マルク・ミンコフスキ Marc Minkowski 2024.3.23.
2024.3.23. マルク・ミンコフスキ ある指揮者の告解
Marc
Minkowski ~ Chef d’orchestre
ou centaure, Confessions 2022
著者 Marc
Minkowski 1962年、パリ生まれ。バソン奏者として活躍しながら、徐々に指揮に転向。82年パリで古楽アンサンブル、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルを創設。
バロック・オペラを中心にした録音を次々にリリースし、一躍世界的脚光を浴びる。バロックからロマン派まで幅広いレパートリーを持つ、現在最も注目される指揮者の1人。2016~21年までボルドー国立歌劇場の総監督として指揮をするだけでなく劇場全体の運営を行う。18年レジオン・ドヌール勲章。02年以来たびたび来日し、オーストリア・アンサンブル・金沢と東京都交響楽団を指揮。特に前者は18~22年芸術監督を務める(現在桂冠指揮者)。子どもはいない
編者 Antoine
Boulay 企業家、元大臣付参謀兼顧問、銀行家、エコノミスト。長年音楽に傾倒し、マルク・ミンコフスキが創設したレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの副代表。15~23年フランスで最も著名な声楽アンサンブルEnsemble Aedes(マチュー・ロマノ指揮)の代表、その他の音楽団体の役員も務める。また、ブルゴーニュ地方のスミュール・アン・ノーソワでフランス音楽のための音楽祭「オーヴェルチュール!」を創設。文化・芸術への貢献が認められフランス芸術文化勲章「シュヴァリエ」を受章
訳者 岡本和子 オーストリア社会・文化史研究、通訳・翻訳家。4~8歳までパリ、8~高卒までウィーンで育つ。ウィーンの独仏バイリンガル・スクール卒、仏バカロレア取得後帰国。慶應大美学美術史学科(音楽学)卒、東京大大学院ドイツ語独文学科修士課程修了。NHK衛星放送独・仏ニュースの同時通訳のほか、クラシック音楽番組・雑誌のインタビュアー、エッセイスト、プロデューサーとしても活躍。CD解説文の翻訳、歌曲やオペラの翻訳・字幕多数手がける。慶應大・上智大講師
日本版監修 森浩一 1971年生まれ。東大法卒。在京テレビ局でディレクターを経て報道記者・デスクとして勤務。幼少期よりクラシック音楽に親しみ、大学時代はオーケストラでチェロを演奏。国内外の演奏会に多数通い、音楽業界の友人も多い。02年以降、マルク・ミンコフスキの音楽に魅せられ世界各地の公演に足を運ぶ
発行日 2024.3.20. 第1刷発行
発行所 春秋社
プロローグ ロックダウン都市を逃げ出した二人(アントワーヌ・ブレ)
突如ロックダウンに襲われ、幸いパートナーと一緒だったので、この本の計画が再び動き出し、スカイプを通してミンコフスキと夢のような2カ月を過ごし、思いのたけを語ってもらった
ほぼ独学で直感を頼りにここまでやってこられたのは、「意志と才能」による
指揮がしたい、オペラを指揮したいと願っても、地方の音楽学校でモダンとバロックのバソン(フランス式のバスーン)の勉強しかしていなかった。ハーグでも研鑽を積んだが、指揮はアメリカでマスタークラスを少しかじった程度で、無謀な挑戦だった
とにかく人の演奏をよく聴く指揮者で、「他人から学ぶ」姿勢は独学とは真逆
1 アーノンクール・ショック
コロナによるロックダウンでアントワーヌと話しているうちに本を書かないかと提案される
指揮をするきっかけは、アーノンクールの《四季》のレコードを聴いたこと。その時私の音楽スタイルは決まり、私の音楽観の基本となる、ありとあらゆるものがこの日に生まれた
1983年、アーノンクールのチェロの弾き振りを初めて生で聴く。指揮者でもある1人の奏者の考えを、オーケストラという手段を介して、どうやってあれほど力強い、劇的な表現に変換させることができるのか。歌手が加われば劇的な表現が一段と増すのは分かるが、それだけではないはずで、ディスクール(言いたいこと)の発端はあくまでもオーケストラでなくてはいけない。私が彼の音楽に魅了されたのはまさにこの点で、この秘密こそが、私が「アーノンクール研究」にのめり込んでいった理由
アーノンクールのコンツェントゥスのオーディションも受けたが入団は叶わず
「自分の音楽スタイルの起源」に関しては、アーノンクールから学んだ「アタック」こそ私の音楽言語のベースになっている。「アタック」とは、音を発音する際、アーティキュレーション、筋力のエネルギーを使って解き放つ技術に他ならない。指揮者はジェスチャー、弦楽器奏者は運弓、管楽器奏者は息、打楽器奏者はマレットを用いる。アタックはすべての偉大な指揮者を特徴づけるもの。今の時代、全体的な音のまろやかさ、美しさばかりが注目され、音がどうやって生まれるのかという根幹的なことが忘れられがちで、特に若い奏者は、優美でふわふわしたケープに覆われたような音を追求するあまり、解釈を具現化する強烈なジェスチャーであるアタックを蔑ろにしやすい
演奏スタイルを構成する要素のうち、テンポは確かに重要だが、アタックの方がもっと重要で、陥りやすい過ちは、描写に終始してしまうこと
音楽の流れ、場面のスムーズな転換、緊張感が一貫して失われないようにしなくてはいけない。ここで重要になるのが構造性で、アタック、テンポに次いで私の音楽言語を支える3つ目の柱は、リリシズム、歌だろう。楽器奏者がふと自然に歌い始める瞬間があるし、ピリオド楽器や原典版の楽譜を使用するときは、感情の吐露を控えめにして、歌手や歌とは一定の距離感を保つべきだと考える解釈もあるが、アーノンクールは全く逆のことをやっている
両者の中間に位置付けられる演奏スタイルを持つのがイギリスの指揮者で、なかでもガーディナーには魅かれる
2 バソン奏者から指揮台へ 我が師たち
実家に遊びに来ていたジャン=クロード・カサドシュの勧めでバソンをやるようになり、アルザス学園のオーケストラに入団、1年後には本格的な管弦楽曲を正しく演奏できた
その名を冠する時空理論で知られる数学者のヘルマン・ミンコフスキを祖に持ち、著名な医者一族の家に生まれながら、理系科目、特に数学の成績は悲惨で、音楽にしか興味がなかった
学校を退学、バカロレア受験も断念し、パリのフランソワーズ・エール声楽アンサンブルに雇われ、プロとして勉強を続ける。アルザス学園を率いるミシェル・ローテンビュレルの勧めもあって指揮にも興味を持ち、医療系の高級官吏だった父が企画する業界の会議の締めくくりとなるコンサートを指揮して、これこそ天職だと悟る
1982年、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルという団体名で初めてオーケストラだけの小さな演奏会を指揮。演目はパーセルの歌劇《ディドとエネアス》。因みにルーヴル宮殿と旧テュイルリー庭園はフランス音楽発祥の場所で、コンセール・スピリテュエルが活躍し、「上手」(宮殿側)と「下手」(庭園側)という劇場用語の語源となった宮廷劇場「機械の会場」があった所
コンセール・スピリテュエル:18世紀フランスの演奏会・音楽集団の名称。「宗教音楽演奏会」の意味で、系統的に発達しえた最初の定期演奏会
初めて指揮した本格的なオペラ公演は大成功。後にオペラ・コミック座の総裁になったマリヴォンヌ・ド・サン=ピュルジが専門誌に絶賛記事を書く
ハーグ音楽院でバロック・バソンも習得し、当時の3大バロック・アンサンブルの専属となる
80年代はバロック・アンサンブルの黄金期で、バロック指揮者たちとぶつかったり一緒になったりしていたが、87年の没後300年のリュリ・イヤーでは多くの作品の蘇演に参加、自らも指揮の機会に恵まれる。イタリア・バロックの作曲家ストラデッラの作品アルバムでグラモフォン賞を受賞、それを契機にドイツ・グラモフォン傘下の古楽器レーベル・アルヒーフと専属契約。アルヒーフ・レーベルでの初録音はラモーの最初の悲歌劇《イポリートとアリシ―》
3 ケンタウロスになりたい
馬と急速に親密になったのは2000年代に入ってから。2015年と17年のザルツブルク・モーツァルト週間に馬術振付師のバルタバスを招聘
父は、医学界でもメディアでも一目置かれる、根っからの政治家、評論家。母は、エディス・ウェイドという、登山事故でキャリアを絶たれた米国の女流ヴァイオリン奏者の娘で翻訳家、多くの音楽家とも交流。年の離れた異母姉1人、兄2人。ノルマンディでバカンスを過ごすうちに馬に夢中、競技より場外乗馬を楽しむ。音楽に集中して一旦乗馬を中断していたが、バルタバスの馬術劇団ジンガロに出会って鮮烈な馬との再会を果たす
乗馬と音楽の結びつきは古く、馬術用に建てられた多くの施設が音楽を演奏する会場として併用されてきた。今後はケンタウロス(半人半馬)になって、乗馬とコンサートを結びつけた活動を増やしていきたい
4 指揮者とは
ピエール・モントゥーは1875年生まれ、1913年にディアギレフと《春の祭典》の世界初演を指揮した偉大な指揮者だが、彼の第一助手だったシャルル・ブリュックを通じてその極意を教えてもらった。1981年、父が看護師の隣に住むブリュックに引き合わせてくれた。夏のメイン州ハンコックのモントゥー音楽院の聴講生として参加することになり、最初に叩き込まれたのは「細かく、正確に」を鉄則とする厳格な指揮法。あれほど辛く厳格なやり方が今の時代に認められるかどうかは疑問、教えは正しいが、教え方が何とも・・・・・いえない
ハンコックで指揮について得た確信は、今も変わっていない――「指揮はエネルギーの流れである」「求める響きは下から、ベース、オーケストラの「低音域」から構築していくべし」「ジェスチャーは明確であればあるほどオーケストラは安心し、その結果、幸せな気分になってくれる」
日本のオーケストラは、リラックスさせながら、身体をしっかり動かして指示を細かく出すほうがうまくいく。音楽表現に欠かせない肩の力を抜いた響きに達するまで時間を要するが、いざ感覚を掴むと百倍やそれ以上の素晴らしい音が返ってくる。ベルリン・フィルやウィーン・フィルは逆に、指揮者との積極的なやりとりを最初からはっきりと求めてくる。招聘した指揮者と対等であるという姿勢で、指揮者とオーケストラの双方から絶えずメッセージが発信されている。目指すものは同じだが、お互いに提供し合うものは違う
本来であれば、さらにハンコックにもう一度行くべきだったが、代わりに他の指揮者の演奏会に足繫く通って勉強したし、いつでもどこでも、あらゆることから学び続けている
指揮にはこれという正解はない
私には、光、夕暮れ、夜、耀き、といった視覚的なイメージを用いた言い回しで何かを説明する癖があるが、性的な表現や料理を例に挙げることもあり、オーケストラによって反応はかなり違う。技術的な専門用語では翻訳しきれないものを追求するには、イメージを使った説明は時に大いに役立つ。視点を「ずらす」ことで、目の前にいる演奏家の発想を変えて、我々共通の敵である「惰性」から解き放ちたい。面白いのは、強い圧をかけたときにバランスが崩れるケースが「ラテン系」のオーケストラに多く、独墺といったゲルマン系、北欧やロシアのオーケストラは逆にそうした強い圧を求める傾向がある。慣習に惑わされることなく、楽譜に書かれている世界を聴き手に届けるためなら、私はリスクを恐れない。メンデルスゾーンの《真夏の世の夢》の《結婚行進曲》も厳粛に演奏されることが多いが、元はアレグロ・ヴィヴァーチェのテンポで、ユーモアと挑発の音楽なのだ。第九の終楽章の前奏にあるチェロとコントラバスのレチタティーヴォについても、朗々と唸る演奏が多いが、元々はin tempoで作曲家が指定しているテンポはpresto、猛然と疾走するレチタティーヴォなのだ
5 いざ、舞台へ
指揮を通じて歌手が広げる帆に風を吹き込む。これこそ私がとても重視している朗唱に繋がる大切なポイント。フランス音楽は、フランス語の動詞の発音をベースにしている点で、イタリア音楽と根本的に違う。フランス語に潜む目に見えない旋律が、リュリ、ラモー、グルック、オッフェンバック、ドビュッシー、ベルリオーズ、マイアベーア、アレヴィといった全くタイプのことなる作曲家の音楽に共通して流れている。音楽と歌詞を明瞭に発音する大切さには、多くの歌手が共感してくれる。ルバート、テヌート、フェルマータを延々と伸ばす演奏や歌唱は楽譜に書かれていないことであり、物語の展開と矛盾することが多い
私は危険を承知のうえで、隠れた才能を発掘して紹介するのが好き。実際には危険などない。最近では、サモア出身のテノールとそのパートナーのソプラノを登用
最近の聴衆は大きく二分化――あらゆる舞台を観ていて、本当に革新的な演出など滅多にないし、成功するか否かは予想不可能だと考える人たちがいる一方で、これといった具体的な趣向もなく、ただ理解するための鍵や手掛かりをひたすら探究する若い聴衆がいる。オペラに現実味を与えるためという口実で、滅茶苦茶なことをする演出家が多いが、若者も、現代への置き換えより、昔ながらのシカネーダーのスペクタクル劇《魔笛》を喜んでいるように思える
93年、リヨン国立歌劇場の建て替え後の杮落とし公演でリュリ作《ファエトン》の指揮を任されたが、未完成な印象を残し酷評されたにもかかわらず、96年グルノーブルに本拠を移すと、隣町のよしみで《地獄のオルフェ》の指揮を任され、大成功に終わりちょっとしたオッフェンバック・ブームを巻き起こした。リスクを恐れず、若い聴衆を育てながら伝統も大切にし、実り多い出会いを作る劇場トップのあるべき姿を示したジャン=ピエール・ブロスマンの称えたい
ブロスマンとはその後も長い付き合い。彼のミューズだったジェシー・ノーマンの引退公演(06年)の指揮やパリ・オペラ座デビューも彼が縁で、オペラ座のユーグ・ギャル総裁が《ファエトン》を観て、オペラ座での《イドメネオ》のオファーをくれ、96年デビューを果たす。その時ザルツブルク音楽祭でカラヤンの後任総裁に入ったジェラール・モルティエからも、多様なタイプのモーツァルト指揮者を探しているといって、《後宮からの誘惑》のオファーが舞い込む。人生最大の危険な賭け。ザルツブルクでは誰も知らない「フランス人」に、「彼らの」モーツァルトを指揮させるというモルティエのとんでもない信頼に応えなければならなかった。その上モルティエは従来の会場ではなく、祝祭劇場の隣にある大司教の宮殿の中庭という「屋外」に特設ステージを組むことにした。前年は同じ場所で同地特有の雷雨に見舞われ舞台も客もずぶぬれになった「事件」が発生したので、巨大なビニール・シートで覆ったが、雨が降るとシートに跳ね返る雨音で聞こえなくなった。演出もオペラは初めてという新進気鋭のフランス人を起用、案の定リハーサルは大混乱に陥ったが、モルティが上手く捌き、さらに太守セリムに若いパレスティナ人の俳優を起用したのが大正解で本番は好評、翌年も再演となって、自分自身の中でも最も感動的な《後宮》となり、音楽祭の制作スタッフにも伝説的な名演として残っている
2001年のザルツブルク音楽祭では新演出の《こうもり》を指揮。極右政権誕生直後で、モルティエが怒って一度出した辞表を撤回して、政権に対する皮肉たっぷりの演出を披露。政界を挑発するために選んだのがオーストリア人が自国の宝と仰ぐモーツァルトの《フィガロ》、リヒャルト・シュトラウスの《ナクソス》と、《こうもり》。異国人が触れてはいけない「国のお宝」にあえて手を出して、激しく嚙みつく。最も過激だったのが《こうもり》で、ナチスやショア(ユダヤ人大虐殺)を彷彿とさせる場面が絶えず顔を出し、半世紀前にオーストリアで何が起きたのか観客に思い出させるなか、私は楽譜通りに指揮しなければならなかった。公演が終わるたびに大ブーイングで、酷いプロダクションに参加したことを責められたが、仏紙からは絶賛
モルティエはパリ・オペラ座の総裁になると、私を「常連の指揮者リスト」に加える。《ユグノー教徒》を提案したが、内容が独特過ぎるとして却下され、代わりに提示されたのが《魔笛》。バスティーユのような大劇場では不適で、案の定何もかもうまくいかず、2人の間の信頼関係にも陰りが出る。20世紀のオペラ界を変えた先駆者との出会いは貴重な経験だった
モルティの誘いを断ったこともある。グルックの《オルフェ》の再演計画で、グルックは「私の」音楽、人生そのもので、ドイツ語訳で、カットして、加筆して、ロマン主義的趣向に改編した公演の指揮など考えられなかった。本番を客席で見て後悔し、以後はもう少し柔軟になった
6 ルーツと都市
母方の祖母エディス・ウェイドは天才ヴァイリニスト。ダコタ・ハウスを建てたのも一族の人、祖母や母も長いこと住んでいた
1984年、バソン奏者として、フランス国外で初めて招かれた街がウィーン。ブリュージュ国際コンクールに四重奏団のメンバーとして優勝した直後で、アンサンブルが1位になったのは同コンクールで史上初。その後もウィーンとは関係が深く、街が誇る3つのオーケストラを指揮する機会に恵まれたが、国立歌劇場ではウィーン・フィルの代わりにレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルがピットに入り、一連のシリーズ公演の全てを演奏した史上初のオーケストラとなる
「馬の毛の音楽」(バロックのアンサンブルの古称)、「国立歌劇場にピリオド楽器? 言語道断!」と拒絶されるかもしれないという不安のなか、本来バロック音楽にはやや大きすぎるが、うまく工夫してヘンデルの《アルチーナ》を好演し、さらにグルックの《アルミード》にも起用された
アーノンクールとコンツェントゥス・ムジクスの公演を聴いたのも、ウィーンが最も多い
ラファエル・レヴァンドフスキ―のドキュメンタリー映画《ミンコフスキ・サーガ》は、ワルシャワの銀行家だった曾祖父アウグストの物語。アウグストの従兄が「ミンコフスキ空間の方程式」を発見した数学者のヘルマン。4人の息子と同居、当時のポーランド当局の規定に従って2人はカトリックに改宗、いわゆるキリスト教社会に「同化」した典型的なユダヤ人家族として映画が注目。息子の1人はカチンの森の犠牲者、曽祖父も強制収容されたゲットーで死去
精神科医の父は、戦時中仏陸軍のエリート山岳部隊「アルペン猟兵」
自分が授かった「才能」という贈り物は、多様なルーツ、影響、経験の産物。バロックのリュリから現代のオリヴィエ・グレフに至るまでの「フランス物」を得意とする「フランス人指揮者」、ラモーやオッフェンバックの「伝道者」と呼ばれたりもするが、私の体内には純粋なフランス人の血は流れていないが、フランスに貢献した祖父母や父のことを誇りに思うとともに、自分もこの国に対する義務があると感じるし、指揮を通じてこの国に奉仕している気がする
7 グルノーブル、そしてレ島へ
1982年、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル創設時は、指揮を「仕事」として捉えていなかった
我々の活動が本格化したのは、経験がそこそこ豊富な歌手の協力を得て大作に挑戦するようになってからで、1985年パリのサン=テティエンヌ=デュ=モン教会でパーセルの歌劇《アーサー王》《妖精の女王》、ヘンデルの大編成のオラトリオを演奏する機会を得たころから
知人を通じて不動産信用銀行クレディ・フォンシエがスポンサーについてくれたのは幸運
イル・ド・フランス県の地域文化振興局のサポートを得たが、文化省は予算がなく却下、数年後グルノーブル市の文化会館「ル・カルゴ」(後にMC2と改称)からグルノーブル室内楽団の音楽監督に加え、会館のレジデント・オーケストラとしてルーヴルを迎えたいとの要請が来る
両者を合体して、モダン楽器のアンサンブルをバロック奏法に「変換」する前代未聞の危険な計画が始まる。95年新市長と文化省の音楽課の新課長が私の計画を後押ししてくれたお陰で、ルーヴルは誕生後数年でヨーロッパを代表するホールに招かれるようになる
労組の反対にも遭ったが、ブロスマンの仲介もあって、グルノーブルとリヨンの歌劇場の共同制作という形で実現したオッフェンバックのオペレッタ《地獄のオルフェ》が大成功を収め、試みはあっという間に結実。96年無事合併を達成。20年近く続いたリヨンとのパートナーシップのお陰で、グルノーブルは次第に欧州の主都市の1つになり、フランスの「シリコンバレー」と呼ばれるまでに発展したが、そこに「芸術都市」の看板を加えることができた
20年間忠実に市に尽くしてきたのに、2014年就任の新市長によって助成金が打ち切られるが、2022年には新たな事務局長を迎えて、さらなる音楽を通じた社会活動を続けていく
レ・マジョール音楽祭(レ島とニ長調の造語)は、2010年レ島を直撃したハリケーン・シンシアの被災者支援のチャリティ・コンサートが始まり。2006年からレ島に通うようになり、ロア村に家を購入。ラ・ロシェルでのコンサートで、文化相だったジャック・トゥボンと再会して真の友情が芽生え、直後のハリケーンで奇跡的に被害を免れたロア村で一緒にチャリティに携わる
トゥボンが音楽祭の総裁に就任
8 劇場は生きている
1982年当時、フランスにはピリオド楽器のアンサンブルがまだ珍しく、オランダやイギリスのバロック・オーケストラの影響が強かった時代だが、ヴェルサイユ宮殿やアムスのコンセルトヘボウでも毎シーズンのように公演を行い、独立系のアンサンブル、特にフランスのクラシック界でルーヴルほど世界各地に招かれ、定期的にオペラを上演したアンサンブルはない
そのお陰で私の名前も広がり、各地の歌劇場の客演の依頼が舞い込む
アンサンブルの芸術監督という立場と歌劇場のトップの仕事には共通点が多い。リュリもヘンデルも自らの「王立アカデミー」を創立しているし、ワーグナーも自分のための歌劇場を建てているが、いずれも自らの責任ですべてを決めたかったからで、私も何かを企画して実現していく過程で彼らを指針にしている
ボルドーの話が来る前に目指したのがパリのオペラ・コミック座の音楽監督の座。ほとんどオーケストラを使った出し物をやらなくなっていたので、2002年の歌劇《ペレアスとメリザンド》のオペラ・コミック座初演の100周年記念の出し物として上演を提案、アバドが設立したマーラー室内管弦楽団を率いて、忘れ得ぬ公演となるが、オペラ・バスティーユの誕生以降、オペラ・コミック座はパリ国立歌劇場の傘下から切り離され、予算もつかず、経営破綻に陥る
文化省は、これまであまり上演されていないフランス文化遺産に相応しい作品を積極的に取り上げ、若手の育成に注力するとの方針を打ち出したので、私は手を挙げたが3度目の拒絶
その後、レ島の音楽祭を立ち上げ、さらに2012~16年には国際モーツァルテウム財団が創立した冬の音楽祭「モーツァルト週間」の芸術監督も引き受け(13年は音楽監督も)、100年以上前に用途を変えて、劇場として使われたかつての馬術の訓練場、フェルゼンライトシューレ(巌窟乗馬学校)に馬術のパフォーマンスを復活させた2つの公演が特に新しい集客に繋がる
2016年、ボルドー国立歌劇場の総監督退任にあたり手を挙げ、芸術監督は泣く泣く降板
9 新しい家
ボルドー国立歌劇場は、1780年ヴェルサイユと同時代に建てられた大劇場。ヴィクトール・ルイの設計で、パレ・ロワイヤルの再開発と同じ建築家。オペラ座と並ぶフランスを代表する歌劇場で、グラン・テアートル(大劇場)のほかにオーディトリアム(コンサート会場)を持つ
ボルドー=アキテーヌ国立管弦楽団は、ボルドー国立歌劇場管弦楽団と大昔に統合された同一団体で、シンフォニーもオペラも演奏。他にも合唱団とバレエ団も抱えている
就任後初のプロジェクトがセルバンテスの生誕を祝った《ドン・キホーテの旅》で、2つの劇場と市内の目抜き通りを使い、指揮者は3人、馬術の曲芸も入れた文字通り街をあげての一大イベント。この日をもってボルドーの聴衆は私を完全に受け入れてくれたと思う
任期の6年間、身を粉にして劇場のために働き、財政状態も改善させることができた
労働組合の抵抗には手を焼いたが、オペラ座の内部抗争と比べれば大したことではなかった
フランスの歌劇場には、ブルジョア階級が排他的な芸術を内輪で堪能しているイメージを持つ者が多く、エリートを忌み嫌う大衆の格好の標的になるので、そのようなレッテルを払拭すべく、一般市民に劇場に来てもらうための努力を重ねた。レジオン・ドヌール勲章授与式も、ボルドー市での授与を願い出る
10 フランスの指揮者
フランスのバロック・オペラを蘇らせたのは、1987年パリで指揮したリュリの歌劇《アティス》だと言われるが、実際は1983年ジョン・エリオット・ガーディナーがエクサンプロヴァンス音楽祭でラモーの歌劇《イポリートとアリシ―》を指揮したときから全てが始まったと言っていい
1956年にはハンス・ロスバウトがラモーの《プラテー》を指揮、ラモーのオペラが再発見された最初期の演奏で、私がフランス音楽に目覚めたきっかけはリュリよりラモーが先
私がフランス音楽を自分のレパートリーの主軸にしているのも、生まれながらの本質がそうさせている。フランス語の本質を知らずに、ラモー、オッフェンバック、ドビュッシーを理解することはできない。朗唱とは何かを教えてくれたのはラヴェルの《子供と魔法》
指揮者として初めて出演した国際的な舞台はイングリッシュ・バッハ・フェスティバルで、グルックの《アルセスト》をやったが、ソリストの大半が英語圏の歌手で、フランス語の歌詞の子音、リエゾン、無音、鼻濁音の発音を徹底的に指導
指揮者としてのデビューがラジオ・フランス放送と私が最初に契約したレコード会社エラーとがパートナー契約を結び、フランス音楽を録音する「ミュジフランス」コレクションが誕生した時期と同じだったのは幸運で、次々と指揮を託された
知る人ぞ知るバロック音楽の珠玉の傑作をあまりにも短期間で数多く指揮したため、早々に世間から「バロック・オペラのスペシャリスト」というレッテルを貼られ、私はフランス音楽の「専門家」と見做されるようになった
オッフェンバックは「フランス」というものが、まず何よりもフランスの「精神(エスプリ)」の体現であることを教えてくれる。肌の色も国籍も関係ない。フランス・オペラの偉大な産みの親を見れば一目瞭然。リュリはフィレンツェ人、グルックはウィーン在住のバイエルン人、マイアベーアはイタリア出身のプロシア人、オッフェンバックは、プロイセン王国のラインラント州出身のユダヤ人。グルックもマイアベーアも自国の言語をフランスに持ち込もうという考えなど全くなかった。フランスの空気、フランスの精神に浸り、フランスで成熟期を迎えている。フランスの精神は「精神」だからこそ、誰にでも開かれていて、力強く、魅力的で、自信に溢れ、その価値は世界で認められている。チャイコフスキーはロシア初のロマン派作曲家とも、フランス最後の古典派作曲家とも呼ばれている。「バレエ」はフランス音楽を世界と結ぶ重要な架け橋になっている。ロシア語でも英語でも「Ballet」はフランス語読み
「旋律」を重視するイタリア歌劇と「和音」を重視するドイツ歌劇は完全に相容れない世界だが、フランス歌劇は朗唱と舞踏という両極端なジャンルを融合させることに成功した、極めて珍しいタイプの歌劇かもしれない
ベルリオーズもマイアベーアも毎年指揮してきたが、自分にとっての母港はラモー
1982年、エクサンプロヴァンス音楽祭で、2世紀以上も忘れられていたラモーの叙情悲劇《レ・ボレアド》が、ガーディナーの指揮で初めて舞台上演されたことが、多くの音楽家の人生を変えた。私も生中継を聴いて衝撃を受け、2014年のラモー没後250年ではエクサンであえて演奏会形式を選んで指揮
フランスの音楽は「私の声」だ。《プラテー》の2幕でラ・フォリー(狂気)が自ら作曲家と指揮者を気取る愉快な場面があるが、そこでラモーは「音楽は(決して万能ではないが)、多くを可能にする力を持つ」という、重要なメッセージを我々に伝えてくれる。ラ・フォリーが歌う理性的な言葉は、まさに私の心の声だ。この声を多くの人に聴いてもらいたい
詩人ルネ・シャールの美しい言葉が浮かぶ。「チャンスを掴み、幸せを嚙みしめて、リスクを恐れるな。周りの人間も、いつか慣れるさ」
エピローグ ある音楽愛好家の視点(アントワーヌ・ブレ) 2022年
初めてミンコフスキに会ったのは9年前、レ島の音楽祭のリハーサルを聴きに行ったとき
マルクという唯一無二の才能が行政に食い殺されないように、全力で守っていくミッションを授かったことは、自分の「生きる喜び」
マルクとの対談は40回近くに及び、さらに同じくらいの時間をかけて2人で原稿を読み直し、訂正や補足を加えていった
森浩一を紹介したい。「私の日本版」だ。20年も前からマルクを追って世界中どこへでも出かけていく。マルクが指揮する場所には必ず出没する。私たちはSNSを通じて知り合い、友人になった。彼のホームページは、多くの音楽家たちと一緒に撮った写真で溢れかえっている。音楽には、15,000キロもの距離が隔てる、見知らぬ2人を人間を引き合わせる力がある
マルクにとって、音楽は彼の壮絶な人生そのもの。全ての活動の中で何が一番重要か、という質問に対して、彼はすかさず「表現」と答える。マルクには特別な才能があり、「ギフテッド」な子だったようだ。指揮者としても人間としても欠点だらけだが、大変な才能があることだけは間違いない。天才は厄介なこともあるが、天才は天才なのだ
2つの突出した能力がある。耳の良さと記憶力。自ら体験したすべてのコンサートを詳細に覚えていて、まるで演奏史の歩く百科事典のような人
日本版特別インタビュー 「マルク・ミンコフスキ、日本を語る」
2003.6.東京にて 聞き手 森浩一
l 初めて訪れた日本での強烈な印象
初来日は2002年9月、オーチャードホールでエクサンプロヴァンス音楽祭の引っ越し公演があり、マーラー室内管弦楽団とともに《フィガロの結婚》を指揮したとき
ホテルの窓から見る東京の街はとてもごちゃごちゃとしていて蜂の巣をつついたような喧噪なのに、外に出てみると妙に落ち着いている――そのコントラストが強烈
2度目は09年、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルとの初来日。静かな聴衆が終演後に熱狂的な拍手を送ってくれたし、東京オペラシティの演奏会ではアンコールを6曲もやったが、後にも先にも東京だけ
l 10年以上かけて培ったOEKとの絆
09年のツアーで金沢との縁が生まれた。このツアーのプロモーターが倒産し、ツアーが危ぶまれた時、金沢公演の主催者だった石川県音楽文化振興事業団がツアー全体の運営を引き受けてくれたが、その実務を担ったのがオーケストラ・アンサンブル金沢のGM岩崎巌
岩崎にOEK指揮を要請され、OEKの持つヨーロッパ的な空気に興味を持ち、12年に実現
オペラも《セビリアの理髪師》(17年)、《ペレアスとメリザンド》(18年)を指揮、18年からは芸術監督も引き受け、21年には自分にとっても初となるベートーヴェンの交響曲全曲演奏に取り組む。ベートーヴェンを演奏して感じたのは、オーケストラに柔軟性が出てきたこと、俊敏に自分の指揮に反応するようになってきた
l 都響の魅力は柔軟で軽やかな音
日本での指揮活動のもう1つの軸足が東京都交響楽団。最初に指揮したのは14年。メンターの1人ジャン・フルネ(1913~2008、都響永久名誉指揮者)と強い結びつきがあったのが縁
オーケストラと仕事をする上で大切にしているのがコンサートマスター。都響の矢部達哉もOEKのアビゲイル・ヤングも優秀。ヤングはイギリス室内管弦楽団の出身
l 指揮者とオーケストラの間には「ゲーム感覚」も
初めて日本の音楽家と一緒に演奏したのは18歳の時、レザルクのアカデミー音楽祭で大宮真琴(1924~95)指揮の東京ハイドン合奏団との共演。日本のオーケストラは、指揮者の指示には柔軟に対応するが、自発性や臨機応変の対応では若干物足りない。指揮者とオーケストラの間には「ゲーム感覚」のような遊びがあってもいい
l 宮城聡さんとの7年来のモーツァルト
2022年、ベルリン国立歌劇場で演出家の宮城聡と組んだモーツァルトのオペラ《ポントの王ミトリダーテ》を上演し大成功。2014年以来共演を模索していたところ、ようやく実現
l 世界で最も熱心な日本の聴衆
コンサートホールも素晴らしい――サントリーホール・東京オペラシティ、ミューザ川崎、石川県立音楽堂など素晴らしいホールが多く、最近では欧米のホールが日本を手本にしている
l 「海の中に飛び込むような」和食に魅せられて
音楽以外では上野動物園がお気に入り
和食は別格、一皿一皿を前にすると海に飛び込むような感じがする
母の最初の夫アイヴァン・モリスは、日本文学研究者(モリスの2番目、3番目の妻は日本人)
l 日本でも馬と一緒に公演を
バルタバスの『ジンガロ』はかつて日本公演をやっている。マイアベーアの作品も紹介したい
インタビューを終えて 森 浩一
劇場の人、多様性の人、友愛の人、そしてケンタウロスに導かれ
2022年、《ミトリダーテ》の初日にミンコフスキから、「私の歴史のほとんどを知っている君だが1つでも発見があれば!」という献辞とともに手渡され、日本でも出したいという彼の思いを安請け合いしたのが日本語版の始まり
ミンコフスキほど劇場に足を運んで、他人の演奏を聴き、オペラや芝居を見るのが好きな指揮者を知らない。初来日の《フィガロ》で彼の音楽のあまりにもの弾力性と呼吸の豊かさに一目惚れ。ローザンヌでケック校訂版《ホフマン物語》の世界初演を聴いて「追っかけ」が始まった
劇場をこよなく愛するがゆえに、ピットに入ると音楽だけでなく出演者、裏方や舞台装置、更には客席に漂う香気までも、貪欲に指揮してしまおうとする。劇場に愛された人
多様性の人。宮城の舞台を観て紹介を頼まれ、15年に会食したのが契機で生まれたのが《ミトリダーテ》。舞台は肌の色も国籍も関係なかった。誰でも巻き込んでいく性格
友愛の人でもある。若い才能を積極的に支援。誰かが困っていると動きたくなるのが性分
私の次なるミッションは、日本でも馬を使った音楽イベントをすることかも
訳者あとがき
本書を翻訳するに至った経緯は、完全なる「巻き込まれ事故」
通訳で何度か日本で接する機会があり、気になっていたアーティストではあったが、会場に必ず出没する日本人男性がいて、彼のSNSに感想を書いたことがすべての始まり
レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルを率いて来日したときに通訳として再会
彼は紛れもない天才だが、公言して憚らないところが、人の反感を買う
抽象的で不器用な文章相手に悪戦苦闘しながら、モーツァルトのことを思い出していた。自らの才能を自覚し、自分を認めない人間には容赦なく噛みつく。才能に惚れ込み、その怒涛のような人生に「巻き込まれた」人間が多々いたのは周知のとおり。幸せな気持ちになって巻き込まれていく
l 索引
l 資料(森浩一編)
l マルク・ミンコフスキ 年譜
l マルク・ミンコフスキ日本公演 全記録
l 指揮者マルク・ミンコフスキ 全ディスコグラフィ
l バソン奏者ミンコフスキ ディスコグラフィ
紀伊国屋書店 ホームページ
出版社内容情報
バロック・オペラから古典、ロマン派まで、あらゆるレパートリーを手がけるフランス生まれの指揮者マルク・ミンコフスキが、生い立ち、様々な出会いと別れ、音楽家としての歩みを語る。手兵のレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル(ルーヴル宮音楽隊)を率いて陰謀論渦巻くフランスの音楽行政を相手に奮闘し続けてきた知られざる顔も紹介。日本版特典としてオーケストラ・アンサンブル金沢や東京都交響楽団での仕事を語る特別インタビューや、世界初出写真の数々、詳細年譜、バソン奏者録音含む完全ディスコグラフィーなど資料も充実の一冊。
氷見 健一郎/バス歌手 オフィシャルサイト
富山県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。同大学院音楽研究科修士課程オペラ専攻修了。新国立劇場オペラ研修所修了。研修中にANAスカラシップ奨学生として、イタリア、ミラノスカラ座アカデミー、ドイツ、バイエルン州立歌劇場付属オペラ研修所(ミュンヘン)にて海外研修を受ける。新国立劇場公演《魔笛》にて、ザラストロ役で本キャストデビュー。
バスソリストとして、バッハの《マニフィカート ニ長調》、《マタイ受難曲》、ヘンデルの《メサイア》、モーツァルトの《戴冠ミサ》、《ハ短調ミサ》、《レクイエム》、ハイドンの《天地創造》、《パウケンミサ》、ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》、《交響曲第9番》、ロッシーニの《スターバト・マーテル》、ヴェルディの《レクイエム》、フォーレの《レクイエム》に出演。
オペラではモーツァルトの《フィガロの結婚》バルトロ、《ドン・ジョヴァンニ》レポレッロ、騎士長、《コジ・ファン・トゥッテ》ドン・アルフォンソ、ロッシーニの《セヴィリアの理髪師》バジリオ、ドニゼッティの《ドン・パスクワーレ》タイトルロール、プッチーニの《ラ・ボエーム》コッリーネ、《ジャンニ・スキッキ》シモーネ、チャイコフスキーの《エフゲニー・オネーギン》ザレツキー、ヴォルフ=フェラーリの《イル・カンピエッロ》アンゾレートなどを演じる。OMF セイジ・オザワ松本フェスティバルにおいて、カヴァーキャストとして公演に携わる。
公演では、井上 道義、鈴木
秀美、園田 隆一郎、高関 健、リッカルド・ムーティの各氏、アンサンブル金沢、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、京都市交響楽団、藝大フィルハーモニア管弦楽団、神戸市室内管弦楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団、山形交響楽団、読売日本交響楽団と共演。
第12回北陸新人登竜門コンサート出演。第17回松方ホール音楽賞奨励賞受賞。
マヨラ・カナームス東京ボイストレーナー。BCJ バッハ・コレギウム・ジャパン 声楽メンバー。とやまふるさと大使。
24/03/22
”チャンスを掴み、幸せを噛みしめ、リスクを恐れるな” マルク・ミンコフスキ ある指揮者の告解を読んで。
今回は先日石川県立音楽堂で名演を指揮されたマルク・ミンコフスキさんの自伝、《マルク・ミンコフスキ ある指揮者の告解》を読んだので、この本をご紹介させていただきたいと思います。
マルク・ミンコフスキ ある指揮者の告解
帯
友愛の指揮者、あるいはケンタウロス。バロック・オペラから古典、ロマン派まで、あらゆるレパートリーを手がけるフランス生まれの指揮者マルク・ミンコフスキが、自身の生い立ち、様々な出会いと別れ、音楽家としての歩みを語る。
マルク・ミンコフスキ
音楽との出会い
マルク・ミンコフスキさんはパリ、ルーヴル美術館の目の前にあるアパートメントで幼少期を過ごします。子どもの頃は映画が大好きで俳優になりたかったそうです。
両親がクラシックのレコードをたくさん所有しており、それを引っ張り出しては音楽を楽しむ、そんな日常を送っていました。レコードのコレクションはとても立派なものでしたが、バロック音楽のものは一枚もなく、古楽器については漠然なイメージしか持っていなかったのだそうです。
そんなある日、友人の家でアーノンクール指揮、ヴィヴァルディの《四季》の演奏を聴きます。アーノンクールの創り出す世界は、とてつもなく力強く、想像を絶する万物の描写力で描かれたこの四季の録音は、想像力の結晶だと本書で絶賛されていました。
本人はこの時のことを「雷に打たれたような衝撃を受け、すっかり虜になってしまった」と語っています。この日の出来事がミンコフスキさんの音楽観の基本を築き上げました。
アーノンクールに学ぶ【アタック】、【テンポ】
【アタック】とは、”音を発音する時のアーティキュレーション、筋肉のエネルギーを使って解き放つ技術”を差し、指揮者のジェスチャーもその一つで、アタックは全ての指揮者を特徴づける重要なファクターだと語ります。
近代、全体的な音のまろやかさ、美しさばかりが注目され、音の根源、土台についてはないがしろにされているのではないかとミンコフスキさんはこの本で問題提起しています。
楽譜から読み取った音楽の解釈を具現化する上で、強力なジェスチャーとなる【アタック】は必要不可欠。例として指揮者だけでなく、歌手についても同じことが言えて、ある旋律を歌うという行為は、歌詞を発声することで具現化しているのだが、子音や音節をアタックを伴って華やかに響かせるという表現をする歌手は近年減っているように感じられているようです。
この【アタック】の重要性に気付かされたのが、アーノンクール指揮のヨハネ受難曲(J.S.バッハ)を聴いた時だと書かれていました。この冒頭部分のチェロ、コントラファゴットの四分音符で刻む箇所からアタック表現の重要性を確信されたそうです。
演奏スタイルにおいて【アタック】の次に重要視するのは【テンポ】であると彼は考えています。作曲家がアレグロといったテンポについて書いてあるからその通りにという演奏では不十分だとのことでした。楽器の特性、材質、演奏テクニック、その良さを全て反映させて書かれたスコアに対して、リスペクトがなくてはならないと語っています。
本文で彼自身が、端的にプレストと書かれていれば速く演奏させるということは昔やってしまっていた、と振り返っていらっしゃるのですが、こういう演奏をしていた過程があったからこそ、今に生かされているともご自身で感じられているそうです。
その例として映画のサントラ用に制作したメサイアの録音を挙げていますが、明らかにテンポがはやすぎるが、この躍動感を表現するするには必要だったと記されています。この経験を経て、テンポをここまで速くしなくても、躍動感が感じられる演奏がいまではできるようになったとも。
この章では、テンポを生かした構造性の重要さが書かれていました。メサイアの録音もみつけたのでこちらにも載せておきます。トランペットのアリアを聴いても、良く聴き慣れたテンポより確かに速いですが、3拍子の流れが生かされている良い録音だと僕は感じました。この録音を聴きながら執筆しているのですが、He trusted in God that he
would deliver himに今のところ一番驚きを感じています。速いだけでなく、そこに意図された表現があり、メサイアのドラマが生きているんですよね。是非聴いてみて頂きたいです。
アーノンクールには学術的な冷静さと感覚的な激しさを巧みにかけ合わせた指揮の才能があったと語ります。ミンコフスキさんは楽譜の中で作曲家はこの瞬間こう考えていたのではないかと直感的に察知し、慣例と伝統を加味しながら具現化していきたいと考えています。プロダクションの歌手、演出に合わせて感情的に寄り添うことも大切だが、それと共に、確たる見解を持っていることも指揮者として大切だとも書かれています。
テンポについての例
最初の例として挙げられていたのが、メンデルスゾーンの《真夏の夜の夢》から結婚行進曲です。結婚行進曲なので粛々と厳かに展開するイメージが、演奏回数の多さ、結婚式でおなじみという点もあり、感じてしまいます。この曲は極めてやんちゃなドタバタ喜劇の曲で、4/4ではあるが、allegro vivace であってmaestosoとはどこにも書かれてない。劇中で演奏されるこの曲はユーモアと挑発の音楽ではなくてはならないと語っています。
このことに気づかせてくれたのがヘルマン・シェルヘン(Hermann Scherchen)の録音だったそうです。
見つけましたw確かにこのテンポは初めて聴きましたね。
慣習に惑わされることなく、楽譜に書かれている世界を聴衆に届けるためであれば、ミンコフスキさんはリスクを恐れません。
もう一つの例としては、ベートーヴェンの第九が挙げられています。
第四楽章のチェロとコントラバスのレチタティーヴォについても同様で、”伝統的な演奏”ではレチタティーヴォという表記の通りでヴィブラートたっぷりに朗々と歌い上げる演奏がよく聴かれる。しかしながらこの部分はレチタティーヴォであると同時にpresto,in tempoとあくまでテンポ通りに進行してほしいと書かれている。すなわちこの部分の演奏は猛然と疾走するレチタティーヴォでなくてはならないとミンコフスキさんは解釈しました。
ベートーヴェンは奏者にやってほしいことは必ずスコアに書き記している。この部分は楽器の激しいやり取りが必要で、レチタティーヴォとあるけれども荒々しい対話が必要なのだとも付け加えられています。
「指揮の極意は一見矛盾しているように見えるものを前にした時、妥協ではない解決策を導き出し、伝統と音楽学的にこうあるべきだという決めつけから開放されることである」と、このセクションは締めくくられます。
ベートーヴェンの第九について気付かさせてくれた録音として、ロジャー・ノリントン(Roger Norrington)さんの第九が紹介されていました。
その録音も見つけましたw初めて聴いた時僕も衝撃を受けてしまいました。来日されてNHK交響楽団さんとも共演されていますね。
金沢での第九を聴いた後にこの本を読んでいるのですが、この本を読み終わってからあの第九を思い返してみると、こういうことだったのかと思い当たる節がたくさんあり、新たな感動を与えて頂きました。なお、石川県立音楽堂での第九を聴いての感想も記事にしておりますので、是非合わせて読んでいただけますと幸いです
2024/03/16 躍動の第九。オーケストラ・アンサンブル金沢第479回定期公演を石川県立音楽堂にて鑑賞してきました。
これから指揮者を目指す方へ
未来の指揮者へのアドバイスも書かれていたので一部紹介します。
・初めてのオーケストラに招聘された時のプログラムはくれぐれも慎重に。
ちょっとしたミスが大事になりかねない。すでに別のオーケストラで評価を得た作品かつ、先方が興味を示す作品を選ぶべき。なかなかデビューしたての頃は申し出を断ったり、考えられたプログラムについて意見を言うことは難しいことなのだが、お話をいただけた喜びと共に「やります!」の一声が、とんでもない結果を招きかねないことを肝に命じておくようにとのことでした。
もちろんこの本にはその例も記載されているのですが、ここでの紹介は控えようと思います。
・奏者に音の表現を伝えるときに、イメージを使った説明は時に役立つことがある。
ミンコフスキさんは光、夕暮れといった視覚的イメージを使った説明や、音楽を料理に例えたりして指示を出すことが良くあるそうです。端的に、はやく、おそく、大きく、小さくという聴き慣れた指示も良いのですが、「凍らせたように」、「スパイシーに」といったシンプルな言葉での説明が、専門用語では解釈しきれないものを追求する上で良い助けになったと書かれていました。
これらのアドバイスは第四章の・指揮者とは というセクションにかかれています。この部分は読んでいて指揮者でなくても、なかなか参考になるなと思ったところがたくさんありました。
マルク・ミンコフスキさんのちょっとしたエピソード
マルク・ミンコフスキさんの突出した2つの能力についてエピローグに書かれています。
その2つとは”耳の良さ”そして”記憶力の良さ”です。
ホールで演奏会をしていた時に、舞台袖の反響板の裏で、ある消防士が携帯電話を操作していたそうなのです。大編成のオーケストラの演奏会だったにもかかわらず、彼の耳には何十メートルも離れたところで鳴っている操作音が聞こえており、終演後挨拶を素早く済ませると、慌てて舞台袖に行き、その消防士に注意をしにいったそうです。
そして記憶力についてなのですが、ミンコフスキさんは一度でも聴いたり、読んだりしたものをほとんど記憶しているそうです。聴きに行った演奏会の指揮者、プログラム、出演者、その感想も例外なく覚えているそうです。実際にこの本で書かれている演奏会や、録音についても調べてみるとその通りのものが見つかり、演奏の内容についてもバッチリ一致しており、この素晴らしい記憶力に僕も驚いております。そのおかげで録音を紹介できて良かったです。
ミンコフスキさんは音楽家になれなかったら何になっていたと思いますか?という質問に対して、馬と共に自然を歩む騎士や馬の飼育員になりたいと書かれていました。無類の馬好きだそうで、子どもの頃から馬と自然と一体になれることに幸せを感じていたそうです。
そんな馬と自然が大好きなミンコフスキさんの日本でのお気に入りスポットは金沢ですと兼六園、東京だと上野動物園だそうです。
今後日本でやりたい公演はありますか?というインタビューが最後にあるのですが、馬を使った公演を開催したいですと締めくくられていました♪ミンコフスキさんと馬たちのコラボレーションの実現がとても楽しみになりましたね。
最後に
全ての活動において一番大切なことは”表現すること”と語るマルク・ミンコフスキさんの自伝を紹介させていただきました。
今回紹介したのは一部分で、この他にも両親のルーツについて、最後に触れた馬とのエピソード、様々な公演を作り上げる上での舞台裏や、経験談など、今のミンコフスキさんの演奏の核となる要素がこの本に凝縮されております。ミンコフスキさん自身もたくさんの録音を残されており、この本と合わせて鑑賞するとこういう意図があったのかと、演奏がより一層引き込まれること間違いなしの一冊となっております。
是非お手にとってご覧いただけますと幸いです。
Wikipedia
マルク・ミンコフスキ(Marc Minkowski フランス語発音、1962年10月4日 - )は、フランスの指揮者。
パリの生まれ。ロシア生まれのフランスの精神科医ウジェーヌ・ミンコフスキーは父方の祖父、父親は高名な小児科医のアレクサンドル・ミンコフスキ(Alexandre
Minkowski)。当初バロックファゴット奏者として様々な古楽器の合奏団に参加。1982年にグルノーブル・ルーヴル宮音楽隊(レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル)を設立。バロック・オペラを中心に活動し、その後各地の歌劇場やオーケストラに招かれる。レパートリーはバロック音楽が中心だが、古典派やロマン派の音楽も積極的に取り組んでおり、レパートリーは広い。ザルツブルク音楽祭やマーラー室内管弦楽団にも頻繁に客演している。2012年よりザルツブルク・モーツァルト週間の芸術監督、2016年よりボルドー国立歌劇場(フランス語版)総監督を務める。 2018年9月より、オーケストラ・アンサンブル金沢芸術監督に就任。
無駄のない明るい不純物のない音楽と指揮振りが特徴的である。
脚注[編集]
1. ^ Minkowski, Marc - Deutsche Grammophon
2. ^ ミンコフスキ&ルーヴル宮音楽隊「モーツァルトのイ長調の協奏曲」 - クラシカ・ジャパン
3. ^ MARC MINKOWSKI - OPERA NATIONAL BORDEAUX
4. ^ OEK監督に指揮者のミンコフスキさん 9月に就任へ朝日新聞
先代- |
グルノーブル・ルーヴル宮音楽隊指揮者 1982 – |
次代 |
シンフォニア・ヴァルソヴィア音楽監督2008 – |
次代 |
グルノーブル・ルーヴル宮音楽隊(レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル・グルノーブル、仏: Les
Musiciens du Louvre Grenoble)は、フランス・グルノーブルを本拠として活動する古楽器オーケストラ及び合唱団である。フランス各地での演奏活動はもとより、ザルツブルク音楽祭やエクサンプロヴァンス音楽祭、またロンドンのBBCプロムス等のヨーロッパ各地の主要フェスティヴァルへ常時招待されている。
1982年にマルク・ミンコフスキにより設立され、1996年より本拠地をグルノーブルに移した。活動初期はフランスのバロック音楽が中心だったが、近年はピリオド・アプローチの延長として19世紀や20世紀初頭の楽器を使用してモーツァルトはもとよりオッフェンバック、ベルリオーズやストラヴィンスキー、またはチャイコフスキーの作品等までレパートリーを広げている。
レコーディングはドイツ・グラモフォン、エラート・レーベルやアルヒーフ・レーベルに行われており、リュリやラモーの作品集、ヘンデルやグルックのオペラ、マーラー室内管弦楽団との合同によるベルリオーズ「幻想交響曲」、オッフェンバックのオペレッタ、モーツァルトの交響曲などがある。
フランスはもとよりドイツ、ベルギー、オランダ、アメリカ等の多国籍のメンバーから構成されるこのオーケストラにはヴァイオリンのコナカ・マリオ、依田幸司や首席ホルンの根本雄伯、パーカッションの南恵理子などの日本人演奏家の姿もみられる。
外部リンク[編集]
公式ウェブサイト (フランス語)
(評・音楽)マルク・ミンコフスキ指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢東京公演
2024年3月28日 朝日
■駆け抜け加速、「運命」終楽章へ
オーケストラ・アンサンブル金沢は、桂冠指揮者のマルク・ミンコフスキとベートーヴェンの交響曲チクルスを完走したばかり。その成果を示す東京公演で、交響曲第6番と第5番を披露した(18日、東京・サントリーホール)。
第6番「田園」は快速にしてエレガント。こまやかな抑揚が軽やかに音を弾ませる。短調に転じる部分ではテンポと音量をふっと落とし、陰影をじっくりにじませる。嵐を表す第4楽章を一気呵成(かせい)に飛ばしたあと、終楽章の変奏曲は、空の色が少しずつ変化するような晴れ晴れしさ。光と影が作り出すドラマトゥルギーは、まるでモーツァルト作品のよう。
交響曲第5番は、一転して高速ぶっちぎりの演奏だ。舞台に上がったと同時に振り下ろされた指揮棒から繰り出される音楽は、エネルギッシュにひた走った。「運命」の動機を繰り返しつつ、再現部でのオーボエ独奏まで、テンポを緩ませることなく一直線。続く第2楽章も快速運転ながら、弦楽器を爽やかに歌わせることも忘れない。第3楽章も目鼻立ちがくっきりとした造形で、すみずみまで鳴らす。中間部のフーガでは、まるで狭い路地から神輿(みこし)が次々に境内に集まってくるかのような祝祭感に満たされる。
終楽章は冒頭主題の三つの音をため込んでから、一気に開放。勢いをもって駆け抜ける。繰り返し部分は強弱の変化をつけて、新たな流れを作り出す。コーダに入るとさらに加速。最後の音はホール全体に広がるように引きのばす。
能登半島地震の犠牲者、そして小澤征爾のために、という指揮者のアナウンスのあとアンコールとして演奏されたのは、バッハの「エア」。いくつもの声部がふんわりと絡み合う。それぞれの思いが一つの音楽となって響くように。(鈴木淳史・音楽評論家)
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