数奇伝  田岡嶺雲  2025.1.21.

 2025.1.21.  数奇伝

 

著者 田岡嶺雲 (Wikipedia参照)

 

発行日           1982.5.10. 初版第1発行

発行所           平凡社「日本人の自伝4

 

初出 雑誌『中央公論』(19116月号~19123月号)1912年単行本化

数奇伝補遺』(19126月号~10)を『中央公論』に連載。同年死去


序言

本篇記す所あるいは事実にあるいは事件に、多少の誤謬あるかも知れないが、それは記憶の誤りにして、吾が記憶上は真なるもの。想像の架空を加えたる所なし

この書懺悔として観んには真摯を欠き、伝記として観んには光彩を欠き、小説として観んには精透を欠く。畢竟するにこれ予がその生きながらの屍の上に自ら撰せる一種の墓誌に過ぎざるのみ。数奇と題したが、顧みて思うに、余が命数奇なりとは自業自得に出づ

 

1     即ち凡人伝なり

(1)     凡人の天下

吾等の如き凡人が自伝を公にしようなどとは、烏滸がましい。自伝の作者は皆大人物

今日は英雄の時代ではなく、凡庸の時代。選ばれたものの時代ではなく、均一均等の時代。聖人賢者の時代ではなく、町人百姓の時代。一国の政治は愚衆のばねじかけの如き起立によって決せらるる時代。いわゆる偉勲をもって昨日の徒士足軽の輩が公爵となり得る時代。平等の仮面(めん)を被って平凡が踊る時代。今日は凡人の極楽であり天下である。凡人たる吾等も自伝の筆を執るに疚(やま)しきを感じない。「無作法」の「自由」が、因襲の名を負わせて謙遜を駆逐した今の時代に、顔を赤らめるなどは臆病であり野暮。勇を鼓して自叙伝を草する

(2)     凡人の価値

天下は大人物の独り舞台ではない。枯れ木も山の賑わい、吾等如き小人物もまた社会組織の1要素であり、その自伝は一種の消極的受動的なる観察の記録として価値はあろう

(3)     偽るを要せざるを偽らざらん

自己を告白して偽らざらんとするは、大人物のそれに比して困難であり、予は自伝を叙するに当たり、偽るを要せざる範囲においてその偽らざる自己を語らんと欲する

 

2     記憶に遺れる幼時

(1)     生後第1の印象

生後初の印象は、伯母が永の旅から帰ってきた団欒の時。その伯母を養母として、実の母にも劣らぬ鞠育(きくいく)の恩を負うことになるのは、何かの因縁というべき

(2)     吾は何処(いずこ)より生まれしや

5,6歳の頃、母に何処から生まれたのか尋ねたとき、臍から出たという母の答えを余程大きくなるまで毫も疑わなかった

(3)     空とぶ鶴

300年間の権威の源たりし徳川幕府を一朝にして転覆した明治維新の革命は、その余勢をもって一切の古格旧例を破壊、その破壊するに必ずしも是非善悪を問わず。然れども解放と自由とに向ってまっしぐらに突進する革命が、熟慮と慣行とを欠くは免れない

鶴の禁猟の制も、凡ての古格旧例とともに捨てられた。5歳のころ一度だけ大きな鶴が頭上を過ぎるのを見た。時勢の犠牲となったこの鳥の、吾が郷土での最後の飛行かも知れぬ

(4)     刀を差す

生れたのは廃刀令が出ない前(ママ)で、物心つくころまで2人の兄は刀を佩()いていた

吾等の家は、祖父の代に百姓から家老の家に仕えたいわゆる陪臣(またもの)の、軽格ではあったが、士族という肩書だけは得られた身分。自分も士族ということに誇りを感じていた

(5)     鰹の刺身

料理屋に行って飯の菜の誂(あつら)えを聞かれたとき、鰹の刺身が大好物だった私は、言下に生のびんび()と答え、母どもに、芋や大根と言わなくって良かったと笑われた

(6)     火事

市街の東の新地の劇場が舞台開きの初興行中に焼けたのも幼時の記憶の1

(7)     麻疹(はしか)に罹る

多病羸弱(るいじゃく)の予、長くて40までと想った命をすでに2歳超えている。物心ついて初めての病気が麻疹。その後も病めるごとに伯母上の心尽くしの看護を受けた、今更ながら亡き伯母上の厚き恩誼がしみじみ懐い出される。病めることのみ多かりしを想えば、不孝の罪の空恐ろしさに禁()えぬ心地がする

 

3     臆病なりし少時

(1)     三ッ児の魂

予は3番目で女の子を期待されていたためか、心理的には女らしい性情を持っていた。極めて内気で臆病な意志の薄弱な、感傷的な者で、未だに一切の行為の背景をなす。常に悔やみを抱き、前半生の思想が一種の厭世に陥ったのも物を悲観するに傾き易きがため。厭世より一転した後半生の思想が一種の社会主義的色調を帯びたるが如く認めらるるも、また予の同情が自己の弱気よりして弱者貧者に向い易きがため。予が文学を男児畢生の事業としては余りにも軽く、価値なきものと思いながら、ついに売文の境涯を脱し得ずして今に至れるも、予の気質が世と闘い人と鬩(せめ)ぎて功を成し利を贏()つには余りに懦弱(だじゃく)なるがためである。予は凡てのことに進んで取る運命の開拓者たり得べき者ではない、予は当然世途(せいと)の落伍者たり、命数の不遇者たるべき素質をもって生まれた者であって、即ち予に『数奇伝』ある事は蓋し予の宿命である

(2)     学校で泣く

極めて発育が悪かった。兄に連れられて学校に行ったが、兄がいなくなると大声で泣いたという。1,2年たってようやく課業にも趣味を感ずるようになり、成績も上がる

(3)     西郷の詩

まだ泣き虫だったころ、遠縁の家で西郷の自筆の詩の軸を見て、賊軍という名を忌まわしいと思っていたが、吾等の口にし、耳に熟した英雄の筆のあとを眼前(まのあたり)に見た事は、予をして一種その人に対する景仰(けいこう)と、またその人に対する懐かしさを加えしめた

(4)     吾をして僧たらしめば

幼時は、凡て生ある物を虐(さいな)み殺すに忍びぬ程予は女々しかった

もし鎌倉以前の時代に生れて、円顱緇衣(えんろしい)の身とならしめたらば、明治に生れ何等世を益し人に竭()くす所なき一売文郎をもって終わるよりは夐(はる)かに優(まし)であったものを。世界の大平和と人類の大平等を願うのも、女々しい性情の発現に外ならない

 

4     無言無形の伴侶

(1)     錦絵と絵本

人はついに社交の動物。外に向かって歓笑の友を求むるに怯懦なる予の嗜好は書籍に向かう

幼時より錦絵と絵本が唯一の伴侶で、絵本には武者を画いたのが多く、絵の上に仮名で書かれた絵解(えとき)を拾い読みするのが楽しみ。錦絵は千両役者の物もあり、都会の光景(ありさま)を小児(こども)心に想いやった

(2)     隔日発兌の新聞

小学校低学年の頃、県下で始めて(ママ)新聞が発刊せられ、父に請うて取り、訳らぬながらに読む事が楽しみ。訳らぬながらに、「人間の目的は利己か利他か」という問題の掲載が記憶に残る

当時政府の言論圧迫は酷烈、特に自由民権発祥の地土佐は新聞の論調も過激で、頻々と発行停止に遭い、ついには発行禁止に。一種の革命的な殺気が漂っていた

(3)     『小学』とリードル

科外の漢籍の稽古で、父から『小学』の素読を習う

英語は叔父から、読本(リードルと呼ばれた)の手ほどきを受けるが、全く頭に入らず苦労

(4)     草双紙に耽る

字が解り初める(ママ)と兄たちに倣って本を読み始める。写本の軍書から馬琴等の小説、さらには為永春水の人情本まで及び、読書力を加える一方で、一面さなきだに悲傷的感情を更に過敏にした。最も面白いと思ったのは孫子を軍書風に解説した『孫子童観抄』

 

5     自由民権論の感化

(1)     維新の両意義

維新の革命には2様の意義あり。王政復古に象徴される国民的統一と、尊王討幕の呼号で標示された民権拡張。討幕は、権勢の尊貴者に対する微賤者の反抗たり、寡人政治に対する民権主義の勝利。日本の革命もまたこれをフランス革命以後のヨーロッパを震撼せる大風潮の余波として観ることを得る。維新後直ちに挙行せる政治によっても志士が少なくも世界の知識に零無ならざりし事は察するに足る。維新の革命は決して世界の風潮より離隔して起こったものではないが、これを受納するに堪ゆる内面的充実の既存を要とするので、日本の民権主義といえども決して一朝一夕にして卒然として生じたものではない

貴族政治が武家政治にとってかわったのも、『源氏物語』に代わったのは雪舟の山水が示す禅僧的の疎宕(そとう)であり、狂言の如き一般平民の日常茶飯事の反映を見た。徳川は最も階級的なる朱子学を一種の国教としたが、滔々として横流せる平民主義の暗潮は雍遏(ようあつ)し得なかった。徳川は浮世絵の時代であり、幡随院長兵衛が男をもって鳴る時代

板垣が唱道した自由民権論は、その名は新しき訳語なるも、その実は必ずしも西洋輸入の思想ではないし、征韓論の腹慰()せと見るのは誤りであり、維新革命の必然の連続である。立憲政体も封建性破壊後の国民が到達すべき自然の要求であり、維新革命は自由民権論によって結尾し、立憲政体の設立によって大団円たるべきもの。だからこそ国民の琴線に触れた

特に土佐は板垣の生地。土佐の青年はほとんど宗教的熱狂をもって自由民権論に対した

(2)     長髯胸に垂るるの人

予が12歳の時、板垣が岐阜で暴漢に襲われ、さらに大なるヒーローとして映る。その2,3年前土佐に来た時は、学校生徒の政談演説傍聴禁止の集会条例を犯して会場に潜入

(3)     独身の畸人(かわりもの)

我が村にも畸人の空き家に「社」(青年団のようなもの)ができ、夜な夜な若者が集まって切磋琢磨するなかで、自由主義が拡散。自分もスペンサーの『社会平権論』などを読んでいた

(4)     3尺の童子

言論の盛んな時代で、雄弁法の練習は当時の青年に一種の必習課程。元来土佐人は南国の民の癖として、実行よりも理論に趨(は)する傾きがある。理論に趨する者は弁論を好む

学術演説の名で演説会を開催し、警官臨監の中大勢の聴衆を集める。予も登壇し、聞き覚えの「3尺の童子もまたこれを知る」と言って、自分がそうだと冷やかされた。以後演説は拒絶

岡山にいた時総選挙で、犬養木堂氏の前座を勤めたが、途中で聴衆と喧嘩になり下りた

(5)     水は方円の器による

13歳の時、高知に自由主義の共立学校設立、すべて英語での授業。英語の素養が役立って小学校から転校したが、周囲は年配者ばかり。「友を撰ぶ説」との作文の題に、「水は方円の器に従い(ママ)人は善悪の友による」と書き起こし穉気(ちき)満々たるものを作ったが、満場の失笑を買い、この時程侮辱を感じたことはなく、以後自己の学力不足に発憤した

家に不相応な多量の蔵書は、叔父木村漸(陸軍歩兵少佐)が蒐めたもの。14の夏大阪に遊学

 

6     郷関を出づ

(1)     悲しき汽笛の声

自由民権論に浮かされていた青年の政治熱は、国会開設の大詔の一下と共にやや醒めて、志を講学に向けるに至る。長兄は大阪の商船学校に、次兄は東京の予備門に、予も両兄の通った大阪の官立中学校に入るが、船で出立の時はさすがに悲しく目が霞んだ

(2)     南国の河童

裸身を河童と笑われ、夜な夜な帰りの遅い兄も頼れず、よく泣いた

(3)     山羊のような好老爺

官立中学は後の三高となるが、初歩から教えるので、学課の上の余力は悪戯として発現し、相当な蛮貊(わんぱく)者となる。寄宿舎の舎監が好老爺。学生は近畿の出が多く軟弱ゆえ、吾等の非力をもってしても意気をもって彼等を圧するに足り、餓鬼大将となる

(4)     火と水

大阪にいた足掛け3年間に内本町筋の大火と河内の洪水に遭う

(5)     赤襟買い

同級の年長者に騙されて連れられ女郎買いに行ったが、「赤襟買ってあげましょか」となぶるような口調でいわれ逃げ帰った

(6)     闇に迷う金剛山上

寮の仲間と春先の金剛山に登るが、暗闇の中で嵐に遭遇、命拾いをした

(7)     官制改革と胃病

16歳の時、ヨーロッパを模倣した官制改革により総理大臣が誕生、5爵の制が出来夥しい新華族が出来た。文部大臣に森有礼が就任、高手(こうしゅ)的な学政を敷き、学校を軍隊視し、学生の取り締まりに圧制主義をとる。寄宿舎も軍営組織となり、舎生は不平不満を爆発させた。寄宿舎の刑罰は禁外出で、差し入れの菓子で胃を害し、予の運命はこれより暗澹に入る

 

7     病蓐の5

(1)     多病善愁是我生

多病と善愁は、予が一生の波紋を織り出す経緯(たていとよこいと)となり、健康と快活を享受したのは大阪の足掛け3年に過ぎない

激しい腹痛と吐瀉に罹り5年県の病院に入る。廃学が何より苦痛

(2)     梟の鳴声

病院の詫しい生活はかなり長く、兄の結婚を機に漸く退院したが、その翌日父が急死

(3)     父の死

婚礼の日の夜、厠へ立って卒倒したまま帰らぬ人となる。50?

(4)     4匹の小鳥

父は息子4人の教育のために一切を犠牲にしていた。慰みにと勧められ4匹の小鳥を飼っていた。16で家督を継ぎ、祖父の代に衰えた家道を支え、ついに既倒に挽回したのは父の力

 

8     水産伝習生

(1)     蓐上の首途(かどで)

なかなか癒えぬ病に、医術に愛憎をつかし自ら治そうと、病気が半ば以上自分の神経の故(せい)だと承知していたので、冷水浴を始め、精神的に回復した予は東京留学を決心。1年半で卒業できる水産伝習所の生徒募集を新聞で見て両兄に懇請し許可を得て明治23年上京

(2)     初めての東京の印象

東海道は全通しておらず、神戸から横浜までは船。番町の木村の叔父の家から箱崎の伝習所へ行き受験。日本橋で丁髷(ちょんまげ)の老人を見たのが東京での第一の印象だった

(3)     零点と百点

健康のため番町の家から歩いて通う。学校の学科には趣味を感じ得ず、不器用な左利きで実技は皆嫌い。卒業試験も経済と漁業法は満点だが、釣りに関する科目は零点

(4)     パンの付け焼き

露伴に傾倒。露伴の文学が禅に得た所が多いことを伝聞して禅僧の書を闇雲に暗誦

米価が暴騰、大道の露店にパンの蜜と醤油の付け焼きが売り出されたのもその影響

(5)     特色ある教師と生徒

創立時代の学校は規律の整わぬ代わりに人間を鋳型に容れないから、個性の特色を損なわない。予は伝習所の2期生で、生徒が常鱗(じょうりん)凡介を抜き、教師にも面白い人物がいた

同期生中で物質的に最も成功したのは鰤網で一挙に素封となって今多額の納税議員になった男。内村鑑三が夏期の実習の指導教師。「偽君子となるな」の一語は箴言として服膺

卒業前に、考えもしなかった文科大学選科の入学試験を受けたのは、初恋に発憤したから

 

9     初恋

(1)     女は汚らわしき者

小児から恋を解していたが、20歳以前に異性に心を動かしたことはない

殺伐な士風の土佐では異性間の恋は殊に賤(いやし)められていた

(2)     同性の恋

異性間の愛に餓えた我が郷党の青年は、同性間の愛にその代償を求めた。衆道を描いた『賤(しず)の小田巻』が男色道の1経典だった

(3)     健康なる精神と不健康なる肉身

青春の血異性の肉の香に狂い易き危機を、病の苦悩に抑えられ、肉身の傷みは精神を純潔にした。病が予を内省的・厭世的にした。5年間世界と離隔したため、異性の恋の経験が遅い

(4)     ()の女

恋愛は一種のインスピレーションであり、咄嗟の瞥見(べっけん)に起こり得る。識別ではなく感応であり、情の閃きで、時、処を超越する。紅葉館の慈善演芸会場で一目惚れしたが、どこの誰とも分からぬ。彼の女が田岡某なる者の存在を認めるようになれば足れりであると考えるに至り、そのためには名を成さねばならぬ。学問で名を成すには大学に入るの外はないと考え、選科に入ると決心。その後何度か図書館で見かけ、後を追ったこともあるがそれまで

 

10      平凡な学校生活

(1)     古くから伝わった血

予が家には古くから文学を嗜好する性質が伝わっているらしい

予も少年の野心には大臣か大将かを狙ったが、5年間の病気で諦め、病中の慰みに多く文学の書籍に親しんだため、いつしかこの方面の趣味を解するようになった。水は紆(くね)り曲がってもついには卑(ひく)きに就()く、予の文科の選科に入るに至ったのも自然の性がこれに嚮(むか)わせたのであろう。予の家の血は予の如き不憫なものに引き継がれたため、すこぶる光彩のないものとなったことを、吾が祖宗に謝せねばならぬ

(2)     初めて自分の汗の報酬を得た

家には内緒で、母方の伯母に頼み込んで受験料を出してもらい合格

蘇東坡の伝を5,60枚書いて田口卯吉の『史海』に持ち込み、初めて原稿料10円を手にする

(3)     毒蛇に吸わるる花の蘂(ずい)

3年の大学生活中、度々下宿を変える。岐阜大地震(濃尾地震、明治24)の時は牛込。谷中の法華寺では、掃除をしてくれた初々しい守姆(もり)がいつの間にか酌婦に売られたと聞き、毒蛇のように付き纏われる日蔭に咲いた花のような彼女の姿を想い遣った

(4)     夜鬼窟(やきくつ)の同人

明治27年学校を終え、高校から正科に入ろうと勉強したが、そのうち子供らしい虚栄心のように考えられ、男は裸百貫、肩書での白痴嚇(こけおどし)は卑怯だと思って断念

この頃帝国議会から始まって躍起という語が一般に流行る。一種不平と反抗と突進の意味を含み、吾等同人も文科大学中の躍起組で、それをもじって弥生の下宿を「夜鬼窟」と命名。東洋流の豪傑を理想とし、何事にも無頓着な意気の粗放を衒(てら)った。思えば春秋18年、当時の同人も皆老いた、壮図も豪興も今はただ思い出の夢と残るばかり

(5)     『青年文』の発刊

明治28年、中学の首席山県五十雄から、少年園が新雑誌を出すという誘いに乗って編輯を手伝ったのが『青年文』。文芸批評を担当、独断でいい悪いを決めつけながらも、新進作家に同情して推挽(すいばん)に努めたが、世間からは漫罵と認めて攻撃された。日清戦後の国運の勃興を受け、文学興隆期となり、『早稲田文学』も『帝国文学』も創刊、許多の才人詞人鬱勃として一時に輩出。『青年文』もこの気運に促され出たともいえる

この頃の予には文章は神聖なる事業であり、批評の起草にも敬虔の態度で身を清めて臨んだ

 

11      銷魂(しょうこん、忘我)

(1)     打棄てられたような町である

経済的な自立を目指して不適任ではあったが学校教師として作州(美作国)に赴任。津山は薄暗い侘しい町の上、教育家とは偽善のまたの名と思い、型にはまった教育のどこが面白いのかと疑念を抱く予にとっては不本意。かつて1日だけ教師をやった時も生徒と喧嘩して辞職

(2)     予は恋を解してはいなかった

乾枯びたような無趣味な周囲に厭倦を感じ、その不満の代償を茶屋通いに求めた

今まで黄金(かね)に切り売りせらるる汚れたる恋に、汚れたるものとして対する以外に、真に恋なるものを解してはいなかった

(3)     月見草のような女であった

薄倖を恨みつつも泣いてその運命に服従せざるを得ない女だった

(4)     恋を語るに相応しい家であった

予はこの女に出会って宿命のようなものを感じ、女には素封家(ものもち)の男がいたのと、予の身分柄もあって、町はずれの旗亭で密かに逢瀬を重ねた

(5)     夢見るような恋は出来ぬ

狭い町ですぐに吾等の噂が立つ。25を越えた男、20を越えた女には夢見るような恋は出来ない。まだ我を没せず、反省の余裕と顧慮の余地とのある恋だったはずだが、女が男と別れたのを機にエスカレート。会うべき金に窮するの時は、覿面(てきめん)に来た

(6)     予は黄金を呪うた

予は気位の高い伯母の感化もあって、金というものを軽んじていた。宵越しの金は持たない生活を続けて来たが、この時ほど金の賤しさを感じたと同時に、金の貴さを感じたことはない。金がなくなった途端に激変する世態人情の実際を初めてり、黄金の万能力を呪う

(7)     心のさもしさを恥じた

此の間病にも罹り、血痰が出、自暴自棄になり、人の謗(そし)りの的になる

(8)     ただ2人で歩きたかった

湯治を兼ねて国境の温泉に逗留、夜逃げしたとの噂が立つ

(9)     父に似な、母に似な

女が妊娠し、予は省みてその父たる資格を自ら疑う。父は薄倖、母は薄命、父に似な、母に似な、大賢たらずんば大愚たれ。かく予は密かにその子の前途のために祝せざるを得ず。兄に縋って処理の方法を講ずることを決心。学校は辞職。女の身は突然人に贖(あなが)われる

(10)    何時の間にか人の有であった

女から手紙が来て、周りを丸く収めるためにこうなったが、会って全てを話したいという

(11)    離愁を牽く埠頭の柳

絶望の空虚へ突き離された所に通知が来て、女が引き祝いの夜自殺を図ったと聞かされる

幾日かの後津山を去ろうとする日女に会うが、面を背けて離れる。重い負担を卸して活動の自由を得た今の我が身が、心密かに喜ばしく想われながら、さすがに名残は惜しかった

 

12      自業自得の落魄

(1)     あたかも天長節の朝であった

精神(こころ)の痛手の血潮に塗れて東京に戻ったのは天長節で、間もなく新聞記者となるが、文学欄の論評と時事の短評が務めで、髀肉の嘆があり、社員の勤惰を督(ただ)す出勤簿に反発して捺印しなかったら、辞職届を出す前に出社に及ばずとの通知が来る。僅か半歳で終る

(2)     懸取りがズラリと並んだ

その間予の品行は、半ば捨て鉢な気分に嗾(そそ)られての放縦を極め、昼は振袖の少(わか)い女を傍らに集めて筆を執るのが常で、身分不相応な豪興をも試みる。最初は俸給以外に、教科書の編纂やある叢書の執筆などで収入が裕だったが、収入の道が途絶えると途端に借金取りが門前列をなした

(3)     緑雨は口を歪めて字を書いた

下宿の近い斎藤緑雨が『万朝』に『眼前口頭』を書いていたが、予は浪々の所在なさを毎日のように緑雨を訪れ、その部屋で過ごす。大野酒竹、戸川秋骨、馬場孤蝶なども一緒にいた

(4)     開いてゆく花の莟を眺めていた

水戸の『いばらき』新聞社に身を売り、再び帝都を去る。上野から乗る汽車は、陰鬱な薄闇(くらがり)とさびれの裡に引き込まれて行くように想われてならぬ。放縦な生活は続き、少女(こども)ばかりを集めて遊び、ただ丹精して造った花の莟が開いてゆくのを楽しんだ。直ちにその肉を金で買い得る女の外は、異性に対してはただ観るのみをもって満足した

(5)     ポンチ絵にでもありそうな

半年後水戸を去る時、債(かり)をはたるべく楼下に女が来て、記者の時間が迫るのに去ろうとせず。新聞を読み耽る隙を抜けて出たが、女の様子はポンチ絵を見る様で可笑しかった

(6)     赤提灯を軒に下げた安宿であった

東京に帰ってしばらくは、水戸で相識った佐藤秋蘋(『いばらき』主筆)と落魄の苦しみを偕(とも)にした。すってんてんで逃げ回ったが、旧稿を春陽堂に持ち込んで何とか持ちこたえる

 

13      滬上(こじょう、上海の別称)1

(1)     大陸の飛躍が理想であった

自由民権論は内治に対する国民の不平の声。23年の国会開設とともに収まり、代わったのが対外硬の絶叫であり、外交に対する国民の不平の声だった

大陸への志が強くなり、水戸から帰った年の5月に渡清

(2)     世界の広きを教えられた

上海での1年は無意味ではなかった。支那人に日本語を教える一方、国粋主義に凝り固まった我が身にとって、上海で、朧気ながらも世界を観得た。始めて(ママ)豁然たる大景に接した気がした。自己の従来の思想が井蛙(せいあ)の陋見(ろうけん)たるに過ぎないことを知り、人は、世界の人類のために、天下の人道のために竭(つ)くすべきものたることを教えられた

(3)     読書人としての訂交であった

上海では教育に関係したので、夢想した大陸飛躍とは無縁。相交わった人々は多く康有為の一味だが、読書人としての交に留まる

(4)     城壁に月が寂しく挂(かか)

上海には英米仏の3国のみが専管居留地を有し、日本人は米租界の蛇口(ホンクー)に集住。日本語学校(東文学社)は英租界にあったが後に移転、蛇口から上海城壁に沿って2里もあり、寒中に歩いてインフルエンザに罹りわずか1年後に帰朝

山東に起こった拳匪の乱が重大化し、ドイツ公使が殺害され北京の外人が包囲されるに及び、連合艦隊が出動、日本も派兵。日清戦争を観得なかった予は、この度の事件を戦争なるものを実験するにまたと得べからざる機会と想い、『九州日報』の名を藉()りて出征軍に従う

 

14      従軍

(1)     もっそう飯(握ったご飯)に福神漬

広島師団の砲兵を満載した土佐丸に便乗。大沽(タークー、天津)に上陸

(2)     日本兵は緞帳役者(格式の低い芝居の下級役者)

日本兵は列国の兵士に比べ緞帳役者が初めての舞台を踏んだように、場うての気味(その場の空気に圧倒されて気後れすること)がないでもない。8貫目の背嚢を背負った兵の辛さが分かる。4里を歩いてまだ戦火の燃え盛る天津入城

(3)     陣中生活は暢気であった

領事館は海軍の陸戦隊が守護、砲撃の中でも思ったより暢気な陣中生活を送る

(4)     文字にまで容喙した

新聞原稿に対する当局の検閲は厳というよりも酷。通信を許しても用語の文字にまで干渉、武弁の徒に吾が文章に容喙せらるるを屑(いさぎよ)しとせず

天津は予想に反してなかなか落ちず、一行の半数以上は帰程に上り、予も加わる

 

15      始めて(ママ)家あり

(1)     不孝なる子、冷酷なる夫

福岡は浪人の天国。玄洋社なる浪人団の本場であるのと、ここに跋扈する成り上がり者によって浪人に未来があることを実物教示せられているためだろう

北清から還り、しばらくこの地に放浪したのち、岡山の新聞社の坂本金弥に拾われ新聞記者になり、始めて家を作る。老親を迎え妻を娶るが、不検束な放逸は悛(あらた)まらず

予は不孝の子。多年老親に倚閭(いりょ、母が子の帰りを待ちわびること)の恨みを抱かしめ、膝下に事(つか)えてからも予の放逸から家政の窮乏のために奉養意の如くならず。後半生を全く予1人のために竭くされしに対し、予は何の報い奉る所もなかった

夫としても冷酷。妻との間には理智を絶したある阻隔(そかく)があった。ただ性が合わなかったというだけだが、家人に対しては極めて厳厲(げんれい)で常に虐主であった

(2)     肉欲の露呈は恥辱である

精神的の虐待に加えて、肉体上における夫婦としての約束をほとんど全く無視した。恋人として男女は平等だが、夫婦として男女の関係は神聖で肉欲の要求の露呈は男子の恥辱だと信じていた。一面耽楽の放蕩児と共に、一面禁欲の枯禅生活を主義とした。予の哲学として、人間最高の道徳は平等相愛にあり、平等相愛は即ち我欲の泯絶(びんぜつ、綻び?)にありと信じる。意欲の泯絶は人間向上の最も苦しき努力であり、人間のみ独り為し得る最も貴い犠牲である。それゆえ肉欲に服従することを人間の恥辱と考え、妻の前に曝露するに忍びなかった

(3)     酬いられざる犠牲

妻は酬いられず、予に対して多大な犠牲を払う。その嫁装を一空にして予が窮乏をも補ったが、予は妻のための温味を持たず。何度か離別も考えたが、翻す。後年再び支那に往った1年間の留守が、想うに妻の最も心安かった時であろう。帰って更に愛情なき同棲を続けるの苦痛を断つの手段を取る。汚れた恋、荒んだ愛に多情多恨の身を誤って、今は空しく形影相弔う煢然(けいぜん、孤独で頼りない様)たる独身を、足廃して起つ能わざる病床に横たえ、徒に過去の悔恨に耽るを、自ら憐れむのみ

 

16      獄に下る

(1)     人を攻撃したのではない

岡山に来た翌年、県は突然教科書改訂を延期、元来教科書に関する書肆(教科書会社)の醜運動は公然の秘密だったこともあり不審に思って密かに探訪を進めたところ、収賄の投書が来たのを見て、事実を確認しないまま糾弾の記事を書き、予の筆致はさらにエスカレート

(2)     予はあまり率直であった

突然社に予審判事と検事が来て家宅捜索を受ける。司法を信じて正直にすべてを開陳したところ、官吏侮辱の罪で検事の取り調べと予審判事の尋問に及び、拘引し未決監に下す

(3)     児童の喚(わめ)きにも娑婆が恋しい

「獄に下る」も、むしろ新しい経験を加えたと喜ぶ。身体の自由を拘束されたというだけで、衣食は自己の便に任されているので物質的に苦しくはないが、未決囚には期限がなく精神的に辛い。夕暮れを外に群れて遊ぶ児童の喚きの聞こゆるにも、しみじみ自由な世界が恋しい

(4)     密封せられた護送馬車

襟に識(しる)した番号で護送され、公判に臨む。1審は無罪となったが控訴審で2カ月の重禁固の判決、上告は却下。未決監前後の事情を『下獄記』として出版したのが有力な心証となる

(5)     世界を隔離する扉の響

1901年末独房に入獄

(6)     日の光の貴さを知った

獄中は治外法権の楽地だが、寒さには最も苦しむ

(7)     霜夜に麦飯腹は減り易い

人間は生存の営養のための食欲が満足し得られぬ時、それ以外の欲望に及ぶ遑がない

(8)     西の空に団(まる)い月が大きかった

2か月後、束縛よりの釈放!!! この欲求は人間否むしろすべての生物に本能的なもの

出獄後第1に聞いた世事は、日英同盟の締結。同じ年、教科書事件の大検挙が始まるが、吾は獄中で損じた健康のため病院通い

 

17      生のひこばえ

(1)     時鳥の如き不慈な父

鶯の羽翮(はがえ)の下にその子を棄て委ねて顧みざる時鳥の如く、不慈なる父親だった

胎中にある吾が児がその母と共に贖(あがな)い去らるるに対して、これを救うべき何等の手段をも努めなかった。生まれたことを聞いて、言い知れざる懐かしさの情が湧く

(2)     後朝(きぬぎぬ)の鐘を添乳に聞く

津山の女から人を介して児の生れた便りを受け取る。吾に代って教養上に十分の注意を頼む旨の返事を出した後、また元の如く音信を断つが、折々津山の知人にその後の様子を聞く

北清事変に従軍した際、万一の死を想って『哀れなる吾児』を書き、『帝国文学』に寄稿

事情を知る人の勧めで、恥を忍んで始めてその吾が児を見た

(3)     半時間後にはもう懐いた

6年後に第三者の立ち合いで母子に再会。引き取ることを申し出たが拒否

 

18      死の滅び

(1)     人の家の死にも週期がある

岡山に来たのは而立の齢(よわい)。多年の放浪に倦んで従前(これまで)になく長く留まる

その6年ほどの間に近親者の死が相次ぐ。叔父2人と母、養母だった伯母の死

(2)     人をやく煙が夕空に消える

叔父(木村漸)の死は明治34年正月、酒席の熱闘から1時間後の凶報。日暮里の火葬場に送る。維新の際東北に従軍、上に盾つく気象故に思う程の栄達を得ず、晩酌の折の酔後の気焔には不平の語気が多かった

(3)     死の影のように電灯の光も蒼白い

母の死は意外。気兼ねと気苦労の絶えなかった一生だが、どこか尋常(よのつね)と異なったところがあり、4人の子を皆遊学の旅に出して、別に心配な素振りをも見せなかった

(4)     墓下の眠りの安きを疑わぬ

伯母の死は母の死よりも更に突然。流行りの虎列刺(コレラ)で呆気なかった

 

19      戦争と新聞

(1)     予は予の短見を恥じる

明治35,6年は、露国への敵愾心が最高潮に達し、予も開戦を主張する1人。今日の白人種はあまりに東洋国民を侮辱しており、対露開戦已む無しとしたが、戦後の国民が徒に戦勝の虚名を勝ち得て、実際に苛税の負担に呻吟する苦境に陥れる現状の如きに至るを、予め慮り得ざりし短見を今において恥ずる。予は社会主義者ではないが、その派の中にも友人はいた。幸徳(秋水)とは同郷の因(よし)みもあり、勧誘もあったが、その仲間には入らなかった

(2)     予には名を負うた主義はない

己の思想は己の往くべき所に往くべきで、何も敢えて他人の造った型の中へ身を逼塞する必要はない。予の思想が社会主義たるは、貧者に対する同情だけ。強者に対する反抗、弱者に対する同情だけが予の思想の基石。ヴィクトル・ユーゴーやトルストイに学ぶところ大

幸徳等は正統的な社会主義ゆえに、主義として非戦論を唱え、多数者に迎合せず毅然として持論を貫かんとする意気を壮とし、『平民新聞』創刊の時には文字上の援助を為すことを約す

(3)     永久の左様なら

大逆事件の目撃者として語る。明治43年、例年の如く腸結核の宿痾の療養を兼ねて湯河原にいて幸徳と同宿していたところ、幸徳が判検事に拘束され、予も尋問を受けたが、別れ際に幸徳が「左様なら」といったのが最後となった

(4)     滑稽な秘密の厳守

日露開戦後の新聞社は一個の戦場。号外また号外、徹夜が連日に及ぶ。掲載禁止の軍事に関する秘密が極度に拡充、滑稽なことすらあり、記事は〇〇が頻出

秘密の厳守が軍事的必要の範囲を超えて、国民操縦の一種の政略的手段に用いられることは有害。講和後の日比谷事件は連戦連勝を信じた国民が講和条件に不平を爆発させたもので、吾に言わせれば秘密厳守の結果である。秘密と間諜に長じた日本は戦争に勝った。しかし日本国民はこれがまたわが国民性の短所を最も著しく暴露したものたることを知らねばならぬ

 

20      『天鼓』乱打

(1)     思想上の田舎者

岡山で5年過ごして明治37年帰京、その間に思想の上に田舎者となっていたことに愕然

学校を出て以来、疎大の志を遣るに放縦の行いをもってして、書巻を抛(なげう)って酒色に親しむに至る。予が畢生の禍根は実にこれ。窮して濫する、薄志弱行の者には必然の経路だが、予としては筆の以外に業とすべきものを知らぬ、再び文壇に起つよりほか予の立場はない

(2)     丁髷主義の主張

この頃「非文明」の思想を抱く。根底には老荘の哲学あり。それをベースに雑誌『天鼓』を創刊

文明の進歩のために自然な恋愛が歪められ情死の如き人道上憐れむべき悲惨事が行わるるに及べることを論じた長篇『近松物に現われたる心中』を起草。「非文明」「自然復帰」の主張に対し、丁髷主義との冷評を被る

(3)     学生よりもみじめであった

『東京日日新聞』が伊東巳代治から加藤高明の手に映った時、犬養木堂の仲介で『近事片々』の記者を紹介されたが、僅かな月給で縛られることを嫌い謝絶

岡山の新聞社にいたころの旧稿を集めて『壺中観』を発刊したが、秩序紊乱で発禁に。その後予の著書は出すごとに同じ運命に遭う。窮困を極め、渡清の勧めに乗る

 

21      姑蘇(こそ、蘇州の旧名)2

(1)     上海の今昔

6年振りの上海は邦人の発展目覚ましく、蛇口の一角は内地の色街の如し。船で蘇州に向う

(2)     呉王の旧都

官立の江蘇師範学校で教える

(3)     蹇驢(けんろ、足の遅い驢馬)に騎(の)って秋晴を趁()

学校はもと紫陽書院という朱子学派の学校。近くに日清戦後に獲た日本専管居留地がある

(4)     初めて貯金という事をした

2年いた間は極めて厳粛。これまでの放縦な生活に慚愧と悔恨に心を責められた結果

古本を買うのがただ1つの道楽で、もっぱら書籍に親しんだ結果、従来鄙吝(ひりん)なこととして賤しめていた貯蓄を自ら始めるとともに、一転して着実な質素な方面に向かう

 

22      病の衰え

(1)     漂浪の人

日露戦後の正月、身体に衰えを感じて一時帰朝。船中でバイオリンを持つ露人と酒を酌み交わす。そのまま別れたが、今もこの男を憶うごとにゴルキーなどに書かれた放浪の人を偲ぶ

(2)     警察の国

長崎に上陸した途端に日本が警察国家であることを思い知らされる

(3)     哲学も文学も何の要ぞ

健康の変調の故(せい)で、予の思想はまた一種の悲調を帯びる。ショーペンハウアー哲学の厭世観に影響され、更に書籍と筆の上に生きてきた従来の事業の無意味なりしを切に感じる

弱者を扶けよ貧者を救えよ、書籍を捨てよ筆を抛てよ。然る後吾始めて意味ある吾を観ることを得ん。しかし予はついに空想の人、この発念もついに実行の上には何らの発展を見ず

 

23      足のなえ

(1)     空を躡()んで歩むことが出来た

夏頃から種々の病徴が現われる。最初は痔の出血。脚部の痿軟(いなん)と麻痺を睡眠中に夢に知覚したのか、現実にも空を躡んで歩むことが出来ると考えられたのは脳の変調かも

専門家に脊髄癆(せきずいろう、梅毒菌による神経疾患)を疑われたが、そのまま蘇州に戻る

(2)     潮はゆるく舷を叩く

上海への帰路の船旅は酌婦風の女と同室だったが、時化に揉まれ、女に手を出すこともなし

(3)     茶漬に福神漬が恋しくなった

蘇州では病勢が次第に加わり、支那料理の膩臭(あぶらくさ)い匂いが鼻を付き、故国の味が偲ばれる。一時恢復したようだが、日々の務めが懶(ものう)くなり、明治40年辞職を決める

 

24      ()を養う

(1)     衲僧(のうそう、禅僧)生活の心安さをおもうた

帰国後暫く神戸の兄の下で痾を養う。この時始めて墨染の衣1着に万事事足る衲僧の心安さを知り、偶々友人が得度して剃髪、その坊主姿に遭った時は、世間の約束の上に超脱して直情径行する友が妬ましく、常識の桎梏に絡まれて遅疑する自分が歯痒かった

(2)     落葉搔く翁も嬉しかった

淡路の洲本に転地。『女子解放論』を書くが、途中で東京から新聞社創設の誘いが来て上京

(3)     児は母に属し人類に属す

岡山にいる時、2人の商売女から懐妊を告げられる。2人の言うままを承認して拒まず。世間の嗤笑(ししょう)嘲罵を甘んずるか、否(しか)らずんば冷忍残酷の行いを敢えてするかの二者択一だが、予は冷酷の行いを忍ぶに禁()えず。児は人類の継承者であり、その児を出産する母は社会の公人としてその懐妊に対し社会に扶助を要求する権利がある、吾が児の人の手に養われるための報償なりと考え、女等の要求を諾す。この考えが『女子解放論』の基石

 

25      終に病む

(1)     吾に小説の才あらしめば

明治40年上京。『天鼓』に載せた論文を集めた『霹靂(霹靂、雷)鞭』がまた秩序紊乱で発禁になったことを知り、憲法の言論の自由も狭隘なることをしみじみと感じる

自分の思想を小説に書き現わせば、何等の危険なきものとして看過するであろう。この時ほど、小説家たるには情に足らず、学者たるには理に足らず、終に何の採る所なき、吾が才の足らざるを憾(うら)みと思ったことはない

(2)     覿面(てきめん)に死を見た

吾等の関係した新聞の運命は短かった。明治4011月に初号を出し、翌年1月には病が重くなった。体に疲れを覚えて眠りに落ちた後、足が利かなくなって、一種の癈疾となり終る

この年多くの知名が死去、橋本雅邦、岩崎弥之助、山階宮、有栖川若宮。更に覿面に予に死の悲痛を示したのは友人佐藤秋蘋(12参照)や上海にいた舎弟の死

(3)     (しとね)の墓に横たわる生きながらの屍

発病以来すでに5年、生と死の境を彷徨(さまよ)い、「生きながらの屍」を「褥の墓」に横たえ、活甲斐(いきがい)なき命を僅かに保つ。予は、先天的に人生の意義ある事を信じない、生れて後、人間はこれに意義を付する。予の生涯は何の為す所なく空虚なる無用の生涯だったし、これ以上生きて何の内容を予の歴史に加え得るとも思えない。人はむしろ疑問なる未来を有するときに死すべきで、吾等の如く貧弱なる過去有る者にとって、死はむしろ既に晩(おそ)

 

 

『数奇伝』補遺

      

人間の「現在」は常に醜悪、過去は回顧の追懐(おもいで)に美(うる)わしく、未来は憧憬の希望(のぞみ)に輝く。未来を有する者は過去を懐(おも)わない。前途が絶望の暗き雲に鎖された時、人はただ過去にのみ活きる。今の吾には過去は唯一の慰安である。『数奇伝』はもとより自己の告白ではあるが、吾が過去の罪過を追悔するより生ずる良心の呵責に堪えかねた懺悔の声ではない。現在の悲痛を忘れようとして美の対象として過去を取り扱った一種の芸術品(もとより拙劣な)である。予が再びここにこの稿を続()ぐ所以は、過去が今の吾の唯一の興味であるから

 

      

暖かい明るい軽々しい気分の内に生れた吾には、北の国の寒さに鍛えられた意志の勁い執着力に欠ける。予が半生迍邅(ちゅんてん、遅々として進まない)の本もこれにある

予が凡ての事をなして、ついに何事をも成し得なかったのも、禍根は要するにこれにある

凡そ我が郷国の人はその成功に一簣(いっき、最後の仕上げ)を欠ぐ所あり。要するに執着に乏しい南国の民の已むを得ぬ欠点であろう

 

      

南国の民の弊はその空想的な所にある。理論的な長所もあるが、実行的奮闘的な生活には不向き。目と口とに長けて、手と足とに拙い者が多い。予の放縦で頽唐的な品行も、幾分かは郷土的環境の感化がある。『数奇伝』の波瀾も蓋しその一部分を郷土の影響に帰することを得る

 

      

予の運命を数奇ならしめた郷土の影響の今1つは、土佐人に通有な反抗的気質

よく言えば不羈(ふき、束縛されない)、悪く言えば物に拗(すね)る一種の気分があり、これが自由の呼号が土佐から起こった所以であり、薩長の如く閨閥を作り得なかった所以

予は世間の順潮に乗ずることが出来ない、好んで逆境に立った。不平と不満の半生だった

 

      

凡山凡水の地が吾々の如き凡人を生んだのは当然。予は故郷への思慕の情がない。鰹と楊梅(やまもも)の味を想うのみ。人相学でいえば他住の相で、山水に人を惹くに足るものがないのも1つの原因

 

      

我家には過去の血脈を誇るべき系図がなく、従って家柄なるものの誇りもない

 

      

生家は3面に田がある。追懐(おもいで)に吾々を繋ぐ歴史というものがない

 

      

南北に連なる山があって、その両端の城がせめぎ合い、北の城は皆討死、その恨みが遺った言い伝えがあり、幼少の時聞いて死の恐怖を感じた

 

      

恐ろしいと思ったのは近くに住む唖者の老女で、神秘を封じた妖巫(ようふ)のようで不気味

 

      

幼少の頃死を考えさせた事柄が、近在の火薬庫の爆発で番人が黒焦げになったと聞いたこと

 

十一      

筆を持つ外に能のない吾々も小なる画工、小なる小説家、小なる役者でもあり、真似事をした

 

十二    

予は幼少の頃頭が大きくて出額(おでこ)で、兄にからかわれ口惜しかった

 

十三    

8歳で伯母に養われ2人で住んだ。伯母は長く京都の公卿の奥に仕え、耳慣れない大和言葉が多かった。蛤門の戦争の時、薙刀を提(ひっさ)げて姫君を守ったという。手紙を教わる

 

十四      

隣の桶屋の主が老母を叱り付けていたが、予が母親に邪険に振舞うと桶屋のようになるとよく言われた。予が今でも人を怒鳴りつける習慣のあるのは孟母三遷

 

十五      

予の腕の黒子は父からの遺伝と思っているが、もう一つ、父の唯一の短所である他人のしたことが気に入らないことで、予においては我慢・不平・放肆(ほうし、勝手気儘)・自棄となった

 

十六      

母方の祖母は微禄な家に似ず文字の嗜が深かった。曾祖母は長寿で子供心にも懐かしい人

 

十七      

父方の祖母の家は近所で、当主は吝嗇と評判。その跡継ぎに絵心を教わったが、夭死(ようし)

 

十八      

予が父は鉄のような意志に、玉のような感情を包んだ人、無口だが不愛嬌ではなく、物に動ぜず、堪忍強い所があって、吾等を𠮟ることもなかった。一度だけ他人に対して怒ったのが父方の実家の当主に侮辱された時で、切り捨てようとした。反りが合わぬ性情の相違があった

 

十九      

その当主の弟は珊瑚の採収をやっていたが成功しなかった

 

二十      

父は勤倹だが、慳吝(けんりん)な守銭奴ではなく、後には鑑札を受けて小質を取り、貸殖の途に勉めたのは、痩士族の身で吾等4人の学資捻出のために已む無くせられた手段

 

二十一    

吾等の小学校は、極めて不整頓な原始的なもの、卒業間近に師範学校卒業生が漸く着任

 

二十二    

気の弱い母が、男勝りの祖母の機嫌をややもすれば害いがちなのを痛ましいと思う外は比較的安らかな家庭の中に育ったので、小学校に入ってから始めて人生の圧迫・苦悶を経験

上級の暴主に虐められた鬱憤は忘れ得ぬ。後年賤者弱者の味方となるのも当時の経験から

 

二十三    

後年ユーゴーを読んで、倫理の基礎を良心に置いたその見地は、予が心を牽いた

 

二十四    

字を識ると直ちに小説を耽り読んだ影響もあって、恋には早熟

小学校に1人だけ女がいて、その姉ともども村中の花だったが、わざと邪険に接しながら、淡い恋心を抱く

 

二十五    

行いも常軌を逸して矯激猖狂に陥るが如く、学問もまた秩序的な正常の路を踏んだ為方(しかた)に由ったものでなかった。官立中学で始めて正則の、当時もっとも進歩した教育を受けたが、病で中途退学。珍しく卒業した水産伝習所も速成の徒弟学校。選科に竄入(ざんにゅう)するために選んだ漢文科に『論語』一部の予習のみにて入学した者が、僅か3年の講義傍聴で中学教員の無試験検定の証書を得たのすら後ろめたい

かくの如く不満足な教育を受けた結果として、予の思想はややもすれば独断・偏見に陥ることを免れず、精密な実証、中正な折衷を顧みない、自らの病所を認める

 

二十六    

恋や憧憬には早熟だったが、官能には晩成

 

二十七    

貞操を商品とする職業的の女以外には、予の恋は常に吾のみ思う片恋だった

 

二十八    

すれ違った車中に嬰児(みどりご)を抱いた母を見て、トーマス・マンの『トリスタン』の主人公を真似た経験がある

 

二十九    

予の恋は常に一面に空想的たると共に一面観照的だった

 

 

解説 非凡人と凡人の「自伝」              菊地昌典(193097、東大名誉教授ソ連研究者)

『数奇伝』に注目したのは、嶺雲が、自伝の書き手の資格を凡人にまで引き下ろした点を評価したから。冒頭に「即ち凡人伝なり」の章を設け、凡人の価値と、凡人の天下到来を語る

自伝執筆の動機の内奥には、エリート意識と自分は後世に名を残すはずの人物だという自己陶酔が秘められていたが、嶺雲が徹底的に自己を卑下しつつ、凡人こそ自伝を書き得る資格を有すると叫ぶのは、彼の歴史認識に、明治末期の時代相は凡人たちが創造しているのだという確信が脈打っていたからで、彼の自由民権の思想、あるいは社会主義の思想が、凡人もまた自伝を書き得るとの自負へと結晶していった

それだけ自己主張するのも、時代閉塞と身分制墨守の時代だったから

自ら、「敢えてことごとく偽らざる自己を語り得べしとはいわぬ、偽るを要せざる範囲に於てその偽らざる自己を語らんと欲する」というように、他人に語るべきことと、語るべからざることを厳しく区分けし、語るべからざることを小説家の自己告白のように語ることこそ「一種の夸衒(こげん、見栄を張る)であり、即ち一種の偽りであると信ずる」という。自伝が、決してすべてをあけすけに語ることではないという凡人の自伝のあり方についての信念である

嶺雲は、従来の慣習に従っても、自伝執筆の有資格者に属していたが、時代が彼を受け入れなかった

『数奇伝』は、死直前に執筆されたため、多分に諦念的であり、人生を観照し、生の意味を繰り返し問い直している点で、遺書的性格を併せ持っている点に特徴がある

挫折した非凡人の記録に不可欠なのは、その失敗の原因の自己剔抉(てっけつ)である。嶺雲は、繰り返し、その女性的性格、怯懦(きょうだ)な女々しさを挙げる。女々しさを強調することによりあらゆるイデオロギーから自由であったとの身の証しを立てようと努めているように見え、「貧者に対する同情だけ」が予の社会主義だと述べ、「強者に対する反抗、弱者に対する同情、これが余の思想の基石」ともいう。社会主義イデオロギーから自己を切り離し、自己の自由を確保するためには進んで組織・運動から無縁のものたり得たいとの欲求が汲み取れる

不遇の象徴として好んで取り上げられるテーマは、家庭的不幸で、『数奇伝』もかなりのページを割いている。別れた女性に対する哀切の情も深く、儚い片恋もあれば、「職業的媚を売る女」への没入もあり、精神愛と肉欲とを截然(せつぜん)と区切りをつけ、「児は母に属し人類に属す」として同時に妊娠した2人の女性の子を私生児として産ませる理由を理論化しているが、多分に内省的・道徳的だった

『数奇伝』は、文字通り不遇なる非凡人の自伝。嶺雲が、戦争に人間の絶大なる力、大いなる悲劇、最も優れた哀史を感得し、戦争を実感するために中国へと従軍していくとき、この戦争に身を捧げざるを得なかった多くの兵卒もまた、歴史の推進者として同じ船に乗っていたが、嶺雲にはこの兵卒たち、つまり真の凡人たちへの共感は、ほとんど見られない

 

 

『数奇伝(さっきでん)』田岡嶺雲著

2020117  日本経済新聞 朝刊

『数奇伝(さっきでん)』田岡嶺雲著 泉鏡花や樋口一葉、夏目漱石といった作家をいち早く評価するなど優れた批評眼を持ちながら、忘れ去られていた評論家の自伝が復活した。幼くして接した自由民権運動や内村鑑三に指導を受けた学校生活など印象深い場面が多い。著者は記者としても活動し、従軍も経験した。検閲に投獄に発禁処分、あらゆる困難の中でも決して書くのをあきらめない姿は、この時代の文学者ならではだ。(講談社文芸文庫・1800円)

 

Wikipedia

田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3102818701121大正元年(191297)は、近代日本文芸評論思想家。本名は佐代治。

略歴

土佐国土佐郡石立村(現・高知県高知市内)の出身。小学校時代、自由民権運動の結社「嶽洋社」に入り、最年少の弁士となる。明治23年(1890)、上京して水産伝習所(現・東京海洋大学水産学部)に入学、内村鑑三に魚類解剖の実習を受ける。翌年、卒業し、東京帝国大学文科大学漢文選科(現・東京大学文学部)に入学すると、在学中から評論活動を始める。明治27年(18947月、同科を卒業。翌年2月、投書雑誌『青年文』の主筆となり、樋口一葉泉鏡花の才能をいち早く評価し、近代社会の道徳的頽廃を告発するとともに、貧しい人々の悲惨な生涯を暖かく描き出すことを求め、気鋭の文芸評論家として頭角を現す。

明治29年(18965月、文筆だけでは生活ができず、岡山県津山尋常中学校(現・津山高等学校)の教師となるが、土地の芸妓との恋愛がもつれて帰京し、『万朝報』の論説記者となる。その芸妓との間に生まれたのが、のちの国際法学者・田岡良一、その3男が田岡俊次である。その紙上、日の同盟による欧米帝国主義からのアジアアフリカ中南米の解放を主張するとともに、維新に次ぐ反藩閥・反富閥の「第二の革命」をめざす市民運動を唱えるが、挫折。水戸に赴き、新聞『いはらき』の主筆となるが、これも辞め、中国の上海に渡り、東文学社(日本語学校)の教師となる。ここで康有為派の左派である唐才常汪康年文廷式らと交わる。

上海での一年は嶺雲に思想上の変革(天皇信仰からの解放)をもたらすとともに、その生徒だった王国維の眼を近代哲学カントショーペンハウアー)に開かせた。王は、その後、ショーペンハウアー哲学に学んで「紅楼夢評論」を書き、中国近代文学の先駆となった。

明治33年(19006月、『九州日報』の特派員として北清事変に従軍するが、自由な取材が許されず、帰国後、戦争の悲惨や日本軍の非合理的な体質を告発する文章を発表。のち、それらを「戦袍余塵(せんぽうよじん)」としてまとめ、宮崎来城との合著『侠文章』に収めた。同年9月、岡山発行の『中国民報』の主筆となるが、翌年4月、教科書検定をめぐっての県知事らの汚職を摘発。かえって官吏侮辱罪に問われ、一審は無罪になったが、控訴審で逆転有罪、3ヵ月間、岡山刑務所に服役した。

日露戦争に対しては民族解放戦争の性格があるとして開戦論の立場に立つが、他方では幸徳秋水堺利彦らの『週刊平民新聞』に戦争批判のエッセーを連載した。

明治37年(1904)秋、中国民報社を辞め、上京。翌年秋、雑誌『天鼓』を創刊、文芸評論家としては夏目漱石木下尚江の才能に注目、与謝野晶子の「君死に給ふこと勿かれ」を批判的に擁護した。

この間に出版された評論集『壺中観』は、人種的・社会的・性的格差のない、国家を超えた世界共同体を構想したことによって発売禁止となった。以後、嶺雲の主要な評論集は悉く発売禁止となる。

明治38年(19059月、『天鼓』の経営が思わしくなく、みたび中国に渡り、蘇州の江蘇師範学堂の教習となるが、脊髄病に犯され、翌々年の春に帰国。の地を転々として病を養う。しかし10月、上京して白河鯉洋らと新聞『東亜新報』を創めるが、翌明治41年(19081月、脊髄病が進行して歩行の自由を失う。以後、寒暑を日光湯河原、西伊豆に避けながら著作活動を続けることになる。

明治42年(19092月、世界主義の立場に立つ雑誌『黒白』を創刊し、「女子解放論」を執筆し始める。雑誌に発表した文章は抄で、25万字以上に達する原稿が完成したようだが、現在に至っても発見されていない。この年の10月には、自由民権左派による武装反乱を記録した『明治叛臣伝』を出した。同書は、嶺雲が歩行の自由を失っていたので、駆け出し時代の田中貢太郎が筆記担当した。

明治43年(191061日、湯河原で同宿していた幸徳秋水が大逆事件容疑で拘引されるのに立ち会っている。

翌年6月から『中央公論』に、田中貢太郎を助手にして波乱に富んだ生涯を回顧した自叙伝『数奇伝(さっきでん)』を書き始める。これが嶺雲の最後の著述となった。

嶺雲には、古典中国文学研究者としての一面がある。中国古典の近代的な再生をめざした叢書「支那文学大綱」(大日本図書株式会社)のために『莊子』(1897年)、『屈原』(1899年)、『蘇東坡』(1897年)、『高青邱』(1899年)、『王漁洋』(1900年)を書いている。また中国古典の日本語訳の最初の試みである「和訳漢文叢書」(玄黄社)の出版を企て、自身も『和訳老子・和訳莊子』(1910年)、『和訳荀子』(同)、『和訳墨子・和訳列子』(1911年)を担当している。

この間、表現の自由だけではなく、歩行の自由も奪われた嶺雲に対して友人の手によって慰問文集が企てられ、1909年に『叢雲』『寄る波』『千波万波』が刊行された。夏目漱石は「夢十夜」を寄せたほか、内村鑑三、大町桂月笹川臨風泉鏡花高浜虚子らが参加した。

明治45(1912)1月に、大町桂月・笹川臨風・白河鯉洋らを発起人に、病床の嶺雲を見舞う集いを行った。大正元年(1912年)97日、嶺雲が療養先の日光板挽町で没すると、『読売新聞』は同年106日号に2頁に及ぶ追悼記事を載せている。墓所は日光市匠町の浄光寺の文豪連理塚と、高知市の田岡家墓所にある。

家族

父・田岡亨一 - 土佐藩の下級武士。農民の出だが亨一の父親の代に藩の家老の家に出仕し、武士の身分を得た。

長兄・田岡典章 (1864年生) - 東亞セメント専務、田岡式セメント石合資代表。妻の田岡寿子(1872年生)は、1920年に日本キリスト教婦人矯風会大阪支部長だった林歌子の遊説をきっかけに横川豊野らと同会の高知支部を創立して支部長となり、岡上菊栄の名親も務めた。息子の田岡典夫直木賞作家。

次兄・木村久寿弥太 (1866年生) - 三菱合資総理事、日本工業倶楽部2代目理事長。亨一の二男だが叔父の養子となり、木村家を継いだ。東京帝国大学法学部政治科卒業後、三菱に入社し、最高幹部に出世した。妻のスミは鮎川義介の姉。

妻・みね井上仁吉の妹

主な著作

明治期の刊行

嶺雲揺曳 新声社 18993月(19923月、復刻版・日本図書センター)

第二嶺雲揺曳 新声社 189911

雲のちぎれ 春陽堂 19004

下獄記 文武堂 19017

壺中観 蒿山房 19054 発売前発禁

うろこ雲 蒿山房 19056

壺中我観 蒿山房 19063月。『壺中観』削除改版。19109月に発禁

霹靂鞭 日高有倫堂 190710 即時発禁

有聲無聲 小川芋銭との合著 蒿山房 19089月(20006月、西田勝平和研究室編、復刻版・不二出版)

三人 巻一 ゴーリキー 黒白社 19097

病中放浪 玄黄社 19107 即時発禁(20006月、西田勝平和研究室編、復刻版・不二出版)

明治叛臣伝 日高有倫堂 191010

数奇伝 玄黄社 19125

嶺雲文集 笹川臨風白河鯉洋 玄黄社 19136 没後刊

和訳漢文叢書、玄黄社

和訳戦国策 1910

和訳韓非子 1910

和訳老子・和訳荘子 1910

和訳墨子・和訳列子 1910

和訳荀子 1910

和訳淮南子 1911

和訳史記列伝 上下 1911

和訳維摩経 1911

和訳春秋左伝 上下 1912

戦後の出版

明治叛臣伝 青木文庫 195310月。戦後最初の再刊

田岡嶺雲選集 西田勝編 青木文庫 19562

嶺雲揺曳 明治文献資料叢書 1965年〈社会主義篇 5 明治文献資料刊行会編〉

明治叛臣伝 自由民権の先駆者たち 大勢新聞社 1967

女子解放論 西田勝編 法政大学出版局 19877

田岡嶺雲全集 7 西田勝 法政大学出版局

1 評論及び感想119732月)、オンデマンド版2004

2 評論及び感想219871月)

3 評論及び感想320118月)

4 評論及び感想420144月)

5 記録・伝記(196911月)

6 評伝・評論及び感想520181月)

7 書簡 研究 年譜ほか(20192月)

数奇伝 平凡社「日本人の自伝4」(19825月)、講談社文芸文庫202010月)、電子書籍版も刊

 

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