ローザ・パークスの反抗的な人生 Jeanne Theoharis 2026.10.6.
2026.10.6. ローザ・パークスの反抗的な人生
The
Rebellious Life of Mrs. Rosa Parks , 2013
著者 Jeanne
Theoharis ニューヨーク市立大ブルックリン校政治学卓越教授および同大学院歴史学卓越教授。20世紀のアメリカ黒人史と都市史、公民権運動とブラック・パワー運動の歴史、1960年以降の人種政治が専門。「北部の公民権運動の知られざる物語を記録する」ことをライフワークとする。本書は最初の著作、以後著書多数
本書は、2013年優れた黒人女性史の研究書に贈るレティシア・ウッズ・ブラウン賞を、翌年にはNAACPイメージ賞の「傑出した文芸作品」部門を受賞。’21年にはジュニア版が刊行され、シカゴ公立図書館が選ぶ「2021年の最優秀図書」や著名な書評雑誌『カーカス・レビュー』による「2021年の最優秀ヤングアダルト伝記・回想録」の1冊に選出。'22年には本書を基にしたドキュメンタリーが制作され、アメリカ放送界の最高栄誉とされるピーボディ賞を、'23年には社会問題を扱った優れた作品に贈られる「テレビジョン・アカデミー・オナーズ」を受賞
訳者 坂下史子 ミシガン州立大大学院文芸研究科博士課程後期終了。Ph.D.(アメリカ研究)。現在上智大外国語学部教授
発行日 2026.5.20. 初版第1刷印刷 5.30. 発行
発行所 人文書院
日本語版への序文
ローザ・パークスは勇気ある拒絶の象徴
40年前、偶然バスの座席を譲るのを拒んだことで寓話のヒロインになったローザ・パークスの活動は、その20年前に始まっていた。南部に結びつけられるが、実際には長年ミシガン州に住み、北部の差別と闘っていた。彼女の個人的な英雄は、マルコムX
日本語訳にする決断は、より包括的に彼女の歴史が現代の私たちに何を示し、社会正義を気にかける全ての人々にどのような教訓を与えるのかについての認識を広げるもの
第1は、正義と人権のための闘いは、生涯をかけた仕事だということ
第2は、不屈の精神
第3は、グローバルなヴィジョン
新版序章 「自由の闘士は決して引退しないのです」
2013年、ローザ・パークスの9フィートの銅像が連邦議会議事堂で除幕。彫像ホールの人種隔離を終わらせた。ホール初の黒人の全身像
オバマは、パークスの「並外れた行動」を称賛し、「私たちは何もしないことの言い訳をする」と美辞麗句で行動を促したが、誰も何の行動も起さなかった
最高裁も直後に、アラバマ州シェルビー郡の判決で、南部諸州による選挙法改正に対する連邦の事前承認を違憲としたため、以後南部を中心に多くの州や自治体で投票ルールの厳格化が進み、パークスの闘ってきた功績を潰そうとしていた
銅像の除幕によって、パークスと公民権運動の寓話は国民的な贖罪の物語となり、人種差別を克服したアメリカという考えの礎となっただけでなく、歴史を過去に固定しておきたい国にとって大きな政治性が作用していたことの象徴でもあった
本書を書いたのは、パークスと公民権運動に関するこのような限定的な物語や、その問題含みの使われ方に異議を唱えるため。パークスの行動は、激しく決意に満ちたものであり、彼女の生涯に渡る大きなアクティヴィズムの経歴の一部であり、彼女の抵抗に先立つ数年間の一連のバスでの抵抗であり、彼女の逮捕に続く集団での蜂起であり、これがモントゴメリーの大衆運動を引き起こした。人生の最期まで人種的正義のための闘いは終わっていないと信じ、合衆国における更なる変革を求め続けた
2014年、ハワード・G・バフェット財団が、パークスの遺品を450万ドルで買い取って、翌年連邦議会図書館に貸与し公開。20世紀の黒人の政治と抗議の範囲に関する、多量の一次資料を提供
黒人の抵抗の歴史は、クリスパス・アタックス、アダム・クレイトン・パウエル・ジュニア、ハリエット・タブマン、メアリー・マクロード・ベシューンまで続く
l クリスパス・アタックス(1723頃~1770)は、アメリカ独立戦争への道を開いた「ボストン虐殺事件」で最初に犠牲となった人物で、アメリカにおける最初の黒人(アフリカ系およびネイティブ・アメリカンの血を引く人物)の英雄
l アダム・クレイトン・パウエル・ジュニア(1908~72)は、アメリカのバプテスト派牧師であり政治家で、1945~71年までニューヨーク市ハーレム地区を代表してアメリカ合衆国下院議員を務めた。彼はニューヨーク州から選出された最初のアフリカ系アメリカ人であり、北東部の州から選出された最初のアフリカ系アメリカ人
l ハリエット・タブマン・デイヴィス(1822~1913)は、アメリカ合衆国の元黒人奴隷、奴隷解放運動家、女性解放運動家。黒人の逃亡奴隷をひそかに領外に逃がすための秘密結社「地下鉄道」の指導者のひとりとして知られる。その功績になぞらえて「モーセ」と尊称された。20ドル札に初めてアフリカ系アメリカ人として採用
l メアリー・マクロード・ベシューン(1875~1955)は、アメリカ合衆国の教育者、人道支援家、そして重要なアフリカ系アメリカ人の公民権運動指導者。黒人女性のための全国評議会(NCNW)を設立し、女性の権利と人種平等のために尽力。FDR大統領の政権下で黒人顧問団(ブラック・キャビネット)のリーダーを務め、少数派問題の特別アドバイザーとして貢献
ローザ・パークスが受けたすべての栄誉の中でも、議会図書館で公開されている彼女の文書は最も重要で価値あるもの。パークスは黒人史の保存と普及に生涯を捧げたが、このコレクションは20世紀の黒人の生活と闘争に関する詳細な姿を提供、誰でもアクセス可能
正義のために生涯「トラブルメーカー」であったことが何を意味するか。彼女のアクティヴィズムが継続的な性質のものであったことを鮮やかに想起させ、彼女がアメリカの不正義を批判し続けたこと、そして彼女の遺産が今日の私たちに変革を求めていることを証明する――それこそが、最も相応しい栄誉なのだ
序章 国を挙げての顕彰/公共の神話――ローザ・パークスの逝去
2005年、ローザ・パークス死去、享年92。「公民権運動の母」として、連邦議会議事堂の円形広場に安置させる決議案が出され、女性初、黒人では2番目となる栄誉を受ける
公開追悼式と、それに続く国を挙げての慰霊と顕彰の儀式は、現在の社会的不平等を明らかにし、それに対処するためにこの機会を利用するのではなく、国民的ヒロイン及びレイシズムの歴史を安らかに眠らせる機会となった
パークスの追悼は、1人の怒らない女性が座席に座ると国が奮い立ったという、ありもしない社会変革の物語を広めた
私が試みたのは、ローザ・パークスという偶像の背後に回り、彼女の政治的人生の領域を掘り起こし検証するという仕事を始めること。ローザ・パークスの人生は、すでにアメリカの物語を語るために利用されている。したがって、本書で私が行うのは別の物語を語ること――すなわち、アメリカの人種や、黒人の自由を求める闘い、そして彼女が言ったように「反抗的なライフヒストリー」という、彼女の人生をさらに詳述することで得られる個人の勇気の本質について、より広範な真実を示すこと。それは、社会正義のために私たちは今どのように取り組めばよいのか、人が生涯かけて変革を起こすにはどうしたらよいのか、正義のための闘いには何が必要なのか、について、はるかに大きな教訓を与えてくれる物語なのだ
第一章
「反抗的なライフヒストリー」――ローザ・マコーリー・パークスの若い頃
人種隔離を拒否する強さと献身を与えてくれたものとして、ローザ・パークスは、母と祖父が「人種や肌の色が理由で、自分が誰よりも劣るなどと感じるべきではないという・・・・自由の精神を与えてくれたこと」を挙げる。このような清廉さと人種の誇りを身につけたことで、パークスは、敬意を求め、生涯にわたって正義と自由のために闘う方法を見出す女性になった
第1次大戦から黒人兵が帰還し、国のために尽くしたのだから平等な権利を受けるに値するかのように振舞ったが、白人が暴動を起こし、自分たちの権力と地位を再び主張したため、1919年の夏は「鮮血の夏red summer」として知られ、クランの暴力が激化
ローザの家族は、早くから政治的思想に染まり、彼女に黒人としての誇りを植え付けた。教師だった母のお陰で、幼少の頃から読書に勤しむ
徹底的に人種差別と隔離のコミュニティで育ち、幼い頃から、「人種隔離社会で育つことが、抑圧される側だけでなく、抑圧する側にも何らかの影響を与えてしまう」点に疑問を抱き、それを目の当たりにした
信仰心も早くから芽生え、教会は楽しみな行事の1つ。アフリカン・メソジスト監督教会の生涯会員で、地上の正義を求める神に心を動かされた
白人至上主義の諸条件を把握するにつれ、幸せそうに振舞えば待遇がよくなるという事実が彼女の喉に引っ掛かった。この誤った教育と闘い、不満を表面しながらも生き延びる方法と苦闘した。最愛の祖母は、白人に対し従順に従えと諭してきたが、「私に対して敵意のある白人種と手を組んだ」ように感じ、自分で自分の身を守るのは当然の権利だと反発
小学校を卒業すると、黒人の学校教育はなかったため、ローザは黒人少女のために白人女性が経営する女子実業学校に入り、家庭での仕事を中心にした家政学の教育を受ける
白人少年がちょっかいを出したとき、敢然と立ち向かうと、以後は手を出してこなくなることを学ぶ
モンゴメリーには黒人向けの高校がなかったため、黒人大学だったアラバマ州立大の実験学校に通う。母親は、ローザを教師にしたかったが、隔離された学校制度の中で、教育委員会や役人から受けざるを得ない屈辱や脅迫は、ローザにとって魅力的ではなかった
看護師かソーシャルワーカーになりたかったが、祖母の看病のため、11年生で中退
理容業を営み、政治的に活発だったレイモンドを紹介され、人種問題などの議論を始める
ローザが家庭で学んだ人種の誇りとアクティヴィズムに対する理解は、レイモンドとの関係の中で結実し、1932年2人は結婚
全米黒人向上協会NAACPは1909年、イリノイ州で起きた凶悪なリンチ事件後に、憲法13~15条で黒人に保証された権利の実現を目指して発足。1931年のスコッツボロ事件を機に草の根運動の土台を築く。パークス夫妻も会員として活動
ローザは、一部の黒人が白人の権威にへつらう様を嫌悪。黒人女性が白人権力から身を守るためにセクシュアリティを利用しなければならないという、そのやり方を嫌悪。彼女は次第に、こうした白人権威による無礼に異議を唱え、他の人々にも同じことをするよう促すための道を模索するようになる。彼女自身の活動家としての感性が高まっていた
第二章
「努力がすべて無駄に思えるのに、やり続けるのはとても難しかった」
――バス・ボイコット以前の公民権運動
1943年、ローザはNAACPの会合で、モントゴメリーの黒人に有権者登録をさせようという運動を先導していた寝台車特急ポーター組合のE.D.ニクソン(1899~)と出会う。それが以後10年以上にわたる2人の共同作業の始まり
ニクソンは、プルマン・ポーターとなり、セントルイスを初めて訪れた際、白人と黒人が同じテーブルで食事するのを見て唖然とした。戦闘的なポーター組合に入会し、人種的不平等には直接挑むべきという信念を抱き、「銃を持ったガンジー」との評判をとる
ニクソンは、NAACPの組織改革に立ち上がり、支部長選に勝利すると、「自分たちには自由があり、少なくとも自由を望んでいることを知らしめるために立ち上がらなければならない」ことを周囲に知らしめようとした
黒人の有権者登録は、様々な困難と危険に晒され、登録に成功した後でも高額の人頭税を賦課されたり、氏名の公表によって報復が誘発されたりと危険に満ちていた。ローザも何度か申請して却下されたのち、1946年漸く登録に成功し知事選で投票
ローザの弟は第2次大戦に従軍したが、帰還しても職が見つからず、不当な差別扱いに耐えきれずに一家でデトロイトに移住、自動車組立工の仕事を確保
パークスとニクソンは、法律を駆使して白人暴力の犠牲となった黒人の正義を追求し、黒人が法的にリンチされていることを顕在化させようとした。NAACP書記としてパークスの「主な任務」の1つは、黒人に対する暴力や不当な扱いに関する多数の事件を、補償の可能性を期待して記録すること
l ネットワークの拡大
モントゴメリーでは、ボイコットの初期の基盤を形作ることになる個人的・政治的人脈が形成されていく
1954年のブラウン対教育委員会判決に心を動かされ、真の変革の見通しに興奮したパークスは、「これまでのように続ける必要がなくなる可能性が高まった」と感じたが、実行に移そうとすると激しい妨害に遭う
l ハイランダー
1932年、テネシーに成人を対象とした、草の根で人種混合の指導者養成所であるハイランダー民衆学校が設立。1950年代半ばになると公民権に目を向け始める
1955年のブラウン第2判決は、前年の判決の合理的な着手を求めて、人種隔離撤廃の実施に関する監督を州に戻したため、具体的な予定表がなく、隔離撤廃に対する白人の抵抗が高まる中、この第2判決は遅延と不正行為を許すことになる
パークスが参加したハイランダーでは、黒人と白人が半々で共同生活し、南部における人種隔離された学校制度から隔離されていない学校制度への秩序ある移行のための議論が行われた。そこでの体験を通じて、「ここが1つの社会たりうること、あらゆる人種や背景を持つ人々が集い、平和と調和の中で共生することが存在する」のだと知る
要は行動することであり、行動を通じて社会の変革が起こる。パークスは仲間の公民権活動家の大多数が使う「人種統合integration」ではなく「人種隔離撤廃desegregation」という語を用いる。バスの座席を白人の隣にすることではなく、不平等の装置を解体すること
講習会の参加者たちは、自分たちのコミュニティが直面している問題をグローバルな人権運動の文脈の中で捉え、地元で変化を起こすための具体的なステップを考えるよう促される。パークスは、モントゴメリーでは人々が「現状に満足」しており、大衆運動を起こそうとしても無駄だと考えていたが、だからといって現状に反対する意思を示そうとしなかったわけではない
講習会の後、次々に起こる人種的不正義が単に隠蔽され、万事順調であるかのように見せかける手法に、パークスは繰り返し苦闘したが、地元の指導者たちも、多数のモントゴメリーの黒人が激しい白人の抵抗に立ち向かうべく階級を超えて団結することを恐れたり躊躇したりしていることにてこずり続けた
第三章
「私は我慢の限界まで追いやられていた」――ローザ・パークスのバスでの抵抗
「黒人全員が、へつらう代わりに普通の人間らしく振舞っていただけで、トラブルを引き起こしていると白人たちは非難する」との思い込みがモントゴメリーには蔓延
恣意的で卑屈な態度を期待されるバスは、人種隔離をもっとも直に感じる体験の1つ
モントゴメリーでは、白人席と黒人席の区分はなく、運転手の判断に任されていたのみならず、運転手の黒人乗客に対する扱いがひどすぎた。パークスにとっては、幼い子供たちが人種隔離の風習の中で受ける教育が最も苦痛だった
l バスでの抵抗の歴史
パークスのバスでの抵抗までの10年間、多くのモントゴメリーの黒人がバスの人種隔離の条件に従うことを拒否し、しばしばその抵抗のために大きな代償を払ってきた。そうした勇敢な行動の歴史が蓄積し、パークスの勇気ある拒絶と、彼女の逮捕に誘発されたバス抗議行動に結実
市が初めてバスの人種隔離を実施した1900年、モントゴメリーの黒人はボイコットを実行し、市条例の変更を勝ち取ったが、白人のバス運転手は日常的に条例に違反。抗議行動は第2次大戦後激化、国外での黒人の従軍と国内での不平等な待遇の矛盾が、黒人の抵抗を高めた。モントゴメリーは黒人と白人両方の軍人人口が多かったため、「バスを巡るゲリラ戦の震源地に立っていた」。バスの人種隔離を巡る「限界点」に達していた
l クローデット・コルヴィンの逮捕
1955年、15歳の黒人生徒が通学途上のバスで席を譲らなかったため警官に逮捕
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは前年、モントゴメリーに移住し、市中心部の教会の牧師となり、NAACPの執行委員会に参加
l コルヴィン裁判
パークスは、コルヴィンの裁判の重要性を感じ、資金調達などの支援に動く。判事は治安妨害と人種隔離法違反は取り下げ、警官に対する暴行についてのみ有罪とした。小さな少女が巨大な3人の警官に抵抗したことだけを有罪とした判決に、モントゴメリーの大半の黒人は憤慨したが、訴訟や大衆運動の原告としては若過ぎて不適任と判断される
パークスは、報道陣に耐えられる原告探しを心配する一方で、運動に前進がないことに苛立つ。ボイコットに対する世論の支持は消極的。公民権の指導者たちは市と交渉を続けていたがほとんど成果はなく、市とバス会社がバスの人種隔離の責任を押しつけ合っていた
l 1955年12月1日
10数年に渡るバス運転手との不愉快なやり取りの後、かつてトラブルがあったために以後は一緒になるのを避けていた運転手のバスに、闘いに疲れていたパークスはそのままバスに乗り、黒人席の最前列に座っていると、白人男性が乗ってきて、白人席が満席だったため、運転手から立つように促される。市の条例では他に席がない場合は立たなくてよいことになっているが、同時にバスの運転手には「警察官の権限」も与えられていた
パークスは抗議行動を計画していたわけでもなく、疲れてもいなかったが、「我慢の限界まで追いやられていた」。さらに、女性が男性に席を譲るのは、自分が淑女(レディ)ではないと認めるという代償も伴った。パークスが席を譲るのを拒否すると、運転手は警察を呼び、パークスをバスから降ろしたうえに、警官にパークスを告訴すると言った。パークスは市条例に違反していなかったし、運転手の上司も、パークスを降ろせとは指示したが告訴しろとまでは言っていない
パークスが行動を起こしたのは、行動しようとしない他の人々にそう働きかけることに意気消沈していたためでもあり、その日落胆が対決姿勢へと変わった。彼女が行動を決断したのは変革の欠如に苛立っていたためで、自らの特定の行動が何かを変えるという信念が理由ではなかった。彼女の目的は、人種統合だけではなく、「弱く抑圧されているすべての人々に対する、あらゆる形態の抑圧を中止すること」
この日パークスが発見し、やがてモントゴメリーの黒人たちが気が付いたのは、不正義に対する疲労の蓄積が勇気をもたらし、その勇気が、この先に待ち受けるいかなる事態にも耐えうる決意をもたらしたということだった
パークスの個人的な行動は、彼女がハイランダーから学んだ教訓から生まれたもの
第四章 「そこには偉大なる民が住んでいた」─―モンゴメリー・バス・ボイコット
l 拘置所行き
勾留されたパークスは家に電話し、ニクソンが保釈金100ドルをもって迎えに行く
パークス夫妻は、ニクソンや白人で支援者だったダー夫妻を交えて善後策を協議。レイモンドは、抗議する黒人に振るわれた経済的・身体的暴力は、黒人コミュニティ内の階級の分断とともに、過去には大衆運動を不可能に近いものにしていたことを考えると、妻の心身の安全に不安を感じ、この事件を公に追及することに反対したが、パークスの固い決意を知って決断
l ボイコット――コミュニティの反応
パークスの逮捕は、モントゴメリーの多くの人々にとって最後の一押し、「正念場」となる
誰もが信頼を置いた人物、人々が尊敬し、運動を築く基盤を提供した人物が抵抗に立ち上がったと知って、黒人コミュニティが反応し始める。コルヴィンの時は誰も動こうとしなかったが、パークスこそ運動を代表するに相応しい人物だった。ただ、コルヴィンの時、バス会社が何かをするよう市が動くはずだったのに、空手形に終わっていたことがコミュニティの怒りを嵩じさせていたのは事実
l 「次はあなたかもしれません」――呼びかけが行われる
女性政治評議会WPCがまず動いて、パークスの出廷日に、モントゴメリーのバスの1日ボイコットを呼びかける。呼びかけるビラには、黒人女性が非道い扱いを受けていることを強調し、「次はあなたかもしれない、あなたの娘かもしれない」と注意喚起
ニクソンは、キング・ジュニア始め多くの黒人牧師の支援を要請。さらに地元紙の若い白人記者にも重要な特ダネがあると告げ、ボイコットの計画を知らせる。ボイコット前日に新聞がビラをそのまま掲載し、他のメディアもボイコットのニュースを報道
白人コミュニティでは、NAACPが共産党と結託して画策したとの噂が流れたが、黒人コミュニティではパークスが善良なキリスト教徒で、疲弊したお針子(パークスの職業)だったとのイメージが流れ、彼女の政治的信条や活動歴はうやむやにされた
l 言葉を説く
黒人牧師たちは、前日の日曜日の礼拝で、ボイコットに参加するよう呼びかける
白人牧師でも参加するものがいて、人々の送迎用に自分の車を提供すると言った
l 月曜日
当日朝、モントゴメリーのほぼすべての黒人がバスに乗らなかった
市記録官裁判所の外には支援者が溢れ、モントゴメリーに新しい精神がもたらされたのは明らか。検察官は令状を変更し、市条例ではなく州法違反で起訴すると要求。パークスは有罪となり、罰金14ドルが科せられ、パークスは控訴
モントゴメリーの黒人コミュニティの活動家たちは、ある特定の行動でコミュニティを団結させることは不可能だろうと、長い間懸念していたが、1日限りの抗議行動が成功したことは信じ難いことだった
l 「そこには偉大なる民が住んでいた」――ボイコットは続く
その夜のバプティスト教会の集会には1.5万人が結集。数人の白人以外はすべて黒人
ニクソンは聴衆に、エプロンを脱ぐように勧告。黒人女性に白人雇用主との関係を作り直し、自らの自由を優先するよう呼びかけた
キングが、「今晩ここにいるのは、長い間虐待してきた人々に、隔離され、辱められることに疲れたというためだ」と言うと、凄まじい同意の嵐が巻き起こる。この運動がアメリカ史の記録に刻まれる重要性を訴え、モントゴメリーで将来歴史書が書かれるとき、「そこには文明という静脈に新しい意味と尊厳を注入した偉大なる民―黒人たち―が住んでいた」と言わなければならないと予言
集まった群衆は、ボイコットを無期限に継続することを決め、モントゴメリー改善協会MIAを結成。パークスは発言をせず、運動の象徴的な役割を果たす存在として紹介される
l ボイコット
パークスは、『ニューヨーク・タイムズ』の小さな通信記事に「黒人のお針子」と紹介される
FBIのモービル支局は、「慎重に」この事件を追跡し、本部にあらゆる情報を送る
ボイコットはカープールの発達によって支えられた。黒人の中流階級にとって車は非常に大切な所有物だったが、皆が進んで車を提供。カープールはモントゴメリーの黒人の多様な経済的・社会的階層を強力に結びつけた
地元紙は意図せず運動の広報に一役買ったが、以後の報道は明らかに否定的
大半の白人が、パークスの抗議行動はNAACPによってでっち上げられたものだと確信
警察もカープールに嫌がらせの介入をする
MIAは市当局に対し、抗議活動の解決策として、バスの座席を先着順にすること、乗客を丁寧に扱うこと、黒人バス運転手の雇用を要求したが、いずれも却下
市や企業の指導者の多くは、バスへの抗議運動に驚きの反応を示し、バス会社以外は何の変化もないとその影響を軽視、大騒ぎになったのにただ驚いていた
パークスもキングも、自己防衛に対する長年の信念を捨てることはなかったが、ボイコットを通じて組織的非暴力の力と有効性を目の当たりにした
l ボイコットは続く
MIAはクリスマスの買い物のボイコットも呼び掛け
パークスは、職場の百貨店の同僚から軽蔑的な扱いを受けたうえに、1か月後に解雇
レイモンドも空軍基地内の理髪店を辞めざるを得なくなり、パークス家は無収入に
パークス家にも、他の指導者たちにも殺害予告やヘイトの電話がやまない一方で、数多くの黒人女性が立ち上がり、資金集めなどに奔走。パークスにとって、組織化の力や、人々がいかにして自力で恐怖を乗り越えなければならないか、そして一旦乗り越えるとどれほどの力を持つかという教訓を得る
バス会社は機能不全に陥り、値上げや運転手を解雇。一方ボイコットに対する嫌がらせも数えきれないほどあった
1955年秋、差し迫った人種隔離撤廃に対する抵抗を組織的に行うために、モントゴメリーで白人市民会議WCCの地元団体が設立され、市長や警察長官が参加。白人至上主義が高らかに謳われ、黒人との関りを持った白人への迫害も始まる
ニクソンやキングの家は爆破されたが、警察は捜査せず、FBIも問題なしと報告
l 「ブラウダー対ゲイル」
弁護士のグレイやその他の活動家は、州裁判所を迂回して連邦裁判所に直接提訴することにした。集団訴訟を起こしバスでの人種隔離に挑むという積極的な第1歩を踏み出す
「ブラウダー対ゲイル(Browder v. Gayle)」は、1956年にアメリカ合衆国で起こった、公共交通機関における人種隔離の違憲性を争った歴史的な裁判です。原告はオーレリア・ブラウダーら(弁護士フレッド・グレイが代理)。被告はゲイル・モンゴメリー市長、市当局、アラバマ公共事業委員会など
ローザ・パークスらの逮捕をきっかけに起きた「モンゴメリー・バス・ボイコット運動」を法的に後押しするため、公共バスでの人種隔離が違憲であることを求めて提訴。連邦最高裁が地裁の判決を支持し、公共交通機関における人種隔離を違憲と確定、381日間に及んだバス・ボイコット運動が終結
l すべてを始めた頑固な女性――報道と起訴
2月に入ると白人の抵抗が強まり、ボイコットを非合法化する法律を掘り起こし、黒人の指導者多数を召喚、起訴される
巡回裁判は、パークスの控訴を棄却し、懲役14日を言い渡す。パークスは州最高裁に上訴
モントゴメリーには全米から記者が押し寄せる
ボイコット支援の輪が全米に広がり、続々と寄付が集まる
牧師の信用を失墜させ、抗議運動の腰を折ることを望んだ市は、キングを個別に審問
第五章
「ヒロインになるのは結構だが、代償は大きい」――ローザ・パークスの苦悩
ボイコット参加者に対する経済的・物理的な嫌がらせは激しさを増す
パークス夫妻は、職を失ったうえ、大家が家賃を値上げ。死ねとの電話は頻繁にかかり、路上で暴言を吐かれることも度々
パークスの政治的生涯の全容を理解するには、ボイコットの年とその後の10年間に彼女が耐えた経済的不安や健康問題、恐怖や嫌がらせに目を向ける必要がある。ヒロインであることは困難だった
l 解雇
解雇されたパークスは、NAACPやMIAの活動に注力。ボイコットで被害を被った人々の支援などに参加。MIAとともに解雇された労働者たちの再就職支援に奔走
パークスは脅迫と恐怖に立ち向かいながらも信仰と祈りへの信頼を深めることにより、自分の心が決まれば恐怖が薄れること、やるべきことがわかれば不安は消えることを学ぶ
むしろ夫のレイモンドの方が心身ともに圧倒され、ボイコット期間中ノイローゼに苦しんだが、パークスの心の支えだったことは間違いない
何十人もの白人が抗議運動に好意的だったが、彼等もまた同じように白人からの攻撃に晒された
l 旅回り
1956年を通じてパークスはバス抗議運動とNAACPを代表して全米各地を回り講演して支援の輪を広げ、地域的な運動は全国的な闘いに発展
公民権運動が赤狩りを恐れて距離を置いていた黒人左翼たちとの同盟関係も維持したのは、悪質な反共主義者がアラバマを蝕んでいた最中の決断だっただけに、彼女の政治的独立を証明するもの
ニューヨークでは数々の賞を受け、エレノア・ローズヴェルトも祝賀会に参加、演説をしている。パークスとの出会いは、ローズヴェルトの新聞コラム「私の1日」の題材となる
l ボイコットの終結――板挟みのヒロイン
6月に「ブラウダー対ゲイル」裁判の判決で、「分離すれども平等」の原則は最早適用できないと宣言。市は最高裁に上告したが、11月には最高裁も満場一致で判決を支持し、バスでの人種隔離を義務付けるアラバマ州法と現地の条例を無効とした
人種統合を義務付ける命令が市に届き、382日間にわたるボイコットは閉幕
国中がキングの指導力に釘付けになり、全米からメディアが殺到
後に伝説的な1枚となる彼女の写真を撮影したのは『ルック』誌で、パークスが前方の席に座り後ろに白人記者を座らせたやらせ写真で、運転手は奇しくもパークスが座席を譲ることを拒否したために彼女を告訴したその人。判決後彼もすっかり変わって、新たに採用されるようになった黒人運転手とは密接に協働していたという
モントゴメリーでは、バスの人種隔離撤廃に対して激しい暴力が巻き起こり、教会や牧師宅が爆破された。犯人の何人かは逮捕されたが無罪や恩赦で、暴力と恐怖は残った
l 新たな有権者登録運動?
南部全域の多くの活動家と同様に、ニクソンとパークスは白人至上主義を打破する黒人票の力に拘り続け、州全体の有権者登録運動をボイコット後の必然的な運動だと考えた
キングは精神的指導者としては素晴らしいが党派政治を避けようと望むのはいささか世間知らずで、政治については無知とされた
ボイコット期間中に燻っていたニクソンとキングの対立が、MIA内部で表面化
MIAの指導者たちは、ニクソンやパークスの戦闘性を警戒。ニクソンは、経済的な窮状にいるパークスをMIAが雇用しないことに不満
パークスは夫婦で体調を崩したこともあり、パークスの全国的な名声に嫉妬して中傷する者も多く、弟のいるデトロイトへの移住を決断
l 赤狩り
パークスが仕事を見つける際に遭遇した苦労は個別の事例ではなく、むしろ公民権を求める者を経済的に無力化しようとする組織的な努力の結果であり、彼らを破壊分子と呼ぶことで、ある程度は達成された。自分たちの権利のために立ち上がった者は誰でも、共産主義者だといつも非難された。特にパークスの政治的活動と人脈は、すぐさま共産主義者であるとの容疑に繋がった
ボイコットの当初から行われたパークスへの赤狩りは、その後も長く続いた
NAACPは外国の団体としてアラバマ州など多くの州での活動を禁止され、平和を侵害するとして罰金を科されてもいたため、パークスは同団体での役職を手放したが、「疑わしい人物」と見做されたのは変わらず、彼女の政治的信条も変わらなかった
ジョージア州知事は、南部で起きたあらゆる人種関連の事件の指導者たちは、テネシーの共産主義者養成学校であるハイランダー民衆学校に通っていたと主張し、すべてのアメリカ人は真実を知る権利があるとする広報誌を発行。白人市民会議やクラン諸団体の再版を考慮すると100万部以上が配布された
l 前へ進む
ボイコットの余波の中で、世間の注目の大半がキングに集中していたために、パークスの存在はすぐに忘れ去られた。奇妙なことに、忘れ去られることがパークスの魅力の一部となり、彼女の慎み深さと謙虚さを示す結果になった
l デトロイトでの失業状態
パークスの経済的苦境は続き、白人リベラル派もキングの指導力に心を奪われるばかりで、歓迎もなく、NAACPデトロイト支部からも無視
デトロイトの住宅隔離や、黒人コミュニティ内部の階級と学歴と年齢、男女間の亀裂の中にもいた
1960年、ノースカロライナ州グリーンスボロ大学1年生4人が、ウールワース雑貨店の人種隔離されたランチカンターに座り込み給仕を求めたことから、学生によるランチカウンターでのシットイン運動に火が付き、急拡大し南部各地にも波及。多くの人々が、パークスの行動とこれらの直接行動による抗議を結び付けた
1960年、キングが脱税容疑で逮捕
デトロイトでは、レイモンドは理髪店での仕事に就き、パークスは縫製会社の仕事を見つける
l 貧困と栄光――公民権を求める大衆運動
1963年、バーミングハム市中心部の人種隔離と白人暴力に対するキングと南部キリスト教指導者会議SCLCの反対運動は、ケネディ政権を動かし、公民権法案が議会に送られる
パークスは、ワシントン大行進に参加するため、ワシントンDCに来るよう要請された
世論の不支持をよそに、行進は輝かしく平和的。25万人が行進に参加、群衆は40万人を数える
パークス家の経済状況を根本的に変えたのは、デトロイトで2人目の黒人の連邦下院議員(連邦下院では6人目)となったジョン・コニャーズ。パークスは、長年にわたり彼の選挙運動で献身的にボランティアをしていて、当選後は議員は彼女を雇用し、パークスの10年にわたる経済的不安定に終止符を打つと共に、パークスは北部のレイシズムに立ち向かう
第六章
「北部の約束の地、ではなかった場所」――ローザ・パークスとデトロイトの黒人自由闘争
モータウン(デトロイトのこと)には人種隔離が蔓延。デトロイトの郊外は、黒人の同市への移住から逃れてきた白人で膨れ上がり、人種的排他性を誇らしげに主張
UAW支部の招きで講演したパークスは、人種的不正義に対する北部と南部の闘争を明確に結びつけ、人種差別と人種隔離を南部だけではなく全国的な問題として位置づけた
その後の40年間、パークス一家はデトロイトの黒人隔離地区に住み、彼女は同市を「北部の約束の地、ではなかった場所」と呼び、デトロイトにはレイシズムがモントゴメリーと同じくらい蔓延していることに気づく。住居が厳しく人種隔離され、その境界線に従った公共サービスと取り締まりの違いによって、その隔離はさらに悪質なものになっていた
公民権運動は、パークスの寓話がしばしば示唆するように、単にリベラルな北部と田舎者の南部の間の闘争ではなかった
それ故パークス自身のアクティヴィズムは、南部連合発祥の地だけにとどまらず、人種的想像力においてデトロイトを有名にすることになる1967年の騒擾と黒人の戦闘性が発生する10年前、パークスはその地に移住し、そこで急成長していた公民権運動に参加した
1960年代初頭までに、全米のメディアは、南部の非暴力闘争にますます同情的になっていた。逆に、北部の抗議運動は、しばしば一面を飾ったが、南部の運動に用いられたのと同じ正義のレンズで捉えられることはなかった。デトロイトでも、白人官僚たちは、異人種間委員会やリベラルな宣言、名目上の人種隔離撤廃、形だけの雇用によって、同市の人種問題を解決したものと考えていた
l アメリカのジレンマ─―民主主義の武器庫における人種的不平等
デトロイトへの黒人の移住は20世紀に急増。第2次大戦中に50万人の南部人がデトロイトに向かったが、そのほとんどが黒人。白人は郊外に逃げ黒人の侵入を阻止、結果黒人は市中心部に隔離され、FHAも黒人地区の評価を危険と見做したため、市の衰退を加速
さらに、黒人居住地区を対象に高速道路の建設など市の再開発が進められ、黒人居住区はますます過密に。さらに多くの黒人労働を吸収していた自動車産業でオートメーション化が自動車産業を変革し、黒人労働者の多くが解雇。その他、教育でも公共サービスでも、実質的な差別が厳然として存在したが、市当局は体系的・人種的不平等のパターンを否定
1963年、パークスはキングに加わり、デトロイトの「自由への大行進」の先頭に立つ。ワシントン大行進の2か月前のことで、20万人が参加し、同市の人種的不平等に異議を唱えるよう呼びかけた。SCLCのバーミングハム市での運動(第4章参照)との連帯行動として考案されたが、デトロイトの深刻な不平等を浮き彫りにし、市内で高まる黒人の戦闘性を加速させる一助となる。キングは、人種的不正義を「全国的な問題」だと非難し、「北部における事実上の隔離は、南部における実際の隔離と同様に有害である」と主張
南部のバスの人種隔離がデトロイトでは住宅隔離で、パークスは公正な住宅販売を巡る闘いに参加。住宅隔離や都市再開発と並んで、警察による弾圧は、デトロイトの黒人の生活に対する絶え間のない侮辱だった。警官が無辜の黒人女性を射殺したが、検察が正当防衛を認定したため、黒人コミュニティが立ち上がる。市当局はいかなる組織改革も拒否、「群衆統制」のための部隊を創設。新聞も自身の裏庭での警察の暴力行為には注意を払わず
l 「私はアンクル・トムだったが悔い改める」――デトロイトの黒人キリスト教
第2次大戦後の豊かなブラック・ナショナリストの伝統がデトロイトの宗教的景観を一変させ、デトロイトの黒人たちは豊かで多様な宗教生活を送っていた
教会こそ黒人闘争と黒人国家の基盤であると信じる牧師が、「私はアンクル・トムだったが悔い改める」として仲間のキリスト教徒に優先順位の見直しと闘争への献身を呼びかける
パークスも厳格で敬虔なキリスト教徒で、デトロイトで発達した黒人のアクティヴィズムとキリスト教の混合は、彼女の心に響いた。宗教的信念と政治的戦闘性の間に矛盾はないと考え、神に仕えるには集団行動が必要だった
l ジョン・コニャーズ(第4章参照)
1962年の裁判で、デトロイトの選挙区が見直され、2人目の黒人議員を連邦議会委に送る可能性が生まれたため、'64年の総選挙には公民権弁護士のジョン・コニャーズが立候補。パークスはキングに応援演説を依頼。コニャーズは下院で6人目の黒人議員となり、翌年にはパークスを雇用。’88年まで働くが、有給の政治的な地位に就いたのは初めて
パークスへの脅迫や嫌がらせは続き、共産主義者とかトラブルメーカーと呼んで反発する人もいたが、都市部の多種多様な社会問題を丹念に取り上げ、他の活動家とも連携して、有権者のニーズに応えることに奔走するとともに、黒人の公職への当選を後押し
l 南部へ
1965年、アラバマでの抗議行進にも参加、「運動のファーストレディ」として紹介される
行進に参加した白人女性が翌日クランにより殺害された事件を聞いてパークスは一層政治的に活発となり、黒人女性のコミュニティ・政治的活動団体WPACなどで活動
l SNCCの友人たち(フレンズ・オブ・スニック)
パークスは南部で繰り広げられる自由闘争、特に学生非暴力調整委員会SNCCの活動に心を躍らせる。1960年代初頭からデトロイトの「SNCCの友人たちFOS」という組織の若い活動家たちとの活動を開始。FOSは、アラバマで発展した政治運動の支援で活躍
l 1967年の蜂起
デトロイトの住民は依然として極端に人種隔離され、過密状態や劣悪な都市サービス、無反応な市政、抑圧的な取り締まりに直面する状況は、アメリカのほぼすべての主要都市に共通し騒乱発生の根拠になっていた。構造的不平等を可能にしたのが警察による弾圧
デトロイト蜂起の火種の一部は、白人の慢心。ブラウン判決はほぼ施行されず、公民権法の精神も実質的にはほとんど守られておらず、'64年のハーレムや翌年のロサンジェルスの都市騒擾を回避できると思われていた。白人指導者の多くが、2人の黒人下院議員、リベラル派の市長、そして繫栄する自動車産業が黒人と白人の労働者に経済的安定と機会を提供するデトロイトを、人種的進歩の最高潮と考えていた
違法な時間外営業の酒場の取締に対する反発から騒擾が一気に拡大、州知事は連邦政府に救援を要請、陸軍空挺部隊が派遣され戦車が町中を走行、警察は無差別に黒人を襲撃
パークスはこの蜂起を、デトロイトにおける黒人の不満に対する白人の抵抗と無関心という文脈に位置づけ、この騒乱を「公民権とは何の関係もない、純粋な不良行為であり、加害者にはほとんど同情の余地がない」と断言。彼女はこの蜂起を、アメリカの戦後の豊かさから黒人が排除されたこと、そして'60年代のアメリカ社会を苦しめた、消費と蓄積というより広範な文化的風潮の一部から生じたものと説明
「人民法廷」が教会で開廷され、警官による黒人殺害事件の陪審が行われ有罪判決が下る
翌年、キングが暗殺される3週間前にデトロイトの白人居住区で演説。デトロイトの蜂起を、同市と全米における人種的不平等というより広い文脈の中に置く
第七章
「私たちの不満を示すためのどんな行動にも」――ブラック・パワー時代のミセス・パークス
正当防衛を信じていたパークスは、刑事司法制度におけるレイシズムを批判し、真の黒人の平等を確保するために必要な広範囲に及ぶ社会変革の支持者だったが、彼女にとって黒人の要求はしばしば、実際の変化を約束することなく進歩したかのように見せるための遅延に陥っていた
彼女にとって統一戦線は黒人闘争の鍵。人種的正義と人権に対するパークスの永続的な献身は、モントゴメリーでの公民権闘争とデトロイトでの黒人解放の架け橋となった
パークスは、黒人の戦闘性の高まりは白人の妨害主義に起因すると明言、人権平等に対する白人の絶え間のない抵抗は、黒人の戦闘性が育まれるための素地を作り出したと、黒人の反乱の根源(正当性)を示そうとした
彼女の信念と活動は、公民権闘争とブラック・パワー闘争の間にしばしば引かれる明確な線引きに異議を唱える
パークスは闘いが終わっていないことを国民に喚起し続けた。彼女にとって、'60年代後半と'70年代に闘争を継続することは、新たな黒人活動家を支援することを意味した
ブラック・パワーの時代にパークスが行ったことの一部は、現場に姿を見せること。彼女は「その存在感で語った」。彼女はあらゆる活動の「どこにでもいた」
l ローザ、マルコム、ロバートと自己防衛の政治
パークスのヒーローはマルコムXだったとの告白には衝撃を受けた。マルコムの大胆さと明晰さ、黒人のためになすべきことを肯定する姿勢によって彼を支持しているのだという
祖父から自己防衛の伝統を学び、そのためには声を上げ、断固として行動しなければならないことを学ぶ。彼女の自己防衛と集団行動への信念は、彼女のキリスト教信仰にも起因
さらに、非暴力を自己防衛と結び付け、集団的な力は組織化された非暴力の中に見出すことができ、一方、自尊心は時に自己防衛を必要としたため、自宅に銃を置いていた
l キング暗殺――ローザ・パークスは行進を続ける
1968年までにキングは日常的に複数の殺害予告を受けていた。米国の国外での軍国主義に反対し、国内では経済的正義のための運動を構築しようとしたことで非難を浴びた
演説の後モーテルに滞在中に狙撃。単独犯とされたが背景に疑問を残したまま獄中で死去
全米110の都市で騒乱が勃発。パークスは葬儀のためにアトランタに向かうキングの遺体と共に飛行機に同乗。翌月には、キングが暗殺される前に組織していた「貧者の行進」を引き継ぎ、政府に広範な経済的不平等に対処するよう迫ることを目的に市民的不服従に参加
全米からあらゆる人種の貧しい人々がワシントンを目指し、ナショナルモールにベニヤ板の小屋を並べたテント村を作り、「再生の街」と名付ける
1968年、シャーリー・チザムは、ブルックリンに新設された選挙区から初の黒人女性下院議員として当選。家族のルーツはガーヴィ運動にあり、軍隊内での人種隔離撲滅に奮闘
ガーヴィ運動(Marcus Garvey movement)は、1914年にジャマイカ出身の指導者マーカス・ガーベイが設立した「世界黒人地位改善協会(UNIA)」を中心に展開された、黒人の解放と自立をめざした国際的な黒人ナショナリズム運動
パークスは、アメリカのベトナム介入にも早くから反対、ソンミ村虐殺事件発覚後は一層反戦への姿勢を強める
l ブラック・パワー —―全国的な運動、地元の闘争
パークスは、黒人の投票力と経済力を全米で強化したり、地元コミュニティの動員を支援したり、黒人の文化施設建設のための運動を構築したりすることに強い関心を持っていた
公民権指導者の中には、新興のブラック・パワー運動を不安視する者もいたが、パークスはこれまで取り組んできた政治的運動との連続性を数多く見出す
1972年には全国黒人政治大会に出席、2大政党が白人の政治的利益を守ってきたとして非難し、独立した黒人政治を目指す運動に関与
l 新たな方向性と闘争の継続
パークスは、闘いが終わっていないという信念を堅持。「立ち止まってはいけない。続けることを継続するのだ」と言い続ける
'70年代後半はパークスにとって個人的に困難な時期。潰瘍が彼女を苦しめ続け、心臓病も患い、夫・母・弟が相次いで癌に侵され、'77年に夫と弟が死去、2年後には母も他界
l レーガン時代の黒人政治
個人的な喪失の深さも彼女の政治的活動を止めることはなく、長年続けていた南アのアパルトヘイトに反対する運動も継続、’84年にはワシントンDCのピケラインを歩く
'84年には、民主党の大統領候補指名を目指すジェシー・ジャクソンを支持して資金調達を企画。'88年にも彼を支持
'78年には、白人の町ディアボーンで市長が「デトロイトのゴミを排除する」と公言し、「非住民」の公園利用を禁じる条例を可決。「非住民」は住み込みのメイドなどわずかだったが、パ-クスは威圧的な戦術に耐えられず、NAACPの活動家とともに市全体のボイコットの計画を立て始め、市は実行前夜に条例を撤回
'90年、ワシントンDCのケネディ・センターでのパークスの77歳の誕生日を祝う祝賀会では、「今日、私たちの多くは抑圧されている。平和、正義、そしてすべての抑圧された人々のための自由への闘いを諦めないように」と参加した人々に語りかけた
パークスの平和と人権に関するグローバルなヴィジョンは、他の宗教的伝統と人権実践への深い関心を包含していた。'92年仏教哲学者で教育者の池田大作と出会い、仏教という統合的な平和の伝統に興味を抱く。文化を超えた連帯の可能性に関心を持つ
'94年、メキシコ・カナダ以外では初めての海外旅行で訪日、熱狂的な歓迎を受ける
'94年、アメリカ黒人賠償請求連合による賠償運動にも参加。翌年にはワシントンに向けた100万人大行進にも参加
アメリカにおける黒人(アフリカ系アメリカ人)への奴隷制や人種差別に対する賠償(リパレーションズ)を求める主要な全国組織・連合として、主に以下の2つが広く知られています。
l 全米アメリカ黒人賠償請求連合 (N'COBRA) 1987年設立。先駆的な民間団体・市民権組織。チャテル奴隷制(人間を所有物とする奴隷制)や、その後のジム・クロウ法(人種隔離法)、制度的人種差別によって受けた歴史的・世代的な損害に対する包括的な法的・経済的賠償を求める
l 国家アフリカ系アメリカ人賠償委員会 (NAARC) 2015年設立。より新しい有力なプラットフォーム。政府による公式な謝罪、アフリカへの帰還(希望者への支援)、土地の譲渡、経済開発、医療・教育資金の確保などが含まれる。
どちらの組織も、米連邦議会で長年提案されている「奴隷制およびその後の差別に関する謝罪・賠償提案を調査・開発するための委員会」を設置する法案(H.R. 40)の通過を強く後押し
カリフォルニア州やイリノイ州エバンストン市、ニューヨーク州など、州や地方自治体レベルで賠償問題を調査する特別委員会の設置や、独自の賠償・開示法案(企業に奴隷制との歴史的関与の開示を義務付ける法案など)が進められている
終章 「レイシズムはまだ生きている」――象徴であるという政治性と交渉すること
パークスにとって最も歴史的な瞬間は'55年のバスの中で生じたのかもしれないが、彼女の気質の強さをより一層明らかにした瞬間は40年後に訪れた。’94年自宅に黒人青年が押入り、暴力に抵抗したが、全財産103ドルを渡す。隣人の通報でも警察が到着するまでに50分かかり、その間に襲撃を知った西側のチンピラが総出で彼を探し地獄に叩き込んだ
パークスは、黒人コミュニティが直面している最大の問題は今や黒人自身だという考えを否定。マスコミが退廃的な黒人の若者集団の代表として取り上げたことも否定し、「彼をこのようにした状況のために」祈った。彼女のアプローチは、生涯をかけた若者への献身から導き出されたもの。「いつの日か、人々が他人を傷つけたくなるようなこの国の状況がなくなることを願う」といい、暴力行為が育つ土壌となっている不平等の構造を変革することが個々の暴力行為を食い止める方法だと信じていた
‘87年、ローザ&レイモンド自己啓発研究所を設立。若者を公民権闘争に参加させるべく指導力を育成しようとした。研究所では若者が黒人史に触れ、自分たちの家族の過去を取り戻すよう促すことに重点を置く
‘90年代を通じて、パークスは健康が衰えながらも、様々な形の社会的・人種的不正義に反対を唱え、「立ち止まったり、歩を緩めたり、先のことに満足したりするときではない」と揺るぎない姿勢を崩さなかった
9.11の後でも、パークスは他の人権運動家と共に、「軍事的対応」に反対の声を上げ、「国際法の枠組みの中で、国際社会の一員として協力的に」行動するよう米国に呼びかけた
l 「私は自分が象徴であることをよく分かっています」――ローザ・パークスであること
彼女は自分の公的な役割や出演が、闘争の歴史を保存し、若者たちがそれを継承する一助には必要だと考えていたが、自分だけの空間が欲しいとも思っていた
パークスにとって黒人の歴史は、現在の不正義に異議を唱える活動家としてのツールであり、大小様々な行事をこなし続けてきた
公式版の物語にうんざりした彼女は、記録を正そうとして、若者向けの自伝も執筆
l 「悪いイメージを博物館に入れる」
キングの暗殺以来、コレッタ・キングと共に、彼の功績に因んだ祝日を制定するべく尽力。激しい抵抗の中、全米を回り、'83年遂にレーガンは大統領令にしぶしぶ署名
しかし、この祝日の逆説の1つは、制度化されるやいなや、公民権闘争を過去のものと見做す人々によって利用され始めたことで、米国の軍事主義、経済的不平等の構造、そしてアメリカのリベラリズムの慢心を批判していたキングの姿は、公的な祝賀の場ではほとんど見られなかった
同時に、黒人活動家や黒人メディアの間では、パークスに正当な評価が与えられていないという反発が高まり、その働きかけもあって彼女が年を重ねるにつれ、栄誉が次々に舞い込む。通りには彼女の名前が付けられ、’91年にはスミソニアン博物館でパークスの胸像が除幕、'99年には全米最高の栄誉である米国議会黄金勲章を受章。テキサスの1人を除いて下院全員、上院も満場一致だった。パークスの身体が行進するにはあまりにも弱々しくなり、その声が囁き声にまで衰えた今になって、政治家たちは彼女を愛国的象徴として称えた。称揚しても無害で安全な存在になったということであり、「高齢者に対する恩着せがましい態度」、「いかに運動全体が抹消され、それが社会や彼らの人生の意義と関係づけられることなく、英雄たちが単なる名前になったか」を示していた
‘90年以来、公民権のアクティヴィズムを記念する博物館が、少なくとも15ヵ所開設
「悪いイメージを解決する最善の方法は、それらを歴史だと宣言し、博物館に入れること」
パークスのバスでの行動があった場所には、トロイ大学のローザ・パークス博物館がある
見学者は往々にして、今は人種隔離の古き悪しき時代とは全く違うと確信して帰る
l 称えられ横たわる
パークスが亡くなった時、このような脱政治化された賞賛は10倍に膨れ上がった。2か月前のハリケーン・カトリーナを巡る連邦政府の怠慢という失態と覆い隠してくれるのではないかと期待して、国会議員や大統領たちは、パークスを称えるために雪崩のように殺到した。パークスの追悼は、彼女を一段落した運動の、脅威を感じさせないヒロインに仕立て上げることで、人種差別のない社会としてのアメリカ像を構築するのに役立った
パークスを彼女の闘争の人生から切り離して賞賛し、運動を祝福しつつそれを旧南部の過去に委ね、運動をバスや穏やかな声や偶発的な行為に矮小化し、彼女を称えようとした草の根の人々よりも高官たちを祭り上げることによって、パークスの公開追悼式は、運動の歴史に対するこの狭量でジェンダー化された視点がアメリカの公共生活においていかに顕著であるかを浮き彫りにした
見落とされたのは、パークスを長い間沈黙させてきた勢力や人々、そして社会的不正義に対するパークスの長年の怒りという真実だった
パークスへの国を挙げての顕彰は、レイシズムの終焉を記念する手段にもなったが、これはパークスが一生かけて闘い続けた国家の自己賛美の一形態だった。根強い教育格差や拡大する経済格差、有色の人々の収監率の急上昇、終わりの見えない戦争、横行する人種・宗教的プロファイリング、こうした現代の不正義は、実物のパークスと彼女の同士の多くが生涯をかけてそれらに対処しようとしていたにもかかわらず、暗黙のうちにパークスがバスで抗議した明らかな不正とは全く異なるものと扱われたのだ
追悼文の多くがパークスの抗議行動を過去のものとしようとする一方で、パークス自身は現在における人種的正義の必要性を主張し続けていた
パークスがスペルマン大学(黒人女子大学)で学生に語った言葉、「諦めないでください。運動は終わったなどと言わないでください」
訳者あとがき
2005年、ミシガン州立大に留学中、パークスの訃報を校内新聞で知る
「長い公民権運動」とは2000年代前半に提唱された、公民権運動史の射程を再考する理論的枠組みを指す。公民権運動とブラック・パワー運動を、断絶する2つの運動ではなく、黒人解放運動の2局面と見做し、地域的にも思想的・時期的にも連続する運動として捉えるもの。その中でパークスは、「長い公民権運動」の歴史を体現する人物として描かれる
南部と北部のレイシズムの両方に対する闘争に献身したパークスは、「モントゴメリーでの公民権闘争とデトロイトでの黒人解放の架け橋となった
著者が、パークスの長い公民権運動・黒人自由闘争の歴史を複雑な詳細と共に提示するのは、成功物語として単純化された公民権運動の歴史が政治的に利用されてきたことの問題を指摘するためでもあり、それが本書の2点目の意義
人文書院 ホームページ
物静かな「公民権運動の母」という偶像から脱却し、自由のための闘争に献身した生涯に迫る
「疲れたから座った」のではない。それは闘いの通過点に過ぎなかったのだ。
「バスの座席を譲るのを拒んだ、老いて疲れたヒロイン」それは、作り上げられた都合の良い「神話」に過ぎない。彼女は、逮捕される20年以上前から、そしてその後も40年以上にわたって人種差別、警察の暴力、不当な権力と闘い続け、公民権運動とブラック・パワー運動の時代を架橋する体現者であった。物静かな「公民権運動の母」という偶像から脱却し、自由のための闘争に献身した生涯に迫る。
バス・ボイコット運動の開始当初から経験した凄まじいヘイトクライムと経済的困窮。公民権指導者たちとの階級差による孤立感。ときとして仲間からも反感を持たれる中、金策に走り、配車係や電話番など裏方の仕事を通じて運動を支え続けたこと。「約束の地、ではなかった場所」でも困難は続き、北部のリベラリズムの沈黙に苛立ちを募らせ、心身ともに疲弊したこと。病に倒れ、家族のケアを続けながらも、求められればどこにでも出かけ、若者を育成し続けたこと。偶像ではない生身のパークスを、読者は(再)発見することだろう。
ローザ・パークスの反抗的な人生 ジーン・セオハリス著
「屈するのに疲れ」差別と闘う
2026年7月25日 2:00[会員限定記事] 日本経済新聞
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が、全米を代表する黒人指導者として認識されたのは、1963年の「ワシントン大行進」だった。だが指導者として頭角を現したのは、それより前の55年12月、アラバマ州モントゴメリーで起きたバス・ボイコット事件である。そして本書のローザ・パークス(1913~2005年)こそ、大成功に終わった非暴力運動の発端となった人物だった。
ジム・クロウ法(黒人差別法)のもと、バスの座席は白人・黒人で分離され、状況により運転手は黒人席も白人に譲るよう命じる権限があった。パークスは、その日、黒人席の最前列に座っていたが、白人乗客が増えたため、席を立つよう命じられた。「疲れていた中年のお針子」は動かず、その結果、逮捕された。
モントゴメリーの教会に着任したばかりのキング・ジュニア牧師を中心に、バス・ボイコットが企画され、大成功に終わった。バスの乗客の7、8割を黒人が占める町で、1年余りボイコットは続き、市バス側は経営困難に陥った。その結果、座席の黒人差別は撤廃された。ボイコットの成功は、差別への怒りが沸騰点に達していたこと、黒人社会が固く団結しうることを示した。
ごく普通の市民ローザ・パークスが、「疲れていた」ために席を立たなかったと喧伝(けんでん)された。だがパークスの言葉によれば、「屈するのに疲れた」のだった。すでにNAACP(全米黒人地位向上協会)のメンバーで、夫もまた熱心な活動家で、自由を求める「反抗的」な姿勢は子どものころからの資質だった。
ボイコットは成功したものの、パークスは百貨店の裁縫師の職を解雇され、母親、夫とともに北部デトロイトへ移住せねばならなかった。白人優先主義者の「反抗的黒人」への攻撃は激しく、命の危険を意味していた。「自由の闘士は決して引退しない」というパークスの持続的姿勢は、アメリカ合衆国の人口の1割強を占めるアフリカン・アメリカンの強靱(きょうじん)な底力を示している。
本書は、パークスの膨大な個人的資料が閲覧可能になり、新資料をもとに生涯をたどっている。寛大な資料開示の姿勢は、アメリカの「情報を共有する自由」ゆえである。
《評》米文学者 荒 このみ
原題=THE
REBELLIOUS LIFE OF MRS. ROSA PARKS(坂下史子訳、人文書院・5500円)
▼著者は米ニューヨーク市立大卓越教授。
「ローザ・パークスの反抗的な人生」書評 今に続く社会的不正義との闘い
評者: 秋山訓子 / 朝⽇新聞掲載:2026年09月19日
ローザ・パークスの反抗的な人生著者:ジーン・セオハリス出版社:人文書院ジャンル:
「ローザ・パークスの反抗的な人生」 [著]ジーン・セオハリス
1955年、バスの中で白人に席を譲ることを拒否し逮捕されたローザ・パークス。公民権運動を大きく前進させ、本書の言うとおり20世紀で最も広く知られたアメリカ人女性かもしれない。
13年に深南部(ディープ・サウス)のアラバマ州で生まれた。レイプ、暴力、無実での逮捕……人種差別の惨状は目を背けたくなるほどひどかった。選挙や政治に関心が深かったが、投票するには有権者登録が必要だ。彼女は3回の挑戦(!)で登録できたが、51年でも黒人有権者の登録は3.7%だった。
逮捕時のバス運転手とは因縁があった。彼女は尊厳を守り、不快な思いを避けるためその運転手を12年間避けていた。「黒人用」トイレを使うのを拒否、「白人用」水飲み場から水を飲み、人種隔離にも何度も個人的行動を起こしてきた。そして「その日」が来た。
だが彼女の物語は「無知で疲れたお針子」が偶発的に拒否したと神話化され、彼女の戦闘性が軽視されてイメージが独り歩きしていく。同時期に活躍したマーティン・ルーサー・キングなどに比べ彼女が正当な評価を受けていないのは、運動に「男性中心主義」があったと指摘する人もいる。
やがて勲章を受け、バスの一件の場所には博物館ができた。彼女が亡くなった時には称賛が押し寄せたが、著者の慧眼(けいがん)はその裏を見抜く。パークスを彼女の闘争の人生から切り離して称賛し、運動を偶発的な行為に矮小(わいしょう)化した、と。この運動を過去のものとすることで彼女の社会的不正義への怒りを見落とす。パークス自身が言っている。「運動は終わったなどと言わないでください」
実際、原書出版後にブラック・ライブズ・マター運動が盛り上がり、反DEI(多様性・公平性・包摂性)の嵐が吹き荒れ、有権者登録の壁が高くなっている。闘いは逮捕の前からあり、今に続く。ずしりと分厚く、読むのに骨が折れるが、今こそ手に取るべき一冊。
◇
Jeanne Theoharis 米ニューヨーク市立大卓越教授。20世紀のアメリカ黒人史、都市史、人種政治などが専門。
◇
坂下史子訳
Wikipedia
“リー”ローザ・ルイーズ・マコーリー・パークス(Rosa "Lee" Louise McCauley Parks, 1913年2月4日 - 2005年10月24日)は、アメリカ合衆国の公民権運動活動家。
1955年にアラバマ州モンゴメリーで公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み[1]、ジム・クロウ法違反の容疑で逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の嚆矢となったことで、ローザは米国史における文化的アイコンと見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。
人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は国際的に高く評価されている。
プロフィール
生い立ち
ローザ・ルイーズ・マコーリーは、アラバマ州タスキーギで、アフリカ系アメリカ人で大工の父ジェイムズ・マコーリーと、教師の母レオーナの間に生まれた。両親はほどなくして離婚。農業を営む母と母方の祖父母のもとで弟シルベスターとともに育ち、終生所属することになるアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会員になる。
母レオーナは11歳になるまでローザに教育を施したが、1924年に州都モンゴメリーの女子職業学校に入学させた。同学校が1年後に閉鎖されたため、他の中学やアラバマ州立黒人師範大学(現:アラバマ州立大学)附属の実験学校で教育を受け、16歳で縫製工場に就職する。
1932年、黒人理容師のレイモンド・パークス(1903年 - 1977年)と結婚。結婚後、夫の奨めで高校生課程を修了している。レイモンドは全米黒人地位向上協会(NAACP)のメンバーであり、ローザも第二次世界大戦後にNAACPモンゴメリー支部書記を務めた。同職は専業ではなく、収入を得るため何度も転職して様々な職業に就いている。1955年にはモンゴメリー・フェア百貨店で裁縫の仕事をしていた。
逮捕
当時、アラバマ州はじめアメリカ南部諸州にはジム・クロウ法(Jim Crow
laws)と呼ばれる人種分離法が施行され、あらゆる場所で黒人と白人は隔離されていた。公共交通機関のバスでも人種隔離が実施され、黒人席と白人席は制度上明確に分けられていた。1955年12月1日18時ごろ、当時42歳のローザは、百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。白人専用の席はバスの前方にあり、その次の列から後方が黒人の席だったが、運転手は境界を後方に移動することができた。法にはなかったが、白人の座席が足りないときは境界を移動して、黒人を立たせるのが習慣だった。ローザは黒人席の最前列に座っていたが、次第に乗車して来る白人が増え、立って乗車せざるを得ない白人も出てきた。このため、運転手ジェームズ・F・ブレークは境界を一列ずらし、座っていた黒人4名に立つよう命じる。3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否した。
1987年に放送されたテレビ番組で、ローザは「着席したままだった私に気付いたブレイクがなぜ立たないかと訊ね、(私は)『立ちません』と答えました。するとブレイクは『よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ』と言ったので、私は『どうぞ、そうなさい』と答えたんです」と述懐している。
1992年に出版された『My Story(『ローザ・パークス自伝』:日本語訳著書参照)』においても、ローザは「疲れていたから立たなかったのでは」との指摘を「普段と比べて疲れていなかった」と否定し、「年寄りだったから立たなかった」「若者に対する差別だったのでは」との批判に対しても「まだ42歳で若かった」と反論。「屈服させられることに我慢できなかった」(*)から席を立たなかったのであり、単なるエゴではなく人間としての誇りを侵害されたため席を立たなかったのだと述懐している。
The only tired I was,
was tired of giving in.
直訳:唯一の疲れは、屈服することに疲れていたことだった。
乗り合わせた乗客の証言によれば、ローザは終始、静かで威厳に満ちた毅然たる態度を貫いたとされる。
ブレイクは警察に通報し、ローザは市条例違反で逮捕された。ローザは「どうして私が連行されるのか」と質問したが、警官は「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答した。警察署での逮捕手続きが終わると一旦は市の拘置所に入れられたが、即日保釈され、やがてモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される。
公民権運動
ローザ逮捕の知らせが伝わると、モンゴメリーのデクスター街バプテスト教会で牧師に着任したばかりで当時26歳だったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアやラルフ・アバーナシー(英語版)牧師らが抗議運動に立ち上がり、モンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼びかけた。以前にも黒人が同様に逮捕されていたが素行の悪い者が多く、運動としては盛り上がらなかった。ローザの場合はまともな職業婦人であり、NAACP書記でもあったため関係者が迅速に動いたとされる。
当時貧しい黒人にとってバスは必須の交通機関であった。利用者の75%以上を占めていた黒人たちがバスを利用せず、黒人の車に同乗したりどこへ行くにも歩いたりしたため、バス路線を運営するモンゴメリー市は経済的に大きな打撃を被った。ローザ側は市条例違反の判決に対し、バス車内の人種分離の条例は違憲であるとして控訴。1956年11月、連邦最高裁判所は違憲判決を出し、公共交通機関における人種差別は禁止された。ボイコット運動は381日間続き、最高裁の違憲判決の翌日に収束した。
キング牧師はこの運動の勝利を契機として全米各地での公民権運動を指導し、非暴力直接行動と市民的不服従を掲げて1963年8月28日にワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催する。アメリカの黒人運動は最高潮に達し、1964年公民権法成立につながった。
この一連の運動に対応して、当時のジョン・F・ケネディ政権は次々と南部諸州における差別制度を禁止する立法を行った。またケネディ政権を継承したリンドン・ジョンソン政権は「偉大な社会」の実現を唱え、積極的に黒人の社会的・経済的地位を向上させるためのアファーマティブ・アクション立法にまで進んでいる。
歴史的評価
ローザもキング牧師の公民権運動に参加し著名な活動家となるが、地元には居辛くなり、1957年にデトロイト市に引っ越した。ローザはその後もさまざまな職業を転々としているが、やがて自分がアメリカ史上の人物として学校の教科書でも教えられていることに気付く。
著名人として職業的な地位も向上し、1965年から1988年にかけてミシガン州選出民主党下院議員ジョン・コンヤーズ(John Conyers)のスタッフを務めた。なおこの間、1977年に夫レイモンドがデトロイトで亡くなっている。
1987年にはローザ・レイモンド・パークス自己開発教育センターを創設して青少年の人権教育に尽力した。1999年、アメリカ連邦議会が議会名誉黄金勲章を贈った。これは最も偉大なアメリカ市民に贈られるメダルである。またアラバマ州モンゴメリーにはローザ博物館も設立された。
死去
2005年10月24日、デトロイトの自宅にて老衰で死去した。92歳没。
追悼
死後、ローザの地元・デトロイトでは、哀悼の意を表現しローザを追悼するミュージシャンらのコンサートが相次いだ。
U2はローザの死の翌日、ザ・パレス・オブ・オーバーンヒルズ公演で追悼。1984年のヒット曲「プライド」(「Pride (In The Name Of Love)」。アルバム『焰』収録)と「約束の地」(「Where the Streets Have No Name」。アルバム『ヨシュア・トゥリー』収録)をローザに捧げ、ボノが「パークスのおかげで米国はよい国になったが、平等を目指すこの国の旅は今も続く。これからも旅を続けよう」「アメリカのローザ・パークスから、アフリカのネルソン・マンデラへ」("From Rosa Parks in America to Nelson
Mandela in Africa")と聴衆に向かって語りかけた。
グウェン・ステファニーも10月29日、U2と同じ会場で行った公演でアルバム『ラヴ、エンジェル、ミュージック、ベイビー』(『Love. Angel. Music. Baby.』)から「ロング・ウェイ・トゥ・ゴー」(「Long Way To Go」)をローザに捧げた。
ジョージ・W・ブッシュ大統領は、バス起立拒否50周年記念日にあたる2005年12月1日、公民権運動記念としてローザの彫像を連邦議会議事堂内の国民彫像ホール(英語版)に設置する法律に署名し[2]、2013年2月27日、ホールに彫像が設置された[3]。
2016年2月、ローザに関する7,500点の手稿、2,500枚の写真からなるコレクション(大統領からの手紙、著書の草稿の断片、大統領自由勲章など)がオンラインで公開された[4]。
日本の一部の英語教科書にもローザの公民権運動についての記述がある。
2021年10月、ジム・クロウ法違反で逮捕された日を連邦祝日とする法案が議会に提出された。カリフォルニア州とミズーリ州では誕生日を、オハイオ州とオレゴン州では逮捕された日を、それぞれ「ローザ・パークスの日」として祝日指定している。
2024年3月22日、ミシガン州デトロイトのミシガンアベニュー985番地にある連邦ビルを「ローザパークス連邦ビル」と指定する法律が制定された[5]。
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