親愛なるレニー  吉原真理  2024.3.20.

 2024.3.20.  親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語

DEAREST LENNY

Letters from Japan and the Making of the World Maestro  2019

 

著者 吉原(よしはら)真理 1968年ニューヨーク生まれ。父は応用化学を学んでメーカー系の商社の駐在員としてニューヨークへ、一旦帰国後サイド11歳でカリフォルニアへ。数年後に帰国して東京大学教養学部卒、米国ブラウン大学博士号取得。1997年ハワイ大学アメリカ研究学部教授。専門はアメリカ文化史、アメリカ=アジア関係史、ジェンダー研究など。著書に『アメリカの大学院で成功する方法』『ドット・コム・ラヴァーズ──ネットで出会うアメリカの女と男』(以上中公新書)、『性愛英語の基礎知識』(新潮新書)、『ヴァン・クライバーン国際ピアノ・ コンクール──市民が育む芸術イヴェント』『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本』(以上アルテスパブリッシング)、共編著に『現代アメリカのキーワード』(中公新書)、共著に『私たちが声を上げるとき──アメリカを変えた10の問い』(共著、集英社新書)、そのほか英文著書多数。

著者ウェブサイト:Mari Yoshihara Official Web Site | 吉原真里ウェブサイト

 

発行日           2022.10.31. 初版第1刷発行        

発行所           アルテスパブリッシング

 

序章

音楽の世界で測り知れないレガシーを残した。様々な政治・社会問題についても信念を貫き、音楽という領域を超えて世界に広く多大な影響を与える存在でもあった

バーンスタインが残したものから圧倒的な力で伝わってくるのは、愛というものへの飽くなき執着

2013年、冷戦期における文化政策の日米比較分析をするため、その1事例として、ワシントンのケネディ・センターを扱おうとして、1971年同センター開館を飾ったバーンスタインの《ミサ曲》の上演について調査するため、彼の資料が保管されているワシントンの議会図書館に来た。バーンスタイン・コレクションは、個人のアーティストに関するアーカイヴとしては世界最大級だが、大部分が個人書簡であることに気付く。中でも「天野和子」と「橋本邦彦」の名前は、私の知らない名前で、しかも膨大なファイルがあることが分かる

2人が送った数百通に渡る手書きの手紙に目を通し、6年かけて2人との交流を解明

1947年に最初のファンレターを送ってから、40年以上にわたってバーンスタインの熱心なファン、理解者、そして友人として、マエストロの仕事や人生を遠くから見守り、応援し続けた天野(旧姓上野)和子

1979年にバーンスタインと出会い、激しい恋に落ち、数多くのラヴレターを送り続け、やがてマエストロの精神や夢の実現の一端を担うようになる橋本邦彦

2人は、遠く離れた場所で、バーンスタインとはまるで異なる人生を歩みながら、それぞれの形で彼とその音楽を深く愛し、国境・文化・言語・年齢・立場を超えて、長年にわたってマエストロとかけがえのない関係を育んだ人物

この本は、天野と橋本が綴った数々の手紙を通して、それぞれの人生とバーンスタインの軌跡を追い、2人と彼の間に育まれた愛情の変遷を辿る物語。バーンスタインのアジアにおける業績、特に日本との関係を軸にした研究を通じ、「世界のバーンスタイン」についての理解を深めるもの

 

 

Part I

1       戦禍のスター誕生

バーンスタインのデビューは1943年のカーネギーホール。ブルーノ・ワルターの代役としてぶっつけ本番でニューヨーク・フィルの定期を振った。CBSラジオで全国放送され、史上最年少の25歳でセンセーショナルなデビューを飾る

作曲家としても翌年、音楽を担当したバレエ《ファンシー・フリー》とミュージカル《オン・ザ・タウン》が大成功を収める

バーンスタインは、スターとしての階段を上り始めた時点ですでに、国境や人種・民族を超えた広い世界への深い関心や、戦争についての理解、世界平和への強い希求を抱いていたが、それに加えて、アメリカ政府がアメリカ文化広報の格好の材料として活用する

他方、FBIなどは戦時中から左翼思考で知られていたバーンスタインの政治活動を監視、赤狩りの際は共産党シンパと見做され、一時パスポートを没収され、53年には非愛国的な団体や共産党との関わりを否定する宣誓供述書への署名という屈辱的な体験もした

冷戦構造の下で、バーンスタインが国際的スターへの道を歩み始めた背景には、アメリカ政府の意図と、バーンスタイン自身の平和への強いコミットメントという2つの流れがあった

上野和子は、1929年名古屋の生まれ。パリのコンセルヴァトワールでピアノを学ぶが、開戦直前に帰国。戦後、GHQの民間情報教育局CIEが対日文化政策の一環として日本全国23の都市に図書館を開設(52年、講和条約締結により「アメリカ文化センター」に改組)

上野は、そこでバーンスタインが音楽雑誌に47年寄稿したエッセイを読み、優れた音楽家になるためには、技術的な練習と同時に、広範な人文学に根差した全人教育の必要性を提唱する内容に共感。同時にバーンスタイン指揮のレコードを聴き、彼の音楽の虜となる

早速和子は、バーンスタインに誕生日のカードを雑誌社経由で送ると、1年以上経って返信が届く。アメリカの議会図書館には最初のファン・レタ-は見当たらない。2通目から

彼女の手紙からは、バーンスタインの音楽が日本でどのように受け入れられていったのかを読み取ることができる

1958年、バーンスタインは、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。特に、まだ十分な評価を得ていなかったマーラーの交響曲を世界に広めるのに果たした役割は非常に大きい

1955年、和子は結婚して天野姓に。相手は国鉄のトンネル建設専門のエンジニア

 

2       太平洋を越えたマエストロ

1961年、バーンスタインがニューヨーク・フィルとともに初来日

アイゼンハワー政権が、海外での広報活動を通じてアメリカの利益を推進する目的で設立した合衆国広報文化交流局USIAがバーンスタインを積極的に利用

東京公演は、「世界音楽祭East-West Music Encounter」の一環として開催

会場は、東京文化会館で、杮落とし公演となったが、オーケストラ側の日本への好印象とは対照的に、日本の音楽愛好家の反応はイマイチで、あからさまのアメリカの政治的な意図とストラヴィンスキーやヒンデミット、コープランド、ロイ・ハリスなど現代音楽家中心のプログラムが祟って、「これほど肩透かしを食らった演奏はない」と酷評

副指揮者としてバーンスタインのアシスタントを務めたのが小澤征爾で、故郷に錦を飾る

和子は、2人の幼子を連れて一家でコンサートに行き、初めてバーンスタインとの対面を果たし、子どもたちもバーンスタインによくなつき至福の時を過ごす

 

3       成功の光と影

1962年、バーンスタインは、ニューヨーク・フィルの新しい拠点となるリンカーン舞台芸術センターのフィルハーモニック・ホールで指揮する

5年前にブロードウェイで開幕した《ウェス・トサイド・ストーリー》でバーンスタインは、戦後の「アメリカン・ドリーム」と矛盾した移民の生活の現実を、プエルトリコ人の登場人物たちの声で見事に表現したが、そうした矛盾は、ミュージカルの舞台となった地域で現実に繰り広げられており、マンハッタンのアッパー・ウェスト・サイドでは、地域の荒廃と民族間の対立が深刻化していた。《ウェスト・サイド・ストーリー》が各地で大人気を博しているさなか、手段を択ばず辣腕を振るったロバート・モーゼスの都市計画により、この地域の住人たちの多くが長年住み慣れた住処から追い出され、そうして切り開かれた土地に建設されたのがリンカーン・センターで、フィルハーモック・センターのほかメトロポリタン歌劇場、ニューヨーク州立劇場、アリス・タリー・ホール、ジュリアード音楽院など白亜の建築物が並ぶ芸術の殿堂。ニューヨークが世界の文化的中心地であることを高らかに謳いあげるもの

人気と成功の水面下で、アメリカ音楽産業はどんどん様変わりし、それに伴って、バーンスタインの不満も次第に募る。60年代はマエストロにとって、輝かしい名声と経済的成功だけでなく、成長の痛みをもたらす時代でもあった

ケネディの死後、アメリカ議会は記念碑建設の代わりに、芸術を愛し振興した大統領への敬意と追討を込めて、元々国立文化センターとして計画が進められてきた施設を、ケネディ大統領の「生きたメモリアル」にすると決定したが、芸術監督に推薦されたにもかかわらずバーンスタインは就任せず

1959年、バーンスタインは「アンバーソン・エンタープライズ」という個人会社を起こし、芸術家としての立場を守りながら、商業的な利益を最大化し、技術革新や業界のリソースを味方につけるために体系的に組織化されたスタッフを配置、その後の彼の成功の決定的な要素となる。コロンビア・レコード在任中にバーンスタインのレコードを数多く制作したスカイラー・チェイピンをスカウトし、バーンスタイン自身は芸術活動そのものに集中

レコーディング・アーティストとしてバーンスタインは大成功したにもかかわらず、いわゆるクラシックのレコードはどれもせいぜい100枚単位の売り上げしかなく、ポピュラー作品など一般受けする作品ばかりで稼いでいた。50万枚を超えたゴールド版は、ガーシュウィンのアルバムと、モルモン・タバナクル合唱団のクリスマスものの2枚だけ

専属だったコロンビア・レコードは、本格的なクラシック音楽に投資しようという意欲が薄く、芸術よりも商業的利益を優先しつつあるとバーンスタイン側は憂慮し始め、アメリカの音楽業界全般への疑問が膨らみつつあった

 

4       ふたりのマエストロ

1970年、バーンスタインが2度目の日本ツアーへ

この時期、和子からバーンスタインへの手紙の頻度は落ち、代わりに個人的な秘書だったヘレン・コーツとのやりとりが急増

万博の年で、世界有数のオーケストラやアーティストが日本公演を実現させたが、ニューヨーク・フィルの来日は名古屋の中部日本放送による企画

1968年、ソニーの大賀によって設立されたCBS・ソニーは、CBS傘下のコロンビア・レコードの専属だったバーンスタインを積極的に売り出し、日本ツアーがバーンスタインとソニーの長い関係の始まりとなる。カラヤンと既に親密な関係を築いていたソニーは、これでクラシック音楽、特に交響曲のジャンルにおいて揺るぎない立場を確立

今回小澤は、1人前の指揮者としてツアーに参加、そのハイライトは、武満徹が1967年のニューヨーク・フィル創設125周年記念のため小澤の推薦で委嘱された作品《ノヴェンバー・ステップ》を指揮。現代音楽に無関心のニューヨーク・フィルに対し、あえて琵琶と尺八を取り入れて邦楽器と洋楽器の音を拮抗させた新曲を作ったが、2人の独奏者・鶴田錦史と横山勝也が着物姿で団員の前に現れると、団員は笑い出し、2人の深遠な音色が響き渡ったところで漸く納得し受け入れたという因縁の曲。初演後は、日本人作曲家による作品で最も世界的評価の高いものの一つとなる

コンサート終了後、天野一家はバーンスタインから高級料亭でのプライベート・ディナーに招待され、リムジンに同乗して天野は有頂天だったが、夫の礼二が突然、明日の朝が速いので最終電車で帰らなければならないと言って席を立つ。バーンスタインは帰りの車を手配すると言ってくれたが夫は譲らず、気まずい別れとなった

 

5       業界のうずしお

1971年、ジョン・F・ケネディ舞台芸術センター落成。この日のためにバーンスタインが作曲した《ミサ曲》が世界初演された

メトロポリタン・オペラに職を得たチェイピンに代わって、ボストン交響楽団にいたハリー・クラウトがアンバーソンのトップにつく

《ウェスト・サイド・ストーリー》の収益管理を巡ってコロンビアと決裂。新たにドイツ・グラモフォンと契約、同社もこれまでのバーンスタインの長年にわたるヨーロッパとのつながりを前面に押し出して販促キャンペーンを計画。72年発売のメトロポリタン・オペラの《カルメン》は最初の数年間で10万枚が売れる大ヒットとなり、バーンスタインが次第にヨーロッパのオーケストラやレコード会社へ方向転換する大きな兆しとなった

ただ、バーンスタインがユダヤ系であるだけに、アンバーソンのエージェントは、ドイツや日本、その他外国の企業との長期的な関係を結ぶことについては慎重に熟慮する必要があると警告、自国であらゆる方策を模索してからでも遅くないという

 

6       3度目の日本へ

1974年、バーンスタインが息子のアレグザンダーを連れて来日。今回もニューヨーク・フィルを引き連れ、中部日本放送の招聘、ブーレーズと交代で指揮

1976年の和子の手紙には、初めて娘の菊子も並んで書いている。桐朋学園でピアノとヴァイオリン、指揮の勉強をしている

 

7       別れと再会

当時、バーンスタインは、家庭生活においてもっとも波乱の時期を過ごしていた。アラウの紹介で知り合ったチリの女優フェリーシャ・モンテアレグレと1951年結婚したが、フェリーシャはバーンスタインが同性愛者だと承知の上で公にはせずに、3人の子供ももうけるも、バーンスタインにとっては次第に息苦しくなり、1976年家を出て同棲

同棲はすぐに破綻、フェリーシャの許しを得て戻るが、直後に彼女は末期の肺癌の宣告

78年、フェリーシャの症状悪化で、日本ツアー降板。1カ月後に死去

79年、和子は夫の膵臓癌の看病にあたり、同年のバーンスタインの4度目の日本ツアーには行かないつもりだったが、娘に背中を押されてホテルオークラに会いに行く。そこで見たのは、見違えるほど老け込み、白髪が増え青白い悲痛な顔をしたバーンスタインだった

 

8       マエストロというビジネス

1961年の初来日ツアーのオーケストラ団員は全員が男性だったが、79年には女性も加わり、ヴァイオリニストの建部(たけべ)洋子もその1

1970年代後半における「バーンスタイン・ビジネス」の規模は世界中を巻き込み拡大の一途を辿る

 

Part II

9       DearからDearest

1979年、バーンスタイン来日の最後の夜を2人だけで過ごしたのが橋本邦彦。ヨーロッパへの招待を丁重に断る橋本の手紙は、バーンスタインのアッパー・ウェスト・サイドのダコタ・ハウスあてに直接「Personal」と書いて送られている

損保会社勤務、ゲイを自認。1971年、日本で初めてゲイの男性向けの雑誌発刊

橋本は、出会ってから4週間のうちに20通の手紙を書き、その後1年ほどの間ほぼ同じ頻度で手紙を送り続けている。最初に返事を受け取ってからは、書き出しがDear LennyからDearest Lennyへと変わり、以後10年にわたり不変。最初の返事の後、バーンスタインから電話でヴァカンスをヨーロッパで一緒に過ごそうと再プッシュがあり受け入れ、ミュンヘン行きのファーストクラスのチケットを受け取る

 

10   信念と決意

ミュンヘン到着の夜、バーンスタインがイスラエル・フィルを振るコンサートに向かい、演奏終了後楽屋で再会を果たす。5日間南イタリアのポジターノでバカンスを過ごす

橋本にとってバーンスタインへの愛は、考えや理念や精神ではなく、より心の奥深くにある魂で結ばれたものだった。バーンスタインをイエスに喩えて、自分をその使途に喩えているように、彼の愛は、魂に触れる、一種の信仰心や崇拝に共通するものがあるのだろう

1年半後、ふたたびミュンヘンに招待され、バーンスタインはバイエルン放送響と《トリスタンとイゾルデ》を振る。反ユダヤ主義的思想の持ち主として知られるワーグナーの作品を敬遠していたが、このオペラは「全音楽史の中でも最も重要な、車輪の軸となる作品」と称賛し、手掛けることを長らく願っていたもので、歌手たちの疲労を考え、コンサート形式で、1年がかりで3回に分けて上演する、その第1幕の公演だった。この作品の演奏史上、最も評価の高いものの1つとなり、プロジェクトが完了したとき、バーンスタインは「ぼくの人生は完結した。あとはどうなっても構わない。自分がやってきたことの中で、最高のものだった」と語っている

憑かれたような激しさだった橋本の愛も、2度のヨーロッパへの旅を経て大きく変化、全身全霊の愛は変わらないが、より精神的なものに転化していった

 

11   新しい出発

和子は、夫の死後児童書の出版社に勤め、海外の仕事に従事し忙しく暮らす

1980年、ヨーロッパ出張の帰りにニューヨークに立ち寄りバーンスタインからスタジオに招待されるが、その後もフランクフルトであったり、海外での交流の機会が増える

橋本も、人生とキャリアの大きな一歩を踏み出す――保険会社を辞めて演出家や俳優、作家として演劇の仕事に進むことを決意し、劇団のドラマ・スクールに通い、あるテレビ局の俳優塾に選抜される。劇団四季のオーディションに合格、30歳を前にプロとして独立

大きなキャリア転換の決断にあたっても、橋本がバーンスタインに相談したり助けを求めたりしたことは一度もなく、バーンスタインとの関係を周囲に漏らすこともなかった

 

12   《静かな場所》

バーンスタインも新しい大プロジェクト、「アメリカのオペラ」の作曲に取り組む

ヒューストン・グランド・オペラHGO、ケネディ舞台芸術センター、ミラノのスカラ座による共同委嘱という、オペラ史上でも画期的なプロジェクト。アメリカの言語を用い、アメリカ的な音楽的要素に加え、今日のアメリカ社会が抱える現実の問題を、アメリカ固有の形で表現するオペラを目指す。セクシュアリティの問題を物語の中心に据える

バーンスタインの拘りの背景には、1980年代初頭にアメリカの政治・社会と文化的状況に対しての彼の強い抗議と、エイズの流行があった。家族や性を巡る抗争は、エイズの流行によってさらに激化、80年代のアメリカにおけるエイズ罹患者の75%が同性愛者の男性だったことを盾に、新保守主義者たちはエイズを道徳的な危機と見立て、同性愛者の権利運動やリベラルとされる政治思想や文化全般を攻撃した

バーンスタインは、《静かな場所》の初演の直前、エイズ支援の慈善イヴェントに向けて、力強く熱のこもったメッセージを送る。ただ、同性愛者解放運動を支持はしたが、自らは運動の一部とはならず、《静かな場所》という作品を通して、自分の思いを聴衆に伝えた

1983年のヒューストンでのリハーサルでは大歓迎を受ける陰で、新保守主義者たちによる妨害や中傷が渦巻き、初演の町を緊張と混乱に陥らせようとしていた

ジョン・デメインの指揮によって世界初演が行われ、批評は好悪相半ばしたが、バーンスタインは初演の一部を改善して、翌年ミラノ・スカラ座とワシントン・ナショナル・オペラで上演、さらに改編されウィーンでも上演、CDも発売されたが、尻すぼみとなる

再編成されたこの作品がニューヨーク・シティ・オペラによって上演され、評論家と観客の両方から高い評価を得たのは、バーンスタインの死後20年以上経った2010年のこと

 

13   核なき世界へ

1983年、レーガンによる戦略防衛構想の発表によって冷戦下の超大国間のバランスが崩れると、多くの人々が強い危惧の念を抱くと、長年にわたって核兵器廃絶運動に関わってきたバーンスタインも、このニュースに危機感を感じた

《静かな場所》の初演終了後は、反核運動へさらなるエネルギーを注ぎ込み、世界へ向けて支持を表す水色の腕章着用を呼びかける

 

14      2度目の春

1984年、翌年のバーンスタインの広島での平和コンサート準備のため、ハリー・クラウトが来日。橋本が通訳兼アシスタントとして、初めてバーンスタインの仕事を手伝う

平和コンサートを企画したのは、大阪出身で橋本と同年代の佐野光徳(みつのり)。映画《ウェスト・サイド物語》以来バーンスタインのファンになった佐野は、梶本音楽事務所から独立して事務所を運営、所属アーティストの1人がバーンスタインの呼びかけで腕章をつけて演奏した渡辺暁雄。原爆投下40周年記念コンサートを企画、以前招聘したアンドレ・ワッツの紹介でバーンスタインに企画を持ち込む。バーンスタインの予定は既にアバド監督下のヨーロッピアン・コミュニティ・ユース・オーケストラECYOのツアーで埋まっていたが、核廃絶運動へのコミットメントと加速する軍拡競争への憤りから、予定を変更し、ギャラ返上でECYOとともに来日することが決まる。企画はどんどん膨らみ、「平和の旅」と命名して、アテネを出発点に広島、ブタペスト、ウィーンを回る巡礼の旅へと発展。辞退した小澤に代わりバーンスタインの弟子だった大植英次が起用され、広島出身の作曲家糀場(こうじば)富美子の《広島レクイエム》が前半の演目に推薦される

橋本は、クラウトの信頼に応えて的確な仕事をし、アンバーソンの日本代表に任命される

クラウトの紹介で、橋本と天野は1985年早々に日本で面談、マエストロへの愛という深く大切な共通点を媒介にして、2人の間にもかけがえのない友情が生まれる

最終決定したプログラムの前半は、バーンスタイン指揮の《フィデリオ》から《レオノーレ序曲第3番》に始まり、大植指揮の糀場の《広島レクイエム》、五嶋みどりのソロでモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番《トルコ風》、後半は、バーンスタイン自作自演による交響曲第3番《カディッシュ》で、ソプラノ・ソロは若いアフリカ系アメリカ人のバーバラ・ヘンドリックス、語り手は舞台俳優のマイケル・ウェイジャー、合唱はウィーン・ジュネス合唱団、京都エコー、大阪少年少女合唱団

 

15      祈りの夏

198586日、朝から雨の中、広島平和公園では、小澤征爾と共に歌いながら平和を祈るために約200人が輪を作る。バーンスタインもその中にいた

夜のコンサートには小澤の姿はない。グループを作って運動するのは根本的に自分の思想の中にはないとして組織化された社会運動から距離を置き、バーンスタインの誘いも辞退

 

16      早秋の実り

バーンスタインはその後ブタペストに行き、9月には再びイスラエル・フィルを引き連れて来日。彼のイスラエル支持を批判する動きもあったが、バーンスタインとイスラエル・フィルが日本の聴衆に届けた音楽は、そうした境界や分裂を遥かに超越するもの、特にマーラーの交響曲第9番は、のちのちまで伝説として語り継がれる名演奏となった

 

Part III

17      マエストロの世界

この頃、バーンスタインは世界中の組織から数多くの栄誉を受けている

60代後半を迎えたバーンスタインは、残された時間を何に捧げるべきか、より真剣に考え、自分にとって最も重要な仕事のために十分な時間を確保する。作曲家としてのエネルギーや独創性は、《ジュビリー・ゲームズ》(1986)、《アリアと舟歌》(1988)などに溢れ、指揮活動ではドイツ・グラモフォンなど、ヨーロッパのレーベルによるレコーディング活動に注力、自らの指揮で初めて《ウェスト・サイド・ストーリー》のフル・レコーディングも行う。キリ・テ・カナワとホセ・カレーラスを起用、オーケストラもこの演奏のために集められ、同時にドキュメンタリー映画としても収録

さらに教育活動にも使命感をもって携わる――タングルウッドの精神を世界中に広めようと、1987年北ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭オーケストラ・アカデミーを設立。佐渡裕はここでバーンスタインと出会い愛弟子となる

アメリカ社会や世界状況についての批判や抗議は続け、同性愛者を巡る文化戦争にも加担し、公的助成を撤回した政府に抗議して、ブッシュからの国民芸術勲章の受賞を辞退、代わりにホロヴィッツが受賞したが、その後政府は助成を決定

 

18      ターニング・ポイント

1987年、橋本はシドニーに移住

1988年、バーンスタインの70歳の誕生日には、盛大な祝宴が数多く開催され、数年前脳梗塞を患って仕事を辞めた和子もタングルウッドの小澤夫妻主催のパーティーに出かける

 

 

19      新天地を求めて

1990年、バーンスタインの訪中計画が浮上、愛弟子のマイケル・ティルソン・トマス、ロンドン・フィルLSOを率い、資金難の中国文化部に代わって、野村證券が冠スポンサーとなり、目的を青少年の音楽教育に置いたが、前年の天安門事件の勃発で水泡に帰す

 

20      大地へ種を

訪中に代わるプロジェクトとして浮上したのが札幌。建設途中の「札幌芸術の森」で、「日本のタングルウッド」とすべく、教育活動を中心とした国際音楽祭に札幌市も賛同

1989年のクリスマス、世界中の音楽家が集まってベルリンの壁崩壊を祝い、バーンスタインの指揮でベートーヴェンの第九を演奏、彼の発案でシラーの歌詞の「歓喜」を「自由」に変えて歌われた。直前のロンドンでのコンサート中に肺炎となり、回復に手間取るなかでの演奏だった。体調を気遣って札幌では、建設中のニドムが宿舎として提供された

音楽祭は、「パシフィック、ミュージック、フェスティバルPMF」と名付けられ、906月、2週間半の期間で開催

 

21      北の果実

PMFには、オーディションで選ばれた18か国123人が集まり、シューマンの2番からバーンスタインによるリハーサルが始まる。札幌市民会館での音楽祭は大成功裡に終わる

 

22      日本をあとに

90年の来日は7度目。音楽祭の後はLSOとの日本ツアーで各地を泡ったが、その途中東京で倒れ急遽帰国。コンサートはティルソン・トマスと大植が代わりに振る

夏の終わり、バーンスタインはタングルウッドでベートーヴェンの7番を指揮、途中で激しい咳が続く。その後も体調は悪化を続け、10月にはコンサート活動からの引退を発表。その5日後に逝去

 

23      畑を耕そう

札幌市長が、PMFを毎年開催すると宣言。ティルソン・トマスとクリストフ・エッシャンバッハが芸術監督に就任、大植や佐渡が指揮者として加わる。そのほかにもバーンスタインとともに名演を残してきた音楽家たちが教授陣に加わり、マエストロの意思を継承

オペラ歌手や作曲家たちもレジデント・コンポーザーとして参加し作品を披露

札幌の市民会館は閉鎖されたが、代わって世界最高レベルのコンサートホールKitaraが建設され、前の広場は「レナード・バーンスタイン・プレイス」と命名

天野は、毎年PMFに通い続け、ティルソン・トマスのファンになって、様々な形で応援

橋本も、バーンスタインの最後の言葉で託された指揮者たちの面倒をしっかり見るとともに、PMFのプログラムにも積極的に関与し、台本の翻訳や語り手まで務める

橋本の才能と感性、バーンスタインの芸術についての理解が大きく花を咲かせたのは、バーンスタインの《キャンディード》の翻訳で、PMF5周年の1994年、日本で未上演のこの曲をコンサート形式で上演するため、クラウトが歌詞と台本の翻訳を橋本に依頼

バーンスタインが世界に贈ったプレゼントは、《キャンディード》のフィナーレでキャスト全員が歌う〈Make Our Garden Grow(畑を耕そう)〉に結実。その歌詞も橋本が翻訳

 

コーダ(終結部)

2013年、私の企画書を読んだ橋本から手紙をもらう。バーンスタインがとっておいた橋本の355通の手紙を公にすることに躊躇、レニーの家族が承諾すること、自分の名前は匿名、自分の死後に出版することの3条件を提示。橋本の書簡は、彼の存命中は誰の目にも触れないという条件でバーンスタイン・コレクションに寄付されたもので、私がそれを閲覧したのは図書館の手違いだったことが判明。私がマリー・カーター(クラウトの右腕としてバーンスタインの知的財産権の管理担当者)に使用許可を求め、彼女のアドバイスで橋本に直接コンタクトを取ったときの返事が前述で、それに基づき再びカーターにバーンスタインの家族の同意を願い出る

ニドムのバーンスタインが滞在した部屋は、今はウェディングのチャペルになっていて、ベーゼンドルファーにはバーンスタインとティルソン・トマスのサインがある

2017年、最初の草稿をもって橋本に会いにシドニーを訪問

天野和子の手紙は、誰でも閲覧可能だが、本にするためには本人の承諾を取らねばと居所を探す。橋本の持っていた電話番号を呼び出すと、本人に繋がり、89歳の今も娘の菊子と2人で世田谷のマンションに元気で暮らしていることが分かる

 

 

あとがき

この本は、2019年オックスフォード大出版から刊行された原著を著者自ら日本語で書き下ろしたもの。日本の読者向けに多少アレンジし直している

 

 

 

マエストロへの手紙、愛の交流 吉原真里さん「親愛なるレニー」

2023719  朝日

 「親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語」が第71回日本エッセイスト・クラブ賞と第11回河合隼雄物語賞に輝いた。著者の吉原真里さんはホノルルに長く暮らすハワイ大学教授。アメリカ文化やジェンダー研究に携わり、著作を通して日米の文化の断面を伝えている。(河合真美江)

 この夏、帰国して講演やイベントに走り回り、読者の熱い反応に驚いている。

 「バーンスタインのファンだった、コンサートに行ったというだけでなく、合唱団にいたとかクラシック音楽が好きとか。本を読んでご自身の人生をたどるような思いをなさっている。読む人にとっての物語でもあるんだなと感じます」

 世界的指揮者バーンスタインと2人の日本人の人生が交わっていく様を、手紙を通して描き出したノンフィクション。2人の日本人とは、ずっと理解者だった天野和子さんと、マエストロと激しい恋に落ちた橋本邦彦さんだ。1通1通がバーンスタインへのほとばしる思いに満ち、愛情の軌跡をたどることができる。これを吉原さんが「見つけてしまった」ことが物語の始まりだった。

 10年前の夏、吉原さんは冷戦期の文化政策の日米比較をしようとワシントンのアメリカ議会図書館に行った。そこにはバーンスタインの膨大な資料が集められている。目録の中、多くの手紙を送った日本人2人が目をひいた。知らない名前だ。橋本さんからの1通を読んだ。これは何なんだ……。2日間読みふけった。

 手紙そのものが物語だった。何かの形にしたい。でも、手紙は至極プライベートなもの。丁寧にやりとりをしようと決めた。

 オーストラリアで俳優やプロデューサーとして活躍する橋本さんに会いにいった。バーンスタインのレガシーを後世に伝えられるなら貢献したいという気持ちを明かされた。

 1929年生まれの天野さんは子ども時代にパリでピアノを学んでいたが、戦況の悪化で帰国。海外文化への思いを募らせる中、CIE図書館でバーンスタインのエッセーや録音に触れ、終生のファンになる。ファンレターを送り続けた天野さんは61年、初来日ツアーで夫や子どもと楽屋を訪ねた。優しい「レニーおじさん」に子どもたちはまとわりついた。

 すさまじい勢いで録音やコンサートツアーをする中、橋本さんたちへの返事に心を砕いたバーンスタイン。核兵器廃絶を訴え、85年に広島で平和コンサートを指揮したバーンスタイン。

 今、吉原さんが思うのは「愛の人だった」ということ。「音楽や芸術に対する愛だけでなく、個々の人間に対して、そして人類に対して体に収まりきらない愛をもっていた人。愛と信念をエンジンとして生きた人だったんですね」

 吉原さんはニューヨーク生まれ。一時帰国をへて小学5年生からの2年半ほどをカリフォルニアで暮らした。東大でアメリカ研究を専攻し、アメリカの大学院へ。昨年には、共著で「私たちが声を上げるとき」(集英社新書)を出した。アメリカで#MeTooやBLM運動が広がる原点となった女性たちを紹介する1冊だ。

 アメリカと日本、両国に共通して感じるのは、声を上げることに対して風当たりがまだ強いこと。スポーツ選手やアーティストは口を出さず本分にとどまっていろという風潮だ。「社会に生きる市民なのだから、人間として言うべきことがある。その声をつぶすようなことがあると、声を上げにくくなってしまう。上がった声に対して寄り添うことが大事です」

 3歳からピアノを習い、アマチュアコンクールにも出場する。大学で研究を続けながら、私小説も書き進めている。日本語と英語の二つの言語を生きてきた吉原さんの物語はどんな音色なのだろう。

 

(著者に会いたい)『不機嫌な英語たち』 吉原真里さん

有料記事著者に会いたい

2023114日 朝日

 ふたつの言語のはざまで ハワイ大教授・吉原真里さん(55)

 バイリンガルには、複数言語を使えて格好いいというイメージがつきまとう。でも、当事者は必ずしもそう考えていないようだ。アメリカ研究を専門とするハワイ大教授の半自伝的私小説は、英語で考える自分と日本語で考える自分が時に交差し、時に引き裂かれて、アイデンティティーを問い続ける姿を描く。

 昨年刊行した『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』で、日本エッセイスト・クラブ賞や河合隼雄物語賞を受け話題となった。今回初めて小説の形を選んだのは「社会や学問における正論とは違う、私にとっての真実を記しておきたかったから」という。

 前半は主に、親の転勤でアメリカに渡り英語を覚えるまで、後半はいったん帰国し、自分の意思でアメリカに移ってからの話。題名が予告するように、英語を身につけることへの賛美とは無縁な七転八倒だ。

 たとえば、仲間の日本人男性3人とニューヨークへ旅した時、駐車場で新しいバッテリーがあがり、車の持ち主は係の黒人男性の落ち度を疑い弁償を要求。英語が堪能とはいえ自分が男性なら望まぬ交渉役を強いられただろうか、相手が白人なら仲間は強硬な態度に出ただろうか、と自問する。「日本人は女性と男性で英語への関わりが違う。アメリカ社会やアメリカ人との関係性も女性と男性で違うと改めて感じました」

 東京大を卒業後、米国ブラウン大で博士号を取得、1997年、ハワイ大に職を得た。アメリカ暮らしは通算34年間、日本で過ごした時間より長くなった。英語の自分と日本語の自分は離れていると感じることも多い。「アジア人、女性、大学教授のような属性が交差して私になっている。でも見え方は、相手や状況によって変わる」。書き進めるうちに改めて感じた、自らの姿だ。

 (晶文社・1980円)

 (文・星野学 写真・桐生真氏)

 

 

親愛なるレニー 吉原真里著

巨匠と日本人 深い愛の手紙

2023114  日本経済新聞

20世紀を代表する作曲家・指揮者・教育者のレナード・バーンスタイン(191890年)がどれほど強烈なオーラを放つカリスマ的人物であったかは、その音楽に接したことのある人であれば、ご存じの方も多いだろう。本書は、そんな雲の上の巨匠と深い心の交流を持つことのできた、2人の日本人についての驚くべきノンフィクション。その主軸となるのは膨大な数の手紙からの引用である。

天野和子はおそらく日本で最初のバーンスタインの熱心なファン。戦後GHQが文化政策の一環として設置したCIE図書館で、天野はデビュー間もない若きバーンスタインが米国の音楽雑誌に寄稿した文章を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったことから長い文通が始まる。バーンスタインへの敬愛の念に満ちた手紙の数々は丹念な筆跡とともに多く掲載されているが、著者はそこに恋愛感情にも似たファンの心の機微を、共感とともに読み取っていく。

橋本邦彦はバーンスタインの舞台作品「キャンディード」「オン・ザ・タウン」や作詞・作曲家ソンドハイムのミュージカルの優れた訳詞の仕事でも知られる舞台人だが、その道に進む前は損害保険会社に勤める無名の若者だった。79年のニューヨーク・フィル来日公演の際にバーンスタインと橋本は運命的な出会いによって激しい恋に落ちる。引用された数多くの手紙から伝わってくるのは、2人の愛が決して一方的ではなく対等なもので、お互い同じくらい切実に必要としあっていたという事実である。

それにしても何という深い理解と誠実な言葉にあふれた美しい手紙の束だろう。天野の場合は、アーティストとファンとの間にこれほど永続的な愛がありうるのかという感銘を受けずにはいられないし、橋本の場合は、こんなにも精神的で高貴な、同性どうしの愛のかたちがあるということを知らしめるという点でも、意義は大きい。

熱狂的な理解と愛の始まりが、その後どう継続し変容していくのかも本書では丁寧に追っている。キーワードは「愛そうとする意志を全うすること」。バーンスタインをとりまく社会情勢や音楽業界の渦についても鋭い記述が多く、日米の文化交流の一断面という意味でも、本書をいっそう読み応えあるものにしている。

《評》音楽評論家 林田 直樹

 

 

『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』吉原真里著 (アルテスパブリッシング) 2750

2022/12/09 05:20 讀賣

巨匠と親交 日本人2

評・堀川惠子(ノンフィクション作家)

 アメリカの図書館に眠っていた、二人の日本人が書いた手紙。その数、数百通。20世紀を代表する指揮者「レナード・バーンスタイン」コレクションの一部だ。二人は氏と親交のあった小澤征爾や武満徹ら著名な音楽関係者ではなく、まったくの一般市民。なぜ世界のマエストロが無名の日本人とこれだけの手紙を交わしたのか、著者の取材が始まる。

 「和子」は戦後、焼け野原の東京にいた18歳。GHQが設立したCIE図書館を訪れ、アメリカの若き指揮者が書いたエッセイに衝撃を受けて筆をとった。昨日まで敵国だった日本からの便りにバーンスタインは丁寧に返事を書く。国際的にはまだ知られぬ20代の話だ。「邦彦」の手紙はさらに時代が下り、手紙が船便から航空便になったころ。バーンスタインと逢瀬を重ね、許されぬ関係に苦しみながらも懸命に生きる青年の姿が浮かぶ。「和子」と「邦彦」、二つの人生はやがて交差する。

 手紙は確かに興味深い。だが私信の公開で死者の尊厳はどうなるのか、名もなき日本人との交流から世界的指揮者の何が描けるのか。筋書きの見えぬ物語は息つく間もなく稀有な展開を見せ、巻を措く能わず。巨匠の評伝という枠を超え、国籍も性別も立場も超えて、音楽と人間を心から愛する人々の物語へと昇華する。

 バーンスタインが亡くなる直前の90年夏、彼が札幌に創設した音楽祭のドキュメンタリーを見たことがある。シューマン「交響曲第2番」をめぐり若手演奏家たちと織りなす感動的な場面があるのだが、その舞台裏で起きていた人間ドラマを本書に初めて知った。「外から叩くのではなく内側からあふれ出」す物語に、指揮とは人格なのか音楽とは祈りなのかと胸が熱くなった。

 個人の手紙は本来、公開にはそぐわないものだ。すべての関係者と時間をかけて信頼を結び、唯一無二の物語を世に出した著者の熱意に感謝の拍手を送りたい。

 

読書委員プロフィル

堀川 惠子 1969年生まれ。ノンフィクション作家。『原爆供養塔』で大宅壮一ノンフィクション賞など、『暁の宇品』で大佛次郎賞を受賞。

 

 

アルテスパブリッシング ホームページ

図書館に人知れず眠っていたふたりの日本人からの手紙がいま、語りはじめる。

カズコとクニ、そしてレニー ──

芸術と愛に生きた巨匠バーンスタインの実像にせまる感動のノンフィクション!

河合隼雄物語賞、日本エッセイスト・クラブ賞、ミュージック・ペンクラブ音楽賞を受賞。

……でもレニー、僕はあなたを愛してしまったし、忘れることはできないのです。あなたは僕にこう言いましたよね。「誰かと恋に落ちたくはない、なぜならそれは、自分の人生を変えてしまうから」(本文より)

ワシントンの図書館で著者が出逢った数百通の手紙。それは、世界の巨匠レナード・バーンスタインと知られざるふたりの日本人との心の交歓の記録だった。

カズコ──日本でおそらく最初の、そしてもっとも熱心なファン。

クニ──バーンスタインと激しい恋に落ち、その夢の実現に尽力した人物。

マエストロとふたりの日本人とが紡いだ愛の物語を軸に、冷戦期アメリカの文化戦略、高度成長期日本に花開く音楽文化が描かれる。感動の音楽ノンフィクションがここに誕生!

レナード・バーンスタイン(1918-1990)は、ニューヨーク・フィル、ウィーン・フィルなどのタクトをとった指揮者として、《ウェスト・サイド・ストーリー》《キャンディード》など不滅の名作の数々を生みだした作曲家として、米ソ冷戦期に反核や平和運動に精力的にとりくんだ行動する音楽家として、20世紀を代表する芸術家の筆頭にあげられる巨匠。

スティーヴン・スピルバーグがリメイクし大ヒットしたミュージカル映画『ウェスト・サイド・ストーリー』(2021)やNetflixが制作し、スピルバーグ、マーティン・スコセッシらが名を連ねる伝記映画『マエストロ』(2023年春公開予定)などで、いまなお世界中から注目を集めている。

著者は『ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール──市民が育む芸術イヴェント』(2010)、『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本』(2013)、『私たちが声を上げるとき──アメリカを変えた10の問い』(共著、2022)など、アメリカ文化史、ジェンダー研究などの分野で活躍する気鋭の研究者、吉原真里。本書は著者が2019年にOxford University Pressから出版したDearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestroをみずから日本の読者向けに翻訳・再構成したものである。

11回河合隼雄物語賞、第71回日本エッセイスト・クラブ賞、第35回ミュージック・ペンクラブ音楽賞を受賞!

ためし読みはこちら
https://hanmoto9.tameshiyo.me/9784865592658

 

2023.5.20.

本日(520日)付の沖縄タイムス読書面に吉原真里著『親愛なるレニー──レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』の書評が掲載されました。

書いてくださったのは琉球大学准教授の山里絹子さん。アメリカ研究、移民・ディアスポラ、戦後沖縄文化史などを研究されている方です。

本書について、

個人の葛藤と苦しみに焦点を当て、そこから垣間見える性と個人の自由を描く。また3人[バーンスタイン、カズコ、クニ]の人生を軸に、戦後復興と高度経済成長を遂げる日本のアイデンティティーと、日本と世界を相手に冷戦文化外交を繰り広げるアメリカとの関係力学をもひもといていく。

と位置づけたうえで、

音楽の才能と研究者としての斬新で深い洞察力を兼ね備える著者だからこそ成し得た本書。非核の信念を貫き、戦争の暴力性に音楽を通して調和を求め、さまざまな社会問題に対して声を上げてきたバーンスタインの奏でる音色は、音楽と平和がこだまする沖縄でも響き渡るだろう。

と力強く結んでくださっています。

 

2023.2.14.

『世界』20233月号に、吉原真里著『親愛なるレニー──レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』の書評が掲載されました。

 膨大な書簡はどれも美しく、時に痛みをともなうほどの激情をうかがわせる。

 二人の書簡からバーンスタインの実像に迫りつつ、そこに貫かれた溢れる愛に触れる一冊。

と、簡潔ながら本のポイントをしっかりと伝えてくれる書評で、うれしく読みました。

 

2023.1.28.

 川本三郎・評 『親愛なるレニー』=吉原真里・著|今週の本棚|毎日新聞 

 とても美しい秘話を読んだ。

というつかみからグッと読ませます!

 なんとバーンスタインに手紙を書き続けていた二人の日本人がいた!どういう人なのか。なぜ巨匠はその手紙を大事に保管していたのか。この発見から著者は、二人のことを調べてゆく。読者も心躍る。

と、基本的には本書のあらすじをなぞりつつ、ワクワクしながらページをめくる読者の目線で内容を紹介していきます。まるでお気に入りの映画を語るときの川本さんのようなタッチで、書評を読んでいるこちらも心躍ります。

 市井の二人の日本人が巨匠の音楽人生に関わっていたと知ると心あたたまる。

という結びまで、川本さんがこの本を楽しんでくださったこと、感動してくださったことがビンビン伝わってくるうれしい書評でした。

これで読売新聞に始まり、朝日新聞、日経新聞、毎日新聞と大手全国紙すべてに本書の署名入り書評が掲載され、驚きとうれしさで社内も沸き立っています。

 

 

Wikipedia

レナード・バーンスタイン Leonard Bernstein1918825 - 19901014)は、ユダヤ系アメリカ人指揮者作曲家であり、ピアニストとしても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者であり、ヘルベルト・フォン・カラヤンゲオルク・ショルティらと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきた音楽家だった。愛称はレニー。妻は、チリ出身の女優ピアニストの、フェリシア・モンテアレグレ。

人物・来歴[編集]

バーンスタインは、ウクライナユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。

ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学カーティス音楽院で学ぶ。彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。指揮ではフリッツ・ライナーセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943夏にアルトゥール・ロジンスキの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。

19431114、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。

ロベルト・シューマンマンフレッド序曲

ミクロス・ローザ(ハンガリー出身の作曲家、映画「ベン・ハー」の音楽などが代表作)『主題、変奏曲と終曲 Op.13a

リヒャルト・シュトラウスドン・キホーテ』(チェロ:ジョゼフ・シュスター、ヴィオラ:ウィリアム・リンサー)

リヒャルト・ワーグナーニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲

1958、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。

1969にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィルイスラエル・フィルバイエルン放送交響楽団ロンドン交響楽団フランス国立管弦楽団などに客演した。ことに同じユダヤ系作曲家であるグスタフ・マーラーの交響曲の演奏は自ら自分で書いたような気がしてくると言うほどで、数々の演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。マイケル・ティルソン・トーマス小澤征爾大植英次佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも知られる。

19858月に広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。1989のクリスマスには、直前に起きたベルリンの壁崩壊を受け、ベルリンで東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーでベートーヴェン交響曲第9を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”“Freiheit(自由)にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。また翌19906月にも、民主化されたチェコスロバキアプラハの春音楽祭で同曲を指揮した。

これらのように音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。

19906月には札幌で自ら創設した国際教育音楽祭、パシフィック・ミュージック・フェスティバルPMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、すでにバーンスタインは病に冒されていた。同年819タングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン交響曲第7)が最後の舞台となり、109日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の1014に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した。満72歳没。この年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞している。

バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回(1961197019741979)はニューヨーク・フィルを率いて。1985には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。最後(1990年)はPMF73日)、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。逝去する3ヶ月前、PMFのために札幌芸術の森で行われたリハーサルの模様や最晩年の様子はNHK特集「バーンスタイン」に収録され放映された。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、710の演奏会に天皇陛下が招待されていたことや、自作(「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス)を弟子の大植英次に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。

エピソード[編集]

ヘビースモーカー[編集]

ヘビースモーカーとして有名で、14歳の時に煙草を覚えたという。煙草にまつわるエピソードも多く、198668歳の時)には米国の新聞紙面で「私は20歳代の半ばに肺気腫の兆候があると診断された。煙草をやめなければ35歳までに死ぬと言われた」と語ったことがある。著名なミュンヘンの音楽評論家であるヨアヒム・カイザーの談話によれば、彼は1日に煙草を100本(5箱)とウイスキー1本を飲むことを日課としていたという。また、晩年にアシスタントを務めた佐渡裕の著書によれば、しばしば「今日で禁煙するが、最後に1本だけ」と煙草に火をつけ、結局やめたことはなかったという。

カラヤン[編集]

バーンスタインがカラヤンと初めて会ったのは1948、彼がまだ30歳のときであった。音楽ファンからライバルとみなされてきた2人だけに、おびただしい数に及ぶ比較などが行われ、2人に関連して語られるエピソードには脚色が多い。

ウィーンでは、バーンスタインの演奏会の前後にカラヤンの演奏会が開かれることがよくあった。佐渡裕の話によれば、1988秋のある日のこと、佐渡はバーンスタインの演奏会の翌日にあったカラヤンの演奏会の前売り券を購入した。自分の演奏会の翌日にカラヤンの演奏会があることを知ったバーンスタインは佐渡に「明日(カラヤンの演奏会に)行くのか?」と尋ね、佐渡が「行きます」と告白したところ「俺も連れてってくれよ」。佐渡とマネージャーが「あなたが行けば、マスコミがスキャンダラスに書き立てるから」と行くことを断念するよう説得したが、「俺はヤツの音楽は嫌いなんだけど、ヤツの顔が見たいんだ」。翌日、お忍びでカラヤンの演奏会場に出現したバーンスタインは、舞台裏でめでたくカラヤンと対面したという。

カラヤンの伝記作者リチャード・オズボーンによれば、カラヤンは198845日、80歳の誕生日祝いのバースデー・カードをバーンスタインから受け取ったという。翌1989716にカラヤンが死去した時、パリの演奏会でこのニュースに接したバーンスタインは、彼のために2分間の黙祷を捧げ、2ヶ月後の916にウィーン・フィルが開いたカラヤン追悼演奏会では、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第16弦楽合奏版を指揮した。

特に若い頃は、お互いに相手の才能を認め合っていたと、オズボーンは記している。1958年にニューヨーク・フィルの客演にカラヤンを招聘したのもバーンスタインであった。カラヤンは1113日から23日にかけて、合計8回の演奏会を指揮している。曲はモーツァルト交響曲第40リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」など。

なお、カラヤンとバーンスタインの間に本当に確執があったかどうかであるが、少なくともバーンスタインは音楽ジャーナリストのエンリーコ・カスティリォーネとの対談においてこれを完全に否定している。そればかりか、カラヤンの亡くなる少し前、そうした噂を一挙に払拭するために同じ演奏会で指揮台を分け合うという合同演奏会の話をカラヤンから持ちかけられたといい、バーンスタインはこれをすぐに受け入れた。

これを受けてカラヤンがバーンスタインに「ベルリン・フィルを指揮したいか」と尋ねたところ、バーンスタインは「ベルリン・フィルの音楽家は甘やかされすぎて、最早カラヤンを常任指揮者として望まなくなっている」という理由からウィーン・フィルでの演奏会を望んだ。カラヤンはこの選択を非常に喜んだという。二人はこの演奏会を心待ちにしていたが、カラヤンの死によってついに果たされることはなかった。

カラヤンが没した翌夏、札幌でのパーティでバーンスタインに同席した音楽評論家クラウス・ガイテルによれば、バーンスタインは、ウィーン・ムジークフェラインザールにカラヤンを訪ねたときのことを、カラヤンへの深い尊敬の念とともに語ったという。

トスカニーニ[編集]

バーンスタインの若いころ、自宅で「トスカニーニの指揮する」ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」のレコードを聴いていたところ、ふと疑問に思う演奏箇所があったため、バーンスタインはそのことを聞くためにトスカニーニの自宅を訪問し面会した。しかし、レコード室を管理していたトスカニーニの息子が外出しており、「疑問点に関しては後ほど手紙で答えよう」ということになった。ところが、バーンスタインが帰宅後、聴いていたレコードをよく見ると演奏者はトスカニーニではなくシャルル・ミュンシュであった。慌てたバーンスタインは早速己の勘違いを謝罪する手紙を書き、それを出そうとしたところトスカニーニからの返事が届いた。恐る恐るその手紙を見ると、「君の指摘を受けてレコードを聴き直してみたが、私の解釈は間違っていないと思う。しかし、それが万全なものであるとも限らないはずだ。貴重な忠告をありがとう」と綴られていた。

フルトヴェングラー[編集]

1950フルトヴェングラーアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演した際、ちょうどアムステルダムに仕事で滞在していたバーンスタインはフルトヴェングラーの演奏会を聴きにいき、特にブラームス交響曲第1に魅了された。演奏会終了後、楽屋を訪ねようとしたが、ナチスの協力者とされているフルトヴェングラーをユダヤ人のバーンスタインが訪問するというのは政治的にも非常に危険なことだと彼のエージェントに止められたため(当日演奏会場の外では、フルトヴェングラーが第二次世界大戦中ドイツに留まったことを非難するデモが行われていた)、断念せざるをえなかった。そしてついにこの二人の天才的な芸術家が個人的な面識を持つチャンスは永遠に失われたのであった。フルトヴェングラーの死後、バーンスタインはフルトヴェングラーの日記を読む機会があり、アムステルダムでのフルトヴェングラーの演奏会の数日後、バーンスタインの演奏会をフルトヴェングラーが聴きにいき、この若いアメリカの指揮者に完全に魅了された、とあった。演奏会後にバーンスタインに会おうとしたが、やはり政治的な問題もあり、自分は人見知りする性質なので諦めたと書かれていた。

ライナー[編集]

前述の通り、若き日のバーンスタインはカーティス音楽院でライナーに師事して指揮法を習っている。バーンスタインはライナーの指導について次のように述懐している。「ライナーは専制的で残酷、辛辣、無慈悲だったけれども、それは、何が問題かを理解していない相手に対してだけだった。彼の指導は、まったく信じられないような要求水準の高さを持っていたが、しかし彼は自分自身に求める以上のことを学生に求めることは決してやらなかった。彼は、演奏する曲を完全に知らない限り、オーケストラの前に出てはいけないということを教えてくれた。彼こそまさに天才だった。指揮で私が高い水準に達することができたのは、ライナーの指導の賜物である。だからこそ私は、今も彼を崇拝しているのである」。また、ライナーもバーンスタインのことを「奴は天才だ」と評して指導に力をいれ、卒業の時には他の弟子には決して与えることがなかった最高ランクの「A」評価をつけた。

チェリビダッケ[編集]

同業の指揮者に対する辛辣な批判で知られるセルジュ・チェリビダッケの矛先は、当然バーンスタインにも向けられていた。バーンスタインは「自分の世界とは無縁」である、と語った。しかし、バーンスタインが1990年に亡くなったときちょうど来日していたチェリビダッケは、バーンスタインについて「彼と私は長年書簡を交わしてきた。彼は真の天才だった。彼は亡くなるにはあまりにも早すぎた」と、その死を悼んだといわれている。

カルロス・クライバー[編集]

12歳下であるカルロス・クライバーをバーンスタインは深く尊敬しており、クライバーの指揮したプッチーニの「ラ・ボエーム」を「最も美しい聴体験の一つ」と語っているほどであった。クライバーは、199211日にバーンスタインが果たせなかったウィーン・フィルとのニューイヤーコンサートの指揮を代行している。しかし、同年3月のウィーン・フィル創立150周年記念来日公演はクライバーの急病によりキャンセルされ、ジュゼッペ・シノーポリが来日した。

共産主義への傾倒[編集]

バーンスタインに限らず、当時のアメリカの多くの芸術家は政治的傾向として共産主義に傾倒していた。バーンスタインは熱心な民主党支持者であり、ジョン・F・ケネディ大統領を理想の政治家として尊敬していた。

同性愛[編集]

バーンスタインは師匠のミトロプーロスと同じく、同性愛傾向も有していた。彼は1951年に結婚したフェリシア夫人との間に3児をもうけ、病床に伏した夫人が癌だと判明すると献身的に看護するなど(フェリシアは1978年に死去。晩年のバーンスタインには大きな精神的打撃を与えたことを彼の周囲の人々は回想している)、妻を深く愛していたが、その一方で自らの同性愛傾向を隠さなかったのも事実であり、男性と必要以上に親密にふるまうことも多かった。たまりかねたフェリシアが「もう男といちゃつくのはやめて!」と訴えると、バーンスタイン自身は平然と「なに言っているんだい? 芸術家ってのはホミンテルンホモコミンテルン)なんだぜ」と答えたという。また、ファーリー・グレンジャー2007に出版した自伝のなかで、バーンスタインとの恋愛関係について告白している。

最後のコンサート[編集]

最後の指揮となったボストンでのコンサートは体力の消耗が激しく、最初の「ピーター・グライムズ 4つの海の間奏曲」は何とか終えたものの、最後のベートーヴェンの交響曲第7番になると目に見えて動きが悪くなった。第3楽章では腕が上がらなくなったが、コンサートマスターとアイコンタクトをとりながら体力を蓄え、第4楽章までを終えた。その後打ち上げのパーテイーもそこそこに、ニューヨークに飛んで帰り、すべてのコンサートをキャンセルして引退宣言を行った。 中川右介『巨匠たちのラストコンサート』文春新書 636

その他[編集]

小惑星(4476) Bernsteinはバーンスタインの名前にちなんで命名された。

2023年、バーンスタインと妻フェリシアが歩んだ紆余曲折に満ちた愛と葛藤の人生を描いた映画『マエストロ: その音楽と愛と』が制作された。ブラッドリー・クーパー(兼監督・脚本・製作)がバーンスタインを演じた。

指揮活動[編集]

レナード・バーンスタインの指揮活動は、大きく分けて3つの時期に大別できる。

1943-1958 デビュー・コンサートからニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者就任まで

1958-1969 ニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者時代

1969-1990 ニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者辞任から晩年まで

バーンスタインが25歳で指揮活動を始めた時期、アメリカ国内で活動していた指揮者はほとんどが他国から移住してきた者たち(トスカニーニ、ワルターモントゥーオーマンディなど)であり、ブルーノ・ワルターのように第二次世界大戦の難を逃れてきた者も多かった。「アメリカ生まれ・アメリカ育ち」の指揮者はほとんどいなかったため、バーンスタインはすぐにアメリカ・クラシック音楽界の期待の星となる。当時は録音技術もモノラルしかなかったため、バーンスタインの最初期録音は比較的少ないが、彼は早くから幅広いレパートリーを手中に収めていたことが分かる。195312月、35歳のバーンスタインはアメリカ人指揮者として初めてミラノスカラ座の客演指揮に招かれ、ケルビーニのオペラ『メデア』を指揮した。1950年代前半の時期、若手指揮者として最も目覚ましい躍進を見せていたのが、バーンスタインとイタリアグィド・カンテルリ2人だった。

19541118日、バーンスタインはCBSのテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演し、ベートーヴェン交響曲第5の解説を行った。これが一連の教育番組『青少年コンサート』Young People’s Concert)の出発点となる。ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任の前年、39歳だった1957に代表作『ウエスト・サイド物語』が生み出された。

ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者時代、バーンスタインの主要レパートリーはCBSレコード(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)が独占契約で録音していた。『青少年コンサート』もこの時期の活動で大きな位置を占めている。同オーケストラの常任指揮者の職務にあった時期、バーンスタインは自らの「補助指揮者」の育成にも尽力した。ここから小澤征爾クラウディオ・アバドズデニェク・コシュラーなどの指揮者が育っていった。しかし、この時期は作曲にあてる時間がほとんど取れず、主な作品は1963作曲の交響曲第3『カディッシュ』と1965作曲の宗教合唱曲『チチェスター詩篇』ぐらいしかない。わざわざ「作曲の時間を取るため」1964-1965のシーズンは休みを取ったほどである。1966にバーンスタインは初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の客演指揮に招かれ、このオーケストラとの良好な関係は終生にわたって続いた。

1969を最後にバーンスタインがニューヨーク・フィル常任指揮者のポスト辞任を希望した理由は「作曲の時間を取るため」だった。作曲の分野では『ウエスト・サイド物語』を上回る作品を生み出したいという願いは満たされなかったが、バーンスタインは世界一の客演指揮者として高い人気を集めた。1970年代半ばにはCBSレコードとの独占録音契約を離れ、ドイツ・グラモフォンおよびEMIと録音契約を交わして、かつて録音していたレパートリーの再録音を中心に、ヨーロッパとアメリカのさまざまなオーケストラとの多彩な録音に着手した。このうちEMIとの契約は短期に終了したが、グラモフォンとの関係はその後専属となり、バーンスタイン最後のコンサートのライブ録音まで続くことになる。CBSレコード時代の旧録音と、EMI・グラモフォン時代の新録音の間では、溌剌とした前者を好む者、後者に指揮者としての円熟を感じる者など、当然のことながら評価は人により、また曲によりまちまちである。

グラモフォンでの録音の多くが、当初から商品化を想定したライブ・レコーディングで行われたのも、当時としては画期的であった。同時にユニテルや放送局による映像収録も積極的に行われるようになる。1979年から1981年に発表されたベートーヴェンの交響曲全集と序曲集・弦楽四重奏曲第14(弦楽合奏版)および『ミサ・ソレムニス』は、マクシミリアン・シェルとバーンスタインによる楽曲解説を含むオーストリア放送協会ら制作のTVミニシリーズ『ベートーヴェン/バーンスタイン』と並行して録音されたものである。

この時期、19791045ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団1度限りの共演が行われた。曲目は、マーラー交響曲第9で、バーンスタインの没後1992に、放送用のライブ録音音源から商品としてリリースされた。これをバーンスタインの代表作とする熱心な聴き手が今なお多い。

若い頃には情熱的できびきびした音楽作りが魅力でもあったバーンスタインは、晩年にはゆったりとした重厚な表現を好むようになる。時には極めて主観的な演奏を展開し、楽譜から表現しうる限界といえるほどの感情移入も厭わなかった。彼が最も愛した3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そしてイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団であった。

200010月、バーンスタインの没後10年目にニューヨーク・フィルの「自主制作盤」として「バーンスタイン・ライブ」(Bernstein Live)という10枚組のCDが発売された。なかには正規の録音が残されなかった珍しいレパートリーも見出され(ワーグナー神々の黄昏』、ブルックナー交響曲第6など)、ヴィルヘルム・ケンプピアノ)とのベートーヴェンピアノ協奏曲第3ジャクリーヌ・デュ・プレチェロ)とのシューマンチェロ協奏曲などの珍しい共演も正式な録音として発売された。

バーンスタインはまた、積極的に現代曲の演奏にも取り組んだ。自身の曲に加えて、ショスタコーヴィチストラヴィンスキーコープランドアイヴズ等の作品を積極的に紹介した。現代音楽の分野においても、代表的には、メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』の世界初演を担った他、ニューヨーク・フィル等と共に、ヴァレーズの『インテグラル』と『アルカナ』、デニソフの『クレッシェンドとディミヌェンド』、ブーレーズの『プリ・スロン・プリ』より「マラルメによる即興第1」、フェルドマン『最後の作品』から、ケージの『黄道の地図』、カーターの『管弦楽のための協奏曲』、メシアンの『神の現存についての3つの小典礼』、リゲティの『アトモスフェール』、クセナキスの『ヒトプラクタ』、ダッラピッコラの『タルティニアーナ』、ガンサー・シュラーの『トリプラム』など様々な録音を残している。そのほかにも、とりわけアメリカの現代作曲家の作品を中心に多くの現代曲を振っている。また、日本人作曲家では黛敏郎の『饗宴』を好んで指揮したという。 また、バーンスタインはテレビ向けにシェーンベルクの解説をしてことはあるが、シェーンベルクの録音は残していない。一方で同じ新ウィーン楽派に属するヴェーベルンベルクの作品は録音している。

バーンスタインがニューヨーク・フィルで振った多くの曲のスコアは、バーンスタインの書き込みが入った形のまま、ニューヨーク・フィルのデジタル・アーカイヴで検索・閲覧することができる。

主要作品[編集]

交響曲

1番『エレミア』 (Symphony No.1 "Jeremiah") (1942

2番『不安の時代』(ピアノと管弦楽のための) (Symphony No.2 "The age of anxiety") (1947-1949/1965改訂)

3番『カディッシュ』(管弦楽、混声合唱、少年合唱、話者とソプラノ独唱のための) (Symphony No.3 "Kaddish") (1963/1977改訂)

バレエファンシー・フリー (Fancy Free) (1944

ミュージカルオン・ザ・タウン (On the Town) (1944初演)

ミュージカル『ワンダフル・タウン(Wonderful Town) (1953初演)

ミュージカル『ウエスト・サイド物語 (West Side Story) (1957初演)

ミュージカル『キャンディード (Candide) (1956初演/1989最終改訂)

オペラタヒチ島の騒動 (Trouble in Tahiti) (1952

この作品は後年に大幅な拡大改訂が施され、オペラ『静かな場所』 (A Quiet Place)となった。(1983

クラリネット・ソナタ (Sonata for Clarinet and Piano) (1942

5つの子供の歌『私は音楽が嫌い』 (I Hate Music) (1943

合唱曲『チチェスター詩篇 (Chichester Psalms) (1965

歌手と演奏家、踊り手のためのミサ曲 (Mass - A theatre piece for singers, dancers, and players) (1971

合唱曲『ソングフェスト』 (Songfest) (1977

前奏曲、フーガとリフ (Prelude, fugue and riffs) (1949/1952改訂)

映画『波止場 (On the Waterfront)の音楽 (1954

セレナード (Serenade) (1954

バレエ『ディバック』 (Dybbuk) (1974

政治的序曲『スラヴァ! (Slava! A Political Overture) (1977

オーケストラのためのディヴェルティメント (Divertimento for Orchestra) (1980

ハリル (Halil) (1981

ピアノ曲『タッチズ』(コラール、8つの変奏とフーガ) (Touches - Chorale, Eight Variations and Coda) (1981

アリアとバルカロール(メゾ・ソプラノ、バリトンと4手ピアノのための) (Arias and Barcarolles) (1988

バーンスタインの作品の特徴[編集]

初期はブロードウェイ・ミュージカルで音楽活動の基盤を築き、その分野では早くから人気作曲家になっていた。

いっぽうでシリアス・ミュージックの作曲家としては、交響曲第1番『エレミア』、交響曲第3番『カディッシュ』など、ユダヤ教の影響を受けた宗教的作品を数多く残している。それらは宗教的なメッセージをはらみながら決して難解ではなく、むしろ時に啓蒙的な作風であるのが特徴といえる。現代の「信仰の危機」というテーマを、ローマ・カトリックの典礼文を下敷きに、ミュージカルシアター作品として書き上げた『ミサ』は、大衆性と宗教的モティーフとの両面を統合した点で、作曲家バーンスタインを象徴する作品である。

作風はひとことでいえば「折衷的」なスタイルで書かれたものが多い。1つの作品の中でジャズやクラシックなどのさまざまな音楽の要素を巧みに織り交ぜることは、彼の生前には批判が多かった点の1つだった。しかし現代にあっては、むしろ多様な表現様式の融合は音楽の潮流ともなっており、「ウェスト・サイド物語」「キャンディード」といったもともとミュージカルシアターのために書かれた作品がミラノ・スカラ座をはじめトップクラスの歌劇場で上演されるようになったのも、バーンスタインの作品への再評価の動きの表れである。

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

ノミネート

1955 アカデミードラマ・コメディ音楽賞:波止場

バーンスタイン自身の著書[編集]

『音楽のよろこび』(The Joy of Music, 1959年)

吉田秀和訳、音楽之友社1966年、のち新版

『青少年コンサート』(Leonard Bernstein's Young People's Concerts, 1962年)

『青少年コンサート 音楽鑑賞の新しい試み』、岡野弁訳、全音楽譜出版社、1976

『音楽の無限の多様性』(The Infinite Variery of Music, 1966年)

『バーンスタイン音楽を語る』、岡野弁訳、全音楽譜出版社1972年、新版1990年、1998

『答えのない質問』(The Unanswered Question, 1976年) 当時の初版には、画期的なサンプル・レコード盤がついていた。

和田旦訳、みすず書房1978年、新版1991年。1973年度ハーヴァード大学詩学講座

『発見』(Findings, 1982年)

『バーンスタイン わが音楽的人生』、岡野弁訳、作品社2012

脚注[編集]

1.     ^ “Leonard Bernstein - バーンスタインの日本公演の記録です。”. 2023221日閲覧。

2.     ^ “(4476) Bernstein = 1978 YF = 1983 DE = 1985 TC3”. MPC. 202199日閲覧。

3.     ^ ブラッドリー・クーパー監督・主演「マエストロ」、フィンチャーのサイコサスペンス「ザ・キラー」などNetflix映画4作品配信日決定. 映画.com. (202392) 2023123日閲覧。

 

 

橋本 邦彦(はしもと くにひこ、1963524[1] - )は、日本フリーアナウンサー。「喋り屋」と称しての活動を行っている[2][3]

略歴[編集]

東京都出身[1]東京都立杉並高等学校[2]武蔵大学人文学部社会学科[1]卒業。他に東京アナウンスアカデミー東京アナウンスセミナーも自らの出身校としている[2]

琉球放送のアナウンサーを務めた後、圭三プロダクション所属のフリーアナウンサーになる[1]。後にダブルウィンプロダクションに所属した。

担当番組[編集]

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出典検索?"橋本邦彦" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL20243

琉球放送[編集]

·         ラジオジャック1987 - 1993年、メインパーソナリティ担当は1988 - 1993年)

o    火曜準レギュラー(19874 - 19883月)木曜担当(19884 - 19894月、ここからメインパーソナリティ)水曜・木曜担当(19894 - 19904月)水曜 - 金曜担当(19904 - 5月)水曜・木曜担当(同年6 - 10月)水曜担当(同年10 - 19939月)

·         RBC歌謡ヒットチャート(1988 - 1995年)

·         ロッキンパラダイススタジオS1989 - 1991年)

·         でぃーぷすろーと(1995年)

·         RBCポップチャート(1995 - 1996年)

·         ○×超ファニカジ[4]1996 - 1997年)

·         スポーツ中継NAHAマラソン夏の高校野球予選大会など) - リポーター、実況担当[1]

フリー転身後[編集]

·         バトルステーション(サムライTV - 実況担当[1]

·         TVSライオンズアワーテレビ埼玉 - ベンチリポーター[1]

·         ウィークデー・シャッフル(むさしのFM - 金曜担当[5]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

1.    a b c d e f g 橋本邦彦プロフィール”. 圭三プロダクション. 2001415日時点のオリジナルよりアーカイブ。202431日閲覧。

2.    a b c 橋本邦彦”. Facebook. 202431日閲覧。

3.    ^ 橋本邦彦(所属)MC・アナウンサー”. タレント紹介. ダブルウィンプロダクション. 202431日閲覧。

4.    ^ 検索結果 ○×超ファニカジ”. 放送ライブラリー放送番組センター. 202431日閲覧。

5.    ^ むさしのFMプログラムガイド 202310月〜20243” (PDF). 番組表PDF. 株式会社エフエムむさしの. p. 2 (2023). 202431日閲覧。ダウンロード元ページ:https://www.musashino-fm.co.jp/

 

Glarity

橋本邦彦についての情報

·         橋本邦彦は、日本のフリーアナウンサーであり、「喋り屋」としての活動を行っている[2]

·         彼はバーンスタインとの関わりが深く、バーンスタインの愛情に後押しされる形で、彼と切々としたラブレターのやりとりを行っていた[10]

·         橋本邦彦は俳優や声優としても活動し、劇団四季での活動経験も持つ[1]

·         北海道大学でのトークイベントにも登壇しており、幅広い分野での活動が見られる[3]

参考文献:

·         [1] バーンスタインがPMFに託した思い 伴走者・橋本邦彦さん

·         [2] 橋本邦彦 - Wikipedia

·         [3] 北海道新聞に橋本邦彦さんのインタビュー記事が掲載されました

·         [10] 日本からの手紙 レナード・バーンスタインと戦後

 

 

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