校歌の誕生  須田珠生  2020.6.5.


2020.6.5. 校歌の誕生

著者 須田珠生 1990年広島市生まれ。13年お茶大教育学部卒。18年京大大学院環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。19年京大博士(人間・環境学)。日本学術振興会特別研究員を経て、現在京大人文学連携研究者。主な論文に『学校校歌作成意図の解明――東京音楽学校への校歌作成依頼状に着目して』他

発行日           2020.3.20. 初版第1刷印刷          3.25.  初版第1刷発行
発行所           人文書院

序 本書の視角
1.    問題関心と目的
1872年学制公布以降、校歌を義務付けたり奨励する法令は一切公布されていない
学制と共に、音楽教育を行う教科として、下等小学と上等小学に「唱歌」が、下等小学に「奏楽」が設けられた
本書では、明治期から昭和戦前期までを射程に入れ、なぜ学校は校歌を作成するようになったのかを明らかにしていきたい
学校自らの手によって制定され、歌われるようになった校歌は、紛れもなく近代日本の学校に見られる独自な教育実践の1つであり、皆で歌うという行為を通じて、社会的な繋がりを自覚させ、コミュニティを形成していく装置となり得る
校歌が学校にとっていかなる意味を持ったのか、校歌が学校や学校を取り巻く地域社会の中で、どのような役割を期待されていたのか、このことを歴史的な視点から校歌を捉えることによって、明らかにしていきたい

2.    先行研究の整理
校歌というジャンルに関する研究は、殆ど蓄積がない。歴史的な視点からの研究も少ない
校歌に関する事実史は、曖昧なまま語られることが往々にしてあった
日本初の校歌は、1878年作成の東京女子師範学校(現・お茶の水)校歌とされてきたが、当時は附属幼稚園児らと師範学校生徒らの唱歌教育に用いるために作成された《学道(まなびのみち)》が、同校での式典・儀式の際に歌う唱歌としての役割を経て、1900年校歌となったもの。《学道》の歌詞は、皇后の下賜した和歌
         みがかずば 玉もかがみもなにかせん 学びの道も かくこそありけれ
社会学的な観点から歌と集団的アイデンティティに関する研究の一環として校歌に言及した研究や、文部省による唱歌の認可制度によって認可された校歌を網羅的にまとめた研究が存在するのみで、制定した学校側の視点が欠如 ⇒ なぜ学校が校歌を必要としたのかの視座は不可欠だし、文部省が学校自主作成の校歌をいかなる歌として認識していたのかについても明らかにする必要がある

3.    本書の構成
学制公布から終戦までを対象に、文部省、学校、地域社会の3つの視点から校歌との関係を問う
1章では、文部省と校歌の関係を問う ⇒ 学校教育を統括する文部省が、各学校制定の校歌に対し、いかなる対応をしていたのか。9194年にかけて公布された唱歌関連の法令に着目し、文部省はいかにして学校における校歌の存在を把握するようになったのか、いかなる意図で認可制度を設けたのかを明らかにする
2章では、学校と校歌の関係に焦点 ⇒ 0945年の間に東京音楽学校に校歌の作詞・作曲を委託した学校456校を事例として検討。学校は校歌に何を求めたのか、校歌制定が学校にとってどのような意味を持ったのかを明らかにする
3章では、地域社会と校歌の関係を検討。校歌が全国的な広がりを見せた時期を確認し、校歌の歌い手や歌う場面が学校という限定空間から拡散していくことを指摘する
4章では、再度文部省と校歌の関係を問う ⇒ 30年頃を境として校歌が全国的に普及したことを踏まえ、以後に公布された唱歌関連法令に着目。学校で歌われる唱歌に対する規制と学校独自制作の校歌をどのように扱ったのかを明らかにする

本書の刊行に当たっては、19年度京大総長裁量経費、人文・社会系若手研究者出版助成、19年度京大大学院人間・環境学研究科長裁量経費による支援、並びに日本学術振興会科学研究費補助金の助成を受けた

第1章        文部省による唱歌認可制度の実施
91年公布の文部省訓令第2号と、94年の訓令第7号に着目
1.    儀式と唱歌の結合
72年公布の学制では、音楽教育の必要性は認めたものの、実際に授業が行われるようになるまでには多くの時間を要した
79年、文部省内に音楽取調掛が設置され、伊澤修二が東京師範学校校長と兼務で御用掛に就任。81年の「小学校教則綱領」でも、「唱歌」は教授法等の整備を待って実施とある
86年公布の小学校令に基づく「小学校の学科及其程度」では、「唱歌」は尋常小学校では「加うること」が、高等小学校では「欠く」ことが許可された
最も早く音楽教育が必修となったのは高等女学校で、99年導入。小学校で必修となったのは1907年で、まだ附則で「欠くことを得」とあり、附則が完全に削除されたのは26
91年公布の文部省令第4号「小学校祝日大祭日儀式規程」で唱歌合唱が定められ、元日、元始祭、孝明天皇祭、紀元節、春季皇霊祭、神武天皇祭、秋季皇霊祭、神嘗祭、天長節、新嘗祭では「相応する唱歌の合唱」が義務付けられた ⇒ 音楽取調掛が、幼稚園唱歌集29曲、小学校唱歌集91曲、中等唱歌集18曲を編纂して各都道府県に提示

2.    文部省訓令第2号の公布
91年訓令第2号では、祝日大祭日儀式で各学校が合唱する唱歌に対して、文部大臣の認可を得ることを必要とした ⇒ 当時児童の間で「国風国体に反する」唱歌が頻繁に歌われていたことに対する危機感が背景にある
93年の告示第3号により、唱歌を正式に制定 ⇒ 《君が代》《勅語奉答》《11日》《元始祭》《紀元節》(作曲伊澤修二)《神嘗祭》《天長節》《新嘗祭》の8
91年の訓令第2号の公布を受けて、自校の校歌を選択して文部大臣の認可を申請したのが東京市下谷区忍岡尋常高等小学校(現・台東区立忍岡小学校)で、93年一部修正後認可 ⇒ 作曲は《新嘗祭》と同じ木村正辞、作曲は《11日》と同じ上眞行

3.    文部省訓令第7号の公布
文部省による、学校内で歌う唱歌への取り締まりは、その後祝日大祭日儀式で歌う唱歌に留まらず、より広範囲にわたって強化
94年訓令第7号では、文部大臣の認可を受けたもの以外は小学校で歌うことを全面的に禁止 ⇒ 大半の学校にとっては、唱歌教育自体が普及しておらず、影響は軽微
学校での唱歌教育を設けるより以前の「音楽」は、箏・琴、三味線が基本で「猖獗を極め、淫猥卑蛮」なもの、特に大人が歌う「聞くに堪えざる俚歌」が俗間に流行したものを小学校生徒が真似ることが問題視された
結果的に、「本邦在来の音楽に代用すべき善良なる材料」として唱歌教育に採り入れられたのは、日清戦争の開戦に伴い大量に作られるようになった軍歌
1910年頃を前後に、各学校が自校の校歌の申請を行ったことで、結果的に訓令第7号は、公布当初の、学校で歌う歌を統制するという思惑とは異なる、校歌を取り締まるための法令となっていった

第2章        各学校における校歌作成の意図
1.    同一の校歌
校歌を作成する学校が現れるようになったのは1890年代
必ずしも1学校1校歌という構図が作られていたわけではなく、92年の長崎では5つの尋常小学校が教育勅語の趣旨を奉戴して作った校歌の冒頭部分のみ独自の歌詞をつけ、残りは共有

2.    校歌の代替としての唱歌《金剛石》
唱歌《金剛石》を校歌として指定し歌っていた学校もある ⇒ 元は皇后が華族女学校に下賜された御詠に曲譜を製作したもので、90年以降生徒によって歌われていた
金剛石もみがかずば 珠のひかりはそはざらむ 人はまなびてのちこそ まことの徳はあらはるれ。。。。
水はうつはにしたがひて そのさまざまになりぬなり 人はまじはる友により よきにあしきにうつるなり。。。。

3.    東京音楽学校への校歌作成委託
99年発行の『教育報知』の中の「小学校の儀式」では、儀式の際に校歌を歌うことが奨励されている
作詞は出来るとして、作曲がネック ⇒ 人脈を通じて東京音楽学校に委託することが始まり、学校側も個人的に斡旋する形で応じる
190745年に456件の校歌作成委託 ⇒ 作曲か、作詞作曲のいずれかで、作詞だけの委託はない。小学校が作歌作曲各30円、中学校が同50円を標準とし、支払いは市町村や校友会、中には校長の自腹というのもある

4.    校歌に求められた内容
委託者によってまちまちだが、地理的環境や自然環境、校訓や教育方針を歌詞に含めようとしていたことが分かり、学校は独自の内容を歌詞の構成要素として歌い込もうとした

5.    校歌の歌詞内容の変容
京都市は1869年に日本初の学区制小学校として64校設立(「第〇番組小学校」と呼ばれる)。先駆的な近代教育を実践、音楽教育も早い時期に開始。校歌は23校が1901年を皮切りに終戦までに制定されているが、明治期の4校と大正期以降の19校では歌詞の様相が大きく異なる ⇒ 先行の4校では特定の固有名詞や歴史を含まなかったが、大正期以降は学校の周辺環境を表す語句が校歌の歌詞に歌われるようになり、地域に特化した内容を含めることで、自校特有の内容の校歌を作るようになった ⇒ 地域の特徴を表す事物や環境に、校歌を歌う児童生徒らの理想像を投影しようとする学校側の意図があった

6.    校歌への権威づけ
「校歌をして権威あらしめ且つその完璧を期し、常に児童に唱謡せしめ、本校教育の指針たらしめる」のが、音楽学校に委託する目的
時とともに、有名な人への委託希望が増加 ⇒ 作詞家では高野辰之、作曲家では岡野貞一、信時潔、船橋栄吉など

第3章        校歌と郷土教育運動との関わり
1.    校歌の普及
1930年を境に校歌作成委託が急増

2.    郷土歌としての校歌
学校の校訓や母校精神を歌詞にした歌が校歌であるとし、それを在学する児童生徒に歌わせることによって、教育的な効用が期待できるとする考えは、教育者の間で広く共通した認識。校訓を音楽的に美化したのが校歌
大正期に入ると、校歌を地域全体の人々に歌われる歌にしようという提案が出され、地域社会にまで広がりを見せるようになる
市町村歌に代表される郷土について歌った歌(郷歌)とは、恒あkとほぼ同時期に作られるようになった歌で、京都市では、1897年には京都市小学校長会によって京都市歌が作られ、翌年には『若越郷土唱歌』が出版された
「社会矯風の実を挙げるためには、「各種階級を網羅」する人々が一同に歌うことが可能な歌が必要とされ、郷歌と校歌を同一にしようという提案となった

3.    替え歌の校歌
校歌の旋律 ⇒ 初期には同一の旋律を用いた校歌がある
前任校の校歌の旋律を用いて、替え歌を作って校歌としたものがいくつかある
歌詞のみを自校に特有のものへと読み替えることによって、とりあえずは自校の校歌を手に入れることが出来たが、この簡便さもまた、法的に作成が義務付けられていたわけではない校歌をここまで普及させた一因

第4章        文部省による唱歌への規制と校歌の扱い
1.    文部省訓令第7号の廃止とその後
1931年公布の文部省訓令第20号により、訓令第7号が廃止されたが、新たに31年の省令第21号により小学校内で歌われる唱歌に対する文部大臣の認可は継続(認可後は誰でも歌うことができたが、認可された学校でのみ歌うことができるように狭められた)
39年公布の文部省令第49号では、師範学校、中学校、高等女学校、実業学校、青年学校にも大臣認可制度が導入された

2.    文部省による校歌への対応
省令第21号に基づき、各学校から申請が出され、歌詞につき細かく添削されて認可が下りるが、文部省側の審査は「唱歌」の審査で、特に「校歌」を意識したものではなかった

3.    学校側の対応
文部省も学校に対して校歌の申請を徹底することはなく、手続きの煩瑣から申請を行わない学校もないわけではなかった

終章 校歌は、いかなる歌として成立したのか
1891年以来、学校で歌う唱歌に対して認可制度を設けた文部省は、学校に校歌の作成を義務付けたり、奨励することはなかったが、かといって、各学校で歌われる校歌に対して何ら関与しなかったわけではなかった
72年の学制公布時、音楽教育として「唱歌」と「奏楽」が取り入れられたが、実施には時間がかかった。その間も文部省は91年に儀式で唱歌を歌うことを定めたのが、文部省が明確に学校における校歌の存在を把握するようになる発端
91年公布の訓令第2号で、学校側が儀式で歌う唱歌を、予め文部省が把握することにした
94年の訓令第7号では、儀式に限らず学校内で歌う唱歌全般が取締りの対象となったが、文部省の重点は軍歌の取り締まりにあった
当初、どの学校でも歌える「校歌」という唱歌も存在。個別の学校を特定できるような語句や固有名詞はほとんど歌詞として出てこなかった
大正期を境として、それぞれの学校にだけ通じる内容を歌詞の構成要素として歌い込むことを学校が望むようになる ⇒ 学校教育の規格化が図られ、学校の質的な同調が求められる中で、校歌はその学校の独自性を打ち出す手段になり得た
1930年代の郷土教育運動の展開によって、学校は「正しい郷土人」の養成を目指し、校歌の歌詞に求められる内容が、「郷土の歌」の歌詞に求められる内容に当てはまったことにより、校歌は「郷土の歌」として位置づけられ、地域社会の人々と結びつきを持つ歌としての性格を帯びる。地域社会における共同体意識の形成という地域作りの一端を担う
1931年公布の文部省令第21号により、学校内で歌う唱歌に対しての規制が厳格化され、各学校に固有の歌に対しても文部大臣の認可が必要となるが、文部省の姿勢はあくまで「唱歌」の規制で、「校歌」を特別視はしていない
文部省が「上から」指導した唱歌に対し、校歌は個々の学校によって作成された、いわば「下から」作り出された歌であり、あくまで学校が主体となって作り出された歌
大正期頃から、学校はその学校に特化した、その集団だけに共通する内容の校歌を作成するようになったのは、より強固な人々の結びつきを、校歌を「声をそろえて歌う」ことによって獲得しようとしたから
校歌の歌詞や楽曲に類似性や均一性があるのは結果論で、学校は他行との差異を示す場、即ち自校のアイデンティティを創出する場として校歌を利用したが、学校を超えて地域社会という「コミュニティ」を取り込むことで、地域との結びつきの中で浸透していく


あとがき
本書は、18年京大大学院人間・環境学研究科に提出した博士学位論文『近代日本の学校に見る校歌の成立史』(193月博士取得)を加筆修正したもの






(書評)『校歌の誕生』 須田珠生〈著〉 『音楽文化 戦時・戦後』 河口道朗〈著〉
2020523  朝日
 情感に訴え動員する危険と魅力
 今春からのNHK連続テレビ小説「エール」の主人公のモデルは、「六甲おろし」や「モスラの歌」など、人々に愛され歌い継がれる曲を残した作曲家の古関裕而氏である。古関氏や、その先達である山田耕筰氏など、戦前から戦後にかけての著名な音楽家らは、多数の学校の校歌も作曲している。
 我々にとって校歌といえば、在学していた学校・大学のシンボル的な意味を持ち、行事などで繰り返し斉唱したことで卒業後も記憶に残る歌のことを意味している。しかし、もともと校歌とはそのようなものではなかったのだ。『校歌の誕生』は、校歌が日本社会にいつどのように登場し、なぜ変遷をとげてきたのかを、豊富な一次資料によって解明している。
 明治期の学校では、教具や教材の不足により、「唱歌」「奏楽」の科目は実施が必須ではなかった。その代わり、祝日大祭日の学校儀式では、唱歌を合唱することが文部省令によって定められていた。現在も入学式や卒業式での歌の練習に学校が多くの時間を割いているのは、ここに起源がある。
 その儀式で歌う唱歌には文部省の認可が必要とされた。巷の歌は「淫猥卑蛮(いんわいひばん)」で儀式に適さないとみなされていたからである。当初学校が認可を求めたのは軍歌だった。しかし20世紀に入ると校歌の認可が明確に増え始める。それも、初期には地域内で複数の学校が同じ歌を校歌としていたものが、各学校の校訓や自然環境など独自性を出すようになる。そして著名な音楽家や文芸家に作曲・作詞を依頼することで自校の威信を高めようとする風潮に火が付く。さらには校歌を学校だけでなく地域でも歌うことで、郷土愛や共同体意識を醸成しようとする運動にもつながってゆくのである。
 『音楽文化 戦時・戦後』は、より視野を広げて、1920年代から敗戦後にかけての国家・音楽・教育の関係をたどっている。
 戦時下において国家は、一方には実際の戦争における効用のために、他方には国民の思想的統一のために、音楽を最大限に活用した。爆音から敵機の種別を聞き分けるための音感教育、「愛国運動」「国民精神総動員」のための「音楽週間」などが、学校を舞台に繰り広げられる。戦後は反転して、民主化や労働運動のための音楽運動が勃興し、学校での音楽教育も苦しみつつ再編されてゆく。
 人々の情感に訴えかけ集団へと巻き込む働きをもつ音楽は、その時々の権力や意図によって翻弄され簒奪されてきた面を持つ。馴染みのある歌の楽譜や歌詞もちりばめられているこの2冊の本の助けを借りて、音楽の過去と現在、その危険と魅力について、思いを馳(は)せてみてはいかがだろうか。
     *
 『校歌の誕生』 須田珠生〈著〉 人文書院 4400
 『音楽文化 戦時・戦後 ナショナリズムとデモクラシーの学校教育』 河口道朗〈著〉 社会評論社 2750
     *
 すだ・たまみ 90年生まれ。京都大人文学連携研究者かわぐち・みちろう 36年生まれ。東京学芸大名誉教授。音楽教育史学会代表。日本女子大教授などを歴任。著書に『音楽教育の理論と歴史』など。


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