子規全集第8巻 少年時代創作篇 正岡子規 2024.9.11.
2020.11.1. 子規全集第8巻 少年時代創作篇 (非売品)
著作者 故・正岡子規
発行日 大正13年12月25日 印刷 12月30日 発行
発行所 (資)アルス 発行者 合資会社代表者 北原鐵雄
Ø 少年時代詩篇 (明治13~16年)
五言絶句、七言絶句
Ø 無何有洲 七艸集
F 蘭(ふじばかま)之巻
墨江戊僑居記 ⇒ 戊子(1888年、子規21歳)夏の日記(漢文)
「記小景1~6」(ただし5だけは「記景小五」となっている(誤植?)
F 萩(芳芽)之巻 ⇒ 墨江戊僑居雑詩と題する五言律詩・七言律詩(其1~14)
F 女郎花の巻 ⇒ 和歌集
「牛嶋神社のまつりの日よめる」と題して、「みやしろになる鈴の音にあけて行く日はうららかや春ならねとも」
F 芒(すすき、尾花)のまき ⇒ 俳句集
晝寐してゐれは小舟の通りけり/舟てくる友もありけり夏座敷/朝顔や日うらに残る花一つ
F 蕣(むくげ/あさがお)のまき ⇒ 能の脚本(?)
F 葛の巻 ⇒ 文学論(?)(漢字・カタカナ)
我が国の言語文字は幾星霜の間にその意義を変換するものが非常に多いが、それは風俗習慣の変遷からくるもので、言語の変遷を知ろうと思えば、その国の歴史や風俗習慣の変遷を知らなければならない
F 瞿麥(なでしこ)の巻 ⇒ (初の方切れてなし)第4齣(こま?)秋の風
墨田の渡し場で乗った船の中で渡し守の舟人から、連れ去られた子を追って都から来たという狂女の話を聞かされ、在原業平も同じ渡し舟に乗って都鳥の歌を詠んで以来、此地を言問が岡といい、かつて住みにし処を業平町ととなえ、隅田川は都鳥の名所となって今に伝える
『七草集』を読み給へる君だちにまをす
おのれ去年の夏牛嶋長命寺にかりやどりしぬ。「日々墨田に耳を洗い都鳥を友として何をかなしつる。向嶋の土産はありやなしや」と問われなば何と答えん。せめて硯の水をまきちらし禿筆(きれふで、自分の文章を遜っていう語)の先に実もなき花を咲かせしも肥料(こやし)の足らぬ培養(つちかい)によく生い立つべき様もなし
薄(すすき)、女郎花の2くさはまだつくりかたもよくは知らで、その花を咲かせんとはかたはらいたしとの御咎めあるべけれど、そこが園主の好奇心なればひとえに御見ゆるしのほどを願う。朝顔(蕣のまき)は謡曲に擬したるまでにて全く眞のものと同じわけにはあらず。葛はよく古事(ふるごと)を調べもせで、いい加減に法螺を吹くとはいわなくとも御承知ならん。又なでしこは小説の仮面をかぶれるものから、もとより小説にはあらずかし
はじめより此集を七草集とはいうものから、去年の夏つくりしは5巻のみ(刈萱の巻は七草の外なれば除く)、去年の末に葛の巻をつくり今ようよう撫子の巻をとぢそえ其数だけはみつれども、其ながめは変りたることもなし。願わくは広大の知恵と無量の慈悲を垂れたまいて七草園の仮のあるじ、まだ悟も得ぬ1凡夫の手いれの花を扶け給えや、君だち
明治20歳あまり2とせの5月のついたちという日真砂町常盤會寄宿舎の2階の窓に花散りし木々の若葉を眺めながら雲雀の囀(さえずる)をききて 常規凡夫(子規雅号)しるす
F 刈萱(かるかや)のまき
この世の中は疑いの世の中なり。からくにの諺にも李下の冠瓜田の履という。蓮葉は泥の中よりはえいづれども濁りに染めねば唐人は花の君子と説き天竺にては極楽にあるうてな(蓮の花の座)もこの花と思えるなり。皆見る人のひが心のみ
おのれこの夏の休みに静かなるところを尋ねて三伏(7月中旬~8月中旬の気候)の熱を凌がんと友達とはかり墨田の堤の月香楼を借りて住まいきが、何となく頭脳みだれて心地わずらわしくなりぬ。書を読まんとすれば頭重きにて理解できず。折から学校に事ありて始まる日の延びければそを幸に又20日あまり墨田の川を眺めけるこそうたて(嘆かわしい?)けれ
都より友おとずれて様子を聞いてきたので症状を話すと、早くここを出た方がいいという。「君のいたつきは思っているのと違う(華街の中で心が落ち着かない?)」と言われればうちけすにはさるあかしもたちがたし。疑をうくべき地にたちたる故にうたがいも受けたるなり。たといいたつきなりともながいせしこそ身のあやまちなれ。しらぬうちこそ是非なけれ、一たびあやまちを知りたる上は一日もためらうべきにあらず、いざ墨田のけしきも今日を限りと思えばいとどあわれの催されて都鳥に暇を告げぬ
世の中になき名のたつや都鳥鳥に問へかしありやなしやと
いかにせんうき名を流す墨田川すみたる水もにこるならひを
Ø 子規子
老子、『老子』を著す、『道経』『徳経』を著す。荘子、『荘子』を著す、『逍遥遊』など数十篇あり
子規子、『子規子』を著す、『喀血始末』『血の綾』『読書弁』の3篇に分つ。各篇の始めに序したれば総序を書かんとするに辞なし。乃ち古人を借りて余に代りて啼かしむ
ほとゝぎす啼きつるかたをなかむれはたゝ有明の月そのこれる
今さらに山へ帰るな時鳥声のかぎりは我宿になけ
一声は月かないたかほとゝぎす
喀血始末序
一群の鬼余に一封の書を渡す。閻魔大王よりの召喚状なり。余惘然為す所を知らず。閻魔の法廷に入る。門外黒暗に地蔵尊に逢い、教えに従って進むも千仞の壑底に落つ。喀血すること夥しと見て夢覚む。尋問の次第を記して喀血始末と云う。伏して宣告の日を竢つ
明治22年9月上旬 子規生識
喀血始末 判事 閻魔大王、立会検事 牛頭赤鬼、馬頭青鬼
閻魔「其方の病気につき取り調べをする。其方の姓名は」
被告「以前は蒲柳病夫といったが今日ではもっぱら子規生という。ある友達が都子規(つねのり)とつけてくれた。丈鬼という名は鬼貫(上嶋、東の芭蕉、西の鬼貫)から取ったもの。職業は書生、食ったり寝たり我儘横着をいう者。父の死因は酒と討死、大方脂肪変化。近親者に肺病を病んだ者はいない。喀血したのは本年5月。旧暦卯月にて時鳥の句を詠み子規という名も此時から始まる。病のもとはすべて金にあり、貧家に生まれたのが自分の不幸」
読書弁自序
出師表(すいしひょう、諸葛孔明が皇帝に奏上した文書)は君の為に作り陳情表は親の為に作り読書弁は我身の為に作る。君の為にす、故に忠となる。親の為にす、故に孝となる。我身の為にす、故に得手勝手となる。然れども3者只々情に基づくのみ。此弁情を説き併せて情の理を説く。是れ表と弁との差なり。是れ1000年前と1000年後の差なり
明治丁丑(己丑の誤り?)仲夏 子規生識
読書弁
大凡1個の人間の欲には一定の分量ある者と思わる。欲も千差万別だが、各種の欲心には消長盛衰あれどその総体の分量は固より変わらず。各人の分量も通例の人間は略々相同じき者と思惟する。色欲の大なる者は所謂放蕩書生の類にして、読書欲の多きは勉強家の類なり
色欲が増えれば読書欲は減り、読書欲増えれば色欲減る。両者は同時に許さるべからざるは勿論なり。只々恠(あや)しむべきは色情無きが如く見ゆる人あり、名誉心は殆ど消滅したるかと思わるる人あることなり。種々の欲心の内に潜んで現れざるものと、外に出て盛なる者との区別あることなり。内伏外顕の原因は、固よりその人の性質習慣境遇によるものなるべし
扨自分は、どちらかというと読書家の部類に属するが、それは性質というより貧家に生まれた境遇であり、習慣によるところが大きい。多情/多欲の方で、欲の9/10は生命の欲だが、場合によっては読書の欲のために生命を減消するも構わぬと思う。ただ食って寝て起きて又食うという走尸行肉(そうしこうにく、つまらぬ者、「行尸走肉?」)となるを愧(は)じるものなれば、数年前より読書の極みは終に我身体をして脳病・肺病に陥らしむるとは萬々承知の上なり
明治22年8月15日褥中筆を執りて記す
こゝに消えかしこにできて物質のヘリもせず又加はりもせず
Ø 水戸紀行
自序
紀行には4種類の文体あるが、余の紀行は雅俗折衷、和漢混合、何でもかでも構わず記するもので、冗長と卑俗とに失し此種特得の眞味を欠く多し
半年もたってから書こうと思い立ったのは、此紀行が帰京後1カ月にして病気を引き起こし、其病気が余の一身に非常の変化を来し大切な関係を有する者なれば、其原因となるべき此紀行を記すべしと考えたからだが、当時の手帖を見るに只々数十の発句を記しあるのみ。これを土台に種々の連感より当時を回想しそを記すものなれば、誤謬は多く風味は少かるべし
書き始めたのは明治22年10月17日、書き終えしは同月20日 子規生識
水戸紀行
東京に来てからもいつか膝栗毛に鞭たんとは思いながら、病体のいざと思い立つ折もなく心ならぬ年月を過ごしていたが、今年春10日ばかりの学暇を得たれば、4月2日常盤會宿舎内の友1人を催して水戸地方に旅行をなさんと相談調い翌日出立
3日は、日本の基を築いた神武天皇の此世を捨てたまいし日。同行は同郷の美少年・吉田某
松戸で昼飯、安孫子の先の麦畑と白帆、菜の花の絶景に目を奪われて一句も出ず
利根川を渡ると取手。今までで一番繁華な町。藤代で1泊。ここまで8里
4日は小雨の中を大きな沼を通って牛久へ、さらに寒さに震えながら土浦に着き昼飯。車屋を見て乗ろうと交渉したが高いことを言われ意地でも歩いてやろうとそのあと高台に上がって霞浦を望んで一句。醤油の名所・石岡に宿を定む。まだ梅も散らず、気候が遅い。下総常陸辺りは平地だと思っていたが、思いの外平地少なく、稲田なども岡陵の間を川の如くに縫い居る処多く、我郷里松山の方が余程開墾が進んで豊かなのは奇妙に感じた
5日朝は晴れ上がって屋根には霜が下りている。宿で水戸の宿の紹介を受ける。筑波山を左に眺めながら先を行くが、水戸上市まで2里半になって足疲れてニッチもサッチもいかなくなり、遂に人力車を雇う。友人の菊池仙湖の家を尋ねるが入れ違い。弘道館で烈公の画像を拝し、旧城址を見て(偕楽園の)好文亭に上がり、婉麗幽遠なる絶景を堪能
6日は大洗に行こうと舟に乗ろうと那珂川に下ろうとしたら、足の裏の筋肉が痙攣して動けず。何とか小舟を買いて那珂川を下る。寒いので舟を漕いで見たがうまくいかず
船中の震慄が1カ月後に余に子規の名を与えんとは神ならぬ身の知る由もなし。西行は浮世のままならぬを悟りて髪を落し、直実は若木の桜を切りて蓮生となる、堤婆(釈迦の従兄弟で仏教に違背)が悪も佛果を得、遠藤(文覚の俗名)の恋は文覚となる、煩悩も菩提なり、病気豈悟りの種とならざらんや。かえらぬことを繰り返すは愚痴癡の限りなるべし
川口で舟を降り歩いて大洗海岸へ。水戸まで鉄道が通り、紳士が来ることも多くなって夏に備え料理屋が数軒準備中。群がる車屋を振り切り、歩いて水戸に戻り停車場近くに宿をとる
7日朝早く起きたが、外は大雨。弁当を作ってもらい、びしょ濡れになりながら一番汽車に乗り、昼前に上野に着く。余りの早さにあるきしことのをかしく思われぬ
Ø 水戸紀行裏 四日大盡
四日大盡はしがき
吾此春常州に遊び今また思い立ちて相州に遊ぶ。前には身体健やかなれど後には病の器なり。健やかにして艱難をなめ、病ありて快楽を得たり。水戸紀行は失望と落胆を以て満ち、四日大盡は得意と快楽を以てをわりぬ。彼ありて此なければ苦の妙味を知らず、此ありて彼なければ楽の極意を悟らず、陰陽消長し苦楽相半ばするを以て人始めて浮世の境涯に安んず。水戸紀行と四日大盡と合せ見ば人事ここに備わらん矣
明治22年11月25日 都子規識
四日大盡(草稿)
(大谷)是空子脳病を以て学を廃し大磯に遊ぶ。発句を寄せて来遊を促す
11月21日午後新橋を発つ。此日や天朗に気清く紅葉野に満ちて晒錦の如し。四方山の錦の衣を重ね着するこそ先づは大盡遊びの始めなりけり
是空子の「大磯記走り書」を読んで此辺の地勢と古蹟を知る。ここは53亭の中にて古昔は古余呂伎(こよろき)といって歌にも詠みし名所なり。今は淘綾(ゆるぎ)となりて郡名に変ず。大波打ち寄せ磯を洗うゆえに砂最も美しきゆえか(現・こゆるぎ浜)。「こゆるぎ」を五十の冠詞に使うは磯の意味より転じたるか、或は此地の地名より出でたるか、鎌倉覇府の盛なる頃は此地繁昌を極め烟華の郷なり。虎御前の事は誰も知る処なるべし(鎌倉初期の遊女)。鴫立つ澤の古蹟あれども、、もと鴫立つ澤という名は西行の歌より固有名詞となりたるものにて、今の古蹟というは大淀三千風(江戸期の俳人)が西行を祭りて廬を結びしなりとぞ
今年8月落成の松林館の主人は高崎の人。長脇指の遺風にや、おのづと身体の格好上州風に出来上がりて、どこか侠気を含み足り
是空と共に鴫立つ澤に行き、小さきさびたる石橋の前に2つ3つの碑あり、橋を渡りて案内を乞う。古蹟の由来を聞き、虎御前始めて薙髪(ちはつ、剃髪)の時の木像を見る。崖上に立ちて下を望むに此辺は成程昔は沼沢ならんと思われ、薄蘆などまじりて井の荒れたるなど残る
鴫立ちて澤に人なし秋のくれ
飄然とここを立ち出でて東海道筋を西へと行くに、富士山突兀(とっこつ)として中天に聳え、白雪旭に映じて美しきこといわん方なし。ぐるりの山々は今を盛りと紅葉しゐるにことさら目立ちければ 山々の錦のきぬのあはひより雪の顔出す富士の頂
之を発句に翻訳すれば 山はにしき不二独り雪の朝日かな
畑を通りぬけて北の小山の半腹に上るに、ここもかしこも別荘だらけ
23日午後に至り雨。24日は照が崎に至る。余りの寒さに病体は岩上に立ちかねて家に帰り、午飯後だしぬけに帰京のよしを伝え、引き留める侍女(こしもと)逬どもを尻目に汽車に乗る
Ø しやくられの記
ü しやくられの記 上 明治23年7月6日 大阪中の嶋旅亭に於て書き始める
故郷に帰り母親に謁する時の喜びは何にかたとえん。余は明治16年上京してより隔年に帰省するを例としたが、去年の夏冬と病気のために帰り、今年の夏もまた病気のためと、旅行する程の金なきためと、故郷の藤野胡伯に逢うためと、母に見ゆるためと、道中の勝景を探らんためと、此5原因にしゃくられて終にまた帰省することとなりぬ。しゃくるとは、糸を手で断続的(続けさま)に引く事
高等中学の試験は6月に終わり、7月1日とも2人と共に新橋を発つ。正午に江尻(現・清水)に着いて宿をとる。羽衣の松を尋ねる
翌日正午の汽車にて大垣に達す。養老の瀑布を見ようとしたが大雨にて叶わず。翌日も雨で、養老行きを諦め大阪までの切符を買う。関ヶ原の古戦場を通り過ぎ、草津で念願の名物姥が餅を買う。梅田で友2人と別れ、友人の藤廼舎主人を尋ねる
4日は大阪博物館へ行き応挙の幽霊を見たり。翌5日是空子に見送られて汽車で三宮へ。混雑を見越して、初めて自力で中等車に乗ったが意外にガラガラ。神戸から船に乗るが風烈しく兵庫港で一泊する間に船酔いとなり、汽車で大阪に引き返す。懐中底を払えば花屋に泊まり、是空子に助けを請う。翌日是空子駆け付け、7日は休んで8日に大阪を発し、神戸より船で故郷に向かう。午後我宿に帰れば、母君の恙なきを見て旅の疲れも忘れはてたり
ü しやくられの記 中篇
8月18日、久萬山を目指す。づおこうは藤野古白ほか屈強の若者なり
咽喉を涸らしながら山を越え一泊の翌日は菅生山の寺を尋ねたが焼けて見えず。日没近く耶馬渓にも勝ると言われた古巌屋(ふるいわや、久万高原の名勝)に着く。竹谷に宿を取り、翌20日には海岸寺に詣でる。翌日は久萬町を出て帰る。家に帰れば人皆顔の黒きに驚きて道の暑さを問う。湯あみをすすめられて風呂に入れば4日の疲れを洗い流し心地殊に清々し
ü しやくられの記 下
8月26日夜、今年は上京の道すがら近江の月を眺めんとてかく早く旅立ちぬ。翌日船で神戸へ。船内で石井八万次郎氏(佐賀県人、地質学者、子規と同年)に逢う。コレラの大阪を避けて大津泊。翌朝人力車にて石山寺へ。途中義仲寺参詣。庭の前に義仲と芭蕉の墓が背中合わせをなすも蚣哀れなり。瀬田の橋は昔の如く2つに分かれる。長橋といえば昔は長き橋なりけん、今はこれより長き者の多くいできにけり。三上山も正面に見ゆ。都の富士とも蜈蚣(むかで)山(俵藤太が退治)ともいう。石山寺を過ぎて国分村の山道を登ると芭蕉の住し幻住庵の跡があり、奉納の発句多し。夜逢坂山(大津の西)に行き、御社の杉の木間もる月を眺めて帰る。翌朝宿屋の主人が、それは蝉丸のやしろなりという
三井寺に数日の居をしめんと、観音堂前の茶屋を借り、考槃亭と名づく。明けぬ暮れぬとばかりに日をいつとも知らでありしが、老女に7日となりぬと聞かされ帰路につく
Ø かくれみの
ü かくれ蓑
天人と畜生の相の子に浮世女之助といういたづらものあり。菅笠脚絆に身をやつし気のはらぬ1人旅に出る。三界に家なく、行きつく処を草枕と定め佐保姫(春の女神)をそそのかしての道行、羨む人もなければ胡蝶の追手も恐ろしからず。車と女は大禁物との誓文をたて、から尻馬に昔の日本堤をかし。「山はいがいが海はどんどん。菜の花は黄に、麦青し」
ü 隠蓑日記
明治24年3月25日出立から4月2日までの房総旅行記、漢文
ü かくれみの句集
旅行中に詠んだ句
25日 眼鏡橋にて友に別る ふりかえる顔もかすむや柳原
Ø 手つくりの菜
ü 書友人詩稿後 (明治17年) 日狐狸子謹誌
主に七五調で書いた雑感
ü 写真の讃
明治20年正月に胡蝶園主人の学友が自身の写真を賜りければ御礼として戯れに遣(つかわ?)す
ü 写真の自讃 (明治21年)
ü 川の秋げしき (明治21年)
程なく学校のはじまるとて都に帰りけるが、20日許り経て向嶋に遊びぬ。夏とはことかわり川のながめ何となくものさびしく、そよふく風もいと冷ややかに覚えければ
きのふ迄すゞしといひしあしの葉の風身にしみて秋や立らむ
ü 秋山行
ある日友と飛鳥の山に遊ぶ程に、秋はいたくふけて野山一つらに木々の梢は大方にこくうすくそめ出しつる、これぞ立田姫(秋の女神)が霜のたて露のぬきもて織りなせし山の錦か
ü 新宮へ御移転あらせたまふを祝ぎ奉る文
明治20年あまり2年の1月11日にあらたに造らせられし大宮へ御わたましあらせらるべき詔ありしかば、われ等も打つれて御路すぢに迎え奉る、この日は久方の空も晴れわたりて大御光を隠すべき雲もなく、御堀の松は大君が八千代の色をこめ、むれつどふ鳧(かも)は浪静かにして浮寐の夢いと安かりなん…..
(明治22年1月11日、両陛下は新宮城へ移転。一行は赤坂仮御所から四谷、半蔵門、桜田門を通って二重橋経由宮殿に入られた。昭和20年の空襲で焼失するまで3代の居所となる)
ü 讀神代記
世の諺にいさごの中に珠ありとか、まして物の本を讀みて益なからんやは。我日の本の神代の歴史はいと奇しきこと多く、定かなるくだりをも書き綴りたれば、大方の人はもとより根もなき作り物語と同じ様に見るべけれども、そはいたくまどへるものにて書読むすべも知らぬなりけり
ü 月を見て感あり
月こそ出でたれ、上野の山に遊ぶ。おく深く入りて暗き細道をたどるに、木の間もる月の光はさえわたりて、身の毛もよだつばかりに寒く覚ゆ
ü 常盤会雑誌の後に書きつく (紅葉会課題)
一つらに植ゑならべたる小松の皆同じさまにおひたちて行末たのもしく思はるゝなり
ü 櫻餅 (紅葉会課題)
紅葉会の初会に蛙泡生おなじみの櫻餅を持参して会場にのぞまれければ、これも席上課題の一となれりけり。おのれ夕ぐれまで1句も吐き得ず、心ならずもしとねの中にもぐりこみしが、忽ち柴の戸をほとほととおとなふ者あり
ü 瓢(ひさご)讃
許由の声かしましとて汝を捨てたるは量小さし。顔回の口さみしとて終日汝の腹の中にかくれしは其天地中々にゆたかなり。鯰(なまず)おさへたりとも青雲の志なければ我に用なし。駒を出したりとも將帥の才なければ我を助けず。只々日毎日毎に養老の滝の流れ盡きせずば天地は混沌にかへり我は無欲に至るべし
ü 春の野遊び
いとうらゝかなる春の日に独り野づらにいでゝ、いづこともなくかりくらすにまだのびあへぬ麦の畑にのぼりつおりつする縛り雲雀の声のみ、霞のなかに高く低く聞ゆ
ü 自著案山子集はしがき (新海氏及び余の合著)
春のあした花に酔ふて添臥に胡蝶の夢を驚かし、秋のゆふべ旅路に行きくれて草枕に白露の玉を砕く。冬の夜の寒き寐ざめに蕉翁の姿をまぼろしに拝むといへども、夏の日のさびしき住居に蛙を聞て無明の酔をさますこと難し。笑へや笑へや、俳諧の門にたゝずめども未だ風雅のはらわたをそなへざる案山子の我はがほなるこそをかしけれ
明治23年10月12日夜 盗花葊子規(とうかあんしき、子規の雅号の1つ)しるす
ü ふんどし (明治23年10月紅葉会宿題)
男にてゝらといひ女に二布(ふたの)といふ。東京のふんどしも京都のへこしと変わるこそ下々のものに至るまでのがれ難き因縁ならめ。天下を一家とすれば一家は蝨(しらみ)のすみかにひとしく、因果も目の前と知れば極楽は夕がほ棚の下にあり。敵手(あひて)にしめられ、あひかたにゆるめられて睾丸昼夜を知り、夜這の宿にかたみを残して喜多八昨夜のばけを現はす
ü 時雨記念序 (明治26年10月稿)
17字の天地明けてより連ねし歌の長々しき年月はたゞ空蝉のから衣きつゝなれたるよのつねの風雲花月に言の葉をあやなせども、終に虚々実々の変化を知らざる事殆ど300年、陳腐極まって滑稽に落ち滑稽極まって天地また混沌にかへる。混沌の中物あり、形芭蕉の芽の如し。名づけて桃青(芭蕉の雅号)といふ。桃青更に幽玄の趣を探り高雅の興に遊び深く蘊奥を窮め自ら骨髄を得たり。一たび嘯けば四時折々の草木60州々の山川歴々3寸の掌上に現はれて一毫漏らすことなし。道のへに木槿喰ひ折る野馬、軒の下に蓑うち著たる小猿はいふもさらなり、西施(中国4大美女)が眠りたる象潟(きさかた、秋田の景勝地、芭蕉も句に詠む)の雨淋しく、石吹き飛ばす浅間の野分すさまじく(吹飛ばす石は浅間の野分かな 芭蕉『更科紀行』)、天地晦冥雲湧き龍躍り狐狸も行き魑魅も行き罔両も行く。乃ち心を静めて徐(おもむ)ろに聞けば萬籟寂として唯々古池躍蛙の音を聞くのみ。桃青幻術を使ふ事10年を出でず、終に魂を枯野の時雨に残して彼帝郷に向ふ。三千の弟子亦やうやうに去りて花も匂なく月も曇りがちに百余年を過し、名にしおふ天明の頃空の明るう見えしも(蕪村のこと)一時のまぼろしと変り、世は烏羽玉の闇の中に時雨行き時雨来りてはや祖翁より200年の時雨忌とはなりける。ここに信陽の人雪操居松宇子(伊藤松宇、明治の古俳書収集家)志俳諧に篤く学俳諧に博し。此好機会に遇ふて一書を編み古今に渉りて遍く時雨の魂をあつめ題して時雨記念といふ。われつらつら惟(おもん)みるに一盛一衰は世の常にして循環已まざること四時昼夜の如し。天保以来の風雅は俗人の十徳(羽織?)に残り行脚は机上の空論に属して俳運衰滅の極に達したるを思ふに、今や其気運めぐり来て俳諧は勃然として世に興り斯道は蕩然として春の旭にかゞやくの兆しあり。松宇子の此著ある、又多少の深意なかるべけんや。しぐれよしぐれよ、月花の愚をしぐれよ、風雅の大賊をしぐれよ、点取の宗匠をしぐれよ。枯るゝものは枯れなん、落つるものは落ちなん。しぐれしぐれて終に残る者あるべし。敢えて其名を問ふ
ü 逍遥遺稿の後に題す
志士は志士を求め英雄は英雄を求め多情多恨の人は多情多恨の人を求む。逍遥子は多情多恨の人なり。多情多恨の人を求めて終に得る能はず、乃ち多情多恨の詩を作りて以て自ら慰む。天覆地載の間盡く其詩料たらざるは無し。紅花碧月以て多情を托すべし、暖煙冷雨以て多情を寄すべし。而して花月の多情は終に逍遥子の多情に及ばず、煙雨の多恨は終に逍遥子の多恨に若かざるなり。是に於てか逍遥子は白雲紫蓋(高い山)去って彼の帝郷に遊び以て多情多恨の人を九天九地の外に求めんとす。爾来青鳥音を伝へず、仙跡(せんせき)杳として知るべからず。同窓の士同郷の人相談してその遺稿を刻し以て後世に伝へんとす。若し夫れ多情多恨逍遥子の如き者あらば徒に此書を読んで萬斛(ばんこく)の涕涙を灑(そそ)ぎ盡す莫れと爾か云う 世の中を恨みつくして土の霜
ü 圭虫(水落露石著、子規門下)句集序
雀勧学院に在りて猛牛を習ひしかば(諺、「門前の小僧…」と同意)其声かしましとて糊付婆に舌を摘み切られけん、井出の蛙いつの頃よりか三十一文字の歌詠み出でける浮名世に立ちて名物のひぼしとなり、さる物ずきの人の袂にをさめられしもいかなる業因ぞや。其後風雅跡をたちて其子孫瘦田の水におちぶれいたづらに田螺と肩を並べしを、数百年を経て某に見出され手をついて歌申しあぐると十七字の俤(おもかげ)とは仰がれぬ。こゝに露石子といふものあり、跡を市井の間に混じて心を風雅の境に遊ばしむ。車馬の声に右の耳を塞ぎ絲の声に左の耳を掩ひ自ら数十の蛙を庭前に放ちて其清音を楽む。蛙を養ふこと此人をもってはじめとすべし。今又広く相知れる人の句を集めて1巻となし名づけて圭虫句集といふ。蓋し蛙の知己なり。吾試みに汝蛙に告げん。汝妄りに主人に諂(へつら)ふて啼くなかれ、俳句を鳴くなかれ、俗調を鳴くなかれ、両部の鼓吹を鳴くなかれ、只々汝の声を鳴け、天真は風雅の本意なり
【論文及雑篇】
ü 詩歌の起源及び変遷 (明治22年4月)
ここに云う詩歌とは詩歌俳諧の類の総称。狂歌都々一も起源は同じだが、変遷は異なり除外
詩歌は文章の発達せしものにて、その起こりも文章より新しいとするのは誤り。大凡言語ある国には詩歌あれども、言語ありて文字文章なき国多し。言語は声音の結合にて、結合する以上は調子(ハーモニー)の和合という事起る。調子こそ詩歌の始なるべし。面白きこと感動せしことを調子よく作り、之を歌うに至りて始めて真正の詩歌となる。日本語でも歌の字を詩賦にも吟誦(ぎんしょう)にも用いるのはこの理由による。日本の歌が体をなせるは素盞烏尊(スサノオノミコト)の三十一文字なり。英国・印度にても詩歌なる者は実に文字文章よりも早く世に現れしことは疑いない。文字を知らなくても、詩の口碑に伝わるも怪しむに足らざるなり
英国では14世紀に英国文学の啓明と呼ばれたチョーサーという詩家ありしにも拘らず、文章の世に現れしは16世紀の頃。我国にても神代より以後歌詠む者は多かりしかど、文章の文学として現れしは紀元1600年代の末にして、竹取・源氏諸物語の出でし頃を始とすべきなり
初め詩歌の世に出づるは目前の事の其感情を動かせし者を言語に発するに外ならねば、太古の詩歌は文句も平易に感情も単純に、且つ其材料も己の境遇より得来りし者なるべきは理の然るべき所。世の進むにつれ智力も発達し感情も高尚となるに及んで、詩歌の領分も広くなり、材料も面白くなり、終には長編大作巻を重ねるに足れり
日本に在りては古代の歌の発達せんとするに際し、新に輸入せられたる漢文学のために圧せられ、中古漢学の入り来りており上等社会は皆之を用いることを務め、従って上下の言語は自から懸隔生じ、明治以来は亦洋学の為に多くの変化を受けたり。然るに今の歌人は成るべく古昔の倭語を用いて之を雅言と称し、其他の言葉を俗言と称して之を斥けるを以て、昔は木樵山がつ(賤)よりみるめ(海松)刈る(春の季語)海人(あま)早苗植うる賤の女さへよみ得し歌も、今は雲の上人か、さなくとも朝夕古書に眼を晒す和学者ならではよみ得ぬ様になれり。唯々俳句には言葉の限り広き故、昔より俗人にても之を弄ぶ者少なからず。俳句は字数少なけれども意味深くして遥かに面白し。古池の吟の僅々十七字中に深き意味を含みたるは、山鳥の尾のながながしき文句中に只々一意を現したるとは其面白さ如何ぞや
我国の歌は古より変遷なしと謂うて可なり。若し之有りと謂わば悪き方に変りたるなり。調子だに合えば如何なる体を作り出すも勝手なり
今迄は唐歌も和歌も西洋の詩も皆一まとめにして之を詩歌としてきたが、実際に於て多少の差異なきにあらず。其著しきは倭歌のみは韻を踏むことなし。日本語は1句の終わりには必ず動詞助動詞の語尾か、又はテニハが来るべき組立なる上に、此語尾やテニハは実に其数少くして、到底之を用いては無数に変化せしむる能わざるなり
ü 荘子を讀む (明治24年)
殺気天に漲りて昼猶濛々(薄暗い)たり、而して紅日何れの処にか在る。吶喊(とっかん、ときの声)地を揺るがして夜且寝を安んぜず、而して絃誦の声終に聞く事を得ず。妖星位を争って血雨日に降り腥(しょう、生臭い)風勢烈にして剣花長へに開く、大国小邦を呑み大奸小奸を倒す。臣君を殺す必ずしも不忠ならず、子父を殺す必ずしも不孝ならず
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荘子(そうし、BC369頃~286頃)は、中国戦国時代の思想家で、『荘子』(そうじ)の著者とされ、また道教の始祖の一人とされる。姓は荘、名は周。字は子休とされる。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが日本の学者の習慣となっている。『史記』には「魏の恵王、斉の宣王と同時代の人である」と記録されている。出身地は宋の蒙(現在の河南省商丘市民権県)とされる
荘子の思想はあるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。老子との違いは、前者は政治色が濃い姿勢が多々あるが、荘子は徹頭徹尾にわたり俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢で展開される。軸となる傾向は徹底的に価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い日常生活における有用性などの意味や意義にたいして批判的である。
ü 老子を讀む (明治24年春大学宿題)
天地濛々にして暗く擾々(じょうじょう?)として乱る、血雨顔を撲ち剣花眼を眩す、国に君臣なく家に父子なく名利に走っては妻児を捨て戦闘に臨んでは朋友を忘る、群蠅の臭に就くが如く衆狼の餌を争うが如し。此間に方て孟や荘や荀や列や管や韓や墨や楊や各々其力をふるい其技を逞うし、以て狂瀾を既倒に回さんと欲するもの挙げて数うべからず。然りといえども其学は万世の祖宗となり、其魂は百世の下に廟食し、其名終に四夷八蠻(しいはちばん)に著れしものは孔老の2人なり。蓋し此二人者は其時を同じうし其地を同じうし其志望を同じうし其才徳を同じうす。而して其教を異にするに至ては亦奇なりといいつべし。孔は仁義を経とし忠信を緯とす、老は仁義を捨て忠信を棄て無為これ勉め不言これ主とす、孔子無為の極に至るを期せざるにあらず。只々仁義を以てこれが階梯(てほどき)となすのみ。老子仁義の美を知らざるに非ず、只々其浅にして詭偽(きぎ、)多きを嫌うのみ。孔子の教は石磴(せきとう、石段)を攀ぢて山に上るが如く、老子の道は風船に乗じて天に行くが如し。故に孔子の言は奇を衒せず恠(あやしむ)を語らず、而して其事入り易し。老子の言は変幻恠詭人の耳目を引く、而して其事成りがたし
二氏の説其利害は姑(しばら)く置く、其着眼の高尚なるに至ては、孔子も亦一歩を老子に譲らざるを得ず。孔子は政治家にして老子は哲学者。一は実際に長じ一は理論に長じる。孔子は臨機応変以て其徒を教う、老子は書を著し以て後世を導く。孔子は道徳学で老子は哲学。是に於てか儒者は老者を毀て虚妄とし老者は儒者を罵て浅薄となす。然れども老子の意敢えて世道を乱り人倫を破らんとするに非ず、只々無為の政、不言の教を為し天理人道の自然に任して以て華胥の治(無為自然で治まる理想の政治)を見んと欲するものなり。春秋の世、綱紀壊れ五倫(人の守るべき5つの道。父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)破れること此時より甚だしきものあらず、之を醫するの方、徒に之を直うせんと欲するも益なきのみ。老子則ち極端の説を為して以て人心の酔えるをさまし、世道の頽れたるを囘さんとするのみ
彼天地闇黒の間に出で皎月の大空を照すが如きものは老子なり、電灯の家屋を照すが如きものは孔子なり。血雨剣花の中に立ちて梅花の霜雪を凌ぐが如きものは孔子なり、春雨の万物を育うが如きものは老子なり。縦令(たとい)老子をして孔子に勝る能わずとなすも、孔子も亦終に老子を圧する能わず。嗚呼老子は実に万世の人傑なるかな
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老子は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。
史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。
老子は儒家の説く人倫の道を不自然な作為であると考えました。 人間の決めたルールではなく、宇宙の原理としての「道(タオ)」に従うべきだと考えたのです。 儒家の主張する仁義は、世の中が乱れているからもてはやされるだけだとします(「大道廃(すた)れて仁義あり」『老子』)
ü 源氏物語と枕の草子との区別
藤原の世々にこそわが日の本の詞の花はさきつれ。そが中に一きはきらきらしうさきいでてのちのちの世の末までもかをるは源氏物語と枕の草子という二いろのふみ
このふたまきの同じきくだりは、今より千歳あまりむかし同じみよにいできたり、たよわき上臈のしかもやごとなき君につかえまつりて九重の奥深き大内山のことどもはよくしりつれば、そのかきとどめたることも大かたはこのきわのこまごましきことのみ多かり。もとよりいずれおとらぬ筆のさえによくそのころのさまをものせしかば、読む人もなか空にまい上りていにしえのふりを雲の上に見る心地ぞする。やまと文字にてそのころありふれたる体に綴りなしたれば、言文一致とかいうめることにもあらざめれど、大かたは話す言葉とも似たりしなるべし
ふたつの書のけじめをいえば、しるす事のまことなるとかりなるとなり。枕の草子はおのが見もし聞きもしたりし事を何くれとかきあつめ、源氏物語はなきことをかりにつくりもうけて長き物語をつづりいでたれば、物語はよし野山の櫻の花見たらん如くいづこまでもはてなく面白くながめられ、枕の草子は庭の面に桃櫻海棠など一もと二もとづつうえたらんようにその木その木のおもむきいたくかわりていとおかし。なべてこの物語(源氏)はことごとに深くうがちつればそをよむに夜のふくるもしらで思わずも袂をぬらすこと多く、かの草子はものものに博くわたりつればよみもてゆくにおのづからほほえまるるくだり多かり
この2つの文のよく似かよいたるは其御代のありさま其人の身の上の同じかりしにより、その異なるすぢは其人の心ばえのたがえるによるなるべし。歌をよみ経を誦じ白氏文集さえによくそらんじたるなどみなおなじさまながら、そのおこないのいたくかわりて見ゆるもいと心ある神のみわざよとおかし。このふたまきをならべていづれがまされるといはんはいとはしたなきわざなめれど、強いていえば源氏が勝る。紫式部に草子を書けといえば書くだろうが、清少納言にこの物語作ってといっても受けないだろうが、才のけぢめ(区別)はない
とはゝいかに同し園生にさく花のいづれに春の神ややとると
ü 成務天皇以前の日本文学 (明治24年10月7日稿)
文学とは何ぞ、余の所謂文学は世俗の所謂文学に非るなり。余の所謂文学は符号を以て事物を現わし且其目的は直接に読者に快楽を与えるにあるものなり。符号とは言語と文字、2者を用いる亦其便によるのみ。せぞくのぶんがくでは文字を以て現わし、実用を以て目的とすべしというが、口頭に唱え来りし詩歌も亦文学であり、実用である必要もない
史家は、本邦の文学は応神天皇(15代)の時より起るというが、余は成務天皇(13代)にも文学の光彩爛然たるを認め得るものなり
我国太古の言語は、人名地名詩歌等なり。人名は古代の思想を徴するに足る。我国の風習として勇ある者、徳あるものはそれを表彰すべき美名を負うを以て、人名も亦大いに古代の思想を徴するに足るものあり。且つ其名又譬喩的にたれるもの多く、文学の光彩早くここに現われたりというべし
歌は口調によりて成るものなりといえども、太古の歌は後世の五言七言の歌の如く一定したる者にあらず。古今集已後(以後)今日に至るまで流行する三十一言の倭歌は素盞烏尊の八雲立の御詠より始まるというが、同じ様に様々な音調のものあり。同一の言語を重言するもの多し。和歌は意義によらずして単に音調のみを尊びたればなり。其同音の語を重ねる者は唱え易きと解し易きとによるのみ
上古の歌詩に譬喩多きは万国皆然り。擬人法なるものは西洋文学の独特として人の称する所と思っていたが、大和武尊の歌にも巧妙なる擬人法あるを知る
以上の事実を古事記より取ったが、此他材料とすべきは一の祝詞あるのみ。祝詞の起原には諸説あり、定め難し。祝詞中に用いる言語を見ると、延喜前後の言語とは大差ある所から、祝詞は上古より口碑に伝わりて存せしものならん。然れども考証精確ならざれば文中に引かず
ü つゞれの錦
1. 紅葉会の発会を祝す (明治22年2月12日)
今年2月12日常盤会のやさ男8人、いづれも皆心に錦を飾る腕ぞろい、詩歌俳句は申すに及ばず、端唄、都々一小説のたぐい、何くれとなくおりあつめて襤樓(らんる、ぼろ)の錦と題することとはなりぬ。錦にちなみて紅葉会という名をつけんに詩歌のよるというしゃれにも通いていとめでたかりべしとおのれのいいしに、皆々余りこのましき名にもあらねど外にこれぞと思うものもなければと我説に従いたり
とこしへに散らぬつゞれの錦とはもみぢに似たる鳥の跡かな
2. 雑詩――漢詩
3. 床夏(明治23年5月)――新体詩?
4. をし取物語 (明治22年7月)
はしがき 莞爾生(子規雅号、ほほえむの意)しるす
作者不詳。書き本にて我家にのみ伝わる。紅葉会7月の宿題「石川五右衛門」「不二山」「蛙」「踊」という4題に対し何もできなかった代わりに、宿題の心を含んだ物語として、会稿にとじこむことにした
本文
押取(おしとり)の六右衛門は、生来侠気(おとこぎ)強く人に頼まれると一歩も引かぬところあり。それがたたってか子がなかったため、願かけてようやく男児を授かり、五右衛門と名付け慈しむ。五右衛門は幼少より盗み心を起こし、其技巧みに其義賊の仕事も大なりければ、周囲も尊び誰知らぬものなかりき。同じ村におろちと呼ばれる嫌われ者がいたが、その娘が絶世の美女で若者の憧れの的。五右衛門も狙ったが相手にされず。村の盆踊りの際にうまいこと攫う。2人で暮らすうちに娘も五右衛門と一緒になることを受け入れるが、五右衛門が盗っ人だと分って隙を見て姿を消す。失意の五右衛門は酒浸りとなり、役人に絡め捕られて釜茹でにされる。茹で上がった窯の中には蝦蟇が1匹。是より此桶を五右衛門風呂という
5. 月下聞虫 (明治22年10月)――七五調新体詩?
6. 朝顔 (明治22年10月)――七五調新体詩?
ü 一重さくら臭遺 (明治25年)
いにしへの奈良の都の八重桜をけふこゝの屁に匂わせて一へ桜のことのおこりをつばらにのべしはわが友馬革斎なり。風来山人(平賀源内)は其心平を得ざりけん、放屁論をものしておのが心のうさをもはらし、かつは世の人のへこたれるをも罵りそしりけり
男にへといい女におならという、ならは鳴らすの名詞にて、其おこりはいといとふるし
藤原氏の力弱くして世も乱れければ物の役にたたぬことを屁ッ鉾(へっぽこ)とぞ言い始める
古の歌も屁を詠じたるもの多し。されども其形なきものなれば大かたは外のものによせて訓みたり。見る人しらざるもの多きはこの故なり。貫之の歌に、「梅の花匂ふ春屁はくらぶ山暗にこゆれどしるくぞ有ける」は梅によせたるなり。又、「七重八へ花はさけども山吹の実の一つだになきぞかなしき」は色をとりし故に山吹という。又其気体にして手に取るべからざるさまを現わさんとてはじめに七へ八へといい後に実の一つだになしといえるなどまことにたくみなる歌のよみざまなり
風来山人の説に異論あり。其説に辟易は屁消益にして屁消えて尊(みこと)を益するなりとあるが、こは大なるひが事なり。「屁消えき」とつづくものにて「き」は過去の語尾なり。屁消えしまいたる故勢弱くなりて逃げ去りしという程の心なるべし
水のへたつのとし春べの陽気にうかれて 屁理窟をのぶる者は 面倒苦齋
Ø 筆まかせ
(明治17年)
ü 夢中の詩
2月13日風邪劇シク声全ク出デズ、夜半夢驚クノ際雪ノ窓ヲ打ツヲ聞ク。夢カ幻カ一聯ヲ得タリ。七言2行。翌暁眠覚メテ後猶模糊胸ニアリ
ü 趨(はし?)り帳
89歳の頃、兎角前を忘れること甚しかりしと見え、観山翁は余に向い忘れぬ為に知らぬ字を帳面につけておけといわれ、帳面をこしらえその上に何か書こうと思ったが字を知らず、思い出したのが「趨」で、「わしり」と呼んだので「わすれ」という字と誤解し、本を見ながら「趨帳」と書いて翁に示す。翁失笑して、こは走るという字なりと諭したまい、之を消して傍に朱もて備忘録と書きたまいしかば、此後は帳面の上に之を手本にして備忘録とかきいたり
ü 東京へ初旅
去年6月14日余ははじめて東京新橋停車場につきぬ。人力にて日本橋浜町に行くに銀座の裏を通りしかば、東京はこんなにきたなき処かと思えり。旅宿に入り柳原を尋ねたら、本郷に来いとの伝言。ようやく訪ねていくと玄関に三並氏が出てきてびっくり。話しているうちに柳原も帰り来り、ここではじめて東京の菓子パンを食いたり
ü 仙人的思想
余は国にある時は皆詩画の友なりければ、出会しの時の話も皆仙人流の事のみなりき。ある時は、後来学校を卒えなば共に閑居せんとの計画をなし、余は其デザインをなし友に画かしめたが、其画今はなかるべし。其趣向は山間に一軒の水亭を立て、詩を賦し水を聴く者は我なり
(明治18年)
ü 譬喩活喩
故ありて表面より公言すべからざるの人事あらば、之を現すには人間の代わりに動物などを置けば大いに都合よし。表面より直言するに比すれば一段の風致雅味あり
ü 文明の極度
世界文明の極度といえば世界万国相合して同一国となり、人間万種相和して同一種なるの時にあるべし。併し猶一層の極点では国の何たる人種の何たるを知らざるに至るべし
ü 妖恠(ようかい)談
子を養う者は成るべく子に向って妖恠変化の如き荒唐無稽の談話をすべからず。子が成長して妖恠なきの理を知るといえども、燐火を見て恐怖し暗夜独行して震慄するが如きこと少なからず。即ち感情は理屈によりて全く支配せられぬが為なり。三つ子の魂百までという諺も是等の事をいうなるべく、西洋人の耶蘇教を信ずる如きも幼児よりの感情によるなるべし
ü 暗黒
夜はこれ如何なる者か、空気を墨染にしたる如く只々一面の際限もなき暗黒にて、昼と夜との差異を考えるに茫乎として知るべからざるもの多し
ü 英雄と馬鹿
癡漢と英雄とは其間髪を容れず。生命を賭し国家を賭し一か八かの一六勝負をやる者なり。はれるだけの大山を張る者なり。故に其業成らざれば癡漢となり其業成れば英雄となる。譬えば鯉の滝登りの如し。滝を登らんとし中途でしくじれば仲間の物笑いとなるが、一たび登りおおせれば復昔日の鯉魚に非ず。其時滝下の鯉が天を仰ぎて涎を垂らしてもおっつかぬ話
ü 習字
他人の書法に模擬せんとすれば始めは必ず拙き字を書くべし。是れ其形を見て其神を見ざるが為なり
ü 諂諛(てんゆ、へつらう)
多くの人は多少他人に諂諛する。目前で悪口いわぬも諂諛、逢った時ににこりとえむも諂諛
ü 比較
世の中に比較というほど明瞭で愉快なる事なし。学校にて課題を出して詩文を作らしめんとするに、各々千思万考して之を成し、後に他人の善き文章を見れば発明すること夥し。此の如き場合には我知識は著しく一時に発達せし心地する者なり。故に学校などにては最善き文章を生徒に読み聞かせるは最善き最必要なる教育法なり。然れども天下に此法用いる者少なし
ü 八犬伝
余八犬伝を好む。始めの方にては富山の段最も気に入りたり。あの筆力といい、あの風致といい高尚なる趣向にして簡雅なる文句を用いる。信乃のはじめに於て滝の川に水垢離(みずごり、冷水祈願)とりて凍死する所いかにも哀れに覚え、読む度に涙を浮かべたり。之を他人に問うに感じたりという者少なし。思うに余蚤(はや)く家君(父)を喪いしために是等の処一層感じたるにや。読書も読者の境遇によりて其感情異なる者ならんかし
(明治19年)
ü 右手左手
右手にて文字を書すること巧になれば左手にて書くことも其割合に発達する者なり。右手は通常使用せざることもなく毎日毎日字を書かぬこともなければ上達するのは勿論なれど、左手は手習いすることもなく使用することも少きに此結果あるを見れば、字の巧拙は手に得るというよりは心に得るという方適当ならんか
ü 寄席
余は此頃寄席に遊ぶこと多し。黄衣公子(金衣公子、きんいこうし、うぐいす色のお金)意にまかせざること多ければ、諸所より多少を借り来りて之を門口に投ずること屡々なれども、未だ嘗て後に其人に返済したることなし。必ずうたてき(鬱陶しい)人やとうとまれけん
ü 車を無難に転覆せしむる法
余郷里の松山中学在学中(明治15年頃ならん)同校生の運動会を三津に開く帰途、人力車数台を雇う。車夫のいない空の車に友人2人を乗せ余梶棒を以て引き出しけるに、少し梶棒を高く上げたるに車は後ろに傾き転覆せんとす。梶棒を下げようとしたが力及ばず車は徐ろに転覆。友人は倒まになりたるまま恠我もなく、車も破れず、余も無事。いとをかしき話なり
(明治20年)
ü 関係
世の中の事はさまでに思わぬことも非常に広く影響を及ぼすものなり。故に事物の原因となり結果となる関係を探れば、天下の事物殆ど相関係せざるものなきに至るべし
今雨の降る影響をいわんに、書窓の暗黒を来し、眼病をよくする者あれば又反対に眼病を病む者あるべし。往来人少なくして車夫もうけにならねど、つけの車屋は車賃を貪りて利得多し。かくいわばどこまでも其結果を現わして際限なかるべし。かつて風吹兮猫悲 油価貴兮菓子屋喜ということを聞きしことあり、又此に外ならず
ü 言語の一致
英語のkiteには凧のほかに鳶という義もある。恰も漢語にて凧を紙鳶というに相当する。此外人類学的の思想より東西和洋其語風を同じくするもの多くして枚挙に遑あらず。物の長さを計るに支那にて歩といい、英
語にてfootといい、独逸語にてfussという
ü 大小
天下の事物大も無限なり、小も無限なり。されど人の之を悟るは先づ大の無限なる方にて小の方は気のつき難きものなり。蓋し前者は有の観念に属し後者は無の観念に属するを以てか
ü 婚姻
「今の日本の婚姻の不都合なるは各家とも概ね琴瑟(きんしつ、しっくり)相調わず、風波時に生じるを見ても知るべし。之を治療するには随意結婚となし親の干渉せざるにあり。そのためには男女の交際を開かざるべからず。さりとて今日急にやっても囚人を放ちて黄金堆(つい)中に行かしむる如く、到底危険を免れず。されば小学校にあるものより之を実行せんとす。中学に至るまで男女混合とし置けば余り珍しとは思わざる故、随て危険も少なかるべし」と友に語ったところ、友曰く、「今日の日本婚姻不可なる所なし。一歩譲って婚姻法を変えるなら、妻にする女を数カ月男の家に寓せしめ、以て其品行挙動を見て娶否を決すべきのみ」。余曰く「君の答えやよし。ただ行い難きを如何せん」
ü 愉快
年末、学校の試験も終わり、同級生の演説会を開く。昼からはベースボール大会。余は白軍のキャッチャー。夕刻からは寄宿生一同集い、各々10銭ばかりの品を買いととのへ福引。順に封を開き標題を見せ連想せしものとは打てかわりし品物のみなれば、皆々笑壺に入りける。最も面白かりしは、「伊藤大臣の夜会」の標題で半紙1帖とゴム毬1個あり、「ファンシー・ボール(大仮装舞踏会)」の洒落と聞えぬ。(明治20年伊藤博文首相官邸で開催)。余にあたりしは「西施と蟆母(まぼ?)」とあり、女人形と蛙(土器)。鬮(くじ)すめば其謝礼をのべるが、座上は笑声の中にこめられたり。諸人を捧腹せしめたのは、平生の如く仏頂面をして、「大黒様が算盤を抱えとる画をもらったが、実に目出たい。後来金満家になるしるしで、その時は幾何でも借りに来たまえ」という。平生穴のあいた洋服、かかとのなき靴を穿たれしに引きくらべていと面白く、座上は暫くなりもやまず。朝から夜半までの愉快のしつづけ故、こんな面白き日はまたとあるまいと思えり
(明治21年)
ü 哲学の発達
余は何故に哲学に志せしや、哲学思想は如何にして発達せしやと考えるに漠として捕え所なし。某氏に目的を定めよと言われ、余も目的なきは愚者なりと思い、医者は大嫌い、理科学は蛇蝎視、哲学や文学は名だに聞きしことなかりし、法律か政治かに決めようとした
其後共立学校へ行き始めて荘子の講釈を聞き、こんな面白き本がまたとはあるまいと思いていとうれしかりしが、此時にもまだ哲学なるものを知らざりき。余が哲学を目的とせしは明治18年の事。余は幼児より詩歌を好むの傾向を現わし、和歌を始めしは明治18年、俳句は明治20年を始めとす。何故に哲学といい詩歌小説というが如き全く反対の者を、両立し難き者を同時に好むかとをかしく思えり。其後審美学あるを知り詩歌書画の如き美術を哲学的に議論するものなることを知りしより、顔色欣々として雀躍するの思いを生じ、遂に余が目的を此方にむけり。こはこれ今年のこと
ü 世界と日本、日本と四国
日本人は世界各人種の中にて最敏捷なり。早熟なり。模倣に巧にして創造に拙。四国人(少くも我伊予人)が日本全国に対して立つ関係は丁度日本が世界に対するが如しと思わるる。我国人は中々敏捷なる者にて、殊に模倣に巧なることは古来より四国猿の名あるを見ても知るべし。大業をなし大名を揚げる人なし。然れども巡査の如き役位をつとめ得ぬ者は1人もなき故に、巡査には善きもの多く、東京を除きては他府県下に比なしという。また奇ならずや
ü 可恐者
世間恐るべきは猛獣毒蛇にあらず、壮士暴客にあらず、只々勉強家と沈黙家と謙遜家とのみ
ü 言語と人気、気候
日本語は全体にaccent少き方なり。東京辺の語はアクセントはじめの方にあり、四国にては下の方にあり。且つ東京語はつめる処多く、四国語は長く引く処多し。「善く」と「善う」、「買って」と「買うて」等。東京語は英語に似たり、上方語は仏又は以太利の語に似たらんか。英語はアクセント初めの綴りにありて音のつまりたる処多し。故に四国の人英語を習うにアクセントを誤る。此差異は人気と気候とによる。暖国は自然に調子長く、寒国は自然に調子短く、又人気の忙しき処、即ち英国とか日本ならばアクセントを初めにつけるの風あり。蓋しアクセントの初めにある者は早くいうによろしく、勢いをつけるによろし。アクセントの下にある者は遅くいうによろしく言を優美ならしむるによろし
ü 愛味、愛郷
愛郷心、愛国心とは妙なものにて道理もなきことなれど、善くも此日本という様な結構な国に生れたと思うこと度々あり。赤髯よりは緑髪の方が何となくよき心地するなり。又小さくいえばよく伊予松山という様なよき処に生まれ、よく我内に生れ、よくも我親の子となり、よくも我身に生れたるよと思うことあり。我身を愛し、我故郷を愛し、我親を愛すること奇妙なり
ü 演説の効能
昨年末同級生の演説会をやった際、このかいあるため人の前にて話すことを覚え益ありと聞いた。余は在郷の頃明治15,6年の2年は何も学問せず、只々政談演説の如きものをなして愉快となしたることあり。今より見れば余の進歩を妨げたるに相違なけれども、只々1つの利益せし事は聴衆の前にて演説することに多少馴れたるの一事なり。余は生来卑怯者にて人の前に出づるを愧(はず)かしく思う者故、これがため幾分か利したることを後日に発明せり
ü 半生の喜悲
これまで嬉しきことに会い平気でゐられざりしこと3度あり。1は在京の叔父より余に東京に来れという手紙来りし時、2は常盤会の給費生になりし時、3は予備門へ入学せし時。覚えず顔をしかめたること2度あり。1は出京の際始めて三津を出帆する時の心細さから、2は予備門にて落第せし時、予て覚悟ありたれども、小学校以来始めての落第で親類から叱られた
ü Over-fence
寄宿舎にありし日、夕飯後にじゃんけんで焼芋など買いに行くこと屡々ありき。悪心追々に増長し、いつとはなしにOver-fenceなる語出来て、間隙をくぐり門墻(もんしょう)を超ゆること流行するに至れり。様々な愉快な思い出がある
ü Base-Ball
運動となるべき遊技は日本に少し。西洋には其種類多く、競馬、競争など最普通にて最評判よき者なれども、只々早いとか遅いとかいう瞬間の楽しみなれば面白き筈なし。殊に見知らぬ人のすることなれば猶更以て興なし。ローン・テニスに至りては勝負も長く少し興味あれども、未だ幼穉たるを免れず、婦女子には適当なれども壮健活発の男子をして愉快と呼ばしむるに足らず。ただ1つベース・ボールは愉快。運動にもなり、しかも趣向の複雑したる戦争は他になかるべし。ベース・ボールは総て9の数にて組み立てる。支那風に解釈すれば9は陽数の極にてこれ程陽気なものはあらざるべし。九五(最高位)といい九重といい皆9の字を用いるを見れば誠に目出たき数なるらん
ü 偶然
花という字は艸に从(したが)い化に从う、草がばけるという意より来りたるか。雲の事を六出花(りくしゅつか)という、これは天地四方より出る様に見ゆる故に此名ありともいい、又雪は六枝を出す故ともいう。余あやしく思いて一度雪を袂に受けて見しかども六角にならざりしが、たまたまそんな形をなすこともある以べし
ü 碁と将棋
碁は上品にて将棋は下品なりといえど何故に其別ありやといえば、ただ碁は道具高き為に下等社会よりは上等社会に多く行われ、将棋は道具やすき故に髪結床などにて熊公八公の玩具となるの差のみ。理屈に於て差のあるべくもなし。将棊の手は碁の手より多しという。碁の手は如何に変化多しというも、碁盤一面の上に一度外せざることなれば知れたものなり。されど将棊は一度ならべてすむという訳には行かず、変化は無限にして数を以て現わすべからず
ü 英和小説家
英日の小説家を比較するに、スコット(ウォルター、『アイアンホー』)は馬琴に、リットン(エドワード、『ポンペイ最後の日』)は春水(為永)に似たり。スコットと馬琴は歴史小説を主とし、其字句は勇壮簡雅に其趣向は豪快奇抜。リットンと春水は共に情を写すを主とし、微細に立ち入り其心中をえぐるが如く大胆にいい現わせし処は似よりなきにしもあらず
ü 鎌倉行
夏期休暇に鎌倉に行き、鶴岡を拝み頼朝の墓より鎌倉宮にまわる頃には暴風暴雨にて寒きこと冬の如くに感じけるが、余は忽ち一塊の鮮血を吐き出す。咽喉をいためて血を出すこと多ければ大方その類ならんという内、再び一塊の血を吐きたりしが、それのみにてなんのこともなし。大仏を雨中に拝み七里ヶ浜に出でし頃は、雨風ますますはげしく衣服は絞るばかりにぬれたり。山の如き大波幾段となく重りては攻め来り、身の毛もよだつばかり、余は生来始めてこんな波を見たり。ようよう絵嶋の向い側につきて1泊。翌朝雨やみたれど風猶やまず
ü 八犬伝第二
小説の趣向は奇なるをよしとせんか、八犬伝程奇なるものはあらざるべし。極めて複雑なるをよしとせんか、八犬伝中信乃出立より荒芽山に至るまでの趣向ほど複雑なるはなかるべし
欠点は、神業や妖術・霊玉など持ち出して趣向を神にせんとして却て鬼ならしめるなど無理がある。ある人は馬琴の著書をそしりて、趣向は奇に過ぎ文章は調子を取り過ぎたりと。然れども当時の小説は今日の小説の如く写真的なるにあらざれば、勢い趣向の奇と文章の句調とを求るに至るなり。余も趣向の余り奇なるは虚妄の思想を起さしめて面白からずといえども、馬琴の著に於てはかかる感じを起すこと少し。こはひいき目より見る為か、或は趣向の面白き為に奇なることを怪しまず、却て喜ばしむるが為か。この2つに出でざるべし。況んや写真小説が果たして真正の小説なるや否や定らざるに於てをや
ü 流行歌
余は生来肺はよろしからずと見え美声大声の出たる例なし。従て歌曲の如きは覚えたることなし。声の出ぬと、1は下等なる者故我々の為すべきにあらずと思いしと、1はこれを覚えたる機会なかりし為に遂に覚えしことなし。其後明治18年より「はばめ」の始めし大阪伝馬なるもの世に流行す。世の流行歌を覚えしは之を始めとす。和讃や御詠歌のようなもの
ü 八犬伝第三
仁義八行の中にて仁ほど貴きものはなし。故に里見八犬伝の中にても親兵衛ほど貴きものはあらじ。そこで馬琴も此人物を作るに苦しんで種々の工夫をなす。最少の親兵衛に最長の女を嫁せしめすも解し難し。著者殊更に仁義八行の順序を重んずるならば、など仁義礼智の順と年齢の順とに従って配合せざる。とにかく余は此縁組も不都合なる者なりと思わるるなり
(明治22年)
ü 謙遜
道徳の高き君子ということあり、総て道徳の高き人は強とて恐れず、弱とて侮らぬ風あるは勿論故、自然に謙遜の徳も備わるなり。然るに此謙遜ということは人を蹣著(まんちゃく、欺瞞)するに妙なる故、兎角政治家などの濫用する所となるなり
ü 書目十種
国民之友に書目十種をはじめ、諸名家に愛読の書十種を書かしめたり。余浅学固より愛読などせし事もなけれど、中にて愛読せし者をあぐれば、八犬伝(始めの方)、梅暦(始めの2回、春水箸『春色梅児誉美』?)、辰巳の園(深川を描いた最初の洒落本)、梅墩詩鈔(今はさまでになし、ばいとんししょう)娘節用、院本(殊に仙台萩御殿場、阿波鳴門順礼の段、浄瑠璃本)、俳諧七部集、長恨歌、琵琶行、梅室家集(桜井?)、荘子、菜根譚、春艸堂詩鈔(浄瑠璃作者)、謡曲(殊に角田川、俊寛、蝉丸等)等なり。 浅学ノ度笑ウベシ(自註)
ü 見聞以外
人間は見聞以外のことを想像すること中々に出来べからざるものなり。若し心意にて何者か創造し得たりとせんに、恐らくは其物の材料を創造するに非ずして、見聞せし材料を取り集めて一種新規の湊合(そうごう)をなすに過ぎざるべし。5官の外に到底1官をも加える能わざるなり。即ち人間は色声臭味触(=5官)の外に物体の性質あるを知らざればなり
ü 下宿がえ
学生の下宿替の頻繁なるはいうまでもなきことにて、半年ぶりに朋友の処より来た手紙には4,5枚の付箋をつけて(転送)数週間の後に来ることさえ屡々あるなり。余はさまでかえることをきらえども動くとなると遠方へと動くが通例なり。上京以来区をかえること屡々なり。その移転恰も野蛮人の水草を追って転居するが如く、檐端に立て廻り燈籠を見るに似たり
ü 羅甸語と日本語
羅甸語は余程日本語に似たる所あり。動詞が文章の最後にある所や、冠詞及び代名詞の多からざる所、語尾に母音を以て終る者多きこと、アクセントのはじめに少きことなど著しき者なり。日本文の如く長たらしきを常とすという。もとより博言学上にて語源に於て関係することはなかるべけれども、其構造の似たる所は人類学的に人智の進歩の度に関係類似あるべし
ü 歴史の教授法
此頃学校に於て歴史の教授を西洋人より受く。地名・人名・年月を記憶せしむることをつとめて大体の変遷を知らしむることに注意せず。歴史専門に修むる人ならば其必要あらんも、専門家にあらずして其必要なし。記憶力を養って判断力を削らんとす、げに聞こえぬことにこそ
ü 自著
此頃不図筺底を探りて数年以来の詩文草稿を得たり。多くは拙劣極りなき反古だが、ふと思いかえしてジャンルごとに分類、年を遂って1冊にとじることとなし、詩稿・水蛙花鶯・寒山落木・文稿・枯れ野・無花果草紙等と名付け、善きもあしきも1つも残さず書き集めたり。保存する利益は、余が知識の発達の順序及び程度を見ることで、心理学に大なる材料を与えんと欲すればなり。他人の発達とは多少異なるかも知れないが、人類の心理学に多少の助けならん
ü 批圏
「朱にて批点(批評)圏点(傍点)をつけ批評するはよき事にて、詩文がよく見ゆる」と余がいえば、友「支那特有のこと、西洋になき所」という。西洋のUnder Lineの如きは支那の傍註に似て注意を引くまでにて風致なし。批点圏点をならべてうつ所は美術にかないたる所にて、いかにも綺麗にして雅致あり、文学上にはかくべからざるもの
ü 漢字の利害
漢字は不便との説多く、西洋人も最下等とするが、余の考えは大いに異なる。面倒でむつかしいが、多少の弊害はあれど其利も少からず。1字づつ意味を含む故事を簡単に書き得べし。弊害は、テニハの類少きと、時(過去、現在、未来)の分明ならざると、字画のむつかしさと、発音の同じもの多きとなり。西洋の文字は文字だけはたやすく覚え得べくも語を覚えるは困難
ü 日本語の利害
日本語は活発勇壮の語に乏しく、方や優美にしておとなしきは人の知る処なり。就中かけ言葉の如きは日本語の特有性にて、省筆法にもなり(文章は短くして意味多きほど面白いという意)またかけ工合にも巧拙ありて詩文小説などにはかくべからざる妙味なり。日本文の弊害は同音の字多きこと、動詞や形容詞のかかり処の不分明なるなり。これは句読(パンクチュエーション)の法を厳密に定めて之に従う様になせば幾分か療治し得べし
ü 碁論
余固より碁を知らざればある人より聞きし話に余が説をまじえて碁客にたださんとす
素人が定石も知らずして碁を打つは算術を終えた小学生が代数の問題を解かんとするが如し。其道理は常人が一朝一夕に利得し得べきにあらず。定石は恰も代数の定式なり。されば碁を打つには先づ定石と定石の変化とを盡く会得して之を暗記するを必要とす。定石知らずして戦争は出来ぬ。若し始めるならば正式に先生の教授を受けんと思いいるこそ片腹痛き業なれ
ü 人相学
脳裡の変動は顔面の神経にある一定の変動を起こすものなりと信ずる。大岡越前は人相を見たといい、西洋にもphisiponomy(physiognomy、人相学/人相占い)あり。余は生来の習慣より一面識の人を容貌にて鑑定するに大体に於ては符合すること多し
ü 小説の嗜好
世の小説遍歴は、水滸伝に始まり、梅暦(春水)の人情本に心酔、次いで書生気。さらに浮雲の言文一致の新趣向を面白く感じ、今は讀賣紙上で篁村翁と親しくなり、爺っぷりのよき所にほれこみて今に之を愛読しをれり。余の文章も嗜好と共に寒遷し初めは馬琴の如く中頃春の舎(逍遥)流となり今は饗場流に傾きいる
ü 春廼舎氏(坪内逍遥)
春廼舎氏の文壇の初陣は『該撤(ジュリアス・シーザー)奇談』なりと覚ゆ。はじめ讀んだ時もつまらなく思い、原書を讀んでは猶更下卑になりて先生の器量は現われず。李延耳外伝は余り評判よからぬ所。書生気質の出づるに及んでは世の評判も喧しく褒貶も激しけれど、余は理屈もなく只々面白しと思えり。其後『妹(いも)と背鏡』出でて一層面白し。『未来の夢』は政治小説の類なれば余り好まず。国民之友の『細君』は一層の評判なれど、一個の小説としては余り幼稚。前に比ぶれば上達の腕前慥(たしか)に見えたり
ü 妹と背鏡
著しきこと2つ。1は「・・・・・」なり。日本に始めて現われ、日本の小説界に一大進歩を与えたり。2は議論の多きことなり。叙辞中に長き議論を入れることは日本にては始めてなればめずらしく思ったが、南塘先生の話に「議論挟むは美術の主旨に背き、面白からず。議論をせずして読者に知らしむるところが小説の妙なり」と言われ、其後は背鏡の価値を一層落としたり。
春廼舎氏も恐らく其非を悟られたのか、『細君』には少しの議論もなく少しのいやみもなし
ü 随筆の文章
此随筆は余の備忘録にて、心に一寸感じたことを其ままに書きつけおくものなれば、文章も文法も構わず、和文あり、直訳文あり様々。日本文章は随分書き様多くていかに一定せんかとは諸大家の議論なるが、此随筆はまさに拙劣、不揃いそのもので、日本の文章を改良すべきにつきて参考となることなしとせんや
ü ゾラと春水
以前リットンと春水を比せしが、リットンよりはゾラの方寧ろ春水に似たり。いづれが猥褻なりや、ゾラを1冊読みしだけにて容易に判断しかぬれども、ゾラの猥褻中々春水の下にあらずと思う。西洋と東洋とは習慣に於て異なる所あれば一概にいいがたき。『ナナ』などという書を見ば実に甚だしきことあらんかと思わる リットンもゾラも春水に似ず(自註)
ü 俳句と俳諧
発句と俳諧の区別は、「俳諧ということは古今集の終りにもありて其意味は雅語のみを用いず、俗語をも交え用いるの意なるが、今より見ればさほど俗とも思えず、且つ三十一文字なれば和歌とさしたる差異もなし。併し後世に至り文字の数に拘らず、俗語を用いるを俳諧といい習わし、其中にて十七字なる者を発句という。故に俳諧の中の一部分が発句なり」
此頃は、俳諧とは俳諧連歌のことにて、発句とはその初めにおく十七文字の句の事なり
思うに、発句は俳諧連歌から出でたるも、俳諧といって俳諧連歌を意味するは、博物学といって動物学を意味する如く、後世その意を変ぜしもの。故に俳諧七部集といっても矢張発句を含みいれば、発句は俳諧の一部と見て誤まりなからんと思わるる
ü 帰郷中目撃事件
本年夏帰省して一昨年と変りたるものの著きものをあぐれば以下の如し
三津港に高き煙突の多くできしこと、三津松山間に軽便鉄道出来し事、我家の移転、老人のますます弱り小児の非常に大きくなりしこと、家並のよくなりしこと、友だちの妻帯せし者多きこと、私立中学校の出来しこと、総ての風が東京に似ること、言葉も多少東京に似る
ü 圓朝の話
圓朝の出し物の中に、画師が寺の本堂に芸妓の顔を画くと、その兄が現れ匿ってくれといわれたので、芸妓の着物を着せ水桶と花を持たしめ寺から出してやったところ、予て芸妓に焼餅を焼いていた女房現われ、「今出ていったのは芸妓では」と問い詰められた画師は、「墓参りに来た人だ」と言い逃れしようとしたが、女房に「寺から花を持って出ることはない」と言われる。ここらの工合を聞いて余は小説の趣向もかくこそありたけれと悟りたり
ü 同音借用
幼少時素読を始めたが、學而第一に至て學の字覚えられず、座敷の額と思って覚えよといわれ、其後2,3度繰り返しようよう覚えたり。西洋の固有名詞などは覚えにくければ此法によることあり。Keyは鍵をねぢる時の音、concubine(側室)を團珍(時局諷刺雑誌?)にて困窮売淫と書きしを見て覚えた
ü 器械的人間
人は器械にあらず、又禽獣にもあらず、即ち人間は意思ありて行を左右し得ればこそ貴きものなれ。漢語にては徳行の君子ともいうべし。然るに我程意思の力弱きものは少かるべし。為すべきと思いしことも為し得ぬこと多し。段々忠告する友もあれども、何分にも癖になりてなおらぬなり。余は之を禽獣というよりは寧ろ器械的の運動といわん。人がすれば我もする。恰も物体が受けるだけの圧力を以て其物を推し返すと同じなり。人は怒って我を撲てども我は笑って之を受く。人は我に怨をなして我は人に恩を報いるというようにありて、はじめて人間ともいうべきなり。あさましの我身や、うたての凡夫や
ü 古池の吟
蕉翁の句の意味を知る者は少し。ある人の話に、こはふかみ(各句の冒頭の3文字)の3字を折句にせしものなり、併し其深意に至ては我々の窺うべきにあらず。恰も歌人の「ほのぼのと」に於けるが如しと。此春スペンサーの『文体論』を読み、一部をあげて全体を現わし、あるはさみしくといわずして自からさみしき様に見せるのが最詩文の妙処なりというに至て覚えず机をうって「古池や」の句の味を知りたるを喜べり。ただ地の閑静なる処を閑の字も静もなくして現わしたるまで。心敬僧都の句に「散る花の音聞く程の深山かな」あり、同じ意味なれど「程の」とあるぶん芭蕉がまさるか。趣向は心敬も凡ならず、芭蕉に劣るべくも思われず
散る花には音なく蛙には音あり、是れ両句の差異ある所なり。即ち古池の句の方自然なり(自註)
ü 二幅対
中秋を友と賞す。武市子明の詩「三千世界一輪月。無数江山萬里秋」、新海氏の句「大空に月より外はなかりけり」。余賞して不可及とす。両者命意暗合異曲同巧ともいうべき善き二幅対
ü 自炊(千代萩、せんだいはぎ)
今迄心苦しきこと1つ追加あり。3つ目は、始めて上京の際、浜町お邸中の書生小屋にて自炊せしこと。嫌味な同居人2,3人と交代で炊事番をした時のこと。余1人、あるいは知己親友の水を汲み薪を拾って艱難を共にするあらばいいが、自ら料理番となりて、嫌いな人に食を奉ずるに至りては、風致も消えうせて興もさめなん心地す。げにこれも心苦しき1つなり
ü 当惜分陰(わずかな時間を惜しむの意)
余幼より懶惰、学を修めず。観山翁余を誡め多少の感触を起こし、後来学者となりて翁の右に出でんと思ヘリ。常に翁の訓戒を忘れはしなかったが、東京に来ても勉強したことは詩作ばかり、最勉強せぬは学課。夏の休みにはと思うこと度々なりしが、帰省してもはかどらず。ようやく勉強し始めたのは明治21年夏、墨江に卜したりしが、3カ月の後には脳患に陥りたり。観山翁逝いて已に十余年、翁をして今日の余を見せしめば多少の満足を表せらるるならん。さきつ頃漱石が、「君はかく為すこともなくて過ぐす時間を惜しきとは思わざるや」と。余答えて「さなり、去年の夏”大禹聖人惜寸陰 衆人当惜分陰”の実なることを知り、どこへ行くにも1冊の書を携えれば不安心となるが、其癖余所で書物を開いても1,2枚だにも能くは讀めぬなり。をかしき事にこそ」といえば、漱石うなづきて、「此夏も各所で読書の事を思い出して時間の浪費を惜しきといったら、連れの者は皆笑いたり。俗人とは話もできず」と語る。是等の人を談心の友ともいうべきにや
ü 交際
余は交際を好み、嫌う。好むのは良友を得て心事を談じ艱難相助けんと欲すればなり。嫌うは悪友を退け光陰を浪費せず、誘導をのがれんと欲すればなり。朋友を選ぶにも先ず人物を見る、次に学識を見る。正直にして学識ある人を第1等の友とす。多くは得難し。さまでの学問なきも正直、殊に淡泊なるを第2等とす。余が友、多くは此中に属す。己れ良友を得る時は之を他人に紹介することを好み、又は他人をして其性質を知らしめんが為に、他人の前にて喋々と賞揚することあり。其代り余は亦悪口に長ずるを以て、いやな友は他人の前にて残さず余さず罵詈すること多し。故に余も諸同人に願う所は良友を紹介されんことなり
愛友(細井岩)、良友(武市庫)、好友(太田正躬、5友)、敬友(竹村鍛、5友)、益友(三並良、5友)、旧友(安長=森知之、5友)、厳友(菊池謙)、畏友(漱石)、交友(柳原正)、親友(大谷藤次郎=是空)、酒友(佐々田)、温友(神谷豊)、剛友(秋山真之)、賢友(山川信)、郷友(勝田主計)、亡友(清水遠)、高友(米山保)、直友(新海行)、少友(藤野潔)
ü 是空子
友人是空子、是空子を著す。脳病中の作。自序に「是空の友、子規子、子規子を著す。記する所3篇、喀血始末、血の綾、及び読書弁。是空子の是空子を著す、篇を分たず思う所ありて筆を執り筆を執りて思う所あり」云々。本文の初めに、「我独り世に存す、然りと雖も我豈唯我独尊といわんや。我尊賤を知らず。身在て無きが如く、只々空漠たるの感あるのみ。蓋し名の由来此処にあり」と書し、美術家、哲学家など一々に頭ごなしにこなしつけ、最後に生死恐るべからず、只々是れ空のみと説き、自ら死後の名を作て眞如是空居士という
ü 人物評論
余殊に人物を評論することを好み郷里の人物を評せしこともあり、又同学生が互に評せしこともありき。余は寧ろそしることを好む。人にそしらるることを好む。悪口は真に適中すれば無論善き事にて、人をして注意せしめ恥ぢしめ改心せしむるに至るべし
ü 木屑録
漱石余に其著す所の木屑録を示す。是れ即ち駿房浪漫紀行なり。漢詩の数々に感嘆。其曲調極めて高し。漱石素と詩に習わず、而して口を衝けば即ち此の如し。豈畏れざるを得んや。余の経験によるに英学に長ずる者は漢学に短なり、和学に長ずる者は数学に短なりというが如く、必ず一長一短あるものなり。独り漱石は長ぜざる所なし。然れども其英学に長ずるは人皆之を知る。而して其漢文漢詩に巧なるは人恐らくは知らざるべし。故にここに付記するのみ
ü 修飾
余は生来修飾を好ま是、破衣弊袴を以て無上の快楽とせしが、追々に世の中の段々進むに従い装飾を好むに至るなり。人の一身につきても同じこと。此頃諸学校の制服一定せしより、自然と衣至骭(すね)袖至腕の書生減じたり。余も一個の人間として多少此変化に伴うべきに、感化さるること一層激しく、凡夫心こそ浅ましけれ。追々に地獄に堕ち罪科を増すの感じあり
ü 日本の人代名詞
その数多く実に著しきものなり。漢語の入り来りてより、手紙上書などの類に用いる言葉は漢語による故、口でいうと筆で書くと大に異なる者多し。ワタクシ(口)/ワ(筆)、アナタ・キサマ/貴君・足下・大兄、アイツ・ヤツ/カレ・アヤツ、ダレ・何者/ドヤツ・某などなど
ü 少尊老卑
余等青年の者より所謂天保時代の人を見れば随分笑うべきこと少からず。4,5歳前の人にても猶笑うべきの事をなす者多し。これと同じく余より若き者の余等を見れば、同じ様に感じるだろう。余が8歳頃小学校の体裁備わりたが、今日と比するに雲泥の差がある。余の若き頃なせし詩文や思想知識を今日の同年齢の者に比して著しく差異あるは、余の大いに嘆息する所。後生可畏とは是等の事やらん。負うた子に教えられて浅瀬を渡るといわんのみ。吁(ああ)、日本は長足の進歩をなせり。而して余等之に伴う能わず、何の顔あって後生を見んや。吁
ü 書生臭気、3区(神田、本郷、下谷)の比較
神田区に以前は諸学校ありし故、書生の藪窟となったが、大学本郷に移りて書生の巣もようやく北して本郷に遷らんとす。本郷は新たに書生社会の交際を開く草創の時なれば、その差違実に甚し。兎角書生をおろそかにもてなし、買物せんとするも意中の物を得る能わずしておまけに其価廉ならず。余始めて下谷に来りて見るに、少しも書生の臭気を帯びたる者なし。余が寓居の近所をいえば概ね飲食店待合の類なり。只々1軒の下宿屋あるこそ不思議なれ。神田は書生の臭気のみにて満ち、本郷は所々に其臭気を見れども、下谷に至っては書生臭気更になし。ただ甚だしきものは馬車の臭気と料理屋の臭気と芸妓の臭気となり
ü 日本の小説
日本の小説類は紫女清女の時に盛にして其後は衰え、徳川氏の頃より又々新たに芽を出し、西鶴等を元祖として追々に発達の度著しく、其磧(江島)、自笑(八文字屋)、京伝等の名家を出だせしが、其最一世を風靡し小説世界に一段落をつけたるは馬琴なり。其後一九、三馬(式亭)、種彦(柳亭)の如きも各々一基軸を出せしかども、近世に於て流行せしことは春水の情史ほど甚しきはあらざるべし。明治に小説も復活するが、其文体といい其脚色といい、多くは馬琴の糟粕をなむるにとどまりて少しも進歩の模様なかりき。一点の光明を輝かしたのが経国美談だが、今より見れば真に幼稚にて小説の模範にはならねども、能く日本人民の小説嗜好心を鼓舞せしめ、其発達を促したり。始めて日本の小説海に一新面目を開き、欧粋を抜き和粋に調合して、他日の模範となるべき小説の出でしは当世書生気質。春廼舎氏は小説も一の美術なり、賤しむべきものにあらずとの主義を揚言しながら文壇にきって出たり。之より天下多情多恨の才子は皆公然と筆を揮って小説界に雄飛することとなりぬ。小説家も昔日の阿蒙を脱して非常に敏捷となり、投機心も盛になりて今日の大事は直様小説中の趣向とするに至れり。かの浮雲なる者世に出でて言文一致を世に示せしより、新を好み奇を好むの世の中、日本の小説家、十中の九までは皆言文一致をまねるに至れり。春廼舎氏始めて書生気質を出版するに冊を分ち雑誌風に発兌せしより、世人皆其簡便なるを知り小説雑誌の流行を来したり。今日の小説界に流行する者は青年小説家と小説雑誌と言文一致流との3なり。此外に賤しむべく笑うべき流行は女史の名なり。生ものじり(いい加減な物知り)の女が小説を書くなどという片腹いたきに、之を見て涎を流す書生こそは痴愚の至りならずや。而して男子にして女史の名を僭するに至りては、馬鹿といわんか、小人といわんか、いといと烏滸(おこ、馬鹿げて滑稽)のしれものなりかし
ü 尻馬
徂徠、物部(徂徠の姓)を略して物となせしより天下の屁鋒学者皆苗字を略し、宝井氏其角を名のりてより「其」の字を付する俳諧者流世の中に多し。京伝の弟子は頭に「京」、馬琴の手下には馬を号としたる者あり、春水の門人は春の字をいただき、常盤津連中は都賀の字を名にはさむ。延壽太夫出でて清元に壽の字はやり、春廼舎出でて小説家皆何廼舎と化す。国民之友出でて雑誌は之友となり、開国始末出でて歴史は始末となる。東京日日新聞より新聞には日々の名多く、もしや草紙より小説に草紙の名流行す。吁、実に日本人は模倣をのみ之努むる者というべき。実を模するは猶可なり、此如く名を模するに至っては我之を何とかいわんや
ü 文章の繁簡
余は文章は簡単ならざるべからず、最簡単なる文章が最面白き者なりとの議論をあくまで主張する者なり
ü 一学科の区域
天下の事を大別すれば実際と学問の2つに分るべし。学問を小分して法、医、文、理の4とす。而して我々はこの5科中の猶一層細別せし者を修むるに過ぎざれば、余程区域の狭き者なり。ただそれは表面から見ただけの事。審美哲学について言えば、此学問は感情による心の有様故、心理学を修めざるべからずは勿論、感情は五感の刺激による者故、其構造手続きを知る為には生理学を知らざるべからず。小別すればいくらでも他分野に繋がり、我々がどんなに苦辛しても勉強しても、目的の四分の一だも達する能わざるべし。苟も学問を修めんと志す人にして優遊日を送りて毫(すこし)も頓着せざるは何事ぞや
ü 帰化外国語
日本は昔より言霊のさきわう(豊かに栄える)国といい伝えれど、よく調べると、固有の言葉と覚しきものは極稀にして、外国より輸入して今は全く日本のすみつきとなりたる者のみ。中には此帰化語が雑婚してあいの子を生みし者も亦少からず。まづ初めに来りしは漢語。爾来漢語は実に広く行われ、目に一丁字なき者(無学)も漢語を話すこと普通となるに至れり。特に維新後は洋語を訳するに必ず漢字を以てせし故、益々広がるの勢いあり
ü 地方の風俗人情
土地の変わるに従って人気人情の異なるはおもに気候、地理、習慣によるなるべし。1地方にても小分すればどんなにも違う。日本は多少活発にして有為の気象に富めども、軽浮にして飄きんなるが如し。封建制下国内数十藩に分れいたれば、其相異ははげしく1里2里の距離ある地にても藩の異なるため人情風俗に雲泥の差を見ることは今日でも珍しからぬことなり。東京は人気活発にして侠気を帯び、所謂江戸っ子と称する特性を備えたり。京都は利己心強く人情軽薄にして総ていやみ多し。大阪は利己心一層甚しく金さえ手にはいればどんな恥をも忍ぶ風ありて江戸っ子の意気地なし。東北は正直なること犬の如し。併し激すれば飼い主の手を噛むことあり。畿内中国は狡猾なること狐の如し。草を被り馬糞を包んで世人をだますことあり。四国人種は敏捷なること猿の如し。模倣にも巧なれども意地わるき所あり。遂に大業をなすに能わず。九州人種は勇猛なること虎の如し。進むに前なく向う所風を生ず。千里を横行し百獣潜伏す。然れども其智足らざるが為に狐のおさきにつかわるることあり。之を狐、虎の威を借るという 静渓先生曰く、松山より宇和島の方正直なりと(自註)
ü 探幽の失敗
ある美術展で唐紙半切程の掛け物に僧日観の筆なる葡萄の墨画あり。2,3枚の葉と2房の実を数筆にて画く、風致楚々たり。其傍に同じ大きさの紙に同じ形、同じ筆法の葡萄あり。探幽が前の画を模せしものなり。よく似たるも熟視すれば探幽の筆勢は僧某に及ばざること遠し。2幅相対照し同じ趣向の画なりせば、いやとも優劣を判ぜざるを得ず。探幽は得意の画風をすてて不得意の南宋を画かんとせし故に、自から其差を生じるに至りしなるべけれど、一は創造と模倣の違いにもあるならんか。人のものを模せんとすれば、模するということの為に勢い筆端神を失うに至るべきか。又此2幅の持主が異なりてをりしかも亦奇ならずや。奇遇なり
ü 言文一致の利害
文章は分かりやすく書くを第一とするや否や未だ判断し得ずと雖も、感情によりていえば余は甚だ以て言文一致を悪む者なり。にくむといっても場合による。演説や無学の人に向っての告示・手紙、教訓の類は言文一致にて分かりやすく知らしめるをよしとするが、其他の文学において何を苦しんで言文一致とするや。何の必要ありや。言文一致はとかくくどくうるさく長々しくなるものなり。なるべく衆人に分かりやすくというが、小説は衆人に分かりやすからしむるが目的なるや否やはたやすく論定すべからず。必ずしも多衆の愚民に向ってこしらえるのみを目的とするに足らずと信ずる。言文一致論者は、紫式部の源氏を書きしも其時の言葉をそのまま筆に写せしのみ、古雅なりと思うは後世のひが目にて言葉の変遷し来りしがためのみというが、源語(源氏)の如きも今の言文一致者流の如き言文一致にはあらざるべし
はじめ文字という符号のできし時は言葉通りを写したが、発達するに従い文字を利用して、口ならば精密に長々しくいう処も短く文章に現わし、対話ならば礼儀を守って丁寧にいう処も文字ならば多少略することあるに至るべし。然るに「なり」という言葉をやめて「です」「あります」若しくは「ございます」等の言葉を何故に使うや。言文一致論者は発音機(口)と揮毫器(手)との難易を知らざるか。「です」なる言葉は礼儀上の言葉にて比較上の言葉なり。ということは、相手によって小説を書き替えねばならなくなる。言文一致者の文既に平易ならず、解し易からず、おまけに冗長にして雅味なし。さらには地の文に礼儀上の語を書きて読者をして不愉快にならしむるとせば1つの取り処なし。咄(とつ)、奴輩何をかなす。彼よく38,999,999人を瞞着し得るとも、残りの1人を瞞着し得ざるなり。咄、奴輩何をかなす
ü 博言学
余の俗人は博言学の何たるやを知らず。無暗に諸国の言語を覚えこみ、自由にしゃべりちらすが目的なりと思い、従って之に志す人の少きは何故ぞや。文字の誤解より生ずるならんか
ü 試験の点数
「西洋でも日本でも一番で学校を出た人が必ずしも功業をなし大名を挙げし人には非ざるなり」云々とは、いつも学校で下位にある生徒の悪口なり。余も10番にもなったためしなし、1番でも上に上がれたためしなし。さりながらどんなに公平に考えても、「試験を目的に勉強する」「試験の点の多少をかれこれ苦情いう」「学校の科目ばかり知りて外の事を知らぬ」とは余り善きこととは思われざるなり。これもにくまれ口なるや否や、上席の友に質さんとす
ü 玄祖父
余が玄祖父は一甫といって茶坊主。其道には心を委ねられし人と聞こえしかば、定めて風雅なる話やしゃれたる諸道具もありしなるべきが、明治2年の祝融(火災)にかかり一物をとどめず。只々残るは千宗室よりの手紙十数通のみ。曾て五右衛門風呂を木炭にてわかし、其湯に入りて「薪にてわかせしとは入り心地が違う」といいたまいしと。洒落の風、想い見るべし
ü 曽祖父
曽祖父は玄祖父と違い棒をつかい、くさり鎌をつかうことを教えたまいしと。酒を好む
ü 父
父は佐伯氏より来て孫嫡子となりて曽祖父のあとを継ぐが、明治5年40にて逝去。余は少しもその性質挙動を知らず。只々大酒家にて毎日1升位の酒を傾け早逝。死後暫時にして皮膚盡く黒色を呈せしかといえば、脂肪変化(黄疸?)にはあらざりしかと疑わる。病みたまいし時、余は外戚に預けられしも、使い来て父のみまかりたるを告げぬ。両目を泣きはらしたははの膝で死に水の儀式をしたが何の故たるを知らず。いかにおろかなりけん、恥かしきことにこそ。父は高慢にして強情に、しかも意地わるきかたなりしと。余は父のまだながらえたまう折に手習を教えられしことあり。其字の書きぶり今に記憶しいるの心地する故、左に記しおかん
ü 余
余3歳の時母に抱かれて外戚に至りし折から、忽ち家事よと叫ぶ声あり。我家の方角なり。曾祖母と父は酒を飲んで熟睡中、下女もいぎたなく眠りいし折から誤って家事を起こせし。母は驚いたが余は喜びて提灯よ提灯よと喜んだが、此頃新調せし赤鼻緒の下駄も焼けうせしかば、後にて大いに悲しみ、常に「坊、下駄焼てた」といいをりしと。頑是なき子供心とはいうものの、余が心中既に一点の煩悩を起せり。あな恐ろし。 Burnt boys fear fire.
ü 美人の出産地
京都に美人多きは人の知る所なるが、千年以来の帝都にして優美なる雲の上人のすまう処なれば、古より美人を集め、又美人ならざれば都の者と齒(よわい)することの出来ざりしならん。されば自然と此地には美人集まり、遺伝の法にて今まで続くなり。越後の女は色白しとてもてはやすも、蓋し越後の風は淫猥なる故に美女の集まりしならん。岐阜に立ちよりしが、提灯と女が名物という。注意して見るにその傾きあり。此地の淫風を問うに、今年初めて妓楼を作りし位なりといえばさまでとも思われず、其原因を知るよしなし。姑(しばら)く記して疑を存す
ü 童謡
日本の子守歌の善きは人の賞する所。勧善懲悪の意を含み、因果応報の理を暗に示し、しか緯としたれば大に面白きことあり
ü 一九の迷惑
菊池仙湖曾て、十返舎一九を我党の人物に比するに余を以て近しとせり。一室に閉じこもり書籍堆中に安坐するに至ては少しく相似たり。東海道中膝栗毛を書く時には始終独り捧腹大笑したというが、余も此夏友人に贈る書面の如きは、半日間絶えず笑いしを以て、傍らの人々に度々あやしまれたり。一九の大通を以て余の野暮に比す、一九もまた迷惑というべし
ü 道徳の標準
道徳の標準なければ人間は一日も世に処すること出来ぬ道理なり。近頃我高等中学校に道徳会を起こす人あり。我も漱石も異説を唱えたり。曰く、「道徳の標準なる者を有せず。故に事物の善悪を定むること能わず」。道徳の絶対的標準を見出すまでは、到底総てに疑を存せざるを得ず。懐疑派の利点は、感情の為に支配される所少き故に、後に道理を知りし時は其道理を奉ずるに最容易なり
ü 役不足
俳優が役不足をとなうる為に新富、千歳座等の常に調停のできぬことあるは免れがたき所
ü 多病才子
俗にいう多病とは病身の意味にて、病む時の多きをいうが、余は俗にいう多病の上に、字義通りの多病を兼ねたり。頭悪きより、貧血による足先の冷えまで、病気の種類の多きことなり。才子多病というが、反対の真なるを許さば、世の中に我程の者は多からざるべし
ü 枕上の山水
蒲団の中に寐ころびながら山水のけしきを見る程愉快なる事はあらざるべし。枕上に山を見しは厳島と伊香保。寐ながら河に白帆の往来に目をさませしは牛嶋(神社?)の僑居
ü 比較譬喩的詩歌
余は比較譬喩を格段に発句の上に感じたり。自分の遭遇したる境涯等をのべるに、其物其人を鳥、木等に譬えていう。余りに普通になると剽窃、効顰(こうひん、人真似、顰に効う)の毀を免れずと雖も、新趣向に出でたるものは一々に面白く覚ゆ
加賀の千代婚礼の時、「しぶかろか知らねど柿の初ちぎり」とは己を渋柿に比せり
又肥えたる女をとりなして、「一かゝへあるも柳は柳かな」
譬喩は多く理屈なり。理屈は文学に非ず。余は文学に非ざる所より俳句に入りたり(自註)
ü きたないことを綺麗にいう法
喜ぶ時は笑うが如く、悲しむ時は泣くが如く写すは美術の本意かも知らざれども詩歌にては時として悲哀の意、騒擾の事を優美なる句に写し、却て非常の面白みを生ずることあり。長恨歌にある2句、「漁陽鼙(へい、こつづみ)鼓動地来。驚破霓(げい、虹)裳羽衣曲」は能く妙味を解するものにて、若し此間に干戈とか刀戟とか鉄騎とか貔貅(ひきゅう、猛獣)等の字を用いなば、句は殺風景かつ長きものとなるべし。さるをうつくしくしかも幾多の事情を只々此2句にこめたる筆力、日本はおろか西洋にもまたとあるべくも非ず
ü 地口(ぢぐち)
「ぢぐち」は英語のpun(語呂合わせ)に類し、音の同じき所、又は似たる所より起るなり。かの「かけ言葉」もまた一種の「ぢぐち」。地口多きは言葉の紛らわしき証拠なれば、言語学上発達せざるものなるべけれど、文学上には面白き所なきにはあらず。能く寄席にていう事なれど
昨日通りで酢だこで飲んだ → 相撲取りにて白藤源太
盗人を捕えて見れば我子なり → 結び目をほどいて見れば長くなり
一二三四五六七八九十 → 夫婦喧嘩いつも長屋小言
「花もよしの山」「滝の音羽山」「行く水のすみ田川」「末しら河」等地名にかけるは歌にも文にもいと多きが、朝顔日記のさわりの中に、「逢坂の関路をあとにあふみ路や、みのをはりさへ定めなく」とある程巧妙なるはなかるべし。又所謂謎なる者は多くは同音の洒落なり。福引の持ちよりに「密通」と題するあり。之を開けば軽石なり。其心は「人のかかとする」の意なり。「奥座敷にて夫婦の密談」なる題では洋紙1帖。これは養子1條の意。日本語に地口多きを知る
ü 言文一致第2
言文一致の章、いかにも粗漏なる議論なり。言文一致の文、固より精細に写すを得るは争うべからざるの利なれど、冗長に流れ無味に失するは争うべからざるの弊なり。余はあながちに言文一致を嫌うにはあらず、其文相を作る目的と趣向とによって定めざるべからず。何もかも言文一致ならざるべからずというは左袒(さたん、味方する)し難し
ü 扶桑名媛
日本古代より今日に至るまでの女流にて名を残せしものを挙ぐるに、その数最多くしてほとんど際限なかるべけれど、其人口に膾炙せる者を記さん
伊邪那美命、天照大神、木花咲耶姫、稲田姫、、、、、紫式部、、、夕霧、、、、小宰相(こざいしょう、平通盛の妻で一の谷で後追い入水)、元正天皇(げんしょう、第44代初の独身女性)
ü 填字
学校にて戯れにいたづら書をなす
絵好=Economy、今位置=Composition、妻殺児=Psycholosy(ママ)
ü 大三十日(おおみそか)の借金始末
大三十日はかけ取りの忙しいだけそれだけ借金に困る者も多きわけなり。10年前の書生は弊衣破袴ときまりきったる高なりしが、それに借金等は山の如しという有様。これ蓋し一文無しの書生と雖も多少登楼せざるものなき故なり。今の書生は金を余計に費やせども、皆衣食の為にする者多く、放蕩する者とてはめずらしき程なり。されば歳暮だからとて借金に奔走する如きことはあらざるべし。余は放蕩せざれど借金に苦しみしことあり。債鬼の催促から逃げるため、友1人を残して友人宅にて越年。2日に戻る
ü タチツテト
日本の五十音の中にて最不道理なるは「タ」行、之に次ぐものは「ハ」行。他の行は皆同じ子音を母音に混合せしものなれど、「タ」行は子音混合せり。あたり前にはTiとTuだが、Zi、Zu(独逸音)の2音混合せり。英音にては「チ」はchiと書き得べけれど「ツ」は書き様なし。Tsuなどと書くもせんかたなしの附会なり。正しくいえば前のTa行の外にZor, Zi, Zu,
Ze, Zo(ツア、チ、ツ、チエ、ツオ)の1行なかるべからず。「ハ」行も日本にはHuの音なく其代りにFuの音を用いる。これも理屈上よりいえばHa行の外にFa行あるべきなれど、日本人はFu以外は用いることなし。「ワ」行「ヤ」行も後世に至り母音と混合せし音なり
ü 歌舞伎座
余郷里にあるの際は度々芝居にも行き、且つ非常に之を好めり。是空子にすすめられ歌舞伎座に行く。同座は福地氏の立つる所にて日本旧来の風習を脱して改良するとの主意とかにて、世人は之を改良芝居と称す。外題は黄門記。芝居の趣向は一体に淡泊にしてここという骨の処なし。ただ猥褻なことを除きしだけが改良ならんか。團州(團十郎)の黄門、実に打(うっ)てつけ、菊五郎・左團次の藝も見事。されど全体の趣向は実録によるにもせよ、拙劣いわんかたなし。只々上等社会の見物にせんとのたくみにや。大切り六歌仙の團十の康秀や喜撰など面白かりしが、他は一も見るに足らず。寧ろ醜々見るべからざるの所作多し。これが果たして演劇の改良なりや
ü 道中の佳景
東海道鉄道は今年全通せり。箱根、富士は下り列車の右側をよしとす。最其景色の絵画的なるは興津、江尻近傍より後ろを振り向き、富士をながめたる時なり。世界中に比類なき景色なり。道中の山の近きは関が原を以て第一とす。田舎の閑雅なるは掛川袋井。いずれも右側なり
ü 病気見舞
錯節(入り組んだ木の節)に逢うて利刀をしり、霜雪に逢うて常磐木を知り、乱世に逢うて英雄を知り、困難に逢うて人物を知るとか。余此春病床にありし時、病名のよからざるによるとはいえ、日頃疎く暮らせしも含め大勢の朋友が病牀をといくれたり。今迄はあの人は嫌い、交際もせじなどと思いしものも余の病につき心配してくれたるを見て余は慙愧に堪えざりき。今後は前の如きさもしき心をすてんと思いたちぬ
ü 12月帰省
冬期休業に帰省したるは始めて。汽車で神戸まで行きそこから八幡丸で30時間許りの航海の後三津港に着けり。気候温暖なるが為に再生の心地し、7年ぶりに故郷の雑煮を味えり
ü 5友の離散
故郷の4人の友とは詩会、昼食会を共にし、終には共に五友雑誌を発兌せり。明治15年以降は、離散が続き、未だ3人共に袂を連ねるの期を得ず
ü 7変人の離散
4年程前に余等同学生7変人評論なる者をこしらえたり。其人は関、菊池、伊林、神谷、秋山、清水と余なり。清水が間もなく鬼籍に上り、関・井林校を出でて疎くなり、他も離散
ü 遺伝
容貌のみならず性質まで遺伝するとは、今に於て殆ど疑うべからざるの道理なれど、それにも拘らず、道理外れのこと世の中に多し。学者の子孫必ずしも賢ならざるが如し。余試みに和漢洋古今の人物に於て、一家に数人の名人を出せし者を蒐録せり
漢: 蘇秦―蘇代、荀子八龍、孟子と母、蘇老泉―蘇東坡―蘇子由
洋: ダーウィン、ナポレオン1世―3世、ジュリアス・シーザー ― オクタビアス・シーザー
和: 源家、平家、北条氏、楠木正成―正行、義公―烈公、紀貫之―女
ü ク ワ
我郷国にては「カ」と「クワ」とを混ずることなし。習慣による者なれば自然に之を覚える。記憶するのも訳なき話なり。「クワ」とひびかす字の形、自から決まりあればなり。例えば果の字を「クワ」と読むことを知らば、此字に扁やつくりをつけしものは皆「クワ」と読むなり。他に、咼、官、郭、活、化、会、元、見等々
ü 三つ子の魂百まで
余は日本の歴史を考えるにあたって、先づ余の胸中に浮ぶ者は小学校にて読みし日本略史なり。あの天子ならば凡そどの辺の紙の面にありとか、何年も見ていない本なのに、忽然として余の脳裏に画く。実に不思議というも愚なり。これよりいうも小児の教育最大切なる者ぞかし
(明治23年)
ü 言語の変遷
日本に方言の多きは藩閥の余弊なれば、藩閥やみて全国一帯に帰し、交通頻繁になり、従って言語も追々一様になるの傾きあるが、全国に流行するのは東京の語にならざるを得ず。東京語は所謂江戸っ子の使用する簡略なる、早口にいい得べき、つまりたる言葉なれば、愈々多忙に赴く開明世界に於ては、ねばりづよき、なめんだら(秩序のない)なる上方よりは東京語を使うをよしとす。上の如き理由なれば、各地方の言葉は漸次東京語の方へ変遷するは免るべからざるの傾きなり。談話の長短も格段に短くなり、言葉も段々に変わる
余が出京後著しく変わったのは、帽子の普及と5月の鯉。子ある家には鯉を立てぬ家なし
ü 漱石の書簡
明治22年8月3日東京発手紙
病気見舞い。先月兄と興津に転地療養した時、風光明媚だが、宿屋で雲助同様の待遇を蒙る。9月には真っ黒な顔を御覧に入れる。夫迄はアヂュー 菊井町のなまけ者
丈鬼(じょうき=常規=子規)兄座右
9月15日付書状東京より
露冷残蛍瘠風寒柳影疎なるの時節とはあまり長過ぎてゴロがわるいが僕が創造の冒頭なればだまって御覧被下度。房州より上下2総を経歴し早速1書を呈する積り
9月20日付書状の末に
五絶一首小生の近況に御座候御憫笑可被下候。第1句は成童の折のこと2句は16,7の時転結は即今の有様にて御座候字句は不相変(あいかわらず)勝手次第御正し被下度候云々
抱剣聴龍鳴 讀書罵儒生 如今空高逸 入夢美人声
ü 漱石の書簡第2 付余の返事
本年1月1日付(ママ)書状
御前兼て御趣向の小説は已に筆を下したまいしや今度は如何なる文体を用いたまう御意見なりや兎角大兄の文はなよなよとして婦人流の習気を脱せず近頃は篁村流に変化せられ旧来の面目を一変せられたる様なりと雖も未だ真率の元気に乏しく従って人をして案を拍て快と叫ばしむる箇所少なきにやと存候総て文章の妙は胸中の思想を飾り気なく平たく造作なく直叙するが妙味と被存候今世の小説家と自称する輩は少しも「オリジナル」の思想なく只文字の末をのみ研鑽批評して自ら大家なりと自負する者にて北海道の土人に都人の衣裳を着せたる心地のせられ候文壇に立て赤幟を万世に翻さんと欲せば首として思想を涵養せざるべからず思想中に熟し腹に満ちたる上は直に筆を揮って其思う所を叙し沛然驟雨の如く勃然大河の海に瀉ぐの勢なかるべからず御前の如く朝から晩まで書き続けにては此Ideaを養う余地なからんかと掛念仕る也毎日書き続けたりとて子供の手習と同じことにて此Original ideaが草紙の内から霊現する訳にもあるまじ伏して願わくは御前少しく手習をやめて余暇を以て読書に力を費し給えよ病人の好まぬことをいうのは苛酷の様なりと雖も手習をして生きて居ても別段馨しきことはなしknowledgeを得て死ぬ方がましならずや只一片の赤心を吐露して歳暮年始の礼に代る事しかり。穴賢
御前此書を読み冷笑しながら「馬鹿な奴だ」と云わんかね兎角御前のcoldnessには恐入りやす
12月31日 漱石
子規御前
余此返事をしてやりしに直ちに返事来りたり
いそがしき手習のひまに長々しき御返事熊々御つかわし被下候段御芳志の程わりい(洋語にあらず)かく迄御懇篤なる君様を何しに冷淡に冷笑のとそしり申すべきやまじめの御弁護にていたみ入りて穴へも入りたき心地ぞし侍る程に一時のたわ言と水に流したまえもう仙人もあきがきた時分だろうから一寸已めにして此夏に又仙人になりたまえ云々
別紙文章論今一度貴覧を煩わす云々 埋塵道人 拝
四国仙人梧下
別紙の写し
僕一己の文章の定義は下の如し。「文章is idea which is expressed by means of words on paper 故に小生の考えにてはideaが文章のessenseにてwordsをarrangeする方はelementには相違なけれどessenseなるidea程大切ならず
Best文章is the best idea which is expressed in the best way by means of
words on paper 此Under lineの処の意味はideaを其儘に紙上に現わして読者に己のideaのexactなる処を感ぜしむると云う義にて是丈が即ちrhetoricのtreatする所也
余之に返事して曰く
千古の迷文斎戒沐浴して誤熟読奉願候この文のみにても小生の手際可相分候呵々
1月18日 野暮流 拝啓
漱石先生虎皮下(こひか、軍人・学者への手紙の脇付け)
ü 麦緑菜黄
東京近郊は余り菜を種えず、其上隴間(ろうかん)には必ず枯木の列をなすありて広濶(こうかつ)澖たる野景を見る能わず。遠近の山色、濃翠淡緑の景色は帰省中常にみるを得、西郊の麦緑菜黄は7年以来之を見ず
ü 春水の文
為永春水の情史は一時に行われ、深閨の貴女より下働きのおさんに至るまでが持てはやすものとなりたれば、世の大人君子は其罪を唱える者少からず。此頃は篁村氏はじめ沢山の学者たちがだいなしに打ちこわされたれば春水はめちゃめちゃの姿になりぬ。されど其猥褻なるにも拘らず、人情を写すの妙は先生独有の長所なり。梅暦(春色梅児誉美)よりは辰巳の園(春色辰巳園)の方一体に少し面白き様に覚ゆ
ü 道中の雪
去年節季(年末)帰郷の際は関が原へんにて吹雪にあいたり。帰京の際は御殿場近辺に着きしに木も山も皆真白に染み、見るもの雪ならぬはなし。ここは昔征夷大将軍源頼朝公が富士に牧狩したまいし折の仮御殿をつくられし処なりといえば、わけてなつかしく面白かりき。谷川のみ雪もつもらでサラサラ流るるさま得もいわれぬけしきなり。中にもいとやさしくをかしかりしは河の中の大なる石の水にうるおわぬ限りは雪白くつもりて、帽子をいただくが如くここかしこにうづくまれり。せめて1句なりともと思えども、心は美景に奪われて一言だに浮ばず
ü 柳生流の書類
旧松山藩に伝わる新陰柳生流の書類を1つの筺に入れて久松家の蔵におさめなんと、大叔父の計りたまい、其箱の上に其よしをかきつけよとおのれに命じられしかば、左の案文を作る
「旧松山藩に剣道を伝えるもの4家あるが中にも、わきて新陰柳生流は広く世に行われ、代々山本氏に伝わりけり。明治2年12月藩命により4流を合して一とし、山本尚監を其司教とせらる。尚監病を以て其職をいろいしより後、剣道全く衰え其後をつぐ者なし。門人其書類の散り失せなんことを憂い、之を集めて久松家におさめ、長く末の世に伝えなんとす」
ü 清水則遠氏
名は実を現わすとかや、則遠氏は淡泊なること実に清水の如しともいうべし。黙々として言わず、莞爾として微笑す、独り行き独り止まる。然れども変人に非ざるなり。名利に汲々たるの俗気もなし。実に通中の俗、俗中の通、余は君を推して聖人といわんとす。聖人不適当ならば眞人といわんと欲す。常盤会給費生となりしは明治18年。余落第して同級となり同宿。遺伝のひどい脚気のため箱根に逗留。余生来懶惰、俗字にかまわざるの傾きあれど、君に比しては一等を譲らざるを得ず。総てに無頓着で、君と共に居れば怒り甲斐もなく、従て気も長くなるというのが余が殊更に君と同寓を願いし所以なり。3月病体急変、医者に診せようにも実家からの仕送りが為替のトラブルで金がなく往診も投薬のしないままに死去。同学の友総出にて送る。谷中天王寺に土葬。写真を模写し又油絵も画かしめしが、皆眞を写さず。惜しむべし
ü 賄征伐
余は一昨々年より一昨年の夏までは一ツ橋外の高等中学に寄宿。食道の席は決まっていて、時間前になると大勢集まって開帳をうるさく催促する。食事の内容は下宿屋よりはましで、菜を卵にかえる事も出来る。余等かねてより賄征伐の名を聞きしも実の絶ゆるは残念なり、一度之が実行を試みんとは同級入舎生の日頃の持論なりき。4月末実行せんと檄文を回し、5時の開帳の鐘を合図に食堂に押し入り、乱暴狼藉を働き凱旋するが、首謀者が停学処分に。無実の者まで処分されたが余はのがれたり。10日~1ヵ月を経て順次解かれたが、一部は剃髪
ü 清水則遠氏第2
死去直後に国許より1封の書簡到着、開けて見れば仕送りの為替也。2月も3月もどうしてどこに隠れいしか、不思議というもおろかなり
ü 美人の笑顔
書生が寄ると金を拾う話が始まるを通例とす。いくらあったらいいなという話。余等別に金を貯蓄せんとの気はなけれど、費やしたきはいうまでもなし。余りにくからぬ美人なり
ü 下手の長談義
余は身をあやまらんとせし後進に説諭したることあれば其大意をかかぐ
人間が一定の目的を立ておきながら勉強せぬはおかしきこと。遊戯する間も常に目的の事を忘れぬ様にすべし。目的と方法をあやまってはいけない。金を貯めるのは手段であって、金を貯めるだけというのは目的とはいえない。学者にしても、大学者にならんと企てし者が、卒業して高給を取るに至りて其大目的を忘れ、小成に安んじるのは誤謬
勉強と遊戯の区別は、其為すことが我目的に達するための一手段とならば、之を勉強というて可なるべきか。遊戯にも種類あり、最善きは運動をかねたる遊戯なり
先づ本心に帰り己の目的をめがけて行くべし。ゆめ怠りたまうな
ü 芸道
技芸は天禀による者なり。刻苦してもラ、フェール(?)にはなれず、鼉(だ)勉しても左甚五郎には及ばじとは、東西一致して称道する所なり。何藝にても全く手に入りて天然と人為とをわけ難きに至りたらば、苦しきこともなく窮屈なる所もなかるべし。ただに包丁の牛を解く(余裕をもって物事を処理する譬え)のみならんや。故に馬の上手は如何に酔い倒れるの折にも、馬の上へ抱え乗せたらんには忽ち蕭然として本性に返るとか
ü 試験のずる
余は東京の学校に入りて所謂ずるの甚しきに一驚したり。其習慣は普通一般の事にて、之を見れども怪しむものなく、己の知らぬことは他人に聞くを恥とせず、他人に聞かれたることは答えざるを恥とするに至れり。余も朱に交われば赤くなるとか、すぐに其仲間入りを命ぜられ、1年以上経ちて感ずることありて前非を悔やむ。詐欺をおかしてまで1番2番を争うとは
ü 女流の俳句
詩歌俳句の眞味はいずこにあるかしらねども、とにかく優美ということは要用なる1元素に相違なかるべし。俳句は和歌と違い字句切迫せるを以て、従って奇警(奇抜)なる句、俊抜なるもの多かれど、優美なるもの極めて少し。独り女流の俳句に至りては、句々自ら一種のやさしみありて其妙いわんかたなし
初雪やたれが心も一つ夜着 薄雲(江戸の遊女)
ü 手習の時代
書生の発達進歩の景況を見るに、新しき時代の書生程学力も進歩し、知識も増進することおびただしけれども、只々劣るものは漢学の力と漢字を書くことなり。昔の子供は読書をするよりは手習を第一とせし故拙筆と雖もかなり上手なりき。余も6歳頃より御家流を習いしも、生来不器用にて書も拙し。未だ嘗て習いしことなき画や洋字の如きは其拙いわんかたなし
ü 子供の教育
子供を教育するに其いやな事を無理に教えるべからず。余は幼より物事を記憶することきらいにて、現に小学校卒業の際も暗記にて落第せんとせしを、教師の憐憫により特別に及第せしことありき。此頃に至りては其度益々はげしく、歴史の暗誦には実に閉口奉り候。子供の時より知らず知らずの間に覚えしむるようにすべし。カルタ、雙六の如きは実に無上の教育法なり。俗諺や歴史上の事実などを画きおく時は、小児は自然に之を記憶するに至るべし
ü 茶の湯
余若し閑を得ば茶の湯を習わんと欲す。ただ心を静めるの目的を以て之をなさんと欲す。茶の湯は坐禅なり。只々動静の差あるのみ。茶の湯は動く坐禅なり。贅沢の一遊は笑止千万
ü 女子の教育
女子を教育せざるべからざるは其子に遺伝すると、其子を教育するに必要なるとにて知るべし。然れども此頃の女子の教育の有様ならば寧ろ無きに如かず。1は今の女子の父母たるもの頑固愚昧にして我子を教訓制御すること出来ぬによるとはいえ、1は今の女学校の制宜しきを得ざるなり。教師の悪しきこと其第1なるべし。其若きと不徳なるとの2なり。若き中にも年老いたると徳行のあるとを選ぶべし
ü 姑の有無
世の人情として、女を嫁するに姑あるの家を嫌うを常とす。よめが姑となる者ならば姑は皆わるきものとは限らざるべし。嫁の処置にして当を得たらんか、姑はまた何ともいわざるべし。否姑の気に入ることも容易なることなり。殊に当世の女子の如く我儘にそだちたるものは、姑なき家に嫁ぎなば我儘つのりて非常の醜聞を発することあるべし。自ら嫁する者、女を嫁する親、謹んで其家を選ばざるべからず
ü 雅号
雅号とは支那伝来の名称にして自ら称する者あり、先生より名をもらう者あり、1人にして十余号を有するもあり。其多きものは日本にて瀧澤解、太田覃、平賀源内の3人
瀧澤は、曲亭、馬琴、蓑笠、信夫翁、篁民、著作同、乾坤、一草亭主人、大榮主人
太田は、南畝、寝惚山人、杏花園、石楠園、蜀山人、遠櫻山人、四方赤良
平賀源内は、風来山人、天竺浪人、福内鬼外、下界隠士、悟道軒、讃岐の行脚無一坊、鳩渓
余の雅号は、10歳の時は旧家の庭の櫻を見て「老櫻」、家が中ノ川に瀕する所から「中水」、書斎の額にあった「香雲」、卯年生まれにて「走兎」、「漱石」とは高慢なるよりつけたるか、今友人の仮名と変ぜり。「升」は余の俗称、去歳春喀血せしより「子規」と号する。今日余の用いるは、
常規凡夫、丈鬼、子規、獺祭魚夫、秋風落日舎主人、野暮流、盗花、沐猴(さる)冠者、莞爾生他
芭蕉の別号は、風羅坊、宗房、泊船堂、桃青、無名庵、杖銭子、蓑蟲庵、是仏坊、瓢中庵
風雪の別号は、治助、黄落庵、寒蓼堂、雪中庵、不白軒、玄峰堂
ü 緋の蕪
緋の蕪は葉茎根共に鈍紅色を現わし、根の内面は淡紅色。必ず塩漬にして食う。其味甚だ美なり。こは松山の産物にして他所に生ぜず。松山にても城下2,3里の間に過ぎず。其種を東京に種えても初めの年は淡紅色を現わせども、次の年は真白となりて通例の蕪となるよし。近江の日野から来たもので、緋の蕪にあらず
ü 褒貶
父も母も人を是非せしことなきといわれたが、然らばわれの好んで他人を褒貶するは果たして誰の遺伝なるべきか
ü 月夜に釜ぬく(ひどく油断することの譬え)
題号の如き諺は誰も能くいう所なれど、其意味を知る者少し。其画を見るに釜を頭にかぶりたるもの多し。ぬくとは釜を竈より抜き取るの意味なり。何の譬喩なるやというにさっぱりわからず。賊の知恵の浅はかなるを笑うか、月夜なりとて油断せしに釜を盗まれしという意か
ü 天爵と人爵
四角帽子車夫の頭に上って大学生に威光少く、洋行帰りの学者、数ふえて大学卒業生価値を減ず。嗚呼人爵は一時のこけおどしなり。アリストートル(アリストテレス)は文学博士の称号を的にして勉強したるにもあらず。天下、大ならず、瓢、細ならず、身外の物総て累を為すものを、学位といえば珍重がる余の俗輩こそ笑止なれ。若し学位の身を離れることあらば価値がなくなるの時なり。天爵ある者は天爵を頼む故、悲しきことには肩書にすべき称号なし。従って世人を瞞着して名誉を博し、金銭を貪るが如き手段なし。其代り穀粒が咽喉を通る間は其依頼物を離れるの憂いなく、其名誉は一世に博せずして万世に博す。我近頃中学がむしょうにいやになり、1週間の中、4日は内にありて爈を擁するを常とす。故に人爵もなく(斟酌もなくのしゃれ)俗骨を嘲罵して得手勝手なる議論を為すこと右の如し。天爵にはあらぬ疝癪道人しるす
ü 正岡易占
卜筮(ぼくぜい)術の伝授を受け、漱石に頼まれ運命を占う。「升」「師」に遇う。之を判断して曰く、「宜しく朋友を選ぶべきなり。総するに初め君の学問上進の度は著しく、嶄然(さんぜん)頭角を現わし、終には其名声海の内外に聞え渡るに至る。天下の書生、君を慕いて帰する者多きに相違なしと雖も、君の言論文章には一癖ありて天下を毒することなきにもあらず。学者に偏見あるは古来皆一徹にて別に咎むべきにもあらねど、其言、多少天下を毒するに至りては注意せざるべからざるものあり。君請う、其所論を吐くに当りて千思万考、主として僻見(偏見)を除くことをつとめよ」
ü 毛髪髭髯
頭髪は長きがよきか、短きがよきか? 長きがよければ壮士にしかず、短きがよければ僧侶にしかず。昔の学者(シェークスピアの類)を見れば、皆其髪垂れて肩に至るを見る。されば今の斬髪は果たして開化の結果であるか。然るにここにおかしきことは髭髯に限り之を斬るものもなく、却て皆其長きを誇るが如し。余は口髯を嫌うには非ず、只々其高慢となり恐嚇(きょうかく、脅す)となるを嫌う。英雄は多く髯を貯えず。其意は容貌をして厳正、魁梧(大きく立派)ならしめず、却て張良(劉邦の軍師)的の容貌を学び、人心を収攬する者なりと。それ然らん
ü 盗に大小あり美醜あり
最近余新たな号を得たり。盗花という。時に盗化と書す。狡猾な男が半夜ひそかに官林に入りて材木を伐れば、世人の嘲る所となり、生酔のいたづら者、公園をよろよろ歩きて路傍の櫻を折る、世人の笑う所となる。其心情大に異なる者あればなり。人の熟睡の欠隙をくぐりて貨物を盗む者あり、世人嘲る。廻り番のすきを見すまし、傾城の手を引き帯につかまりて滑り降り、終に行方をくらますの者あり、世人笑う。笑う所の者は善き事にはあらざれども、之を嘲る者にくらべなば、其間多少可憐の意を寓する者なり。花を折るも痴情なり、女を盗むも痴情なり。痴情は賞すべき者ならねど、其心実を推せば美を愛するの極ここに至りたるもの故、其咎め大ならざるなり。余は美術を愛すること甚しく、殆ど将に狂せんとす。よりて盗花なる名をつけたるなり。若し之を翻訳すれば、美狂という語を用うべし
ナポレオン曰く、事を為さんとならば成るべく大なることをなすべし。世界を取るも盗なり、宇宙を取るも盗なり、同じ盗賊の内では盗跖(とうせき、魯の盗賊)、石川五右衛門が有名なりとすれば、世界を盗みしよりも造花を盗みしかた其功大ならざるべからず。余は哲学を愛する者なり。宇宙の大原理を造花より盗まんとする者なり。故に盗化という。東坡の只江上之清風
與山間之明月という面影にも能く似たり。盗化を翻訳すれば理狂という語を用うべし
余は哲学的美術と美術的哲学を好む。故に詩歌文章の類に記名するに、哲学の観念を以てする時は盗化と書し、美術の嗜好を以てする時は盗花と書く。2号とも余の一身を盡すものなり
ü 洒落の極意
腹痛で苦しむ友を弔いしに、其療法は神を祈るにあるのみといわれ、友は「のたまうな。只々高天(たかま)ヶ腹よりあまくだりさえすればなおるなり」と。心を悩ます病中すら猶此雅量あり。真に洒落の極意を得る者というべし。同氏此時病気もいえしとか。これまた風雅の一徳也
ü 「らん」と「らし」
共に想像する辞なれども、「らん」は原因より結果を想像し、「らし」は結果をみて原因を想像するものの如し。ただし古今時代と古今以後とを混じたるために曖昧なるが如し
ü 悟り
明治19年秋、数学者の息子で同級の学友が余が下宿を訪ねて来た。余り付き合いのない男だったが、話すにしたがい博学、しかも2歳も若いことに驚く
容易に刺激さるるは余が浅学にて見識なければなり。然れども是等の刺激は余のための大良薬にして,害とはならざりしと覚ゆ。明治21年常盤會寄宿舎に入り同室になったのが新海(非風、にいのみひふう、号非凡)。神経過敏にて閉口することもあったが、余が心を練る上に於ては実に新海氏の力大なりというべし。余が想像するに、仏教の悟りとは知識の上に関係するものにあらずして意識の上に関するものなり
ü 智仁勇
此頃の新発明にかかると思う詞が時として古代の支那語にあるは珍しからぬこと。積極・消極は陽と陰にあたるが如し。某氏曰く、「智仁勇は心理学上の情知意に相当し、智は知(インテレクト)、仁は情緒(エモーション)、勇は意志(ウィル)なり」と。実に名説というべし
ü 日本語の由来
日本の名詞の過半は支那語より来りしことは、前述『帰化外国語』を読みても分かるべし。日本にて多少なまりし故に不分明となりたるもの、梅は支那音「メー」から、馬は「マ」から来りしか。他にも転化し来るもの、雨を「アメ」というは天(アメ)より降るという事の転化せしならん
奴(やっこ)とは家隷(いえのこ)の略語なり。「こ」というは総て小の意味なり
動詞形容詞が変じて名詞となるは各国ともその例夥し。綱を「つな」というは繋ぐという動詞より来り、「編む」という動詞より網という名詞来る。「くもる」より雲、「たたむ」より畳を生ず
意味の非常に変化したのもある。旅人に贈る餞別を「はなむけ」という。昔は馬に乗って旅立つ時、其馬のはなづらを行方(ゆくて)のかたにおしむけて挨拶せし故、此はなむけなる語出でし。又天守閣というははじめ織田信長が天主教を信じ礼拝堂として高き堂を築きしものなれど、其後はいづこの城にも必ずありて天主と名づけられるに至れり
2つの言葉を連ねて1語となし、普通に用いるため、其2語なることに気づかぬことあり。「ふたたび」は「2度」、兄を「このかみ」というは「子の上(かみ)」、「すだれ」は「簾垂」、「ともしび」は「ともし火」、「なかうど」は「中人」、「たかどの」は「高殿」、「かみなり」は「神鳴り」
ü 範頼の墓
範頼の墓は伊豆の修善寺にあるが、旧大洲藩領内にも大洲侯建立といわれる「蒲冠者範頼公之墓」の碑あり。誰もそのいわれを知らず。歴史に志す人は注意したまえ。砂の中に金あり
ü 画の合作
下宿の同人集まって画を合作
ü 水上の虹霓(にじ)
ある冬の朝10時頃、一ツ橋から堀に沿い大蔵省の前頃に来りし時、水面に一条の虹を現わしたり。水中に油をそそぎたると同じ理なるが、1,2町の間に限りてこの現象あるは何故ぞ
ü 書斎及び庭園設計
栄耀を盡したきともかなわず、せめて学校なりとも卒業したる上の楽しみは、我心に一応の満足を与えるべき書斎と庭園とを作ることを得ばそれで十分。其設計を左に掲ぐ。狭くてもいいが、最小でも東西は20間で、書斎は和洋2つに分ち、洋風は書庫に。書斎は総て日本風の雅趣を存すべし。東庭は幽邃(すい)竊を主として中央に池をこしらえる
ü 筆頭狩
春快晴の日とも2人とつくし狩に向う。板橋街道を北へ、終に町はずれに出でければ麦緑菜黄のけしき一方ならず。板橋の町はずれの草原がつくしの群生する場所。帰舎後大勢打ちよりてつくしの袴をぬがしめ、翌日の午飯のさいとして腹中に葬りをわんぬ
ü 活力統計表
17歳の活力表は、身長5尺3寸1分、体重12貫925匁、肺量220立法寸、力量9度
22歳の活力表は、身長5尺4寸1分、体重14貫、肺量270リットル、力量6度
ü 活力統計表第2
21歳の頃、身長1.63メートル、体重14.35、肺量345リットル、握力右38㎏、左39㎏
ü 鬼の目に涙 付文学者心得
7月20日夏目氏より書面来る
御経づくめに抹香くさき御文盆過ぎにてちと時候おくれまがら面白をかしく拝見仕候先以て御病体日々仏くさく被相成候段珍重奉存候此頃の暑は江戸でも同様にて日中はさながら瓶中の章魚(たこ)同然此頃は持病の目がよろしくない方で読書もできずといって執筆は猶わるし実に無聊閑散の極、試験で責めらるるよりは余程つらき位なり無事是貴人とは如何なる馬鹿の言い草やら今に至って始めて其うそなる事を知れり 漱石
子規病牀下
8月9日付書状又々同氏より来る
其後眼病兎角よろしからず其がため書籍も筆硯も悉皆放抛(ほうてき)の有様にて長き夏の日を暮しかね不得已くくり枕同道にて華胥(かしょ)の國(伝説の国)黒甜(こくてん、うたた寝)之郷と遊び歩き居候得共未だ池塘(高層湿原)に芳草を生ぜず此頃は何となく浮世がいやになりどう考えても考え直してもいやでいやで立ち切れず去りとて自殺する程の勇気もなきは矢張人間らしき所が幾分かあるせいならんか「ファウスト」が自ら毒薬を調合しながら口の辺まで持ち行きて終に飲み得なんだという「ゲーテ」の作を思い出し自ら苦笑い被致候
(略)小生箇様な愚痴っぽい手紙君にあげたる事なしかかる世迷言申すは是が皮きりなり苦い顔せずと読み給え 漱石拝
子規机下
8月15日返事を認ること左の如し
何だと女の祟りで眼がわるくなったと、笑わしやァがらァ、此頃の熱さ(ママ)ではのぼせがつよくてお気の毒だねえといわざるべからざる厳汗の時節、自称色男はさぞさぞ御困却と存候
2度目の御手紙は打って変っておやさしいこと、ああ眼病はこんなにも人を変化するや物のあわれもこれよりぞ知りたまうべきといとゆかし、鬼の目にも涙とは此時よりいいならわしけるとなん。此頃は浮世がいやでと来たからまた横になるのかと思えば今度は棺の中にくたばるとの事、あなおそろしあなおかし。最少し大きな考をして天下不大瓢不細という量見にならではかなわぬこと也雪中に肘をきった恵可を思えばまだまだ若い
慧可断臂(えかだんぴ): 非常に強い決意のほどを示すこと。禅宗の高僧慧可は、嵩山(すうざん)の少林寺にいた達磨に教えを請い、ある大雪の夜、雪の中に立って自分の左臂ひじを切り落として求道の決意のほどを示し、それによって教えを授けられたという故事。後世、画題としても有名。
下手の長談義さぞ有りがたく御聴可有之と存候不一 花風病夫拝啓
漱石雅契(志を同じくする同志)
ü 大学者の喧嘩
8月末つかた漱石大人より手紙来る
君が散々に僕をひやかしたから僕も左の1詩を咏じてひやかしかえす也
君の説諭を受けても浮世は矢張り面白くもならず夫故明日より箱根の霊泉に浴し昼寐して美人でも可夢候 露地白牛(清らかな場所の意)
正岡詞兄
8月29日大津より右の返事を出す
御手紙拝見寐耳に水の御譴責状は実に小生の肝をひやし候(ひやかしにあらず)君を褒姒視するにはあらざれど一笑を博せんと思いて千辛万苦して書いた滑稽が君の萬怒を買ったとは実に恐れ入ったことにて小生自ら我筆の拙なるに驚かざるを得ず何はともあれ失礼の段万々奉恐入候喧嘩口論はおやめとして無言ぴっしゃりの誓いを立て玉首の返事をすべし
漱石雅契 蔗尾道人
褒姒(ほうじ)は、西周の幽王の2番目の后。美貌により王を惑わせ西周を破滅に導いた、亡国の美女
ü ろくさい
三井寺観音堂前に寓居中、ろくさいを見てきやはれといわれる。村のお百姓たちが鉦と太鼓をたたいて舞い踊る、というよりただただはねる。10曲ばかりの後最後は獅子舞
学校の体操としたら、兵式体操より一層面白からん
ü 一歩一句
9月の好天気に南塘先生の発案で余等3人新井薬師を目指して歩き、路々聯句を為す。新井より堀の内に至る間にて終わりを告げ、堀の内の「しがらき」にて午飯
ü 「くわ」という音
「クワ」という音は漢字にのみ存するを見れば、日本固有の音にはあらざるが如し。余が郷里等にては婦女子と雖も両者を区別して発音するに、これをあやまることなし。これ固より怪しむに足らず。何となれば菓子の如きは生れ落ちて言語を覚ゆるの際より已に「クワシ」なる事を知りて「カシ」とはいわず。土佐には此区別なし。今日両者を区別しても、支那語と全く同じき訳にもあらざれば無用なりとの意見もあるが、歓観の字の類は今日支那語にても「クワン」なり。日本語は漢語のなまりし以来、同音の語の多きに苦しみ居ること故、せめて「カ」と「クワ」だけでも区別したらよかるべしと思う。菓子屋(クワシヤ)と貸家(カシヤ)の違いは多くはあらねど、人が漢文漢詩などを読むを聞く時は、実に解しがたき音の多きを知るに足るべし
以下、前は「カ」にて後ろは「クワ」と知るべし
解・粥・階・戒/会・怪・懐、害/外、鍛冶・家事/火事、幾何/奇貨・帰化、以下/医科
合拗音
合拗音とは「クヮ・グヮ」で表される音。 [kwa] [gwa] と1拍で発音されます。
近世までの日本語では「カ・ガ」と「クヮ・グヮ」とは完全に別の音韻で、「カ・ガ」と発音されるか、「クヮ・グヮ」と発音されるかは、語によって決まっていました。
合拗音は江戸では衰退が早かったらしく、19世紀初頭には既に「カ←→クヮ」「ガ←→グヮ」の区別が失われていたことが当時の書物の記述(『浮世風呂』の例が有名)から窺えます。
四つ仮名の場合同様に、合拗音を含む語を覚えたい方向けの分類表を下に示します。ただし四つ仮名の場合と違い、「カ・ガ」と「クヮ・グヮ」との聞き分けはほとんどの方が出来るでしょうから、常日頃から発音し分けるようにして区別を覚えるという方法は少し採りづらいかもしれません。
凡例
漢字の音読みには大きく分けて「呉音」と「漢音」との2系統が存在しますが、呉音で「カ」と読むものを漢音で「クヮ」と読んだり、その逆であったりするような字は今のところ見つかっていません。そこで本表ではスペース節約のため、その読みが呉音であるか漢音であるかそれ以外(唐音・慣用音)であるかを示す表記は割愛しました。
合拗音はもともと漢字とともに日本語へ取り込まれた外来音です。そのため合拗音を含む語はすべて漢語で、和語の中には存在しません。
四つ仮名の場合と異なり、構成要素を同じくする漢字同士は「カガ」「クヮグヮ」のどちらかにまとまって属するのが原則です。ただしこれには次のような例外も少数ながら見つかっています。
「官」を共有する漢字(官棺管館など)はクヮンが原則である中、「菅」だけはカン(大陸側で個別に発音が変化したと思しき例)。
「毎」を共有する漢字の中で「悔晦誨」はクヮイなのに対して、「海」はカイ。
表・目次
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カ・クヮ / ガ・グヮ / カイ・クヮイ / ガイ・グヮイ / カク・クヮク / ガク / カツ・クヮツ / カッ / ガツ・グヮツ / ガッ / カン・クヮン / ガン・グヮン
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ミニマルペア
カ【下/加/伽/架/嘉/可/何/呵(例:呵責)/河/苛/荷/歌/仮・假/暇/瑕/霞/価・價/佳/夏/家/嫁/稼/箇】
クヮ【化/花/訛/貨/靴/火/科/瓜/果/菓/課/顆/華/譁/嘩/渦/過/禍/寡】
ガ【牙/芽/雅/我/俄/峨/蛾/餓/賀/駕】
グヮ【瓦/臥(例:臥薪嘗胆)/画・畫】
カイ【介/芥/界/戒/械/誡/改/拐/皆/階/楷/諧/開/解/懈/蟹/海/街】
クヮイ【会・會/絵・繪/獪(例:狡獪な)/回/廻/灰/恢(例:天網恢々)/快/怪/悔/晦/誨/塊/魁/隗/潰/壊・壞/懐・懷】
ガイ【亥/劾/咳/孩/該/骸/害/崖/涯/凱(例:凱旋)/街/慨/概/碍・礙/蓋】
グヮイ【外】
カク【各/客/挌(例:挌闘)/格/閣/角/脚/革/核/殻・殼/覚・覺/攪/較/隔/嚇/確/鶴】
クヮク【拡・擴/郭/廓/画・畫/劃/獲/穫】
ガク【学・學/岳・嶽/愕/萼(花の)/諤(例:侃々諤々)/顎/楽・樂/額】
カツ【喝/渇/褐/割/葛/轄】
クヮツ【刮/括/活/闊/滑】
カッ【合】
グヮツ【月】
ガッ【合】
カン【干/刊/奸/汗/旱/肝/悍(例:精悍)/幹/甘/柑/箝(例:箝口令)/甲(例:甲冑)/侃(例:侃々諤々)/函/姦/看/陥・陷/乾/勘/堪/寒/喊/感/憾/敢/瞰/間/簡/癇/閑/漢/監/檻/艦/鑑/翰(例:書翰)/諫/艱(例:艱難辛苦)/韓/菅】
クヮン【缶・罐/完/冠/浣/官/棺/管/館/巻・卷/患/貫/慣/喚/換/款/勧・勸/歓・歡/観・觀/灌(例:灌漑・灌水)/寛(例:寛永)/関・關/緩/還/環】
ガン【含/岸/岩/巌・巖/眼/雁/贋/顔】
グヮン【丸/元/玩/頑/願】
同じ部品を共有する漢字群が「か」「くゎ」に別れる例
「官」を共有する漢字(官棺管館など)はクヮンが原則である中、「菅」だけはカン
「毎」族のうち「海」はカイ、「悔晦誨」はクヮイ。
ミニマルペア
感心(かんしん)←→関心(くゎんしん)
解析(かいせき)←→懐石(くゎいせき)
階段(かいだん)←→怪談(くゎいだん)
歌詞・河岸(かし)←→菓子(くゎし)
家事(かじ)←→火事(くゎじ)
佳日(かじつ)←→過日・果実(くゎじつ)
歌壇(かだん)←→花壇(くゎだん)
寒気(かんき)←→歓喜(くゎんき)
刊行(かんこう)←→観光(くゎんこう)
感情(かんじょう)←→環状(くゎんじょう)
感想・間奏・乾燥(かんそう)←→換装・完走(くゎんそう)
寒冷(かんれい)←→慣例(くゎんれい)
県下(けんか)←→喧嘩(けんくゎ)
好感(こうかん)←→交換(こうくゎん)
週間・週刊(しゅうかん)←→習慣(しゅうくゎん)
誰何(すいか)←→西瓜(すいくゎ)
補間(ほかん)←→補完(ほくゎん)
高歌・黄河 ←→ 工科
(明治25年)
ü 11時間の長眠
2日にわたって俳句の分類に加えて送別会や晩餐などで忙しく、寓居に帰りしは11時頃、それより発句類題全集の分類に従事、1時過ぐる頃寝に就きたり。翌朝目覚めて婆々に聲をかえて何時にやといえば、はや12時を過ぎたり。11時間の長眠にしてしかも其間一度も眼の覚めたることなし。余生れて未だ此の如く長寝せしことはあらじ
真昼まで燈の残りけり秋の雨
編輯後記
松山時代に始まって新聞『日本』に執筆するに至る以前の作品――殆どすべて未出生と云っても差支無いところの原稿を集めてこの1巻とした
「少年時代詩篇」は最後の数篇を除き悉く在松山時代のもので、現存せる居士の作品としては最古のものに属する。この時代の作詩に就ては居士自身『筆まかせ』の中の『哲学の発足』に「明治13年に友人と同親吟會を立て、詩稿河東静渓先生に見てもらい闘詩をして勉強した」とあるによって明らかだが、当時の記念として今子規庵に残っている『同親會詩鉦』『五友雑誌』等や、その他の『松山雑誌』等には居士の詩は載っていない
この「少年時代詩篇」は、以上の諸書から居士の作詩を抜抄し、そのうちから居士自身選択抜粋した「漢詩稿」(全集第6巻収載予定)所載分を省いたもの。時代は出来る限り順序を追っている。明治13年3月が最も古く、16年中のものが最新。13年10月の『五友誌文』の表紙裏に居士の文章があるのでここに採録する 明治29年1月 根岸子規識
病んで褥に在り、長夜悶々、偶々五友雑誌等数冊を得たり。披いて之を読む、15,6年前の事、彷彿眼前に在り。今昔の感に堪えず。只々作者の故仮名を記す。今已に其誰たるを知らざる者あり。他日更に今日記する所の者を併せて忘却し去らんことを恐れ左に之を記す:南渓(森知之)、東岡(竹村鍛)、寝惚(太田正躬)、南海(松浦正恆)、南嶺(稲川元善)、好吟(正岡常規)
「無何有洲 七艸集」は明治21年中、居士が向嶋僑居中の産物。この内容に就ては、「『七草集』を読み給へる君だちにまをす」なる居士の文章に盡されている。「刈萱の巻」はもともと「七艸集」と同時の執筆であり、巻末にある漱石の評中にも「刈萱之篇評存而文欠焉」とあるから、「七艸集」の篇後に付け加えることにした。当時友人間の回覧に供したこの種の冊子の内で、評語類の書き加えられてあること、「七艸集」の如く多いものはない
「子規子」は明治22年、居士がはじめて喀血された時の記録。「喀血始末」「血のあや」「読書弁」の3篇に分つとあるが、現存するのは2篇のみ、「血のあや」なる題下には2枚の白紙が綴じられてあるに過ぎない。「各篇の始めに、序したれば」とあるその序も残っていない。それは時鳥の題で発句5,60句許を吐いたのであったが、後に意に満たずとして削られたものである
「水戸紀行」「四日大盡」「しゃくられの紀行」の3篇は「3紀行」として1冊に綴じられてあるが,もとは別々に書かれたものだろう。「水戸」「四日」は明治22年、「しゃくられ」は23年中の作
「水戸」はその序にある如く、居士の発病の最近因をなしたという点で、注意すべき記録。「四日」は発病後の旅行で、その「水戸紀行裏」と称しているとおり前のものと自ずから対照の妙をなして居る。「水戸」は単に居士の文章だけだが、「四日」には巻頭に「筆草もて認む」という1枚の口絵ようなものと、木版刷の「鴫立澤記」とが添えてある。「しゃくられ」は前後3篇に別れ、3篇各々独立し、中に中村不折筆の数葉の画を挿み、巻末には「不折子に請うて画かしむ画は余の原画に拠る 明治29年6月28日 子規識」とある。居士自筆の挿画は惜しいことに唯一葉を存しているのみ。この3紀行もやはり知友間に回覧し評語を求めている。巻により評者を異にするが、全体の評として最も簡明なのは「水戸」を評した「紙41言以蔽之曰眼無涙 古白仙姫」なる1語である。猶「水戸」は「莞爾先生子規」、「四日」は「秋の幽霊子規子」、「しゃくられ」は「花ぬす人」と署している
年代及び種類に於て「3紀行」に次ぐのが「かくれ蓑」で、表紙に「浮世女之介」第1頁に「偸(ぬすむ)花児」と署し、明治24年の作。諸家の評中に漱石のものを代表として以下に掲げる
「冒頭の自序先年拝見したる文章とはまるで違い、句々力ありて大によろし。念を入れ気を揉みすぎたため却て艱渋の非難を免れず。西鶴の文は当時の俗文にもせよ明治の世には一種変ちきりんな文体なり。西鶴は読むべく模すべからず、誦すべく学ぶべからず。僕君が明治の西鶴たらずして冥土の西鶴の再生たらんとするを惜む。他日君が真面目に筆を援って紙に対する時は何率僕の忠告を容れ給わんことを願う。漢文日記まことに面白し。君が才にあらずんば誰か此思いつきあらん(ひやかしにあらず、ほんとうだよ)俳諧は分からないなりに点をつけたり、まちがった所が御慰みなり 4月18日 平凸凹妄批」
「手つくりの菜」は以上の諸篇と稍々性質を異にする。第1にこれは一時、若しくは或る場合に就て書かれたものではない。かなり長い間に出来た雑文を、居士自身纏められたものだからである。第2に今までの諸篇は但し回覧的に知友の目に触れた範囲のものばかりだったが、この中には2,3印刷に付されたものもまじっている。第3に終りの方の数篇は少年時代以後の執筆にかかることであり、巻の性質に反したようだが、僅か数篇に過ぎない故、全部を採録する。こうした稿本の年代順に纏めたのは居士自身の編纂の形式を崩すに忍びなかったため
今の例外に属する文中、「時雨紀念序」の中に4字ほど空白あり。明治27年発行の雑誌『田舎文学』に掲載されたものによって補った。1名「蛙蝉の曲なき」とある表紙には「薄むらさき」なる署名がある。学校の課題の作文もあり、朱点評語などの加っているものもまじっている
「詩歌の起原及び変遷」は常盤会の人々によって編まれた「眞砂集」第1篇に掲載。居士のこの種の文中に在ては最も早く印刷されたものかも知れない。眞砂集は明治22年発行の小冊子
「荘子」「老子」「源氏と枕草紙」「成務天皇」の4篇は大学における論文。「荘子」だけは学校へ出されたものらしく、評語の書き加えられたりした箇所も見える。他の3篇は「無花果艸紙」なる書中から取った、いずれも下書であろうと想像
「紅葉会」から「朝顔」までの6篇は「つゝれの錦」なる書中から抄出。明治23年常盤会寄宿舎に於て「もみぢ会」を起し、会毎に諸種の題を課して詞藻を募った、その記録。各人の原稿がそのまま綴じられた中から居士の作を抜粋。「手つくりの菜」中にあった「ふんどし」も亦この会の所産だがここには省略。居士の用いた仮名は、盗花、ほとゝぎす、莞爾先生、花ぬす人等
「ひとへ櫻臭遺」は全く別のもの、赤い罫紙を綴じた薄い1冊。文中「わが友馬皮斎」とある馬皮斎氏が短い跋を巻末に書いている。明治25年の昨
「筆まかせ」は大部。今までのものと面目と異にしているので、特に別に一括することにした。この書の性質はやはり居士自身「随筆」(明治22年)なる條下に説いて居られる通り。明治18~23年に亙る長い間の執筆にかかるもので、最後に「根岸庵にて明治25年9月21日夜半書きはじむ」とあるものが少しあるが、これは分量から云って殆どいうに足らぬ程のもの
この書は前後4巻に分れ、最後の1巻だけが仮綴じになっている外、皆製本され残っているが、ここでは巻別とせず一括して年代順に排列。当時の交遊間に於ける一の楽屋落に過ぎないようなものの如き、限られた人だけの興味に過ぎぬ記事は多く採録を見合わせた。居士の面影を伝える点から云っても何等意味の無いもの故、敢えて省略した。居士自身も後年屡々これを読み返したらしく、抹殺したり裂き捨てたり、龞頭(べっとう)に註を加えたりしている箇所がある。その註は悉く本分中その各章の末尾に採録して置いた
巻頭に掲げたものは、書も画も「雅感詩文」第7集の巻頭にあったもので、居士15歳の時の筆に成るもの。肖像は明治23年撮影のもの、居士の「球及び球を持つ木を手握りてシャツ着し見ればその時おもほゆ」と詠まれたのは此れを見ての作である
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