本作り500年の歴史 Adam Smyth 2026.9.24.
2026.9.24. 本作り500年の歴史 本の印刷からZINEカルチャーまで
The
Book-Makers A
History of the Book in Eighteen Remarkable Lives 2024
著者 Adam
Smyth オックスフォード大学ベリオール・カレッジ英文学及び書物史学教授。特に16~17世紀の書物を専門にする。学術論文のうち、『Material Texts In Early Modern England』(2018)では国際書物史学会SHARPによるデロング賞受賞
訳者 村上彩 1960年生。上智大外国語学部ドイツ語学科卒。同大学院国際関係論修士課程修了。翻訳家。獨協大非常勤講師(翻訳論)
発行日 2026.5.7. 第1刷 2026.8.17. 第2刷
発行所 原書房
ZINE(ジン)カルチャーとは、個人や少人数の有志が、商業出版の制約にとらわれず、自由なテーマや形式で自主制作する小冊子(ZINE)を楽しむ文化のこと。
雑誌を意味する「Magazine(マガジン)」や「Fanzine(ファンジン)」が語源で、文章、写真、イラスト、コラージュなどを自分の感性のまま1冊の本にまとめます。
ZINEカルチャーの特徴と魅力
完全な表現の自由:
編集者や出版社の意向、市場の売上などを気にせず、自分が作りたいものを起点に作れます。
多様な装丁と手触り:
紙の質感、綴じ方、大きさ、形に決まりがなく、手製本や特殊な加工で個性を表現できます。
アナログなコミュニケーション: 「ZINEフェス」などの即売会や独立系の書店を通じて、作り手と読み手が直接つながる温かみがあります。
ネットとは違う安心感: 不特定多数が行き交うSNSの海ではなく、届けたい相手に手渡しや直接のやり取りで物理的な本を届けることができます。
序
これは本についての本であり、本を作った人々についての本であり、素晴らしく、奇妙で、親しみのある、新しくて、様々な本たちを世に送り出した、人々の人生についての本でもある
人々が本をどのように作ってきたかを探る、500年余にわたる物語。1490年代のワードが作ったごく初期の印刷本から、2023年のニューヨークで作られたブラック・マス社のジンZINEまでを取り上げる。物語の主軸は、英仏北米だが、本の歴史は広範で国際的であり、2世紀の中国や8世紀のイスラム世界も取り上げ
本書の目的は、本という物理的形態の発展に重要な貢献をした、あるいは今まさに貢献している18人の男女の評伝を通じて、本の歴史を知ること。大半は有名人の列伝ではない
本は人によって作られるもの。人がどのようにして本作りを成し遂げてきたか、本書はその歴史を語る。称賛の歴史でもある。人類文化の中核技術である印刷本を讃え、印刷本を生み出した人々の想像もつかないほど個性的で豊かな人生を讃えたい
繰り返し取り上げるテーマは、本は時間に対して複雑で、深層的で、しばしば循環する関係を持つということ
2020年代におけるデジタルと印刷の関係を理解するためには、過去のメディア変革の時代、例えば15~16世紀における手書き原稿と印刷の関係に目を向けるのもいいだろう。印刷は手書き文化を消し去ったわけではなく、むしろ両者の関係は相互補完的だった。初期の印刷本、例えば1455年のグーテンベルクのラテン語聖書では、手書きに見せようと懸命の努力が払われた。初期の印刷は、筆者活動を消滅させるどころか、「手書きの執筆を促す革命的な刺激」として機能
T.S.エリオットは1919年のエッセイで、「文学の根本原理を変容させるのは新しい作品、すなわち、自らの居場所を作るために伝統を修正する、新しい作品である」と述べる。同様に印刷された本も、遅ればせながら登場したデジタルによって、異なる存在となった
第1章 本を印刷する
Ø ウィンキン・デ・ワード Wynkyn de Worde (?~1534)
1492年、ロンドンのレッド・ペイル点で印刷された本。片面づつ印刷された2ページの、ボロボロに破れて不完全に補修された脆い断片。『礼儀作法の書』という、子供向けの道徳指南書。この印刷業者がウィンキン。「デ・ワード」は出生地を示し、オランダのヴァールデンである可能性が高い。40年に渡って本作りに励んだが、最大の功績は、英国で初めて印刷機の可能性を世に知らしめたこと
1450年頃、グーテンベルクが既存の金属加工技術と、ワインや紙の生産に使用されるスクリュー・プレスの技術を新たな目的に転用して始めた活版印刷を学んだデ・ワードは、まだ見ぬ読者の欲望や願望を理解できる人物で、印刷の普及力を知っていた
英語のベストセラー本で新たに幅広い読者を獲得。特に1499年の『東方旅行記(マンデヴィルの旅行記)』を印刷本として出版したのが成功のカギとなる
ほかにも多くの人物が印刷の歴史に関わっている
1481年頃、ケルンから活字と印刷機を運んできたのが、オックスフォード初の印刷業者テオドリック・ルッド
デ・ワードの雇い主で英国初の印刷業者ウィリアム・キャクストン
イングランドの法律は、これら外国の技能の必要性を認識、1484年に外国の商人を規制する法律が制定された際も、例外として、書籍業に関する外国人労働者は認められた。ただ、一旦地元の労働者が技術を習得すると、1529年には外国人の印刷所を締め出し
デ・ワードの本作りは2種類。1つは新興の一般書市場文化で、不特定多数の読者を対象とした。もう1つは、中世後期の貴族や王族が後援する文化で、個人の強い好みに基づいて本が作られた。人の欲求に対する鋭い感覚により、ラテン語文法書や英詩集等がヒット
リッチモンドとダービーの伯爵夫人でヘンリー7世の母であるマーガレット・ボーフォート(1443~1509)は、ヘンリーを王位に据えるためにリチャード3世を倒した女性として知られるが、本の世界でも有名な存在で、印刷業者と密接な関係を持つ。信仰関係の書籍の購入・出版のため、デ・ワードらと頻繁に接触、多額の支払いを行っている
読者による書き込みにせよ、本の成り立ちを説明する奥付の印刷文にせよ、本はそれぞれの歴史を背負っている。そう感じさせてくれるのが、デ・ワードの本ならではの特徴
ボーフォートが後援して出版された重要な本の中でとりわけ高く評価されているのが、セバスチャン・ブラントがドイツ語で書いた『愚者の船』(1494)の英訳版。15世紀後半の愚行を風刺の対象としており、様々な言語で15版が刊行される
デ・ワードの本の特徴は、同じ木版画が繰り返し使われている点で、種類の異なる愚者でも同一の挿絵が使われている。視覚的な繰り返しは好ましくない手抜きだが、16~17世紀の印刷では一般的だった
デ・ワードの重要性は、「中世英文学の中でも特に重要な作品群をほぼすべて出版した」ことであり、これら作品群の視覚的な繋がりは、文学作品間のリンクを構築し、想像力を刺激する効果を生み出した
デ・ワードは視覚的アプローチの一環として、タイトルページの性格と機能を再構築。中世の写本にはタイトルページはなく、選集の形式をとったので、それぞれの文章の始まりを示すインシピット(「始まる」の意、冒頭の短い説明文、赤インクで装飾的に朱書き)があり、それが後にタイトルとなった。写字した人物についての情報は通常は最後にコロフォン(奥付)という形で提示。写本の伝統が根強く残る文化の中で、印刷業の先駆者としての地位を確立したデ・ワードが手掛けたタイトルページは、新旧両方の特徴を備えた過渡期のもの。デ・ワードはコロフォンで自身を「最も優れた王女にして王の祖母たる奥方様の印刷業者」と称した。女性読者に向けて序文を書き、多くの宗教本を女性読者向けに俗語訳し、女性を重要な読者と位置付けている
デ・ワードの重要な印刷物に「出産帯」がある。本書で繰り返される2つのテーマに通じる存在。第1のテーマは、「印刷業者は本だけでなく、1枚物の印刷物、ビラ、入場券や切符の類も印刷」していたことで、第2のテーマは、「過去の印刷文化は現代とは大きく異なっていた」ということ。出産帯は、出産の危険から妊婦を守るための呪文が英語で印刷されたもの。貴族や王家の場合は手書きが多く、聖遺物のような役割を果たした
デ・ワードはイングランドで初めてイタリック体を使用。ヘブライ語やアラビア語などの入った文章では、木版で補って印刷。デ・ワードの言語に対する幅広い関心は、1500年頃のイングランドの印刷業界が本質的に国際的であったことも示している
印刷業者や文具商の遺言には、未亡人が関与している事例は多く、女性が初期の
印刷文化において重要な役割を果たしていたことが窺える。トマス・モアの妹も、デ・ワードの1,2年後に亡くなった主人は印刷業者
仕事関係のコミュニティが一種の家族のようなものになっていて、徒弟たちは息子であり、同業の印刷業者や文具商たちは兄弟や叔父のような存在。製本師、印刷工、召使い、そして同業者たちは常にデ・ワードの店の近くにいて、拡大してく家族のように忙しく店を出入りしていた
現存するデ・ワード本の多くに、刊行当初の読者たちによる注釈が残されているのは偶然ではない。デ・ワードは手引書や案内書など、小型で携帯可能な本を得意としていたからで、本に残された読者の注釈は、本が時空を超えてその歴史を刻むもう1つの方法
ボーフォートの発注で作られた悔悛を表す説教集は、シオン派修道院の修道女の所有だったことが冒頭に書き込まれている
もう1つの事例は、ブリテンの歴史を扱った『イングランドの記述』で、1535年プロテスタント改革初期の法令に即してヘンリー8世が発布した命令によって、「教皇」という文字をほぼすべての個所で黒塗りにしている。この公的末梢政策の影響は、公文書館や貴重書室のいたるところで見ることが出来る。現存する時祷書(個人が日々使用する祈祷書)の印刷本は、ほとんどの信者が忠実に教皇を抹消していることを示す。ただ、末梢自体はほとんどの場合不完全で、教皇が抹消されたという逆効果を発揮するマーキングとなっている
デ・ワードは、自宅の向かいにあるセント・ブライド教会の聖カタリナの祭壇の前に埋葬されることを願ったが、教会は1940年のドイツ軍の爆撃で破壊され、遺骨は未確認
第2章 製本する
Ø ウィリアム・ワイルドグース William Wildgoose(活動期1617~26)
ワイルドグースは、17世紀初頭のオックスフォードで活動していた製本師だが、個人的な歴史はほとんど不明のまま。ほとんどの製本師たちの名は残っていないが、ワイルドグースは、製本の仕事を通じて、何冊かの現存する有名な本と結びついている
ワイルドグースは1617年、オックスフォード大学のポドリアン図書館の「書籍商(ビブリオポラ)として登録され、10冊の本が製本のため引き渡されたとの記録が残る
オックスフォードでも、本にまつわる初期の文化の担い手は外国人で、最初の印刷業者もケルン出身
10冊の中にあったのが『シェイクスピアの喜劇、史劇、悲劇(通称ファースト・フォリオ)』
19世紀になって画一的な本を工業的に大量生産するまでは、製本は個々の職人の手作業で、ワイルドグースの装飾は控え目で、統一感がある。製本師が名前や住所を表紙の内側に入れるようになるのは、18世紀後半から
本に装飾を施すための道具を金属加工職人などから入手したようで、そのデザインにはアラベスク模様など世界的な影響の流れを見て取れる
『ファースト・フォリオ』は、表紙に留め金がつけられ、すべての2つ折り本(フォリオ)と同様、書棚に鎖で繋がれていた。ポドリアン図書館に入館する際には、本の破損、書き込みなどしないとの誓約をするが、繰り返し使用による摩耗や破損が多く見られる
ポドリアンは『サード・フォリオ』(1663/64)が届くと、『ファースト・フォリオ』は即座に不要と見做され、「過剰蔵書」として地元の書籍商に売却。旧版は新版に置き換えるとの対応は、20世紀半ばまで続いていた
10年前にポドリアン図書館を設立したサー・トマス・ポドリーは、暦本や戯曲などくだらない本を図書館から排除すると指示。当時、英語で創作文学を書くことは漸く容認され始めたばかりで重要な文化的変化だったが、英語劇を印刷出版することはさらに評価が低かった。ボドリアン図書館がシェイクスピアを研究に値する作家と見做して、早くから体系化して蔵書を整備していたのは注目すべき。同時に製本された他の9冊がラテン語で書かれた深遠な信仰書やアリストテレス哲学の大判本だったことからも分かる
1905年、ハロー校出身でモードリン・カレッジを卒業したばかりの愛書家ターバットが、自らの私設図書館に200年に渡って保管されていた『ファースト・フォリオ』をボドリアン図書館に持ち込む。表紙の裏側が印刷されたキケロの著作のラテン語版から取られた古紙で覆われているのを見て、ワイルドグースが同時期に製本した他の3冊を確認したところ、同じ古紙が使われていたのを確認。ほとんどの『ファースト・フォリオ』版は1775~1950年頃にかけて敬意の表れとして豪華に装幀し直されてきたが、現存する232部のうち、ターバット家のものと同じ古紙を裏張りしているものは他に2部しかない
ボドリアンの図書館長が買い戻すための募金活動を主導、ターバット家の愛国心に基づく協力もあって、「裕福なアメリカの収集家」の手に落ちることを食い止めることが出来た
作品は戻ったが、ワイルドグースという1個人の感性は不明のまま
第3章 本を切り貼りする
Ø メアリー・コレット Mary Collett(1603~1680)
Ø アンナ・コレット Anna Collett(1605~1639)
ワイルドグースと同時代、異なる本の製作方法をとったのがコレット姉妹。印刷本の聖書をナイフやハサミで切り刻み、混ぜ合わせ、順序を変え、内容を増補して、新たな聖書物語を世に出した。彼女たちは「ハーモニー」と呼び、後に「コラージュ」と呼ばれた
1642年、英国王チャールズ1世は息子と共にケンブリッジ郊外の礼拝堂を訪問。清教徒革命委で処刑される5か月前のこと。新約聖書であることを確認して読み始めた。『神の全法』と題された本は高さ75㎝、幅50㎝、重さ23.5㎏。旧約聖書のモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に示された原則を、後のキリスト教社会にどのように適用することが出来るかを説明するもので、新訳と旧約の関係を研究し、旧約の律法のうち、どの法を維持すべきか(例えば偶像崇拝の禁止)、どの法を改訂・廃止すべきか(聖職者の特別な服装など)を解明するための本。類型論(タイポロジー)の作品とも呼べるべきもので、旧約聖書の物語や登場人物を後の時代の先駆けと見做す読解方法をとり、「王のためのペンタトゥーク(モーセ5書)」だった。5書の本文をはさみやナイフで切り取り、並べ替えられ、さらに他の印刷物などから切り取られた多数の印刷図像が貼り付けられていた
1625年、ニコラス・フェラーは成功した社会を捨てて、リトル・ギディングに一族で結束の固い宗教的コミュニティを築き上げた。フェラーの姉の娘がコレット姉妹。本を切り貼りで手作りする作業は、礼拝の際に暗記を実践的に補助するためのもの。チャールズ1世は1646年にも戦いに敗れた後1人で再訪。T.S.エリオットの詩『リトル・ギディング』に登場する「傷ついた王」その人
コレット姉妹や親族たちが制作した本は『聖書に基づく”ハーモニー”』で完全な形で現存するのは13冊。姉妹はまず4福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を、時には単語に至るまで細かく切断、テキストを再構成して、キリストの生涯を年代順に描く150章の物語に仕立て上げ、主に外国から取り寄せた印刷物から図画を切り取って貼り付け
4福音書にあるキリストの生涯に関する4つの異なる記述を調和させるのが目的
姉妹とも貞潔の誓いを立て、祖母メアリーが高齢で退いた後は、孫娘のメアリーが共同体の「母」としての役割を果たす
宗教書の破壊は、深刻な文化的タブーであるが、17世紀のプロテスタント主義の性格からすると、信徒が聖書を一語一句疎かにせず読むことを奨励、読書は一種の闘争。ページを頻繁にめくったり、書き込みをしたりすることが原因で紙面が痛むことが多く、純粋な信仰は必然的に痕跡を残すという逆説的な信念を表している。このような文化の中でリトル・ギディングでの聖書の切り貼りが行われた
印刷は文書の固定化・安定化という概念と結びつきやすいが、初期近代の文化における本の扱い方には一貫性がなく、印刷された本に平然とハサミを入れることもあり、極めて日常的な読書の形であることを示す
1936年、ケインズの要請でケンブリッジの博士論文審査に来ていたT.S.エリオットはリトル・ギディングを訪問。9年前に英国国教会で洗礼、’30年には英国籍を取得。熱烈な王党派で、殉教王チャールズ協会の終身会員。チャールズ1世がこの地を訪れた物語にも強く惹かれていたが、最大の理由はニコラス・フェラーと親しかった詩人のジョージ・ハーバートに魅了されていたこと。エリオットは、「自分はハーバートのミニチュアにすぎない」と思っていたようだが、訪問の6年後、長編詩『4つの四重奏』の第4の詩篇として「リトル・ギディング」を発表。6年前の訪問を題材に、タイムワープ的な詩へと昇華させたもの
エリオットは、ハーバート、ニコラス・フェラー、チャールズ1世に心を奪われたが、コレット姉妹については全く知らなかったようだ
エリオットの詩の冒頭では、1642年のチャールズ1世のリトル・ギディングに抱いたであろう印象が謳われている。そこは、人里離れた、無数の旅路の終着点なのだ
第4章 本の活字を作る
Ø ジョン・バスカヴィル John Baskerville(1707~1775)
Ø サラ・イーヴス Sarah Eaves(1708~1788)
18世紀バーミンガムの著名なタイポグラファーであり本の製作者だった夫婦の物語
ケンブリッジ大図書館の歴史的印刷室には、18世紀半ばにバスカヴィルが製作した左右が反転した鏡文字が浮き彫りになった活字父型があり、父型を製作するための活字母型があって、錫、鉛、アンチモンからなる活字合金を注ぎ入れるようになっている
活字製造技術は親方から弟子へと口伝される秘匿技術で、バスカヴィル活字父型もイタリックやローマン体などの書体と6~60ポイントの大きさがあった。本人の死後妻のサラはフランスの劇作家ボーマルシェ(『セビリアの理髪師』などの作者)に売却、ボーマルシェはこの活字を用いて、全168巻のヴォルテール全集を印刷。その後活字の存在は不明だったが、1953年所有者の活字鋳造所からケンブリッジ大に寄贈
バスカヴィルが本を印刷したのは50歳を過ぎてから。習字の教師に始まり、金属製品や家具に漆やニスを塗って、黒色やべっ甲模様の堅牢な表面装飾を施す技法ジャパニング技術の草分け。書字と装飾金工の経験を活かして印刷分野に転向。光沢があって乾きの速い黒インクを開発、書誌学的にも卓越した成果を上げた
印刷を手掛けた本は、ウェルギリウスやホラティウスに始まり、17,8世紀の著作家の作品まで、すべて古典的で正統的な本。18世紀に印刷技術を独学で学んだもう1人の偉大な人物、ベンジャミン・フランクリンも1760年にバスカヴィルの印刷所を訪れ、刷り立ての本を購入するとともに、ジャパニング製品も手に入れ、その後もバスカヴィルの紙の特性や印刷技法について問い合わせている。書体デザイナーでもあったピエール=シモン・フルニエ(1694~1778)もバスカヴィルのイタリック体を最良のものと称賛
ケンブリッジ大のユニバーシティ・プリンター(大学の印刷部門の責任者)として聖書を制作。その名声は国境を越えて広まったが、それは地元バーミンガムの18世紀における起業家精神に負うところが大きい。バーミンガムを含むミッドランド地方の啓蒙主義運動は、「楽観主義と自由な探求心をもって、物質的繁栄を求める気風」を体現する才気溢れる人々によって牽引されていた。満月の夜に会合を開いたので「ルナー・ソサエティ」と呼ばれ、蒸気機関のワットや陶工のウェッジウッドなどがいた
1662年の特許法は、印刷業者の数と所在地を制限。ロンドンで認可された一定数の印刷所、オックスフォード大学ブリッジでは大学の権限下、ヨークでは大司教の管理下でしか行うことが出来なかったが、1695年に同法は失効し、全国に印刷業者が拡散
バスカヴィルが印刷業に転じたきっかけは、1750年の『ユニバーサル・マガジン』に「活字の彫刻、鋳造、印字の調整技術と、活字鋳造工場の精巧な図解」という記事が掲載されたこと。15~19世紀中頃まで、本の作り方も、活字の製造方法も概ね大きく変わることはなかった。バスカヴィルは、この本を熟読し、独学で印刷のすべてを学ぶ。それを手助けしたのがサラ。前夫との間の子供を連れてバスカヴィル家の家政婦として住み込み、離婚成立後に結婚。そのうち印刷に関する相応の専門知識も身につけ、バスカヴィル没後は自ら出版代理店を名乗る
特にジャパニング事業の成功に関しては、サラの積極的な関与が見て取れる。家庭用品の製造に関する特許を取得、その利益でバーミンガムに広大な終の棲家を取得
20世紀初頭、ロンドンのランストン・モノタイプ社によってバスカヴィルの活字が蘇り、人気が沸騰。文字を入力するとロール紙に穴が開き、それを鋳造機に送り込んで、自動演奏ピアノのようにロール紙の穴を読み取らせて、活字が1つづつ溶融金属から鋳造される仕組みで、ライバルのライノタイプ社が1行単位で鋳造する方式に対し、活字単位で鋳造するため、誤植の修正が容易だった。技術普及のため歴史的書体の復刻に取り組み、ガラモン、ベンボ、ポリフィルス、ベル、フルニエ、中でもバスカヴィルは最も重視
1996年、チェコ生まれのアメリカ人書体デザイナーズザーナ・リッコ(1961~)は、デジタルフォントとして、「Mrs Eaves」を開発(Mrsの後のピリオドを削除して著作権を取得)
儀礼を重んじる教会の正統主義に反発していたバスカヴィルは、遺言で遺体を自宅敷地内に埋葬するよう指示したが、その後非国教徒と関係のある土地や建物が襲われたこともあって、遺体は転々と場所を変え、現在は英国国教会墓地の地下納骨堂に移されている
第5章 本ではないものを印刷する
Ø ベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin(1706~1790)
多芸多才で山ほどの業績を上げた人物の典型例がフランクリン。移民の蠟燭職人のボストンの家に生まれ、23歳で後にアメリカで最も影響力を持つ新聞『ペンシルベニア・ガゼット』の編集者兼発行人となり、電気科学者となってロンドン王立協会の会員になり、ユーモア作家、19世紀以前のアメリカ文学で今日なお読まれている唯一のベストセラー『自伝』の著者、ペンシルベニアの政治家、イギリスによるアメリカ植民地支配に反旗を翻す指導者の1人、避雷針や薪ストーブなど様々なアイディア商品の開発者。一方で、妻の死に際して不在だった夫、役に立たなくなった友人を容赦なく切り捨てる男、表向きは道徳を説きながら、自分の婚外子の母親の名を明かそうとしなかった男、激しい口論に彩られた生涯、名声と評判や世間体と信用への執着、奴隷貿易にも積極的に関与。まさに「現代のプロメテウス」。神々から火を盗み、文明の形で人類に授けたが、その代償としてゼウスに罰せられ、鷲に肝臓を啄まれる。狡猾、善行、影響力、破戒、名声の象徴
そんなフランクリンを育てる培地となったのがインク。印刷業が彼を育てた職業。印刷業の創成期に兄の徒弟として印刷工となる。印刷業の普及とともに、新聞が各地で発行され、印刷業者や出版業者の地位が向上、文芸に通じた知的企業家と呼ばれ、公的な領域で活躍
フランクリンが手掛けたのは、読み捨てられる安価な印刷物で、刹那的な印刷物こそが、フランクリンの文化的な資本となり、名声の礎になっていく
6年ほどでボストンの兄の印刷所を飛び出し、フィラデルフィアに行って総督に才能を認められロンドンに行って印刷技術を学ぶ。その間も植字をしながら、あらゆる学問的なものを本から吸収しながら成長。1728年フィラデルフィアに戻ると自身の印刷所を開業
すぐに共同経営者も追い出して、主要な印刷業者としての地位を確立したが、扱ったのは書誌学者が「端物」印刷と呼ぶもので、暦などの非書籍印刷物であり、贖宥状(免罪符)。教会が数十万枚単位で発注、印刷業者のドル箱になっていた。印刷革命とは、本の歴史のみを中核とするものではなく、海のように溢れるあらゆる印刷物に関する幅広いもの
紙幣の印刷は賛否両論を呼んだが、フランクリンは偽造防止のための模様を刻印
「本ではない印刷物」の代表が新聞。1729年に退屈極まりないと不評の『ガゼット』を買い取ると、フランクリンの文筆力で他紙を圧倒。報道機関は「公益への情熱」発揮の手段として重要だと認識、道徳の向上にも熱心に取り組む。ただ、同時に奴隷売買の仲介者として関与、その関連の広告も積極的に掲載
フランクリンが印刷業で成功の要となった第3の出版物は『プア・リチャード』シリーズの暦本。世界の地理、天文学、気象状況、定期市、祝祭日などを網羅、格言を挿入。最も安価な本を通じて、広範な読者層を対象に、自身が考える徳を啓蒙しようとした。格言だけを約100盛り込んだものは、それだけで各国語に翻訳されて出版、フランクリンが最も多く再版した自著。アメリカでは36回再版、仏語版28版、伊語版11版、独語版3版
フランクリンが理性と資本主義を信じていたことを如実に示すもので、今日の我々がフランクリンの著作を読んでみて、多少なりとも救われる点があるとすれば、それはフランクリンのユーモアと自己認識だろう
フランクリンが印刷業を始めた1728年頃は、活字は全てイギリスやオランダからの輸入品。紙もアメリカ産は安価だが低品質のためイギリスから輸入。フランクリンは、いずれも自国内生産を目指し、1734年には早くも国産の紙を使用。フランクリンの支援のお陰で、フィラデルフィアは19世紀に至るまでアメリカ製紙業の中心地となる
自分の人生、さらには自分の肉体までもが印刷された本であるかのように繰り返し想像を巡らせた。生涯にわたって自己宣伝を得意としたフランクリンは、自分の死のイメージである墓碑銘さえ、好んで友人たちに披露。この墓碑銘の重要性は、「人を本に準える」という長い伝統に関わっている点にある。その伝統の初期の例が1枚の肖像画で、体の物理的構成要素が本や読書に関連した品々で出来ている。「磔刑にされたキリストを愛する見返りとして全人類は永遠の至福を受け取れる」という比喩は、エリザベス朝の作家たちによって見事に展開され、世俗化された。彼等は当時支配的になりつつあった新しい印刷文化に向き合いながら、「本とは何を意味し得るのか」について創造的に思索を巡らせた。シェイクスピアも、人間を本に準える比喩は、根底から破壊する人生を示唆するのに使えると気付き作品に取り入れているが、フランクリンにとっては、自分の苦悩を表現するために使うことはなく、向上、修正、読者、影響といった観点から、自己を語るための言語だった
フランクリンは、「誤植」という言葉を、自分の人生を語るために活用。兄の元を出奔したのは「人生最初の誤植」であり、未来の妻デボラ・リードをぞんざいに扱ったのも「人生における最大は誤植の1つ」だが、後に1730年の結婚によって「可能な限り修正」したという
第6章 本のための紙を作る
Ø ニコラ=ルイ・ロベール Nicolas Louis Robert(1761〜1828)
1828年、製紙業に革命をもたらしたと称賛されてしかるべき人物が貧困の中で生涯を終える。ロベールが発明したのは、機械の回転式ベルトで「連続紙」を生産する技術。長網抄紙機(ながあみしょうしき、実用化に貢献した兄弟の名前を冠してフォードリニエ/リニアと呼ばれる)が切り開いた世界は、19~20世紀にかけて新聞が台頭する一助となり、人間が情報と全く新しい関係を築くきっかけとなった点で重要な存在だったが、ロベールはもとより、その事業を支援した製紙業者や、イギリスに技術輸出した男、実用化に貢献したフルドリニエ社(兄弟の英語読み)も破産。すべては当時の不安定な特許法のせい
紙以前にも、書写のための媒体は存在。2世紀に中国の蔡倫が発明したとされる紙は「原始的な紙」の改良とされる。その技術が751年のタラス河の戦いでアラブ世界へと広がる
原料を天然の桑から人工的なぼろ布へと転換し爆発的に広まり、豊かなイスラムの文筆文化が花開くが、ヨーロッパ世界はユダヤ教と関連付けて軽蔑、長く導入を見送る
ディドロとダランベールの『百科全書』(1751~66)は、「科学、芸術、技術を体系的に記述した」ことを建前とする事典であり、フランス啓蒙主義の中核となる本だが、アラビアにおける紙の歴史については無知
製紙業がヨーロッパに入ってきたのは、13世紀の北イタリア。ドイツ、フランスに広がり、イギリスで初めて製紙が行われたのは1490年代。ナント勅令の廃止を受けてフランスから逃れてきたユグノー(プロテスタントの蔑称)の熟練した製紙職人によって一気に広がる
日本でもすでに8世紀に、酸を含まない紙を生産する製紙工房が活動していた。そのため、当時の紙が黄変することなく、現代に至っても変わらぬ姿を保っている
これほどまでに紙が成功裏に普及したのは、競合する他の筆記媒体よりも大きな利点がああったから。羊皮紙より圧倒的に安価であり、パピルスも駆逐された
紙には、拡散して保存するという、魔法のような力があった。近代の統治機構の情報伝達手段として紙が急速に普及、国家の中央集権化に寄与。特に1556~98年スペインのフェリペ2世は「紙の王」と言われるほど、王権の樹立に際し紙の機能に依存。書面による命令は、王が不在であってもその存在感を示すものだった
ロベールはフランスの砲兵連隊でサント・ドミンゴに派遣され、アメリカ独立戦争ではイギリス相手に武功を挙げる。除隊後著名な印刷業者の下で働き、大勢の職人の名人芸に頼る製紙工程の機械化を思いつき、1798年長尺の紙製造の自動化工程の特許を申請
1800年代の100年間で紙の生産量は100倍となり、価格は1/10に下がる
生産性の向上がもたらした2次的成果は、廉価な定期刊行物の誕生を促す
ロベールは1人で機械を開発し、技術を改良し特許を高く売ろうとしたが、彼の庇護者で雇用主だったフランソワ・ディドと対立、ディドに特許を売ったが、対価は僅か2.5万フラン。それも結局はロベールの手に渡らなかった
1801年、フランソワの息子の義理の兄弟が機械と技術を見て、すぐにイギリスで特許を取得。文具卸業を営むフォードリニア兄弟を説得して投資をさせる。工業化が進むイギリスでは製紙作業の機械化は必然の流れで、1812年にはほぼ現代の形が完成したが、兄弟が期待通りの利益を得ることはなかった
第7章 本に絵を追加する
Ø シャーロット・サザーランド Charlotte Sutherland(1782〜1852)
Ø アレクサンダー・サザーランド Alexander Sutherland(1753〜1820)
本章のテーマは、”Extra-Illustration”あるいは”Grangerisation”と呼ばれる、過激な本の改変。最も一般的なやり方は、主に肖像画などの図版その他の視覚資料をまとめて印刷本に挿入するもの。いわゆる増補行為で、読者が行うもの。本が他のものを入れる容器になると考えられた。その典型は、歴史関連の印刷本を解体、本文に言及されている人物の肖像画を挿入して装幀し直す。結果として、本を著しく巨大化させた
1769年、初めて肖像画を挿入した『イングランド人物伝』を発刊したジェームズ・グランジャーの名をとってグランジャリゼーションと呼ぶ。発刊から5年をかけて数千点の肖像画や図版を貼り込み、36巻の大型本を完成させた
サザーランド夫妻は人生の大半をエクストラ・イラストレーションに捧げた。主役は妻のシャーロット。夫妻は書誌学的には、徹底したマキシマリスト(最大主義者)
大量に刷られた同一版の印刷本を好みに合わせてオーダーメイドした唯一無二の本に変える。書誌学の用語では”association object”と呼ばれ、「特定の人物と結びついた、本あるいは本のようなもの」。印刷の本質に反する行為
サザーランド家はロシアの成功者で、アレクサンダーの兄は宮廷銀行家になったが、不審な冤罪で失脚、その息子も放蕩で家は破産。アレクサンダーはイギリスに移住して会計士として活動。慰みに版画の収集とエクストラ・イラストレーションを始め、シャーロットと再婚。シャーロットも個人で熱心な版画収集家。歴史書『クラレンドン』に夫妻が施したエクストラ・イラストレーションは、グランジャライジングを志す人々の出発点の1つ
夫妻の挿入作業は直解主義(リテラリズム)で貫かれ、何事も文字通り解釈して、名前が出てくればそれに対応する肖像画を挿入するという方法で、解釈的な作業はほとんどしない
その行為は、複雑な問題が絡む。問題の核心は、創造と破壊、敬意と攻撃の間に存在する微妙なバランスである
1630年代のリトル・ギディングではコレット姉妹が独自の聖書を作り上げたし、シャーロット以降も女性によるエクストラ・イラストレーションの伝統を受け継ぐ女性は存在
女性に対する性差別的な非難に加え、本に対する破壊行為との批判が強まり、グランジャライジングのための収集が消費の一形態になりつつあるとの批判
『ホーリー・バイブル』(2013)は、アーティスト・ブックの一例。アーティスト・ブックとは、本という構造を舞台として上演される芸術作品であり、本の物理的形態を保持しながら、それを様々な手法で押し広げ、挑み、あるいはそれを解体することを試みるもの。その目的は、本文を淡々と伝えることではなく、人々の本の読み方や選び方、本についての先入観に対して、異議を唱えようとする。聖書の所々のページに適宜画像が糊で貼り付けられたようにして印刷されている
第8章 本を貸す
Ø チャールズ・エドワード・ミューディ Charles Edward Mudie(1818〜90)
1860年、ミューディ選書図書館で新たに増設した大閲覧室の開所式開催
スコットランド出身の書籍商・新聞取次業者だったミューディ家の末っ子チャールズは、独自の店を開くが、貸本の方が儲かることを知って、当時主流の三巻本形式の小説の1冊にも満たない年会費で小説・ノンフィクションを無制限に貸し出し。遠隔地の読者にも最小限の上乗せ会費で同様のサービスを提供したため、たちまち会員は全国に拡散。'52年までに図書館の会員数は2.5万人を超え、無料配送を行う運搬車の音はロンドンの大英博物館のある典型的な「本屋街」、オックスフォード・ストリートの風景の一部となった
ミューディの貸本図書館は様々な点で、読書に革命をもたらし、その過程において、大いに物議を醸し、同時に謎めいた存在ともなっていった
‘71年までにミューディが取得した蔵書数は100万、’90年には750万に達した。国外の大英帝国領土にまで発送
ミューディの台頭は、英文学が学問分野として興隆し始めた時期と重なる。オックスフォード大やケンブリッジ大では関心が薄く遅れて学位過程を設置(それぞれ1894,1919)したが、ロンドンの諸カレッジでは既に英文学が正式な学問分野として制度化され始めていた
ミューディは、購入図書の取捨選択の過程で、「選定(キュレート)」の名のもとに、特定の本を尊大に排除し、同時に本の多さを喧伝した。これが彼の批判者たちの怒りを買う
読者がいかなる場所にも聖堂を見出せる文化がミューディの貸本図書館なのだ
当時はまだ地方の公共図書館はまだ新しくて不安定な組織で、英国民の誇りを生み出す源ではなかった。1850年のエワート法により、漸く市町村議会が公共図書館及び博物館を設置できるようになった。それだけに、貸本の需要は大きかった
ミューディのビジネスと深く結びついていたのが、いわゆる3巻本(Tripple Decker)という出版形式。経済原理を優先する緊密な利害関係の産物。当時の本の価格は極めて高額で、特に3巻本は人為的に高額に設定され、堅実な労働者階級の週給とほぼ同額、貸本の年購読料より高額(貸本屋は繁盛しても、作家はもっと安くした方が売れたのでは?)。ただし、作家にとっては、”最も無節操な水増し”であり、ヴィクトリア朝の”中だるみ”に繋がる
1巻形式の再販本が手頃な価格で登場すると3巻本は急速に魅力を失い、世紀末までには市場から姿を消し、ミューディの繁栄にも陰り
1879年、後継者修業していた長男が28歳で病死、ミューディに耐え難い打撃を与え、以後の5年で徐々に身を引き、'84年次男が事業を引き継ぐが、事業は衰退
1937年、裁判所命令によって閉鎖。『タイムズ』は、貸本図書館の閉鎖による文化的衝撃を、「国家的制度の消滅」とまで評した
第9章 本を時代に逆行して作る
Ø トーマス・コブデン=サンダーソン Thomas Cobden-Sanderson(1840~1922)
装幀家として約10年活動し、その作品の多くはアメリカの顧客に販売され、今日でも人気の高い英国の伝統的な美装本に対する人気の火付け役として重要な役割を果たす
1891年、ウィリアム・モリス(1834~96)がケルムスコット・プレス社設立。いわゆる「プライベート・プレス」で、限られた市場に向けて、比較的少数部の本を、比較的高価格で刊行する小規模な活版印刷所。工業生産の時代に手動印刷機を使って、限定版の本を中世風の様式で制作(パスティーシュ/模倣)しようと試みた
モリスは、過去志向の美学を構築することで、安価・大量生産・浪費を痛烈に批判し、慎重で忍耐強い男女が高い技能を発揮する人的労働を、理想とする文化の中心に据えようとした。つまり、モリスの本は根本的に、政治に介入するためのものだった
プライベート・プレスの歴史は古いが、1つの「アーツ・アンド・クラフツ運動」として認識されるようになったのは、ケルムスコットの登場以降。ケルムスコットは、7年間の活動中に53種のタイトル、総部数2.2万冊を刊行したが、最も有名で正当な評価を受けたのは『チョーサー作品集』
コブデン=サンダーソンとその印刷所ダヴズ・プレス社が重要なのは、特注された金属活字のダヴズ書体
1896年モリスが死去、'98年ケムスコットが閉鎖されると、蔵書の多くが競売にかけられ、そのうちコブデン=サンダーソンは、落札した1470年代のヴェネツィアで印刷された2冊の本で使用された活字を原型とした活字を設計し、伝統を継承
1917年、コブデン=サンダーソンは多くの時間を費やして、ダヴズ・プレスに関する旧い書簡を破棄。本だけを残そうとした。残された本とは、1900~16年に刊行された40種類の版本で、シェイクスピアやテニスン、キーツ、ミルトン、ゲーテなどが含まれる
1901年、コブデン=サンダーソンは、後に「モダン・カリグラファーの父」と称された書家のジョンストン(1872~1944)に、ダヴズ・プレスの初の本格的な企画となるミルトンの『失楽園』の書体デザインを相談
コブデン=サンダーソンの思想の中核をなすのは、「ユニティ(=統合されたまとまり)としての本」という考え方で、「本を制作するためには、様々な要素を調和させて組み合わせなければならない」とし、本のデザインは「著者を中心に据える」事を根本とすべきと考え、印刷者、デザイナー、活字彫刻師、製本職人などすべての制作関係者が自己抑制的な明快さをもって、著者の構想を世に伝えるべきだと主張
その後資金難から事業は縮小
事業当初から一緒に活字を開発したエメリー・ウォーカーとの「合意覚書」によれば、ダヴズ・プレス廃業後はウォーカーが活字一式を譲り受け、自由に使用できる権利を有することになっていたため、コブデン=サンダーソンはダヴズ・プレスが機械印刷を手掛けることを阻止するため、晩年の10年を費やす。第三者の調停が入って、コブデン=サンダーソンが死ぬまでは活字を自由に使えるが、死後はウォーカーに譲るとしたものの、たとえ死後でも、近代的な機械中心の世界で、ダヴズ・プレスの活字が広範に使用されるというイメージは耐え難く、テムズ川の川底に活字一式を遺贈するとの遺言書を書いた挙句、1916年には自ら「献納の行為」と呼んで活字一式をテムズ川に投げ入れた
2014年、グラフィック・デザイナーのロバート・グリーンがテムズ川の川底を浚う許可を取って干潮時に活字を探し始め、148個のオリジナル活字の回収に成功。グリーンは、発見した鉛活字をもとに、ダヴズ活字のデジタル再現書体を制作
第10章 本を小規模印刷所で作る
Ø ナンシー・キュナード Nancy Cunard(1896〜1965)
キュナードは、アワーズ・プレスという小規模な印刷所の経営者。1930年、無名の才能を掘り起こそうと、詩のコンクールを主催。「時間」を主題とした100行以内の英語の詩を募集、唯一感動したサミュエル・ベケットという若者の投稿した詩を出版したところ、それが契機となってベケットは大作家へと躍進
キュナードは、1930年代になって突然左翼的な政治活動に参加、黒人公民権運動を通じて社会的不正の是正を追求。出版物も黒人の歴史、文化、政治などに関するものが多くなり、フランス語寄稿文の翻訳をベケットが担当
キュナードのアワーズ・プレスは、貴族的退廃と政治的献身という、相反する2つの世界をつなぐ橋となる。キュナードが本の歴史において重要な地位を占める根拠は、このアワーズ・プレスにある。その独自性が研究の対象になるだけでなく、19世紀に始まったスモール・プレスの活動が1920~30年代になって最盛期を迎えた時期の出版社としても重要
ウィリアム・モリスやコブデン=サンダーソンなどのスモール・プレス運動の影響を受けながら、物質的な芸術作品として本を制作することは重視せず、新たなモダニズム作品の印刷を重視。晩年は、自らの意志で裕福な過去を捨て、悲惨な日々に身を置いて死去
かつて社交界のホステスとして名を馳せ、’20年代の退廃の極みを象徴するエキゾチックな人物とまで言われ、エリオットらの小説にもたびたび登場。ヴァージニア・ウルフ夫妻に詩才を認められてスモール・プレスの世界に
ウルフ夫妻は1917年から自宅に印刷機を置いて小規模なホガース・プレスをスタートさせたが、たちまち注文が殺到。スモール・プレスの多くは短命だが、ホガース・プレスは30年続いて527点を刊行、現在でも引き継がれている
キュナードは、1928年に手動印刷機と活字を購入して出版業をスタート
1945年3月、秘密新聞の発行が疑われ、地元の協力主義的な市長が駐留させていたドイツ兵たちによって印刷機が破壊される
第11章 本をさまざまな形態で作る
Ø ローラ・グレイス・フォード Laura Grace Ford(1973~)
Ø クレイグ・アトキンソン Craig Atkinson(1977~)
Ø フィリス・ジョンソン Phyllis Johnson(1926~2001)
Ø ジョージ・マチューナス George Maciunas(1931~78)
Ø ユスフ・ハッサン Yusuf Hassan(1987~)
“ジン”とは、「自費出版・自費配布による非商業的小冊子」
2005年、ローラ・グレイス・フォードは『サヴィッジ・メサイア(野蛮な救世主)』と題するジンZINEの制作開始。コピー機で制作され、非公式に手渡し配布。コレット姉妹(3章)と同様、ハサミと糊で手元にあった印刷物を再構成したが、内容的には左派的で政治的なアクティヴィズムだった。ロンドンの再開発を、ブレア政権と開催が迫るオリンピックとに結びつけて、これを極めて破壊的な計画と断じる
グーテンベルクの贖宥状からフランクリンの広告チラシに至るまで、「本ではない印刷物」という活気に満ちた存在は、印刷史を貫く重要な系譜の1つであり、コピー印刷の薄っぺらなジンとして登場した『サヴィッジ・メサイア』が、訴求力を発揮できたのも、その「本らしくないこと」にあり、可動性と政治的攻撃力を備えていた
ジンにはすでに長い歴史があり、1930年代のSFファンジンに始まり、’70年代のパンク・シーンではDIY的なコピー出版物が人気を博す
「ジンの綴じ糸」となっているのは、「主流から逸脱した存在として独自に執筆・制作・流通される」こと。ジンとは、「社会の隅に追いやられているコミュニティに、自分たちの物語を言語化・可視化するための力を提供する」もの
カットアップ(文章などの素材を切り刻み、並べ替えて新たな意味や表現を生み出す手法)
アトキンソンは、2005年以来すでに950タイトルを刊行。イングランド北西部を拠点に、近過去のモノクロ写真で構成した写真集やジンを編集・出版、文章はほとんどなく、特定の場所や時期に焦点を合わせ、貧困や抗議活動など、様々な疎外の光景を映し出すことが多い。軽くて安価な本を利用することで、ギャラリーという煩わしい文化を回避して、従来型の美術展には足を運ばない観客に幅広くアプローチ
『アスペン』は、編集者でありジャーナリストのフィリス・ジョンソンが1965年創刊し、ニューヨーク市のロアリング・フォーク・プレスから刊行された雑誌。「世界初の3次元マガジン」。各号は箱の形をとり、様々なメディアとプロセスで、個別に制作・製造されたものが収められ、それを組み合わせて照合する
箱は、ある程度の統一性、テーマ別特集号を可能にしつつ、その内部では流動的な雑多さを許容する。刊行が不規則のため、米郵政公社は新聞・雑誌に与えられる第2種郵便物の認可を取り消したため、郵送費を負担できずに『アスペン』は10号で休刊に追い込まれる
1964年、マチューナスというリトアニア系アメリカ人が、16ページからなる「空白の本」を出版。一文も印刷されていないが、各ページはくしゃくしゃにされたり、汚され、糊付けされ、破かれ、筋を入れられ、ゼムグリップで挟まれ、折り曲げられている。題名にあった「フルクサスFLUXUS」とは、ブレヒトやオノ・ヨーコら国際的な芸術家、音楽家などの共同体の名称で、'62年頃にマチューナスの呼びかけで結成されたものだが、組織化されていない国際的なムーブメント。芸術を無制限に大量生産して、すべての人が入手できるものにすること、そしてやがては全ての人によって生み出されるものにすること
ブラックマス・パブリッシングは、2019年頃ユスフ・ハッサンによってニューヨークで設立され、それまで出版業界が黒人の芸術家、作家などの作品を発表していない状況を是正するためのプロジェクト。同社の刊行物の多くは、アーカイブの写真と詩や散文を組み合わせた、アフリカ系アメリカ人の文化の諸相を省察する内容。発行するジンに通底するのがジャズで、ジャズは本づくりにおいても即興、変化、流れ、瞬間的芸術性を可能にする
1960~70年代のブラック・アーツ・ムーブメントから着想を得ている
エピローグ
本に出来ることの1つは、時間的な架け橋を明確に言葉にすること。本は過去へ、過去へと遡ることが出来る。そうすることで、過去の読み手や作り手たちを、私たちに繋ぐことが出来る
歴史的な名著が、添え書きや書き込みによって、歴代読み継がれた軌跡がわかると同時に、人と人を結び付ける「モノ」であり、その遍歴を証言する文書でもある。書き込まれた名前のリストが示唆するのは、自分だけのものとして本の所有権を主張することの浅ましさ、虚しさで、本は所有者の手を離れて立ち去っていく。本は常に我々を超える存在であり、我々にできる最善のことは、ただ本が自分の手を通り過ぎてゆくのを感じ取ることだけ
なぜ本は永続するか。本の持つ複雑さと美が、文章を読む行為を豊かにする
本とは、表現する物体であり、それ自体が感情の幅を持っている
本書は、物理的で形ある「モノ」としての本の物語。デジタル技術の時代になっても、物理的な「モノ」である本は、電子テキストとは異なる命題を提示している。5世紀半に渡って、本は常に「テキストを支える物理的な基盤」としてのアイデンティティを保持してきた
植字工から詩人になったウォルター・ホイットマン (1819~92、米文学において最も影響力の大きい作家の一人。エミリ・ディキンソン(1830~86)と並びアメリカ独自の詩の創始者と見做され、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる)の、「小さきものの潜在力」をテーマにした『A Font of Type(“一揃いの活字”の意)』では、活字の持つ潜在力を示唆。活字こそが潜在力そのもので、未だ「解き放たれぬ声」をこの世界に呼び出す手段なのだと訴える
訳者あとがき “Book
Maker”たち紡ぐ”Book
Reader”たちの絆
「本」とは、手に取ることのできる物質であって、電子書籍は重要な媒体ではあるが、「本」とは別物なのだという
著者が語るのは、太古から本作りに携わってきた、無数の光点のような人々の物語
本は、人と人を結び付ける「モノ」であると同時に、書き込みを通じて、その遍歴を証言する文書でもある。本は常に我々を超える存在であり、我々にできる最善のことは、ただ本が自分の手を通り過ぎてゆくのを感じ取ることだけ
原書房 ホームページ
書物の発展の歴史
グーテンベルクからZINEまでの
出版、製紙技術、製本やタイポグラフィー……
印刷、出版の歴史に貢献した知られざる人々と書物の発展の歴史。希少図版多数。
----------------------------------------------------------------------
これは本についての本であり、本を作った人々についての本である。
----------------------------------------------------------------------
グーテンベルクからZINEまでの出版、製紙技術、製本やタイポグラフィー……「本作り」の変遷の長い歴史を、印刷・出版の発展に貢献した18名の人物を通して掘り下げながら紹介する書物の発展の歴史。希少図版75点収録。
好書好日
「本作り500年の歴史」書評 物としての書籍が織りなす物語
評者: 古田徹也 / 朝⽇新聞掲載:2026年08月08日
本作り500年の歴史: 本の印刷からZINEカルチャーまで著者:アダム・スミス出版社:
「本作り500年の歴史」 [著]アダム・スミス
本書は、本に記された内容ではなく、本という物それ自体をめぐる、西洋の近世以降の歴史を追うものだ。ただし、そこで描かれているのは、活版印刷技術の普及によって次第に幅広い層に本が行き渡り、最終的に電子書籍に移行して消えつつある、という単純な技術的進歩の物語ではない。むしろ、本が物理的存在であるからこそ、きわめて多様で複雑な物語が紡がれてきた次第が、詳しい実例とともに浮き彫りにされている。
たとえば、手書きの本とは違って印刷された本は厳密な複製であって、同一の版では同一の内容が保持される、と思えるかもしれない。しかし実際には、本にハサミを入れて切り貼りしたり、図版を新たに挿入したりして、別の本に仕立て上げるということも行われていたし、各ページに注釈を書き込むための広い余白を設ける本も多かった。つまり、読者がカスタムすることを前提にしていたということだ。
また、19世紀に画一的な大量生産が席巻する以前は、読者は印刷された紙の束を購入し、それを好みの職人に製本させるのが一般的だったという。そこで職人たちは、綴(と)じ加工から装幀に至るまで、技術を磨いて工夫を重ねてきたし、その遺産は今も受け継がれている。本書を通じて、小規模の物作りが織りなす印刷本の歴史を振り返ると、現在のZINE文化の可能性についても示唆が得られるはずだ。
そして、本書のもうひとつの魅力は臨場感だ。本作りに使われる多彩な備品や道具たち、現場にただようインクや油や人間のにおい、印刷機のプレスの音、パルプを浸した水の冷たさ━━。専門の分野に深く通じた歴史家には、一個の世界が細部に至るまでありありと立ち現れている。それを描き取る筆致を跡づけるうちに、私たちもその世界に招き入れられ、想像を豊かに膨らませる。本書のような充実した歴史書の醍醐味は、この点にもあるだろう。
◇
Adam Smyth 英オックスフォード大ベリオール・カレッジ英文学および書物史学教授。16~17世紀の書物が専門。
◇
村上彩訳
本作り500年の歴史 アダム・スミス著
出版史と人生 豊かな重なり
2026年7月11日 日本経済新聞
読み物としても大変おもしろい出版史の本。グーテンベルクが活版印刷術を発明した15世紀から現代までをたどる。
いくつか特徴がある。まず、モノとしての書物に焦点を当てていること。印刷や活字、製紙、製本などについても書かれているが、出版の主流とはいえないような特殊な本についても章が割かれている。なかには「これも本なの?」と驚くようなものも。
そして、それらの書物を作った人びとを、いきいきと描いている。まるで現場を見てきたかのよう。原著の副題を直訳すると「18人の注目すべき人生に見る書物の歴史」という感じか。著者はオックスフォード大学教授で、原著は2024年、英国で出版された。
第1章は英国に活版印刷を持ち込んで本を普及させたオランダ人、デ・ワードについてのお話。彼のすごいところは、その出版物の多様さだ。王侯貴族向けの高尚な本を出す一方で、大衆向けのさまざまな本を出して大ヒットさせた。まるで500年前の「ひとり総合出版社」。作ったのは本だけじゃない。「出産帯」という安産祈願のための印刷物も作っていた。
印象深いのは、変わった本とその作り手たちだ。17世紀、メアリーとアンナのコレット姉妹は、既刊の四福音書をナイフやハサミで切り刻み、順序を変え、貼り合わせ、新たな聖書をつくり出した。彼女たちより150年ほど後に生まれたサザーランド夫妻も、既製の本を解体して、その本で言及されている人物の肖像画などを挿入して装幀し直した。本を作るのは出版社だけとは限らない。
近代の本の大量生産大量消費に背を向けて、手動の印刷機で少部数の本を作る人びとも登場する。作家として知られるヴァージニア・ウルフと夫レナードによるホガース・プレスや、ナンシー・キュナードのアワーズ・プレス。最終章には、本そのものを作品として表現するアーティスト・ブックを作る芸術家たちや、コピー機とステープラーでZINE(ジン。自費出版・自費配布による非商業的小冊子)を作る現代の人びとも登場する。ちなみに、いま日本のあちこちに増えている独立書店でもZINEは大人気だ。
紙の本なんて時代遅れ? いやいや、無限の可能性があります。
《評》ライター 永江 朗
原題=THE
BOOK‐MAKERS(村上彩訳、原書房・5280円)
▼著者は英オックスフォード大の英文学・書物史学教授。
『本作り500年の歴史 本の印刷からZINEカルチャーまで』アダム・スミス著(原書房)
2026/06/26
15:20 読売新聞Online
通史に埋もれた話満載
評・奈倉有里(ロシア文学研究者)
◇Adam Smyth=英オックスフォード大の英文学および書物史学教授。特に16~17世紀の書物が専門。
本作りの歴史についてある程度は知っているつもりの人も、ぜひ手にとってみてほしい。500年前の移民の印刷業者から、自作の非商業的小冊子を即興で作りつづける現代人まで、有名無名、老若男女、出版業態を問わず、20名近くの人生と生活に密着することで、通史とは一味違った「本」の歴史が見えてくるからだ。
私たちが普段デジタルと対比する物質として思い描く「本」は、確固たる形を持ったものとして想起される。しかし本書を読むとまずその印象が変わる。製本されない紙の状態で売られるのが一般的で、しかもハサミやナイフで好き勝手に図版や文章を切り取って組み合わせ、オリジナルの聖書や歴史書をめいめいが作っていた時代もある。また、本ではない形態の印刷も見逃せない。米国の政治家・科学者・作家ベンジャミン・フランクリンは印刷工から身を立てたが、彼が主に手がけたのは、広告や宝くじなどの端物印刷だった。
他方で、知られざる製本職人がいかにシェイクスピア最初の戯曲集を装丁したかや、50代で印刷業に転じた男が美しい活字を考案した話、ロール状の印刷紙を発明したのは誰だったのかなど、本好きを魅了するエピソードも満載だ。特に、20世紀初頭、時代に逆行してあえて手作りの書物制作を選んだコブデン=サンダーソンが、自社の活字が機械印刷に流用されることを恐れて約170回往復してテムズ川に活字一式を投げ捨てた話には、鬼気迫るものがある。
本の歴史は、写本から印刷へ、デジタルへ、と一方向に進歩していくものではない。本は時間の流れを緩やかにし、複数の時間の層をもつ。姿を変え、人の手から手へ渡り、逆境をも刺激として取り込んでいく。本作りがいかに多様性と柔軟性、可能性を内包しているかを感じとると、これからの本作りにも希望が湧いてくる。読めばあなたも、さっそく本を自作したくなる……かもしれない。村上彩訳。(5280円)
読書委員プロフィル
奈倉 有里( なぐら・ゆり )
1982年生まれ。ロシア文学研究者、翻訳者。『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』で紫式部文学賞、『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』でサントリー学芸賞。著書に『ロシア文学の教室』『文化の脱走兵』など。
コメント
コメントを投稿