読み書きの日本史  八鍬友広  2023.8.2.

 2023.8.2.  読み書きの日本史

 

著者 八鍬友広 1960年山形県生まれ。89年東北大大学院教育学研究科単位取得満期退学。博士(教育学)。新潟大助手などを経て、現在東北大大学院教育研究科教授。専攻は日本教育史。著書に『闘いを記憶する百姓たち――江戸時代の裁判学習帳』ほか

 

発行日           2023.6.20. 第1刷発行

発行所           岩波書店 (岩波新書:新赤版)

 

表紙カバー裏

私たちが日々実践している文字による言語活動は、長い時を経て形作られてきたもの。古代における漢字の受容から、往来物(おうらいもの)による学びの時代へ。近世の文字文化の多様な展開から、近代学校の設立へ。――世界の事例にも目配りしながら、識字の社会的意味を広くとらえ、いまも揺らぎの中にあるリテラシーの歩みを描く

 

 

はじめに

人間の行っているあらゆる実践と同じように、歴史的に見れば読み書きもまた常に変転してやまないものだが、今日においても電子媒体の普及などで激しく揺さぶられている

Literacyとは読み書き能力(識字能力)のことをいうが、近年大幅に意味内容が拡張され、「そんなことも知らないの?」といった意味で使用するのが効果的だとされるようになった

文字の読み書きは、話し言葉とは全く異なり、生得的な能力ではなく、長年の習練の結果初めて獲得されるものであり、習練を怠ればたちまち劣化

文字そのものも比較的短い歴史しかなく、絵や図は75000年前まで遡ることができるが、文字はせいぜい5000年の歴史のみ

本書は、読み書きという実践が日本でどのように推移してきたのかについて述べるが、読み書きをせざる歴史の方が圧倒的に長いことから、読み書きの広がりに留意することにより、読み書きの世界の持つ限定性についても一定のイメージを提供したい

 

 

第1章        日本における書き言葉の成立

l  文字以前

Ethnologue: Languages of the Worldというサイトには、世界で話されている言語についてのデータが記載。2022年時点で7151種類の言語が確認されている

日本語の起源などについての系統論は決定的な解明のないまま下火になったが、’21年に言語学・考古学・遺伝学の3つの手法を融合した研究結果から、9000年前の中国東北部のキビ・アワ農耕民によって使用されたとされるトランスユーラシア語が、農耕民の移動とともに3000年前にも日本列島に伝わり日本語の祖語となる言語が確立したことが判明

l  文字の借用

ある地域の書き言葉が他の地域で先行的に確立している文字を借りて形成されることを「借用」といい文字普及の基本的な様態とされ、漢字を移入した日本語の文字化もその1

絵や図から完全な文字への飛躍は、「判じ絵」の原理によってなされ、古代メソポタミアのシュメール人のみが成し遂げたもので、地球上のすべての文字はその派生物(「借用」)

l  日本語と漢字

中国語に由来する漢字の移入に際しては、中国語が近隣の民族の言語と大きく異なるという問題点の克服が必要――中国語は1つの音節が1つの意味を表す単音節語であり、語形変化がなく語順によって意味を表すのに対し、日本語は複音節語であり「てにおは」等の助辞を使って文を構成するし、動詞の位置など語順も異なるが、それでも日本は漢字を借用して自らの書き言葉のシステムを構築。漢字の借用は話し言葉にも影響を与えている

l  漢字の移入

1段階は漢字の「形」の受容――23世紀の遺跡から発見された「金印」の金石文

2段階は漢字の書き方の模倣――漢字の音を借りて日本の固有の語を表す(万葉仮名)

3段階は義の受容――漢字の「字義」に対応させて日本語の単語をそれにあてる「訓」

l  漢文訓読

移入された元々の文章は漢文なので、そのまま読めば中国語の受容となるが、「漢文訓読」という方法で読み、独自の日本語システムを構築――「ヲコト点」などの工夫により、語順を日本語に接近させつつ漢字にはない言葉をも補って日本語のように読む方法を開発

外国語の文章に記号をつけて順序を入れ替え自国語に直して読むことは、世界に例がない

l  変体漢文

読解困難な中国語をより日本語に近接した文体へ変容を重ねるうちに、漢文は次第に和文へと接近――漢字の表意性を使用しつつ日本語に応じた変化を与える漢文の和化を変体漢文といい、漢字の表意性を捨象した方法を万葉仮名という

l  宣命体(せんみょうたい)

ほぼ日本語の語順に従って漢字だけで書かれたもので、和文化の有力な方法であり、これによって書かれたのが宣命=天皇の発する詔書。本来天皇が口頭で伝達するもののため、漢文で記される他の詔書とは異なった表記法としての工夫がなされた

l  万葉仮名と仮名

日本語の1音節に1つの漢字を当てた表記法で、漢字を用いた和文表記を画期的に進展させる――歌謡の世界で普及、78世紀には散文の世界にも広がる

万葉仮名が筆記に多くの時間を費やすことから、速記性に優れた表記法として片仮名と平仮名が創作された――仮名は「真名(まな)」の対語で、中国でも行われていた漢字の字画を一部省略して書く「省文(せいぶん)」という手法によるのが片仮名(9世紀初頭成立)で、万葉仮名に使われた漢字を崩して書かれた草仮名を経て成立したのが平仮名(9世紀末拡散)

l  仮名交じり文

日本語に近接した文章を表記するために片仮名や平仮名が創出され、そのごく一部に漢字が混ざる表記法をとる――今日の漢字主体の表記法の源泉とは異なる

漢字文が事柄を正式に記録するための書記様式、片仮名分は日常的な事柄を非公式に叙述する書記様式、平仮名は和歌など美的内容を叙述する書記様式という使い分けが浸透

実用的な文書の書記様式として主要な位置を占めたのが漢字片仮名交じり文

l  さまざまな文体から「候文体」へ

公私文書における表記法の主流となったのは、変体漢文の末裔たる「候文体」――明治期に近代学校制度が確立し、往来物に代わり近代的な教科書で教育が行われるようになって以降も、手紙などにおいては長くこの文体が使われ続けた。漢文性を極力圧縮し、基本的に日本語の語順に従って記されているので読みやすく理解しやすい

あくまで書記言語であり、話し言葉(口頭言語)との乖離が大きい――口頭言語の時代的変遷や地域的偏差に対し、書記言語として強固な適用性を発揮し、話し言葉が通じなくても文章ならわかるという状況が広がる

l  近世における書体の一様性

書体形式の規定がはっきりしている公式様文書(くしきようもんじょ)の時代(奈良~平安初期)までは公的文書では楷書体が、私的性格が強まるにつれ行書体漢字・平仮名と使い分けされたが、次第に実用的文書の世界でも楷書体は行草体に駆逐され、近世期には将軍発給文書から地方(じがた)文書や書状まで基本的な文書は行草体に統一されただけでなく、崩し方まで一様なものとなる――御家(おいえ)流=青蓮院流・尊円流と呼ばれる書体で、17世紀中に急激に斉一性が進むが、文書量の激増と平仄を合わせる

以上のことから、近代以前の日本において、文字の読み書きの普及は、書記言語を口頭言語に近接させることよりも、漢文的な要素を有する標準的な文体を確立し、それへの習熟によって成し遂げられたと言える。その習熟のための道具が「往来物」

 

第2章        読み書きのための学び

l  習書木簡(しゅうしょもっかん)に見る文字学び

自然と発現する口頭言語に対し、書記能力は教育の結果としてしか獲得できない

7世紀後半~8世紀が木簡使用の最盛期

律令制の確立とともに官僚養成機関としての学校も大学寮や国学などとして整備され、習書木簡もこれらの学校における学習や役所における日常的な学習の様子を示すもの

l  一文不通(いちもんふつう)の貴族たち

読み書き能力が一定の水準に達していないことで、大納言のような上級貴族も含まれる

「書儲(かきもうけ)」とは、政務の公式の場で文書を執筆する際、最初の数行のみを記したところで事前に用意したものと取り換えることで、貴族の読み書き能力の低下を表わす言葉の1つ。他にも「無才学(漢字を知識レベルの低い官僚のこと)」「文盲」「不知漢字」など

l  往来物の時代

文字社会の下方拡張の中で読み書き能力の平均値となっていったのが候文体=事実上の和文で、近世期以後圧倒的に主用の文体となる

「往来」とは手紙のことで、「往来物」とは手紙文例集をジャンルとする書籍群のことで、和文化された文体のためのテキストブックとなり、読み書き教材の基本形となっていった

11世紀成立の藤原明衡(あきひら)編の『明衡(めいごう)往来』が最古で、平安貴族の間の200通を超える各種の手紙文を集めたもの。明治初期までの「往来物の時代」の到来となる

l  書儀(しょぎ)と往来物

中国における書簡の模範文例集であり中国伝統の「礼」や「法」を背景とした百科全書を「書儀」といい(身体動作に関する作法を「行儀」、口頭での挨拶に関するものを「辞儀」)、唐代に普及したが、それを源流としたのが日本の往来物

l  手紙文による学習の広がり

古代メソポタミアでは、手紙が重要な役割を果たし、手紙粘土板が利用され、命令の伝達にも使用――異なる地域で同じように手紙文を教材とする学習が行われていた

l  ヴァイ文字の学習と手紙

リベリアではヴァイ文字が手紙始め日常生活のために習得された

l  消息から往来へ

「消息」は実際に出す手紙のことで読み易さが大事なのに対し、「往来」は模範文例として教育上の工夫が凝らされたもの

l  教科書的なるものとしての「往来」

室町になると手紙文以外の文書も往来物に掲載され、初歩教科書の先駆的なものも現れる

『商売往来』は、初学者が平生において取り扱う商売に必要な語彙を集めたものであり、『国姓爺往来』も現存最古の伝記型往来とされるが、中国明の遺臣・鄭成功の伝記であって手紙文とは無関係。一般的な読み書きの教材として扱われるが、近世期にはさらに変容

 

第3章        往来物の隆盛と終焉

l  近世社会と往来物

往来物の総数は7000を超え、教材の内容によって10種ほどに分類される

l  庶民用文章型往来物

各種文書の文例集は「消息科」と呼ばれ、対象となる身分ごとに「武家用文章型」「庶民用文章型」「農民用文章」などに分類

l  地理科往来物

近世往来物の中で最も隆盛を見たのは地理科の往来物で、900種は確認されている――ローカルな地理に関するものが多く、夥しい地名や社寺名が列挙

l  地域往来物のヒット作『道中往来』

往来物と現在の教科書との顕著な違いは、全国各地で多様なものが編纂されたこと

l  穏当ならざる往来物『直江状(なおえじょう)

関が原合戦前夜、上杉景勝の家臣・直江兼続が、再々上洛を求める家康に対して出した書状がそのまま往来物となったもので、挑発的な内容が家康を激怒させ、家康は会津に出兵し、その隙をついて三成が挙兵。徳川の支配を決定づける合戦の開戦を決定づけた手紙だが、真偽のほどは不詳。似たような書状としては大坂冬の陣直前の家康と秀頼の間に遣わされた『大坂状』がある

l  百姓一揆の直訴状(=目安)も往来物に――寛永白岩(しらいわ)一揆

不穏当な往来物の最右翼は『白岩目安』で、直訴状をそのまま往来物に仕立てる――1633年、山形の白岩郷の百姓が領主の非法を訴え幕府に提出したもの。36名の磔刑で終焉

l  往来物であることの証明

違法性が強く厳罰の対象となり兼ねない行為の関連文書が教材とされたこと自体不思議だが、往来物として流布したことを示す種々の証拠があり、実在したのは間違いない

l  「目安往来物」というジャンル

『白岩目安』だけでも60本以上が山形県周辺の広い地域で写本の伝来が確認され、読本の筆写年を見ると200年以上に渡って途切れなく行われている

l  異系統の目安往来物

目安を往来物とする流儀は、『白岩目安』以外にも異なる訴状をベースにして流布している

l  動くテクスト

手紙以外のものまで「往来物」と呼ばれ続けたのは、発信者から受信者へと移動することが文書の重要な性格であり、移動することによってコミュニケーションや通信の機能を文書が担っていることから、文書の「動く」という属性に着目して、読み書きの教材を「往来物」と呼んだものだが、今日的な意味での国語教育という観点からは奇妙な現象である

その背景には、①公私の文書が口頭語と異なる書記言語によって作成されたこと、②読んで内容を理解すべきと位置付けられる共通のテクストが不在だったことの2点がある

l  「読ませる権力」の始動と往来物

明治になって国家権力が学校制度を整備し、人々が読むべきテクストを指定すると、読み書き能力形成の初期段階は、文書作成ではなく、近代学校教育における国語教育へと転換

これに伴い、往来物は読み書き教材の主役から、本来の文書作成の範例集へと回帰

l  書式文例集への回帰

明治期の往来物は、私的な手紙から、同時期に激増する公文書などの作成範例へと変貌

l  往来物の終焉

書式文例集は、次第に教育目的から離脱、法律上の実務家を対象とした一般書籍へと変容

 

第4章        寺子屋と読み書き能力の広がり

l  寺子屋というもの

「手習師」「手習子取(てならいことり)」「手習塾」「筆道指南」など様々な呼称の総称が寺子屋

人々の生活の中で次第に高まってきた読み書きの必要性から成立したが、その由来は不詳

l  民衆への読み書き能力の普及

識字率の正確な計測も困難――何をもって「識字」というのかすら定義はないが、西洋社会では婚姻届の自署率が1つの目安。日本では自筆で記される文様化された署名花押(かおう)がそれに類似、『宗旨人別帳』の署名をもとに識字の一端に迫ろうとする研究もある

l  花押から見る識字状況

17世紀前半には、地方の中心都市では花押が一般化、都市以外の地域においても村の指導層を中心に、花押を記す程度に流暢に筆を使う人々が確認されている

l  村堂(むらどう)というもの

中世末から近世初期にかけての識字力の広がりの基盤は不詳だが、小規模の寺院・堂が民衆教育の一端を担い、僧侶・旅僧による教育がその背景にあったと推定される

l  17世紀の寺子屋

17世紀になると、様々な古文書に寺子屋の記述が現れる――18世紀半ばの越前小浜町では87種の職業が書き上げられ、そこに2人の手習子取が含まれていた

l  筆子碑(ふでこひ)から見る寺子屋の普及

寺子屋の師匠の碑を教え子が建てた筆子碑の調査からも寺子屋の普及度合いがわかる――1830年頃から激増、千葉だけでも3000を超える碑が確認されている

l  18世紀における越後村上の寺子屋

手習師匠に入門した門人の名簿=門人帳もあり、最古の1つが村上の磯部寺子屋のもの

l  門弟4000人に上る時習斎(じしゅうさい)寺子屋

近江の時習斎には、周辺10か村を含む4276人の門弟が記録され、女子も22%いた

l  外国人のみた幕末期日本の読み書き能力

16世紀後半から来日した宣教師の目には読み書きを学習する日本人が限定的だとあるが、19世紀に来日した外国人の手記には識字率の高さが脅威をもって描かれている

l  寺子屋の教育力

19世紀寺子屋で使用された手本を調べると、共通して教えられていたのは、仮名、人名や地名に関する名詞、ごく短い文章を候文体で綴ったものなどと推定される

l  ある寺子屋師匠の嘆き

陸奥滝沢村のある寺子屋の師匠が教育の実態について書いた『俗言集』には、師匠の愚痴が赤裸々に記されている――筆や墨のない子は、筆代わりに箸で灰に書く(「灰書」)

l  『山代(やましろ)誌』にみる寺子屋の実態

明治初期の記録では、山口県の山村地域において、村内屈指の者でなければ教育を受けることもなく、教育を受けても手紙を書けるのは10人に1人だったという

l  宮本常一の祖父と寺子屋

民俗学者・宮本著『家郷の訓(かきょうのおしえ)(1943)によれば、19世紀初め祖父が寺子屋で習ったのは自分の名前と植物の種の名ぐらいという

l  村請(むらうけ)制と識字

江戸時代の地方行政は、多くの部分を村役人の自主管理とする間接統治=村請制だが、そのためには各村に一定数の識字層が存在し、彼らが領主層と文書によって遣り取りすることが前提――和歌山県での調査では、各村での男の自署率は50%前後でばらつきがあるが、文通率=識字率はおおむね10%程度で一定

l  読み書きという実践

寺子屋での学習は、労働や学問など種々の実践共同体に参画する過程の中で、初めて読み書きとして実際に役立つものとなっていくという性質を持っていた

l  読書と教養

寺子屋での学習は、本質的に文書作成という実践への周辺参加としての側面を有するものだったが、そこで獲得された読み書き能力自体は汎用性と普遍性を有しており、江戸時代に流通するようになった書籍を読むことができただろうし、読書と教養の世界が主として民衆自身の活動によって形作られていく

l  分限(ぶんげん/ぶげん)による教育と文化的中間層

商店で奉公する人々にとって最低限の読み書きが必須だったのと同じように、村役人層・豪農商層など中間層の人々にとっては、このような教養を身につけておくことが自らの社会的威信保持のためにも必須となっていく――分限に基づく文化の格差化とともに、身分的な分化の中で自らの身分的不安定さを文化的権威により補完しようとして読書や知的営為に走る文化的中間層が形成され拡散していく

l  リテラシーのスペクトル

江戸時代における読み書きは、地域や性、職業や身分などによって、極めて多様な在り方をしながら、社会全体として機能していた――リテラシーが多様に展開

l  近世日本におけるリテラシーの構造

上部には、代表的な文字文化の世界が広がる――漢学、国学、和歌・俳諧などの「文化界」

下部には、実務的な文書操作の世界――社会で取り交わす文書の作成・読解で「文書界」

寺子屋における読み書きの過程は、往来物という独特な教材によって形成され、基本的に文書界参画のための準備過程だが、識字能力自体は文化界参画の基礎的素養ともなった

 

第5章        近代学校と読み書き

l  明治期の識字調査

明治期になると、民衆の教育水準が国家的な関心の対象となり、様々な識字調査が実施される――1899年の陸軍省の壮丁(20歳男子)調査での非識字率は23.4%、1877年滋賀県実施の全住民対象(6歳以上)の自著率調査では、男子90%、女子40%と高水準だが、鹿児島県では男子33%、女子4(1884)

l  地域内自著率の分布

独自の自著率・文通率調査の嚆矢は、1874年の和歌山県紀の川周辺52ヵ村のもの

地域により極めて多様な状況が見て取れる

l  自著率と識字

自著率は1276%の間に分布し、その識字能力は自著だけのものからたどたどしい文面ならある程度書ける者まで多様だが、文通率はおおよそ10%内外で一定で自著率との相関は見られない

l  長野県北安曇郡常盤村の識字調べ

1881年実施の調査は、15歳以上の男子全員を対象――自著不可が35.4%、自著・村名のみ41.2%、何らかの文書作成可能23.5

l  石川県における徴兵適齢受検者に対する教育調査

1888年、識字力と計算力を調査――文通と四則算の出来る者は27.3(就学率は71.8)

l  史上空前の学びのキャンペーン

1872年学制発布――53760の小学校設立を企図(現在は2万弱)

同年『学問のすゝめ』初編刊行

l  「就学告論」の世界

全国の府・藩・県の地域政治指導者たちが就学を勧奨する告論を発表――400件を超える告論が見出されているが、禽獣と人間の比較がなされ、人間の教育可能性が宣言された

l  近代学校制度というもの

明治政府が導入しようとしたのは、身分や職業、性別などと関係なく、あらゆる人間が初等学校に就学することに最大の特質があり、1900年には名実ともに義務教育が確立

当時の子どもは家の重要な働き手であり、就学により出来する労働力不足は大人たちの労働強化によって補わなければならなった――史上稀に見る規模の労働力の移動でもあり、1900年の無償化までは授業料も支払わなければならなかった

明治新政府は、学制の導入とともに、身分制を否定する施策を次々に打ち出す――廃藩、士族の散髪脱刀の許可、婚姻の自由化、穢多非人の呼称禁止など

「徴兵国論」では、上下を平均し人権を斉一にする道として兵農合一を説く

l  学校教育と近世的リテラシーの相克

近代学校教育は子どもの成長過程を大きく変えることになるが、読み書き教育の在り方も大きく変容――学校における認知形成と人格形成の基礎としての教育へと位置付けなおす

特定の文書作成のような実践ではなく、言語それ自体に関わる知識や技能の育成を目的としたが、往来物による教育の歴史は長く、近世的リテラシーが日常生活の隅々にまで及んでいたため、近代学校における読み書き教育は近世的なリテラシーとの相克の中で展開

教育課程全体が、極めて科学主義的また啓蒙主義的な構成となっていたため、社会が望むリテラシーとはあまりにも乖離し、期待通りには進展せず、1879年に新たに教育令制定

l  内容主義の国語教育

1886年には教育令に代わって小学校令発布――森(有礼)文政の始まり

国語教育の中に各教科の知識を取り込んで教えるスタイルが主流→内容主義の国語教育

l  読本で教えるという伝統

さまざまな知識を読本の中で教える方式は、往来物の方式そのもの

l  言文一致体へ

1902年、義務教育就学率が90%を超過。その過程と並行して言文一致運動が展開され、文字文化へとアクセスする間口を決定的に広げる――1887年二葉亭四迷の『浮雲』を嚆矢とし、白樺派によって1920年代に完成するが、社会の様々な文書の言文一致化も進む

尋常小学校の使用教科書の口語体の比率も、1904年の第1期国定教科書では83.4%に

新聞の全面口語化は1920年代に入ってからだし、公用文では非言文一致体が残存

l  音読の退場と「近代読者」

読書の在り方にも大きな影響を与えた――孤独で内省的な、黙読による読書の成立で、これを「近代読者」といい、それにあらざる者は音読をする読者で、漢文の素読(そどく)や草双紙の絵解きなどが該当するが、言文一致体の登場や学校教育によるリテラシーの水準向上を基礎として読書も寡黙なものへと変わっていった

l  孤独な読者

近代読者とは、単に黙読する者というだけでなく、個人として「読書」という実践をなす者であり、孤独に書物に向き合い、その中で内省的に自我を形成する者=「孤独な読者」

近代学校制度は、近代人を創出する上で決定的な役割を果たし、人々は生まれついた身分に関係なく自己の存在を自己自身によって決定し得ることとなった

 

おわりに

無着成恭が『やまびこ学校』で行ったのは、生活綴方と呼ばれる教育の実践

1930年代の経済恐慌の中で、貧困をはじめとする生活の現実と格闘する作文指導が広く各地で展開され、生活綴方と呼ばれるようになる。国定教科書が存在しなかった綴方においては、教員の創意工夫の余地が大きく、国定教科書体制の間隙をついて、リアリズムと社会問題への鋭利な問題意識とに基づいて展開された教育が生活綴方教育だったが、激しい弾圧の対象となり、全国で数百名の綴方教師が逮捕され、教壇から追放された

戦後教育の自由回復とともに綴方教育も復活。特に貧困層の子どもでも自由な作文が可能となり、あらゆる階層において文章によるリアルな表現が可能となったという意味において、日本における読み書きの歴史全体を通じて1つの到達点を示すものといえる

筆と墨や和紙に代わる安価な西洋紙と鉛筆の普及も、生活綴方教育の成立を可能とした

読み書きの実践は、文字そのものの在り方を含め、常に何らかのテクノロジーと結びついて実現してきた――漢字の移入それ自体が完成度の高いテクノロジーで、日本語に近接させるための種々の工夫がなされ、候文を標準文体とし、書記言語を口頭語に近接させるための学習道具として往来物を利用、木版印刷術により書籍流通が大発展を遂げる

文字の読み書きが必須のリテラシーと見做されるまでに普及しつつあるのは、様々なテクノロジーと人間のスキルとの結合の所産に他ならず、その結合は学習と教育によって成し遂げられた――日本の場合は、現在もなお授業や学習が「書字」に依拠して行われる(書字随伴型学習)が、その背景には往来物という読み書き教材の存在がある

電子的なテクノロジーの急速な進化の中でも、特に甚大な影響を及ぼすと考えられるのが音声入出力システムで、読み書きの操作が一切不要となり、その影響は計り知れない――読み書きに関わる人間のスキルをどの程度の水準で保つべきかという決断を人間に突き付けるだろう

 

 

 

読み書きの日本史 八鍬友広著

「かきことば」獲得の時代状況

2023729日 日本経済新聞

現在は、義務教育の9年間で日本語の「読み書き」能力を修得するのが一般的であろう。「読み書き」能力は、漢字・仮名によって日本語を文字化し、文・文章としてまとめ、「かきことば」としてアウトプットする能力と言い換えることができる。漢字に関しては「常用漢字表」、かなづかいに関しては「現代仮名遣い」、送り仮名に関しては「送り仮名の付け方」という、いわば「ルール」もある。

(岩波新書・1166円) やくわ・ともひろ 60年山形県生まれ。東北大学教授。専攻は日本教育史。著書に『闘いを記憶する百姓たち』など。 書籍の価格は税込みで表記しています

しかし、過去においては義務教育制度があったわけでもないし、統一的な「ルール」が公表されているわけでもない。そうした時期に「読み書き」能力はどうやって修得されていたのか、そしてそれをどうやって推測すればよいのかという問いに答えてくれるのが本書だ。

本書は「日本における書き言葉の成立」を論じた第1章から始まり、「読み書きのための学び」「往来物(おうらいもの)の隆盛と終焉(しゅうえん)」「寺子屋と読み書き能力の広がり」「近代学校と読み書き」と展開していく。

「往来」は往来する手紙のことで、「往来物」は手紙文例集をジャンルとする書籍群を指す。江戸時代において「往来物」は次々に編纂(へんさん)、出版され、現在残されているものを数えても7千種類以上に及ぶという。その「往来物」を使って、「寺子屋」で「読み書き」が教えられていた。

「往来物」の中には上杉景勝の家臣、直江兼続が徳川家康に送った書状『直江状(なおえじょう)』や、百姓一揆の直訴状(目安)『白岩目安(しらいわめやす)』など、変わり種もあって、驚かされる。

読み書き能力というと、「識字率」ということばが思い浮かぶが、何をもって「識字」とするのか、ということもある。本書では、寺子屋の師匠が死亡した時に筆子(教え子)が建てた墓碑である「筆子碑(ふでこひ)」や村役人が交代する際に提出される「跡役願書(あとやくがんしょ)」、寺子屋の門人帳や寺子屋の入門者が使用した手本の一覧など、さまざまな「根拠資料」から江戸時代の「読み書き」の実態について迫っていく。「候文(そうろうぶん)」を江戸時代の標準的な「かきことば」とみた場合、それを読み書きできるのは村の男子人口の10%程度ではないかという推測は興味深い。現代の「読み書き」のありかたについてもいろいろと考える機会を与えてくれる好著といってよい。

《評》清泉女子大学教授 今野 真二

 

 

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