男はクズと言ったら性差別になるのか  Arianne Shahvisi  2025.1.15.

 2025.1.15.  男はクズと言ったら性差別になるのか

Arguing for a Better World            2023

 

著者 著者等紹介

アリアン・シャフヴィシArianne Shahvisi クルド系イギリス人の作家で哲学者。ランカシャーとエセックスで育ち、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学で天体物理学と哲学を学ぶ。現在はブライトン・アンド・サセックス・メディカル・スクールで応用哲学の講師を務めながら、主としてジェンダー、人種、移民、健康について研究

訳者 井上廣美 翻訳家。名古屋大学文学部卒業

 

発行日           2024.8.10. 第1刷発行

発行所           柏書房

 

はじめに 思考のプロセスを見せよう

白人に向かって人種差別的な言動をとれるか

第1章     「ポリティカル・コレクトネス」は行きすぎたか

第2章     「犬笛」は何が問題か

第3章     「男はクズ」と言ったら性差別になるのか

第4章     「オール・ライヴズ・マター」のほうが正しいのか

第5章     私たちは誰を信じるべきか

第6章     「マンスプレイナー」はどこから水を得るのか

第7章     誰が誰をキャンセルしているのか

第8章     「構造的不正義」は私たちの責任なのか

結び 一番近くにあるバリケード

 

 

はじめに 思考のプロセスを見せよう

この教えは、哲学の研究でも役に立つ。結論よりも論証の過程の方が重要

この2,3年での世界の状況;

   ファシスト的な指導者たちが権力を握ったこと

   人種差別的な警官の暴力が放置されてきた

   ジェンダーに基づく性暴力に対して、black Lives MatterMeToo運動が立ち上がった

   紛争や環境悪化や貧困から逃げようとして、多くの移民が溺死したり窒息死したりした

   マイクロプラスチックが人間の血中で発見され、汚染物質が人間の脳内から検出された

   新型コロナウィルス感染症のパンデミックとその後のワクチン・ナショナリズムが、世界の健康格差の大きさを表した

   世界の3人に1人が十分な栄養を取れていないという、食料不安が急浮上

   病んでいる地球が命を脅かすほどの猛暑を記録した一方で、大量の石油が採掘された

困難な問題の共通基盤となっているイデオロギーを明らかにして立ち向かうときに必要なのは、社会について学び、私たちの考え方、話し方、分類の仕方、抵抗の仕方の構成要素である言葉と概念について考察すること

以下の各章は、「正しくあること」に注目しがちな風潮、とりわけ、もっぱらソーシャルメディアを通じて政治活動を行っている人々の風潮に失望感を抱いたことから生まれたもので、こうした風潮のため、社会正義についての対話が閉鎖的で狭量なもの、懲罰的で粗雑なものになっている。(その背景には、)自分は正しい人間だというアイデンティティに執着する人々が、自分の誤りや他人の誤りについて、不可避で訂正可能なこととは思わず、破滅を招くものだと考えてしまっているからということがあるが、「なぜ」を理解して示すことが大事 

「思考のプロセスを見せること」は、他人にオープンである方法の1

相手をこうだと断言するのは、分かりやすいフラストレーションの結果という場合もある

自分で自分の面倒を見るセルフケアは大事だが、もし私たちがもっと効果的にケアをし合えるようになったら、セルフケアはそれほど重要ではなくなる。教えることと知ることは、互いにケアし合う方法の1つとして、また私たちのコミニティのケアをする方法の1つとして重要で、本書はそうした務めを果たそうという試みでもある

本書では、特定の人々を従属させ搾取することができる言葉と概念、別の形で共生するために使えるかもしれない言葉と概念に注目し、論証過程を明確にしながら論争の概要を述べる

本書の立場は、資本主義に大反対

本書で言葉と概念に注目した理由は、豊かな物質社会を生きている私たちは、言葉と概念によってそうした世界を理解しているからで、言葉があるから、私たちは観察の結果を理解し、それを分類できる。物質的な現実は、そのように言葉を使うことで浮かび上がってくる

本書の中心テーマはもう1つあり、私たちが生きて行く上で、道徳面や政治面で誤りを犯すことは避けられないことであり、そうした誤りは、排除の理由にするのではなく、学びの機会と捉えるべきだということ

どの解放運動でも最も大切で基礎となる要素「他人に対する思いやりとケア」に没頭するあまり、その貴重な考え方を発信していない人々のことも思い出されたが、彼等の声は抜け落ちている

本書を読むことで、世界の現状について考え、他の人々とどのように連動すれば世界を変えられるのかを想像してもらえればと思う

 

第1章     白人に向かって人種差別的な言動をとれるか

2017年、イギリスで黒人の元サッカー選手が近寄ってきた(白人)女性に頭を触られ「kittle

chocolate man(ケチな黒んぼ)」と侮辱されて自滅的な行動に走り、飲酒運転で逮捕、警官に向って「white cunt(クソったれ白人野郎)」と叫び、結局サッカー選手は飲酒運転の罪で20カ月の運転停止命令と、150時間の社会奉仕活動を命じられ、「人種的加重公共秩序騒乱罪」で罰金刑を受けた――ある人が別の人の人種に言及するという事例が2件含まれる。誰かを「white cunt」と呼ぶことは、中傷を意図して人種に言及することだが、概念の定義に従えば、黒人は警官に対して人種差別的であったわけではない。一方、その前の女性の行為は卑猥な言葉では罵ったわけではないが、明らかに人種差別的なコメントを口にした

白人や男性に対する「逆人種差別」や「逆性差別」がることは否定しないが、人種差別や性差別とは別のカテゴリーの不正に属する。これらを区別することが、「力の役割」を真剣に考えるには欠かせない。そうすることで、差別がはびこる「システム」に立ち向かう行動を考え出すことができる。これらの問題について生産的な対話を行うには、「特権」と「抑圧」という概念そのもの、そして、社会的・経済的不平等を生み出し存続させるうえでの「特権」と「抑圧」の役割を理解する必要がある

l  悪い成績のベッキー

2008年、白人女学生がテキサス大学の入学者選抜方針が人種差別のため入学を拒否されたと告訴。大学の「アファーマティブ・アクション(積極的格差是正措置)」の方針は、志願者の出願の背景を考慮するが、白人女性はこの方針の最大の恩恵を受けてきた人々であり、この女性も敗訴、「悪い成績のベッキー」という綽名までつけられた。ビヨンセの《ソーリー》という曲の歌詞「よい髪のベッキー」に因んだもので、「ベッキー」は自らの特権を武器や踏み台や言い訳に利用している白人女性を指すスラング

2020年には、「ベッキー」以上に軽蔑するようなニックネームが、より年上の白人女性に与えられた。「カレン」という呼び名で、責任者と話したがる中年の中流階級の白人女性を指す。彼女らは自分が恩恵を受けているルールにうるさく、特権を振りかざし、特に有色人種が不正を働いた時など必要以上に騒ぎ立て、他人を懲らしめた結果を見るのが好き

「ベッキー」や「カレン」という言葉を使えば、「逆人種差別」という非難を浴び、誰かをそう呼べば、彼女の人種差別を指摘することになる

逆人種差別や逆性差別が有意義な概念ではないと理解するには、人種差別も性差別も抑圧の形態であることを知る必要があり、抑圧は注目に値する危害の1つといえる

ここで使う「特権」と「抑圧」という用語は、ある集団の人々が共通して持つアイデンティティの特徴のために、それらの人々が集団的に受ける危害と利益の特定の形態を指す。抑圧は私たちの社会の設計の1つとなっていて、その影響を受ける人々はほぼ避けられないという顕著な特徴がある。また、その危害の1つを避けようとしても、結局は別の形の危害を受けてしまうという「ダブルバインド(二重拘束)」も特徴

l  人種差別と性差別の経済論理

特権と抑圧は、ある個人や人間集団の社会的ヒエラルキーにおける地位を物語る。男性は性とジェンダーのヒエラルキー内では特権を持つ。こうしたヒエラルキーの第1の目的は、特定の集団が従属し搾取されることを可能にすることにある。そのため資本主義のような搾取的な体制の活動促進に重要な役割を果たす

無給の家事労働という神話は、一部の人々(男性」がある種の役割と長所を持ち、別の人々(女性)には別の役割と長所がある、という考えを強化する。男性を連想させる立場や属性の方が高く評価され、そこに関連付けられている力や名声や給与の方も大きい傾向がある。これが「男性の特権」

資本主義体制では、ほぼ全員が搾取されているが、このシステムが安定的に長続きするには、一部の集団だけをとりわけひどく搾取することが必要。搾取のヒエラルキーでは、僅かでも力と自由を多目に持っている人は、自分が搾取されることを許しても自分に恩恵を与えてくれる体制を守る方がよいと考えるので、一部の集団を狙い撃ちにして搾取する方がそのヒエラルキーが安定する。複数の社会集団に分割し、一部の集団を他集団に従属させることが必要

l  抑圧――その下地

抑圧の特徴の1つが、ある人がある種の「不当で否定的な扱い」を受けるということ。その扱いは、歴史的にも前例があり、社会の「構造上」の帰結にもなっている

歴史が重要なのは、歴史が抑圧という危害に重みを加えているからでもある

抑圧が「構造上」の問題だということは、個人的な行動よりも深刻で大きな影響を及ぼすことになる。構造は、集団的行動を強要し決定する

抑圧はどこにでもあり、障碍物や屈辱が生じるシナリオは、無限といっていいほど多様で、被抑圧者は常に身構えていないといけないが、こうしたことは「逆人種差別」や「逆性差別」には当てはまらないし、より深刻な危害を受ける恐れが起こる要因もない

l  泣くこと、ケア、監護権

男性には特権があるとする考えに対する最も一般的な反応の1つに、男女のそれぞれのステレオタイプからくる区別に合致しない場合は、特権はないとする主張がある。男性が選べる役割と行動の選択肢が限られているのは確かだが、そうした制限も、その制限が一部の男性にもたらす苦悩も、抑圧ではなく特権を示す。男性だから身動きが取れないということはない

l  「球形の牛」を避ける――インターセクショナリティの重要性

「球形の牛」とは、物理学者が難しい問題を扱いやすくするために、世界をモデル化することがよくあるという事実を揶揄する譬えで、前提条件が現実的でないことを表す

抑圧を巡る議論も、理論的には単純だが、実際には使い物にならない場合が多すぎる

インターセクショナリティ(交差性)とは、複数の社会的アイデンティティが相互に影響して抑圧と特権の入り混じった状態を生み出す状況のことで、以下の特質が注目される

l  ヘテロジェナイティ(異質性)

インターセクショナリティの議論が始まった1851年のアメリカでは、奴隷解放運動と女性参政権運動、黒人の参政権運動が同時進行していたため、「女性」といえば「白人中流階級の女性」であり、「黒人」といえば「黒人男性」のことで、その狭間にある黒人や先住民女性は対象外

女性は人生も必要もヘテロジニアス(不均質・異質)であり、女性が直面する最も差し迫った危害(貧困や国家暴力など)の多くは、その人種や階級が大きな根本原因となり、次いでジェンダーによって悪化する

現在のフェミニズムはまだミドルクラスの白人女性の関心事を中心に置きがちだが、それはエリートの立場にある女性の代弁を圧倒的に重視しており、労働者階級の女性の必要はほぼ目を向けられていないことを意味する。だが、労働者階級の女性の多くは有色人種で、そういう女性の賃金や労働環境、住居や育児の問題のほうが遥かに切実。これこそフェミニズムの問題

l  ノンアディティヴィティ(非加算性)

ミシェル・オバマがファーストレディになったときの罵詈雑言は、単に人種差別に性差別が加わったものではなく、黒人女性だからこその逆上したような嫌悪で、反黒人のミソジニー(女性嫌悪)ともいうべきもの。ノンアディティヴィティを考慮することということは、白人女性の直面する性差別を黒人男性が直面する人種差別に加算しても、黒人女性の経験を計算できないことを認識するということ

l  相反する利害

黒人社会の中での女性に対する暴力では、黒人男性に対する人種差別が悪化しないようにするために、黒人女性はジェンダーに基づいた暴力の犠牲になっているが、実のところここには利害の対立などない。黒人男性は異常に暴力的な存在として描かれるべきではなく、黒人女性は受けた暴力について口を塞がれるべきではない。対立は人種差別の産物であり、それが誘発する危害の雪崩現象が、結局こうした利害の対立を生む

l  カレンとブーマー

「カレン」とは自分の特権を武器にする白人女性のことで、とりわけ彼女が有色人種とやり取りした場合に使う。「人種差別的な白人」を意味するのではなく「人種差別的な白人女性」を意味するので、「カレン」は性差別的だと非難されているが、インターセクショナリティの点から見ればこの批判が見当違いだとわかる。「カレン」という言葉のターゲットは「白人」女性だが、白人女性なら誰でもという訳ではなく、他の集団比べて特権を持っていると確信しており、既に不利な状況にある人を傷つける白人女性のことを指す

さらに、広く流布する誤解の1つに、女性は男性より人種差別的ではないという見方がある。実際には人種差別的な言動にはジェンダーによる違いはないが、女性の人種差別が多様だという事実からも生れている。白人女性の受ける性差別が有色人種女性の受ける性差別と異なるのと同じように、女性が与える人種差別も白人男性による人種差別とは異なる傾向にある

白人男性の人種差別は直接的・攻撃的であからさまになりがち、昔から女性を利用して有色人種の男性に対する暴力を正当化してきたが、白人女性の人種差別も、女性が危機に晒されていることを利用する傾向がある。例えば叫び声を上げることで自分が被害者として中心に立ったり、警察などの「当局」を使って暴力を行使するやり方

「カレン」は性差別的な悪口ではない。特定のジェンダーが行なった人種差別の事例に対して、その人種差別をそのジェンダーに基づいて非難している

同様な例が2019年の「OK、ブーマー」論争で、戦後20年間に生まれた「ベビーブーマー」が、イマドキの若者は理想主義的で未熟で甘やかされた「スノーフレーク」だと批判した際に、若者が「ハイハイ」と受け流す時に使う言葉。エイジズム(年齢差別)という人もいるがちょっと違い、政治的な保守性に対する批判も含む言葉で、「カレン」同様、挑発し恥をかかせ世間に訴えるために、社会の周縁から発生した政治的抵抗の小さな行動だが、実害を与える力はない

 

第2章     「ポリティカル・コレクトネス」は行きすぎたか

2015年の大統領選の候補者討論会で、女性司会者がトランプのミソジニー(女性嫌悪・蔑視)を露にしようと質問したのに対し、トランプは「この国の大きな問題はポリティカリー・コレクトであることで、そんな問題に関わっている時間などない」と言って大喝采を浴びた

イギリスでは、政治的に覚醒して社会正義を実現しようとする「ウォークイズム」が、レイシズムや宗教的ファンダメンタリズム(原理主義)に次いで3番目に厄介な「イズム」になっている

ウォークイズム(Wokism)とは、社会の正義に反する問題や人種差別などの社会問題に注意を払うことを意味する言葉。「woke」は「目を覚ます」という意味の「wake」に由来しており、欧米を中心に使われてきました。アフリカ系米国人が直面する偏見に光を当てるために使われることが多く、人種や性別、宗教、セクシュアリティなど、さまざまな違いを認めようというメッセージを込めています

ポリティカル・コレクトネスとは、昔はどんな問題でも疑わずに党の方針に従う頑固者を揶揄する言葉だったが、1990年代に反人種差別運動やフェミニズムの興隆を不満とする右派の武器として使われるようになり、保守的な価値観を規制したり脅かしたりするものを指すようになる。2020年からは「ウォークとの闘い」も同じフェーズで使われ出す

ストローマン論争も同じこと

ストローマン(straw man)は、議論において、相手の考え・意見を歪めて引用し、その歪められた主張に対してさらに反論するという間違っている論法のこと、あるいはその歪められた架空の主張そのものを指す。ストローマン手法、藁人形論法、案山子論法(かかし論法)ともいう。

語源は不明である。比喩的な用法は、容易に倒せそうな藁人形ダミーかかしなどを示唆する。

一例として;「子供を道路で遊ばせるのは危険だからやめた方が良い」という主張に対して、「子供を家に閉じ込めておけだなんて、ひどい意見だ」と反論する

現在の欧米では、イスラム教がモラル・パニックの最も一般的なテーマの1つで、2つの要素を含む。1つはイスラム教が西欧の文化や安全上の脅威と見做されていること、もう1つはイスラム批判が人種差別と見做されるため批判が許されなくなっていること

l  言葉の暴力性

言論の自由は重要だが無制限ではなし、自由が公平に配分されることは滅多にない

言葉も人を傷つけるし、差別も主に言葉で行われる。口に出すことは「行う」ことでもある

199394年ルワンダのラジオ局が、多数派のフツ族に、少数派のツチ族への憎悪を煽り、ツチ族排除を呼び掛けたのが、ジェノサイドを引き起こす一因となったのは広く認められている

圧倒的な発話は、有害なステレオタイプを押しつける。ステレオタイプは言語行為そのもの

l  それほど滑らない坂とソーセージで点火する癇癪

白人のことを「牛乳ビン」のように、肌の色に触れるような悪口で呼ぶことは、単に不快にさせるだけなのに対し、黒人をNワードで呼ぶことは、既に存在する抑圧を助長することになる

反ポリコレ派は、この違いを無視、彼等が求めるのは「言論の自由」ではなく、判断や処罰なしに好き勝手言える抑圧的な言論だ

ポリティカル・コレクトネスは、悪い結果をもたらさずできるだけ堂々と頑固でいられるようにする闘いの最後のフロンティアであり、それがポリティカル・コレクトネスに対する「滑り坂論」が失敗する理由でもある

滑り坂論法(slippery slope argument)とは、ある1つの行為を容認すると、その後に続く過程で取り返しのつかない結果に陥ってしまうという論法です。

たとえば、安楽死の合法化を議論する際に「滑り坂論」が用いられます。安楽死の合法化を支持する人でも、本人が希望していない「非自発的な安楽死」を強いる事態が生じることを懸念しています。

滑り坂論法は、次のような特徴があります。

l 坂道をどんどん滑り落ちるように歯止めが効かなくなる

l 1歩踏み込んだ先がどうなるか分からない側面がある

l 何もしないための詭弁と切り捨てられることもある

滑り坂論法は、生命や遺伝子操作、安楽死などさまざまな分野で用いられています。

イギリスの有名司会者が、既存のベーカリーチェーンが新たにビーガン用のソーセージロールを発売すると聞いて、急に不機嫌になったのも、反ポリコレの典型的現象

「コンサバティブ・コレクトネス」「ペイトリオティク・コレクトネス」とも言われる

l  現代のマナー

マナーというものは、特定の文化内で受け入れられる社会的行動の形を定める。往々にして恣意的で無意味に見えるが、社会生活を維持する上で重要な役割を果たしている

発話と行為のポリティカリー・コレクトの基準は、さまざまなマナーとして考えることも可能

マナーの要点は、私たちがさまざまな異なる結果を期待しながら互いに関係する上で、どのように行動するべきかを教えてくれることにあるが、ジェンダー・人種・階級など社会の階層化のシステムと結びつき、厄介なヒエラルキーを強化して不平等を定着させる傾向がある

ポリティカル・コレクトネスは、私たちが互いにどう振る舞うかのルールを一部変更することで権力の座を揺るがしたいと思っている人々が作り出す慣習と言える。この新しいマナーの最も基本的な信条の1つは、人々や集団のことを指す時には、彼らが使ってほしいと考える呼称を使うこと。どの言葉が最も適切かについては数年ごとにシフトする

l  新しいタブー

スラー(slur;中傷的な侮蔑語)とは、自尊心を傷つけ、侮辱し、卑しめ、嫌悪を表すなどのために使う有害な言葉や表現のこと。誰かを「slur(あばずれ女)」と呼ぶことは、家父長制的なイデオロギーの背景を持つ。同様に、人種差別的な発話には、必ず前例がある

タブー語は多くの文化で重要な構成要素になっており、一般的に、セックス(fuck)、身体の部位(dick, cunt, bollocks)と機能(shit, piss)、超自然的存在(damn, God, hell)に関係する

Fワードfuck」は強く相手を罵る表現

NワードNigro

Cワードcunt」は「たちの悪い人」「いやな人」という意味を持つ表現

Bワードbitch」は女性を侮蔑するだけでなく、ものやことに対しても罵る表現

PワードPakistani

l  誰一人取り残さない

「アイデンティティ政治」は人種やジェンダーなどの社会的アイデンティティに過度に注目し、異なる集団の間に楔を打ち込んで仲違いさせ、分断を広げる

ポリティカル・コレクトネスはダイナミックであるべきで、独断に陥らないように、批判を受け入れる必要がある。そうすることによって包括的な運動、学びと許しの余地がある運動にしていかなければならない

 

第3章     「犬笛」は何が問題か

テレビに登場したマッチョが体にタトゥーをいれていたが、数字の「88」「23/16」「14」が問題に。8はラテン語の8番目の文字Hに当てはめると「HHHeil Hitler」となり、23/16は「W/PWhite Power」という白人至上主義のスローガンになり、14は白人至上主義のスローガン「14 Words=We must secure the existence of our people and a future for white children」を指すとの指摘があり、本人がネオナチで強い人種差別の信念を持っていたことが判明し、番組は中止に。分かりにくい英数字のシンボルは、余程の知識を持った人でないと、人種差別のスローガンだとはわからないが、志を同じくする少数精鋭だけが気付くとされる

人種差別主義は人目につかない薄暗い片隅に居場所を見つけて育つ。公然と行えば違法とされ、人の評価も損なうが故に、こうした隠語で他には気づかれないような配慮がなされる

人種差別に対する意識が高まるにつれ、人々は意見を間接的に表明する方法を見つけ、様々な戦略を使ってその意味を偽装し、「黙っているべきことを声に出して(the quiet part loud)言ってしまうことがないようにする。あからさまな人種差別だけに注目するのは、雑草の根を残したまま、土の上に出た葉をちぎり取るだけの草刈りのようなもの

犬笛は犬には聞き取ることができるが、人の耳では聞き取ることができない音を発することから、転じて、特定の集団にしか理解できない暗号や符丁にも似た表現を使うことで、批判を受けることのないメッセージをさりげなく発信し、人々の考えや行動を操る政治手法のことを指して、「犬笛」と呼ぶ。典型例として、アメリカ合衆国の選挙の候補者が、「家族の価値」と言う言葉を使うことで、非キリスト教徒の支持を失うことなく、候補者がキリスト教徒的価値観を支持していることをキリスト教徒に示すことがあげられる。

l  もっともらしい否認による弁明

否定しやすいような形に意味をコード化することを専門用語で「もっともらしい否認」という。道徳的に論外だと他人から思われる恐れがあるメッセージを発する人が使う戦略で、そうした非難を防ぐために、発言者が免責条項を盛り込んでおく。よくある「もっともらしい否認」は、「ジョークを言っていただけ」という弁明で、かえって発言を聞いた人を非難し兼ねない。タトゥーに数字を入れるのもその1つで、表現者は有害な関連をきっぱり否定できる

周縁化された集団も、敵対する可能性があるアウトサイダーに気づかれないような形で識別法やコミュニケーション方法を編み出すことがある。1970年代のアメリカでゲイの男性が使った「ハンカチコード」も、ポケットに挿したハンカチの色でその人の性的嗜好を示す識別法で、事情に通じた人にしか分からない

l  言いたいとおりには言わないことについて

直接的な言質を与えずに人種差別主義を表明する様々な方法を理解するには、有益で社会的に受け入れられる間接的な発話(遠回しな言い方)がどれほど普及しているかを認識することが重要。日常会話でも、文字通りの表面的な意味が自分の意図した含意と違っていることを言うことがある。デートの最後に「うちでコーヒーでもどう?」と言ったら、このまま性行為まで受け入れOKという意思表示であることが多い。間接的な発話を理解するには、その言葉が発せられる特定の文脈を知っている必要があるが、たいていの人は正確に気付く。礼儀正しさと外交術が重要な動機で、多くの文化では、下品だとか厚かましいとか見られないようにするために遠回しに発言する

人種差別などの抑圧のあからさまな事例がこれまで以上に非難や法的な異議や汚名を受けやすくなったため、特に公の場での間接的な発話がますます重要になっている。今日の英米では、人種的平等が達成されたと広く信じられているが、現実は、人々が言葉をカモフラージュする方法を進化させ、環境の変化に楽々と合わせてきているに過ぎない。「生まれつき知能の低い人種や民族集団があるか?」との問いにはノーと答えながら、「生まれつき勤勉な人種や民族集団があるか?」との問いには半数がイエスと答えている

l  犬笛dog whistle

犬は人間の若者よりも高い周波数帯の音まで聞く事が出来る。人間の上限は17キロヘルツなので、それを超える周波数の笛を使って犬の訓練をすれば、人間の邪魔にならない

イギリスで「優生学の父」と呼ばれるゴルトン(ダーウィンの従兄弟)39キロヘルツの犬笛を発明したが、それが人種差別的な発話と同義になったのは皮肉

政治的な犬笛は、一部の人にだけ聞こえればよいと考えて吹く。特定の政治的シグナルをコード化し、その意味を特定の方法で解釈できるように予備知識を与えられた人々だけが分かるようにしてある。これも間接的な発話の一種で、1980年代から登場

最も一般的な犬笛の1つが「勤勉な家族」に言及することで、保守派へのアピールを狙う。「家族」とは、異性愛を規範とする家族を社会の伝統的で「自然」な基本単位とする制度であり、保守的な社会観を持ち同性婚や中絶を否定する有権者にアピールするし、「勤勉」と言えば、社会福祉援助を受けている人を拒否する姿勢を示す

「インナーシティ(都心部のスラム)」や「アーバン」は人種差別主義者の犬笛であり、トランプがバイデンを「過激なグローバリストの召使」と呼んだのも反ユダヤ主義の比喩だし、オバマ前大統領を指すのに「バラク・フセイン・オバマ」とフルネームを使うのは、イスラム恐怖症の犬笛

犬笛は、ソーシャルメディアでも大きな役割を果たす。投稿を削除され難くする一方、「自分のトライブ(部族)を発見」し易くして抑圧的な会話に参加するのを助ける

l  イチジクの葉

もっとあからさまに表現する言説の方が大きく広まるところから、露骨な人種差別的発言をしても人種差別主義者と見做されるリスクを冒さない戦略もあり、「イチジクの葉」と呼ばれる

人種差別発言「に付け加えて」言われる発言のことで、エデンの園で性器を覆ったのと同じ様に、発話をなかったことにしたり、和らげたり複雑にしたりするために一言付け加えるやり方で、発話を社会的に容認できる程度に隠すだけでなく、逆に隠すことによってそこにスポットライトを当てることが可能。「否定のイチジクの葉」の例として、冒頭に「私は人種差別主義者ではないが・・・・」と切り出す。「交遊関係の主張」のイチジクでは、「私には黒人やユダヤ人の友人が沢山いますが・・・・」と言い、「言及のイチジクの葉」では、「みんなが・・・・と言っている」と言って自分の人種差別的発言を他者に転嫁する

l  みんなが考えていること

近時あからさまな人種差別が復活しているうえに、トランプやプーチンなどの「率直な発言」がそれを活気づけ拍車をかけている。その時よく言われるのが「みんなが考えていることを言っているだけ」という表現

犬笛やイチジクの葉の真の姿を知れば、その政治的見解を操る力は無力化される

 

第4章     「男はクズ」と言ったら性差別になるのか

2019年、ブラジル人ゲーム系インフルエンサーの女性カットゥーゾがセクハラについてツイッターに「男はクズmen are trash」と言ったことを理由に職を失う。多くのフォロワーの支持を得たが、言葉の選択がひどいと猛烈な批判もあり、フェイスブックはヘイトスピーチの事例として、「男はクズ」という投稿を度々削除したがすぐに解除。「男はクズ」は一般化された概念で、従来の通念からいえば人々を一般化するのは公正ではないとも言える

l  「#男はクズ」の誕生

2017年、南アフリカで男たちによる残忍な殺人や性犯罪が多発、「#男はクズ」というハッシュタグがツイッターで最も人気となり、世界中で使われるようになった。道徳的な非難の表明として小さな反抗となったが、ハッシュタグ自体を巡って意見の対立が見られることに憤慨

l  「クズ」の証拠

アメリカの銃乱射事件の大半は男性の単独犯行であり、銃撃犯の9割近くがパートナーや子供を虐待したことがあり、犯行の半数は女性がターゲット。イギリスでは、殺害された女性の半数がそのパートナーか元パートナーによる凶行

l  ジェンダーと男らしさ

「男はクズ」と聞いて大騒ぎする理由は、男という「(生物学上の)性」は永遠にクズだと糾弾されると人々が受け取るから。ジェンダーについての一般論だと理解すれば、一層強力になる

ジェンダーとは、役割や行為や自己呈示のスタイルを2つのカテゴリーに分けてから、それらを一部の人に命じ、別の人々には禁じることを言う。「性」同様、社会的に構築されるものであり、社会に住む人間が集団として構築するもの

男らしさは、集団的でもあり、個人的でもある。どの文化にも共通する男らしさの属性というものがあるが、その社会的文脈は多様

l  「すべての」男性ではない? 男性「だけ」ではない?

「男はクズ」のターゲットは、男らしさの文化であり、その害は深刻で、構造的なもの。批判の対象とする行為(力づくであることなど)は、男性の足枷になりがちなものではなく男性の利益を増すことが多い。これと逆なのが「女は不合理」という批判で、こちらは女性の人生を制限する根拠のないステレオタイプを強化し、職場では女性の足枷になる

「すべての男性がそうだというわけではない」というのが「男はクズ」という主張に対する最も一般的な返答で、問題ではない男性にスポットが当てられ、議論が脱線してそもそもの不平不満が矮小化されてしまう

脱線については、ドメスティック・バイオレンスとの比較が重要。「男性も被害者になる可能性がある」との反論が必ず出るが、圧倒的に男が加害者で被害者は女であり、話を脱線させようとする反論に過ぎない

「クズである男もいる」と言い換えたのでは、「男はクズ」の意味や意図を保持できない。ポイントは「男らしさ」にある特定の何かが、クズとなる可能性を高めているということ。さらには、「男はクズ」は男性についてただ言っているだけではなく、他のはけ口がほとんどない怒りやフラストレーションを表現する「言語行為」でもある。不平不満と非難、男性の行動を改善させようという決意の表れでもある。男性を笑う方法でもあるし、男らしさによって危害を加えられた人々の忍耐の限界を表してもいる。ただの発言ではなく、正義の要求だとみなすべき

「男はクズ」という時には、男らしさが求める有害なことは、男性によって守られ監視されているだけでなく、多くの女性が支持しているということを忘れてはならない。文化は集団が作り上げる、ということは女性もそれに加担している。白人女性の53%が「pussy grabber」という下品な自認をしたトランプに投票したのは、自らの最大の利益にも、有色人種女性の利益にも反した投票をしたことになる

l  言語哲学から学ぶ

「一般化」とは、人間のコミュニケーションには欠かせない言語の近道で、個人が観察した結果を多くの事例に適用可能な一般的な言説に変えることを言う

「男はクズ」と「すべての男はクズ」とは違う。前者は「総称的一般化」という。我々には、「総称文」を利用して、読者にも利き手にも特に重要なパターンに目を向けさせようとする傾向があり、表現する相関関係が重要で、相関の程度が低くても、それが真実と受け取られることが多い。「警告」として作用することもある

総称文には文脈依存性がある。「カモは卵を生む」も「カモはメスである」も同じ様に50%のカモに当てはまるが、前者は事実を含むが、後者は全くの嘘。この差異は、文脈的な目的があるかないかの違いで、我々は言語を使い慣れているので、前者が(他の動物と比較した場合の)カモについての重要なことを知らせてくれる文脈にあると直感的に分かる

総称文は言語上のツールに過ぎないので、使い方によっては、誤解を操作したり助長したりする言説を作るのに利用されることもあるので、文脈を考慮しないと正しく評価できない。そこで重要なのは、話者が総称文を使った目的と共に、相関関係がなぜ成立するのかを知ること

l  クズを一掃する

男らしさの害に対しては、刑罰は害をエスカレートさせるだけ。個人の問題にしてしまうと、もっとしっかりした解決策から逸脱する。求められる解決策は、男性が互いに日常的にケアを提供し合い、男性以外の人にもケアを提供して暮らせるようにするもの

男性の努力が内部から文化を変えられるという期待を捨てたくない。たとえ女性よりも男性の方が家父長制というシステムから多くの恩恵を受けているとしても、男女とも同等に家父長制というシステムを支えているのだと認め、男女が協力して家父長制の文化を解体し変えていかなければならない

暴力とスタンドプレーで私たち全員を危険に晒す「強い男」タイプの政治的リーダーが輩出するなか、「男はクズ」は、もっと健全な何かを想像して見ろと私たちをけしかける。「クズ」は男性の生物学的な運命ではなく、その偶然性を認めることが楽観の根拠になる

 

第5章     「オール・ライヴズ・マター」のほうが正しいのか

2020年白人カップルがウェディング・フォトグラファーとの契約を破棄。理由は写真家がSNSBLM運動を支持すると発信したことで、「オール・ライヴズ・マター」であるべきと発言。写真家は、手付け金は返還できないが、BLM運動の組織に寄付すると通告、加えてBLM運動への寄付に感謝すると言った。トランプもBLMは「ヘイトのシンボル」と言い、BLMによる抗議を見て、「分断を深めて固定化を進めるだけだ」と非難した議員もいる

「オール・ライヴズ・マター」と言い返すことがひどく見当違いで有害なのはなぜなのか? どれほどの反発が無知から生まれたのか? 黒人差別に対する異議をわざとぐらつかせようとした意図から、どれほどの反発が生まれたのか? BLMのスローガンには重大な誤解がある

l  ブラック・ライヴズ・マターとは何を意味するのか?

BLM運動は、2013年黒人少年に対する殺人罪で起訴された自警団の白人犯人が無罪放免となった後にトレンド入りしたハッシュタグ「our lives matter」が発端。1年後の警官による黒人射殺事件でblackに変わり一気に拡散

2020年、BLMは政治的な要求として登場。警官による黒人射殺事件が2州で相次ぎ、コロナ下の死者数に人種的な格差が判明したことと相俟って爆発的な抗議運動に発展。アメリカではアフリカ系の86%に加え、白人の60%がこの運動を支持したが、急速な拡散が多くの誤解を生む。白人至上主義者がBLM運動の信用を失墜させるための組織的な計画に着手し、「白人を見つけ次第殺せ」などと言いふらしたり、保守派の圧力団体は、「BLMへの寄付が民主党に流れている」とのデマを流す

BLM2つの主張の組み合わせで、1つは「黒人の命と生活が組織的に過小評価されている」という事実であり、もう1つは「黒人の命と生活は尊重されるべき」という規範的ステートメントなので価値判断を伴う故に、誤解が生じやすい。ライフ(命と生活)がマター(重要である)とはどういう意味か? 自由で、生活のインフラが確保されており、他人から「公正公平に」扱われ、個人として尊重されなければならないということであり、私たちの大半にとって許容できる限界値以下にまで落ちているのは明白

公民権運動後も、人種を持ち出す代わりに、刑事司法制度を通じて有色人種の「犯罪者」というレッテルを貼り、かつてアフリカ系アメリカ人を合法的に差別するために使われた方法の全てが、今は犯罪者を差別するのに使われている

BLMと連呼することが重要となる理由の1つは、明白なことを言っているのに、その明白なことがまだ歴史的に認識されていないこと

l  ブラック・ライヴズ・マター ――見当違いの反応

BLMへの異議の特徴は、①カラーブラインド的反応(人種のカテゴリーを超越すべき)、②「what about」的反応(それじゃ他の人の命はどうなんだ?)、③白人至上主義的反応(白人が脅威に晒されている)

カラーブラインドは、「自由放任主義の人種差別」であり、1964年の公民権法成立によって「ポスト・レイシャル」に移行したと考える。その見解が最も浸透しているのは白人層

what about」的反応は対話上の戦略で、直観的に面倒そうな別の問題にすり替える。政治的立場とは無関係だが、現状への異議申し立てを妨げようとする時には特に有効

クオータ制とアファーマティブ・アクションは、その恩恵を受けない人々を怒らせることが多い

l  なぜ「オール・ライヴズ・マター」ではないのか

「オール・ライヴズ・マター」を支持する人々は、「暗黙の」人種差別的信条を持ち、差別に該当する範囲を狭く捉えている可能性が高く、「黒人差別の核心は、それに悪意があることで、悪意のない人なら人種差別には当たらない」とするが、もともとBLMの文脈以外では無意味な反応で、BLMが黒人差別に取り組む運動だと理解していれば起こりえない反応

l  「誤解」が非常に多いのはなぜか

一般に、反人種差別運動は復讐ではなく、正義を求める運動。白人が暴力を恐れるのは、自分たちの特権が暴力の上に築かれたものであることをある程度自覚しているからで、現在のシステムが崩壊したら、かつて黒人が受けたようなひどい扱いを受けるのではないかという潜在的な不安がBLMを暴力的な運動だと思い込む原因

l  BLMを越えて

人種差別と植民地主義に断固として挑むつもりなら、BLMはグローバルな視野を持たねばならない。人種差別は資本主義の基盤を強化するから、BLMは現状の権力構造への異議申し立てでもあるべき

 

第6章     私たちは誰を信じるべきか

1921年、米生物学者ペインターが人間の細胞には24組の染色体があると発表。この「偉大な白人男性」の結論は56年まで維持された。一方、20世紀初めブルセラ菌を発見してアメリカから波状熱の駆除に貢献した女性生物学者の発見は当初歯牙にもかけられなかった

l  信じられるのは誰か

他人の知識を信用するかどうかは、その人への「信頼性」をどう判断するかによる

信頼性は人間の生活に不可欠の要素で、知識があることと、信用できることの2つの構成要素からなる。私たちには相違を解決する必要があるため、信頼性は大抵低くて競合的である

信頼性が重要なのは、人間のコミュニケーションの大半が知識の交換で成り立っているから

l  黒人の信頼性を求めて

1993年に起きたロンドンの黒人少年刺殺事件で、ロンドン警視庁は6年後に、その場にいた被害者の友人の黒人の目撃証言に耳を貸さなかったことを、組織そのものが人種差別的だと認めたが、それでも白人犯人に有罪判決が出たのは20年後だった

信用性が組織的に格下げされるという不正義のことを「証言的不正義」と呼ぶ

人種とジェンダーに基づく「信用性の不足」は、公的人物の扱われ方を見ると特に明らか。イギリスで有色人種の国会議員が誕生したのは1987年だが、唯一の黒人女性は、所属する党も含め、世間もメディアも彼女の失敗を熱望。彼女はいまだに偏見と闘っている

l  どうしてステレオタイプは信頼されないのか

自分の見掛け上の信頼性を上げるには、他人の信頼性を損なうのも1つの手。人種とジェンダーは、まさに特定の人々をもっと搾取しやすくできるように中傷するために構築された

1768年、リンネが人間を分類する体系を考案、19世紀にはこの人種に基づいた行動のヒエラルキー構築の努力が続けられ、白人男性至上主義が増殖

l  信頼性のペナルティの発動

ステレオタイプに起因する信用性の不足は至るところに存在

話し方や発音も信頼性を大きく左右。ラティーネクス(ラテンアメリカ系)訛りなどは知性的でないと思われている

自信がありそうに見える人を信頼しがちだが、男が自信過剰になりがちな様に、自信は非常にジェンダー化したものなので要注意。逆に、女性が自信や支配行動を見せると好感度が低下するという研究結果もあり、有色人種の女性ほど悪化する

l  不信のコスト

女性を信用しない集団の最も有害な1例が、女性はレイプについて噓をつくという神話だが、実際は女性が嘘をつく度合いは、ひとが他の犯罪について嘘をつく場合と変らないというデータがあるし、性的に被害を受けるリスクが女性にあることは自明の理

虐待を受けた女性の恐怖よりも虚偽の告発をされた男性の恐怖を優先してしまう傾向が広まっているため、女性が嘘をついているのではないかと疑いやすい

l  ふりをする

実際には、女性の方が男性より嘘をつくようだが、その多くは家庭内で、同居している人やケアする相手とうまくやっていくためにつく嘘

l  複雑な世界での信頼性

女性は性的虐待や暴行について「十分には信じてもらえない」が、褐色の肌の男性は、そうした犯罪を犯したのではないかと「過剰に」疑われやすい

l  木々の証言

2020年カリフォルニアの火事の原因は、気候変動による極度の乾燥と100年前からの完全防火方針。北米先住民の知恵では、ほぼ100年ごとに森の下層植生を焼き払って、予期せぬ山火事の火口になりそうなものを除去することになっていたので、古木の年輪にはこうした予防的野焼きの痕跡が残っている。先住民の科学的知識は長いこと無視され、信用されずに来た(証言的不正義:前出)が、気候危機を防ぎ、他の生物圏とバランスを取りながら共生する方法を考え出すのに、彼等の知識は不可欠

同様に、女性や有色人種、障碍者などの周縁化されたアイデンティティの人々の信頼性を過小評価することは、その人たちを不当に扱っていることになる

信用できるのは誰だということについての定説から意識的に逸脱すれば、より真実らしきものに近づけるのではないか

 

第7章     「マンスプレイナー」はどこから水を得るのか

l  説明とは何か

説明が成功したと言えるのは、その説明が人の当初の想定を変え、その人が自分の見たものをもっとよく理解できるようになった時で、驚くべき出来事を驚くに当たらない出来事に置き換えることによって機能する

l  スプレイニング

説明のうち、最も悪名高くタチの悪いのがマンスプレイニングで、それと同系統のホワイトスプレイニング(白人から有色人種に対するもの)やシスプレイニング(同性に対するもの)も同様

こうした悪しき説明行為は、社会的アイデンティティに基づいて、自分より知性の劣っていると見做した相手に対し、求められてもいないのに説明したり助言したりする場合に発生

スプレイニングとは、「ベイアーディズム」(無知や誤解に基づく自信)の亜変種で、自信満々で無知をさらけ出すことを言う

l  説明的不正義

テレビのニュース番組は紛争について報道しても、その紛争の発端となった原因については滅多に説明しない。説明行為を独占している人々は、周縁化された集団の人々の役にたつ説明を展開する気もなさそうで、周縁化された人々は「説明的」不正義を被っている

l  「いや、よく分かりません」――抑圧的な説明に抵抗する

人種差別的な説明や性差別的説明、あるいは虚偽の説明や周縁化するような説明に抵抗するための方法として、「いや、よく分かりません」とか「言っている意味が分かりません」とシンプルに拒否するやり方があり、曖昧で遠回しなフレーズに頼ろうとする説明者を追い詰め、その問題をもっと強い明確な言葉で言わせることができる

道徳的に問題のある説明に異を唱えず放置しておけば、その説明は世界に有害な影響を及ぼす。説明を拒むことができれば、世界をもっと公平公正な場所に出来る

 

第8章     誰が誰をキャンセルしているのか

養女虐待が発覚したウッディ・アレンの出演映画やハーヴェイ・ワインスタインがクレジットにあるせいで泥を塗られた200本の大ヒット映画は、「キャンセル・カルチャー」の話に繋がる。彼らは「キャンセルされた」のか? 彼らにとってそのことはどういう意味を持つのか? 「キャンセルされる」ことは、危害をもたらしたからその報いを受けたに過ぎないということと道徳的に同じなのか? 謝罪しさえすれば「キャンセル」を免れるのか? 私たちは彼らを罰しようとすべきなのか、それとも、彼らが学べる環境を作るべきなのか? 悪事に対する私たちの反応は建設的なのか? その反応はその悪事に見合ったものなのか?

「キャンセル・カルチャー」は、保守派がその偏狭な考えを有効にするためにたきつける戦術的なモラル・パニックだが、その一方、悪事を暴く人々も、厄介で役に立たない方法で同じことをしている場合が多いように見える

キャンセルカルチャーとは、社会的に好ましくない発言や行動をした人物や団体に対して、SNSやメディアで批判や不買運動などの制裁を加える行為です

l  陶器の壺のキャンセル・カルチャー

2500年前のアテナイでは、市民が追放したい人の名を陶器の破片(オストラコン)に書いて投票し、毎年16000個以上集まった場合問答無用で追放となるが、10年後には復帰(英語で「社会から排斥する」ことを”ostracise”というのはこれに由来)

公式のオストラシズム(陶片追放)は、未だに一部のコミュニティでは存続

トランプがイスラム教徒の多い6か国からの難民や訪問者の入国を禁じる大統領令に署名したのは、人種差別的な政策で、オストラシズムというより抑圧と呼ぶ方がふさわしい

オストラシズムは、反社会的あるいは不道徳な行動に対しても行われ、人から通常の社会的相互作用や社会的な繋がりを奪うが、本人を苦しめるとともに、抑止力としても働く

現代社会でよく見るオストラシズムの一種が「キャンセリング」で、「キャンセル・カルチャー」という言葉は「ブラック・ツイッター」にルーツ。黒人女性がオンライン上の「コールアウト」(叫び)こそが自分たちにとっての唯一の正義だとわかった上で、人種差別やミソジノワールを「コールアウト」していた(黒人が使っていたため「ウォーク」と同様、無意識の軽蔑が向けられる)

行き過ぎとの批判も多いが、有害な言動への率直な反応として受け入れられている

「パイル・オン(炎上)」や「スケールアップ」など、たいていはソーシャルメディアが助長するものは、事態を深刻化し、第2の道徳的問題を生み出す傾向がある

l  「キャンセル・カルチャー」か「コンセクエンスconsequence・カルチャー」か?

キャンセルされやすいのは、公的人物であり、「キャンセルされた」ときに奪われる機会は、一般的には有力な富裕層だけが持つことの出来る機会で、それも一時的な場合が多く、「コールアウト」も重大な結果になることは滅多にない

l  スケープゴートを追放する

EURO2020の決勝は、注目の黒人選手が揃っていることで有名なイングランドが1966年以来の決勝進出を果たしたものの、3人の黒人選手がPKを外して敗退。これが問題になるのは、3人とも代表チームの経験が浅く、平均年齢が216カ月だったからで、「モデル・マイノリティ」(マイノリティのお手本)にならねばというプレッシャーを感じ、黒人がイギリス人であることを受け入れることにまだ葛藤を覚えている国民に自分の真価を示そうと過度に緊張したのだろう。たちまち予想通りの罵詈雑言が殺到、ツイッターも多くの投稿を削除し、関連のアカウントを永久凍結にした。投稿のせいで職を失った人もいるが、個々人を罰しても、その背景にある問題は依然として放置されている。構造的な抑圧の個々の事例に対する我々の反応は「スケープゴート」の代用のように見える

UEFA EURO 2020決勝は、20217月にイギリスウェンブリーウェンブリー・スタジアムで開催。ここまで33試合連続無敗・8連勝中であり、1968年以来2度目の優勝を狙うイタリアと、EUROで初めて決勝進出を果たし、決勝は自国開催となったイングランドのマッチアップになった。両者は過去27回対戦したことがあり、通算成績はイタリアの109分け8敗。イタリアがPK戦を3-2で制し、53年ぶり2度目の欧州制覇

l  謝罪のジレンマ

個人が過去に犯した悪事に執着することは、私たちは皆、常に変わり続け学び続けている、という事実を無視している。近年では、公的人物が過去に行ったSNSなどの投稿を掘り出してスキャンダルを作る傾向があり、特定の業界に於ける大きな文化的問題を示していることもあるが、何よりも反映しているのは、私たちの多くが愚鈍で心の狭い未熟者で、そのさまざまな偏狭な言動がほとんど野放しになっているという事実

謝罪は重要だが、ジレンマを与える。謝罪と成長の可能性を受け入れるのを拒むのは、言語道断な最悪のケースを除けば、酷なことだろう

行動科学の研究によれば、効果的な謝罪に最も重要な要素は、責任を認めて償いを申し出ること

l  正義がどんな姿をしているのか私たちは知っているのか?

被害者の話に耳を傾けることは重要だが、「抑圧されている人々の方が不正義を見分け、不正義の解決策を見つける可能性が自動的に高い」という見解は批判的に見るべき

私たちの得られる知識の種類は、社会のヒエラルキー内で私たちがどの立場にいるかということに影響される

l  アートとアーティスト

他人を傷つけたり搾取したりしておきながら、それを認めもせず謝罪もしていない人が手掛けたアートはどうすべきか? アートとアーティストは区別すべきだが、性的搾取や人種差別的な観点がアート作品全体に及んでいることが非常に多い

こういう作品に対し、「キャンセリング」を考えるのではなく、私たちの消費するアートやメディアや情報にも「品質管理」をある程度取入れることを考えてはどうだろう

 

第9章     「構造的不正義」は私たちの責任なのか

貧困や人種差別と同様、環境破壊も「構造的」な問題

個人として構造的問題にどう対応すればよいのか? 哲学がどう役立つか考えて見る

l  私のせいじゃない、構造のせいだ!

大規模な不正義の責任者を特定することは複雑な問題

構造的不正義が起きるのは、構造が動機となって、人々が意図せずに他人を傷つけるような行動をとってしまう場合で、多くの人々の集団的行動によって、結果的にある集団が虐待される。その中である人が虐待に気づいて行動をやめたとしても、何が変わるのか?

l  個人の責任の創出と限界

同じ構造的な問題でも、環境破壊と人種差別や性差別では全く状況が異なる。環境破壊では普通の人ができることは限られるが、差別では私たち11人が人間関係の中で減らすことは比較的容易で、それによって私たちのコミュニティの人々の生活がすぐさま大きく変わる

l  自分の取り分を取るだけ

食料にしても地下資源にしても、二酸化炭素排出量にしても、自分の取り分以上に取り込んでいるために、構造的不正義は拡大するばかり

皆が同じことをしたらどうなるか、普遍化の可能性を考えることは、何かを変えるべき理由を語るのに役立つ

l  個人が集団をつくる

私たちの多くは、問題解決には何が必要かを考えることによって、構造的不正義に関する自分の責任を考え、自分のすべきことをしようとするが、集団的で組織的行動をとらなければ、変化を起こそうとしてもほぼ無駄に終わる。みんなが同じように行動すれば大きな力となるが、問題は、たいていの場合、公平公正な集団的スキームなどありえないということ

構造的な問題をターゲットにする集団的行動を起こす。個々人がどのような負担を負うかは、それぞれの社会的・経済的な力のレベルによる

l  道徳意識

構造的不正義に取り組むには、道徳意識を高める必要がある

l  システムが私たち全員を傷つける

スチュアート・ミルが擁護した「功利主義」では、道徳的に正しい判断とは、最大の功利性・効用=幸福をもたらす判断とされる

本書では、典型的な構造的不正義として環境問題や世界の貧困問題に焦点を当ててきた。人種差別や性差別などの抑圧も、社会構造が原因で、これらの問題は互いに関係がある

資本主義は、人々と環境から価値を搾取することによって存続しており、一部の人々の利益を増やすために別の人々が苦しもうと死のうと、それは許容できる不可避のことだという考え方を前提にしている

 

結び 一番近くにあるバリケード

不正義について語る本は、ポジティブな感じで終わるのが定番で、本書も読者に応援の言葉を送る。どれほど悪いことがあろうと、とてつもなく残酷なものを阻止している抵抗のバリケードがこの瞬間にも存在することを忘れてはならない。一半近くにあるバリケードを見つけてほしい

 

 

 

 

紀伊國屋書店 ホームページ

出版社内容情報

 大学入試での特別枠は差別なのだろうか。性的弱者への偏見や差別はどうだろう。最近はやりのセクハラ、カスハラなどの~ハラは何がいけないのだろうか。女性にはどう声をかければいいのか。女性に「ほら笑って」はいけないのか。外国人に対する「故郷へ帰れ」はどうだろうか。政治家の発言に聞く「あなたは美人」うんぬんはかまわないのか。

 社会やその地域の文化にはびこる差別や偏見。人種差別だけではなく、男女差別、年代での差別、弱者への差別などなど、一部の人たちへの酷い扱いがはびこっている。

 こうした問題は社会正義という観点から考えると、どのように対処すればいいのだろうか。声高に説教をする老人が話題になったり、ヘイトスピーチ、貧困家庭、児童ポルノの問題、男性の給与や昇進が有利な問題、出演俳優の違法行為による上映中止など、毎日のように耳にするこうした話題。これらはなぜなくならないのだろうか。それは正しい判断なのだろうか。

 哲学が単なる崇高な学問ではなく、身近なツールとして利用できるようになってきた。それを用いてこうした問題はどのように考えればよいのかを、いくつかのキーワードを元に解説していく。

 社会的に地位があり、安定した身分のある人々がなぜこうした問題を考えるのを嫌うのか。差別を受ける側の視点からはどのように考えればいいのかを伝授する。

 

内容説明

抑圧/特権/ポリティカル・コレクトネス/ブラック・ライブズ・マター/人種差別/性差別/マンスプレイナー/キャンセル・カルチャー/構造的不正義/犬笛/カーセラリティ/スラー/滑り坂論法/証言的不正義/プラスチックのストロー使用問題/芸術家の性犯罪と作品/エシカルな消費/などについてどう考えたらいいのか。身近なところで社会的正義を考える。

 

 

男はクズと言ったら性差別になるのか アリアン・シャフヴィシ著

不平等を考える良い手引き

2024928 200 「会員限定記事」 日本経済新聞

差別の問題を考える時にまず頭に置かなければならないのは、社会における権力関係で一般的に優位な立場にあるのはどちらか、ということだ。たとえば女性より男性のほうが、少数民族よりも多数派の民族のほうが、同性愛者よりも異性愛者のほうが優位な立場にあることが多い。これを頭に入れずに差別を考えると、混乱したり、おかしな結論が出たり、場合によっては差別の存在そのものを否定してしまったりするようなことにつながりかねない。

この本はそうしたことを考える上で良い手引きになる。序盤ではアファーマティブ・アクション訴訟や非白人のサッカー選手の飲酒運転事件など、時事的な例を出しながら「特権」と「抑圧」がどう働くかについて整理を行い、不正義や不平等について考えるための思考の足場を作ってくれる。以降の章ではポリティカル・コレクトネスやいわゆる「犬笛」、マンスプレイニング、ブラック・ライブズ・マターなど、賛否入り乱れた議論を耳にする機会は多くても真面目に考え始めると混乱してしまうようなことがらをとりあげ、考えるヒントを与えてくれる。

人間に誤りはつきもので、誤りから学ぶのが重要だというポジティブな態度に貫かれているところも良い。著者は哲学者なので哲学がベースのアプローチだが、難しいところはほとんどない。むしろ、ふだんは混乱するだけで終わってしまうような問題が、哲学的に考えることで見通しが良くなるというようなところがたくさんある。正義や倫理について思考を深める学問である哲学の実用性がよくわかる。

日本語版は原著と全く違う不必要に扇情的なタイトルがついている。『男はクズと言ったら性差別になるのか』はもともと第4章のタイトルだ。この章は言語哲学を手がかりに、総称文という概念を使って差別とその批判について丁寧に分析しており、実際は扇情的とはほど遠い内容だ。単純な一般化をせず、言葉が発される状況などを含めてきちんと考えることが必要だということを教えてくれる。

一方で日本語訳に関しては問題がある。校閲不足と思われる箇所も多い。翻訳が原著の良さをあまり生かせていないのは残念だ。

《評》英文学者 北村 紗衣

原題=ARGUING FOR A BETTER WORLD(井上廣美訳、柏書房・2970円)

著者はクルド系英国人の作家、哲学者。専門はジェンダー、人種、移民など。

 

 

 

(書評)『男はクズと言ったら性差別になるのか』 アリアン・シャフヴィシ〈著〉

20241221日 朝日新聞

 ヘイトと闘うための切実な言葉

 人種差別を非難すると、「差別もまた表現の一つ」といった反論が返ってくることもある。外国人排斥を主張するヘイトデモの隊列に「表現の自由」と記されたプラカードが掲げられることも少なくない。多様性を「なんでもあり」のことだと曲解し、差別もその範疇に入るのだと説く者や、差別者への抗議を「言論封じ」だとして非難する者もいる。外国人差別の不当性を訴える記事や論考に対する「日本人差別をするな」のリアクションもいまやお約束だ。

 これらの主張で決定的に欠けているのは非対称的な力関係こそが、差別を生み出していることへの認識だ。

 本書名に用いられた「男はクズ」は、数年前にSNSで大きな反響を呼んだフレーズだ。インフルエンサーの女性がセクハラ批判の文脈でツイッター(現X)に書き込んだ。ミソジニスト(女性嫌悪主義者)はこれを男性に対するヘイトスピーチだと批判し、彼女は殺害の脅迫まで受けることになる。だが、著者は社会の権力勾配と、男性性の特徴(ドメスティック・バイオレンスの加害者は圧倒的に男性が多いことなど)に言及しながら、「男はクズ」はヘイトと闘うための言葉であり、「男らしさによって危害を加えられた人々の忍耐の限界を表している」と訴える。不利益を強いられた側からの切実な悲鳴でもあったのだ。

 これ以外にも、著者はブラック・ライヴズ・マター(黒人の命は大切)に対抗するオール・ライヴズ・マター(すべての命が大切)なるフレーズの欺瞞性、ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)を不寛容な圧力であるかのように忌避する右派言説などを取り上げ、不必要に社会を混乱させる理不尽な対抗言論に警鐘を鳴らす。

 社会における力関係を考慮せず言論の自由を訴える者たちが望むのは、「判断や処罰なしに好き勝手言える抑圧的な言論」だと喝破する著者の言葉に私は頷いた。

 評・安田浩一(ノンフィクションライター)

     *

 『男はクズと言ったら性差別になるのか』 アリアン・シャフヴィシ〈著〉 井上廣美訳 柏書房 2970

     *

 Arianne Shahvisi クルド系イギリス人の作家で哲学者。主としてジェンダー、人種、移民、健康について研究している。

 

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