中する。別の言葉を用いるならば、1章と2章が語り手の記憶に基づいて常に過去を参照するのに対し、クリストファーが上海に赴き、両親の捜索を開始する3章から6章はいわば探索の経過報告、現在形の物語へと転ずるのだ。(ただし時制としては全編を通して過去形が用いられている)かかる複雑な時制の理由は明らかである。先に記したとおり、本書は一人称の話者が事後的に回顧するという形式をとっているため、物語の時間的位置に客観的な判断を下す根拠が存在しないのだ。そしてこのような混乱は明らかに意図的に導入されている。上海での探索の過程でクリストファーは思いがけなく旧友の日本人アキラ、ロンドンの社交界で旧知であったサラ・ヘミングスらと再会する。このあたりの錯綜、つまり記憶の中に登場した人物と現在形として出会う人物との交錯がこの小説の大きな魅力をかたちづくっているといえよう。
 記憶と現在、このような対比が与えられる際、通常であれば記憶はあいまいであり、現在は明晰なはずだ。しかし奇妙にもこの小説においては語り手の記憶を介して語られる過去の上海はくっきりと浮かび上がるのに対して、父母の消息をもとめてクリストファーが彷徨する1937年の上海は奇妙に歪んでいる。もちろんそれはこの都市が日中戦争という混沌とした状況下にあることが一つの理由かもしれない。実際に物語の終盤でクリストファーは市街戦が繰り広げられている上海を父母の手がかりを求めてさまよう。しかしここで描かれる上海はどこか非現実的なのである。例えばクリストファーを迎える上海市参事会代表、グレイスンなる人物はまもなくクリストファーの両親が囚われの身から解放されると説き、彼らの歓迎式典のプロトコルについて繰り返しクリストファーに質す。唐突に語られるグレイスンの挿話は物語に挿入された異和であり、その意味が明らかになることもない。このような奇妙なエピソードからは長編『充たされざる者』が想起されよう。『充たされざる者』においてはヨーロッパの小都市を訪れたピアニスト、ライダーが彼を迎える人々によって歓待され、「木曜の夕べ」という演奏会への期待を表明される。しかし彼が迎えられた目的、そして彼がなすべき仕事は一向に判明しない。カフカを強く連想させるこの小説においては主人公と彼を取り巻く世界の不調和が主題とされている。東欧と思しき落ち着いた佇まいの街と戦火の中にある上海、舞台は大きく異なるものの、単に人々と意志の疎通ができないだけではなく、そもそも都市の時空自体がねじれているような印象を与える。『充たされざる者』においては車で出かけた遠い屋敷のドアはライダーが宿泊しているホテルに通じており、『わたしたちが孤児だったころ』では上海で偶然に出会ったイギリスの寄宿舎時代の友人に連れて行かれた邸宅はなぜかクリストファーが幼時を過ごした家であったのだ。このような記述は不条理というより夢の中の出来事のようにも感じられる。したがってこの小説は記憶と夢を描いているといえるかもしれない。記憶も夢も意識の中には存在しながら、かたちをもたない。それは小説を読む体験と似ている。
 「わたしたちが孤児だったころ」というタイトル自体も一つの謎を提示している。「わたしたち」とは誰か。語り手、両親を失踪によって失ったクリストファーが孤児であることはたやすく了解される。しかし「わたし」ではなく「わたしたち」なのだ。この小説には三人の「孤児」が登場する。クリストファー、社交界で男から男へと渡り歩くミス・サラ・ヘミングス、そして両親を海難事故で亡くし、クリストファーに引き取られた娘ジェニファーであり、いずれもこの物語の中心に位置し、三人の葛藤は物語の縦軸を構成している。しかし単にこの三人を指しているのであろうか。孤児とは何の係累ももたずに世界に直面する者のことだ。孤児は用心深く、手探りで世界との距離を測る。物語の冒頭にクリストファーがイギリスの学校に転入した最初、いかにみごとに学校や仲間に適応し、社会に順応していったかを誇らしげに語る記述がある。おそらくこの感慨は長崎に生まれ、5歳の時にイギリスに渡った石黒一雄の体験を反映しているかもしれない。しかしさらに広げて私たちは誰でも生まれながらに「孤児」であると考えることはできないだろうか。私たちを取り巻く世界、それは必ずしも私たちにとって調和的ではない。私たちもまた手探りで世界との距離を測りつつ、世界の中で私たちが占めるべき位置を定めるのではないだろうか。上海で少年時代を送り、ロンドンで成長するクリストファーというかなり特異な経歴をもつ人物を主人公に据えながらも、私たちがごく自然に物語の中に入り込むことができるのは、私たちもまた自らの生の中で必死に世界との距離を測っているからかもしれない。それゆえあえて詳しく触れなかった最後の章、自らの孤児性のゆえんを探るクリストファーの探索の結末は読む者に深い余韻を残すのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

Wikipedia

サーカズオ・イシグロSir Kazuo Ishiguro OBE FRSA FRSL, 日本名:石黒 一雄1954118 - )は、日本生まれのイギリス小説家

長崎県長崎市で生まれ、1960年に両親とともにイギリスに移住した。長編小説『日の名残り』で、1989年にイギリス最高の文学賞とされるブッカー賞を、2017年にノーベル文学賞を受賞した[2]

経歴

生い立ち

長崎市新中川町[3]で、海洋学者の父・石黒鎮雄英語版)(1920 - 2007[4]と母・静子の間に生まれた[5]。祖父の石黒昌明滋賀県大津市出身の実業家で、東亜同文書院(第5期生[6]1908年卒)で学び、卒業後は伊藤忠商事天津支社に籍を置き、後に上海に設立された豊田紡織廠取締役になった[7][8]。父の石黒鎮雄は1920420に上海で生まれ、明治専門学校電気工学を学び[9]1958エレクトロニクスを用いた波の変動の解析に関する論文[10]東京大学より理学博士号を授与された海洋学者であり、高円寺気象研究所勤務の後、1948長崎海洋気象台に転勤となり、1960まで長崎に住んでいた。長崎海洋気象台では副振動の研究などに携わったほか、海洋気象台の歌を作曲するなど音楽の才能にも恵まれていた[11]。鎮雄が作曲した『長崎海洋気象台の歌』は『長崎海洋気象台100年のあゆみ』に楽譜が記載されている[12]。母の静子は長崎原爆投下10代後半で、爆風によって負傷した[13]

幼少期には長崎市内の長崎市立桜ヶ丘幼稚園に通っていた[14]1960に父が国立海洋研究所英語版)所長ジョージ・ディーコン英語版)の招きで渡英し、イギリスやオランダの海浜地帯に深刻な災害をもたらした1953北海大洪水電子回路を用いて相似する手法で研究するため、同研究所の主任研究員となった[15][16][17][18][19][20]北海油田調査をすることになり、一家でサリー州ギルフォードに移住、現地の小学校・グラマースクールに通った。卒業後にギャップ・イヤーを取り、北米を旅行したり、デモテープを制作しレコード会社に送ったりしていた[21]

1974ケント大学英文学科、1980にはイースト・アングリア大学大学院創作学科に進み、批評家で作家のマルカム・ブラッドベリ英語版)の指導を受け、小説を書き始めた。卒業後に一時はミュージシャンを目指していた時期もあったが、グラスゴーとロンドンにて社会福祉事業に従事する傍ら、作家活動を開始した[22]

作家活動

Faber & Faber社が刊行する『Introduction 7: Stories by New Writers』に収められた3作の短篇「A Strange and Sometimes Sadness」(1980年)、「Waiting for J」「Getting Poisoned」(1981年)でデビューした[22]1982年、英国に在住する長崎女性の回想を描いた処女作『女たちの遠い夏』(のち『遠い山なみの光』と改題)で王立文学協会賞を受賞し、9か国語に翻訳された。1983、イギリスに帰化した[23]1986、長崎を連想させる架空の町を舞台に戦前の思想を持ち続けた日本人を描いた第2作『浮世の画家』でウィットブレッド賞を受賞し、若くして才能を開花させた[20]

1989、英国貴族邸の老執事が語り手となった第3作『日の名残り』で英語圏最高の文学賞とされるブッカー賞を受賞し、イギリスを代表する作家となった[20]。この作品は1993に英米合作のもと、ジェームズ・アイヴォリー監督・アンソニー・ホプキンス主演で映画化された。2019には舞台化された[24]

1995、第4作『充たされざる者』を出版。2000、戦前の上海租界を描いた第5作『わたしたちが孤児だったころ』を出版、発売と同時にベストセラーとなった。2005、『わたしを離さないで』を出版、2005年のブッカー賞最終候補に選ばれた。この作品も後に映画化・舞台化されている[20]。同年公開の英中合作映画『上海の伯爵夫人』では脚本を担当した。

2015、『忘れられた巨人』をイギリスとアメリカで同時出版。アーサー王の死後の世界で、老夫婦が息子に会うための旅をファンタジーの要素を含んで書かれている[20]

2017、「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」との理由[25]ノーベル文学賞を受賞[20]

20171014日までに早川書房から翻訳出版された小説全8作の累計発行部数は増刷決定分を含めて約203万部[26]20171023日付のオリコン週間ランキング(文庫部門)では、7作のイシグロ作品がトップ100入りした[27]

20213月、『クララとお日さま』をイギリス・アメリカ・日本で同時出版した[28]

黒澤明監督の1952年の映画『生きる』を脚色した2022年のイギリス映画生きる LIVING』では脚本を担当した。この映画は翌年の95回アカデミー賞脚色賞にノミネートされた[29]

人物

2008に『タイムズ』の「1945以降の英文学で最も重要な50人の作家」の一人に選ばれた。

作品の特徴として、「違和感」「虚しさ」などの感情を抱く登場人物が曖昧な記憶や思い込みをもとに会話したり、過去を回想したりする形で描き出されることで、人間の弱さや互いの認知の齟齬が浮かび上がるものが多い。中島京子はイシグロについて、非キリスト教文化圏の感受性を持ちながらも、英国文学の伝統の最先端にいる傑出した現代作家であると述べている[20]。また、多くのイシグロ作品を翻訳した土屋政雄は、彼を非常に穏やかな人物と評している[30]

10代の頃はシンガーソングライター志望であり、作家となって以降もピアノギターをたしなむ。ボブ・ディランのファンであり、ノーベル文学賞受賞の際には「(前年の受賞者である)ボブ・ディランの次に受賞なんて素晴らしい」と語った。また、ジャズ歌手であるステーシー・ケントのために楽曲数曲を提供した[31]

1995年に大英帝国勲章(オフィサー)、1998にフランス芸術文化勲章2018年に日本の旭日重光章を受章した。2018年にナイト・バチェラーに叙され[32]サーの称号を得た。

日本との関わり

両親とも日本人で、幼年期に渡英してからもしばらくは日本国籍を保有していたが、1983年にイギリス国籍を取得した[33]2015120日に『ガーディアン』で、英語が話されていない家で育ったことや、家族とは日本語で会話することを述べている。さらに英語が母語の質問者に対して「言語学的には同じくらいの堅固な(英語の)基盤を持っていません("I don't have the same firm foundation, linguistically, as many of you out there.") 」と返答している[34]。最初の2作は日本を舞台に書かれたものであるが、自身の作品には日本の小説との類似性はほとんどないと語っている。

1990のインタビューでは「もし偽名で作品を書いて、表紙に別人の写真を載せれば『日本の作家を思わせる』などという読者は誰もいないだろう」と述べている[35]谷崎潤一郎など多少の影響を受けた日本人作家はいるものの、むしろ小津安二郎成瀬巳喜男などの1950年代の日本映画により強く影響されていると語っている[36]。日本を題材とする作品には、上記の日本映画に加えて、幼いころ過ごした長崎の情景から作り上げた独特の日本像が反映されていると報道されている[20]

1989年に国際交流基金の短期滞在プログラムで訪日し、大江健三郎と対談した際、最初の2作で描いた日本は想像の産物であったと語り、「私はこの他国、強い絆を感じていた非常に重要な他国の、強いイメージを頭の中に抱えながら育った。英国で私はいつも、この想像上の日本というものを頭の中で思い描いていた」と述べた[37]

201710月のノーベル賞受賞後の記者会見では「親は日本人で、家では日本語が話されていた。親の目を通して世界を見ていた」「私の一部は、いつも日本人と思っていた」と語った[38]。なお、ノーベル財団では公式な国別の受賞者リストを出していないという立場であり、公式ウェブサイトにおける出生国による受賞者のリストは便宜上の非公式なものである。ノーベル財団は公式のプレスリリースにおいて「2017年度のノーベル文学賞は英文学作家のカズオ・イシグロに授与された("The Nobel Prize in Literature for 2017 is awarded to the English author Kazuo Ishiguro.") 」と発表している[39]

2018年に出生地である長崎県および長崎市からそれぞれ名誉県民ならびに名誉市民の称号が贈られ、同年73日にロンドンにおいて長崎県知事中村法道長崎市長田上富久から、それぞれ証書と記念品が授与された[40]。イシグロはこの表彰に「長崎は私の体の一部で、名誉称号は自然なこと。特別で心温まるものだ」と喜びを語った[40]

私生活・家族 

1986年、ソーシャルワーカーのローナ・アン・マクドゥーガルと結婚[41]。娘のナオミ・イシグロも作家として活動している[42]

作品

長編小説

遠い山なみの光 1982

日の名残り 1989

わたしたちが孤児だったころ 2000

わたしを離さないで 2005

 

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