建築家ヴォーリズの「夢」 高澤紀恵編 2019.7.21.
編者
高澤紀恵 国際基督教大教授。専門は西洋史。特に近世フランス社会史、都市史。1955年生まれ。東女大卒。東大大学院博士課程単位取得退学。フランス社会科学高等研究院DEA。著書に『近世パリに生きる――ソシアビリテと秩序』ほか多数
山﨑鯛介 東工大環境・社会理工学院准教授。専門は日本近代建築史、歴史的建造物の保存活用、建築アーカイヴズ。1967年生まれ。東工大工学部建築学科卒、同大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了。『明治宮殿の意匠的特徴とその形成過程』で東工大博士(工学)取得。著書に『天皇のダイニングホール――知られざる明治天皇の宮廷外交』ほか
発行日 2019.1.25. 初版発行
発行所 勉誠出版
軽井沢図書館の新刊書コーナーで目に留まって
ヴォーリズと戦後の「夢」 ――序にかえて
本書は、ICUのディッフェンドルファー記念館東棟(通称D館)で16年開催の《ヴォーリズの夢 平和と大学》と題するシンポジウムでの議論を出発点とする
ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1880年アメリカ生まれ、24歳で来日、日本で活躍した建築家。19年華族の一柳満喜子と結婚、41年帰化して一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)と名乗る。経歴と活動域は、他の職業的建築家と比べるとユニーク。敬虔なプロテスタントの家に生まれ。コロラド大入学。在学中に海外伝道学生奉仕団のトロント大会に参加したことから海外宣教への志を抱き、哲学を専攻して卒業後、05年YMCAの斡旋で滋賀県立商業の英語教師として近江八幡へ。地元の反発で2年後教壇を離れ、近江基督教伝道団(近江ミッション、後の近江兄弟社)の活動に加わる。08年から建築設計に携わり、自給自立の伝道活動を経済的に支えるため10年ヴォーリズ合名会社設立。アメリカ製品の輸入やメンソレータムの代理販売、医療事業、教育事業と多岐にわたっていくが、建築設計事業は大切な柱
83年の生涯に手掛けた建築は、1500以上、日本のみならず朝鮮半島、台湾、中国大陸に広がる。学校建築は質量とも群を抜く。信仰者だったヴォーリズは、関学、同志社、東洋英和、明治学院、西南女学院、活水学院、梨花女子大といったミッション・スクールの建築に携わる。高く評価され、近江八幡では地域資源として活用する動きも活発。登録有形文化財は37件と、1人の建築家としては最多。37年建設の豊郷小学校(滋賀県)の保存運動が01年町を二分。33~34年建築の神戸女学院岡田山キャンパスが14年に重要文化財指定
作品が脚光を浴びているのに比べ、彼の戦争体験と戦後の日々、特にICUへの深い関与については知られてこなかった。ICUは中島飛行機研究所跡地に、終戦直後日米のキリスト教徒の間で大学設立の動きが始まり、内外の募金によって52年献学式を迎え、翌年リベラル・アーツの単科大学としてスタート。49年顧問建築家としてレーモンドを抑えてヴォーリズが選ばれたのは、放置されていた旧中島飛行機の設計棟建物を活用したコストのかからないプランだったため。加えて、これまで日本で40年にわたって建築に携わってきたのはICUを建てるために神様が自分に与えた準備だったと情熱を込めて語り、理事全員に感銘を与えたという
第1部
ヴォーリズとキャンパス――空間を読む
第1章
ミッション建築家ヴォーリズとICUのキャンパス計画 山形政昭(大阪芸術大教授。建築士・建築計画学)
著者はヴォーリズ建築研究の第1人者。ヴォーリズの人生と仲間たちとの建築活動とりわけ彼のミッション・スクール建築を時間軸に沿って俯瞰。なかでも代表作の関学上の原キャンパスと神戸女学院に焦点。戦前の作でICUに先行する総合的キャンパス計画であり、ICUキャンパスの発想の源。豊郷小学校とICU本館との類似点など興味深い
46年ICUキャンパス計画の設計者としてヴォーリズが指名。最晩年の建築活動の中心として位置付けられた
ヴォーリズの建築活動は、教員時代の八幡YMCA会館を処女作とし、近江ミッションという独自の活動とともに推進された
ミッション・スクール42校の建築記録があり、少なくとも33校に建築を残す。とりわけメソヂスト教会派、アメリカン・ボード・ミッション(組合教会派)に属する学校が多い
総合的なキャンパス計画の提案は、ランバス女学院(22年、大阪)、東洋英和(32年、東京)、関学(29年、西宮)、神戸女学院(33年。西宮)の4校。前2者は現存せず
キャンパスの計画的手法とは、合衆国が18世紀後半から19世紀にかけて生み出したキャンパスの伝統の中にその起源・類例が見いだせる ⇒ ヴァージニア大(1819年開校、設計ジェファーソン)、コーネル大(1867年、設計オルムステッド)
1937年竣工の豊郷小学校 ⇒ 地元出身の実業家の寄付によって15千坪に建てられた「東洋1の小学校」と言われ、01年校舎保存問題で全国に名を知られた。ICUのキャンパス計画の「中心グループ」との類似性が認められる
ヴォーリズの病気療養による突然の引退後、59年にICUの建築はA. レーモンドに引き継がれ、60年に図書館と礼拝堂が竣工、64年稲富が顧問建築家となって女子寮、理学館が竣工し、キャンパス建設の初期段階が整う
第2章
日本で最初の学生会館――ディッフェンドルファー記念館の建設経緯 山﨑鯛介
学生会館の建設経緯からICU建学期の理念と晩年のヴォーリズの挑戦を明らかにする。発注者の抱いた理想と、受け止めたヴォーリズの試行錯誤の双方から、日本初の学生会館建設という未知の課題が「形となる」プロセスが浮き上がる。全学生が参加し活動する学生会の声がD館を現在の形にした。第6章と併せ、戦後民主主義の具象化としてのD館の姿が見えてくる
記念館は、竣工時の外観をほぼそのまま伝える最古の建物。部室のほかに店舗も併設された、現代でも珍しい「日本最初の学生会館」
建築デザインにおいてもモダン。水平・垂直を基調とする抽象的デザインに、コンクリートの打放し仕上げの外壁とガラス張りの外観意匠は、モダン・アーキテクチャーの典型
大学側の理想は、ICUの米国側受け皿となったニューヨークのICU財団JICUF初代会長ディッフェンドルファーによってもたらされ、それを忠実に受け止めたのがヴォーリズ
元々のヴォーリズの基本計画には社会活動と密接に関係した施設として、宗教活動のほか地域活動、レクリエーション活動を行い、学内を超えた地域のモミュニティセンターとなり得る施設としての「教会会館」が含まれていないことにディッフェンドルファーが文句をつけた結果追加されたが、建設中にディッフェンドルファーの急逝もあって「学生会館」へと変更、58年竣工
第3章
空間・時代・社会――ヴォーリズのいる場所 村上陽一郎(東大・ICU名誉教授。科学史・科学哲学)
時間論と空間論の系譜という古代ギリシア以来の長いタイムスパンの中にヴォーリズの建築を置く。アマチュアなるが故に秩序を破壊する「前衛」建築家と無縁であることが喝破され、発注者の希望を満たすことに専念するが故に流行から自由に、教会を中心とした美しいコスモスとしてのキャンパスを構想し得たのではないかという、読み手の思考を刺激する博学の論考
建築家の定義の1つに「他人の金で、自分の好き勝手なことをする職業」と言ったが、ヴォーリズはその対極にある設計理念を持っていた ⇒ 建築設計上理想としたのは、クライアントの求めるところを、最上の形で満たすことであり、自らも、「最小限度の経費をもって、最高の満足を与え得る建築物を人々に提供する」ためにひたすら努力したと言う
一貫した個性に乏しいと言われるのもこの設計理念の結果であり、形式上の一貫性や芸術的独自性を求めること自体が本来間違っている
第2部
大学と戦争――時代を読む
第4章
明日の大学 明日の都市――コミュニティとしての大学=都市 吉見俊哉(東大教授。都市論・文化社会学)
斬新な都市論を展開してきた著者ならではの視覚で戦後の大学を論じる。ICUと東大という一見対照的な2つの大学を主たる対象として、都市コミュニティとの関係性の中で戦後の大学キャンパスが読み解かれる。都市コミュニティをキャンパスの中に内包しようとしたICUに対し、東大は都市キャンパスが「溶け出していく」構想だが、いずれもキリスト教知識人が主導し軍都=帝都東京が「文化都市」へと転身しようとした占領期・ポスト占領期の出来事としての共通性が明らかにされる。都心に回帰しつつある現在の日本の大学の、あるいは「知」の状況を考えると、この論考は重要な示唆を与える
53年創立のICU初代学長湯浅八郎(ママ、”一郎”との記述あり)が、同大学を永遠に未完であり続けるプロジェクトとして捉え、「明日の大学」と要約した ⇒ 戦後浮上してきた理念
草創期のICUと、戦後帝国大学からの転換期の東大が、それぞれその大学キャンパスと都市の関係について、どのような挑戦をしたかを振り返る ⇒ 両者の類似性はリベラルアーツ教育の積極的な導入とその指導者(南原、矢内原と湯浅)のキリスト教との結び付きに明瞭だが、大学キャンパスと都市コミュニティの関係の構想においても共通性がある
ICUの敷地は、中島飛行機三鷹研究所の跡地60万坪の一部46万坪で、44年11月の本土空爆開始の際真っ先に標的とされ、徹底的に破壊された土地
ヴォーリズの計画で最も注目されるのは、主要な建物をそのまま引き継いだだけでなく、狭義の高等教育施設に留まらず、小都市コミュニティの実現を目指していた点で、中心に学生が経営を担うシビック・センターを設置、農学部は食料品を自給し、工学部は施設の設計と建築を担うというように、社会に出る準備のための実習機会を提供するとともに、地域全体を大学を中核とする文化的コミュニティとして発展させていく都市計画的な発想があった
この点において、南原総長の下で帝国大学からの転身に挑戦していた東大の戦後構想に通じる ⇒ 南原は敗戦国日本の文化復興を大学こそが先導すべきと考え、46年の創立記念日に高らかに宣言し、思想においてのみならず、それと生活との統一が維持される大学と地域の関係を構想。生活と教育、研究が三位一体となった全人的な人格形成の場を確立
本郷・上野・湯島・小石川の文教地区化構想により、学生の共同生活、教授と学生との接触が極めて重要
東京都でも一連の文教地区構想が進められ、本郷・上野地区、早稲田地区、三田地区、神田地区、大岡山地区とあったがいずれも成果は乏しい
文化/リベラルアーツこそが、敗戦を経て軍都から脱しようとしていた東京において、新しい大学と都市の共通理念で、ある程度までキリスト教的な大学観を背景にしていた
第5章
ヴォーリズの夢、そして大学の未来――ICU本館建て替え問題の向こうに 田仲康博(ICU教授。社会学・ポストコロニアル研究・沖縄戦後史)
1951年開学の沖縄の琉球大学を比較の対象として、同大学が米軍統治下の創設プロセスを導入することで、東京と沖縄という空間的な隔たりを超え、アメリカによる占領の形態の違いを超えて、国際情勢と不可分に繋がる大学の姿を表出。キャンパスが単に無機化された空間ではなく多様な記憶が集積する「場」であること、そこにこそ大学の存在意義がかかっていることを説く
かつて軍需産業の拠点であった建物が、大学の本館として生まれ変わった経緯には、その当時の世界情勢が大きく関わっていた
3.11が明らかにしたのは、批判的精神を失った大学と大学人の姿であり、荒廃した大地よりもなお無惨な姿をさらけ出したのは形骸化したこの国の「知」の状況だった。ここでは、専門知を巡る疑問が噴出し、大学の存在意義すら問われている3.11以降の状況も併せて考えてみたい
琉球大学は米軍の後押しを受け、当初から占領統治をスムーズに進めるための役割を負わされ、占領下の沖縄社会をリードする人材育成を主眼として生まれ、その活動は住民の啓蒙活動を含むものだった
日本とアメリカのどちらにも属さない地点に宙吊りにされた教育機関であり、大学が沖縄を宙吊りにするための「装置」として、占領軍の目的に奉仕するために機能すべく初めから運命づけられていた。その背景には講和条約と安保条約がある
琉球大学のモデルとなり、教職員たちを指導する役割を担ったのはミシガン州立大学。51~68年にわたり蜜月関係を保つ。ミシガン大が選ばれたのは、Land Grant
Universityで連邦政府から公有地の払い下げを受け、地域に貢献する目的を帯びた大学としての性格を持たされていたことが背景にある。研究機関というより、地域の発展に寄与するための大学ということで、地域の「知」の編成において特権的な位置に立つことを意味し、当初から占領者のイデオロギーを流布させる装置として機能することが期待された ⇒ ミシガン大から1年間に51人が来学、長い人は4年にわたって援助や助言を行う
51年の開学式典の正式名称は「琉球大学贈渡並びに学長任命式」 ⇒ 米軍から沖縄住民へのプレゼントとの位置付け
両大学ともやがて「反共の砦」という使命を帯びたが、2条約の締結とともに、本土はアメリカの影が薄れ始める一方、沖縄は米軍による暴力的な支配が日常化し、大学は常に「政治」の現場であり続ける。唯一の例外がICUで67年の学生運動に機動隊が導入学生を逮捕
ICUキャンパス・グランドデザイン計画への提言において、「戦争の舞台となった場所で学ぶことによって、平和な世界で勉学できることの意味が実感できる。戦争遺跡を残すという行為は私たちの世代だけができること。未来に向けてキャンパス内に、金銭では購えない教育的・社会的な資産を蓄積することにもなる」、として本館を始めとする戦争遺跡を残すことの意義を訴えている
第6章
冷戦と民主主義の蹉跌――現実と理想の狭間で M.
ウィリアム・スティール(ICU教授。近代日本の社会・思想・政治史。岸佑訳)
日米の協力による戦後の大学創設に孕まれた複雑な諸相を明らかにする。著者は長くICUで日本近現代史を教え、2013年からはICU60周年記念教授として大学アーカイブスの整備に尽力。ICU創設に関わった多様なアクターたちの声を丁寧に掬い上げ、連合国総司令部SCAP/民間情報教育局CIEとICU創設プロセスの緊密な関係や、平和と民主主義を希求した戦後の大学が同時に冷戦の大学であったことを浮かび上がらせる。マッカーサーやグルーなど反共プロジェクトとICUの教員や学生たちが抱いたリベラルな理想との齟齬にも言及、戦後日本の縮図を映し出す
ICUのキャンパスとは、かつて戦争の手段であった場所が、平和・国際主義・民主的シティズンシップを志向する戦後秩序の構築に献げられた大学へと文字通り変貌した場所
初代学長の湯浅八郎(1890~1981)こそそのストーリーの主人公。18年渡米、イリノイ大で昆虫学の博士号取得、24年帰国、京大教授、35年同志社総長。37年教育綱領からキリスト教的要素の削除を要求されて拒否し辞任。戦時中はアメリカで生活し、戦前の日本が軍国主義と世界大戦に向かった責任の一端は教育システムにあるとし、日本の高等教育再生のために戦後帰国、再び同志社総長に就任。ICU設立計画に参加、「世界に信頼せられ尊敬せられ愛せられる平和日本人を作らんとする場所であり、明日の大学」との理想を開陳
どこの大学でも同じように、戦後の理想と冷戦の現実の狭間で板挟みに
50年代を通して、湯浅のリベラルな理想像は一層強くなり、リベラルアーツ、「自ら志向する力」、国際主義、民主的シティズンシップ、普遍的人権、キリスト教的人道主義への大学の取り組みは、60年の安保闘争の時期に湯浅による暗黙の承認を得て、ICUの学生と教員による安保条約の強行採決反対デモへの参加と繋がる。教職員たちは、「軍事同盟よりも各国民の相互間の信頼こそ世界平和の基本的基礎だ」としてアピールを準備。SCAPの元将校は「日米教職員のサインする文章を見て、最も驚くべき愚かで傲慢なもの」として非難。ICUはその後もアイデンティティの危機を迎えるが、冷戦の真っただ中の60年時点において湯浅の強調した「自ら志向する力」と良識あるシティズンシップが、リベラルアーツ教育への大学の取り組みの根底をなしていることは明らかだった
第7章
20世紀のリベラル・アーツの歴史の中で――立川明(ICU名誉教授。教育史)
戦後の日本の大学改革、とりわけICU創設を、更に長い時間軸の中で問い直す
戦後日本の教育改革を主導したアメリカの教育使節団が「伸びやかな人文的態度の涵養」の必要性を説いた背景には、第1次大戦が欧米の「知」の世界に与えた衝撃とその後のアメリカでの人文学の復権を実証的に辿った結果があり、戦後日本では人文学不要論が跋扈する一方でリベラル・アーツが手頃なキャッチフレーズのように唱えられるが、それは20世紀の2つの大戦への痛切な反省を内在する「知」の形であったことが教えらえる。国際政治の力学とは異なる角度から戦後の教育改革に光を当て、未来への課題を指し示す
本章の狙いは、英歴史家トインビーが1914年オックスフォード大で被った体験と、戦後日本の大学改革、特にはICUの創設の背景とを結びつけること
両者を媒介するのは、20世紀前半のアメリカ合衆国での大学教育の変遷
25歳で母校オックスフォードで教鞭をとっていたトインビーは、歴史の講義の中で突然近代と他の時代を区分する根拠は、果てしなく専門化される科学と近代民主政だと気づく
科学については、新時代の教養(リベラルアーツ)教育の中核に相応しい分野と位置付けられ、20世紀初頭における学術中心の大学教育において、科学の諸分野が、ギリシャ・ラテン古典を中核とする人文学を駆逐しつつあった
大戦によって学問の専攻に大きな変化が生まれ、人文学が復活
世界の学問を牽引していたドイツの諸大学に比肩する大学を作るべく大規模な研究大学の拡充が主流だったが、その一方で小規模カレッジの生き残りも見られた
戦後の日本の大学教育改革の基本方針を示したのは、46年GHQの要請に基づき合衆国から派遣された教育使節団の報告書 ⇒ 科学・技術の弱体にも拘らず使節団の構成メンバーは人文学者ばかりで、科学的成果より伸びやかな人文的態度の涵養こそ大切と説く
56年トインビーがICUに来訪、「東西両陣営を対立させた根本理由は、社会集団としての人間に価値を置くか、1人1人の人格に価値を置くかの違いに起因」と論じ、2度の大戦を経てなお継続する広義の世界大戦の根底には、宗教を含んだ人文学の課題The
Spiritual Challengeが横たわっていると主張
第3部
ヴォーリズのことば
第8章
ヴォーリズの手紙――ある名建築家のコミュニケーション 樺島榮一郎(青山学院大准教授。メディア産業論)
著者は青学でメディア論を教える傍ら、早くからICUキャンパスと建物群の魅力に着目、同窓誌上で伝え続けるとともに、営々と史料の収集、保存に努め、今後の研究の礎石を築いた功労者。ヴォーリズと施主とのやり取りの手紙を発掘、暖かな友人としての、真摯な信仰者としての、また有能な実務家としてのヴォーリズの相貌を伝える
建築家に求められるコミュニケーションの中でも、施主とのコミュニケーションは特に大切。施主の希望を聞きつつ自らの考える建築を納得してもらわなければならない
ヴォーリズとICUとの手紙のやり取りを分析
49~59年のICU顧問建築家であった間にやり取りした手紙で、相手は財務担当副学長のハケット(1894~‽)。ウィスコンシン生まれ。20~41年在日しアメリカンボード・ジャパンミッションの会計を担う。神戸女学院の会計も担当し、ヴォーリズと面識あり、両者間には信頼関係が築かれていた。50~57年ICU会計担当
ICUにかけるヴォーリズの夢には2つの面 ⇒ 1つはICUという新しい大学を成立させること自体であり、もう1つは関学や女学院のように美しいキャンパスを1から創造すること
ICUは、明治に始めたキリスト教教育を完成させる頂点のピースであり、日米の和解の象徴でもあった。当初の計画が十全に実現されたわけではないが、現在まで続くことで第1の夢は実現したと言えよう
第2の夢については、建築のプロジェクトとしては多くの困難を伴うもの ⇒ 設計しつつ募金を集めるというやり方は募金の進捗に設計が振り回される。インフレや募金の不調から常に安い建物への要求があった。そうした中で出来る範囲で最良の建物を残したと言える。質素で意匠に見るべきものがなく、ヴォーリズの建物とは見えないかもしれないが、様々な制約の中でヴォーリズが何を重視したのかを示す、それはヴォーリズという人そのものを表す、実にヴォーリズらしい建物である
第9章
記憶の宿る場所――稲富昭がヴォーリズから引き継いだもの 岸佑(ICUアジア文化研究所。近現代史・日本近代建築思想)
ヴォーリズの薫陶を受けた建築家稲富の言葉を伝える。稲富は64~78年ICUの第3代顧問建築家。晩年のヴォーリズの日常や冷戦の激化が建築途上のICUの現場に及ぼした影響などが証言。「記憶の宿る場所」と言った稲富の言葉は本書全体のテーマと響き合う
稲富は1927年熊本生まれ、48年熊本工専卒、辻組を経て56年ヴォーリズ事務所入所。2年間ICUの現場監理。58年アメリカ留学。バージニア工科大を経てMIT大学院で建築を、ハーバード大大学院で都市計画を学び、グロピウスの建築事務所を経て62年帰国。独立の事務所開設。64~78年ICUの顧問建築家。代表作に大阪万博キリスト教館(70年)、鎌倉雪ノ下協会(85年)、山崎製パンホール(16年)など
ヴォーリズとの出会いは、彼が設計し父親が学院長だった九州学院キャンパスが7月の空襲で全壊したことだが、バージニア大と酷似していて、留学の時既視感を持った
当初のハーバード流大学院大学構想が、中国共産党の勢力拡大で、ICUの募金活動に陰りが出て、資金的な限界から600名のリベラルアーツカレッジに変更された ⇒ リベラルアーツカレッジの最大規模が600とされていた。ミッションスクールの伝統が600名となっていたのは、校長が学生全員の顔と名前を覚えられる限界だったから
稲富は、自らの作品集の中で、「言葉と形の一致を求め、時代の変化に耐え、詩の宿る場所」としてICUキャンパスをプラニングした ⇒ 「言葉と形の一致」とは聖書の言葉と祈りの場としての空間の関係を指すが、「詩の宿る場所」とは「記憶の宿る場所」であり、「人を育てる」空間としてのキャンパスだろう
建築家ヴォーリズの「夢」 高澤紀恵・山崎鯛介編 戦争の記憶宿す大学建築
2019/3/23付 日本経済新聞
20世紀初頭から約半世紀、日本のミッションスクール建築を数多く手掛けたメレル・ヴォーリズ。晩年の代表作である国際基督教大学(ICU)の学生会館で2016年にシンポジウムが開かれた。本書は「ヴォーリズの夢」と題したシンポの報告と、学際的な論考をまとめた。
ヴォーリズは1880年に米国の敬虔(けいけん)なプロテスタントの家庭に生まれた。伝道のため1905年に来日し、19年に華族の令嬢と結婚。20~30年代は関西学院大や妻の出身校である神戸女学院大の建物群を設計し、実績を積み上げていった。
目指したのは「自然の豊かさを備えた米国の伝統的なキャンパス」だ。周囲の景観に溶け込ませ、学内には芝生や樹木を整えた。また居住区や公園を設け、中心に図書館を配置した。その特色は戦後すぐに設立計画が持ち上がり、政治的な思惑が交錯したICUでも見られる。
注目したいのは軍需産業の拠点だった中島飛行機の三鷹研究所を転用した点だ。改築前後の写真やスケッチからシンプルで美しい仕事がうかがえる。増改築で明確な正面と輪郭を得た大学本館は、戦争遺跡でもある。
本書の背景にはICU建築群の取り壊しの議論がある。近代建築とそれが内包する記憶をいかに保存すべきか。各大学が直面する問題に一石を投じている。(勉誠出版・4500円)
Wikipedia
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日 - 1964年5月7日)は、アメリカ合衆国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家、社会事業家、信徒伝道者。
概要[編集]
1908年(明治41年)京都で建築設計監督事務所を設立し、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、その種類も様式も多彩である。
その作品はいわゆるアメリカンスタイルとして、住宅やオフィスビルに新しい作風をもたらすものとなった。
近江商人発祥地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動したことから、「青い目の近江商人」と称された。また太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される[1]。
略歴[編集]
1907年 - 近江ミッション(近江基督教伝道団)を創設
1910年 -
米国へ帰国し、メンソレータム社の創業者ハイドと出会う[2]。10カ月の滞在後、建築家のレスター・チェーピンらを伴って日本に戻る。建築家のレスター・チェーピン、吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」設立する。
1964年 -
近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(現ヴォーリズ記念館)2階の自室にて永眠。83歳。近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬が行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)[4]に収められる。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章する。
代表建築[編集]
教会関係[編集]
建造物名
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年
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所在地
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状態
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備考
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滋賀県近江八幡市
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ヴォーリズの第一作。同会館内に
建築設計監督事務所を開業している。[2]
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福島県福島市
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現存せず[5]
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京都市中京区
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福岡県久留米市
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長野県軽井沢町
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米原基督教会館
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滋賀県米原
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東京都新宿区
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設計原案[7]
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今津基督教会館(今津教会)
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滋賀県今津
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大阪市西区
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日本基督教団武蔵豊岡教会
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埼玉県入間市
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フレンズセンター(キリスト友会日本年会)
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東京都港区
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滋賀県近江八幡市
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日本基督教団大阪福島教会
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大阪市福島区
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日本基督教団福島新町教会
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福島県福島市
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野田基督教会館(近江野田教会)
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滋賀県野田
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滋賀県大津市
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日本基督教団堅田教会
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滋賀県大津市
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大阪市中央区
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日本基督教団水口教会
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滋賀県甲賀市
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日本基督教団今津教会会堂
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滋賀県高島市
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滋賀県近江八幡市
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大阪市淀川区
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京都市下京区
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滋賀県近江八幡市
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京都市北区
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京都YWCA会館
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京都市上京区
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現・サマリア館
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日本基督教団大宮前教会
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東京都杉並区
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日本聖公会高田降臨教会聖堂及び会館
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新潟県上越市
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熊本県熊本市
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日本福音ルーテル岡崎教会教会堂
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愛知県岡崎市
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日本基督教団近江金田教会
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滋賀県近江八幡市
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国際青少年センターYMCA東山荘
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静岡県御殿場市
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宿泊・研修施設
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学校[編集]
建造物名
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年
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所在地
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状態
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備考
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京都市左京区
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京都市左京区
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東京都港区
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京都市上京区
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兵庫県西宮市
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1929年移築
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京都市上京区
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福岡市早良区
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静岡県静岡市
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現存せず
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静岡県静岡市
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現存せず
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兵庫県西宮市
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登録有形文化財
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1955年増築、建物後方の書庫部分は現存せず。
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兵庫県西宮市
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全10棟のうち、10号館を除く9棟が現存。
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兵庫県西宮市
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1934年増築
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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現存せず
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兵庫県西宮市
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現存せず
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大阪府高槻市
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講堂・階段教室だった別館が現存。後の附属看護専門学校校舎。
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兵庫県西宮市
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のち近江兄弟社幼稚園
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京都市上京区
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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現存せず
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兵庫県西宮市
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現存せず
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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現存せず
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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兵庫県西宮市
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東京都港区
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現存せず
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滋賀県彦根市
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北海道函館市
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登録有形文化財
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東京都三鷹市
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現存せず
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国際基督教大学男女寄宿舎
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東京都三鷹市
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滋賀県豊郷町
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登録有形文化財
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東京都中野区
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東京都港区
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現存せず
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京都市上京区
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関西学院大学旌忠碑
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兵庫県西宮市
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静岡県静岡市
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現存せず
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滋賀県近江八幡市
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京都市上京区
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静岡県静岡市葵区
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現在は個人住宅兼
フランス料理レストラン「ミス・カニンハム」
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国際基督教大学旧講堂(礼拝堂)
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東京都三鷹市
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国際基督教大学ディッフェン・ドルファー記念館
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東京都三鷹市
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国際基督教大学シーベリー・メモリアルチャペル
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東京都三鷹市
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関西学院大学ランバス記念礼拝堂
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兵庫県西宮市
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関西学院大学学生会館・旧館
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兵庫県西宮市
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関西学院大学学生会館社会学部校舎
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兵庫県西宮市
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個人宅[編集]
建造物名
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年
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所在地
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状態
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備考
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滋賀県近江八幡市
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近江八幡市指定文化財
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滋賀県近江八幡市
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旧吉田邸
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滋賀県近江八幡市
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旧ヴォーリズ邸
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滋賀県近江八幡市
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現存せず
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北海道北見市
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北見市指定文化財
北海道遺産認定第5号
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大正時代後期
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長野県軽井沢町
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登録有形文化財
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ダブルハウス
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滋賀県近江八幡市
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東京都港区
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京都市左京区
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京都市指定・登録文化財
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旧小寺敬一邸
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現存せず
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滋賀県近江八幡市
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滋賀県指定有形文化財
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京都市上京区
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京都市指定・登録文化財
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現存せず
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2007年解体
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近江岸家住宅
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旧小寺源吾別邸
(太田酒造貴賓館) |
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滋賀県近江八幡市
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旧小寺敬三邸
(㈱セブンハーツ) |
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静岡市駿河区
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その他[編集]
建造物名
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年
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所在地
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状態
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備考
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旧醒井郵便局局舎
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滋賀県米原市
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滋賀県近江八幡市
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別名ツッカーハウス
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滋賀県近江八幡市
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滋賀県高島市
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滋賀県甲賀市
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旧矢尾政
(東華菜館) |
京都市下京区
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大同生命旧本社レリーフ
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大阪市西区
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外観保存
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旧主婦の友社ビル
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1925年(大正14年)
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東京都千代田区
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兵庫県神戸市中央区
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大阪市天王寺区
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現存せず
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兵庫県神戸市灘区
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大阪市中央区
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滋賀県高島市
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東京都千代田区
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滋賀県近江八幡市
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2007年5月、滋賀県近江八幡市や兵庫県西宮市のNPO法人(特定非営利活動法人)など9団体・個人が呼びかけ人となり、北海道から山口県までの約20団体が参加し、「ヴォーリズ建築文化全国ネットワーク」が設立された[12]。
2001年、ヴォーリズ建築である滋賀県犬上郡豊郷町立豊郷小学校校舎(1937年建設)を巡り、取り壊して改築しようとした町・PTAと、同校舎を残そうと願う一般の人々(卒業生など地元住民、建築関係者)の間で激しい対立が生じた。
『静岡英和女学院百年史』静岡英和女学院、1990年11月26日
『ヴォーリズ没後50年』 日本経済新聞2014年11月15日朝刊文化面 執筆は大阪・文化担当 田村広済。
関連書[編集]
6.
^ a b c d 山形政昭 (2018年8月20日). ウィリアム・メレル・ヴォーリズの建築
― ミッション建築の精華. 創元社.
pp. 322-331. ISBN 9784422501284.
8.
^ 日本基督教団大阪福島教会
9.
^ 愛知登文会ニュース 第7号(平成26年3月7日) (PDF)
勉誠出版広告
建築家ヴォーリズの「夢」
戦後民主主義・大学・キャンパス
高澤紀恵・山﨑鯛介 編
定価 4,860円 (本体4,500円) 在庫あり
大学を「建築」する―
戦後日本の大学建築を牽引した建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)。
キリスト教伝道と英語教育のために来日したヴォーリズは、メンソレータムで名高い近江兄弟社を拠点に、建築事務所を開設し、教会、個人住宅、病院など数多くの西洋建築の設計を行った。
なかでも大学建築に代表的な建築が多く、関西学院大学、神戸女学院、同志社今出川キャンパス、明治学院などが彼の手になった。国際基督教大学(ICU)もそのひとつである。
戦後日本、戦後民主主義の展開のなかで、建築家ヴォーリズはどのような大学キャンパスをつくり、どのように学問の空間をつくりあげようとしたのか。本書はICUを中心とするヴォーリズの大学建築を主要テーマに、大学と建築家の出会いを戦後の歴史の中で読み解き、大学キャンパスの空間と学問の交差、また戦後と大学キャンパスのありようについて、豊富なカラー図版とともに考察する。
キリスト教伝道と英語教育のために来日したヴォーリズは、メンソレータムで名高い近江兄弟社を拠点に、建築事務所を開設し、教会、個人住宅、病院など数多くの西洋建築の設計を行った。
なかでも大学建築に代表的な建築が多く、関西学院大学、神戸女学院、同志社今出川キャンパス、明治学院などが彼の手になった。国際基督教大学(ICU)もそのひとつである。
戦後日本、戦後民主主義の展開のなかで、建築家ヴォーリズはどのような大学キャンパスをつくり、どのように学問の空間をつくりあげようとしたのか。本書はICUを中心とするヴォーリズの大学建築を主要テーマに、大学と建築家の出会いを戦後の歴史の中で読み解き、大学キャンパスの空間と学問の交差、また戦後と大学キャンパスのありようについて、豊富なカラー図版とともに考察する。
伝道への情熱 私の祖父が見た建築家ヴォーリズ
日記・書簡などから浮かぶ横顔 吉田与志也
日記・書簡などから浮かぶ横顔 吉田与志也
2019/9/17付 日本経済新聞
建築家ヴォーリズの洋館に生まれ、史料探る
建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが右腕の吉田悦蔵らと意見を出し合って設計し1913年に建造した洋館。その家に生まれた悦蔵の孫が史料を探る。
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滋賀県近江八幡市の旧市街、レンガ塀で区切られた一角に1913年に建てられた3階建ての洋館が2棟ある。建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964年)が右腕とした私の祖父の吉田悦蔵、招へいしたレスター・チェーピンと3人で意見を出し合って設計し、建てた。
この一つ「吉田家住宅」で生まれた私は古い書類やアルバムが大量に保管された、ほこりっぽくてかび臭い3階の部屋を時折のぞいて育った。国の登録有形文化財だったが、2年前に滋賀県の指定有形文化財になった。広く価値が認められていた家なのに、その歴史を物語る書類を読んでみようと思い立ったのは8年ほど前になってからだ。
祖父がのこした日記、書簡、刊行物、写真など、残っていたのは約6000点。読み進めるに従って何度も聞いていた祖父とヴォーリズのエピソードの断片がつながり合い、無一文で来日したヴォーリズが共鳴者を巻き込んで団体を興し、事業を大きくしていった様子が鮮明になってきた。

吉田家住宅の前で撮影するヴォーリズ(右)と吉田悦蔵(1914年撮影)
米国生まれのヴォーリズが英語教師として近江八幡の商業学校に赴任したのは日露戦争の最中、05年のことだ。2年後に教職を解かれたが、熱心にプロテスタントの伝道に突き進んだ。
生計のため08年に京都YMCA会館の新築工事の現場監督に就いたことは有名な話。宣教師から教会や住宅の設計の仕事も引き受けた。それは建築事務所として発展を続け、日本初となる音楽ホールや洋風アパートを手がけ、同志社大学、関西学院大学、重要文化財の神戸女学院などキャンパスを残すまでになった。20年代になると家庭薬の販売でも成功し潤沢な資金で滋賀県内のキリスト教活動を加速させた。
悦蔵はヴォーリズの来日直後からの教え子の一人で強い感化を受けた。一時期、三井物産に勤めるが、ヴォーリズ合名会社(現一粒社ヴォーリズ建築事務所)起業に参加し、伝道団体の近江ミッション(現近江兄弟社グループ)の共同創立者にも名を連ねた。
吉田家住宅はヴォーリズにとってモデルハウスのような役割も果たしたようだ。リビングには暖炉が備えられ、最新の水洗トイレが導入されていた。複数あるテーブルや椅子は似ているが、よく見ると微妙にデザインが異なる。幾つかのパターンを用意して、注文者が好みのものを選べるようにしたのだろう。
資料から新たに浮かび上がったことの1つは、07年に教職を失った直後の夏、ヴォーリズが軽井沢で建築設計を伝道のための収入源とする決心をしていたことだ。ちょうど米国の宣教団体が日本で活動を活発化し、各地に教会やYMCA会館の建設需要が起こっていた。良心的な料金で設計を引き受け、風土に合った良質な西洋建築を供給する事務所は評判を高めた。手紙のやり取りから、充実した活動が伝わる。
悦蔵がヴォーリズより先に家を建てた理由もわかった。11年夏に軽井沢のタッピング宣教師別荘に泊まった折、石原キクという東京・築地の保育士養成所の教頭と会い婚約をしたからだった。2人は遠く離れて奮闘したが、やむなく婚約解消を受け入れ、それぞれの活動にまい進した。
2人が近江八幡に幼稚園を設けようとした計画は中断するが、後年ヴォーリズの結婚相手、子爵令嬢一柳満喜子らにより実現する。近江ミッションに女性が増えると、地域の女性や子どもにも伝道しつつ料理などの西洋文化や生き方を伝え、地域に多大な貢献をした。彼女らの活動も今後、研究されるべきだろう。
(よしだ・よしや=MSD監査役)

ヴォーリズが設計した2棟の洋館。手前が吉田家住宅(1914年撮影)
2019.9.9. 朝日
(見つける)大学博物館を訪ねる 関西学院大学博物館 兵庫県西宮市
■時計台を軸に「ヴォーリズ展」
8月上旬の猛暑日。兵庫県西宮市の関西学院大学(関学)西宮上ケ原キャンパスの正門をくぐると、広々とした芝生が目に入った。正面には赤い屋根にクリーム色の壁のおしゃれな建物。真ん中の塔には、大きな時計がある。
この建物こそが関西学院大学博物館。関学のシンボル「時計台」に入る。河上繁樹館長(63)と学芸員の高木香奈子さん(37)らが迎えてくれた。
*
平常展「Gift for the Future 関西学院のあゆみ―写真と絵でふりかえる時計台―」が開かれていた(9月14日まで)。関学は1929(昭和4)年、現在の神戸市灘区にあった旧キャンパスから今の上ケ原に移った。米国生まれの建築家でキリスト教伝道者のW・M・ヴォーリズがキャンパス全体を設計、その中心に据えた時計台の設計図や写真が展示されている。
「でも最初は、時計に針がなかったんです。そこで学生有志が時計店に発注して、取り寄せたそうです」と高木さんが教えてくれた。時計台は元々図書館だったが、2014年、創立125周年を機に博物館になったという。
年2回は企画展をするようにしているという。最もお客さんが来たのは清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)の一家をテーマに15年に開いた「愛新覚羅家の人びと―相依為命―」。古代アンデスの染織品の企画展も計3回。いずれも、関係者から大学へ寄贈された品によって開催できた。9月28日からは「関西学院の130年」をテーマに企画展を準備中だ。
「まだ博物館ができて5年。寄贈していただいたものを中心に、分野を限定せず公開していきたい」と河上さんは話す。近くの甲山(かぶとやま)の登山の行き帰りに寄る人もいるという。「オブジェなどもあり、キャンパス全体が博物館といえる。気軽に来てほしい」
博物館を出てキャンパス内を散策。建物はクリーム色の壁と赤瓦で統一されている。「スパニッシュ・ミッション・スタイル」と呼ばれ、カリフォルニア南部の修道院建築という。礼拝堂や日本庭園など、見るものには事欠かない。中央の芝生には若い母親と子どもが遊ぶ姿もあった。
おなかがすいてきたので、学生会館新館にある食堂「東京庵(あん)」に入った。旧キャンパス時代から3代続く老舗だ。「からあげネギソース定食」をいただいたが、体育会の学生向けで、かなり満腹になった。そばや丼物はもちろん、キーマカレーなども人気という。
*
関学を後にして、西の方へ少し行くと「仁川(にがわ)百合野町地区地すべり資料館」がある。1995年の阪神大震災で地すべりが起き、甚大な被害を出した地区だ。地すべりのほか、がけ崩れや土石流のメカニズム、対策を、模型や映像でわかりやすく解説している。
管理する県西宮土木事務所河川砂防課長の山中清正さん(43)は「子どもにもわかりやすい内容になっているので、ぜひ災害学習などでも利用してほしい」。
最後に、炎天のもと県立甲山森林公園へ。83ヘクタールの広大な敷地の約9割が森林。ハイキングやバードウォッチングを楽しむ人でにぎわう。日傘を差し、ゆっくりハイキングコースを歩き始めた。
森の緑、鳥や虫の鳴き声が心地よい。20分ほどで展望台に。そこからの景色は絶景だ。先ほどまでいた関学はもちろん、神戸と大阪の間に広がる阪神地域の街並み、奥に大阪湾も望める。
博物館を見てきれいなキャンパスを堪能した後、甲山森林公園で汗を流す。内面と外面の両方を磨く絶好のコースだと思う。(佐藤陽)
◇関西学院大学博物館(0798・54・6054)がある西宮上ケ原キャンパスは、阪急今津線の甲東園、仁川の各駅から徒歩12分。甲東園駅からはバスで「関西学院前」下車。「時計台ミュージアム」とも呼ばれる大学博物館は無料で午前9時半~午後4時半に見学できる(入館は午後4時まで)。日曜祝日は休館。
■(おすすめ)阪急電鉄とのコラボグッズ
関学の学生会館新館に入る大学生協では、学外の企業などと組んだ様々な「コラボグッズ」が売られている。
最近ヒットしたのは、今年3月から販売を始めた阪急電鉄とのコラボグッズ類。ボールペンやシャープペンシル、リングノートなど文房具13アイテムだ。イメージカラー「関学ブルー」の夜空と時計台、中央芝生を背景に走るえんじ色の阪急の車両や、路線図をデザインしたものなどがある。鉄道ファンなどにも人気で、一部は品切れに。
ほかにディズニーやサンリオとコラボしたクリアファイルやキャンパスノートも。関学オリジナルパッケージの「神戸モロゾフ リーフクッキー」も人気だ。
林秀雄常務理事(52)によると、学生はもちろん、観光客らもよく立ち寄るという。「これからもいろんなコラボ商品を開発して、関学のPRをしていきたい」
■プレゼント
関西学院大学博物館で過去に開いた企画展「日中のかけはし―愛新覚羅溥傑家の軌跡―」と「神々の宿る布―古代アンデスからのメッセージ―」の図録をセットで10人にプレゼント。ラストエンペラーの弟溥傑と、日本の侯爵家の長女だった妻の浩(ひろ)に関する写真や資料、アンデス文明の染織品の写真を堪能できます。
件名「見つける・関西学院大学博物館」で、名前、住所、電話番号と記事の感想をメール(yukan-toukou@asahi.com)でお送り下さい。15日(日)必着。当選者のみに連絡します。
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