猫を棄てる 村上春樹 2019.6.6.
2019.6.6. 猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること
特別寄稿 自らのルーツを初めて綴った
著者 村上春樹
発行日 2019.5.10.
発行所 文藝春秋(月刊『文藝春秋』6月号)
父親に関して覚えていること ⇒ 18歳で家を離れるまで一緒に暮らしていた中で、今でもありありと僕の脳裏に蘇ってくるのは平凡な日常のありふれた光景で、例えば夙川に住んでいたまだ小学校の低学年の頃、海辺に1匹の猫を父と一緒に捨てに行ったが、家に戻ったら先に猫が戻ってきていたのを見て父の呆然とした顔をまだよく覚えている
もう1つよく覚えているのは、毎朝仏壇に向かって長い時間目を閉じてお経を唱えていたこと。父はそれを「おつとめ」と呼び毎日欠かさなかった。誰のために唱えているのか一度尋ねたことがあったが、前の戦争で死んでいった人たちのためだと答えてくれた
父は京都の浄土宗安養寺の次男として17年生まれ。祖父が小僧見習いから住職に出世した寺だが、著者が幼少時亡くなり、長男が後を継ぐ。父はまじめで責任感が強く、学者が希望だったが、中卒後僧侶養成の西山専門学校に入る。4年の徴兵猶予のところ手違いで2年で徴兵、38年京都市内の輜重(兵站担当)兵連隊に入隊。著者は勘違いで福知山の歩兵第20連隊だと思い込んでおり、入隊の前年第20連隊が南京攻略1番乗りで有名を馳せた後も中国各地で熾烈な戦いを続けていたので、父が南京戦にはすれすれで参加していなかったことを知って一つ重しが取れたような感覚があった
専門学校に入ってすぐ俳句に目覚め、以後詠み続けていた
一度だけ父は著者がまだ小学校の低学年だったころに打ち明けるように、自分の属していた部隊が捕虜にした中国人を処刑したことがあると語った。中国兵は騒ぎもせず、じっと目を閉じて座って斬首された。実に見上げた態度だったと言った
一旦除隊し西山専門学校を優等で卒業し、臨時召集を経て、京都帝大文学部分学科に入学
著者の方は父の期待に応えられず、身を入れて勉強しようという気持ちにはどうしてもなれなかったし、慢性的な痛み(無意識な怒りを含んだ痛み)を感じるようになった。30歳にして小説家でデビューした時、父も喜んでくれたが、その時点では我々の親子関係はもうずいぶん冷え切ったものになっていた
父は大学院に進んで結婚、著者が生まれたことで学業を途中で断念して甲陽の国語の教師に就く。母は許婚が戦死したため父と結婚、大阪樟蔭で国語の教師、田辺聖子と繋がるが、現在も96歳で存命。2人とも教師としては生徒に評判が良かったようだ。著者は京都生まれだが阪神間育ち
自分の果たせなかった夢を著者に託そうとした父は、著者が成長し固有の自我を身につけていくにしたがって、2人の間の心理的な軋轢は次第に強く、明確なものになる。お互い頑固で譲らなかったこともあり、著者が若くして結婚し仕事を始めるようになってからは、父との関係はすっかり疎遠となり、関係はより屈折したものとなって最後は絶縁状態
父と漸く顔を合わせて話をしたのは、亡くなる直前90歳を迎えていた頃で著者も60近かった。父は病床で癌が転移し見る影もなく痩せこけていた。短い会話で和解のようなことをした。考え方や世界の見方は違っても、僕らの間をつなぐ縁のようなものが、1つの力を持って僕の中で作用してきたことは間違いない
父の死後、自分の血筋を辿るような格好で、父親に関係するいろいろな人に会い、彼についての話を少しづつ聞くようになった。こうして記憶を辿り、過去を眺望し、それを目に見える言葉に、声に出して読める文章に置き換えていくと、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われる
この個人的な文章において一番語りたかったのは、ただ1つの当り前の事実。それは僕は1人の平凡な人間の、1人の平凡な息子に過ぎないという事実だ。腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれが1つの偶々の事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだ1つの事実を、唯一無二の事実と見做して生きているだけのことなのではあるまいか
我々は膨大な数の雨粒の一滴に過ぎないが、その一滴には一滴の雨水なりの思いがあり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。いずれ一滴の水は集合的な何かに置き換えられていくからこそ、それを忘れてはならない。
2019.6.6. 朝日「文化・文芸」
(寄稿)村上春樹、個人史を超えて 父を語り、透けた残虐な偶然と責任 マイケル・エメリック
先月発売の文芸春秋に掲載された村上春樹氏による特別寄稿「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」が大きな反響を呼んでいる。
公の場を避け、自分のプライバシーを懸命に守ってきた作家が、冒頭に謳われるよう、「自らのルーツを初めて綴った」という意味で読者が惹きつけられるのも無理はない。ましてや戦時中に三回も召集された父親の従軍経験への言及、特に最初に入隊した部隊が「捕虜にした中国兵を処刑した」という衝撃の告白、それを低学年で聞かされた村上氏がひどくショックを受けたことなどは、村上文学の読者なら、腑に落ちるところがあるのではないだろうか。最新の長編小説『騎士団長殺し』に語られる「上官に日本刀を手渡されて、これで捕虜の首を切れと命令される」雨田継彦の戦争体験は村上氏の語る父親の人生とずれながら重なっている。これがもっとも顕著な例だが、注意して読むと『風の歌を聴け』といった初期の作品からも、中国と、対中戦争への関心が窺える。
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このエッセイでは、父親との関係が主なテーマになっているのだが、それと同時に、今年で四十年のキャリアを迎えるプロの物書きである村上春樹のオリジン・ストーリーが展開されていると言える。タイトルの背景写真では、八歳くらいの、つまり捕虜の処刑の話を聞いた頃の村上氏が、グラブをはめてしゃがむ父親の前に立ち、木製バットを肩に乗せ、ボールが飛んでくるのを待っている。これは、村上氏が『走ることについて語るときに僕の語ること』などで綴った別のオリジン・ストーリーとうまく呼応している。神宮球場の野球の試合でバットが球に当たる打音を聞いて、瞬時に小説を書こうと思い立った、という有名な話である。
父によって語られる、軍刀で中国兵が斬首される心像に、米国から来たばかりのデイブ・ヒルトン選手がバットで球をかっ飛ばす動きは重ねられ、それらは村上文学の原風景を成している。つまり、現代アメリカ文学に触発された軽快な翻訳調文体の奥には、残虐な歴史を見据える鋭敏な感性が存在している。
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作家村上春樹を中心に据えたこの視点は、しかし、「猫を棄てる」の意図を大きく取り違えたものだとも言える。村上氏が文章化しようとしているのは、村上自身のなかにも部分的に息づいている、父親の戦争体験という個人的な事柄に止(とど)まらない。すべての人間が、歴史、家系、社会、政治などの体系に組み込まれており、言ってみれば、個人という概念は実体のない、幻想に近いようなものである、ということにも及ぶ。
村上氏は言う。「父親について語る」この個人的な文章を「書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われる」、と。父親について語るとき、例えば父親がたまたま兵役解除になって離隊した部隊の、その残った兵士がビルマでほとんど全滅したことについても、語らざるを得ない。母親が父親と一緒になる前の許嫁(いいなずけ)が戦死したことについても語る必要がある。そしてこのように、丁寧に父親の人生を紡いでいけばいくほど、自分の幸運は、大勢の人たちの不運と綿密に繋がっていることに気がつくのである。
つまり、父親について語るとき、村上氏は、自分の個人的な話を伝えようとしているのではなく、また作家としての来歴を辿(たど)ろうとしているわけでもない。もっと深いところで、我々がかろうじて頭をもたげようともがく激しい流れや水の渦に見え隠れする、宇宙の残虐な偶然の姿を、作家として冷徹に捉えようとしているのである。
そして、村上氏は言う。偶然の繋がりからも責任は生まれる。厳しい、ある意味残酷な結論と、この文章は対峙しようとしているように思われてならない。
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Michael Emmerich 日本文学者、翻訳家 1975年米国生まれ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授、早稲田大学准教授。エッセー集『てんてこまい』など。
Wikipedia
早稲田大学在学中に喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。1987年発表の『ノルウェイの森』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベストセラーとなり[2]、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』などがある。
日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している[3]。2006年、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し[4]、以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている[注 1]。
精力的に、フィッツジェラルドやチャンドラー作品など翻訳。また、随筆・紀行文・ノンフィクション等も多く出版している。後述するが、ビートルズやウィルコといった音楽を愛聴し自身の作品にモチーフとして取り入れるなどしている。
1949年、京都府京都市伏見区に出生する。父千秋が甲陽学院中学校の教師として赴任したため、まもなく兵庫県西宮市の夙川に転居。父は京都府長岡京市粟生の浄土宗西山派光明寺住職の息子、母は大阪・船場の商家の娘という生粋の関西人で、「当然のことながら関西弁を使って暮らしてきた」[5]。また両親ともに国語教師であり、本好きの親の影響を受け読書家に育つ[6]。西宮市立浜脇小学校入学、西宮市立香櫨園小学校卒業[7]。芦屋市立精道中学校[8]から兵庫県立神戸高等学校に進む。両親が日本文学について話すのにうんざりし[注 2]、欧米翻訳文学に傾倒[10]、親が購読していた河出書房の『世界文学全集』と中央公論社の『世界の文学』を一冊一冊読み上げながら10代を過ごした。また中学時代から中央公論社の全集『世界の歴史』を繰り返し読む[注 3]。神戸高校では新聞委員会に所属した。
1年の浪人生活ののち、1968年に早稲田大学第一文学部に入学、映画演劇科へ進む[注 4]。在学中は演劇博物館で映画の脚本を読みふけり、映画脚本家を目指してシナリオを執筆などもしていたが[13]、大学へはほとんど行かず、新宿でレコード屋のアルバイトをしながら歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る日々を送る。1970年代初め、東京都千代田区水道橋にあったジャズ喫茶「水道橋スウィング」の従業員となった[14]。1971年10月、高橋陽子と学生結婚。一時文京区で寝具店を営む夫人の家に間借りする。二人は昼はレコード店、夜は喫茶店でアルバイトをして250万円を貯めた。さらに両方の親と銀行から借金し、総額500万円を開業資金とした[15][16]。
大学在学中の1974年、国分寺駅南口にあるビルの地下でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店(場所は殿ヶ谷戸庭園のすぐ近く)[17]。店名は以前飼っていた猫の名前から採られた。夜間はジャズバーとなり、週末は生演奏を行った[注 5]。1975年、7年間在学した早稲田大学を卒業。卒業論文は「アメリカ映画における旅の系譜」でアメリカン・ニューシネマと『イージー・ライダー』を論じた。指導教授は印南高一(印南喬)[注 6][13]。
1978年4月1日、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦、ヤクルト×広島を外野席の芝生に寝そべり、ビールを飲みながら観戦中に小説を書くことを思い立つ[21]。それは1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが左中間に二塁打を打った瞬間のことだったという[21][22][23]。それからはジャズ喫茶を経営する傍ら、毎晩キッチンテーブルで書き続けた[24]。1979年4月、『群像』に応募した『風の歌を聴け』が第22回群像新人文学賞を受賞。同作品は『群像』1979年6月号に掲載され、作家デビューを果たす。カート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガンらのアメリカ文学の影響を受けた清新な文体で注目を集める。同年、『風の歌を聴け』が第81回芥川龍之介賞および第1回野間文芸新人賞候補、翌年『1973年のピンボール』で第83回芥川龍之介賞および第2回野間文芸新人賞候補となる。1981年、専業作家となることを決意し、店を人に譲る。同年5月、初の翻訳書『マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集』を刊行。翌年、本格長編小説『羊をめぐる冒険』を発表し、第4回野間文芸新人賞を受賞。
1985年、長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』発表、第21回谷崎潤一郎賞受賞。1986年10月、ヨーロッパに移住(主な滞在先はギリシャ、イタリア、英国)。1987年、「100パーセントの恋愛小説」と銘うった『ノルウェイの森』刊行、上下430万部を売る大ベストセラーとなる。1989年10月、『羊をめぐる冒険』の英訳版『Wild Sheep Chase』が出版された。
1991年、ニュージャージー州プリンストン大学の客員研究員として招聘され渡米する。前後して湾岸戦争が勃発。「正直言って、その当時のアメリカの愛国的かつマッチョな雰囲気はあまり心楽しいものではなかった」とのちに述懐している[25]。翌年、在籍期間延長のため客員講師に就任する。現代日本文学のセミナーで第三の新人を講義、サブテキストとして江藤淳の『成熟と喪失』を用いる[注 7]。
1996年6月、「村上朝日堂ホームページ」を開設。1997年3月、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめたノンフィクション『アンダーグラウンド』刊行。それまではむしろ内向的な作風で社会に無関心な青年を描いてきた村上が、社会問題を真正面から題材にしたことで周囲を驚かせた。1999年、『アンダーグラウンド』の続編で、オウム真理教信者へのインタビューをまとめた『約束された場所で』により第2回桑原武夫学芸賞受賞。2000年2月、阪神・淡路大震災をテーマにした連作集『神の子どもたちはみな踊る』刊行。
この時期、社会的な出来事を題材に取るようになったことについて、村上自身は以下のように「コミットメント」という言葉で言い表している。
「それと、コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(かかわりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが」[26]
「『ねじまき鳥クロニクル』は、ぼくにとっては第三ステップなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分で、コミットメントということがかかわってくるんでしょうね。ぼくもまだよく整理していないのですが」[27]
「コミットメント」はこの時期の村上の変化を表すキーワードとして注目され多数の評論家に取り上げられた。阪神の震災と地下鉄サリン事件の二つの出来事について、「ひとつを解くことはおそらく、もうひとつをより明快に解くことになるはずだ」と彼は述べている[28]。このため、短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収められている作品はすべて、震災が起こった1995年の1月と、地下鉄サリン事件が起こった3月との間にあたる2月の出来事を意図的に描いている[29]。
村上は創作活動と並行して多くの翻訳を行ってきた。『カイエ』(冬樹社)1979年8月号に掲載されたスコット・フィッツジェラルドの短編『哀しみの孔雀』が、商業誌に発表したものとしては初めての作品である。「最初に『風の歌を聴け』という小説を書いて『群像』新人賞をとって何がうれしかったかというと、これで翻訳が思う存分できるということでした。だからすぐにフィッツジェラルドを訳したんですよ」[30]と語っているように、『哀しみの孔雀』の発表は『風の歌を聴け』が『群像』1979年6月号に掲載されてからわずか2か月後のことであった。
1981年5月、中央公論社より初めての翻訳書『マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集』を刊行。1983年7月、レイモンド・カーヴァーの作品集『ぼくが電話をかけている場所』(中央公論社)を刊行。2004年7月、『レイモンド・カーヴァー全集』全8巻の翻訳を成し遂げた。
2003年以降、アメリカ文学の新訳を継続的に刊行している。同年4月、『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルで親しまれてきたサリンジャーの長編の新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を発表。同作品を皮切りに、フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』(2006年11月)、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』(2007年3月)、トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』(2008年2月)、チャンドラーの『さよなら、愛しい人』(2009年4月)、『リトル・シスター』(2010年12月)、『大いなる眠り』(2012年12月)、『高い窓』(2014年12月)、『プレイバック』(2016年12月)、サリンジャーの『フラニーとズーイ』(2014年2月)等を翻訳した。
2017年4月27日に自身の翻訳の仕事をテーマに語るトークイベントが都内で行われた際に本人は「翻訳がなければ僕の小説は随分違ったものになっていたはず。翻訳を通して自分は発展途上にある作家だと実感できる」と語って、翻訳そのものを「ほとんど趣味の領域と言っていい」として「学んだのは世界を切り取り、優れた文章に移し替える文学的錬金術とも言える働き」と説明した[32]。
2002年9月、初めて少年を主人公にした長編『海辺のカフカ』発表。2004年にはカメラ・アイのような視点が登場する実験的な作品『アフターダーク』を発表。2005年、『海辺のカフカ』の英訳版『Kafka on the Shore 』が『ニューヨーク・タイムズ』の"The
Ten Best Books of 2005"に選ばれ国際的評価の高まりを示した。2006年、フランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞(Frank
O'Connor International Short Story Award)と、国際的な文学賞を続けて受賞。特にカフカ賞は、前年度の受賞者ハロルド・ピンター、前々年度の受賞者エルフリーデ・イェリネクがいずれもその年のノーベル文学賞を受賞していたことから、2006年度ノーベル賞の有力候補として話題となった。同年の世界最大規模のブックメーカーである英国のラドブロークス
(Ladbrokes) のストックホルム事務所による予想では、34倍のオッズが出され18番人気に位置(受賞は同予想で1位のオルハン・パムク)。2007年の同予想では11倍のオッズ、6番人気とさらに評価を上げた[33]。また近年の年収は海外分が既に国内分を上回っており、事務所の仕事量も3分の2は海外とのものであるという[34]。
2009年1月21日、イスラエルの『ハアレツ』紙が村上のエルサレム賞受賞を発表[36]。当時はイスラエルによるガザ侵攻が国際的に非難されており、この受賞については大阪の市民団体などから「イスラエルの戦争犯罪を隠し、免罪することにつながる」として辞退を求める声が上がっていた[37]。村上は2月15日、エルサレムで行われた授賞式に出席し記念講演(英語)を行う[38]。スピーチ内容は全文が直ちにメディアによって配信され[39]、それを日本語に翻訳した様々な文章がインターネット上に並んだ[注 9] [注 10]。『文藝春秋』2009年4月号に村上のインタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」が掲載される。スピーチの全文(英語と日本語の両方)も合わせて掲載された。なお授賞式では、スピーチの途中からペレス大統領の顔がこわばってきたのが見えたという[43]。
2009年5月、長編小説『1Q84』BOOK
1およびBOOK 2を刊行。同年11月の段階で併せて合計223万部の発行部数に達した。同作品で毎日出版文化賞受賞。同年12月、スペイン政府からスペイン芸術文学勲章が授与され、それによりExcelentísimo
Señorの待遇となる。
同年9月28日、『朝日新聞』朝刊にエッセイ「魂の行き来する道筋」を寄稿した。その中で、日中間の尖閣諸島問題や日韓間の竹島問題によって東アジアの文化交流が破壊される事態を心配して、「領土問題が「感情」に踏み込むと、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。」「しかし賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。」「安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いではしまってはならない。」と警告した[46][47]。
2015年1月15日、期間限定サイト「村上さんのところ」を開設した[注 11]。同日から1月31日までの間に37,465通のメールが寄せられた。4月30日に更新終了[49]。読者のとやりとりは約3,500問に及んだ[50]。
平易で親しみやすい文章は村上がデビュー当時から意識して行ったことであり、村上によれば「敷居の低さ」で「心に訴えかける」文章は、アメリカ作家のブローティガンとヴォネガットからの影響だという[52]。「文章はリズムがいちばん大事」[53]とは村上がよく話す言葉だが、そう思うに至った理由を次のように説明している。「何しろ七年ほど朝から晩までジャズの店をやってましたからね、頭のなかにはずっとエルヴィン・ジョーンズのハイハットが鳴ってるんですよね。」[53]
一方、文章の平易さに対して作品のストーリーはしばしば難解だとされる。村上自身はこの「物語の難解さ」について、「論理」ではなく「物語」としてテクストを理解するよう読者に促している。物語中の理解しがたい出来事や現象を、村上は「激しい隠喩」とし、魂の深い部分の暗い領域を理解するためには、明るい領域の論理では不足だと説明している[57]。このような「平易な文体で高度な内容を取り扱い、現実世界から非現実の異界へとシームレスに(=つなぎ目なく)移動する」という作風は日本国内だけでなく海外にも「春樹チルドレン」と呼ばれる、村上の影響下にある作家たちを生んでいる[58]。また、村上の作品は従来の日本文学と対比してしばしばアメリカ的・無国籍的とも評され、その世界的普遍性が高く評価されてもいるが、村上自身によると村上の小説はあくまで日本を舞台とした日本語の「日本文学」であり、無国籍な文学を志向しているわけではないという。なお村上が好んで使用するモチーフに「恋人や妻、友人の失踪」があり、長編、短編を問わず繰り返し用いられている。
村上の著作は小説のほかエッセイ、翻訳、ノンフィクションなど多岐にわたっており、それらの異なる形態の仕事で意図的にローテーションを組んで執筆している[59]。しかし自身を本来的には長編作家であると規定しており、短編、中編小説を「実験」の場として扱い、そこから得られたものを長編小説に持ち込んでいると語っている[60]。またそれらのバランスをうまく取って仕事をする必要があるため、原則的に依頼を受けての仕事はしないとしている[59]。
村上は1990年代後半より、しきりに「総合小説を書きたい」ということを口にしている。「総合小説」として村上はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を引き合いに出している。それは「いろいろな世界観、いろいろなパースペクティブをひとつの中に詰め込んでそれらを絡み合わせることによって、何か新しい世界観が浮かび上がってくる」[61] ような小説のことを指すのだという。そして「パースペクティブをいくつか分けるためには、人称の変化ということはどうしても必要になってくる」[61] という。その試みは『ねじまき鳥クロニクル』(一人称の中に手紙や他の登場人物の回想が挿入される)、『神の子どもたちはみな踊る』(すべて三人称で書かれた)、『海辺のカフカ』(一人称と三人称が交互に現れる)、『アフターダーク』(三人称に「私たち」という一人称複数が加わる)などの作品にあらわれている。
村上は自身が特に影響を受けた作家として、スコット・フィッツジェラルド、トルーマン・カポーティ、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガット、レイモンド・チャンドラーらを挙げている[62]。このほかにフランツ・カフカ、ドストエフスキーらの作家も加わる。「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本」としてフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、そしてチャンドラーの『ロング・グッドバイ』の3冊を挙げている[63][注 13]。読売新聞で『1Q84』をめぐる記者との対談に於いて、後期ヴィトゲンシュタインの「私的言語」概念[65]に影響を受けていたことを明かした[注 14]。
文学賞
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作品名
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結果
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選評など
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受賞
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『風の歌を聴け』
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候補のみ
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丸谷才一の選評。「もしもこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあい大きいやうに思ふ」
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第83回芥川賞
(1980年7月発表) |
候補のみ
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その後村上が長編小説を仕事の中心に構えたこともあり、彼の作品が芥川賞の候補に選ばれることはなかった(芥川賞は中編、短編が対象のため)。
村上がのちに世界的な作家へ成長したことにより、2回にわたる「取りこぼし」はしばしば芥川賞に対する批判の的となった。
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川本三郎は、村上を早くから注目していた人物の一人。『カイエ』1979年8月号で最初のインタビューを行っている。村上との共著に『映画をめぐる冒険』(講談社、1985年12月)がある。近年は村上の作品に対し批判的な意見を述べることが多い。『アンダーグラウンド』の書評では、「読んでいるあいだじゅう、なぜ突然、村上さんが『社会派』になったのかという違和感がこびりついて離れなかった」「村上さんもまた紋切り型の『物語』に乗ってしまったのか」と述べている[69]。
田中康夫は、村上の小説には「『女の子は顔じゃないよ。心なんだよ』といった小説好きの女の子を安心させる縦文字感覚」があると述べ、エッセイに関しても「常に『道にポンコツ車が捨ててあったから、拾ってこようかと思った』という内容」[71] だと批判している。
上野千鶴子は、鼎談集『男流文学論』(小倉千加子・富岡多恵子共著、筑摩書房、1992年1月)において『ノルウェイの森』を論評し、次のように述べている。「はっきり言って、ほんと、下手だもの、この小説。ディーテールには短篇小説的な面白さがときどきあるわけよ。だけど全体としてそれをこういうふうに九百枚に伸ばせるような力量が何もない」[72]
富岡多恵子は、上記鼎談集において近松門左衛門の「情をこめる」という言葉を引用し、『ノルウェイの森』について「ことばに情がこもってない」と評する。それは「情をこめるようなことば遣いを現代というのがさせない」からかもしれないと述べている[74]。
河合隼雄は、『羊をめぐる冒険』について、現代青年の直面している心理的内容が「羊男」というイメージに見事に具象化されており、夏目漱石の『三四郎』で主人公が出会った「ストレイ・シープ」のイメージと比較すると現在がどれほど違った世界になっているかよく実感できると述べている。また『ねじまき鳥クロニクル』については、青年ということを離れ現代人一般にかかわるものであり[76]、現代人の心の傷とその癒しについて多くのことを考えさせられ、また心理療法の本質に触れるような文に何度も出会って、自分の仕事のあり方について立ち止まって考えざるを得なかったと述べている[77]。
大塚英志は、『アンダーグラウンド』の書評で、「麻原の物語と対峙する術として導き出されたのが、危機管理への警鐘という凡庸な保守論壇的日本社会批判でしかないことは、『アンダーグラウンド』の最大の欠点であり、限界であるといえる」と述べている[79]。
福田和也は、『作家の値うち』(飛鳥新社、2000年)の中で村上を夏目漱石以降で最も重要な作家と位置づけた。『ねじまき鳥クロニクル』に現役作家の最高得点を与えた[81]『「内なる近代」の超克』でも称賛している。
斎藤美奈子は、プロットの展開をロールプレイングゲームになぞらえ、「村上春樹をめぐる批評ゲームは『オタク文化』のはしりだった」と評している[82]。さらにしばしば村上龍と対置されることについて、「もし龍か春樹のどちらかが『村上』じゃなかったらどうだったのか」「村上春樹が村上春子という女性作家だったらどうなるのか」「村上龍と対比されるべき対象は、村上春樹ではなく、田中康夫であってもよかった」という意見を述べている[82]。
小谷野敦は、『ノルウェイの森』の書評で、「巷間あたかも春樹作品の主題であるかのように言われている『喪失』だの『孤独』だの、そんなことはどうでもいいのだ。(中略) 美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞと言うやつに、どうして感情移入できるか」と述べている[83]。
柴田元幸は、翻訳チェックをする上で感じた、村上の仕事ぶりの特徴を次のように述べる。「ふつう誤訳を指摘されるとひとは傷つくんですよ。傷ついて自己弁明するのにいちいち時間をかけているとこっちはくたびれるんです。そういうのがいっさいない。」「ここの三行目ですけど、といった時点で、彼はもう直そうという気になっている。」[84]
高橋源一郎は、『群像』に応募しようと考えていたときに『風の歌を聴け』が掲載された『群像』1979年6月号を書店で立ち読みする。そのときの思い出をこう語っている。「たぶん僕はそれを読んで、世界で一番衝撃を受けた人間かもしれない。僕はその前に十年分読んでいて新しい作家なんか誰もいなかったので安心してたんです。それが一ページ目を読んで『……いたよ』って(笑)」[87]
内田樹は、『村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング、2007年)、『もういちど村上春樹にご用心』(同社、2010年)、同書文庫版(文春文庫、2014年)等の著書において、村上の著作を全面的に肯定、評価している。「結婚詐欺」と断じた蓮實重彦に対し、「蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と『蓮實フォロワー』が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか」と述べている[88]。
小川洋子は、「自分が敬愛する作家の、もっとも好きな作品が短編である場合(中略)、短編ならばふと思い立った時、最初から最後までいつでも通して読み返せる。」「村上春樹作品の中で、私がそういう読み方をしているのは『中国行きのスロウ・ボート』に収められた、『午後の最後の芝生』である。」と述べている[89]。
島田裕巳は、『1Q84』の書評で、主人公・青豆が重要な場面にさしかかると証人会のお祈りをする点を取り上げ、「からだの方は組織から離れていても、こころの方はそうではない。そういう点まで踏み込んで、宗教のことを描いた小説というのは今まであまりなかったように思います」と述べている[92]。
高橋秀実は、『村上春樹 雑文集』の書評で、「実際の村上さんは、作品の文章と印象があまり変わらないのである。日常会話でも彼の言葉は一つひとつが屹立しており、ウソやごまかしがない。言葉の裏に作為のようなものが感じられず、『牡蠣フライが食べたい』と言えば、それは牡蠣フライを食べたいということしか含意していない。(中略)本書は村上さんの実像を味わえる貴重な一冊といえるだろう。」と述べている[94]。
鴻巣友季子は、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の書評で、「かつて村上の小説にうっすらあった自己批評性としたたかなユーモアはどこへ行ったんだろう? その謎の方が気になる」と述べている[97]。
諏訪哲史は、同じ小説家の立場からハルキストを自認している。村上作品はすでに普遍的な「世界文学になっている」と賞讃しつつも、顕著さが強まる近年の「スマートな神秘主義はやや不安材料」であると述べる。また、「心の闇は、本当は言葉とか所作とか『表面』にだけ現れることであって、精神世界とか宗教とかに行くと、それは現代では怪しげな『オカルト』になってしまう。僕は、『慎重な世代』の人間として(諏訪哲史は1969年生まれ)、春樹さんが小細工のないリアリズムで書く方を好む。」と発言している[98]。
加藤典洋は、短編小説集『女のいない男たち』の収録作品に関して、「停滞しており、凡庸」「全体の記述が少々軽薄」「楽しめるのは残りの『シェエラザード』と『木野』くらい」といった意見を述べている[100]。しかし『村上春樹論集
1-2』(若草書房、2006年)、『イエローページ村上春樹』(荒地出版社、1996年)、『イエローページ村上春樹
Part 2』(荒地出版社、2004年)、『村上春樹の短編を英語で読む
1979〜2011』(講談社、2011年)など多数の評論を出版しており、村上を高く評価する人物の一人である。
鈴村和成は、最初のモノグラフィーである『未だ/既に――村上春樹と「ハードボイルド・ワンダーランド」』(洋泉社、1985年)で、記号論の立場から作家を論じ、それ以後、『テレフォン――村上春樹、デリダ、康成、プルースト』(同、1987年)で電話と村上の関係を扱い、『村上春樹とネコの話』(彩流社、2004年)、『紀行せよ、と村上春樹は言う』(未来社、2014年)など、多数の村上関連の本を出している。
都甲幸治は、『風の歌を聴け』を「最も愛する小説の一つ」としつつも、「村上がどんなに政治的に正しい演説をし、リベラルな意見をエッセイで述べていても関係がない。村上の作品が性差別的であることは明白な事実だ」と指摘する。都甲は『女のいない男たち』の書評において「どうして村上作品は性差別的であるにもかかわらず、女性や、おそらく同性愛者たちからさえこれほどまでに愛されているのか」その謎を解明しようとする[101]。
中条省平は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の書評で主人公であるホールデンの口調は、野崎孝訳では"べらんめえ口調"の"やんちゃ坊主"であるのに対し、村上訳は"山の手言葉"の"引っ込み思案の少年"という印象だと述べている[102]。また沼野充義は、野崎訳は村上が訳した時点で約40年が経過しているが古びておらず、村上訳は村上自身の文体で主人公を造形したという印象を持ったと述べている[103]。
村上は授賞式において、小説を書くときに常に頭の中に留めていることを「個人的なメッセージ」として述べた。「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」 [注 16]。この「壁と卵」という比喩が大きく注目されたため、スピーチ自体を「壁と卵」と呼ぶこともある(『文藝春秋』2009年4月号に掲載されたスピーチ全文のタイトルは和文が「壁と卵」、英文が
"Of Walls and Eggs")。
斎藤美奈子は、『朝日新聞』紙上で「卵を握りつぶして投げつけるぐらいのパフォーマンスを見せればよかった」「ふと思ったのは、こういう場合に『自分は壁の側に立つ』と表明する人がいるだろうか」と感想を述べている[106]。
田中康夫は、浅田彰との対談で、エルサレム賞がノーベル文学賞の登竜門であるとされることから、「誰もが『卵が尊い』と唱和する局面であえて、壁の側にだって一分の理はあるのではと木鐸(ぼくたく)を鳴らしてこそ、小説家としての証しだとするなら」という前置きをした上、ノーベル賞をくださいと正直に言うことが大人の商売人であると論評した[107]。ただし、2009年2月27日、新党日本のYouTubeチャンネルで、田中は村上にノーベル賞への気持ちがあったかどうかは、問わないとしている[108]。
村上はのちになって、あの場所でできる発言としてはギリギリの物だったと述べている[109]。イスラエル政府要人が集まる舞台であれ以上の発言をすることは困難であり、またあれ以下の発言では意味がない。他の人ならあれ以上の発言ができただろうか。もちろんバレンボイムなどのように政権に批判的なユダヤ人が厳しい発言を行ったことはある。しかし同胞のユダヤ人が批判を行うことと、日本人が批判を行うこととでは受けとられ方が大きく異なる。エルサレム賞を受賞すると聞いて多くの「進歩的」メディアから批判を受けたが、現地で発言することに意味があると思ったし、メディアにも自分のそれまでの行動からある程度の推測をしてほしかった、と述べている。
猫好きであり、大学生の頃からヨーロッパで生活する1986年まで、多くの猫を飼った。ヨーロッパに渡る前、飼っていた猫を講談社の当時の出版部長に預ける。その時に条件として、書き下ろしの長編小説を渡す、と言う約束をした。この書き下ろしの長編小説が『ノルウェイの森』である[112]。「猫」は村上小説の中で重要な役割を果たすことが多い。仕事で海外を飛び回ることが多いため、現在飼うことは断念しているという。
マラソンを現在まで続けている。走り始めたのは1982年の秋だという[113]。当時習志野市に住んでいた村上は、朝、近所にあった日本大学理工学部の400メートルトラックで走らせてもらったりしながら徐々に距離を上げていったという[114]。1983年7月、アテネからマラトンまでを一人で走る。オリジナルのマラソン・コースが村上にとって初めてのフルマラソンとなった[115]。トライアスロンにも参加している。冬はフルマラソン、夏はトライアスロンというのがここ数年の流れである。毎朝4時か5時には起床し、日が暮れたら仕事はせずに、夜は9時すぎには就寝する。ほぼ毎日10km程度をジョギング、週に何度か水泳、ときにはスカッシュなどもしている。
「走ることが創作のために大事な役を果たしているという肉体的な実感をずっと持ってきた」と村上は近年のインタビューで答えている[注 17]。
「走ることが創作のために大事な役を果たしているという肉体的な実感をずっと持ってきた」と村上は近年のインタビューで答えている[注 17]。
中学生の頃からジャズ・レコードの収集をしており、膨大な量のレコードを所有している(1997年当時で3,000枚)。音楽はジャズ、クラシック、ロックなどを好んで聴く。エルヴィス・プレスリー[注 18]やビートルズ、ザ・ビーチ・ボーイズ、ドアーズをはじめとする古いロックはもちろん、レディオヘッド、オアシス、ベックなどの現代ロックを聴き、最近ではコールドプレイやゴリラズ、スガシカオのファンを公言している。常に何か新しいものに向かう精神が大事なのだという[117]。
東京ヤクルトスワローズの熱心なファンである。そのきっかけは、東京に移り住んだ時にその土地のホームチーム(読売ジャイアンツ、東映フライヤーズ、東京オリオンズ、サンケイアトムズ)を応援するべきだと考え、その中で立地と居心地の良い神宮球場が気に入り(当時の神宮球場は観客席の一部が芝生だったため)、サンケイアトムズの応援を始めたことである。その後も、東京ヤクルトスワローズのファンを続け、いまでもなお、しばしば球場に足を運んでいる(『村上朝日堂ジャーナル』)。神宮球場でデーゲームの野球観戦中にビールを飲んでいたところ「小説を書こう」と思い立ち、『風の歌を聴け』を執筆したという逸話がある[注 19]。そうしたこともあり、2013年9月、ヤクルト球団からオフィシャルファンクラブ『スワローズクルー』の名誉会員への就任が発表された。スワローズオフィシャルファンクラブ名誉会員としては出川哲朗(タレント)に次いで2人目である[118][119]。
好きな日本の小説家は夏目漱石、谷崎潤一郎、吉行淳之介等の第三の新人で、川端康成はそれほど好きではない、という[126]。また、太宰治や三島由紀夫などが書く「いわゆる自然主義的な小説、あるいは私小説はほぼ駄目」、としており、その理由について「そういう小説には、どうしても身体が上手く入っていかないのです。サイズの合わない靴に足を突っ込んでいるような気持ちになってしまうのです。」と述べている。[127]
選択的夫婦別姓について賛同する[128]。「結婚したからどちらかが姓を変えなくちゃならないというのは、憲法に保障された男女同権とあきらかに矛盾することです。そんなの不公平ですよね」と述べている[128]。
村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』にでてくる作家デレク・ハートフィールドは架空の人物であり、大学図書館などでは、「デレク・ハートフィールドの著作を読みたい」という学生のリクエストに応えて司書が著作を探しては首をかしげるという誤解が後を絶たない。『図書館司書という仕事』久保輝巳著「1章 ある図書館司書の生活」はこのエピソードを描いたものである。
日本のテレビ、ラジオに出演したことはない[注 21]。近年はインタビューの依頼があっても、一部の新聞・雑誌を除いて積極的には応じない。インタビュー嫌いの理由として、本人は、ジャズ喫茶経営時代に「毎晩客の相手で一生分の会話をした。今後は、本当に話したい人にしか話さないと誓った」からだと述べている[10]。
日本国内で、講演会や朗読会など公の場に出ることは極めて少ない。その一方で、海外では講演や書店のサイン会はよく行っている。海外マスメディアのインタビューにも精力的に応じている。なお、2015年11月28日〜29日に郡山市で行われた「ただようまなびや 文学の学校」に予告なしでゲスト出演し話題となった。村上は自作短編の朗読を行い、福島県の高校生と懇談し、ワークショップや討論会に参加した[132][133]。
評論家などによる自身の小説に関する文章はまず読まないが、インターネットなどを通じて届いた読者の意見は全部読むと語る。「僕は、正しい理解というのは誤解の総体だと思っています。誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がるんですよ」と村上は言う[134]。ただし、例えばエルサレム賞受賞に関するマスメディアの批評は十分読んでいる[109]。
2018年6月5日、TOKYO FMがJFN系列の全FMラジオで、村上が初めてラジオのディスクジョッキーを務める「村上RADIO(レディオ)〜RUN & SONGS〜」を8月5日に放送すると発表した。番組では村上が自ら選曲し、音楽や文学、そして走ることについて語るという。放送時間は19:00〜19:55[135](尚、Date
fm・広島FMは20:00〜20:55、FM沖縄は21:00〜21:55の放送)[136]。
村上は1996年6月に「村上朝日堂ホームページ」を開設して以来、断続的に自身のホームページを立ち上げている。ただしいずれも出版媒体が実質的に管理・運営をしており、自身が管理する、また長期にわたり運営されたものはこれまでにない。
タイトル
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更新期間
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運営母体
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刊行物
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村上朝日堂ホームページ
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1996年6月4日〜1997年11月11日
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1998年2月14日〜1999年11月18日
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朝日新聞社
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『海辺のカフカ』ホームページ
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2002年9月12日〜2002年12月27日
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村上モトクラシ
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2005年3月29日〜不詳
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新潮社
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村上朝日堂ホームページ
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2006年3月8日〜2006年6月8日
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朝日新聞社
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村上さんのところ
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2015年1月15日〜2015年4月30日
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新潮社
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ここでは村上春樹と特にかかわりのある人物を取り上げる(順不同)。
イラストレーター、漫画家(1942年7月22日
- 2014年3月19日)。安西は千駄ヶ谷の「ピーター・キャット」に客として行ったとき初めて村上と会ったという[137]。表紙から挿絵まで数多くのイラストを安西は担当しており、共著の作品も少なくない。対談の数も多い。『夢のサーフシティー』(朝日新聞社、1998年7月)と『スメルジャコフ対織田信長家臣団』(朝日新聞社、2001年4月)には、特別付録として二人の音声対談が収録されている。
安西は村上についてこう評す。「とても人見知りをする人だけれど、友情のあつさにおいては完璧なものがある」[137]「僕は彼の声を〝プラチナの声〟と言っているんですよ。ちなみに、彼の文字はかりん糖。油で揚げたような字を書くんです」[138]
村上は、安西の本名の「渡辺昇(ワタナベノボル)」を様々な作中人物の名前に使った。例として「象の消滅」(象の飼育係)、「ファミリー・アフェア」(妹の恋人)、「双子と沈んだ大陸」(共同経営者)、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(猫および妻の兄)、「中断されたスチーム・アイロンの把手」(壁面芸術家)、「鉛筆削り
(あるいは幸運としての渡辺昇①)」、「タイム・マシーン (あるいは幸運としての渡辺昇②)」、「タコ」などがある。そして長編『ノルウェイの森』では「ワタナベトオル」と名を変え、『ねじまき鳥クロニクル』では「ワタヤノボル」[注 22]となる。
安西は2014年3月19日に急死。『週刊朝日』2014年4月18日号に「週刊村上朝日堂 特別編」が掲載される。村上は「描かれずに終わった一枚の絵―安西水丸さんのこと―」と題する追悼文を書き、安西のイラストもそこに付された。追悼文で村上は「安西水丸さんはこの世界で、僕が心を許すことのできる数少ない人の一人だった」と述べた。
2014年8月、『イラストレーション緊急増刊 安西水丸 青空の下』(玄光社)が刊行。『イラストレーション』2011年3月号に掲載された「特集 安西水丸 村上春樹との全仕事
1981-2011」が同書に再録される。
英米文学翻訳家、元東京大学教授(1954年7月11日
- )。村上がジョン・アーヴィングの『熊を放つ』(中央公論社、1986年5月)を翻訳した際、柴田が訳文を「細かくチェック」[140]したことから交流が生まれた。村上が柴田の授業に参加したり(『翻訳夜話』、『翻訳教室』)、積極的にインタビューや対談に応じたり(『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』、『代表質問 16のインタビュー』、『村上春樹 翻訳 (ほとんど)
全仕事』)と、二人の親交は篤い。早川書房から出ているレイモンド・チャンドラーの作品を除いて、村上の主たる翻訳のチェックを行っている[141]。また、CDブック『村上春樹ハイブ・リット』(アルク、2008年11月)の総合監修も行った。「村上朝日堂ホームページ」において、読者からの英文法に関する質問に対して村上の代わりに答えたこともある(同ホームページ、読者&村上春樹フォーラム39、2006年4月17日)。
2006年3月に東京、札幌、神戸で行われた「国際シンポジウム&ワークショップ 春樹をめぐる冒険――世界は村上文学をどう読むか」のアドバイザーおよび司会を務めた。かつ、同シンポジウムを記録した書籍『世界は村上春樹をどう読むか』(文藝春秋、2006年10月)の編集も行った。
村上は、柴田が責任編集を務める文芸誌『MONKEY』(スイッチ・パブリッシング)から依頼を受け、短編小説「シェエラザード」を執筆した[142]。同作品はその後、『女のいない男たち』(文藝春秋、2014年4月)に収録された。
日本文学研究者、翻訳家(1941年
- )。村上の作品の主たる英訳者、アルフレッド・バーンバウム、ジェイ・ルービン、フィリップ・ガブリエルの3人[注 23]のうちで、個人的にもとりわけ交流が深いのがルービンである。『ねじまき鳥クロニクル』の翻訳を、同作品がまだ『新潮』に連載中のときに村上本人から依頼を受けて行う[143]。これまでに長編小説を4編(『1Q84』はBOOK1とBOOK2のみ)、短編小説を24編訳している。また2009年2月にイスラエルで行われたエルサレム賞授賞式の英文スピーチの英訳も行った[36]。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店、1996年12月)の対談の席にルービンは、発言こそ取り除かれたものの陽子夫人と共に参加した。東京大学文学部で行われた柴田元幸の翻訳演習の授業にも村上と共に参加した。このときの授業の模様は『翻訳教室』(新書館、2006年3月)に収録されている。
2006年3月に東京、札幌、神戸で行われた「国際シンポジウム&ワークショップ 春樹をめぐる冒険――世界は村上文学をどう読むか」に参加。同年6月、アイルランドで開かれたフランク・オコナー国際短編賞授賞式(受賞作品は短編集『Blind Willow, Sleeping Woman』)に村上の代理として出席した[144]。
村上はルービンが訳した芥川龍之介の短編集『Rashōmon
and Seventeen Other Stories』(2006年)の序文を書いている。同書は2007年6月、新潮社から日本語版が出版された(『芥川龍之介短篇集』)。
2015年5月、初の小説『The
Sun Gods』を上梓。日本語版は同年7月に『日々の光』として新潮社より刊行された[145]。村上は『波』2015年8月号に書評を寄せた。2016年11月、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社、2011年)の翻訳を行った[146]。
「僕にとっての『小説の意味』みたいなものをきちんと総合的にすっと理解し、正面から受けとめてくれた人は河合先生一人しかいませんでした。『物語』というのが我々の魂にとってどれほど強い治癒力をもち、また同時にどれほど危険なものでもあるかということを、非常に深いレベルで把握しておられる方です。」[147]「河合先生に会うたびに、僕は元気づけられます。ああいう人ってなかなかいないです。」[148]「僕が『物語』という言葉を使って話すときに、その意味をきちんと理解してくれるのは、河合先生ぐらいだった」[149] と語っている。
河合隼雄氏との対話(『アンダーグラウンド』をめぐって 「悪」を抱えて生きる)『約束された場所で―underground
2』ISBN
978-4167502041 初出: 文藝春秋 1998年11月号
76巻 262-277頁「ポストアンダーグラウンド」をめぐって―麻原・ヒットラー・チャップリン
連続対談 河合隼雄x村上春樹 京都での対話(上)(下) 臨床心理学者と作家が語り合った2日間 フォーサイト(新潮社)
2003年10月号[152] 第14巻第10号通巻163号
52-57頁、2003年11月号[153] 第14巻第11号通巻164号
52-58頁
編集者(1939年4月29日
- 2003年1月20日)。安原は中央公論社で文芸誌『海』や『マリ・クレール』の編集に携わった人物。村上が経営するジャズ喫茶の客で、『風の歌を聴け』が出版される1979年以前より交流があった[154]。「中国行きのスロウ・ボート」を『海』1980年4月号に掲載する際、初めて書いた短編小説であるにもかかわらず、安原から書き直しは一切要求されなかったという。「細かい実務的な作業は、この人の好むところではないようだった」と村上は述べている[155]。2003年1月20日に肺がんのため死去した。
村上は 2006年3月10日発売の『文藝春秋』4月号に、『ある編集者の生と死――安原顯氏のこと』と題するエッセイを発表。自身の直筆原稿が本人に無断で、安原によって流出させられ、東京・神田神保町の古本屋や、インターネットオークションで販売されていることを述べた。「基本的な職業モラルに反している(中略)のではあるまいか」「それら(注・安原ルートで流出した自筆原稿)が不正に持ち出された一種の盗品であり、金銭を得るために売却されたものであることをここで明確にしておきたい」[156]とコメントをしている。
この発表は各方面に大きな波紋を広げ、出版業界にはびこる「自筆原稿の流出」という、半ば公然の闇の事態が明らかとなった。安原が故人であったため「死者に鞭打つような仕打ち」と一部で批判する者もあったが、村上はこのような事態が、彼に関してのみならず、多くの作家に関しても未だに行われていることを指摘しつつ、誰かが声高に叫ばなければ、流出によって傷つけられる、生きている者たちの痛みはなくならないのではないか、と反論している[157]。なおこれら一連の動きから、明確な意思表示がない限り「生原稿は作家の所有物である」との確認が日本文芸家協会によって行われ、「生原稿『流出』等についての要望[158]」としてまとめられものが、関係各所へと配布された。
小説家(1952年2月19日
- )。群像新人文学賞受賞によりほぼ同時期にデビューを果たしたこと(龍は1976年、春樹は1979年)、年齢が比較的近いこと(春樹が3つ年上)、いずれも人気作家となったことなどから二人は「W村上」としばしば呼ばれる。両者を論じた評論『MURAKAMI龍と春樹の時代』(清水良典著、2008年)もある。
龍は学生時代、春樹の経営する「ピーター・キャット」に通っており、デビュー前からの顔見知りであった[13]。初期には互いのエッセイで頻繁に言及しあっており[159][160]、1981年には対談集『ウォーク・ドント・ラン』を出版した。同年夏、春樹は龍からアビシニアンの子猫を譲り受けている[161]。龍の3作目の長編小説『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年10月刊行)に刺激を受け、『羊をめぐる冒険』を書いたことは春樹本人が様々な媒体で語っている[162][163]。
春樹は『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中で、龍が「最初から暴力というものを、はっきりと予見的に書いている」という点で鋭い感覚を持った作家だと評価したうえで、自分は「あそこへ行くまでに時間がかかるというか、彼とぼくとは社会に対するアプローチが違う」と述べている[164]。
年号
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主な出来事
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文学賞受賞・候補
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10月、高橋陽子と結婚。
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国分寺にジャズ喫茶「ピーターキャット」を開く。
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「ピーターキャット」を千駄ヶ谷に移転。
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処女長編小説『風の歌を聴け』を出版。
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『1973年のピンボール』が第83回芥川賞と第2回野間文芸新人賞の候補となる。
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客員講師として大学院で週にひとコマのセミナーを1年間担当。
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5月、4年間にわたる米国滞在を終え帰国。
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6月、「村上朝日堂ホームページ」を開設。
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カタルーニャ国際賞を受賞。
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『1Q84』が国際IMPACダブリン文学賞の候補に上がる。
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